アカの他人

 スクランブル交差点、考えてみれば実に不思議な光景です。毎日毎日ここで何十万人もの人たちが互いの顔も素性も知らないまま、ほんの一瞬だけ接近してまた離れていく、誰も皆が互いの素性も知らないまますれ違って行くのが当然の状況…。
 こんな交差点のド真ん中で誰彼かまわず相手の名前を聞いたり職業や生い立ちを訊ねたりしたら、それこそきわめて怪しい人間、もし私などが若いお嬢さんの名前なんか聞いたら、警察を呼ばれて取り押さえられて、もう明日から仕事できなくなるかも知れません(笑)。

 しかしこういう大勢の人が行き交う場所で、思いがけない人と偶然に出くわすこともあります。先日も渋谷のレストラン街で高校時代の友人の後ろ姿を見つけて、「エ〜ッ、まさか?」と思っているうちに見失い、直後に携帯メールで挨拶するという間抜けな失態を演じましたし、しばらく前は東京駅の新幹線ホームでやはり高校の先輩にバッタリ出会って、こちらは発車までの5分間ほどお話しすることができました。

 ところで、そういう本当に稀な偶然の出会いを除けば、他の大勢の群衆は皆アカの他人か?、というのが今回の話題です。
 別のコーナー一番最初の話題にも書いたことですが、人は誰でも親は2人います。そして親の親(祖父母)は4人、親の親の親(曾祖父母)は8人…と、先祖の人数は1世代遡るごとに倍々で増えていきますから、n世代前の先祖の数は2nで表されます。
 昔は人生のサイクルも早かったに違いないから、大体世代の交代を長く見積もって25年で次の世代の子供を産んだとして、平均して歴史の中で100年で4世代変わることになる。そうすると100年前の世界には単純に計算して24すなわち16人の先祖がいる。
 関ヶ原の合戦(1600年)のあった頃は16世代遡ってますから216人、つまり65536人の先祖がいます。以下同様にして、800年前の鎌倉時代には40億人以上、平安京に都が出来た頃には280兆人以上の先祖が地上にひしめいていたことになります。

 現世に生きるすべての人たち1人1人にそんな膨大な人数の祖先がいるはずもなく、また日本列島あるいは地球上に生息できる人類の個体数も非常に限られた数でしかなかったはずだから、スクランブル交差点ですれ違う人間同士に、どんな血縁も無いということはないはずですね。
 アダムとイブ、そんな旧約聖書を持ち出すのがイヤなら、最初にアフリカのサバンナに誕生したと言われる最古の新生人類の遺伝子は、すべての人類が受け継いでいるわけだし、それ以後に民族が分かれ、地域が分散しても、突然変異を繰り返した遺伝子たちは、さまざまな淘汰を受けながら、ゆるやかに流れを下ってきたわけです。

 共通の遺伝子たちは遠い昔に地球上のどこかで別れた後、現世で新調したタンパク質の素材を従えて再び邂逅を遂げている、人々の雑踏を眺めていると、ふとそんな途方もない思いに捉われます。決して“アカの他人”ではないはずの人間同士が、互いに殺し合い、傷つけ合い、騙し合い、利益を奪い合い、いじめ合う、それもまたヒトの遺伝子に組み込まれた特性だとすれば悲しいことです。


江口愛実を知っていますか?

 今回も先日のワンピースに引き続いて、大の大人がこんなところに取り上げるなよっていう話題です。今日は2011年6月19日ですが、明日の20日からオンエアされるグリコのアイスクリームのCMに巷で話題騒然の“16歳”の女の子が大抜擢されているのですが…。

 その女の子とは、かつての『おニャン子クラブ』や『モーニング娘』の人気を越えたと言われるAKB48(今これを知らないと若者からNG出ますよ、世のオジサン、オバサンたち…)に電撃加入した新人の江口愛実チャンです。

 ドクターブンブンはロリコンだったかという誤解を解くために早めに本題に入りますが、実はこの
“江口愛実”は果たして実在かどうかというのが大問題で、コンピュータ・グラフィック(CG)で合成されたキャラクターではないのかという“疑惑”が持ち上がり、今ネット上などでメイクの専門家や画像処理の専門家、さらには私の業界の人間までが出てきて、実在だ、いやCGだと賑やかな議論を繰り広げているのです。

 江口愛実の画像はもうYouTubeなどで見られますから、皆さんにはそちらを検索して頂くことにしますが、本当に美少女です。実在かCGかという議論さえ巻き起こらなければ、私も別にこんなサイトに取り上げたりしないし、10歳〜20歳代の頃みたいに気に掛けたりする存在でもありません。(私はロリコンじゃないし、美人は毎日見飽きてる…笑)
 
それで私の意見を言わせて貰えば、“江口愛実”はCGです(キッパリ!)
YouTubeで映像を見る限り、顔の上半分と下半分の表情筋(目や口を動かす顔面の筋肉)の動きのバランスが微妙に違う。喋ったり微笑んだりする時の頬から口元の動きに比べて、目の表情がどうも不自然な気がします。

 この部分に関しては、6月20日以降、実は江口愛実は実在でしたということになっても訂正しません。ここはAKB48のプロデューサーやグリコのCM担当者との勝負ですから(笑)フェアにやりましょう。

 肝心のCMの方はグリコの“アイスの実”という一口サイズのアイスクリームの宣伝、あれを買ったところを他人に見られると必ず1個か2個取られてしまうヤツです(笑)。その商品名に引っ掛けて、美少女が「私はあなたを愛すのみ」などとオジサン真っ青のギャグを飛ばすので、もうアイスクリームなど買わなくても十分涼しい…。

 ところでネット上などの議論でもCG説優勢のようです。“江口愛実”なる名前が「
崎グリコの一口アイスの」から合成したんじゃないか、などというのが根拠ですが、実在説の根拠も、あれだけのCG画像を作ろうと思ったら、ハリウッドの専門家でも数億円以上かかるという程度のもので、必ずしもCG説を完全否定するものではありません。

 逆に言えば数億円かければあれだけのCG画像は今でも作れるということです。物凄い画像処理技術ですね。やや表情筋の動きに難ありと言っても、その気になって凝視しなければまるで本物の美少女ですから…。
 私が学生時代、大学の裏手にあった大型電子計算機センターは3階建てくらいの大きな建物でしたが、半世紀も経たないうちに、あの巨大な電子計算機の性能をはるかに凌ぐコンピュータが我々のポケットに入るサイズにまでなっています。
 それを考えると、あと10年もしないうちにコンピュータの画像処理技術はどこまで進歩するのか、ちょっと空恐ろしいものがあります。

 例えば私のスナップ写真を何枚か入力し、K澤明監督の『七人の侍』のDVD動画とリンクさせて自分が誰になりたいか指定すると、私が三船敏郎さんを差し置いて菊千代役に抜擢された個人的な映像を作ってくれる、なんていうのが夢物語ではなくなるかも知れません。

 今でも双葉社という会社から出版されている超精密3D CGシリーズで、戦争中の戦闘シーンをCGで合成した動画のDVDを付録で付けてくれているのが何冊かありますが、中でも『日米空母決戦』の付録で栃林秀さんという方が作成した南太平洋海戦のCG動画は秀逸で、軍艦や飛行機の画像はもちろん、日米機動部隊の指揮官や参謀(南雲中将、草鹿少将、キンケード少将など)の人物の画像が素晴らしい。ハリウッドの専門家が数億円かけて作った画像とまではいきませんが、写真に残る実在の人物の面影を十分に残し、全身の動き、顔の表情、瞬目などもほとんど不自然ではありません。
 まあ、江口愛実(CGであったとして)の“画像”に比べたら、まず実写と思う人はいませんが、この技術が10年後にどうなっているか、やはりもうちょっと長生きしてK澤明監督の映画にぜひ出演させて貰いたいものです。
 ただし政敵や商売仇を陥れる手段としてもかなり有効なはずですから、今のうちから法的な対処法は考えておく必要があるかも知れません。

補遺)
 この文章を書いて校正していたら、やっぱり江口愛実はCGだったとネタバレしたみたいです。ネットに出ていました。でも笑えないのは、グリコに騙されたと言って怒ったファンが“アイスの実”の不買運動を起こしたなどというニュースも付いていたから…。
 こんな時代に明るい話題を提供してくれたAKB48とグリコに感謝こそすれ、マジに切れて怒り出すなんて、やっぱり日本人はケツの穴が小さいわ…。イギリス人なんかが知ったら軽蔑して大笑いするかもね。


シャワーも壊れた

 昨年の夏にはエアコン壊れたと書きましたが、我が家はますます“非文化的生活”に逆戻りしつつあります。つい2〜3日前の明け方、突然家の外で滝のように水が流れ始めたので、様子を見に行ったら浴室のシャワーの室外機に入る水道管が腐食して、水漏れしているではありませんか。
 すぐに元栓を閉めたので大事には至りませんでしたが、これでシャワーも使えなくなりました。このクソ暑い日本の真夏に、エアコンも無い…(どうせ節電の夏ですから、それはそれで良いのですが)、シャワーも無い…、ないないづくしの非文化的生活です。

 今、汗の臭いがプンプンの汚らし〜いオジサンを想像しましたね、そこのお嬢さん…!ところがどっこい、私は高校時代から船乗りに憧れていましたから、船、特に駆逐艦や潜水艦みたいな船に乗れば、真水は1人1日洗面器一杯分も貰えないなんていう話は、昔からよく読んでいました。洗面器一杯の水で洗面から私物の洗濯から水浴びから、何から何まで全部やるのです。
 限られた真水の使い途を最初から計画的によく考えておかなければなりませんが、私はそういう訓練は昔からしているんですね。自宅のシャワーが壊れても、水道の蛇口をノホホ〜ンと開けっ放しにしている、その辺のだらしないオッサンなんかより、よっぽど清潔な自信があります。

 そういうわけで、私はエアコンが壊れようが、シャワーが壊れようが、そういう非文化的生活を楽しむ心のゆとりだけは忘れないつもりですが、驚いたのはカミさんです。舞台で脚光を浴びる華やかな職業の女ですから、こんな非文化的生活に悲鳴を上げるかと思いきや、まるで駆逐艦乗りみたいな耐乏生活を物ともせず、人前に出るときは汗水の1滴も見せずに涼しい顔で仕事に出て行く。
 おそらく現在の女流音楽家であんなのはまれでしょう。プロ根性に徹した大和撫子の鑑みたいな女です(笑)。今回ばかりは我が女房ながら恐れ入りました。

※7月18日シャワーは仮復旧しました v(^_ ^)v


“携帯”忘れた

 今の時代では、“ケータイ(携帯)”とは言わずと知れた携帯電話のこと。
元々の“携帯”の意味は「持っていくこと」であるから、「ケータイ持って行くよ」などとという会話は、一昔以上前の人間が聞いたらナンセンス以外の何物でもない。

 2007年に公開された映画『バブルへGO!!−タイムマシンはドラム式−』では、バブル崩壊を食い止めるために、主人公たちが2007年から1990年の東京にタイムトラベルするが、2007年の娘(広末涼子さん)が、1990年の男(阿部寛さん)に、「後で電話するから」と街中で気安く請け負ってしまって、男の方は「電話するって、あいつどこへ電話する気だ?」とうろたえるシーンが可笑しかった。たかだか20年も経たない間に、電話とは“場所から場所へ”掛けるものではなく、“人から人へ”掛けるものだというふうに、人々の意識が急速に変わってしまったことを、実に巧妙に表現している。
 余談だが、この映画の広末涼子さんのお母さん役は薬師丸ひろ子さんだったが、この人は1978年公開の映画『野生の証明』の中では高倉健さんの養女役で、「お父さん、怖いよ。何か来るよ。大勢でお父さんを殺しに来るよ」というセリフが印象的だった。30年経ってお母さん役が似合う女優さんになっていて、時の流れを感じさせたものである。そう言えば『セーラー服と機関銃』というのもありましたね(笑)。

 話を戻して、私が小児科医をやっていた1980年代には、ポケットベルという器具が普及して、これは便利だと思っていた。ポケットベルによって、電話はやっと“場所から人へ”掛けられるようになった。
 と言っても直接掛けるわけではなく、ある人に用事ができたら固定の電話機からポケットベルに電話する、そうすると相手が“携帯”しているポケットベルがピーピーピーと鳴り始めるので、相手はあらかじめ打ち合わせてある固定の電話機に電話を入れて用件を聞くことが出来た。

 だから誰彼かまわず電話を掛けたり受けたりできるのではなくて、例えばこんな具合:
病棟で患者さんが急変した、お産が大変になりそう、外来に急患が到着した、などということになると、病院の看護師さんや事務員さんたちは医師が携帯しているポケットベルの番号をダイヤルし、呼び出しに気付いた当番医師が折り返し病院に電話を入れてくるのを待つ。
 病院もポケットベル(通称ポケベル)を持たせた医師以外には連絡は取れないし、ポケベルを持たされた医師も、ベルが鳴るのは病院に急な用件が発生した時にほぼ限られていた。

 病院近くの雀荘で医師が揃って麻雀する時も、傍らのサイドテーブルにはポケベルがあったし、私が病理医になった初めの頃も日祭日の解剖当番の時などはポケベルを持っていた。そう言えば祖母が危篤になったのも自宅からのポケベルで知ったのだった。

 やがてポケベルも進化を遂げて、2つ以上の呼び出し先をベルの音で識別できる機能を備えた新機種も開発されたように記憶しているが、その頃には携帯電話も普及していて、到底ポケベルの太刀打ちできる相手ではなくなっていた。

 こうして携帯電話が登場して、固定の電話機を介することもなく、何の制限もなしに“人から人へ”電話を掛けられるようになったわけだが、確かにそれはそれで便利だけれど、一つ余計な面倒が増えてしまった。
 電話機が無くなった、電話機を置き忘れた…、本当に10年20年前なら考えられないような事態が発生するようになったのである。昔なら電話機は自宅や職場に据え付けられていて、それを忘れるとか、忘れないとか、文章や会話としてあり得なかった。
 よほど文明の利器が嫌いでない限り、多くの人々が“ケータイ”を携帯するのが当たり前になった現在、電話を掛けても相手が出ないということは、居留守を使われているんじゃないかという疑念もふと頭をかすめる。電波の届かない所にいる可能性もあるが、そんな場合でも最近の携帯電話はメール機能もあるから、メールへの返信も無いと、ますます居留守の疑念が高まる。

 電話やメールを下さる人々への義理を欠かさないようにするために、ケータイを常に肌身離さず持っていなければならないというのは結構気を遣うものである。特に自宅を出て電車に乗ってからポケットを探って、ケータイを家に置き忘れたことに気付いた時のストレスは大きい。その日は一日中何かに追われているような気分にさえなる。


次世代への放射能の影響

 早いものであの震災から5ヶ月が経った。しかし阪神淡路の震災の時に比べて、何となく復興の足取りが鈍く感じられるのは、やはり我が国のエネルギー政策が原子力発電を巡って未だに迷走を繰り返しているせいだろうか。
 阪神淡路大震災の時は、関西地方を中心とした日本の活力を復興に向けることで一致協力できたが、今回はその活力を支えるエネルギー自体に黄色信号が点灯した。

 政財界の主力はなぜか原子力発電所の再稼働を急いでいる。将来電力が枯渇するような事態になれば、日本の工業生産も国民生活も大打撃を受け、被災者に対する福祉の援助でさえも実行する余力が無くなる。だから今後も多少の危険は隣り合わせでも原子力発電を必要悪として認めなければいけない。

 それはよく分かる。しかしそのために国民が堪え忍ばなければならないのは、爆撃機から落ちてくる爆弾ではない、大気や水やあらゆる環境から忍び寄ってくる目に見えない放射線である。
 いったい今回の事故で、どのくらいの放射線がどの段階で放出されたのか、そしてその放出はいつまでに制御できて、現在はどの範囲まで汚染が広がっているのか、そういうことに対する政府や原子力安全・保安院の官僚や御用学者、あるいは当事者である電力会社の発表はまったく信用できない。
 ミッドウェイ海戦の敗北もひた隠しにされ、いつの間にか若者たちが当然のように動員されて特攻隊にまで行かされた歴史を持つ国民が、そう簡単に政府発表を信じるはずがない。あろうことか、保安院は公聴会やシンポジウムで世論操作の“やらせ”まで行なったという。

 国民の不信が高まり、誰が何を信じて良いか分からない状況、それはおそらく太平洋戦争敗戦直後も同じだったろうが、今回の災厄後、我々が立ち向かわなければいけない最も厄介な相手は環境中に洩れた、あるいは今後も洩れ続けるであろう大量の放射能である。

 太平洋戦争末期の広島・長崎の2発の原爆後は、冷戦中の米ソなどの大気圏内核実験などはあったが、戦後は一般人に対してそれほど大きな影響のある放射線被曝はなかった。私と同じ1951年に生まれた人類は、これら大気圏内核実験の最盛期が永久歯の形成される時期に当たっていたために、世代別で見ると最も多量の放射能を歯牙に含んでいるらしいが、それでも我々の世代に口腔癌などが特に多いという話は聞いていない。

 しかし1986年、旧ソ連のチェルノブイリ原子力発電所の事故、これで周辺住民ばかりでなく、かなり広範な地域で癌の発生が急増している。
 この年は、私が小児科から病理に移って1年後であり、小児科医時代は子供の癌の統計を調べる時に、甲状腺癌などの成人型の腫瘍も
きわめてまれに若年者にも発生することがあるという文献を知識として知っていただけだったが、その後、私は病理医として10歳代20歳代の日本人の甲状腺癌の症例を数例、実際に自分で診断しているのである。
 あれはチェルノブイリから遠く離れた日本においても特に放射性ヨードなどの影響に違いないと今でも思っているが、今回は何千キロも離れたチェルノブイリの話ではない。私は確実にこれからの日本人すべての上に放射性物質は降り注ぎ、何らかの健康上の影響を及ぼすだろうと恐れている。多くの国民も同じだろう。

 私は自分に子孫が無かったことを今ほど安堵したことはないが、その代わり、現在勤務している大学で教えた学生さん、教えている学生さんはもう数百人になる。彼らの多くが無事に私たちと同じ長さの人生を歩んでくれるだろうか、いつか彼らが父となり母となる時には喜びと祝福だけがあるのだろうか、それを考えると心が痛む。

 あの大震災と原発事故の日、母親の子宮の中で育ちつつあった胎児たちが間もなくこの世に生を享ける。何事も無いことを心から祈っているが、もし何か日本の将来に不安の影を落とすような事態が予見された場合、私も残り少ない人生の中で何か行動を起こさなければならないだろう。
 小児科医から病理医として医療の現場を渡り歩き、若い世代の門出を見送る立場に立たされてきた者として、何の声も上げないまま人生の幕を引くのは無責任だと思うに至った。

 もしこのサイトをご覧になっている方で、特に若い世代、生まれてきたばかりの幼い世代の人たちに、何か異変をお感じになったら、医療機関や行政機関ばかりでなく、私宛の個人アドレスにお知らせ下さいませんでしょうか。アドレスはホームの下段にあります。
 こういう事に関しては、政府や財界の御用学者や、政府に反対する立場の学者や、センセーショナルな話題が欲しいだけのマスコミ寄りの学者が入り乱れていろんなことを発言し、国民を却って惑わせることになりかねません。できるだけそうならないように、必要なら現在の職場も辞めて自費ででもヒモ付きでない調査をして、真実と思われるものを将来へ残したいと思っています。


還暦でございます

 私も今年(平成23年:2011年)8月をもって60歳になります。まあ還暦ですね。まだ若かりし頃は、まさか自分が還暦を迎えるとは思ってもみませんでした。
 高校の漢文の時間だったか国語の時間だったか、十干十二支の干支が一回りする60年目の誕生日は暦が生まれた年に還るという意味で、“還暦”といって特別にお祝いするんだよ、などと言葉の由来を教わった覚えがありますが、自分が60歳のジジイになんかなるはずないと、あの頃はまるで他人事でした。

 老醜という意味ばかりでなく、60年も人生を生き抜けば、少しは悟りも開けて知恵も身につき、尊敬すべき賢人になるのだろうとも思いました。これまでの人生のさまざまな段階で、親や教師をはじめ周囲の大人たちは皆、それなりに豊富な人生経験を積んだ立派な人間であろうと一目は置いてきたつもりですが、自分自身が還暦にまでなってみて、それは誤りであったと気付きました。
 大人なんて過剰な自尊心と見栄と虚栄のかたまりです。お金が欲しい、肩書きが欲しい、手柄が欲しい、人から認められたい、人の上に立って指図したい、目上の人から褒められたい、人から後ろ指さされたくない、そんな事ばっかり毎日考えている自分に気付くと、そんな大人に一目置いてやっていた若い頃の自分に腹が立ちます。
 もし必要とされるなら爆弾を抱えて敵艦に突っ込んでもいいと本気で思っていた10歳代20歳代の頃の自分の方が、還暦を迎えた今の自分よりもずっと立派でした。若い者よりも自分の方が偉いと勘違いしている同年配の人間たちを見ると本当に哀れで気の毒ですね。年を重ねることでどんどん薄汚れていって、誰でもやがて死ぬんですから…。

 60歳は暦が元に還るということで子供に戻るともいい、赤いチャンチャンコなど着せられてお祝いされるそうです。赤いチャンチャンコはともかく、若い人の視点を忘れることなく、きちんと対等に話を聞きあえる老人にならなければいけないと改めて肝に銘じました。


やはり大台ですね(笑)

 先月ついに私も還暦を迎えたと書きましたが、やはり年齢の大台を一つ越えるのは精神的に重たいものを感じます。最初に越えた10歳は、自分の年齢がやっと2桁になって、何となく大人の仲間入りを果たしたような妙な高揚感が幼い心の中にありましたが、それ以降はそれほどポジティブな感想はありませんでした。

 20歳は成人ですが、私たちの世代は20歳代に関してはずいぶん損をしたような気がしています。私たちが10歳代だった頃、若者ファッションの中心は20歳代でした。10歳代は未だミソッカス扱いで、詰め襟とセーラー服でも着ておとなしくしてろよ、という感じだったのです。ところが私たちがいざ20歳を越えてみると、若者の文化やファッションは急速に10歳代へと移行してしまい、その頃から“ティーンエイジャー”などという言葉もチラホラ聞かれるようになりました。
 13歳(thirteen)から19歳(nineteen)を意味するこの言葉の台頭と共に、20歳代以上をオジサンやオバサン扱いする風潮も徐々に増してきたような気もします。つまり私たちの世代は、若者文化やファッションの中心に座ることなく、20歳で時代の流行とすれ違ってしまった勘定になるわけです。

 30歳はいよいよ本格的な大人です。戦前・戦中の飛行機乗りの方が『誰が自分に30歳の日々あるを信じよう』と日記に書き、20歳代の若さで大空に散華する運命を従容と受け入れておられたことを知っていた私は、ああ、ついに自分はその30歳になってしまったと思いました。醜い大人の仲間入りという感じです。

 その後、40歳50歳と背中の重荷がドーンドーンと1つずつ増えていくような感じで、無我夢中で生きてきましたが、今度は60歳か…。
 日本年金機構から年金関係の“重要書類”は届くし、いよいよ余生(余った命?)というか、死に方準備というか、何となく複雑な心境です。59歳の日々と何一つ変わったわけではないのに、いつの間にか爺さんになったようで、しばらくはこのサイトの更新も手につきませんでした(笑)。

 しかし、まあ、いつまでもこんな状態ではいけませんね。これからもポジティブに年齢を重ねていかなければ…。

 私のカミさんの父も母ももう90歳を過ぎているのですけれど、何というか不思議な人たちで、家族から見ると頑固で何の変哲もないただの老人なのですが、どういう魅力があるのかよく人が訪ねてくる。
 長年居住した地域の住民同士の繋がりがあるというなら話も分かりますが、数年前に80歳をはるかに過ぎてから、何十年も住み慣れた名古屋の家を引き払って、娘(私のカミさん)の住む東京に引っ越してきました。
 実は私は内心これはボケるな、危ないなと多少ハラハラしていました。人や地域との繋がりを断たれれば、老人に限らず、ほとんどの人は精神的に落ち込むことが多いからです。

 ところが東京に出てきてからも、同じマンションの住人とも話すし、いろんな店に出入りしていろんな人と話すのを億劫がらない。さらにそれまで住んでいた名古屋の方の人たちとも電話で長々と喋っていることもある。
 とにかく義父も義母も人間関係がポジティブで優しいところがあるんでしょう。特に男性は普通ならば、退職して社会的な地位から退いてしまうと、かつての目下の人間たちからもそっぽを向かれてしまうことが多いのに、もう何の権力もない義父の元へは昔の教え子だとか部下だとかいう人々が、東京へ立ち寄る機会があったので、とか何とか言って時々訪ねて来ます。
 若い頃はずいぶん親身になっていろんな人の相談に乗ってあげたりしていたそうですが、何であんな頑固な爺さんの所へ人が訪ねて来るんだろうと実の娘(私のカミさん)も首をひねっています(笑)。でもどうせ年を取るなら人生の終盤にあんな時期があったら良いなと思います。


台風が来た

 弱り目に祟り目というか、こういう年は自然災害も嵩にかかって襲って来るようです。2011年春は3月に東日本大震災がありましたが、夏になると大型台風が相次いで来襲、9月3日に12号が高知県に上陸して西日本を中心に大きな被害をもたらしたと思ったら、21日には15号が静岡県に上陸して首都圏を直撃、さらに御丁寧に3月の震源地をなぞるようにして北日本に抜けました。まさにこれでもか、これでもかという感じですね。

 首都圏を台風が直撃したのは、ここ数年あまり記憶にありませんが、今回は平日の夕方に重なるので帰宅の足が心配されていました。実際、台風が関東地方に最も接近する5時から6時くらいを中心に、一部の地下鉄も含む首都圏の大部分の鉄道が数時間にわたって運転見合わせになってしまいました。

 大学は午後から休講になって学生さんたちを早めに帰宅させました。講義が無くなれば教師も特に学内にいる必要はないのですが、医者という職業は大体こういう時は職場に張り付いて、何か不測の事態に備える習性が身についてしまっている人が多いんです。
 私もこの日は、暴風雨になる前にコンビニで夕食を買い込んで、帰りそびれた学生さんと勉強しながら電車が動き始めるのを待っていました。

 夜の8時半から9時近くになって、JRも私鉄各線もようやく動き出したというので、帰り支度をして駅に向かいました。台風も日本の代表的な自然災害ですが、やはり震災とはだいぶ違いますね。3月の震災は準備も何もしていないところへいきなり襲ってきて、電車もそのまま終日動きませんでしたから、帰宅難民は歩いて帰るより他に手段はありませんでした。それに比べたら台風はまだマシです。1日か2日前には来襲が予報されていて最低限の対処はできますし、直撃されても屋内の安全な場所にさえいれば、どんな凶暴な台風でも数時間以内には立ち去ってくれますから…。
 駅に着くと、ホームのゴミ箱は無残な傘の墓場と化していました。大型台風の暴風の中で傘を差したらこうなることくらい分からないのでしょうか?ちょっと都会人の甘さも見え隠れしますね。

 ところで夜半までにはほぼすべての鉄道が復旧しましたが、日本の鉄道の台風対策には、会社にもよりますが、ちょっと不満があります。私が帰る時も、ダイヤはかなり乱れたまま、まあ動いてくれるだけ有り難いんですが、震災ではないんだから、架線や線路に異常が無かったんなら、もう少しキビキビと動かしてもいいんじゃないかと思うこともある。

 台風はいずれ数時間以内には去る、嵐の中で移動できなかった乗客たちが大勢いて、電車が動くのを待っている、線路や架線に異常が無ければこの乗客たちを運ばなければならない、そういう状況は最初から判断できるわけだから、復旧後の車両の手配だとか、運行要員の確保だとか、あらかじめ想定しておくのがプロの仕事ではないでしょうか。台風が完全に去ってから、ヤレヤレと腰を上げたような対応に見えるのがちょっと不満です。
 台風が来襲した時に、どの駅に車両が立ち往生しているかくらい簡単に把握できるはずですから、台風が去って軌道の安全が確認されたら、できるだけ速やかに運行要員を確保する手筈を、暴風雨の中で事前に考えていれば、もっとスムースにダイヤを回復させられるように思います。

 医者はこういう時に職場に張り付く習性があると申し上げましたが、次のステージで何が必要になるかを見極めるまでは退去しない、それが医療のプロだと思っているからです。それで本当に病院がパニックになった時にどれくらい役に立てるかは、私自身まだ分かりませんが…。
 鉄道の方々もずいぶん御苦労されていると思いますが、交通機関に限らず、非常時の対応に関して日本の多くの組織が硬直化していると指摘されることが多く、その一面を垣間見たような気がしました。
 暴風域を抜けました、線路も架線も大丈夫です、ハイ、お待たせしました、出発進行…という具合にはなかなかいかないんでしょうね(笑)。


水槽の魚

 原子力発電所事故で環境中に漏出した放射性物質は、福島県の農業や漁業に深刻な影響を及ぼしており、1日も早く安全性が確認されて収穫が再開できることを願っているが、こういう農業者や漁業者に対する補償をさっさと打ち切りたいために、いい加減な安全宣言を出すことだけは厳に戒めなければいけない。
 原子力関係者の中には、多少の放射性物質くらい仕方ないと非公式に発言する方もいらっしゃると聞いたが、それではあなたは、ご自分のお子さんがまだ乳幼児でも、基準値以上の放射能が検出された食品を食べさせるのですかと問いたい。

 もう私のような年寄りならともかく、盛んに細胞を増殖させて自分の肉体を作り上げている若年・幼年の方々にとっては、放射性物質が新しく新調した身体のパーツの中に留まって、何年にもわたり有害な放射線を出し続ける可能性がある。放射性セシウム137の場合は半減期30年だから、もしも体内で異物を貪食して処理する細胞(マクロファージ、大食細胞ともいう)に取り込まれた場合は、まず一生体内に残留する。

 食品中の放射性物質よりも大気中の放射性物質の方が危険だという見解があるが、これは今言ったマクロファージの作用による。空気中から気管支や肺胞に侵入した異物は、気道中のマクロファージに貪食されて一生肺内に残留する。だから手術や解剖をすると、タバコを吸う人間の肺は吸わない人に比べて真っ黒である。余談だが、そういう所見を知っていながらタバコを止めない医者は全員クビ、医学生は全員退学にするべきだと私は思っている。平気で他人にも健康被害を及ぼす人間はヒポクラテスの誓いに反している!

 それはともかく、食品から体内に入った放射性物質は、体が“栄養”と認識して利用しない限りはそのまま排泄されるので、肺に入るよりは多少安全という見解も一理あるが、それでももしいったん小腸から吸収されて肝臓のマクロファージにでも捕捉された場合はやはり体内に残留するだろう。
 とにかく現在の日本列島周辺には、自然界の放射能レベルをはるかに超えた放射性物質が垂れ流されたわけだから、特に若い世代への健康被害は未知数というより他にない。

 おそらく関係当局としては早く操業補償を切り上げたいというのが本音だろうが、食品の安全宣言に向けていろいろ“科学的”な調査を始めたようだ。
 しかしそれらの中でちょっと「エッ?」と思ったものがあったので、ご紹介しておく。9月26日の毎日新聞朝刊トップの記事だが、福島県の水産試験場が放射性セシウムを投入した水槽で魚介類を飼育して影響を調べる研究を開始したというもの。

 研究の詳細は報道されていなかったから、あるいは私の誤解かも知れないが、この実験方法はもう40年も昔に、熊本県の水俣病訴訟で完全に論破されたものである。
 水俣病は水俣川上流の工場から水俣湾に排泄されたメチル水銀が食物連鎖で濃縮され、沿岸の魚介類を食べた住民たちに中枢神経症状を引き起こした公害病である。公害訴訟となった時、被告の工場側の弁護士と学者が出してきた“証拠”は以下のようなものであった。
水俣湾のメチル水銀濃度と同じ水槽内で飼育した魚にはメチル水銀の蓄積は見られなかった
皆さんは、ああそうですかと納得されますか?

 汚染物質の濃度はppm(parts per million)で表されるほど微量なものである。つまり1%の1万分の1が1ppmである。そんな微少なメチル水銀濃度であったから、原告側の弁護人が次のような質問を行なったところ、工場側の学者も弁護士も一言も反論できなかったという。
その小さな水槽内には総量(絶対量)でどのくらいのメチル水銀がありますか?そしてその全量が魚に摂取された場合、魚の体内にはどのくらいの濃度で検出されるのですか?

 今回の放射性セシウムも沿岸の海水中ではppmで計測するレベルの濃度だろう。まさか40年も昔と同じ“科学実験”を考えているとも思えないが…。
 私はむしろ動物の消化管から体内に入ったセシウムがどの経路で排泄されるのか、あるいは肝臓あたりのマクロファージに貪食される可能性があるのかどうか、それを調査して将来起こり得る健康被害の予測を行なうべきだと思う。


不思議な夢

 最近(2011年10月18日)の朝刊を見て驚いたが、タイの首都バンコク北部、チャオプラヤ川流域のナワナコン工業団地の洪水の被害が深刻化しているようだ。私にとってタイは、日タイ細胞学会で2度ほど訪れていて親近感の大きい国だったが、今年は自国の大災害にばかり目を奪われていて、申し訳ないことにこの大水害のニュースはまったくノーマークだった。

 タイは足腰の強いタフな国だから、きっとこの自然災害を乗り越えて復興してくれると信じているが、今回特に驚いた、と言うか非常に不思議な気持ちになったのは、この明け方に見た夢である。
 もちろんまだ朝刊も配達されていない未明のことであるが、私はタイに出張するおかしな夢を見ていた。3日ほどタイに行って留守にするのでよろしく、と各方面に挨拶しているうちに場面は変わって、右手に池のような広大な水面が広がっている。見ているうちに1頭のワニが巨大な何かの動物(鯉のような牛のような、神話の挿絵に出てきそうな変な動物)を水中に引きずり込んだ。
 生存競争は過酷だなと思っていると、今度は別の水棲動物(ワニではなかったようだ)が地面に降りていた鳩に襲いかかって水中に引っ張り込もうとしているところで目が覚めた。

 ただそれだけの夢の話だが、タイに出張という夢の中で水棲動物の脅威を目の当たりにした直後に、新聞の朝刊でタイの水害のニュースを知ったから、非常に不思議な気持ちになったのである。
 水や水辺に関する夢は尿意の兆候というのは、夢の研究者の間ではよく知られたことらしいので、ただの偶然と考えるのが最も妥当かも知れないが、しかし何で選りも選って夢の出張先がタイだったのか…?
 あるいはタイの水害のニュースをあの日の朝刊で初めて知ったと私は思っているが、もしかしたら忘れているだけで、本当は少し前に無意識のうちに他のニュースなどで知っていて、その心配が夢になって表現されただけなのか…?

 昔から予知夢とか夢のお告げとかいって、これから起こる未来を夢の中で予知したなどという事例が多数報告されており、今回の東日本の地震や津波もその時刻や規模を夢で見ていたという“体験談”はネット上にかなり書き込まれているようだ。

 こういう人間の未来予知能力について、私は必ずしも全面否定するつもりはない。私自身、東名高速道路上であわや大惨事というスピン事故を起こす少し前から、周囲の景色に何となく違和感を覚えて不吉な予感に捉われていたことはそちらのコーナーに書いた。体力・気力とも最も充実していた時期に感じたあの何とも言えぬ不吉な感じは、その後の人生でただの一度も経験したことはなく、人間にも強弱の差はあっても、確かに未来予知能力はあると確信はしている。

 理性の抑制の弱まった睡眠時にそういう予知能力が作用したものが、いわゆる予知夢であり、スイスの分析心理学者ユング(Jung, C.G.:1875-1961)も予知夢を認めている。ユングは科学者の目で多数のクライアントの夢を分析したはずであるから、それらの中にどうしても未来を予知したとしか言えない事例が混じっていたことは事実だろう。

 しかし私の“タイ出張”と“水棲動物の襲撃”の夢は、果たして翌日の朝刊の記事を“予知”していたと言えるだろうか。表面上だけ見れば予知のように見える事例をすべて“予知夢”に分類してしまえば、やがて分析心理学は科学から迷信に逆戻りしてしまうだろう。

 人間は毎晩かなりの数の夢を見ているが、そのほとんどは忘れてしまうと言われている。その中には無数の内容の夢が含まれていたはずであり、それらの中にこれから覚醒時に遭遇する大事件と一見関連がありそうな内容だったものが存在する確率は決してゼロではない。
 そういう夢の失われた記憶が、現実のショッキングな事件の刺激で呼び起こされ、理性による都合の良い解釈に修正されて、いわゆる“予知夢”として報告される可能性は大きい。おそらく現在のネットなどに書き込まれる予知夢の事例の半数は悪戯や思い込み、残る半数のうち9割近くが夢と現実のキーワードが偶然の一致を示しただけというところか。

 実はタイの水棲動物の夢を見た翌晩、東京湾に津波が押し寄せる夢を見てしまった。京葉線あたりの高架を電車で走っている時に、足元まで波がきて電車が停まってしまう。トイレ我慢してたのに困ったなと思って目が覚めた。さすがに朝刊を見るのが怖かった。


タバコのご利益

 東日本大震災の復興事業に必要な財源確保のため、たばこ税の増税が論議の対象になっているようで、公明党は与党民主党の増税を容認する方向のようだが、自民党は反対らしい。たばこ増税は何も今回が初めてではなく、自民党政権下でも何度も行なわれたはずだが、自分がやるのは良くて他人がやるのはダメ、というのは小学校の学級会にも劣るというか、何というか、こんな体たらくだから政権から滑り落ちたんだろうと改めて思う。

 政治向きのことはともかく、医師の立場から言えば、タバコは1箱1000円でも安いくらいだ。葉たばこ農家の方々の陳情とか、「マジメに○十年間も働いてきた主人のささやかな楽しみを奪わないで下さい」などと投書する老婦人のお気持ちも理解できるが、何と言っても傍若無人な喫煙者どものお陰で、どれだけ周囲の受動喫煙者まで含めて呼吸器疾患が増え、そのような人たちがどれほど国家の医療費を食い潰しているか考えて頂きたい。

 特に医師や看護師や検査・放射線技師などの喫煙は許し難い。確かに喫煙は個人の自由、自分の健康にどれほど害があって、どれほど生命を縮めても自己責任でやってる限り、咎めることは出来ないかも知れない。
 しかし彼らが働いている(給料を貰っている)職場の同じ屋根の下には、1ヶ月でも、1週間でも、いや1日でも長く生きて頑張りたいと必死に病気と闘っている患者さんだっているのだ。そういう患者さんたちの闘いを支援する人間どもが、「俺の健康も俺の生命もどうなろうと俺の自由だ」と居直って喫煙を続ける、それがいかに人の道に外れたことか、彼らは何も分かろうとしていない。
 医療の現場はストレスが溜まるからタバコを吸わずにいられないと、しゃあしゃあと反論するバカもいるが、1日の生命を愛おしんで病気と闘う患者さんにはそれ以上のストレスがあることを忘れたか!

 …などと言うことは心ある識者なら必ずおっしゃることであり、私も常日頃主張していることなので、今回は180度視点を変えて、タバコのご利益、タバコの効能について述べてみたい。
 タバコは“百害あって一利なし”とは言うけれど、それは極端であって、健康の最悪の敵とまで見なされているタバコにも一利か二利くらいはあるのですよ、というお話しである。

【タバコの効能その一】
 タバコに含まれるニコチンは、中枢神経や自律神経のシナプス末端から神経伝達物質を放出しやすくする作用があることが判っている。解剖学的なことを簡単に説明すると、身体中に張り巡らされている神経の働きを担うのは神経細胞(ニューロン)という特殊な細胞で、この細胞から長く伸びた軸索(アクソン)という突起が電線の役目をしている。我々が動いたり考えたり全身のリズムを調節したり…という機能はこれらの神経が作動する結果であることはご存じだろう。
 この電線の末端から神経伝達物質という化学物質が放出されて、神経の信号が次から次へと伝達されていくわけである。神経伝達物質としては、ノルアドレナリンとかアセチルコリンとかの名前は一般の方々も耳にされたことがあるかも知れない。
 そしてニコチンはこれらの神経伝達物質を普段より多量に放出しやすくする性質がある。だからタバコを吸うと頭がスッキリする、新しいアイディアも閃く、疲れもとれる、イヤな事があってもそれに対抗して体調を調節しやすくなる。
 
素晴らしい効能ではありませんか!皆さん、ぜひタバコを吸って1日の疲れを癒しましょう。その代わり、あなたの神経細胞はニコチンが切れれば作動が鈍くなります。ニコチンに引っぱたかれなければ神経伝達物質が出にくくなります。それはそうでしょう、慢性的にニコチンで叩いて無理やり働かされてきた神経細胞は、もはやニコチンなしには満足に動かなくなるのです。ブッ叩かれなければ映らないテレビみたいなもんです。これがニコチン依存です。そうなっても構わなければタバコを吸いましょう。

【タバコの効能その二】
 これは産婦人科の大きな専門書にも記載されているが、閉経期を過ぎた女性が大量の喫煙を始めると子宮体癌の発生リスクが減るらしい。その理由ははっきり判っていないが、多数の症例を疫学的に調査して統計的に計算すると、閉経期になってタバコを吸い始めた婦人の子宮体癌は、タバコを吸わない人よりも明らかに少ないのだ。
 念のためだが、子宮体癌は最近ワクチンで話題になっている子宮頸癌とはまったく違う癌である。セックスする時にタバコを吸っていても何の予防にもならない。
 
素晴らしい効能ではありませんか。女性の皆さん、閉経の時期が迫ったらぜひタバコを吸って子宮体癌を予防しましょう。ただし若いうちから喫煙していた方々には効かないそうです。それなりの年齢になったら大量のタバコを吸いましょう。しかし肺癌の検診だけは決して忘れないで下さいね。

【タバコの効能その三】
 これは医学的なことではないが、小学校の頃に読んだ本に書いてあったことで、20世紀の初頭くらいまではまだ食人の習慣が残っている地域や民族があったそうだ。要するに人間を食えばその人の知恵や力が自分の物になるという信仰である。だから戦争なんかして敵の勇士などを捕虜にすると、そいつを殺して皆で食ったのであろう。かつては“人食い人種”などと呼ばれていた。
 死んだ仲間の脳を食うことによって感染する病気もあり、一時期パニックになった狂牛病も(牛の脳と人の脳の違いはあるが)その一種だ。
 ところで私が小学生の頃に読んだ冒険譚を集めた本の中に、あるイギリス人の冒険家が不運にも食人の習慣の残っていた原住民に捕まり、火で焼かれて食われることになってしまった。その冒険家が薪の山の上の棒杭に縛り付けられた挿絵があったのを覚えている。
 冒険家はもはやこれまでと覚悟を決め、今生の最後の一服のつもりでポケットからタバコを出して火をつけたところ、原住民たちはガッカリして冒険家の縄を解いたという。タバコを吸う人間の肉は不味くて食えないらしいのだ。その物語の最後には、原住民の談話として「健康な人間の肉はヒクイドリみたいな味がするよ」と書いてあった。
 
素晴らしい効能ではありませんか。食人の習慣の残る地域に旅行する方々はぜひタバコを吸って、ヒクイドリみたいな肉体の味を消してからお出かけ下さい。ま、要するに喫煙するような人間の肉は、その道のグルメの舌ならば異常な味の違いを微妙に嗅ぎ分けるのですね。


シモネッタ夫人

 “シモネッタ”という名前、私も最初のうちは冗談だと思っていた。米原万里さんという同時通訳の方が書かれた『ガセネッタ&シモネッタ』という本があるが、これは誰が見たって軽妙なジョークとしか思えない。フルネームは『ガセネッタ・ダジャーレ(Gasenetta d'Aggiare)&シモネッタ・ドッジ(Simonetta d'Oggi)』とくれば、これはもう間違いない。
 しかしガセネッタはともかく、シモネッタは実在の名前と聞いて驚いてしまった。ネットで検索すると、シモネッタ・ステファネッリ(Simonetta Stefanelli)という女優さんもいらっしゃるし、シモネッタという子供服メーカーもある(洗練された上品さが売りのようです…)。また15世紀のイタリアにはシモネッタ・ヴェスプッチ(Simonetta Vespucci)という絶世の美女もいたらしい。この人はアメリゴ・ヴェスプッチの遠縁の男性に嫁いでいるが、アメリゴ・ヴェスプッチは、コロンブスがアジアと誤解していたアメリカ大陸を新大陸であると主張した人である。

 …などという格調の高い話は私には無理なのでこっちに置いておいて、日本人の医者(に限らず一般人)がシモネッタと聞けば、先ず真っ先に連想するものは“下ネタ”、つまり下半身の話であろう。いえいえ、私はそんな下品な人間ではありません、という人はもうこの先はお読みにならないで下さい。またお食事中の方もご遠慮下さい。
 初めて医療人になった人は誰でも、医療人でない人の前であまり下ネタを話してはいけないよと注意されるものである。我々の下ネタは時として普通の善良な人たちには受け入れられないことがあるのを忘れがちになるので、それをたしなめられるのであるが、今日はちょっと話したい気分…。

 私は学生さんたちから“下ネタ大好き人間”と思われている(らしい)。講義で下ネタを連発するからだそうだが、しかし考えてもみて欲しい、解剖学や病理学の講義をするのに上半身も下半身も関係ないではないか。ある学生さんは、先生の講義は男性生殖器より女性生殖器の講義の方が多い〜と言ってキャッキャと笑っていたが、女性の子宮や卵巣には男性の精巣より病気が多いのだから仕方がない。

 ところで大腸は陸棲哺乳類で発達しているが、この理由はお判りだろうか。体内の消化器で発生したゴミ(つまり大便=ウンコ)を排泄する際、魚のように水中にいれば天然の水洗トイレで流すようなもの、翼を持った鳥ならばその辺に撒き散らしても、さっさと逃げてしまえば後腐れもない。立つ鳥あとを濁さずなどという諺はウソなのだ。
 ところが陸棲哺乳類の場合、場所も構わず排便すると、その臭いが天敵を引き寄せて自分や家族の身が危険にさらされてしまう。だから彼らは安全な自分のテリトリーの近くまで排便を我慢するために、長大な大腸を発達させたと言われている。

 排便の量は草食系の動物の方が多い。最近の草食系男子がウンコをたくさん出すかどうかは知らない。草食だと植物線維が便を固くして量も増やしてくれる。菜食が多かったかつての日本人は、肉食主体のアメリカ人よりも排便の量が圧倒的に多かった。この排便量の差が現代の日米関係にちょっとしたハプニングを起こしたことがある。

 一つは太平洋戦争中、日本軍の部隊が野営した跡を偵察したアメリカ軍の斥候が、日本兵の野糞の量を調べた、当然自分たちの1日のウンコの量を基準として考えるから、野営地に残された大量の日本兵の便を見て、これは日本軍の大部隊が移動中であると誤解してしまうことが多かった。

 もう一つは戦後、飛行機メーカーのボーイング社が日本の国内線向けに旅客機を輸出した時のこと、せいぜい2時間程度の飛行を見越して、機内のトイレの容量はこれくらいとアメリカ人乗客の基準で決めてしまった、ところが特に朝の便(びん)で日本人乗客が出す便(べん)の量が“想定外”であり、たちまち機内トイレが故障してしまったらしい…、

 …などという話は下ネタでしょうか?


シモネッタU世

 文化的に考えてみれば排泄行為とは不思議なものである。生物学的に言えば、排泄とは生命活動に不可欠の要素であり、小学校時代に習う有名な四文字熟語“
新陳代謝”の一環をなしている。新陳代謝とは、しいものを取り入れ、腐なものを排出するということだ。
 それなのに、新しいものを取り込む“食事”の方は誰も恥ずかしがることなく、堂々と人前でも平気で食べるにに対して、排泄に関しては妙な羞恥心がある。なぜ入れるのは恥ずかしくないのに、出すのは恥ずかしいのか?不思議ではないか?

 民族的には、排泄行為を他人に見られただけで死ぬほどの屈辱を感じる民族もいるらしいし、一方では家庭にトイレがなく、村の共同便所みたいな場所に並べてあるオープンの便器に座って、隣の人たちと楽しくお喋りしながら用を足す民族もあるそうだ。排泄行為に対する羞恥の度合いも環境や風習によってさまざまなのだろう。

 概して男所帯では排泄行為も比較的オープンである。何かの本で読んだが、帝國海軍の軍艦ではトイレの大の方にも仕切りが無かったそうだ。これは確か金剛級の戦艦に乗り組んでいた人の本だったと思う。もっと新しい長門級や大和級ではどうだったか読んだことはない。

 陸軍も行軍中はたぶん野糞だろうが、陸海軍に限らず、1964年の東京オリンピックの頃までは日本でも男性は平気で外で小用を足していた。俗に“立ち小便”というやつである。戦後間もなくの頃は女性(オバサン)の立ち小便を見たという目撃談もあるが、真偽のほどは定かでない。男も女もよく恥ずかしくなかったものだと思うが、外国からお客様を迎えるオリンピックを契機に、街中の随所に公衆トイレが設置されて立ち小便が撲滅された歴史を思う時、本当に日本人は他人の目を意識するまでは、自ら恥を感じることのできない国民なのだなとつくづく思う。これはオシッコに限らないだろう。

 排泄は羞恥を伴う行為と書いたが、日本人男性に限って言えば、世界的に見てそれほど羞恥を感じないのが本来の姿かも知れない。一緒にトイレに行くことを“連れション”と言ったりもする。並んでオシッコしても仲間同士ならそれほど恥ずかしくないのだ。

 ところが年配になってくると、ちょっと困ったことになる。男性は年をとってくると前立腺という組織が大きくなってくるのだ。前立腺とは文字どおり膀胱の
ち塞がる臓器、これが大きくなるとオシッコが出にくくなってしまう。
 女性の方には前立腺は無いし、公衆トイレでも個室に籠もって心静かに御排尿あそばされるから、男性の苦労はお判りにならないかも知れないが、年配男性にとっては公衆トイレでのオシッコは人知れぬ戦いの場でもある。

 男性の小用の公衆トイレはご存じのようにオープンスペースである。簡単な間仕切りくらいはあるが、隣の“ブース”で人が並んでオシッコしているとか、自分の“ブース”の背後に何人くらい順番待ちしているとか、手に取るように分かってしまうのだ。
 仲間内ならまだ良いが、これが見も知らぬ他人同士だと“連れション”などという呑気な状況ではなくなる。隣のヤツより排尿に時間がかかったらバカにされるんじゃないか、後ろに並んでいるヤツは俺のことを遅いと心の中で笑っているのではないか、そんなことを考え始めると出るものも出なくなってしまうから困る。

 そうやって緊張感が高まると、体内の“闘争の神経”である交感神経が興奮してくる。交感神経とは敵と戦ったり、敵から逃げたりしなければいけない状況で、身体の戦闘態勢を整えるための自律神経である。心拍数を増やし、呼吸を増やし、筋肉に燃料と酸素を補給し、瞳孔を開いて視野を広げる…、と同時に戦いに不必要な行為、すなわち食事や排泄や生殖を抑制する。
 オシッコしながら敵と戦うバカはいないし、しようと思っても出ない。それは男性の場合であれば、交感神経が前立腺にも作用して尿道を締め付けてしまうからだ。だから年配になって前立腺が大きくなってくると、こういう状況の下ではオシッコがますます出にくくなる。まあ、年配男性が公衆トイレでオシッコする場合は、隣のヤツらに気兼ねせず、マイペースで悠々と排尿する訓練をすることです。

 …などという話は下ネタでしょうか?


7並び

 今年(2011年)の12月初め、私のこのサイトのアクセスカウンターに、間もなく
が5つ並ぶよと教えてくれた人がありました。それで自分でも早速アクセスしてみると、オウ、何とカウンターの数字は“77774”…!ちょっとズルをして、ホームページ(サイトの表紙)に出たり入ったりしてカウンターをわざと3つ進めて(ゴメンナサイ)、ご覧のように無理やり“77777”にしてしまいました。

 アクセスカウンターと言ったって、これが正確なアクセスの延べ数を示しているわけではありません。たった1回のアクセスでも、ホームページとサイト内の他のページを往復するだけで、その度にカウント数が増えることもあるし、また私のサイトの更新履歴のページをお気に入りに登録しておられる方は、何回アクセスして下さってもカウンターのあるホームページ(表紙)を素通りしてしまうのでカウントされないことになります。

 そんなわけでアクセスカウンターの数字などは、“あってなきがごとき”ものではありますが、やはり単なる飾りであっても、一応これを置いてある以上はカウント数が多ければ多いほど嬉しい…。サイトを起ち上げたばかりの頃、たまに自分のサイトを開いてみたら、前回から全然アクセスが増えていないことがあり、ガッカリしました。せっかく記事を更新したのに〜、とボヤキながら自分の手でカウント数を7つか8つ進めて、虚しくなって止めたものです。

 最初の頃はそんなものでしたが、やっぱり長く続けていればそれなりにアクセスして下さる方はいらっしゃるもので、特に相互リンクも付けないのに、お陰様で8年目にして“
77777”というちょっと縁起の良いカウント数を達成しました。本当にお付き合い下さいましてありがとうございます。
 私が相互リンクを付けないのは、時としてこのサイトで過激な発言をすることがあり、そんな私の同類項と見なされてご迷惑をお掛けしてはいけないと思ったからです。もしそれでもよろしかったら、これからは相互リンクも考えてみようと思っておりますが、ただし一応本名でサイトを運営されている方に限ります。御一報下さい。

 更新履歴のページの下の方にも書きましたが、私が自分のホームページを作ろうと思い立ったのは1997年(平成9年)秋のことでした。自宅にWindows 95のパソコンが来たのは10月25日、それまでも学校や学会などでパソコンを操作して仕事したりしていたけれど、自分専用のパソコンは初めてです。当時はまだ“マイコン”(my computer)という言葉も残っていたような…。ただしカミさんに言わすと、“マイコン”とは毎日新聞主催の音楽コンクールのことです(笑)。

 しかしせっかくマイコン(私専用のコンピューター)が来ても、実際にホームページ制作に取りかかったのはそれから5年半近くも経ってから…。パソコンで音楽は聴ける、きれいな画像を楽しめる、アプリケーションソフトを買ってきてインストールすればミニ・プラネタリウムやミニ・水族館を楽しめるし、バーチャル・ペットも飼育できる、特にフライトシミュレーターというゲームにははまりました。とにかくパソコンは何でも出来ちゃうので、ホームページ起ち上げのこともついつい先延ばしになってしまいました。

 まあ、そんなこんなでやっと初心に戻って曲がりなりにもホームページを起ち上げたのは2003年(平成15年)のことです。小田急線の車内中吊り広告で、『他人のを見るだけですか』というキャッチフレーズにドキッとして、すぐにその足でホームページビルダー(ホームページを起ち上げるアプリケーションソフト)を購入、5日後には私のサイトの原型がプロバイダーに転送されました。
 人間なんてやろうと思えば何でもやれるわけです。何だか大変だな〜とか、面倒くさいな〜などと思って
グズグズしているのが一番愚かなこと、私自身、過去に数々の試験勉強や新規作業への挑戦をくぐり抜けて、そのことは十分わかっていたはずのに、改めて認識した次第です。

 当時は個人のホームページ起ち上げが一種のブームになっていて、私よりもずっと早くからご自分のサイトを運営されている旧友や同業者が大勢いましたが、今ではほんの数えるほどになってしまいました。サイトの運営は、ホームページ起ち上げよりも、更新を持続してサイトを継続させることの方がはるかに難しいです。
 「よく続きますね」とか「書くことがお好きですね」と感心して下さる方、「よっぽどヒマなんだな」と皮肉っぽく言われる方、さまざまですが、私は最近では一応1ヶ月4回の更新を自分へのノルマにしています。私のようにもう60歳にもなると、誰も私に「これをやれ」と命令や指図をして来ない、何か指図してくる人間はいても、そいつの方が自分のノルマをいい加減にしか果たしていないのが見えてしまうので、そんな人間の命令や指図などまともに聞く気にならない、だから今の私に何か本当に指図できるのは自分自身しかいないわけです。

 私が更新を継続するのは、自分が自分の地位や経歴に慢心していい加減な人間にならないための予防かも知れません。またそれだけいろいろ書くことがあるのも、古今東西のいろいろな人たちが、場合によってはご自分の生命を賭けてまで、この世界に残してくれた事跡、またそれらを私の内部に吹き込んでくれた周囲の人々の教育や、書籍や映画などの媒体を世に送ってくれた人々のお陰と感謝しています。今後ともよろしくお付き合い下さい。


己の欲せざるところ

 先日、都内のある駅のコンコースで、校外学習に出かけるらしき10数名の中学生の一団を見かけた。やはり学校から離れた気軽さで気が緩んでいたのか、引率の担任教師に何かお説教されている。20歳代後半くらいの若い教師だった。
「そんな気持ちなら帰れよ!」
引率教師の語気はやや荒かったが、まあ、その時はそんなに気にも留めずに傍らを通り過ぎたが、驚いたのはその数秒後、もう20〜30メートル行き過ぎてプラットホームへ続く階段を登りかけていた時、突然背後から物凄い罵声が飛んだ。何とも形容しがたい大声で、強いて例えればヤクザが凄むような声であり、私も思わずビクッとして飛び上がったほどだ。

 先ほどの教師が生徒たちを怒鳴りつけた声だったのだが、それはあまりに場違いな大声、あまりに異常な剣幕であった。通りすがりの私でさえ震え上がるほどの罵声だったから、叱られた生徒たちの恐怖はいかばかりであったか。衆人環視の中で怒鳴りつけられた恥ずかしさもあっただろう。

 生徒たちが何をしでかしたかは知らないが、周囲の状況を見れば通行人に迷惑を掛けたわけでもなさそうだったし、喧嘩などしたわけでもなさそうだ。気の毒に…、と私は思った。別に生徒たちだけが気の毒なのではない。その若い教師自身、自分が中学生だった10数年前には、同じように担任の教師から度を越えた罵声を浴びせられた経験があるに違いない。
 そしてあの生徒たちの中に、もし将来教職に就く者がいたら、きっと人前も憚らずに自分の生徒たちを同じように怒鳴りつける教師になるであろう。

 大体人間というものは、自分が下だった時に上の者からやられた仕打ちを、そっくりそのまま下の者に対して繰り返す傾向がある。
 一番典型的なのは軍隊のいわゆる“二等兵いじめ”、これはかなり陰湿なものだったらしい。士官や下士官などの上官から理不尽な制裁を受けても、それに絶対服従で文句も言えないのが軍隊であり、上等兵や一等兵などは、その鬱憤を今度は自分より下の二等兵にぶつけるのだ。二等兵もその時は黙って耐えているが、自分の階級が上がった時に、次の二等兵(新兵)に順送りする。

 戦記物など読んでいて面白いと思うのは、時たま人格者の部隊長や艦長などが着任すると、その部隊や艦船では理不尽な鉄拳制裁が行われなくなったという記載があることである。どこまで本当かは分からないが、私の職場であるいろいろな医療機関でも、教授とか部長とか医長とか師長(婦長)とかいう人たちの人格次第で、若いスタッフの離職率が違う印象を持っている。
 概してリーダーが凄みを利かせて有無を言わせず部下を従わせるような部署では、中堅職員が新人や若手スタッフに対して“指導”という名目でずいぶんきつい言行があるのを見聞きしており、若手の離職も他部署に比べて多いように思う。

 自分が親からやられたイヤなことを、自分が親になったら子供にやる、
 自分が教師からやられたイヤなことを、自分が教師になったら生徒にやる、
 自分が上司からやられたイヤなことを、自分の部下に対してやる、

 自分が上の者からきちんと抱擁された経験の無い者は、今度は自分の下の者をきちんと抱擁することが出来ないのかも知れない。

 孔子の言葉に、
己の欲せざる所を人に施すなかれ、というのがあるが、この言葉を知った時、なぜ己の欲する所を人に施せ、でないのかと疑問に感じた。しかしその後よくよく考えてみれば、自分のして欲しいことを他人にするのは、自分に余裕さえあれば決して難しくない。誰かの気を引こうと思えば、その人に親切にしたり、場合によっては金品を施したり、けっこう誰でもやっていることだ。
 そんなことは下心のある行為であって、本当に難しいのは、自分がやられたらイヤなことを他人に対して行なわない、ということの方だった。さすがは孔子の言葉である。


さらば友よ

 今日(2012年1月22日)、長年の友人と別れた。自家用車を廃車手続きすることにしたのである。日曜の午前中、業者さんに自宅まで来て貰って、車を持って行って貰ったが、専用運搬車の荷台に載せられて運ばれて行く愛車を見送る心境はちょっと複雑なものがあった。
 震災の被災地や途上国などでは、もう走れないと思う車でもまだまだ活躍できるので、これからそういう奉公場所を探して役立ててくれる業者さんということだったが、やはり長年ハンドルを握ってきた者としては寂しい気持ちが大きい。
 時々バッテリーが上がったり、ウィンドウが下がりっぱなしになったりして駄々をこねたこともある愛車だったが、よく無事故で走り続けてくれたものと感謝の気持ちで見送った。

 私が運転免許を取得したのは昭和47年(1972年)3月のこと、もう40年も昔のことになる。自動車は公害の元凶であると当時は思っていて、あまり運転免許取得には乗り気でなかったのだが、重い心臓病を患っていた母親のために役に立つこともあるだろうと思い、非公認の自動車教習所に入所した。
 公安委員会が認定する教習所なら、教習所の試験をパスすれば実技試験は免除されたが、非公認の自動車教習所だったので、仮免許も本免許もすべて警察の運転免許試験場のコースで、公安委員会の試験官同乗の車で試験された。試験官はけっこう厳しく、私は府中の試験場で6回、鮫洲の試験場で1回と合計7回落とされて、8回目に府中で合格した。

 なぜそんな面倒な非公認の教習所へ行ったかといえば、とにかく安かったからである。今は中野の警察学校になっているが、マンションの隙間にある小学校の運動場くらいの小さなコースで(たぶん狭いから公認されなかったのだろう)、実地教習が1時間1000円だった。学科の方は通信教育で、テキスト代も含めて5000円程度、私は警察の試験場に通う交通費も全部込みで75000円で普通車の運転免許を取得した。これは当時かなり破格の値段であり、あの頃は公認の教習所へ行けば、どんなに安くても10万円は必要と言われていたものである。

 教官も良い人が多く、当時は公認教習所の教官の態度がひどいことが漫才のネタにもなる世の中だったが、私はお陰様でそんなに不愉快な思いをすることもなかった。

 さてそうやって免許を取得したが、差し当たって車が必要になる事態もなかったので、実際に自家用車を買ったのは昭和54年(1979年)、小児科医として浜松に赴任する時のことだった。荷物も運ばなければならないし、家族に何かあったら夜中でも東京に駆けつけられるようにという目的である。

 車種は当時フルモデルチェンジしたばかりの三菱ランサーEX、自動車も流線型を目指していた時代に、直線を基調とした車体デザインが斬新な感じだった。それにしてもトヨタや日産を差し置いてなぜ三菱か、私の頭の中には何となく三菱の零式艦上戦闘機(ゼロ戦)のイメージがあったのは確かだ(笑)。

 浜松在住の3年間に何度も東名高速道路を往復した。高速道路から見える富士山や由比ヶ浜の海岸、新幹線との交差、牧ノ原台地の緩やかな勾配、御殿場付近の曲がりくねったコース、今でも鮮やかに目に浮かぶ。
 浜松勤務中は、夜中に病院から緊急呼び出しを受けると、自らハンドルを握って駆けつけたことが何度もあった。私の車が病院に入るのを見て、近くの雀荘で麻雀していた同僚の先生方まで押っ取り刀で応援に来たことなども懐かしい。勤務に疲れた休日など、御前崎や浜名湖や佐久間ダムなどに出かけたこともあった。

 東京に戻ってからも、夜間や明け方の病院からの呼び出しや、病理に移ってからは解剖当番の日などに車で出かけることはあったが、当初の運転免許取得の目的でもあった心臓病の母親を病院へ送り届ける役目が多くなった。受診日には自分の勤務前に母親を送り届けたものである。真冬の早朝などはフロントガラスが結氷してなかなか発車できなかったので、ヤカンに熱湯を沸かして駐車場まで持って行ったこともある。

 最初に買った三菱ランサーに12年ほど乗り、エンストしやすくなったので買い換えたのもやはり三菱ランサー、結局ゼロ戦のイメージの三菱車を運転し続けたわけだが、やはり50歳代の後半頃からちょっとヒヤッとすることが多くなってきた。若い頃は自分の進行方向の交差点や路地は1つ1つ無意識にチェックしていたが、最近では、「アッ、今の所に路地があった、もし自転車でも飛び出して来ていたら危なかったなあ」などと思うことが何回かあった。

 もう誰かを誤って傷つけてしまう前にハンドルを握るのは止めよう、とここ2〜3年ずっと思っていて、やっとカミさんも納得してくれたので、今日、愛車を手放した次第である。
 とにかく1台目のランサー、2台目のランサーにまつわる思い出はたくさんあり過ぎて、とてもこんなサイトに書ききれるものではない。もう生涯ハンドルを握る機会もたぶん無いと思うとちょっと寂しいが、やはり無事故で終えることができてホッとする面もある。まだ今後も運転される方々は、どうか安全運転に気をつけて下さい。


シモネッタの孫

 前回、愛車の廃車手続きを涙ながらに(!)業者さんに委託した話の折に、ランサーにまつわる思い出はたくさんあり過ぎて書ききれないと書いたが、やはりシモネッタ一族(!)としては、どうしてもこれだけは誰かに話しておかなくては罰が当たりそうという強烈な体験談がある。
 あれは初めて買った1台目のランサーに乗って、浜松で小児科医として生活していた頃のこと…(回想モードに入る)

 あの頃は周産期医療でハイリスクの妊産婦さんや未熟児・新生児のケアをする一方で、気管支喘息や心疾患の子供たちを相手に奮闘するという、現在ではちょっと考えられないくらいハードな、それでいて何となく医師として充実した生活を送っていた。
 そして時々心身ともにクタクタになるようなことがあると、夜間や日祭日などに愛車を駆って少し遠出をすることがあった。浜名湖の舘山寺温泉はもう我が家の庭のようなもの、もっと足を伸ばせば御前崎や渥美半島の伊良湖岬などは深夜までに往復でき、やはり自動車は速いものだなあと実感したものである。

 ある時、ふと思い立って、天竜川沿いに長野県の飯田市を訪ねてみようと思い、国道151号線をずっと上って行ったことがあった。飯田市にはみごとなリンゴ並木があると読んだことがあったからだ。
 ところが途中で道に迷ってしまい、何だかとんでもない山道に入ってしまった。ほとんど180度近いヘアピンのような急カーブ、隙間だらけのガードレールの向こうは崖になっていて、ハンドルを切ると遠くの山並みがスーッと目の前を横滑りしていく、あの時は本当に怖くて、自分で運転していながら車酔いしてしまった。あんな経験は後にも先にもただの1度きりだ。
 しかもこの道がどこへ続いているのかも全然分からない。こんな場所でガス欠を起こしたら誰も救援に来てくれないだろうし、まして路肩から転落でもしたら…。その日は土曜の午後で、こんな冒険ドライブをすることは職場にも言っていない。公衆電話も、ドライブインも、民家も見えない。他の車とも行き違わない。もちろん現在のように携帯電話などあるわけもない。
 一本道だったから、腹を決めて何時間か前進を続けているうちに、やっと浜松方面の道路標示を見つけた時は本当に嬉しかった。夜中の2時頃に浜松市に帰り着いた時にはガソリンはほとんど残っておらず、かなり冷や汗をかいたのを思い出す。

 ところで何でこんな話がシモネッタなのかと怪訝に思われるだろうが、話はまだ続きがある。半年ほど後に、今度はきちんとドライブマップで道順も調べて、飯田市訪問に再挑戦した。ところが病院非番の日曜の早朝に浜松を出たのは良いが、あまりに朝が早かったのと、車のリズミカルなエンジンに揺られているうちにお腹が痛くなってきた。つまりウ○コを催してきたのである。この先は何キロも山の中、ドライブインも無いし、民家も無い、公衆トイレなどこんな山道にあるはずない、さてどうしよう…。

 しばらくは我慢して運転を続けていたが、もうどうにもたまらなくなった。それでご想像のとおり、当然の帰結として野グ○となったわけで、対向車も通らない山道の路肩に車を寄せて停め、左側の林の中に歩いて降りて行き、適当な灌木の茂みの中に浅い穴を掘って、△◎◆★☆▽■○
(文字化けしてます)

 それで大自然の中での作業が終わった後に、はたと気がついた。
紙〜!
まったくこんな山の中では紙も仏もない、仕方ないから手頃な大きさの葉っぱを拾ってそれを使ったが、朝露に濡れた葉っぱは、今で言うウォッシュレットの役目も果たしてくれて満更でもなかった。登山やキャンプをする人なら当たり前のことかも知れないが、とにかく“文化生活”にドップリ漬かった私にとっては強烈な体験であった。

 さてその後は無事にドライブを続けて飯田市に到着し、午後3時頃にはもう浜松まで帰って来ることができた。長野県で買ったリンゴのお菓子を、何食わぬ顔で休日勤務の看護師さんたちにお土産で渡したら、とても喜んでくれたものだ。野グ○の話はおくびにも出さなかった(笑)。

 ここでもっと恥ずかしい話なのだが、私がそれからずっと考えていたのは、なぜ人間は例の作業の後に紙が必要なのかということだった。ペットの犬や猫なら飼い主が始末することもあるかも知れないが、大自然の中で生きる動物たちがウンコの後に葉っぱでお尻を拭いているなんて話は聞いたことがない。

 実は動物たちは排便時に直腸粘膜を肛門から外へ突き出してウンコを放り出した後は、再び粘膜を体内に格納するからお尻はきれいなまま保たれて、いちいち紙や葉っぱで拭く必要はないらしい。まるで急降下爆撃機の爆弾投下器のような巧妙な構造だが、臨床一筋だった当時の小児科医の私はそんなことは知らなかった。
 もしかしたら学生時代に解剖学の教員から教わっていたのかも知れないが、日々の診療に忙殺されていると、基本的な人体の構造の話などすっかり忘れてしまう。私が人体について本当にいろいろ考えるようになったのは、小児科から病理に移ってからのこと、さらにその知識を深めようと思ったのは、現在の学科に移って若い学生さんたちと触発しあうようになってからである。

 人間がお尻を拭かなければいけなくなったのは2本足直立歩行が原因である。頭脳を大きく発達させて、前足(手)で道具をうまく操るためには、人類にとって直立は必要不可欠の試練だった。そして直立するためにはお尻の筋肉をうんと発達させて、2本の下肢だけで全体重を支えなければいけなくなった。
 そのために人類の肛門は、モリモリ発達した大臀筋の陰に隠れてしまい、排便のためにいちいち直腸粘膜を突き出すことができなくなった。こんなことは、最近では科学・生物好きの人たちの本やサイトには書いてあることだが、そんなことを知らなくても新生児医療のベテランと呼ばれていた当時の私はいったい何者だったんだろうと、今さらながら空恐ろしくなる。
 大学病院や大きな基幹病院には専門医と称する“ベテラン”医師がゴロゴロしていることは別のページに以前書いたことがあるが、そういう人たちは基本的な医学知識、生物学の知識も忘れてしまっているのではなかろうか。とんでもなく簡単な病気を見逃していたり、トンチンカンな処方を続けていたりする。


右利き・左利き・両手利き

 
私の私の彼は〜♪
というフレーズを聴いて歌手の麻丘めぐみさんを思い浮かべるのは、かなりオールドタイマーですね(笑)。あの歌を聴いた麻丘めぐみファンが、自分を左利きに“矯正”しようとしたなんて話もあったような気もしますが…。

 大学も入学試験シーズンになると、私たち大学教員は何回か試験監督をやります。試験監督は何をするかと言うと、受験の説明をした後に問題と解答用紙を受験生に配布して、その後は試験が始まると答案を回収するまでの何時間か、ただジーッと待っているだけです。試験監督者が居眠りしたり、読書していたりすると、受験生からクレームがつくことがあるので、どんなに退屈でもジーッと黙って座っていなければいけない、これはかなり辛いものがあります。

 私の学科の入試の筆記試験は2時間、医学部は3時間もあります。ちなみに私の大学では、医学部の教員は医学部入試の監督をやりません。すべて医学部以外の教員任せです。他の学部の教授や准教授までが医学部受験生の試験監督をやっているのに、医学部は講師も助手も1人も出て来ない。まあ私自身、医学部教員だった頃は、こういうシステムを知らなかったこととは申せ、医学部の学生さんたちには現在ほどの愛着を感じることも少なく、大変申し訳ないことでした。自分が教えることになる学生・生徒を選抜する試験の監督を誰もやらない学校は、たぶん全国でウチの医学部だけでしょう。

 ところで2時間も3時間もボーッとしている時間は勿体ないし、せっかく何十人もの若者たちを一堂に集めて観察する機会に恵まれているわけですから、最近は受験生たちの利き手を集計することにしています。
 監督者の席に座って教室を眺め渡すと、左手で解答している受験生はパッと目に止まる、普段の講義でも左手でノートを取っている学生はよく目立ちますが、講義ではポーッとしているヤツも混じっているから、全員が同じ解答動作をしている受験場に比べたら良いデータは取れません。それに第一、学生が一生懸命ノートを取っているということは、教師の自分自身にそんな左利きの人数をカウントしている余裕もないわけで…。

 それで毎回入試の監督をやるたびに数えた左利きの受験生の数は、世間で言われている数値と同じく、大体1割前後です。正確には左手で筆記用具を持っている受験生の数ということですが、今回はちょっと趣向を変えて、筆記用具を持つ手と消しゴムを持つ手が一致するかどうかに注目してみました。今のところまだデータは多くないのですが、私が観察した範囲では、全員が書いた手で消しています。つまり右利きは右手で書いて右手で消し、左利きは左手で書いて左手で消す。

 何でデータが集まらないかというと、皆さんもお気付きと思いますが、ある受験生に注目した場合、その彼や彼女が何か書き損じて消しゴムを使う機会を捉えなければいけないからです。これは膨大な試験監督時間を“有意義に”潰す絶好の観察材料です。

 私が鉛筆と消しゴムの持ち手に注目したのは、実は自分自身がいわゆる“両手利き”だからです。私は中学1年生の時、右手を骨折して1ヶ月以上もギプスをはめていたことがありました。私はいつもは右利きなのですが、その時はノートも試験の答案も全部左手で書き、ちょうど行われた漢字書き取りテストも、骨折していないクラスメートたちよりも高得点を上げて、国語の先生からも褒められたほどです。

 それ以来、私は自分が“両手利き”だと自慢していましたが、高校に進級して友人からさらに言われたことに自分でも驚いた経験があります。その友人はこう言いました、
「お前は右手で鉛筆を持って、左手で消しゴムを持っている、鉛筆と消しゴムを持ち替えなくていいから便利だよなあ。」
 確かに私は右手で文字や図形を書きながら、ちょっと間違うとすぐに左手の消しゴムでサッと消す、私はそれが子供の頃から当たり前だと思ってやっていたのですが、なるほど、周囲の友人たちを見ていると、何か書き間違えると鉛筆を置いて消しゴムに持ち替えているではありませんか。これは便利と羨ましがられるわけだと、私も納得しました。

 そんな話を思い出したので、受験生たちの筆記動作を観察してみることにしたのですが、どなたか“両手利き”に関する情報をご存じでないでしょうか。ちなみに私は普段の日常動作はすべて右利き、腕時計も左手にはめるし、電話機も左手で持つ。あと“両手ジャンケン”(右手が左手に勝つような独りジャンケン)ができる、そんなとこですかね。

補遺:これを書いた翌日の入学試験で、左書き・右消しの受験生を1人発見しました〜。


脳は脳を理解できるか

 今年卒業する学生さんの中に、私の解剖学、病理学の成績が抜群に優秀な者がいた。私の講義ノートやメモをパラパラと試験前に読み直すだけで、私の出題する問題など全部予想もつくし、いちいち内容を丸暗記しなくても、頭の中に筋道立てて入っているらしい。
 しかし面白いことに、この学生さんには1つだけ弱点があった。中枢神経系だけは苦手なのだ。
「何でお前さんほどの学生が脳だけ苦手なんだ?」
と聞くと、肝臓でも腎臓でも他の臓器は全部イメージが掴めるが、脳だけはまるでイメージが湧いて来ないんだそうである。

 これは実はとても含蓄のある話であって、私もその昔、『脳は脳を理解できない』という命題を読んだことがあったのを思い出した。その時は、ああ面白い命題だなと思って漫然と読み飛ばしただけだったが、今回の学生さんの話でふと思い出していろいろ調べてみたら、これは医学的というよりはむしろ論理的な命題であって、次のようなことらしい。
●あることを理解するというのはすべて脳の活動である
●脳を理解するのも脳の活動である
●したがって理解の対象となった“脳”も脳の中に蓄えられる
●すると脳の中に蓄えられた“脳”の中には、その理解の対象となった““脳””も含まれる
●こうして脳の中の脳は無限ループになるから100%完璧に自分の脳を理解することは不可能である

 じゃあ医学的・科学的にはどうなんだと言えば、脳に限らず、今のとは別の理由で人体を100%完璧に理解することは困難、おそらく不可能と言っても良いんじゃないかと思っている。
 例えば、細胞の核には遺伝子のDNAが蓄えられていて、これがRNAを介してタンパク質に翻訳されるなどということは、今では理科の好きな小学生なら誰でも知っている生物学の基本的知識である。しかしこれだけでは1個の受精卵から1人の人間が完成するまでを完璧に説明できない。
 受精卵が細胞分裂をしながら、ある細胞は皮膚になり、ある細胞は神経になり、ある細胞は血管や血球になり…と、厳格な秩序に従ってさまざまな分化を遂げていかなければ、受精卵は肉の塊にすらなれないのである。この厳格な秩序を保たせているものは何なのか。この部位ではこのDNAからこれだけの量のタンパク質を作れ、こっちではこのDNAからこれだけの量のタンパク質を作れ、“誰”がこれを指令しているのか。
 最近ではそういうことも微に入り細に入り分子生物学的に研究されて、かなりのことが分かってきているが、やはりそういう細胞分化の指令機能もまた最初の受精卵の中に含まれたDNAの情報に含まれていたはずである。さらに最新の知見ではミクロRNAなども非常に重要な働きをしているわけだが、所詮DNAもRNAも分子であるから、それを構成する炭素や水素や酸素や窒素などの原子が分子の機能を決め、さらに原子を構成する陽子や中性子や電子などの素粒子が原子の性格を決めているから、いずれは“素粒子生物学”とでも呼ぶべき学問領域が進歩するまでは、我々は細胞と生物を究極のレベルまで理解できないだろうし、もし素粒子の分野まで踏み込んだとしても、そこは不確定性原理の支配する領域であるから、結局のところ我々は生物を(脳に限らず)究極まで突き詰めて理解することは不可能ということになる。
 
 さて脳の話に戻るが、アリストテレスは心と体は不可分であると見抜いていたが、心の機能にまで科学が初めて踏み込んだのは19世紀(1874年)、ウェルニッケという外科医が左側頭葉に言語を支配する中枢の1つが存在することを発見した時である。その後、第一次世界大戦では小銃弾で頭蓋骨を貫通されて脳を局所的に損傷する兵士たちの症例が増え、一挙に脳の機能への理解が深まった。戦争の犠牲者によって医学が進歩したのは痛ましいことである。

 例えば手足など体の動きの指令を出しているのは左右の前頭葉という部分、それも身体の左右と脳の左右は逆になっているとか、知覚刺激を受け取るのは左右の頭頂葉という部分とか、視覚刺激の処理は後頭葉とか、そういうのを脳の機能局在といって、けっこう脳の解剖学では重要な箇所である。学生さんたちがよく間違うのは、別のページにも触れたが、記憶の中枢である。学校の勉強などしていると物の記憶は非常に高等な脳の精神機能のような気がするので、人の脳が猿より発達している部分、前頭葉が記憶を蓄えているように錯覚しがちだが、太古の原始生物たちにとっても記憶は生存に関わる大切な機能だった。だから記憶中枢は昔から生物に備わっていた古い脳の深い場所、海馬という部分にある。
 ちなみに手塚治虫さんの漫画、鉄腕アトムの生みの親である天馬博士の専門は海馬の研究である。漫画の中で天馬博士の紹介が書いてあった時に、まだ小学生だったが、海馬って何だろうなと思った記憶があるが、アトムのような高性能ロボットを作るには、やはり記憶の研究は大事かな(笑)。

 最近ではCTスキャンやMRI検査など、脳の形を外側から検索するこれまでの方法だけでなく、PET(ポジトロンCT)やMEG(脳磁図)などの新しい方法も加えて、さまざまな方向から脳の機能研究が可能になっている。健康な人間に侵襲を加えることなく研究が進めば、いずれヒトゲノム計画と同じくらいの精度で脳の機能も判ってくるだろう。所詮人間は脳で考えているから、自身の脳のことを完璧に理解することはできないなどと理屈を言っていたら、地球上にいて地球も含むすべての惑星の運行を正確に予言したヨハネス・ケプラーに笑われてしまうかも…。


人生30年

 私も昨年(2011年)とうとう還暦を迎えたことはすでに書きましたが、実はもう私の人間としての人生はもう30年も前に終わっていたんではないかと、ある昔話を思い出して可笑しくなりました。その昔話というのは次のようなものです。

 
昔々人間の寿命は30歳だった。(別に公衆衛生学の話ではない。)人間ばかりでなく、馬も犬も猿もみな寿命は30歳だった。
 ところが馬が神様の所にお願いにやって来て言った。
「神様、私は人間などという自分勝手で冷酷な生き物と30年間も一緒に暮らすのはイヤです。15年で勘弁して下さい。」
人間にこき使われて苦しんでいる馬を哀れと思った神様は、馬の寿命を半分の15歳にしてやり、その余った分を人間に分けてやった。
 次に犬も神様の所にお願いにやって来て言った。
「神様、もう私は人間に愛想が尽きました。あんな生き物と30年間も付き合えません。何とかして下さい。」
理不尽な人間に怒り狂う犬の気持ちを理解した神様は、犬の寿命を半分の15歳にしてやり、その余った分を人間に分けてやった。
 最後に猿も神様の所にお願いにやって来て言った。
「神様、人間みたいに利口ぶって自分が一番と思っているような生き物と一緒にされるのは御免です。私も寿命は30年も要りません。」
神様はちょっと変だなとは思ったが、馬や犬の頼みも聞いてやったことだし、ついでに猿の寿命も半分の15歳にしてやり、その余った分を人間に分けてやった。
 こうして馬も犬も猿も寿命は15歳になり、代わりに人間だけが75歳近くまで生きることになった。とは言うものの、人間が人間として生きられるのは最初の30年間だけで、次の15年間は馬のように何物かにこき使われて働かねばならず、次の15年間はさまざまな理不尽な事に対して犬のように吠えまくりながら生きなければならず、次の15年間は猿程度の知恵しか回らず、本能に従ってわがままに生きなければならなくなった
…のだそうです。

 さて、私も馬から貰った人生(“馬”生)もとっくに終わりました。小児科医として過労死寸前のところまで働き、病理に転進してから後も病理解剖や病理診断でがむしゃらに働いてきました。
 次に犬から貰った人生(“犬”生)もようやく終わりました。身の回りや社会の理不尽な矛盾ばかりが目についてイライラしがちな毎日でした。
 そしてとうとう猿の人生(“猿”生)を生きる日がやってきました。

 今日(2012年3月21日)は、私の学科の第3期の学生さんたちの卒業式でした。7年前の春に先代の学長からこの学科の教員を拝命した時は、正直自分の器量ではないので辞退しようと思いましたが、どうしてもと懇願されて、気が進まなかったけれどお引き受けすることにしました。
 しかしいったん引き受けた以上は、中途半端なことをして学生さんたちの期待を裏切ってはいけないと必死でした。教員になると心を決めたら、先ず最初に守らなければならないのは、自分が受け持つことになる学生さんたちです。少なくとも最初の3学年は無事に見送ってやりたい…。

 今日はその3期生が巣立つ満願成就の日、私も“犬”を卒業して“猿”になりました。これからは1年1年、あるいは1学年1学年、区切りをつけてわがままに生きようと思います。これから送り出す卒業生たちの1期1期が、それぞれ私の社会に対する最後の貢献の積み重ねになりますから、自分が最高と思える方法で教えてみたい。
 どうせ彼らも“人間”として生きられるのは卒業後せいぜい7年か8年、彼らが“馬”として生き、“犬”として生き終えた後、「ああ、ブンブン先生が言っていたのはこのことだったか…」と思い出して貰えるような何かを彼らの中に残してみたい。今はそんな気持ちですね。
 それが出来たら、大発見や大成功とは無縁な人生でしたけれど、いよいよ最期の時になって後悔しなくて済みそうです。


人生最初の記憶

 この間ふとそんな会話が出た折に考えてみたのですが、皆さんの人生最初の記憶っていったい何だったですか。何かの本に書いてあったことですが、普通の人に最初の記憶は何かと訊ねると、自我が分化し始める大体3歳前後の記憶を思い出すことが多いそうです。自分と他人が別物であることを意識できるようになってきた頃に起こった鮮烈な体験が人生最初の記憶となるらしいです。
 まあ、催眠術をかけて記憶を引き出すと、母親の子宮の中の記憶まで遡ることができるという人もいますが、これはやや特殊なので考えないでおきましょう。

 もう一つ読んだ文章では、そういう幼少時の記憶は現実と夢想が渾然一体となっていて、自分では現実だと思っていても、実は夢であることも多いようです。その文章の著者は、幼児の時の体験として、家の前の路地を蒸気機関車が走るのを見たというとんでもない出来事を現実のこととして記憶していたと書いていました。
 実は私もこの著者とまったく同様、家の前を機関車が走って来るのを見たと、かなり大きくなるまで現実の出来事として思い込んでいました。でもこれは絶対あり得ないことですよね。幼い頃の夢か空想を、現実と混同してしまったのでしょう。おそらく脳にインプットされてきた膨大な情報を、それが現実か非現実かまでを吟味して分類する機能がまだ未熟だったために起こった混乱と思われます。

 ところで私には未だに現実だったか夢想だったか定かでない3歳頃の記憶があります。子供の頃の私の散髪は実家の近くの理髪店でやって貰っていました。もちろん3歳くらいの子供では独りで行けないので、いつも祖母が店まで送ってくれて、散髪が終わる頃にまた迎えに来る、ところがある日、祖母も何かの用事で手が離せなくなったらしく、いつまで経っても迎えに来ない。
「お祖母ちゃん来るの待つ?それとも独りで帰る?」
お店の理髪師のお姉さんが、右の頭上から私の顔を心配そうに覗き込んで、声を掛けてくれた情景がおぼろげな記憶の中にありますから、たぶん迎えが来なくて独りで帰った事実はあったのかも知れません。店の大人たちの中に幼児が1人きりでいる心細さもあって、私は独りで帰宅する決断を下したのだと思います。

 それで家へ帰る途中、バス通りに面した空き地に小さな鳥籠が置いてあって、その中に立派なニワトリが入っているのが目に止まりました。私は好奇心に駆られてその鳥籠のそばにしゃがみ込み、人差し指を突っ込んだら、鳥も気が立っていたと見えて、私の指を突っつき返してきた…。その後はどうなったか、まったく覚えていません。

 ただそれだけなのですが、これが私の生涯最初の記憶です。しかし何かおかしい、他愛もない出来事ですが、あれは本当に現実のことだったんだろうかと、これまでも何度か思い出しては首を傾げています。
 いくら昭和20年代とはいえ、東京の大通りに面した空き地に(空き地はまだ残っていた)、ニワトリを入れた鳥籠を放置するなんて考えられません。普通はニワトリは庭に放し飼いみたいにしておくものです。もしかしたら夕食の水炊きにでもされる運命の鳥だったかも知れませんが、鳥籠に入れて放置すれば盗まれる心配もある(当時の食糧事情はそんなに良くなかった)。

 夢だったか現実だったかはともかく、これが私の人生最初の記憶です。弘法大師に、『
生まれ生まれ生まれ生まれて生のはじめに暗く、死に死に死に死んで死の終わりに冥し』という何だかわけのわからない言葉がありますが、人間は何度生まれ変わっても、人生の最初と最後の部分が混沌としているから、なかなか悟れないという意味でしょうか。
 まさに生の最初の部分の朦朧とした情景を象徴するような幼児期の記憶です。鳥籠の中のニワトリに突っつかれることで、この世に人として生まれ出るのが私の縁だったのでしょう(笑)。間もなく私もゆるやかに生の終わりの冥い朦朧とした部分に差しかかっていきますが、結局は何も悟れないものですね。


シンバルの響き

 2012年4月29日、横浜みなとみらい大ホールで日本病理医フィルハーモニー(JPP)の第1回演奏会が開催されました。これは私の同業者である病理医を中心に、演奏経験のある者が集まって結成されたオーケストラで、どうしても演奏者の足りないパートは他の科の医師や臨床検査技師や他のお仕事の方々にも手伝って頂きましたが、出演した半数以上が病理医です。私の教え子の卒業生の方2名も加わって下さいました。

 私は高校時代に音楽部のブラスバンド班で打楽器を担当していましたが、その後はずっとアマチュアの演奏会に出演することもなく、したがって同業者のアマチュア演奏家たちも、まさか私がかつて打楽器を演奏していたことなど想像もしてくれないまま歳月が過ぎました。しかし今回いろんな事情があって病理医の仲間たちの演奏に加わることになり、ついに還暦を過ぎた再デビューとなった次第です。

 思えば最後に演奏会のステージに上がったのは、昭和44年11月22日(全部ゾロ目の日付・笑)に開かれた高校時代最後の定期演奏会、アンコールの『星条旗よ永遠なれ』で小太鼓(スネアドラム)を演奏したのが文字どおり最後の演奏でしたから、それから数えて何と42年半ぶり…。こんな写真のようなステージ上の景色を見るのも、本当に久し振りです。
 こんな風景を最後に見てからの42年間、私は浪人して医学部に入り、小児科医から病理医そして現在の学科の教員と、ずいぶん長い人生の道のりを歩いて来ましたが、ステージ上でこれまでの経歴のさまざまな場面が脳裏に浮かびました。まあ、こんな“雑念”は高校時代には湧かなかったわけですが…(笑)。

 今回私は最初から最後までシンバルを担当させて貰いました。シンバルとは銅・錫・銀・ニッケルなどを含む合金を叩いて円盤状に延ばした打楽器で、通常オーケストラやブラスバンドでは同じ形の2枚の円盤を打ち合わせて演奏します…って、わざわざ説明しなくても玩具の猿がバチャバチャ叩いているやつです。

 私は高校時代、音楽部の合唱班とブラスバンド班に所属して、卒業まで夢中になっていたことは、自己紹介のページに書きましたが、我が音楽部には高校を中退して桐朋学園の打楽器科に転校した天才的な先輩がおりました。高橋明邦さんといって、今でも打楽器界で活躍している方ですが、私はこの人の弟子の第1号でした。音楽学校の先輩として母校の後輩の指導に来てくれたのです。打楽器一般ずいぶん鍛えて頂きましたが、あの時の訓練があったからこそ、還暦を過ぎて42年ぶりにステージに上がっても物怖じすることなく演奏できたのでしょう。

 中でもシンバルには私もちょっとこだわりがありました。高橋先輩の言うことには、シンバルの2枚の円盤を適切な角度で、寸分の狂いもない位置で、瞬間的に打ち合わせなければ良い響きは出ないのです。シンバルの響きは文字で書けば、
ジャーンとかシャーンと表現されますが、ちょっと角度や位置がずれれば、パッチャーンとかカツーンという変な響きになってしまいます。
 しかもなお悪いことに、私がブラスバンドをやっていた昭和40年代の国産のシンバルはそんなに品質が良くなかった。シンバルは材料の金属をなるべく薄く均一に延ばしてあるほど良い響きが出るのです。当時の打楽器教則本にはトルコのジルジャン(Zildjian)社製のシンバルが世界最高品質であると書いてありましたが、国産のシンバルの10倍以上の値段ですから、高校生には高嶺の花…、日本も経済発展途上でまだそんなに裕福ではなく、高校生のアマチュア吹奏楽が外国製の輸入楽器など簡単に買い揃えられる時代ではありませんでした。
 当時の日本製のシンバルではなかなか良い音が出ません。バチャーンとかガチーンとかいろんな変な音を出しながら高橋先輩に指導して貰い、日本製でもそこそこの響きを出せるまでに上達しましたが、やはり1回で良いからトルコのジルジャンとやらのシンバルを演奏してみたいというのが、高校時代の私の切なる願いでありました。しかしその願いもついに実現することなく、42年という長い歳月が過ぎ去ったのです。

 2001年にはシンバルの本場、トルコへ旅行しました。イスタンブールでは軍事博物館でトルコ軍楽隊の生演奏が聴けるというので、いそいそと見学に出かけましたが、確かに凄かった…。

 かつて東ヨーロッパを席巻したオスマントルコの軍隊は、ご覧のように深紅や金色のきらびやかな衣装をまとった軍楽隊を先頭に立てて、ラッパや太鼓の音で敵を威嚇しながら進撃して来たそうです。あんな音が地平線の向こうから聞こえてきたら、もう戦意喪失しそう…。(この写真は軍事博物館で買ったCDのジャケットです)
 中でもシンバルの演奏はとても他国の楽隊には真似できそうもないほど見事なものでした。大きなシンバルが2人、小さなシンバルが5〜6人、これがかなり早いリズムで演奏するのですが、何人もいる奏者が一糸乱れぬ動きでシンバルを打ち鳴らす、おそらく戦場ではシンバルの円盤が太陽の光を反射して、その凄まじい音以上に敵を威嚇したことでしょう。あんな演奏が出来るのも、やはりジルジャンに代表されるトルコのシンバルがあればこそだなあ、と私も高校時代の切なる願いを思い出しては、しばし溜め息ををついたものでした。

 そして時は流れ流れて一昨年のこと、新たに結成された日本病理医フィルハーモニーの練習場に顔を出してみたら、何とそこにあったのは、夢にまで見たジルジャン製のシンバルではありませんか!
「ジルジャンじゃん!」というわけです…(シラ〜)
さっそく叩いてみる…、あの当時の日本製シンバルなど到底比較にならないほど材質が薄く均一に延ばされていて、
ジャーンととても綺麗な響きが出ました。42年ぶりの願いが叶った瞬間でした。

 カミさんの楽器にはそれこそナントカバリウスなどという値段があってないような名器が存在することは、今では音楽愛好家なら誰でも知っていることですが、オーケストラの中で最も単純な構造のシンバルみたいな楽器にも、ナントカバリウスほどではないにしろ、やはり名器と呼ぶにふさわしい物があるというお話でした。

補遺:この度の日本病理医フィルハーモニーの第1回公演はさまざまなボランティアの方々に支えられて大成功を収めました。横浜みなとみらい大ホール(2000名収容)のオルガン下の座席を除く1860席に対し、実入場者数1843名だったと後から伺いました。我々の未熟な演奏に足を運んで下さった方々、および運営を支えて下さったボランティアの方々に、この場を借りて御礼申し上げます。


大発見ニアミス

 このページの人生30年の記事の最後の部分で、私の人生は大発見や大成功とは無縁だったと書きましたが、実は1回だけ世界的な大発見の入口を覗いていたことがありました。今回はちょっと残念な悔しい気持ちを思い出して書いてみます。

 あれはまだ医学部の学生時代でしたから1970年代中頃のことです。医学部の病理学実習でさまざまな癌の顕微鏡標本を観察しながら、私はとんでもないことを考えていました。癌という病変を顕微鏡で観察すると(現在の私は病院の病理検査室ではそういう仕事に従事しているわけですが)、悪性化した癌細胞が正常な細胞で形成された組織に対して、群れをなして襲いかかるように見える、まさにインベーダー軍団との戦争です。
 これを見ながら当時からミリタリーマニアだった私は、古今東西の戦史を思い浮かべながら当然のことを考えました。孫子の兵法では、戦いは謀を伐つのが上策で、次に交(補給)を伐ち、次に兵を伐つべきであり、城を攻むるは下の下なりと述べられています。
 もし戦端を開かなければいけなくなったら、敵の主力と戦うよりも先ず敵の補給路を断てという意味で、特に太平洋戦争中の日本海軍の戦いぶりの稚拙さを指摘する場合にもよく引用されます。日本海軍は敵の主力艦との決戦のみを重視して、敵の補給路を断つ作戦(通商破壊戦)には不熱心だった、例えば潜水艦などはドイツのUボートのように通商破壊戦に用いれば有効な兵器だったのに、日本海軍は主力艦隊攻撃に指向したために多大の犠牲のみ大きかったとか、開戦劈頭の真珠湾攻撃では在泊の戦艦部隊だけを攻撃して、補給基地としての真珠湾軍港の機能の破壊を徹底しなかった、などということです。

 私は顕微鏡で癌の標本をスケッチしながら、癌の治療法として、敵主力の癌細胞部隊よりも、その補給路を断てば良いんではないかと閃きました。癌細胞も生きている以上、酸素や栄養分の補給が必要であり、これらの補給路は毛細血管です。
 ああ、そうか、癌細胞は単独では攻めて来れない、必ず自らに栄養や酸素を補給する血管という補給路を作りながら攻めて来るはずだ、ということは癌細胞は新しく血管を作る何らかの物質を産生しているに違いない、この物質を作れないようにブロック(阻害)してやれば癌は攻めて来れないではないか…!

 これはなかなか素晴らしいアイディアです、まだ学生の私は有頂天になりました。というのも、例えば糖尿病との関連で有名なインスリンというホルモンですが、これは1921年にカナダの整形外科医バンティング(Banting,F.)と共に医学生のベスト(Best,C.)が発見に関与していますし、インスリンが産生されている膵臓のランゲルハンス島もドイツの医学生ランゲルハンス(Langerhans,P)が1869年に発見しています。
 つまり普通の医学部の学生であっても医学上の大発見に関われるチャンスはいくらでもあるわけで、まさに癌細胞に血管が供給されるメカニズムなんてことに関しては、当時誰も言っていませんでした。癌治療に対する戦略としては、手術療法の他には放射線療法と化学療法(抗がん剤療法)が知られていただけで、癌細胞に対する補給路を断ち切る兵糧攻めに関しては、誰も気付いていなかった(実はアメリカにもう1人いらしたのですが、この人については後で述べます)。また病理学者の間でも、癌と言えば主力の癌細胞のみを指し、その癌細胞を支える血管や結合組織(これらを“癌の間質”といいます)に関する概念は当時はまったく無かった。もちろん現在では癌の間質は重要な研究分野になっています。

 私はミリタリーマニアの目で思いついたこの素敵なアイディアを1年間自分の中で温め続け、最終学年の病院実習である科を回った時に、当時新進気鋭と言われたある若手教授に打ち明けました。
「おお、君すごいね。卒業したら僕の教室に入局して一緒に研究しようよ」
とおっしゃってくれることを内心期待していたわけです。
 もしあの時あの教授がそうおっしゃっていたら、私の人生はまったく違ったものになっていたでしょう。ところがその教授は「もっと勉強しましょうね」と、私のアイディアを軽くいなしてしまったのです。
 ああ、俺にはランゲルハンスやベストのような研究の才能は無いんだな、とこの時きっぱり研究者への未練を捨てて、卒業後は小児科に入局、さらに病理学教室から現在の学科教員へと歩んできました。

 確か世紀が変わる頃だったと思います。私はある新聞記事でアメリカのフォークマン(Folkman,J)教授のことを知りました。ハーバード大学系列の研究者で、ボストン小児病院で長く仕事をされた方です。この方は1960年代に癌の血管新生を発見、さらに1970年代に血管新生を止めることによる癌治療戦略を思いついて、1998年に血管新生を止めるエンドスタチンという物質を発見しました。
 普通の抗がん剤のような副作用も少なく、癌の進行を止める可能性のある新薬、ところがアメリカをはじめとする世界中の医学界はこれを無視し、一部は嘲笑しました。血管新生を止める薬を総称してアンギオスタチン(“アンギオ”は血管、“スタチン”は止めるの意味)と言いますが、フォークマン教授によるこの薬のアイディアは医学界から「そんなのは幻想だ」とまで罵倒されて、なかなか認められなかったのです。

 それが何と21世紀に入ってから中国で実用化され、今ではフォークマン博士を“血管新生の父”とまで讃える向きもあるようですが、似たような事例は他にも医学界に幾つもあります。有名なのは遺伝の仕組みを解明したメンデルの法則ですが、1865年に発見されたこの世界的な法則も当時の学会の反発を受けて、1900年まで世に認められませんでした。また1840年代後期、分娩介助者の手指を消毒することで産褥熱の発症を劇的に予防したセンメルワイス(ゼンメルワイス)の業績も、学会からの罵倒や中傷を浴びて、これまたなかなか世に認められなかった。

 こういう医者や学者の学問業績に対する嫉妬の話はこっちに置いておいて、癌の治療戦略としての血管遮断を1970年代に思いついていた医学生の自分自身の頭脳を、けっこう頑張ってたじゃないの、と褒めてあげたいと思いますね(笑)。
 もしあの時、あの新進気鋭の教授が私の話を支持して下さっていたら、たぶん私はその後アメリカのハーバード大学に留学してフォークマン博士と共同研究(何しろ世界中から無視されていた博士ですから、日本のボンクラな留学生でも大歓迎して下さったでしょう)、そして今頃は日本の学会の大御所になっていたかも知れません。
 それはそれでちょっと残念ですが、もしそうなっていたらその後の小児科医としての充実感も味わえず、病理医としての仕事も経験もできず、また現在の学科の学生さんたちとの出会いも無かったわけですから、今となっては当時斬新だった私の医学的アイディアを簡単に見過ごしたあの教授の“凡ミス”にも本当に心から感謝したい気分です。
 それにアンギオスタチンは私が関与しなくても、結局は世界の誰かが発見してくれることになったわけですから…。フォークマン博士は2008年1月に急逝されました。ご冥福をお祈りします。


見たぞ金環食

 2012年5月21日の朝はちょっとした大騒ぎでしたね。何しろ日本列島のかなり広い地域にわたって金環日食が見られるというので、普段は天文学になどまったく興味を示さない人たちまでが、金環食、金環食と騒いでいる。

 実は私のカミさんもその1人で、私はもう3週間も前から日食観望用の特殊フィルターグラスを買って来て、この日に備えていたところ(もし雨天だったら泣くに泣けないところだった)、急に前々日になってカミさんもどこで金環食のことを聞きつけたか、私も見たいと言い出した、それで頼まれてもう1つ日食グラスを買いに行ったのだが、どこの店でも当然のごとく売り切れている、私は当日は早めに出勤して職場で日食を見ようと思っていたが、カミさんにも一緒のグラスで見せてやらなければいけなくなって、急遽自宅で見ることになったのです。
 まったく当日まで日食になど興味を示さないでいてくれたら、私も朝の仕事の前に余裕をもって職場で金環食を堪能できたのにね…(苦笑)。

 5月21日は早めの朝食の後、ベランダに出てさっそく日食眼鏡で太陽を見上げてみると、縁が少し欠け始めていました。やはり太陽が丸くないとすごく不思議な気がしますね。何か不吉で不気味です。昔の人たちが日食は悪魔の仕業と信じていたのも理解できる。日本では天照大神(アマテラスオオミカミと読む:テンテルオオカミではない)が天の岩屋戸に隠れたことになっていますが…。

 だんだん日食が進むにつれてあたりが騒がしくなってくる、まず1機のヘリコプターが上空をブンブン飛び始めた、これはたぶん東京の街並み越しに金環食の写真を撮ろうというのでしょう、きっと我が家の上空あたりからだと開業直前のスカイツリーが視界に入るんだろう、などと勝手な憶測をしていると、続いてカラスどもが落ち着きなく鳴きながら飛び交い始めた、これはおそらくいつもと太陽の様子が違っているので騒いでいるに違いない。
 最後に地表の人間どもの歓声が上がり始めました。
「ホラホラ、見てごらん!」「スゲー!」「三日月みたい!」
ご近所の家々から老若男女の声が入り混じって聞こえてきます。願わくは、無知な大人たちはともかく、子供たちだけはきちんと日食の原理、金環食の理由など知ったうえで“三日月みたいな太陽”を見上げて欲しいですね。

 天気予報は前の週あたりからちょっと心配でしたが、幸いにしてこの日の朝の東の空は晴れていて、日食グラスを通してオレンジ色の太陽が次第に欠けていく様子を存分に眺めることができました。ところが日食が最大になる午前7時34分(東京での食最大時刻)、いきなり太陽に雲が掛かって、日食グラスの視界から金環直前の太陽の輝きが消えました。
 チクショー、あの野郎、と雲を罵って日食グラスを諦めましたが、何という奇跡、ほどよい厚さの雲に遮られて太陽が裸眼で見えるではありませんか!雲の向こう側に中抜きの白い環になった太陽がクッキリと…、何と神秘的な光景だったでしょうか。しばらくは言葉も無く、呆然と金環食を見上げていました。

 ところがせっかく空が奇跡を見せてくれたというのに不覚でした、写真好きの私が…カメラ小僧とまで言われた私が何とカメラを準備していなかったのです。どうせ日食を撮るには特殊なフィルターが必要だから、私には無理と最初から決めつけていたのは反省しなければいけません。
 大学病院の病理部の中には朝から病院の屋上で日食を観ていた人もいましたが、この雲に覆われた太陽の写真を撮影したとのことだったので、使わせて頂きました。ちょっと金環食の瞬間からずれていますが、まさに感動のアマチュア天文写真ですね。

 昔の零戦の撃墜王だった坂井三郎さんは、どんな激しい空中戦をした後でも、最後まで何発か機銃の弾丸を残しておくことを心掛けておられたそうです。味方の基地に着陸するまで、どんなことが起こるか分からない、もしかしたら帰投中に敵機に遭遇するかも知れないからです。
 ある新聞社のカメラマンが坂井さんのこの話を教訓として、今日の取材はこれで終わりと思っても、必ず何枚かのフィルムをカメラの本体に残しておくことに努めていたところ、ある時この貴重な残りフィルムで特ダネスクープ写真をものにすることが出来たと、述べていたのを読んだことがあります。
 最近のデジカメしか知らない人にはお分かりにならないでしょうが、昔のカメラは24枚撮りとか36枚撮りとかいうフィルムを1本ずつ装填して撮影していましたから、その1本を撮りきったら、次の新しいフィルムと交換するまでの何分間か何十秒間か撮影が出来なくなります。だからプロのカメラマンはよくカメラを2台担いでいたものです。

 実は私には新婚旅行中マッターホルンの麓の街で、もう観光バスに戻るからと残りのフィルムを全部撮りきってしまったところ、小さな白い馬が引く可愛らしい馬車に遭遇し、今さらフィルムを交換する余裕もないのに、傍らの新婚のカミさんから「あれ撮ってえ」と泣きつかれた苦い経験がありました。
 坂井さんの話や、あのカメラマンの話も知っていたのに、あんな不覚を取ってしまってずっと後悔していたのですが、また今回も(デジカメという新兵器があったにもかかわらず)、手元にデジカメを置かずに日食を観望するという不覚を演じてしまいました。バカはどんな教訓があってもバカのまま…ということですか。


女子大の謎

 私は中学・高校を6年一貫教育の男子校で過ごした。思春期に向かう貴重な6年間をまったく女っ気の無い環境で過ごしたわけだが、それなりに面白かった。どうしたら女の子にモテるか…なんて事に頭を悩ませることなく、自分の好きなことに集中できたこの時期は、人生の中で貴重なものだった。

 女子校もある意味で同じような状況かも知れないが、中学・高校までは男子校も女子校も両方ともあるのに対し、何で大学になると女子大学はあるのに、男子大学は無いのか。ずっと不思議に思ってきた。別に男子大学があっても志願しなかっただろうし、学長になってくれと言われてもたぶん断ると思う…(笑)。
 私が高校時代に夢見ていた防衛大学校や商船大学は、当時は事実上、男子大学と言っても良い状態だったが、最近は防衛大学校も女子学生に門戸を開くようになったし、東京商船大学は東京水産大学と合同して東京海洋大学になり、神戸商船大学は神戸大学に統合されて、もちろん男女共学になっている。

 さてそこで本題だが、世の中には男子大学は皆無なのに、なぜ女子大学はたくさんあるのだろうか?昔からの疑問を思い出したのでネットなど調べてみたら、我が国の大学制度はもともと男子を対象としていて、女子の入学は例外的にしか認められなかった、そこでその不公平を是正するために、特に女子に限って高等教育を施す女子大学が別に作られたのだそうだ。これは日本だけでなく、自由の国アメリカのハーバード大学も最初は男子しか入学できなかったらしい。

 日本の女子大は、wikipediaによると文学系や家政系の学部が多いこと、またミッション系の大学が多いことが特徴だそうで、特に家政系の学部が多いことは、封建的な良妻賢母を理想とする教育の名残だという理由で、反対意見もあるとのことである。

 しかし女子大の中には、女性の体育専門家を養成するための女子体育大学もあり、これは女性の身体の構造や機能は男性とは異なっているので、きわめて合理的な考え方である。
 では女医さんを養成する東京女子医科大学にも合理的な根拠はあるだろうか。医者を育てるのに、わざわざ女性と男性を区別する必要があるかと言われれば、女子体育大学ほど万人を説得できる根拠には乏しいかも知れない。
 だが我々医科大学関係者の間で言われていることが1つある。もし入学試験の成績で受験生を上から順に選抜していくと、男性として情けないことに、かなりの大学医学部が女子優位になってしまうということである。大体どんな試験をやっても、女子の方が男子よりもマジメによく勉強する。そして成績も良い。男女平等な試験であれば、その平均点は間違いなく女子の方が高い。
 たぶんどこの医学部でも、『3バカ』だの『4天王』だの『5大老』だのと称されてバカを売り物にする学生は、まず例外なく男子である。学生時代にバカを売り物にしていた医者に診察される患者さんたちこそ、いいツラの皮だ。

 私は女子大学の存在理由は、単に封建的な良妻賢母教育ばかりではないと思う。女子は教員の言うことをよく聞いて、男子よりもマジメに勉強する。だから女子だけ集めて教育する方が効率も上がる。ただし本気で目覚めた男子学生にはかなわないことが多い。
 また女子は教員が手を掛ければ掛けただけ伸びるけれど、男子は手を掛けても伸びない、これもただし書きがあって、男子は手を掛けなくても本気で伸びようとする者は伸びる。私も自分の学生さんたちを見ていて、実際そうだなあと思っているが、面白いことに、バレーボールの柳本晶一元監督も同じことを言われていた。この方は男子と女子と両方の全日本チームを率いた経歴のある方だが、何年か前にあるテレビ番組のインタビューで次のようにおっしゃっていたのが印象的だった。
 男子チームは自分たちで目標を決めて意識を高めると、あとは選手同士で納得し合って練習をこなし、自分たちで強くなっていくが、女子チームは合宿などしても、トイレのスリッパがどうしたとか、何で監督の俺がそこまで面倒見てやらねばいけないのかと思うことが多かった…。

 教員や監督から見て、やはり男子と女子は鍛え方が違うらしい。男子は自分で発奮しさえすれば爆発的な強さを発揮するので、わざわざ男子だけ集めて教育する必要はない、お尻に火をつけてやれば良いのである。しかし女子は柳本監督の女子チームの合宿ではないが、集中的に手を掛けてやることで効果が上がる。それが現代の女子大学の存在意義なのではないか。


人は砂糖のみにて生きる…

 カミさんのサイトにお気に入りのお菓子紹介とか何とかいうブログがあって、最近は更新しているのかどうか知らないが、ずいぶん人気があるらしい。今回はそれに対抗して先ずお菓子の写真から…(笑)
 左はそのカミさんがリサイタルで頂いたもので、松ア煎餅という200年以上の歴史を誇る銀座の老舗のお煎餅である。今は煎餅の表面に砂糖でオニユリや蛍やアサガオやアジサイを描いているが、春先なら桜や梅やウグイス、秋なら紅葉やコスモスや赤トンボなんかを描くんだろうな。
 右は学生さんが川越のお土産に買ってきてくれたお菓子、たぶん亀屋栄泉というお店の製品だと思う。白い金平糖をお米の御飯に見立てて、蒲鉾やウインナソーセージや伊達巻きなんかが飴で拵えてあって、見るからに楽しそうだ。

 菓子職人さんたちの風雅な遊び心があって、日本の伝統みたいなものを感じる。煎餅にしろ飴にしろ、ただ口に入れただけでも美味しいのに、そこにわざわざ絵を描く、あるいは他の物に見立てて形を作る、食べてしまえばただの砂糖の塊として食道から胃に落ちて消化されてしまうだけなのに、口に入れる一瞬前だけの楽しみを求めて、刹那的な細工を施すところに、あの打ち上げ花火みたいな職人の心意気を感じる。
 食品に栄養分以外の装飾を施す文化は決して日本だけのものではないが、ここまで繊細な技術はあまり他の国々や外国土産で見たことはない。

 ところでこういうお菓子は食べてしまえばただの糖分、いくらウィンナソーセージやゆで卵の形をしていようとも、人間の体がそれをタンパク質として認識してくれるわけではない。だからこういう食品文化が発達するということは、それを作る職人さんや買って食べる消費者の心が豊かなだけでなく、社会全体が豊かで飢餓から守られているという前提が必要である。食うや食わずの人間がやっと手に入れた食物に、遊び心で細工を施してから口に入れる余裕などあるはずがなかろう。
 縄文時代の腹を空かせた人間が、今日は肉が食べたいなと思って、拾った木の実を器用に削ってイノシシの肉の形に刻んだって、木の実は木の実でしかない。時代が下ってからも、こういう凝ったデザインの菓子などは限られた権力者だけの楽しみだっただろう。その日その日の食べ物に汲々としていた人たちにとっては、先ず必要な栄養分の摂取が第一、食品を目で楽しむなどといった優雅な贅沢は当然二の次である。

 さて今回は見事な砂糖の塊を最初にお見せしたが、次にその砂糖が口に入ってからの運命についてお話ししたい。そうでないとカミさんのサイトと同じになってしまう…(笑)。
 砂糖は非常に精錬された炭水化物(デンプン)であるが、なぜ我々は炭水化物を摂取しなければいけないか、医療職や生物学を教える人ならばスラスラと答えられなければ落第である。
「お腹が空くから…」では答になっていない。

 生命の進化では植物の誕生が先である。太古の時代から植物は葉緑体の働きで、水を水素と酸素に分解してその水素でエネルギーを作り、大気中の二酸化炭素を炭水化物に変えて貯蔵してきた。動物はこの逆で、植物が貯蔵した炭水化物を酸素で燃やして二酸化炭素を発生させながらエネルギーを生み出して生きている。つまり生物界の根本的な化学反応は次の2つに集約される。
 
植物: 水と二酸化炭素酸素と炭水化物
 
動物: 炭水化物と酸素二酸化炭素と水

 煎餅の表面にきれいな花の絵が描いてあろうが、飴が肉や卵の形をしていようが、口から入った炭水化物はブドウ糖という基本的な糖質にまで分解され、細胞の中で燃料として燃やされて、最後は二酸化炭素と水になって体外に排出される。
 この過程で動物は生きるためのエネルギーを獲得するが、そのエネルギーの大半を消費して筋肉を動かし、次の燃料となる炭水化物を探し求めるのである。こうやって考えると、人間なんて因果なものだ。
 よく若い頃は「
人は何のために生きるか」なんて高尚で哲学的な議論をしたこともあったが、生化学的に突き詰めて考えれば、人は(動物として)炭水化物を食うために生きるのであり、人はパンのみにて(パンさえあれば)生きられるのである。ただしこれは生物学的な話であって、決して人生論に応用しないように。

 まあ、他の動物たちは自分の体のこんな仕組みを理解する術も持たないまま、無心に餌を探し求めて何の疑いも感じずに一生を終えるが、何で人間だけはこういう絶妙な生命システムのうえに巨大な頭脳と繊細で傷つきやすい精神まで持たされてしまったのか、これこそが生物進化の究極の謎かも知れない。

 動物たちにとって最も怖いのは酸素が無くなること、いわゆる窒息だが、これは細胞の中で最も効率の良いエンジンが止まってしまうことを意味する。しかし酸素の供給が絶たれる状況というのは、この地球上で滅多に遭遇するものではないが、そうなると次に怖いのは飢餓による燃料不足である。
 動物たちはこの絶食状態に備えて幾つかの補助タンクを用意している。1つがグリコーゲン、もう1つが中性脂肪である。最近は“メタボ敵視政策”のため、皮下脂肪組織に貯め込まれる中性脂肪は必要以上に悪者扱いされているが、中性脂肪がまったく無くなれば、我々は1日か2日の絶食だけでもう動けなくなってしまう。私の学生時代、1週間近く飯を食っていなかった独り暮らしの貧乏学生が、炬燵から出て動くこともできなくなり、心配した友人の救援があと1日遅かったら餓死していただろうというような話もあった。

 動物たちは炭水化物にありついて、当座動けるだけの燃料を確保すると、次の絶食に備えて余ったエネルギー源を体内にせっせと貯蔵していく。まず最初にグリコーゲン、次に中性脂肪であるが、これらはいわば補助燃料タンクに相当するものだ。
 第二次世界大戦中の名戦闘機と言われた日本海軍の零戦が長大な航続距離を誇ったのは、胴体の下に落下式の補助燃料タンク(増槽)を備えていたからだが、動物の体には零戦より何億年も昔から補助燃料タンクが取り付けられていた。もっとも零戦の補助タンクは空中戦に入る直前に切り離して落下させることが出来たが、人間の補助タンクはそういうわけにいかず、貯め込みすぎた予備燃料を腹の周りに取り付けたまま動き続けなければいけないので、ちょっと辛い。

 きれいな砂糖菓子の写真から医学的な話が引き続いて、カミさんのサイトとはやや差をつけてみたつもりだが(笑)、最近なるほどと思ったある先生の講演について最後に触れておく。
 動物は糖質さえあれば生きていけると言ったが、では肉食獣はどうなのか。大昔のティラノザウルスは知らないが、ライオンや虎などの肉食獣は肉ばかり食っているではないか。彼らが草や穀類や木の実を食べる姿は想像できない。

 実は人間の場合も炭水化物の補給が途絶え、体内の補助燃料タンクも空になってしまうと、今度はタンパク質をブドウ糖に変える化学反応回路が存在する。だからあまり過度のダイエットで絶食を続けていると、人間は自分の体を構成しているタンパク質を燃料に変えて動くようになる。つまり自分で自分の肉体を食いながら生きるわけで、いわゆる“死を招くダイエット”である。

 “痩せたい願望”の強いお嬢さんたちにはこういう危険を認識しておいて欲しいが、逆に糖尿病や糖尿病予備軍の人たちは、タンパク質を燃料に変えるこの化学反応をもっと利用するべきだと、その先生はおっしゃっていた。
 ライオンは米も砂糖も食わずに動物の肉だけ食って生きている。人間も元はと言えば肉食系であるから、同じことが出来る。しかも肉食だと、炭水化物を食べた場合のようにインスリンというホルモンが浪費されない。インスリンについては別のコーナーでもお話ししたとおり、余った糖質(ブドウ糖)を要領よく処理して血糖値を下げる体内唯一のホルモンであり、糖尿病はこのホルモンの作用が不足することで発症する。
 日本人はインスリンの効きが悪い民族だが、炭水化物を摂取すると、ただでさえ不足しがちなインスリンがさらに無駄に分泌される。しかし肉食だとインスリンはほとんど出ないので温存することができる。だからインスリン分泌機能の悪い人は積極的に肉食に切り替えて、インスリンの無駄撃ちを避けましょうということだった。

 私が学生時代から愛用している生化学の専門書にも合致する内容だし、何よりその先生自身が自分の体でその効果を確認され、周囲の人たちにも“ライオンダイエット”と命名して紹介し、好評を博しているそうだ。
 ただし現在“名医たち”がきら星のごとく集まった糖○病学会から反発を食らっているとのことだったので、ここではお名前を出さないが、この先生のダイエット法、糖尿病予防法については私が納得して保証しておきます。

註:“ライオンダイエット”でネット検索すると、幾つかの商品や商標が出てきますが、それらはいずれもこの先生とは関係ありません。デンプンを摂取せずに肉と葉物野菜だけ食べるという食事法を、この先生が個人的に命名して、周囲の人に伝授しているだけですので、誤解のないようにお願いします。


地球の裏側のオリンピック

 今年(2012年)は7月27日から第30回オリンピック大会がロンドンで開催されている。オリンピックも見たいけれど、アテネやロンドンで開かれると競技時刻が日本とは昼夜ちょうど逆になるので、北京やシドニー大会ほどにはテレビ観戦する機会も多くない。やはり社会人としては翌日の仕事が大事なので、オリンピックへの関心もほどほどというところ…。
 それでも学生さんなどから、昨日の柔道は残念でしたね…とか、水泳またメダルですよ…とか、体操かっこよかったですね…などと言われると、日本選手団にもっと頑張って欲しいなとエールを送りたくなるのも人情か。

 洩れ聞くところによると、今回もまた相も変わらぬドーピング疑惑の他に、競技審判の判定が覆ったとか、特定の国に買収されている疑いのある判定とか、後味が悪くて競技への関心に水を差すような出来事も後を絶たない。特に女子バドミントンダブルスで中国、韓国、インドネシアのチームが決勝リーグの組み合わせを操作して次回弱いチームと当たるために、意図的に負けようとしたことには呆れてしまう。
 メダル至上主義が原因だろうが、北京オリンピックでは日本の野球チームも同じことをした疑いがあるということだ。準決勝でのキューバ戦を避けるためにアメリカにわざと負けたが、結局あとは全部負けてメダルを取れなかった。正々堂々の試合をしなかったので、勝利の女神にそっぽを向かれたということか。

 私くらいの年齢になると、やはり今回のオリンピック出場選手中、71歳で最高齢の法華津選手などは注目してしまう。何しろ東京オリンピックが初出場だったというから凄いものだ。地元でもマスコミの取材を受けたりしているそうである。世の中には自分が少しばかり年を食っているから偉そうにしてよいと思い違いをしている御仁も多いが、法華津さんが地元でも注目を浴びる存在であることは、ただ71歳という高齢が原因ではない。馬術などという日本ではマイナーな競技に一途に打ち込み、50年近くも修練を積んできた、その過程に対して賞賛が集まっているのだと思う。まさに継続は力なり、という格言がピッタリの方だ。

 馬術などはそういう意味で息が長い競技であるが、それと対照的だったのは水泳平泳ぎの北島康介選手である。オリンピック3連覇の期待を背負って戦ったが、100m200mともメダルに届かなかった。まだ30歳前なのに200mでは日本の新人にも抜かれてしまったが、試合後はスポーツマンらしく爽やかだった。
 ところで北島選手が100m決勝で5位に終わったことを『惨敗』と報道した新聞もあったが、ちょっとそれはあんまりじゃないの(笑)。世界の強豪が集まったオリンピック決勝で5位ですよ。決勝に進出するだけ、いやオリンピックに出場するだけ、いやいや国内予選にノミネートされるだけ、いやいやいや100mを全力で泳げるだけでも大したものじゃないか。

 メダル至上主義も行き過ぎるとロクなことにならない。特に我が国では“ゆとり教育”などと言って、子供たちの初等・中等教育の手を抜いてきた歴史がある。子供たちは平等に育てよう、順位をつけて競争させてはいけない、だから個人の優劣が分かってしまうような難しい課題を与えてはいけない…、そう言って役人から現場の教師から家庭の保護者に至るまで、子供たちを過度の競争から遠ざけ、当たらず障らず傷つかないように大事に大事に育ててきた、運動会の“駆けっこ”ではみんな頑張ったからみんな一番、計算や書き取りのテストではみんな頑張ったからみんな合格…。
 オリンピックじゃそうは行かないんだよ。自分の子供や生徒は甘やかしておいて、日本の選手団には金メダルを取れってか?バカ言ってんじゃないよ。

 何でも一番、何でも合格…と他人と比較されて順位を付けられることもなく育ってきた子供たちが、いま続々と私たちの高等教育・専門教育の現場に進んできている。私の所は患者さんの生命・健康を預かる専門職の教育機関だが、何でも一番・何でも合格の“ゆとり精神”で教育しても良いのか?初めてぶつかる慣れない客観評価の壁に戸惑う学生さんたちを見ていると気の毒である。
 思えば“ゆとり教育”とは子供のゆとりではなく、教育に当たる親や教師など大人のゆとりが目的だったのではないか。あんな大変なことは教えなくてよい、そんな難しいことは教えるの止めよう、だから大人同士の教育能力の差もまた、表沙汰にならずに済むようになってしまった。要するに子供を口実にした大人の手抜きである。最近の学校内いじめ問題でも無気力な教師が問題になっているが、こういう“ゆとり教師”のなれの果てであろう。
 メダルメダルと大騒ぎしすぎる手前勝手な大人たちを見ていて、ふと教育現場の荒廃を思ってしまった。


海と血圧

 先日、那須高原にキャンプに行って来ました。別に私はそんなにアウトドアレジャーに関心があるわけではありませんが、いつか今の仕事を辞めた後に自分の技能を活かせる場所はないものかと、福島県の被災地児童のキャンプに付き添ってみたのです。他にもボーイスカウトやガールスカウトの人たちや、大学生・高校生をはじめとする若い方々も多数ボランティアとして参加しておられ、その活躍ぶりには目を見はるものがありました。日本もまだまだ当分大丈夫です。

 ところで今回びっくりしたのは、こういう20歳代30歳代の若いボランティアの方々の中に、かなり危険なレベルの高血圧を示す人が何人かいらしたことです。もともとボランティア活動に参加しようなどと熱意に燃える人たちは血圧も高めの傾向がありそうだし、現場で実際に活動に入ってしまうとバタバタ忙しくなって血圧も上昇してしまうでしょう。誰かを助けようとボランティアをやるつもりが、自分が誰かに助けられてしまっては、ご本人もさぞ無念なことだと思います。先ずは自分自身の健康は自分で守るようにしたいですね。

 実は私も若い頃から血圧が高く、大学の教養課程では体育をやらせて貰えませんでした。血圧の高い家系で遺伝的に高血圧の因子を濃厚に持ってしまっており、いわゆる本態性高血圧というやつです。
 私の場合、適度な運動と減塩の食事に気をつけるだけで、何とか30歳40歳を乗り切ってきましたが、やはり50歳代半ばからは降圧剤に頼らなければ血圧の上昇を押さえきれなくなってしまいました。私が50歳まで降圧剤を飲まずに持ちこたえられたのは、たぶん食生活のお陰かと思います。最近の若い人たちは、特に独り暮らしをしている学生さんに限らず、どうしても朝昼晩の食事がコンビニなどの食品に偏りがちですが、こういうカップ麺だとかレトルト食品は信じられないほど塩分(塩化ナトリウム=食塩)が多いんですね。それで高血圧の遺伝因子が濃い人ほど若いうちから高血圧症が進行することになる。

 高血圧症の人は動脈硬化が進むと、脳出血とか脳梗塞とか心筋梗塞など起こしやすくなりますが、ここで一つ素朴な疑問が生じることになります。血圧が高い遺伝因子を持つ人は、そういう生命にかかわる症状を起こしやすいにもかかわらず、何で進化の過程で淘汰されなかったのか?
 進化論の基本的なコンセンサスは適者生存の原則です。例えば産業革命の真っ最中のロンドンなどの大都市では、工場から出る煤煙で空気が淀んできた(『メリーポピンズ』のチムチムチェリーなど思い出しますが)、すると羽が黒い蛾はちょうど迷彩効果で天敵の鳥から捕食される機会が少なくなって、羽の白い蛾よりも生存の確率が大きくなり、白い蛾は個体数が減ったのに黒い蛾は増えてきた…。

 この論法でいけば、血圧の高い個体は脳出血や脳梗塞や心筋梗塞を起こしやすくて生存の確率が小さくなる、したがって高血圧症の個体は進化の途中でもっと自然淘汰されていても不思議ではありません。ところが現在でも大きな病院では高血圧の専門外来も多いし、高血圧の食事療法などというタイトルの本は出版すれば必ず採算が取れるらしく、書店には何冊も並んでいる。

 人類は…というよりも生物は血圧を高く保てる方が生存に有利だった、この理由は何か思いつきますか?
 地球上の生命の故郷は海です。太古の海の中で生命は誕生して進化してきた、やがて地球に大陸ができると生命は相次いで陸地に上陸を果たしていく、住み慣れた海中から乾燥した陸地に移動したのです。
 海に慣れた生物が陸地で繁栄するためには何が必要か?
 地球上の環境に慣れた宇宙飛行士が宇宙空間に飛び出すには何が必要か?それを考えれば答はおのずから明らかです。飛行士の搭乗した宇宙船内は地球上の環境に調整されている、船外で活動する時にも飛行士は必ず宇宙服を着込みますが、この宇宙服の内部も地球上の環境に調整されている。

 生命もまた陸地で活動するために、海の環境を持って上陸する必要がありました。大昔に海の中で生まれた我々の体の細胞は、現在もまだ海の環境に合わせた“宇宙服”を着込んで活動しています。太陽にジリジリ照りつけられて、ちょっと油断すればカラカラに干からびてしまう陸地の上で、我々の体はあの洋々たる海の環境を保とうと懸命に調整しているのです。
 海の環境、そう、塩(塩化ナトリウム)と水が体の外へ出て行かないように、我々の体は必死に引き止めています。塩を引き止めれば、それを溶かし込むために自然に水も引き止められますが、この“宇宙服”の性能が良ければ良いほど、その個体の体内には水分が貯留して圧力が高まってしまう。これが高血圧の原因です。

 つまり高血圧の人はそうでない人に比べて高性能の“宇宙服”を着ているのと同じですね。だから高血圧の人は、必ずしも実証されたわけではありませんが、早起きの働き者で、非常に活動的で、ある意味で興奮しやすく、ボランティア活動なんかにも積極的に出ていく傾向が強いのではないでしょうか。と言うよりも、上陸後に過酷な活動を強いられた種族の中では、体内に海の環境を保つ能力が高い個体ほど生存に適していたと言うべきかも知れません。
 それはともかく、血圧の高い人はそういう遺伝因子が強いわけですから、降圧剤は一生飲み続けなければいけないと覚悟を決めて下さい。海の環境を保つ高性能の“宇宙服”の欠陥を克服して、少しでも長く活動を続けるために…。


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