戦艦大和ア・ラ・カルト



目次

2005.6.5 大和vsビスマルク
2005.6.8 被害担当艦
2005.6.10 重巡洋艦最上
2005.6.11 アメリカ映画に登場した日本軍艦
2005.7.28 戦国の大艦巨砲主義
2005.9.25 面舵一杯の話
2005.12.30 戦艦大和と野麦峠
2006.1.9 新生日本にさきがけて散る
2006.1.15 機械室、罐室注水
2006.1.18 生と死の狭間
2006.4.16 悲痛の極み、陸奥爆沈
2006.7.7 戦艦大和の死に装束
2006.8.19 一兵士の責任
2006.9.5 宇宙戦艦ヤマトの疑問
2007.7.2 護衛艦「やまと」
2007.8.13 護衛艦「やまと」:真夏の夜の夢
2010.3.28 護衛艦「むつ」はできるか
2013.7.7 戦艦武蔵の故郷
2015.3.21 海底に眠る戦艦武蔵
2015.5.12 戦艦武蔵巨砲発射
2016.9.29 駆逐艦冬月艦長のこと
2017.4.7 大和を見捨てた司令長官


(1)大和vsビスマルク

 日本海軍の戦艦大和と、その姉妹艦武蔵は、文字通り世界最大の戦艦であり、史上最大の口径を持つ46サンチ主砲9門を搭載していたが、では世界最強の戦艦でもあっただろうか。

 ドイツ人は今でも世界最強の戦艦は、自国のビスマルク(Bismarck)と姉妹艦ティルピッツ(Tirpitz)であると信じているらしい。戦艦ビスマルクは1941年5月21日に北大西洋の通商破壊戦に出撃、24日には英国戦艦フッド(Hood)とプリンス・オブ・ウエルズ(Prince of Wales)と交戦してフッドを轟沈させ、プリンス・オブ・ウエルズも撃破したが、26日、英国の空母艦載機の雷撃で舵を破壊されて行動の自由を失い、翌27日、イギリス戦艦と重巡洋艦部隊に包囲され、メッタ撃ちにされて沈没した。

 ところがドイツ人はビスマルクは英国戦艦部隊の砲撃で沈んだのではなく、戦闘能力を喪失してもまだ沈まなかったので、やむを得ず乗組員の手で自沈したと主張している。事実、そのような乗組員の証言も残っており、またジェームズ・キャメロン監督らの潜水調査でも英国戦艦の主砲弾も巡洋艦の魚雷もビスマルクに致命傷を与えていなかったらしい。要するに世界で最も強靭な戦艦はビスマルク級と言いたいらしい。

 では大和とビスマルクが戦ったらどういうことになっただろうか。これはSF架空戦記の領域であるが、これを考えていくと意外に面白い日本の弱点が見えてくる。その前に、大和とビスマルクの要目を簡単に比較しておこう。

戦艦大和 戦艦ビスマルク
排水量 65,000トン 41,700トン
全長 263メートル 248メートル
全幅 38.9メートル 36メートル
出力 150,000馬力 138,000馬力
速力 27ノット 30ノット
主砲 46サンチ砲9門 38サンチ砲8門
副砲 15.5サンチ砲6門
(完成時は12門)
15サンチ砲12門
姉妹艦 1隻(武蔵) 1隻(ティルピッツ)

 資料によって細かいところの数値は異なるし、特に排水量は計画時、完成時、公試時、満載時のいずれを採るかによっても違ってくるが、上記の数字を単純に比較すれば、大和の方が体格が一回り大きくてパンチ力もあるが、やや動きが鈍いということになる。

 これらをもとにして、この2艦が戦ったと仮定すると、射程距離の長い大和の46サンチ主砲が海戦初期の段階でビスマルクを捉えれば、ビスマルク轟沈、大和完勝もあり得たと思う。しかし戦いの第一ラウンドでビスマルクをノックアウトできなかった場合、その後の海戦の推移は大和に不利であろう。

 ビスマルクの主砲も射程圏内に入った場合、命中率はビスマルクの方がかなり高いはずである。まずマトがでかいうえに、レーダーが互いに未熟だったとしても、敵艦までの距離を測定する光学測距儀は明らかにドイツのものが堅牢で優秀であった。私たちの業界で使用する光学顕微鏡でも、戦前から戦後の一時期までは、日本製はドイツ製に太刀打ちできなかった。まして主力戦艦に用いる光学機器類はその国の最高水準のものを搭載するだろうから、いかに日本海軍の砲手が猛訓練を積んでいたとしても、最終的にはドイツ海軍の砲手に利がある。このことは、かつてのドイツ製のカメラや顕微鏡の優越性を実感された世代の方々なら直感的にお判りになるだろう。

 またドイツの工業製品が優秀であったことは戦前から有名であり、例えば飛行機や自動車の交換部品なども厳格な品質管理が行き届いているので、ドライバーでネジを締めるだけで簡単、確実に取り付けが完了するのに対し、戦前から戦中の日本工業製品は、軍用機ですらネジがバカになっていて、整備員がハンマーでネジを叩いて取り付けるようなことがよくあったらしい。(この話は安永弘氏の「死闘の水偵隊」(朝日ソノラマ新戦史シリーズ)に書いてある。)

 46サンチ巨砲を撃ちまくりながら突進するうちに、戦艦大和の部品は光学機器類も含めて自艦の振動で壊れてしまうものが続出したであろうから、これでは海戦が長引けば大和に勝ち目はない。このことも、かつてのベンツやBMWの高速走行性能が国産の対抗車種の性能を凌駕していたことを実感された世代ならお判りのはずだ。

 しかし仮に大和の機器類に故障が出ずに(奇跡に近いが)、海戦を有利に進めたとしても、ビスマルクの方が速度が速いから、戦い不利と見れば、ビスマルクは戦闘海面を離脱して逃走することも出来る。それを卑怯だとか、武人の恥だとかいっても始まらないのだ。
 ワシントン海軍軍縮条約の期限が切れるのを見越して欧米列強が計画した新型戦艦はいずれも30ノット前後の速力を出せたのに対して、わずか27ノットの戦艦しか作れなかったのは残念である。これではせっかく相手よりも口径が大きく、射程も長い大砲を積んでいても、相手に逃げられてしまって何の役にも立たない。自分たち日本海軍と同様、武門の誉れを賭けて正々堂々と渡り合ってくれる敵国ばかりを想定していたのだろうか。
「ヤアヤア、我こそは大日本帝国海軍の誇り、戦艦大和なるぞ。いざ、出合え!勝負、勝負!」
と名乗りを上げて一騎討ち、という源平時代の戦いのイメージから抜け出していないような気もするが、実はこれも貧弱な基礎工業力しかなかった日本の宿命であった。

 バカになったネジをハンマーで叩いて部品を取り付けた軍用機など、まさに貧弱な基礎工業力の象徴であるが、戦前から世界一と自負していた造船・造艦の分野でも状況は似たようなものだったらしい。戦艦大和建造に必要なプレス機などの工作機械はドイツに頼らざるを得ないものが多かった。
 またディーゼル・エンジンの信頼性が当時はまだ低く、大和もビスマルクも蒸気タービンで推進していたことは同じだが、船舶用ボイラーにしても日独の技術には歴然たる差があった。船舶用ボイラーに関しては次のような情けない話がある。

 ドイツが電撃戦で第二次世界大戦の火蓋を切った1939年9月、ドイツの極東航路の客船シャルンホルスト号(Scharnhorst)が神戸に入港してきた。ドイツ開戦間近を暗号で知らされた同船はちょうどアジア海域にあり、極東英軍に拿捕されないように友邦日本の港に避退してきたのである。
 ドイツには同じ名前の戦艦もあったが、神戸に逃げ込んだのは、1935年に完成したアジア航路の商船で、新機軸のボイラーを搭載した優秀船だった。乗員・乗客はソ連経由でドイツに帰国したが、シャルンホルスト号の船体はそのまま日本に留まっていたところ、1942年、日本海軍がミッドウェイ海戦で空母4隻喪失という大敗を喫し、急遽このシャルンホルスト号を譲渡して貰って空母に改装することが決まる。後の空母「神鷹」である。ところが日本海軍の機関科員たちは、7年前に建造されたドイツ民間船のボイラーがあまりに高性能すぎて使いきれず、故障させてしまったため、仕方なく性能の劣った日本製ボイラーに換装せざるを得なかった。ここまで戦前の日独の技術は懸隔していたのである。

 あまりここまでマニアックな話をしなくとも、当時の日本と欧米の基礎技術力の差を実感しようと思えば、戦艦ビスマルクをはじめとするドイツ軍艦のカラー写真は残っているが、戦艦大和や他の日本軍艦のカラー写真は1枚も無いことを挙げるだけでも十分であろう。

ドイツ戦艦ビスマルク(「世界の艦船」1982年12月増刊号より)

 戦後、日本はこれらの教訓をもとに基礎工業力の育成に力を注ぎ、世界が驚嘆するような工業発展を遂げた。私が使っている顕微鏡も優秀な日本製であり、先輩たちの時代のようにドイツ製品を羨む必要はない。自衛隊の最新兵器を支えている技術の大部分も、形を変えて私たちの日常生活に応用されているだろう。要は基礎技術力を支える底辺が浅ければ、軍事技術や宇宙技術ばかり背伸びして突出しても駄目だということを戦艦大和の時代は教えてくれているのではなかろうか。
 それにしても、欧米列強に比べてあれほど劣悪なレベルでしかなかった基礎技術力を背景に、よく戦艦大和や零戦のようなハイレベルの兵器に挑戦したものだと、当時の日本の技術者たちの血の滲むような努力に頭が下がるのと同時に、こういう技術者魂を将来へ受け継いで行かせるための政治的・経済的配慮が現在なされていないことを憂うものである。



(2)被害担当艦

 戦艦大和は昭和20年4月6日、米軍群がる沖縄へ向けて瀬戸内海を出撃したが、情報はすべて米軍に筒抜けで、大和隊は最初から潜水艦と航空機による追尾を受け、翌7日、米軍艦載機の本格的な航空攻撃の前になす術もなく壊滅したのであった。
 4月7日を期して沖縄地上軍(第32軍)が米軍に対する総攻撃を開始するのに呼応して、陸海軍の全航空部隊も全力を上げて特攻作戦を展開、これに加えて戦艦大和を沖縄に突入させて、最後は陸上に乗り上げて艦砲をもって暴れまくる、という文字に書くと実に華々しい“殴り込み”作戦である。ガダルカナル戦以来、マリアナ、フィリピンでの戦局を考えれば、理性的にはまったく勝算のない作戦であった。
 戦艦大和も一応は沖縄殴り込みとなっていたが、戦艦大和を出撃させれば、米軍の航空部隊もこれに食いついてくるだろうから、その分、特攻機に対する妨害も少しは軽減されるだろうという目算である。つまり米軍の航空攻撃を引きつけるための餌であり、囮であったことは間違いない。撒き餌のように使われた戦艦大和が哀れでならない。
 しかも戦艦大和とその護衛艦を動かすためには、当然燃料の重油が必要である。大和隊になけなしの燃料を補給してしまったために、機雷で封鎖されていた日本近海を掃海するための艦艇に供給する重油が底をつき、戦争継続のための戦略物資を運び込むルートの確保も困難になるという本末転倒の作戦だったのだから、大和の死はまったくの無駄死にとしか言いようがない。

 大和は米空軍の攻撃の鉾先を引きつけるための、いわば“被害担当艦”であったわけだが、実は姉妹艦の戦艦武蔵も同じような使われ方をしたことは意外に知られていない。
 昭和19年10月20日、レイテ沖への殴り込みを控えた栗田艦隊はボルネオのブルネイに入港する。ここで栗田艦隊の各艦は燃料補給を終えたが、さらに戦艦武蔵だけは舷側と甲板のペンキ塗装が行なわれたのである。佐藤太郎氏の「戦艦武蔵」から引用してみよう。

艦腹はしだいに鮮やかなネズミ色に照りはえて、くすんだ他艦に比してひときわくっきりと目だってくる。甲板は濃い黒色に、かっきりと艦型を劃していた。これでは、子どもが見ても囮であることがはっきりわかる。暗い不吉な前途に、一同はすっかり憂鬱になってしまった。

 軍艦の色は、現在の自衛艦もそうだが、できるだけ視認しにくい色に塗装されている。それをわざわざ武蔵は目立つ色に塗り直したのであった。レイテ沖への前途に予想される米軍の航空攻撃を一手に引き受けて、他艦への損害をできるだけ軽減させようという狙いである。
 案の定、米軍の航空攻撃は戦艦武蔵に集中して、戦艦大和、長門、金剛、榛名への損傷は最小限に食い止められたが、10月24日、武蔵は魚雷20本以上、直撃爆弾約20発を受けてついに沈没する。

 大和・武蔵は共に味方を守るために、敵の攻撃の矢面に立ってその短い生涯を閉じた。まさに義経を守って立ち往生を遂げた武蔵坊弁慶のような壮絶な最期だった。しかし日本の技術者たちが精魂傾けて建造したこの姉妹に、このような形でしか引導を渡せなかった日本軍という組織は何とも情けない。
 工業力・技術力というハード面で友邦ドイツに遥かに遅れをとっていた日本だったが、用兵というソフト面でも日本軍はドイツ軍にかなわなかった。戦艦ビスマルクを失ったドイツ軍であったが、残ったティルピッツは北欧のフィヨルドの奥に潜伏させて、連合軍の一部兵力をずっと北方に釘付けにさせたのである。かつてビスマルク1隻に振り回された連合軍は、ティルピッツに出撃されれば対ソ連援助物資の輸送にも重大な脅威となるので、フィヨルド出口の警戒を解除するわけにはいかなかったのだ。

 もちろん太平洋の戦局は大西洋とは異質であったが、どうせ特攻作戦を展開するのであれば、重油を消費する戦艦大和は動かさずに本土決戦用の海上要塞となし、護衛していた巡洋艦矢矧以下の駆逐艦を長駆ハワイ―沖縄間に出撃させて、米軍の輸送路を脅かす作戦を決行した方がはるかに効果的ではなかったか。
 まあ、こういうSF架空戦記の結果はともあれ、「殴り込み」などという威勢の良い話が出てくると、誰もが理性では判っていてもそれに異を唱えられない日本人のソフト運用面における体質は、今も昔も変わっていないと思われる。皆さんもご自分の職場や学校、地域などで実感しておられないだろうか。戦艦大和も武蔵も、海底からそういう日本人を眺めながら今でも溜め息をついているような気がする。



(3)重巡洋艦最上

 何でこのようなサブタイトルを付けたのか、わざわざこのページを読んで下さっている海軍マニアの方々にはとっくにお判りであろうが、その話はしばらくおいといて、「FIGHTING STEEL」(株式会社マイピック)というゲームソフトがある。第二次世界大戦の日・米・英・独の戦艦、巡洋艦、駆逐艦を集めて艦隊決戦を行なうというコンセプトで開発された海戦ゲームソフトで、邪魔者の空母や航空機や潜水艦はいっさい登場しない。まさに大艦巨砲主義者たちの夢の決戦舞台である。

 ガダルカナル島周辺での日米艦隊の夜戦や、ビスマルク追撃戦など史実に基づいたシナリオもあるが、何と言ってもプレイヤーが勝手にシナリオを作ってゲームを楽しめるところが醍醐味であった。
 例えば、開戦劈頭の英国東洋艦隊のプリンス・オブ・ウエルズ(Prince of Wales)とレパルス(Repulse)は日本海軍航空隊の攻撃で沈められたのだが、これを当時マレー方面にあった戦艦金剛、榛名以下、重巡戦隊、水雷戦隊が対決したらどうなるか、というようなシナリオを自由に作れるのだ。ちなみにこれは戦艦部隊が砲戦を行なっている間に、重巡戦隊と水雷戦隊が互いに直角に英国戦艦を挟み撃ち、集中魚雷攻撃で完全勝利を収めた。

 もちろん戦艦大和、武蔵を先頭にして旧式米戦艦部隊に決戦を挑んだこともある。ところが大和級の46サンチ主砲で次から次へと面白いように米軍の旧式戦艦を討ち取れると思いきや、なかなか敵艦撃沈という景気の良いシーンは見られない。こちらの旧式戦艦山城や扶桑もよく頑張るが、敵のアリゾナやネヴァダもしぶといのだ。大和の主砲がやっと命中しても致命的な個所でなければ、そう簡単には沈まない。

 ところがある時、ゲーム上でとんでもないことが起こった。米軍の重巡洋艦戦隊を大和、武蔵の2大戦艦で蹴散らそうとしていた時、大和が轟沈したのである。それまでほとんど無傷だった大和が、巡洋艦との交戦の最中に突如、姿を消したのだ。「まさか」と思ったが、ゲーム画面には『戦艦大和、沈没しました』という無情の文字…。

 たかがゲームのこと、と普通の方なら忘れてしまうところだろうが、この「FIGHTING STEEL」というゲームソフト、各国の軍艦の攻撃力、防御力、速力、損害修復能力などをかなり綿密にデータ化してあって、例えば同じ砲弾が同じ軍艦に命中しても、当たり所によって致命傷になったりならなかったり、あるいは日本の軍艦よりも米国の軍艦の方が損害修復能力(damage control)が高かったり、かなり現実的に設定されている。と言うことは大和轟沈にも何らかの理由があったのか。

 大和型戦艦の防御といえども万全でなかったことは現在ではよく知られている。戦国武将が頭から爪先までガッチリ鎧兜で固めてしまっては重たくて動けないのと同様、戦艦も艦首から艦尾まで重装甲で覆ってしまえば重量オーバーして性能が落ちてしまうので、機関部とか火薬庫のある中央部を集中的に防御するのが通例であった。
 大和型も全長の52%だけが集中防御の対象とされ、艦の前後の48%は比較的装甲が薄かったという。しかしここを巡洋艦ごときに撃ち抜かれて瞬時に轟沈ということは考えにくい。事実、フィリピンでの実戦で航空攻撃にさらされた戦艦武蔵は、装甲の薄かった艦首部に大浸水をきたして前甲板が海水に洗われる事態にまで至ったが、それでも沈没までには相当の時間を持ちこたえている。

 しかし原勝洋氏の「真相・戦艦大和ノ最期」(KKベストセラーズ、2003年)を読んで、すべての謎が解けた。その謎解きの前に、先ずは重巡洋艦最上の話から…。

重巡洋艦「最上」

 「最上」という名の巡洋艦は本来はおかしいのである。昭和初期頃より、日本海軍の重巡洋艦(一等巡洋艦)には山の名前(妙高、羽黒、鳥海、摩耶など)、軽巡洋艦(ニ等巡洋艦)には川の名前(神通、天龍、名取、那珂など)から命名されることに決まっていたから、最上川の名前をとった巡洋艦は本来なら巡洋艦である。
 これはロンドン海軍軍縮条約で20サンチ砲を装備する重巡洋艦の対米比率を制限されていたため、とりあえず15.5サンチ砲を持つ軽巡洋艦として就役させておいて、一朝有事の際には20サンチ砲に換装して重巡洋艦にしてしまおうという考えのもとに設計されたのが最上級4隻(最上、三隈、鈴谷、熊野)と利根級2隻(利根、筑摩)であった。いずれも進水した時に「私は軽巡洋艦でございます」という川の名前を貰っている。
 上の写真は軽巡洋艦時代の最上である。堂々たる15.5サンチ3連装砲塔が前部に3基、後部に2基見られる。軍縮条約が失効して自由に重巡洋艦を造れるようになると、最上級巡洋艦はこの15.5サンチ砲塔を陸揚げして、代わりに20サンチ砲を積み込み、重巡洋艦に化けた。そしてこの時に陸揚げされた15.5サンチ砲塔が大和級戦艦の副砲として流用されたのである。

 このページの一番上にある1/10戦艦大和の模型の写真を御覧いただきたい。巨大な46サンチ主砲の後ろに、チョコンと背負われたように装備されている小さな3連装の砲塔が見えるが、これがもともとは最上級の巡洋艦の主砲として積まれていたものなのである。
 この15.5サンチ砲は当時の大砲としてはかなり優秀な性能を持っていたらしいが、所詮は巡洋艦の飛び道具でしかない。
 当時の軍艦の設計思想は、自分と同級の敵艦からの砲弾に耐えれば十分とされていた。つまり40サンチ砲戦艦は敵の40サンチ砲戦艦の一定距離からの砲撃に耐えればよい、15.5サンチ砲軽巡は敵の15.5サンチ砲軽巡からの砲撃に耐えればそれでよいのだ。
 と言うことは、軽巡洋艦の砲塔をそのまま流用した大和型戦艦の副砲塔は軽巡洋艦並みの防御力しかないということになる。たまたまここに重巡洋艦以上の敵艦が撃った砲弾が命中すれば、ひとたまりもないであろう。副砲塔の天蓋が撃ち抜かれれば、その下には副砲弾が大量に貯蔵されており、さらに隣りは46サンチ主砲弾の貯蔵庫になっているのだ。これが一気に誘爆すれば大和轟沈となる。

 実際に大和型の副砲の対爆弾防御の問題点は指摘されており、それなりの対策も立てられてはいたらしいが、沖縄特攻時も米軍機の最初の一撃で後部副砲に火災発生、最後まで消火できなかったという。

 最も当たって欲しくない箇所に最初に爆弾が当たってしまったわけだが、こういう問題点を十分に解決しないまま、「まあ、何とかなるだろう」とか「起こって欲しくない事は起こらないだろう」といった楽観論だけで突っ走るのは、今も昔も日本人の習性ともいえる行動パターンではなかろうか。
 最近の事例(2005年)で言えば、列車がブレーキをかけずにカーブに突っ込むような事は起こるまい、起こって欲しくない、まあ、起こっても何とかなるだろう、という調子で、新型の列車自動停止装置(ATS)の整備を後回しにした結果、取り返しのつかない大惨事となった尼崎の脱線事故など、大和型の副砲の一件と相通ずるものがありそうだ。



(4)アメリカ映画に登場した日本軍艦

 日本では東宝映画の8・15シリーズなど、戦艦大和が登場する戦争映画は幾つか封切られているが、ここではアメリカ映画に登場した戦艦大和を紹介しておこう。

 1965年にジョン・ウェイン(John Wayne)の主演でアメリカで製作された「危険な道(In Harm's Way)」は、巡洋艦の艦長と、先妻の息子と、従軍看護婦を軸にして描かれるホームドラマ風の戦争映画だったが、ストーリーの最後の山場、主人公の艦長が旧式の巡洋艦部隊を率いて、進撃してくる日本艦隊を阻止するために出撃していく。相手は戦艦大和を中心に高雄型重巡洋艦などを含む日本海軍の精鋭。到底勝ち目はなく、メチャクチャに撃ちまくられて乗艦は沈没、主人公の艦長も脚を切断する重症を負ったが、アメリカ艦隊の奮戦で日本艦隊の進撃は挫折するという筋書きだったと思う。
 アメリカ映画だから、アメリカ側の主人公に都合の良い結末になっているが、それでもいいから、戦艦大和に一度だけでもこういう海戦をさせてやりたかったと思わせるようなシーンだった。

 戦艦大和に15.5サンチ砲を“プレゼント”した巡洋艦最上については、もっと面白いアメリカ映画がある。ジョン・フォード(John Ford)監督の作品で、こちらもジョン・ウェイン(John Wayne)がロバート・モンゴメリー(Robert Montgomery)と共に主演しているが、1945年の「コレヒドール戦記(They were Expendable)」という映画である。
 開戦時、フィリピンに展開していたアメリカの魚雷艇の物語であるが、日本軍に押されて後退していく過程で、アメリカ軍の根拠地に最上級の巡洋艦が迫ってくる。これを魚雷艇で撃破するというストーリーなのだが、その時の会話が非常に面白い。

Information says she's of the Mogami class. Does that mean anything to you?
That's about as big they come, yes.


 この映画を何十年か前にTVで観た時には次のような字幕が付いていた。

情報によると最上級だ。最上級の意味を知っているか?
ああ、最大級の巡洋艦という意味だろ。


 「最上」級を、最上級=the best, the biggest=最大級、とした半可通の日本語の面白さが気に入っていた。おそらくジョン・フォード監督も、日本語字幕の訳者も、この洒落が判っていたのだろう。

 ところが最近、この映画の新しいDVDを観る機会があったが、この部分の字幕には失望してしまった。新しい字幕はこうなっていた。

情報によると阿賀野級だそうだ。知っているか。
ええ、大型ですね。


 何と最上級は阿賀野級になってしまった。撮影に使われているミニチュアのシルエットは明らかに最上級巡洋艦のものだから、この字幕は誤訳なのだが、確かに元のセリフを聞いても「Mogami」は「
ガー」としか聞こえない。しかも英語の字幕を拾った人(おそらくnative speaker)は「Megumi」としているから混乱が起こったのだろう。
 いくら何でも日本の巡洋艦に「めぐみ」などという女の子みたいな名前が付いているはずはないから、翻訳者は日本海軍の軍艦辞典などを引いて、真ん中に「ガ」の音がある巡洋艦を探したに違いない。それで阿賀野級巡洋艦を見つけた訳者のホッとした様子が目に見えるようで微笑ましいが、その努力は買うとしても、阿賀野級巡洋艦は正真正銘の軽巡洋艦で、決して大型ではなく、しかも就役したのは1942年10月以降であり、この映画の舞台となった時期にはまだ建造途中だったのである。
 こういうマニアックなことはさておき、最上=最大という洒落がまったく消えてしまったのは残念なことであった。確かに他国の固有名詞の発音は非常に難しいことが多く、ある程度の軍艦マニアでなければ「ガー」から「最上」を類推するのは不可能だったのであろう。
 もし「最上めぐみ」さんという女性がいらっしゃったら、アメリカ人からは「ガーガー
」としか発音してくれないかも知れない。

 なおこの項は、英語教育界の第一人者、薬袋善郎先生の御指導を仰ぎました。
「as 〜 they come」というのは、(人や物が)最高に〜、めちゃめちゃに〜、という意味を表す非常にくだけた慣用句だそうで、〜の部分には、big、heavy、good、clever、stupid、tough、perfectなどが来ることが多いとのことでした。



(5)戦国の大艦巨砲主義

 2005年7月27日放送の、NHK「その時歴史が動いた」は終戦60周年企画で戦艦大和を取り上げており、戦艦大和の建造から沈没までを追った物語だった。艦船マニアから見れば、それほど目新しい内容でもなかったが、1週間前の7月20日放送分と併せると、とても面白い斬新な話になる。
 「その時歴史が動いた」は松平アナの上品な語り口と共に、企画も内容も深みがある番組で、これなら受信料を払っても惜しくないと、いつも感心しながら見させて貰っている。特に、NHKのもう一つの人気番組だった「プロジェクトX」が美談でっち上げの疑いで興醒めになってからは、こちらにはさらに頑張って欲しいと願っている次第である。

 ところで1週間前の「その時歴史が動いた」は、「信長の巨大鉄船、戦国の海を制す」というタイトルで、大坂本願寺攻めを企図する信長の前に立ちはだかった村上水軍と、鋼鉄で装甲した信長水軍の巨船の決戦の話だった。本願寺を援護する毛利氏は、配下の村上水軍に命じて大坂本願寺に兵糧を海上輸送を決行する。信長も自軍の九鬼水軍に海上封鎖を命ずるが、瀬戸内海を制覇した海賊=海上武士団である村上水軍は、軽快で機動力のある多数の船を使った集団戦法が得意で、しかも火薬を装備した飛び道具なども使用して、信長水軍をさんざんに叩きのめして大坂湾の制海権を握ってしまうのである。
 これに対して信長は、燃えないように鋼鉄張りにした巨大な船を建造させて村上水軍に対抗したのだ。信長の巨大鉄船はわずか6隻、しかも重量があるのできわめて鈍足。この鉄船に村上水軍の軽快な船団が挑んだが、鉄船には3門の大砲が隠されており、村上水軍の集団が接近した頃合を見計らって砲撃を開始、たちまち村上水軍は蹴散らされて逃走したとのことである。

 まさに戦国時代の大艦巨砲主義。強大な防御力と攻撃力で敵を一気に打ち負かそうという信長の着想が実にユニークであるが、この話を戦艦大和の放送と相前後させたNHK番組制作者の発想にも感心させられる。
 私などがこの前後2回の放送を見て感じたことは、何で村上水軍は負けたのかということである。何しろ村上水軍など瀬戸内海の海賊衆の戦法は、後に明治の日本海軍が研究して日露戦争に応用し、大勝利の原動力になったほど卓越して完成されたものだったはずである。そんな海戦上手の村上水軍の多数の軽快船が鈍重な巨船に群がって襲いかかる場面は、ちょうど米軍の航空機の大編隊が戦艦大和に襲いかかる場面にそっくりではないか。
 信長の巨船はたった6隻で、しかも軽快船の護衛なし。これは航空機の無かった時代でもきわめて不利である。例えば1571年のレパントの海戦は、キリスト教国連合軍とトルコ軍の間に戦われた史上最後のガレー船同士の海戦と言われているが、キリスト教連合軍の方は通常サイズのガレー船の他に、浮かべる砲台とも言うべき超大型のガレー船を何隻か持っており、トルコ軍をさんざん苦しめた。信長の巨船建造計画はこの海戦の数年後のことだから、あるいは宣教師を通じて信長はレパントの戦訓からヒントを得た可能性がある。
 しかしこれら超大型ガレー船にしても、通常サイズのガレー船の勢力がほぼ拮抗していればこそ威力を発揮するのであって、信長水軍のようにたった6隻の鈍重な巨船だけでは、到底多数の軽快船を擁する村上水軍に勝てたとは思えない。いくら大砲があると言っても、巨船1隻につきわずか3門である。当時の大砲は先込め式だから、1発撃ったら次の弾薬装填までに数分はかかるだろう。それも波浪に弄ばれる洋上での作業である。
 信長軍の巨船が大砲を1発ぶっ放したタイミングを捉えて、命知らずの瀬戸内海賊の小船が接近、火薬を投げ込んで巨船を屠る可能性の方がよほど大きいように思われる。たった6隻しかない巨船の1隻が撃沈されれば信長水軍は浮き足立ったはずだ。まさに米軍機の大軍に襲われた戦艦大和と同じ運命に陥らなかった理由が判らない。
 もしかしたら信長は海賊衆の一部にあらかじめ内通して、寝返らせていたのかも知れない。いずれにせよ、NHKの「その時歴史は動いた」を2回分、こういう見方をすることによって、また歴史の謎が深まってしまって、私にとっては大変面白いことであった。

 NHKの番組によれば、信長の鉄船は大坂湾の海上封鎖の後、二度と再び歴史の舞台に登場することはなく、歴史の中に姿を消したというが、それは当然だろう。それから270年以上の年月が過ぎて浦賀に現れたペリーの黒船を見て、当時の日本人は度肝を抜かれたわけだが、世界で最初に鋼鉄で装甲した軍艦を建造したのが日本人だったことも知らないほど、信長の鉄船建造の事実は日本の歴史から“抹消”されていたわけである。
 信長が装甲船を着想して、それを実現できる技術が日本に存在したこと、それを最も恐れたのは誰であろうか。おそらく国内の反・信長勢力ではなかっただろう。信長という軍事の天才と、日本の軍事技術力に驚嘆し、何より恐れたのは、日本に滞在していたキリスト教の宣教師どもであったことは疑いない。
 当時のキリスト教宣教師ども(特にスペインやポルトガル)の悪行・非道を数え上げればキリがない。インカ帝国やイースター島など、彼らに滅ぼされた文明は多数あり、彼らに殺戮され、奴隷にされた住民は数知れず。彼らは口では神への“愛”を唱えながら乗り込んできて、機会を窺って侵略の牙を剥き出すや、財宝をことごとく奪い去り、住民を片っ端から奴隷にして、反抗する者は皆殺しにしたのである。
 キリストへの信仰は小手先の方便でしかなかった。考えてみれば、最近のイラク戦争なども当時のキリスト教宣教師どもの手口と似ていなくもない。自由と民主主義を口にしながら乗り込んできて、石油の利権を手中にし、“捕虜”にしたイラク人を収容所で虐待する。キリスト教国の手口は古今にわたってあまり変わらないのかも知れない。
 当然、戦国時代の日本にやってきた宣教師どもも、スキあらば日本をインカ帝国のように侵略しようと企んでいたであろう。自国の侵略軍を手引きした時に最も脅威になる男が信長であった。
 おそらく信長は当時の世界でも屈指の戦術の天才。後のナチス・ドイツの戦車隊の創始者グーデリアン将軍も信長の戦法を研究したと言われている。長篠の戦いで大量の鉄砲の集中使用で武田の騎馬軍団を撃退した戦法などは、宣教師どもを震え上がらせたに違いない。その男が強力な装甲船を手にした段階で、スペインやポルトガルの侵略軍が日本に上陸作戦を敢行するのは事実上不可能になっていた。
 信長が建造させた装甲鉄船は、侵略の先兵であったキリスト教宣教師どもの手で密かに処分されたのではなかろうか。建造に当たった者も、図面や公式記録文書なども一切残らなかった。明智光秀をそそのかして信長を暗殺させた裏には、もしかしたら宣教師どもの暗躍があったという異説があるのは頷ける。
 幸いにして日本には、信長亡き後も豊臣秀吉、徳川家康と、キリスト教の本質を見抜けるだけの指導者がいたので、インカ帝国などの二の舞を踏むことはなかったが、それにしても信長という男は、日本が生んだ桁外れの戦術家だった。古今東西の名将・知将が集まってバトル・ロワイヤルを繰り広げたならば、あの諸葛孔明やナポレオンにもよく対抗し得る才能を持っていたのではなかろうか。



(6)面舵一杯の話

 このページも「戦艦大和ア・ラ・カルト」と銘打ちながら、だんだん大和と関係ない話も書くようになってしまったので、悪乗りのついでに、ちょっと大和とは関係ない海事映画を取り上げてみる。私も映画は嫌いでなく、特に海戦や海難や冒険航海の映画はなるべく劇場で見ようと思っているが、最近なかなかヒマが取れないのが残念である。

 所詮、映画とは監督をはじめとする制作スタッフの方々が大変なご苦労をかけて映像を作り上げた一種の芸術、歴史上の事件などを扱っていても、史実の解釈の相違やら、撮影条件の制約やらがあって、せっかく精密な映像の再現を試みておられても、時々「アララッ?」と思うシーンがある。そういう「アララッ?」を探すのも映画を観る楽しみの一つだ。別にヘソ曲がりなわけではないつもり、推理小説の作者と読者の知恵比べみたいな緊張感がある。

 今回は私がこれまで観た海事映画の中での「アララッ?」を3つ御紹介しよう。どれも映画としては大作・名作で、作品としては十分に堪能させて貰ったものばかりである。

@将軍(1974年)
 リチャード・チェンバレン主演で、日本からも三船敏郎、島田陽子らが出演していた。1600年、オランダ船で日本に漂着したヤン・ヨースチンやウィリアム・アダムスをモデルにした映画で、オランダ船リーフデ号は実物大の帆船を再現した見事なものであった。ところが漂着した日本の海辺にはススキが穂をつけている傍らに、何とセイタカアワダチソウ(キリン草)が茂っているではないか。確か戦後になってから日本に入ってきた帰化植物と記憶していたから、これが第一の「アララッ?」である。

Aトラ!トラ!トラ!(1970年)
 いわずと知れた真珠湾攻撃を描いた映画。初公開の時は、私はあいにく浪人中で観られず、劇場で観たのはかなり後になってからである。この映画の冒頭、山本五十六司令長官が戦艦長門に着任した時に吹奏された「海行かば」のメロディーがまったく別物であったことは、軍楽マニアの間では常識。
 しかし艦船マニアが「アララッ?」と思うのは、攻撃隊発艦シーンである。空母を次々に飛び立っていく攻撃隊を、映画の中の南雲長官は右舷艦橋に立って見送っているのだが、歴史上の日本機動部隊の旗艦赤城の艦橋は左舷側にあった。だから映画の中の南雲長官の首の動きが左右逆である。
 あの映画では攻撃隊発艦のシーンは現存するアメリカ海軍の空母を使って撮影されたようだが、どうも空母の艦橋は右舷にある方が便利ということになったらしい。だから試験的に左舷に艦橋を設けた赤城と飛龍が撃沈されてしまった後、世界には現在に至るまで左舷艦橋の空母は1隻もなく、映画のために赤城に化けられる米空母も無かったということであろう。(世界空母史上、左舷に艦橋があるのは、赤城と飛龍ただ2艦のみである。)

Bタイタニック(1997年)
 これも映画史上あまりにも有名な作品で、今さら説明の必要もあるまい。コンピュータ・グラフィクスを駆使した映像は完璧で、一点の非の打ち所もない。(だからある意味つまらない?)この映画の「アララッ?」は日本で上映された折の日本語字幕であり、この点は劇場公開後すでに海事マニアや専門家の間でも多くの論議を巻き起こしたのである。
 問題のシーンはタイタニック号が氷山に衝突するのを避けようとして、急速に左側へ転舵する箇所、日本語字幕は『面舵一杯』となっており、私は思わず目を疑った。船が左に転回するのは『取舵』である。
 映画の英語のセリフでは航海士が「Starboard(右舷へ)」と号令したようでもあり、水夫がマストを滑り降りながら「Port(左舷へ)」と悲鳴を上げたようでもあり、英語の聴き取りの悪い私には、あの緊迫した場面の原語は正直なところよく判らなかった。

 ところがその後もこの字幕が気になって、いろいろな人に訊ねたり、インターネットを検索したりしていたところ、とんでもない歴史的事実を勉強する事になった。実はイギリスにおいては「Starboard」と「Port」の意味が1928年頃まで統一されていなかったらしい。信じられないことである。つまりそれまでのイギリスの商船も軍艦も(当然1911年に沈んだタイタニック号でも)、「Starboard」と号令した時に、船を右に曲げる意味も、左に曲げる意味もあって、用語が混乱していたのだ。海運や海軍の先輩格であるはずのイギリスが何故…?

 アメリカでは単純に「Right」「Left」で済ましていたから間違いは起こらなかったし、日本では古来から「面舵(右へ)」「取舵(左へ)」の用語が定着していて、イギリスのような混乱はなかった。この日本語は方位を十二支の動物で等分して、右は「卯の舵(うのかじ)」、左は「酉舵(とりかじ)」から派生したと言われている。
 ちなみに「面舵」は「オモォォォカァジ」と発音し(前記の「トラ!トラ!トラ!」の赤城の艦橋内部のシーンでも聞こえている)、「取舵」は「トォォォリカァジ」と発音する。司馬遼太郎さんもあの有名な歴史小説「坂の上の雲」の日本海海戦の場面、東郷司令長官が有名な丁字戦法を発令する情景で、取舵の号令は「トォォォ」と長く引っ張ってから、「リカァジ」と結ぶ、と解説しておられる。

 しかし産業革命を起こし、世界の七つの海を股にかけ、日の没することなき帝国と称された大英帝国の艦船が、第一次世界大戦が終わってからもしばらくの間、右も左も定まらず混乱していたという事実は興味深い。考えてみれば船舶関係に限らず、各専門業界ごとにいろいろな用語があるが、同業者同士はある「A」という用語に対して常に同じ意味を共有しなければならないのは当然である。それが、事もあろうに大英帝国の船では「Starboard」という言葉に対して右回頭と左回頭の両方の意味があったなんて、「タイタニック」の日本語字幕への疑問から、思わぬ知識を得ることが出来て幸運だった。

 ちなみに例の映画「タイタニック」、公開後に発売されたDVDの問題のシーンの字幕は「左舵一杯です」となっていた。



(7)戦艦大和と野麦峠

 今年(2005年)は終戦60年と同時に、大和沈没60年ということで、春先には呉の大和ミュージアム開館、また年末には大和の映画「男たちの大和」公開と、戦艦大和の話題で持ちきりになった1年でもあった。今回は大和と野麦峠の話。

 第二次世界大戦を戦った日本の戦艦8隻には古来の国名(扶桑、山城、伊勢、日向、長門、陸奥、大和、武蔵)、高速戦艦4隻には山の名前(金剛、榛名、霧島、比叡)が付けられており、大和は日本の王朝の発祥地である奈良県地方の古い国名である。
 しかし佐佐木信綱が
 
ゆく秋の 大和の国の薬師寺の……
と詠んだ大和の国は、まさにこの「大和」であるが、一方で大和魂とは別に奈良県人のド根性ではないし、大和撫子とは奈良の女性のことではない。
 大和とは古来、日本国一般を総称する地名として用いられてきたが、その意味で言うと、大和の沈没はまさに日本の沈没、大日本帝国の終焉を暗示していたように思われ、言辞上まことに象徴的な出来事であった。

 第一次世界大戦後の敗戦国ドイツは陸海空軍の保持を厳しく制限されていたが、海軍戦略として通商破壊に重点を置いたドイツ海軍は、有名な潜水艦(Uボート)の他にも、装甲艦(いわゆるポケット戦艦)の建造に乗り出した。その第一艦がドイッチュラント(Deutschland)で、商船狩りを主目的としているが、敵艦隊に遭遇した場合は、巡洋艦以下の艦種に対しては十分対抗できる砲力を有し、戦艦が出てきた場合には軽量・優速を利して逃げるという、まさに日本人から見れば武士の風上にも置けない軍艦であった。
 当時の海戦の原理から考えれば絶対に負けるはずのなかった(引き分けあり)この“ポケット戦艦”第一艦に「ドイッチュラント」、つまりドイツと命名したのは、列強の鼻をあかしたという得意絶頂の表われか。
 ところが第二次世界大戦勃発後、1939年12月17日、同じ艦種だった装甲艦アドミラル・グラーフ・シュペー(Admiral Graf Spee)が大西洋で通商破壊戦を実施中、有力な英国艦隊に捕捉されてラプラタ沖で交戦後沈没(自沈)したのを見て、同じことがドイッチュラントに起こればドイツ国民の士気阻喪につながりかねないため、リュッツォウ(Lutzow: uにはウムラウトあり)に改名されたという。

 日本海軍ではまさに大和沈没が歴史の行く末を暗示していたように見えるわけだが、さらに象徴的な文章を山本茂美氏が「あゝ野麦峠」の末尾に書き記している。長いので省略するが、概略は次のようなものである。
 飛騨の貧農の少女たちは家の借金返済のために、岡谷の製糸工場で働きに出ていた。現代の労働基準法もなく、健康保健もなく、十分な栄養や医療を受けられないまま、若い乙女たちは早朝から深夜まで生糸生産の重労働に従事させられ、何人もの者が肺病(結核)に冒されて生命を落としていた。いわゆる女工哀史である。
 この少女たちが季節ごとに故郷の村と工場とを往来する中間に野麦峠があり、そこには女工たちが暖を取れるように薪などを貯蔵する「お助け茶屋」が建っていた。ところが昭和20年4月初め、最後の冬のお勤めを終えた「お助け茶屋」が突然倒れたという。積雪が少なくなってきてからのことでもあり、原因は不明だった。
 山本氏は戦艦大和の最期と、野麦峠のお助け茶屋の倒壊を印象的に語っておられる。貧しい明治時代の日本が国防を固めるためには外貨獲得が必要だったが、貴重な外貨を稼ぐ産業として当時の日本政府が期待できるのは生糸しか無かった。そしてその製糸産業は貧しい家の少女たちが生命を賭けた激務の上に成り立っていた。
 少女たちが作り出した絹を売って日本は外貨を獲得し、国防のための軍艦建造などに当てたのである。その歴史のいわば究極にあった戦艦大和が沈没したのとほぼ時を同じくして、大勢の飛騨の女工たちの往来を見つめてきた峠の茶屋が崩落した、偶然と言ってしまえばそれまでだが、山本氏はここに文学的な機縁を感じたのだろう。確かに近代日本史の象徴的な縮図と捉えることは可能である。

 戦艦大和が戦前・戦中の日本人の残した偉大なモニュメントであったことは論を待たないが、単にハードウェアとしての大和、あるいは戦史の一局面の中での大和、という見方ばかりでなく、当時の日本全体の中で大和がどういう位置付けにあったのかを考えていくのも重要なことである。
 例えば野麦峠の例で言えば、大和は貧しい家の少女たちの犠牲の上に建造された日本陸海軍の象徴であった。大和の犠牲者は必ずしも沖縄特攻の兵士たちばかりではないと言える。結核症の危険をも顧みずに少女たちに激務を強いたのは、日本の資本主義を発展させて外貨を稼ぎ、国防を充実させて日本を一等国にするためであった。少なくとも当時の日本はそういう原理で動く国家であった。

 一等国になるということは、誰にとって、どういうメリットがあるのか。それを考えることが現在重要である。戦前の日本が世界で一目置かれる国家であり続けるためには、貧しい家の少女たちを身売り同然の女工として、命を的の激務に就かせなければならなかった。(当然、男子は兵隊である。)そこまでして日本は一等国である必要があったのか?また誰のために?

 戦後の日本は軍事路線を放棄して経済発展に邁進し、やはり国民の血の滲むような努力で諸外国との競争に打ち勝って、経済大国と称される一等国になった。そしてその恩恵は多くの国民も享受することが出来た。外国製品が安く手に入り、日常生活は豊かになり、海外旅行も手軽に行けるようになった。
 しかし日本経済の栄華の蔭には、やはり公害・労災などの犠牲者がいたのである。戦前の日本と何が違うかと言えば、戦前は一部の貴族・資本家・高級軍人など少数派が羽振りを利かし、大勢の貧しい一般大衆が兵役や苦役に就いたのに対し、戦後は大勢の国民が経済発展の恩恵に浴したが、シワ寄せが来たのは少数でしかなかったことだ。
 つまり軍事路線か経済路線かは別として、産業社会の構造は何も変わっておらず、戦後は産業社会の“受益者”の比率が戦前に比べて圧倒的に多くなっただけである。そのために問題の本質が見えにくくなっていた。

 そして今、戦後日本の頼みの綱だった経済がおかしくなってきて、明らかに今後の日本は新たな方向へ舵を取ろうとしている。一歩間違えれば再び軍事路線に逆戻りしそうな事を言う人もいれば、再びバブル景気を煽って経済を立て直せという人、バブルはともかく正攻法で世界と経済的に戦って経済大国の栄光を奪還しようという人もいる。(そういう趣旨の連載劇画を先日初めて読んだ。)
 しかしどの方策を選んだとしても、結局は誰かが得をして誰かが損をするのである。最近では「勝ち組」「負け組」という言葉が当たり前に使われるようになったが、まさにそれである。「勝ち組」に入る人間が多い社会ほど理想に近いということか。産業社会の価値観そのものを破壊しない限り、改革案はどれも同じ矛盾を含まざるを得ない。

 私はこのサイトのどこかで、日本も人口減少社会になったので、そろそろ脱・産業社会=情報化社会への移行を見据えたら良いと述べたが、これはあまりにも戦艦大和の話題から飛躍するので、ここでは止めておくことにする。



(8)新生日本にさきがけて散る

 前項のように、少子化を契機にして脱・産業社会、情報化社会への移行を図れという私の持論を述べると、そんなこと言って年金や福祉の財源はどうするんだ、という反論が必ずある。そういう反論にも一理あるとは思うが、この大量の人口を抱えたまま将来長きにわたって国家を維持していけば、過剰な雇用の確保によって資源・エネルギーが逼迫し、その枯渇が早まること必然である。
 戦艦大和の臼淵大尉は、出撃直前の議論の中で、「日本の新生にさきがけて散る、まさに本望じゃないか」という言葉を残したとされ、最近(2005年12月)封切られた映画「男たちの大和」のキャッチフレーズでもそれを受け、「彼らが生命を賭けて守ろうとした未来に我々は生きている」などと書いて感動を煽ろうとしている。
 臼淵大尉ら大和の乗員が日本の未来を守るために決然と死地に赴いたというような物語には無条件で感動するくせに、自分たちが将来の日本人に何を残すか、という話になってくると途端に現実的になり、限りある財源から資源・エネルギーまで自分たちの世代だけで食いつぶしてしまうかも知れないのに、何とか自分だけは安穏に人生を全うしたいと願う身勝手な日本人が多くはないか?

 ところで今回はそういう話ではなくて、吉田満氏の“小説”「戦艦大和の最期」に出てくる例の有名な臼淵大尉の名言の真偽である。
 原作によれば、沖縄突入前、作戦の成否に関して若手士官たちの論戦が続いていたという。

痛烈なる必敗論議をかたわらに、哨戒長臼淵大尉(一次室長)、薄暮の洋上に眼鏡を向けしまま低く囁くごとく言う
「進歩のない者は決して勝たない 負けて目覚めることが最上の道だ
日本は進歩ということを軽んじすぎた 私的な潔癖や徳義にこだわって、真の進歩を忘れていた 破れて目覚める、それ以外にどうして日本が救われるか 今目覚めずしていつ救われるか
俺たちはその先導になるのだ 日本の新生にさきがけて散る まさに本望じゃないか」
彼、臼淵大尉の持論にして、また連日一次室に沸騰せる死生談義の、一応の結論なり 敢えてこれに反駁を加え得る者なし


ということであったらしいが、出撃の気配が濃厚になるにつれて、国のため天皇のために死ぬのだからそれで良いと割り切る海軍兵学校出身の士官たちと、自分たちの死に対して何か意義を見出そうと煩悶する学徒出身の予備士官たちが鉄拳をふるって乱闘になったという。

 結局、職業軍人たる海軍兵学校出の士官たちと、学徒出身の予備士官たちとの、乱闘に至るまでの激論に終止符を打ったのは、臼淵大尉のこの死生観だったと吉田満氏は書いておられる。
 しかし原作「戦艦大和の最期」のこの場面、非常にドラマチックで感動的で後世の人々の心を惹きつけてやまないのだが、一部でその真偽のほどが取り沙汰されているのは御存知の方も多いだろう。この場面は、予備士官だった自分の心境を表現するために吉田満氏が挿入した創作=フィクションであると断言される人たちの根拠は次の2点である。
 その一、出撃を控えた帝国海軍の軍艦の中で兵学校出身であろうと学徒出身であろうと、いやしくも士官たる者が必敗論など口にするはずがないということ。まして臼淵大尉が「負けて目覚める」と言ったとされているが、兵学校出の士官が負けるという前提を立てるはずがない。
 そのニ、艦内で意見が対立したからといって、士官同士が殴り合いなどするはずがないということ。陸上の私的な制裁ならともかく、水兵や下士官も同居する空間でそんな事に及べば、戦後になってから艦内乱闘の証言が出てくるはずだ。

 吉田満氏は戦艦大和の生き残りとして戦後の時代を生きられたわけだが、あくまで散華した仲間たちの代弁者としての立場を守り続けた。自分と同じ世代の者たちがあの戦争の中で何を考え、何を悩みながら死んでいったのか、それを後世に伝えるのが自分たち生存者の役目であると考えておられた。
 吉田氏が伝えようとしたものは正確な歴史的事実ではなく、戦争に消えて行った仲間たちの心情だったに違いない。その心情を描くためには多少の虚構も含まれていただろう。また「戦艦大和の最期」の初版が執筆されたのは終戦翌年のことだから、当時は一億総懺悔の時代、また占領軍の目も厳しかった時代でもあり、“小説”という体裁をとって多少の虚構も含めなければ、あのような内容の戦記物を出版できないことは最初から明白だったに違いない。
 そういう吉田氏の執筆動機と初版当時の世相を考慮したうえで、もう一度「戦艦大和の最期」の例の場面を読み返してみると、やはり艦内乱闘シーンはフィクションであろうと思われる。確かに陸上の料亭などで士官同士が飲食した際に敗戦談義が引き金になって、酒の酔いも手伝って私的制裁に及んだ可能性はある。しかし吉田氏は私的制裁の事実を暴いて、大和と共に沈んだその首謀者を非難するに忍びなかったのかも知れない。
 敗戦談義が鉄拳制裁を誘発するほど鬱屈していた当時の士官たちの状況をそれとなく表わしたのが、あの艦内乱闘シーンだったのではなかろうか。

 次に兵学校出身者ともあろう臼淵大尉が「負けて目覚める」などと敗戦を前提として物を言うはずがないという反論についてだが、私から見れば、吉田氏が臼淵大尉に敗北主義者の烙印を押すような虚構をわざわざ書くはずがないと思う。
 臼淵大尉はやはり日本の敗戦を予期しており、その敗戦の中から立ちあがっていく将来の日本に望みを託していたであろうし、そういう本音を勤務の合間にふと周囲に洩らしたこともあっただろう。兵学校出身者の中に自分たち学徒出身者と同じ感性を見出した驚きと喜び、それが吉田氏にあの文章を書かせたものであろうと思われる。
 それに原文を読んでみると、臼淵大尉は双眼鏡で海上の見張りを続けながら、あの言葉を残したことになっている。これは“仕事場”での親しい仲間同士の個人的な会話であり、“艦内乱闘”とは関係ない。

 また兵学校出の職業軍人が、たとえ個人的会話にせよ、敗北主義を口にするはずはないという反論もあるが、それはあくまでタテマエの話であって、ホンネが出るような状況とは事情が違う。
 私の父は陸軍軍医として中国大陸に従軍したが、昭和19年の夏には連隊長ともあろう陸軍大佐が、病気入院中の気安さからついポロリと敗戦を予言したような言葉を洩らしたと書いている。陸軍にしてその有り様である。機械と科学力が頼りの海軍士官がホンネで何を考えていたかは言うまでもあるまい。

 吉田氏のこの文章はフィクションではあるが、まったくの虚偽を並べた作り話でもないというのが私の結論である。しかし終戦直後に出版された本の中のこの部分は、その後さらに思いも寄らなかった誤解を広める一因にもなったのではないか。
 それは兵学校出の士官と学徒出身の予備士官が艦内で乱闘したという衝撃的な内容から、両者は常に反目し合っていたという誤解である。私にメールを下さったある大学の先生のご尊父は、戦争中は予備士官出身の搭乗員だったが、兵学校出の士官搭乗員とは同じ仲間という意識の下に何の垣根も無かったということだ。



(9)機械室、罐室注水

 実は吉田満氏の「戦艦大和の最期」には士官同士の艦内乱闘以外にももう1ヶ所、論議の的になっている部分がある。右舷機械室・罐室注水の件である。

 米軍としては戦艦大和の出撃を察知した時、いろいろ複雑な思惑があったという。太平洋戦争開始以来、海戦の主役は戦艦から航空機へと移っていったのは周知の事実だが、アメリカの戦艦部隊でも機動部隊の護衛やら、艦砲による陸上砲撃など脇役の任務ばかりで、戦艦の乗員の間には欲求不満が溜まっていたらしい。
 そこで大和出撃を知った米艦隊司令部は、戦艦部隊に手柄を立てさせてやろうと考えたと言われている。一説によると、日露戦争の日本海海戦で大勝利を飾った東郷平八郎はアメリカを含む全世界の海軍将官の尊敬の的だったが、その東郷の後輩たちに引導を渡すのは是非とも東郷と同じ方法(つまり戦艦vs戦艦の勝負)で、という意見もあったという。
 まあ、どこまでが本当か判らないが、いずれにしても戦艦大和との対決に関して、戦艦部隊と航空部隊が互いに手柄を争ったというのは、別に軍人であればヤンキーの海軍に限らずとも、ありそうな話である。アメリカの航空部隊は前年のレイテ沖海戦で、大和の姉妹艦の武蔵を撃沈しているが、その時はアメリカ人は誰一人として武蔵が沈没するところを目撃していない。だから、今度の手柄は戦艦部隊に譲ってやれと言われても、「ハイどうぞ」というわけには行かなかっただろう。

 そんな事情からだろうか。アメリカの航空部隊は戦艦部隊に手柄を横取りされる前に早急に片を付けようと、雷撃機は大和の左舷ばかりを狙ったという説が戦後しばらく有力だった。事実、戦闘初期の段階で大和の左舷に命中した魚雷が多く、そのためか同型艦の武蔵が魚雷20ないし26本を受けたのに対して、大和は10ないし12本の魚雷で沈められている。
 魚雷や爆弾が何発命中したかは、今となっては正確な数が判るわけではなく、敵味方双方の証言を突き合わせて集計するのだが、記録が執筆された時期や執筆者によっても、両艦に対する命中弾の数には隔たりがある。しかしそれでも大和は武蔵の約半数の魚雷で沈没に至ったことだけは確実らしい。
 これも命中魚雷が左舷に多かったことと関係があると思われるが、さてアメリカ軍のパイロットにとって、大和の左舷を狙うぞ、と申し合わせて空母を飛び立ったとしても、そんなにうまく左舷ばかりに魚雷を発射できるものだろうか。これはパソコンゲーム(Combat Flight Simulator)で雷撃機に乗って敵艦を攻撃するのが非常に難しいことからも判る。敵艦の激しい防御砲火を浴びながら絶好の射点に占位することは、ゲームでも至難の技、まして実戦ではせっかく敵艦に接近したら右舷だったので、もう一度やり直し、などという悠長なことは到底できそうもない。

 また大和攻撃のアメリカ軍の航空部隊の技量は、武蔵と対戦した頃に比べて格段に上達していたと言われ、雷撃機が目標に対して2方向ないし3方向から殺到して魚雷投下、敵艦がどちらに回避してもどれかが命中するというきわめて巧妙な攻撃法が完成の域に達し、さらにこの魚雷攻撃にタイミングを合わせて急降下爆撃機やロケット弾装備の戦闘機が高空から襲いかかり、対空砲火を分散させるという高度な協同攻撃も実施したらしい。
 これに対して、軍艦の側は敵機の魚雷投下に対抗して右に回避するか(面舵)、左に回避するか(取舵)は、艦長のクセや好みもあったというから、大和の場合、右へ転舵して回避しようとしたことが多かったのではないか。

 いずれにしても大和は左舷に魚雷を受けることが多かったため、艦は次第に左へ傾いていくことになる。駆逐艦のような小艦では魚雷1発で致命傷になるが、戦艦では魚雷命中で破孔があいても、艦底が隔壁で幾つもの区画に仕切られていて、これで浸水を最小限に食い止める以外にも、反対舷の対称の位置にある区画に同量の海水を注入して艦の傾斜を修正し、以後の戦闘に支障が出ないように計画されている。何しろ艦が傾斜すれば艦砲の照準が狂ってしまうのだ。
 こうして大和は左舷に魚雷を受けても、すぐに右舷の防水区画に注水して傾斜を防いでいたが、やがてその処置にも限界がくる。しかも右舷区画の注排水をコントロールする管制所自体が敵弾に破壊されたのだ。吉田氏の原作では以下のように記されている。

管制所の破壊は、ついに右舷防水区画の注水を全く不能となせり
訓練時の想定にもかつてなき最悪の事態 しかもこれのみが唯一の現実ならんとは
想えば無用にして甘き訓練の反復なりき
米軍よく渾身の膂力を、連続強襲、魚雷片舷集中の二点に注げるか
艦長「傾斜復旧ヲ急ゲ」と叫ぶこと数度 伝声管の中継により所要部署に伝う
されど復元は容易ならず 防水区画以外の右舷各室に海水注入のほか方策なし
敵、脚下に迫り傾覆を謀る 危うし いかなる犠牲をも敢えてせん
機械室および罐室への注水を最良の策とす(両室は、海水ポンプにて急遽注水可能なる最大、最低位の室なれば、傾斜復旧に著効を期し得ん)
防禦総指揮官(副長兼務)、無断注水を決意
全力運転中の機械室、罐室―機関科員の配置なり これまで炎熱、噪音とたたかい、終始黙々と艦を走らせきたりし彼ら 戦況を窺う由もなき艦底に屏息し、全身これ汗と油にまみれ、会話連絡すべて手先信号に頼る
海水ポンプ所掌の応急科員さすがに躊躇
「急ゲ」われ電話一本にて指揮所を督促
機関科員数百名、海水奔入の瞬時、飛沫の一滴となってくだけ散る
彼らその一瞬、何も見ず何も聞かず、ただ一塊となって溶け、渦流となりて飛散したるべし 沸き立つ水圧の猛威
数百の生命、辛くも艦の傾斜をあがなう


と悲惨の極みである。大和機関科員の御遺族がこの原作を読まれた時、どんな思いだっただろうか。

 ところが吉田満氏の「戦艦大和の最期」のこの部分に、戦後の一時期、異議が申し立てられたことがあった。文中にもある大和副長の能村次郎氏が著した「慟哭の海」にも、制作指導した新東宝の映画「戦艦大和」にも、それに相当する場面は描かれていないのである。また能村氏本人も雑誌か何かのインタビューで明確に否定されたこともあった。
 軍艦が戦闘中、攻撃の命令はすべて艦長が下すが、傾斜復旧や消火などの防御面の指揮は副長が取ることになっていた。その防御の最高責任者が否定しているのだから、吉田氏の文章にある機械室・罐室注水は作者の記憶違いであるというのが、申し立てられた異議の内容である。

 皆さんはこの論議をどう捉えられるだろうか。私はこれを戦後の感覚で論じても始まらないのではないかと考えていた。記憶違いの可能性は吉田氏ばかりでなく、能村氏の側にもあるはずだ。艦の寿命をわずか数十分延ばすためだけに自分が下した命令の苦い記憶は、心理の奥底で抑圧されて忘却されてもおかしくはない。
 さらに御遺族の心中を思えば、吉田氏のように感情の高揚した文体で事実を伝えることにも抵抗があったのではなかろうか。

 私は能村氏らの反論が出た時も、やはり機械室・罐室注水の件は事実だろうと考えており、能村氏の苦衷が手に取るように伝わってきた。ただし注水命令を下した時、大和副長の能村氏自身もまた特攻隊員の1人だったことを忘れてはならない。通常の海戦ならば、軍艦が沈没した時、艦長は艦と運命を共にするが、副長は生還して事実経過を報告することが日本海軍の伝統と不文律になっていた。
 しかし沖縄突入(天一号作戦)では水上艦隊も航空隊同様、生きて帰らぬ特攻隊であり、参加艦艇すべて沈没すれば、艦隊乗員は副長も含めて誰一人助からないのである。作戦が途中で中止されて4隻の駆逐艦が生き残り、生存者を収容することが出来たために能村氏も生還したわけだが、注水命令を下した段階ではそんな事は予想もしなかったであろう。1時間でも1分でも長く海上に留まって、敵機の攻撃を引きつけるのが大和以下の水上特攻隊に課せられた任務だった。

 そういう状況で能村氏が右舷機械室・罐室への注水を決断したことを誰も責められないのではないか。遅かれ早かれ誰もが死ぬことを運命づけられていた局面だった。航空部隊の特攻機のように、命令者たちは生き残り、若い隊員たちだけが死なされる状況とはまったく違う。

 歴史の事実は、たとえ現場に居合わせた人の証言であっても、その人の記憶違いばかりでなく、語る人の立場や、語られた時代の背景によっても微妙に歪められてくるものである。最近、さまざまな新資料や証言をもとにして大和の最期を調査した原勝洋氏の著書「真相・戦艦大和ノ最期」では、最悪の事態と判断した能村副長が、最後の手段である無傷の右舷外側11区の第3罐室と13区の第11罐室、および16区の右舷水圧機室(第3機械室)への注水を命じた、と書かれている。
 躊躇する応急科員に対して、吉田氏も電話で「急げ」と督促したと書いているから、吉田氏自身も心の中に苦い記憶を抱きながら、戦後の時代を生きられたのだろうと思う。やはり特攻作戦などというものは、自己犠牲の美しさなどという情緒で語ってはならないことである。



(10)生と死の狭間

 十死零生、まさに乗員一人残らず生きて帰れぬ特攻作戦も、戦艦大和以下主要艦艇を失って、沖縄泊地突入という所期の目的を貫徹できないことが明らかとなり、作戦中止となった。最初から目的を達成できる見込みなどなかった連合艦隊司令部からの無謀な作戦を受諾するに当たって、この艦隊(第2艦隊)の司令長官だった伊藤整一中将は、いよいよ最終局面となった場合には作戦中止を決定する権限の留保を条件にしたとも言われている。もとより伊藤中将もこの作戦には反対であり、司令部からの説得に押し切られた格好だったが、伊藤中将が作戦中止の最後のフリーハンドを留保していたお蔭で、大和副長の能村次郎氏も、学徒出身の吉田満氏も生還することができたのは、不幸中の幸いだった。作戦中止命令が出なかったならば、駆逐艦の最後の1隻までもが沈没して、この作戦の生存者は人事不省でアメリカ軍に救助された十名前後でしかなかったであろう。

 最終段階での作戦中止により、十死零生の特攻作戦が九死一生に変わる。死から生へと運命が転換した瞬間、何名かの人々の身の処し方について、吉田氏は「戦艦大和の最期」の中で痛烈に書いており、生きようとした人々に対してはほとんど罵倒に近い。

忽忙の間、第五波、前方より急襲、百機以上
ときに「矢矧」(巡洋艦)本艦前方三千メートルに全く停止し、「磯風」を横付けせんとしつつあり
「矢矧」に坐乗の水雷戦隊司令官、沈没寸前の「矢矧」を捨て、無傷の「磯風」に移乗せんとするや
司令官の戦死は、作戦遂行に対し甚大なる支障となり、且つ士気一段と沮喪の虞れ多し
されどこの絶望的なる戦局の、しかも特攻必死作戦において、かくも露骨なる司令の延命工作は奇異の感なきを得ず 司令の独断行動なること疑いなし 彼、帰還の後、批判の矢面に立ちたるは当然なり 特に少壮士官の攻撃鋭し


 大和の護衛に当たった第2水雷戦隊の旗艦は軽巡洋艦矢矧で、司令官古村啓蔵少将が坐乗していた。戦闘終了後、この司令官が生き残ったことを、吉田氏も激しく批判したことが窺われる。
 また矢矧艦長は原為一大佐であったが、日本海軍の伝統と不文律に反して、この艦長も生還した。
 「戦艦大和の最期」には吉田氏の持ち場だった大和艦橋の様子も書かれている。艦橋にいた大佐、中佐、少佐など参謀たちが生き延びようとして卑屈な態度を取ったことを嘲るような文章だ。

艦橋の生存者十名を出でず
倉皇として脱出せんとする者あり いずれも佐官級の古強者なり
ほとんど水平に近く傾ける「ラッタル」をいざりつつ、振り向きて我らをぬすみ見る
配置を去りて何処に行かんとするや 他にふさわしき死処のありというや
去るものは去るべきなり ただこの得難き死生の寸秒の間、彼らが心中些かの悔恨なきやを想う
われら幸いにしてこの時に泰んず 何にか感謝すべき


 この場面を読むと、吉川英治氏の「新書・太閤記」の一節を思い出してしまう。本能寺の変で織田信長と共に討たれた織田信忠のある家臣が、光秀軍と一戦に及んで討ち死にも覚悟したけれど、たまたま古井戸が目に入ったせいで、つい生命が惜しくなってその中に隠れて助かろうとした話である。この家臣は結局、明智光秀方の雑兵に発見されて不名誉な死を遂げてしまうのだが、人間というものは絶体絶命の窮地に陥れば却って覚悟も定まるものだが、どこかに万が一でも逃げ道があれば自己保存の本能的欲求に容易く屈してしまう弱い存在なのかも知れない。
 実は断末魔に陥った大和では、すでに沖縄突入作戦中止が決定されており、生存者移乗のため駆逐艦の横付けを求めていたのだが、それを潔しとしない駆逐艦長もいたようだ。

「冬月」艦長、「チカヨレ」の発光を見て怒髪天を突き、先任将校の「横付ケ救出用意ヨロシイ」の報告には面も向けず、「大和」の反対方向に突っ走れりという
特攻突入より、急転直下挫折帰還への変更の、あまりに不甲斐なしと、憤慨に堪えざりしならん
さきに倉皇として脱出せる参謀連は、その時、一点射しきたる生還の光明を見たるなり
帰投の決定をみずからの耳に聞き、命永らえんと身を処したるなり
われもまたこれを関知せば、果たして如何、よく泰んじて、この身の転倒に堪え得たるや 知らざりし故の蛮勇なり


 吉田氏は、先に大和艦橋から逃れ出ようとした参謀たちを嘲ったが、その時に自分が泰然としていられたのは、作戦中止、生還への一縷の光明を知らなかったからこそであると正直に告白している。

 吉田氏が「戦艦大和の最期」を執筆したのは、別に軍国主義的な熱情を煽るためでも、愛国の意気を鼓舞するためでもない、あの戦争の中で自分たち学徒出身の予備士官が何を考え、何を感じ、どのように行動したかを、ありのままに書き記しておくためだと述べている。そして単なる一国民であった自分が兵士として戦争にどのように協力したかを検証することが、戦争全体への反省の第一歩であると書いている。
 その結果、吉田氏は、国民の政治への恐るべき無関心、つまり国家意志のあり方を自分の問題として具体的に取り組まなかったことで、大多数の国民が戦争協力の責任を問われるべきだと断言するに至るのだが、これは例の9.11の総選挙を見るまでもなく、現代の日本人にも突きつけられるべき大問題であろう。詳細は吉田満氏の随筆「一兵士の責任」に譲る。

 問題を限定して、ここでは東京帝國大學法科出身のインテリであった吉田満氏までが、兵学校出の職業軍人顔負けの非合理性で、特攻死を肯定していた恐ろしさを考えてみたい。
 それは「戦艦大和の最期」を執筆した段階での吉田氏の心情ではない。あくまで大和沈没の瞬間を回想して、その時点の心情をできるだけ正確に記載しようと試みた内容である。
 吉田氏はすでに大和出撃前から、日本の新生にさきがけて散るという臼淵大尉の言葉に共感している。また下士官でさえ躊躇した機械室・罐室注水命令を業務と割り切って伝達した。そして少しでも司令機能を保全しようとする水雷戦隊司令官の当然で合理的な作戦行動を卑怯と感じ、大和艦橋から逃れ出ようとする参謀たちを軽侮の目で眺めていた。日本有数のインテリだったはずの吉田氏までが、このような非合理的思考に染まっていた時代、それが何を意味するのか。

 合理的思考という観点で論じるならば、この作戦で大和を護衛した第2水雷戦隊旗艦矢矧の艦長だった原為一大佐の方が、吉田氏よりもはるかに合理的だったと言わざるを得ない。原為一艦長は、当時の日本海軍の伝統を破って矢矧沈没後も泳いで生き残り、戦後「帝国海軍の最後」という本を著している。その著書の沖縄突入作戦の部分に以下の記述がある。

はなばなしい壮途の門出に際し、私は愛する矢矧の全乗員を前甲板に集合し、この度の菊水特攻作戦の目的は、味方特攻機と協同し沖縄周辺の敵機動部隊を捕捉攻撃して、さらに突入して沖縄島嘉手納泊地にある敵艦船を徹底的に撃砕し、幸いに生き残れば敵前上陸を敢行、わが沖縄守備隊と協力して敵陸上部隊を攻撃すべき超人的任務を有する特攻隊であることを説明すると共に、各員がよく全能力を発揮して、所期の目的を達成し、三千年の光輝ある歴史を、一そう光輝あらしめんことを望む旨の艦長として最後の訓示を行ない、一同を激励して相共に、その成功を祈った。そしてまたことさらに軽率に死を求めることなく、生命のある限り、強靭な闘魂をふるい起こし、精魂の限りをつくして敵を撃砕することこそ、皇国に忠誠なるゆえんである、と私の信念を述べた。
 私のこの訓示は「艦と生死を共にする」という日本海軍の伝統的精神と矛盾するといって、純真な八田中尉が直ぐ手を挙げて、私に質問した。そこで私は改めて、祖父原茂一郎から幼時の寝物語りに聞かされた柴田勝家の家来佐久間玄蕃盛政が、武人最大の恥辱をしのんで捕われの身となり、あくまで素志を貫徹せんとした忠誠美談、なお近くはミッドウェー海戦で、わが海軍が空母四隻を喪失したこともさることながら、名将山口多聞少将以下、多年訓練された優秀精練なる搭乗員を多数失ったことが、今日日本敗退のひとつの大きな原因であること、駆逐艦長一人の養成に少なくとも10年を要し、水兵ひとりの教育もなみ大抵ではないことなどを説明し、かつ、海軍軍人として貴重な艦を、死をもって守る強烈なる責任感を堅持することは当然だが、限られた主従間の小乗的武士道の封建時代と異り、現代のような国家国防機構においては、わが国わが民族の存する限り、これと運命を共にすることこそ、わが武士道の真髄であって、逆境にたって闘志を失い自ら卑下し、過早に死を求めたり、自責の念にのみとらわれて高所大局に立って将来を考えず、無用無益な死によって、大切な人的資源を失うことは、むしろ敵の欲するところであり、わが海軍にとって甚大な損失であることなど、つぶさに所懐を披瀝して諭すと、八田中尉は晴々した面持ちで「よく解りました」といって立ち去った。


 こういう物の考え方が海軍兵学校出身の巡洋艦の艦長にできて、東京帝國大學出身のインテリ士官に出来なかったのか。原為一大佐は決して生命惜しさに都合の良い理屈を並べ立てる怯惰な軍人ではなかった。日頃から宮本武蔵を研究して、駆逐艦長時代は南方で常に合理的精神で敵と戦い、見事な戦果を収めてきた海軍士官である。その戦歴も「帝国海軍の最後」に詳しい。

 むしろ一般国民、一般大衆と呼ばれる人々こそ、戦争の時代になれば熱烈にこれに迎合し、非合理的熱情に浮かされるようになりやすいのではなかろうか。そして吉田満氏はそれを「一兵士の責任」として、一般国民にも戦争責任ありと断じているのではなかろうか。



(11)悲痛の極み、陸奥爆沈

 戦艦大和・武蔵とも薄命で薄幸の軍艦で、その最期はともに悲惨であったが、この2艦にも増して悲惨な最期を遂げたのは、大和・武蔵の姉貴分とも言える戦艦陸奥である。
 このページを読んで下さるような方々には今さらクドクド言うほどのことではないが、戦艦陸奥は姉妹艦長門と共に、大和級戦艦の完成までは日本海軍を代表する最大の戦艦で、永年にわたって長門と交代で連合艦隊旗艦を務めた。第一次世界大戦後の日本海軍の建艦計画・八八艦隊(戦艦8隻巡洋戦艦8隻よりなる主力艦隊計画)の先陣を切って完成した2艦であったが、1922年のワシントン海軍軍縮会議の結果、すでに完成していた長門は保持を認められたが、未完成と見なされた陸奥は(実際にもギリギリ未完成だった)廃棄されるかどうかの瀬戸際に立たされた。関係者の懸命の工作によって何とか廃棄を免れた戦艦陸奥は、戦前も長いこと連合艦隊のシンボルとして国民から親しまれたが、太平洋戦争開戦後は航空機の発達もあって戦艦部隊の出番はなく、大した活躍の場も無いまま、1943年(昭和18年)6月8日正午頃、瀬戸内海の柱島泊地でブイ移動の準備中、謎の火薬庫大爆発を起こして爆沈してしまったのである。乗艦者1474名中、生存者はわずかに353名。

 ノンフィクション作家の吉村昭氏による「陸奥爆沈」は非常に綿密な取材に基づいており、お読みになった方も多いだろう。吉村氏は陸奥遺族会の方々にも取材しているが、戦闘中に沈没した戦艦武蔵の遺族会に比べてさらに沈痛な雰囲気だと述べておられる。(吉村氏は「戦艦武蔵」というノンフィクションも手がけた。)
 戦場に出ることもなく事故で沈没した戦艦陸奥、まさに死んでも死にきれない思いだったか。戦後瀬戸内海の海底から引き揚げられた陸奥の40サンチ主砲の砲身、スクリュー、舵、錨は、現在呉市の大和ミュージアムの前に展示されている。

 ところで戦艦陸奥爆沈の原因は何であったか。爆沈直後の状況からは敵潜水艦の襲撃は考えにくく、当時から火薬庫の自然発火または兵員の放火が疑われ、吉村昭氏もまたさまざまな検証から素行不良の下士官による放火説を取らざるを得ないという結論に至っている。
 誰も断定する積極的根拠もないままに、某二等兵曹の放火という説が現在までに戦史マニア、艦船マニアの間で定説になりかけており、私もまた戦艦陸奥の艦体が引き揚げられた頃(1970年9月12日)、日記に次のような内容を書き込んでいる。
「たった1人の人間の意志が4万トンの強力な軍艦を一瞬のうちに爆沈に至らしめた。陸奥は帝国海軍が当時の一流科学技術の粋を集めて建造した巨艦である。敵艦や敵機の猛烈な攻撃にも耐えるように作られた鋼鉄の船である。どこに1人の人間の意志よりも脆い部分があったのだろうか。」
 そしてその頃、パレスチナゲリラによって米・英・スイスの大型旅客機4機がハイジャックされていた事件と合わせて、文明はすべての人間が“善良”であることを前提とする、逆に言えばたった1人の人間でも文明の弱点を狙って世界を混乱させることもできるわけだ、と結論している。

 ところで私が今回戦艦陸奥爆沈のことを書いたのは、そんな若き日の感傷に再び浸るためではない。今まで陸奥爆沈の真相解明の場に出てくることのなかった意外な証言が書かれた書籍を見つけたので、せめてこのページを読んで下さる艦船マニアの方に紹介しようと思ったのである。
 書いたのは大高勇治さんという元駆逐艦乗りで、書名は「海の狼:駆逐艦奮迅録―第七駆逐隊太平洋海戦記」(光人社)である。開戦時、大高氏が乗り組んでいた駆逐艦 潮は昭和16年12月29日、豊後水道沖に敵潜水艦出没との情報により、急遽対潜哨戒出動命令を受ける。出動に先立って、潮は瀬戸内海の柱島泊地で爆雷装填作業を行なうのだが、この作業中、誤って信管を付けた爆雷を1個、海底に落としてしまう。現場の作業責任者はこの事実を上層部に報告することなく、水深25メートルで爆発するように調整した爆雷を海底に残したまま、潮は出撃してしまった。
 泊地のそのあたりの水深はちょうど25メートル前後、そして1年半後に陸奥が爆沈したのもそのあたり。爆発深度ギリギリで止まっていた爆雷が巨艦のスクリューの渦に巻き込まれて25メートルの水深に落ち込んだ可能性もある。爆雷に詰められた200キロの爆薬が艦底で爆発すれば火薬庫を誘爆させる威力は十分ある。また戦艦の火薬庫の管理は厳重で、たとえ艦長がスパイであっても放火できるようなものではなかったはずだ。大高氏は赤裸々に書き綴った後、結論は読者の自由であると述べておられる。
 確かに信管が海底の塩分の中で1年半も生きているかどうかは不明だが、陸奥が沈没したのはブイ移動のためにスクリューを回した直後、しかも放火犯なら人目の少ない夜間を狙うだろうに、正午前後だった。

 この平成の時代に出版された証言をどう見るか。(この戦記は以前に雑誌「丸」の巻末長編戦記として掲載されたものらしいが…)大高氏の著書の他の部分には、いわゆる“アッと驚くようなサプライズ”の記事はなく、淡々と御自分の経験談を書いているだけで、内容も他の駆逐艦乗りの方が書いた戦記と比べて誇張癖があるわけではない。
 大高氏は海軍に憧れて志願した生粋の海軍軍人、同僚の作業ミスが表沙汰にならないように今まで黙っていたのだろうが、このままではやはり海軍の仲間である戦艦陸奥の某ニ等兵曹への嫌疑が定説として残ってしまう。おそらく御自分の余命もギリギリのところで出版を決意されたのではないかと思う。誤って爆雷を落とした人々も多くは戦死して今は亡い、とわざわざ断わっておられる。
 真実は今となっては判らないし、誤って落ちた爆雷が本当に陸奥を沈めたかどうかも確認のしようがない。しかし私は当時海軍にあった人々のうち、大高氏のような下士官や特務士官だった方々の言は信頼するに足るものだと思っている。陸奥爆沈が歴史として検証されるようになる時は、大高氏の証言も取り上げて、従来の放火説と突き合わせていく必要があろう。

補足(1)
 大高氏の著書の内容は従来の戦史の定説とあまりに異なる証言なので、その信憑性について少し補足しておく必要がある。大高氏は明治42年生まれで昭和56年に亡くなられたとあるから享年72歳。今で言えば特別に長寿というわけでもないが、著書の中には記憶違いや勘違いの類がやや目立つような気がする。
 例えば真珠湾空襲部隊の参加空母に「瑞鶴」「翔鶴」の名がなく、随伴した高速戦艦が2隻余分で、護衛の重巡洋艦名も間違っている。また鳥目と壊血病を混同している記載もある。
 そういう記憶違いや勘違いの内容の多い著書に書かれた新証言をどう扱うかは非常に難しい。爆雷落下事故の件も記憶違いとして一蹴してしまうのも、確かに戦史研究の一つの態度かも知れない。しかしこれが刑事事件の捜査だったらどうなのか?戦艦陸奥の某二等兵曹に嫌疑がかかっているのである。どうせ被疑者死亡で一件落着…それで良いのか?
 もし自分が死んだ後にある犯罪の無実の容疑を掛けられたままだったとしたらどう思うか。それは予備校時代の日本史教師の教えだった。歴史というのは過去に生きた人々の真実を追究する学問だ、そしてそのことはまた未来の人間が我々を正しく理解してくれることにつながるのだ。
 そういうわけで私は大高氏の証言にギリギリまでこだわってみたい気がする。大高氏は爆雷落下事故の過失をあばいた後、わざわざ陸奥爆沈との関連をほのめかしている。かつて同じ艦に乗務した仲間のいわば過失致死罪を告発するような文章を何故書いたのか?大高氏は何を言いたかったのか?
 吉村昭氏がノンフィクション「陸奥爆沈」のあとがきを書いた日付は昭和54年10月になっている。大高氏の亡くなる2年前だ。もしかしたら大高氏は吉村氏の「陸奥爆沈」を読んで某二等兵曹(吉村氏はQ氏としている)に容疑が掛かっているのを知り、短い余命のうちに新たな証言を付け加えようとしたのではなかろうか。
 かつて同じ艦で戦った同僚へのストレートな告発にならず、陸奥の二等兵曹を救う証言をするには、あの著書「海の狼:駆逐艦奮迅録」は最も好ましい体裁である。少なくとも私が大高氏ならそうする。だから真珠湾空襲部隊の陣容の記載が不備なのも、それで逆に説明がつく。
 爆雷落下事故の事実を闇に葬った経緯、そしてその場所で戦艦陸奥が沈没したと知った経緯。これは戦中・戦後を通じて、大高氏をはじめ現場に居合わせた人々の脳裡から離れるとは思えない。戦後も陸奥の艦体引き揚げが話題になるたびに記憶を新たにさせられたことだろう。そして吉村氏の作品に接するに至って、ついに大高氏も執筆を決意した。もし私が大高氏ならば、そういう経過が最も納得できるのだ。
 いずれにしてもまだ幾つか確認しなければならないことがあるが、歴史とは結局、過去の人間を被告人にした裁判なのかなと思う。

補足(2)
 爆雷落下事故と陸奥爆沈の因果関係について、水深25メートルで爆発した爆雷が戦艦の艦底をブチ抜けるかという疑問がまずある。しかし水深25メートルと言っても、戦艦陸奥の吃水は約9.5メートルだから、差し引き約15メートルの距離で爆発したことになる。
 陸奥の計画された頃、航空機も潜水艦もまだ第二次世界大戦当時に比べればまだまだ未発達で、戦艦にとって最も恐ろしい敵は海底から艦底を狙う機雷だった。事実、日露戦争の旅順港封鎖戦ではロシア戦艦ペトロパブロフスク、日本戦艦初瀬と八島が相次いで機雷で艦底を破られて撃沈されている。当然、日露戦争後の八八艦隊計画のトップバッター長門級も機雷に関しては十分な艦底の装甲が施されていたと考えるべきである。
 距離15メートルで爆発した爆雷の威力がどのくらいのものかを客観的に示す文献を探す必要がある。戦艦よりも薄い装甲しか持たない潜水艦が、かなりの至近距離で敵駆逐艦の爆雷攻撃を受けながら生還した記録もあるが、潜水艦に対する爆雷攻撃はたぶん水圧の変化で相手を破壊する原理であろう。戦艦の艦底を撃ち抜く場合も同じだろうが、深海での爆発ならばその圧力は四方八方へ分散するのに対し、戦艦の艦底と海底の岩盤の間の狭い空間で爆発すれば、その威力は何倍にも達する可能性がある。

 次に陸奥の某二等兵曹(吉村氏によるQ氏)放火説にも疑問がないわけではない。戦艦陸奥が引き揚げられた時の新聞に、爆発のあった第三番砲塔火薬庫からQ氏の遺骨と印鑑が見つかったという報道があった。それは私の日記にも引用してあるし、また吉村氏は「陸奥爆沈」のあとがきに、遺品の中にQ氏の印鑑2個を見たと書いてある。
 これはあまりにも出来すぎた話ではなかろうか。まず戦艦の主砲の火薬庫に放火して死んだ人間の遺骨や印鑑が、20数年も経って海底から引き揚げられた残骸の中から同定できるのだろうか。
 戦艦の火薬庫と言えばその辺の花火工場どころではない膨大な量の火薬が貯蔵されているはずだ。2001年9月11日のニューヨーク同時多発テロで崩壊した世界貿易センタービルで犠牲者の場合、遺骨さえ発見できない人が多かったではないか。
 DNAの知識が端緒についたばかりの引き揚げ当時、どうやってQ氏の遺骨を鑑定することができたのか。考えれば考えるほど疑問が膨らむばかりである。また小さな印鑑2個が大爆発の最中にも砕けることなく、また戦後20数年もの間、海流にも流されずに火薬庫の残骸の中に留まっていたというのか。また海軍の軍艦乗りは艦上勤務中も自分の印鑑を肌身離さず持っているものなのか。マスト上での作業中など、ポケットから落とすんじゃないかと気になって作業の邪魔になりそうなものだが…。

 何となく誰かがQ氏に濡れ衣を着せるために口裏を合わせていたようにも見える。爆雷を誤って落とした駆逐艦潮の関係者ばかりではない。本当は自分の過失ではなかったかと心当たりのある人間が他にもいた可能性もある。その人たちがサルベージ会社と結託して、マスコミにQ氏の遺骨や印鑑の偽情報を流したとしたら…。もしそうだとすれば濡れ衣を着て死んだQ二等兵曹は気の毒なことだ。関係者すべてが鬼籍に入るか高齢化した現在、事実は永久に判ることはあるまい。こうなったらQ二等兵曹への疑惑は可能性の一つとするにとどめ、真実は迷宮入りとするしかない。



(12)戦艦大和の死に装束

 2006年7月4日の朝刊各紙に、新しく発見された戦艦大和の写真が掲載された。昭和20年4月6日午前10時頃の写真だそうである。撃沈される1日前の写真だ。毎日新聞の記事によると、大和ミュージアム(呉市海事歴史科学館)の関係者が、アメリカの国立公文所館所蔵の記録写真の中から見つけたものとあるが、実際は徳山工業高等専門学校教授の工藤洋三教授が2001年3月に米空軍マクスウェル基地歴史資料館で発掘されたものであると、ある方からご指摘を頂いた。工藤教授は「空襲・戦災を記録する会全国連絡会議」の事務局を務められている。
 そうすると大和ミュージアムの関係者は工藤教授の業績を横取りする形で、この貴重な写真を新聞各社に流したことになる。こんな醜いことは私の業界でもしょっちゅう行なわれていることで、まったく人間の功名心とは油断ならないものであるが、大和で亡くなった方々にはあまりに気の毒なので、このコーナーではこの辺で止めておく。

 ところでこの写真、記事によればアメリカ軍のB29偵察機が、山口県徳山沖で、高度9296メートルから撮影した航空写真とある。まさに大和の“死に装束”の写真であり、見ていると胸が詰まる思いがする。高度1万メートル近くから、主砲の砲身1本1本が識別できるほど鮮明なカラー写真を撮影できる技術を持った相手に、勝てぬと知りつつ挑まねばならぬ非情な運命…。

 再び、吉田満氏の「戦艦大和の最期」より引用する。

艦内閉鎖状況を重ねて点検
準備作業ほとんど完了 艦内たかまりゆく緊迫のうちに平静を保つ
気重き無聊に苦しむ
艦内スピーカー「郵便物ノ締メ切リハ1000(10時)」
気進まざるも、皆励まし合い、家にしたためんとす
遺書の筆の進みがたきよ されどわが書く一文字をも待ち給う人あり その心に報いざるべからず ああ、母が嘆きをいかにすべき
(中略)
兵員室に行く 最後の通信をしたためおる者多し 直属部下の橋本一水(一等水兵)、「キャンバス」より立ち上がって敬礼す
足下を見れば、鉛筆書きの便箋数葉の上に遺髪一掴みを載す 彼、四十歳、四人の子持ちにして娑婆の職業は八百屋なり 好人物なるも成績芳しからず
のち下士官の談によれば、彼出撃に先立ちて、私物の一切を(紙一枚まで)取り纏め故郷に郵送せりという 老兵にはかかる例少なからず
前後二回、B29各一機の高々度偵察あり 米軍の関心はすでに出撃時刻の予測にあるか


 今回、新聞紙上に発表された写真は、まさに吉田満氏の文章を生々しく裏付けるものである。大和の左舷中央にタンカーか補給船と覚しき船が1隻横付けしているが、その艦尾側にも2隻の小船が接近してきている。出撃当日の午前10時頃の写真、乗組員たちが故郷にしたためた最後の便りを集めに来た小船であろう。
 私物の一切合財を形見として郷里に発送したという子持ち老兵の気持ちを、平成に生きる我々は果たして理解できるのか。彼が4人の子供よりも日本の未来を守ることを自ら望んだとでも、本気で思っているのか。
 後世の安全地帯にいて、「大和の乗組員が日本の未来を守るために決然と死地に赴いた」というような安易なキャッチフレーズで感動を演出する者たちには怒りさえ感ずる。最後の郵便物を積んだ小船が大和の舷側を離れて桟橋へ帰って行く姿を見ながら、この老兵は、いや若い士官たちでさえ何を思っていたのだろうか。

 国家の指導者の無策と無責任、作戦指導部の無能と傲慢によって、彼らは米軍の砲火によってなぶり殺しにされるしかない死地に強制的に追いやられたのだ。どうして戦後のある時期以来(たぶん昭和30年代頃からだろう)、日本国民はこういう批判的な物の見方をしなくなったのか。
 特攻隊員は立派だった、大和の乗組員は潔かった、ひめゆり部隊も偉かった…。国のため、家族のためと覚悟を決めて国に殉じた人たちが立派なのは当たり前のことだ。今さら言うまでもない。しかし彼らを意味もなく米軍の砲火の前にさらして、なす術もなくなぶり殺しにさせた指導部・上層部の責任を何故もっと追及しようとしないのか。

 ゼロ金利に耐え続けた日本国民は立派だった、消費税を上げられても文句を言わず払い続けた日本国民は立派だった、労働条件の悪化にもかかわらず頑張った労働者たちも健気だった…。平成時代の我々も後世の能天気な日本国民からこのように賛美されるかも知れない。しかし後世の国民たちは、中小企業の経営者たちが資金繰りに行き詰まって自殺者が急増する中、ちゃっかり天下り先を手配して安穏としていた高級官僚がいたことは忘れているだろう。ファンド会社からVIP待遇されて濡れ手に粟の高利回りの投資でウハウハしていた日銀総裁がいたことも忘れているだろう。

 今回の大和の写真を眺めていると、乗組員たちを無為に死地に送り込んだ責任者たちに対する憤りと同時に、その責任者たちを寛容に許している平成の多くの国民たちに対する歯がゆさを覚える。
 本土空襲が激化し、太平洋各地で玉砕が相次ぎ、当時のほとんどの国民が無謀な戦であることは判っていた。そんな状況で特攻作戦に向かわされた兵員たちの嘆きを何で聞こうとしないのか?むしろ米軍の圧倒的な物量に敢然と当たって砕けた“潔さ”とか“カッコ良さ”にばかり目が奪われているのではないか?



(13)一兵士の責任

 吉田満氏は戦艦大和に乗り組んで沖縄特攻に参加し、九死に一生を得て奇跡的に生還することができた。沖縄特攻から生還したと言っても、当時の戦況を考えれば、いずれ本土決戦で戦死することは暗黙の了解事項だったであろうが、そのまま終戦を迎えて死ななくて済むことになる。吉田氏は戸惑ったらしい。どうせすぐ死ぬ身の束の間の人生だと思っていたところ、新しく日々を生きていかねばならなくなった。
 吉田氏は戦後の世界に生きていく基盤として、死と向き合っていた人生の一時期を総括してみようと思い立った。それをせずに新しい生活を送ることは不可能と考えたからだ。吉田氏はまず手始めに、自分が参加した沖縄特攻作戦を客観的に記録にとどめようと試みた。それが戦後のロングセラーとなった『戦艦大和の最期』である。沖縄への出撃の途上で繰り広げられた死闘を、戦後の視点で描くのではなく、あくまで当時を回想して、ありのままの自分、またはありのままの仲間たちの姿を客観的に書こうとした。
 一億総懺悔の終戦直後の時代に当時をありのままに描こうとすれば、一見して敵愾心に満ちた好戦的な文章になってしまう。吉田氏は戦争協力者とまで言われた。反戦の気持ちを持っていなかった戦争協力者だから徴兵を忌避しなかったのだろう、また海軍に入ってからもサボタージュをしなかったのだろう、そう言って非難されたと書いておられる。
 ずいぶんメチャクチャな非難である。敗戦によって日本の体制も価値観も根底から引っくり返ってしまった。そんな世の中で、自分は最初から戦争に反対だったと良い子ぶって、戦後世界に迎合しようとする輩も多かったのだろう。そういう偽善者たちの非難に向き合っていくうちに、吉田氏も一つの結論にたどり着く。

召集令状をつきつけられる局面までくれば、すでに尋常の対抗手段はない。そこへくるまでに、おそくとも戦争への準備過程においてこれを阻止するのでなければ、組織的な抵抗は不可能となる。眼に見えない“戦争への傾斜”の大勢をどうして防ぐかにすべてがかかっている。

 これは吉田氏の随筆『一兵士の責任』に述べられていることだが、『戦艦大和の最期』に比べるとお読みになる人も少ないので、ここにご紹介しておく。
 では戦争になってしまえば一般大衆には責任は無いのか。吉田氏は自問する。そして戦争に至るまでの過程において、大多数の大衆にも責任があったと指摘する。

戦争協力の責任は、直接の戦闘行為あるいは、軍隊生活への忠実さだけに限定されるのではなく、さらに広汎に、われわれがみずからをそのような局面まで追いつめていったすべての行動、あらゆる段階における不作為、怠慢と怯惰とを含むはずなのだ。
 私の場合でいえば、戦争か平和かという無数の可能性がつみ重ねられながら一歩一歩深みに落ちていった過程を通じて、まず何よりも政治への恐るべき無関心に毒されていたことを指摘しなければならない。また国家と国民の関係について、国家の意志のあり方について、自分の問題として具体的に取り組んだことはほとんどなかったといっていいだろう。
 他の人について論ずるのは、本論の主旨ではない。しかしこの意味では、おそらく大多数の国民が、ひとしく戦争協力の責任を問われるべきではないだろうか。


 こうして吉田氏は、国民の戦争協力責任は、「政治の動向、世論の方向に無関心のあまり、その破局への道を全く無為に見のがしてきたことにある」との結論に達した。戦争への暴力の前では国民の平和への希求は無力であることが多いが、国家の意志とはある超越した存在ではなく、特定の個人やグループによって導かれるもの、さらにそれを背後から支配する国民の世論によって導かれるものであることを認識すべきだと、吉田氏は『一兵士の責任』の最後に述べている。
 沖縄特攻へ向かう途中、東シナ海の絶望の淵から生還した吉田氏が伝えた教訓を、21世紀初頭に生きる平成日本人のはたして何割くらいの人が本当に理解しているのだろうか。



(14)宇宙戦艦ヤマトの疑問

 今回はガラリと趣向を変えて、大ヒットアニメシリーズとなった宇宙戦艦ヤマトの登場である。(どうせ同じような話になるのであるが…。)
 22世紀の末、地球は太陽系外の恐るべき敵の攻撃を受けて壊滅の危機にあった。この敵の本拠地を叩くべく、東シナ海に眠っていた戦艦大和は宇宙戦艦としてよみがえり、遥か大宇宙の彼方へと旅立つのである。日本のアニメファンなら今さらクドクドと説明しなくてもよいだろう。壮大な叙事詩アニメであった。

 何光年も離れた敵の恒星系まで往復できる“波動エンジン”と、その原理を応用した“波動砲”、理屈はよく判らないが名前からして威力ありそう…、鉄腕アトムと並んで21〜22世紀の日本アニメ最大の発明品であろう。
 こういう名作アニメを揶揄する書籍やサイトの話題で言えば、「無重力の宇宙空間で“急降下爆撃機”って何?」とか、「“宇宙ミサイル”と“宇宙魚雷”の違いって何?」とか、「“宇宙空母”に飛行甲板て必要なの?」とか、いろいろ突っ込みどころは多いが、まあ、日本の多くの青少年に夢を与えた名作であるから、この際それらは問わない。戦艦大和の残骸は火薬庫の爆発で引き裂かれていて、到底宇宙戦艦に改装不可能な状態であることを持ち出すのも野暮であろう。
 ただ私が劇場公開の「宇宙戦艦ヤマト」を観て以来、ずっと気になっていることがある。それはヤマトが立ち向かった敵、ガミラス帝国についてである。

 ガミラス帝国の総統デスラーと副総統ヒス。この名前を聞いた時、私は思わず頭を抱えてしまった。これは明らかにドイツ第3帝国の総統ヒトラーと副総統ヘスを念頭に置いた命名である。そうするとガミラスはゲルマンと一致する。
 単なる偶然の一致だと言うなら、ヤマトを途中で待ち受ける騎士道精神に満ちたガミラスの名将ドメル将軍はどうなる?砂漠の狐ロンメル将軍からの連想ではないのか。(ドメルは艦隊を率いているから本来は“提督”と呼ばれるべきである。)そうするとガミラスに蹂躙されて地球に救援を求めたイスカンダルは、ナチスドイツに迫害されていた民族が戦後に建国したあの国に相当するのではないのか?常に中東地域の火ダネになっていて、最近も近隣諸国を空爆して国際非難を浴びた“あの国”である。

 別に他愛もないアニメの中のお話だから、敵国にどんな名前を付けようと原作者の勝手だが、私に言わせればあまりに節操がないのではないか。ハリウッドなど欧米の戦争映画では当然ナチスドイツは悪玉である。その欧米戦争映画の構図に乗っかって、正義の味方の宇宙戦艦ヤマトがナチスドイツ的な名前を持った敵に立ち向かって行く?ナチスドイツは大日本帝国の同盟国だっただろうが…!
 しかし日本では、「おいおい、ちょっと待てよ」と思った人は意外に少なかったのではないか。実際の歴史を知っていたら恥ずかしくて正視できない。だから私は宇宙戦艦ヤマトシリーズは第1作以来観ていない。第2作以降はアメリカのハルゼイ提督をもじったバルゼイというのも出てきたらしいが、いよいよもって節操がない。それでもこのシリーズは劇場映画・テレビアニメとも大ヒットを続けたのである。

 要するに日本人にとっては戦争とは情緒なのである。他の国々にとっては戦争とは国家と民族の命運を賭けた生きるか死ぬか、食うか食われるかの瀬戸際で行なうのに対して、日本人は情緒で戦争をするのである。だから情緒が高まってくると、とても国力で太刀打ちできないことが最初から判っているような大国に喧嘩を売るような真似をしでかすし、何の実利も御利益もない神社参拝に国家のメンツを賭けて突っ張ってみたりする。(こういう外交も戦争の一形態である。)

 情緒で戦争するから、戦争アニメの敵国は何を象徴していても構わない。何となく悪そうなヤツなら誰でも良いのである。もっともこの風潮は戦後に始まったものではない。何百年も昔から日本人は情緒でしか戦争を考えてこなかった。
 その好例が太平記である。皇統が南北朝に分裂していたこの時代、南朝の後醍醐天皇を擁する楠木正成らは一旦は北朝方の足利尊氏を西国へ討ち払うが、九州の武士団を集めた尊氏軍は一大軍勢となって反攻に転ずる。もはや正成の智謀と勇気をもってしても到底かなわぬほどの大軍であった。
 正成は京都を撤退して比叡山に移って反撃の機会を窺うことを進言するが、後醍醐天皇の側近の公家に却下され、愚痴も文句も言わず、命じられるままに湊川に赴いて尊氏軍との合戦に及び、敢えなく全滅した。この正成の戦い方こそ天晴れであると、日本人は何百年にもわたって褒め称えてきたのであるが、これこそまさに情緒の極致である。

 先ず万世一系の天皇とは、南北朝時代以後は北朝方を指す。しかし日本人は南朝方の天皇を守護した楠木正成を崇め続けた。本来、南朝方は万世一系の皇統を簒奪しようとした裏切り者でなければならない。しかし物語としては尊氏の方が“何となく悪いヤツ”に見える。結局どちらが正当の皇室かというような国家の根幹にかかわる戦いに関する歴史問題ですら、日本人は情緒でしか考えようとしないのである。だから戦艦大和がよみがえってナチスドイツ的な悪玉に向かって行ってもちっとも変だと思わない。

 百歩譲って、南朝の後醍醐天皇を守った楠木正成を主人公にしたとしても、負けることが判っていて死ぬだけの戦いに出陣した心根を愛でることもまた情緒である。他の国々の国民にとっては戦争とは生きるか死ぬかの瀬戸際であるから、生きて勝てるという合理的な可能性の数値がある程度高くなければ出陣などしない。日本人の場合、この生きるか死ぬかの選択が、往々にして(美しく)死ぬか(醜く)死ぬかの選択になってしまう。美しく死のうが醜く死のうが、死んでしまえば負けは負け、戦争とは生き残った人間が多ければ単純に勝ちなのであるが、そういう合理性がない。すべてが情緒である。
 死ぬためだけに出陣した楠木正成の紋所は、流れる水に皇室の菊をあしらった菊水であった。この菊水は、昭和20年の春、まったく勝算の無い死ぬためだけの作戦のコードネームとなり、戦艦大和をはじめとする艦艇や特攻機、多くの将兵がただ情緒のために戦地へ投入されていった。



(15)護衛艦「やまと」

 海上自衛隊には「やまと」という名前の護衛艦はまだ無いが、いずれ誕生するのだろうか。海上自衛隊の主力艦はすべて“護衛艦”と呼称されているけれども、旧海軍や諸外国の海軍であれば駆逐艦や巡洋艦に相当する艦種である。また海上自衛隊の艦船名はすべて平仮名書きで、旧海軍に比べてソフトなイメージがあるが、やはり仮名書きでは限界があるのはやむを得ない。例えば旧海軍の高速戦艦「比叡」は平仮名書きでは「ひえい」、可憐な腰元がクルクルと帯を解かれる乱暴狼藉に悲鳴を上げているみたいだ。さらに昔の巡洋艦名だった「摩耶」、「加古」、「鬼怒」、「那珂」など「まや」、「かこ」、「きぬ」、「なか」と書いても何のことだか判らないし、「那智」など「なち」と書けば何やらとんでもない誤解を受けかねない語呂だ。
 しかし「やまと」は平仮名書きでもおかしくなく、いずれ護衛艦「やまと」が就役する日が来るかも知れないが、その時の日本はおそらく現在とは似ても似つかぬ国家になっていることだろう。

 昭和27年に設置された保安庁(防衛庁の前身)には海上自衛隊の前身としての警備隊も含まれており、翌年度の予算案には早くも国産護衛艦建造の予算が計上されていた。現在DDと呼称される大型護衛艦(甲型警備艦)2隻と、DEと呼称される小型護衛艦(乙型警備艦)3隻である。ただこの時はまだ警備艦と言わずに警備船と呼ばれていた。大型の方が「はるかぜ」と「ゆきかぜ」、小型の方が「あけぼの」、「いかづち」、「いなづま」である。
 以後も海上自衛隊の花形護衛艦の名前は「かぜ」や「なみ」や「あめ」や「ゆき」や「つき」や「くも」や「きり」など天然現象から命名され、これは旧海軍の一等駆逐艦以来の伝統のようだ。ただし天然現象の中でも「しお(潮)」は旧海軍では駆逐艦名だったが、海上自衛隊では潜水艦に命名されている。

 やはり風や波や雨や雪や月や雲や霧などに因んだ艦名は風雅で良いと思っていたら、昭和33年度から始まった第一次防衛力整備計画(一次防)で建造された小型護衛艦(乙型警備艦)に「いすず」、「もがみ」、「きたかみ」、「おおい」と川の名前を取った艦が登場した。川の名前は旧海軍では軽巡洋艦に命名されている。小学生の頃から艦船マニアだった私は、海上自衛隊では大型と小型の艦名の基準が旧海軍と逆転しているなと思ったものだった。川の名前は第三次防衛力整備計画(三次防)の小型護衛艦「ちくご」型、昭和61年度から平成2年度の中期防衛力整備計画の「あぶくま」型へと継承される。
   旧海軍: 軽巡洋艦→川の名前     一等駆逐艦→天然現象名
   自衛隊: 大型護衛艦→天然現象名  小型護衛艦→川の名前


 これはそのうち重巡洋艦に命名していた山の名前をつけた超大型護衛艦を作るつもりかなと予想していたら、案の定、三次防でヘリコプターを搭載する大型護衛艦「はるな」と「ひえい」が誕生した。後者は比叡山から命名されているが、例の腰元の悲鳴みたいな艦名である。山の名前は四次防のヘリコプター搭載護衛艦「しらね」と「くらま」、昭和62年度から相次いで計画されたイージス護衛艦「こんごう」、「きりしま」、「みょうこう」、「ちょうかい」と続き、さらに今年(2007年)就役したイージス護衛艦「あたご」、来年就役する「あしがら」もこの系譜である。このあたりになるとまさに旧海軍の重巡洋艦に相当する大艦であり、命名基準も旧海軍に近くなってきた。
 なおイージス艦は海上自衛隊がインド洋へ派遣された当初はアメリカと日本だけが保有する艦種であったが、その後イージス艦保有国の数は少し増えて、スペインとノルウェーが仲間入りしたほか、来年度は韓国にも就役する予定である。朝鮮半島情勢にも影響を与えそうだ。

 さてこうやって見てくると、仮に護衛艦「やまと」が誕生した場合、それはどのような艦だろうか。最初の国産護衛艦は“警備船”として予算が通り、当初は排水量2000トン未満の艦に、旧海軍の駆逐艦と同じく風雅な名前を付けていたが、やがて軽巡洋艦クラスの名前を付け、次に重巡洋艦クラスの名前を付け、排水量もどんどん増加していった。最新鋭の「あたご」の満載排水量は10,000トンである。
 では旧海軍が戦艦に命名していた古い国名(「大和」「武蔵」「長門」など)を持つ護衛艦とはどんな艦種か。これはよく艦船マニアの間では話題になることである。何万トンもの巨体に巨砲を搭載した戦艦の時代はもう終わっているから、私は護衛艦「やまと」はたぶん航空母艦であろうと思う。
 海上自衛隊は平成16年度予算で13500トン型の大型護衛艦を建造中で、これは航空母艦のような長大な飛行甲板を持つことから、空母ではないかと追求される一幕もあったらしい。しかしこれはいわゆるヘリコプター空母であり、戦闘機や爆撃機を搭載する本格的空母ではないから、おそらく従来の命名基準で山の名前が冠されると思われる。私は「あかぎ」または「あまぎ」と予想しているが…。
(後日談:2007年8月23日に進水した13500トン型護衛艦は、私の予想は外れて「ひゅうが」と命名された。まさに旧戦艦の命名基準である。この件については別のコーナーで。)

 「やまと」と呼ばれる“護衛艦”はたぶん現在アメリカやイギリス海軍が保有しているような固定翼の軍用機が離着艦できる“正規空母”になるだろう。そんな艦を将来日本が建造するようになるなど、これまでは単なる夢物語かSF架空戦記の世界でしかなかったが、最近の政府の動向を見ていると、21世紀の日本海軍が機動部隊を再建して太平洋や日本海に乗り出すことなど絶対にないと言い切れるだろうか?
 “保安庁”として発足した“防衛庁”がいつの間にか“防衛省”になり、“自衛隊”を“自衛軍”と呼ぶようになれば、いずれは“陸海空軍”になるであろうし、名実共に重巡洋艦クラスの艦が続々と就役するようになれば、従来の“護衛艦”という呼称もやがて不適切になる。
 「やまと」という艦名の響きは美しいが、私自身はもうこういう名前の艦が現実に就役して欲しいとは思わない。


補遺 真夏の夜の夢
 万が一、将来の“海上自衛軍”に“航空母艦「やまと」”が就役した場合、その運用はどうなるだろうか。これも考えてみると実は面白い問題である。
 当然「やまと」は軍艦(護衛艦?)であるから、その管轄は海上自衛隊(自衛軍)であることは間違いないが、問題は艦載航空機の管轄である。現在の護衛艦に搭載されている航空機はすべてヘリコプター(回転翼機)であり、艦船と協同作業に従事する目的であるから、これらも海上自衛隊の所属であるのは当然である。
 しかし本格的空母に載せる戦闘機や攻撃機といった固定翼機となると話は別だ。現在の海上自衛隊も対潜哨戒機などの固定翼機を持っているが、空母艦載機として本格的な戦闘や攻撃に従事させるならば、やはりその所轄は航空自衛隊(自衛軍)ということになる。
 第二次世界大戦後のアメリカでは空軍が独立して、空母艦載機を運用する海軍とは別個に機材を調達しているが、こんな莫大な軍事予算支出は日本では絶対無理、無理…!海上自衛隊が空母艦載機用として独自のジェット戦闘機やジェット攻撃機を保持するなど、部品や搭載兵器の在庫管理や、パイロットや整備員や管制官などの養成を二重に行なうことになり、国家予算の制約の面からは問題が大きい。

 旧日本軍には陸軍と海軍だけで空軍は無かったが、陸軍と海軍がそれぞれ独自に航空部隊を創設して維持していたため、航空機の開発、パイロットや整備員の養成、部品や兵器の在庫管理も互いに融通が利かず、ただでさえ貧乏国家の軍事予算を食い潰したばかりか、いざ実戦となると陸軍のパイロットは洋上飛行ができず、陸海軍の協同航空作戦も思うに任せなかった。

 敵国だった当時のアメリカでも陸軍と海軍は決して仲が良くはなかったが、昭和17年4月18日には海軍の空母ホーネットからドゥーリットル中佐の率いる陸軍のB25爆撃機の編隊が飛び立って、東京など日本各地に初空襲を決行するなど、日本軍よりはかなり融通が利いたようである。さすがヤンキーというべきか。

 また一方、同盟国ナチスドイツには陸海軍の他に独立した空軍があり、軍用機は空軍省の指令に従って行動していたようだ。通商破壊戦に従事していたドイツ海軍のポケット戦艦に搭載されている艦載偵察機も空軍省のゲーリング大将の所轄下にあり、肝心な時に軍艦との連絡に齟齬があったと記してある本もある。(クランケ&ブレネケ著・伊藤哲訳:ポケット戦艦−アドミラル・シェアの活躍−ハヤカワ文庫NF)

 もし将来の日本の自衛隊が本格的空母を就役させることになったと仮定した場合(本当に仮定の話である)、海上自衛隊(海自)と航空自衛隊(空自)はどのように協同運用することになるだろうか。自衛隊では旧日本陸海軍が互いに反目して、何事につけても無用に張り合って柔軟な協調性を欠いていた反省から、陸海空自衛隊の初期幹部教育はすべて防衛大学校に一本化されて、各自衛隊間の意思疎通を円滑にするということになっているけれども、やはりすべては人間がやる事、なかなか当初の理想どおりには行かないようだ。
 特に海自の体質は「唯我独尊 伝統墨守」と揶揄されており、旧帝国海軍の伝統を引き継いでいるという自負が強い。太平洋戦争も陸軍が勝手に突っ走って始めたものだという「陸軍悪玉・海軍善玉論」も海自幹部にとっては好都合なのだろう。
 一方、艦載機を運用することになるであろう空自は「勇猛果敢 支離滅裂」と揶揄されているが、これから考えられる空母「やまと」のイメージは、伝統を鼻に掛けたエリート意識の強い海自の艦に、お調子者の空自の飛行機が乗っているという感じである。これで協同作業が円滑にできるのだろうか。

 かつてこれとよく似たケースがあった。これは空自と陸自(陸上自衛隊)間の調整であったが、地対空ミサイルの管轄問題である。アメリカから導入される対空ミサイルには長射程のナイキと短射程のホークがあり、アメリカでは本土防空はすべて陸軍の管轄であるが、専守防衛の日本の場合、そんなことを言い出せば空自の出番は少なくなってしまう。
 日本では防空は空自の役割であるが、防空用のミサイルを2種類とも陸自に取られたら予算も持って行かれて大変だとばかり、“勇猛果敢”に“支離滅裂”な主張を展開したのだろう。結局は遠距離防空用のナイキは空自、近距離防空用のホークは陸自に配備されることになった。中距離に落ちてきた敵弾は誰が処理するのか?ちなみに陸自を揶揄する言葉は「用意周到 意味不明」だそうである。

 空母建造となった時には、今度は空自は海自と対決しなければならなくなる。おそらく海自は空母建造を計画する際に、海自独自の艦載航空機部隊の創設の概算要求を出すが、これで職域を侵される空自が必死で阻止工作を展開するというシナリオになるだろう。現在の日本の国防は専守防衛であるから、空自の戦闘機や攻撃機が空母に乗ってどこかへ出かけて行って戦闘をすることは絶対にないが、最近の憲法9条改正論議の先にある我が国の未来像を“真夏の夜の夢”の続きとして見届けるとすれば、やはりお役所的縄張り意識を払拭できない日本人には本格的空母の運用などは考えない方が良いのではないか。
 まあ、旧帝国海軍の伝統にお高く止まった海自は、空自や陸自を見下していて、自分たちの戦友はアメリカ海軍であると思っているらしいなどと、笑うに笑えない陰口も叩かれているようだが、まさか空母を作ったら作戦海面に派遣しておいて、アメリカ海軍機の燃料や兵器の補給に従事させることはないだろうか。テロ対策特別措置法の期限延長問題に絡んで、本当に真夏の夜の悪夢になってきた…。



(16)護衛艦「むつ」はできるか

 かつてこのコーナーでも話題にした護衛艦「やまと」、あれからわずか2年半ばかりの間に、いずれ「やまと」就役という事態もかなり現実味を帯びてきた。それが我が国にとって良い事か悪い事か、それは将来の国民の判断に委ねることにして…。

 私がそう思う根拠は例の13500トン型護衛艦であるが、1番艦「ひゅうが」に続いて2番艦は「いせ」と命名された。順番は逆であるが、「伊勢(いせ)」「日向(ひうが)」とくれば、これはもう軍艦マニアから見れば、旧日本海軍の伊勢型戦艦の名前をそのまま踏襲したと考えない方がおかしい。
 大正年間に完成した伊勢型戦艦は、昭和に入ってから近代化改装も行なわれているが、何と言っても最も特徴的なことは、昭和17年のミッドウェイ海戦で日本海軍が大型空母4隻を失って大敗し、その空母陣の穴を埋めるべく、この伊勢型の姉妹が2隻揃って航空戦艦に改装されたことである。
 伊勢型はもともと扶桑型戦艦(扶桑、山城)の3、4番艦として計画されたが、扶桑型と主砲配置が異なっていたため、後部の砲塔2基を撤去して、代わりに艦の全長の1/3程度の長さの飛行甲板を設置され、戦艦としても空母としても使えるように改装されたわけだ。

 艦載航空機22機を発着させられるようになった伊勢型航空戦艦であったが、全長が飛行甲板となった正規空母でさえ着艦が難しく、大戦後期にはそんな中途半端な飛行甲板に着艦できるだけの技量を持ったパイロットも少なくなっていたし、肝心の正規空母に搭載する航空機も底をついていたから、伊勢型戦艦が空母として使用されたことは1度もなかった。

 ただ伊勢と日向は、姉貴分の扶桑と山城に比べて武運めでたい艦であったことは確かで、昭和19年10月のフィリピン攻防をめぐる諸海戦で、西村艦隊の主力としてスリガオ海峡に突入した扶桑と山城は米戦艦部隊の攻撃を受けて沈没、乗員の大半が艦と運命を共にした。一説によると、沈没後陸地に泳ぎ着いた乗員は住民に殺害され、海上に漂流していた乗員は米艦艇による救助を拒否して海に沈んだという。

 一方、伊勢と日向は、戦艦大和、武蔵、長門を擁してフィリピンの米軍上陸地点に突入する栗田艦隊を援護するため、米機動部隊の攻撃を引きつけるオトリ部隊として、なけなしの空母瑞鶴、瑞鳳、千歳、千代田と共に出撃した小沢艦隊に属していたが、空母全滅後は伊勢と日向に集中する米軍機の攻撃をかわして内地に帰投、最後は瀬戸内海で大破して終戦を迎えた。
 これをエンガノ岬沖海戦と呼称するが、この時の伊勢の中瀬艦長は海軍省勤務が長く、いきなりオトリ艦隊の航空戦艦の艦長に任命されて実戦に参加した。敵の急降下爆撃機の集中攻撃を受けながら1発の被弾もなく、敵味方から老練な艦長と賞賛されたが、敵機が攻撃態勢に入った直後に、常に「取り舵」「取り舵」で左へ回避、次は右へ回るだろうと予測して掛かってくる敵機の裏をかいたそうだ。
 一方、日向の野村艦長も中央勤務が長く、艦長の経験は少なかったそうだが、エンガノ岬沖では敵の爆撃機に対して逆に「面舵」「面舵」で右へ右へと回避、やはり沈没を免れて帰還した。この2人の艦長の話は私も印象に残っていて、人間は窮地に追い込まれたら下手な小細工をしても始まらない、とにかくバカの一つ覚えで頑張り抜く以外にないという教訓になっている。

 ところで話がそれたが、海上自衛隊の13500トン型護衛艦「ひゅうが」と「いせ」が、旧海軍の戦艦と同じく、いずれ空母に化けるフネだろうという勘繰りは避けられない。実はそう思わせておいて本当は違いました、という茶目っ気もあるかも知れないが、どっちにしても周辺諸国の警戒感や過剰対抗処置を考えると、前にも書いたがあまり感心できるネーミングではない。

 「ひゅうが」「いせ」が旧海軍の戦艦を意識したネーミングであることを思えば、いずれ護衛艦「やまと」や「むさし」も検討されるだろうが、その前に護衛艦「ながと」「むつ」はどうだろうか。戦艦長門と陸奥は、大和が完成するまでは日本最大の軍艦で、戦前の軍国少年たちの憧れのマトであり、聯合艦隊旗艦を長年にわたって務めている。
 「ひゅうが」級以上の航空艤装を有する“護衛艦”が就役する時には、「ながと」と命名される可能性は高いと予想するが、はたしてその姉妹艦を「むつ」と名付けるだろうか。

 太平洋戦争を旧国名を背負って戦った日本の戦艦は合計8隻(扶桑、山城、伊勢、日向、長門、陸奥、大和、武蔵)あったが、終戦までその艦体の一部でも海上にあったものは前述の伊勢と日向の他は長門だけである。中でも陸奥は不運の戦艦と言われ、昭和18年に謎の大爆発を起こして瀬戸内海で爆沈してしまったのである。
 戦前の未曾有の艦隊建造計画(八八艦隊)の2番艦として建造され、ワシントン海軍軍縮会議で列強から廃棄を迫られながら、かなりの無理をゴリ押しして誕生した戦艦陸奥であったが、何ら活躍の機会も無いままに、多くの乗員と共に謎の最期を遂げた悲運の巨艦であった。

 概して船乗りはこういう経歴を持った艦船の名前を不吉の前兆として忌み嫌う傾向がある。この科学の時代に何をそんな迷信を信じるのかと笑うかも知れないが、私がまだ船乗りに未練があった昭和44年に日本初の原子力船が進水し、母港に因んで「むつ」と命名された時、私は思わず、エエエーッ!と叫んでしまった。あの悲運の戦艦と同じ名前を付けるなんて…というわけだが、案の定、最初の試験航海で原子炉の放射能漏れを起こし、その後は放射能アレルギーの強い日本国民の総スカンを食らって、なかなか母港受け入れもままならず、日本各地を漂泊する運命を背負ってしまった。漫画家の
手塚治虫さんなどは原子力船「おむつ」などと皮肉った単発漫画を描かれている。

 この「むつ」は現在は原子炉を撤去してディーゼルエンジンに換装し、海洋科学技術センターの海洋地球研究船として活躍しているのはめでたいことだが、もはや昔の不吉な名前は捨てて、「みらい」と命名されている。
 なお「みらい」という名前、かわぐちかいじ氏の漫画「ジパング」の中で、太平洋戦争中にタイムスリップする海上自衛隊の架空のイージス艦名と同じだが、どんな命名基準があっても、普通は海軍艦艇に「みらい(未来)」とは付けないだろう。万一、戦闘や事故で沈没した場合、その国家が未来を失うという縁起の悪いイメージに結びつくからである。
 ただ漫画「ジパング」では、現代からタイムスリップした古い「みらい」が沈没し、その後に新しい未来国家が誕生するという象徴的な意味を持たせていると思われる。
 余計なことだが、あの漫画の中のイージス艦「みらい」の艦番号は182、これは今度海上自衛隊に実際に就役する護衛艦「いせ」と同じある。



(17)戦艦武蔵の故郷

 先日、このサイトの掲示板の方で話題になった時にちょっと気になったのだが、日露戦争後は日本海軍の戦艦は艦名として旧国名を冠している、その国名の分布を調べてみた。
 戦艦はこれから述べる旧国名を命名されているが、防御力をやや犠牲にして機動性を活かした巡洋戦艦については重巡洋艦と同じ山の名前を取っている。これはおそらく日露戦争後の大建艦計画だった八八艦隊(戦艦8隻、装甲巡洋艦8隻)を睨んで、艦種ごとに命名基準を一定にする必要性に迫られたからだと思われるが、当初の計画の装甲巡洋艦は巡洋戦艦となり、さらに太平洋戦争に参加した金剛級4隻(金剛、榛名、比叡、霧島)などは防御力も戦艦並みで“高速戦艦”とも呼ぶべき艦種になっている。

 それで話を戻して戦艦の名前だが、日本海軍の歴史の中で計画されたすべての戦艦のうち、未成に終わった艦、空母に改装された艦までのすべてに命名された旧国名を、日本列島の北から順番に並べてみると大体以下のようになる。
 
陸奥、武蔵、信濃、加賀、尾張、河内、攝津、山城、大和、伊勢、紀伊、安藝、長門、土佐、日向、薩摩(扶桑は日本全体の古称であるので外しておく)
 この他に日露戦争の戦利艦として、相模、丹後、石見、周防、壱岐、肥前の6艦があるが、これは日露戦争の戦場に近い国の名を意識的に取ったものも多いから除いておく。

 こうしてみると、海防の要であった戦艦に命名される国名として、東日本よりも西日本の方が圧倒的に多いが、もともと旧国名は奈良時代の律令制に基づいて定められたものだから、西日本に片寄っているのは当然である。平安時代には都からの距離によって、畿内、近国、中国、遠国の4つに類別されたが、上記の戦艦名でいくと、西日本の遠国は安藝、長門、土佐、日向、薩摩の5国、東日本の遠国は陸奥、武蔵の2国である。西日本は古代以来日本列島の中央政権との関わりも深く、また明治維新の立役者だった地域の国名が多く命名されているので別格として、東日本の陸奥と武蔵は日本戦艦の中では異色の命名といって良いかも知れない。
 この2艦はただの戦艦ではない。それぞれの時代に新たな日本の国防を担うべき艦隊整備計画の2番艦として計画された艦なのである。日露戦争後の対米戦までを念頭に置いた八八艦隊計画の戦艦長門に続く2番艦が陸奥、そしてワシントン軍縮条約が失効した無条約時代のマル三計画、超大型戦艦大和に続く2番艦が武蔵だった。
 古代以来、日本の中央政権に対峙してきた東日本の勢力とも、ここはもう名実共に一体となって日本を守ろうという意気込みが背景にあったのではないか。

 1番艦大和は呉の海軍工廠で建造されたが、2番艦武蔵はその名の由来する地域に近い横須賀海軍工廠ではなく、民間の三菱重工長崎造船所で建造された。横須賀で建造されたのは3番艦信濃であった。もっともどの艦も起工される時にはまだ名前が決まっていないから、別に艦名と縁の地で建造されていなくても少しも不思議ではないが・・・。

 この写真は戦艦武蔵の故郷、長崎港である。グラバー邸の高台あたりから造船所の方向を眺めた光景であるが、武蔵の進水に当たってはちょっと面白い記載があるので紹介しておきたい。

 陸奥爆沈のところでも登場したノンフィクション作家の吉村昭氏の別の作品に『戦艦武蔵』がある。これはノンフィクション歴史小説作家としての吉村氏の名を不動にしたと言われる作品であり、関係者の証言と事実の記録を綿密に取材、検証し、徹底的に史実にこだわって筆を進めている。主人公は架空の人物でも、その歴史的背景は虚構無き事実であるという独特の作風を多く手掛けており、『戦艦武蔵』こそその最初の作品であったと言ってよい。
 吉村氏ほど史実にこだわる作家はいなかったとされ、また自身もあの司馬遼太郎氏とさえ史実考証の点で自ら一線を画していたと言われる。関係者の証言に重きをおくため、近代戦記物が多かったが、時代を経て証言者が少なくなると、このジャンルの作品を書くこともなくなっていた。

 『戦艦武蔵』『陸奥爆沈』『零式戦闘機』『深海の使者』『海軍乙事件』などの戦記物ばかりでなく、私の業界の題材を同じ手法で書いた『光る壁画』はお勧めである。オリオンカメラという架空の会社(実際はオリンパス光学)に勤める研究者を主人公とし、世界最初の胃カメラ開発の苦心を描いた医学物だが、舞台となった東大附属病院小石川分院の描写は、まったく寸分違わぬと言って良かった。
 この小説に実名で登場する東大分院の医師たちの中には、私の学生時代に教鞭を取っておられた方も多く、また私自身も学生時代に東大分院で臨床実習を行なったから、『光る壁画』の事実部分の描写は、吉村氏の丹念な事実取材の賜物であることがよく分かる。

 吉村氏は『戦艦武蔵』の中でも、民間造船所で軍極秘の巨大戦艦を建造するに当たっての大変な苦労を描いているが、これも当時の関係者から徹底的な取材を行なっているのだろう。建造中の巨艦の姿を棕櫚(しゅろ)縄のスダレで覆って隠した話とか、グラバー邸買収の話とか(写真を見れば分かるが、造船所は丸見え)、米英の領事館ばかりか一般長崎市民までを厳重に監視下に置いてその目を欺くための工作の話など、本当にいろいろ綿密に取材しているが、いよいよ武蔵進水式の日、まだ命名されていないから“第2号艦”と呼ばれていただけだったが、巨大な艦体が長崎港の海面に浮かんだ瞬間、1メートル20センチの高波が対岸を襲い、家々に床下浸水をもたらしたという。

 取材に基づく吉村氏の記載であるから、決して想像や誇張であるはずはないのだが、それにしてもちょっと信じられないような光景である。私も四半世紀ほど前に長崎を訪れてグラバー邸から長崎港を見下ろしながら、その日の出来事に思いを走らせてみた。写真中央に係留されている白い大きな客船は、当時やはり長崎造船所で艤装中だった豪華客船クリスタル・ハーモニー(後の飛鳥U)だが、これも全長241メートル、幅29.6メートルの巨船である。
 確かに全長263メートル、幅38.9メートルの武蔵(第2号艦)はこれより二回り以上も大きく、隣で建造中のタンカーくらいの大きさだったろうが、湾内の海面に比べれば余裕で浮かんでいる感じだ。それでもやはり客船やタンカーと戦艦とでは船体に使用している鋼材の量が比べ物にならないだろうし、そんな重量のある巨大な艦体が船台から勢いよく海面に滑り降りれば、やはり高波が起こっても不思議はない。第2号艦が建造されていることも、進水式が行われることも厳重に秘匿するため、あらゆる事態を想定して対処してきた海軍や造船所関係者にとっても予測不能な出来事だったという。不意に床下浸水など起こしたのだから、もう巨艦の進水は長崎市民たちにはバレバレだっただろう。



(18)海底に眠る戦艦武蔵

 今年(2015年)3月初旬、海底に眠る戦艦武蔵発見の報が世界を駆け巡った。発見者はマイクロソフト社の共同創業者ポール・アレン(Paul Gardner Allen)氏、総資産額は150億ドル以上と言われ、最新鋭潜水機器と豪華なレジャー設備まで備えたクルーザーM/Yオクトパス号で8年以上もフィリピン近海の海底探査を続けていたらしい。

 さすが世界の大富豪のやることは違う。莫大な財宝を積んだ海賊船の探査でさえ、その報酬見返りのためのリスクはかなり大きいと思うのに、海底に沈んだ沈黙の戦艦などはその歴史的意義もかなり限定されてしまう。金持ちの道楽…と言ってしまえばそれまでだが、日本の小金持ちなどは絶対にやってくれないような壮大なプロジェクトに挑戦してくれたポール・アレン氏には、私としては感謝の気持ちでいっぱいである。

 今回の武蔵発見のニュースに、日本のマスコミや各種サイトでは、大和の姉妹艦でありながら「地味な戦艦」とか「知られざる艦歴」などと取り上げることが多いようだが、私にとっては子供の頃からむしろ戦艦武蔵の方がお馴染みだった。中学・高校の名前と同じだし(笑)

 私が小学校の3年生か4年生の頃、ちょうど夕食後の午後6時半頃の時間帯に、ラジオで佐藤太郎さんの戦記『戦艦武蔵の最期』の朗読番組があった。時まさに昭和30年代、我が国も独立を回復し、戦争の傷も癒えかけて世相も落ち着いてきたので、同胞たちの戦争体験をありのままに検証してみようという機運が高まっていたと見ることができる。

 だからこのラジオの朗読番組もいろいろな方々の体験記がシリーズとして取り上げられていたに違いないが、私の記憶に鮮明に焼き付けられたのが佐藤太郎さんの『戦艦武蔵の最期』であったし、その中でも最後の海戦となったフィリピンの捷一号作戦前後の記述が特に生々しい。私も後年、軍事マニア、戦史マニアと言われるほどこの分野の知識は深くなったが、その原点は『戦艦武蔵の最期』だったと思っている。

 当時のラジオ番組での朗読の原作も、非常に粗末な紙に印刷されたB5版くらいで約20ページの小冊子として出版されていたが、佐藤太郎さんのこの文章は『戦艦武蔵出撃す』と『戦艦武蔵の最期』の2部に分かれていた。これが昭和42年に河出書房という出版社から『戦艦武蔵』として出版され、私はこれも愛読していた。
 別のページにも触れたが、ラジオでは明らかに朗読していた戦場の無残な情景の一部が昭和42年の版では削除されていたようなこともあったけれど、私は戦艦武蔵の生涯を知るに当たっては佐藤太郎さんの記述は欠くことができないと思っている。

 平成15年(2003年)に「これほどの書物は戦後60年間1冊も世に出ていない」というたいそうな鳴り物入りで出版された『軍艦武蔵』という上下2巻の大冊も、関係者・生存者からの聞き取り調査を丹念に羅列しただけで、佐藤太郎さんの書物に載っている印象的なエピソードが抜けている。
 それは武蔵は同型艦の大和よりも旗艦設備が充実していたため、戦列参加早々の昭和18年2月に聯合艦隊司令長官山本五十六を迎えることになった。(山本長官戦死の2ヶ月前である。)こうして旗艦となった戦艦武蔵の甲板上で、ある日の夕食後に下士官たちが輪投げ遊びに興じていると、山本長官が仲間に入れてくれと言ってくる、畏れ多い長官であったがゲームを進めるうちに次第に打ち解けて、ゲームに負けるとお互いに相手の額をパチンと指で弾く“牛殺し”という罰ゲームまでやり、長官から牛殺しを貰った兵員などは後々まで自慢話にしていた…などというエピソードが、こちらの本ではまったく触れられておらず、私は興醒めしてしまったものだ。

 その他にも、戦艦大和に関連して、世界の三大無用の長物は万里の長城、ピラミッド、戦艦大和、などと乗員たちが自嘲していたことがいろいろな書籍やサイトに紹介されているが、佐藤太郎さんの『戦艦武蔵』にも同じことが、より緊迫感のある場面として描写されている。

 三菱重工長崎造船所で竣工し、瀬戸内海での訓練を終えた戦艦武蔵に、新任の高射長(艦の対空射撃の責任者)として古賀祐光大尉が着任してくる。この大尉が部下たちの前で初めて行なった訓示は、現代社会のどこぞの大馬鹿どもにも聞かせてやりたいくらいなものなので、その後の顛末とともに少し長いけれど引用しておく。

 悠々として台の上に歩を運ぶと、ウッフンと大尉独特の咳ばらいをしたあとに、今まで聞いたこともない破天荒なことばが、一同の頭の上にがーんとひろがった。
「日本海軍の大ばかどもは、こんなとてつもない軍艦をつくって、これで勝てると有頂天になって喜んでいるが、まことに遺憾千万なことである」


ここで佐藤太郎さんほか居並ぶ一同の驚愕が描写されるが、それは省略して…、

「しかも大和、武蔵にあきたらず、三号艦、四号艦も計画している。馬鹿もここまでくればむしろかわいそうである。本艦をつくるとき、我々に相談しないどころか、見せてもくれない。内緒でこそこそ作るものには、ろくなものはない。例えば男女のことにしても、親の目を盗んで、陰でこそこそ変なことをして変なものをこしらえてしまって、その挙げ句の果てが親に泣きついてくる。(中略)」
「こんな図体ばかり大きい軍艦は、実戦の役に立たないから、空母に改造しようという者、いや、このままにして帝國海軍の看板にしておきたいという者、利口と馬鹿の喧嘩をしているが、何しろわしのように利口な者は少なくて馬鹿が多い海軍上層部であるから何ともできない。
 牛のようにノロノロして、右向けも左向けも一人前にできない艦は大馬鹿の看板である。46センチ砲とかいって、10里飛びますの何のと威張っているが、こんな物は神武天皇でなければ戦争で使いはしない。これは立派な天然記念物である。いや、それよりも屑鉄にした方がよほど利口である。」


 
陸軍に比べればまだリベラルな海軍でも、さすがにこの発言は常軌を逸していた。この後、高射長の古賀大尉は武蔵副長にこのことを叱責されるのであるが、その時の模様を近くで聞いていた下士官からの聞き書きとして佐藤太郎さんが書いている。副長と高射長の発言だけを追っていくと、次のようになる。

「高射長、つまらないことを下士官兵の前で言ってはいかん。」
「つまらないことというのは、いったい何ですかな。」
「つまらないことではないか。」
「つまらないことではないです。これこそ最も大切なことです。」
「何が最も大切なことだ。本艦を屑鉄だとか、天然記念物だとか、海軍の大馬鹿野郎だの無能の集まりだとは、けしからん言葉である。」
「そういう副長が無能の証拠です。」
「なにっ、貴様は本艦の乗員であり、高射長ではないか。貴様、それでも日本海軍の士官か。」
「士官だからこそ言うのです。下士官があんなことを言えません。言ったら大変です。」
「当たり前だ。士官の自覚があればこそ慎むべきだ。まして下士官兵を集めてあんなことを言ってはいかん。失言を取り消せ。」
「副長は、下士官兵、下士官兵と言いますが、日本の海軍が世界に誇る強さを持っているのは、何のためだと思っていますか。」
「そんなことを話しているのではない。失言を取り消せばいいのだ。」
「2人の間の失言なら取り消すこともできるが、大勢の者に公式に言ってしまった以上、取り消すことはできないし、また取り消す必要もない。」
「何を言うか、失言に決まっている。下士官兵にあんなことを言っては、今後のことが思いやられる。けしからんことだ。」
「日本の海軍が強いのは、下士官兵が強いからだ。我々は兵学校
(日本海軍の士官養成学校)では、下士官兵を牛馬のように教わり、またそう考えていた。しかし私の考えが間違っていたことをこの戦争が教えてくれた。これまでの各戦闘における戦訓が証拠である。本当に働いたのは我々士官ではなかった。士官は看板であった。映画や小説の題であり、服飾品であったということに気付いたのです。副長、これからの戦いはますます激しくなっていきますが、陸海とも戦いは将校や士官の血を要求してはいません。若い世代の元気溌剌たる下士官兵の血を要求しているのです。私は士官ですが、この血を多くの下士官兵の血と一緒にして武蔵を守らなければなりません。同時に上層部の迷夢を覚まさなければなりません。私にはその強い信念があります。
 私の言葉は下士官兵の言葉であり、下士官兵の言葉は私の言葉です。私が鉄屑と言ったり、天然記念物と言ったのは、何が悪いですか。近代戦の様式に合った物量が欲しいと言っているだけです。日本の大馬鹿どもには、これが分からないのです。大尉の私がこんなに分かっているのに、将官だの何だのと威張っている年寄りたちが、ちっとも今の戦争を知らないから大馬鹿と言っただけです。戦争は訓練ではないのです。たった1回きりで勝つか負けるか決まるのです。やり直しがきかないからこそ言うのです。第二、第三のミッドウェーがないように、戦闘の重点の置き方を今から切り替えねばならんのです。副長、これがなぜ失言ですか。取り消す必要がありますか。」


 
何とも痛快な古賀大尉の言葉ではなかろうか。経済敗戦への奈落を転げ落ちつつある現在の日本、ますます厳しくなる状況の下で、1人1人の奮闘が要求されている国民を牛馬のごとく考えて机上の空論に耽る大馬鹿政治家ども…。今も昔も変わらぬものは、下級者を見下す上層部の態度。
 上の文章で、日本海軍を○○、下士官兵を◇◇と置き換えれば、日本の大抵の組織・集団において思い当たることがあるんじゃないかい?

 今回フィリピン付近のシブヤン海の底に眠る戦艦武蔵が発見されたということで、再び佐藤太郎さんの『戦艦武蔵』を書棚から手に取って読んでみた。確かに戦艦大和に比べて知名度も低く、大和に妹がいたことを知らない人も多い。宇宙戦艦にもなれなかったし(笑)。
 また戦艦武蔵の名前は知っていても、それが戦艦大和(呉海軍工廠)や三番艦で空母に設計変更された信濃(横須賀海軍工廠)と違って、民間の三菱重工長崎造船所で建造されたこと、さらにその最期が坊ノ岬沖(大和)や潮岬沖(信濃)など日本近海ではなく、フィリピン方面のシブヤン海であったことなど、同型艦姉妹の中ではやや特異な存在であったことも、これまであまり知られていなかったようだ。

 私たちの世代がまだ子供だった頃、旧日本海軍の軍艦のプラモデルはほとんど戦艦大和と武蔵に限られていたことも思い出す。それからややしばらくして大和型3番艦から設計変更された空母信濃が加わり、それから金剛型、長門型、山城型、伊勢型戦艦が加わったが、最も活躍した他の型の空母や巡洋艦、駆逐艦などが発売された頃には、私はもうプラモデル卒業の前後だった。もっともどの戦艦のモデルも何度か改装を重ねた最終型の姿を示しており、航空戦艦になる前の伊勢型だとか、前方煙突がクネッと曲がった長門型だとか、左右両舷に副砲を設置した大和型戦艦などは、最近の艦船モデルのラインアップ完成を待たねばならなかった。
 ただ大和と武蔵のプラモデルで印象に残っているのは、子供の小遣いで買えるような製品は、たぶん大和も武蔵も同じ鋳型にプラスチックを流し込んで製造したと思われるが、大和の素材のプラスチックはダークグレイの濃い色だったのに対して、武蔵は明るいライトグレーからブルーに近い色であった。この理由も佐藤太郎さんの本を読むまでは分からなかったが、戦艦武蔵は敵航空機の攻撃を一手に引き受ける囮
(おとり)として使われたのである。このことは別項に書いた。

 戦艦武蔵の最期の場面を佐藤太郎さんの文章から引用する:

「あ、助かった」頭が海上に出たのであった。ふり返ると、あたりは茫洋たる大海原で、巨大な武蔵の姿はすでに消えていた。重油が一面に広がっている。ついに沈んだのだ。乗艦以来2年8ヶ月、絶対不沈艦と信じられていた武蔵も、ついにここに沈んだのである。昭和19年10月24日、午後7時15分であった。戦闘終了後約4時間生きのびたのであった。サンベルナルジノ水道に、数千トンに及ぶ重油の渦を名残にとどめて、その巨体を消したのであった。上弦の月が、淡く海上を照らしていた。

 何となく平家物語の近代版といった感じの儚さを漂わせる文章は長いこと頭に残っている。そしてこの後、武蔵沈没後の何人かの士官たちのことも、佐藤太郎さんは下士官の目から描写している。安倍政権の下で再び1世紀前と同じ道を歩み始めた日本国民は、日本人の潔さと醜さをよく見ておくがよい。

 武蔵沈没の直前、艦橋にあって刻々に沈下していく艦首をじっと見つめていた艦長と砲術長の耳に、甲板上の兵たちの万歳の声が聞こえた。静かにふり返った艦長は、
「砲術長、本艦ももはやこれまで…介錯を頼む。」
そして自分の軍刀を差し出した。同時にそばに置いてあった短刀を握りしめ、一気にぐっと脇腹に突き刺し、横へ一文字にかき切った。どくどくと鮮血が噴き出した。
「艦長、私もお供を。」
「馬鹿、お前が死んでどうなる。おれを犬死にさすな。」
 もうその声も苦しそうであった。やむなく砲術長は軍刀をすらりと抜いて、艦長のうしろへまわった。その時、轟然たる火柱とともに艦体は横倒れになった。あっという間に、砲術長は艦橋から放り出され、海中深く落ち込んだ。そして不思議に巻き込まれもせずに、すぐ浮き上がった。そして横転したまま、じっと沈み行く武蔵の姿を見守っていた。彼は砲戦指導の誤算から、武蔵をおおった110門の機銃にその最大効果を発揮させることができずに、敵機の跳梁に被害を甚大ならしめた責任を深く痛感していた。その責任を負って、潔く艦長のお供をしようとしたが容れられず、こと志とちがって生き恥をさらすことになったのである。武蔵の沈んだ海面を睨んで、彼はいつまでも悶々の情に悩んだ。
 何もつかまらずに泳ぐこと5時間、乗員がみな駆逐艦に収容されたのを見届けると、
「砲術長、早く上がって下さい。」
と叫ぶ駆逐艦乗員たちの声に背を向けて、静かに闇の沖合に泳いで行き、ついに再び還らなかった。


 以上は艦長の当番の従兵から聞いた話として記されているが、救助された佐藤太郎さんたちは、その後武蔵の沈没を秘匿するために、さまざまな不条理な目に遭遇することになる。
 生存者たちを収容した駆逐艦はマニラへは直行せずに、大戦初期までアメリカ軍の要塞だったコレヒドール島へ向かう。生存者たちを隔離するためだ。

「マニラへこの遭難者を上陸させれば、武蔵の撃沈は一朝に暴露する」
「不沈艦が沈んだことが、マニラ駐在の海軍はもちろん、マニラ市民に知れる」
その機密の漏れるのを恐れた当局は、こうして武蔵乗員をコレヒドールに上陸させ、世上との連絡をいっさい絶つことにしたのであった。
(中略)
(生存者たちが)這い上がる姿は、まるで黒アリの群がるようであった。しかしアリよりも元気のない、痛々しい姿ではないか。元気に怒鳴っているのは士官ばかりである。まるで土方の棒頭のようでさえあった。戦闘中は、ただの一度も顔を見せず、構造物の中にひそんでいる。陸軍の戦闘では、小隊長、中隊長が先頭に立って突撃するが、海軍では下士官が先陣をうけたまわっているようである。
(中略)
 (上陸したコレヒドール島の)山の上の兵舎で戦闘詳報が行われたが、敵機が何機来たか、魚雷が何本当たったか、爆弾が何発落ちたか、これを見きわめていた士官がいないのに驚いた。露天甲板にいて、戦いながらではあったが、機銃のおもだった下士官たちは、大体の数を知っていたので、彼らは士官のだらしなさに唖然としていた。
 しかし、士官に対する不信にさらに輪をかけたものは、彼らが1人去り、2人去って、この山を降りてマニラから内地へ引き揚げていったことであった。残務整理、転勤命令、そのためではあったろうが、海軍の慣例を破って部下たちには一言の挨拶も訓示もなく、こっそりと去って行った。


 そして残った下士官兵たちのうち半数はマニラ守備隊の陸上部隊に編入され、佐藤太郎さんたち残りの半数はさんとす丸という輸送船で内地へ向かうことになったが、

さんとす丸に乗船した武蔵乗員500余名のうち、指揮官は小川兵曹長を筆頭に、進級したばかりの金井兵曹長、佐藤兵曹長の3名で
(つまり全員下士官ということ)、士官は1人残らず飛行機で帰ってしまった。
「部隊長や高級士官が部下を置き去りにして先に帰ってしまった」ということを今まで耳にはしていたが、「そんな馬鹿なことが…」と否定していた私たちは、いま自分たちの目の前に事実としてそれを見せつけられて唖然とした。
「ひどい奴らだ」
「こんな醜態だから戦争に負けるんだ」
と一同はつばでも吐くように言い放った。熱火のような憤怒がぐっと頭に上がってきた。限りない憎悪感が、あとからあとから湧いてきた。

これが日本人指導者の美と醜である。2015年の日本人有権者の大多数が信頼し、敬愛する安倍晋三とその手下どもは果たして美か醜か、よ〜く考えてみることだ。今シブヤン海の海底に静かに眠る戦艦武蔵とその乗員たちの魂は、分岐路に差しかかった祖国をどんな思いで見つめているだろうか。



(19)戦艦武蔵巨砲発射

 今年(2015年)はどうも戦艦武蔵の“当たり年”のようで、3月にポール・アレン氏によるシブヤン海の海底調査で、昭和19年に沈没した武蔵の残骸が発見されたというニュースが飛び込んできたと思ったら、ゴールデンウィーク最後の5月6日の毎日新聞朝刊に、何と戦艦武蔵初代砲術長の永橋為茂大佐の御遺族から、戦艦武蔵の46センチ主砲が轟然と火を噴く写真が公表された。

 大和だけじゃなくて俺のことも思い出してくれよと武蔵が訴えているような気もするが、この写真はおそらく完成から戦列参加までの間に行われた主砲試射の時の写真ではないかと言われている。実際の戦闘では、戦艦武蔵の主砲が敵艦に向けて砲弾を発射したことは1度もなく、前項の佐藤太郎さんも書いていたように、決戦のレイテ島沖に進撃する途中、襲撃してきた米軍の航空機に向けてムチャクチャな発砲をしたのが武蔵の主砲にとって生涯唯一の戦闘だった。

 新聞記事の切り抜きの粗い写真であるが、何とも凄い砲煙である。9門の主砲が一斉射撃を行う時は、合計10トン近くもの砲弾を発射することになるが、その反動でも艦が安定していられるように、大和・武蔵は他の戦艦に比べて横幅が広い。
 この写真もほぼ真後ろから見たアングルで撮影されているが、ズングリした艦体の割には艦橋がかなり細身で、このシルエットを見れば、艦艇マニアなら一目瞭然で大和型戦艦と識別できる。
 もしアメリカも46センチ砲を搭載した戦艦を建造しようとすれば、やはりこれくらいの横幅が必要になるはずであり、そうなるとパナマ運河を通過できなくなるので、アメリカがそんな無駄なことをするはずもないから、来るべき日米艦隊決戦では大和型戦艦が最強の海上兵器となるはずであり、日本は西太平洋の制海権を守れるはずである…、すべてが日露戦争の日本海海戦でバルチック艦隊を撃滅した過去のデータから一歩も抜け出せなかった固陋な頭脳が産んだ幻想だった。

 まあ後世の我々から見れば、歴史の後知恵というヤツで、大和・武蔵を笑うことは簡単だ。しかし当時の海軍首脳部や造船関係者の大部分は、過去の戦訓の延長線上に未来を描いて一生懸命真面目に考えた挙げ句に大和・武蔵を建造したのである。我々はこの歴史から何を学ぶべきなのか。
 物作りをするにしても、商売をやるにしても、科学研究や実験をするにしても、必ずしも過去の延長線上に未来はないということを常に考えていなければいけない。過去の実績を延長するために懸命に努力する必要はあるが、常に新しい発想も模索していなければいけない。

 ところで上の写真からは物凄い黒煙と炎の迫力が感じられる。主砲発射時の爆風の影響を調べるためにウサギなどの実験動物を甲板に置いたというのも、この写真の時ではないかと思われるが、その凄まじい爆風で動物たちは内臓から出血して即死するものも多かったといい、これではいざ戦闘となれば、主砲を発射時に甲板上にいた他の兵員、特に甲板上に身を晒している対空機銃要員はたまったものではない。
 そこで戦闘中の主砲発射準備段階で、対空機銃の部署には備え付けのブザーで予鈴を鳴らして警告し、機銃員を待避させることになっていた。ところがレイテ島沖に進撃中に米軍機の空襲を受けるや、この手順を無視して予鈴も鳴らさず46センチ主砲を発射したのである。

 案の定、甲板上の対空機銃要員は爆風の衝撃で一時的に戦闘どころではなくなってしまい、さらに黒煙がしばらく艦の上空を覆って米軍機の姿も見失ってしまったと、前項の佐藤太郎さんばかりでなく、手塚正己氏が著した『軍艦武蔵』に収められた生存者の証言にも書かれている。
 上の写真を提供されたのは武蔵の初代砲術長永橋為茂大佐の御遺族だが、この時の砲術長は1944年6月25日に戦艦長門から転任した越野公威大佐に交代していた。日露戦争以来、戦艦の主砲による艦隊決戦を夢見てきた当時の日本海軍で、大和型戦艦の砲術長に任命されるような人は兵学校時代の成績もトップクラスの逸材揃いだったはず、それが何でこんなムチャクチャな発砲を命じたのか。

 戦艦の主砲は従来は敵戦艦との決戦が目的だったが、航空機の発達も考慮に入れて、多数の焼夷弾を詰めた三式弾という対空射撃用の主砲弾も開発されていた。砲弾が炸裂すると焼夷弾が飛び散って一定空間内の敵航空機を焼き払う原理だが、この威力を過信してしまったに違いない。
 しかし敵航空機が接近した場合は、主砲による三式弾射撃は控えて対空機銃に任せるという共同作戦の手順もあったのだし、主砲発射の衝撃や爆煙が対空機銃の射撃を妨害することは実証されていたわけだから、どう考えても主砲の責任者である砲術長の責任は重いと言わざるを得ない。
 死者を鞭打つのは心苦しいが、ここに優秀であればあるほどエリートの陥りやすい独善的思考を見ることができる。「俺が、俺が…」「私が、私が…」「自分こそ、自分こそ…」なまじ自分に力があることを自覚しているばかりに、自惚れているわけでは決してなく、一生懸命やろうとしているつもりなのに、チームを壊していくエリートはどこの分野にもいるものである。人を率いる立場にある者はよくよく心しなければいけない。

 今回は思いもかけず戦艦武蔵の主砲発射の写真が見つかったということで、いろいろなことを考えさせられてしまった。



(20)駆逐艦冬月艦長のこと

 以前このコーナーでも多少登場した駆逐艦冬月艦長について、最近別のコーナーにも引用したので、ちょっと書き足しておこうと思う。
 駆逐艦冬月は沖縄へ突入する大和を護衛した大型防空駆逐艦で、乙型と呼称される秋月型の8番艦である。守りの弱い航空母艦を護衛するために65口径98式10センチ連装高角砲という最新式の対空砲を装備した秋月型駆逐艦は、アメリカ航空部隊から迂闊に近づいてはならないと警戒されるほどの防空性能だったが、1番艦秋月が就役したのは皮肉なことに、護るべき虎の子の主力空母部隊がミッドウェイ海戦で壊滅した直後だった。

 それはともかく、大和の沖縄特攻(天一号作戦)の時の冬月艦長は海軍兵学校55期の山名寛雄中佐で、吉田満氏の「戦艦大和の最期」によると、突入作戦中止して生存者救出の命令が出た時、
「冬月」艦長、「チカヨレ」の発光を見て怒髪天を突き、先任将校の「横付ケ救出用意ヨロシイ」の報告には面も向けず、「大和」の反対方向に突っ走れりという
特攻突入より、急転直下挫折帰還への変更の、あまりに不甲斐なしと、憤慨に堪えざりしならん

ということだったそうだ。しかしこれではまるで冬月艦長が生存者を見捨てたように見えるが、実はそんなことはないのであって、冬月は97名の大和乗員を含む実に664名もの将兵を救助して佐世保に帰投した。冬月の乗員数は約450名だから、帰路は救助者を含めて実に2倍半もの将兵が艦内所狭しとひしめいていたわけである。

 阿部三郎氏の「特攻大和艦隊」という著書によると、14時17分の大和沈没後、冬月は半時間も経たないうちに敵機の跳梁する現場で漂流者の救助を行なっており、そもそも吉田満氏自身もまた冬月に救助された1人だったのである。

 冬月の救助活動はかなり徹底したものだったらしい。艦橋から双眼鏡で海面をくまなく捜索し、1人でも漂流者が見えると海面に下ろしてある2隻の内火艇(艦載小舟艇)に指示して拾い上げさせたとのこと。さらに航行不能になっていた駆逐艦霞に横付けして乗員291名を移乗させてもいる。山名艦長は前月まで霞の名艦長として全乗組員から慕われており、冬月が救助のため横付けすると霞の乗組員らは「(山名)艦長が迎えに来てくれた」と喜んで、士気も高く維持したまま移乗してきたそうである。こんな上司が今もどこかの職場にはいるのだろうか。

 また冬月と共に大和を護衛した同型艦の涼月は艦首部を破壊されて、一足先に後進で戦場を離脱しつつあったが、冬月はこの損傷した僚艦捜索のために帰路何度も無電を発信している。
「涼月イズコニアリヤ」
もし無電を敵潜水艦に傍受されれば、自艦の位置が暴露されて魚雷攻撃を受けかねないが、あえて発信したのである。冬月の山名艦長が人命救助をおろそかにする軍人であったはずはない。
 ちなみに涼月は1日遅れて自力で後進航行のまま佐世保に生還した。

 まあ、吉田満氏の「戦艦大和の最期」は、このコーナーの幾つかの記事でも取り上げたとおり、作者の主観が大幅に入ったフィクションであるから、冬月の山名艦長が作戦中止に怒髪天を突いて大和に背を向けたというのも、たぶん冬月に救助された時の不正確な伝聞にもとづいた吉田氏の思い込みか記憶違いであろう。

 なお「特攻大和艦隊」を書かれた阿部三郎氏は、ご自身も海軍兵学校73期の戦闘機乗りであり、大和の沖縄突入作戦時には鹿児島県の出水基地で大和部隊の上空援護の待機をされていて、戦後定年退職された後に、大和をはじめとする第二艦隊の沖縄突入作戦の記録を残すため、当時生き残っていた何人もの海軍関係者を取材してこの著書を出版された。

 冬月の山名艦長については元先任将校の番井章少佐に取材していて、昭和20年3月、駆逐艦霞から着任してきた山名艦長のことを次のように書いている。
 山名艦長は広島の出身で、お殿様の後裔といった感じの先輩で、今でいえば(平成6年頃)、テレビの八代将軍吉宗が町人に扮しているような、どこにいても何となく気品があって、人なかでも一段と目立つ存在であった。
 眉目秀麗にして温厚、部下を叱ることもなく、悠揚迫らざる態度がなんとも頼もしく、「霞」の乗組員から慕われていたのもさこそと思われ、側にいても疲れないし、それだけでその場の雰囲気を暖かくする上司であった。


 ところでこの山名艦長が戦後は海上保安庁の巡視船あつみの船長として台風観測にも従事したことを別のコーナーに書いた。
 昭和29年9月17日、朝日新聞の夕刊は以下の見出しで記事を報じた。
観測に苦闘した『あつみ』帰る 血を吐く乗組員も 12メートルの大波にもまれて
この時観測したのは台風12号だった。マリアナ諸島東で発生した後、急速に発達しながら枕崎に上陸、九州を縦断して日本海に抜けた大型台風で、瞬間最大風速30メートル以上、都城市で670ミリ以上の雨量を観測したという。

 この年の9月24日に国会の運輸委員会に説明員として何人かの気象関係者らと共に出席した山名船長の発言録を幾つか追ってみる。

(船底の修理を必要としたり、これまでも何度も台風観測に出ている老朽船でも大丈夫と確信を持って出港したのかとの質問に対して)
船長として確信を持たなければ出られませんから、出ておるわけであります。
(遺書を書いて台風に向かった船員がいるそうだが、戦争でもないのにそんな悲壮なことで良いのかという質問に対して)
そういう噂は聞きましたが、乗っていくのがいやで、無理やりに引っ張って行ったという感じはいたしておりません。
(船の復元力について質問されて)
わかりやすく申しますと、本船では傾斜した最大の傾斜は片舷63度であります。こういう経験を持っておりますから、これ以内ならば安全と思っております。実際経験いたしました。
(海難救助なら海難救助、気象観測なら気象観測と一本の任務を以て行動する方が暴風の中で船長の判断も迷いが少なくなるので、その方が良いのではないかとの質問に対して)
アメリカのような金持の国ならそれが一番いいと思います。日本のような金のない貧乏国ではそう分けると、例えば観測船と巡視船を別々に作らなければならないということで、ちょっと不経済になると思いますから、現在のままでいいと思います。

 冬月艦長時代と変わらず、操船・操艦への絶対的な自信に裏付けられた任務遂行の気概が感じられるではないか。駆逐艦霞の全乗組員の信望を集めていたという山名艦長の面目躍如といった感じである。遺書を書いていたという巡視船の乗組員もまた、おそらくこの船長の下ならば死んでも悔いないと考えていたからこその遺書だったと思われる。

 さて海軍兵学校55期の山名寛雄中佐は沖縄突入作戦時はおそらく30歳代後半、それから約9年半後の巡視船船長として台風に立ち向かった頃は、どう考えても50歳に手が届く年齢に達していたはずである。たぶん同年輩の海軍出身者の中には、昭和29年に警備隊から新たに発足した海上自衛隊に招かれて、もっと楽で安全なデスクワークに従事するようになった方々も多かったと思う。むしろ大戦中のベテラン駆逐艦長ならそんな働き口はいくらでもあったのではないか。

 しかし山名船長はそんな中で、老朽船が63度も傾くような猛烈な波浪の中に突っ込んで行く台風観測なども続けておられた。私がネットや広報資料などで追う限り、山名船長の戦後の航跡はそこで途絶えているが、先に引用した国会の運輸委員会の発言録の中で、大和与一議員が山名船長を次のように紹介している。
船長さん、まあ昔は兵隊さんであったのですが、兵隊さんがあまりお好きでないから今船長さんにおなりになったと思うのです。
 将兵の生命を無為に損耗するような無謀な特攻作戦に嫌気がさしたせいかどうかは知らないが、山名船長は今度は戦争ではなく、気象観測で国民を守ろうとしたのだろうか。海を仕事場として、多くの部下から信頼されながら、ご自分の人生に課せられた任務を最後まで全うされたのだろうか。
 私がまだ幼かった頃の日本、こういう実務に忠実な多くの実直な方々によって守られていたのかと思うと頭の下がる思いがする。



(21)大和を見捨てた司令長官

 今年の4月7日は戦艦大和の72回目の命日になるが、戦艦大和、軽巡洋艦矢矧以下、連合艦隊なけなしの最後の艦隊に特攻出撃を命じた上層部について考えるたびに、どうしても腑に落ちないことがひとつある。
 万に一つの勝算もない戦いに大勢の乗組員を乗せた艦隊を出撃させる無謀な作戦に関しては、私もこのコーナーでさんざん書いてきたから今回は触れない。死に花を咲かせる、まあ日本も負けるにあたって戦艦大和を無傷のまま敵手に渡すわけにはいかないとか、日本民族の特攻精神を後世に残すとか、諸外国には通じそうもない、そういう浪花節的な論理にもこの際だから目をつぶろう。

 その上で絶対に許せないこと、それは最後の出撃にあたって、連合艦隊司令長官豊田副武大将がどこにいたかということである。

 勃興期にあった明治時代の日本、日露戦争の日本海海戦では連合艦隊司令長官東郷平八郎大将は旗艦である戦艦三笠の上甲板で指揮を執り続け、敵弾による水しぶきを何度もかぶりながらも、1日目の戦いが終わった後、東郷の立っていた靴の跡だけは海水をかぶらす乾いていたという逸話さえあるほどだ。まさに皇国の興廃此の一戦に在りとの訓示と共に、最高指揮官は自ら陣頭に立っていたのである。

 しかし断末魔だった昭和20年の大日本帝国、最後の艦隊までもすり潰して日本民族の華を飾るのだと、意地とメンツだけのムチャクチャな作戦を認可した最高指揮官は、はるか後方の安全な日吉(神奈川県)の地下壕にいたのだった。日露戦争と太平洋戦争では海戦の規模も形態も違う総力戦だから、総大将は後方で全局面を睨みながら指揮を執るという理屈もないわけではないが、もう総力戦もクソもない、この艦隊が沈んだら日本海軍は消滅するという土壇場にあってなお、防空壕で身の安全を確保していた豊田長官の振る舞いには疑問が残る。

 最後の司令長官を勤めた小沢治三郎中将など後任の人材はいたのだから、豊田副武は文字通り最後の艦隊の陣頭に立って、日本民族の特攻精神を具現化するための先駆けとして死ぬべきだったと思う。勝算のない作戦を無責任に認可して何千人もの将兵を虚しく海に沈めた挙げ句、自分は戦後12年間もおめおめと生き永らえた。

 しかし考えてみれば、これが勃興する組織と滅亡する組織の指揮官の違いなのだろう。東郷平八郎は艦内への退去を要請する幕僚たちを振り切って上甲板で指揮を執り続けた、トラファルガー海戦における大英帝国のネルソン提督のように戦いに斃れることも覚悟の上だったというが、勃興する組織においてはこういう陣頭指揮に我が身を捧げられる人材が輩出する、というより、そういう人材がいるから組織は勃興する。

 だがいったん組織の基礎が確立すると、その完成した体制の上にあぐらをかいてふんぞり返ろうとする輩が跋扈するようになる。自分は陣頭指揮する気概もない、我が身を捧げる情熱もない、ただ完成した組織のポストに安住して偉そうに振る舞いたい、それだけの輩だから実務は何もできない。部下に命じ、部下を犠牲にして、自分の栄華を飾り立てることに汲々となる。だから組織は活力を失い、硬直して衰亡に至る。

 日本海軍も大国ロシアを破って躍進を遂げた後は、その栄光を笠に着るだけの人間が役職に就くようになったのではなかったか。海軍の休日(Naval Holiday)と呼ばれる海軍軍縮時代、現代でいうリストラの時代にあって、海軍軍人の中でも政治力に長けた者たちは上司に媚びへつらってポストを手に入れ、自分の息がかかって意のままに動く部下を後任の役職に就けて自分の影響力を残し、海軍組織の減量化の中で主にそういう輩が生き延びて、後の海軍を牛耳るようになっていったと思う。

 絶頂期の旗艦三笠、最後の旗艦大和、この2隻と2人の提督の挙動を比較する時、まさに典型的な組織の興廃を見る思いがする。


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