五浦海岸

 ここは太平洋の荒波が打ち寄せる茨城県北部の五浦海岸です。“いつうら”または“いづら”と呼ぶのが正しいようです。前にも書きましたが、私がこの海岸を訪れたのは、天心記念五浦美術館で開かれていた小林巣居人という日本画家の展覧会を見るためでした。その時の話はまた別のコーナーに書いてありますので、今回はこの海岸にまつわる歴史的なエピソードをひとつ…。

 常磐線の特急列車の停車しない大津港という小さな駅からタクシーで10分ほどのところに天心記念五浦美術館という立派な日本画専門の美術館がありますが、展覧会を見終わった後に駅まで戻ろうと思ってもバスの便はない、客待ちのタクシーもいない、まあ、自家用車で来るのが普通なんですけれど、私はこのくらいの距離ならば歩いてしまいます。昔は自分の脚で歩くことを、タクシーに対して“テクシー”などと言う人もいましたが、今時そんな言葉を使うとかなりのオールドタイマーに見られますから止めておきます(笑)。

 私のように歴史に興味を持っていたりすると、自然に鼻が効くようになるのか、あるいは歴史の方が私を呼び寄せるのか知りませんが、「ヘエ〜、こんな所にこんな物がある」というような小さな史跡に行き当たることが時々あります。この時もそうでした。
 美術館を出て、海岸沿いの林の中に真っ直ぐ開かれた立派な自動車道路を駅の方向に歩いて行くと、林の切れ目から灰色に煙る冬の荒海が見えました。『大津港』という案内板も出ています。海の好きな私としてはちょっと写真くらい撮って帰りたいところでしたが、列車の時刻が気になってそのまま通り過ぎてしまいました。何しろ1時間に1本くらいしか列車が停まらないのです。

 でも通り過ぎてから後悔しました。こんな茨城の冬の海岸まで来る機会もそう滅多にあるものでもないだろうに、ここで列車の待ち時間など気にして見逃して帰るのは何とも惜しい。引き返そうかどうしようかと迷いながら歩いて行くと、さらに300メートルほど先にもう1本の林の切れ目があり、その先に灰色の波打ち際が見えました。今度こそ迷わずに自動車道路から右へ折れて、海岸線の方へ歩いて行くと、小さな砂浜の前に御覧のような石碑が建っています。

 これは何の記念碑だか判りますか。実は私も五浦海岸を訪れる時に、何かその地名が頭のどこかに引っ掛かるような気がしていたのですが、それが何だか忘れていました。

 この石碑には
『わすれじ平和の碑』と書いてある隣に『風船爆弾放流地跡』と書いてあったのです。ついでに台座の方の碑文も書いておきます。
『海のかなた 大空のかなたへ消えて行った青い気球よ あれは幻か 今はもう呪いと殺意の武器はいらない 青い気球よさようなら さようなら戦争』

 そう、ここは太平洋戦争の末期、気球に爆弾を積んで高空の偏西風に乗せ、アメリカ本土空襲を企図して風船爆弾を打ち上げた場所だったのです。
 列車の時刻を最初から気にせずに最初の林の切れ目を曲がっていたら、この石碑には気付かなかったかも知れません、何だか風船爆弾の歴史に呼び寄せられたような不思議な因縁を感じました。

 ここは崖と林に囲まれた小さな狭い砂浜ですが、だからこそ秘密兵器の打ち上げ基地としては最適だったのでしょう。上空を飛ぶアメリカの偵察機からも発見されにくい場所です。

 物資も乏しくなっていた日本でしたが、和紙とコンニャクで直径10メートルの気球を製造し、海浜の砂を詰めたバラスト(錘:おもり)を次々と自動的に投下して気球の高度を保持する装置を取り付け、冬期に太平洋の高空を西から東に猛スピードで吹く偏西風に乗せて、アメリカ本土に爆弾や焼夷弾で攻撃を加えるという新兵器を実現させたのです。その打ち上げ場所が千葉県の一宮、福島県の勿来、そしてここ茨城県の五浦でした。

 1941年12月8日、真珠湾に奇襲攻撃を受けたアメリカは、早くもその4ヵ月後には海軍の航空母艦に陸軍の爆撃機を搭載して日本近海に進出させ、そのまま日本本土に初空襲を敢行しました。日本としてもこの報復攻撃を仕掛けたかったわけです。日本にも航空技術の粋を集めたA26というニューヨークまで飛行できる長距離航空機も2機完成していたし、B29よりもひと回り大きい富嶽という超重爆撃機の構想もありましたが、何と言っても国力が追いつかない。飛行機の大編隊を組んでアメリカ本土爆撃など夢のまた夢に過ぎません。
 ところがそれを和紙とコンニャクという安物の材料だけで作った気球を飛ばして、風任せではあるがアメリカ当局者の心胆を寒からしめた、こういう発想法こそ日本のような小国がアメリカのような大国に伍して生き残っていく唯一の道ではないでしょうか。戦争の武器に限りません、戦争など論外ですが、貿易、経済、工業生産、科学技術研究など平時のあらゆる分野においても、日本にはアメリカとガップリ四つに組んだ横綱相撲を取れるような国力は無いはずで、奇抜な発想の転換で太刀打ちしていくしかないと思います。

 しかしアメリカが陸海軍共同で日本本土初空襲を敢行したのとは対照的に、日本の風船爆弾は陸軍が発想し、最初は海軍の潜水艦でアメリカ本土に接近してから打ち上げる予定だったものを、海軍が協力を拒み、結局日本本土から直接打ち上げることになった。しかも海軍も自分の意地とメンツから独自の風船爆弾の開発に予算や人員を割いたというから、貧乏国がこんな内輪もめをやっていたら到底勝てませんね。

 もっともこの風船爆弾に関しては、記念碑の台座の碑文にあるように、呪いと殺意で勝たなくて良かったと思います。1945年5月5日、アメリカのオレゴン州の森林公園にピクニックに来ていた1人の女性と5人の子供たちが風船爆弾の犠牲になって死亡しました。アメリカ軍の重爆撃機による都市爆撃や広島・長崎の原爆の犠牲者数に比べたら物の数ではありませんが、やはり痛ましいことです。アメリカ当局はこの惨事や風船爆弾の目撃情報などの一切を厳重に秘匿しました。そんな情報が日本に筒抜けになると、日本軍がさらに調子付いて風船爆弾を打ち上げてくると恐れたからです。

         帰らなくっちゃ