宮本武蔵と日本人の心

 剣豪宮本武蔵と言えば、その実像がどうであったかは諸説あり、また源平合戦や戦国時代や幕末のように派手な時代に生きたわけではなかったこともあって、比較的地味なキャラクターではあるが、彼の著した『五輪書』は勝負に徹する者の教本として現在もその価値は高く、さらに吉川英治の長編小説の主人公として、日本人ならその名を聞いたことのない者はほとんどいないであろう。何年か前にはNHKの歴史大河ドラマにもなり、佐々木小次郎との巌流島の決闘はあまりにも有名である。

 さて先日、ある思いがけない事がふと頭をかすめた。なぜ日本人は宮本武蔵を愛するのだろうか?生涯を剣の道に捧げて、勝負に徹したといわれる宮本武蔵、語り伝えられるところによればまさに天性の勝負師として生きた人であったが、日本人は宮本武蔵のような勝負師の魂を持った国民性に溢れているのだろうか?

 私が思い出したのは高校時代に読んだ原為一氏の『帝国海軍の最後』だった。原氏は太平洋戦争の開戦劈頭から駆逐艦長、駆逐隊司令を経て、最後は巡洋艦矢矧艦長として戦艦大和と共に沖縄へ特攻出撃した方で、戦争の全期間を常に洋上にあって文字通り獅子奮迅された。
 原氏は日米開戦が決定してから、何十倍もの国力を持つ敵に勝つために宮本武蔵を研究され、勝てないまでも合理的な戦法で熾烈な海戦を生き抜かれた。中でも圧巻は、超低空で至近距離から爆弾を投下する米空軍の新戦法に対して、まさに“皮を切らせて肉を切り、肉を切らせて骨を断つ”捨て身の戦法で、敵の爆撃機2機を撃破した戦いぶりである。低空から高速で接近してほとんど百発百中の爆撃を試みる敵爆撃機に対して、原氏は駆逐艦1隻のみ、この絶体絶命のピンチにあって原氏は一切の回避運動を行なわず、したがって自艦の砲火の照準も修正する必要のない百発百中の対空射撃で応戦したのだった。
 いかにして敵に勝つかを常に考えていた勝負師だからこそ、咄嗟のピンチにも冷静に対応できたのであろう。この話は何十年も私の脳裏に鮮やかに残っている。

 さてこの原氏の『帝国海軍の最後』の中に、やはりこれまた何十年経っても覚えている文章があるので引用しておく。昭和17年11月12日、駆逐艦長としてガダルカナル島の敵飛行場を砲撃する任務を持った戦艦比叡と霧島を護衛していく途上、敵艦隊と遭遇して大乱戦となり、原氏の駆逐艦天津風も予期もしなかった方向から敵の射撃を受け、さすがの原氏も思わぬ不覚を取った。それでも何とかトラック島の根拠地に帰還した時の記載である。

 
トラック在泊の艦船から、毎日多数の見学者が(駆逐艦天津風に)来てにぎわった。
「この傷でよく帰還できたですなあ」
と感心する人は多かったが、なぜこうなったか、その原因なり戦訓なり、その他将来参考となる所見などを質問する人はただの1人もなかったことは、貴重な体験をした私としては、なんだかさびしいかぎりであった。
(下線は筆者)

 これが日本人の勝負に対する態度なのである。国家を挙げての大戦争の最中、しかも自分や部下の生命を賭けた戦場においてさえ、日本人は勝負に勝つことへの研究心も向上心もない。
 司馬遼太郎氏の『坂の上の雲』でも、日露戦争でロシア軍の旅順要塞を攻撃した乃木の第三軍の作戦司令部が、堅固なロシア軍陣地に対してまったく無策な白兵突撃を何度も何度も繰り返したと、その研究心の不足を指摘されている。

 さてその研究心も向上心も乏しい日本人が戦後の飽食の時代を経てどうなったのか、別に勝負にこだわらなくても何一つ物資に不自由せず、安穏な生活を保証されるようになった日本人がどうなったのか?
 努力しようとしなくなった、明日の自分を今日の自分より向上させようと思わなくなった…!
 自分を高めないから自尊心も保てなくなった、自尊心は守りたいが努力したくないから、自分より不器用で弱い他人を探して追い詰めることしか出来なくなった…!
 自分より能力や人望があって幸せそうな他人を見ると、自分も同じ幸せを手に入れようと努力する代わりに、その人を否定し、排斥し、自分より下に見下すことによって、自分の方が相対的に偉いと思い込みたがるようになった…!教育心理学者の速水敏彦氏が著書『他人を見下す若者たち』の中で“仮想的有能感”と名付けた感情である。

 一億総評論家とでも言おうか。日本人は自分自身が努力しないで、向上しようと努力している他人を評論することで、自分の方がさらに偉いと勘違いしている人間が多いと思う。
 自分は勝負をしない、他人に勝負をさせて、傍らであれこれ論評したり批判するだけ…。

 
波騒は世の常である。
 波にまかせて、泳ぎ上手に、雑魚は歌い雑魚は躍る。けれど、誰か知ろう、百尺下の水の心を、水のふかさを。


 吉川英治の『宮本武蔵』の最後の文章である。佐々木小次郎との決闘を終えて立ち去る武蔵の挙動をあれこれ詮索するだけの人間に対する痛烈な一言だが、現代日本人も耳が痛いのではなかろうか。



海軍反省会―なぜもっと早く?―

 昨年夏にNHK総合テレビで放送された“海軍反省会”がPHP研究所から出版されている。昭和50年代半ばに開始された旧海軍佐官クラスの中堅幹部による忌憚のない意見交換会の記録である。昭和55年に第1回の会合が開かれ、平成3年には第131回もやっていたという膨大な会合の発言録が録音テープに保存されており、今回その最初の10回分が文章起こしされて、戸一成氏の編集で出版されたものである。然るべき立場にいて当時を知る中堅幹部たちの肉声の記録として、この証言録は半藤一利氏も推薦されるとおり、歴史的資料として非常に貴重なものであることは確かであるが、私にはもう一つ別の感想も抱かざるを得ない。

 なぜもっと早く…?
戦後60年をはるかに過ぎた今の時期になってこれだけの貴重な資料を公表されても、その歴史的価値を踏まえた上で正しく読み解くことの出来る人間の数がかなり少なくなっている。
 この資料は座談会形式であり、必ずしも一般人向けに判りやすく解説した“歴史書”ではない。同じテーマが日時をおいて何度も冗長に繰り返されたり、出席者同士の間で互いの発言を遠慮したり牽制したりする様子も窺える。戸氏らの努力のお陰で、かなり読みやすく編集されているとは思われるが、そういう発言録を丹念に読み進みながら、ああ、この発言は戦史の通説の中のこの部分に対する異論だな、この発言者はあの時期にこういう立場におられたから物事をこういうふうに見られたのだな、等、等、いろいろな発言を海軍戦史の各部分に具体的に当てはめて考察するには、並大抵の知識では覚束ない。

 例えば日独伊三国同盟に反対した米内・山本・井上の海軍トリオは、今では戦争直前の国際的良識派として評価が定まったように見えるが、この人たちがなぜ2・26事件の前後からもっと覚悟を決めて日米開戦に到る経過を抑制できなかったかという批判的な発言もある。
 この席だけにしておいて欲しいという前置きがあるが、それでも発言自体はかなり婉曲で、ただ文字面だけ追っていても何のことだか判りにくい。特にトリオの中でも井上成美には開戦阻止のためにもっと何かできたはずという不満が言外に読み取れるが、戸氏が読みやすく項目を区切って下さっているから、私のような者でも何とか内容をフォローしていける。ただ現代の貧弱な現代史教育しか受けてこなかった若い世代の人々には、もう何の教訓にもならないだろう。

 絶対に戦えないという見通しがあったら、なぜ生命を賭けてでも口うるさく陸軍や右翼に対抗しなかったのか。海軍は、対米戦争をやらなければ陸軍や右翼を抑えきれずに内戦になるから仕方なく開戦したといい、陸軍は海軍が勝手に対米戦争を始めたから仕方なくついて行っただけだといい、誰もが明確な信念も無いままに始めた対米戦争だった状況が、発言録全体からおぼろげに浮かび上がってくる。

 結局は歴史的な大局観を持った指導者の育成に失敗したことが原因という指摘も述べられているが、それは現代の公共事業や経済政策に関しても同じことだろう。日本という国は歴史から何も学ぼうとしないのだなというのが、私がこの証言録を読んだ感想である。
 せっかく当時を知る中堅幹部たちが集まって喧々諤々やった内容を外に向かって発信しようとしない、まさにこの体質こそが対米開戦の原因であり、現代日本の経済政策の失敗とも言えるのではないか。

 今回やっとこの証言録が陽の目を見るに到ったのは、発言の中で名指しされた人々のほぼすべてが鬼籍に入られたからであろう。それでもなお「故人の名誉毀損はしたくない」というような前置き発言もあるが、日本人はとにかく歴史から何か学ぼうとする前に、誰かを傷つけまいとする配慮にばかり気を取られすぎる。
 せっかくの一級の歴史的資料も、その関係者や関係者遺族、あるいはその資料の著者や発言者自身に影響が及ぶからという理由で公開が遅れる、それどころか封印されたまま闇から闇に葬られる、そんなことが日本では多いのではないか。

 医療事故や、もっと一般的な交通事故は、刑事的、民事的訴訟が絡む法律的な係争であり、戦争とは事情が異なることは十分理解しているが、もしも一般市民が万一誤って人の生命を奪ってしまった場合、業務上過失で厳しく事情を聴取され、場合によっては社会的信用までを失うことになるのだ。
 日米開戦は歴史教育の失敗だったという分析がなされた座談会の参加者たちが、何百万人もの同胞の生命を奪った戦争の当事者の誤謬や怠慢に関する発言録を、関係者存命中は封印したままにしておいたというその一点に関して、私は非常に割り切れないものを感じる。



次は何が欲しいのか?

 私がまだ小学校低学年だった1950年代後半、日本経済がいよいよ高度成長に突入しようとしている頃に、“三種の神器”と呼ばれた電化製品があった。テレビ(もちろん白黒)、電気洗濯機、電気冷蔵庫の3つである。
 本物の三種の神器とは、皇室に限らず古来権力の象徴として代々伝えられる鏡、勾玉、剣のことであるが、昭和の庶民の三種の神器は戦後の文化生活の象徴であり、国民がこぞってこれらを買い求めたことが経済発展の牽引車ともなった。
 テレビや冷蔵庫が普及する頃の情景は、数年前の映画『三丁目の夕日』の中にもユーモラスに描かれているし、私自身も実家にこれらの“神器”が来た時のことはよく覚えている。

 一般庶民の家庭にこれらの家電製品が普及した1960年代になると、さらに“新・三種の神器”なる耐久消費財が出現した。これは“3C”とも呼ばれる、カラーテレビ(color television)、自動車(car)、クーラー(cooler)である。これらはさらに強力な牽引車として、日本経済の内需拡大に大きな威力を発揮した。
 これらの品々の経済効果には計り知れないものがあったのは事実だが、国民にとってもそういう製品を購入することが夢であり、憧れであり、日々の暮らしの現実的な目標でもあった。つまり国家の経済を支える“健全な物欲”と言って良かったかも知れない。

 あの頃を思い返すと、現在の日本人には何か“物欲”があるのだろうかという疑問が湧いてくる。今の日本人は何が欲しいのだろうか?いや、心から欲しいと思える商品は何かあるのだろうか?
 現在の我々の身の回りには何でもある。本当に持て余すほど、ありとあらゆる高性能の製品が満ちあふれている。製品だけではない、昭和中期の国民に比べたら、海外旅行のチャンスも、グルメの楽しみも、アミューズメントパークも、本当に何もかも…。
 何でも比較的簡単に手に入るようになったために、却って健全な“物欲”が減退し、それが経済の牽引力の低下につながり、今度は貧困のために何も手に入らなくなりつつある。皮肉と言えば皮肉な話である。

 そんな中で今の若い人たちは、一番手に入れにくい物に気付き始めたように見える。それは友情である。我々の前後の世代ならば、人が生きていこうと思えば当たり前のように周囲に友達がいた。しかし嵐のような物欲の時代の中で、日本人は友達を作る方法を次世代に伝えることを忘れてしまっていた。
 どうすれば昔の日本人のように友達の中で生きていけるのか、経済が傾きかけた今、それを若い人たちに教える方法を考えなければいけない。
(別コーナーに友達の作り方を追加しました)



世界最古の歌詞?

 私は電車の中で滅多に居眠りをしないから、時々おかしなことを考える。この間も、現在よく歌われている歌のうちで一番古い歌詞は何だろうかという疑問がふと頭をかすめた。
 「アーアー♪」とか「ラ・ラ・ラ♪」とか、人類が誕生して以来、人体に備わっている発声装置による単純な音声だけによる歌を除けば、意味のある歌詞としてはたぶん“君が代”が一番古いのではないだろうか。世界最古…とまで言えるかどうかは自信がないが、日本最古であることは確かであろう。

 
君が代は千代に八千代に
 さざれ石の巌となりて苔のむすまで


 言うまでもなく我が国の国歌であり、オリンピックなどで日本選手が優勝して表彰式で君が代が演奏されると誰もが感極まってウルウルしながら口ずさむのに、学校の卒業式などで若者たちに歌わせようとすると幼稚な政治論議が絡んでくる妙な状況にある。そういう日の丸・君が代問題については別コーナーで…。

 元は西暦905年(延喜5年)に完成した古今和歌集に収められた詠み人識らずの賀歌とのことであるから、1100年以上の歴史がある。もっとも国歌として制定されたのは明治維新後のことであるが、意味のある歌詞として存在してきて、現在も頻繁に歌い継がれているものとしては日本最古であろう。
 その解釈にはいろいろ説があるようで、私にはそれほど興味はないが、一番印象に残っているのは、予備校時代の古文の先生が授業に関連して、“君が代”の君は天皇ではなくて、恋人である貴女という意味だ、それを明治時代の軍国主義者が無理やり天皇にこじつけたのだと、顔を真っ赤にして力説しておられたのを面白いなと思ったこと…。それまでは学校で日本の国歌ですと言われて、君が代の歌詞を何となく暗記させられてはいたが、そうやって“当たり前”の事として教わった知識であっても他にいろいろな解釈があるものだと知った。今にして思えば、学問とは既成の知識を頭に詰め込むだけではないということを初めて教わった授業だったと思う。
 しかし古今和歌集は勅撰であるから、やはり“君”は恋人ではなくて天皇を指していると考えるのが妥当ではなかろうか。人は恋愛が儚いものであることを知っているから、今も昔もそれをことさらに永遠のものとして歌い上げたがるが、それにしても“千代に八千代に”恋するうちにお互いに本当に苔むしてしまうよ…(笑)。

 君が代には近世になってから付け加えられた歌詞があり、それも何と2番まであったと言うが、他のサイトの受け売りになってしまうので、一応紹介するだけにしておく。

1)君が代は 千代に八千代に さざれ石の巌となりて苔のむすまで
  
動きなく 常盤(ときわ)かきはに 限りもあらじ
2)
君が代は 千尋の底の さざれ石の鵜の居る磯と現はるるまで
  
限りなき 御世の栄を祝ぎたてまつる

 いずれにしても昔の日本人は石には長〜い生命があり、段々成長して大きくなるものだと考えていた。現代の地学ではむしろ逆だが、とにかく古代の日本人は、そんな永遠に近い石の生命力に憧れを抱いていたのだろう。
 小さな小さな砂粒みたいな小石が何千年も何万年も経つうちに巨大な大岩になって、さらにその全面がびっしりと苔に覆われてしまうまで、それは気が遠くなるような年月である。付け加えられた2番の歌詞にしても、深海にあった小石が海面上に姿を現して鳥が翼を休められるような磯に成長するまでの期間ということだ。それほど長〜い間、我が君の御世が続いて欲しいと詠っている。
 石の生命力に関しては別のコーナーにも触れたが、古代人は親しい人が死ぬと遺体に胎児の姿勢を取らせて石の生命力を吹き込むために、屈葬という独特の埋葬法を行なったと考えるのが妥当である。これも予備校の日本史の先生から習ったが、それまでの既成の日本史の教科書には、屈葬は死者の霊魂の復活を恐れたからだという記載しか無かった。

 さて「君が代」の歌詞は少なくとも日本最古だろうと書いたが、実は60年以上前の日本人はもっと古い歌詞の付いた歌を歌っていた。「海ゆかば」である。元は万葉集の巻十八の大伴家持の長歌の一部であるから、「君が代」より200〜300年も古いことになる。

 
海行かば 水漬く屍   (うみゆかば みづくかばね)
 山行かば 草むす屍  
(やまゆかば くさむすかばね)
 大君の辺にこそ死なめ 
(おおきみの へにこそしなめ)
 顧みはせじ        
(かえりみはせじ)

 これに昭和12年に信時潔が曲をつけて戦前の国民精神強調週間のテーマ曲となった。哀愁に満ちて朗々と歌い上げるような旋律は、戦後生まれの我々が聴いても胸を打つものがある。ただし天皇の傍らに斃れても悔いはないというような歌詞が戦後も生き残れるはずがなく、昭和20年の8月を境にしてこの曲が公式に奏される機会は皆無となってしまった。「君が代」が生き残ったのは、「君=恋人」という無理なこじつけのせいかと思わせるほど、この2つの曲の戦後の運命には天と地ほどの開きがあった。

 戦後の日本人は、戦前から戦中の大日本帝国の国策への嫌悪ばかりが先に立ち、出征する兵士たちを送り、また国のために斃れた兵士たちを哀悼する心境を歌い上げる「海ゆかば」に訣別することによって、昭和20年までの歴史のすべてを清算して、経済大国への道をまっしぐらに走り始めたのだった。
 思えば明治維新も、江戸時代までの歴史をすべて清算し、旧幕府方を賊軍と決めつけて、その影響力一切を根こそぎにしたうえで近代化に邁進したのである。日本史におけるこの2つのポイント、明治維新と戦後の経済復興は、世界の歴史の中でも謎とされる奇蹟だそうだが、これは力の強い国々に圧迫されれば、自分のそれまでの歴史をいとも簡単に捨てて、清々した気分で新しい歴史を作り始めることの出来る我が国民性のなせる業ではなかったか。

 ところで信時潔作曲の「海ゆかば」であるが、真珠湾攻撃を描いた20世紀フォックス社の映画『トラトラトラ!』の中で、山本五十六司令長官が戦艦長門に着任するシーンに演奏されており、これが史実と違っているという指摘は今やマニアの間では有名だし、私もこのサイト内のどこかに書いた覚えがあるので今回は省略する。
 では日本海軍の公式の場で演奏される「海ゆかば」はどんな曲かというと、「軍艦マーチ」の中間部(トリオ)で演奏されている旋律が正式な儀礼の場で奏される「海ゆかば」である。これで歌われる歌詞はちょっとだけ違うので紹介しておく。最後の一節で「(天皇の傍で)安閑と楽には死なないぞ」と決意を詠っているところが違うだけだが…。

 
海行かば 水漬く屍   (うみゆかば みづくかばね)
 山行かば 草むす屍  
(やまゆかば くさむすかばね)
 大君の辺にこそ死なめ 
(おおきみの へにこそしなめ)
 長閑には死なじ     
(のどにはしなじ)

 『トラトラトラ!』の戦艦長門上のシーンでも、こちらの「海ゆかば」が演奏されていれば誰も文句を言わなかったわけだが、『トラトラトラ!』と同じ間違いを犯している小説がある。佐々木譲さんの『ベルリン飛行指令』という作品だが、他の部分は実に痛快で面白いので、敢えてアラ探しの失礼も許して頂きたい。
 これは『エトロフ発緊急電』『ストックホルムの密使』と並んで戦前〜戦中を舞台とした三部作の第1作であり、どれも実は実際にあったことじゃないかと思わせるほど見事な設定で、読者をグイグイ惹きつけるような迫力のある展開だった。『ベルリン飛行指令』などは最初の導入部、私は本当に実話を脚色したものだと思ってしまったほどである。
 1940年に盟邦ドイツを援助するために、日本海軍は新鋭の零式艦上戦闘機(零戦)2機をベルリンへ空輸する。英本土空襲の際にドイツの戦闘機は航続距離が不足で、爆撃機を十分に護衛できない、そこで桁外れの航続力を持つ零戦のライセンス生産も視野に入れて2機を送り出すわけだが、艱難辛苦の果てにインドやイラクなどを経由して、友好的だったトルコ領内に到着直前、零戦1機は搭乗員と共に失われる。残った搭乗員の海軍大尉がアンカラの飛行場で携行してきたトランペットを吹奏するのだが、その曲が信時潔作曲の「海ゆかば」と思われる。

基地のどこかからトランペットの音色が流れてきた。聴いたことのないメロディだった。哀切で沈痛な響きがある。
(中略)
「悲しい音色ですね。日本の音楽なのでしょうか」
「鎮魂歌なのです。日本の海軍軍人の死には、たいがいこの曲が捧げられます」


曲名を明記していないから、必ずしも作者の誤りと決めつけるわけにはいかないが、この記述から考えると、やはり信時潔の「海ゆかば」を念頭に置いていたとしか思えない。

 海上自衛隊の軍楽隊長を務めた谷村政次郎さんが『行進曲「軍艦」百年の航跡』という本に書かれているが、あるテレビのクイズ番組で軍艦マーチの中間部(トリオ)のメロディーは何かを問う出題があり、何と正解を「君が代」としていたというエピソードがあったらしい。確かに「君が代」に似ているが、実はあれが海軍儀制曲の「海ゆかば」である。世間ではけっこう誤解している人が多いようだが、もしクイズ番組の出題者が無知で、解答者がたまたま真実の正解を知っていたために却って賞金を獲得できなかったような場合、この解答者はクイズ番組を制作したテレビ局に損害賠償を請求できるのか?これも何かの法律の本で読んだ覚えがあり、そもそもクイズ番組とは制作者が意図した正解を当てる趣旨のものだから、無知な出題者には法律的な落ち度は無いそうである。残念でした。



頼りにならない民主党

 まさか政権発足後1年も経たないうちにこんなドタバタを演じるとは思っておらず、多少は期待もしていたが、やっぱりというか、案の定というか、2010年6月2日、民主党の鳩山由紀夫首相が辞任、6月4日、菅直人氏が民主党代表に選出されて新内閣を組閣することになった。鳩山内閣はわずか9ヶ月ももたない短命政権だった。

 昨年の民主党大躍進の総選挙直前、私はこのコーナーの別のページに、鳩山氏じゃダメだと書いたが、まさにその通りになった。

次回の民主党の総選挙は、前回売国奴の小泉に完敗した岡田克也氏を立てて、小泉ジュニアを粉砕し、小泉チルドレンを殲滅して自民党に圧勝しなければ、党の将来にとって大した意味はなかったのではないか。

さらに同じページの別の記事にはこうも書いた。

民主党にしたって、長らく代表としてしがみついていた小沢一郎の顔が汚れてきても、やはりその亜流で選挙に強そうなだけの鳩山由紀夫を担ぎ出してくるようでは大して期待はできん。

 結局、我が国の政治がいつもいつも同じようなドタバタを繰り返しているのは(村山氏の社会党政権時代でさえも!)、国民の意識が低すぎるからなのであろう。アメリカの大統領選挙のように、国民の側から支持候補者を盛り上げる運動の熱気が乏しい。意識の高い人は多いのだけれど、そういう人たちが横の連携を広げていくことが難しい社会なのだろうか。
 概して農耕社会では、一族郎党から村の衆までが一致団結しなければ食う物も手に入らないから、あらゆる集団において自分の意見を鮮明にすることが憚られると言われるが、まさに国政レベルや選挙運動でも同じことなのではないか。
 だから自民党、新進党、自由党時代から辣腕を振るって闇将軍とも言われた小沢一郎が、いかにも好々爺になったような顔をして全国行脚して回ると、一挙に票が民主党に動く、または民主党に動いたような錯覚が生じる、そしてその小沢の“選挙テクニック”にあやかりたい党内の人間がまた小沢の周りに群れ集まって、誰が政権の座にいても同じことが繰り返される。

 しかし誤解を恐れず言えば、私が去年書いたとおり、前回の総選挙は別に小沢に頼らずとも、岡田克也氏で十分勝てただろうし(とにかく自民党がひどかったから)、それで万一あの根腐れしていた自民党に勝てないようなら、もうしばらく隠忍自重するくらいの覚悟があって当然だった。党員も選挙民もあまりに国直しの功を焦りすぎたように思う。

 それにしても鳩山由紀夫氏はなかったのではないか。この人は戦前に政権目当てに議会で統帥権干犯の演説をして、文民でありながら軍部の国政介入を許した鳩山一郎の直系なのである。やはり血は争えない。今回も、おそらく小沢にそそのかされてであろうが、沖縄の米軍基地を最低でも“県外”に移設などと、明らかに選挙の票しか眼中にない発言で墓穴を掘った。この鳩山氏の“失言”と軌を一にするかどうかは見解の相違もあるが、我が国が米軍基地問題で迷走する間に東アジアでは、中国艦の示威行動激化、北朝鮮による韓国艦襲撃、台湾が北京を射程とする長距離ミサイル開発の凍結解除、と安全を揺るがすさまざまな出来事が頻発している。

 私が去年から心配して書いているのは、自民党もダメ、民主党もダメとなった時に、極右の政治勢力の台頭を許しかねないことである。まさに我が国は現在その危機に直面しつつあるのではないか。本来ならば昨年政権を追い落とされた自民党が奮起して、アメリカやイギリスのような二大政党を形成していれば良いのだが、自民党も野党になった途端、何人もの有力者が新党設立を目指して四分五裂の態である。
 社民党にも、かつての“自社さ時代”のように落ち目の大政党をリリーフで支える力は無い。社民党の辻本清美議員が設立したピースボートの客船がソマリア沖で海上自衛隊の護衛艦に護衛されていたと報道されてからも、まだ自衛隊派遣反対などと、どの口が言っているのか判らないような政党に国政を任せるほど国民もバカではなかろう。その後もピースボートの客船は海賊船に追尾されてEUの軍艦に助けられていた。そう言えば今年になってから、このピースボートの宣伝広告をよく見かけるようになったが、あれやこれやで客が集まらなくなったんじゃないのかな〜。

 とにかく今はマスコミも国民もそれほど心配しているように見えないが、私は日本の極右化の危機は目の前にあると思っている。杞憂に終われば良いが…。



星飛雄馬の時代

 かつて1960年代後半から1970年代にかけて、一世を風靡した『巨人の星』という漫画があった。梶原一騎原作、川崎のぼる作画である。父・星一徹の厳しい指導の下に、読売巨人軍のエースの星を目指して、大リーグボールと呼ばれる魔球を開発、花形満や左門豊作といったライバル打者たちとの対決を描いていく漫画であった。
 テレビアニメにもなり、あの主題歌は私たちの世代の者なら、カラオケで1度や2度は歌ったことがあるのではなかろうか。

 
思いこんだら試練の道を
 行くが男のド根性
 真っ赤に燃える王者の印
 巨人の星をつかむまで
 血の汗流せ 涙を拭くな
 ゆけゆけ飛雄馬 どんとゆけ


 飛雄馬がコートをならすローラーを引きながらウサギ飛びをするシーンをバックに流れるこの歌の冒頭部分、「思いこんだら」を「重いコンダラ」と聞き間違えて、あの整地ローラーの名前を“コンダラ”だと勘違いしていた失敗談はあちこちで聞いた。
 それはともかく、この主題歌の歌詞のとおり、血の流れるような猛特訓に次ぐ猛特訓の末に、ライバル打者を打ち取った勝利の歓喜、あるいは頼みの武器だった大リーグボールが打ち崩された悔しさ、そういう努力の結果としての勝負がこの作品のテーマだったと思う。

 一方、これと入れ替わるかのように、1970年代から1980年代にかけての野球漫画として、水島新司原作の『ドカベン』がある。里中智、山田太郎のバッテリーを中心に、岩鬼正美、殿馬一人などというキャラクターが活躍する漫画である。舞台は明訓高校の野球部だが、高校野球とはいってもプロでも通用するような超高校級のスタープレーヤーたちであった。

 『巨人の星』はプロ野球、『ドカベン』は主として高校野球を舞台にしており、プロとアマの違いと言ってしまえばそれまでだが、私はこの両作品の移行期こそ、日本の若者たちの“努力”というものに対する意識が微妙に変わっていった時代ではなかったかと思っている。

 飛雄馬は文字通り血の滲む努力の末に、その結果としてライバルたちとの対決に臨んだ。ところが『ドカベン』では、里中・山田のバッテリーは同じように黙々と練習を積んで試合に臨むのだが、バックの岩鬼や殿馬はクールで、むしろ努力家の里中・山田バッテリーを茶化すような態度さえ見せることがある。しかしそれでダメ選手かというととんでもなくて、ほとんど練習らしい練習、少なくとも飛雄馬のような猛訓練には無縁でも、いざ本番の試合になると超高校級のプレーをいとも簡単にあっさりとこなしてしまうようなところがあった。
 つまり努力の結果としての勝利ではなくて、天賦の才能のお蔭でそれほど苦労しなくても素晴らしい成果を手にしてしまうのである。

 我々の世代にとっては、野球の試合に限らず、学校の試験でも何でも、すべての成果は血の滲むような努力の結果としてついて来るものだというイメージがあったが、どうも最近の若い学生さんたちを見ていると、もちろんすべての者に当てはまるわけではないが、『ドカベン』の岩鬼や殿馬のように、それほど悲壮感に駆られて努力しないでも、楽々と成果だけ手にしたいと思っている者が多くなってきたように見えて仕方がない。

 いや、若者たちばかりではない。一昨日(2010年7月11日)行なわれた参議院選挙で民主党が敗北し、自民党が再び勢いを盛り返してきたが、この自民党、昨年の総選挙で歴史的敗北を喫した直後は、有力者が次々と新党結成を目指して足抜けを画策するなど、まさに敗軍が浮き足立ったような見苦しい様子を見せた。
 つまりそういう輩は、野党としての努力を嫌い、与党として政権に君臨する成果だけを欲していたとしか思えない。岩鬼や殿馬の類である。野党に転落してからの約10ヶ月間を、飛雄馬のような血の滲む努力をしていれば、日本の二大政党制ももっとしっかりしたものとして定着していたであろうに…。



戦争の呪縛

 今年(2010年)も終戦記念日が巡ってきたが、今年は少し怒られることを書いてみようかなと思う。今年は太平洋戦争が終結して65年目の終戦記念日である。一口に戦後65年と言うが、それがどれくらいの歳月なのか。

 大阪冬の陣・夏の陣で徳川が豊臣を滅ぼした1615年の65年後(1680年)には、江戸幕藩体制は堅固な揺るぎないものになって、5代将軍綱吉が就任、時は花の元禄へと移り変わっていく前兆期にあった。
 源平合戦後、源頼朝が鎌倉幕府を開いた1192年の65年後(1257年)には、すでに政権は源氏のものではなく、5代執権北条時頼の時代を終えて北条氏の権力は確固たるものになり、時頼の息子の時宗が元寇を迎え撃つ時代が迫っていた。
 その元寇弘安の役(1281年)の65年後(1346年)には建武の新政も失敗して、国内は南北朝の内乱の真っ最中、2年後には楠木正成の息子正行も四条畷で戦死する。

 65年という歳月は世の中がそれくらい変わってしまうほど長い長い期間なのだ。もっと最近の日本史に当てはめれば、日露戦争から東京オリンピックまでの期間よりも長い。
 最近は日本人の寿命が延びているからそんな昔とは比べられないというけれど、戦争が終わって6年も経ってから生まれた私たちの世代が、来年はもう還暦、すでに社会の第一線を後進に譲った人たちもいるし、私だってもうじき定年を迎える。

 まもなく社会的使命を終える世代ですら知らない戦争に、日本人はいつまで縛られ続けるのか?悲惨な戦争はもう止めようと訴える人々も、戦後日本人の平和ボケを嘆く人々も、相変わらずその思考の原点は昭和20年8月15日だ。なぜ現在の日本を原点として、自分自身の頭で日本の未来を考えようとしないのか?
 
あの悲惨な戦争体験を風化させてはいけない、とか、あの時代の人々の国を愛する気概を忘れてはいけない、などと言うけれど、1945年の夏に区切られた時代を「あの(The)」という定冠詞に実感をこめて語れる日本人はもう社会の第一線にはほとんど残っていない。

 歴史は数十年も経てば風化する。風化しない歴史はない。歴史は必ず風化するものだという前提の下に教訓を汲み出さなければいけないし、そのためには自分の頭を働かせて考えなければいけない。
 現在の日本はどういう状況にあり、今後どういう道を選ばなければいけないか。それはもう
あの時代から、受け身や付和雷同の姿勢だけでは学べない。特に学校で我が国の近代史をほとんど習っていない若い人たちは、自分で調べ、自分で結論を出さなければいけない。
 8月15日正午に吹鳴されるサイレンの音にただ黙祷するだけではダメだ、戦いに斃れた人々の物語を聞いて涙に咽ぶだけではダメだ、靖国神社に参拝するだけでもダメだ。
 なぜ自分はそう思い、なぜそう行動するのか、自分の頭でよく考えもせずに、上の立場の人がこう言ったから、本やサイトにこう書いてあったから、それらを鵜呑みにして受け売りするだけでは、日本人はいつまで経っても過去の戦争の呪縛から逃れられないだろう。



「三丁目の夕日」の頃の戦争と平和教育

 「三丁目の夕日」という映画が大ヒットしたので、私もそれにあやかって、このコーナーに昭和30年代当時の学校教育について書いたのは、早いものでもう4年も前のことである。今回はその続編の形で、昭和30年代の戦争と平和教育について書いてみる。前項で日本人はいつまで経っても大昔の戦争の呪縛から逃れられないとショッキングなことを書いたが、結局その原因は昭和30年代、我々の世代に対する戦争教育・平和教育の失敗によるところが大きいからである。

 我々の世代に対する戦争教育と呼べるものは、はっきり言って何も無かった。当時の教師たちは、生徒や児童が戦争を否定するように
条件反射づけすることが、すなわち戦争教育であると錯覚していたように思われる。
戦争」とか「軍隊」とか「武器」という単語を聞いたら、直ちに迷うことなく「ノー」と言える子供を作ることが、いわゆる戦争教育の至上命題ではなかったのか。

 私がまだ小学校低学年の頃(昭和34年頃)、学校で何でも好きな絵を描きなさいという授業があって、私はクレヨンで軍艦の絵を描いて先生の所へ持って行ったら、私をとても可愛がって下さった女性教諭だったが、目を丸くして当惑したように、「これは文彦君が描いたの?」と恐る恐る私に訊ねられた時の情景が今でも忘れられない。

 普通の男の子は概して思想や信条とは別に、鉄砲や戦車や軍艦や戦闘機などが本能的に好きなものであるが、男の子のそういう自然な本能の発露さえ警戒する雰囲気が強かった。自分の担任のクラスの子供に軍艦や戦闘機の絵を描かせたなどということが学校管理者や日教組にでも知れたら、たぶん当時は重大な事になったのかも知れない。申し訳ないことだったとは思う。

 当時は戦争について教えなかった、ということは逆の状態である平和についても教えなかったのと同じことだ。を教えずしてを教えられるのか?を教えずしてを教えられるのか?戦争を教えずして平和を教えられるはずがない。

 戦争とは何なのかという実体を正しく教えられないまま教育を終えた我々の世代はそのまま社会へ出ることになる。教師から教わった戦争とは、単に戦車や大砲や軍艦や戦闘機などを使って国と国とが殺し合う暴力であるということだけだった。
 暴力だから絶対反対、それしか語れない大人が社会の最前線に立った。“絶対にいけない暴力”なのに、なぜ世界には戦争がなくならないのか、という問いに答えられる国民が日本にはきわめて少なくなった。無理に答えようとすれば、人類が愚かだからという答えしか出て来ない。早くみんな賢くなりましょう、と言えば何となく模範解答みたいな気がするが、そんな模範解答など何の役にも立ちゃしないのだ。

 “戦争はノー”と条件反射付けされた国民は、いったん戦争か非戦争かという命題を突きつけられる局面に立たされた場合、自らの頭脳で戦争を抑止する論理を組み立てることができないから、ズルズルと再び戦争の論理に押し流されていくだろう。
 有名なパブロフの犬も、子犬の頃から実験室で飼い慣らされれば、鐘の音を聞いただけで唾液を分泌するように条件付けされてしまい、実験室から追い出されて餌を絶たれた状況に立ち至ってもなお、鐘の音を聞いただけで唾液を分泌させ続けながら、自ら餌を戦い取ろうともせずに餓死するに違いない。

 “自ら
平和戦い取る”という、文章にすると一見パラドックスに満ちた行為が日本人には苦手だが、考えてみればこれは平和主義だけに限らない。
 人はなぜ自由でなければいけないか、人はなぜ平等でなければいけないか、現在では普遍的な価値と見なされるこういう人間の権利も、数世代前の欧米の人々が圧政の下で血を流して戦い取ってきたものだが、日本国民は外国からお仕着せで頂いて来ただけだった。
 平和主義も日本国憲法に書いてあるからという理由だけで有り難がっていただけの国民は、9条改憲論に対して自らの論理で対抗することは出来ないだろう。場当たり的な対応しか出来なくなっている。その典型的な例が、海賊退治に自衛隊派遣反対としか言えない政党が、党員(正確には今では元党員)が関係する団体の船を自衛隊に護衛して貰ったという例の支離滅裂な一件だが、このサイトに何度か書いたので止めておく。

 ではどういう初等教育が必要だったのか、あるいは現在必要なのか。

 私の高校時代はベトナム反戦運動や日米安保闘争が盛んだった時代で、米軍や自衛隊など一般の若者の間では口にするのも憚られる時代だった。そんな中で海上自衛隊志望を公然と口にし、太平洋戦争の戦記を読み耽っていた私はかなり異端児だったはずで、友人たちは半分冗談で私を軍国主義者と呼んでいた。(別にいじめられなかったが…)
 あの頃、一部の左翼系の友人たちが熱烈に傾倒していた毛沢東主義の革命が仮に成功していたら現在の日本がどうなっていたか考えるだけでも恐ろしいが、そういう生徒たちの論理に立ち向かおうとする教師はほとんどいなかった。米空母エンタープライズ(通称エンプラ)の横須賀寄港をめぐって反対運動が盛り上がっていた時、教室の壁に『エンプラを天ぷらに!』と落書きした生徒を注意した教師が、逆に生徒から議論を挑まれてオタオタと引き下がってしまった。(あの落書きはなかなかセンスが良かったと今でも思っているが。)

 当時の日本全国を吹き荒れていた学生運動に共鳴してお仕着せの平和主義を叫ぶ級友たちに対して、私は回覧クラス日誌に一編のショートショートストーリーを寄稿した。
 時は近未来の19XX年、お前さんたちの理想とする世界連邦が樹立されて、世界には貧困も戦争も無くなった、だが世界にはこの平和を守るために任務に就いている軍人がいる、私の(作品内の架空の)友人は、連邦軍の兵士として先日の(架空の)反乱鎮圧の戦いで戦死した、お前さんたちは反戦、反戦、軍備反対と念仏のように唱えているが、将来こういう状況だって想定できるんだぞ…、
 と高校生のことだからそんなに手の込んだ筋書きではなかったが、ただ戦争反対と繰り返すだけの級友たちに問い掛けたところ、誰も私を軍国主義者と揶揄することはできなかった。あのショートショートストーリーは今では手元にないが(若い人たちは信じられないだろうが、まだワープロもゼロックスも無い時代…!)、その後、世界各地でイランイラク戦争だとか、同時多発テロだとか起きるたびに、あの小説の舞台と同じだったではないかと思っている。

 何が言いたいかといえば、要するに反戦、反戦とお題目を教え込むよりも、子供の頃から戦争についてもっと具体的に議論させる教育が必要なのではないか。
 例えばある授業の1時間なり2時間なりを割いて、「隣の国の軍隊が日本に上陸してきました、さあ、どうしたら良いでしょう」というような課題で児童や生徒たちに1人1人意見を言わせる、あるいは作文を書かせる、そして意見が違う者同士で討論をさせる。
 子供たちのことだからいろんな意見が出るだろうが、それを教師が判定するのでなく(それは子供たちの思想や信条に対する大人の干渉だ)、クラスの仲間たちにもいろんな考え方があるのだということを実感させる、そして自分はそういう異なった考え方にどう対応していくのかを自分で考えさせる。

 そうやって成長した子供たちが自分で選び取った日本の進路はそんなに誤ったものではないはずだ。少なくとも平和、平和とお念仏しか唱えられない国民たちよりは、ずっとしっかりした国家の未来を選択してくれると信じている。



東宝特撮第3弾:自爆攻撃

 昨年からデアゴスティーニ・ジャパンという会社で怪獣モノを中心とした東宝特撮映画のDVDコレクションを発売しており、私も昨年末に東宝特撮シリーズの第1弾第2弾として別のコーナーに記事を書いたが、今回はこちらのコーナーに第3弾として東宝特撮に見る自爆攻撃の例について考えてみる。
 東宝特撮映画として8.15シリーズと銘打った戦争映画もあり、例えば『太平洋の翼』では加山雄三扮する滝大尉の紫電改戦闘機がB29爆撃機に体当たりするシーンもあったが、東宝の戦争映画は他社のものに比べて、そういう自爆攻撃シーンや特攻隊の主題が極端に少なかったような印象がある。その代わり、合理主義で空中戦に臨んだ坂井三郎さんの『大空のサムライ』とか、精神主義の上層部に楯突く零戦隊の隊長を描いた『ゼロファイター大空戦』など、他社が特攻隊讃美に傾く中で
アンチ特攻を貫いていたようなフシがあった。

 ところがその代わり、と言っては何だが、戦後の東宝特撮映画の元祖である『ゴジラ』では、芹沢博士が“オキシゲンデストロイヤー(酸素破壊機?)”という新兵器を用いて、海底に潜むゴジラと刺し違えて自らも帰らぬ人になるというストーリーだった。まさに宮沢賢治の童話『グスコーブドリの伝記』に見る自爆の精神が表れている。神風特攻隊員の中には、多数を救うために自分が犠牲になるというこの賢治の精神に自らの宿命を重ね合わせていた者も多かったという。
 ただし特攻隊の歴史は、こういう若者たちの自己犠牲の精神を醜い大人たちが利用しただけの無責任な作戦だったという私の主張は別項の通り。

 東宝の『ゴジラ』(第1作:昭和29年)は日本の怨念と言ってもよいだろう。核実験の落とし子として誕生した凶悪な原子怪獣を特攻精神で退治するというモチーフ、戦後の独立を回復したばかりの“敗戦国”にしては強烈なアピールだった。
 芹沢博士が自らの生命と刺し違えて退治したのはゴジラだけではないのだ。自分の発明品であるオキシゲンデストロイヤーもまた自らの死と共に永久に葬り去ろうとしたのである。オキシゲンデストロイヤーがどういう原理の兵器かは忘れたが、とにかく人類に不幸を招くだけの凶悪な兵器、自分が生きていれば再び実用化されてしまうに決まっているから、その秘密もまた同時に封印してしまう決意であった。
 『ゴジラ』の制作者にとって、オキシゲンデストロイヤーが広島・長崎に投下された原爆を象徴していたことは想像に難くない。つまり芹沢博士の自爆攻撃は、すでにあの時代に核兵器廃絶という重大なメッセージを東宝映画が世界に向けて発信していたことを意味していると思う。人類に災厄しかもたらさない原水爆など、誰かが生命を賭けてでも封印してしまえと、戦争映画でさえ特攻をモチーフにしなかった東宝特撮陣が…である。

 その後も任侠映画の延長みたいな形や、オナミダ頂戴モノの形で、特攻隊を描いた他社の戦争映画はずいぶん制作されたような気がするが、東宝特撮では戦争映画、怪獣映画、SF映画を問わず、生還の可能性を自ら捨ててまで自爆する主人公は少なかった。
 人間が本当に生命を賭けて戦うべき相手は全人類の生存を脅かす敵だけである、一部の国家や組織や集団の利益のためだけに自爆してはならない。それが『ゴジラ』第1作以来、連綿と続いた東宝特撮映画の全般的なメッセージではなかったか。

 その決定版とも言えるのが、今月末(9月28日)発売予定の『大怪獣総攻撃』(平成13年)である。平成13年といえば、私はもうとっくに怪獣映画など卒業していたのであるが、たまたまケーブルTVをつけたらゴジラが暴れ回っている、旧友に再会したような懐かしさでチャンネルをそのままにしておいたところ、実に意外なエンディングが待っていたので最近の印象に残っている映画だった。
 ゴジラは日本各地を破壊しながら東京湾に侵攻する、主人公は雑誌記者の女の子なのだが、その父親が防衛軍艦隊の将校で、ヒロインの目の前で潜航艇に搭乗して海中のゴジラに挑む、潜航艇には特殊兵器が装備されているが、ゴジラもさるもので哀れ潜航艇はゴジラに呑み込まれてしまう…。
 ああ、これはあの芹沢博士と同じ運命、ゴジラと刺し違えて自爆した後、「お父さん、立派だったわ」とヒロインの涙でエンディングかと思って見ていたら、何とゴジラの腹中で新兵器を発射してゴジラを倒した父親が、娘の目の前で海中から生還し、娘に向かって敬礼する、亡霊ではない証拠にゴジラの放射能で汚染されていないことが確認されるまでは近づけないと言って、本部の方へ颯爽と去っていく、中年になってからの記憶なのでそんなに自信はないが、確かそんなストーリーだった。(ウソだと思うなら今月末にDVDを買って下さい。別に製品の宣伝を頼まれたわけではないが・笑)
 英国諜報機関の007号ジェームズ・ボンドが敵の要塞を爆破した後に危機一髪で生還し、上司も知らぬところで悠々と美女とイチャついている、我が身に代えてなどと肩肘張らずとも任務は全うする、そんな清々しさを感じたゴジラ・シリーズの作品だった。


補遺1:アメリカ映画で自爆したパイロット
 1996年公開の20世紀フォックス社の『インデペンデンス・デイ』では地球上空を制圧したエイリアンの超巨大円盤の艦隊に向かって、大統領自ら指揮する戦闘機隊が絶望的な空中戦を挑むが、残念ながら弾丸切れ寸前というところへ、複葉の旧式プロペラ機で駆けつけた飲んべえの元戦闘機パイロットが敵円盤の光線発射口に向かって体当たりする、画面は上下逆だが、アメリカ人制作者たちは空母に逆落としで体当たりする日本の特攻機の映像を思い浮かべていたのではないだろうか。この体当たりのお陰で敵円盤の弱点が露呈され、全世界は救われるというストーリーだった。
 ただしこのパイロットとて最初から自爆を企図したり、まして命令されていたわけでなく、たまたま状況的にそうなってしまったから体当たりしただけである。アメリカ人も体当たりしないわけではなく、実際の戦時中にも昭和20年7月の呉軍港空襲の際、被弾して帰投できなくなったアメリカ艦載機が停泊中の日本空母の甲板に体当たりした目撃談がある。この例に限らず、またアメリカ人に限らず、どこの国でもいざとなればこういう勇猛な人間は出現するのではなかろうか。

補遺2:『ゴジラ』の中の放送スタッフ
 昭和29年の『ゴジラ』第1作の中で、東京を破壊するゴジラの様子をテレビ塔の上で実況中継する放送スタッフがいたが、ゴジラが塔に接近するのに最後まで持ち場を離れず“玉砕”したのは頂けない。「ああ、もう最後です、さようなら!」なんてマイクに向かって絶叫する前に、もっと安全な場所から中継しろよと言いたくなる。わざわざ逃げ場の無い塔の上はないだろう。
 実際のテレビでも、暴風雨の中でよろめきながらマイクを握って台風接近を放送しているアナウンサーやキャスターを見かけるが、自分の身の安全を考えて貰いたい。万一中継の最中に負傷する映像など電波に乗ったらNG大賞どころではなくなる、視聴者が非常に暗い気持ちになることくらい自覚して欲しい。
 確かこれも20世紀フォックス社の映画『デイ・アフター・トゥモロー』(2004年)だったと思うが、世界的な大規模異常気象の中、竜巻実況中継スタッフが吹き飛ばされた看板に薙ぎ倒されるシーンがあったが、『ゴジラ』のテレビ塔上の中継スタッフと同じである。



中国といかに接するべきか

 2010年9月7日、尖閣諸島沖で海上保安庁の巡視船「よなくに」「みずき」に中国漁船が衝突(おそらく体当たり)した事件で、9月25日、那覇地検が逮捕していた中国人船長を超法規的に釈放したことについて、日本外交の大失態として抗議の声が高まっている。
 今回の事件は、まさに我が国が国家の体を成していないことを内外に示したものである。国家の正義を代表すべき検察が腰砕けになった印象さえ受ける。日本の検察は、一般市民の取り調べには権力を背景に横暴な振る舞いを示し、あろうことか、大阪地検では検察側の主張に都合の良いように証拠のフロッピーディスクの改竄まで行なったかと思えば、一方で国民的疑惑の大きい小沢一郎ですら起訴できない、こんな“悪のお代官様”が今度は領海侵犯の犯人を取り逃がした…、まあ、世も末です。
(何と、これを書いた翌日、小沢一郎は検察審査会の議決によって強制起訴された。検察の問題についてはまたいずれ…)

 確かに今回の日本外交は大失態の連続だったが、中国政府も外交的に成功したとは言い難い。チャーター機で身柄を“奪還”してきた船長が意気揚々とタラップを降りる姿を放映して、国内的には“勝利宣言”をしているように見えるが、実は中国も大失態をしでかしている。

失態その1:
 おそらくこれまでかなり親中国的だった日本人、少なくとも反中国的でなかった日本人も、今回の事件で中国が嫌いになった人が多いであろう。アメリカか中国かという選択において、アメリカを選ぶべきという国論がかなり統一されたと思う。
 沖縄の米軍基地問題でも、何が何でもアメリカ軍は出て行けというストレートな論調は出せなくなった。沖縄のアメリカ軍戦力が空白になれば、東シナ海における中国の横暴はエスカレートするという事実を、平和ボケの日本人に教えてくれた中国漁船と中国政府の功績は大きい。

失態その2:
 私が最も本質的と思うことは、尖閣諸島周辺は日米安全保障条約でカバーされることを、アメリカに明言させたこと。
 今回中国がいくら力ずくで日本に対して領海侵犯を正当化したところで、今後海軍艦艇まで派遣して周辺海域を実効支配することは出来ない。もし中国艦が日本船舶に対して砲撃事件など起こそうものなら、アメリカ艦隊との交戦まで覚悟しなければならないからである。
 むしろアメリカ軍部や軍需産業にとってみれば、千載一遇の好機と捉えている可能性すらあると思う。日本はこれまで以上に日米“軍事”同盟に積極的になるだろうし、自衛隊がさらに高価な兵器を買い付けてくれるようになるからである。

失態その3:
 中国は横暴な国であるという印象を世界各国に与えたこと。中国は先年の北京オリンピックの聖火リレーに関連して、チベットにおける露骨な領土拡張政策への批判を浴びたばかりだが、世界の人々がせっかく忘れてくれた頃合いを見計らうかのように、今回の事件を引き起こした。聖火リレー時の反中国の急先鋒だったフランスの有力紙も、地球の反対側の出来事なのに、中国は横暴な国と報じている。
 また第二次世界大戦の歴史観や竹島問題で中国と共闘する立場の韓国ですら警戒的な論調であるというし、まして中国と国境を接する国々は今後ますますアメリカ寄りの立場を取ることになるだろう。

 私は今回の事件に関しては、あの“三千年の歴史”を誇る老獪な中国が、よくまあこんな愚策をしでかしたものだと驚いている。オリンピックも終わり、上海万国博も終われば、再び国威発揚の場を失って経済的に行き詰まり、国内の不満が高まることを恐れた共産党が焦り狂った結果かとも思われる。

 こんな中国を相手に日本はどう接すればよいのか。今回の事件をきっかけに「中国討つべし」との論調も見られるが、中国の国力は日本の10倍以上、いたずらに国粋主義的なムードに乗って中国に軍事的・経済的に喧嘩を吹っかけるべきではない。
 その代わり、1930年から1940年代初頭にかけて蒋介石にやられたことを、そっくりそのまま中国にやり返すことを考えなければいけない。第一次世界大戦以来、国内に日本軍の駐留を受けていた中国は、表裏の外交ルートできちんとアメリカとのパイプを保持し続け、最後は日本をしてアメリカと戦わしめた。
 単純な軍事力や経済力で太刀打ちできない相手に対しては、日本人もこの種の老獪さを身につける必要がある。間違っても中国の挑発に乗ってはいけないし、単なる潔癖なキレイ事でアメリカとの協調を失うような羽目になってはいけない。アメリカとて決してキレイな国ではない、むしろ中国以上に恐ろしい国であろう。しかしそれでも、毒を以て毒を制するのが日本のような小国が国際舞台で生き残る唯一の道である。



“尖閣ビデオ”流出事件

 上記の海上保安庁巡視船と中国漁船の衝突事件で、巡視船から撮影したビデオがYouTubeを介してネット上に流出した。別にネットで見るまでもなかったことだが、やはり愚かな共産党と知識層に煽動されたに違いない中国漁民による意図的な体当たりだった事実が明らかになった。他の国のコーストガードであれば銃撃して撃沈すら辞さなかったかも知れない。

 当初日本政府は、犯人を超法規的に釈放したために裁判の証拠とする必要もなくなったとの理由で国会にはビデオを提出したものの、一般国民にはこれを秘匿し続ける方針を取っていたが、おそらくこれ以上国民を激昂させて対中国外交に影響を生じさせてはいけないと判断していたのであろう。
 しかしこのネット時代にあれだけの映像を何千万人もの国民に対して、事件が沈静化するまで隠しおおせると考えていたこと自体が浅はかだし、そんな浅はかな人物が国政に関与したために我が国の歴史は最悪のページを開けてしまったと私は考えている。あの映像は犯人釈放と同時にマスコミに公表して、日本の正当性と中国漁船の横暴を世論に訴えるべきであった。結局はそういうことになったわけだし、政府はそのことを予見すべき義務を果たさなかったと言えるが、もしこれを結果論で言い逃れるつもりなら、統治者としては素人同然である。(結果論は愚者の言い訳に過ぎない!)

 なぜこれを歴史の最悪のページと考えるかと言えば、尖閣事件における政府の初期の対応に対する不満と批判がくすぶっていることを知りつつ、さらに我が国の正当性を裏付ける証拠品までを政府が隠したということになれば、国民の中に国粋主義的な反政府ムードが一気に高まって、我が国の政党政治は重大な危機に直面することになる。政府が予見すべきは、まさにこの点であった。

 中国漁船が体当たりしてきたという事件が実際に起こってしまった。現場のビデオもある。その上でなお犯人を釈放しなければならない高度な政治的判断があった。
 さあ、この落とし前をどうつけるか。これが政治家の仕事ではないのか?しかし現内閣は証拠品のビデオを隠匿してまで、日本は中国に完全に屈しましたという姿勢を国民の前に晒し続けた。
 国民と言っても単純ではない。憲法第9条を盲信する一派から、過激な国威発揚を叫ぶ一派までいる。そういう国民大衆を最大公約数で納得させながら国家の舵を取っていくのが政治家の仕事であろう。今回政府は最も危険な針路を選択したと私は思っている。
 事態は民主党政権への反発ばかりでなく、民主党内でも菅内閣打倒に向けた批判につながっている。国内での政治勢力の争いが外国を仮想敵視する国粋主義的な反政府ムードと結びついた時に国家の運命がどうなっていくか、ドイツにおけるナチスの台頭、我が国における統帥権干犯問題などを見るまでもないのではないか。

補遺:
 上記の“尖閣ビデオ”をネット上に流出させた海上保安官が判明し、報道はますます過熱する様相を呈している。まだ“国家機密”を漏洩した罪で逮捕されたわけではないので、保安官の氏名などは公表されていないが、この保安官に対する今後の処置はどう転んでも我が国の将来を危うくさせることになるだろう。
 最も悪質な中国漁船の船長を超法規的に釈放しておいて、国民に情報を提供したこの保安官だけを処罰すれば、国粋主義的な反政府ムードは一気に燃え上がり、現政権のみならず、今後中国に対して協調路線を取ろうとする政治勢力に対しては猛烈な反発が起こるだろう。要人に対するテロなど起ころうものなら、我が国はもう取り返しのつかないことになる。
 一方、公務員としての服務規程に違反したこの保安官の処分を保留したままにしても、それはそれで禍根を残すだろう。こういう進退きわまる状況に立ち至ったのは、すべて現政権の見通しの甘さが原因である。

 一つだけ新聞などで報道される識者のコメントで気になったのは、映像をネットに流出させた保安官の行為を、戦前の軍部が自らの正義感だけで突っ走って国を誤らせたことに例える人がいたことである。しかし中国大陸で戦火を勝手に拡大させていった軍人や、2.26事件を起こした軍人たちと、今回の保安官の行為との類似性はそういうことではないと思う。

 戦前の軍人たちは軍隊とか部隊という組織を背景として事を起こした。集団の中の個人として行動すれば、本当の裸の個人としての責任観念は薄くなるような錯覚が生じる。何か大それた事をするに当たって、自分1人ではなく、誰か部下でも同僚でも一緒についてきてくれれば気が楽になる。裸の個人として責任を取る覚悟のあった者は少なかっただろう。

 今度の保安官と戦前の一部の軍人たちの行為の類似性を敢えて見出そうとするならば、今回の保安官はビデオの流出を、個人が特定されにくいインターネットカフェのような場所で行ない、さらに後日の証拠となる恐れがあるUSBなどを廃棄したことだ。つまり当初は裸の個人として責任を取るつもりはなく、“海上保安官の不特定の誰か”がやったことで済ませられると考えたのではないか。

 今回の事件が戦前の日本史を思い起こさせるとすれば、それは前にも書いたとおり、外国を仮想敵視する国粋主義的な反政府ムードが醸成されつつあるということだ。菅直人首相がAPECで来日したアメリカ大統領に、中国やロシアとの領土問題でアメリカが日本を支援してくれてありがたかったなどとコメントを出すくらいなら、先ずその前に、我が国の正当性を証明する映像を国民の目からも隠蔽したことを日本国民に対して謝罪するべきであろう。



不機嫌な国


 最近の緊迫する東アジア情勢の中でも、また一段と象徴的な事件が勃発した。2010年11月23日、北朝鮮軍が韓国の延坪島に向けて砲撃を行ない、韓国の海兵隊員や民間人に死傷者が出たのである。
 北朝鮮は事前に韓国軍の軍事演習に抗議していたらしいが、いかに言い分があろうとも、民間人もいる陸地に向けて実弾を発射する行為は狂気の沙汰としか思えない。北朝鮮は当の韓国からも食糧やエネルギー支援を仰いでおり、また韓国の哨戒艦を撃沈しておきながら、韓国側が大人の対応で事件の拡大を自重しているのを良いことにシラを切り通すなど、さんざん世話になり、いろいろ大目に見て貰っている相手に対して、ちょっと気に食わないことがあれば、即座にキレて実力行使に及ぶ、こんな幼稚な国家が国際社会の一員であることに一抹どころではない不安を感じる。

 こういう常に機嫌の悪い人間もいるが、個人同士のお付き合いなら相手がいかにキレようが、恩義を忘れた振る舞いに出ようが、あいつはそういうヤツだと割り切っていれば腹も立たない。だがそういう国家が我が国の隣に存在するということは、そう簡単に看過できることではない。しかも相手は核兵器まで開発しているのである。

 これまで東アジアを中心とする国際社会は、ある程度北朝鮮の横暴を寛容に許してきた。現在、各国の首脳が次の一手として何を考えているかは判らないが、第二次世界大戦前夜の教訓は日本を除く多くの西側諸国が共有しているであろう。第一次世界大戦の敗戦国だったドイツがナチスの台頭と共に次第に力をつけてきて、強力な再軍備計画や領土的野心を次々に達成していくのを黙認してきたために、ついに最大の悲劇を招いてしまった、あの教訓である。

 私はもう朝鮮半島で明日何が起こっても不思議ではないと思っている。思えば20年以上も前の大韓航空機爆破事件や、ラングーン事件などから、最近の哨戒艦撃沈事件に至るまで、いつ戦争になってもおかしくない状況はいくらでもあった。しかし韓国は北朝鮮に対して融和政策を取る大統領も出たりして、戦争回避に全力を注いできたような面があったと思っている。
 同じ民族だからということもあっただろうが、私はそろそろ韓国も我慢の限界を越えるのではないかと心配である。これまでの事件はいわゆる“北の工作員によるテロ”であったが、今回のはあからさまな北朝鮮軍の攻撃であり、しかも民間人にも犠牲者が出ている。

 これを韓国がこれまでどおり我慢できるかどうかが心配であり、また辛うじて韓国がこれを堪え忍んだ場合、北朝鮮が却って図に乗ってさらなる国際社会への挑戦を試みるようになるのではないかという点も心配である。本当に何が起こっても不思議ではない状況になったと思うが、我が国の朝野はこれをどう認識しているのだろうか。



ノーベル賞と人権

 中国の民主活動家である劉暁波氏のノーベル平和賞受賞を巡って、国際的に一波乱あったことはまだ記憶に新しい。
 2010年10月の受賞決定以来、中国当局は当初これを黙殺、後に反ノーベル平和賞キャンペーンを断行し、もちろん12月10日の授賞式には服役中の劉暁波氏を出席させることもせず、さらに国際的にも授賞式欠席を呼びかけてノーベル賞の権威を貶めようと画策した。
 まあ、天安門事件の民主化運動を支援し続けて中国の現体制の基盤を揺るがし、中国の法律に触れた人物に、まさにその“罪状”ゆえに受賞した栄誉の式典への参加を許可する国家などあり得ないが、中国の圧力に屈して授賞式典を欠席した国々も、別に中国が怖いわけではなく、自分の国内でも同じような民主化運動が起こっては困るというのが理由だろう。

 ところでこの“事件”に関しては、特に最近の反中国ブームに乗って、多くの日本人の間には、「そら見たことか」「中国は本当にひどい野蛮な国だ」という意見が高まったと思われるが、我々日本人は今回の中国を嘲ってばかりいられるのか。

 日本においても民主主義は最初から当然のように存在したわけではない。1945年8月の敗戦と共に進駐軍からもたらされたものである。西欧各国のように、支配者の圧政の中から人民が血を流して戦い取ったものではない。アメリカのように「人民の人民による人民のための政治」というスローガンが高らかに宣言されたわけでもない。
 1945年の8月までは『鬼畜米英』を叫んで、まるで現在の北朝鮮のように世界中を罵倒しながら、国民を捨て駒にして徹底抗戦していた国家が、いきなり掌を返したように『民主主義』を信奉する国家に変貌しただけのことである。なぜ突然豹変したかは判らない。たぶん民主主義国家になった方が戦後の世界を生き抜くうえで有利だという打算が働いた結果だろう。

 そんな国が中国を笑えるのか。国民も多数決さえ取れば民主主義だと思っているのではないか?それならば中国も北朝鮮も多数決で物事を決めている。我が国では多数決への反対者が投獄されたり国外追放される危険がないだけの話で(それが一番大切なことではあるが)、多数決の頭数を揃えた者の勝ちというだけでは、戦後の自民党や民主党の政治も、「人民の人民による人民のための政治」という理念に遙かに及ばない点で似たようなものかも知れない。

 中国は現在、かつての西欧諸国と同じ課程を踏んで民主化を成し遂げようともがいている。まさに生みの苦しみという点ではフランス革命にも相当するのではないか。もし中国人民がこの苦しみを経て将来民主主義を勝ち取った暁には、中国はおそらく世界最大の人権大国に変身するだろう。その時までに日本のお仕着せの民主主義を十分成熟させられるかどうか、我が国の政治家にとっても国民にとっても重要な試練である。



痛みに耐えて…

 最近の日本では民主党政権のあまりの不甲斐なさばかりが目立っているが、やっぱりこんなことなら自民党の方が良かったという声もそんなに聞こえてこない。成熟した二大政党制であれば、ここらでもう一度考え直しましょうということになるんだろうが…。

 やはり国民の期待が自民党に戻っていかない大きな理由の一つは、あの稀代の売国奴だった小泉純一郎が叫んだ「
痛みに耐えろ」の構造改革の失敗であろう。未来は必ず良くなるからとペテンにかけられて、必死に痛みに耐えた挙げ句の果てが、未だに出口の見えない現在の不況である。若者の就職率、中高年の失業率など史上最悪の数値だとも言われる。
 病気を治してあげると言われて、麻酔もなしにオペされて、しかも腫瘍を取り残したような病院など誰がもう二度と行くものか。勝手に病院を(民主党に)替えたからいけないなどと言い訳されても、小泉病院の医療ミスは歴然としている。

 思えば小泉改革における「
痛みに耐えろ」のスローガンは、戦時中の「欲しがりません勝つまでは」にも匹敵する暴挙だったのではないか。国民や下級者への給付をケチり、物を与えずに我慢させておいて、働かせるだけはしっかり働かせる、まったく狡猾な上級者のやり口だ。
 しかも日本人はこういう“お上”のやり方に対して正面から異議を唱えることもせず、ズルズル言いなりになっていく“美徳”を持っているから、組織全体としては何となく皆が頑張っているように見えるが、やはりはけ口のない不満が高まって、力の限界に達した時に一気に復元力を失って壊滅状態になってしまう。

 「
欲しがりません勝つまでは」と軍部に騙され続けた国民は、敗戦後何十年経っても軍隊というものに対する不信感を拭いきれず、今もまともな国防論議もできない国家のままだし、「痛みに耐えろ」と小泉に踊らされた国民の間には、これだけ民主党への失望が高まる中でも自民党待望論が出て来ない。

 下級者に然るべき報酬や手当てを与えずに働かせたり戦わせることの危険を認識することは、上に立つ者の器量ではないのか。私は日本人ならば『太閤記』くらいは当然の教養として持ち合わせているものとばかり思っていたが、実はそうでもないことに最近気付いた。事の次第はこういうことである。
 木下藤吉郎が清洲城の石垣を3日間で修理したとされる割普請の話だが、何気なくネットを検索していたところ、決して1つや2つではないサイトで次のように書かれているのが気になった。
清洲城の石垣が壊れたので信長が修理を命じたが遅々として進捗しない、そこで藤吉郎が普請奉行をかって出て、「このまま敵に攻められれば国が危ない」と必死に訴えたので、職人たちも意気に感じて仕事を急いで仕上げた、要は上に立つ者の熱意が人を動かすのだ、
ということだが、ちょっと待てよ、これって昔読んだ『太閤記』と違うじゃないかと思ったのである。

 私の記憶によれば、藤吉郎は職人を幾つかの組に分けて石垣の分担を割り当て、早く修理が終わった組には莫大な褒美を出して互いに競わせたというのが割普請だが、藤吉郎はその仕事を命じる前に職人たちを集めて酒食の宴会を催し、さらに丸1日そっくり休暇まで与えたのである。これだけの心遣いをしたからこそ職人たちも藤吉郎に心服して作業に取り組んだのであって、決して大義名分だけを振りかざして作業を督励したわけではないのだ。

 不況になり、負け戦になってくると、どうしても上級者は国民や部下に対する給付を惜しんで、一時の経費節減で急場をしのごうとするが、それが将来国家や組織にどれだけの危険をもたらすか、人の上に立つ者だったら少しは考えてみたらよいと思う。



歴史資料の閲覧権

 海人社と言えば船のマニアなら「ああ、『世界の艦船』という雑誌を発刊している会社ね」とすぐに分かるが、2011年1月にその会社から『世界の艦船増刊号』として『日本航空母艦史』という写真集が発行された。
 日本海軍の艦艇はすでに私が生まれた時には現存せず、沈没したり解体された後に新たな写真が撮影されることは絶対にないから(ダイバーによる沈没船撮影は別)、私など子供の頃から軍艦の写真集を飽きずに眺めていた人間にとっては、どれも見覚えのある写真ばかりだろうと思っていたら、そうでもないのでびっくりした。あの空母のこんなきれいな写真が残っていたのかというのが何枚もある。そう言えば『世界の艦船』50周年記念の増刊号『日本戦艦史』にも未発表写真が多数収録されているそうで、広告のページに掲載されている見本写真(高速航行中の戦艦陸奥が右舷に向けて主砲を発射している写真)は私は初めて見た。

 こういう写真を眺めながらふと思ったのは、これら旧海軍艦艇の写真が進駐軍の占領が終わってからも数十年以上にわたって陽の目を見なかったのは何故なのかという疑問である。戦後日本の経済を支えた造船業の基盤となった貴重な歴史資料であり、また私のような軍艦マニアはともかく、戦死された海軍将兵の御遺族の中には、自分の大切な肉親がどんな艦で亡くなったのか、せめて写真だけでも見たかった方もおられたに違いない。
 誰かが持っていた写真である。写真の持ち主には、あるいはそういう意図はなかったかも知れないが、結果的に貴重な技術史や軍艦研究の資料、肉親の形見ともなる艦の面影を個人的に秘蔵することになってしまったことは間違いない。

 実は海軍艦艇写真の資料公開に関する論争は私が大学を卒業する前後からあり、その槍玉に挙げられていた1人が福井静夫氏である。福井氏は私の高校の大先輩でもあり、そんな同窓であることを知る前にも一度お目にかかったことがある。
 温厚な方であったが、東京帝国大学工学部出身で終戦時には海軍技術少佐、敗戦で散逸する恐れの大きかった海軍艦艇の写真や資料の確保に奔走し、お陰でかなりの資料が焼却処分や接収を免れたと言われている。昭和50年代頃まではいろいろな雑誌に掲載される軍艦の写真には『福井静夫氏所蔵』という但し書きが多かったように思う。

 ところが福井氏は、おそらく大変な苦労をして守ったに違いない旧海軍艦艇の写真の公開を渋る傾向があった。例えば、当初大和型戦艦の3番艦として計画された空母信濃の写真は1枚も現存しないと言われていたが、福井氏は昭和45年に著した『写真集 日本の軍艦』にも掲載していない。東京湾で公試運転中の見事な側面写真を持っておられたにもかかわらず…である。
 一説によると、福井氏は資料として整理せずに公開してしまうことは学術的に意味がないとお考えだったようである。そんな几帳面な方であるから『写真集 日本の軍艦』執筆時に貴重な空母信濃の写真がどこか机の引き出しに迷子になっていたなどということは考えられず、やはり福井氏には、この写真が一般の艦艇研究者の参考になるだろうとか、信濃で亡くなった将兵の御遺族の慰めになるだろう、などといったいわゆる世俗的な人間味には乏しかったのだろう。

 そんな福井氏に反感を露わにする人もいた。昭和54年8月号の『世界の艦船』に軽巡洋艦大淀の写真を公開した田村俊夫氏もその1人である。大淀も艦上構造物が鮮明に写っている側面写真は現存しないと言われていた軍艦だったが、アメリカの記録保存機関であるNational Archivesに保管されていた軽巡洋艦大淀の見事な側面写真を発見、それを惜しげもなく一般読者にも公開し、「これを非公開のまま個人で所有して、それを元にしてしたり顔で記事を書くよりも、広く一般に公開して多くの人々の調査研究に役立てたい」などと暗に福井氏を批判するコメントを載せている。
 私はこの時の大淀の写真も、ずいぶん遅れて福井氏が公開した信濃の写真も、すぐに書店で入手して感動した“一般人”の1人であった。

 さて艦船写真に限らないが、こういう歴史資料は誰のものなのか?それを使っても良いかどうか決めることのできる人はいるのだろうか?私はかなり難しいものがあると思う。
 音楽や文章などの使用に関しては、もちろん著作者の権利が保証されているし、私たち医療関係者が扱っている医学的な資料も個人情報や人間の尊厳が関わってくるので絶対に非公開である。日本各都市を巡回してけっこう客を集めているらしい『人体の不思議展』であるが、あれも樹脂で固めた実際の御遺体を興味本位の観客に“公開”しているという点で、私は人間の尊厳を踏みにじった企画だと思っている。(この話はまた別のコーナーにいずれ書きます)

 では歴史の資料、例えば軍艦の写真の一般公開はどうなのか。私も一昨年(2009年)の秋に海上自衛隊の観艦式に招待されて何百枚も写真を撮ってきた。あれは一応私の“著作物”に相当するが、他に何千人もの人々が招待されて同じような写真を何万枚も撮影しているだろうから歴史的価値はほとんどない。
 しかしもし海上自衛隊が消滅してしまって、他の人たちが撮った写真も全部ダメになってしまって、私が撮った護衛艦の写真しか現存しなくなったとしたら(本当にもしかして…という話)、それでも私が個人の著作権を楯にして公開を渋ることは許されるだろうか?もちろん法律的には可能であるに決まっているが、他の艦艇研究者の調査を遅らせるという意味において、同じ艦船ファンとして道義的に許されないのではなかろうか?

 まして日本海軍の艦艇の写真は、戦時中から終戦直後にかけて然るべき立場にいることのできた限られた人々とか、あるいは日米の然るべき機関とコンタクトを取りうる立場にいる人々が、その立場を利用して収集できたものがほとんどである。
 すでに滅んで歴史的遺産となってしまった物に対して、何らかの考察を加えて研究した内容自体は研究者個人の著作であるから誰も盗用することはできない。しかしたまたま発見した歴史の断片である物体(写真や故人の手記・手紙の類も含む)は誰のものでもない。同じ対象に興味や関心を有する研究者たちが広く利用できるものでなければならないのではないか。考古学の化石だって、掘り当てた人が密かに私蔵して楽しんでいるだけでは何の意味も持たないし、惑星探査機「はやぶさ」が持ち帰った小惑星のサンプルは日本の科学者だけが独占してよいのだろうか?

 特に歴史を研究する人たちの中には、自分が探り当てた歴史的資料を秘蔵するだけで満足する傾向の強い人もいらっしゃるように思う。資料というものは誰かが真理に近づくための研究に役立ててこそ生きてくるのである。潮岬沖に沈んだ空母信濃にもし心あれば、また信濃と共に海に沈んだ将兵たちがもし戦後日本の艦艇写真公開の実情を知ったとしたら、自分たちの形見の写真をせめて遺族たちに見せてやって欲しかったと思っているに違いない。



八百長こそ我が国技

 大相撲力士の野球賭博に関連して携帯電話のメール履歴を警視庁が調べていたら、何人もの力士が八百長相撲に関わっていたことを示す明らかな証拠までが続々と出てきて、当面は大相撲の本場所は無期限中止という深刻な事態に追い込まれた。大相撲協会などの関係者や大相撲ファンの失望は察するにあまりある。
 たぶん多くの心ある人々の思いは、神聖な国技の精神が汚され、権威も失墜したという一語に集約されると思われるが、私の場合、横綱朝青龍問題のところでも触れたように、国技の精神ていったい何なんだろうといういつもの論点に戻ってしまう。

 大相撲やプロ野球などの八百長は賭博やギャンブルと結び付いて暴力団の資金源などになってしまうので、厳しく取り締まらなければいけないことは事実だが、そういう社会問題にさえならなければ、何で大相撲の八百長が悪いことなのか判らないと言ったら皆さんは怒るだろうか?

 大相撲ファンは本場所が始まると、手を握りしめて贔屓の力士の取り組みに声援を送り、その力士が勝てば大喜びし、負ければ自分のことのように悔しがる、そうやって一生懸命に応援していた取り組みが、実はあらかじめ打ち合わせされていたインチキ勝負だったと判明したから、俺のあの熱狂は何だったんだと腹に据えかねているだけだろう。
 そう言えば、怪我や病気を克服して優勝した力士の表彰式に「感動した!」などとお調子こいた単細胞な総理大臣もいらしたような気もするが、あの感動も実は八百長あったからこそ…ではないのか?しかし感動を与えて貰ったんだから、素直に楽しんでいればよろしい。対戦相手の力士たちが事前に打ち合わせしてワザと負けてあげていたんじゃないか、なんて余計な詮索しなくたって良いじゃないか。

 そもそもテレビや映画のドラマだって大相撲の八百長みたいなもんだ。脚本家がある事ない事スジ書きを書いて、俳優たちが事前に練習を積んで、それを観た人たちは「実際にはあんな事あるわけないよな」なんて判っていても、あまりの芝居の上手さに騙されて感動しているわけだから、大相撲の取り組みもそうだと思って見ていれば全然腹も立たない。

 大相撲の地方巡業の余興で、横綱や大関が幼稚園児を相手にワザと転んで負けてあげる、これは八百長か?このくらいの事はアメリカの大リーガーだってファン感謝デーのサービスでやることだし、プロの力士が幼稚園児を土俵下に投げつけたら却って非難ゴウゴウだろう。

 本因坊クラスの実力のある八百屋の長兵衛さんが自分の店で野菜を買って貰いたいから、近所の相撲部屋の親方にワザと囲碁の試合で負けてあげた、これが“八百長”という言葉の由来だそうだから、これこそ正真正銘の八百長なのだが、これは本当に八百長か?ワザと負けて貰った相撲部屋の親方が「俺をコケにした」と怒ったかどうかは定かでないが、親しい者同士の馴れ合いだと思えば別に問題はなかろう。

 では次、これは史実ではないらしいが、江戸時代の名横綱谷風は力量・人格とも抜群だったそうで、病気の母親を抱えて生活も困窮していた下位力士にワザと負けて懸賞金を回してやったという逸話がある。これこそ事実だとしたら八百長である。
 しかしこういう作り話が谷風の人格を称える人情噺として最近まで高座に残っていたという事実、それは江戸時代以来ずっと圧倒的多数の民衆たちが横綱谷風の架空の八百長を支持してきたということではないのか?

 我が国の社会では、良いにつけ悪いにつけ、人助けになるならちょっとくらいの八百長には目をつぶろう、いや、むしろ少しくらいなら八百長をやってあげるべきだという精神的土壌があり、大相撲の八百長などはその表れではないか。
 大相撲をフェアプレイのスポーツだと思えば、八百長は絶対許されないルール違反であるが、古来もともと相撲とは日頃の精進を神前に奉納する神事であった。だから神様が喜んで豊作をもたらしてくれるものならば、肉体を鍛え上げた力士が神様の使い役の少年相手にワザと転んで負けてあげたりもしただろう。
 また現代の大相撲でも、自分は相撲など取ったこともないような貧相な爺さんや婆さんが横綱審議委員会とか何とか偉そうな顔でしゃしゃり出て来て、天下の横綱の素行や態度を傲然と品評する、そんな理不尽な建前社会に一言の抗弁さえ許されない力士たちが、お互いの番付や地位を守るために勝ち星を融通して譲り合う、それを美徳とまでは言わないが、当然の結果ではないのか。

 相撲の社会を離れて日本全体を見回してみれば良い。本来ならば一生懸命に努力して、ガチンコで相手と真剣に争わねばならない局面でも、「まあまあ、ここは一つお互い様で譲り合って」という気風が充ち満ちているではないか。
 公共事業の落札でも「今回はお宅に譲るから次回はよろしくね」という談合、政界でも「大臣のポストを用意するからちょっとこの政策をよろしくね」という意味不明な政策共闘、誰かが明らかな証言をしたわけでなくても、庶民から見れば政財界の八百長としか見えないことはいくらでもある。学者にしたって研究費の配分も各大学のボスどもがお互いの子分どもに融通しあうから、力の強いボスの研究室にいた方が有利だという噂は常にあった。
 太平洋戦争ではアメリカがお互い様で一つくらいワザと負けてくれたら、旧軍人どものメンツも少しは立ったのに、そうは問屋が卸さなかった。



3度目の奇跡

 2011年3月11日の東日本大震災の被害は日々拡大している。地震の強さも当初マグニチュード8.8と発表されていたのが9.0に訂正され、津波や火災による死者・行方不明者は1万人を越えた。痛ましいことである。

 おまけにこの地震と津波の影響で、恐れていた原子力発電所の放射能漏れ事故までが起こってしまった。これまで政治家や電力関係者は、日本の原発は絶対大丈夫だと言い張ってきたが、結局は根拠のない希望的観測に過ぎなかったのか。政府も電力会社も原発による電力供給のメリットとデメリットについてさんざんシミュレーションを積んできたはずであるが、想定される最悪の場合から目を背け、自分に都合の良いデータだけ提出して、シャンシャンと手打ちでシミュレーションを終わらせてきた結果が今回の非常事態であろう。
 太平洋戦争中、日本海軍が図上演習(作戦のシミュレーション)で味方空母に損害が出るという想定が下ったにもかかわらず、そんな事は起こらないようにするという身勝手な論理で、自分に都合の良いように手打ちをした結果、ミッドウェイ海戦で図上演習をはるかに上回る大損害を受けてしまった、そんな事例が思い浮かぶような今回の出来事だった。

 また21世紀の日本人も、軍部の宣伝に乗って日本は神国だと浮かれまくっていた戦前の国民とちっとも変わっていないように思う。誰もが原発は本当は危ないんじゃないかと心の中で思いながらも、豊かな電力供給に浮かれて、『24時間テレビ』に代表されるような商業主義に毒された番組を作り続けて何の反省もなかったマスコミや、これだけ有り余る電力がどのようにして作られているのか、我々の生活は本当にこれで良いのかなど考えようともせず、エネルギーを浪費する生活を見直そうとしなかった我々国民にも責任の一端はある。

 しかし震源地から少し離れた東京で生活してみると、この国民が過去2度までも世界史の奇跡と呼ばれる驚異的な発展や復興を遂げた資質の片鱗を窺うことができる。その奇跡とはもちろん明治維新と戦後の高度経済成長である。日本が歴史の激流に翻弄された明治初期と昭和20年から30年代、日本国民は自分の生活よりも先ず国家や社会を優先させる気風があったのだろう、今までは単に想像でそう思っていたわけであるが、国民の質が下がってきたと嘆かれることも多かった現在でも、いざとなればその気風が発揮されているのが頼もしい。
 今回、巨大地震と津波そして原発事故と日本が未曾有の危機に瀕し、食糧品や日常品は被災地に優先的に配分されるため都内は慢性的な品薄状態、おまけに電力不足に対応した計画停電が実施され、特に交通機関が減少したため朝夕の通勤ラッシュは毎日地獄のようだが、その憤懣をストレートに口にする東京都民はほとんどいない。

 これが国家のために有効だということを自ら納得しさえすれば、日本国民は黙々と耐える素質を持っている。この素質が明治維新と戦後復興の時にも大きな原動力になったことは間違いないが、そのためには指導者が正しい道を指し示す能力を持っていなければいけない。結局は過去2度の奇跡とも、後に続く指導者たちに的確な能力が無かったために破局につながることになってしまったわけだが…。

 明治維新は、一つ間違えば西欧列強の植民地になるという危機的状況の中で、我が国は工業化に成功して独立を守った。戦後復興は文字通り廃墟の灰燼の中から立ち直って経済大国になったが、では3度目の奇跡はどうやって起こすのか。
 明治維新にも戦後復興にもある共通点がある。国家の努力目標が、自ら選択したとは言えないものも含め、次の時代の価値観を正しく先取りしていたことである。

 日本が開国した頃、世界では先進欧米列強による植民地政策が極大に達しようとしていた。そして明治日本も工業を興し、軍備を蓄えてその潮流に従って進んだ。こう書くと中国や朝鮮の人たちは怒るだろうが、当時の彼らの国家指導者はこの潮流を読み切れなかったのである。
 そして日本が戦争に負けた頃、世界は一部の帝国主義国家による植民地独占を許さない状況になっており、発展途上国も工業化を求めて次々と独立運動が始まっていた。おかげで日本は敗戦国として植民地支配されることもなかったばかりか、戦前に持っていた植民地をすべて放棄させられたために途上国の独立運動に対応する必要もなく、却って自国の工業技術と経済の育成に専念することができた。

 いずれも激動する世界史の潮流にうまく乗って変貌していった、それが過去2回にわたる日本の奇跡の本質なのではないか。
 今回も巨大地震、大津波、原発事故による未曾有の危機的状況からどのように立ち直るべきなのか。また今までと同じ日本を再建しても意味はない。新しい世界史の潮流がどういう方向に流れているのか、その潮目を読み切って20年後30年後、あるいは1世紀後にどういう国家を作っているべきかを考えていなければいけない。

 戦後日本の成功は、諸民族が独立して自治国家を作り、世界的規模での工業化の中で、互いに切磋琢磨して競争しあっていくという潮流に最も適応できるシステムに変貌していたことが有利に作用した結果であろう。植民地をすべて放棄させられたために、イギリスやフランスのように諸民族の独立運動などに煩わされることもなく、帝国主義時代に獲得した工業化のノウハウを十分活用することができた。反対に東欧諸国を植民地的に支配しようとしたソ連や、チベットなどで新たな帝国主義者たらんとした中国などは躓いている。国家指導者の資質の問題である。

 私が世界史の潮流としてかなり妥当なモデルと思っているA・トフラーについては別項に書いた。人類は産業革命で農耕社会から工業化社会へ移行し、さらに現在は情報化社会への変革中であるという例の議論である。
 今回の大惨事から立ち直った日本は、今度はどんな地震や津波にも破壊されない原子炉を作って有り余る電力を供給し、大量の原料や原油を輸入して工業生産に投入し、大量の工業製品を海外に売りまくる貿易国家を再び目指そうなどと思ってはいけない。
 次の時代は、
国内資源を最大限に有効に使って自国民を飢えさせないシステムをすべての国々が模索することになるだろう。地球環境を考えれば、世界中の国家が平等に工業化することは不可能であることが判ってきたから、とりあえずどの国も自給自足を国是としなければならなくなる。国内資源状況と諸国間の余剰資源状況を情報網で結合させ、それらを有効に活用して自国民を飢えさせない、それが今後世界の各国指導者の最大の任務になるのではないか。

 日本の産業は今回かなりダメージを受けたと言われるが、この災いの中から次の時代を先取りした3度目の奇跡を成し遂げなければいけない。日本がこれまで培ってきた工業化時代のノウハウは、情報化時代をリードする技術の開発に応用できるはずである。



想定外の…

 相変わらず余震の続いている東日本だが、地震と津波に引き続いた福島第一原発からの放射能洩れについて、原子力発電を推進した政府や電力会社の責任を問う声が日増しに高まっている。
 東電(東京電力株式会社)社員と称する者のブログが炎上して閉鎖したという“小事件”もあったが、さすがにこの時期にあのブログはないだろう。
我々が電気を作ってやるから贅沢な暮らしができる、我々社員も必死にやっているんだ、被災地や放射能汚染地域の人たちに比べたら他の地域はまだ幸せなんだから文句言うな
と言わんばかりの論調を、もちろんもっと丁寧な文面だが(慇懃無礼でもある)、当事者と名乗る人間がブログに書いたら、そりゃ炎上するに決まっている。
 もしあれが本当に東電社員の書いた文章なら、その当人は本当にバカだが、もしかしたら東電の評判を下げようと画策する人間の“なりすまし”の可能性もあったと私は思っている。

 まあ、とにかく地震と津波の自然災害だけであれば、勤勉な日本人のことだから10年か20年で復興することもできたであろうが、事故を起こした原子炉というお荷物を抱え込んでしまった日本列島は、経済的にも自然環境的にも50年以上にわたって重い足枷をはめられてしまったも同然であろう。
 まさに太平洋戦争敗戦にも匹敵する重荷だが、その“人災”の面に対する責任者たちの言い逃れのパターンもまた、60余年の時を隔ててそれほど変わっていないのはどうしたわけか?

 想定外の事態…!
アメリカの国力はよく判っていたが、まさかあんなに早く反攻に転じるとは思わなかった…、
まさかあれほど凄まじい工業力だったとは…、
アメリカの兵隊は日本軍が突撃すれば逃げると思っていたのに…、
 
アメリカは 想定外に強かった(1945年)
本来ならば戦う前に想定しておかなければいけない事態を、上層部は想定しようとしなかった、いったい誰の責任か?

 そして、
 
原子炉に 想定外の大津波(2011年)
“想定外”などという言葉で簡単には済まされないことではないのか?国家の命運がかかったプロジェクトを企画する場合、そしてもし失敗すれば重大な結果を招くことが確実な場合、考えうるあらゆる事態を想定することがプロフェッショナルの仕事なのではないのか?

 こういう事態は想定しなくても良いと思ったので、対応しませんでした、そんな言い訳が通用するのか、この国は…?
 10メートルの津波は物理学的、地政学的に理論的には絶対に起こり得ないと科学的に証明されていたなら仕方がない。しかし理論上も経験上も今回の津波は起こりうると予見できたのだから、“想定外”という言葉は故意に想定しなかったという意味でしかない。別にゴジラが出現して原子炉を破壊したわけではないのだから…。つまり然るべき責任を持つべき人間の怠慢を示しているのではないか。

 事前に考えようとしなかったことが免責の理由になる国、事前に物を考えればその対策に金もかかるし面倒臭いから、難しいことは考えなくても良いことにしよう、どうせなるようになるさ。
 それが我が国の指導的立場に立つ人々の精神構造だとしたら、地震の活断層と同じくらい恐ろしいものだ。



泳いで川を渡る覚悟

 2011年5月6日、菅直人首相は中部電力に対して浜岡原子力発電所の停止を要請し、中部電力側もこれに対応して検討を始めたらしい。皆さんはこの報道に対してどういう御感想をお持ちだろうか?原発のある静岡県御前崎は、私も浜松の小児科勤務医時代に何回も訪れたことのある地だけに、感無量ではある。

 先日の東日本大震災では福島第一原子力発電所が事故を起こして世界中を震撼させたばかりであり、世界的にも原発反対の市民運動が盛り上がっている。もし東海大地震が発生して再び原子炉が爆発でもすることになれば、首都圏は南北から放射能に包囲されて、日本経済は瀕死の重傷、我が国の科学技術や行政に対する国際的な信用もガタ落ちとなろう。

 たぶん今回の浜岡原発停止要請に関しては、感情的に支持する国民の方が数で上回るのではなかろうか。“
感情的に”とわざわざ挑発的に書いたのには理由がある。

 だがその前に、実は私も我が国が安全な国であるためには脱原発が不可欠であると思っている。いくら原子炉の防災対策が机上の計画では完璧なものであろうとも、最悪の事態を想定するイマジネーション能力に欠けた人間が管理している以上、今回の福島第一原発のようなことが実際に起こり得ることが不幸にも証明されたわけだし、また私が以前書いた記事の中でも少し触れたとおり、日本のさまざまな組織が不景気の中で新人採用を怠った時期があるために、システム自体が劣化をきたしている、そんな中で第二第三の原発事故が発生するのは時間の問題と言ってよい。今回だって、実務に長けた中堅職員を余裕をもって配置していれば、誰かがすぐに原子炉冷却用の電源確保を思いついて、事故を未然に防ぎ得た可能性が高いのではないか。

 安定に狎れたシステムにおける日本人の弱点がここまで露呈してしまったことを考えれば、原子力発電からの脱却はある意味で仕方なかろう。日本人は太平洋戦争で自分たちのシステムが戦争には不向きであったことを学んだように、今回の原発事故では原子力は日本人のシステムでは半永久的に制御できるものではなかったことを未来に向けて学ぶのかも知れない。

 さてそこで本論、今回“
感情的に”原発の停止は当然だとお感じになった国民の皆さんは(もちろん私も含むが)、原子力発電の無い時代を生きる覚悟を決めなければいけない。
 昔々、自らは民主主義の権化みたいな顔をして、「
1人でも反対があれば橋はかけない」という言葉をむやみに濫用して道路建設を差し止めた東京都知事がいたが、この言葉の後半部を(たぶん故意に)省略したために、民主主義における決定の厳しさを国民が理解する機会が失われてしまった。
1人でも反対があれば橋はかけない
の後半は、
その代わり皆で泳いで川を渡ろう
と続くのである。

 橋をかけられちゃ困る、という少数意見があれば、それを大事にしろということだが、その代わり橋の恩恵を受けられない不便さは全員で堪え忍ばなければいけない。
 まして今回は1人や2人の原発反対ではない、国民のかなり多くの部分がもう原発はたくさんという感想を持ったと思われるが、しかし原発の無い時代を生きる覚悟まで定めた日本人はどれくらいいるのか。
 何しろ国家に殉じた特攻隊員に感動したと言いながら、平成の経済的国難に際して、乏しい国庫から支給される給付金はチャッカリ頂戴するような国民だから、原発反対と口先では言いながら、自分の所にだけは電気も潤沢に回してくれるはずと、ムシの良いことを心のどこかで思っているのではないか?

 原子力発電に依存しない生活がどんなものだったか、若い人たちは知らないだろうし、私たちの世代も、オール電化生活などという電力会社の甘いセールスに乗って、無尽蔵に電気を消費する生活に慣れきって忘れてしまった人の方が多いだろう。

 日本で最初の原子力発電が茨城県東海村で開始されたのが1963年、増大する電力需要を賄う“夢のエネルギー”と持て囃されたが、広島・長崎の原爆を忘れられない国民の間には潜在的な不安は拭いきれなかった。当時は日本の発電所の主力は水力と言われており、関西方面の電力不足を補うために黒部渓谷に黒部ダム(黒四ダム)が完成したのも1963年、大部分の国民は我が国は水力発電の国と思っていたのである。

 しかし急流の多い日本の河川はそれほど水力発電に向いているわけではない。ダムを造っても、すぐに上流から流れてきた土砂が堆積してしまうからだ。そうかと言って火力発電所は公害が多く、しかも最近では二酸化炭素排出による地球温暖化の問題があるし、資源に乏しい我が国では石油や石炭や天然ガスなどの安定供給がネックになってしまう。それで知らず知らずのうちに原子力発電に依存する割合が増えていって、最近では地域差はあるが日本の電力の約23%が原子力発電によるものである。

 では日本国民は電力を20%以上カットした生活に耐えられるのか。単に電力カットと言ったって、全国一律に20%カットするわけではない。公共機関や交通機関が使用する電気の制限には当然限度があるし、大企業の工場などの電気を制限すれは操業短縮などでさらに景気は悪くなる。何事につけ、“国民を守るために大企業に犠牲を払わせろ”などとお気楽なことを臆面もなく主張する時代錯誤の既成政党もあるが、大企業にツケを回せば、それは回り回って従業員や消費者などの国民にのしかかってくることくらい、ズブの素人でも分かりそうなものだ。

 さて国民は20%以上、地域や場合によっては40%に近い電力を削減した日常生活に耐えられるのか。またそれに耐える覚悟を決められるのか。
 特に夏場、安全な最低限の電力で暮らすとはどういうことなのか。まだ日本が水力発電の国と言われていた1950年代から1960年代、すなわち私たちの世代がまだ子供だった頃、エアコンは無いから団扇かせいぜい扇風機、学校の生徒などは学習用具のセルロイドの下敷きを団扇代わりにして汗を乾かしていたものだ。咽頭が乾いても駅や道端に冷たい飲み物の自動販売機は無し、コンビニも無し。
 家庭での娯楽もパソコン無し、DVDプレイヤー無し。クリスマスになっても家庭や職場の小さなミニツリーに豆電球を10個くらい点灯させて、就寝するまでの短時間だけ楽しむのが関の山。

 これまで潤沢に供給されてきた電気のお陰で、どれくらい我々の日常生活が贅沢になっていたか考えてみればよい。そしてそのうち最低限どれくらいのものまでを残すべきなのか。
 照明、冷蔵庫と冷凍庫、テレビやパソコン、病人や老人のいる家庭ではエアコン…、これだけでも1950年代に比べれば御殿のような生活だが、国民がどれだけの贅沢と便利さを捨てられるか、それを真剣に考えて実行することが、原発反対を主張した国民にとっての「
泳いで川を渡る覚悟」である。
 また新たな電源確保のために、潮力発電や風力発電も国家レベルで見直されるだろうが、それと同時に、個人住宅や事務所の新築や改築に際して太陽発電設置の義務づけも必要であろう。その負担にも応じなければいけない。



嘘と欺瞞に続くもの

 どうやら東京電力福島第一原子力発電所の原子炉は、地震の数日後には炉心溶融の状態になっていたらしい。事故後1ヶ月以上も経ってから新聞などで一般国民に報道されたが、関係者や原子力専門家もそれまでは何も判らなかったということなのか?
 そうではあるまい。世界一安全を謳い文句にしていた日本の原子力専門家が何人も雁首を揃えて協議、検討していながら、炉心溶融の可能性すら念頭に浮かばなかったと強弁するようなら、専門家と名乗るもおこがましい愚か者の集団と言われても仕方がない。

 炉心溶融の可能性がほぼ確実となっても、まだ何とかなるんじゃないか、国民に報道する前に何とか形だけでも取り繕えるんじゃないかと思っているうちに、時間ばかり経過して事態はますます深刻になっていった、そんなところが現実だろう。

 1942年6月5日、ミッドウェイ海戦で主力航空母艦4隻を一挙に失った日本海軍は、大損害の全貌を公表せず、そうかと言って無傷で勝った勝ったと嘘をついてお祭り騒ぎするわけにもいかず、国民には空母1隻に被害があったとのみ報道している。
 昔、戦時中の新聞の復刻版を見たことがあるが、戦争は相手があることだから今回初めて空母に損害が出たのも仕方がないと、駐在ドイツ武官から慰められたというような記事もでっち上げられており、その巧妙な事実隠蔽の狡猾な欺瞞報道には舌を巻くばかりだ。

 日本海軍は索敵の失敗、東京電力は原子炉冷却の失敗、いずれも専門家としての資質を疑わせるような基本的な手抜きであり、慢心した驕れる巨大組織の弱点を突かれた格好である。なぜ海軍や東電のような巨大組織では、こういう専門家としてあるまじき過失が許されるのだろうか。

 政府の息が掛かった巨大組織の失敗は誰が償うのか、あの歴史から類推してみるのも忌まわしい。ミッドウェイ海戦後、次第に傾いていく戦局の中で犠牲を払わされたのは何も知らされなかった一般国民、若者たちは徴兵されて戦地へ動員され、銃後の国民たちもまた激しい空襲にさらされたのだ。

 そして専門家としての義務を怠った海軍軍人たちには何のお咎めも無かった。あの対米戦争は資源に乏しい我が国が発展するためにやむを得ぬ手段であり、陸軍はじめ一般国民たちも真珠湾攻撃を支持したではないか、とまで強弁する始末。
 対米戦争は始めから無理だという判断を堅持して周囲を説得するのが専門家の第1の義務、そしていったん始めてしまったら抜かりなく遂行するのが専門家の第2の義務、海軍はこの2つの義務を怠った。

 対米戦争という言葉を原子力発電に置き換えれば、東電もまた専門家としての義務を怠って国民を奈落に突き落としたと言える。すでに“想定外の津波”という表現で第2の義務を怠った言い訳をなし、第1の義務についても、ほとんど電力供給の独占企業として収益を上げてきたことは棚に上げて、原発を作ったのは国民や企業が電気を欲しがったからだと言わんばかりだ。誰も責任を取らぬまま、我が国は数十年ぶりの破局を迎えるのだろうか。




ドタバタ三文芝居は悲劇の序曲

 東日本大震災に引き続く原子力発電所事故という未曾有の国難の最中、2011年6月1日に自民党・公明党など野党から提出された菅内閣不信任案に小沢・鳩山など一部民主党も同調する構えを見せたものの、首相が一応の退陣表明をして不信任案は何とか否決されたという政界のドタバタ劇を、ほとんどの国民は諦めの境地で醒めた目で眺めていたに違いない。特に被災地で救援物資や仮設住宅さえも十分でなく、いつになったら本格的な復興に取りかかれるのかと待ち望んでいる方々にとっては、怒る気力さえも消え失せたというのが本当のところであろう。

 本当に信じられない“政治屋ども”(金や名声を求めて商売をしているだけだから政治家ではない)である。私でさえ、もうこの国はゴルゴ13の手助けを求めなければ良くならないのではないかという不謹慎な考えが一瞬頭をよぎってハッとした。これって5・15事件から2・26事件を引き起こした青年将校の短絡的な考えとまったく同じではないか。

 1923年の関東大震災、1929年の世界大恐慌に続く先の見えない不況と農村の疲弊など、状況は当時と非常によく似てきている。さらに統帥権干犯問題で詭弁を弄して与党の立憲民政党の浜口内閣を攻撃し、その後第二次若槻内閣の政権投げ出しにより憲政の常道に従って政権を禅譲された犬養毅首相が、親中国的な対外政策もあって軍部の怒りを買い、1932年の5・15事件で暗殺された。
 おそらくあんな大臣殺されたって当然というような暗黙の世論もあったのだろう、助命嘆願なども出されたらしく、5・15事件の首謀者に対する刑は思ったよりも軽く、そのことが1936年の2・26事件へも繋がっていったと言われており、この前後10数年間の激動こそが我が国の空前の悲劇を招く直接の原因となったことは明らかである。

 武器を有する国家機関が中央の統制に服さないことに対して世論も寛容になってきている傾向は尖閣ビデオ流出事件を見れば判るだろう。太平洋戦争は我が国にとって空前の悲劇であったが、絶後の事件ではないのではなかろうか。そんな時代を生きていく若い世代の人たちが気の毒で仕方がない。

 少しは政治屋どもも国民の将来を憂えて貰いたいが、今回の政界ドタバタ劇で何としても腑に落ちないのは自民党の態度である。大震災に引き続いた原発事故の奇禍をこれ幸いとばかりに与党攻撃の絶好の口実となし、挙国一致の非常時の協力体制を阻むことばかりやっている。そもそも我が国が原子力発電所を拡充していったのは自民党政権時代ではなかったのか。
 原子炉に対する最悪の危険を想定すべき企業の責任をうやむやにしてやることで、甘い利権をしゃぶり尽くしたに違いない元自民党の代議士どもは、今頃いったい何をやっているのか?現政権がオタオタしているのをテレビで眺めてほくそ笑んでいるのではないか?
 こういう輩どもが政党政治を危機に晒し、次の極右・軍国の時代を招く元凶である。


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