川のない橋 (旧帷子橋)

 ここは相模鉄道(通称“相鉄”)天王町駅南口前の旧帷子橋跡です。ここには1964年(昭和39年)の東京オリンピックの頃まで帷子橋
(かたびらばし)という橋が架かっていて、江戸時代には保土ヶ谷宿の近くで東海道が帷子川(かたびらがわ)を渡る東西交通の要所でもあったようです。ここから旧東海道に沿って南へ歩いていくと、JR保土ヶ谷駅を越えたあたりに、参勤交代の大名や、東西を往来する幕府の要人らが宿泊する宿があった本陣跡などの史跡がけっこうたくさん残っています。

 付近に立っていた解説板によると、帷子川もかつては“暴れ川”としてたびたび氾濫を繰り返していたため、昭和38年の決定で流路が駅の北側に変更され、この南口には本来の川は無くなってしまったのです。しかしかつての東海道の歴史を偲ぶ目的で、天王町の南口にはご覧のように江戸時代の木橋をかたどったモニュメントが作られているわけですね。解説板によれば、『新篇武蔵風土記稿』の帷子町の項には、長さ15間(約27メートル)、幅3間(約5.5メートル)の高欄付きの木橋という記載があるとのこと。

 せっかくですから解説板に掲載されていた地図や絵を参照しておきます(下図)。最近各地の名所旧跡に立っている解説板は綺麗ですね。現地にいながら、まるで歴史や地理の教科書を読んでいるようです。

 左側が江戸名所図会に載っている帷子橋だそうです。確かに欄干付きの板敷きの橋が、保土ヶ谷宿の賑わいと共に描かれています。ここは現在では横浜ですが、江戸時代には江戸のうちなんですね(笑)。

 右側が古い流路を重ねた地図ですが、南口に南向きに立っている解説板ですから、普通の地図とは南北が逆になっていて、原図の地名の文字が正しく読める方向が北です。ほぼ左右に走る青いラインが現在の帷子川の流れ、右から左へ流れますが、昭和39年頃までは図で紫色に示したように流れていたようです。なるほど、こんなに曲がりくねっていては“暴れ川”として何度も何度も洪水を繰り返すわけだ。

 そして右側の地図でほぼ上下に走る茶色のラインが旧東海道、これが旧帷子側を渡る地点が最初の写真にお示しした旧帷子橋のモニュメントなのです。この辺は江戸から8里、近くには一里塚の跡もあります。お江戸日本橋を発ってから、品川、川崎、神奈川を経て保土ヶ谷(程ヶ谷)は4つ目の宿場町、江戸から上方へ向かう旅人にとってまだまだ先は長い道中、天気の良い日にはほぼ右手に富士山も望めたでしょう。これから箱根の山も越えてあの山の遙か向こうにある上方まで、現在の我々ならうんざりするような長旅です。

 しかし江戸時代の東西の情報伝達はこの東海道の飛脚や早馬の往来だけが頼り、電子メール一発で東京から大阪の友人に情報のファイルが伝わる時代ではない、仇討ちをいつ決行するか、京にいる大石内蔵助と江戸表の赤穂浪士たちの間で、よくそんな切羽詰まった情報交換が成り立ったものだと感心しますね。そんな話も別のコーナーに書いたことがあります。



 さて話は変わりますが、もはや川は無いのに橋がある、旧帷子橋のモニュメントをご紹介しましたが、ここで私は『橋のない川』という住井すゑさん原作の小説を思い出しました。映画化もされましたが、部落差別という日本の恥部とも言える社会問題をテーマにした小説だけに、映画化された当時いろいろ反対運動も起きたものです。

 アメリカ黒人問題など人種差別も根が深いが、部落問題は同じ日本民族同士なだけにさらに厄介な問題があると思います。私は最初“部落”という言葉の意味が分からなかった。部落とは普通の日本語では単に人が集まって生活する集落を意味しますが、何でそれが“差別”と関係するのか、その背景にある社会問題についてまったく無知だったわけです。

 部落問題の存在を知ったのは高校生の頃です。旧制高校についての本を読んでいたところ(『ああ青春 デ・カン・ショ』ノーベル書房1968年)、終戦後日本に進駐してきたアメリカ軍の将校に議論を挑んだ旧制高校生がいたと書いてありました。居丈高な将校に対して高校生がアメリカの黒人問題を指摘したところ、この将校もさるもので、日本にも部落問題があるではないかと切り返してきた、それだけの話なのですが、私にはこの部分の意味が分からなかったのです。部落は人が集まって暮らしている所なのに、何故それが問題になるのか。

 この部落問題論争の箇所が妙に腑に落ちないまま何年も経って、やっと大学生になってから意味が分かったのですが、高校生だった私が部落問題を知らなかったことは果たして恥ずかしいことだったのか。今ではその事を疑問に思います。

 部落問題は日本史の中でもはるか昔、奈良の律令制度以前の時代にまで遡ります。律令国家の下、貴族や豪族などは朝廷から八色の姓
(やくさのかばね)という身分の認定を賜りました。真人、朝臣、宿禰、忌寸、道師、臣、連、稲置の8つで、以前からあったものがこの時代に整理され、さらに時代と共に変遷していくわけですが、それは今回はどうでもよい。朝廷から身分の認定などされない一般の人々はいわゆる“平民”ですが、この人たちも自分は最下等だと思いたくなかったのでしょう。自分たちより身分が下の人間、つまり“賤民”を作り出します。俺たちは貴族や豪族にはなれないけれど、俺たちよりもっと下の人間がいるんだということで安心しようとして“賤民”たちを差別するようになった。つまり貴族や豪族に対するコンプレックスの裏返しと考えれば部落問題は分かりやすいと思います。

 ではどういう人が賤民かというと、時代によってこれもいろいろ変遷しますが、現在いわゆる“3K”と言われるような仕事、すなわち「きつい」「きたない」「危険」の3つ、さらに最近では「給料が安い」「休暇が取れない」「カッコ悪い」の“新3K”も含めて“6K”とも言われるような仕事、各時代でそれに相当するような職業に就いていた人々が賤民として差別されたようです。そういう人々は、自分は“平民”だと思っている人々から阻害され、“賤民”だけが寄り集まった部落で生活していた、本当はもっともっと複雑な要素があると思いますが、うんと簡単に言い切ってしまえば、これが部落差別問題の根本と考えてもよいのではないでしょうか。

 獣の皮を剥ぐような仕事、死体や汚物を処理するような仕事、時代によっては歌って踊る芸能人のような仕事、そういう仕事に就く賤民の概念は律令制度より以前からも存在していたであろうし、江戸時代も士農工商の四民の下にさらに“えた(穢多)”、“非人”という下等の身分があった、日本史の中で連綿と続いてきた主として職業による身分差別は、近代国家となった明治時代以降も残ります。そういう賤民たちの住んだ部落に生まれた者たちは、明治、大正、昭和の世になってもまだ平民たちから差別され続けました。

 そういう部落差別の歴史を知らなかった高校時代の私は、果たして恥ずかしいのでしょうか。汚物を処理しようが、獣肉を加工しようが、誰かの下請けをしようが、他にどんな仕事をしていようが、同じ人間同士ではないかと愚直に信じていた私は、果たして恥ずかしいのでしょうか。「差別してはいけない」と考えるより前に、人々の間に“差”があると思わなかった、つまり差別するとかしないとか、そういうことさえ意識に上らなかった高校生の私は、果たして恥ずかしいのでしょうか。

 人と人の間に“差”があることを知った時から差別が始まる、もっと救いの無い表現で言えば、差別してはいけないと思った瞬間から差別が始まる。自分には差別の心は無いと思った時には、すでに誰かを差別していると言ってもよい。

 人と人の間に差があるとすれば、自分は少しでも上の方へ逃げたい、それが人間の弱さです。貴族や豪族はすでに自分が平民より上にいることが分かっているから、彼らには誰かを差別する心は必要ありません。ところが平民はうっかりすると自分が最下等になってしまうから、何とか逃れようとして自分より下の階級を見下して差別してしまう。平民は自分が助かりたい一心で賤民を差別しているわけだから、賤民の側にとってみれば、絶対に平民が自分たちを受け入れてくれるはずがない。平民と同じ側に行きたいけれど、そこには“橋”が無いのですね。それが住井すゑさんの小説『橋のない川』のタイトルの意味だと思いますし、差別問題の難しいところでもあるわけです。政治闘争や人権論議だけで解決できない人間の根源的な弱さでしょうか。

 『南太平洋』というミュージカルの中に、『魅惑の宵』とか『バリ・ハイ』のような有名な曲とは別に、もっと地味な『注意深い教え(You've Got to Be Carefully Taught)』というナンバーがあります。フランス人の地主と恋に落ちた従軍看護師は、彼が島の有色人種の先妻との間に子を設けていたことに嫌悪する、海兵隊中尉も島の有色人種の娘からの求婚を拒絶してしまう、2人とも人種差別から相手を傷つけてしまったのだが、看護師に逃げられた理由を理解できないフランス人に対して、差別は生まれつきのものではない、成長するにつれて周囲の大人たちから念入りに吹き込まれてしまうものだ、と言って中尉が歌うのがこの歌です。

 物心ついた時から世間の大人たちは、自分と異なる人たちを憎むように、恐れるように、怖がるように、慎重に教え込んでしまうのだよ、という歌詞こそ差別の原因そのものかも知れません。もちろん大人は子供たちに対して「差別しろ、あの人たちに近づくな」と直接教え込むわけではありません。むしろ大人たちの持っている無意識の恐怖が、知らず知らずのうちに子供の心にも忍び込んでいくのだと思います。

 人種や職業や家柄による差別だけではありません。2011年の東日本大震災に伴う原子力発電所の事故で、やむを得ず他の地域に避難して転校せざるを得なかった福島県の学童たちがイジメに遭った話を聞いたことはありませんか。「キモい」「放射能が伝染する」などと言って地域の子供たちは転校生をいじめたそうです。彼らの保護者たちが原発事故のニュースを見ながら、放射能汚染は恐いね、などと何気なく話していた会話が、子供たちの心の中で潜在的な恐怖となって増幅され、転校生に対する謂われのない差別に結びついたと言えるのではないでしょうか。

 また大人たち同士の間でも、原発避難地域の人々に対する差別や偏見からくるイジメがあるそうです。この人たちは事故によって国家や電力会社から莫大な補償金を貰っている、もちろんそんな補償金を貰いたくて貰ったわけでないことくらい理性的には分かっているはずですが、そういう不労所得を手にした人々への本能的、根源的な羨望が恐怖や憎悪に変わり、避難地域の人々に対する差別的な発言や態度として表れてしまうのだと思います。

 人種、国籍、出自、職業、性別、健康状態などによる目に見える差別は、私が子供の頃に比べるとずいぶん少なくなってきていますが、それはやはりさまざまな政治闘争や人権論議の一定の成果と見るべきでしょう。人間は誰でも同じ権利を持っているから差別は悪いことなんだという社会規範が整ってきたわけですが、最近の学校や会社でのイジメや、原発避難地域の人たちに対するイジメを見れば、何が差別の引き金になるか分からないし、そうやって差別された人々にとっては、もはやその差別の川を渡って向こう側へ渡る橋も閉ざされてしまう。職場や学校での自殺のニュースなど聞くと本当に痛ましいです。

 旧帷子橋を見ていると、一見して川は無くなったように見えても、やはり向こう側へ渡る橋だけは人の心の中に残しておかなければいけないのだと改めて痛感しました。ちょっと重いテーマでした。


         帰らなくちゃ