帰宅難民


 時にはそんな気分でもないのに、人は思いも寄らぬ“小旅行”を体験する羽目になることがある。平成23年3月11日、本来なら花の金曜日の夕方、多くの関東地方の住民は職場から自宅まで、普段なら鉄道を使う距離を自分の脚で歩くことを余儀なくされた。

 この日の午後2時46分、三陸沖を震源とするマグニチュード8.8という国内観測史上最大級の地震が東北から関東地方を襲ったのである。東京都内は幸いにして建物の倒壊や火災などの被害が広がらなかったけれども、鉄道は夜になるまでダイヤ再開の兆しさえなかった。

 私は毎週金曜日は都内の世田谷区の病院に行って病理診断のお手伝いをしているのだが、ちょうど標本作製作業が終わって部屋に戻ったところ、建物全体がまるで船のようにゆっくりグラグラと揺れ始めた。初めはめまいがするのかなと思ったが、そのうち揺れはどんどん強くなって、部屋のあちこちに積み上げてある書籍や標本がドタン、ガチャンと崩れ落ち始めたので、やっと地震だと気付いた。医学の専門書はけっこう重たいものが多く、あんなのが頭の上に落下してきたら無事では済むまいと身の危険を感じた。

 ずいぶん長いこと揺れていたようにも思うが、以前に経験した直下型の下から突き上げるような揺れではなく、長周期の船酔いするような揺れだったので、これは震源地は遠いな、東京でこれだけ揺れるのだから震源近くはさぞ大変だろうと思っていたら、やがて東北の太平洋沿岸が震源らしいと言う情報が入ってきた。

 とりあえず東京は当面これ以上の揺れは来ないだろうという予測はついたが、あれだけ大きな地震だったから、電車は当分運転見合わせになるだろうということも想像がついた。今いる所が自分の本拠地の病院だったら何か手伝いも出来るのだけれど、週1回非常勤で働いているだけでは足手まといになるだろう、足元の明るいうちに帰ろうかと思ったが、案の定電車は止まったまま、さてどうしよう。

 こういう時の私の決断は早い。歩いて帰ろう、そう思い立ったら、すぐにコンビニでおにぎりを買って腹ごしらえをし、不測の事態に備えてペットボトルの水を買って、勤務時間が終わると同時に自宅への道をたどり始めた。
 世田谷から練馬まで、距離にすれば約12キロである。裏道を通れば少しは近道もあるが、万一都内にさらに大きな地震が起こって火災や建物の倒壊に巻き込まれれば方角を見失って生命さえ落としかねないから、幹線道路に沿って歩くことにした。世田谷通りを東へ、そして環状7号線を北へ…。
 途中でバスを使えるかも知れないという期待もあったが、道路はひどい渋滞でバス停にはやはり電車に乗れない人たちが溢れているし、時々見かけるバスはステップまで乗客が立っている。それにそもそも私が環状7号線(環7)を歩いている間、1台もバスに追い抜かれなかった。

 幹線道路の歩道は、私と同じように鉄道もバスも諦めて徒歩で自宅を目指す“帰宅難民”の人たちがごった返していた(上の写真)。多くの人が携帯電話を握りしめて、たぶんGPSで位置と方位を確かめているのだろう、またところどころに設置してある住居表示の地図の前には何人もの人たちが現在位置を確かめるために立ち止まっている。

 歩いているのはさまざまな年代のサラリーマンやOLの方々が多かったが、お年寄りを連れてどこかへ出かけるようにお見受けした方もいて、ちょっと気の毒だなと思った。そういう人々の間を縫って、世田谷から練馬までの12キロを2時間半かけて歩いて帰ってきたら、さすがの私もちょっとグッタリ、身につけていた歩数計は19000歩を示していた(1日の総計は26000歩)。そして何より疲れたのは、帰って来た自宅の机の上の本立てが倒れて、本や資料が床に散乱していたことである。(とか言いつつ、その日のうちにこんな記事を書いてるんだから、私はお陰様で元気ですよ〜)

 今回の地震で亡くなられた方も多いようです。心からお悔やみ申し上げます。

          早く帰りたいよ