もったいない(MOTTAINAI)


 最近、「もったいない」という言葉が復権した。ケニアの環境副大臣でノーベル平和賞受賞者でもあるワンガリ・マータイ(Wangari Maathai)さんが、日本語のMOTTAINAIは、消費削減・中古再使用・資源再利用・修理の精神を表わしており、今後の地球の環境問題や資源問題などを考えるうえでの重要なキーワードである、と紹介してくれたのである。いずれ英和辞典などにも「It is very mottainai to dump food.」などという用法が提示される日が来るかも知れない。

 何はともあれ、私は幼時から祖母が「もったいない、もったいない」を連発するのを聞きながら育ってきたから、すぐに物を捨てたり、水道の蛇口や電気のスイッチを開きっぱなしにして何とも思わない近頃の風潮には憤りすら感じる。物を捨てられないヤツは駄目だね、と教壇の上で口を滑らせた高校時代の教師に反発を覚えたこともある。

 私が子供の頃は、例えば豆腐を買うにしても、金属製のボウルを抱えて近所の豆腐屋に行き、あるいは独特の笛を鳴らして通りかかった豆腐屋さんを呼び止めて、ボウルに豆腐を一丁なり二丁なり入れて貰って買ったものである。何年か使うと割れたり表面がザラザラになるようなプラスチック製のボウルではない。磨けば一生使い続けられるような金属製のボウルが、一家に1個や2個はあったのである。
 少なくとも、最近のように豆腐が1丁ずつきれいなプラスチックのパックに梱包されていて、食べた後は「燃えないゴミ」の日にポイと捨ててしまうようなところを見たら、おそらく祖母の年代の日本人たちは口を揃えて「もったいない」と言ったに違いない。あのパックだって、幾ばくかの石油とエネルギーを使って出来たものなのだ。

 ジュースや牛乳を飲む時のストローも、自然素材の再利用による中空の麦藁(まさにstraw)であり、しばらくしてビニール製のストローが出来た時には、やはり「もったいない」と言って、1本のストローが汚れて黒くなるまで何回も使ったものだった。ところが現在では、牛乳やジュースのパックには頼みもしないのに立派なストローが1本ずつ付いており、たった1回のお役目が終わると、そのままゴミ箱に直行となる。

 こんなことは数え上げたら限りがない。毎年、お中元やお歳暮の季節にはデパートなどの食品売り場には、進物用の食料品がズラリと並んでいるのを見かけるが、あのうちどれほどのものが捨てられるかと思うと胸が痛む。これは医師として聞いた話だが、せっかく糖尿病の食事療法に励んでいるのに、それを知らない方々から(もちろん善意や好意で)甘い物やカロリーの高い物を頂いて困っている患者さんがいた。しかも進物の季節には重なる物は重なるので、とても家族で消費しきれず、かと言って隣り近所に配るのも、貰う相手にも精神的負担がかかるし、イヤミに受け取られる可能性もあるので、そうしょっちゅうは出来ない。それで仕方なく期限が切れると生ゴミの日に出されることになるらしい。まったくMOTTAINAI話である。

 さらにそういう進物には過剰な包装がつき物である。高級感を出すために、わざわざ桐の箱に入れたり、そこまでしなくてもプラスチック製の木の枝とか花を添えたりしている(これも石油とエネルギーから出来ているのだ)。昔の(平安時代とか江戸時代とか)人たちは、親しい人に何かを贈る時に、自分の庭や近所に咲いたり茂ったりしていた季節の風物として小枝や花を添えて、ちょっとした風情を出そうと心配りをしたのであろうが、プラスチック製の作り物ではそんな風流や風雅も真似できるはずがなく、宅急便が到着した後は、ほとんど一顧もされずに燃えないゴミとなる。
 また美しい色彩で上質の包装紙も、セロテープやガムテープでベタベタ貼られているので、梱包を解く時にビリビリと破かれ、再利用もへったくれもない。昔のデパートなどでは、ベテランの店員さんに限らず、若いお姉さんまでがどんな形のどんな大きさの品物でも、丹念に折り目を作って包んでいって、最後に1ヶ所ペタッとテープで止めるだけで、決して型崩れすることもなかったから、美しい包装紙は何回か再使用することが出来た。

 最近ではコンビニなどで販売される食品の廃棄期限なども見直しが進んでいるというが、とにかく現在の日本は無駄だらけである。立食パーティーの料理の量も捨てられる分量が多いそうで問題だ。

 ここまで読んで、「ウンウン、まことにもっともだ。今回はブンブン先生も至極もっともなことを言っているな」と共感して下さった方も多かろう。しかし本当に難しいのはここからなのである。

 例えばこれまでに上げた無駄の中から、贈答品に添えるプラスチックの造花について考えてみよう。赤や黄色や茶色や緑色などの素材を使って、かなり綺麗に作られた造花も多く、昔の女の子なら喜んでカバンや筆箱に挿したに違いないが、最近では子供たちにすら見向きもされず、ただ捨てられるために作られていると言ってよい。

 ではこういう無駄を完全に省いたらどうなるか、考えたことはありますか?花を作って給料を貰っている人たちの生活はどうなるのか。プラスチックの原料を卸している人、色彩豊かな造花のパーツを製造している工場の労働者、手作業で造花を組み立てている人、材料や完成品を運ぶ人…。こういう人たちの仕事は確実に減って、給料も減ることになるかも知れない。無駄を省けた代わりに、ある作業に従事していた人たちの生活が脅かされる事態になっても良いのですか?

ここでアンケート:あなたの考えはどちらか?

やはり労働者の生活を脅かすのは良くないので、環境資源の浪費と判っていても、無駄な造花を製造し続けるべきだ。

環境資源を浪費すれば、我々の子孫の世代が危機に直面するので、やはり現世の人々の生活が圧迫されてもやむを得ない。

我々日本人はこう問われると、「間をうまく調整して…」とか「両者のバランスをとって…」などと玉虫色の解答で逃げようとするが、どんな解答を捻り出そうが、結局はどちらの立場により近いかを選ばざるを得ないことに気付くのである。

 実際、添え物の花くらいならまだ深刻ではないが、これが医療問題となると実に恐ろしい決断を迫られることになる。私たち現代の日本の医師は、どんな患者さんにも全力で治療に当たることを義務であると考えてきた。だから脳死移植のドナー問題や安楽死問題がクローズアップされるようになると、多くの医師たちは一般国民と同様のショックを感じたのである。

 資源の浪費は良くないことだ、モッタイナイことだ、という時代の風潮は、どんな患者さんにも全力投球するという医師たちの考え方とは、ある部分で相容れないものがある。我々医師を突き動かしている「生命倫理」の立場から言えば、どんな患者さんも決して見殺しにしてはいけないのであるが、これと対立する「環境倫理」という立場があることを知った時の驚愕は大きかった。「環境倫理」の立場から言えば、未来の世代に対して残すべき環境資源は限りあるものであり、現世の人間たちだけで消費してしまってはならないのである。
 ここにはどんな弱者にも手を差し伸べて救おうというヒューマニズムの存在余地がかなり少なくなっているのがお判りだろうか?具体的な内容は医師としては書けないが、船の沈没現場で、この先にも漂流者が大勢いるから、この海面での救命ボートへの収容はこれで中止、と決められるかどうかということである。
 しかし人類という種族は昔からヒューマニズムに溢れていたわけではなく、弱者にも手を差し伸べられるようになったのは、19世紀の産業革命で莫大な余剰物資の蓄積が可能になって以来のことでしかない。

 産業革命以前の人類がどんなものだったか、それを知りたければ深沢七郎さんの「楢山節考」をお読みになればよい。今村昌平監督によって映画化された「楢山節考」の冒頭は、小川に流された嬰児の死体が発見されるところで始まり、クライマックスで老いた親を山へ捨てに行くところで終わる。要するに口減らしである。否応なしに食糧資源の乏しかった時代には、世界中どこの国でも同じだったはずだ。
 そして現在、資源を無尽蔵に使うのは止めましょう、というMOTTAINAI運動が起こるような時代になってくると、再び「楢山節考」の時代の状況に少し近づくということである。

 結局行きつくのは、先の“アンケート”に述べたいずれの立場を重視するかという問題である。
@現世の人々を優先するか
A未来の世代を優先するか

 そこまで問題を先鋭化させなくても良いではないか、という反発も出てくるだろう。人類は何を目指すべきか、という問いに対する私の見解を述べる前に、私の“アンケート”への解答を言っておくと@である。
 もちろん我々の世代で(と言うより、産業革命以後わずか200年足らずの間の世代だけで)地球の環境資源を使い果たしてしまって良いわけではないが、では我々が節約に節約を重ねて、徹底的に資源の消費を削減したところで、未来永劫にわたるすべての世代を救うことは出来ない。これは5000円しか持たずに家出した少年が、毎日の食費を500円から100円に切り詰めてみたところで、自分が成人する日まで持ちこたえられない以上、家出の旅はいつか終わるのと同じことだ。
 人類も「無」から「有」を作り出すことが出来ぬ以上(これは物理学の大前提である)、乏しい財産しか持たない家出少年と同じ運命が待っている。未来のいつの日か、人類を救う画期的な発明・発見があるかも知れないなどとバラ色の未来を語る人もいるが、21世紀の今日、ほとんどの理科系の人間はそんなことを信じていない。確かに現在では応用できない技術が開発される可能性は絶対あるが、せいぜい家出少年が道で1000円か2000円拾うくらいの効果しかないだろう。

 それでも現世の無駄は省くに越したことはない。では浪費を完全に抑制できるのか。現在の日本ですべての無駄を省けば、たちまち消費は冷え込み、雇用状況は悪化して、日本経済は立ち行かなくなるだろう。
 最近ニート(Not in Employment, Education or Training)だフリーターだと、定職に就かない人々を深刻視する向きもあるようだが、ではこういうブラブラしている人たちをすべて抱え込むだけの雇用が日本にあるのか?すべての人たちに定職を与えるとしても、その大部分の仕事は物や資金を流通させたり、物に付加価値を付けて売ったりする、流通やサービス産業がほとんどであろう。贈答品に造花を添えるようなMOTTAINAIことをすべて廃止してしまえば、ニートやフリーターに斡旋する仕事は減少し、働かない人々の数はさらに増加する。つまり日本などの先進工業国においては、すべての国民の就労意欲や労働の動機を満たしきれないほど人口が増え過ぎているということなのだ。

 アルビン・トフラー(Alvin Toffler)のいう3つの波のうち、2つ目の産業革命による産業社会の価値観から、まだほとんどの先進工業国は抜け出していない。すなわち産業社会における大量生産と大量消費、およびその産業構造を維持するための市場獲得の諸原理を、3つ目の波によってもたらされた情報化社会においてもまだ引きずっている。(トフラーのいう3つの波については、本サイトの
別項を参照して下さい。)
 情報化社会においては少子化による人口減少と人口安定化が不可欠である。大量生産・大量消費・市場獲得のために大量の労働者人口やビジネスマン・軍人人口を抱えていなければならなかった産業社会とは本質的に異なるのである。
 日本が将来目指すべき社会について私見を述べる。
@江戸時代程度の人口に安定させる。
A食糧など生活必需品は自給自足を目指す。
B情報交換により国民が個別に最大限の相互の幸福を追求できる。
C海外市場に頼らざるを得ないような膨大な生産は行なわない(それでも雇用が確保できる程度の人口でやっていくことである。)
D外国からの武力侵略に効果的に対処できる程度の軍備は保有する

 ざっと以上であるが、エッと驚かれる方も多かろう。環境資源の保護に最大限の配慮をしつつ、諸外国とも平和的に共存し、なおかつ科学技術の進歩を生かしていく国家の道はこれしかないと思う。
 最近、日本では少子化、少子化と騒いでいるが、次の世代に年金やら国債償還やらの負担を負わせるために人口を増やすなど、環境資源保護の立場からはもっての外の議論である。



ひめゆり騒動

 2005年6月の新聞各紙に報道されていたことだが、東京・青山学院高校の英語の入学試験問題で、ひめゆり部隊生存者の話が退屈で疲れた、という表現があったことが問題となり、校長や学校関係者が沖縄を訪れて謝罪したという。その英語の長文読解問題の文章は、出題した教師が自分の修学旅行時の感想を元にして作ったようで、歴史を次の世代に言葉で語り継ぐ難しさを題材にしたものだそうだ。
 歴史を語り継ぐ大切さと難しさを日頃から痛感している私は、さっそくこの事態を調べようと思って、インターネット上を検索した結果、例の問題全文を入手することが出来た。新聞の報道では、問題文の一部のみが抜粋されているだけなので、正確な情報が欲しかったのである。

 問題全文(原文はこちら)の翻訳を以下に示す。(日本語的思考のニュアンスに移しかえるため、受験用の直訳ではないので、受験生はこの翻訳を参考にしないこと。また英語の先生は採点しないこと!)

 1945年の8月に第二次世界大戦が終わってからすでにほぼ60年が過ぎた。もちろんある人たちにとって、あの戦争はまだいろいろな意味で終わっていないとも言えるので、まだわずか60年しか経っていないと言うべきかも知れない。しかしともかく我々はあの戦争について考えなければいけないし、貴重な戦争体験を忘れてしまってはいけないのである。例えば、日本は世界で唯一の原爆被爆国であり、我々日本人は戦後生まれの者も含めて、人類が二度と同じ過ちを繰り返さないように訴えていく責任がある。とは言っても、すでに60年である。年とともに戦争体験者の数は減ってきており、近い将来、少なくとも20年以内に、我々は戦争の直接体験を聞くことはできなくなるだろう。それから後は我々はどうやって戦争体験や平和への願いを次の世代に伝えていけばよいのだろうか?
 昨年夏、忘れられないテレビ番組があった。実際、それは衝撃的な番組だった。第二次世界大戦を思い起こすための特別企画である。ある作家の戦争体験で、多数の旧軍人たちのコメントもあった。彼ら旧軍人たちの多くはすでに80歳代後半に差しかかっており、杖なしには震える身体を支えることもままならなかった。番組では兵士たちの死体の映像も余すことなく放映しており、私はそのような映像を予期していなかったので、それ以上の正視に堪えられず、チャンネルを切り換えてしまったのである。そういう映像が有意義であることは理解できるが、おそらく多くの人々もまた私と同じように感じたに違いないと思った。ところが驚いたことに、数日後の新聞にある老婦人からの投書が載っており、彼女は投書の中で、その番組から受けた感銘を述べていたのだ。「映像を見せて戴き、ありがとうございました。間もなく私たちは言葉で戦争を語ることは出来なくなるでしょうが、言葉を使わなくても何かを伝えることは出来るのです。我々は真実を示すことに躊躇してはなりません。」この投書を読みながら、私は高校時代のある体験を思い出していた。
 それは沖縄への修学旅行でのことだった。沖縄で我々のクラスは、戦時中のままに保存されている防空壕を見学する機会があった。我々は手に手に懐中電灯を持って、年老いた案内人の後をついて洞窟の奥へと進んで行った。洞窟の内部は暗くてジメジメしており、まさに戦争中のままの状態だったが、そこは却って都会の子供たちにとっては恰好の遊び場でしかなかった。我々は誰かが足を滑らせて転ぶと声を立てて笑った。また内部で声が響くのを面白がったりもした。「ここでキャンプしたら面白いね」と誰かが言った。そいつはまったく素晴らしいね!その時、年老いた案内人が言った、「よし、電灯を消してみよう。」全員の懐中電灯が消されると、あたりは暗闇になった。完全な暗闇である。誰も何も言わなかった。いや、何も言えなかったのだ。「これが戦争なんだよ。私たちがここで考えていたのは、死にたくないということだけだった。もう二度とごめんだね。」出口へ戻る途中、我々は誰も喋らなかったし、もちろん誰も笑わなかった。私は今でも、あの洞窟を出て太陽の光を浴びた時の気持ちを覚えている。洞窟から出ることが出来て本当に良かったと心底から思ったのだった。何人かの女生徒たちが泣いていたのも不思議ではない。案内人は多くを語らなかったが、その体験が何だったかはよく理解できた。案内人が道々言葉をほとんど発せず、我々の質問にもあまり雄弁に答えてくれなかった理由も、その時になって始めて判ったのだった。
 それから我々はひめゆり記念公園に向かった。さっきの洞窟のことは少しずつ忘れかけていたが、次に訪れる場所ではもっと衝撃的な話を聞かされるのではないかという恐れと不安から、やはり我々はあまり喋らなかった。ひめゆり部隊の生き残りの老婦人が我々に語った話は、確かに衝撃的であったし、戦争の鮮やかなイメージを我々に植えつけもした。しかし本当のことを言えば、彼女の話は退屈で私は疲れてしまったのである。彼女が話せば話すほど、さっきの洞窟での強烈な印象が失せていくようだった。彼女は何度も何度も同じ話をいろいろな人々に語っているうちに、上手な語り口の技巧を身につけたのだということが感じられた。彼女の話は、母親が子供に語る寝物語のように安易に聞こえた。もちろん友人たちの中には彼女の話に感銘を受けた者もいたので、彼女の話は無意味だったなどと言ってはならなかった。
 真実や体験を次の世代に伝える作業は重要なことであるが、いったいどうやったら良いのだろうか?何が最善の方法なのだろうか?もちろん最も明確なのは「言葉」による方法だ。言葉の力は偉大である。しかし問題なのは、いかにして我々が言葉による伝達を理解するかである。聞き手が話し手の考えを理解できなければ、どんな良い話もただの言葉の羅列に過ぎなくなるし、また話し手の主張が強すぎれば、聞き手に真実と異なったメッセージを伝えてしまうという問題も起きる。昨年の夏に中国で行なわれたサッカーのアジア杯大会を覚えているだろうか?大勢の中国人が日本チームにブーイングをした。おそらく彼らのほとんどは両親から前の戦争の話を聞き、彼らなりに日本人のイメージを作り上げていったのだろう。もちろん彼らが両親から伝えられた情報が間違っていたなどと言ってはいけないが、彼らの両親は何をどのように子供たちに伝えたのだろうか?
 これまで書いてきたように、我々はいつか戦争の直接体験を聞くことは出来なくなるだろうが、それに代わる方法は幾つかはある。諸君もいつか言葉を使わずに最良のメッセージを送れるようになるだろう。青山学院高校の生徒になれば、修学旅行で長崎を訪れることになり、原爆を体験した人たちの話を聞く機会があるかも知れない。どんなメッセージを受け取れると思いますか?


 この文章は国語的にはちょっと変な文章である。作者は、歴史体験を「言葉」で伝えることは大変難しいと言っている。聞き手に興味を持って受け入れられるように話さなければ無意味であるし、話し手の主張が強すぎても真実が正しく伝わらない可能性がある。前者の例として、型にはまったひめゆり部隊生存者の証言を挙げ、後者の例として中国における戦争体験の伝承を挙げている。
 そして言葉によらない伝承方法が大事であり、事実、作者自身は沖縄の防空壕跡で案内人があまり喋らなかったにもかかわらず、強烈な戦争体験のメッセージを受け取ることが出来たと述べている。
 しかしここで前半の前振りの部分に戻ってみると、最近の自分は「言葉」によらない伝承であるはずの、生々しい戦場の映像から目を背けた経験を述べているのに、そのことに対する反省が一言もない。この文章全体の論旨は、自分自身が非言語的戦争体験を受け取る機会を放棄したことを率直に自己批判することによって初めて完璧になるのであるが、最後の結論を受験生(将来の生徒たち)に中途半端に振って、おざなりに終わってしまった感じである。

 私はこの英語問題が巻き起こした“騒動”について知りたくて、インターネット上で幾つかの掲示板を見て回った。もちろんこの出題英語教師に対しては、どうしようもないバカだ、教育者として問題がある、あの戦争を何と心得ているのか、などといった激しい批判の意見が多かった一方で、こういうことがある種の社会問題になるのはおかしい、あの戦争以後、思想や表現の自由が保障されるようになったのではないか、ひめゆり部隊などの戦争体験を聖域化されたタブーにしてはいけない、といった冷静な意見もあって安心した。また後者の中にも、もしひめゆり部隊の語り部が自分の肉親だったら、という配慮がこの教師には足りなかったのではないか、と分析する人もいた。同感である。

 私はこの問題は思想や表現の自由の観点から論じられるべきであると思う。批判者の中には、いやしくも高校入試の問題にふさわしくない表現だ、と憤る人もいたが、むしろ高校という学問の場だからこそ、どんな表現でも許されると言いたい。
 もし戦前の旧制高校の入試問題に、「天皇も御飯を食べるし手洗にも行くから、我々と同じ人間ではなかろうか」という文章が出題されたとしたら、当時の政府や軍部に限らず、一般の世論はどのように反応しただろうか。今回の一部の人たちの青山学院高校の英語問題バッシングは、戦前のそういう状況に一歩逆戻りしたように思えて無気味である。そもそも高等教育とは、いかなる思想信条に基づくいかなる表現も、学問の対象として冷静に論じられるべき場所だからだ。
 私は、問題が表沙汰になった途端、慌てて“謝罪”のために現地を訪れた校長と学校関係者こそ情けないと思う。世論のバッシングに対して予防的に“謝罪”に走る学校など、国家権力から学問の自由と自治を絶対に守れないに決まっているからだ。

 実は私も沖縄でひめゆり部隊の戦跡を訪れた時に、直接の生存者ではないが、バスガイド嬢や解説者からいろいろ話を聞いたが、ひめゆり部隊や鉄血勤皇隊などを始めとする沖縄戦については書物や映画でくわしく知っていたので、今さらそういう人たちの解説に感銘を受けた覚えはない。まだ10歳代のうら若き乙女たちが軍に徴用されて戦場に身を投じ、次々と敵弾の前に散華していく。そして最後には島の南端に追い詰められて自害して果てたのです、と涙ながらに語られても、ああ、そうですか、と聞き流しているより他にないではないか。

 まさに「言葉」を介して体験を伝え、伝えられるもどかしさである。私も職業柄、医学生や看護学生に戦前の結核症の悲惨さとか、前線将兵たちの飢餓とか、原子爆弾の恐ろしさを、講義の内容に合わせて語ることがある。しかも自分が体験していないことを、さらに次の世代に伝えるわけだから、これこそまさに「言語を絶する」難しさなのだ。
 しかし話の中で、「あなた方くらいの女性が…」とか「この教室にいるくらいの年齢の男子は…」などと話を振ると、それまで寝ていた学生がハッとした表情に変わって、食い入るように私の話に耳を傾けてくることがよくある。
 また医学の本論を講義していても、学生たちは自分と同じ年頃の人間が罹患しやすい病気に関する知識の方が、試験の出来も良い傾向がある。要するに、何事も自分の身に起こったこととして疑似体験しなければ知識として定着しないのではないだろうか。例の文章の出題者だって、防空壕跡の洞窟では真の暗闇の中で不安と恐怖を疑似体験したからこそ、ひめゆり記念公園での語り部たちの「言語的」伝達が色褪せたものに感じられたのであろう。

 実は私の世代も“戦争体験者”なのである。エッと驚かれる方もあろうが、私と近い年齢の方なら、古い記憶を掘り起こせば「戦争による死」への恐怖がこびりついているはずだ。1962年10月、米ソはまさに核戦争の一歩手前まで行ったのである。ソ連がキューバに核ミサイル基地を建設しようとしており、喉元に匕首を突き付けられることになる米国は、当時のJ・F・ケネディ大統領の決断で臨戦体制を敷き、実力阻止を宣言した。いわゆるキューバ危機である。
 米ソ冷戦が熱核戦争に移行する瀬戸際だった。あの時、誰か1人でも決断を間違えていたら、現在の人類は亡かったであろうと言われているほどの史上最大の危機だったのである。
 当時の日本の大人たちは、第二次世界大戦で連合軍と対戦し、あるいはB29爆撃機の空襲に晒されるという切羽詰まった危険を経験していたためか、キューバ危機にそれほど慌てているようにも見えなかったが、10歳を過ぎて、やっと自分の未来というものを感じられるようになっていた私たちの世代には、米ソ両大国の争いに巻き込まれて殺されるという不条理が身に沁みた。毎晩寝る前に、明日も無事に目が覚めるかしら、と心配しながら、部屋の壁や天井や家具などをしっかり目に焼き付けておこうと空しく試みていた頃の恐怖感や不安感は、今でもはっきり覚えている。少年週刊誌に核戦争の読み物が何回か連載されたのもこの頃だ。
 何を大袈裟な、と思うかも知れないが、私と同じ年に生まれた全世界の同胞の肉体には、あの忌まわしい時代の烙印が刻まれている。私たちの永久歯が形成された時期に米ソが繰り返し行なった大気中核実験の結果、私たちの歯には最高濃度の放射性物質が蓄積されているらしい。

 話が横道にそれたが、私が戦争体験に共感できるのは、私にもキューバ危機の原体験があるためかも知れない。しかし、要するに戦争体験にせよ何にせよ、自分のこととして疑似体験させる話し方の工夫が、“語り部”の人たちの側にも足りないと感じていた。「自分たちはこんなに苦労してきたんだ」というような話を、職場の上司からこんこんと聞かされたら誰だって辟易するではないか。
 一部の特攻隊の語り部たちが、聞き手(読み手)を感動させるために、ついに美談を作り始めたことは
神風特別攻撃隊のページの中にも書いた。こうなっては戦争体験を語り継ぐどころではなくなる。むしろ語り継がない方が良いくらいのものだ。
 ひめゆり部隊の語り部たちがどういう語り口をされているのかは知らないが、10歳代の乙女たちが戦火の中で献身的に働きながら次々と散っていきました、可哀そうでしょう、健気でしょう、という語り口ならば今後はもう止めた方が良い。
 特攻隊にせよ、ひめゆり部隊にせよ、そういう若者たちを見込みのない戦場に投入して空しく死なせたのは誰なのか、あるいは何なのか?それをしっかり検証しないような“戦争体験伝承”は、今後は民族にとって有害なものになるだけだ。関係者の方々が何名かでも生存していればこそ、どんな語り口でも不条理の抑止力になるが、当時を知る人たちがすべて鬼籍に入られれば、後に残った者たちは体験者たちが生前語った事柄をもとに、勝手に美談や英雄談や“泣ける”悲劇を次々に仕立て上げ、同じ不条理を却って助長することになりかねないのである。



ある国会議員の死

 2005年8月1日、衝撃的なニュースが走った。自民党(亀井派)衆院議員の永岡洋治氏が、東京世田谷の自宅で首を吊って自殺しているのを家族に発見されたというものだ。郵政民営化法案に衆院本会議で賛成票を投じたことで、派閥内からは裏切り者呼ばわりされ、一部の支援者からは絶縁を宣告されたとかで、かなり抑鬱状態に陥っていたらしい。どうやら本人は法案に不賛成だったらしいのだが、郵政民営化を金科玉条としている自民党執行部からは、次回選挙での公認取り消しをちらつかされたとかいう話で、党執行部と派閥の板ばさみに遭っては非力な議員にあってはなす術がなかったようだ。

 郵政民営化問題については、政治家もマスコミも単に「賛成」か「反対」しか問題にしていないように見えるが、国家財政の破綻が目前に迫りつつあるという危機的状況にあって、賛成派も反対派も大局から物を考えていないとしか言いようがない。
 賛成派は郵政だけ民営化すれば国の財政危機は救われると思っているのか?郵政以外の改革はどうするつもりなのか?自分は郵政閥でないから民営化に賛成しているだけであって、まさか自分の支援団体の利害が絡んでくるような改革が民営化法案として提出されてきた時には反対派に回るつもりではないのか?
 一方、反対派も自分の票田にならない郵政以外の分野の民営化なら賛成するのか?

 どうも政治が小手先の細工に終わっているようにしか見えない。もう与党・野党を問わず、どの派閥も迫り来る日本の破滅に対抗する気迫も能力もなく、ただダラダラと目先の懸案事項に時間を費やしているだけである。似たような状況は太平洋戦争末期にも見られたという。連合軍の侵攻の前に硫黄島が陥落し、沖縄が占領され、本土上陸も間近いという危機の中で、大本営では関門海峡の艀(はしけ)の船頭に米を加配するか否かの大激論を繰り返していたという証言があり、昨今の国会を見ていて、この話を思い出してしまった。

 ところで自殺した永岡洋治議員だが、この方の経歴を見ると、私と同じ年に同じ大学に入学されている。同じキャンパスの空気を吸っておられた方かと思うと他人事ではないが、やはり真面目な人は政界には向かないようだ。「党執行部と派閥の板ばさみ」と書いたが、本当は「自分の信念と党(派閥)の方針の板ばさみ」だ。
 自民党執行部で決めた方針には党員は従わなければならぬという、いわゆる「党議拘束」は違憲かどうか。これは日本国憲法の統治理論の中でもかなり重要な論点である。国権の最高機関である国会の議員は国民の代表であり、議員の政治的意見は国民の政治的意見(民意)を反映していなければならないが、現代の政党は原則として民意を議会に反映させて国家意思形成の主導的役割を志向しているのであるから、政党に属する議員が党議に拘束されるのは、議員の自由な政治活動を保障した憲法に違反するものではないという解釈になるそうだ。
 しかし今回の郵政民営化問題のように、自民党の中でさえ意見が真っ二つに割れており、野党の民主党にも賛否両論があるような状況では党議もへったくれもない。そんな中で民営化法案に反対だった永岡洋治議員に対して、おそらく自民党執行部は公認取り消しなどをちらつかせて翻意を迫ったのだろう。

 もし本当に信念の人だったら、党執行部の方針も派閥の意向も関係なく、堂々と議場で自分の意見を貫いたら良かったのだ。欲望や権謀が渦巻く政界の中で単なる「頭数」になってしまえば、真面目な人は自らを殺す以外に逃げ道は無くなる。
 北朝鮮のような国なら政権に逆らう一票を投じれば生命に危険が及びかねないが、現代の日本で堂々と自分の意見を議場で表明できる政治家が1人もいないということが、北朝鮮とは別の意味で、現代日本の政治的悲劇をよく表わしている。自分の意見を“堂々と”述べているように見える人は確かにいるが、それは派閥の重鎮か政界の要職に就いていて身分が保証されている政治家か、あるいは若手の場合は時流に乗った発言をしている時だけである。
 公認を取り消されるくらい何だと言うのか?職や身分を賭してまで自分の信念を貫ける政治家がいるかどうかこそが、その国の議会が健全に機能しているかどうかの指標だと思う。アメリカ連邦議会最初の女性議員ジャネット・ランキン(Jeannette Rankin 1880-1973)は婦人参政権の確立に尽力しただけでなく、第一次・第二次世界大戦への参戦に両方とも反対票を投じた。好戦的になる議会と世論の中で、彼女は祖国を戦争に巻き込むな、と堂々と述べたのである。もちろん誰からも支持されなかったが…。
 第一次大戦はともかく、真珠湾攻撃まで受けた直後の議会で、対日戦線布告に反対するような、こういう議員が出現するアメリカと比べて我が国の政界や世論の底の浅さを痛感させられる。永岡洋治議員の逝去のニュースに関して、ほろ苦い追悼になってしまった。



御巣鷹山事故20年目

 1985年8月12日に、羽田発大阪行きの日航123便のジャンボ旅客機が群馬県の御巣鷹山に墜落して、乗員・乗客520名が亡くなった大惨事からちょうど20年が過ぎた。御遺族の方々にとって、この20年の歳月がどのようなものであったか想像することは出来ないが、私にとってはあの大事故のニュースを初めて聞いたのが、ついこの間のように思われる。
 当時、私たち夫婦は中国の上海におり、事故の翌日か翌々日に日航機で帰国の予定であった。上海を無事に飛び立った飛行機が日本領空に入り、相模灘沖合いに差しかかった時、機長が泣きながら機内放送をしていたのが印象に残っている。
「昨日(あるいは一昨日)、当社の飛行機が大変な事故を起こしてしまい、多くの乗客の皆様を犠牲にしてしまいました。我々はこの事故の原因を徹底的に究明して、二度とこのような事故を起こさぬよう努力して参る決意でございます。」
というような内容だったが、天候の良い午後のことでもあり、ちょうど左側の窓からは富士山を中心に手前には相模湾から御前崎、奥には房総半島から北関東の山並みまで一望のもとに見渡すことが出来た。つまり事故機の123便が東京を飛び立った後、機体の損壊のため迷走飛行を続けて御巣鷹山に墜落するまでの軌跡が、日航機長には事故情報として伝わっていたのであろう、そのパノラマを見ているうちに、思わず感極まって涙の機内放送になったものと思われる。(一般国民にはまだ事故の正確な経過は伝えられていなかった。)

 あのような大事件・大惨事が起こると、必ずと言ってよいくらい、「実はあの事件の真相は一般に信じられているのとは違っている!」という類の風説が生まれる。
 例えば次のようなものだ。
@タイタニック号は保険金を搾取するためにワザと氷山にぶつけて沈められた、
Aアメリカのルーズベルト大統領は真珠湾攻撃を事前に知っていた、
Bソ連に撃墜された大韓航空機は実はスパイ飛行をしていた、
C同じくその大韓航空機は被弾後着水して多くの生存者があり、ソ連に抑留された、
Dニューヨークの同時多発テロは、戦争開始の口実を作るためにアメリカが自ら仕組んだことだ、等、等。
 そしてこれら異説を主張する人が証拠として挙げている数々の“事実や証言”にはなかなか説得力のあるものも多いが、結局は国家機密などの壁に阻まれて定説になり得ずに終わることがほとんどである。
 例えば、2001年の同時多発テロでハイジャックされた旅客機がペンタゴンに突入したとされる現場写真に、旅客機の巨大な機体や翼の破片が写っていないことを私も前々から不審に思っており、このことを事件の謎として取り上げた番組もあったが、やはりアメリカ政府が“真相”解明に協力するはずもなかった。
 考えてみれば、アメリカが戦争の口実作りのために、旅客機を自ら撃墜しておいて、別の飛行物体をペンタゴンにワザと撃ち込むような謀略をやったとしても、やらなかったとしても、アメリカ政府がわざわざそんな風説に真剣に反論するはずがないのである。もし謀略が本当であれば反論はできないし、ヘタな反論をすれば謀略が露見しかねない。もし謀略が根も葉もないデマだとすれば、そんな身に覚えのない中傷に反論する義務はないし、またムキになって反論を試みれば痛くない腹を探られることになる。つまり当局者としては、黙って風説を聞き流しているのが最善の選択なのである。

 結局、こういう風説を専門家やマスコミが一部のミステリー好みのマニア向けに面白おかしく取り上げることは、御遺族や関係者の心情を考えれば軽々しくやるべきではないが、一方で事件の真相を究明して同じ事件や事故が二度と起こらないようにするためには、当局者側もある程度はこういう“風説”を否定する根拠を公表すべきだと思う。少なくとも、「李下に冠を正さず」と言うように、証拠隠しとも受け取れるような行動は慎むべきであろう。

 御巣鷹山の事故に関しても、機体の圧力隔壁がボーイング社の修理ミスと日航の整備ミスのため金属疲労を起こして破損、客室内の気圧が垂直尾翼内に流出して内側から破壊、この時に重要な操縦装置も切断されて墜落した、というのが公式見解となっているが、これに異を唱える人が多いことは御存知であろう。
 旅客機の巡航飛行高度で客室内の気圧が急激に洩れたとして、果たして垂直尾翼を内側から破壊する力になりうるかどうか、というのが論点である。これに対する科学的な反論は可能である。実験室に実物大の機体後部模型を作って(あるいは廃機になった実物を使って)、想定される最大限の気圧を尾翼部に送り込む実験をすればよい。どういう条件で尾翼が破壊されるかというデータは、今後の航空安全のための貴重な資料にもなると思われるが、私は寡聞にしてそのような科学的実験が行われたという事実を知らない。
 また重要な物証となる事故機の垂直尾翼の破片は、相模湾に落下したと考えられているが、その破片を海底から回収して事故原因究明に役立てようと努力した形跡も、私は聞いたことがない。

 東京の地下鉄日比谷線やJR西日本の列車脱線事故の後、現場で列車の走行実験をして、どのような条件で事故が起こったのかを究明していたことは記憶に新しい。ところが日航123便の垂直尾翼がいかにして破壊されたか、科学的な解明を試みていないことは、日航やボーイング社ばかりでなく、日本政府当局の怠慢と言ってもよい。
 本当に隔壁破壊が墜落の原因だったのか、という疑問がいまだに渦巻く中で、日航はその隔壁以外の機体残骸を廃棄すると発表した。これはまさに李下に冠を正す行為である。本当は隔壁損傷以外の原因があるのに、その証拠を隠滅しようという魂胆があると見られても仕方がない。
 確かに、乗り物の整備不良や部品損耗への対処ミスが原因で事故が起こる可能性は必ずある。その証拠に事故後ちょうど20年目の2005年8月12日(選りも選って)、福岡空港を離陸した日航系列会社の旅客機が空中で火を噴き、エンジン部品を市街地に撒き散らす事故が起きている。陸上では三菱製の自動車の部品の欠陥から事故が相次ぎ、社会的に指弾されたではないか。

 部品の欠陥や整備不良は、乗り物の製造者、運行責任者にとって厳しい社会的責任を問われるものであるが、日航が科学的根拠も曖昧なままに、隔壁以外の残骸を廃棄して、敢えてこの社会的責任を引っ被ろうとしている理由は何か。実は別のもっと大きな社会的責任を隠蔽して、整備不良程度の責任で“手を打とう”としているとしか思えない。
 こういう疑惑を払拭するために、そして何より20年前のあの機長が涙の機内放送で述べたとおり、二度とこのような事故を起こさぬために、日本政府の航空行政担当者はただちに実物大の機体模型で尾翼の破壊実験を施行して、データを速やかに公表すべきである。



人間五十年

 今回は私事で申し訳ありませんが、私もこの世に生を享けて以来、2005年8月末をもって54歳と相成ります。天文学的にはまだ地球は太陽の回りをたった54周しかしていません。また自転も2万回弱しかしていません。「もう俺も年だから」なんて言うと、今の日本では「その年で老け込んだような事を言うな」と怒られますし、同世代の友人などが亡くなると「まだまだ若いのに」と惜しまずにはいられませんが、考えてみれば織田信長は出陣に臨んで、次の「敦盛」の一節を吟じながら舞ったといいます。
 
人間五十年
 下天の内にくらぶれば
 夢まぼろしの如くなり
 ひとたび生を得て
 滅せぬ者のあるべきか

その信長も50歳を待たず49歳(歴史人名辞典の生年と没年から単純に計算)で本能寺に倒れました。信長を倒したけれども、後に三日天下と言われた明智光秀が54歳です。
 こうして考えていくと、歴史上の有名人の中には、私の年齢までにすでにその役割を果たし終えた人がずいぶん多いです。思いつくままに拾っていくと、鎌倉幕府を開いて武家政権を始めた源頼朝が52歳、北条氏を滅ぼして足利幕府を開いた尊氏が53歳、幕末に開国論の先鋒となった佐久間象山が53歳、ただその門下で実質的に幕末日本を動かした坂本龍馬32歳、吉田松陰29歳の死はちょっと若すぎます。
 外国でも、その業績に比べてあまりに若くして死んだのがマケドニアのアレクサンダー大王33歳ですが、平均的なところではフランスのナポレオン52歳、アメリカのリンカーン大統領56歳。

 何でこんなことを考え始めたかというと、別に私も50歳を過ぎてもう人生の役割を終えたとか、50歳までに何も出来なかったのでボンクラのままで死ぬのか、とか悲観したからではありません。
 歴史の中には20歳代、30歳代から理想に燃えて突っ走り、50歳までに使命を成し遂げた人が多いのは事実ですが、そういう純粋な人たちのエネルギーをうまくまとめて歴史を安定させてきた長寿の人もまた多いのです。源氏の政権を受け継いで北条幕府を開いた時政77歳、信長の跡を継いで天下統一した豊臣秀吉は62歳ですが、信長・秀吉の陰で隠忍自重して日本史上最長政権の元を作った徳川家康は74歳、立場を超えて龍馬を支援した勝海舟76歳(ただし江戸城無血開城の時は45歳です)、少し戻って戦国時代に後北条氏の基礎を築いた北条早雲に至っては87歳と、いわゆる古狸、古狐と言われるような人々もいました。いずれも当時の医学や衛生状態を考えれば長命の部類ですね。

 このように歴史上の人物の行跡を追っていると、いわゆる創業と守成というか、自分の理念を掲げて若いうちから行動を起こして突破口をブチ抜き、50歳までに歴史的役割を果たし終えるタイプの人と、そういう人たちを支援して使命を達成させた後、自分は長生きをしてその成果を確実なものとして残していくタイプの人が、うまい具合に噛み合って歴史の歯車が回っているように思います。
 ところで現在の日本は大丈夫なんでしょうか?財政破綻が目前に迫っている中、自他ともに改革の旗手のように振る舞っている小泉純一郎さんは昭和17年1月生れの63歳。本来ならば現在の日本の危機に当たれるリーダーは、蒙古来襲の時代に鎌倉幕府の執権だった北条時宗クラスの20歳代、30歳代でなければなりません。むしろ小泉さんはそういう若いリーダーを陰で支える役回りの年代です。
 まあ、郵政民営化問題が紛糾して衆議院解散、2005年9月11日に総選挙ということですので、極論は控えさせて頂きますが、やはり50歳を越えた狐狸の類の人たちが議席の半数以上を占めるような国ならば、この危機を克服できる活力はもう残っていないと思います。



付録・ああ日本政界
 50歳以下の人間でも、多数決の為のただの頭数として推薦・公認されたような議員ではダメです。期待できません。
 それから60歳を過ぎた人間の改革論も私は信用しません。人間は50歳を過ぎると、いろんな人生のしがらみやら、個人的な体面やメンツや権力欲や野心や恨みや嫉妬から判断を誤るものです。私は医学の業界でもいろいろ見て来ました。これはいずれ書くことにして、政治の世界でも同じだろうと思います。人間のDNAやら中枢神経の構造やら大して変わるものではありません!
 郵政民営化に反対して、いわゆる新党が2つ出来ましたが、政党の要件を満たすために一方からもう一方へ1人移籍したそうです。5人国会議員がいれば政党になれるのですが、6人と4人だったので、1人移って5人と5人で2つの新党になれるように調整したようです。それならなぜ最初から10人でやらないのでしょうか?
 そうかと思えば、最初から「確かな野党を」なんて寝呆けたことを言っている既成政党もあります。与党として政権を担う気力をなくした政党に何が期待できるのでしょうか?そもそも東西ドイツが統合され、ソ連が崩壊し、共産党一党独裁の隣国が問題山積という御時世に、共産主義の看板を掲げ続ける神経が判りません。なぜ「労働党」という普遍的な名称に変更しないのでしょうか?「労働党」こそ国民の味方というイメージがあるのに、古い名称にこだわり続ける政党は、やはり万年野党でしかないのでしょうか?看板は古くても政策は新しい、とか言うつもりでしょうが、誰が『蝋燭屋』で照明器具を買うでしょうか?誰が『紙芝居屋』で液晶テレビを買うでしょうか?誰が『算盤塾』でパソコンを習うでしょうか?結局、国民、国民と言いながら、国民の感覚を判ろうとしないのです。
 二大政党間の政権交代を唱えていた最大野党も、郵政民営化に賛成と言ったり、反対と言ったり、軸が定まっておらず、若ぶって暴走する60歳過ぎの首相に翻弄されるばかりで、何ら有効な政策を打ち出せずにいます。つまりこの野党は、第一自民党に対する第二自民党でしかなく、一部リーグと二部リーグ、J1とJ2の入れ替え戦での勝利を狙っているようなものです。国民を馬鹿にしています。考えてみれば、現在の日本国民ほど政治的に悲惨で不毛な立場に置かれた国民は、世界に類を見ないのではないでしょうか。
 別に私は上記で触れなかった政党を支持しているわけではありません。触れる気もしないだけの話です。若い人たちは御存知ないでしょうが、昔は
社共公または社共公民という言葉がありました。(註・当時は民社党という野党もあった。)過激な左翼運動も盛んだった時代に、健全な野党が3つも4つもあるということで頼もしく思っていましたし、いずれも由緒正しい日本の野党であると思って御尊敬申し上げていたのですが、そのうち自社さという言葉ができたかと思うと、最近は自公という言葉ができました。何のことはない、変わらないのはが右足でが左足ということだけで、残りの有象無象はどちらの内股にも貼り付く便利な膏薬だったのです。野党だと思って投票した有権者にしてみれば、演歌の嘆き節で、
 
貴方にあげた票を返して〜
という心境です。もちろん時代が変われば、左の内股に貼り付いていた膏薬が右の内股に移動することもあるでしょう。ただしその場合は、左足に貼り付いていたことを自己批判してからでなければなりません。そう言えば、
に貼り付いていたことを自己批判せずに貼り付いて総理大臣になり、に貼り付いたことも自己批判せぬまま連立解消した、あの眉毛の長い爺さんは今頃どうしているでしょうか。きっと「良い冥土の土産話が出来た」と、日本人に生まれた幸福を噛みしめているはずです。
 本当に日本は政治的に不毛な国です。北朝鮮やイラクなどに比べて一見平和で豊かに見える分だけ、実情はさらに不毛だと思います。

 私がまだ選挙権もなく、政治にも関心が無かった頃、地元で医院を開業していた両親は、医師会の指令で開業医の利益を守ってくれる候補者へ投票し、周囲へもその候補者への投票を依頼していました。これは必ずしも医師会のみならず、他の大手業界などでも同じだったと思われます。つまり自分たちの業界や地域の利益を守ってくれる代議士を政治の場に送り込んで、他の業界を代表する代議士たちと相互調整のうえ、国の富を切り売りして貰うこと、それこそが民主主義であると勘違いしていた馬鹿な国民が当然受けるべき報いが、今になって巡ってきているのだと思います。郵政問題にせよ、国家財政危機の問題にせよ、結局は国の富を食い物にする政治が横行した結果なのですから。
 私たちの世代がまだ若かった頃、学生運動に共鳴していた同級生たちは親や教師の大人世代に対して、「戦争を止められなかったのはあんたたちだ、日本を汚職だらけの醜い国にしたのはあんたたちだ」と詰め寄っていました。潔癖な青少年時代は誰でも、大人たちの打算的な生き方・考え方が鼻につくものですが、学生運動に懐疑的だった私などは、そんなこと言って大丈夫なのかな、と冷ややかに眺めていたところ、案の定、私たちの世代が大人になってみれば、この体たらくです。

 ところでここ数日、「人間五十年」を書いたついでに、更新履歴の表示もしないまま、酒を飲んで国政の愚痴をこぼしていたら、これが意外に好評を得て(あるいは反感を買って)いるようですが、総選挙の告示も近いので、そろそろ終わりにしたいと思います。
 私が日本の国政について最も憂えるのは、何で60歳代、70歳代のジジイやババアが国会議事堂にしゃしゃり出て来て、ロクな能力も無いくせに威張り散らしているのかということです。40歳代、30歳代の若い議員もいるにはいるが、皆こういうジジイやババアの顔色を窺う腰巾着ばかりで実に嘆かわしい。
 30歳代、40歳代の“若造”は、まだ政治をリードできる立場ではございませんと謙遜せざるを得ないのが、日本をダメにしている物の考え方です。30歳代、40歳代にはまだ政治をリードできる能力が無いと、自他ともに決めつけてしまっているのが日本の現状です。
 19歳で摂政になり、30歳で十七条憲法を定めた聖徳太子は別格としても、明治維新直前、世界最大の市街地だった江戸を戦火から救ったのは勝海舟(45歳)と西郷隆盛(41歳)の会談だったことを思い起こすべきです。40歳代の政治家だったからこそ、あれだけ優れた決断が出来たのだと思います。60歳を過ぎたジジイどもは引っ込め!あんなヤツラに歳費を払っていると思っただけで、納税者としては頭に血が逆流する思いです。



昭和は遠くなりにけり…?

 今年(2005年)は平成17年。昭和天皇が崩御された日、「ああ、これが昭和最後の夕陽だな」と感慨をもって日没を眺めた日のことは、ついこの間のことのように思い出される。小渕官房長官が『平成』と新元号を書いた紙を掲げたテレビニュースの画面も、いまだに記憶の中に鮮明だ。その小渕官房長官は首相に昇り詰めたかと思ったら、現職のまま病に倒れ、その後の政界もすったもんだするうちに、もう平成も17年以上が経ってしまった。

 少なくとも17年目までの平成時代の最大の特徴は、日本が内戦も対外戦争もしなかったということだろう。昭和の17年目はミッドウェー海戦からガダルカナル島争奪戦と、日本が有史以来最大の激戦を戦っていた年に当たる。ただし昭和元年は12月に始まり、平成元年は1月に始まったことを考えれば、昭和の17年目はさらに敗色濃厚となり、太平洋各地で相次ぐ“玉砕”が始まった年ということになる。ともかく史上最大の戦争を戦っていた元号の次に、史上最も平和な元号が続いたのは奇しき因縁だが、この最も平和な時代にあって、我々日本人は「戦争」に対するイマジネーションを完全に失ってしまったのではなかろうか。
 戦争なんか意識しなくても暮らしていける平和が良いに決まっているが、易経だったか、「治に居て乱を忘れず」という古人の戒めは、今こそ日本人に必要な警句ではなかろうか。別に鉄砲や戦車や飛行機でドンパチやるだけが戦争ではない。昨今の企業や銀行の買収や、特許権などでも、国家間に問題が起これば、それは国家の存亡を賭けた立派な「戦いと争い」である。

 戦争を忘れた昨今の風潮をよく表わしていると思われるのは、毎朝放送しているNHKの「朝の連続テレビ小説」であるが、昭和50年代頃までは戦争で夫や婚約者を亡くし、家財を亡くし、それでも力強く立ち上がって生き抜いていく女性がヒロインとして描かれることも多かった。宇宙飛行士や菓子職人や保母や看護師などの専門職を目指す明るい女性たちをヒロインにした最近のシリーズも面白いが、完全に戦争とは無縁のストーリーになってきた背景には、先ず視聴者が戦争を生き抜く女性というテーマを求めなくなったことが挙げられようが、何よりあの時代を描き切ることの出来るドラマ制作者や脚本家がいなくなったことが大きな原因であろう。

 それでも今年(2005年)は終戦後60年ということで、ここ数年、再びあの戦争を舞台にした大型ドラマ企画が相次いだ。もちろんどの作品も戦争を真面目に描こうと精一杯取り組んだ跡が見られ、それなりに評価すべきものであるが、真面目に真剣に取り組もうとしているために却って制作者や脚本家の戦争に関する無知が際立ってしまう結果になってしまった印象が深い。また視聴者の方も戦争に無知であるが故に、製作者が意図しただけの既成の感動から一歩も外へ踏み出すことが出来ないでいるようだ。

 例えば評判の良かったものとして沖縄戦を描いた『さとうきび畑の唄』(2003年TBS)があるが、防衛軍に徴用された主人公の写真屋の親父が、軍隊でもダジャレを連発してオチャラけていたり、何度も隊を抜け出して家族のもとを訪れたりと、制作者の主張のためには必要な脚本だったのかも知れないが、昨今の学生が学校の講義をエスケープしたりする状況とはワケが違うんじゃないの?と言いたくなる。むしろ底抜けに明るかった親父が軍に徴用された結果、魂の脱け殻になってしまうような非人間的な状況こそが戦争の悲惨さではないのか。
 同じスタッフの作品で『広島・昭和20年8月6日』(2005年TBS)でも、戦争末期に旅館の大広間で綺麗な晴れ着を着て御馳走を並べて艶やかな祝言を上げるシーンがあったが、いくら何でもそれはないだろう。米も酒も砂糖も配給品でさえ品薄だった時代、国民は若い女性でさえ質素な国民服とモンペだった時代である。
 『二十四の瞳』(2005年日本テレビ)にも、主人公の女先生が国防婦人会の面々の見守る中で反戦的、厭戦的言動を吐く場面があったが、現在の日本人が公衆の面前で「税金が高すぎる」だの「政治家は能無しだ」などと自由に口にできるのと同じ時代ではなかったはずだ。

 要するに最近の戦争ドラマは、戦争の時代を自由で豊かな現在の延長線上で浅薄に捉えてしまっているために、あの時代を真面目に描こうとする心意気だけが空回りしてしまっているように見える。
 私だって昭和26年生まれの純粋な戦後生まれであることに変わりはないが、こういうドラマ制作者たちよりはあの時代をもう少し肌身に沁みて感じてきたから、こういう時代考証の失敗は滑稽である。これから戦争の時代を描こうとするドラマや映画の制作者や脚本家には、もっと勉強したら、と言いたいが、さもなければ、あの時代の日本は、現代の日本よりは金正日体制下の北朝鮮に近い雰囲気であったと考えた方が間違いは少ないと忠告したい。

 ついでに書いておくならば、ドラマに出てくる小道具の考証も重要である。戦前から戦中にかけての宝塚少女歌劇団を描いた『恋よりも生命よりも』(2002年フジ)で、団員の一人が東京に住む両親に空襲見舞いの電話をかけているシーンがあった。「東京も空襲で大変だって言うじゃないの」なんて、関西から東京へダイヤル1本で長距離電話が通じるようになったのは、私が生まれてからかなり後の戦後も戦後、かなり新しい時代のことである。陸海軍だって無線通信で連絡していたはずだ。また歌劇団のヒロインが空襲で負傷したことを新聞が報じる場面もあったが、現在の芸能界のアイドルが交通事故に遭ったのと同様に考えているのが可笑しい。

 そんな中でも出色の戦争ドラマだと私が思ったのは『零のかなたへ』(2005年テレビ朝日・リメイク版)だった。どうせあの時代のことなど理解できないのだからと、現代人の視点を逆にあの時代に持ち込んだのが成功の原因と思われるが、平成時代の若者が昭和20年8月にタイムスリップして特攻隊員に入れ替わってしまうという設定である。SF的要素を絡めたのが正当派でないと見なされたためか、芸能やマスコミの評論家の評価は必ずしも高くなかったが、少なくとも私は他の作品よりはあの時代を描ききったと思っている。主人公が原爆投下を予言して未来から来たことを証明し、戦争は間もなく終わるから無駄に死ぬんじゃないと他の隊員たちに忠告するのだが、昭和20年の若者たちは内心の生への未練に懊悩しつつも次々と死んでいくのである。
 これが戦争の時代の日本人だったのだな、と私は最もしっくりするものを感じた。軍隊の中でオチャラけている親父よりも、人々の面前で反戦的言辞を叫ぶ女性よりも、こういう青年たちこそが、あの時代に大勢いたであろう日本人だったのだろうと素直に共感できるドラマだった。

 結局、人は自分の生まれた時代の宿命に従って生き、宿命に従って死んでいくしかないのであり、時代の悲劇も希望もその宿命の中にしか存在しないのである。もしあの戦争が悲劇であったと考えるのであれば、あの時代の宿命が何であったのかを理解し、同じ宿命が訪れないようにするにはどうしたら良いのかを考えなければならない。
 世界大恐慌の後、「持たざる国」であった日本はアジア植民地に活路を見出そうとして戦争という宿命に突入して行った。現代日本もまた世界的な金融危機や環境危機、テロの時代にあって難しい舵取りを迫られているわけだが、どうもあの時代と同じような共通項が国民の間に見られるのが気になる。戦争と激動の時代だった昭和は本当に遠くなったのだろうか…?まさかあと何年か、何十年かしたら、我々日本人はあの戦争時代の代わりに、もっと真に迫った新しいドラマの舞台を手に入れてしまうのではなかろうか。



2005年の総選挙に思う


 昭和前期の日本人は有史以来最大の戦争をくぐり抜けてきたわけだが、あの戦争は大日本帝国の軍閥が仕掛けたもので、多くの日本国民たちもまた軍閥に引きずられた“被害者”であった、というのが、戦後今日までのほぼ定説となった一般庶民の歴史観であろう。
 確かにアジア諸国への植民地政策を決定したのは軍閥であった、真珠湾攻撃を決行したのは軍部であった、特攻隊やひめゆり部隊を戦地に送り出したのも軍部であった、その結果、都市空襲や原爆投下やソ連参戦などの重大事態を招き、一般庶民は軍閥に翻弄されてひどい目に遭った、と考える方が、一般国民にとっては「俺は悪くなかった」という言い逃れが出来て好都合である。
 私もつい最近までこの考え方を踏襲していたが、2005年9月11日の衆議院総選挙を眺めていて、国家がどんな決断をしようと、国民がその責任を完全に逃れることは出来ないのだという事実を思い知らされた。

 私のように日頃からズケズケ物を言っていると、選挙のたびに「お前はどこに投票したか?」というような不躾な質問をされることが時々ある。私はこれまで「共和党支持だよ」とか「労働党が良いね」などと適当にはぐらかすのを常としてきたが、今回2005年の総選挙は将来の日本の行く末を誤らせる分岐点となるかも知れない危惧を感じるので、真正面からまともに振り返ってみる。

 2005年9月11日の衆議院選挙は、いわゆる「郵政民営化解散」に引き続く総選挙であったが、今回の法的手続きは日本の将来の進路に重大な禍根を残す恐れがあるのではないか。
 まず最初に確認しておくが、今回は郵政民営化法案が衆議院で可決されたにもかかわらず、参議院で否決されたために、小泉首相が国民の意思を問うという形で衆議院を解散したものである。本来は国権の最高機関である国会が行政府の下に置かれた形だが、この種の衆議院解散はいわゆる“七条解散”といって、通説では日本国憲法第7条3項に基づき、天皇が内閣の助言に基づいて行なう国事行為の一つと解釈されている。特に憲法違反というわけではなく、前回の総選挙時には顕在化していなかった問題について国民の意見を問う意義も大きいとされ、その意味では今回の小泉首相のやり方は正しい。
 しかしなぜ郵政民営化では国民の意思を問い、例えばイラク派兵や撤兵では問わないのか。また例えば消費税を10%以上に上げるという問題が起こった時は、絶対に国民の意思を問うことはないだろう。勝てると思った問題には国民の意思を問う解散を行ない、勝敗不明な問題では行なわない、この辺のところが首相の独善的かつ恣意的な判断に委ねられてしまうところに、現在の国会運営上の法的整備の危うさが浮かび上がってくる。
 例えば将来の某首相が「国家安全保障上の核兵器開発の必要性」だとか「国家自衛上、某国に対する臨戦体制の発動の是非」だとかいう重大問題に関して、国民の声を聞くという名目で、与党が政敵を圧倒する最も効果的な方策の前例が、今回の“郵政解散”で作られてしまったことになる。
 昔は陸海軍の統帥権は天皇にあるという解釈で、主権者たる「天皇」を担ぎ出すによって、陸海軍の統帥部は軍事・作戦の全権を掌握したが(大正デモクラシーがいかに脆弱だったか)、現在の議院内閣制の総理府は「国民」を巻き込むことによって、政治的に全能になりうるのである。

 日本の人々がそういうことまでよく見抜ける政治的に賢い国民であれば問題はないが、果たして我々日本人は「俺たちは大丈夫だ」と胸を張れるのだろうか。
 今回の総選挙では国民はいとも簡単に小泉首相の煽動に乗ってしまったと言える。選挙期間中の小泉首相の発言内容には、子供でも判るようなトリックが2つあった。
 第一に、構造改革は郵政民営化だけではない。他の部門の民営化や機構改革はどうするのか。この点について小泉首相は何一つ語らなかった。
 第二に、小泉首相は「改革を止めるな」と絶叫し続けたが、もともと止まっている改革をどうやって止めることが出来るのか。小泉氏が首相の任期にあった過去4年間、何一つ民営化されたものはなく、国の財政赤字は確実に増加し続けたのだ。何をもってこの4年間、改革が動いていたと言えるのか。「改革を止めるな」と連呼することで、自らの政権の4年間のサボタージュの責任を、巧妙に野党に転嫁したとしか言いようがない。

 こういうトリックを国民は見抜けずに、あろうことか、自民党単独過半数にあり余る議席を与えてしまったのである。郵政民営化一本に争点を絞って選挙戦を戦った小泉陣営の智謀の勝利と言ってよかろう。
 だが実はこの智謀は小泉陣営の専売特許ではなく、古今東西の歴史を見渡せば、これと同じ方法で政権を奪った政治家があった。まず以下の文章を読んで頂きたい。一般大衆を操作するためには、敵=争点を分裂させてはならないと説いている。

人々が一般に成果を戦い取ろうとするならば、純粋に心理的考慮からも、決して大衆に二つまたはそれ以上の敵を示してはならない。そうでなければ、闘争力を完全に分裂に導くからだ。(中略)
ある政党が、もし何かを決定するばあいに、ごく些細なことすら実際に達成しえないのに、すべてを欲しようとするようなでしゃばり屋によって指導されること以上に、政党にとって危険なことはない。(中略)
概してどんな時代でも、ほんとうに偉大な民衆の指導者の技術というものは、第一に民衆の注意を分裂させず、むしろいつもある唯一の敵に集中することにある。(中略)
内的には異なっている敵をいつも一つにまとめなければならない。そうして自分の支持者たる大衆の目には、ただ一つの敵に対してだけ闘争がなされているのだというように、まとめねばならない。これが自己の正義に対する信頼を強め、正義を攻撃するものに対する憤激を高めるのである。


 実はこの文章はアドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)の「わが闘争(Mein Kampf)」(平野一郎、将積茂 訳)の中の一節である。この時代を超えた日独の歴史的共通性に気付いていた人は少数いたようだが、現代日本の大衆はほとんど認識することが出来ず、今回の自民党大勝をもたらした。
 この事実をもって小泉首相をヒトラー呼ばわりし、日本の民主主義は死んだと述べるマスコミもあるが、あまりに感情的である。別に小泉首相はヒトラー的な野心を持っているわけではないし、また民主主義が死んだわけでもない、むしろ民主主義だからこそ、こういう事態が起こるのである。ヒトラー率いるナチスは、最も民主的と言われたワイマール憲法体制下で台頭したことを思い起こすべきだ。
 今回の総選挙から判ったのは、日本国民はヒトラー的な煽動に対して非常に無防備な体質を持っているということだけだ。だから注意しなければならないのは今後である。国民は歴史と政治の学習を怠ってはならない。

 ところであまりに不甲斐ないのは、小泉政権に対峙した各野党である。与党側から仕掛けられた喧嘩だから最初から不利なのは判るが、小泉首相の今回の戦術を見れば、ヒトラーの「わが闘争」を研究してきていることくらい気付くべきだ。野党には“ヒトラー的”な煽動に対抗できる有能な参謀もいなかったのか。
 一つ覚えで「郵政民営化」ばかりを連呼して大衆の力を結集しようとしている相手に対抗しえた手段はただ一つ、野党側も一つ覚えで「社会保険庁解体」を連呼することだったのである。それを年金がどう、子育て支援がどう、外交がどうと、百貨店的に政策を並べたところで、“ヒトラー的”煽動者からはまさに思うツボ、飛んで火に入る夏の虫だった。

 野党がここまで無能だと、これまた国の行く手に禍根を残す。1930年のロンドン海軍軍縮条約調印後、天皇の統帥権が政府に犯されたと憤激する海軍軍令部に同調した野党の政友会は、この事件を与党民政党を攻撃する材料に使った。有効かつ強力な政策論争の出来ない無能な野党というものは、政党人としての使命感もなく、以後の軍部独裁を許すような火ダネまで弄んでしまうのである。

 そういう無能な野党の方々に今後の喧嘩のやり方を教えておいてあげたい。小泉政権、ポスト小泉政権が出してくる政策に対して、一つ一つ芝居っ気たっぷりに「では今度も解散して国民の意見を聞いたらいかがですか」とやり返すことだ。
「消費税率を10%に引き上げたい。」
「解散して国民の意見を聞いたらいいでしょう。」
「自衛隊のイラク派遣期間を延長したい。」
「解散して国民の意見を聞きましょう。まさか自衛隊員の生命が郵政民営化より軽いわけではないでしょう?」
「議員年金問題はもっと慎重に検討したい。」
「先送りして良い問題かどうか、解散して国民の意見を聞いたらいかがですか?」
 それでも巨大化した与党は強行採決で法案を強引に通過させていくだろうが、この繰り返しによって多くの国民にも巨大与党の実体が判りやすいものになっていくだろう。
 ま、私ならそうやります、ということですがね…。



憲法改正について

 最近、自民党のみならず、二大政党論をブチ上げている民主党からも改憲論議が盛んになっている。他の野党がだらしない現在、国民にとっては日本国憲法改正の是非が、今後避けて通れない問題となることは間違いないだろう。
 ところで、私のホームページを比較的丹念にお読みになって下さっている方ならば、例えば次のような文章、
私は上層部にしっかりした責任観念があれば、日本も戦力保持は当然と考えている。(神風特別攻撃隊のページ「特攻の町・知覧にて」)
とか、日本の将来像を述べた次のような文章、
外国からの武力侵略に効果的に対処できる程度の軍備は保有する。(歴史独り旅「もったいない」)
といった文章から、ああ、この人は第9条改正論者なのだな、と漠然と思われているかも知れない。
 しかし私は日本国憲法第9条は、今さら一言一句変えてはならないと考えている。一応、憲法9条全文を引用しておく。

第9条(戦争の放棄、戦力及び交戦権の否認)
@日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
A前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


 憲法9条改正論の最も一般的な根拠は、すでに日本は自衛隊を保有しているじゃないか、インド洋やイラクにも“出撃”したじゃないか、ということである。戦後、憲法に抵触しないように「警察予備隊」という名称で発足し、戦車を「特車」と呼び変えるなど苦心惨憺して成長してきた自衛隊は、確かに現在では世界有数の装備を誇る“軍隊”である。
 この際、現実に合わなくなった憲法の条文を変えておかなければ、特別法の手直しや拡大解釈によって、却って重大なことになる恐れがあると、特に与野党の“タカ派”と呼ばれる人たちは説くかも知れない。

 しかしそれは話が逆ではないのか。憲法条文と現実との間にギャップがあるのは、何も第9条に限ったことではない。国民平等を謳った第14条1項などはどうなるのか。

第14条(法の下の平等、貴族の廃止、栄典)
@すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。


 すべての国民は法の下に平等だと言うが、国政選挙のたびに問題となる「一票の格差」、すなわち議員定数の是正に関しては、歴代与党も野党も大して真剣に取り組んだ跡が見られない。ある地方間で有権者の一票の重みに2倍の格差があれば、単純にどちらかの選挙区の議員定数を1/2にするか、他方を2倍にするべきなのである。それがすべての法律や制度の最高規範である憲法の精神を遵守するということではなかろうか。

 憲法条文と現実との辻褄合わせは、なぜ自衛隊に関しては重要視され、議員定数格差に関しては、これまでも、そして恐らくはこれからも軽視され続けるのだろうか?与野党のタカ派議員の言い分を鵜呑みにして、憲法9条改正やむなし、と思いかけておられた方は、ぜひもう一度、14条との抱き合わせで考えてみて頂きたい。

 ついでに言えば、我が国の現状は別に第9条の精神と著しく異なった方向へ進んでいるとは思わない。我が国が保持しているのは陸海空軍ではなく、あくまで陸海空自衛隊なのだ。
 これは法律家がよく使う強引なこじつけだが、しかし戦争放棄の条文があったからこそ、我が国の自衛隊はこれまで国際的な間違いを犯してこなかったのである。これを第9条の条文を変えて、戦力保持を明文化してしまったら、新条文を基礎にしたさらなる拡大解釈が我が国を再び誤らせる危険が大きい。

 そもそも我が国民は物事を明瞭にせず、悪く言えば馴れ合いで曖昧に処理し、適当に現実に折り合いをつけていくことに長けているのである。憲法14条で法の下の平等を謳いながら、不均衡な議員定数に関しては国民はそれほど騒がず、裁判所も積極的な司法判断を示さず、それでいて何とか極端な独裁制にも走らず、少数党支持者でも相応の権利を行使している実感を保ってきた。
 同じように第9条で戦争放棄、戦力不保持を謳いながら、自衛隊が発展を遂げて海外へ出かけるようになっても、それはそれで良いではないか。隣国からミサイルと思しき飛行物体が飛来した場合、事後承諾のみで迎撃することも公然と検討されるようになった。現在の第9条の下でも国際状況に応じたこの程度の国家安全保障対策は可能なのである。もし戦力保持が憲法で明文化されれば、今度はそれを新たな基点とした曖昧な国防政策が馴れ合いで進行していく可能性の方が高いのが日本という国家ではあるまいか。

 お前はタカ派かハト派かと訊かれても困るが、少なくともハト派ではない。ハトは平和の象徴とか言われているが、動物学者コンラート・ローレンツの「ソロモンの指環」によれば、ハトのように武器を持たない“弱い”動物は、互いに同族同士の争いになった時には、情け容赦なく相手を瀕死の状態になるまで痛めつけるものだそうだ。ところが狼のように鋭い牙を持った動物では、相手が降参のポーズをとった瞬間に攻撃行動が抑止されてしまう。この本能的な抑止力が現代日本の第9条に相当すると私は考えたい。



青年よ、劇場を出よ

 「歴史独り旅」とか題して、まとまりのない事ばかり書いていますが、最初に見よう見まねでホームページを作った時に、教則本にあったままに無理やりサブページを3つ設定し、その後も計画性もないままに取りとめのない事ばかり書き綴っていたら、こんな妙な成り行きになってしまいました。今回は少しこの取りとめのないページを総括してみようかと思います。

 先ず歴史とか大仰な題を付けてしまいましたが、歴史とは別に卑弥呼とか頼朝とか秀吉ばかりではありません。我々が毎日生きていくことがすなわち歴史なのです。若い人たちには判りにくいかも知れませんが、50年ほども時の流れを眺めていると、まさに自分の生きてきた時代そのものが歴史なのだな、と実感することが多くなります。50年といえば、卑弥呼の邪馬台国から現在までの時間の約3%近く、日本史の中の大体1/35を見てきた勘定になるのです。
 私の世代が10歳代だった頃の日本と、現在の日本を比べてみると、大変な違いがあります。高層ビルが立ち並び、高速道路に自動車があふれている。スーパーやコンビニが増えて、夜中でも人や車が行き来するようになった。
 こういう目に見える変化も50年間の“歴史”がなせるワザです。しかし目に見えない変化はもっと凄い。昔は憲法と言えば、特に戦争放棄を謳った第9条に関しては、絶対に変えてはならぬ聖域でした。ところが最近では公然と憲法9条を変えるべきだと唱える人が増えてきたのです。日本の核兵器保持に関しても同様です。これもまた50年間の“歴史”でしょう。

 そもそも歴史というと、源平合戦とか、太閤記とか、そういう事柄を連想しがちですが、例えば改憲論の台頭なども鎌倉幕府開設や信長暗殺と同じくらい重要な意味を持った“歴史的事実”なのです。
 まあ、国内が源平分かれて戦うような時代や、諸藩が割拠するような時代ならば、それらの歴史をドラマとして第三者的に楽しむことも出来るでしょうが、明治維新以来、日本が国民国家としてのまとまりをなして、産業を興し、国力を蓄えて拡張していくことが国是である時代は、現在もまだ続いています。アルビン・トフラーという人が書いた「第三の波」のうち、2つ目の産業化社会です。我々が日々刻んでいる歴史は明治維新以来の連続と言ってよいでしょう。
 次の情報化社会(トフラーの言う3番目の波)が到来するまでは、明治以来の産業化社会と同じ事象が起こっても不思議ではないのです。それなのに我々は明治・大正・昭和の歴史をあまりにも第三者的に眺め過ぎているのではないでしょうか。

 例えば親兄弟の骨肉が争って殺し合った中世や、封建制度の下に人間の身分が生まれながらに固定されていた近世はすでに日本では終わりを告げましたが、諸国家が国境を接しながら軍事的、経済的に互いに競争することが宿命である産業化社会は、21世紀初頭の今日までまだ続いています。
 こういう時代に国家や組織の指導者が国民に要求する義務には、おそらく共通の要素があるでしょう。私は産業労働と国防の2つがその主要な柱だと考えています。しかも民衆に対する国家の束縛と監視は歴史上に類を見ないほど強力になっているのです。
 確かに震災や大飢饉などの災害に際しての支援も含め、国民は国家からある程度の福祉を期待できるようになりましたが、その代わりに国民は当然国家に対する義務を負わなければなりません。この権利と義務の基本的なあり方は、産業化社会にある諸国にはほぼ共通と思われますが、各国の国民性や指導者の資質によって内容は国ごとにかなり異なってくるはずです。

 国家から不当な義務を強制されないようにする、また国家に正当な権利を要求していく、国民は常にこの事を肝に銘じておくべきなのに、どうも最近の日本人、特に多くの青年たちが、日々作られていく“現代史”に対して第三者的になっているように見えるのが気になります。
 先日2005年9月11日の総選挙で、20歳代有権者の与党支持率が意外に高かったそうです。昔ならば青年層の過半数は「国家権力嫌い」であるというのが相場でした。しかし、どこの調査か忘れましたが、最近ではこの比率が逆転していることに驚きました。

 確かに教育戦争をくぐり抜けた挙げ句、就職も思うに任せないというような閉塞感が漂う時代です。最も見栄えの良い党首が白髪を振り乱しながら、
You say mean acre!
などと絶叫するのを見て、意味もほとんど考えないままに、
Yeh, we say mean acre!
などと応じてしまった人がいたかも知れません。もちろん若い人でも、真面目に考えて与党に投票した人は大勢いるはずですが…。

 しかし総選挙後しばらくして、これもどこの調査か忘れましたが、憲法改正についての世代別アンケートが掲載されました。多くの人が憲法改正を肯定していましたが、内容は「もっと判りやすい文章にする」とか「プライバシーなどの新しい権利を盛り込む」などということです。
 憲法9条改正には否定的な人が過半数でしたが、年配者ほど「改正が必要」と答える人の比率が高く、20歳代では最低だったのが印象的でした。それはそうでしょう、もし9条が改正されて戦力保持が明文化されたなら、その後ウヤムヤな拡張解釈の末に兵役に就くのは、現在10歳代、20歳代の人たちですから。
 30歳代、40歳代、50歳代、60歳代と年代が上がっていくにつれて「9条改正が必要」と答える人が増えてくる現実を、若い人たちはどう眺めているのでしょうか?大人なんてこんなものです。自分さえ安全地帯にいれば、どんどん現実に妥協していって、どうしようもなくなれば、最後は若い人たちに尻拭いをもって来るのですよ。こんな大人と一緒になって、“現代史”をドラマみたいに眺めていて良いのですか?

 九州の知覧にある特攻平和会館の一角に、次のような句が掲げられています。
野畦の草 召し出されて桜哉
20歳になるかならぬかという若い特攻隊員の詠んだ句です。田舎の畦道に茂っていた自分のような者でも、軍に馳せ参じて栄えある特攻隊員として桜のように散っていけるのは光栄だ、という意味でしょう。毛筆も立派で、とても最近の若者などに書ける字ではありませんし、私など読めないほどの達筆です。
 特攻隊員として選ばれて、飛行技量を磨き、精神を修行するうちに、生まれてわずか20年も経たない少年が、これだけの字を書き、これだけの句を残せるようになったのです。その過程を考えると、この句は涙なくして見ることは出来ません。
 しかし私は、これからの若者たちからこんな形で感動を与えて貰いたくありません。これは松井秀喜選手とかイチロー選手とか五輪選手たちのような若者から受けた感動とは異質なものです。

 少年飛行兵とか予科練など当時の飛行機乗りを志願した少年たちが目指していたものは、例えば零戦の撃墜王の坂井三郎さんのように、自分の腕一本で大空で戦い、郷土の誇りになりたいということだったはず、その過程での戦死はもちろん覚悟の上だったでしょう。しかしたった1回こっきりの出撃で、10歳代、20歳代という若さで強制的に死なされてしまうとは…。
 誰が特攻隊員たちの30歳の日々を奪ってしまったのか。それは特攻を命じた指揮官であり、戦争を継続した軍部であり、戦争を表向き支持した国民たちだったのです。多くの国民たちは、航空隊の柵の外側の安全地帯から歓呼の声を上げて傍観していました。まあ、私たちもイラクに行った自衛隊を傍観しているわけですが…。

 別の特攻隊員は次のような川柳を残しています。
特攻隊 神よ神よとおだてられ
誰がおだてたのか。軍の指揮官たちも「諸君は神である」と訓示したと言いますが、それだけではなかったと思います。当時の新聞は特攻隊出撃に際して、「壮烈、神鷲の肉弾行」などと称え、一般国民もまた外出した隊員たちに手を合わせたり、歓呼の声を上げたりしていたのではないでしょうか。
 俺たちを神様呼ばわりして、不都合なことを押しつけようってんだな、という隊員の内心の怒りが伝わってきます。誰に対する怒りか。それは司令部の中、航空隊の柵の外ばかりでなく、絶対の時の障壁を越えた後世の安全地帯にいて、無責任に彼らを称える我々大人社会に向けられているように思います。

 日本の大人社会は最終的には若者を守りません。太平洋戦争末期のさまざまな“歴史的事象”はそれを証明しています。私はこれからの日本の若者たちが、大人社会の尻拭いをさせられないような、またさらに次の世代に尻拭いをさせない大人になっていくような、そんな日本を作るにはどうすべきか考えています。
 そのためには若者たちが劇場型の社会から抜け出して、政治や経済など国の在り方を理性的に自分の頭で考えていくことが必要でしょう。イラク派兵を命じ、その国策に沿った憲法改正を明言し、特攻隊を賛美する言動を弄した首相が、9条改正に反対者の多い20歳代有権者の支持まで得て大勝するような国が、これから先どのようになって行くのか、不安を禁じ得ません。



日本庶民経済史

 今回は別に固い話をするわけではありません。私が昔につけていた“小遣い帳”が本棚の奥から出てきたので、その内容を皆様にもお見せして、昭和時代の庶民のフトコロを偲ぼうというわけです。
 大体何でも記録にとどめておけば、何年か何十年か経ってみると、それはそれで立派な“歴史の記録”になるから面白いものです。

 さて私は几帳面な人間です。いや、几帳面な人間でした。船乗りに憧れていたものですから、
スマートで 目先が利いて几帳面 負けじ魂 これぞ船乗り
という格言は私の人生の指標でした。
 ところが結婚してから私はズボラになりました。概して男というものは結婚するとズボラになるものです。なぜなら女というものは、着る物だとかアクセサリーだとか、大概の男にとってはちっとも面白くない商品に、信じられないようなお金を投資するからです。そんな女と一生うまく付き合おうと思ったら、あまり几帳面にカミさんを“監視”しない方が良いみたいで…。もっとも女の方も、男なんて何の役にも立たない夢みたいな物に、信じられないような無駄遣いをすると思ってるんでしょうが…。

 しかし女性の経済観念ほど男にとって判りづらいものはありません。香港の九龍半島の奥にJade Market(翡翠市場)があります。もちろん本物の翡翠で作られた高級品も売っているのですが、偽物も多いから素人は安物狙いで冷やかすだけが無難と言われています。
 私も香港に行った時、カミさんと一緒に土産探しにこの翡翠市場に行きました。そこに明らかに偽物と判る玩具や装飾品ばかりをゴッソリとゴザの上に並べて売っている威勢の良いオバチャンがいて、そこに売っていた豚の飾り物が気に入ったので10個くらい買いました。一見翡翠のように見える緑色の練り物を細工しただけの豚の置き物で、手のひらに乗るくらいの可愛い綺麗な物でしたが、一つ一つ微妙に形が違っていて、型に嵌めて作ったのではないことは明白です。
 日本円で1個90円くらいだったので、オバチャンの言い値で買おうとしたら、カミさんが横から口を出して80円くらいにマケさせました。関西人なら男でもそのくらいのことをやるのでしょうが、関東の男にはそんなことは出来ません。カミさんが頼もしく見えましたが、その後、市内の免税店に行ったら、翡翠市場でマケさせた100円(1個につき10円×10個)はアッと言う間に雲散霧消してしまいました。
 結婚している男性(特に関東在住の方)なら似たような体験をお持ちの方は多いのではないでしょうか。あなたの貴重な体験談をお待ちしております。
 余談ですが、偽物翡翠の豚の置き物を職場の女性に「ビトン(美豚)だよ」と持って行ったら、気に入って貰えたらしくて、いまだに大事にしてくれているようですから、女というものはますます判りません。

 さて今回の本題ですが、私が記録していた昭和51年(1976年)頃の金銭出納帳から、いくつか項目を抜粋してお目にかけましょう。いちいち細かいコメントをつけなくても、十分だと思います。
 
喫茶店のコーヒー 200円〜250円
 ピラフ 350円
 中華丼 320円
 まぐろ丼 350円
 天丼 500円
 国鉄(今のJR)基本運賃 60円
 営団地下鉄基本運賃 70円
 西武線基本運賃 60円
 都バス運賃 70円

値上げの時期とか微妙な差はありますが、大体こんなもの。

 これが昭和49(1974年)年頃だともっと安くなります。
 
ホテルのコーヒー 300円
 餃子ライス 270円
 まぐろ丼 300円
 牛乳パック 35円
 国鉄基本運賃 40円
 営団地下鉄基本運賃 60円
 国鉄東京〜京都 2080円
 都バス運賃 60円
 週刊プレイボーイ 150円


 驚いたことに昭和38年(1963年)頃の金銭出納帳もありました。
 
アイスクリーム 10〜20円
 牛乳 20円
 蕎麦とかき氷 150円
 昼食 100〜150円前後
 都バス運賃 40円
 少年サンデー 40円

 
 こんなささやかな経済でしたが、昭和38年3月の欄に「
利息192円」とありました。小学生でしたが、使わないお金は郵便局に預けなさいと親に言われていましたから、その利息と思われます。2〜3年分かとも思われますが、それにしても最近の私の銀行預金通帳に「リソク」として記帳される金額と大して変わらないんじゃないでしょうか。

 タイムマシンで昭和30年代に行けたら豪遊できますね。ただし福沢諭吉ごときの一万円札なんか出したら、ニセ札犯として逮捕される前に、こども銀行券かと笑われてしまいそうです。何しろ一万円札は由緒ある聖徳太子でしたから。

 あの頃に比べて日本の経済は確かに大きく成長しました。でも10円で買えたアイスクリームが100円になっても、その金額を支払う時のフトコロの痛み具合は、今も昔もそれほど差がないように思います。だからその額面の分だけ日本経済が膨らんだと考えて良いでしょう。
 しかしあのバブル経済は何だったのでしょうか?東京23区の地価でアメリカ全土が買えるとか言って日本中が浮かれていた時代でした。何で買っておかなかったのでしょうか?(売ってくれるわけねーだろ!)
 一億国民あげて日本経済は強い強いと自惚れていました。戦前の日本軍部が、アメリカ兵は弱いから日本軍が突撃すれば逃げる、と侮っていたのと同じ心境だったかも知れません。こういうところに歴史の相似形を見出して対処していかなければならないのです。
 日本陸海軍は完膚なきまでに打ち負かされました。日本経済ももはやズルズルと後退するしかないのでしょうか。先頃の郵政民営化は単なる構造改革のための公務員整理だと思っていてはいけません。国民の郵便貯金を一挙に投入した経済戦争における新たな決戦、乾坤一擲の大博打なのです。ソロモン方面で押しまくられた日本軍がマリアナ方面に決戦場を策定したようなものでしょうか。
 問題は日本経済にこんな大博打を打てるほどの実力が残っているかどうかでしょう。さんざんに食い荒らされてオシマイ…ではないかと思っていますが、そうなると次は経済特攻隊が出ます。国民の預貯金凍結に近いことになるでしょう。生命まで国家に召し上げられなくて良かったと諦めるしかありません。
 そして敗戦後は再びアイスクリーム10円の時代になるのです。もちろん給料の額面もそこまで下がります。また今はアイスクリーム1本強の値段で買えた1米ドルが、アイスクリーム36本分出さなければ買えないということにもなります。それが私の“今次経済大戦”の終結までの予想です。



考える遺伝子

黒船が来なければ日本は開国できなかった。
原爆を落とされたおかげで日本は終戦にもちこめた。

この2つの文章は、日本史の中で同じ事象を表わしていると言ってよいだろう。要するに日本では外圧が無ければ、指導者も民衆も動かないということを端的に言い当てているからである。

 これはある意味で非常に自虐的な歴史観である。日本人は外圧が無ければ何も決断できない民族、すなわち自分の頭で物を考えられない民族だと言っているようなものだからである。だがこれは一理ある。
 確かに幕末の幕閣の中にも勝海舟のような人物がいて、世界の中の日本を考えていた。太平洋戦争末期にも、もはや勝ち目はないとして終戦工作を考えていた人物もいた。しかしこれらの人々も、結局は黒船や原爆をテコとして作用させなければ日本を動かすことは出来なかったのではないか。

 どうして日本には最後の最後まで自分の頭で物事を考えようとしない人が多いのか。どうして外部からの力に完全に身を任せてしまう人が多いのか(政府や議会の中でさえも!)。相手が天災であれ、お上の権力であれ、日本人はあまりに従順に身を任せてしまうことが多すぎるのではないか。

 2005年9月26日、アメリカのワシントンで行なわれた反戦デモの記事は象徴的だった。このデモでイラク戦争で息子を戦死させたシンディ・シーハンさんという母親が逮捕されたという。この母親は息子をイラクに派遣した現政権に対して直接対決しようとしたのである。
 そう言えば、日本では太平洋戦争は悪い戦争であったとして一億総懺悔と言われた時代にあっても、特攻隊員の母親が反戦運動の先頭に立ったというような例はなかったのではなかろうか。

 日米の文化の比較で興味深いたとえ話がある。子供連れの母親が道でクマに襲われたらどうするか。日本の母親はクマに背を向けて子供を抱え込み、クマから子供を守ろうとするのに対し、アメリカの母親は子供を背後に隠して、自分は両手を広げてクマに相対するという。
 道で猛獣に襲われることなど滅多にない日本とアメリカであるから、これはあくまで単なるたとえ話であるが、クマを国家権力と言い換えれば、日本の特攻隊員の母親たちの多くが息子の思い出を抱えながら悲しみのうちに余生を生き、決してイラク反戦運動の母親のように国家権力に立ち向かおうとはしなかったこととよく符合するように思われる。
 もっともアメリカでもシンディさんのような母親は少ないだろうが、イラク戦争の支持者も多いアメリカ国内で、息子を戦争に奪われた母親が自分の心情をこういう形で国家権力にぶつけることが可能なアメリカという国の精神的土壌は、やはり日本とは異なっていると考えた方がよかろう。もし戦死した日本兵の母親が戦後の反戦運動や反米運動の先頭に立っていたりしたら、おそらく戦後の時代であっても日本の“世間”は「英霊の面汚しだ」とか何とか言って彼女を異端視したに違いないからだ。その意味では“世間”の圧力もまたクマと同じか。

 相手が猛獣であれ、国家権力であれ、世間の圧力であれ、そういう外圧に背を向けて身体を丸め、目を閉じて念仏でも唱えながら、ひたすら外圧が去るのを待つ、あるいは自分を救ってくれる別の外圧が現れるのを神頼みする、こういう日本人の精神的土壌がどのように形成されたかというのが今回の話題である。

 大切なものを背後に守って“外圧”に立ち向かうためには、まず自分の頭で作戦を考える必要がある。クマに遭遇した場合には、戦うのか逃げるのか、戦うとすればどうやってクマを倒すのか、逃げるとすればどちらへ逃げるのか。適切な判断を下すためには、その場で自分の頭で状況判断することも大切だが、普段からクマの習性やら弱点やらを研究しておくことも必要だ。
 だが日本人にはこの心構えがスッポリ抜け落ちていると言ってよい。想定される“外圧”にはどういうものがあって、それらはどういう性質のものかという普段からの研究ができていない。またその場で適切な状況判断を下すような訓練も不足している。
 最近では「危機管理」というしゃれた言葉があるが、適切な危機管理を行なうためには、国民1人1人が自分の頭で物事を考えて対処していく能力が必要だということが十分には理解されていない。別に山間部に足を踏み入れる人でなければクマの弱点など研究しておかなくてもよいが、政治危機、経済危機、自然災害などに関しては、政府・自治体関係者から国民1人1人のレベルまで、各自が対応を“考えて”おかなくてはならないのに、どうも日本人はこの種の能力が欧米諸国に比較して致命的に見劣りしているように思えてならない。

 自分で考えて“外圧”に対処するような能力もまた、遺伝子によって決定されるというのが最近の生物学の考え方である。と言うことは、日本民族(古来から日本列島に居住してきた“日本人”)の間には、自分の頭を使って危機を切り抜ける遺伝子が格段に少ないのではなかろうかという仮説が成り立つ。

 しかし、もし人類の起源がアフリカ大陸であるとすれば、“日本人”というものは故郷を離れて、さまざまな危機を乗り越えてユーラシア大陸の一番遠い所まで行き着いた人々の末裔ではないのか。さらにベーリング海を越えてアメリカ大陸へ向かった一群もあったろうが、少なくともヨーロッパあたりにとどまった人々の末裔に比べて、危機に対処する遺伝的能力が劣っていたとは考えにくい。

 噴火や地震や台風など、人知の及ばぬ自然災害にさらされる日本列島で生活するうちに、“日本人”はひたすら頭の上を“外圧”が通り過ぎるのを待つような民族性を獲得したのだという説もあるが、これは自然淘汰の考え方に反するであろう。そういう苛酷な自然環境の中で生活するとすれば、遺伝的に危機管理能力のある個体が他を圧倒するはずだし、危機管理遺伝子は日本人集団の中で増えこそすれ、減少することはないに決まっている。
 例えば織田信長は暴風雨を逆に利用して今川義元の大軍を撃破したが、苛酷な自然現象でさえも自分に有利に利用できる遺伝子を持つ個体にとっては、日本列島はまさに独擅場だったのではないか。桶狭間のような戦いは古来から日本列島のあちこちで繰り広げられていた可能性がある。

 では“日本人”はどこで危機管理遺伝子を失ってしまったのか。一つの仮説は、この種の遺伝子を持つ人々が大挙して日本列島を離れてしまったということである。例えば南九州には桜島や南方海上の鬼界カルデラなど多くの活火山群があって、その一部は縄文時代にも大噴火をしたことが遺跡の火山灰調査から判明している。
 日本列島の最南端で大噴火が起これば当然気象は激変して、寒冷化のため人々は食糧危機に直面したであろう。飢餓続出、食物を巡る部族抗争に明け暮れる日本列島に見切りをつけて、海の彼方に新天地を求めた人々も多かったと思われる。
 この時、状況判断に基づいて積極的に行動する遺伝子を持った“日本人”の大多数が黒潮に乗って新天地を目指したとすれば、そういう危機管理遺伝子の大量流出のために、その後の“日本人”の遺伝的な危機管理能力は縄文時代を境に格段に劣化した可能性がある。ちなみに南米大陸の太平洋岸には縄文土器と類似した紋様を付けた土器の破片が多数出土するといい、さらにそこにはモンゴロイドの血筋が確認されるというが、縄文時代に日本列島を脱出した人々の末裔だと考えれば面白い話ではないか。

 しかし仮に縄文時代に“日本人”が危機管理遺伝子を失ってしまったとしても、その後、日本列島を征服した朝鮮渡来系の人々の中には同じような遺伝子が多量に集積されていたのではないか。なぜなら朝鮮渡来系の“日本人”もまた、朝鮮半島がおそらく政治的、経済的に危機を迎えたために、故郷を捨てて日本列島の新天地に遠征を企てるほどの能力を備えていたはずだからである。
 この時に流入した危機管理遺伝子がどこに消えたか、それはおそらく日本史の闇のままかも知れない。日本の古代史にはいわゆる暗黒時代があって、卑弥呼の邪馬台国が在った頃から大和朝廷が成立するまでの100年あまりの間のことは何も判っていないのである。古代日本の恥部となるような大量虐殺、大量粛清があった可能性も否定できないのだ。“日本人”の人口がせいぜい数万単位の時代に、ポル・ポト政権時代のカンボジアのような政治的事件が起こったとすれば、そしてそれがある種の気質を持った人間を狙い撃ちするような粛清を伴った事件であったとすれば、そういう気質や性格を規定する遺伝子の頻度は大幅に変動するはずである。

 とりとめもない想像の話であるが、自分の頭で考えて物事に対処する能力は、実は遺伝的ではなくて後天的に学習するものであるという考え方もある。森達也さん・森巣博さんのお二人が対談の中で、戦後の文部省は日本人に自分の頭で物を考えない教育をしたと言われているが(「ご臨終メディア」-質問しないマスコミと一人で考えない日本人-:集英社新書)、戦前の日本人もまた軍官民各自が自分の頭で考えたとは言い難い歴史を作ってしまったし、黒船が来るまで開国しなかった江戸幕府の官僚体質なども考えると、やはり遺伝的な要素を無視できないようだ。



最も恵まれた世代

 私は日本列島に生を享けて五十余年、最近よく折に触れて考えることがあります。私と同じ世代の日本人は世界で最も幸運に恵まれた人間だったのではなかろうかと。

 まず戦後に生まれた日本人は私たちの世代に限らず、大きな戦争を経験していません。私たちは空爆に怯えることもなく、戦車に蹂躙されることもなく、一発の銃弾や爆弾で虫けらのように殺されることを心配せずに成長することができました。世界の他の地域では戦火が絶えたことは1日もなかったのに、私たちにとっては切実な問題ではありませんでした。もちろん徴兵制もありませんでした。

 次に私たちの世代が幼年期から青年期を送っていた時代、日本は世界で最も治安の安定した国でした。わずかな例外はありましたが、私たちは身代金目的で誘拐されたり、強盗に殺されたりすることを、それほど恐れる必要はありませんでした。最近では日本でも、特に少年少女を取り巻く治安環境は悪化の一途をたどっています。

 また大震災や強烈な台風に見舞われた幾つかの地域はありましたが、そういう地域に居住していなかった幸運な者たちは、青少年期に大災害に直面しなくても済みました。食うや食わずの大飢饉もありませんでしたし、疫病の大流行もありませんでした。

 私たちの世代は戦後の日本経済とともに成長してきましたから、幼かった頃は幼いなりに、そして年齢が上がってくるにつれて、必要な物がそれなりに周囲に揃ってきたように思います。例えば子供の頃には思いきり遊びまわれるような原っぱや路地裏がありましたし、知恵や知識が増えてくるのに合わせるかのように、もうちょっと高級な娯楽施設やパソコンなどが出来てきました。

 そして何より、私たちの世代は自由でした。あらゆる物事、あらゆる人物を批判することが許されていましたし、他人の自由を奪うことにならない限り、基本的に何をすることも自由でした。自国の権力者を馬鹿と罵っても咎められるような時代ではありませんでした。

 もちろんさまざまな事情でいろいろご苦労された方々も多いはずですが、概して言えば、私たちの世代は他の世代に比べて物心両面にわたり歴史上で最も恵まれた世代だったかも知れません。
 本来ならば私たちに続く未来の世代は、私たちよりももっと恵まれた時代を約束されているはずでした。人間は総合的な幸福を目指して常に進歩し続けるはずだという確信が、かつてはあったからです。
 しかしその確信が揺らぎ始めました。私たちの次の世代は、もしかしたら私たちよりも幸福でないかも知れない。最近、多くの人たちがそう感じ始めています。

 私たちの世代は後世の世代からどのように言われるのでしょうか。
「進駐軍に押しつけられた軟弱な憲法の下でぬくぬくと育ってきた身勝手な自由主義者」
というレッテルが用意されているような気がします。
 さらに次の世代からはこう言われるかも知れません。
「日本を(軍事的または経済的または文化的に)破滅に追いやることを防ぎ得なかった無力な民主主義世代」

 実は日本にはこの後世からの評価について、すでに実証されたモデルが現に存在します。日本の近代の歴史を遡れば、軍国主義の時代より以前に大正デモクラシーの時代がありました。政党政治が華やかなりしこの時代、現代のような婦人参政権もありませんでしたが、人々はそれなりに西欧的な自由を謳歌していたようです。
 しかしこの時代に旧帝国大学や旧制高校で自由主義に浴した知識人たちも、あの戦争を止めることは出来ませんでした。軍部は社会主義者や無政府主義者以上に自由主義者を嫌い、徹底的に弾圧しました。
貴様のような自由主義の沁みこんだヤツは特攻隊以外に使い道がないんだ!
という言葉が、映画「雲ながるる果てに」の中にありますが、自由主義者はさっさと“使い捨て”で処分してしまって、“正統派の日本人”だけの国家にしようという思惑はきっとあったに違いありません。

 大正デモクラシーの洗礼を受けた人々に降りかかった戦時中の運命は、戦後憲法の下で育った私たちの世代を次の時代に待ち受けている運命と、かなり共通したものがあると思います。
 そして日本が再び破滅の道をたどった場合、私たちの世代に対する次の次の時代の評価もまた、大正デモクラシーを享受した人々に対して私たちが持っている評価と同じものになるでしょう。すなわち、日本が誤った道に進むのを防げなかった、あるいは防ごうとしなかった、さらには時の権力に迎合していった世代ということになります。

 日本の戦後の歴史が一段落して曲がり角にさしかかっている現在、歴史上まれに見る自由で恵まれた時代を生きてきた私たちの世代は、今こそ自分たちの生きてきた足跡を総括して考えるべきです。
 自分自身、胸に手を当てて考えてみて、やはり日本の進路を変えるべきだ、国の在り方を見直すべきだと思うならば、それも結構ですが、もし本当にそう思うのであれば、先ず自分自身のこれまでの生き方をすべて白紙に戻して自己批判するべきです。
 徴兵制もない、湯水のように金を使って個人の楽しみを求めることができた、そういう時代の甘い汁だけはたっぷり吸っておきながら、今さら日本の進路は間違ってましたと豹変するのは卑怯です。これまで享受してきた楽しみと等価の代償を国家に返納する覚悟をするか、さもなければ自分たちが享受してきた以上のものを次の世代に伝える努力を誓うか、まっとうな感覚の持ち主であれば、いずれか一つを選ばざるを得ないはずだと思います。



自由に耐えられぬ民

 前項で、私たちの世代はおそらく史上で最も恵まれた世代だったかも知れないと書きました。平和や安全や経済発展もその理由の一つですが、何と言っても最大の要因は、思想、言論をはじめとする最大限の自由を保障されていたことです。しかしこの自由な時代は、果たしてあらゆる日本人にとって本当に幸福に恵まれたものだったのでしょうか。

 先日(2005年12月3日)、テレビ朝日が山田太一ドラマスペシャルと題して放映した終戦60年特別企画のドラマ「終りに見た街」(リメイク)の中に、非常に考えさせられるシーンがありました。。
 ある一家が突然ある朝、平成年間から昭和19年9月にタイムスリップします(SF仕立てですね)。主人公たちが厳しい国家の統制と監視の中、食糧不足に耐えながら懸命に生きていく設定ですが、最後に空襲で全滅してしまう。しかし最後のシーンはなぜか現代の東京に時代が戻っていて、東京が核攻撃を受けたことになっているのです。
 おそらく原作者や制作者の意図は、現代日本もまた昭和戦中の時代と同じ道をたどっているという警告を含ませて、視聴者に衝撃を与えようというものだったのでしょうが、私にはもっと衝撃的なシーンがありました。

 主人公一家と一緒にタイムスリップした幼なじみの一家に、家庭内引きこもりで他人とロクに口もきかない青年が1人いました。現代で言えばいわゆる“落ちこぼれ”なのですが、この青年が昭和19年に来てからは軍需工場で働き、模範工員となって見事に立ち直るのです。そして戦争に批判的な父親たちに対してこの青年が投げつけたセリフが凄まじい。
「国民は皆が戦争に勝つために一致協力して頑張っているのですよ。それなのにお父さんたちは、つまらない戦争だとか批判的なことばかり言って、恥ずかしくないのですか?」
まさに現代とあの時代の双方の問題点を鋭く突いていると思います。

 あのシーンは私の祖母が言っていたことと重なりました。戦争の時代に壮年期を生きた祖母の世代の考え方に初めて接したのはその時だったと思いますが、私は軽い衝撃を受けました。
「戦争中は国民が皆、一致協力して頑張れて良かった。」
確かそんな話でした。必ずしも戦争を全面肯定していたとは思えませんでしたが、「
明確な目標を国家に設定して貰い、国民全体が何の疑いも持たずに、その目標に向かって団結して突き進む」という時代は、ある意味で結構な時代だったかも知れません。国民一人一人が個人的にいろいろ悩まなくても済んだからです。
 最近の日本ならば、金を騙し取ろうが、強盗を働こうが、子供を殺そうが、何をしても自分さえ良ければいいという野放図な犯罪が頻発して、祖母の世代が日本に愛想を尽かすのももっともだと思えるけれど、祖母が転倒による骨折がもとで亡くなったのはもう20年近くも前、さらにあの会話はさらに数年を遡る四半世紀前の時代でした。その時代の日本からさえ、祖母は戦時中の日本人を懐かしんだのです。

 そう言えば、ノイローゼのような精神疾患は、戦時中は少なかったとされているし、社会主義国でも少ないと言われています。家庭内暴力や青少年犯罪も戦時下では問題にならないほど少なかったでしょう。自由を奪われて国家権力の統制下にある方が、一見して人間が幸せに見えるのはなぜでしょうか。
 こんな話もあります。アメリカのリンカーンが黒人奴隷を解放した後、一番困ったのは意外にも奴隷たち自身だったそうです。南北戦争後いくばくもしないうちに、リンカーン大統領に対する(元)奴隷たちの怨嗟の声が上がったといいます。リンカーンは俺たちに自由を与えてくれたけれど、俺たちだけで生きていく機会を用意してくれなかった、というわけです。

 もしかしたら自由というものは多くの人間を幸せにしないのかも知れません。国家権力あるいは奴隷所有者などに監視されながら、何か目標に対して否応なく働かされている方が、自分の責任で物事を決断することもなくて気楽だし、それなりの生き甲斐も与えられますから。
 比喩は悪いけれど、犬と猫とは飼い方がまったく違うという話はよく聞きます。猫は独立独歩で飼い主とは無関係に“自由に”振る舞うそうですが、犬は狼の血を引いているので、群れの中で序列を定められて統制された方が幸せなのだそうです。(私は物心ついてから犬も猫も飼ったことがないので、あくまで他人からの受け売りです。)
 犬を甘やかして、家の中で“自由に”振る舞わせておくと、犬は自分が何をしてよいか判らなくなってストレスが溜まり、飼い主一家の人間に噛みついたり暴れたりするようになるそうです。何やら最近の家庭内暴力やら、青少年犯罪やらを彷彿とさせるような事例ですが、犬の飼育の専門家によれば、そういう荒れた犬をしつけ直すには、先ずリードを付けて犬を強引に飼い主に従わせるところから始めなければならないのです。無慈悲で残酷なようですが、群れの序列の中で生きる血を引いている犬にとっては、その方が幸福になるといいます。

 では人間にとっての自由もまた犬と同じ意味しかないのでしょうか?自由とは人間にとって最高の普遍的価値である、というのは自明の理として、多くの人が語り、多くの書にも書かれています。しかし本当の自由に耐えられる人間はどのくらいいるのでしょうか?
 考えてみれば、戦後数十年間の日本ほど完全な自由があった国は古今東西を通じて、あまり例がないと思います。古代ギリシャの自由民はあるいは我々よりも自由だったかも知れないけれど、そもそも自由民とは、一方に奴隷がいることを前提とした言葉でした。またアメリカは自由圏の代表選手みたいに言われますが、あの国にも兵役という金で解決できない義務がありました。召集された一部の若者たちの代償の上に成り立つ自由だったのです。

 人類の普遍的価値とされる“自由”を歴史上最も完璧に近い形で享受できた我々日本人には、自由の意味を後世に語り伝える義務があると思います。完全な自由を享受したことが今日の日本を形成してきたわけですから、間違っていたことは何だったのか、そして守っていかなければいけないのは何なのか、それをしっかり見極めなければいけません。
 戦争を体験した世代の多くの方々が戦争を語り伝えてくれたように、私たちも次の世代に対して、たとえ平和な時代であっても自由を守ることがいかに困難であったかを語り伝えていく必要があるのではないでしょうか。さもないと自由への反動として統制への憧憬が高まり、歴史は同じところを堂々巡りしてしまうことになりかねません。



自由と自由経済

 前項で自由について書きましたが、あれからいろいろ考えてみると、私が論じようとした“自由”と、現在よく使われている“自由という言葉”とは違うのではないかと思いはじめました。現在、特にアメリカのブッシュ氏をはじめとするさまざまな人たちが口にする“自由”とは、いわゆる“自由主義経済”とか“自由市場”とかいう言葉と同義ではないでしょうか。これは人間の精神の自由を表わす言葉ではありません。

 自由主義経済とか自由市場というものは、経済の専門家から見れば間違っているかも知れませんが、極端に言えば強者が弱者を食い物にする自由を意味しているのではないかと思います。少なくとも思想・信条の自由とか、学問の自由とか、信教の自由とかいう時の“自由”とは、まったく別の単語であると理解するべきです。

 ところが混乱の原因となっているのは、「人間の精神の“自由”」という概念に含まれるバラ色の幻想を振り撒きながら、「強者が弱者を食い物にする“自由”経済」を力ずくで押しつけてくる人々(あるいは国)があることです。またその理論を崇め奉る人々(あるいは国)がたくさんいることです。

 私の書いていることがゴチャゴチャしていて判らないというのなら、現在アメリカがイラクで行なっていることを考えてごらんなさい。アメリカはイラク人に自由と民主主義を与えると言って、大兵力を動かしました。アメリカが本当にイラク人の自由と民主主義を守るつもりがあるかどうか、次のように考えたら彼らの本質が見えてくると思います。
 イラク人が暫定政府ではない正式な政府を作った時に、国民の多数決でイスラム原理主義を選択した場合、アメリカはそれを認めるでしょうか?“自由イラクの民主政府”が、アメリカには石油を売らないと決定した場合、アメリカは果たしてその民主的に決定されたイラク人の自由意思を尊重するでしょうか?

 これが“自由”と“自由経済”の違いです。自由経済とは単に力の強い者に許された市場略奪のことであり、古くからローマ帝国も蒙古帝国もヨーロッパのキリスト教国も、みんなやってきた事を、近代風に一見新しい理屈を付けただけの話ではないでしょうか?

 自由経済は世界中のすべての国や地域が同じように発展してしまった後は意味を失います。物を生産する国があって、それを消費する国があって、そこに需要の格差が出来るから物流が生じて自由経済が成立するのです。もしすべての国が工業化して、高品質の製品で国民の需要を満たせるようになった場合、(工業化による公害や温暖化などの問題は別としても)相手国に産業製品を輸出することは出来なくなります。無理やり門戸をこじ開けて輸出しようとすれば戦争になるでしょう。ところが武力で商売の道を開くような帝国主義的植民地支配は、今後の世界では許されなくなるから、“自由”な通商とは言いながら、実は大変不自由なことになる可能性が大きい。

 そういう目で世界を眺めていくと、日本やアメリカやEUなど自由主義経済を国是としている諸国にとっての問題点が浮き彫りになってきます。
 先ず、中国やインドやアフリカ諸国などの工業化は困る。自国の工業製品を消費してくれなくなるからです。
 次にイラクやイランなど産油国にはいつまでも“素直”でいてくれなくては困る。またこれら産油国にも工業化されて、自国で石油を消費するようになられてはもっと困ることになります。
 さらにアメリカにとっては、日本やEUなどがアメリカの輸出品を買ってくれなくなっては困る。日本が農業国・牧畜国になって、アメリカ産の小麦や牛肉を買ってくれなくなったらアメリカは一大事。またあまり優秀な日本の工業製品が流入してきても困る。
 これが自由主義経済ということです。国土も広く、資源も食糧もそれなりに産出しながら、有数の工業基盤を持つアメリカ合衆国と同じ土俵に乗せられて良い勝負になると錯覚している日本人は、そろそろ目を覚ました方がいいのではないでしょうか。
 では日本はどうすれば良いのか?私が何度も書いているように、脱・産業化して情報化国家を作る以外に進む道は無いと思います。


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