『ワンピース』に託す日本の未来

 しばらく前に別のコーナーで『ワンピース』という最近の漫画を紹介して、こんなサイトに子供向け漫画を仰々しく取り上げるのもヤボな話と書いたが、どうも震災後の日本を見ていると、この漫画が無事に完結できるかどうかに日本の命運がかかっていると思えて仕方がない。そしてこの漫画の最大の読者である若者たちはそのことに気付いておらず、それどころか作者の尾田栄一郎さんの願いとは正反対の道を選ぶ可能性すらあるので、敢えて再びこちらのコーナーに取り上げる。

 この漫画のストーリーの進行を追っていくと、主人公の少年海賊ルフィ一味が“偉大なる航路(グランドライン)”に入って伝説が始まるのが第100話、強敵の中で仲間たちがいったん散り散りになった後に再集結して新たな船出をするのが第600話と、物語の節目がちょうど大台の数字に一致している。この作者の天才的な演出から考えればこれは単なる偶然ではなく、おそらく第1000話をもって大団円の完結に持っていくつもりだと思っているが、これから第1000話までが連載される今後数年間こそ、奇しくも日本が未曾有の大災害からどのような姿で立ち直って行くかが決まる重大な時期でもある。

 読者の若者たちに、「あなたはあの漫画の登場人物たちの中で、どの人たちと同じ生き方をしたいか」と質問すれば、ほぼすべての者が海賊ルフィと答えるだろう。しかしあのルフィの生き方が、これからの日本の中でいかに困難と危険を伴うものか、いかに勇気を必要とするものか、そしてあのような生き方の出来る者がいかに貴重な存在となるか、たぶん今は誰も気付いていないに違いない。

 読者諸君の大部分は、いろんな登場人物たちの巻き起こす事件をハラハラしながら見守る一般大衆として生きるだろう。そして心の中ではあのストーリーの中の“海軍”を応援することになるだろうし、少し気概のある者は自ら“海軍”に志願して“海賊”と戦うことに誇りを見出すことになるだろう。

 あの漫画の中の“海軍”は、小林多喜二の『蟹工船』の最後に出てくる帝國海軍の水兵たちに相当する。洋上の閉鎖空間である蟹工船内で資本家に搾取される労働者たちがついに過酷な待遇にたまりかねて起ち上がる、やがて帝國海軍の駆逐艦が蟹工船に接近してくる、起ち上がった労働者たちは、海軍は国民の味方と信じていたから、悪い資本家を成敗して自分たちを助けるために来てくれたのだと思って歓声を上げるが、移乗してきた海軍の水兵たちは争議の中心人物を拘束して連行してしまう。

 『ワンピース』の中の“海軍”も「正義」と大書されたマントを着用しているが、その“正義”とは国家の秩序を保つためのものだ。深く物事を考えずに毎日を暮らす一般大衆は、国家という秩序の枠からはみ出さない限り、その身の安全を保証されているわけだから、確かに国家を守ることは“正義”であり、そのための“海軍”でもある。

 しかし『ワンピース』でこれまで連載されてきた話の中ではまだ詳細に語られていない勢力が幾つかある。“海軍”を配下に治める“世界政府”の中枢、さらに“世界政府”からあらゆる特権を認められている“天竜人”と呼ばれる支配階級…。
 尾田栄一郎さんがこれらを最後まで描ききれれば日本は大丈夫だろう。さまざまな既成の価値観から束縛されることなく、あらゆる立場や身分の人々を差別なく受け入れ(差別もまた既成の価値観の一つ)、その上で自らの感性を信じて正しいもののために全力を尽くせるルフィのような人物の存在を許容できることこそ、日本という国が未来に向けて起ち上がるエネルギーとなるからだ。しかし“世界政府”や“天竜人”にとってルフィのような存在は許せない。

 震災後どんどん悪い方向に進んでいるように見える日本、政治家は権力争いするばかりで頼りにならんし、マスコミは(おそらく政府の情報操作の意を汲んで)悲惨な情報は隠してオナミダ頂戴の美談ばかり意識的に流すようになったし、いずれこのまま行けば国粋主義的な極右勢力が台頭することになるだろう。そして極右が天下を取った国家が永続することはない。それは歴史が証明している。
 ルフィが時代の変動の中で押し潰されてしまうかどうか、今後の日本の行方を占うものとして特に注目している。



本当に良いの?

 6月18日の海江田万里経済産業相の原発再稼働発言に引き続く形で、7月に入ってから、佐賀県の玄海原子力発電所をはじめ、現在福島原発事故の影響で停止している各地の原子力発電所の再稼働に向けた動きが公然と見られるようになった。政財界の主流はとにかく原発を再稼働して電力を確保したいという意向があることは事実だろう。

 ただ本当にそれで良いの?
「良いの?」というのは、それを大人たちが決めてしまって良いの?という意味である。

 私自身の赤裸々な生物学的欲求を言えば、私の老い先で経験する数少ない真夏には、今までのように心置きなくエアコンで涼みたい。私の自宅はエアコン壊れているが、真昼の職場で34度以上の高温下で汗を拭き拭き講義の準備などしているのは辛い。でも我慢している。
 自分のことはさておいても、長年病院で働いてきた経験から言えば、これだけ医療技術が発展して、昔なら助けられなかった患者さんの生命も救えるようになった背景には、やはり豊かな物資と共に豊かな電力エネルギーがあったからだ。極小未熟児1人助けるためにどれほど電力が必要だったかを見てきた私にはよく理解できる。

 原発を動かすか停めるかという判断は実は大変なジレンマを含む問題なのだ。もちろん今度もう一度原発が事故を起こしたら日本はもう立ち直れないだろうし、政治も産業もガタガタに崩壊するに違いない。再稼働を主張する人々は、そうならないようにすると言うだろうが、そんな口先の説得など無意味なことは福島で実証されてしまった。

 進むも地獄、退くも地獄ならば、その決断はもう40歳以上の人間がなすべきではないだろう。40歳代50歳代になった人間のエゴイズムが関与して良いのか?39歳以下の日本人だけで国民投票するべきではないのか?
 若い人たちの総意で、原発再稼働と決まればそれで良い。どこかの原発が爆発して日本が滅びようが、若年者に悪性腫瘍が多発しようが、先天異常を持った赤ん坊(本当はこの子たちには何の罪も責任もない)が大勢生まれてこようが、それはある意味で次の日本の主人公たちが選んだ結果なのだから…。

 しかし前の世代のジジイやババアが死ぬまで贅沢な電化生活を満喫したいとか、株価が下がって景気が悪くなっちゃ困るとか、そんな身勝手な理屈に付き合わされて次の世代が尻ぬぐいをさせられるんじゃたまったもんじゃなかろう。
 私は原発再稼働の可否は30歳代以下の国民投票で決めるべきだと思う。若い者なんかに国家の大事を任せられるか、などと偉そうに言う老醜の輩は、もう坂本龍馬などの歴史を語る資格はない。龍馬が何歳で日本の将来の舵を取ったと思っているのか!



安全なる航海を祈る


 最近劇場公開されたアニメ映画『コクリコ坂から』は、スタジオジブリの作品にしては題材が地味だが、ジブリ通のファンの間ではなかなか好評のようである。私自身の中でも聖蹟桜ヶ丘を舞台にした『耳をすませば』と並んで、高い評価を与えたい作品であるが、その内容についてはまだご覧になっていない方々にネタバレしてしまうので、ここでは触れない。

 この映画は1963年、東京オリンピックを翌年に控えた横浜を舞台にしていて、かつて船乗りに憧れた私としては、ほのぼのしたストーリーを別にしても、何だかとても懐かしかった。

 船舶同士は、まだ無線通信の発達していなかった時代の名残で、互いに世界共通の国際信号旗で合図を送り合うことがあり、この作品の中でもそれが重要なモチーフになっている。
 国際信号旗とはアルファベット26文字と数字10文字にそれぞれ相当する36枚の旗と、3種類の代表旗と呼ばれる旗、1種類の回答旗の合計40枚のカラフルな旗のセットで、船舶はこれらを組み合わせて意志を通じ合わせる。

 詳細はあまりにマニアックなのでここでは省くが、『コクリコ坂から』の映画の中では、主人公の少女が海に面した家の前の旗竿に、右に示すような国際信号旗“
”と“”を毎朝掲げる。なぜこの旗を掲げるかは映画を観てのお楽しみだが、この2枚の旗の組み合わせUWは、国際信号で
安全なる航海を祈る(ご安航を祈る)」
を意味する。

 私も昔、船乗りに憧れていた頃は、こういう信号旗の意味も少しは覚えていた。1968年前後のことで、この映画の舞台となった時代より数年ほど後のことである。
 ちょっと前置きしておくが、私は映画『コクリコ坂から』はなかなか出来映えの良い名作だと思ったし、難癖をつけるつもりは毛頭ないが、あの時代に船乗りに憧れたマニアックな男としては、この小道具にほんの少しだけ違和感を覚えたので、文献などをご紹介しておきたい。

 国際信号旗は時代の要請に応じて何度か改訂を繰り返しており、最初にアルファベット旗が制定された当時は母音の
の8文字は無かったらしい。母音を入れると、禁断の下ネタ言葉も出来てしまうからで、下品な単語が伝統ある大英帝国の軍艦のマストなどに翻っては困るという理由だったそうだ(笑)。

 ところで映画の中で掲げられる
UW旗は、現在の国際信号旗で「安全なる航海を祈る」を意味するが、この意味が定められたのは1969年の改訂のことである。それ以前は1932年に制定された古い信号書が使われていて、これによれば「安全なる航海を祈る」はWAYの3文字信号であった。つまりあの映画の舞台となった1963年には、主人公の少女はUWではなく、WAYを掲げたはずなのである。

 別に小物の時代考証に多少の誤りがあっても、あの映画の作品としての価値にいささかも影響はないし、現在の港に出入りする船舶がすべて
UWを掲げている以上、主人公がWAYの信号旗を掲げたら、マニアックでない大多数の観客にとっては却って意味が判らなくなってしまうだろう。
 この件に関して、『世界の艦船』1982年6月号の田中航氏の記事の一部を引用しておく。

 
すでに述べたように、現用の国際旗旒信号には、3字信号は医事通信以外にはなくなってしまった。しかし、以前は3字信号の一般通信文があり、中でも船乗りに最も親しまれていたのは、WAY(ご安航を祈る)の信号だった。広漠たる洋上でたまたま日本船がすれ違う時には、どちらからともなくこの信号を掲げたものである。まして相手が同じ会社の僚船であり、しかもこちらは往航、相手は帰国の途にある時などは、われも人の子、この信号に万感の想いが湧くこともあった。時にはOVG「ありがとう」も掲げる。同じ内容で、現在はUWというのがあるが、3字信号に永年馴染んできた年配の船員諸氏には、ややもの足りないのではなかろうか。急激に発達した無線通信に押されて、旗旒信号は衰退気味であるが、そこにはまた独特の捨てがたい味わいがある。

 
現在危機的状況にある我が国に対しても、安全なる航海を祈りたい。そんな想いを込めて記事を書いてみた。


補遺
 右は一昨年の海上自衛隊観艦式に招待された時に撮影した写真で、護衛艦まきなみ艦橋上の国際信号旗が格納されている場所である。ここを文字通り、“旗甲板”とも呼ぶ。

 艦船同士の意志の疎通に国際信号旗が使用されることは上に述べたとおりだが、もう一つ、洋上での旗による意志伝達方法に、お馴染みの手旗信号がある。
 信号員が両手に小旗を持って、それを上げ下げする動作や姿勢で文字を表すもので、この手旗信号について面白い話を聞いたのを思い出したので、ここに書き足しておく。

 私が医学部の学生時代、小児外科を講義して下さった
石田正統教授は、私の高校の先輩でもあったが、戦争中は海軍の軍医だったそうで、次のような話をされたことがある。
 艦隊の中でも駆逐艦や小艦艇などでは軍医が乗っていないこともあり、作戦行動中にそのような小艦に病人が発生すると、戦艦や巡洋艦などの大艦に乗っている軍医が、相手の艦の衛生下士官などに指示して治療を施すことがあり、そのような時に手旗信号を介して医学的な会話をやりとりされたことがあったらしい。現代の艦艇なら無線通信だけでなく、動画の映像なども送って指示を出せるのかも知れないし、艦載ヘリコプターで患者を軍医のいる艦船まで運ぶのもわけないであろう。



喉元過ぎれば

 今年(2011年)も暑い夏が過ぎて、空を見上げれば湿気をたっぷり含んで膨らんだ夏の雲のはるか上空に、刷毛で描いた薄絹のような秋の雲が広がっている。今年も太陽は赤道の線まで押し戻され、間もなく秋分の日…。

 思えば半年前の今年の春分の日は、未曾有の大震災の直後だった。もうあれから半年も経ったのか。特に原子力発電所までが事故を起こして電力危機に見舞われた春から夏にかけての半年間の節電生活が頭を過ぎる。
 駅も百貨店も役所も病院も、エアコンの設定は28度、余分な照明も全部落として薄暗い、私の職場も、窓の無い廊下は昼間でも真っ暗で、すれ違う職員同士の顔もまったく見分けられない状況だった。

 贅沢に慣れきった日本人もそのくらいの耐乏生活を経験した方が良いと思っていたら、先日の電車に乗ったらものすごく冷房が効いていて、セーターでも着なければ風邪を引きそうだった。いや、電車に限らず、デパートに行っても、スーパーやコンビニに行っても、喫茶店に行っても、そんなに涼しくしなくても大丈夫と言いたいくらいギンギンに冷やしまくっている。

 いったい日本人はこの半年間に何を学んだのか?どうせまた今年のクリスマスから年末にかけても、華美なイルミネーションで客寄せをするんじゃないのか。
 そう言えばこの夏休みも、電力無駄遣いが分かりきっている“24時間テレビ”などという商業主義に毒された企画が行なわれ、全国で何十万人もの人が一晩中電気を煌々と灯して、眠くても頑張るぞというスタッフの根性だけが売りの番組をつけっ放しにしていたのだろう。
 エアコンを切るよりもテレビを消した方が節電効果があるかも知れないのに、現代の独裁者とも言える“テレビ局様”のご意向に反することは誰も表立って言えなかった。

 地震に伴う津波で原子力発電所が壊れて放射能が漏れた、地震国日本でもうこんなことは御免だと思った国民も大勢いただろうに、世の中はまた震災前の電力浪費社会に戻ろうとしている。こんなことでは原子力発電所再稼働を企図する政治家や財界人や電力関係者たちは、間もなく労せずして国民を意のままに動かすことができるようになるだろう。
 自民党も民主党も頼りない現在、同じような構図で次の戦争への道も、間もなくレールが敷かれてしまうことになるだろう。喉元過ぎれば熱さを忘れる、とはよく言ったものだ。



栄光の日々

 今年(2011年)は久し振りに体育の日が本来の10月10日になった。以前もこのコーナーに書いたが、体育の日は1964年に開催された東京オリンピックを記念して制定された祝日であり、あくまでもあの華やかな開会式が秋空の下で行われた10月10日以外であってはならない。

 しかしそれはともかくとして、もうあの東京オリンピックを特別な感慨をもって覚えている世代も少なくなった。私が物心ついて以来、印象に残っているオリンピックと言えば、東京大会の1つ前、1960年のローマ大会であるから(その前のメルボルン大会はまだ小学校入学前)、それから逆算すれば、東京オリンピックを懐かしく回顧するのは、もう50歳代後半以上の方々でしかないということだろう。

 それもともかく、1964年の東京オリンピックこそは戦後日本の栄光の日々の始まりであったことだけは確かだと思う。これも以前このコーナーに書いたが、東京オリンピックまでの昭和30年代の日本はまだ世界の片隅にひっそりと佇む貧しい国だった。
 それがオリンピックを境に、経済面でも技術面でも、とにかく軍事面以外の多くの分野で世界をリードする先進国家として躍進した。まさに戦後日本の黄金時代、栄光の日々であった。
 最近世界中の科学者や科学マニアの注目を浴びた小惑星探査機はやぶさや月面探査機かぐや、あるいは世界中から頼りにされるH2Bロケットなどは、その黄金時代の延長線上にある。

 しかし今や戦後日本の栄光の日々も消えかけようとしているのは事実だ。特に今年は東日本大震災や原子力発電所の事故などもあったせいか、そういう想いが強い。自分も還暦の60歳になって人生の終盤に差しかかったという個人的な理由も大きいかも知れない。今年は夏の終わりを告げる空の様子を見ていても、妙に感傷的な気持ちを抑えることができない。

 だが私は絶望的な悲観主義に陥っているわけでもない。
生者必滅…
それは昔からほとんどの人が知っていた絶対の真理であった。すべての人間は、どんな権力者であっても、どんな金持ちであっても、善人も悪人もいつか必ず死ぬ。

 国家も同じであろう。何世紀にもわたって同じ形で繁栄し続けることはできない。強大なローマ帝国もいつか世界史上から姿を消し、超大国アメリカも今や経済破綻の危機にさらされている。
 東京オリンピックからつい最近まで続いてきた戦後日本の栄光も例外ではなく、もはや昔のままの輝きを取り戻すことはあるまい。鎌倉方に捕らえられた静御前の歌が思い出されるが、いつまでも
賤の苧環(しずのおだまき)をクルクル回していたって始まらない。
 
しずやしず しずのおだまき繰り返し 昔を今になすよしもがな

 東京オリンピックを知らずに生まれて育ってきた世代の方々がこれから進むべき方向、それはかつてのローマ帝国が教えてくれるのではなかろうか。確かにローマ帝国は世界史上から姿を消した、しかしローマ帝国の文化的、精神的遺産は現代に至るまで脈々と受け継がれている。つまり発展的解消というやつである。
 おそらく日本だけでなく、アメリカもヨーロッパも、もしかしたら中国も、100年後には消滅している可能性の方が高い。それは20世紀初頭に至るまでヨーロッパに強大な力を及ぼしていたハプスブルク家でさえ半世紀後にはもう、歴史の登場人物としての実体は無いに等しかったことを見ればわかる。

 ローマ帝国もハプスブルク家も実体は消滅した。しかしその中核にあった本質的な文化や精神は人類の歴史の中に脈々と流れており、我々の日本もいずれその道を辿らなければならない。
『がんばろう日本』『支え合う日本』
そのスローガンを狭義に近視眼的に解釈してばかりいてはいけない。再び産業を復興させて世界の経済大国に返り咲く、それを目指して当面は全力を尽くすのも悪くないが、もうそろそろその先にあるものも見据えていく必要がある。
 ローマ帝国やハプスブルク家の“栄光”も今なお光を失ってはいない。



昔は無かった物

 いよいよ東京スカイツリーも外観はすっかり完成して、東京の随所でその姿を目にするようになった。久し振りに都内のどこかに行って、かつて見慣れた街並みの向こうに、巨大なタワーが遠景としてニョッキリ威圧するように聳え立っているのを見ると、思わずギョッとしてしまう。

 これは昔は無かったもの、まだ現在の時の流れに溶け込んでいない異質なもの、そういう印象が強い。パリのエッフェル塔もそうだったのだろう。1889年のパリ万博のために建造されたエッフェル塔も、計画当初は多くの市民たちが猛反対したらしい、あんな鋼鉄剥き出しの塔が建ったら、せっかくの芸術の都の街路の美観が台無しになってしまう、と…。東京スカイツリーを見ていると、当時の反対派だったパリ市民たちの気持ちもわかるような気がする。

 小説家のモーパッサンがエッフェル塔反対の急先鋒であり、塔の完成後は、パリ市内で醜いエッフェル塔が見えない唯一の場所であるエッフェル塔に連日通った話は別のコーナーに書いたが、エッフェル塔にしろ、東京スカイツリーにしろ、こうやって古き街並みの景観を破壊しながら、やがて市民たちにも受け入れられていくものなのだろう。それが街並みの歴史である。
 東京タワーもそうだった、霞ヶ関ビルや池袋のサンシャインビルや新宿西口の高層ビルもそうだった。そもそも街並みの景観などと言い出したら、江戸時代の古き街並みなどはどこへ消えたか、洋風造りのモルタル住宅が一面に建ち並ぶ世の中から、たちまち2階建て3階建てのアパートやマンションが増えてきて、やがて庶民の住宅の10階建て20階建てマンションも珍しくなくなった。

 時代の変遷とともに景観はどんどん変わっていくものだが、いつも目にするたびに、もう少し何とか考えられなかったのだろうかと残念に思うのが下の写真である。
 大学受験雑誌の表紙やグラビアなどでお馴染み、東京大学の安田講堂である。安田財閥の安田善次郎氏の寄付で1925年に完成した由緒ある建物で、昭和の全期間を見守ってきた歴史を持つ。私たちの世代の歴史で言えば、昭和43年の東大紛争で全共闘の過激派学生に占拠され、その翌年の東大入試が中止になるという異例の事態に発展した。ちょうど私が高校2年生の時であった。

 この2枚の安田講堂の写真、実はまったく同じものである。ある時、久し振りに安田講堂へ行ってみたら、何とその背後にガラス張りの理学部の新校舎が出来ているではないか。こんなに違うデザインの建造物を、こういう歴史的な建造物の背後に建てるのか…!それが左の写真である。
 昔は無かったもの、歴史的な景観を守るつもりならば絶対にあってはならぬもの、あまりの違和感を覚えたので、ちょっとジャマな建物を消してみた。(理学部の皆さん、ごめんなさい…)
 それが右の写真、昔の受験雑誌や参考書には、このアングルで撮った写真も多かった。しかし現在は、背景が写らないように時計塔の真下から見上げるように撮った写真がほとんどのように思われる。



2つの大戦争

 今年(2011年)は真珠湾攻撃70年ということで、12月7日(日本時間8日)には現地ではいろいろ記念式典などもあったと聞く。そう言えば、真珠湾攻撃60年目の節目だった10年前の2001年は、あの“悪名高い”アメリカ映画『パールハーバー(Pearl Harbor the Truth)』が封切られ、真珠湾在泊中の空母甲板上で高官などを招いた試写会が行なわれた、などというニュースもあったのを覚えている。
 あの映画は、史実を曲げてまで必要以上に日本軍を悪玉扱いし、沈没艦の溺者に対して執拗な機銃掃射を加えたとか(これはむしろ戦艦大和の漂流者に対して米軍艦載機が行なった行為)、ホノルル市街地にも攻撃を加えて多数の市民を殺傷したなどというシーンが随所にあり、日本での評判はまったく芳しくなかった。

 それはともかく、あれからもう10年が経ったのかという思いが強い。本当に10年などという歳月はあっと言う間に過ぎてしまうものだが、真珠湾攻撃からその10年後に生まれたのが私たちの同期生である。だから私たちの世代からは、太平洋戦争とはかなり肌身に近く感じられる歴史的事件だった。
 戦争映画の日本の軍用機が墜落するシーンで映画館内から悲痛な声が上がったり、街を歩けば傷痍軍人が物乞いする姿も見られた。また別のコーナーにも書いたが、陸海軍の衛生兵上がりのニセ医者事件も時々報道された。要するに私たちの1世代前の人たちの戦争だったのである。

 ところが現在の私の学科の学生さんたちは、真珠湾攻撃から50年くらい経ってから生まれている。これを逆算してみると、私たちの世代から見た日露戦争と同じことになる。私は歴史や戦記を読んでも、日露戦争はずいぶん古めかしい戦争だなという実感を持っていたが、たぶん学生さんたちの世代は、太平洋戦争をそのように捉えているのかも知れない。
 これが歴史の風化というものなのか。私たちの生まれた時代には、すでに日露戦争は風化していた。少なくとも書物の中の出来事でしかなかった。その時代を生きた人たちの実像にじかに接する機会はまったく無かったのだから…。

 私たちもまた米ソの冷戦時代を生きた。ソ連がキューバにミサイル基地を建設しようとした1962年などは、本当に世界核戦争が勃発する一歩手前だった。まだ人生が始まったばかりなのに、水素爆弾の犠牲になって死ぬのかと恐怖に震える日々が続いたが、やがてその時代も過去のものとなった。1964年の東京オリンピックでようやくその緊張も解けたような気がする。

 その後の日本は国家間戦争などまったく意識することなく国際社会を生き抜いてきた。だから最近の若者たちは、もしかしたら日本が今後も戦争に巻き込まれる可能性があることなど考えたことすら無いのではなかろうか。現在の国際テロの横行も、世界経済危機も、各地の領土問題も、いずれ日本も含む2国間、3国間、多国間の戦争に発展することがあり得る。その危険性を十分認識してこそ、そういう危機を回避する道を模索することが出来るのではないか。


 話は変わるが、今年は日露戦争を描いた司馬遼太郎さん原作の年末NHKスペシャルドラマ『坂の上の雲』がいよいよ最終章を迎える。日本海海戦などのスペクタクル映像も楽しみだが、CG映像技術が無かった頃はテレビドラマで近代戦争物を制作することなど不可能だった。だから大河歴史ドラマも源平時代か、戦国時代か、江戸時代か、幕末か、せいぜい弓矢鉄砲と騎馬戦の時代しか舞台にできなかったが、今度の『坂の上の雲』では巨大な軍艦のシーンなど盛りだくさんだ。昔なら東宝の円谷英二特技監督あたりが金をかけて制作しなければ見られなかったシーンである。

 どうせなら年末だけと言わずに、3年間150週ぶっ続けでじっくり見せて欲しかった。やはりテレビドラマとなると時間的な制限が大きいようで、今回の放映でも、秋山真之の人生観を変えるきっかけとなった黄海海戦の“運命の一弾”の話や、ロシアとの機雷戦で連合艦隊が戦艦2隻を一挙に失う話など、原作ではけっこう重要なキーになっている内容がカットされてしまっている。
 おそらくこれは年末封切りの東映映画『山本五十六』も同じであり、山本五十六と日米戦のいきさつを2時間程度の映像にまとめることなど不可能なはずだ。若い人たちはこういうドラマや映画を見たら、原作はもちろん、ぜひいろいろな著作や文献を読んで幅広い知識の裏付けをしておいて欲しいと思う。それだけが次の国家の危機を防ぐ力となるだろう。



日本人の危機管理意識

 最近また海人社から『世界の艦船』増刊号として『日本巡洋艦史』が発売されたので、早速購入してパラパラと写真ページをめくっている。巡洋艦と言えば戦艦より小さく、駆逐艦よりは大きい軍艦で、維持経費や運航燃費などを考えればそれなりの威力もあるから、各国海軍にとってかなり重宝な艦種だったのではないだろうか。旧日本海軍は主力艦である戦艦を補助して艦隊決戦に臨むことを前提として巡洋艦を開発したが、イギリスやオランダの海軍は世界中に広がる植民地を防衛・管理することを第一目的としていたと言われる。

 だからヨーロッパ諸国の巡洋艦は、祖国を離れて長期間にわたって行動する必要上、乗組員の居住性に配慮していたが、日本の巡洋艦は太平洋を来航する敵艦隊を迎撃する“準戦艦”としての機能を重視して、居住性など二の次、とにかく重武装一点張りの軍艦だった。
 別のコーナーでも少し書いたが、昭和12年の英国キングジョージ6世の戴冠式で訪欧した妙高級巡洋艦「足柄」を見て、列強の海軍関係者は“飢えた狼”と評した。ある英国海軍将官などは「あれこそ軍艦(warship)だ、妙高級に比べたら我が英国海軍の巡洋艦は客船(hotel ship)だ」と嘆いたという話も伝わっている。

 さてその妙高級に続いて計画された高雄級の重巡洋艦だが、これは現在でもファンの多い帝国海軍の軍艦の一つである。城の天守閣のような重厚な艦橋や、後方に傾いた巨大な第一煙突と直立した華奢な第二煙突の対比など、高雄級巡洋艦のシルエットは艦船マニアにとって非常に魅力的だ。
 当時の軍国少年にとっても憧れの的だったであろう高雄級巡洋艦を、岩田豊雄(獅子文六の本名)は小説『海軍』に登場させている。海軍兵学校への夢を断たれた牟田口隆夫が失意の中で訪ねた久里浜海岸で、目の前を高雄級巡洋艦が通過して行く、それを見て海軍を描く画家になろうと決意する場面だが、私も視力が悪くて海上自衛隊も商船学校も断念した経緯があるので、小説のこの場面は今でも強烈な印象が残っている。

 また高雄級は最初から旧日本海軍の重巡洋艦として計画・建造された最後の艦である。もちろん今回の海人社の本を見れば、高雄級の後にも最上級、利根級の重巡洋艦があるが、これも別のコーナーに書いたとおり、当初はロンドン軍縮条約を遵守するように見せかけて軽巡洋艦として建造に着手された艦である。

 さてその最後の重巡洋艦高雄級についてずいぶん昔に読んだ記憶であるが、駐日ドイツ海軍武官がこの艦に招待されて、「演習用の旗艦としては申し分ない」と酷評したという。いかにもドイツ人らしい皮肉だが、私も高雄級巡洋艦のシルエットは大好きだったので、この記事を読んだ時は軽いショックを感じたものである。
 確かに城の天守閣と形容される巨大な艦橋は、実戦ともなれば敵の攻撃目標になりやすく、アメリカやヨーロッパの軍艦など、なるべく艦橋を小さくしようという工夫が感じられるし、1つ前の妙高級や、次の最上級や利根級の艦橋ももうちょっと小振りだ。もちろん高雄級もわざわざ不必要に巨大な艦橋を作って、威風堂々と見せようとしたわけではなかろうが、やはり合理的なドイツ人武官の目からは、日本の軍艦は有事のことを考慮していないように見えたに違いない。

 平時の安穏だけを考えて有事に起こり得べき事態を想定していない、というのは我が国の巡洋艦に限ったことではなさそうだ。津波で原子力発電所が機能停止して大事故を起こしたと聞いた時、私はこの高雄級巡洋艦とドイツ武官の話を思い出していた。
 日本の原発は平時で何事もなく動いている限り、世界に誇る申し分ない施設であった。定期的な安全審査も、なあなあの馴れ合いで済まされていたと報じられていたし、政治家も御用学者も電力会社の幹部もドップリ安全神話に浸って安穏としていた。この発電所で作られる電気のお陰で国民もまた優雅な電化生活を満喫していた。まさに何事も無い平時における申し分のない施設であった。

 軍艦は平時に海軍の将官どもがチャラチャラと権威を飾るための船ではない、戦闘を考えていなければただの客船(hotel ship)も同然だ。原発も自然災害の多い国に作る以上、震災や津波などの非常時を考えていなければいけなかった。
 常日頃から非常時を考えておらず、通り一遍のおざなりな非常訓練しかしていなかったのだろう、震災当日には現場の防災対応が支離滅裂となって大事故につながった経緯が報道されていた。まったく悔やんでも悔やみきれない事態である。日本人は今も昔も、平時に危機をイメージできない国民なのだろうか。



花のお江戸の情報伝達

 富士山を望む関東平野に広がる東京の夕景…、もし江戸時代後期の浮世絵師だった葛飾北斎がこんな景色を見たら、どんな浮世絵を後世に残してくれただろうか。この人があと20年ほど遅く生まれていたら、明治維新直後の東京も絵になったかも知れない。

 東京の夕景を眺めながら、江戸と東京の最も大きな違いは何だろうかと考えてみた。
 確かに街のサイズは約10倍、人口も約10倍、江戸と東京では都市の規模が1桁違っている。また道路や鉄道などの交通、電気や水道や下水やガスなどのライフライン、マンションや高層ビルなどの居住環境など、何を取っても江戸と東京ではあまりにも違いすぎる。

 しかし好奇心旺盛で逞しい生活力を持った300年前の江戸っ子が21世紀の東京にタイムスリップして来たとして、何に一番驚くだろうか。たぶん電気やガスなどの文明の利器にはすぐに慣れるだろうし、すぐに自動券売機で切符を買って電車にも乗れるようになるだろう。

 300年前の江戸っ子がおそらく最もぶったまげるのは、あの富士山の向こう側にある地域との情報伝達距離が非常に近いこと、京都や大阪などとも完全にリアルタイムで情報を共有できること、きっと江戸時代の生活リズムに慣れていた人ならば、東京にタイムスリップして来ても、一生この情報伝達の速さについて行くことは不可能かも知れない。

 今年もテレビ東京の新春ワイド時代劇で忠臣蔵のドラマを放映していたが、忠臣蔵の面白さの一つに、まだ京の都にいる大石内蔵助と江戸表の浪士たちの葛藤がある。京都の大石内蔵助は仇討ちの意図を隠蔽するためにノラリクラリと日々を送っているように見せかける、一刻も早く主君の無念を晴らしたいと血気にはやる江戸の浪士たちはヤキモキして、仇討ち決行を促す書状を送ったりする…。
 よく江戸の浪士たちが暴発しなかったものだと、カミさんもドラマを見ながら驚いていた。テレビや映画では江戸の浪士たちが内蔵助に談判の書状を書くシーンがあると、すぐ次のシーンでは内蔵助がその書状を開いて読んでいる、そしてさらに次のシーンでは内蔵助から自重せよとの指示を受けた江戸の浪士たちがいきり立っている…。

 だが考えてみれば、これらのシーンとシーンの間には、飛脚が江戸と京都を往復するのに必要な時間が流れているのである。どんなに早くても2日や3日はかかるであろう。そもそも浅野内匠頭切腹の知らせが赤穂に届くまでだって、事件後3日はかかっているはずだ。
 事件の第一報はともかく、即刻仇討ち決行の是非に関する江戸と京都との情報のやり取りは、ネットや電子メールに慣れた現代人には到底耐えられるものではなく、あっという間に暴走した江戸の浪士たちが吉良邸“殴り込み”、乱暴狼藉者として取り押さえられて、後世日本人を感動させ続けるお話にはならなかったかも知れない。

 昨年(2011年)9月にニューヨークのウォール街を占拠したデモ隊は、わずか1%の富裕層が富を独占している状況に抗議するために、ネットでの呼びかけに応じて集まったものだという。そしてデモはたちまち全米に飛び火する様相を見せたが、いったん情報網を通じて火がつけば何万という単位の人間がきわめて短期間に結集して動き始めるという現代ネット社会に住む人々の特性をよく示している。

 情報が先方に届くまでに何日もかかることが当たり前だった近世以前の人々ならば、意志を疎通させるために“待つ”ことが出来た。それは美徳でも忍耐力でも何でもない、一瞬で情報が届くことなど想像もつかなかった時代に生きた人々の特性だったのではないか。



秋空のオリンピック旗

 早いもので、「ALWAYS三丁目の夕日」という映画が大ヒットしてから6年以上もの年月が過ぎたが、今年(2012年)の1月、さらに続編が公開された。
 サザエさんや釣りバカ日誌は何十年続いて社会的背景が変わろうとも、それが漫画であるゆえに、お馴染みの主人公たちは年を取らないが、実写版の映画ではそういうわけに行かない。だから私は、この映画の第1作(2005年)に続いて第2作が2007年に公開された時、もうこれが最後であろうと思っていたが、何と今度は「
ALWAYS三丁目の夕日 ’64」と題して、舞台を1964年に移しているらしい。
 当然ストーリーは原作を離れた完全なオリジナルであろうが、1964年といえばあの東京オリンピック、私も何度かこのサイトで触れているが、あのオリンピックの時代の庶民の生活を視覚化して描いてくれているとなれば、これは絶対に見逃すわけにはいくまい(笑)。

 実は2月初頭現在、私はまだ映画を観ていないが、私が一番見たいのは東京オリンピックの開会式で航空自衛隊のブルーインパルスが大空に描いた五輪のシーンである。何しろ当時はデジタルカメラはおろか満足なカラーフィルムもなく、白黒のフィルムでさえそんな“煙”みたいな景色を撮影するために庶民が浪費できるような代物ではなかったから、プライベートな画像としては何も残っていない。あの時、多少の無駄遣いであっても、たとえ白黒写真であっても、あのシーンを撮影しておけば良かったと何十年もの間、どれほど後悔し続けてきたことか!

 一方、市川崑監督の東京オリンピック公式記録映画でも、ブルーインパルスが描いた五輪の映像はほんの一瞬だけ写っているに過ぎないし、他の媒体でもあの日の重厚感あふれる5色のスモークのカラー映像は今まで1枚も見たことがない。それを現代のCG技術でどこまで再現してくれるか楽しみなのである。

 映画のポスターでは、東京タワーを背景にブルーインパルスの飛行機が上向き空中開花(Upward air bloom)という演技をしている図柄になっている。数機の飛行機が束になって急上昇して、上空で花が開くように散開する曲芸飛行だが、もちろんオリンピック開会式の本番ではあの演技はなかった。
 映画の公式サイトの予告編映像のように、国立競技場上空に5機のジェット機がスモークで1つずつ大きな輪を描いていくのだが、あの予告編映像では上空に浮かぶ五輪のスモークの手前をジェット機がサッと横切って飛び去って行く構図になっていたのが少し気になった。

 ブルーインパルスのジェット機が国立競技場上空に五輪を描いた後にどのような飛行をしたか、もう47年以上も昔の記憶を呼び起こして再現してみる。何しろ、オリンピックの競技そのものを観戦する機会には恵まれなかったけれど、あのブルーインパルスの空中演技だけは、東京都区内からしっかりと肉眼で目に焼き付けることが出来たのだから…。

 1964年(昭和39年)10月10日は土曜日だったが、確か学校は朝から休みだったと思う。あの頃は週休2日なんて甘ったれた時代ではなく、いつもなら土曜日の午前中は授業(大人なら仕事)が当たり前の時代だったから、このオリンピック休みはまさに破格と言えた。

 雲一つない秋晴れの青空の下での開会式をテレビ中継(もちろん白黒テレビ)で見ていたが、荘厳なセレモニーも終わりに近づいた頃、ギューンというような爆音に驚いて、2階の窓から南東(代々木の国立競技場の方向)を見上げると、ちょうど5機のF86F戦闘機が5色のスモークを噴き出しながら、五輪のマークを青空に描き始めたところだった。

 とにかくその日は特別な日だったし、あのような曲技飛行を実際に目にしたのも初めてだったから、呆気に取られるというか、まったくの放心状態でブルーインパルスの演技を見上げていた。本当に凄い衝撃(まさにインパルス)だった。
 ジェット戦闘機のスピードを考えれば、時間にしてせいぜい1分間の演技だったろう。ハッと我に返った時には上空にポッカリと5色の輪が浮かんでおり、ブルーインパルスの飛行機はスモークを止めて競技場上空を旋回しているようだった。これからどうするのかなと思いながら見ていると、今度は5機が密集編隊を組んで、今描いたばかりの五輪マークの西側を、再びスモークを吐きながら直線飛行を始めた。五輪の旗の輪郭まで描くのかとも考えたが、余ったスモークをサービスで放出しただけだったかも知れない。やがて一世一代の仕事を終えたブルーインパルスは南西の方角へ飛び去って行った。

 あの日のブルーインパルスは本当は5機ではなく、演技をモニターする6機目がいて、これが先導していたような気もするが、記憶が定かではない。
 上の絵はあの日の南東の空を思い出してパソコンで描いてみたものである。国立競技場のロイヤルボックスは東を向いており、東を見上げてきちんとしたオリンピック旗になるはずだから、輪の順番はこの絵の通りだったと思う。ブルーインパルスはこの五輪の西側に5色の直線を描き添えたのである。

 本当に見事な演技だった。あの東京オリンピックの後、どの国で開催されたオリンピックでも、あれほど見事なアトラクションは見たことがない。ロサンゼルス(1984年)だったかアトランタ(1996年)だったか、アメリカで開催されたオリンピック開会式に飛来したアメリカ空軍の曲技飛行チームは、ただ5色のスモークを引いて直線飛行しただけだった。
「ただ真っ直ぐ飛んだだけでした…。」
気の抜けたようなアナウンサーの実況中継の声を改めて思い出しても可笑しい。あのアナウンサーもきっと東京オリンピック開会式のブルーインパルスとせめて同等の演技を期待していたに違いない。

これはその後チームがんばれ!ニッポン!のフェイスブックで、東京オリンピック50周年を記念して掲載されていた写真、私たちの世代は多くの者がこれを見ると感極まってしまう。

 私は1980年(昭和55年)から3年間、浜松の病院に勤務したが、着任前に1度実地検分も兼ねて乳児検診に行ったことがある。外来で診察していると突然凄まじい爆音、看護師さんに聞くと、ブルーインパルスもよく飛んでますよ、とのことだったので、東京オリンピック開会式を思い出して嬉しくなってしまった。
 浜松勤務中は航空自衛隊の浜松基地の近くに住んだので、ブルーインパルスや他の練習部隊の初等練習機などの離着陸はしょっちゅう目にすることが出来た。しかし翌年の1981年(昭和56年)にはブルーインパルスは松島基地へ移動してしまい、もう訓練風景を見ることもなくなった。時期がいつだったかは忘れたけれど、仕事が終わって早めに帰宅する私の頭上を、ブルーインパルスの飛行機が5機、きれいな斜め横一列の編隊を組んで夕空の中を横切っていった、あれが東京上空に五輪を描いたF86F戦闘機のブルーインパルスとのお別れだった。

 さらにこの翌年の1982年(昭和57年)11月には新装備のT2高等練習機による浜松基地航空祭での里帰り演技中、ブルーインパルスの1機が墜落するという痛ましい事故が起こった。私もその年が最後の浜松勤務だったが、幸いにして出張中でこの惨事を見ることなく済んだのが、思い出の飛行チームに対するせめてもの慰めである。



眠りが怖い

 今年(2012年)の2月22日は私の学科の今春卒業生たちにとって、臨床検査技師の国家試験の受験日だった。早いものでもう3期生を送り出すことになる。
 それはともかく、今年の卒業生たちも国家試験受験準備に向けて、余裕のある者、危ない橋を渡った者などさまざまだったが、今年は試験の日程が迫ってくるにつれて、「夜になって眠るのが怖い」という感想を洩らす者が何人かいた。これまでの卒業生たちからはあまり聞かない言葉だったし、私自身が過去にいろいろな試験を受けた時にも感じたことのない気持ちだったので、どういうことかなと考えているうちに、悲しく切ない話を思い出してしまったので、ちょっと書いておきたい。

 私などは試験が近づいてきても、やるだけの準備は全部やった、という感じでグワーッと爆睡したものだった(笑)。しかしやはりまだ何かやり残した事がある、もっと勉強しておきたい、という気持ちになると、居ても立ってもいられなくなるのかも知れない。試験勉強はどんなに準備しても、もうこれで十分ということはないから、そこを気持ちの上で割り切れるかどうかが問題なのだろう。

 まあ試験勉強ならば、その程度の雑談で済ますこともできるが、私が思い出した悲しい話というのは、十分勉強したかどうかではない、十分生きたかどうかに関わる本当に切ない話だった。
 角田和男さんという元海軍搭乗員だった人の『修羅の翼』(光人社)に、フィリピンの基地の特攻隊員の話が書かれている。特攻出撃を翌朝に控えた搭乗員が、目を閉じるのが怖いと言って、夜になっても眠らずに宿舎の寝床の上で異様な形相であぐらをかいているという話である。特攻隊員たちは誰も同じで、朝になるとニッコリ笑って従容と出撃して行くのだが、前日の晩は皆こういう状態だというのだ。
 まだ20歳前後の若者たち、もうこの世で十分に精一杯生きたなどとはとても言えない年齢である。おそらくあと10数時間もない自分の生命、眠ってしまえば数時間が消えてしまう。せめて最後の“生の感触”をとことん味わい尽くしておきたかったのではないか。彼らの心境を思うととても悲しい。

 もう一つ、人間爆弾と呼ばれた桜花の搭乗員の土肥中尉の話もある。桜花とは一式陸上攻撃機という双発爆撃機の胴体の下に吊り下げられて敵艦隊上空まで運ばれるグライダー爆弾で、いったん母機から切り離されたら、人間が操縦してロケット噴射で一気に加速、そのまま敵艦に体当たりする特攻兵器である。他の特攻機のように機体やエンジンに不調があれば基地に引き返す術さえない。
 しかもこのような特攻兵器を抱えた爆撃機は動きも鈍重になり、母機もろとも敵戦闘機に撃墜されるものの数の方が多く、非常に犠牲ばかり大きい無謀な作戦であったが、司令部の指揮官や参謀どもは自分のメンツが潰れるのを恐れてか、作戦計画の見直しも撤回も行わず、いたずらに犠牲ばかり増やした。桜花攻撃を実施したのは神雷部隊と呼ばれていたが、数百名の戦死者と引き替えに挙げた戦果は、わずかに駆逐艦1隻撃沈だけである。しかもこの駆逐艦は別の特攻機の命中により動力を破壊されて、海上に立ち往生していたところを桜花にトドメを刺されたもので、桜花の特攻兵器としての妥当性を裏付けるものでさえない。

 ところでこの駆逐艦を撃沈した桜花を操縦していたのは土肥三郎中尉という海軍予備士官であり、この方のことは私の子供の頃から少年週刊誌の戦記読み物に讃美されて書かれていた。土肥中尉は出撃待機中は部下や後輩たちのためにさまざまな気遣いを見せており、出撃後は母機の簡易寝台に横になって安らかに寝息を立てていた。敵艦隊上空にたどり着いた母機の機長が揺り起こすと、晴れ晴れとした表情で挨拶をして、そのまま桜花に乗り移り、まっしぐらに“敵戦艦(!)”に突入して、これを轟沈した…。

 停止していた駆逐艦を戦艦と言い換えて、必要以上に特攻隊員を名誉なものと讃美した上層部の狡猾さについては別のコーナーにさんざん書いてきたので、ここでは触れない。ただ土肥中尉が基地を離陸後に敵艦隊上空に到達するまでの何時間かを剛胆に眠って過ごしたという記載について、私も土肥中尉は若いのに精神修養のできた方だったんだなと漠然と思っていたが、上記の角田和男さんの著書を読んでからは、本当の気持ちはどうだったんだろうと考えるようになった。
 20歳やそこらの若者である。数時間後にはもうこの世にいないのである。その数時間を眠って過ごせるものだろうか。母機の機内で眠ったフリをしていたかも知れない。しかし本当に熟睡していたのだろうか。もちろん本人でない以上、私に答は分からない。
 皆さんもご自身で答を探して頂きたい。そして土肥中尉がこの世の最後の数時間をどのような心境で過ごす若者であったとしても、そういう若者を指揮する、指導する、利用する大人たち自身はどのようにあるべきなのか、そこまで考えて頂きたい。



疾風と紫電改

 先日、私の愛車が代々三菱車で、どうも零戦のイメージから抜けられなかったことを書いたが、今回は旧日本陸海軍の戦闘機について、中学校の頃から疑問に思っていたことを書いてみる。
 1940年11月11日夜、イギリス空母の艦載機がイタリアのタラント軍港を空襲して戦艦3隻を撃破、さらに1941年12月8日(現地時間7日)に日本海軍の真珠湾奇襲とそれに引き続く12月10日のマレー沖海戦で航空戦力の優位を証明して以来、各国とも軍用機の増産に拍車が掛かったわけだが、私の子供の頃からの疑問は、航空機、特に制空権確保に最も大切な戦闘機の生産機数に関するものである。

 潮書房の『丸』と言えば、ミリタリーマニアなら知らぬ人はいない軍事専門誌だが、これが時々日本や世界の海軍艦艇や軍用機に関するカタログ的な付録小冊子を付けてくれることがある。最近のこの種の付録小冊子は、紙質も良く装丁も写真も綺麗なのだが、昭和30年代のものに比べると、ある項目に関するデータがスポッと抜け落ちている。
 零戦でも隼でもよいが、個々の機種に関する性能や装備や戦歴に関しては非常によくまとまってきているのだが、その生産機数がほとんど解説されていない。これを見やすい一覧表にして貰えると、当時の大日本帝国の実情がもっとよく理解できると惜しまれるのだが…。

 ちなみに昭和39年の『丸』の付録だった『東西名戦闘機写真集』に記載されている日本陸海軍の主要戦闘機の生産機数を列挙してみる。
【陸軍】
 九七式戦闘機(中島)3,386機
 一式戦闘機“隼”(中島)5,751機
 二式戦闘機“鍾馗”(中島)1,225機
 三式戦闘機“飛燕”(川崎)3,159機
 四式戦闘機“疾風”(中島)3,413機
 五色戦闘機(川崎)384機

【海軍】
 九六式艦上戦闘機(三菱)約1,000機
 零式艦上戦闘機(三菱)10,049機 (他に中島航空機で水上機型にした327機あり)
 局地戦闘機“雷電”(三菱)594機
 局地戦闘機“紫電”(川西)1,009機
 局地戦闘機“紫電改”(川西)416機

 もちろんこの数字の機数だけの戦闘機がすべて実戦に投入できたわけでなく、当時の日本の工業力や戦局を考えれば、実際に稼働できた機体はこれより少なくなると思われるが、この数字は帳簿の上で工場から出荷できた機体の数、言い換えればこれだけの戦闘機を作るための資材と製造工程と工員を確保できたという数字である。

 この数字を単純に比較しただけでも、海軍の戦闘機が完成した数は陸軍の約75%に過ぎない。戦局が傾いて工業資材の調達も滞っていた大戦末期に限ってみれば、さらにその差は顕著である。
 大東亜決戦機として陸軍の期待をになって登場した“疾風”、これは戦後にアメリカ軍がテストして日本最優秀の機体と賞賛した戦闘機だったが、これが3,413機製造されているのに対し、松山基地の343空の新鋭機としてアメリカ機動部隊に最後に一泡吹かせた“紫電改”はわずか416機、その開発母体となった“紫電”と合わせても1,425機しか製造されていない。

 戦前から戦中にかけての陸軍と海軍は互いに仲が悪く、特に陸軍の専横には目を覆うものがあったとされる。ただでさえ不足しがちな航空機製造のための資材も海軍に渡さず、さらに海軍機を製造している工場から優秀な工員を次々と陸軍に徴兵してしまい、そのために海軍機生産にも支障をきたしたらしい。

 国を挙げての大戦争、しかも貧乏国が金持ち国相手に全面戦争をしているというのに、この陸軍の横暴はいったい何だったのか。私は子供の頃から何で乏しい資源をもっとお互いに調整しあって有効に配分できなかったのかと不審に思っていたが、何のことはない、これが今も昔も日本の上層部の姿らしい。
 私の大学は知る人ぞ知る有名な一族経営の大学だが、一族同士だから調整がうまく行ってるかと思うと実はそうでもない。間もなく新しい医療系学部の総合大学棟が完成するが、一番権力のある薬学部が建物のフロアをごっそり先取りし、残りを医学部がこれまたごっそり分捕って、私の学科の学生さんたちは法令で定められた床面積にはるかに足りない実習室ですし詰めになって勉強しなければならず、しかも内部のチェック機能も働かない。まあ、日本陸海軍の資材分捕り合戦みたいなものか。

 日本海軍の方も、陸軍の風船爆弾に潜水艦を貸さず、独自に海軍の風船爆弾開発のための資材を別途調達したというから、お互い様と言うしかないが、日本の上層部は自分のメンツと権力欲しか頭にないのではないか。陸軍の風船爆弾のアイディアに、海軍が潜水艦を出して協力すれば、もっと確実に米本土空襲も可能だったのに、そんな子供でも分かるようなことさえ満足にできない。

 毎日新聞の新名丈夫記者が航空機資材の不適正な配分を指摘して記事にすると、東条英機陸軍大臣の逆鱗に触れて、この記者を一兵卒として徴兵した(大戦末期に例のない老兵である)。
『竹槍では勝てない、もっと海洋航空機の増産を図れ』
とごく当然のことを主張した記者に対して、陸軍が権力をふるって徴兵という子供じみた報復を行なった、いわゆる竹槍事件である。新名記者は海軍の後ろ盾によって間もなく徴兵解除になったが、この時、大正生まれの新名記者を徴兵するのと帳尻を合わせるために巻き添えに徴兵された同年配の老兵たちは、硫黄島に送られて全滅したという。気の毒なことである。



軍艦マーチとオリンピックマーチ

 軍艦マーチの勇壮なメロディーは日本人なら誰でも耳にしたことがあるだろうし、あのメロディーを聞けば、ほとんどの人が“軍艦(護衛艦)”や“海軍(海上自衛隊)”を連想するに違いない。それほどあの行進曲は日本の海上兵力を象徴する名曲となっているが、やはり憲法第9条問題と絡めて、今でもまだ反発を感じる人も少なくないと思われる。
 現在でさえそうなのだから、第二次大戦直後の“敗戦国”としては卑屈なほどこの行進曲の演奏を自粛したらしい。軍国主義の名残を留めるものは国旗の日の丸から国歌の君が代まで、何から何まで排斥しなければ気が済まない者が多い国民の間で、軍艦マーチが生き残った経緯について、谷村政次郎さんという元海上自衛隊東京音楽隊長の方が『行進曲「軍艦」百年の航跡』という著書の中に書いている。

 それによると、進駐軍は特に軍艦マーチを目の仇にしたり禁止したという事実は無く、むしろアメリカの軍楽隊が東京で軍艦マーチを「ピース(平和?)」という曲名で演奏していたこともあるらしい。それをわざわざ日本人の方が、ちょうど現在の日の丸・君が代問題のように、神経質に過敏反応を起こして自粛しているのを苦々しく思っていた有楽町のパチンコ店長が、昭和26年に自宅にあった軍艦マーチのレコードをボリュームいっぱいに上げて街中に流したところ、驚いた所轄警察の警官が進駐軍の憲兵を引き連れて飛んできた、しかし進駐軍の方は単なる行進曲に目くじら立てることもなく、これ以降、進駐軍の“お墨付き”を貰った軍艦マーチのレコードがパチンコ店を中心に全国に流れることになったのだという。その先駆けとなった有楽町のパチンコ店長は復員した元海軍航空隊の歴戦の勇士だったそうだ。

 私が2009年の秋に海上自衛隊観艦式に招待された時も、護衛艦まきなみ艦上での軍楽隊の演奏のアンコール曲目は軍艦マーチだった。ついでに言えば、新生日本海軍とも言える海上自衛隊発足後、そのシンボルとなる旗(自衛艦旗)も軍国主義を離れたいろいろなデザインが検討されたようだが、結局は日の丸から16条の光芒が放たれる旧海軍の軍艦旗しかあり得ないという結論になって、軍艦マーチ共々、日本の海上兵力の象徴として生き残ることになった。

 以上が軍艦マーチの戦後の運命に関する物語だが、もう一つ日本人が誇りとすべきマーチの運命について、ちょっと気になる話を聞いたので書きとめておく。
 私は高校時代音楽部に所属していたが、その時の顧問をやっておられたのが泉周二先生という方であった。戦時中は海軍におられたと聞いたが、出身は慶應義塾大学とのことなので、おそらく予備士官かも知れない。正規の科目としては音楽を担当されていたが、内容はバッハとかヘンデルとか音楽史が大部分で、私はあまり試験で良い点数を貰った覚えはない(笑)。

 そんなことはどうでもいいが、その泉先生が昨年(2011年)の暮れに亡くなられて、お世話になった我々音楽部のOBが現役部員諸君と共に今年の3月25日に追悼演奏会を開くことになり、そのブラスバンドの演奏曲目にオリンピックマーチを入れようということになった。
 というのも、この企画の中核となったOBたちの世代にとって東京オリンピックは在学中の忘れられない出来事であったし、オリンピックの翌年にはすでに学内の定期演奏会や体育祭の入場行進でもオリンピックマーチ(古関裕而氏作曲)を吹奏していた。だから泉周二先生にお世話になった時代を象徴する曲目としてオリンピックマーチを選んだのも自然な成り行きだったのだが…。

 …オリンピックマーチの譜面は現在絶版になっている。自衛隊軍楽隊などプロの吹奏楽団であればオリンピックマーチの譜面は常備されているに違いないが、譜面が販売ルートに無いということは、もうアマチュアの楽団はオリンピックマーチを吹奏しないということであろう。
 何たることか。戦後の混乱期の中で心ある人々が軍艦マーチを守ったことと、あまりにも対照的である。私が何度かこのサイトで書いているとおり、東京オリンピックこそは戦後日本の躍進と栄光の原点、その原点が忘れ去られようとしていることに悲しみと怒りを感じざるを得ない。
 そもそも東京オリンピックを記念する祝日だった体育の日を、本来の10月10日からハッピーマンデーなどというバカバカしい制度に切り替えてしまった為政者どもがいけないのだ。YouTubeにオリンピックマーチをバックに流した東京オリンピックの開会式の映像があるが、選手団入場、聖火点火、若々しい昭和天皇のお姿、そして断片的だがブルーインパルスの空中演技のシーンなどを見ているうちに涙が出てしまった。



日本楽観論への危惧

 ここ数年ほど、電車の吊り広告や新聞の書籍広告で気になるものがある。世界の景気や経済は危機的な状況を迎えつつあるが、アメリカもヨーロッパも中国も潰れていく中で、独り我が日本だけは発展し続けるという楽観的な論調である。
 それらにいちいち目を通したわけではないが、こういう論調の題名だけでも幾つも幾つも見ていると、逆に不安になってくる。これはかつて無敵皇軍を自負した大日本帝国陸海軍と同じ精神構造ではないのか。
 日本の兵隊には大和魂があるから世界一強い、日本の艦隊は月月火水木金金で世界一の猛訓練に励んでいるから負けるはずがない…しかし敗れた。

 まさか大和魂や猛訓練と同じロジックで日本経済が栄華を極めるなどと断じているわけではなかろうが、やはり日本あるいは日本人は他の国々に比べて特殊だから、欧米や中国にも経済的に負けるはずがないと楽観視しているのだったら、それは旧帝国陸海軍の傲慢と大して変わりない。

 最近ある経済界の人が言っているのを聞いたことがあるが、おそらく今回の経済不況はこれまでのものとは決定的に違っている、これまでは国民個人が立ち行かなくなると、国家が福祉主義で補償してくれたから全体が破綻せずに済んだ、しかし今回の経済不況はその国家自体が破綻しているから誰も助けることが出来ないのだそうだ。
 その方のご意見は、まさしく私が以前から漠然と感じていた不安そのものであった。今までは何でもかんでも国家が助けてくれた。しかし国家が個人を助ける財源は、国民個人が拠出する税金であることを皆が忘れている。
 少子化で税を負担する若年層の比率が減ってくるから、ますます国家が破綻する、もっと子供を増やして税負担に耐えられる人口構成を目指すべきだと主張する人々もいるが、それでは今後“少子化対策”のお陰で若年人口が増加してくるとしても、それらの若者たちに就労の場を確保してやれるのか?現状のままでは、若年層からの税収入が増えるのではなく、逆に若年者に対する失業保険手当の方が増えてしまうのではないか?

 昭和30年代頃の若々しい戦後日本では、中卒・高卒の若者たちも経済発展の担い手として“金の卵”とまで呼ばれて大切にされた。ところが現状はどうだ、高等教育を受けて資格を取得した若者も、高卒で働こうという若者も、まるで消耗品扱いである。
 若者を大切にしない国家に未来はあるのか?世界的経済不況の中で、もし日本に欧米や中国よりも有利に作用する因子があるとすれば、それは若者たちを消耗品として扱っても、日本国民はまるで羊のごとく従順で、お上に対して文句を言わない、そのことだけしかないのではないか?

 若者を特攻隊に出しても国民は文句を言わなかった。若者を派遣社員のような消耗品同然の労働形態で働かせても国民は文句を言わない。
 確かに作戦担当者や経営担当者にとっては都合が良いことであろう。しかしそれでは本物の勝利に結びつくどころか、一歩間違えれば奈落への転落でしかないことを、前大戦の歴史は物語っている。



“えんがちょ”の話

 最近面白いと思ったのは、まだ20歳代の学生さんが“
えんがちょ”という言葉を知っていたことである。これを読まれる大人の皆さんの中には、この言葉を聞いて懐かしいと思う方が多いと思われるが、若い世代も知っているとなると、これは何か日本民族の特性と何か関連があるのではないかと思い、ネットで調べてみた。
 それによると、地域や時代によって、“
えんが”、“びびんちょ”、“えんび”などとも言うらしく、最近の子供たちは特撮テレビドラマの影響で“バリヤー(barrier)”と言うらしい。

 最近の子供たちの使う“バリヤー”が最も分かりやすいが、要するに汚い物、危険な物から我が身を守るおまじないみたいなものである。私たちが幼稚園や小学校低学年の頃は大体このように使った。例えば友だちが道を歩いていて犬のウンコを踏んだ、あるいはトイレで転んで便器にぶつかってしまった、あるいは鳥の糞が命中してしまった、などということがあると、そいつは汚れて(穢れて)しまうわけである、そうすると周囲にいた連中は一斉に両手の親指と人差し指で輪を作り、それを組み合わせて「えんがちょ鍵閉めた」と叫ぶ、そうすることによって友だちの穢れは自分に移って来ない。

 ところがその状況を知らずに、たまたま運悪く通りかかり、“えんがちょの鍵”を閉めていない者がいたら、最初に穢れた者は「えんがちょ!」と叫んで、そいつにボディタッチすれば良い。それで穢れはその第三者に移り、最初の者はそのまま“鍵を閉めて”しまえば無罪放免となる。だから通りがかりの不運な第三者は、次の“犠牲者”を探し求めて四苦八苦するのであるが、子供たちにとってはこれが鬼ごっこの始まりになることも多かった。
 穢れた者が鬼である。他の者たちは鬼から十分に間合いを取ったところで、「えんがちょ鍵開けた」と叫んで両手の指の輪をほどく、その間に鬼からタッチされれば穢れが移ってしまうが、“えんがちょ”の犠牲者をからかって楽しみたい子供たちは、そんなヘマはしない。鬼が突進してくると、すかさず鍵を閉めてしまうのだ。哀れな犠牲者は、何とかして状況を知らない次の犠牲者を探そうとするが、その頃にはもう狭い幼稚園や小学校のクラスには“えんがちょ情報”が回ってしまっているから、“えんがちょ”の犠牲者はヘトヘトになるまで、“鍵を開けて”いる者を必死で追いかけ回すのが常であったし、中には泣き出す子もいた。
 不思議なことに、“えんがちょ”は仲間内にしか移らない。隣のクラスの子や先生に移してしまえばよいというわけにはいかないのである。

 こうやって他愛もない子供の遊びと思って書いているうちに、何だか無性に腹が立ってきた。“えんがちょ”の精神構造は我が国のさまざまな部分をむしばんでいるのではないか。自分だって汚いこと、不正なこと、他人に迷惑を及ぼすこと、知ってか知らずかやっているにもかかわらず、誰か他に槍玉に上がっている人がいると、自分はすかさず“えんがちょの鍵”を閉めて、皆と一緒にその人を非難する、そうすることによって自分の不都合は全部他人に押しつけることができる。上級学校のいじめ、大人社会の陰口、すべてこの類ではないのか。

 “えんがちょ”の犠牲者の方も大人になると狡猾になる。“えんがちょ”などは他人に押し付けてしまえば自分は無罪放免になることを知っているから、自分の責任で集団に迷惑を及ぼしても、「みんなあいつが悪かったんで、どうしようもなかったんです」と他人に原因を転嫁して、自分は平然としている。こんなヤツは社会の至る所どこにでも巣食っている。(最近では東京電力が最たるものか)

 妙に腹が立ってきたから“えんがちょ”の話はこのくらいにして、日本人の穢れの観念にもちょっと不思議なものがあると思っている。例えば坊さんがお経を読んでいるような日本のお葬式の会葬者には、塩が一袋ずつ渡されるが、まさかあれをキッチンで調理に使う人はいないだろう。
 お清めの塩と言って、家に帰るまでに葬式の穢れを落として下さいという意味なんだろうが、親しい人、お世話になった人が亡くなって、それをお見送りして何で穢れるのだろうか。死者は穢れていると考えるのは、もしかして日本人だけではなかろうか。(もし別の民族でも同じような状況を御存知でしたら教えて下さい)

 死んだ仲間の遺体を食べる習慣があった民族まであるくらいだが、キリスト教やイスラム教では死者は神様の許へ召されたと考えるわけだから、穢れるどころか祝福の気持ちだってあるかも知れない。確か南米のどこかでは、墓地までの行きの葬列は別離の悲しみで泣きながら歩くが、帰りは陽気に歌いながら戻って来るという話も読んだ気がする。

 日本における死者の穢れについて思い当たるのは、やはり古事記のイザナギ・イザナミ神話である。火の神を産んだ火傷が原因で亡くなったイザナミを黄泉の国に迎えに行った夫のイザナギは、一度は妻を連れ戻すことに成功するが、全身にウジ虫がたかって穢れたイザナミの姿を見てしまい失敗に終わる。愛し合う夫婦であったが、黄泉の国での穢れた姿を見てしまったために愛は無残に引き裂かれた。

 日本人が死者の穢れを恐れる精神構造を説明できそうなのはこの神話以外にないが、これと同じモチーフはギリシャ神話にも見られる。アポロンの息子オルフェウスが死んだ妻のエウリディケを取り戻しに冥界へ行く、オルフェウスの竪琴を聴いた冥界の王は感激してエウリディケを返すことに同意したが、現世に戻るまで妻を振り返ってはいけないと約束させる、しかしオルフェウスはあと1歩というところで妻を振り返ってしまい、やはりイザナギ同様失敗に終わる。
 愛する妻を取り戻せなかったことは同じだが、ギリシャ神話ではエウリディケの姿は美しいままだったということが、死者の穢れには結びつかなかったのかも知れない。



メディアの進歩

 月日の経つのは早いもので、私も現在の大学で勤続20年の表彰を受けた。もう今後はそんなに“勤続”を続ける気もないし、大学も還暦を過ぎた口うるさい教員を雇い続けるはずもないだろうが、一応の節目であるから感慨深いものもある。

 だからというわけでもないが、20年前に東大病院を退職した時に教室の若手の人たちが催してくれた送別会の時の写真など眺めてみると、当時の自分自身の若いこと、若いこと…。もう40歳の頃だが、髪も眉毛も黒々として、生意気そうな顔をしている。やっぱりちょっと恥ずかしい。私は現在の自分の顔の方が好きだが…。

 それはともかく、実はこの写真のプリントは、その後2度にわたる自宅の引っ越しの中で現在行方不明になっているのだが、幸いネガだけはまとめて保管してあったので、右のやつは専門店でデジタル化して貰った画像である。

 最近では写真のフィルムだけではなく、過去のさまざまな媒体(メディア)をデジタル化、DVD化してくれるサービスが目に付くようになった。古い写真や録音などはアナログデータであり、おそらくあと10年もしないうちに、それらを再生したり複製(コピー)したりする技術は失われていくだろう。

 もうすでに失われた技術もある。例えば私が高校時代に音楽部をやっていたことは何度もこのサイトに書いているが、高校時代の演奏会の音は
オープンリールと呼ばれたテープレコーダーで録音されていた。直径20センチくらいの2個のリールのうちの一方が長い磁気テープを巻き取って一定速度で流しながら、中央の録音・再生ヘッドで音を記録・再生していくのである。
 最近のデジタル録音よりも音質が柔らかいとか言って、ずっとこのオープンリールのテープレコーダーを愛用している人たちもいるが、ついにこの種のテープレコーダーの機械の部品の製造が中止になったらしいので、もう私たちの高校時代の名演奏(笑)を聴くことは永遠にできなくなった。
 オープンリールのテープレコーダーに続いて、磁気テープをコンパクトなカセットに収めたカセットテープレコーダーの時代になったが、もう最近の新しい録音はCDやDVDの時代となり、『テープレコーダー』を縮めて省略した
テレコという言葉は死語になっている。
 テープレコーダーの前の時代、発明王エジソンが作った丸い円盤の細い溝で音を再生する蓄音機のレコードも、溝を読み取る小さな針の量産が行われていないので、現在はよほどのプロかマニア以外が聴けるものではない。

 音響メディアがこのとおり、写真のフィルムも、そもそもフィルムという言葉自体が死語となりつつある。もうフィルム上の微少な粒子を光で化学変化させるという、坂本龍馬や勝海舟と同じ原理で撮影された写真の現像や焼き付けのサービスも、需要の減少と共に取り扱える店がどんどん減っていくだろう。
 病理医や病理学者は病変の肉眼的・顕微鏡的な形態の記録を何より大事にする人種であるが、私が病理学に転向した昭和の終わりから平成の初めにかけて、病理の医者はデジタル画像などまったく相手にしていなかった。確かにフィルムで撮影した画像の方が、デジタル画像など比べ物にならないくらい画質が良かったのである。それが今ではすべてデジタル画像に取って代わられた。

 さてここで問題が発生する。少なくとも昭和後半くらいの時代からフィルムで撮影された膨大な病理学的な画像記録はどうなってしまうのだろうか?それらの画像もきちんと印刷されて資料として台帳にまとめてあればまだ利用価値があるが、それにしても長年の保存による画質の劣化は避けられない。
 整理されていない画像はもうどうしようもないが、たとえ整理されていたとしても膨大な資料の山の中から目的とする画像データを探し出せても、今度はそれを簡単に再生・修復する技術が伴わなければ宝の持ち腐れになる。

 同じことは医学的資料だけでなく、歴史的資料についても言える。古代エジプトのパピルスに記された文字は、ヒエログリフを読める人さえいれば現在でも判読可能だが、最悪なのは1950年代から1960年代にかけて、磁気テープを記録媒体とするコンピューターに書き込まれた記録だという。当時のIBMの大型コンピューターの磁気テープに歴史的文書を記録した人々は、これでもう未来永劫にわたってこの記録が失われることはないと考えたことだろうが、ご承知のようにその後のコンピューターやワードプロセッサーの発展はめざましく、かつて大型ビル1棟を占拠していたようなコンピューターが鞄に入れて持ち運べるくらいの大きさにまでなり、それに伴って文書を処理するワープロソフトも飛躍的に性能向上した。
 ソフトの性能向上は良いのだが、それで昔々磁気テープに読み込ませた文書を読み出すプログラムが失われてしまい、それが現代史の歴史的資料の消滅につながりかねないそうだ。例えばアメリカの国防省などでは、紙に書かれた南北戦争の記録は読めるが、磁気テープに書かれたベトナム戦争の記録は読めなくなっているとの話を聞いたことがある。



CG艦隊出撃す

 2011年暮れに東映から配給された映画『山本五十六』のDVDがリリースされて、私も初めて観る機会に恵まれた。聯合艦隊司令長官山本五十六を主人公にした映画は、これまでも1956年の新東宝『軍神山本元帥と連合艦隊』や1968年の東宝『連合艦隊司令長官山本五十六』などがあったが、今回の作品が山本五十六の人間像を最も深く掘り下げている気がする。
 当時の日本にあって国際情勢を最もよく理解していた日本人の1人として、対米戦争の危険性を認識して開戦に反対していたことを、今回の映画は端的に分かりやすく描いている。山本五十六を描く以上、対米戦に反対しながらも自ら戦端を開かざるを得ない立場に置かれた悲劇の提督という観点は、これまでの作品にも共通しているが、今回は何人かの重要な登場人物をきちんと善玉・悪玉に分けて描いており、これが山本五十六の人間像を際立たせることに成功した大きな原因の一つであろう。

 この映画で悪玉として描かれているのは、軍令部総長の永野修身と、機動部隊司令長官の南雲忠一である。過去のこれまでの作品では、「死者を鞭打たない」という日本人の美徳から、まだ御遺族や関係者も御存命である人々のことは、言葉を濁すような描き方しか出来なかったのは無理もないかも知れない。

 この映画によれば、南雲は永野の意を受けて、真珠湾攻撃でもミッドウェイ作戦でも山本五十六の意図を中途半端に終わらせる悪玉の役回りにさせられている。真珠湾に第二次攻撃を加えて軍港機能の徹底的破壊を行わなかった、ミッドウェイに敵空母はまだ出て来ないと油断して艦載機に艦船攻撃用の魚雷を搭載して待機させなかった、など南雲が作戦面でことごとく手を抜き、山本の期待を裏切り続けたことになっているが、実際はどうだったのか。

 確かに南雲は戦前から海軍兵力増強を叫ぶ強硬派の1人で、国際条約によって国家の平和を維持しようとする山本らとは対立していたし、また専門は水雷部門であったのに、専門外の空母部隊を指揮させられたために、真珠湾でもミッドウェイでも判断の誤りによって勝機を逸した面はあっただろう。
 空母飛龍に乗っていた山口多聞提督が指揮を執っていれば、山本の意図を十分に汲んだ戦いをしたであろうことも事実だと思うし、そのような論調は戦後も数多く見られる。しかし一説によると、機動部隊の指揮官として、航空戦のバリバリの専門家である小沢治三郎提督(今回の映画には出て来ない)を選ぶよりは、半ば航空戦の素人である南雲を据える方が御しやすいという、山本自身の意向もあったらしい。
 もしその説が本当ならば、山本が人事のスジを通さず、自分の御しやすい人間をトップに据えたくて適材適所の原則を曲げたために、適性のない指揮官によって自分の意図を頓挫させられ、海軍の組織を壊滅に導き、山本も南雲も不本意な死を遂げることにつながったと言える。南雲はミッドウェイの後も、南太平洋海戦で機動部隊を指揮して1度は雪辱の機会を与えられたものの、その後は陸上の配置に回されてサイパン島で将兵らと共に玉砕している。

 物事にはいろいろな側面があると思われるが、今回の映画を観た限り、南雲忠一という人の歴史的評価は、山本五十六の意図を十分に汲み取ることの出来なかった無能な提督ということで、このまま定着してしまいそうな気がする。気の毒ではあるが、大きな組織を率いるリーダーは、その職責を果たせなければどんな歴史的評価をも甘んじて受けなければいけないという厳然たる事実を突き付けられたわけだ。組織のリーダーたる者、またそのリーダーを任命する者は、よくよく心掛けなければいけない。

 そういう難しい話はさておき、この映画では猛将と讃えられる山口多聞提督を演じていたのは俳優の阿部寛さん、空母飛龍艦上で指揮を執るシーンはなかなか見応えがあったが、本物の山口提督は目尻の下がった好々爺といった感じの写真が残っている。阿部さんの彫りの深い顔立ちは、NHKの年末ドラマ『坂の上の雲』の日本騎兵隊長 秋山好古の方がよく似合っていたのではなかろうか。
 先日、戦争映画ではないが『テルマエ・ロマエ』という映画を観たら、やはり阿部寛さんが主演していた。ここでも彫りの深い顔立ちゆえに古代ローマの浴場設計技師という配役になっており、古代ローマの浴場と現代日本の銭湯や風呂の間を何度もタイムスリップするコミカルな内容である。古代ローマ人役の阿部さんが素っ裸で日本の風呂に出現するシーンでは、秋山好古や山口多聞を思い出してしまって可笑しかった。

 ところで今回の映画『山本五十六』にはCG(コンピューターグラフィック)が大活躍していて、日米の軍艦や軍用機などのシーンは素晴らしい重量感だった。かつての東宝の円谷英二特技監督をして、いかに精巧なミニチュアモデルも火と水だけはごまかせないと嘆かせた映像技術の難問も、CGを使えばみごとに解決される。実際、最近は日本映画であろうとハリウッド映画であろうと、そういう特殊映像はすべてCGで処理されていると聞いた。アメリカが金に糸目をつけずに実物大の戦艦のセットを組んで『トラ・トラ・トラ』を制作したなどというのは昔の古き良き時代の話だ。

 今回の『山本五十六』では全長263メートル、排水量65,000トンの戦艦大和が蹴立てる海上の波がきちんと縮尺も合っているので、まるで実物の重量感で迫ってくる。東映の前作『男たちの大和』(2005年)では、出撃して行く大和の乾舷(海面から甲板までの高さ)があまりに低く、あのシーンのCG製作者の技術を疑ってしまったが、今回はそういうことはなかった。
 ただちょっと気になったのは、映画の中のミッドウェイ海戦で敗北して反転帰投するシーン、戦艦大和の右舷を護衛する位置に利根級の巡洋艦がいたことである。戦艦大和は山本が座乗する主力部隊の旗艦だったが、利根級の巡洋艦は2隻とも南雲が率いる機動部隊に所属していた。海戦に参加した各部隊は空母全滅の翌日には合同して内地に向けて航行しているから、大和と利根級が同じ海面にいてもおかしくはないのだけれど、機動部隊の護衛艦が主力部隊の旗艦を援護する位置にいることについては、よほど確証の高い資料でもあるのだろうか。

 艦船マニア、戦史マニアを納得させる根拠もなしに大和と利根級のCG映像を並べたとすると、これは今後のCG画像を使った戦争映画への信頼を揺るがしかねない。私もあの映像が誤りであると決めつける根拠は持っていないが、他にも幾つか歴史考証が甘い点があったので、これも同じかと思ったのである。例えばあの映画の中で日本の戦闘機同士が互いに機上無線で交信しながら空中戦を行なっていたが、これは零戦乗りの坂井三郎さんが著書の中で否定している。零戦にも一応無線装置はあったが性能が悪くて使い物にならなかったと…。
 だから利根級が大和を護衛する映像にしても、もしかしたらと疑惑が湧くわけだが(艦船マニアや戦史マニア以外の方はまったく気にならないだろうが)、2006年松竹配給の映画『出口のない海』のCGシーンはもう疑惑の余地もないほどひどかった。回天特攻隊の物語で、内地へ帰港する潜水艦が沖縄へ突入する戦艦大和とすれ違うシーン、大和を護衛していたのは何と海上自衛隊の護衛艦だった…!これじゃあの時代の米軍機は大和に指一本触れられないぜ。
 まだまだCG艦隊も前途多難なようです(笑)。



政治の終焉

 今年(2012年)の8月10日、韓国の李明博大統領が竹島上陸、その後大統領直筆の石碑建立などを巡って、日韓関係が急速に険悪化しているが、こういう事件を見ていると、どこの国でも政治家はバカだという気しか起こらない。国民の支持率を上げるため、あるいは国民の一部階層の支持を得るため、必要もないのに国民のナショナリズムに訴える、そんなパフォーマンスをしてまで支持率を維持しなければいけない“政治家”という職業に、今さら存在価値などあるのだろうか。

 我が国の小泉純一郎の靖国参拝もひどかった。あれも郵政民営化が実は売国奴政策だということを自ら知っていたからこそ、一方の靖国参拝で精一杯の愛国者ぶりを演出していただけではなかったか。
 李明博も実兄や側近の不祥事で支持率が低迷していることへの最後の切り札として竹島上陸を企てたらしい。我が国が領土奪還のために強力な上陸部隊を送り込んだというなら話は別だ。大統領自らこの日韓の“戦闘”の場で韓国兵の士気を鼓舞したとして、『韓国版ジャンヌダルク』のヒーロー(ブサイクなジジイで残念だが)にはなるだろう。
 しかし李明博はただ現在の日韓関係をブチ壊しただけ、いや、もしかしたら次の世代の日韓戦争の引き金を準備してしまった可能性だってあるのだ。日本人も、植民地統治だとか従軍慰安婦だとか言われれば何となく後ろめたい気分になる世代は少なくなっている。そういう日本の若い世代の目の前で、しかも韓国海兵隊がベトナム戦争で何をしでかしたかなどネットで簡単に調べられる時代に、今回のような政治的演出を支持率回復の駆け引きにしなければいけないような職業が、果たして今後永続的に必要不可欠なものなのかどうか、私は疑問に思う。

 国内問題の不手際を覆い隠すために、国民のナショナリズムに火をつけ、国家間の対立を煽らなければ、自らの地位を守り職責も全うできないような政治家は不必要である。我々はすでに全世界をリアルタイムで結ぶインターネットシステムを手に入れた。これは今後の使い方によっては古代ギリシャの直接民主主義に近い統治形態を実現することも可能な道具なのではないか。
 政治を専門とする各国の人間どもが小泉純一郎や李明博のように愚かで、日韓に限らず国民のナショナリズムにしか訴えられず、国際間の緊張を煽るしか能が無いようであれば、そういう政治はもう終わらせて、インターネットを利用した直接民主主義時代を築くための研究も始めたら良いのではないか。
 もちろん衆愚政治に陥る恐れは十分あるし、中国のような人口の多い国が主導権を握ることになりかねないが、その大衆を操って動かすことで権威や利権を得ているのが今の政治家であることを考えれば、各国の政権自体を一斉に解体することが出来れば、古代ギリシャへの回帰も可能かも知れない。

 いささか今回は夢物語が過ぎたが、私の竹島問題に対する見解は7年前にこのサイトに書いた別の記事といささかも変わっていないのに驚いた。7年後の今回、特に主張したい部分だけ色を変えておく。



日本よ、自虐的国家たれ

 少しは事態沈静の方向に向かうのかと思っていたが、李明博大統領の竹島上陸以来、野田首相の親書を受け取る、受け取らない、非礼だ、非礼はそっちだと、互いに国際的責任を忘れた阿呆な日韓首脳どもの非難応酬がヒートアップし、韓国に比べてやや冷静だった日本国民の嫌韓感情も次第にエスカレートしつつある。
 韓国国旗を焼いたり、焼肉店を襲撃したりという相手方と同レベルの低次元なナショナリズムの応酬だけは、日本の品位を傷つけるので是非とも厳に慎んで頂きたいが、どうせそのうち日本政府が弱腰で、国民も自虐的歴史観に毒されているから、領土問題でも韓国や中国に舐められるという論調が再び台頭してくるだろう。その前に私は、敢えて非国民と言われようとも、日本よ、自虐的国家たれ、と言いたい。

 私は今回はっきり思い当たったことが一つある。それは19世紀中頃、東アジアにあってただ日本だけが明治維新で近代化に成功した理由は、日本が“自虐的”だったからである。また20世紀中頃、敗戦国であったはずの日本が、戦勝国も驚く復興を遂げた理由も、日本が“自虐的”だったからである。

 自虐というから言葉が悪いのあって、言い換えれば自虐的というのは、自分に悪いところが無いかと反省できる性質、したがって自分の悪いところを自分で改善していく能力につなぐことが出来る。
 一方、自虐的の反対語は他罰的であるが、これは自分は何も悪くない、悪いのは相手であると居直る性質である。もしかして自分にも悪いところがあるかも知れないなどとは考えない、万一考えたとしても自分の非を認めてしまえば負けだと意固地になって、相手がすべて悪いということで押し通す。だから自分の欠点を直すことなど思いも寄らない。

 日本人が自分の至らない部分を改善していく努力が実を結んだ歴史が明治維新と戦後復興である。他罰的な国々には決して真似の出来なかった奇跡である。我々は、自分自身を内省して欠点を改善していける日本人の能力を、単に“自虐的”などという自虐的な言葉で総括してしまってはいけない。
 こういう“自虐的”な国家であったが故に成し遂げることが可能だった世界史上の奇跡の偉業を誇るとともに、偉業の完遂後、次第に傲慢になって自虐性を忘れ、他罰的国家と同レベルに堕して転落していった歴史をも見つめ直して、自分には何が欠けてしまったのかを冷静に問いただすことも現在必要である。

補遺:
 その後、韓国との領土問題に引き続き、尖閣諸島国有化に絡んで中国との領土問題も再燃したが、こうなると断固たる決意で国威を示せという強い論調をブチ上げる論客が目立ってくる。尖閣諸島に港湾設備を建設せよと具体的に資金まで集めた石原慎太郎氏などその代表だが、近代国家となって以来の日本の歴史の周期を考えれば、国を誤らせる元凶とも言える。
 我が国が明治維新で近代化に着手して以来、戦艦定遠・鎮遠による清(中国)からの砲艦外交の威嚇、日清戦争後のロシア・フランス・ドイツによる三国干渉など、国家の主権が脅かされる事態は何度かあったが、日本国民は少なくとも表向き冷静だった。清や露・独・仏の公館や居留外国人に対する過度な敵愾心も示さず、ひたすら国力増勢のために耐え抜いた。三国干渉後のスローガンは臥薪嘗胆だった。

 その甲斐あって日露戦争でロシアに勝利したが、その後が悪かった。ポーツマス講和条約ではロシアから賠償金も取れない、領土獲得もままならないことを知った一般大衆が激昂し、日比谷公園では暴徒化した群衆による焼き打ち事件も起こった。講和を斡旋したアメリカも標的になり米国公館を襲撃したため、米国の対日世論を悪化させたとも言われている。講和を破棄して対露戦を継続すべしという強い論調も多かった。

 日露戦争前後の日本国民のこの豹変ぶりはいったい何に起因したのか。ロシアという白人大国に勝ったという驕りが一般大衆までを夜郎自大にしてしまったとしか言えない。自分は強い、自分は偉いという思い上がりである。むしろ当時の政府首脳の方がきちんと日本の実情を把握していた。しかし夜郎自大な国民の上に立つ日本政府もまた次第に夜郎自大になっていき、明治以来の国民の血と汗で築き上げた国力を背景に威張り散らすようになった。

 敗戦の焼け跡から立ち上がった国民の血と汗の結晶を背景に、中国や韓国に対する強硬論をブチ上げる夜郎自大な論客が増えている。これに煽られた国民が次の総選挙で大衆に迎合する政治集団を選んだ場合、21世紀中に日本は再び転落するだろう。近代国家日本の歴史周期である。まあ、たぶん私はもう存命でないから関係ないが…。

 自分が偉いと思った夜郎自大な国民に未来はない。中華思想の中国、小中華思想の韓国がその好例であろう。彼らは維新近代化も20世紀の工業化もできなかった。少なくとも日本に勝てなかった。これは世界史上の事実である。

 領土問題はいずれ武力紛争になる恐れも出てきたが、絶対に日本から最初の一弾を撃ってはいけない。必ず相手国の軍隊に引き金を引かせるのが鉄則である。そんな軍事的なことを言うと潔癖な軍隊アレルギーの論客から顔をしかめて糾弾されるだろうが、そういう議論もまともに出来ないような国民では、今後ますます領土問題がエスカレートしてきた場合、血気にはやって自分から手を出すことになりかねない。
 相手の攻撃を受けてから、おもむろに米軍の救援を待つ、この戦略を崩せば日本は亡国である。特に老獪な中国は、尖閣諸島における日本軍の勇み足を利用してやろうと手ぐすね引いているはずだ。それにまたまんまと引っ掛かるのではないかと危惧している。尖閣諸島に政府の許可も受けずに上陸した日本人がいたが、こういう行為は“利敵行為”以外の何物でもない。
 また日米安全保障条約は絶対堅守しかあり得ない。今時『反米嫌中(韓)』でやっていけると思うほど甘い主張は、これもまた領土問題の相手国を喜ばせるだけである。

補遺2:中国の国連演説−私はこう読む
 9月27日、尖閣諸島国有化に関連して、中国外相が国連で日本を泥棒呼ばわりして激しく非難したことも原因だろうが、日本の一部の都市で一部の団体が国交断絶などと穏やかでないスローガンを掲げて抗議行動をしているようだ。しかしそうカッカと熱くなることもないのではなかろうか。
 実際、東京は平穏で、中国人経営の中華料理店も安全に営業しているし、五星紅旗に火をつける馬鹿も今のところいないようだが、これから先、政府も国民も中国の挑発に乗らないようにしなければいけない。
 9月28日にはアメリカ高官も日本に慎重な対応を取るように異例の申し入れを行なっているが、米中の日本に対するこれら一連の動きを私は次のように見ている。

 最近になって米空母2隻(ジョン・C・ステニスとジョージ・ワシントン)が西太平洋で合流したと報じられ、尖閣諸島海域での日中緊張状態に睨みを利かせるためと考えられている。さすが日米安全保障条約、アメリカさんが日本を守ってくれる、などと甘く考えてはいけない。
 そもそも中国や台湾が尖閣諸島は俺のものだと言い出したのは、付近の大陸棚に中近東級の大油田があるのではないかと言われるようになってからだ。他人の持ち物に価値が出た途端、それは俺の物だと言い出す、まさにそれこそ泥棒の論理だが、いきなり暴漢に引ったくられそうになったからと言って、アメリカ交番に駆け込めば“ヤンキーお巡りさん”が助けてくれる…なんてのは幻想だ。

 石油が欲しいのはアメリカも同じ、アメリカは石油のためならどんな非道なことでもする、それは先年のイラク戦争を見れば明らかだ。アメリカが尖閣諸島において守ろうとしているのは日本ではない、海底油田の将来の利権である。日本が採掘権を独占したまま友好状態にいてくれるのが彼らにとって最も望ましい選択肢であるが、これを日本がまた“真珠湾”みたいな軽はずみなことをして、むざむざ中国に奪われたら目も当てられないというのが現在のアメリカの思惑…本心…、それほど間違った見方ではないと思う。

 中国はチベット問題など見ても分かるとおり、俺の物は俺の物、他人の物も俺の物…という大盗賊だが、アメリカもまた石油に目のないギャングである。そういう本質を中国幹部は悪党同士見抜いているから、アメリカが空母を揃えて威圧にかかってくれば、現在の彼らの海軍力ではどうしようもない。
 日本というお人好しで軽率な金持ちが抱えている宝物をひとまず諦めた、それが27日の中国の国連演説であろうと私は思った。
「日本の泥棒野郎〜!」
喧嘩の捨て台詞、負け犬の遠吠えと大して変わらない。私は中国があれで一旦は尻尾を巻いたと見ている。ただし日本の軍官民のいずれかがムチャクチャな中国挑発を行なえば事態はどうなるか予断を許さないだろう。

 こういう盗賊やギャングの国際社会で日本はこれから生きていけるのだろうか。悪党どもは大陸棚の石油が欲しいのである。この推定事実を基軸に国家の進路を決めるべきだ。仮にこの次の日中戦争が勃発すれば、今度はアメリカ軍は前回とは逆サイドにつく。要は日本はアメリカがこちら側につくような大義名分が出来るように国際社会で立ち回らなければいけない。
 アメリカには尖閣諸島を守る手伝いをしてくれたら、将来西太平洋の石油はアメリカに優先的に輸出しますよと言いながら、中国には一衣帯水の隣人として一緒に油田を開発しましょう、その代わりお宅のレアアースを安定的に供給して下さいねと取り引きする、そのくらいの芸当は官民共に心掛けて欲しい。



『君たちはどう生きるか』

 別のコーナーで湯島天神の石段を紹介した際、吉野源三郎さんの『君たちはどう生きるか』という本を中学校時代に学校で読まされ、ずいぶん私の人生に影響を与えたことを書いた。懐かしくなったので、書店で新しく岩波文庫版を買って読んだら、またいろいろ考えることもあったので、こちらに書いておく。

 この物語はコペル君(本名は本田潤一)という15歳の少年と、亡くなった父親代わりに彼の人生を導く叔父さん(母親の弟)、それに水谷君、北見君、浦川君という学校の親友たちを中心にして、人生をいかに生きていくべきかを、読者と共に考えるという筋立てで進行していく。

 本のタイトルといい、物語の進行といい、何だか非常に説教くさい本ではあるが、世界中の数多くの人々が暮らしていくうえで互いに何らかのつながりを持っているとか、自分の心で本当に感じたことを出発点として物事を考えていかなくてはいけないとか、当たり前のことでも突きつめて考えていけば重大な真理に行き当たることがあるとか、辛いことも怖いことも乗り越えていく英雄的精神を伴わなければ善良さも虚しいものだとか、英雄であっても本当に尊敬できる業績は人類の進歩に役立ったものだけだとか、人間の価値は貧富貴賤に関係ないはずだが、貧しい人たちはそれだけで引け目を感じやすいものだから、そのことを理解しなければいけないとか、日常の何気ない出来事の中からいろいろ考えさせてくれる本だった。

 特に私の育った家庭は、地位や身分や職業や財産をやたらに意識する家だったから、人の本当の価値は家柄などではないと当たり前に考えることが難しく、若い頃から私の大きな悩みの一つだったが、この本に出会わなかったら自分はどんな人間になっていたか、想像するだけでも恐ろしい。

 かなり昔に読まされた本なので、普段はまったく思い出すこともなくなっていたが、改めて読み直していくうちにどんどん細部まで思い出すことができた。ただ別のコーナーで紹介した部分、家に遊びに来た貧しい友(浦川君)の服の汚れがソファにつきそうになったのに気付いたコペル君が思わず手を出そうとすると、叔父さんが目で制する場面、ちょっと探してみたが見つけることができなかった。もしかして別の物語の似たような部分と混同しているのかも知れないが、他の物語までをこの本に結びつけて記憶に留めてしまうほど影響を受けていたとも言える。

 ところで中学生で読まされた時には気付かなかったが、『君たちはどう生きるか』が初めて出版されたのは1937年、日中戦争たけなわ、太平洋戦争勃発の4年前、まさに軍国主義が猛り狂う時代だった。そういう時代によくこんな自由主義丸出しの本を少年少女向けに出版できたものだと驚くほかない。

 そう言えば中学時代の読書でもう一つ私に大きな影響を与えてくれた次郎物語も戦争の時代をはさんで執筆された長編小説で、戦前から戦中にかけてはその自由主義的な主張が批判の対象になったらしい。私の高校は戦前から自由主義的な教育を行なってきた筋金入りの学校、中学生からこういう本を相次いで読ませるところはさすがだった。

 自分の心で感じたものを出発点にして、他に付和雷同することなく、当たり前のことを突きつめて考える、そうすればあの戦争は無謀なことだと誰もが感じていたはず、国民を苦しめるだけの戦争は止めなければいけないと多くの善良な者たちが思っていたにもかかわらず、反対することの苦しさや怖さに負けて英雄的精神を発揮することもしないまま、当時の指導者たちも国民もズルズルと引きずられていってしまった。

 今そういう時代的背景を思い返しながらこの本を読み直してみると、我が国があの時代に失っていったもの、そしてこれから再び失ってしまうかも知れないものが見えてくる。
 あの本の登場人物たち、コペル君や水谷君や北見君は年齢から言えば、やがて学徒出陣で戦地へ召集された世代、自分の心で正しいと感じたものを正しいと主張する術も奪われて、戦火に散っていったとすれば悲しいことである。



大きな振り子

 2012年12月16日の衆議院選挙で、民主党は公示前の230議席を大幅に減らす57議席という壊滅的敗北を喫した。やっぱりね…という感じだが、私がこのサイトを起ち上げてから10年ほどの間に、日本国民の民意は3度にわたって大きな振幅で揺れた。
 1度目は2005年9月11日のいわゆる郵政民営化総選挙、小泉純一郎の自民党が296議席という単独過半数を獲得して圧勝した。民主党は113議席だった。
 2度目は2009年8月30日の総選挙での民主党大躍進、民主党は308議席を獲得し、自民党は119議席にとどまった。
 そして3度目が今回の総選挙、自民党は294議席を獲得して再逆転した。過去2回の揺れでは、敗者側も一応100議席は取っているので、今回の民主党57議席というのは今後の政党としての存立が危ぶまれるほどの痛手には違いない。

 このわずか7年あまりの間の自民党と民主党のシーソーゲーム、良く言えば日本にも二大政党制が根付いたとも言えようが、その内容はアメリカやイギリスの二大政党制とは雲泥の差ではなかろうか。日本におけるこういう現象をどう捉えてよいか、私にはまだ分からないけれど、どう考えても多くの国民1人1人にそれなりの明確な政治的主張があってこうなったとは到底思えない。

 例えば今回再逆転した自民党の安倍総裁は、また「美しい国」とか言って(今回は「まっとうな日本」とか言っている)憲法改正に着手すると思うが、国民1人1人は憲法改正について問われた時に何かきちんとした自分の意見を持っているのだろうか。
 この7年間のシーソーゲーム、ただ何となく自民党…、ただ何となく民主党…、そんな雰囲気だったようにしか見えないと言ったら、日本国民をバカにしているだろうか。

 しかし今回私が唯一安堵した点は、民主党が国民の支持を失った後、再び民意が自民党に戻ったことである。以前から書いていることだが、自民も民主もダメとなった時に、国民が国粋主義的な色彩の強い勢力を選んだ場合、日本は対外強硬論を振りかざす国家に変貌していく危険はあった。今回もその芽はあったが、いわゆる第3極と言われた勢力はその名のとおり、国政第3党にとどまった。

 まあ、ともかく形の上では日本も二大政党制の土台ができたわけだから、今回大勝した自民党の安倍総裁も前回の敵前逃亡のようなことを猛反省して国政に生命を賭けて欲しいし、議席数2桁という惨敗した民主党も、それでも第3極の維新の会を辛うじてかわして国政第2党の位置を確保した意味をよく考え、かつての社会党(社民党)のように国政の場からフェードアウトするような無責任な振る舞いは断じて許されないと胆に銘じて頂きたい。



会津白虎隊

 2013年の正月のテレビ番組にはちょっとした異変を感じた。先ずNHKの大河ドラマ『八重の桜』は幕末の福島県会津藩出身の新島八重を主人公としているが、これは先年の大震災で痛手を蒙った被災地を応援しようという意図によるものだろう。震災と原発事故という二重の被害を受けた福島県へエールを送るための企画が提出され、さまざまな準備期間を経て放送されるのが震災から2年目の2013年ということである。NHKの大河ドラマは今回が52作目であるが、幕末の会津出身者を題材にしたものは初めてではないか。

 これまで会津出身者が取り上げられなかったのは単なる偶然と言ってしまえばそれまでだが、それにしても同じ幕末の薩摩・長州・土佐藩、あるいは徳川将軍家や新撰組などに比べたら、新政府の“官軍”に対峙した諸藩、中でも会津藩に対しては冷遇と言っても過言ではなかった。

 2013年のテレビ東京の新春時代劇スペシャルでは『白虎隊〜敗れざる者たち』を放映していた。これもNHK同様、被災地福島県を応援しようという企画と思われる。会津白虎隊については、過去民放で2回か3回ドラマ化されたと記憶しているが、主君のためにまだ10歳代の少年たちまでが藩の大義に殉じたという日本人が好みそうなストーリーの割には、新撰組などに比べて取り上げられる機会も少ないと常々感じてきた。

 私の母方の祖母が会津出身の人で、会津若松市には遠縁の親類もいたので、私なども小学生の夏休みには何回か会津へ行ったことがあり、まだ復元なっていなかった鶴ヶ城趾や、白虎隊が自刃した飯森山などはすでに幼少時からお馴染みだった。
 その後、特攻隊の歴史などにも関心を持つようになると、年若い青少年が大義に殉じたという点で共通しているにもかかわらず、会津白虎隊があまり取り上げられないのを不思議に思っていたが、何のことはない、会津は賊軍だったからである。

 昔から日本では天子(天皇)を大義名分として担いだ側が戦争に勝ち、官軍と呼ばれてきた。なぜか得体の知れない雰囲気があったのだろう、どんな有力な豪族も大名も敢えて天皇に叛旗を翻すことが出来ない不思議な威力があった。あの水戸黄門の印籠みたいなものである。天皇を担ぐことが出来ずに敗れれば賊軍と呼ばれる。会津はまさに不運な賊軍であった…。

 と言うより、幕末の最大の賊は、皇居に大砲を撃ち込んで蛤御門(禁門)の変を起こした長州藩ではなかったか。攘夷に固執するあまり軽挙妄動を繰り返し、いったんは会津藩や薩摩藩などによって京都を追われたが、それを恨みとして皇居近くで戦火を開いた。その後、坂本龍馬がおのれの野望実現のために薩長を和解させ、これで勢力を盛り返した長州藩は会津藩に対して逆恨みに近い感情を抱いたのであろう。
 蛤御門の変の前後で自分に敵対した薩摩と会津のうちの薩摩とは同盟してその力も利用しつつ、一方の会津を徹底的に人身御供とすることによって、かつて最大の朝敵だった長州が官軍の座に君臨するに至った…こういうやり方が、その後の日本を卑怯な駆け引きの横行する新国家にしていったと私は思っている。(“何が”とは言わないが、有権者を裏切るような政党間の野合などその一つ…)

 明治新政府誕生後、間もなくして薩摩も西南戦争で力を失ったが、その後は現代に至るまで『長州藩の日本』が続いていると思う。だから幕末の長州藩の汚いやり口があからさまになってしまうような戊辰戦争における会津藩の物語は、21世紀の現代に至るまでも隠れたタブーであり続けた。
 私が会津贔屓だからこんなことを考えるのかとも思っていたが、数年前の参院選福島県補選で、長州出身の自民党安部総裁が会津若松に応援演説に行った際、会津若松市民に対して幕末の長州藩の先輩たちが会津に対して行なった非道を詫びたという報道があった。どうせ市民の支持を取り付けるための口先だけではあろうが、140年以上も前の戊辰戦争がいまだに尾を引いているのを見て、私の見方もそう間違ってはいなかったと思った次第である。


アルジェリア人質事件

 今年(2013年)1月13日に発生したアルジェリア人質事件は、日本では想像できないような凄惨な結末を迎えて、日本国民に深刻な衝撃を与えている。アルジェリア南部の天然ガスエネルギープラントを武装勢力が占拠して多数の外国人までを人質に取り、アルジェリア軍の性急な人質奪還作戦の結果、日本人10名を含む多数の外国人が死亡したという事件。外国人犠牲者の中でも日本人の数が最も多く、日本人が主要目標の1つにされたという見方もある。

 日本は戦後一貫して非戦を国是として、おそらく国土を守る軍人がこれほどまで尊敬を得てこなかった先進国は他に無いであろうと思われるほど、極端に武力を排斥してきた。自分が軍隊や武器を持たずに丸腰でいれば、どんな国も日本の国土や国民に危害を及ぼすことはないと、何の根拠もなく頭から信じてきた国民が多かった。

 地獄の沙汰も金次第…まさにそんな諺どおり、金さえ出せば誰も我が国土、我が国民には手を出さないだろうとばかり、1977年の日本赤軍によるダッカ日航機ハイジャック事件では犯人の要求に屈して、獄中から超法規的に釈放したメンバーに身代金まで持たせて犯人側に引き渡した。

 金さえ出せば世は平和、弾丸さえ撃たねば誰にも敵意を持たれない。2004年からイラクのサマワに派遣された陸上自衛隊も戦車や機関銃を先頭にしたわけではなく、住民との協力と宥和を前面に押し出したため、列国の駐留軍隊よりも友好的に迎えられたと言われている。駐屯地に着弾した時には住民が自衛隊を守るデモまで行なったらしい。

 ところが今回のアルジェリアでは相手国にも富をもたらすはずの丸腰の技術者が狙われた。エネルギープラントは相手国にも富をもたらす、それは発展途上国で働く技術者たちの大きな誇りでもあるだろう。しかしそれがあまりに素朴すぎる考え方だと思い知らされたのが今回の事件であろう。
 相手国にもたらされる富の恩恵は相手国政府が享受し、政府を支持する国民にもいくらかの繁栄を与えるだろう、そして相手国政府はその富によって武器を調達し、反政府勢力を弾圧するであろう。
 こういう因果関係を考えてみれば、単なる技術援助、経済援助だとこちらは思っていても、反政府勢力にとって見れば、結果的に戦車や戦闘機で攻めて来るのと大して変わらないことになってしまう。今後は政府と反政府勢力が睨み合っているような国家に派遣する丸腰の民間人の安全対策には、これまでと違った厳重な対策が必要になったということだ。

 これまでも例えば1991年にペルーの極左武装組織センデロルミノソがJICAから派遣された日本人農業技術者3人を殺害する事件もあったが、これほど大勢の日本人民間人が海外で殺害された事件は本当に久し振りである。
 犠牲になられた方々には本当に言葉もなく、ただただご冥福をお祈りするばかりであるが、今回の事件でも改めてマスコミの報道姿勢に疑問が湧いてしまう。おそらくどこの国でも同じであろうが、海外で民間人が人質にされて殺害される事件が起こっても、自国民が巻き込まれない限り、記事は淡々としたもの、その事件から何らかの教訓を引き出そうという意欲に乏しい。日本人が殺されるまでに至る事件があまり多くなかったので、日本国民はあまり海外での危機管理を真剣に考えてこなかったのではないか。

 同じことは領土問題にも言える。世界各地の領土問題など日本人にとってみれば他人事、そう思っているうちに突然降って湧いたような尖閣問題…、竹島や北方領土は相手国に実効支配されているから、まだ諦めの境地もあったが、尖閣はこちらの支配領域に直接威嚇が加えられたわけである。そういうことにどう対処して良いのか、何を主張する政治勢力を支持して良いのか、国民も考えてこなかった。

 海外の在留邦人の危険、我が固有の国土に対する侵略の威嚇、そういう火の粉が直接降りかかってくるまでは、「すべてこの世は事も無し」とマスコミも国民も能天気に構えている。世界各地にはいくらでも教訓とする事件があったのに…。

 ところで今回のアルジェリア人質事件では、最初のうち政府も企業(日揮)も犠牲者の氏名公表を控えてきたが、国民の関心が大きい重大事件であり、国民の知る権利を守るために真実を報道するべきだという観点から、報道機関が犠牲者の氏名公表を求めた経緯がある。確かに亡くなられた方々のお名前をわざわざ秘匿するのも問題かも知れないが、公表したからといって事件をより深く掘り下げられるわけでもなかろう。むしろ御遺族や旧知の方々に執拗な取材を行なってオナミダ頂戴の記事を書いたり、故人の人間関係などを暴いて興味本位の記事を書くことだけは厳に慎んで頂きたいし、国民もそのような低劣な記事を書いた雑誌や新聞などを購入しないで頂きたい。



現代版三国志・赤壁の戦い

 最近いろいろなニュースが多くてマスコミで取り上げない日も多くなったが、尖閣諸島における日中の睨み合いについて、1月末に中国艦が海上自衛隊の護衛艦に対してレーダー照射を行なったことが明らかになった時には、今にも日中戦争が勃発しそうな論調が一部に見られた。
 しかし中国艦艇による火器管制レーダー照射に対して、護衛艦がよく自重してくれたものと感心する。80年近い年月を経て、我が国の軍隊もむざむざ相手の挑発に乗らない自制心を獲得したのではないか。むしろ中国の拙劣さ、護衛艦にレーダー照射して日本側からの反撃を誘発し、それを口実に尖閣乗っ取りを企もうとしたことなど見え透いている。おそらく盧溝橋事件もこれと同じ構図だった可能性がある。

 中国の大陸政府が国民党から共産党に変わろうとも、中国人の戦略的発想にそう大きな違いがあるとは思えない。日本国民ももっと世界に通用する戦略観をもって、今後きたるべき日中対立に備えなければいけないだろう。
 その時に参考になるのは三国志である。我が国では吉川英治さんのものが一番読みやすいし、また一番読まれていると思うが、最近の尖閣諸島における対立は、三国志最大の戦闘と言われる赤壁の戦い前夜に似ているのではないか。

 赤壁の戦いは、2008年から2009年にかけて『レッドクリフ』という2部作の中国映画もあったが、劉備が魏と呉を戦わせて2大国の力を削ぎ、その隙に蜀を建国するという天才軍師の諸葛孔明の策略である。映画の中では曹操の魏がかなり悪玉(ハリウッド映画のナチスドイツにそっくり)に描かれていたが、吉川英治の三国志を読むと、魏の曹操と呉の孫権がまんまと諸葛孔明の手玉に取られたように見える。
 諸葛孔明は誠意をもって言葉巧みに呉の孫権を説得して劉備と同盟させ、魏の曹操に戦いを挑ませる。そして魏と呉の力が拮抗した空白地帯を突いて、劉備を擁立して蜀を建国することになる。この諸葛孔明の戦略観こそを日本人は学ばなければいけない。何でもかんでもアメリカ憎し、鬼畜米英で太平洋戦争に突入したような愚かさは卒業するべきだ。

 赤壁の戦いでは劉備は呉と同盟して徹底的に魏を打ちのめしたが、この戦いの構図は永続しない。魏は赤壁で大敗したが、それでフェードアウトしたわけではなく、最後に諸葛孔明と雌雄を決する戦いを繰り返したのは魏であった。また呉も蜀にとって永遠の蜜月関係ではなく、両国は後に交戦して、劉備の最大の同志であった関羽将軍は呉に討ち取られている。

 まさに昨日の友は今日の敵、尖閣諸島における現代版三国志でも、現在の敵味方関係が未来永劫ずっと続くわけではないことを日本人は認識すべきだ。日本人はこういうことに関して妙に潔癖すぎる。それはある意味で美徳でもあるが、実は大きな欠点でもある。

 21世紀初頭の現在、もしも日中が尖閣諸島で正面軍事衝突すればアメリカ海軍は必ず日本側に味方して、中国艦隊はほぼ壊滅するだろう。アメリカ海軍+海上自衛隊の実力は中国海軍に対して、ちょうど呉の水軍が魏を圧倒する力を持っていたのと同じようなものである。

 しかし魏の遠征軍が赤壁で壊滅しても魏が滅んだわけではないように、東シナ海から中国艦隊を駆逐しても中国政府は相変わらず手強い交渉相手として日本政府の前に立ち塞がるだろう。いつまでもバルチック艦隊を撃滅して日露戦争に勝ったのと同じイメージで国際関係を捉えていてはいけない。
 まるで大相撲の取り組みのようにあまりに潔癖な勝負にこだわり過ぎると、かつての強大な日本陸軍が国民党によって泥沼に引きずり込まれた轍を踏むことになりかねない。極端な話、何十年か先の子孫たちは、日中手を組んでアメリカに対抗していることもあり得る…くらいの認識を持っていた方が良い。国際関係は常に流動的であり、その時その時で自国に最も有利な条件を探りつつ進んで行かなければいけないことを、三国志の歴史は教えてくれるだろう。



海軍兵学校 五省

 旧大日本帝国海軍の士官養成校であった江田島の海軍兵学校には五省というものがあることを、私は高校時代から本で読んで知っていた。1932年(昭和7年)から海軍兵学校で取り入れられた教育で、もともとの意味は『5つの反省』、毎日の日課が終了した就寝前、全生徒が揃ってその日の自らの行動に思いを巡らせて自戒する5項目のことである。

 自習室の壁面に東郷平八郎元帥の筆による五省の文章が掲げられており、当番生徒が読み上げる5項目を聞きながら、全生徒が目を閉じて一日の自分の行動を振り返ったという。

一つ、至誠に悖る勿かりしか 
(しせいにもとるなかりしか)
一つ、言行に恥ずる勿かりしか 
(げんこうにはずるなかりしか)
一つ、気力に欠くる勿かりしか
 (きりょくにかくるなかりしか)
一つ、努力に憾み勿かりしか
 (どりょくにうらみなかりしか)
一つ、無精に亘る勿かりしか
 (ぶしょうにわたるなかりしか)

 
他人に誠意を尽くさない振る舞いはなかったか。
 自分の言葉にウソやゴマカシはなかったか。
 気力に欠けることはなかったか。
 努力が足りないことはなかったか。
 手を抜いたりしたことはなかったか。


 この5項目を反省するわけだが、すべての問いに対して、自分は絶対大丈夫と胸を張って答えられる人間などいるわけがない。これらの項目は5つとも「○○○はなかったか」と否定形で問われているが、これは“ウソ発見器”(ポリグラフ)の原理と共通点があるのかも知れない。ポリグラフではすべての問いに「いいえ」と答えさせると被験者の心の動揺が検出されるようだが、五省の場合、
「誠意を尽くしたか」
と肯定形で聞くと、「大丈夫だよ」と自分に甘い答えをしても心理的抵抗が比較的少ない。しかしこれを、
「誠意を尽くさないことはなかったか」
と否定形で聞かれると、誰でも「ウッ」と返答に詰まってしまうのではなかろうか。

 まあ、いずれにしても私などは高校時代、この五省に感銘を受けて、日記帳にしている大学ノートの裏表紙に全文を書きとめて、毎晩それを読んだものである。その割にはこの程度の人間にしかなれなかったが…。
 戦後、日本に進駐してきたアメリカ軍も五省に感銘を受けたとされている。真偽のほどは不明だが、真珠湾に不意打ちを加えてきた挙げ句、最後は特攻隊まで出してムチャクチャな戦争をする日本海軍の軍国主義的な思想背景を根こそぎ叩きつぶそうと乗り込んできたに違いない連合軍に占領された割には、現在の海上自衛隊の幹部候補生学校・第一術科学校にも五省が残っているところを見ると、連合軍の将官たちもこれは悪いものではないと思ったに違いない。
 また幾つか英訳もされているが、最もわかりやすいものを紹介しておく。もっと格調の高い英訳はアメリカのアナポリス海軍兵学校に掲示されているらしい。
 Have I been sincere?
 Have I been fair in my words and behavior?
 Have I been enthusiastic?
 Have I been energetic?
 Have I been industorious?

 しかしいくら五省しても十省しても凡人の悲しさで、たった1日たりとも満足に生きたと自信を持って言えるはずもないが、このあたりも下村湖人の『次郎物語』でも引用された良寛の歌:
  いかにして まことのみちに かなはなむ ちとせのなかの ひとひなりとも
と相通じるものがあると思っている。『次郎物語』については別のコーナーに書いた。

 旧軍のものは何でもかんでも軍国主義的で悪い、と決めつける風潮が長いこと続いてきたために、兵学校の五省なども、我が国では一般人の前で表立って語られることがほとんど無かったが、やはり時代を超えても良いものは良い。私も昨年くらいから、五省の後ろ3つを1つにまとめて、
  
誠意のない振る舞いはなかったか
  自分の言葉に反することはなかったか
  一生懸命やらなかったことはなかったか

の3項目について、学生さんたちに自分の行動の振り返りチェックをして貰っているが、この年齢にして思うことは、こういう戒めを若い者に教えるということは、年長者自身がさらに強い意志をもって自らを戒め続けなければいけないということだ。旧海軍にはそこまで理解していた上級者がどのくらいいたのだろうかと、特攻隊の歴史など研究してきた者としては多少の疑問は残る。



5月27日は何の日ですか

 最近、受け持ちの学生さんたちのいろいろな書類を書くことがある。学生さんたちが持ってくる書類に必要事項を記入した後、私が医師として、あるいは教師として署名してあげるわけだが、学生さんの氏名に続いて生年月日を訊ねると、まあ当たり前のことではあるが、皆いろんな日に生まれているなと感慨深い。

 昭和64年生まれという子もいる。昭和64年はご承知のように1月7日までしかなかったから、これは希少価値と言えば希少価値、生年月日の申告などすれは他人から覚えて貰いやすいだろうなと思う。私も昭和64年1月7日のことはよく覚えていて、大学の仕事が終わった帰り道、本郷の高台から春日に沈む太陽を見ながら、「ああ、これが昭和最後の夕陽だな」としばらく感慨に耽った。あの時この子はどこかの屋根の下でホギャホギャ泣いていたかと思うと少し可笑しい。
(>_<)
 今年(2013年)卒業していった学生さんなどは平成2年生まれが主力、もう平成生まれが社会人として立派に活躍しているわけだ。彼らの生年月日を記入しながら時代の移り変わりを実感する。私たちも戦後生まれのかなり早い方の世代として社会に出て来たわけだが、もうその私たちが次の新しい世代にバトンタッチする時代になっている。

「平成生まれか、若いなあ。誕生日は?」
「7月4日です。」
「何の日か知ってる?」
「ハイ、アメリカの独立記念日です。」

これは日本でも比較的有名な日である。
「あなたの誕生日は?」
「12月8日です。」
「日本の歴史の中で何があったか知ってる?」
「真珠湾攻撃の日ですか。」

これは女子だったが知っていた。
「誕生日はいつかな?」
「5月27日です。」
「何の日だか知ってる?」
「………???」

この男子は自分の誕生日が、かつて日本にとってどういう意味を持っていたか知らなかった。戦前の男の子ならば誰でもたぶん胸を張ってこう答えただろう。
「ハイ、海軍記念日です。」

 すでに我が国が「海上自衛隊」ではない「海軍」を保有しなくなってから半世紀近くも経って生まれた世代だから無理もない。じゃあ何で戦後生まれのお前が海軍記念日など覚えているのかと聞かれてもちょっと困るが…。
 この際だから余談を一つ、私が東大の病理学教室に在籍した最後の頃の主任教授のお名前は「陸生(りくお)」先生といった。この先生のお名前の由来を察することのできた教室員は、あの当時もほんの数えるくらいしかいなかったのではないか。誕生日は3月10日、ああ、やっぱりね、この日は日露戦争における奉天会戦の勝利を記念する陸軍記念日、つまり陸軍の記念日に生まれたという意味だったのである。

 もう一つの5月27日は聯合艦隊がロシアのバルチック艦隊を破った日本海海戦を記念する海軍記念日であった。現在でも毎年5月27日には横須賀の記念艦三笠で記念祝典が行なわれ、この日は三笠のマストを満艦飾といって色とりどりの国際信号旗で飾り、紅白の幕の張られた後甲板ではパーティーが開かれる。

 日本海海戦については、今でこそ司馬遼太郎さん原作の『坂の上の雲』などで多くの国民がよく知るところであり、一昨年暮れには同名のNHK大河ドラマのクライマックスでCGを使った迫真の映像も制作されて、聯合艦隊旗艦だった戦艦三笠の偉業を知らぬ日本人はほとんどいないだろうが、太平洋戦争敗戦直後はひどい惨状だったらしい。

 1921年のワシントン軍縮会議で廃艦が決まった三笠は1923年に除籍されて解体される予定だったが、戦前の国民の保存運動が高まったので、現在の岸壁にコンクリートで固定されて記念艦として保存されることになった。
 そして太平洋戦争敗戦、連合国の中でもソ連は当然のごとく三笠の解体を強硬に主張したが、アメリカはこれに応じなかった。宿敵アメリカ海軍のニミッツ提督らが反対したという。日本海海戦の圧倒的勝利は全世界の海軍軍人の賞賛と憧れの的であり、ニミッツ提督にも戦艦三笠と東郷平八郎提督への尊敬の念は強かったと思われる。
 かと言って、新たな仮想敵国となったソ連を刺激しすぎることもできず、とりあえず三笠には進駐軍軍人のキャバレーが設けられることになった。アメリカにしてみれば終始、対日戦には勝利したが日本人の魂まで奪ってはいけないという考えがあったように思われ、キャバレー設置も当面のソ連の目を欺くための方策だったように私には思える。

 むしろ三笠をないがしろにしたのは戦後の日本人の方だった。艦上にはダンスホールや水族館が次々と設けられ、取り外せる部品はほとんどすべて切断されて持ち去られ、三笠は金儲けの手段にされたのである。以前このサイトにメールを下さった方がおられて、昭和24年頃に横須賀で学生時代を送ったが、その時の学生寮の部屋に三笠から持ち出した舵輪が置いてあったのを覚えていらっしゃるとのことだった。当時の学生の誰かが「一億総懺悔」の反軍の世相に便乗し、出来心も手伝って三笠から盗み出したとも考えられるが、バルチック艦隊の鼻先で敵前大回頭の取り舵をきった舵輪と思えば、戦後の日本人のその浅はかな行為は悔やんでも余りある。またその方のお話では当時の三笠艦上の水族館も食用の魚を飼うためのものだったようだ。

 こういう三笠の荒廃を見たイギリス人貿易商ルービン氏が英字新聞に投書、大きな反響を呼び、先に述べたアメリカ海軍のニミッツ提督らの助力もあって、ようやく記念艦三笠が復元されたのは1961年のこと、5月27日の海軍記念日に復元記念式典が挙行された。私が小学校4年生の時であった。
 三笠は現役時代も、日露戦争直後に火薬庫の爆発で沈没したり、濃霧の中で座礁したりと、日本海海戦の武運とは裏腹に何となく疫病神に取り憑かれたような艦歴であったが、これで戦後の荒廃時期をも乗り越えて数奇な運命にピリオドを打ち、現在の横須賀の岸壁に身を横たえている。

 日本海海戦(ロシア側の呼称はツシマ沖海戦)後のエピソードを幾つか…。
聯合艦隊の待ち受ける対馬海峡に突入したバルチック艦隊はほぼ壊滅的な損害を蒙ったが、その中の防護巡洋艦アウローラ(アヴローラ、オーロラ)は辛くも虎口を脱して少数の僚艦と共に中立国アメリカ領のマニラに逃げ込んで抑留された。戦争終結でアウローラは故国に戻されたが、続いて第一次世界大戦が勃発するとロシア国内は革命で騒乱状態となり、二月革命に続く十月革命は巡洋艦アウローラによる冬宮砲撃が引き金になった。アウローラは歴史を作った艦と言われたこともある。
 日露戦争は帝政ロシアを弱体化させる大事件だったのだから、ロシア革命の末に誕生したソ連にしてみれば、日本海海戦でパンチを浴びせて革命勢力を側面援護する形になった聯合艦隊にいくら感謝しても罰は当たらないはずなのに、ソ連は第二次世界大戦後に三笠の解体を強硬に主張した。やはりそれが主義や体制を越えた民族の心というものかも知れない。飜って我が国を見れば、原爆のお陰で日本が救われたなどとアメリカ側と同じ発言をする者もいるが、妄言も甚だしいというべきであろう。。
 巡洋艦アウローラはその革命の舞台となったサンクトペテルブルグの河畔で記念艦となって余生を送っている。同じ海戦に参加した日露の軍艦が100年以上の時を経て、共に数奇な運命の果てに記念艦として保存されているのは感慨深い。

 日本海軍の歴史は日露戦争の栄光を頂点として、江戸幕府の海軍伝習所以来わずか90年しか続かなかったわけだが、一方のロシア海軍は300年以上の歴史を誇り、1996年7月28日には創設300周年の記念観艦式が行われている。海上自衛隊の護衛艦くらまも米・中・韓の軍艦と共に、かつてバルチック艦隊が目指したウラジオストックに招待されて観艦式に参列したが、面白いのはロシア艦艇が各時代の軍艦に扮して長いロシア海軍の歴史の寸劇を演じるというイベント、その中で屈辱的敗北だったはずの対馬海戦(日本海海戦)も仇敵日本の護衛艦も参列する中で演じられたという。
 ロシア艦が4本煙突の防護巡洋艦ワリヤーグ(ヴァリャーグ)に扮し、煙幕で大火災を表現している写真があるが(『世界の艦船』1996年10月号)、これは日本軍の手に落ちることを潔しとせず、降伏せずに朝鮮半島の仁川に逃げ込んで自沈した同艦の誇り高い武勲を賞賛するエピソードである。日露戦争終結後に浮揚されて一旦は日本艦籍に編入されるが(艦名宗谷)、第一次世界大戦で再びロシアに返還された、しかしロシア革命勃発のためイギリスに抑留され、1925年に解体された。こちらは三笠やアウローラほど幸運に恵まれなかった。

 日露戦争が始まった時、日本海軍は6隻の戦艦を保有していたが、そのうち初瀬と八島は旅順港封鎖作戦中にロシアの機雷で撃沈され、日本海海戦では4隻(三笠、敷島、富士、朝日)に減っていたので、これに装甲巡洋艦2隻(春日と日進)を格上げして第一戦隊を構成していた。本来ならば三笠、敷島、初瀬、朝日、富士、八島だったはずであるが、戦争とは相手があるもの、そう自分が思っていたようなわけには行かない。巡洋艦日進には後の聯合艦隊司令長官山本五十六が少尉候補生として乗り組んでおり、日本海海戦で左手を負傷した話は有名である。
 敷島は太平洋戦争終結まで在籍して後に解体、富士は空襲で炎上着底、朝日は工作艦となり1942年に米潜水艦の雷撃で沈没、春日は空襲で大破着底、日進は1935年に戦艦大和の主砲弾の実験で転覆と、三笠以外はあまり良い目を見ないまま生涯を終えている。良い時期はほんのわずか、苦難の道のりの方が長い、人の人生も同じようなものかな。

補遺:終戦直後の三笠の舵輪について、当時の学生が盗み出したかも知れないと書いたが、もしかしたら三笠の荒廃を見るに見かねて、舵輪だけでも後世に伝えようと思ってやった可能性も否定できない。しかしそういう意図があったならばそんな人目に付く場所に放置しないだろうし、その後ももっと責任ある態度を示しただろう。
 むしろ後世に伝える意図があったのはアメリカ軍であって、終戦時に三笠から接収した部品は三笠復元時にほぼ完全な形で返還されたという。おそらく世界海軍史上希有な勝利を収めた旗艦の部品を、自国の博物館や海軍施設で大切に保管しようとしてくれていたのではないか。戦後三笠艦上に設置されたキャバレー(トーゴーという名前)も、上に書いたとおり、ソ連の目を欺くための方便であって、アメリカ軍人専用だったそうだ。同じ戦勝国とは言っても、ソ連はもちろん、植民地をメチャクチャにされたイギリスやオランダ軍人の対日感情は憎悪に近かったことを考慮したに違いない。そういう意味で、戦前の日本国民に引き続いて戦後の三笠を守ってくれたのは終始アメリカ軍であったと思う。



年号暗記術

 昔の駅の改札口には駅員さんがハサミを持って立っていて、乗客が手にしている乗車券の端に1人1人切れ目を入れていました。しかも定期券の乗客の場合は有効期限なども素早くチェックしていましたから、これは朝夕のラッシュ時間帯などはもう大変な熟練を要する作業だったと思います。今では都会の駅などはすべて自動改札機が導入されて、ICカードや磁気乗車券を機械がチェックしてくれますから、昔に比べたら改札口の駅員さんの仕事は圧倒的に楽になったと思います。

 しかし今度は自動改札機を通る乗客の方が余計な気を使って、何か妙な動作をする人をたまに見かけます。本当は自動改札機の入口でICカードを1秒くらいかざせば、機械が必要情報を瞬時に読み取ってくれて、そのままスムースに出口を抜けられるんですけれど、中にはICカードを離すと改札口が閉まっちゃうんじゃないかと心配して、改札機を抜けるまでずっと身体を後方に捩りながらICカードを読み取り機に押し付け続けている人がいる、これをされると後続の人は自分のICカードを読み取り機にタッチするタイミングを逸してゲートが閉じてしまうこともあります。これがラッシュの混雑時だと大勢の人が迷惑する。

 あともう一つ、自動改札機を抜ける時にICカードの残額が表示されますが、次から次へと乗客が通って行くような時はこの残額表示のタイミングが少しずつ遅れ気味になります。ところが自分のICカードの残額をチェックするまで改札機を通り抜けずに、表示を確認するまでは意地でも立ち止まって見ている人もいます。これも迷惑ですね。

 …なんて話をするのが目的ではありません。この前、私のICカード(ちなみにペンギンのSuicaですが)の残額がチラッと目に入りましたが、それが嬉しくなるような数字…1192円でした。
 エッ、何が…って?この金額の4桁は1(イチ)1(イチ)9(キュー)2(ニー)、これこそ歴史の年表でかなり多くの人たちがいまだに覚えている年号ではないですか。

いい国作る源頼朝(1192年)
源頼朝が鎌倉幕府を開いて本格的な武家政権を作った年号の覚え方です。この年号は頼朝が征夷大将軍に任じられた年であって、守護と地頭を置いて実質的支配を始めたのは1185年だと主張する人もいるようですが、まあ、どっちでも良いじゃないですか。
いい箱作る源頼朝でも良いですが、頼朝自身は自分が武家政権を作ったと後世言われることになるなんて想像もしていなかったと思います。それに征夷大将軍になって初めて名実共に支配者になったと言えるので、異議ある人もここはひとつ、いい国作る源頼朝でお願いします(笑)。

 こういう年号の語呂合わせ、小学校の社会科で初めて習って以来、いまだに覚えているものがたくさんあります。将来何の役にも立たない受験知識の一つに挙げられることの多い歴史の年号ですが、やはり知らないよりは知っている方が良い。歴史的な観光地を訪れた時とか、過去の事物に関する報道があった時など、そういう時代と自分たちの時代のさまざまな関連に思いを巡らせることが可能になります。やはり人生は一つでも多くのことに興味を持てる方が楽しいに決まってますからね。しかし歴史に思いを馳せるためには、最低限の基本的な年号だけは暗記していないといけません。

私が小学生の頃から覚えてきた年号の語呂合わせを、分かりやすいものだけ選んでご紹介します。大部分は進学教室の社会科の先生が作られたものがベースになってますが…。

後漢書にいつ名が載ったか倭の奴国(57年:外国の文献に倭が初登場)
東より文来る(フミクル)卑弥呼より(239年:魏に使者を送る)
ほっとけ(仏)ほっとけ(仏)ゴミやさん(538年:仏教伝来)
任那の日本府ゴロニャン(562年:任那日本府滅亡)
聖徳太子のコックさん(593年;摂政になる)
人群れ寄って17条(604年:十七条憲法)
カモメ群れなす遣隋使(607年)
大化の改新ムシ5匹(645年)
むろん惨敗白村江(663年:白村江の敗戦)
何と美し平城京(710年)
鳴くよウグイス平安京(794年)
白紙に戻せ遣唐使(894年)
純友・将門苦策の反乱(939年)
いい国作る源頼朝(1192年)
蒙古軍 逃げて帰って一夫なし(1274年:文永の役)
蒙古の人にハイさようなら(1281年;弘安の役)
一味さんざん北条幕府(1333年:鎌倉幕府滅亡)
いざ見よ建武の新政を(1334年)
義満の一つの策なら金閣寺(1397年)
一夜(ヒトヨ)虚しき応仁の乱(1467年)
義政が一件予約銀閣寺(1489年)
以後よみがえる種子島(1543年:鉄砲伝来、異説あり)
以後よく見かけるクリスチャン(1549年:キリスト教伝来)
本能寺 火小屋になって崩れ落ち; 十五夜に信長討たれた本能寺(1582年)
徳川の旗色雄々し関ヶ原(1600年)
恐ろしいトムさん来るよ鎖国せよ(1639年:鎖国令)
野良犬の色やな感じ(1687年:生類憐れみの令)
いやござんなれペリー殿(1853年:ペリー来航)
いやご破算でなく通商を(1858年:日米修好通商条約)
ヨーロッパ(イヤロッパ)だよ明治維新(1868年)
鹿児島の人は斜めに腹を切り(1877年:西南戦争)
憲法発布いちはやく(1889年:大日本帝国憲法発布)
いち躍進の日清戦争(1894年)
日暮れに結ぶ日と英(1902年:日英同盟)
ひとつくれようロシアへ拳骨(1904年:日露戦争)
欧州へ行く銃士(1914年:第一次世界大戦)
講和へと行く行く人はベルサイユ(1919年:ベルサイユ会議)
満州の野へ行く戦人(イクサビト)(1931年:満州事変)
ひどくさみしい国連脱退(1933年:国際連盟脱退)
荒鷲が行くよ一番真珠湾(1941年)
幾度も読む新憲法(1946年:日本国憲法発布)
日本もそろそろ国連に行く頃か(1956年:国連加盟)
ひと苦労も良し東京五輪(1964年)
日韓の国旗が2本○○(丸2つ)(2002年:日韓共催サッカーWカップ)


ざっと思いつくままに並べてみました。世界史バージョンも幾つかあります。

意欲に燃えるコロンブス; 新大陸は石の国(1492年:新大陸発見)
一つの名になろうと13州(1776年:アメリカ独立宣言)
人悩み窮してフランス革命(1789年)
月面に行くむくつけき男たち(1969年:アポロ月面着陸)
20世紀は一瞬にして崩れ落ち(2001年:同時多発テロ)


最後に自分史バージョンを一つ。
人の世に行くのは来いと言ったから(1951年:ドクターブンブン生誕)
人の世に行くのは恋がしたいから…
ではありません(笑)



イプシロンロケットのこと

 宇宙航空研究開発機構(JAXA)が新たに開発した新型国産のイプシロンロケットは、今年(2013年)8月22日に内之浦から打ち上げ予定だったが、それが8月27日に延期され、それでも発射19秒前にロケットの姿勢異常が検知されて再び延期になっている。「はやぶさ」や「かぐや」で世界的に名を挙げた日本の宇宙航空技術陣のことだから、必ずいつかは打ち上げ成功するに違いないが、今度のイプシロンロケットの最大の特徴は打ち上げ管制システムの大幅な簡素化により、極端な話、パソコン1台あればインターネットを通じて世界中のどこからでも打ち上げが可能になったということらしい。

 20世紀後半に入った頃の我が国の宇宙技術は米ソに大きく水をあけられていたが、ここへきて「はやぶさ」、「かぐや」、H2Bロケットと、やっと世界のトップレベルをキープするに至った、しかしさすが日本の宇宙技術は素晴らしい、と手放しで喜んでばかりもいられないのも事実。
 幾つかの科学雑誌や新聞の科学欄にもイプシロンロケットの特徴が紹介されていたと思うが、これで従来よりも低価格で手軽に宇宙開発が出来るようになったことの、もう一つの側面に気付かれた読者はどれくらいおられただろうか。

 手軽に安価に人工衛星を打ち上げられる…、ということは手軽に安価に弾道ミサイルを打ち上げられるようになったということでもある。またまたそんなー(笑)と呑気に構える人が日本では多いかも知れないが、北朝鮮が“人工衛星”を打ち上げると一生懸命に弁明しているのに、日本人も韓国人もアメリカ人も、いやいや、奴らが打ち上げるのは“弾道ミサイル”に決まってる、と最初から決めつけているではないか。宇宙技術と軍事技術はそれほど表裏一体、不可分のものである。

 しかし長いこと平和ボケの時代が続き、軍事音痴の国民が多くなった日本では、日の丸ロケット万歳万歳ばかりで、その裏面を見ようとしない。こんなことだから防衛省からでさえトップシークレットの軍事機密が色仕掛けで中国やロシアに奪われたとか、軍事技術が金で北朝鮮に売り渡されたとか、そういう間抜けなことが起こるのではないか。

 治にいて乱を忘れた能天気な国が今、最新鋭の軍事技術を開発してしまった。この技術がアメリカ合衆国以外の国に流れることがないように、政府も自衛隊もJAXA関係者も抜かりなく対処しなければ、日本は世界からも平和ボケと指弾されることになるかも知れない。むしろイプシロンロケットの技術と引き換えに、アメリカから最新鋭のF22戦闘機の対日禁輸解除を引き出す切り札にするくらいの芸当が必要だと思う。

補遺:イプシロンロケットは2013年9月14日打ち上げ成功。

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