ユースホステル(Youth Hostel)



 私は学生の頃から日本全国の津々浦々をよく旅行して回った。独り旅、弥次喜多道中、グループ旅行、合宿など、およそ旅行と名のつくものは新婚旅行以外はすべて独身中にやった。そして北は宗谷岬から南は屋久島まで(沖縄はカミさんと一緒になってから行った)、大体自分の足で立ってみた。そんな若い頃の旅行の宿としてユースホステルの思い出は忘れられない。
 昭和40年代から50年代の頃、一泊700〜800円前後で泊まれたのだ。しかも夕食と朝食付きだから、そんなに金の無い学生にとってはありがたかった。最近は高校生や大学生くらいの若い人たちが高級ホテルを使って旅行しているのをよく見かけるが、そもそも日本全体がそんなに裕福ではなく、ホテルなど利用する人もそんなにいなかったのではないか。
 だがユースホステルは宿泊料が安いと言っても、いろいろと制約があった。先ずシーツを2枚張り合わせて袋状にした「寝袋」を持って行かなければならない。各地の支部などで1個1000円くらいで売っていた。薄いシーツだから寝袋と言っても、それほどかさばらない。夜はこのシーツの袋に入って寝るから、宿の布団や枕を汚さずに済むわけだ。
 食事はもちろんメニューのバラエティーなどない。ペアレントさんというユースホステルの管理人さんが作ってくれる食事を食べるのである。ペアレントさんは特にユースホステル協会の職員というわけではなく、普通の人がボランティア的にやっておられたように思う。食後の跡片付けや部屋の掃除は宿泊者が自分たちでやる。
 ユースホステルでユニークなのは、夕食後のミーティングである。基本的に宿泊者全員に参加義務があり、同じ宿に泊まり合わせた旅人同士、情報交換したりゲームをしたりするのだ。ペアレントさんの創意工夫によって、かなり面白いミーティングや、かなり変なミーティングもあった。怪談を語るペアレントさんもいたし、自分が若い頃の思い出をとうとうと語るペアレントさんもいた。宿泊者が多いシーズンには、旅行者と同じ年代の若者たちがヘルパーとしてペアレントさんを手伝っていた。各ユースホステルの固有のファンという人もいて、そういう人たちはシーズンごとにヘルパーとして何日間か働いていくという。
 ミーティングで多かったのは、やはり歌であった。カラオケなど無いからギターがあれば良い方、多くの場合は伴奏無しである。ユースホステルでよく歌われる替え歌もあった。今でも恥ずかしいのは「鬼のパンツ」という替え歌。「フニクリ・フニクラ」のメロディーを一部拝借して、
  
鬼のパンツは良いパンツ、強いぞ〜、強いぞ〜
  虎の皮でできている、強いぞ〜、強いぞ〜
  穿こう、穿こう、鬼のパンツ〜。穿こう、穿こう、鬼のパンツ〜。
  みんな揃って、サア穿こう。ウ〜ンニャ!

これに変な踊りが付いているから、思い出してもさらに恥ずかしい。もう少し叙情的(?)な歌もあった。「四季の歌」のメロディーで、
  
ユースを愛する人は フトコロ寒き人〜
  朝を抜いたり昼を抜いたり いつも腹ペコ〜

これも思い出すと恥ずかしい。しかしこういう恥ずかしい思い出を残しながら旅をする若者が当時はたくさんいた。
 ユースホステルに泊まると、シーズン中ならほとんど満杯、シーズンオフでも数人の旅人に必ず巡り合った。それぞれのユースホステルで互いに初めて出会った旅人同士、個人であれ、グループであれ、このように一夜を共に過ごした後(誤解のないように言っておくと男女別室である)、翌朝再びそれぞれの目的地へと別れて行くのである。その後、再び巡り合うこともない友人たち。あるいは大人になってから、それと知らずにどこかで出会っていたかも知れないが……。昭和40年代頃の若者にはこんな旅があった。
 ユースホステルに到着すると、「ただいま〜」と挨拶をして(ユースホステルは旅人の家庭だから、たとえ初めてでも自宅へ帰ったように挨拶することになっていた)、ペアレントさんに会員証をお預けする。すると翌朝、「行って来ま〜す」と出発する時までにそれぞれのユースホステルの宿泊スタンプを押しておいてくれるのだ。スタンプを押す余白が無くなると、それぞれのユースホステルに独特の台紙を貼り足してくれて、上の写真のように私の会員証には50個以上のスタンプが残っている。

                   帰らなくっちゃ