兼六園の日本武尊(ヤマトタケル)

 10年ぶり3度目の金沢訪問です。初めての独り旅だった1回目の時も、学会で訪れた2回目の時も、金沢城から兼六園は欠かさず訪れていましたが、今回は「エエッ、こんな物がここにあったの?」という驚きの銅像を見つけたのでご紹介します。

 と言ってもこの銅像、ある方面の分野では非常に有名な銅像で、今まで知らなかった私の方が迂闊でした。ご存知の方々には今さら申すまでもなく、兼六園の日本武尊
(ヤマトタケル)像です。身長5.5メートル、台座の高さが6.5メートルという巨大な銅像ですが、私は過去2度とも連れもいない身軽な散策だったにもかかわらず、見つけることができなかった、まあ、広大な兼六園内の道は網の目のようになっていますし、入口も6ヶ所くらいありますから、池や巨木に目を奪われて歩いていると、あるいは見落としてしまったのかも知れません。

 しかし10年前に学会で来た時に撮影した写真を改めて眺めてみると、その中に1枚だけこの銅像の後ろ姿が写っているものがありました。何事も興味と好奇心を持って見ない限り、いくら網膜に写っていても、いくら高性能カメラのレンズに捉えられていても、しょせんは私たちの意識を素通りして脱落し、消えてしまうものなのですね。よい教訓になりました。

 この写真は10年前の学会で金沢に来た2度目の時ですが、左手の円内にこの銅像の後ろ姿が写っています。コラ、学会参加はどうした、という至極当然ごもっともなお叱りはもう時効ですが(笑)、いくらその場では気付かなくても、こういう写真をパソコンに保存しながら、10年間も銅像の存在について調べなかった自分の未熟を恥じるばかりです。

 さて、この日本武尊像は1880年(明治13年)に鋳造された日本最古の銅像と言われています。靖国神社の大村益次郎像が1888年(明治21年)、上野の山の西郷隆盛像が1897年(明治30年)だそうですから、それよりずっと古い。
 高岡の鋳物職人たちが、今でいう入札のような形で金沢の鋳物職人たちを差し置いて、日本初の銅像の製作を請け負った(受注した)らしいです。また何で建国神話とは縁遠い金沢の地に日本武尊像があるかと言えば、1877年(明治10年)の西南の役で戦死した郷土石川県の兵士たちを慰霊するためだったと書かれています。

 西南の役(西南戦争)といえば、日本史上最後の内戦、日本人同士が血を流して相争う戦闘はその後は現代まで起こっていませんが、物語に聞く戦国時代の内戦は、関ヶ原にしろ川中島にしろ、領主の戦国大名に召集された領民たちの戦争でした。しかし今度の西南の役は明治新政府と薩摩の戦争、何でそんな他人事の戦争に石川県民までが巻き込まれて生命を落とさなければいけなかったのか。

 おそらく石川県ばかりでなく、政府軍に動員された地域の兵士やその家族たちにとっては大きな衝撃だったはずです。もはや国民はどんな僻地にいても政府の施策と無関係でいられなくなった、日本はそういう国民国家として生まれ変わった、そのことを国民1人1人が改めて思い知らされた歴史上のポイントが西南の役をはじめとする士族の反乱だったと思います。そんな国家の一大事に狩り出されて戦死した郷土の兵士たちのために、誰もそれまで経験したこともなかった銅像を鋳造して慰霊するという大事業に名乗り出たのは、北陸の鋳物職人たちの心意気だったでしょうか。

 しかし何でそれが日本武尊(ヤマトタケル)の銅像だったのか。古代日本の内乱を制圧して日本国家の基礎を確立した日本武尊(ヤマトタケル)に因んだといえば無難なのですが、この日本武尊像、何だか違和感がありませんか。

 各地に見られる日本武尊像や、手塚治虫さんの『火の鳥・黎明編』に登場する古代の英雄たちは、角髪
(みずら)という独特な髪型をしていることが多い。これは髪全体を頭の中央で左右に分け、両耳の横で括って輪にしたり、8の字に結んだり、あるいはそのまま垂らしたりする髪型のことですが、兼六園の日本武尊像は髪は中央で分けているものの、両側で束ねる髪がなくて耳が露出しており、何となく近世以降の中年男性のようなイメージです。

 まあ、これは薄毛になった年齢の日本武尊(ヤマトタケル)と考えられなくもない、大相撲の力士も頭髪が少なくなると髷を結えなくなって、まだ相撲は取れるのに引退することもあるようです。そんな“引退間際の日本武尊(ヤマトタケル)”を銅像にしたのも異様ですが、さらに異様なのは突き出た下腹部です。これじゃまるで飽食の時代の成人病予備軍だよ(笑)。

 日本武尊(ヤマトタケル)は父 景行天皇に疎まれ、九州の熊襲征伐や東国の平定など超人的にハードな任務を命じられてまさに東奔西走、東国平定の目処もついて遠征の旅の途中で最期を迎えますが、享年は30歳とも40歳とも伝えられています。そんな激務を押しつけられ、食糧事情も良くなかったはずの日本列島各地を転戦して、現代でいえばまだまだ働き盛りの年齢で亡くなった日本武尊(ヤマトタケル)、彼がメタボリック症候群だったとは考えられません。

 飽食の肥満を思わせる日本武尊像の前を何となく割り切れない思いで通り過ぎた時、たまたま一緒にいたカミさん(今回の金沢行きは実はカミさんの仕事のお供でした)の一言にハッとしました。
「あれは西郷隆盛の顔よね」
ああ、そうか、私はこの銅像の顔があのドングリ眼の西郷隆盛という意見には完全に同意はできませんが、確かにこの堂々たる肥満体の全身からにじみ出る雰囲気は西郷隆盛を彷彿とさせます。

 それで私はこの銅像を鋳造した職人たちの心が見えた気がしました。この銅像の表向きの目的は、西南の役で西郷率いる薩摩軍と戦って戦死した郷土の兵士たちを慰霊することですが、実際は郷土の戦死者たちと共に敵将西郷隆盛をも弔う意図があったのではないか。

 日本の庶民は昔から、現皇統である北朝と戦った楠木正成、江戸幕府の重鎮吉良上野介を討った赤穂浪士など、何となく狡猾な権勢を誇る相手に立ち向かった者を賞賛する傾向がありました。この狡猾な権勢を誇る敵役、明治初期のこの時代はおそらく長州の新政府だったはずです。日本史上最凶最悪の賊である長州、一時は皇居まで砲撃するに至った無法者がちゃっかり官軍に成り上がって日本の支配者になった、それを庶民が見ていなかったはずはない、現在でもよく使われる「勝てば官軍」という諺は、卑劣な手段で権力を奪った長州賊を江戸庶民が揶揄したことに始まるとされています。

 西南の役では、あの卑劣な長州“賊”が今度はかつて同盟者だった薩摩の西郷までを“賊”呼ばわりして征伐してしまった、賊(長州の新政府)から見た賊(薩摩の西郷)は“正義”、その正義の西郷を討つための戦闘に召集されて死んだ郷土の兵士たちを思う時、日本各地の庶民たちのやりきれなさは切実だったと思います。その切実な思いが結実したのが兼六園に残る“西郷隆盛似の日本武尊像”なのかも知れません。

 ところでこの記事の最初に、この銅像はある方面の分野では非常に有名と書きましたが、それはこういうことです。この銅像の写真を見て何か気付きませんか?上野の山の西郷隆盛像に限らず、皆さんがよく訪れる公園に建っている銅像と比べて何か違っていませんか?

 この銅像には鳥の糞がかかっていないのですね。鳥どもは銅像は自分たちのトイレだと思っているのか、大体どこの銅像も無礼な鳥どもに糞を引っかけられている。ところがここ兼六園の日本武尊像は鳥の糞で汚されていないことに気付いた人がいたのです。金沢大学の廣瀬幸雄さんは1959年、大学生時代に兼六園の日本武尊像には鳩などの鳥どもが近づかないことに気付いたそうです。その疑問をずっと暖めていたところ、45歳になった時にこの銅像に見つかった亀裂を改修する委員の1人に選出されたのを機会に研究を開始、この銅像にはヒ素が15%も含有されていることを突き止めました。上野の西郷像などのヒ素含有率は3%程度なのですが、何しろ日本最古の銅像ですから、まだ銅を溶かすに十分な高温を発生させることができる時代ではなく、銅の融点を下げるために以後の銅像よりも大量のヒ素が混ぜられたそうです。

 銅とヒ素が混じり合った結果、互いの原子の電位差から銅像周囲に磁場が発生し、どうやらそれを鳥どもは嫌がっているらしい。試しに同じ比率で銅とヒ素を混ぜた合金の板を餌場に置いておくと鳥どもは寄って来ないことが分かりました。廣瀬さんはこの研究で2003年のイグノーベル賞を受賞しています。もう何百万人という人が兼六園を訪れてこの銅像を眺めているはずですが、やはり最初に書いたとおり、何事も興味と好奇心を持って見ない限り、いくら網膜に写っていても、ただの“思い出”として薄れていってしまうものなのです。廣瀬さんの慧眼と好奇心と探求心に完全に脱帽です。


         帰らなくっちゃ