バンコク (Bangkok)

 バンコクは言うまでもなくタイ王国(Thailand)の首都で、チャオプラヤ川(the Chao Phraya)の河口近くに発展した都市です。第二次世界大戦の戦記など読むとメナム川と書いてありましたが、これは日本人の誤解で、チャオプラヤ川が本当の名前だそうです。川が大きく弧を描くあたりにワット・アルン(暁の寺)、ワット・ボー(涅槃寺)など有名な観光スポットになっている寺院が多数あり、中でも最もよく知られているのはエメラルド寺院と王宮のある広大な一角です。
 実は2年前にもタイ王国を訪れましたが、その時の行き先はチョンブリという海岸のリゾート地だったので、首都バンコクではあまり時間が取れませんでした。だから市内の観光スポットはまったく訪ねていません。私はタイ国の古都バンコクも、日本の京都や奈良と同じように名所旧跡があちこちに点在するような都市であると漠然と思っていましたから、時間が足りなければ足りないなりに、エメラルド寺院だけでも駆け足で観光すれば良かったと多少後悔しないでもなかったのですが、今回ここを訪れてみて、あの時の判断が正しかったことが判りました。

 一口に“エメラルド寺院”と言っても、3つの季節を象徴する3体のエメラルド(翡翠)の仏様(タイ国では年間の季節は冬・夏・雨季の3つ)をお祀りした寺院だけでなく、歴代の国王ゆかりの宮殿や寺院がズラリと並んでいて、それらの間を通り過ぎてくるだけでも何時間もかかってしまうのです。しかも寺院も日本の寺のような枯れた幽玄の世界ではなく、キンキラキンの巨大な仏塔やら、壁面一杯を埋めつくす何千体もの仏像の彫刻やら、悪魔との戦いを描いた壁画やら、猿や鳥と人間との半人半獣のような守護神たちの彫像群やら、とにかく目にしていくだけで圧倒される絢爛豪華な世界が展開するのです。

 我々日本人の印象では仏教文化(特に鎌倉時代以降の仏教)というと幽玄で地味なイメージがありますが、ここバンコクの寺院ではキリスト教やイスラム教の大寺院に劣らない派手な色彩の世界が広がっており、これが大きく分ければ小乗仏教における極楽のイメージなのでしょうか。人々は死んだらこういう華やかな世界に生まれ変わりたいと願ったのでしょう。日本でも奈良や鎌倉の大仏が開眼した頃の時代の人々は同じ感覚だったはずです。
 エメラルド寺院の一角の雰囲気を少しでも再現するために、きらびやかな3枚の写真をドーンと並べてみます



 とにかく人間の内面を象徴する宗教施設がこれですから、日本人が礼賛する“陰翳”の文化は乏しいです。やはり年間を通じての平均気温が30度近くあり、植物が一斉に枯れたり散ったりする季節を持たない気候や風土が影響しているのでしょうか。料理はチョー辛いかチョー甘いかはっきりした味が多いですし、色彩も原色が目立ちます。
 タイ王国は日本で言えば沖縄の雰囲気に一番よく似ていると思います。そう言えば音楽も“ヨナ抜き音階”という沖縄と同じ旋律を耳にする機会が多かった。おそらくタイ国をはじめとする東南アジアの文化を持った人々は古くから沖縄(琉球)に入っていたことでしょう。

 ところで東南アジアの仏教はいわゆる小乗仏教と呼ばれていて、厳しい修行を経た僧だけが救済されるという考え方です。要するに救命ボートが小さいので“小乗”なのですが、最近では上座部仏教という呼び方をされることが多いようです。
 こちらでも橙色の僧衣をまとった修行僧を街中でよく見かけました。彼らに対する庶民の尊敬は大きく、すすんで食物を捧げるものだと言いますが、最近の観光地ではどうなのでしょうか。僧が歩きタバコでポイ捨てする現場を目撃してしまいました。付近には警備の軍人らしき姿がありましたが、何のお咎めもなかったのを見ると、やはり僧は偉いのかも知れません。

 本来の小乗仏教(上座部仏教)の教えでは、庶民は修行中の僧に食物などを寄進する、権力者も豪華な寺院仏閣などを作って捧げる、それによって自分も少しでも仏の世界に近づこうと考えるのだと思います。日本でも平安時代最大の権力者だった藤原道長は、極楽往生を願って法成寺(無量寿院)を建立し、その壮大な阿弥陀堂の中で阿弥陀様の手に結んだ五色の糸を握りしめて臨終の時を迎えたと記されています。

 ここタイ王国では現在でも国王の権力の背後には仏教があって、国民からは仏様と同じくらいの親愛の念を込めて慕われていることが判りました。王宮の謁見の間にはもちろん国王の座がありますが、その背後の一段高い所には仏様がいらっしゃる席が設けてあるのです。これほど歴然とした配置はないでしょう。謁見の間は写真やビデオ撮影禁止だったので残念ながらこのサイトでお見せすることは出来ませんが、驚いたことに自分で撮った写真を自分のサイトに堂々と公開されている方が何人もいらっしゃいます。これは人々の心を傷つける心無い行為ですからぜひ止めて頂きたい。他人から見れば単なる宗教的道具かも知れないが、それを信じる人たちには心まで蹂躙されたような屈辱感を与えることもあり得ます。

 日本では宗教が政治権力と直結することは憲法で禁止されていて、それが当然の姿であると私たちは理解していますが、タイ王国では仏様と同じように慕われる国王が頂点にいらっしゃるのです。この辺のところはちょっと日本人には判りにくいですね。
 実は今回タイ王国を訪れる約4ヶ月前(2006年9月19日)、軍事クーデターによりタクシン首相が失脚して軍事政権ができました。また年末にはバンコク市内でタクシン派によると見られる散発的なテロもありましたが、いずれも大きな混乱に至らず収束しています。平穏を保てた最も大きな要因として、やはり現王室への国民の信頼感があったことが大きいと思われますが、1991年の同様なクーデターの時は翌年に流血事件が起こっていますから、あまりタイ王国の政治事情に通じていない外国人が軽々しくコメントすることはできません。



 これは市内繁華街の様子
。バンコクでは市内に自動車があふれていて、どこへ行こうとしてもあっという間に交通渋滞に捉まってしまいます。タイの運転者は道路が空いていればビュンビュン飛ばすし、渋滞の列に車1台分の隙間がなくても強引に割り込んでいきます。日本ではかなり“乱暴な”運転をする人でも、おそらくバンコクで自動車を運転することは出来ないでしょう。別に挑戦することはありません。国際運転免許など作って行かない方が良いと忠告しておきます。

 さてタイ王国は1238年にスコタイ王朝が初めて統一国家を作って以来、アユタヤ王朝、トンブリ王朝を経て現在のバンコク王朝(チャクリ王朝)に至るまで、一度も外国の植民地になったことはありません。第二次大戦頃まではシャム王国と呼ばれており、そのSiamという名称は今でもバンコク市内に残っています。(身体の一部が結合した双生児を“シャム双生児”と呼びますが、これは1811年にタイで生まれた兄弟がその語源です。また“シャム猫”はタイの王宮や寺院で古くから飼われていた猫だそうです。)

 一部の日本人は、白人文明に対抗する気概を持っていた有色人種は日本人だけだったという誤った偏見と優越感を持っているようですが、そんなことはありません。個人的にはアジア、アフリカ、南米などいずれの地域にも白色人種の文明に対して立ち上がった人々は多いはずですし、西欧列強が進出する時代にあって、国家として独立を維持し続けた国もまた少数ながらあったという事実も忘れてはいけません。
 日本は日本として独立を守り、そのことは国民の誇りとして当然ですが、シャム王国もまた独自の方法で独立を守ってきたのです。むしろシャム王国の方が他の東南アジア諸国と地続きである分、その外交的・国防的努力は日本の場合よりもむしろ大変だったのではないでしょうか。

 西欧列強の帝国主義的植民地政策が極大であった1930年代からシャム王国は、イギリス式の陸軍を維持しながら、主として日本製の海軍艦艇を導入して海軍力増強に乗り出しました。軍艦旗には象のマークが入っていたと言います。このシャム艦隊は当時インドシナ半島に勢力をふるっていたフランスがナチスドイツの攻撃で弱体化した隙をついてフランス極東艦隊と交戦、失地回復をはかりましたが残念ながら敗退(コー・チャン島沖海戦)。日本以外のアジア諸国が白人艦隊と戦った唯一の海戦として戦史上は重要ですが、これを知らずに物を言う日本人は多いです。

 シャム王国は海戦では敗退しましたが、その後が巧みでした。この紛争の調停には当然イギリスと日本が乗り出してきますが、当時の時の勢いや地の利から見れば日本に頼んだ方が有利、いろいろ両国の思惑やら裏取引やらあったでしょうが、結局は日本の調停で紛争は解決しました。そういう次第もあって日米開戦後は日泰攻守同盟条約を結んで対米英宣戦布告をしますが、戦後はあれは日本の圧力によるものだったとして戦勝国側に鞍替えし、連合国側からも認められます。

 同じ東洋の独立国でも日本にはこのしたたかさはありませんでした。だから日本は戦後一時的に独立を失う羽目になりました。シャム王国も危うく巻き添えを食うところでしたが難を逃れ、正式国名もタイ王国と改めて現在に至っています。地続きのインドシナ半島の一角で独立を守ってきた同じ東洋人国家に対して、日本人もこのしたたかさは見習わなければいけません。

         帰らなくっちゃ