ブンブンの高校時代

1)音楽部
 ドクター ブンブン旅日記のコーナーの鵜原のところで、ブンブンは高校時代に音楽部に所属していたと書きましたが、私の中学・高校(私立武蔵中学校・高等学校)は比較的クラブ活動が盛んな学校でした。私も中学に入学して1ヶ月ほどした頃、先輩からアイスクリームをおごってやると言われて音楽部室に連れて行かれ、たった1本のアイスキャンディーと引き換えに、そのまま高校卒業までの6年間、音楽部で過ごすことになったのです。
 当時の音楽部は合唱班、ブラスバンド班、鑑賞班があり、途中から室内楽班も出来て、4班揃って活動していました。主な行事は春の学園祭(記念祭)の演奏会と秋の演奏会の年2回のメイン・イベントを中心に、体育祭のマーチ演奏、入学式と卒業式を含む各学期の始業式と終業式における演奏、東京都の高校音楽連盟の合同演奏会への参加など、いろいろありました。また男子校だったので、合唱などはたまには混声合唱もやりたいということで、都内の女子高校との共演も何回か行ないましたし、特に思い出深いのは、高校2年の夏の高校野球東京都予選の時、我が校には応援部が無かったためブラスバンド班が楽器を抱えて神宮球場に乗り込み、校歌(我々の学校では校歌と言わず武蔵讃歌と呼んだ)演奏ばかりでなく、私が団長となって応援団の真似事までやったことです。(あの年の我が校の野球部は東京都大会のシード校になっていました。)
 私は最初は合唱班にいましたが、中学2年からはブラスバンドでドラムもやるようになり、毎週月・水・金は合唱班の練習、火・木・土はブラスバンドの練習と、いったい何しに学校へ通っているのかと思われるような学生生活を送ったものです。おまけに音楽の練習ばかりでなく、我々の音楽部は土曜日はトレーニングなどと言って、練習終了後に校庭5周ランニングなどと運動部並みの肉体運動までやっていたから大変でした。でも楽しかったですね。私たちの学年の部員たちは高校3年の秋の演奏会まで出演し、私だけは何と自分の卒業式で「蛍の光行進曲」の演奏に加わって、同級生たちを追い出すところまでやりました。
 その頃の写真はあまりないのですが(写真のフィルムが高価だった。カラーフィルムなどは高校生の小遣いで買えるようなものではなかった)、数少ない写真の中から幾つか選んで紹介しましょう。


武蔵野音楽大学のベートーベンホールで行なわれた東京高校音楽連盟第三学区合同演奏会に合唱班が参加した時の写真。背後のパイプオルガンは当時日本にまだ3台しかないと言われた大変珍しいものでした。こういうプロでも使用するようなステージに立てたことは、単に興味本位だけとしても大変良い思い出になりました。あと上野の文化会館でも演奏したことがあります。(そういうステージでカミさんと知り合って結婚したというなら結構ロマンチックで劇的ですが、残念ながらそうではありません。)


ブラスバンド班の面々。私が高校2年の時の撮影です。


秋の演奏会。詰め襟の学生服が割に似合ってません?


高校3年の最後の記念祭で、同級の音楽部員とバンドを組んだ。


夏の合宿の一コマ。コンパの買い出しの途中、旧軽井沢へ続く道です。

2)高校時代の夢

 私はいつの頃からか船乗りに憧れておりました。昔、興安丸という有名な客船がありましたが、私がまだ幼稚園の頃に両親の知人からこの興安丸の東京湾クルーズに招待されたことがありました。現在でこそ東京港や横浜港に定期クルーズが数多くあり、船のレジャーなど当たり前の世の中ですが、当時(年齢がバレてしまうが昭和30年代)は東京湾クルーズなど夢のような出来事だったはずです。幼稚園児だった私にも強烈な印象を残した体験で、船の右舷に見えた観音崎の灯台とか、白い煙突から立ち昇る煙とか、腹に響くような汽笛の音とか、下船後に振り返ると乗員一同が舷側に整列して乗客を見送ってくれていたこととか、今でも鮮明に覚えています。
 この体験のおかげで船乗りに憧れたのか、あるいは船乗りに憧れる性格のおかげであの体験を鮮明に覚えているのか判りませんが、私の高校時代の第一志望は防衛大学校、第二志望が東京商船大学、第三志望が海上保安大学校、第四志望が神戸商船大学、第五志望が東京水産大学、第六志望が北海道大学水産学部・・・と、こんな具合に船関係の大学が続いておりました。中には気象大学校というのもあって、これは定点観測船に乗れるという動機でしたが、その後の気象観測は人工衛星が主力となりましたから、ここは行かなくて正解でした。また防衛大学校はもちろん海上自衛隊がお目当てでしたが、視力が良くないと陸上自衛隊に回されるかも知れないというので、やがてこれも志望から外され、私の第一志望校は東京商船大学となりました。
 商船大学に入ると卒業航海で帆船に乗って海外へ行けるというのが何と言っても魅力です。現在のように誰でも簡単に海外に行けるという時代ではありませんでしたから、仕事や実習でタダで外国に行けるというのが当時の少年の夢をかき立てたのでした。(かなり単純な少年だったのですね。)その実習用の帆船は運輸省(当時)に所属する日本丸と海王丸の2隻で、総トン数2250トンの世界でも有数の大型帆船でしたが、昭和初期建造のためかなり老朽化しており、日本丸は昭和59年、海王丸は平成元年に引退して、それぞれ新たに建造された同名の新船に代替わりしました。新船にバトンタッチした後の旧海王丸は富山港に、旧日本丸は横浜みなとみらいに繋留されて穏やかな余生を送っていて、私は横浜へ行くたびに、かつて少年ブンブンの心をときめかせた日本丸に再会するのが楽しみです。先日たまたま横浜へ行ったら、日本丸がすべての帆を張る総帆展帆をやっていました。秋の日差しに真っ白い帆が映えて、感動的な光景でした。

この姿を見た時の私の気持ちは、一度でも船乗りに憧れた人にしか判らないかも知れないなあ。ついでにこの日本丸がまだ現役時代、東京晴海埠頭で再会した時の写真も並べてお見せします。たぶん昭和50年代中頃の撮影です。みなとみらいの日本丸も良いけれど、やっぱり船は外洋に繋がる港に居る姿の方が良いですね。


さて、ここまで船乗りに憧れた私でしたが、商船大学を目指すには致命的な身体的ハンディがありました。視力が悪かったのです。と言っても左右とも0.5〜0.6はあったのですが、航海科に入学するために当時は左右の裸眼視力が1.0以上必要でした。
何とかならないかと東大病院の眼科にかかったのですが、その時の眼科医の言ったことは今考えてもかなり名言でした。
「近視が治るなら、私たちが眼鏡をかけてるわけないでしょ。」
確かにその場に居合わせた数名の眼科医は全員が近視の眼鏡をかけていました。医者というものはなかなか気の利いたことを言うもんだ、よし、では船医になろう。その時、私は船乗りを諦めて、医学部を志望することになったのです。


3)私の受験勉強
 こうして私は毎日音楽部の練習に打ち込み、将来の船乗りを夢見て6年間の中学・高校生活を送ったわけですが、高校を卒業して1年間の浪人生活を経験した後、東京大学医学部進学課程(理科3類)に入学しました。このように書くといかにも秀才で、大して受験勉強をしなくても世間で最も偏差値が高いとされている大学に楽々と入れたように聞こえるかも知れません。東大出身者の中には他人からそのように受け取って貰うことを意識して、ことさらに自分は何も勉強しなかったとさりげなく吹聴している人も見受けますが、私はそんなつもりはありません。ではここで、私のような高校生活を送った者が何故東京大学のような大学の入試に合格できたのか、思い当たることを書いてみたいと思います。
 最近でこそ高田真由子さんとか菊川怜さんのような才色兼備の女性タレント等のお蔭で、東大のイメージもずいぶんソフトなものになってきましたが、私の学生時代は「東大一直線」とかいう漫画に風刺されたように、四角い学帽をかぶり目を三角に吊り上げ、ペンを抱えて「勉強!勉強!」と家庭教師の教え子をサディスティックにシゴキ上げる”東大生”のイメージが定着していたように思います。だから私たちは自分が東大生であることを外ではなるべく隠すようにしていました。特に女子学生などは旅先で仲良くなった人たちに東大生であることが判った瞬間、二度と口をきいて貰えなくなったというようなことも実際にあったようです。
 私も今まで自分がどんな受験勉強をして東大に合格したかについては、他人に語ったことはほとんどありませんでした。しかしあれから三十余年の歳月が過ぎてみると、高校卒業の頃のほんの一時、微積分や英文和訳の技巧の偏差値が高かったことが、必ずしもその人の人生の価値を決めるものではないし、その人の人格を高めるものでもない、またその人の幸福を保証するものでもない、ということを骨身に沁みてつくづく感じられるようになった現在(これらのことは当初からタテマエとしては誰でも言うのですが、最近では実感として身に沁みるようになりました)、謙遜でも自慢でもなく自分の大学受験勉強について淡々と語れるような気がします。これから受験に臨む若い人や、夢を実現しようとしている人たちに少しでも参考になれば幸いです。

 私が中学・高校6年間で身につけた能力は次の3つで、これらがその後1年間の浪人生活の支えになっただけでなく、現在の仕事の中でも大変大きな力になっています。

@何かを面白いと思い、それに熱中できる力
 音楽部で合唱や打楽器奏法に夢中になれたこと。学校の勉強や恋愛も関係なく、わき目も振らずにそれらに熱中して一通りマスターしたことはずいぶん大きな自信になりました。特に打楽器については、高校3年になった頃には小太鼓の連打(ロール打ち)を私ほどきれいに粒を揃えて打てる者は他の高校にはおらず、各校合同演奏会で驚嘆されたことは高校時代の良い思い出です。
 これは受験勉強も同じことで、数学などもイヤなものを無理に解こうとするのではなく、面白いと感じることが出来た。大学受験までの数学というのは、ある意味でゲームと同じなのですね。ベクトル、複素数、順列組み合わせ、数学的帰納法などのツールからどれを使って、どのように攻めるかという感覚です。受験に必要で仕方ないからやらなくっちゃ、というような消極的な考えでは駄目です。
 「学校の勉強もやらなくっちゃ」という”雑念”を振り払って音楽部に没頭できた能力の裏返しだったと思います。

A文章を書く力
 高校に進んだ頃から毎日の日記をつけていました。これも書かなくっちゃ、ではなく、その日あった事や感じた事を日記に書いていくことが、やはり面白いと思えたのです。その意味では
@と関係ありますが、毎日大学ノート1ページ以上、多い日には数ページも書くことがあって、たちまち文章を操って自分の考えを表現する力が伸びてきました。ご覧のように大した名文ではありませんが、他人様に自分の考えを最低限伝えることだけは出来ていると思います。
 文章を書く力は国語の受験にだけ必要なのではなく、英語や数学の答案にも必要だし、さらに社会に出てからも医者や弁護士のような仕事をしていく上でも不可欠です。

B自分の時間を管理する力
 昼間は1週間欠かさず音楽部の練習に顔を出し、夜遅く帰宅してはこれまた毎日長々と日記を書く、こんな高校生活を送りながらも、やはり学校の中間試験と期末試験だけは何とかクリアしなければならない。毎日好きな事に打ち込みながら、落第しないだけの点数を取るための最低限の時間を確保しなければなりません。学校の試験勉強はヤマをかけて要領良くこなし、出来るだけ多くの時間を音楽部と文章書きに当てるようにしました。こうして自分に許された限りある時間をどのように配分して使うか、このギリギリの選択を自らに科した訓練(もちろん当時は訓練とは思っていませんでしたが)は浪人時代の受験勉強に威力を発揮したと思います。
 現在でも四当五落という言葉があります。睡眠時間4時間なら合格するが、5時間寝たら落ちる、という意味らしいですが、ただダラダラと机に向かっているだけでは駄目なのです。限られた時間を最も効率的に利用するためには、何をいつまでに切り上げるか、それを常に無意識にでも計算していなければなりません。私はこれが受験勉強には最も必要な能力だと思います。

 以上の3つの力、これらは私が高校時代を通じて期せずして身に着けたものであると、今になって改めて感じました。これらはいずれも特に大学受験に限らず、自分の夢や志望を実現する時に大きく役に立つものだと思います。勉強、勉強と目先の成績にばかりこだわらずに、もっと別な能力を磨いておく必要があります。その方が長い目で見た時にずっと大切なことかも知れません。

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