邪馬台国(吉野ヶ里遺跡)

 佐賀市近郊にある吉野ヶ里遺跡は昭和61年度からの文化財発掘調査で発見されて以来、ここぞ邪馬台国という熱い注目を浴びてきましたが、現在では大変美しい歴史公園として整備されています。そこで働いている方々も皆さん親切で感じが良く、独りで訪れても非常に好い印象を持つことが出来ました。本当に弥生時代にタイムスリップしたような建造物が多数復元されていて、考古学ファンならずとも一度は行ってみたらいかがでしょうか。佐賀市寄りの最寄り駅、神崎駅前には卑弥呼の銅像がお迎えしてくれています

 あれ、でもちょっと待てよ。邪馬台国には大きく北九州説と畿内説があって、まだ完全には決着を見ていないんではなかったでしたっけ?早々と北九州の佐賀に卑弥呼の銅像を建ててしまうと、邪馬台国畿内説の人たちも黙ってはいないんではないでしょうか。
 私は考古学や古文書の解析などはまったく判りませんが、軍事的に見ればやはり邪馬台国は北九州にあったと考える方が妥当であると思います。3世紀前後の日本は、おそらくさまざまな方角からいろんな民族が入り込んで来て、列島の支配権を争う状態にあったと思われますが、台湾や琉球方面から黒潮に乗ってやって来た南方系の人々や、蝦夷地や遠くカムチャッカ方面から陸地沿いに南下して来た北方系の人々に比べて、朝鮮半島から渡来した人々に圧倒的な地の利があったと考えられます。朝鮮半島は背後に中国の文化圏を控え、壱岐・対馬と陸岸目視による航海で日本列島を目指すことが可能だったからです。これは南方ルートにも北方ルートにもないメリットです。
 中国大陸〜朝鮮半島〜日本列島というのが、おそらく当時における唯一の兵站線だったはずで、日本列島を支配するためには朝鮮半島は無くてはならない兵站基地だったでしょう。朝鮮半島と日本列島を結ぶ兵站線は先ず北九州に伸びて、そこから列島各地に散っていきました。これは魏志倭人伝の記述からも明らかです。つまり北九州は畿内よりも兵站基地に近い。軍事的には兵力は兵站基地からの距離の二乗に反比例して減衰するから、畿内には北九州を凌ぐ兵力は存在しえないことになります。だから中国の魏に朝貢したとされる倭国最大の政権は北九州にあったと考えるのが妥当です。
 もし畿内に邪馬台国があったとしても、北九州にはもっと強い政権が存在し得たはずで、とても倭国全体を安定的支配下に置けたとは思えません。ただし朝鮮半島からの兵站線が若狭湾に伸びれば、畿内にも安定政権の基盤が出来ますが、朝鮮〜若狭湾という航海ルートはおそらく当時は不可能だった。壱岐・対馬・博多と渡るのが唯一の航路だったでしょう。もし朝鮮〜若狭湾の航海が安全、確実なものだったとしたら、それから千年後の蒙古帝国は日本進攻に際して若狭湾に上陸したはずで、博多湾に陽動作戦を行ないつつ、若狭湾から本隊を上陸させて一挙に京都を壊滅させ、東海道沿いに鎌倉を目指せば、日本も一時は蒙古帝国の属国となっていたでしょう。

 そんなわけで素人レベルで言えば邪馬台国北九州説を支持しておりますが、邪馬台国というのはそんなに昔のことではない。と言うと多くの人たちは怪訝に思われるでしょうか?
 今タイムマシンで3世紀に戻って卑弥呼に会って、次のように要請したとします。
「21世紀初頭、あなた方の子孫である日本国民は大変な経済危機に直面してピンチに陥っています。どうか未来の子孫を助けると思って、これから毎日1万円ずつ積み立て貯金をして貰えませんでしょうか?つきましては女王様の威光をもって、今後の日本列島を治める最高責任者には一日も欠かさず積み立て貯金を続行するよう、お命じ下さい。」
もちろん貨幣経済はなかったでしょうから、平成の貨幣価値に換算して1万円相当のものを積み立てて貰う約束が出来たとします。それからというもの、日本列島の統治者たる者、21世紀の我々のために毎日毎日1万円ずつ積み立て貯金に協力してくれました。奈良・平安王朝の貴族たちも、平家も源氏も北条氏も例外ではありません。戦国時代は朝廷が立て替えたようです。戦時中も空襲下にあって戦闘機を作る代わりに1万円を積み立てました。さて2004年には積み立て金はいくらになっているでしょうか?利子はつかないものとします。

卑弥呼が魏に使者を送ったとされる239年から2004年まで1765年。
これは閏年も入れて約64万5000日。
つまり卑弥呼の時代から毎日1万円ずつ積み立てても合計で65億円程度にしかならないのです。これでは現在の公共事業など1日も維持できませんね。バカバカしいお話でした。
                帰らなくっちゃ