初等理科教育

 
最近の若い人たちが日本や世界の基本的な歴史も知らないことは、私も何回かこのサイトで指摘していますが、いったい小中学校や高校でどんな教育を受けてきたのでしょうか?
 我々の世代では本当に基本的な教養だった知識について、私はよく学生さんたちに個別に質問したり、簡単な“常識問題テスト”を出してみたりしていますが、結果はあまりに嘆かわしいことばかりです。
 
東北地方と中国地方の県名と、その相対的な位置関係を述べなさい。
 第二次世界大戦で日本と同盟関係にあった2国と、敵対関係にあった4国を挙げなさい。

 
結果は御想像にお任せしますが、私が最も問題だと思うのは、こういう基本的な教養を知らないことを恥と思っていない若い人が多いことです。中には「歴史は平安時代までしかやっていないから、それは知らなくて良いんです」と居直る学生さんまでいます。
 少なくとも私たちの世代で小中学校の義務教育を修了した者ならば、この程度のことは基本的な常識だったということだけは知っておいて欲しいし、現在、初等・中等教育に関わっておられる方々は、何で我が国の社会科教育がこのような惨状を呈するに至ったかを検討して頂きたい。

 以上は初等社会科教育の問題点ですが、では理科教育は大丈夫なのかと言うと、これもかなりお寒いものがあるのではないでしょうか?例えば我々が住んでいるこの地球や太陽系に関する知識ですが、まさか日本で義務教育を受けた人ならば地球が太陽の周りを回っていることを知らないということはまずないでしょう。しかし次の問題すべてスラスラと答えられる人はどのくらいいるでしょうか?

 
満ち潮と引き潮はなぜ起こるのですか?
 日食(日蝕)はなぜ起こるのですか?
 月食(月蝕)はなぜ起こるのですか?
 彗星はどういう天体ですか?
 獅子座流星群はなぜ獅子座の方角から流れ星が降るのですか?


 これらは別に天文学を専攻する人だけが知っていればよい知識ではありません。確かに日食や月食が起ころうが、すぐまた元の輝きを取り戻すわけだし、ハレー彗星が接近したって、地球に衝突しない限り我々の日常生活に影響があるわけではありません。
 しかし海辺に行けば潮の満ち干は目の当たりにしているはず、潮干狩りなど体験した方も多いでしょうし、日食や月食、彗星の接近、流星群などの天文学の話題は一般の新聞やテレビニュースなどでも大きく取り上げられる機会も増えており、実際にそれらの天文現象を観望しなかった人の方が少ないと思います。

 実際にそれらの現象を見た時に、それはどうして起きるのかという疑問を持つこと、そして本を読んだり先生に聞いたりして、その疑問を解決しようとすること、そういう態度を身につけさせることこそが理科(科学)の初等教育だと思うのですが、最近の若い人たちを見ていると、どうも小中学校時代にそういう理科の授業を受けさせて貰えなかったんじゃないかという気がします。
 単なる受験用の丸暗記…。だから潮の満ち干は海水が月の引力に引かれて起こるということは何となく暗記しています。月が真上にあれば、月が海水を引っ張って満ち潮になる。しかし月の反対側の地球上でも満ち潮が起こっているのは何故?と訊かれると途端に言葉に詰まってしまい、俺は天文学者になるんじゃないから、そんなこと知らなくたっていいや、と居直ってしまうのです。

 要するに、せっかく宇宙の方で日食や月食や流星群などという天体ショーを用意してくれているのに、学習の途上にある子供たちの方はそのショーに対する興味をそそられるような初等教育を受けていない、そんな気がします。しかし子供たちは星占いなどには異様な興味を示し、○○座生まれと△△座生まれは相性が良いとか悪いとか、よく知っているみたいです。そのうち我が国の科学は中世の暗黒時代に戻ってしまうんじゃないかと半分本気で心配になりますね。
 結局は何と言っても興味の問題です。星占いの相性だとか運勢などは友達同士の話題に欠かせないから、子供たちも興味を持っていろいろ調べるようになる。それはそれで社交に必要なことですから良いとして、社交と同等以上の科学的な興味を持たせるような理科の初等教育が望まれます。子供に興味を持たせるには大人も同じことに興味を持たなければいけませんが、もしかしたら最近の大人たちの方が、地上の景気やら社交ばかりに気を取られて、宇宙が見せてくれる天体ショーなどへの興味を失い、子供たちに科学を教える資格を喪失しているのかも知れません。

 日本人は昔から意外に科学性に富んだ民族でした。アポロ宇宙船の月面着陸を先取りしたような「かぐや姫」の物語や、アインシュタインの相対性理論を予言したかのような「浦島太郎」の物語だけでなく、ヨーロッパの科学的精神が衰退していた頃に日本や中国で記録された天文現象の記録は、現代天文学のデータとリンクさせることが可能だそうです。アジアで記録された過去のハレー彗星のデータは位置や光度も正確なのに、同じ時代のヨーロッパでは魔女が箒に跨って飛んでいると信じられていました。
 天文学に限らず、我々の先祖たちが発揮した科学的精神を次の世代にも何とか継承していきたいものです。


ホチキスとセロテープ

 この洒落た真っ赤な円筒形の容器はベルギー土産のチョコレートの箱です。ヨーロッパのチョコレートはすごく美味しい!私も新婚旅行で初めてヨーロッパに行った時、パリの街角でばら売りしていたゴディバのチョコレートを食べて感激した覚えがあります。
 ところが帰国してすぐに日本で買ったゴディバのチョコレートは、同じ銘柄なのに何か舌触りが違うんですね。ヨーロッパで食べた時は確かに口の中でトロッと溶けたのに、日本ではパリッと音がして、○○製菓のチョコレートとあまり変わらず、やはり製品を店先で保管している気候や風土が違うせいなのかな〜と思いました。

 でも今日は中身ではなくて、そのチョコレートの包装の話。円筒形の容器に入っているチョコレートと言うと、私と同世代の大部分の人たちが思い出すのは明治製菓のマーブルチョコレートでしょう。とにかく当時としては斬新で画期的な包装でした。もしかしたらこのベルギーのチョコレートの包装も、元をたどれば日本のマーブルチョコレートかも知れません。

 
マーブル マーブル マーブル マーブル マーブルチョコレート
 七色そろった楽しいチョコレート


明治製菓の提供だったアニメ「鉄腕アトム」の合間に必ず流れたテーマソングも懐かしいです。そう言えばマーブルチョコレートの容器の中に、鉄腕アトムシールがオマケで入っていた時期もありましたっけ…。

 でも同じ円筒形のボール紙の容器でも、日本とヨーロッパで何となく違う。真紅の意匠デザインはともかく、左側に転がっている丸い蓋は金属製です。また同じように底の部分も金属でできています。日本のマーブルチョコの容器は蓋も底も全部ボール紙でした。それも円筒形の本体の部分が内筒と外筒の二重構造になっていて、そこへ全長の1/4くらいのやはり円筒形をした蓋をはめ込むとピッタリ閉めることができて、食べ残しがあっても簡単に保存ができたものでした。
 円筒形の容器の蓋も底も全部ボール紙で作ってしまう日本の製品と、ちょっと細工が必要な丸いパーツは金属で作る外国の製品を比べると、やはり日本人は器用なのかなと思います。もちろんあっちこっち探せば、マーブルチョコのように全部ボール紙細工の円筒形の容器に入った欧米の量産品もあるでしょう。しかし日本のマーブルチョコは1960年代に発売された製品でしたし、それ以後も細工が面倒な蓋や底の部分だけを無理やり金属で作った日本の製品を見る機会はほとんどありません。

 やはり日本人は器用なのでしょうか?単に手先が器用なだけではなくて、マーブルチョコの容器のように大量生産可能な細工を設計するためには、頭脳もかなり緻密でなければいけません。
 例えば舶来品を包装している段ボール箱は、やたらに粘着テープと大型のステープラー(ホチキス)の針で組み立てられていて、きちんと古紙回収や廃品回収に分別しようとすると大変な労力を必要としますが、日本の段ボール箱は蓋や底の部分もテープや針を使わずに、紙の縁の部分の凹凸をうまく組み合わせてあるものが多く、すぐに解体して古紙回収に出せますし、小型の意匠箱の中には厚紙を二重三重に折り曲げて高級感を持たせたものもあります。

 こういう細工は包装を解く時のことまで綿密に考えた厚紙の打ち抜きが必要ですが、アメリカ人のように親しい友人からの贈り物を包んだ包装紙でさえビリビリ破り捨てるような大雑把で乱暴な国民にはまず無理です。
 日本人の包装技術は世界でもトップクラス(だった)と思います。昔の小売店や百貨店の店員さんは、まだ20歳前後の若い人でも、どんな形をした品物であってもテープや針を使わずにきちんと包んでいって、最後に1ヶ所だけシールで止めるだけで、決して型崩れのしない包装をしていました。私は子供の頃にある百貨店で、複雑な形をした造花の花かご細工を手馴れた動作で包装していく店員のお姉さんの手元をずっと凝視していたことがあります。最後に1ヶ所ピタッとシールを貼って包装を終えたお姉さんが私の方を見てニコッと笑った顔が今でも忘れられませんが、今ではあんなことを出来る人はどれほどいるでしょうか。

 去年の忘年会の景品で頂いた黒豆の箱が、やはりたった1ヶ所だけシールで止められているのを見て、昔の百貨店のお姉さんを思い出しました。かなり有名な老舗だそうです。最近では単純な四角い箱の包装でさえ、最低3ヶ所はセロテープが貼られています。ホチキス止めの意匠箱も時々見かけます。中には包装紙の合わせ目全長にわたってベットリとセロテープが貼られている商品もあります。日本人はいつからアメリカ人に似てきたのでしょうか。
 私はセロテープとホチキスの普及が日本人の手先の器用さを奪ったと思います。そして手先の器用さが失われた分、頭脳の緻密さも目減りする可能性があります。日本人の手先の器用さは日本独自の文化の根底を支えてきた面があります。もしそれを失ったら、国土も狭く資源に乏しい我が国が欧米に太刀打ちすることは出来なくなるでしょう。
(ちなみにホチキスは製作会社または発明者が機関銃と同じだからこう呼ばれているとの説があるが、どうもウソらしい。興味のある人は調べてみて下さい。本来の一般名はステープラーstaplerです)

 私が昔オーストラリアを独りで旅していた時、エアーズロック(ウルル)でやはり独り旅をしていた同じ世代の日本人女性と出会いました。その時は彼女はあるツアーに加わっているとのことでしたが、ツアーの他の外国人に折鶴を折ってみせたら驚嘆されたそうです。折り紙は幼児教育に是非必要です。

 また私は病理診断を専門にしてきましたが、あの顕微鏡観察に使う病理標本は非常に鋭利な刃をスライドさせて、パラフィン(蝋)に封じ込めた検体を2〜3ミクロンの厚さに薄く削ぎ落として作製します。これは血球の直径の1/3以下の薄さです。私たち医師も病理学教室に入局したての頃は顕微鏡標本の作製もやらされましたが、日本の臨床検査技師の高度なワザに比べたら素人同然です。まあ、アメリカ人の臨床検査技師程度には出来るかも知れませんが…。
 日本人の病理の臨床検査技師の標本作製はほとんど入神の技と言って良いでしょう。本当に上手なベテランの人は、1個の検体からほとんど失敗せずに2〜3ミクロンの薄片を同じ厚さで連続して次々に削ぎ落としていきます。
 東京大学にいる頃、アメリカやヨーロッパや他のアジア諸国の病理部門からコンサルテーション(難しい症例の標本を送って診断を問い合わせること)で送られてきたあちらの病理標本を何度か見たことがありますが、日本の標本を見慣れている我々には、まあ言っちゃ悪いが、かなりひどい出来栄えでした。(言っちゃった…!)

 連中は手先の器用さが無い分、何をするかと言えば、本来は人間の技が必要な部分を機械化して、誰がやってもそこそこの標本が出来るようなマシンを開発するのです。しかし一方で日本人はこれを侮ってはいけません。我々は先祖から受け継いだ手先の器用さに、日々の精進で技を磨いていく本来の精神を忘れては諸外国に太刀打ちできなくなるのですが、これにさらに科学を基盤とした機械力をプラスする必要があります。
 1905年、日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を撃破した日本海軍の技は猛訓練の賜物でした。何しろそれまでは洋上を互いに動き回る軍艦同士が、自分の撃った弾丸を敵艦に高い確率で命中させることなど不可能だったのです。しかし日本海軍はこの猛訓練の成果に慢心して機械化の努力を侮りました。その結果、40年後の太平洋戦争ではレーダー、近接信管などの機械力を駆使するアメリカ海軍の前に、日本の艦艇や航空機は次々に撃沈・撃墜されたのです。
 自らに備わる資質を大切に育てたうえで、他人と同じ努力をしろと言うことです。


恥ずかしい記憶

 私の学科の1期生たちも最高学年になった。と言うことは、臨床検査技師という国家資格取得を目指す彼らとしては、彼らの人生を大きく左右することになる国家試験がいよいよ目前に迫ってきたということでもある。大部分の学生たちの目の色が変わり、教室には以前よりも真剣な雰囲気が漂うようになってきたが、やはりこういう将来の不安要素が近づいてくると、妙に浮き足立って姑息な現実逃避を試みる者も少数ながら目立ってくる。
 
困難から目をそらさずに敢然と立ち向かえ!さもないと一生後悔するぞ!
先日の講義の途中、彼らに激励の意味で話をしようとした時、ふと自分自身が困難から逃げ出した恥ずかしい記憶が、中学・高校時代のある先生の思い出と共に脳裏に蘇った。

 あれは中学1年の学内の体育祭のことだった。私の中学・高校の体育祭は中1から高3までの6学年がA・B・Cのクラスに分かれて、クラス対抗形式で行なわれた。私は1500メートル走に出場して最下位だった。いまだに恥ずかしい思い出である。別に最下位だったことが恥ずかしいのではない。走っている途中で苦しくなって、もうこれ以上走れないと思った、そう思った時、私はわざと転んだ、そのことが40年以上の歳月を経た今でも恥ずかしいのだ。
 転べば他の者たちは、よく頑張ったと言ってくれるかも知れない、途中で試合を放棄しても大目に見て貰えるかも知れない。自分は精一杯頑張ったけど、転んでしまって成果を出せなかった、そういう言い訳が許されるかも知れない、浅はかな考えだった。

 起き上がろうとした時、トラックの外から数学の上田先生が私を見ているのに気付いた。いつもは温厚でニコニコ笑っている先生だったが、その時は笑っておられなかった。しかし咎めるような視線でもなかったし、憐れみや嘲笑の視線でもなかった。ただ黙ってじっと私を見ておられた。先生が私の心の中を見透かしておられることを直感的に悟った。
 これでは途中で棄権するわけにも行かなくなり、私はかなり遅れてゴールしたが、自分がすごく惨めで卑屈な気持ちだった。もちろん誰も最後まで完走したことなど賞賛してくれなかったし、慰めてもくれなかった。上田先生も何もおっしゃらなかった。
「君はわざと転んだだろう?」
そう言って咎めて下さった方がどんなに気が楽だったことか。もしそう咎められたら、私もいろいろ言い訳の口実を並べることが出来ただろうから…。それは単に恥の上塗りに過ぎないが、それでも一時の惨めな気持ちから逃れることにはなっただろう。

 いったん困難から逃避したら後悔しか残らない、私はそのことをイヤと言うほど思い知った。雪辱の機会は6年後だった。医学部受験を目指して予備校に通っていた私は、いろいろと悪友たちからの誘いも断って、この1年だけは全力投球した。楽をしようと思ってはいけない、楽をしようとすれば後悔しか残らないぞと自分自身を戒めた。
 その甲斐あって医学部に合格してからだいぶ経った頃、上田先生が私の合格をずいぶん喜んで下さっていたということを人から聞いた。何で上田先生が私のことをそんなに喜んで下さったのか、疑問は長く残った。私も中1の時の“ウソっ転び”を見透かされていたという忸怩たる思いがあったから上田先生はちょっと苦手だったし、ほとんどの教師は“ウソっ転び”などする生徒や学生など相手にしたくない、真っ正直に努力する子の方を買いたいというのが本音だろう。

 しかし今回、私は自分の学生にこの話をしようとして初めて疑問が解けた気がした。上田先生の気持ちが判ったと思った。
「あの時“ウソっ転び”をした子も、今度は予備校時代を最後まで走り抜いて、やっと自分の人生を自分の力で切り開いてくれたか」
上田先生はきっとそう思って下さったに違いない。私も今や人を教える立場になってみて、そう確信できる。

 私はその後もいろいろな人を見てきて、せいぜい20歳代くらいまでの若いうちに“ウソっ転び”のクセを直しておかないと、以後の人生も言い訳と開き直りの連続になってしまうような気がしている。“ウソっ転び”をする心理とは、本当は自分は何でも出来るんですよ、だけど今はやらないだけですよ、事情があるから今は出来ないだけですよ、という言い訳でしかない。その言い訳が通って少しでも楽ができれば、それに味をしめてその後の人生は楽な方へ楽な方へと転がっていってしまう。

 思えば私もあの時、上田先生に“ウソっ転び”を見透かされていなければ、楽な方へ楽な方へと人生を歩んだかも知れない。医師になってからも、小児科から病理に移って3年目は私の転機の年だった。医学博士の論文を提出したは良いが、いろいろイチャモンが付けられて、ほとんど研究のやり直しと同じ状況になった。さすがの私も気持ちが萎えそうになった。
 ちょうど同じ頃、私の師匠だった病理の主任教授も癌で体調が思わしくなく、最後の仕事になるであろう小児腫瘍図譜の監修のお手伝いを、医局員の中でも私が中心になってやっていた。各地のいろいろな先生方から送られてくる分担執筆の原稿を私がワープロで起こすのである。現在のようにノートパソコンを自宅に持ち帰って原稿を作るなんて時代ではない。医局に1台しかないワープロ専用機を他の医局員と融通しあっての作業であった。
 さらに同じ頃、私の母親が心臓弁膜症の大手術をやった。大動脈弁・僧帽弁・三尖弁の3弁をすべて置換する手術である。状態が悪くなってからの外科転科だったので、術前管理も1ヶ月以上必要とした。その間、東大から東京医科歯科大学まで毎日様子を見に面会に行き、完全看護ではなかったので3日に1回は病院のソファに付き添いで寝泊りした。手術成功後は回復室の母親に食事の介護に通った。

 母親の看病が大変でした、主任教授のお手伝いが大変でした、私が医学博士論文をギブアップして先延ばしするための言い訳や口実は二重三重に揃っていた。しかし私はここでも楽をしたら後悔しか残らないと思い定めて歯を食いしばった。泣きたいと思ったことも何度かあった。
 後で思い返すと、私が医学博士になれるチャンスはあの時ただ1回限りだった。あの急場を乗り切ることができたお陰で今の私があると思っている。20余年も前の話である。人生の終わり近くになって後悔しないためには、人生の各ターニングポイントでは石にかじりついてでも、その時なすべき事を最後までやり遂げる、それ以外にはないということを、私の学生さんたちにも伝えておきたい。


友を選ばば…

 先日、別のコーナーに2009年6月当時の経済財政担当大臣、与謝野馨氏に関連する文章を書いたので思い出したが、この人は政治家などやっているけれど、この人のお祖父さんは歌人の与謝野鉄幹、お祖母さんは同じく与謝野晶子である。

 与謝野晶子は日露戦争の旅順攻防戦の際、出征している弟への想いを詠んだ「君死にたまふことなかれ」が有名である。国の為に死ぬことが名誉とされた時代にあって、旅順要塞が陥落しようがしまいが関係ない、弟よ、死んでくれるな、と詠んだばかりでなく、天皇は自分自身は戦場に出ようとしないではないか、とまで激しい調子で詠んだ反戦運動の草分けとも言える歌人であり、もしこれが太平洋戦争当時であったら、とても生きていられないほどの拷問を受けたのではなかろうか。日露戦争を戦っていた明治日本はまだ言論の自由のある大らかな国だったと思われる。

 お祖母さんの方はそれくらいにして、お祖父さんの与謝野鉄幹の歌で最もよく知られているのが「人をこうる(恋うる)歌」だと思う。ついでに言えば、鉄幹は前妻と別れて晶子と再婚したが、妻の方が才能もあって世間の注目を浴びることに苦悩し(ウチも妻の方が才能があるが、私は別に苦悩しない!)、それではと言うつもりか、第11回総選挙に無所属で出馬して政界入りを志したが落選、さらに惨めなことになった。(私は苦悩していないから、選挙に立候補なんていう無謀なことは考えていない。)

 そんな鉄幹の人生を重ねてみると、あの有名な「人をこうる歌」も何か悲哀と裏表のように思われてくるのは気のせいか。

  
妻をめとらば 才たけて
  みめ美わしく 情けある
  友を選ばば 書を読みて
  六分(りくぶ)の侠気(きょうき) 四分(しぶ)の熱


 才たけた妻をめとるのもほどほどに…というところかも知れないが、鉄幹は先立った後、その才たけて美わしい妻から悲痛な慟哭を受けているのであるから、男冥利に尽きたのではないかと思う。

 しかしこの歌の第一節の後半、「友を選ばば」の部分は現在ではどう読まれるべきなのか、ちょっと暗澹たる気分になってしまう。義侠心が6割、情熱が4割というところはともかく、義侠心や情熱を抱こうにも、そもそも最近の若い人たちは書物を読んでいないから、義侠心とは何ぞやとか、いかなる事に情熱を燃やすべきかといった価値判断が薄っぺらである。どうしても自分が現実に生きてきた20年なり30年なりの間の実体験以外には判断基準が無いということになりがちだ。やっぱり若い人たちには、何でもいいからもっと本を読んで欲しいなあと思ってしまう。


速いということ

 先日、ものすごく綺麗でお洒落な新しい喫茶店を見つけた。入口のドアからして色合いのセンスが良く、心地良さを感じさせるカラーの濃淡を巧みに使い分けている。炎天下を歩いてきて、咽喉がカラカラで死にそうだったので、迷うことなくこの喫茶店に飛び込んだ。もっとも付近にはこの店以外に飲み物を飲めそうな店は無かったのだけれど…。
 中へ入るとリング状の青い照明がクルクルと回転していて、何だか本当にチョー近代的な喫茶店だった。まだ開店間際だったらしく、従業員たちが一生懸命に店のインテリアを整えている。店の規模の割には大勢の従業員が働いていて、ある者は花を飾っていたし、ある者はテーブルの上のメニューや調度品を整えている。カレンダーをめくっている者もいたし、食器をピカピカに磨いている者もいた。
 しかしそれだけ大勢の従業員がいるのに、客の私が入って来ても、誰もすぐに注文を取りに来ようとしないし、お冷を出そうともしないので、たまりかねて「すみません」と声を上げた。すると何人かの者がやっと振り向いて、「ハーイ、ただいま参ります」と答えたが、それでも一向に私のテーブルにはやって来ようとしない。天井の青いリング状の照明がクルクル回っているだけ。
「お待たせしました、当店自慢のお冷です。」
かなり経ってからコップ一杯の水が運ばれて来た。
「○○山系の天然水に太平洋の深層水の氷を使っております。」
咽喉が渇いて死にそうだったので、私はコップの水を一気に飲み干してからアイスコーヒーを注文した。
「ハイ、アイスコーヒーでございますね。当店のコーヒーはモカとキリマンジャロのブレンドでして、それを氷を使わずに水出しでサービスさせて頂いております。出来上がるまで少々お待ち下さいませ〜。」
その従業員がクドクドと能書きを並べる間も、例の青いリング状の照明がクルクル回転して目障りなこと夥しい。カウンターの奥ではコーヒー豆を持って来ようとする従業員と、テーブルクロスを取り替えようとする従業員が、狭い通路の真ん中で互いに道を譲り合ったまま凍りついたように動かない。おまけに私の注文を取っていた従業員、目敏く私の靴の塵を見つけて、
「あ、お客様のお靴が汚れております。磨かせて頂きましょうか?」
 こんなノロマで気の利かない従業員ばかりの喫茶店では、いつになったら咽喉の渇きを癒せるか判らなかったので、私は注文をキャンセルして店を出たところで夢から目が覚めた。確か『ビスタ(Vista)』という名の店だった。

 Windows Vistaについては、私もこのサイトで多少弁護してやったこともあるが、結局はノロマの汚名を着たまま、2009年の秋にはWindows Sevenに取って代わられるらしい。気の毒だが仕方のないことであろう。ある新聞の記事では、Vistaは高機能を追求しすぎたため動作が遅くてユーザーの期待に応えられなかったと書いてあったが、ちょっと待てよ、と思った人は多かろう。
 高い機能を追及したというが、動作が俊敏であることもパソコンに求められる最も重要な機能の一つではないのか?自分の美的センスにのみ溺れてユーザーの要求を無視し続けたプログラマーたちのせいで、Vistaを搭載させられたマシンは過大な作業量をこなしきれず、ノロマと罵倒されてきたのではないか?

 速さも機能の最も重要な要素である、そんなことを考えていたら、ずいぶん昔に読んだショート・ショート・ストーリーを思い出してしまった。たぶんこういう発想は星新一さんだと思うが、タイトルは忘れてしまった。未来の自動車ディーラーと客の対話である。
 ディーラーは懸命に車の宣伝をしている。車に搭載してあるコンピューター(当時は電子頭脳とか人工知能という呼び方だったかも知れない)の働きで、目的地をインプットすれば自動的に安全確実に走行して行く、車内には睡眠用のベッドもあり、自動調理機能付きの食卓もあり、映画やゲームや今でいうインターネット機能などあらゆる娯楽が揃っており、ドライバーは自由気ままに過ごしていれば良い、しかもテレビ電話で家庭や職場や取引先などと連絡も取れてビジネスにも困らない、当然トイレもあるだろう、そんな豪勢で贅沢な自動車なのだ。
 ところが最後に客がその車の最高速度を尋ねると時速10キロだという。そんなノロマな車に乗れるかと客が怒ると、ディーラーが答えて言うには、「でもこの車をお求めになったお客様方は皆さまご満足していらっしゃいます。」
 確かに車内から一歩も出なくても100%快適な環境が用意されているのだったら、誰がそんなに急いで車を走らせるだろうか、というオチだったが、何となくこの未来の自動車がVistaに思えてきてしまった。おそらく未来社会では、我々はパソコンの前から一歩も離れずに100%快適な生活が保障されるのかも知れない、Vistaはそのことを我々に告げるためにだけ生まれてきた21世紀の異端児だったのだろうか。


一見科学的、でもホント?

 私は以前、神は絶対に無いと自信を持って言い切ることは出来ないとこのサイトに書いたことがある。つまり創造論者は生命は神が作ったと説いているが、科学の立場からは“神”、すなわち外部意志の存在など絶対に肯定することは出来ない、生命は地球という系の中で自然に進化してきたものであると
信じなければいけないというのが、科学者の言い分である。

 しかし創造論者の論拠を支持するような熱力学の法則がある。無秩序な状態からは秩序は絶対に生まれないというエントロピー増大の法則である。

生命誕生と生物進化という事象はエントロピー減少を示すものであり、非常に珍しいどころか、自然界では決して起こりえない現象なのである。どこかお金持ちの研究所が世界最大級のスーパーコンピューターを何十台も並べて、人類が発生する確率を算出してくれない限り、生物進化の過程で何らかの外部意志が働くことは絶対に無かったとは言い切れないのが私の素直な気持ちである。

と私は書いたが、実はエントロピー増大の法則も実は生物進化の原則に反してはいないのだと主張する“一見科学的な人たち”もいる。インターネット上を検索してみれば、そういう論陣を張っているサイトは決して1つや2つではない。
 エントロピー増大という熱力学の法則は、外部からエネルギーの供給が無い閉鎖系でのみ成り立つ法則であり、地球のように太陽からのエネルギーの供給を受け続けた開放系には通用しない、というのがその論拠である。
 こう聞かされて、すぐに自分の頭では何も考えずに、「ああ、やっぱり科学は凄い」と感嘆した人は、やはりちょっと騙されやすい人かなと私は心配してしまう。

 外部からのエネルギー供給があれば無秩序から秩序が生じ得る…、本当かな?
それはこういうことである。鍋に水を入れて火にかける(つまり外部からエネルギーを供給する)、水が沸騰して無くなれば雨が降って適当に補充してくれる(外部から物質を供給する)、この状態で何万年か何億年か経つうちには、鍋の右側に沸騰した湯が溜まり、鍋の左側は氷になっているという“秩序ある状態”が維持される状況が生まれる可能性があるということだ。
 そりゃ、運動量の大きい水分子のみが鍋の右側に集まり、運動量の小さい分子のみが左側に集まる確率がゼロということはない。しかしそれは10の何兆乗分の1という数字にも満たない小さな小さな確率ではないのか?イカサマの無いコインを1万回投げてすべて表が出る確率よりもはるかに小さいはずだ。
 やはり私は生命の誕生と生物の進化は偶然の産物だと“科学的に”言い切る自信はまだない。だからと言って創造主の存在を信じる気には毛頭ならないが、逆に「地球は開放系だからエントロピー増大の法則は成り立たない」というドグマを得意になって振りかざす「科学教」を盲目的に信じる気にもなれない。


新型インフルエンザに対する心得

 我が国でもついに新型インフルエンザによる死者が出たと報道された。またワクチンの量に限りがあり、国民全員に行き渡らないから接種の優先順位をつけるとも発表されている。医療関係者は比較的接種の優先度が高くなるはずだが、医師や看護師は自分たちだけ助かるつもりかという非難も起こり得ると思うので、念の為に申し上げておくと、インフルエンザが流行した時は患者さんは当然医療機関に駆け込むであろう、そうなると医師や看護師は普通の人よりも非常に高い頻度でウィルス感染の危険に晒されることになる、さらに医療関係者は入院中の重症患者さんに接する機会も多く、自分たちがウィルスに感染して、こういう患者さんたちにウィルスを媒介してしまうと大変なことになる、そういうわけで医療関係者には優先的にワクチンが接種され、患者さんから患者さんへのウィルス媒介を予防するのである。別に戦場で自分たちだけが優遇されて鉄兜を先に支給して貰うようなことではない。

 とにかくこういう“非常事態”が起こった時にはパニックにならないことだ。すでに新聞報道がパニックになりかけていると思うのは、新型インフルエンザでは人が死亡するが、通常のインフルエンザでは死なない、というような誤解を一般の人々に与えかねない物の言い方がされていることである。
 これまでのインフルエンザの感染でも、重症な基礎疾患のある人は生命の危険に晒されたわけだし、元気な人なら回復する可能性の方が高かった。今回の新型インフルエンザもほぼ同じと考えてよいと思われる。

 しかしだからと言って完全に油断していいわけではない。今回予想される新型インフルエンザの流行は1918年のスペイン風邪と比較されることが多い。
 スペイン風邪というと、私などは武者小路実篤の小説『愛と死』を思い出してしまうが、これは親友の妹に恋をして幸せいっぱいだったが、ヨーロッパ遊学中にこの恋人がスペイン風邪であっけなく死んでしまうという、この文豪にしては何とも安っぽい悲恋小説であった。
 同じ武者小路実篤の小説に『友情』というのがあり、これも友人の妹に恋をするのだが、もう一人別の親友に奪われてしまう、つまり無二の親友が恋敵になってしまうというストーリーで、こちらの方がはるかに深い人生の味わいがあった。何で武者小路実篤は『友情』(1919年)を書きながら、わざわざ似たような設定で『愛と死』(1939年)を書いたのか、私にはよく判らない。恋人を親友に奪われた主人公が、今度は恋人をウィルスに奪われるだけの話だから…。
 しかもスペイン風邪流行の時代はちょうど第一次世界大戦の最中であったが、『愛と死』の主人公のヨーロッパ遊学中の描写の中には戦火の記載はまったくない。何だか狐につままれたような小説だった。(私は『友情』は作品として大好きです)

 話がそれてしまったが、この『愛と死』の中で死んだ恋人の兄が、今度のスペイン風邪では普段元気な者の方がやられてしまったと嘆くセリフがある。確かにスペイン風邪では数千万人とも言われる犠牲者のうち、青年層の比率が高かったことが知られている。そもそも第一次世界大戦が終結した原因の一つは、兵隊になる青年層がバタバタと病気に倒れてしまって、戦争どころではなくなったからという説もあるくらいだ。また今回の新型インフルエンザも諸外国の報告では若年の死者も目立つ。

 若者の方がやられやすい理由としては、ウィルスが感染した細胞を破壊しようとする生体の免疫機能が強いからと説明できる。つまり免疫機能旺盛な元気な若者では、ウィルスに感染した細胞が自分自身の免疫反応によって激しく攻撃されるわけである。
 もし今回の新型インフルエンザの流行で、ワクチン接種の優先度を下げた青少年層に死者が発生した場合、日本の社会は大パニックになるだろう。「ワクチンよこせ」の暴動が起こるかも知れないが、ワクチンの絶対量は限られている。
 また人ごみの中で咳やクシャミをしただけで周囲の暴徒化した人々から袋叩きにされて殺傷される人も出てくるだろう。

 そういう危機的状況が起こったら、国民1人1人が落ち着いて冷静に物を考えて行動しなければいけないが、他人を押し退けてでも自分の権利と利益を守ることを先ず第一に考えることに慣れてしまった国民にそれが可能だろうか?来るべきインフルエンザ危機の中で我々が考えなければいけないのは、一にも二にも感染拡大の防止である。
 インフルエンザと思われる症状が出たらやたらに出歩かないこと。今でもただの“夏風邪”とは思うが、満員電車や雑踏の中で平気でゲホゲホ、ハックションとやってる能天気な人がいる。こういう人たちはおそらくインフルエンザに罹っても無理して出勤しようとして、大勢の人にウィルスを広めるだろう。そういう人が数人いるだけでも、集団の中の感染者数の増加は何日か早まり、ワクチンの緊急手配も間に合わなくなる恐れがある。
 また医療機関受診などでどうしても外出する人はマスクをして自分の気道の飛沫が飛び散らないようにしなければいけないが、他人からインフルエンザをうつされるのを恐れて“予防的に”マスクを買い占める人が続出するだろうから、マスク品切れ、本当に必要な人にマスクが無いということも起こり得る。健康な人がマスクをしていてもインフルエンザウィルス防御にはほとんと役立たない。実際に感染してしまった人がウィルスを高濃度に含む飛沫を鼻や口元でブロックするからこそ有効なのである。

 いろいろ恐いことも書いたが、これはあくまで最悪の場合の話であって、若い年齢層の人々がバタバタ倒れるような事態には至らない可能性の方がずっと高いと思っている。しかし万一最悪の状況になった場合でも、国民1人1人が社会を守る自覚を持って冷静に行動することだけが、被害を最小限に食い止める唯一の手段であることを強調しておきたい。


目黒のさんま

 最近、何人かの学生さんたちと話していて、ちょっと驚いたことを書いておきましょう。私の学科の1期生、2期生は昭和生まれが主体ですが、それでも彼らには昭和天皇の御世の記憶はなく、まあ、私たちの世代から見れば、“平成の子供たち”と言って良いです。

 驚いたことと言うのはこういう次第です。今年(2009年)はさんまが豊漁らしく、ずいぶん脂の乗った見事なさんまが安く売られています。さんまの季節の到来にふさわしく、東京の目黒で無料でさんまの塩焼きをふるまうイベントが行なわれたと、先日報道されていました。
 目黒でさんまのイベント、というと、私たちの世代はもちろん、私たちより10年20年時代を下った世代の人たちも、ああ、あの噺に引っ掛けてのイベントだな、とすぐにピンときます。しかし学生さんたちに何人か聞いてみましたが、1人も元のネタを知らない。大学の外でも聞いてみましたが、若い世代はオチ研(落語研究会)をやっていたという人以外はほとんど全滅でした。

 このイベントは江戸落語の『目黒のさんま』に引っ掛けてあるんですね。秋のある日、殿様がお忍びで城下の目黒あたりを回っていると、下々の者たちが七輪(しちりん:若い人たちは判るかしら)の炭火でさんまを焼いている、その香ばしい煙に誘われて殿様も一口召し上がってみると、それまで城内のよく吟味された食べ物しか知らなかった殿様には大変なご馳走に思われた、お城へ戻った殿様、さっそく家来に命じてさんまを調理させるが、厨房の家来たちはまさか殿様にそんな庶民の下賎な食事を差し上げるわけに行かない、それで築地あたりで最高のさんまを買って来るのですが、殿様の健康に障るからと、よく洗って小骨もみんな抜き、脂もすっかり落として干物みたいになったさんまを差し出した、失望した殿様が「やっぱりさんまは目黒に限る」と言ったのがオチになるわけですが、こういう落語を知らない世代が増えているんですね。

 私たちの世代も別に学校の国語の時間に落語のネタを教わったわけではありません。学校から帰るとテレビやラジオで日常的に落語番組が放送されていて、名人と言われた噺家たちによって『目黒のさんま』ばかりでなく、他にもいろんなネタが自然に耳に入ってきたものです。
「何で今の話が面白いの?」
「殿様は世間を知らないでしょ。だからさんまがお魚だってことも知らなくて、海から遠い目黒がさんまの名所だと思っちゃったのよ。」
子供たちはまださんまの塩焼きの味覚の深さも理解できない頃から、この落語の可笑しさを大人たちから教えられていきました。だから秋になって東京の目黒でさんまのイベントがあったと聞けば、ああ、俺も行けば良かったという食い意地ばかりでなく、あの落語のネタがすぐ思い浮かぶ、それが少なくともある一定の年代以上の日本人の間で共有されるユーモアだったわけです。教養と言って良かったかも知れません。

 その共通の教養の基盤が崩れた、誰のせいかは知りませんが、少なくとも最近ではテレビやラジオで昔のように古典落語など放送しなくなりました。そんなものを放送しても視聴率が取れないからでしょう。代わりに入れ替わり立ち代わり誕生してくる若い芸人さんたちのギャグやイッパツ芸によるお笑い番組は盛んで、学生さんたちはそういう芸人さんたちのことはよく知ってるみたいです。
 確かに最近の若い芸人さんたちのギャグやイッパツ芸は、人々の心を瞬時につかんで爆笑させるという意味では素晴らしいですが、旬の時期が短くて、すぐに飽きられてしまう。今さら「欧米か?」などと言えば場が白けるし、「だっちゅーの」なんて覚えてる人はいますか?目黒のさんまのように200年近くも日本人(少なくとも関東圏の人)の共通のユーモアとして語り伝えられるようなことはありません。

 古典落語は、それを演じる噺家さんたちにも並大抵でない修行が必要です。名人と呼ばれるほどの人の芸は凄かった、扇子1本だけで蕎麦を食べる場面を演じると、聴く人の唾液を分泌させるほど真に迫ったものでした。おそらく20年30年という長年の修行の賜物でしょう。
 しかし演じる側ばかりでなく、古典落語を聴く側も最低限の教養が備わっていなければ噺の面白味が判らない。最近の刹那的な即席のイッパツ芸ではそんな事はありません。最近は演じる側も聴く側もそういう努力をしなくなった、目黒のさんまを知らない人が増えてきた背景には、そんな世相が反映されていると思います。

 古典落語でさえこの有り様です。「秋刀魚」と書いて「さんま」と読めない人も多いのではないでしょうか。ましてこの秋の季節になって、あの佐藤春夫の詩の一節を思い起こす若い人は一体どれくらいいるのでしょうか?
 
あはれ 秋風よ 情(こころ)あらば伝へてよ
 −−男ありて 今日の夕餉にひとり
 さんまを食ひて 思ひにふける と
               (以下略 佐藤春夫「秋刀魚の歌」)


新型インフルエンザワクチン

 本日(2009年10月23日)、私が非常勤で病理診断に行っている病院で、新型インフルエンザのワクチンはどうしますか、と事務の人から尋ねられた。新型インフルエンザに対するワクチン確保がようやく軌道に乗ってきて、先ず医療従事者から優先的に接種するという報道もあったばかりである。
 この病院は、毎年通常のインフルエンザに対するワクチンも、私のような非常勤の病理医も含めて希望者には優先的に無料で接種してくれている。これは医療従事者を特に優遇しているわけではなくて、病院の職員がインフルエンザに罹患してしまうと、一般の来院者にまで感染させる危険性が高いという理由からである。ワクチンは個人を守るという意味よりも、集団を守る意味の方が大きい。医療従事者に免疫を付けておくことで、そのラインから先の感染を阻止するのである。
 中には自分のところの職員の接種まで有料にして利潤を上げようとする病院もあるが、これはその病院の経営者が感染防御戦略の何たるかを理解していないことを如実に物語っており、あからさまに無知を世間に暴露していると言っても過言ではないだろう。

 ところで毎年職員に対して通常のインフルエンザワクチンを接種してくれている病院でも、さすがに今回の新型インフルエンザワクチンは数量に限定があり、希望者全員というわけには行かなかったらしい。希望者は有料ということだった。
 何としてもワクチンが欲しいというのが、おそらく大多数の一般の人々の願いだろうから、私が今回どうしたかをお話ししておく。
私は新型インフルエンザのワクチン接種を希望しなかった
 とにかく新型に対するワクチンは需要に比べて供給が圧倒的に少ないのだ。医療機関でさえ職員の希望者全員分は無いのである。それなら少ないワクチンを最も効率よく接種しなければいけない。敵が攻めて来るのに味方の大砲が少なかったら、敵の侵攻ルートを最大限にカバーできるように効率的に配置しなければいけないのと同じだ。
 新型インフルエンザの患者さんに頻繁に接することになるドクターやナースには全員ほぼ強制的に接種しておいて、医局や家庭にウィルスを持ち込まないようにして欲しい。検査室で顕微鏡を覗いている病理医の私などは、ワクチンが余ったら接種してくれればよろしい。診療の最前線に立っているドクターやナースが感染しなければ、そういう人たちと接する他の人たちへの感染の危険も減るのだ。

 ワクチン不足がパニックに結びつきかねない現状に際して、一般の人々もワクチン接種の戦略的意義をもう一度よく考えて頂きたい。ワクチンは個人を守るものではない、集団を守るのものである。
 もっとも新型インフルエンザワクチンがどの程度有効なのか、またどの程度安全なのか、まだはっきりしたことは判っていない。


東宝特撮とコンピュータグラフィック

 先日、書店の店頭で「東宝特撮映画DVDコレクション」なるシリーズを見かけた。昭和30年代に少年時代を送った男性なら、東宝特撮チームを率いた円谷英二特技監督の名前を知らない者はほとんどいなのではないか。当時の東宝が制作する戦争映画、SF映画、怪獣映画の特殊撮影を一手に引き受けておられた名監督で、ミニチュアを使ったその撮影技術は世界一と言われたものである。何しろ手先が器用な日本人が製作した精巧なミニチュアを、円谷監督が奇想天外なアイディアで次々と破壊していく、それは素晴らしいスペクタクルであった。
 例えば水槽の水にインクを落として爆煙を表現したり、木っ端微塵になるビルディングをお菓子のウエハースで作ったり、青く染めた寒天にミニチュアの軍艦を浮かべたり(だから東宝が海戦映画を作ると寒天の原料のテングサが市場から消えたと言われた)、といったエピソードが後になってからずいぶん紹介された。円谷プロの戦争映画については別のところでも少し触れたから、今回は書店で見かけてつい衝動買いしてしまった怪獣映画について。

 私が書店で見かけたのは「東宝特撮映画DVDコレクション」の3巻で、『三大怪獣地球最大の決戦』というものである。昭和39年の年末公開ということだから、私が映画館で観たのは中学1年生の頃、ゴジラと並ぶ人気怪獣キングギドラが初登場した作品で、龍のような首が3つ、尾が2つ、さらに巨大な金色の翼を持った物凄い怪獣が、口から熱線を吐いて都市を破壊していく映像に、当時は圧倒されて夢中になったものであった。
 空中に吹っ飛ぶビルの看板、倒れる東京タワー、崩れ落ちる橋梁、どれもこれもまるで本物にしか見えなかったが、コンピュータグラフィック(CG)全盛の時代に育った現代の子供たちは、おそらくこの映画を観ても、最初からミニチュアとしか感じないだろう。破壊されたビルの破片や、崩れ落ちる瓦礫や、燃え上がる炎の大きさなどが、やはりどうしても本物の映像にはなれないのである。

 こうしてみると、私自身もまたあの『ジュラシックパーク』以降のCG映画に“毒されて”しまったようだ。確かに初めてのCG映画『ジュラシックパーク』は凄かった。最初に出てくるCG映像は、木の葉を食べていたブロントザウルスがいきなり後脚で立ち上がるシーンだったが、思わずホーッと唸ってしまった。“着ぐるみ”でない動物としての自然な動き、皮膚の質感、どれをとっても東宝のゴジラやキングギドラとは違っていた。
 その後、怪獣(恐竜)映画だけでなく、戦争映画やSFスペクタクル映画などの特殊映像はすべてCG技術で制作されるようになり、映像の細部に至るまでほとんど実写と変わらないシーンを楽しめるようになった。しかしそれが当たり前のことになってしまうと、別にスペクタクル映像がふんだんに登場する映画でも観る気はなくなってしまう。昔はミニチュアの特撮技術や実物大セットを使って制作費○○億円などという映画が公開されると、これはもう劇場へ行って観なければ損だという気になったものだが、最近では「どうせCGだろ」で終わってしまう。

 そういえば東宝怪獣映画最大のスターであるゴジラも、その後ハリウッド映画がCG技術を用いて大々的に制作したことがあったが、往年のゴジラファンの不評を買って、続編の話もあったけれども立ち消えになってしまった。東宝ゴジラのファンはアメリカにも多く、そういうアメリカ人たちまでが「あれはゴジラじゃない」と言ってブーイングしたそうだ。
 ハリウッドゴジラは現代の古生物学の知見までを盛り込んで科学的にリメイクしたのが失敗だったようで、実はいかにも
“中に人間が入っているような”動きこそがゴジラ人気の秘訣だったのかも知れない。あの重そうなゴジラの着ぐるみを被って演技する俳優さんもずいぶん研究熱心で、動物園でさまざまな動物の動きを観察して演技に活かしたそうである。
 やはり円谷英二さんの独創的なアイディアだけでなく、こういう着ぐるみ俳優さんたちの努力が東宝のゴジラシリーズを支えていたわけであるが、だからCGで作ったゴジラは魂の抜け殻でしかなかったのだろう。ハリウッドがゴジラ映画を制作するという話が持ち上がった時、日本のゴジラファンはゴジラを盗られると心配したものだったが、杞憂に終わった。(ただしニューヨークヤンキースに盗られたゴジラ松井は今もなお活躍中のようで、2009年のワールドシリーズではMVPに選ばれたらしい。それはそれでめでたいことだが…)

 ところでこの『三大怪獣地球最大の決戦』のストーリーは、地球にキングギドラが来襲するが、人類だけではとても太刀打ちできない、ゴジラとラドン(鳥の怪獣で、本来は“獣”ではない)の力を借りたいが、2頭は互いに争っていて言うことを聞いてくれない(当たり前だが)、そこでモスラ(蛾の怪獣で、これも本来は“獣”ではない)にゴジラとラドンの説得を頼むというものであった。ゴジラとラドンとモスラが富士山麓の1ヶ所に集まって談義するシーンは、今DVDで観るとコメディーだが、子供時代は真剣になってスクリーンを見つめたものだった。モスラの島に住む双子の小美人(ザ・ピーナッツ…懐かしい!)が怪獣たちの談義を通訳する、
「ダメです、ゴジラもラドンもモスラの言うことを聞いてくれません。」
「ゴジラは、何で俺たちが人間を助けなければいけないのか、人間はいつも俺たちをいじめているではないか、と言ってます。」
「ラドンも、そうだそうだと言ってます。」
怪獣どももすごく人間的ではないか。こういうところが全世界のゴジラファンにも受けた理由だろうか。
 しかしこの作品あたりから、こういうゴジラのコメディアンぶりが度を越してきたとの反省から、後に原点に帰った新ゴジラシリーズが始まることになる(1984年)。何しろ『地球最大の決戦』の中では、モスラの説得を聞き入れてキングギドラに立ち向かうゴジラが、熱線を浴びたお尻をさすって痛がるシーンとか、キングギドラを追い払った後、ラドンと仲良く並んで島へ帰るモスラを見送るシーンとか、ちょっと怪獣としてはサービスしすぎなんじゃないの、という感じである。確か次の作品ではゴジラが“シェー”(赤塚不二夫さんの漫画のイヤミ氏がやるやつ)をやったはずだ。

 とにかくこのDVDシリーズは何十年ぶりかで観た三大怪獣の共同作戦も懐かしかったが、そういう東宝特撮シーンだけでなく、その背景に登場する昭和30年代の日本の風景も懐かしかった。広々した東京湾をバックにした羽田国際空港、車がほとんど走っていない首都高速道路、赤い公衆電話、オープンリールのテープレコーダー、街の道路を走るオート三輪、警察官や自衛隊員の制服も今と違うし、テレビの画面は縁が丸みを帯びている。
 あと何と言っても今と違うのは、怪獣に追われて避難する人々の中に、白い割烹着を着て三角巾を頭に巻いたオバサンたちが何人もいたことである。これは昭和30年代の主婦を象徴するスタイルだった。家事の途中で怪獣に襲われた緊迫感を出す演出だったろうが、現在は通用しない。また行李を担いで逃げるオッサンもいる。さらに郊外では必ず地元の警防団員は半纏を羽織って半鐘を打ち鳴らしていた。割烹着、三角巾、行李、半纏、半鐘…、たぶん最近の若い人たちは知らない単語だと思われる。


東宝特撮第2弾:モスラの歌

 前回、東宝特撮映画最大の
モンスターであるゴジラも次第にコメディアンぶりが度を越してきたという話の折に、『三大怪獣地球最大の決戦』の次の作品(東宝特撮映画ラインナップによると『怪獣大戦争』)の中でゴジラが“シェー”をやったはずだと書いたら、よくそんな事を覚えているなと感心されたが、実は私はもっと驚くべきものを記憶しているのだ。
 しかしその前に、この東宝特撮映画DVDコレクションにまつわる思い出話を少々…。

 
『三大怪獣地球最大の決戦』に引き続いて発売されたのが『海底軍艦』、昭和38年(1963年)公開だから、そろそろ戦後20年と言われていた時代の作品である。元は明治時代の日本のSF作家である押川春浪の原作を昭和風にアレンジした作品であった。

 
終戦前夜、反乱を企んで密かに出航した日本海軍の特型潜水艦伊403、特型潜水艦は実在だが402までしかなく、伊号403潜水艦は架空である。その乗組員が南海の孤島で、大日本帝国復活のために『轟天号』という物凄い軍艦を建造している。深海に潜るのはもちろん、ジェット噴射で空を飛び、巨大なドリルで地中を進むという万能兵器だ。
 たった1隻の潜水艦の乗組員だけで、南海の孤島に造船所付きの基地を建設し、軍艦建造の資材を調達し、さらに世界のどことも連絡を絶って食糧や衣類を自給自足するなど、あまりに荒唐無稽な話ではあったが、小学生にとってこんな面白い物語は無かった。

 折から世界は12000年前に太平洋に沈んだムー帝国の襲撃を受ける。地上の人類よりもはるかに優れた文明を持って海底に栄える帝国が、地上侵攻を予告してきたのだ。世界最新鋭の原子力潜水艦でもかなわない。そういう超文明を誇るムー帝国の兵士たちが裸体に槍と盾というのも解せないが、それはともかく、そのムー帝国が唯一恐れる海底軍艦(轟天号)の出撃を国連が要請してくる。しかし海底軍艦の指導者(神宮司大佐)は最初のうち、これは大日本帝国復活のための軍艦だと言って頑として要請を拒否していたが、いろいろあってムー帝国に対する反撃に協力、ついに海底のムー帝国本拠地を爆破することに成功する。
 海底であんな大爆発を誘発したら、太平洋沿岸諸国への津波の被害が甚大だろうが、それよりもムー帝国撃滅後の海底軍艦はどうなるんだろうと、今になるといろいろ考えさせられる。何しろたった1隻で大帝国を瞬時に葬り去った超兵器が日本に所属することになるのだから、アメリカもソ連(当時)も黙ってはいなかったであろう。

「海底軍艦の出撃は国連の要請なんだ。」
「本部へ連絡して下さい。海底軍艦はムー帝国撃滅のため出撃します。」
かつて自衛隊がイラクへ派遣されることが決まった時、なぜか映画の中のそんなセリフが頭に浮かんだことを思い出す。

 とにかく『海底軍艦』のストーリーはまだ小学生だった私の脳裏に鮮烈に残ったのは間違いないが、東宝特撮映画に関してはもっと驚くべきものを覚えている。DVDコレクションで次に発売された『モスラ』は昭和36年(1961年)公開で、実は私が初めて観た東宝特撮映画だった。
 モスラは普段はインファント島という南海の島に住んでいて(“インファント”が乳児を意味することを知ったのはもちろん後のことである)、ザ・ピーナッツ演じる双子の小美人とテレパシーで心がつながっている。その小美人が悪徳プロモーターに誘拐されて日本に連れて来られたことから、小美人を取り戻しに怪獣モスラが来襲するという設定だが、私が記憶しているのは、この小美人がモスラを呼ぶ時に歌う謎の歌詞である。

 
モスラ〜ヤ、モスラ〜 (ここまでは誰でも覚えている)
 
ドンガンカサ〜クヤ、イド〜ム〜
 ルフトウィンラ〜ド

 ハンバ〜ハンバ〜ムヤ

 ランダ〜バンウ〜ラダ

 トンジュンカ
ラ〜、カサクヤン〜

 このサイト作成の現場をお見せしているわけではないから信じられないかも知れないが、別に私はDVDの歌のシーンを見ながら文章を起こしているわけではない。この変な歌詞は私の頭の中に完全に入っているのである。
 こんな物を覚えたからって、ちっとも偉くも何ともないが、何で自分の頭の中にこんな意味もない文字の羅列が記憶されているのか、不思議に思ったのでちょっと分析してみた。以前もこのサイトに、私の記憶力が他の人とは異なっているかも知れないと書いたが、最近いよいよ国家試験を控えた私の学科の学生さんたちが受験勉強に四苦八苦しているのを見て、少しでもそういう人たちの記憶力増進のお役に立てれば良いと思って書くわけである。

 もともと私はそんなに記憶力が良いとは思っていなかった。円周率も3.1415までであるし、最近ではそろそろ生理的な頭脳の劣化も始まっていて、先日の大学の講義の時には、黄疸の“疸”の字をいきなり度忘れして、学生さんたちに笑われた。本当に人の記憶とは不思議なものである。

 記憶を司るのは大脳の海馬という部分である。大脳といっても物を考えたり、見たり聞いたり、動いたり感じたりといった中枢神経系の表舞台ではない。大脳の奥の方にあって原始的な活動を制御する大脳辺縁系と呼ばれる部分にあり、ここには記憶の他にも、嗅覚や情動などを制御する機能が集中している。試験勉強などしていると、記憶とはいかにも高等な学習機能のように錯覚しがちだが、実は我々の祖先がまだ原始的な動物だった頃から生存のために欠かせない機能のひとつだったのである。
 我々の祖先は周囲の臭いを嗅ぎ分けながら、こっちに行けば餌にありつけるという快楽を追求し、こういうことをすれば天敵に襲われるという恐怖を味わいながら、そういう経験を記憶として脳の中に蓄積しなければ生き延びることはできなかった。つまり記憶と生存は直結していたわけである。

 現代の人類社会では、恐怖の体験を記憶しなければ天敵に捕まって食い殺されるという状況はなくなったが、やはり試験に受からなければ進級できない、資格も取れない、就職もできない、だから仕事に就いて生活もしていけないという、これも一種の恐怖の連鎖ではある。戦前の日本の子供たちは歴代天皇の名前を間違いなく記憶しなければ学校で厳しく怒られたというし、そういう教育を受けた日本人は戦後になってもそれらを長いこと覚えていたというから、やはり記憶には恐怖との連関が重要である。

 しかし私の頭の中に、ザ・ピーナッツが歌う『モスラの歌』の歌詞が残っているのは、決して恐怖の理由からではない。ああいう何の役にも立たないものを覚えておけるのは、それを覚えておいて何かの機会に友達か誰かに披露できたら驚いて貰えるだろうという社交上の期待があったからだと思う。“恐怖からの逃避”を“快楽への期待”に変えたわけだ。
 円周率を何百桁も覚える人もそうかも知れないが、普通の人が学校で教わったり本で読んだりしてちょっと努力すれば覚えられるような物事を記憶していたって誰も感心してくれないが、モスラの歌みたいなヤツを覚えれば注目を集められるだろう…。
 もっとも現在に至るまで、私がモスラの歌を暗誦していると言うと、何をバカなことやってると呆れられたことはあっても、感心したり褒めて貰えたことは1度も無かった(笑)。

 まあ、とにかく自分自身の中で記憶の原動力を
恐怖から快楽に転換することによって記憶力は一気に高まることがお判りいただけたと思うが、だからと言って“ドンガンカサ〜クヤ…”を覚えるなんて不可能だと思われるであろう。確かに無意味な言葉の羅列である。円周率も無意味な数字の羅列だが…。
 いくら恐怖が快楽になっても、意味のない物は記憶にとどまりにくい。語呂合わせで歴史の年号やイオン化傾向などを覚えた人は多かろう。私もモスラの歌詞を記憶するという滑稽な努力をしていた頃の頭脳の働きを思い出してみると、あの歌詞には一見無意味に見えても、「佳作」「挑む」「ルフトハンザ」「ドア」「ハンバーグ」「カラー」などを連想させる文字列があり、やはり私はそれらを手掛かりにしていたように思われる。

 あと何と言っても、あの程度の分量ならば
一気に勢いで覚えてしまうことだ。今日は1行目、明日は2行目などと区切って覚えようとすると、翌日には多少忘れてしまう部分もあって、頭の中での記憶定着に濃淡ができてしまう。こうなると覚えにくい。流れに乗って一気に覚えておくと、その忘れ方も一様であり、再び同じ流れに乗って記憶を修復できる。

 しかし円周率のような際限のないものを記憶する人は、何十桁かずつ区切って覚えていくと聞いたことがある。無意味な数字の羅列に語呂合わせでストーリーを付けて逐次覚えていくそうだが、モスラの歌と円周率の覚え方に共通するのは
反復学習である。これだけは間違いない。
 たぶん円周率の71桁目から80桁目の記憶に挑む人は、必ず1桁目から70桁目までを復習した後に、引き続いて71桁目以降の記憶に取りかかるはずである。つまりそれまでに一旦記憶に定着させたものを、何度も何度ももう一度引きずり出して反復学習しているのである。そうしないと、せっかく71〜80桁目を記憶しても、1〜70桁目との関連をもう一度記憶しなければいけなくなる。
 私のモスラの歌も一旦流れに乗って勢いで覚えた後は、しばらく毎日学校の行き帰りなどに頭の中で暗誦して、忘れている部分はその日のうちに修復するという作業の繰り返しだった。そして完全に記憶した後も、モスラの映画が話題になったり、あるいは飛んでいる蛾を見たりしただけでも、あの歌詞を思い出そうとしたものだった。

 要するに記憶学習の要諦は、
@将来の楽しい夢や希望につなげて、
A流れに乗って一気に覚え、
B何度も何度も反復する、
という当たり前のことに尽きるのではないか。


さらばVista…

 この年末のクソ忙しい時期に、職場のVistaパソコンがクラッシュした。ソフトが起ち上がるまでに10分以上もかかるようになり、しかもOfficeソフトの漢字変換がまったく利かなくなってしまったのだ。家で使っているXPパソコンはまだ動いているのに…。一昨年の春に購入したから、2年半の生涯だった。

 とにかくノロマだった。最近ではまともに“ビスタ”と呼んでやったこともない。
Bisuta - is = Buta
「ビスタはブタだ」
きっとブタ呼ばわりする御主人様に愛想を尽かしたのだろう。私は気が短い方だから、余計なことばかりやって早く仕事をしないVistaマシンの働きぶりにイライラして、ついキーボード操作も過重になった。それがCPUなどに負担を掛けたのは間違いない。

 ところが次にやってきた後継ソフトのWindows 7マシンは、これがまた厄介者…。ビスタがノロマなら、セブンはオッチョコチョイである。人の言う事を半分聞いただけで、サーッと飛び出して行ってまったく見当違いなことをしでかす。カーソルをアイコンに合わせるだけで認識してしまうから、従来のダブルクリック感覚で操作すると、何かとんでもないフォルダが開いてしまったりする。

 これは意地悪く勘繰れば、マイクロソフトのプログラマーたちは、ビスタの評判が散々だったのを根に持って、今度は必要以上に速く動いてしまうソフトを開発したとさえ思える。ノロマでもオッチョコチョイでもない、もっとユーザーの感覚にマッチしたソフトの開発はできないのだろうか。

 セブンが速いのは別にプログラムのせいだけではない。セブン標準装備のパソコンのキャッシュメモリはビスタの時の最大装備の4倍(4ギガバイト)ある。昔のプログラマーならこれだけ容量の大きいマシンが開発されれば、そのメモリをフルに使い切るほど凝ったOSを作っただろうが、今度のセブンは大きくなったメモリに余裕を持たせて動くように作られているようだ。

 ビスタマシンの無残な最期を見て、ふと我が身に置き換えて考えてしまった。性能ギリギリまでプログラムの負荷を掛けられて無理やり働かされたビスタマシン…、人間もまた肉体あっての存在である。若い頃ならともかく、肉体の性能ギリギリまで負荷を掛けて作業するのは危険だ。
 私もまた小児科・産科医療の最前線で燃え尽きたし、過労死された先生もいる。医療の現場に限らず、現在ほとんどの職種が過労の状態で働かねばならない労働環境に陥ってきている。こういう社会現象を私は“
ビスタ症候群”とでも呼びたいくらいだ。


ベートーベン症候群

 前回、“ビスタ症候群”などと書いたが、私はもう一つ症候群と名付けたい現象がある。しかしその話の前にちょっとだけ…。

 私は男だが自分の身の回りの家事は何でも自分でやる方である。
「先生はバイオリニストの奥様がいらっしゃるから、生の演奏を毎日身近にお聴きになれて良いですね〜」
などと能天気なことを言う人が多いが、プロの女流音楽家と一緒に暮らすということは、それほど生易しいことではない。
 大体、世の中では演奏会がいつ開催されているかを考えてみればよろしい。普通の人の仕事が休みの時に音楽家は仕事をするのである。平日の昼間にコンサートなど開いたって客席はガラガラであろう。

 つまり私が仕事をしていない時に、私の“奥様”は仕事をしていらっしゃるのである。もうここ何年もクリスマスや年末年始を一緒に過ごしたことはない。もっとも私も最近ではこんなウェブサイトを作ってみたり、若い学生さんたちが付き合ってくれたりするので、それほど淋しくもないが…。
 昨年は「クリスマスのバカヤロー!」と言ったら、「先生、僕たちも嫌いです。寂しい子のためのクリスマスパーティーをしましょう」ということになって、賑やかにクリスマスイブを過ごせたが(笑)、やはり孤独を紛らわせるのに他人ばかり頼っていてはいけない。特に男性は中年を過ぎたら独りで遊べなければいけないと、昔テレビで誰か評論家が言っていたことがあった。ウェブサイト作りなどは、いろいろ見知らぬ人たちからお便り頂いたりして、なかなか良い時間潰しになる。

 話が逸れたが、カミさんに“放置”されて時間は潰せても、家事はそうは行かない。奥さんに料理して貰わないとご飯も食べられない、洗濯して貰えないと靴下がどこにあるかも判らないという旦那様もいらっしゃるようだが、これでは“生存権”を奥方に握られたも同然であって、お互いに元気なうちは身の回りの事は自分でやった方が良い。私も簡単な手料理と洗濯とボタン付けとゴミ出しくらいはやっている。

 さらに話は逸れに逸れる。もう何十年も前に『君にできる事はボタン付けと掃除…♪』という歌謡曲の歌詞があったが、掃除だけは私もカミさんも嫌いで、新婚間もない頃、部屋が散らかっていても人は死なないと言ったら、カミさんはそれに味をしめて家を散らかし放題にしたまま出かけるようになってしまった。あの一言だけは私も後悔している(苦笑)。
 もう十数年前、たまたま私も学会出張中、カミさんが仕事で外出していた間に空き巣狙いに入られたことがあった。大事にしまってあった婚約指輪などは盗まれてしまったが、他の宝飾品のうち泥棒が好きそうな物が何点も無事に残っていた。カミさんが警察に通報して刑事さんが現場検証に来てくれたのだが、刑事さんにも呆れられたとのこと。
(刑事)「この部屋もかなり荒らされてますね。」
(奥方)「いえ、ここはいつもこうなんで…。」
あまりの散らかりように泥棒も物色を断念したらしい。数年後にその泥棒が捕まったという報告が警察から入ったが、かなりベテランの空き巣狙いだったという。重犯なのでもう元気な年齢のうちは娑婆に出て来れないそうだ。

 ところで女流音楽家と一緒に暮らすのは、それほど生易しいことではないことがお判り頂けたと思うが、つい最近ワイシャツのボタンがとれたのでボタン付けをやった。若い時は独身の頃からその程度のことはホイホイとすぐにやったものだが、この年齢になると少し億劫である。その理由は若い人には判らないであろうが、ボタン付けを自分でするには、あの小さな針の目処(めど)に糸を通さなければいけない。だが早い人だと30歳代くらいからそういう細かい物が見えにくくなってくるのだ。いわゆる老眼である。
 老眼というと近眼の反対だと思っている人もいるが、実は眼球の焦点距離を調節する機能が弱くなってくる加齢現象のことで、細かい手作業をするとそういう肉体の衰えを思い知らされることになるので、私もなるべくならボタン付けなどはしたくないのである。

 私は幸いなことに、同世代の人たちに比べて老眼の変化は遅かった。いまだに老眼鏡は必要としていない。(私の年齢について知りたければ、このサイト内に生年月日が書いてある。)私は小児科医時代に赤ちゃんの指紋を見るために目を凝らしたり、病理医になってからは光学顕微鏡を覗き続けたりして、かなり眼球を酷使したと思われるが、それが却って良いトレーニングになったのだろうか。
 病理医の同業者の向井万起男先生も、遠くを見たり近くを見たりして目の訓練をしているので老眼になっていないと著書の中に書いておられたような気がする。余談だが、私のカミさんはせいぜい演奏会のステージに上るくらいだが、この向井先生の奥様は何と宇宙まで上がってしまった向井千秋さんである。カミさんに“放置”されるのも老眼予防法の一つか…(ウソです。笑)

 そこでボタン付けの話だが、ボタンのとれたワイシャツは何日間か放っておいたが、やっと意を決して(そんな大袈裟なものでもないが)針仕事の道具を取り出した。
 さて私は何回目で針の目処に糸を通せたでしょうか?答えは2回目です。私の目はいまだに老眼に打ち勝っている。
 その話をカミさんにしたら、少しだけ褒めてくれた後に、最近は若い子たちの老眼が多いと言っていた。正確なデータが無いから何とも言えないが、もし本当だとすれば私はあのテレビゲームが元凶だと思っている。最近のテレビゲームは非常に進化していて、あの二次元の画面の中に立体感を持たせた3D映像が実に見事に映し出されている。つまり子供たち(いや大人のゲーマーたちも)は自分の眼球で遠近を調節しなくても三次元の視覚を体験できる。そこへ強烈な光の点滅やめまぐるしい色彩の変化、これが眼球の調節機能に良い影響を与えるはずがない。

 同じことは、やはり最近の若い人たちを中心に利用が進んでいるウォークマンなどの音響機器にも言えるのではないか。あれはイヤフォンやヘッドフォンで直接耳の中に強烈な音を送り込んでいる。我々は普通に音を聞くときは左右の耳で音源の方向や距離までを感知しているが、ああいう音響機器ではそれがない。
 またヘッドフォンの装着などで外部の音を遮断してしまうので、例えば接近する自動車だとか非常警報の音だとかが聞こえにくくなって危険なだけでなく、内耳の繊細な聴覚器官に音源から至近距離で音波を送り続けることで、将来何か重大な障害を残す恐れは無いのだろうか?
 電車の中でも道を歩いていても音楽を手放せないほど音楽好きな若者たちの聴覚に、将来何らかの変調が起こるとすれば、晩年に聴覚を失った楽聖ベートーベンの運命を髣髴とさせるものがある。こんなベートーベン症候群が起こらないように、関係者は早急に携帯音響機器の長期的な安全性を調べて、もし必要であれば1日何時間までという使用制限なども勧告するべきではなかろうか。単なる杞憂であって欲しいと思うが…。


救急車

 年頭の商店街を歩いていたら、昔なつかしい『お正月』のBGMが流れていた。
   
もういくつ寝るとお正月
   お正月には凧あげて
   独楽をまわして遊びましょ
   早く来い来いお正月

というのが正当な歌詞だが、小学校の悪ガキだった頃に友達と大声で歌っていた替え歌の歌詞の方が真っ先に思い出される。
   
もういくつ寝るとお正月
   お正月には餅食って
   お腹をこわして入院だ
   早く来い来い救急車


 いくらガキの頃とはいえ、とんでもない歌詞であるが、思えば当時はまさか自分自身が救急車の世話になるような年齢になることなど想像もできず、無邪気に歌っていたのであろう。

 昔は普通の子供が救急車に乗せられて病院へ搬送されることなどほとんどなかったが、私が小児科医をやっていた昭和50年代頃は、病院で当直をやっているとやたらに小児救急患者が消防庁の救急車に乗せられて来院した。
 中には、少し鼻水が出たという程度の症状で午前2時や3時に救急車で来院する患者さんもいたし、軽い気管支喘息の発作で救急車に乗ったは良いが、来院した時にはケロリと治って機嫌よく笑っているお子さんもいらした。ちょっとムッとしたのは、朝から症状はあったのに正規の時間に受診せず、夜なら待たずに診て貰えるからと夜中に救急車で来院された患者さん…、皆さんはどう思われますか?

 親御さんにしてみれば、症状の適切な判断もできないから救急車を呼んでしまったという気持ちも判らないでもないが、本来は心筋梗塞の急性発作の初期のように、1分でも1秒でも早く病院に運ばなければ生命にかかわるような患者さんのために救急車が待機しているのであって、軽症の人たちが次々に救急車と救急隊員を独占してしまえば、重症の方を救命できない場合も起こりうる。
 最近ではその辺の事情もやっと一般の方々にも判っていただけたようで、生命に別条がなさそうな症状の時はタクシーや自家用車を利用するなど、いろいろ協力して下さる人も多いようだ。

 ところで私が初めて救急車に乗ったのは患者としてではなく、医師としてである。未熟児・新生児医療の現場に勤務していたから、○○の産婦人科で未熟児が生まれた、△△の医院で生まれたばかりの新生児の様子が変だ、という通報があると、すぐに救急車ですっ飛んで行ったものだ。当時は未熟児・新生児医療が盛んに発展する時代だったから、出動要請はかなり多かった。出動する医師は交代で当番制だったが、夏休み期間など人手が少ない時は、私だけで一晩に3回出動、1週間に延べ8回出動などということもあった。
 私の勤務した都立築地産院には新生児搬送のための専用救急車があったが、この専門の運転手さんが休暇の時などは消防庁の救急車で出動することもある。男の子にとって、救急車はパトカーや消防車と並んでカッコイイ玩具の自動車としての人気は高いが、実際にそれに乗って仕事をするのはそれほどカッコイイものではなかった。
 道路の端に寄って道を空けてくれる一般自動車の合間を縫って走るので、かなり運転も荒くなることがあり、特に狭い車内で不自然な体勢で重症の患者さんの診療を続けながら病院に帰って来る時など車に酔ってしまい、「お前の方がよっぽど顔色が悪いぞ」などと冷やかされたこともある。

 さてこんな事ばかり書いてきたが、勘の良い人ならお気付きのとおり、私もついに患者として救急車に乗る機会に遭遇したのである。
 昨年暮れのものすごく忙しい時期のことだった。明け方の3時頃、突然の鈍い腹痛を感じて目が覚めた。昨日夕食に食べた物が悪かったかと思いトイレに行ったが便通がない。完全に腸が止まった状態で、腹痛はどんどんひどくなっていく。(お食事中の皆様、ごめんなさい!)
 こういう時、医者という商売は因果なもので、自分で自分をあれこれ診断してしまう、そしてそれは往々にして誤診であることが多い、自分自身のことは意外に判らないものだ。
 こんな時刻に救急車を頼むのも申し訳ないし、たぶん腸が動き出せば腹痛も軽減するだろうし、それに何より便秘ごときで医師が夜中に救急外来に駆け込んだとなれば末代までの恥さらしだし(医者が夜中に病院で浣腸されて「ハイ、良くなりました」じゃカッコ悪い…!)、とにかくいろいろ考えながら1時間以上我慢していたが、ついに胆汁が口腔内に逆流したのでカミさんに救急車を呼んで貰った。

 救急隊員の方が私の職業を聞いて気を利かせて下さり、自分の職場の大学病院に搬送して下さったが、車内では痛くて身体を丸めてうつ伏せの状態からまったく身動きも取れない。これはもう即刻入院で緊急手術だなと覚悟を決めていたが、検査の結果、実は尿路結石だった。この病気の痛みは半端じゃないと経験者からは聞いていたし、学生の講義でも「あれは痛いらしいよ〜」などと他人事のように教えていたのだが、まさか自分がそれで救急車に乗ろうとは…。
 尿路結石の激痛は本当に半端じゃないことを実感したが、この診断は時として難しく、ある有名な泌尿器科の教授が自分の息子さんの尿路結石を誤診したという逸話もあるくらいだ。その状況も自分がなってみて初めて思い当たる。

 まあ、そんなわけで今回は入院もせず、手術もせず、医師として貴重な体験をして一件落着したが、特に御同輩の皆様も身体には十分お気をつけてお過ごし下さい。


絵描きの心

 私のカミさんは音楽家で、私もその影響で多少はクラシック音楽なども嗜むようになったが、絵画の方はとんと判らない。特に日本画は何だか全然理解できない。そんな私が先日、日本画の展覧会を見に行って来た。それも上野あたりの美術館ではない。わざわざ茨城県の北の端にある天心記念五浦美術館というところである。福島県の勿来のちょっと手前で、上野から特急列車で2時間近くかかる。

 日本画も判らん人間が何を酔狂な、と思われるかも知れないが、ここで平成22年1月から2月にかけて小林巣居人(そうきょじん)という画家の展覧会が開かれていたのである。
 実はこの画家は、私の小児科時代の恩師である小林登教授の父君である。別にかつての恩師への義理で行って来たわけではなくて、まだ私が学生時代に小林教授が画家の父君について語っておられた不思議なことが何十年もひどく印象に残っていて、それを確かめたかったのだ。
 小林教授によると、父君は絵を描くのが苦しくて仕方なかったらしい。自分の作品が後世に残ってしまうのが辛いという意味だったように思う。でもそんなことがあるんだろうか、というのが私が長年不思議に思ってきた疑問である。絵を描きたいから画家をやっているんだろうし、好きで描いた絵が後世に残れば名誉なことではないのか。後世に作品を残したくても残せない者の方が圧倒的に多いのに…。

 その後もず〜っとこのことは頭のどこかに引っ掛かっていた。卒業後もさまざまな文芸や芸術の分野を眺めていると、プロの文筆家の多くも自分の書く文章に悩んでいるというし(少なくとも私みたいにこんなウェブサイトにチャラチャラと軽い文章を書き流したりしない)、カミさんも自分の演奏の音がCDで後世に残ることにどこか躊躇があるらしい。芸術家って本当に変な人たち…。

 そんなわけで今回、茨城県の五浦海岸にある天心記念美術館に出かけてきた。晩年の岡倉天心ゆかりの地と言っても、東京都内からはかなり行きにくい。特急スーパーひたち号が停車しない大津港という駅からさらに2.5キロほど海側へ行ったあたりに立派な美術館が建設されていて、こんな場所にまで誰が来るのだろうと思っていると、これまた不思議なことに、朝9時半の開館時刻直後から、ボチボチではあるが絶えることなく入場者がやって来る。日本の絵画文化もまんざらではないと思いながら、小林巣居人の展示室に入った。

 案の定、私にはやはり日本画は理解できなかったが、他の入場者はおそらく気付かないであろう一つのことに思い当たってハッとした。
 巣居人は太平洋戦争末期の昭和19年前後にも、田園や水郷の生き物や四季の移り変わりを描いたのどかな作品を残している。これが巣居人にとって個人的にどういう時期だったのか、私にはよく判るような気がする。私の恩師の小林教授は、戦後医学部へ進学されて医師になったが、戦争末期には海軍兵学校の第75期生として在校しておられた。卒業すれば特殊潜航艇で特攻、戦死はまず確実という状況だったはずである。
 巣居人は息子を海軍に捧げていた時期にのどかな田園の四季の絵を描いていた。いくら当時はそういう時代だったからと言って、海軍兵学校で教育を受けている息子のことが頭に無かったとは思えない。そんな中で魂の奥底から湧き上がってくる激しい嵐のような創作意欲を抑えきれなかった、息子の身を案じたいという気持ちさえも吹き飛ばしてしまう創作への欲求とは、かくまで苦しいものであったのか、私は初めて小林教授が父君について語っておられたことの意味を理解した。

 そう言えば、芥川龍之介の小説『地獄変』も、創作のために我が娘が焼き殺されるのを平然と眺めていた絵師の物語であった。芸術とは苦しいものなのだなと思う。そうやって苦しんで作り上げた作品が後世に残ることもまた苦しいものか。
(我々医師が書いた診断書やカルテが保存される苦しさとはまた別物のようです・笑)


ここは病理医の独り言の第6巻です    第5巻へ戻る    第7巻へ進む
トップページへ戻る    病理医の独り言の目次へ