湖南進軍譜


(2003年5月27日起稿)

 近頃、自分史と称して自分の一生を一冊の本にまとめることが流行っているそうだ。生涯のうちに人に自慢できるような業績を残した人ならそれもよかろう。読んだ人が驚いて称賛してくれる顔など勝手に想像しながら書けば、さぞかし筆も進むであろうし、愉快なことでもあろう。かねてから大変羨ましい次第であるとは思っていた。

 ある時、家内が言った。
「今、自分史を書くのが流行なんだって。ボケ予防になるんだって。書いてみたら。」
でもボケ防止のためならこんな退屈な話はない。だいたい人に誇るに足るような生涯でもないのに、いつ、どこで、何したと書き連ねるなど何の意味もない。おまけに子供の時分から工作は無性に好きだったのに、文章を書くことにはとにかく抵抗があった。中学では特にひどかった。ある時の作文に「花下感あり」という題が出た。中学一年の心の中にそんな風情ある感の起こるはずもない。はずがあろうが、なかろうが、学校のテストとなれば書かねばならない。そこで無理して書いたのが落第点。以来作文の時間を忌避すること甚だしく、苦痛さえ感じるようになったばかりか、私は文章がへたであると固く信ずるに至った次第である。以上のようなわけで、ボケ防止の御利益ぐらいでは自分史など書いてみる気にもならなかったのである。

 また「自分史」つまり「史」という立場で書くと、大変なことになるのではないかと考える。嘘や間違いを書かないようにするとなると、日時・人名・事柄などいちいち調査しなければならない。調査といってもろくな資料があるわけではない。作文嫌いが日記など書いて資料を残していたはずもない。戦記物を書いた人の中には防衛庁の戦史資料室あたりにまで確かめに行くほど熱心な御方もあるようだが、我々の書く範囲の文章では、司馬遷のように後世有用の史書が生まれる道理はない。

 では何故このような文章を書き出したかについては、一つのきっかけがあった。もう数年以前のある時、長男が「これまでの自分を書いてみたらどうか」と言った。長男が一番知りたいのは、私の一生全体というよりは、軍隊時代の話であるらしい。その証拠に軍隊についての質問(遠慮しながら)が時々あるし、また私の従軍した地方の作戦の戦記物や、そのコピーなど持ってくるのである。ただ特別私の生涯に非凡なものを期待しているわけでもないらしいので気は楽だ。つい先日は私が所蔵して密かに楽しんでいた軍歌のレコードを持って行ったのである。かなり興味はあるらしい。
 次男もまた長男ほどにせっつきはしないが、折にふれて何かこの話題に触れたい様子も見える。敗戦後の日本では軍の話、戦争の話はタブー視される傾向が強く、うかつに戦争話など口にすると戦争犯罪人扱いされかねなかった。だが昔の戦友や、時代を共にした学友たちが集まると、戦争の話に花が咲くのである。戦争のことは話したい気持ちはあるが、平和を旨とする時代には抵抗がある。また聞きたい方の側にもあまり強要は出来ないという遠慮もあるらしい。そこで今回は子供たちの希望を容れて一応書いてみることにした。

 なお、表題の「湖南進軍譜」は、昭和20年になってから粤漢線沿線地帯に流行した歌の題で、後編第14章に経緯を説明した。 


前編:軍隊という所

 大袈裟な表題をつけたが、これは初めて軍隊生活に入った人間、つまり初年兵(新兵のこと)の驚きの感想である。
 昭和17年10月1日は生涯を通じて忘れることのない日となった。何となればこの日、軍隊という所に入り、軍隊生活が始まった日だからである。何もかも驚きであった。衣食住ばかりかすべての生活習慣が「地方」とは違うのである。
 「地方」とは何だ。聯隊を囲む塀の外は全部「地方」だ。「地方の言葉」は使ってはいかんと班長(下士官のことを皆班長と呼ぶ)が教える。はじめ「地方」とは他所(例えば他府県など)のことかと思っていたら、入営に付き添ってきた父兄を「地方人」と呼んだ。つまり軍人は「地方人」とは異なる人種であるかのごとき話だった。

 こんなことで驚いてはいられない。先ず服装の用語が異なるのである。少し用語の違いを並べてみる。(カッコ内が軍用語)
着物(被服)、帽子(軍帽)、戦闘帽(略帽)、鉄兜(鉄帽)、上着(上衣)、
ズボン(袴:コ)、シャツ(ジュハン)、ズボン下(袴下:コシタ)、
ゲートル(巻脚絆)、靴(編上靴:ヘンジョウカ)、スリッパ(上靴:ジョウカ)、
つっかけ(営内靴)

 軍隊と「地方」で共通の言葉を思い出した。靴下である。この靴下、言葉は同じであるが、形が違う(図)。軍隊の靴下には踵がなくてズン胴である。変だなと思ったら、毎日踵の部分を上にしたり横にしたり下にしたり、つまり順繰りにまわして穿けば靴下は長持ちするのだそうだ。この靴下、用途がまだあった。作戦に出る時はこれに米を入れて行くのである。結構片足に2日分の米が入るのである。忘れていたが、米などとは言わない。携帯口糧と言うのである。

 着衣の話のついでに不可解な話を一つ。入隊早々のある日の点呼(兵隊の頭数を調べることで、朝夕2回行なう)の時に、教育掛の兵長が皆に訊いた。
「靴が穿けない者はいないか。」
1人手を上げた者がいた。教育掛の兵長「穿いてみろ。」
何とか穿くことが出来た。
「馬鹿、穿けたではないか。」
「いえ、ここが当たって痛いのです。」
兵長がカンカンになって怒鳴った。
「俺は靴が穿けない者と言ったはずだ。天皇陛下に頂いた靴が足に合わないとは何事だ。足を靴に合わせろ。」
未だ入営早々だったので、一発ホッペタにポカリだけは許された。

 この話、つまらぬと言うなかれ。軍隊の教育のやり取りには真っ当な理屈などありはしないのだ。これに対応するために下々の兵隊に芽ばえてくるのが要領という対抗手段である。被服の話を取り上げてこれを説明しよう。だがその前に員数について。
 軍隊では員数という言葉が幅を利かす。何でも員数。員数の意味は員の字を外せばそれで判る。先ずは兵隊の頭数。朝夕の点呼および日曜外出終了を告げる帰営点呼。所定の場所に整列して、「番号。」「一。」「二。」「三。」‥‥と各人数えて、各隊の人員を点検するのである。入院者、外出者、勤務者、出張者と事細かに調べ上げて、点呼時の聯隊の兵員数を合わせるのである。この時、一名でも欠損者があろうものなら、さあ大変。聯隊を挙げて不明者の捜索が始まるのである。営庭の中は隈なく、倉庫の中から便所の中まで人の隠れそうな所はすべて開けてみる。打ち明けた話が、軍隊が嫌になって自殺ということもあるらしい。私の見聞した範囲ではそのような深刻な話はなかった。

 日曜の外出後の帰営点呼だけは誰でも要注意だった。帰りのバスや電車が事故で遅れたなどという言い訳は一切罷り通らぬ世界である。間違いなく重営倉の処罰が待っているのである。
 点呼にはさらに不快な不時点呼というのがある。それは文字通り、前出の朝夕・日曜帰営時の他に臨時に行なう点呼のことである。不時点呼の性質上、聯隊の人の出入りの多い昼間に点呼命令が出ることはない。鹿児島の聯隊に在隊した約5ヶ月弱の間に数回の経験がある。決まって夜、寝入りばなに点呼ラッパが鳴り響くのである。先ず型の如くに人員を計数して、やはり人員不足とあれば捜索が始まる。夜中の場合は聯隊内ばかりでなく、営門から繰り出して近郷の民家まで調べることになる。新兵はともかく、古年次兵(古兵)などはブツブツ文句たらたら。聯隊の近所の通りを眠気眼をこすりながらただ無意味に歩くに過ぎない。大体こんな捜索で逃亡兵が捕まった例はないのである。2〜3日して島原(鹿児島市内の遊郭)で憲兵隊に逮捕されたということが伝えられる。これは重営倉では相済まぬのであって、陸軍刑法によると軍法会議の結果、陸軍刑務所行きとなる。

 本題の被服の話に戻って、被服は先ず上衣、袴一組として3組支給される。支給と言ってもくれるわけではない。不用になった時には返納しなければならない。したがって現在着用しているものを含めて常に3着持っていなければならないのに、ある時、教育係りの兵長の上衣が物干場(洗濯場)で無くなったことがあった。兵長は職権を利用して一番良い上衣を持っていた。当時は軍隊も次第に物資不足の影響で材料が木綿になりつつあったのに、兵長の上衣はラシャ製(純毛)だった。兵長だけ暖かい思いをしていたのである。兵長が点呼の時に皆に聞いた。
「誰か俺の上衣を知らないか。」
兵長の被服の員数が合わないわけだ。我々初年兵は何を言い出されるか分からないので内心びくびくしながらも、この事態がどのように解決されるか非常に興味があった。すると点呼の時にいつも私と隣同士の前畠という物凄く要領のいい男が「ハイ」と手を上げた。
兵長「お前が知っているのか。」
前畠曰く「イエ、私が明朝までに捜してきます。」
兵長「そうか、頼んだ。」
生来このようなことにかけてはまったく融通の利かない私は、所もあろうに軍隊であんな事を約束していいのかね!と他人事ながら心配だった。ところが翌朝の点呼時に前畠が「兵長殿、ありました」と差し出した上衣は前のものよりもっと立派なものだった。
兵長「ヨーシ。」
私も一つ勉強した。軍隊では員数合わせのために他人の物を盗ってくることは泥棒とは言わないで要領というのである。この要領を実行する機会はすぐに来た。

 ある日、点呼に立とうとしたら上靴(スリッパ)がない。捜す時間がないので仕方なく裸足で点呼に臨んだら、たちまち教育係に見つかった。
「貴様、上靴をどうした。」
「なくなりました。」
教育係の兵長が言った。
「なくなる筈はない。よく捜せ。」
「ハイ。」
隣の班の靴置場から適当にくたびれた上靴を持ってきて穿いた。翌日の点呼。
「田中、上靴はあったか。」
「ありました。」
「ヨーシ。」
それで終わった。実は内心、どこから盗って来たかと叱責されないかと恐れていたのである。不思議なことに無くなった自分の員数品を捜して歩く人の姿には一度もお目にかかったことはなかった。皆適当にやっていたらしい。これが軍隊を上手に生き抜く要領の始まりであった。

 ただし、ここに一つだけこの要領を使ってはならないものがあった。それは兵器である。入営してすぐその日のうちに、中隊長の訓示とともに、三八式歩兵銃が一人一人に厳かに手渡される。その銃には菊の御紋章の他に、8桁の固有ナンバーが刻印してあった。このナンバーは日本中どこを探しても同じものは二つとない。まず8桁のこのナンバーをその場で直ちに記憶するように命じられる。誰に何番の銃が渡ったか、もちろん中隊にそれを記録した帳簿がある。したがって、銃を紛失したなどはもっての外の事だが、小部品の損壊や紛失ですら大変な処罰が待っていたのである。その処罰を恐れて、先ほどの要領で他人の銃と交換しようものなら直ちに発覚して、さらに厳重な処罰が課せられることになるのであった。つまり軍隊とは、何でもかんでも要領が罷り通るようなルーズな社会では決してなかったのである。

 軍隊用語の解説のついでに食べ物の話。1日3回の食事はみなラッパ。新兵は一日中走り回って演習やその他の仕事(これを内務という)に追い回されているので腹が減って仕方がない。食餌ラッパが鳴ると週番上等兵が「飯あげ」を触れて回る。「飯あげ」とは炊事場から中隊まで、中隊全員の食事を運んでくる作業のことである。
 手の空いた者が数名、舎後(中隊の建物の裏手をそう呼ぶ。ちなみに建物の表は舎前である)に整列し、週番上等兵の指揮で炊事場に飯を取りに行く。この炊事当番は皆憧れるのだ。何となれば炊事場前について飯が配給されるまでの間、これは短時間だが軍隊を忘れさせてくれる息抜きの時間が持てるからである。煙草を吸ったり無駄話をしたり。だから「飯あげ」の触れがかかる頃になると、皆飯あげ当番に我先に飛び出せるように構えている。先着数名の合格者の後から飯あげにボソボソ出て行こうものなら教育係のビンタが待っている。

 用語「ビンタ」の解説。ビンタとは一般に頭をブン殴ることだと思われているが間違いである。ビンタは正統な薩摩弁で頭のことである。殴るという意味はまったくない。明治の初め、薩摩出身の上官が「ビンタを出せ」と言ってからポカリとやったのが始まりらしく、ビンタが殴ると同義語になったのであろう。
 ここで軍隊にはあまり関係ないが、ついでだからもう一つ。鹿児島には「おい、こら」という言葉がある。子供に呼びかけたり、向うを向いた人に話しかけたりする時に、何となく「おい、こら」と軽く言うことがある。標準語に直せば「ネエ、ちょっと」くらいの軽い気持ちなのだが。これもその昔、薩摩の侍が東京で多く警官になったため、警官が被疑者を呼び止めるのに「おい、こら」「こらっ」と声を荒げてやったため、威嚇の言葉になったらしい。閑話休題。

 飯が各班に持ち込まれると、手空きの者が各人に飯椀、汁椀、皿にそれぞれ注ぎ分けて各人の所に配るのである。先程も申したように一口でも余分に食べたいのであるが、配給されてくる量は新兵にとっては甚だ少なく見えるのである。そこで要領が登場する。戦友(後で解説する)と結託する。一人が飯注ぎに回って飯椀の下半分にメシをギューギュー詰め、上半分はフワリと軽く少なく見えるように注ぐ。結構瞬間的に他人に知られぬように取り行なうには技術(というほどのこともないが)がいるのである。これを2人分受け取った戦友は、自分の所と相手の所に置いて、かつそれが他の人間に持って行かれないようにそれとなく監視するのである。こんな事を1日3回もやるとは実に浅ましい次第ではあるが、さりとて愧じたところで腹が一杯になるわけではない。

 ここで「戦友」という言葉について。ここは御国を何百里、離れて遠き満州の‥‥と歌われた軍歌「戦友」。この歌に歌われた戦友同士の友情は、我々野戦経験者にも真に同感の情を禁じ得ないのであるが、しかし入営してから受け取った戦友の意味は異なっていた。入営早々の教育に曰く、
「古兵どんの身の回りの食事、洗濯については戦友の責任である」と。
この場合、室内点呼で隣に並んだ者同士を戦友というのである。運が悪くて古兵と隣り合わせて整列する破目になった者は、その古兵どんの洗濯をしたり(ただし褌だけはやらないでよい)靴を磨いたりしてやらねばならない。運の良い者は互いに仲間同士が戦友で気楽なのだが、気難しかったり意地の悪い古兵に当たった者は苦労したようだ。

 この戦友AとBは戦友になれと規則や編制で決めるわけではない。隣に居る者は誰でも戦友だ。例えば非常呼集ラッパが鳴る。今までベッドに寝ていた者が大至急軍装(戦闘できる服装)に着替え、銃剣、弾入れを装着し、背嚢に外套、飯盒を取りつけ、出来た者から順に舎前に繰り出して整列するのである。遅いと鉄拳が飛んでくるので急がねばならないし、また完全でなければならないが、自分だけ早ければ良いわけではない。なにぶん戦闘訓練の一環であるから電燈をつけてはならず、窓から差し込む僅かな微光の中で仕度をする。ここで戦友同士というのが威力を発揮する。特に背嚢の準備は1人では出来ない。外套を折りたたんで丸太のような形に仕立てたものを、図のように背嚢の外側に括りつけなければいけないのだ。したがって背嚢は必ず戦友と声を掛け合いながら協力して準備するのである。これは大変心強いことであった。自分だけ整列して戦友が出て来ないと、協調精神が無いと見做されるので大変なことになる。この戦友精神、戦友行動は軍隊生活の心の拠り所となり、お互いに助け合っていく基盤ができるのである。万事が同様。

 さて新兵の遭遇する用語で「地方」(前出)には絶対に無い言葉に「内務」がある。軍隊生活を大まかに分けると、一つは表の顔の軍事諸々と、もう一つは衣食住を含む人間としての生活の顔があり、この後者を引っくるめて内務と言うらしい。兵隊の屯する所が内務班、内務班を取り締まるのが内務班長(軍曹か伍長が任に当たり、兵隊は班長殿と呼ぶ)、大掃除は内務実施、兵隊の持ち物を精しく調べるのが内務検査、また聯隊の営門に突っ立っている歩哨も本当の名前は内務衛兵、等々。

 軍隊とは何万何十万という人間を集め、一つの型に当て嵌めて統制をとっていこうというのだから大変なわけである。そこで「軍隊内務令」が登場する。一冊の本にまとめられて、いつでも持ち歩いて読めということだろうか、ポケット版になっている。ポケットと言ってはならない。「上衣の物入れ」と言わなければならない。便利に出来ているなどと感心はしていられない。内務令の条文の要所要所はみな暗誦していなければならないのだ。それも一言一句、間違いなく記憶していなければならない。何となれば日夕点呼(消燈の前30分位までに行なう)の後、消燈時間までの短時間ではあるが教育がある。例えば、
「おい、○○、兵営とは何か?」と訊かれたら、
「ハイッ(と返事をして班長の方を向く。そして)兵営は軍の本義に基き死生苦楽を共にする軍人の家庭にして……(まだ続く)」
というように、『てにをは』もそのまま軍隊内務令の通りに答えなければならない。ポケット版は持ち歩いて常に読めということか。

 この軍隊内務令は内容も多く、一読するだけでも大変なのに、この内容(要所要所だけだが)を暗誦できるまでに記憶することは大変などという言葉だけで済むものではない。苦痛である。しかし軍隊を離れた現在、改めてこの書を眺めると、実によく出来た集団管理術である。現在の管理職の人々にぜひ一読して貰いたいほどの価値があるとは思うが、軍国主義の復活と言われては迷惑だからやめておく。

 初年兵が読まなければならぬ教科書は、当然軍隊内務令だけではすまない。他にもたくさんある。これらの書をまとめて「典範類」と称する。この典範類は官給品(支給されるものは私物に対して皆こう呼称する)ではない。私物なのである。ではどうするか。日曜外出の折に「地方」の書店で買って来るのである。値段は安い。大抵どれでも一冊十銭くらいで買えた。
 今、私が記憶している範囲で典範類を挙げてみると、

 「陸軍礼式令」、敬礼の仕方すべてが規定されている。屋外と屋内、帽子を被っている時といない時、兵器を装着している時といない時、1人で居る時と2人以上で居る時(2人以上集まると部隊という)等、事細かに敬礼の仕方が規定されているのだ。まだある。きりがないが、この書には出陣式、凱旋式、観兵式に至るまで書いてある。

 「作戦要務令」、これは戦争(戦闘)のマニュアル本(手引書)である。そんな難しい話、一兵卒には必要なさそうなものだが、そうでもない。例えば一部、二部、三部とあるその第一部には、行軍とか宿営等に関する記事があり、その中に歩哨の行動を規定した箇所がある。「歩哨の特別守則」といって一言一句余さずに暗誦できなければならない。内容によっては、階級の如何を問わず、すべての士官、下士官、兵に要求されるのである。記憶能力が充分ならざる人にとっては苛酷なことであった。

 話はそれるが、後に野戦病院の勤務時代に、先任軍医の三輪中尉(名古屋出身の人)から面白い話、というよりは軍事極秘の話と思うのだが、「君は作戦要務令の第四部を見たことがあるか」と訊かれたことがある。「知らぬ」と答えると、中尉曰く。
「俺は見た。ガス戦の指導書だ。イザという時は焼却処分することになっている。」
中尉の説明によると、各部隊は一部宛て必ず所持していて、副官(部隊長の秘書兼庶務課長のような役職)が保管の責に任ずるとのこと。

 次は「歩兵操典」、号令や命令によって、兵あるいは部隊として如何に動くかということが事細かに書かれている。手足を動かすだけではなく、特に精神面を重視する。例えば「不動の姿勢(気を付けのこと)は軍人基本の姿勢なり」とか「速足行進は勇往邁進の気概あるを要す」といったあんばいである。

 歩兵操典では今も忘れ得ぬ思い出がある。それは入営の翌年、昭和18年の幹部候補生第一期教育中の話である。時の所属部隊は熊本の西部十六部隊である。戦況も次第に悪化しつつあり、軍の指導も少しヒステリックになり始めていた。ある時、教官の佐藤軍医大尉の言うには、軍歌については反軍的なもの、柔弱なものは歌ってはならぬことになったとのこと。例えば「昭和維新の歌」は「権門上に傲れども国を憂うる誠なし 財閥富を誇れども社稷を思う心なし」などという歌詞があって反軍的なことは我々候補生(我々はこう呼ばれた)にも理解できたが、軍歌「戦友」も歌ってはならぬと言う。教官が「何故か分かる者あるか」と言ったが、誰も手を挙げない。教官はしばらく候補生の顔を睨め回していたが、やがて「貴様等こんな事が分からないのか」と話し出したのが歩兵操典。軍歌の歌詞に「軍律厳しき中なれど、これが見捨てておかれようか、しっかりせよと抱き起こし、仮繃帯も弾の中」とあるが、こんな事が許されると思うか。歩兵操典の「戦闘中の兵の心得」に何と書いてあるか。戦闘中に戦傷を受けた場合は自分で外傷の手当てをし、自分の持ち物は自分で携行して独力で後方に下がれと書いてあるではないか。他人の怪我の世話をして戦闘を怠るとは軍律違反である、と宣うたのである。
 軍歌「戦友」は非人間的な戦場に咲くギリギリの人情を歌い上げた良い歌だと思っていたので、この軍律違反の話にはまったく腰が抜けるほどびっくりした。未曾有の国難を乗り切った明治の陸軍は、「軍律厳しき中なれど、これが見捨てておかれようか」の歌詞ごときに拘泥することなく、国民に広くこの歌を歌わせた。狭量な昭和軍閥とは雲泥の相違がある。

 他には我々歩兵には関係ないが、「砲兵操典」「工兵操典」等々各兵科の操典もあった。
 次に挙げておかねばならぬのが「陸軍刑法」。軍事に関連した刑事罰が規定されているが、中でも初年兵が読んでびっくり仰天したのが敵前逃亡、敵前抗命。説明するまでもないが、前線で命令に違反したり、姿をくらましたり、勝手に敵に投降する事であり、隊長がその場で射殺してよいことになっている。その場で、ということは裁判(軍法会議)の議を経ることなく、という意味である。問答無用、何か戦慄を覚える事柄ではある。陸軍に在籍したした者でこの事を知らぬ人は一人もいないはずである。

 さて典範と称されるもの、どのくらいあるか、その数を知らないが、思いついたものだけさらにその名を連ねると(もちろん私が関わったものだけ)、射撃教範、体操教範、剣術教範、衛生法、救急法、等々。とにかくあらゆる軍事技術に教範があった。

 最後に(本当はこれを最後にしたら昔ならビンタを食らうところだが)、一番苦労するのが軍人勅諭の暗誦である。かなりの長文で全文暗誦するのは大変な事だが、これが出来なければ幹部候補生の受験資格すら与えられなかっただろう。この事は実は世の中一般に知れ渡っていたので、入隊する人はすべて予め「地方」にいた頃から心掛けていたようだ。なかなか要求されるようにスラスラと言えるようにはならないのである。日夕点呼後の地獄の教育で、「○○、軍人勅諭の忠節の項を言え」との班長の指名で、おっかない顔した班長の方に向き直って一文を暗誦するということは拷問にも近いものだった。そのはず、もし間違えればビンタの数発は必至。

 理屈抜きの丸暗記教育、そして理屈抜きの実践、ここに陸軍の教育の核心があった。ただしこれは表向きの話であって、裏では必ずしもこの精神が厳守されていたわけではない。人間誰でも気分の捌け口は欲しいものであり、息抜きは必要である。軍もその辺は心得ていて、兵の不満を鎮撫するには食い物と休暇と歌が都合が良いことを御存知だったようだ。

 そこでまた用語解説。ある日の夕食後に「各班、加給品を取りに来い」と週番上等兵が触れて廻った。古兵が「誰か使役に出ろ」と言う。使役とはいやな感じの言葉だ。決められた正規の業務以外の雑務に追い使うことを、すべて使役というのだ。まるで奴隷にでもなったようで不愉快この上もない気分である。それでも数名の者が使役に出て受けて来たのが饅頭だった。加給品とはこれだった。
 「加給品」とは3度の食事以外の食品のことで、なるほど字の意味通りのものだ。普通は甘味品で1週間に1度くらいだった。また正月祭日には酒が出た。1人飯盒の中盒に一杯ずつで一合である。煙草も加給品として出た。
 また食事に関して「地方」では使わない言葉に「不食料」というのがある。休暇で幾日か軍隊の飯を食わないと、その分を金額にして支払ってくれるのである。実に律儀な話ではある。

 さて人間、最も気分の捌け口になるのは他人から監視されない事、つまり自由だ。その意味で最大の楽しみは外出である。新兵は半数宛て交代になるので2週間に1回である。
 外出すれば自由だと言っても本当はそれほど自由ではなかった。外出時間に制限があるのは当然としても、外出範囲は衛戎線以内と限られていた。衛戎とは何だ。漢学の知識があれば「えびす」「敵」から守るの意と解せられる。軍の所在地のことを衛戎地といった。「衛戎地」「衛戎司令官」「衛戎病院」の意味も分かると思う。衛戎地は地図上に線引きして、それ以遠に越境すると逃亡と見なされる場合がある。この線を衛戎線という。

 故郷の田上は、少し手前の田上橋に衛戎線が引かれていたので、とうとう一度も親戚に顔を出すことはなかった。不義理をした。外出中はまた私服の憲兵や第二種巡察(外出者の規律を見張るために各部隊の将校が勤める)に気を遣うし、上級者に会えばいちいち敬礼をしなければならない。市内に自宅のある者は結構よい息抜きをしてくるが、東京から入隊していた私にとっては、隠れ場所がないのでそれほど楽しいものではなかった。行き先は本屋に映画館に喫茶店、あとは早々に引き上げた。

 さて休日は帰営点呼を告げるラッパの音で終了する。帰営点呼後は必ず軍歌演習になる。大声張り上げて歌を歌うことは何事によらず、これほどストレスを解消してくれるものはない。話は別だが、近年カラオケが世の人に持て囃され、カラオケ業が一大産業に発展しているのを見れば解ることだ。楽しい記憶のない軍隊生活の中でただ一つ心和む思い出と言えよう。
 「軍歌演習始め」の号令で、中隊全員四列縦隊の輪を作ると号令が掛かる。「前へ進め」「軍歌、歩兵の本領、始め!一、ニ、三、四」で「万朶の桜か襟の色……」となる。「歩兵の本領」はニ度も三度も歌う。その他「日本陸軍」「橘中佐」「陸奥の白雪」「愛馬進軍歌」「戦友」等々。

 被服の用語解説をしていたのが発展しすぎて別の話になったので、また話を戻して先ずクイズ。防毒面は兵器か、被服か?変な話だが、こんな事が新兵教育の中に出てくるのである。答、防毒面は被服だ。これを被服だと教え込んだのは、やはり毒ガスは戦闘行為としては違法行為だったからである。軍の全員が防毒面を持っていれば、イザとなればガスを撒くぞという意志表示になりかねない。したがってこれは兵器ではない、被服であると強弁したわけだ。

 されば陸軍ではこれを防毒面または防毒マスクとは呼ばなかった。「被甲」と呼んだのである。被服には甲、乙、丙……と分類があったようで(内容は主計さんに聞いて貰いたい)、被甲の語源は被服の甲類ということだった。と言われても被甲の話が100%分かったわけではないが。
 では何故こんな話になったかと言えば、日本軍は国際条約に違反する毒ガス兵器は持っていませんよと宣伝したかったのであろう。しかし実際にはガス兵器を持っており、これもガス弾と呼ばず、赤筒、青筒、黄筒と呼んだ。窒息性ガス、びらんガス、催涙ガスを色分けで区別していたのだ。また確か「ガス防護教範」という典範があって、ガス防護演習は繰り返し行なわれた。
 戦い終わって邪魔物と化したガス兵器、適当に穴を掘って埋め隠したものの、時移って21世紀となった今日、今度は日本国民にも害を与えるとはとんだ事だ。どうせバレるものなら最初から苦労して穴を掘って埋めることもなかったろうに。

 さて軍隊にいようと「地方」にいようと、人間生きている限りついて廻るのが食う事である。が、軍隊ともなると食の問題も分けて二通り考えることになる。作戦地の食事と「屯営」での食事だが、この二つは大違いである。(隊内では兵営と呼ばずに屯営ということが多い。)前に不食料の話をしたが、ことほど左様に非常に几帳面に計画されて規則正しく行なわれるのが食事であった。
 さて既述の通り、内地の屯営での食事と言えば、新兵の第一印象はメシの量が少なく、腹が減って仕方がないということだった。何しろ1日中力の限り走り回っているのだから当たり前かも知れぬ。この空腹を察したわけでもなかろうが、班長が日夕点呼後の教育に曰く、
「お前等の食餌の量は米麦(3割が麦)合わせて何合何勺だ。」
残念ながら何合何勺の部分の正確な数字を忘れたので、毎日新聞社発行の「日本陸軍史」を見たら、米600グラム、麦180グラムとあった。80歳を過ぎた現在ではとてもこの半分も食べられない。この兵食1日分の2/3の米、つまり2食分で飯盒炊爨を行なうと、あの飯盒に一杯のメシが出来るのである。

 またメシが足りない、腹が減ると言えば、もっと情けない思いが1週1回のパン食である。コッペパン1個に砂糖で甘味をつけた豆乳1合が付く。もちろんカロリー計算はしてあると思うのだが、とにかくパン食の日の午前中の演習のきついこと、力の出ないこと、実に表現を絶するのである。
 食べ物でもう一つ、「地方」で食べたことのない味があった。これも1週間に1回必ず出るもので、朝の味噌汁である。数種類の野菜や白身の魚(鯵のような)など具沢山で、栄養価を考える限り申し分ない食品だった。ところがこの味噌汁が甘いのである。砂糖が入っているのである。生まれて初めての味がした。軍人になった以上、贅沢を言うつもりはさらにないが、びっくりした。

 軍隊という所は将兵に頑健な身体が求められる。その一つの要件が食事にあることは間違いない。私が北京の教育隊で受けた教育の教科の中に当然兵食の話があった。その中に今でも忘れない言葉に「銭価」というのがあった。これは一銭(蛇足とは思うが百銭=一円である)の中に含まれる各食材の有効な栄養価値をいうのである。各食材は「金一銭也」でどれだけ栄養が摂れるかということである。多数の兵に一定の予算の中で栄養十分な食餌の献立を作るには、先ずこれを考えねばならぬであろう。この考え方は21世紀の家庭や職場に持ち込んでも役に立つと思う。食事の良し悪しは美味い不味いだけで決めてはならぬ。味噌汁が甘いくらい何だ。お陰で80過ぎまで生きられたではないか。

 ついでに書いておくと、甘い味噌汁は初年兵時代を過ごした西部十八部隊だけの特製だったようだ。他の部隊にはなかったので助かった。たぶん主計さんは甘党だったのではないか。
 またもう一つ陸軍のために誤解がないように書き足しておくと、メシが足りない話が主になったが、これは激しい新兵教育がもたらした欲求不満による幻想である。決して兵食がカロリー不足であったと言っているのではない。

 大体数日で内務班の衣食の事が分かり始めたと思っていると、いよいよ軍事教練を主体とする新兵教育が本格的に始まる。先ず驚くのが、軍隊とは荒っぽい所だと思っていたらとんでもない。意外に細かいのである。些細な事にも気を配るのである。被服は上衣、袴(ズボン)合わせて3着が支給されると先に書いたが、支給と言っても貰って私物になるわけではない。転属(部隊が変わる転職)の時には返納するのである。少し追加しておくと、綻びたら修理をするし、素人手に負えない時は工場に出す。この3着のうち1着は新品で一装といい、儀式(例えば観兵式)とか外出の時に着用する。すでに2〜3人袖を通してあるが傷みの少ないのがニ装で、普段に着用し、学科の時もこれである。三装(演習着)はひどい。これは古着屋でも買わない。演習の時はこれを着る。被服の綻びなど気にしないで、しっかり練兵場を這い回れということか。したがって兵隊は着替えが忙しい。着替えが終わると、この上に装具や兵器を纏うことになる。その日の教科の内容によって服装も異なるのである。

 一番大変なのが完全軍装(図)で、戦の装束である。さしづめ昔の武士なら鎧兜の姿である。私の西部十八部隊在隊中では昭和17年11月の秋季大演習に参加した時に経験があるだけである。背嚢の外観は非常呼集の話の時に図示したが、さらに入組品(イリクミヒン:中身のこと)として襦袢、股下一組、靴下、糧秣(食べ物)、兵器被服の手入れ具が入る。上衣左前面下部に小物入れがあり、ここに繃帯包が入る。外傷を受けた時に取り出しやすいのである。何やかやで兵器装具合計で35キロ以上になると聞いた。歩兵の擲弾筒手は42キロにもなるという。擲弾筒というのは携帯用の小型迫撃砲である。

 秋季演習出発の朝,軍装を終え、軍靴をはいて巻脚絆をつける段階になったら、あまりの重さに体の平衡がとれず、ヨロヨロするのである。これは大変だ。これから一週間、こんな重い物を背負って鹿児島から熊本まで演習しながら歩くのかと思ったら、まったく目の前が真っ暗になる思いだった。案の定、同じ中隊の古兵一名がこの演習で死亡した。戦死ではないから靖国神社にも祭られず、年金も出ないのではなかろうか。その辺の消息は私には分からないが、本当に気の毒な事であった。

 普通の練兵場の演習には、完全軍装から必要品以外を取り除いた軽快な軍装となり、適宜演習に必要な物が付加される。西部十八部隊(歩兵第四十五聯隊補充隊:補充隊というのは留守部隊のことで、軍旗を奉持する本隊は当時ブーゲンビル島に出師中であった)の練兵場は二ヶ所あり、一つは聯隊の隣の伊敷から草牟田町一帯の広場と、もう一つは兵営を去ること6キロ弱の吉野町にあった吉野練兵場であった。足腰を鍛えるためであろうが、片道2時間弱の行程を毎日鉄砲を担いで往復するのである。もちろん歩くだけではない。練兵場では激しい各個戦闘教練が待っている。

 指導する側は教官(将校)、助教(下士官)、助手(兵長または古参上等兵)がチームを組んで1人の新兵を徹底的にしごいてくる。順番に1人宛て面倒を見てくれるので、まったくごまかしがきかないのである。数百メートル先の小高い所に仮想敵の標的を立てる。始めは走っては止まり、止まったら敵に遮蔽し、銃の安全装置を外して射撃し、「前進」の号令で銃の安全装置を施し、今伏せていた位置を横にずらしてから走り出す。一回約50メートルも走ったら、走りながら遮蔽物を咄嗟に判断して伏せる。「前進」「止まれ」を数回繰り返すうちに息は上がってハーハーいうし、目は視点が定まらなくなるし、手足は脱力して記憶力も判断力も吹っ飛んでしまうのだ。文章に書けばこのようにごく簡単でつまらないことなのだが、次第にこの決められた動作が欠落してくるのである。遮蔽場所が悪いと言っては引っぱたき、安全装置を掛け忘れたと言ってはぶん殴られる。何分新兵1人に助手の兵長がピッタリくっついて一挙手一投足見逃すことはない。殴る道具は天幕の支柱の樫の棒で、我々も鉄帽を被っているから実害はないのだが、やはり不愉快この上もない。

 仮想敵陣が間近に迫ると、「前進」も早駈けから匍匐前進になる。息が苦しい。つい地面を見る。「貴様、どこを見ているか。前を見ろ。」怒声が飛んでくる。いよいよ敵陣間近。「ボヤボヤするな。」また怒声が飛ぶ。急遽着剣。すると号令、「突撃にー、進め。」やおら起き上がると敵陣めがけて全力疾走。足が重くて思うように走れない。銃が重い。息がますます苦しい。いよいよ敵陣に突入。未だゴールではない。ここで喊声を上げる。「ワー」ではない。「ウー、ワー」と二段掛りで腹の底から声を出せと言う。声が小さいとやり直しが何度でも掛かる。「ヨシッ、突け」に今度は銃剣術で直突一本「ヤーッ」。仮想敵の標的に突きを入れたところで、やっと「ヨシッ、状況終わり」とお許しが出る。やれやれ。これで控えの場所に戻って、今度は仲間が同様にしごかれるのを眺めながら休憩できる。しばしの極楽である。

 飯盒の冷や飯に水筒の水での昼食を挟んでもう一訓練。帰途がまた大変。鉄砲担いでまた約2時間の行軍となる。帰りはホッとした気分もあって、軍歌を歌わせてくれる。歌とは不思議な力を持っている。クタクタになった兵隊の隊列がシャンとなって歩武堂々の行進になるのだ。

 隊に帰れば雑務の山が待っている。寝るまで気が抜けないのだ。教練はもちろん前掲の戦闘各個教練に限らない。射撃、銃剣術をはじめ、戦闘に必要なあらゆる軍事技術が教育されるのだ。銃を撃ちたがる今時の若者には羨ましがられるかも知れぬが、軽機関銃の実弾射撃までも経験があるわけだ。

 以上ほんの一例を挙げたが、そんなわけでその都度、被服も装具もいちいちこまめに取り替えるのである。しかも迅速にである。したがって自分の持ち物すべてが一目で全部把握できるように整理整頓されていなければならない。しかも1人の兵に与えられる内務班の空間は極めて狭いのである。
 棚、手箱(私物、図書など入れる)、釘3本(帯革、水筒、被服手入れ具などを掛ける)。棚には被服をたたんで重ねて積み上げるのだが、まったく独特の方法で説明に窮するので図示しておく。衣類の整頓は曲がって積み上がっていると何回でもやり直しをさせられる。大変ではあるが、全員一致して整頓し終わると、夜は南京虫の出てくる木造のボロ兵舎でも美観を呈するから不思議なものである。

 何やかやと走り回って勤めるうちに地獄の日夕点呼も終了、消燈ラッパが鳴り渡る。
「初年兵は可哀相だね〜。また寝て泣くのかよ〜。」
とラッパは鳴るんだと、古兵がからかい半分に教えてくれる。古兵も自分の経験を語っているらしい。今まで怒号が飛び交っていた兵舎が一瞬にして森閑としてしまう。今まで兵営の喧騒にかき消されていた「地方」の物音が聞こえてくる。入営前の家郷の姿が浮かんでくる。突然夜の静寂を破って響く蒸気機関車の汽笛、あれほど郷愁を誘うものはないと今でも思っている。「また寝て泣くのかよ〜」は本当らしい。

 訓練、教育の内容はいろいろに変わるが、1日は概ね以上のようにして終わるはずなのである。「はず」と言ったのは、我々の場合は一般平時の入営とはわけが違っていたからである。我々同期の初年兵はすべて昭和17年9月に半年繰り上げ卒業の学生隊だったのである。軍は戦況に鑑み、急遽多数の下級士官を必要としていたらしい。そのためか、この時の初年兵は一つの班(中隊には六つの内務班があって、平時にはこれらに均等にばらまかれて配属される)にまとめられ、単に初年兵とは呼ばれず、幹部候補生要員と呼ばれていた。したがって仲間の新兵は皆学徒兵であり、全員が幹部候補生受験希望者であった。

 そこで我々は消燈ラッパと同時に寝るわけには参らなかった。班長曰く、
「聯隊から特に1時間の延燈許可が出た。しっかりと典範類を勉強せよ。」
要するに寝る時間を割いて受験勉強をせよということだ。受験に落ちた者も除隊できるわけではないが、学力がつくのであるから、上から見れば試験の合否は別にして、全員の軍事に関する能力が上がるのである。うまい話だったが、我々にとっては眠気に苛まれ、クタクタになった体力と脳力で本(面白い本なら別)を読み、かつ内容を丸暗記するのは大変なことだった。

 初年兵生活の中で特に印象深く思い出される行事は秋季大演習と観兵式である。11月になって田圃の刈入れも済むと、農家は小川の堰を開いて田の水を川に落とし、田圃は一面の原っぱになる。陸軍はこの時期を待って日本中で師団単位の秋季大演習を行なった。
 私の入隊した第六師団(熊本師団)も隷下の歩兵三個聯隊の他、砲兵、工兵等の諸部隊が加わって、熊本、鹿児島、宮崎の三県にわたって行動するのである。鹿児島の西部十八部隊の歩兵第四十五聯隊は鹿児島本線沿いに行動して、最後の攻撃地点は熊本である。

 さて11月のある日、大演習の幕は切って落とされた。服装は前述した完全軍装だが、さらに補足すれば、糧秣(食べ物のことで、米、調味料の他に缶詰数個など約一週間分の食料、おまけに水筒は満杯とする)、弾薬(小銃弾120発)、さらに背嚢、雑嚢にぎっしり物を詰めると重さは格別、これほどの重量物の運搬は生まれて初めてだ。立ち上がった途端にヨロヨロして立っていられない感じがする。大丈夫かな、これで1日中歩けるかな?不安が過ぎる。体中に力を入れて背筋を伸ばしてみる。一応立ってはいられる。えい、ままよ。何とかなるだろう。
 「集合」が掛かる。命令、「行軍序列は建制順。前進。」衛門を出て「歩調止め」の号令。人間変なもので、窮屈な聯隊の囲いの中から自由な「地方」に出たら何となく急に肩の荷が軽くなって、これなら何とかやれそうだと思えた。50分ほど歩いて第一回の小休止となった。「歩けた。」やれやれ。

 陸軍の行軍は一時間で4キロ(50分歩いて10分休む)と決まっている。その10分間の休みを小休止という。昼食の休憩は大休止といい、事情にもよるが1時間である。そして連日行軍の場合、一日24キロである。作戦要務令にそう書いてある。が、実際にはそんな決まりは無いに等しい。
 鹿児島を出て演習や飯盒炊爨をしながら24キロ地点の東市来(薩摩半島西海岸)まで来たが、行軍は止まる様子はない。引き続き夜行軍になった。だんだん夜も更けていくが、沿道の住民の皆さんが声援に出て下さっている。(今日この頃のマラソンの声援のように)手に手に旗の代わりに芋や団子をザルに盛って「たもいやんせ(食べて下さい)」と差し出してくれる。兵隊は有難うも言わずに無遠慮に次々と芋や団子を取って頬張っている。礼儀を知らぬと言うなかれ。兵隊は疲れて腹が減って声も出ないのである。中隊長がまとめて「有難う」と礼を言ってから、ついでに兵隊に怒鳴った。
「コラッ、貴様等、あまり食って腹をこわすな。」
兵隊にはそんな声、聞こえたって聞こえやしないのだ。

 60年前の演習ゆえ、細部にわたって記憶しているわけではないが、一つ嬉しいことがあった。阿久根での民宿は海辺の一軒のお店(小料理屋さん)が宿営地となった。狭い海峡を挟んで東支那海を背景に島が見えた。一番手前の島が長島と聞いて、急に親爺さんの顔が浮かんだ。小学校の校長をしていた父は故あって昭和2年と3年の2年間をこの長島の小学校に移り、校長として過ごしたのだ。人間の出世物語から言えば親爺さんには不遇の時代であったのだろう。私が昭和17年9月に入営のために鹿児島に帰る時、父の遺骨も一緒で、その時先祖の眠る故山の墓地に葬ったのである。実は父はその5ヶ月ほど前の5月5日に結核で死亡したのである。その長島が目の前にあった。しばし軍隊を忘れて感傷が走った。

 秋季演習最後の7日目は熊本で、鹿児島から地図上で鉄道に沿って測るとおおよそ150キロ。熊本市の東の方、水前寺の北一帯に渡鹿、帯山(今は熊本市の町名になっている)という大連兵場が二つあって、演習の最終決戦場が想定されていた。八代を過ぎてからは、戦闘演習を兼ねながら夜を日に継いでの強行軍だった。頭の中は真っ白になったか真っ黒になったか定かではないが、この辺の事はあまり記憶が残っていないのである。畑も田圃も見えない荒地(ここはすでに帯山練兵場に入っていたらしい)に入って攻撃前進の命令が出た。着剣して伏せたり走ったりするが、どこが敵陣か皆目見当もつかない。ただ皆が行く方向に一緒に走っていたら、突然鳴り響く状況終わりを知らせる「気を付け」のラッパ。中隊長が叫ぶ。
「皆そのまま止まれ。動くな。射撃中の者も前進中の者もそのままの姿で止まれ。」
そのままと言っても、走っている者が片足持ち上げた姿で止まるわけにもいかないが、とにかく終わったという空気が一帯に流れた。中隊長は「まだ動いてはいかん」と言う。時間のほどにして10分くらい突っ立っていると、天の一角より偵察機が現れ、やおら我々の上空をかすめて反対方向に飛び去った。3機編隊偵察機の隊長機がバンクしながら両翼のライトを点滅させて、地上部隊に敬礼を送っていた。我々が座ることも出来ないで突っ立っていたのは、紅白軍の演習結果の出入りを偵察機が写真撮影していたのだ。なるほど、そうかと了解したところで今度は「止め」のラッパが鳴った。皆その場に死んだように引っくり返った。オーバーヒートしていた体熱が11月の練兵場の土に吸い取られ、一息ついたと思ったら「立て」ときた。さて帰るのかと思ったら、これから師団長の閲兵分列(観兵式と同じ事)があるのでそちらへ移動するとのこと。

 「装具」をまた背負ってヨイショと立ち上がったが、「アッ、痛ッ」と立てた銃にすがりつく。人間精神の持ちようで普段できない事ができるものだという話は知っていた。確かにラッパが鳴るまでは走っていた。さっきまで走り回っていた時は気が付かなかったが、一休みしたら足が痛くてまともに歩けなくなっているのだ。足じゅうに靴擦れやマメ(陸軍では総じて靴傷:カショウと呼ぶ。うっかり衛生兵を呼ぼうものなら無慈悲にマメ皮を切り取ってヨードチンキを流し込むから、可能な限り自分で処理する)が1週間の強行軍の産物としてできている。自分だけではない。皆がそうだ。だから分列行進なんて言ったって見られたもんじゃない。列を乱してよろめく集団はまるで敗残兵の行進だった。ただ1人元気で歩いていたのは、行軍中自転車に乗っていた中隊長くらいのものだ。剣難悪路になるとその自転車を当番兵に押して運ばせているからまったくどういうものかね。ともあれ昭和17年は銃後も非常時とあって、この分列式には熊本地方の学生さん部隊も行進したのであるが、この方がよっぽど立派な行進だった。でも最後に一言加えるならば、この我々の情けない分列行進を非難した人は一人もいなかった。

 閲兵分列といえば何と言っても観兵式である。1月8日の陸軍始観兵式と4月29日の天長節観兵式が最大のものだが、実はこの時まで観兵式というのは代々木練兵場で天皇親閲の下に取り行われるものだけを観兵式と呼ぶと思っていたのである。しかし実は日本中の部隊がそれぞれの衛戎地(前述)で行なっており、それぞれの衛戎司令官が天皇の代わりを勤めたのである。例えば福岡では西部軍司令官が、熊本では第六師団長がその任に当たったのである。
 私の入隊した鹿児島は歩兵第四十五聯隊だけなので、聯隊長が閲兵したわけだ。東京に生まれ育って代々木(家から比較的近かった)の観兵式を何度か目の当たりにした経験のある私には何とも寂しい感じではあったが、ともあれ翌年の1月8日の観兵式には私も参加したのである。なぜ参加に意義があるかといえば、それには参加者の資格が必要だったのである。その資格とは「兵科の部隊」ということである。兵科とは歩騎砲工等の戦闘部隊であって、衛生部とか経理部等々「各部」と呼ばれて戦闘に直接参加しない将兵は参加できなかった。したがって例えば歩兵部隊に勤務していても軍医や衛生兵は参加資格がないのである。
 また陸軍には部隊、官衙、学校と色々の組織があったが、観兵式に参加できるのは戦闘部隊に限られていた。ただ東京の観兵式については二つの例外があった。一つは学校であって部隊とは言わないが、当然と言えば当然の陸軍士官学校で、整列の順位は最右翼(陸軍では階級が上の者のことを右翼と言った)であり、したがって分列行進も先頭を切って歩くのである。今、代々木公園の公園管理事務所のあたりが小高くなっているが、ここはかつて最高の見物席で代々木の原が一望でき、各隊の動きが全部見えたのである。士官学校の行進は全員が白手套(儀式用の手袋)してその手を肩より高く振り上げるので実に美しく見えるのである。もう一つの例外は戸山学校軍楽隊で、行進曲の演奏が無いと観兵式の形がつかないわけだ。

 東京代々木の話はさておき、以上の次第で、その時星一つ(階級章のこと)の陸軍二等兵でも歩兵だったので、私にも観兵式の参加資格があった。したがって生涯にただ一回参加(この年の2月には衛生部幹部候補生になった)した観兵式に意義を感ずると申すのである。

 1月8日当日は手落ちのないように儀式の軍装(前述の完全軍装と異なって軽く、かつ被甲のような不様なものは取り去ってある)に身を固め、所定の位置につく。
 さて鹿児島の歩兵第四十五聯隊は市の西の外れにあり、聯隊の隣の広大な練兵場は伊敷練兵場と呼ばれ、城山の上に桜島の頭がわずかに覗いていた。この練兵場に一箇聯隊が整列してみると、代々木の原に近衛師団、第一師団、近県からの軍直轄部隊の戦車、野戦重砲などのひしめくイメージのある私には貧弱の感を払拭できなかった。
 「分列に前へ」の予令が掛かり、一斉に銃を担った。いつもと何か感覚が違うと思ったら、当日は銃に着剣していたのである。前に並んだ兵が担った銃剣の先端が、私の頭の真上にきている。銃剣の林の中にいるようだと言えば聞こえは良いが、何か檻の中に入ったような物凄い圧迫感がある。予令に続いて馬上の大隊長の号令が掛かる。馬上からの「進め」の一声で約1000人の兵が一斉に動き出す。一瞬、格好が良いなあ、一生に一度でいいから大隊長になってみたいな、と思った。軍楽隊はいないので、普段通りの行進ラッパで歩き出したが、アレッ、今日はラッパの他に大太鼓が鳴っている、そんな馬鹿な!歩きながら耳を澄ませばそれは練兵場の大地だったのである。1000人の兵が一斉に同時に軍靴を踏み下ろした時、「ドン、ドン……」大地の振動は大太鼓の音になったのだ。気が付くと周囲の兵の担う銃剣でできた槍襖(銃剣襖という言葉が無いのでこう呼んだ)も一緒に歩いている。何か催眠術にでもかかったように勇気凛々としてくる。
「頭ー、右。」
お髭の聯隊長(カイゼル髭の佃利平大佐)が答礼していた。さてこの後どのように観兵式が進行し、そして終わったのか、まるで断片的な記憶すらない。60年前だから致し方ない。

 軍隊生活を一応以上のように説明したが、締め括りとして軍隊手帳の話をする。入営後数日経たある日、一人一人に軍隊手帳が渡された。各人の本籍、生年月日、姓名が記入されているのは当然として、先ず冒頭には軍人勅諭があった。
 次いで個人の記録は経歴の欄に次のようにあった。
「昭和17年10月1日、現役兵として歩兵第四十五聯隊に入営 陸軍二等兵を命ず」
教育係りが説明するには、今後各人の階級任地に移動があった時、逐一記入するものであるから紛失しないようにとのことであった。

 実はこの軍隊手帳なるものは下士官兵の所持するもので、将校にはないのである。将校の経歴は軍中央部(よくは知らないが、たぶん陸軍省の軍務局と思う)ですべてを把握しているので、個人で気を遣わなくてもよかったらしい。それが戦後になってから困った事が起こってきた。占領軍による旧軍関係者の公職追放が始まったのである。陸軍の経歴を提出する必要があった。我々みたいな娑婆に帰ったばかりのペーペーにも例外はなかった。特に軍務の経歴は詳細に記載する必要があった。軍隊手帳があれば半分くらいは正確に判ったはずであるが、見習士官に任官した折に返納させられてしまって無いのである。その必要に迫られて記憶を辿って復元したのが以下のようになる。

○昭和17年10月1日 現役兵トシテ歩兵第四十五聯隊補充隊ニ入営 陸軍二等兵ヲ命ズ
○昭和18年2月11日 陸軍衛生部幹部候補生採用 陸軍衛生一等兵ノ階級ニ進ム
○昭和18年2月16日 幹部候補生第一期教育ノ為 歩兵第十三聯隊補充隊ニ転属ヲ命ズ
○昭和18年5月1日 陸軍衛生部甲種幹部候補生ニ採用 陸軍衛生上等兵ノ階級ニ進ム
○昭和18年6月1日 陸軍衛生伍長ノ階級ニ進ム
○昭和18年7月1日 陸軍衛生軍曹ノ階級ニ進ム
○昭和18年8月5日 幹部候補生第二期教育ノ為 北支那衛生下士官候補者教育部に分遣ヲ命ズ

確か以上のように記載(部隊または学校の庶務担当者が書く)されていたと思うが、軍隊手帳は返納という形で引き上げられたので、正確度に関しては絶対的とは言いかねる。このあと復員までの経歴が尻切れトンボになるので、軍隊手帳に倣って続けて書いておく。

○昭和18年11月1日 陸軍衛生部見習士官ヲ命ゼラレ同日済南陸軍病院ニ転属ヲ命ゼラル
○昭和19年2月4日 第二十七師団第四野戦病院ニ転属ヲ命ゼラル
○昭和19年7月1日 陸軍軍医少尉ニ任ゼラレ同時ニ予備役ニ編入、同日付ニテ召集セラル
○昭和20年8月15日 陸軍軍医中尉ニ任ゼラル
○昭和21年3月31日 復員ニヨリ召集ヲ解除セラル

 見習士官以後の記載は自分の意志でただ書いてみただけのことだが、たぶん事実とそれほどはかけ離れてはいないはずである。陸軍の経験のある人なら以上で私の経歴は十分分かって貰えると思う。だが平成の空気を吸っている人たちには理解困難な部分があると思うので補足しておく。戦前は軍隊ばかりでなく、公用文はすべて文語体でカタカナ書きだった。でもこの程度の文語体なら平成人でも困るまい。

 なおこれらに関連して幹部候補生教育の第一期(歩兵第十三聯隊)、第二期(北支那下士官候補者教育部)、第三期(済南陸軍病院)の生活についても簡単に触れておく。

 第一期の歩兵第四十五聯隊補充隊(昭和18年2月16日転属)とは、先にも述べたとおり、歩兵第四十五聯隊の留守部隊のことで、本当の(少し変な言い方であるが)聯隊(軍旗を奉じている部隊)は当時ブーゲンビルで戦闘中であった。補充隊にはもう一つの呼び名、西部十八部隊があった。これを防諜名といった。後の項に出てくる歩兵第十三聯隊補充隊は西部十六部隊、済南陸軍病院は仁一八四一部隊、第二十七師団第四野戦病院は極ニ九一九部隊。ちなみに第二十七師団の諸部隊にはすべて「極」で始まる防諜名がついていた。

 衛生部幹部候補生とは。新兵の教育は初年度を三期に分け、最初の第一期の猛烈な教育が終わった時点で幹部候補生の試験がある。採用された者は成績により甲種(将校になれる)乙種(下士官になる)の二つに分かれる。私はその試験の衛生部甲種幹部候補生を受験し、採用されたのである。医師免許を持った者が入隊して軍医になるための一つの方法であった。

 ついでに書いておくと、軍医を採用するコースには次の4通りがあった。
●第一は現役軍医で、これは医学生時代から軍の委託生として軍医の研鑽を積んだ人たちである。陸軍衛生部の中核的存在であった。
●第二は私のように現役の一兵卒として入営のうえ、幹部候補生を志願して採用されれば軍医になる道である。医科以外の一般の学生が兵科将校になるのとまったく同様のコースであるが、軍医少尉になるまでは苦労も多く、しかも2年の年限を要し、最も出世能率が悪かった。
●第三は日中戦争以来、急激に多数の軍医を必要とする時代に即応して生まれた短期現役軍医制度によるものであり、医学生が最終学年に受験して採用されれば、入隊後3週間の軍事訓練を終了するだけで、大卒ならば軍医中尉、医学専門部卒でも軍医少尉に任官する。こんなに楽で割の良いコースは他に無かったので、兵科の連中は皆目を丸くして驚いていた。
●第四は軍医予備員の制度である。徴兵検査結果が丙種とか第二乙種で、もう召集はないだろうと娑婆に定着していた医師たちも多かった。この人たちに軍医予備員を志願せよと軍からお勧めがくる。応募すれば約3週間の軍事訓練終了後、見習士官の階級で軍医にしてくれるのである。これが軍医予備員であるが、しかしこのお勧めに応じないで狸を決めこんでいると、今度は本当に赤紙(召集令状)がきて召集されてしまう。非常時を弁えぬ不埒者という意味であろうか、この人たちのことを懲罰召集と呼んだ。ところがこの懲罰召集者に対して何の罰が下るわけでもなくて、一般軍医予備員とまったく同じ待遇を受けたのである。それどころか当の御本人たちは俺は懲罰召集者だと胸を張っている人もいた。この人たちは年配者も多く、すでに娑婆で一家をなしており、中には大学の助教授・講師クラスの人までいたのだ。彼らは軍事には疎く不熱心であったが、医療面になると他の追随を許さず、階級が上の現役病院長ですら一目置かねばならぬ存在だった。特に優秀な懲罰召集の先生方は、後方兵站あるいは内地の基幹病院で腕をふるって珍重されていたようだ。こういう優秀な先生方でも赤紙で召集すれば単なる一兵卒になってしまうところを、軍医予備員なる制度を設けて彼らの持てる医療技術を利用しようとしたわけで、陸軍も抜け目がないというか、よほど軍医不足に困っていたらしい。

 さて歩兵第十三聯隊補充隊では何をしたか。名目上は陸軍衛生部幹部候補生第一期教育が3ヶ月行なわれたのである。行なうと言っても、初めは教官もいなければ教材も施設も何も無い。時々聯隊の高級軍医(聯隊の軍医の責任者)、次級軍医が聯隊業務の合間をみて話をしたり、兵科の士官が教練を行なったり。どうしても時間が埋まらないと雑嚢に洗濯物を詰め込んで水前寺公園の泉に洗濯演習に行ったり、敵前上陸演習用の舟の模型に入って(外から見えない)昼寝をしたり。教育の責任者が誰だか分からないというまったくたるんだ生活だった。もっとも我々だけが知らなかったのかも。

 それでも5月になると衛生上等兵、6月には衛生伍長、7月には衛生軍曹と1ヶ月ごとに一階級宛て上がって星の数が増えるのである。何分にも星の数が物を言う軍隊のこと故、これほど気分の良い事もないが、内務班長はたぶん扱いに苦慮したと思う。衛生一等兵が鹿児島の聯隊から来たと思ったら、たった4ヶ月であれよあれよという間に自分と同じ軍曹になったのだから。いい気になっていたら、ある日高級医官の佐藤軍医大尉曰く、
「お前等の今の階級は教育上の都合による仮の階級だ。軍隊手帳に衛生軍曹に進めると書いてあって命ずるとは言っていない。教育中に不都合があれば直ちに剥奪されるぞ。」
としこたま説教された。「進める」と「命ずる」の違いがよく分かった次第であった。

 多分4月の末か5月になってからだと思うが、幹部候補生の教育隊が熊本陸軍病院の藤咲台分院に設置された。といってもその施設としての内容は約100名余を収容できる教室が一つあるだけだった。隊長は大橋軍医大尉(温厚篤実な方)で、講義も大半1人でこなし、折に触れて講師が他所からくるだけだった。教科内容は全く記憶にないが、演習の方は、金峰山(漱石の『草枕』に出てくる山)に登ったり、有明海に臨む海岸から島原半島を眺めたり、阿蘇外輪山の大矢の原の演習に参加したりで、軍服を着ていることを忘れれば観光旅行のようなもので、これは思い出になって残っている。

 昭和18年8月5日、衛生部甲種幹部候補生の第二期教育が始まるために北京に行くことになった。この教育は本来なら河田町の陸軍軍医学校で行なうのが本筋であった。でもこの年の候補生は数が多すぎて収容しきれなかったのである。そのために選ばれた代替の教育機関が北支那衛生下士官候補者教育部で、これは北京精華大学にあった。
 当時日本軍は精華大学を接収して病院として使用し、北京第二陸軍病院といった。衛生下士官候補者教育部は病院と隣同士で、精華大学構内に同居していた。この教育隊に分遣を命じられたのである。分遣というのは、軍籍は熊本の第六師団であり、我々は教育のために派遣されただけだそうだ。要するに今時の会社の出張に当たるらしい。

 ここでの教育はかなり多くの記憶が残っている。と言っても頭に残っているのは学課ではない。北京の秋は世界一と言われているそうだが、青く澄み渡った空、湿度が低くて爽やかな空気、体を動かしたあと木陰にでも憩えば実に申し分ない。精華大学の周辺には綿畑が広がっていた。今は戦争中か?嘘でしょう、そんな感じである。中でも心に残るのは行軍演習。萬壽山、昆明湖、香山、玉泉山と歩いているうちに、担った銃(衛生部の候補生でも演習の時は担ぐ)のことは忘れて、まるで観光のよう。図上戦術(戦術の授業の実習。北支軍司令部の参謀が教官であった)は蘆溝橋付近で行なわれた。しかし乾隆帝の蘆溝残月の碑は残念ながら記憶に残っていない。よく見ておけば良かったと思うが、人間基礎教養がないと良い物も大事な物も見過ごすらしい。

 3ヶ月の第二期教育が終わり、11月1日めでたく見習士官となる。陸軍二等兵として入営してから1年1ヶ月のことである。見習とは言ってもれっきとした士官である。階級は少尉と准尉の間であるからすべてが士官待遇、熊本の階行社で調達して持参した日本刀を吊るして歩くことになる。衛門を出てももはや衛兵に止められることはない。そればかりか衛門歩哨が捧げ銃をしてくれたではないか。何とも晴れがましい気分だった。
 1年以上腰に下げていた牛蒡剣(三十年式銃剣のことを兵隊はこう呼ぶ)は返納した。今までの軍曹の襟の階級章を外し、曹長の階級章と、幹部候補生の徴である丸の中に星の形の座金を付ける。そして上衣の上にキリッと正刀帯を締める。これに刀を吊ると形は出来上がったが、見習士官というのはあくまでも見習で、正しくは幹部候補生の第三期教育だそうだ。この後さっそく各部隊に配属されて実務につくことになる。第六師団から派遣されて同時に見習士官になった40数人のうち、約10数人が北支派遣軍に残り、あとの30人は南方派遣軍に配属となった。私は済南陸軍病院勤務を命ぜられた。

 昭和18年11月8日、第三期教育のため、北京站より南方行きの30人と一緒に浦口行きの列車(津浦線)に乗りこむ。済南に到着するのに約10時間もかかったろうか。南方行きの連中と固く別れの握手を交わして降りたのだが。戦後何年も経ってから判ったところによると、南方転属者の一行はその後上海を出発したが、南方行きの輸送船が敵潜水艦の魚雷を受けて沈没、約半数が戦死したそうだ。済南駅頭での別れから1ヶ月もたっていなかった。

 この時戦死した仲間の中にK君もいた。私が陸軍二等兵として入営したその日から常に起居を共にした戦友である。九州大学医学部出身、同じ医者仲間の誼ですぐに親しくなった。すごく頭の良い人であったが、体格が小柄で万事おっとりしており、あまり軍隊向きではなかった。東京出身の私が日曜でも家族面会のないのを気の毒がって、ある日曜日、所在なく内務班でぼんやりしていた私を彼の家族の団欒に誘ってくれたことがある。衛兵所前の面会所に行くと、まだ幼い弟妹も含め3人ほどの家族を伴った彼の母親に紹介された。ご家族の住所は川内市で、この日も何時間もかけて聯隊まで面会に来られたらしい。父君は甑島(川内市の沖合い30キロの離島)の開業医師であったが、数年前に他界せられた由で、母君には生活の疲れがにじみ出ておられた。やっと成人して医師になった長男に今後を託しておられたであろうと察すれば、真に胸を打たれるものがあった。

 そのK君が事もあろうに南方行きとなって戦死してしまったのだ。見習士官となって一同浮き浮きしていたあの時、「見習士官全員営庭に集合」の指示が布告せられて、我々は営庭中央に整列した。待つほどに校長の小野軍医大尉はじめ教育隊関係者一同も整列して厳かな空気がみなぎり、免状を貰ったわけではないが、これが卒業式に相当する儀式だったようだ。式は隊長の祝辞と訓示があって簡単に終わったが、最後に「お前たちの任地希望を書いて出せ」と一言あって、一時解散となった。いよいよ運命の分かれ道にきたと実感したが、たくさんの選択肢があったわけではなかった。第六師団から派遣された我々40数人には約10数人の北支派遣軍行きと、残り全部は南方派遣軍行きの二者択一でしかなかった。すなわち内地よりは安全で治安の良かった北支(中国北部)と、制空権、制海権もなくもはや敗色濃厚で危険な南方のどちらを選ぶかということであったから、希望する先は皆同じである。

 しかしそれにしては北支派遣軍行きの10数名は少なすぎた。したがって北支希望が全部認められないことは自明の理であり、そこが問題だった。10数名の定員をオーバーした時、どのような選別が行なわれるのか。すべては隊長の腹一つだ。たぶん成績序列は考慮されるだろうが、隊長の腹の虫の居所によっては軍人精神の入っていない奴と判断され、希望とは反対の結果を招く危険もある。皆考えこんでしまった。

 あちこちで皆ひそひそ話が続いていたが、普段から陽気な仲間の1人が、
「俺なんか序列が悪いから北支と書いたって通るわけがない。どうせそうなら初めから南方と書いた方が得だ。そしたらシンガポールでうんと遊んでやるぞ。」
と自棄気味に騒ぎ始めたのを合図に、皆仕方がないと言いながら、希望任地を記載して用紙を提出した。

 やがて第六師団出身者に再度集合がかかり、隊長から任地詮衝の経緯と結果が発表された。隊長の話では、各人の任地希望は一生の重大事と考えてこれを第一とし、第二には各自の学業序列と健康を考慮して決定したとのことで、きわめて常識的だった。私はありがたいことに北支組の10数人の中に選ばれたわけだが、最後に隊長からチクリと痛い一言が発せられた。
「勇猛を以って鳴る第六師団の候補生にして、北支志願が多かったのは残念であった。」

 K君はこの時、南方行きになってしまったが、私は居室に戻るや否や彼に訊いた。
「君、任地希望は南方と書いたの?」
彼は成績が良かったので、当然北支に残れたはずだったのである。彼は力なく答えた。
「南方って書いたよ。」
「どうして?」
「南方の方が勇ましいと思えたんだ。もう仕方がないよ。でもその時は本当にそう思ったんだ。」
魔がさしたのだろう。あまりにも善良だったK君は錯誤をしたようだ。彼は寂し気に窓の外を見ながら言った。
「君はいいなあ。北支に残れて。」
私は絶句した。返す言葉がなかった。彼の言葉を勇者と称えるには、その姿はあまりにも惨めだった。

 さて南方行きの仲間たちと別れて済南駅頭に降り立った私の話に戻るが、夜も午後11時頃の到着だったので、病院までどうして辿り着こうか一人思案しながら改札に向かう。しかし夜中だというのに何か駅全体が騒々しい。衛生下士官や衛生兵が走り回っている。その一人をつかまえて事情を話すと、彼らは列車事故の怪我人収容のため済南の病院から来ているとのこと。その晩の指揮官は庶務主任の江幡少佐だった。まったく幸運だった。早速怪我人と一緒に病院に引き取って貰った。病院は済南駅から約四キロくらいはあったろうか。城壁の外の荒地の中の一本道を行くのだ。交通手段は洋車(ヤンチョ:人力車のこと)に乗らなければ歩くしかない。夜の夜中に洋車などいない。まったく助かった。病院はやはり大学だった。斉魯大学という。

 病院では内科の第三病棟に配置された。病棟の主任は軍医中尉の篠原正幹という北大出身の方だった。この病棟は主としてマラリア、カラアザールを収容していた。カラアザールはリーシュマニア原虫の感染による伝染病で、特効薬とされるアンチモン製剤(ネオスチボサンなど)も完全な治癒率は望めず、兵隊はこの病気をこっそり「カエラザール」と呼んで恐れていた。篠原中尉は鋭意この病気と研究的に取り組んでおられ、母校の学術雑誌にも投稿しておられたようだ。私も指導を受けて骨髄穿刺、採血、血中の病原体検査で日を過ごした。

 済南病院では比較的平穏な日々が続いたが、一つだけ不合理を感じたことがあった。それは陸軍における「傷病等差」の件である。先ずはこの軍隊診療に特有な用語を解説しておこう。軍隊における傷病には「壹等症」と「貳等症」がある。平易に書けば「一等症」と「二等症」で、壹等症とは公務に起因する疾病をいい、公務に起因しないものは貳等症となるのだが、これは後々恩給査定の資料になるので改竄を防止するため、むずかしい漢数字を使用する。
 済南周辺の小さな警備隊では隊付軍医不在のため、初診患者が直接済南病院に担ぎ込まれることがあった。この時は病院軍医が入院カルテを作成することになる。
 ある日曜日、当直任務についていた私は、歩行不能を訴える患者を診ることになった。運動器官にも神経系にも異常がない。よくよく糺すと何日か前に慰安所へ行ったことを白状した。陸軍の衛生教育図書「衛生法及救急法」に示された予防処置を励行しなかったための罹患であると私は判断し、したがって傷病等差欄に貳等症と記入した。
 翌日、院長室へ出頭を命じられた。院長の呼び出しにはまったく思い当たる原因はなかったが、怒るのが趣味のような院長だったから、悪い予感を覚えながら院長室に入った。敬礼しながら院長の机の上を見ると、昨日の患者のカルテが載っている。
「お前が書いたこの病床日誌は何だ。」
いきなり怒鳴られた。
「ハッ?」
「ハッじゃない。ここに貳等症と書いてあるのは何だ。」
「この患者の病気は性病で、また患者自身の不注意も発病に関係があるので公務に関係ないと思い、貳等症にいたしました。」
「馬鹿者!戦地で罹った病気は全部壹等症だ。」
またもや怒鳴られたあげく、長々とお説教を聞かされた。それによると、兵は皆召集を受けて戦地に来ている、自分の意志で戦地に来たわけではないから、戦地で罹った病気はすべて壹等症であるとのことだった。

 もちろん例のカルテは壹等症に訂正して一件落着したが、私の理解力では十分納得できない点もあったので、翌日昼の食会(陸軍では将校全員が集会所で昼食を共にする習慣があった)の席で隣に座っていた衛生准尉さんにこの問題を訊ねてみた。この人たちは衛生下士官から叩き上げてきた陸軍衛生法規の生字引的な存在である。
「軍医殿、戦地で病床日誌を作る時は全部壹等症にしておけばいいんですよ。」
と先ずは面倒な理屈よりも習慣に従っておく方が無難であるとの見解だったので、ではどういう場合を貳等症にするのかと、さらに問い直すと、しばらく考えた末、
「そうだなー、兵役忌避目的の自傷行為とか、自殺未遂くらいかな。」
という答えが返ってきた。

 いろいろあったけれど、済南の病院では戦争中という意識も薄れるほどに平凡な日々が続き、大変結構と思っていたら、それは長続きしなかった。明けて昭和19年1月のある日、済南に司令部のあった第十二軍に新しい軍司令官が着任した。内山英太郎陸軍中将である。この方は戦後かなり経ってから戦争犯罪問題でマスコミに取り上げられたりした人である。司令官の病院巡視の折に支那方面軍に何か大きな動きがあることを示唆したが、詳細はまだ伏せられていた。と思ったら途端に私の転属が発表された。まもなく発動される一号作戦に向けての準備だったことはまぎれもない。
 実はこの数日前、私を含む何名かの見習士官が院長宿舎に呼ばれたことがあった。いつも機嫌の悪い院長がニコニコしながら飯を食わせてやるというのだ。ところが会食の場で現役軍医(前述)を志願しないかという誘いがあり、私が「自分の性分は軍人に向いていないと思います」と断ったところ、軍人は性分でなるものではないと怒られてしまった。どうもこの時に現役軍医を志願しなかったために、作戦部隊に放り出されたのではあるまいか。
(註:父は平尾正治さんという方の書かれた「ソロモン軍医戦記」を読んで、この件を思い出したらしい。この方は父と同じ時期に東大医学部を卒業して海軍に入隊、永久服役軍医志願を断ったところソロモン諸島の陸戦隊に回されたと書いておられる。父は海軍も同じだったかと慨嘆していた。)

 行き先は第二十七師団第四野戦病院(極ニ九一九部隊)、天津に行けとのことだった。新しく病院を編制するための転属だったので、済南の病院からは私の他に下士官数名、兵約十名ほどを指揮しての賑やかな転属だった。ともかく集合場所の米国兵営(メーコピンファンズ)に入って待機する。3月2日のことであった。北支各地の各部隊から三々五々集合して3月10日頃に集合編制を完了し、部隊全員揃って北支軍司令部に申告に行く。「申告」というのは陸軍では大切な行事で、進級したり、転属したり、新しい任務に着いたりする時は所属の隊長に報告の挨拶をするのである。これには定まった型がある。やおら隊長の前に行き、「申告致します。陸軍○○(階級)○○○○(氏名)は何々を致します。謹んで申告致します」と言うのである。隊長は一言訓示をもって答える。一般社会の御挨拶に当たり、必ずしも陸軍独自の習慣とは申さないが、一々何でも忠実に申告するのである。司令部に着くと同じく新編制の第二野戦病院も同時に申告に来ていた。

 元来、野戦病院とは戦時編制の師団にしか存在しない。師団がその時々に企図する作戦の内容や戦況によって、第一から第四まで最大四つの病院まで編制することができた。第二十七師団はこの時まで第一野戦病院ただ一つだけであったが、一号作戦開始に当たって、第二、第四の二つの野戦病院も編制されることになり、合計3つの野戦病院を持つことになったのである。それだけ作戦の前途多難が予想されたのである。数字の順番から言えば、私が所属したのは第四ではなくて第三野戦病院のはずだが、第三が欠番となったのはなぜか。実は私も確信があるわけではないのだが、師団が編制しうる四病院のうちで、第四野戦病院だけがX線装置を装備する規定になっていると聞いたことがあった。そのため第三野戦病院が欠番になったらしいが、実は私は我が第四野戦病院のX線装置にお目にかかったことがないのだ。その理由としては、京漢作戦では病院開設の機会が無かったし、湘桂作戦では駄馬編制だったためにX線装置のような大荷物はすべて漢口に残置してしまったからだと思われる。

 申告に続いて北支派遣軍司令官藤江恵輔大将の訓示の要旨。当時の戦況については制空権、制海権が失われてきたこと。特に日本が南方への重要な補給路と位置づけた東支那海や南支那海までもアメリカ潜水艦に脅かされるに至ったこと。そのため南方との連絡が危殆に瀕するに至ったことの説明があった。それでは日本はどうすれば良いか。それには潜水艦攻撃を受けない陸路の交通路を確保することである。その陸路とは釜山、奉天、天津、北京、漢口、衝陽、河内、シンガポールに鉄道を通すことである。そのうちまだ占領されていない新郷−信陽間、次いで岳州−長沙−衝陽−河内の間で作戦を起こす。第二十七師団はこの作戦に従事して貰う。おおよそのところはそんな話だったが、もちろん誰もこの件を批判する者も議論する者も居なかった。司令官の言う通りに事が運べば、それは大した事だとは思ったが、「うまく行くか行かないか」そんな事は胸に収めて、ひたすら命令通り動くのが下級の士官や兵の務めと思う他はない。司令官の訓示は我々に任務を付与したことであり、我々はいよいよ第二十七師団長の隷下に入り、作戦命令の待機状態に入った。なおこの作戦の揚子江から北(主に河南省)を京漢作戦、南(主に湖南省)を湘桂作戦と呼んだ。両作戦を合わせて一号作戦と呼ぶことは私も戦後に戦史で知った。

 以上、初年兵の立場で軍隊の感想を述べてきたが、1年経てばもはや初年兵ではない。居所も今や内地ではなく、戦地に居るのである。軍隊手帳にも記載があったと思うが(記憶がやや曖昧)、山海関(国境)通過は昭和18年8月8日であった。軍隊では大切な記録で、この日以後は給料は2倍になる。また軍人恩給(年金のこと)の計算の基礎となる年限も2倍になる。すなわち1年勤務すれば恩給計算上は2年に当たるのである。南方やビルマ等の激戦地では3倍になった。一般銃後の人にはあまり知られていなかったと思う。

 というわけで、以後は戦時の記録、作戦間の記録となるので、章を改めることにする。が、その前にちょっと寄り道。



(付)私が初年兵教育を受けたわけ

 以上を読んで下されば私の軍隊生活のスタートのあらましは分かって下さったと思われるが、当時の事情を詳しくご存知の同業の方ならば、なぜ私が短現(当時短期現役軍医を略してそう呼んでいた)でなかったのか、不思議に思われるであろう。短現であれば、歩兵の初年兵教育や幹部候補生教育など面倒で辛い手間をかけずとも、医学校を卒業すれば簡単に軍医になれたのであり、当時は実際そういう方々が多かったのであるから、そのような疑問はもっともである。

 実は私とてもそうありたかったわけであるが、理由は簡単、短期現役軍医の試験で不採用になっただけの話である。ではなぜお前は皆が簡単に採用された短現に落第したのかと問われると、話は簡単ではなくなるのだ。

 まず短現とはどんな制度か説明しなければならない。医科の学生は卒業がほぼ確定すると、短現志願書を提出し、試験を受け、採用されると医科卒業後すぐに入隊する。初めから見習士官の階級が与えられ、わずか3週間で軍医に任官し、大学出は軍医中尉、専門学校出は軍医少尉になる。海軍も同様だった。こんなうまい話はない。兵科はもちろんのこと、衛生部以外の各部でも、ズブの素人軍人をたった3週間で将校にしてくれることなど絶対にないのだから。これでは太閤様でも目を回そうというものだ。
 だから私も昭和17年、徴兵検査が済むとすぐ手続きをした。確か北の丸の煉瓦造りの近衛師団司令部に願書を提出し、試験は同じ北の丸の近衛歩兵第一聯隊の医務室で行なわれ、学友と一緒に出かけた。試験は身体検査と簡単な口頭試問だけだった。しかし不採用だった。

 その年、昭和17年度短現試験の直前、今年は例年のような無条件採用ではなく、問題ある者は落とすらしいという噂が流れており、蓋を開けたらこの噂は本当だった。軍医不足をかこつ陸軍が、この年なんでこの挙に出たのか。私は真相を知っているわけではない。しかし不採用だった釈然としない気持ちをこめて、以下に自分なりの考えをまとめてみた。

 話は遡って昭和14年、陸軍士官学校は入学者の大増員を行なった。それまで士官学校は一高(第一高等学校)、海兵(海軍兵学校)と並び称された難関で、上級学校志願者にとっては狭き門であった。それが1000人単位で人員を数えるほどの大募集、確か2000人くらいだったと思うが、とにかく世の中がアッと驚く数だったことは間違いない。

 この昭和14年に中学5年生を終了した私は、すべての上級学校入学試験に失敗して、4月から母校の補習科(予備校と同じ)に通うことになっていた。そして上級学校はすでに新学年度が始まり、我々浪人生が翌年度の受験準備に取り掛かっていた時、まさに驚天動地、寝耳に水の未曾有のニュースが飛び込んできた。全国大学の医学部および医科大学に、臨時に医学専門部を併設するというのだ。
 世の中がきな臭くなって、学生の徴兵猶予期間も次第に短縮されつつあった当時のことであるから、この話に浪人生は一斉に飛びついた。学校によっては競争倍率12倍という物凄いところもあった。裕福ならざる家庭に育った私ももちろん早速飛びつき、敗者復活戦にしては厳しい受験状況ではあったが、私は何とか親孝行することができた。

 しかし考えてみると、時節外れの医師の突然の大増員、こんな突拍子もない学制の突然の変更、もちろん議会で審議された様子もない。大学はおろか、文部省や厚生省だってこんな乱暴なことは単独でできるわけはない。では一体、誰がどうして。
 ここで前述の陸軍士官学校大募集が重なってくるのである。陸軍首脳は、士官さえたくさん養成しておけば、あとの兵員は赤紙(召集令状)で徴兵できるから、軍隊の何百万くらいはすぐに編制できると思っていたのではないか。しかも編制した大部隊に見合う多数の軍医も赤紙で徴集すれば充当できると踏んでいたのではないか。しかし陸軍自体には医師免許を与える医学部(現在の防衛医科大学校のような学校)が無かったことをお忘れだったようだ。
(註:この点は著者の多少の思い違いがあり、陸軍にも自前で軍医を養成する陸軍軍医学校が東京戸山にあったが、規模は非常に小さかった。これは潮書房から『丸』に掲載される時にご指摘いただいた。)

 日本の法律が医師免許の無い者の医療行為を禁止しているのは今も昔も同様である。しかし当時の日本には陸軍の要求を満たすに足るだけの医師はいなかった。このことに気がついた時、軍首脳はさぞびっくりしたことであろう。これが前代未聞の突然の学制改革の原因であり、すべて陸軍のゴリ押しによったものと私は思っている。こんな横暴ができたのは陸軍しか無かったはずだ。

 そんなこんなで昭和17年10月の卒業時点では、例年に倍する医師が誕生してしまったのである。そして時節柄、新卒の医師のほとんど全部が短現を志願したわけだ。医師が少ないのは困ると言いながら、この年は陸軍の必要数を一挙に上回った人員の運用に窮したのであろう、陸軍の人件費にも大幅に影響する。それなら不採用の残党は新兵から鍛えて十分に軍人精神を叩き込んでやろうと思ったのでは。いや、もし私が軍首脳であったなら、そう考えたであろうという話である。

 このような背景を踏まえて、私は短現試験に臨んだのであるが、同学の級友42名について眺めると、まったく兵役に適さない人が1〜2名、すでに医科1年生から現役軍医に採用されていた人が2名で、残りはほとんど受験したと思われるが、そのうち陸海軍短現の合格者は20名に満たなかったはずである。したがって残りの大部分は10月1日、一兵卒として入隊するか、または徴兵検査の結果(第二乙種など)により、かなり遅れてから軍医予備員で徴集されたか、に分かれたのである。
 以上で昭和17年の医科卒業生には短現不採用者が多数出てしまった理由は分かって貰えたと思う。

 さて、では何故お前は不採用になったのか、お前に何か欠陥があったのか、順序として今度はそういう質問がくることになる。それには思い当たることが一つあった。
 それは学校教練の成績である。この学校教練の成績の合否判定は学校から陸軍に直通で上がっていったらしい。しかも誰も自分の判定を見ることはできない。現在の入試の内申書のようなものだが、もっと取り扱いが厳しいものと思えばよい。
 私が学校教練の判定を心配した理由を分かって貰うには、またさらに何年も時代を遡って説明しなくてはならない。そうでないと、不真面目に過ごしていたわけでもないのに短現を落第した理由が分かって貰えないからである。

 昭和10年、私は中学2年になった。鹿児島県出身の父はお国ぶりを反映して大の軍人贔屓だったので、私は陸軍幼年学校を受験することになった。幼年学校とは一般の中学の過程に相当するが、軍事教育に重点が置かれたであろうことは言うまでもない。卒業すれば士官学校に直結で入学する。もし入学すれば軍のエリートとして一生の生き様も確定してしまうわけだ。

 時候は秋頃ではなかったろうか。試験会場は青山の青年会館(現在の地下鉄の「表参道」駅のあたり)で、まず一次の身体検査が行なわれた。身体検査不合格ならばそれでおしまいである。身体計測、検尿、内科検診と一応順調に終わった。最後に合否判定を試験官の二等軍医正殿が宣告する。二等軍医正とは後の軍医中佐のことである。その時の試験官の姓名は失念した。
 順番待ちで腰を下ろしていると、「次、誰々」「次、誰々」と呼び出され、私より順番が遅いのに、私の横を通り抜けて次々と判定を言い渡されて帰って行く。私はそんな中で30分以上も待たされていた。だんだん心細くなった頃、1人の衛生下士官が1本の試験管を持って現れ、それを軍医正殿に渡した。試験管内の液体は上下半々の二層に分離していた。
 軍医正殿はその様子をしっかり確認したところで、「田中」と私を呼んだ。そしてしげしげと私の顔を見ていたが、やがてこう切り出した。
「お前、今までに病気をしたことがあるか。」
「はい、5歳の時に猩紅熱をいたしました。」
「そうか、それが原因だ。お前の病気は慢性腎臓炎である。この病気の者は軍では採用しないことになっている。御国のために尽くすには軍人になるばかりと決まったものではない。何か軍人以外の道を探すがよい。残念ながら不合格だ。」
そして一呼吸おいて「ついでに言っておくと」と言いながら、机上のメモ用紙を取って「肝腎」と書いて私に示した。「物事は何事によらず大切なことを肝腎という。人体にとっても肝と腎が大切な働きをしていることから、この言葉が出来たのである。今、お前の体は腎が悪くなっている」と言って、さらに慢性腎炎の概要や治療について懇切に説明してくれたうえ、最後に次のように結んだ。「この病気には過激な運動はよろしくない。また蛋白質をたくさん摂るのもよろしくない。くれぐれも大事にせよ。」
 これを聞いて私は不合格を宣告した試験官に、思わず「ありがとうございます」と言って引き下がってきた。あの二等軍医正殿には何となく神のごとき慈愛が感じられた。時間にしたら10分以上も話してくれていたようだ。私の番が終わった時、順番待ちの他の受験生がまだ何人も残っていた。

 考えもまとまらぬままに帰途についた。電車の中で電撃が走った。試験官は軍人以外の道を選べと言った。普通なら、軍の学校は幼年学校だけではない。陸軍士官学校もある、海軍兵学校もある、体を治して再度挑戦せよと言うところだ。何故‥‥。
 そうだったのか。私の病気は治らない病気ということだったのか。急にめまいを感じた。だがこのめまいは、考えてみればこの時に始まったものではなかったのである。幼年学校受験のかなり前から、朝の起床直後の排尿時にグラグラめまいがして、思わずトイレの前の壁にしがみつくことがしばしばあった。別に痛みがあったわけでもないので親には黙っていた。

 受験結果を聞いた両親は二、三診療所を連れ回したが、最終的に駿河台の三楽病院を受診させた。医長の桜沢富士雄先生(東大呉内科助教授)の診察後、先生から父と交替するように言われ、私は廊下でしばらく待っていた。やがて診察室から出て来た父は、ただ一言「帰ろう」と言ったきり、帰宅するまでほとんど口をきかなかった。
 それ以来、やかまし屋の親父が何一つ説教もしなければ、叱りもしなくなった。ある日、私が自室で読書していたら、窓の外に人の気配を感じて眼を上げると、親父が憐れむがごとき眼差しを向けてじっと私を見ていた。私と視線が合うと親父は黙って立ち去った。

 慢性腎炎という病気、現在でも病名が確定すれば難病であるが、今ならさしづめ透析治療もあるし、直ちに死に結びつくわけではない。現在の診断技術に至っては目を見張るばかりだが、当時は尿蛋白陽性所見だけで腎炎の診断を下したとしても、医療過誤に問われることなどなかった時代である。おまけに当時の常識では、腎炎は慢性化して萎縮腎、尿毒症を経過して死の転帰をとると、内科書には記載されていたのだ。元気者の親父がすっかりしょげてしまったのも無理はなかったのである。

 こうなると将来の志望などもはや問題ではなくなってしまった。大事な命がそう長くはないらしい。まず能うる限り長生きできるように、次にできるだけ早く学業を終えるように、考えなければならぬ。当面の対策としては医師の勧めによって、まず学校教練と体操の授業を休むことになった。ところがこの学校教練の欠課(休むといっても運動場の片隅で見学はするのである)が、後々心配の種になったのだ。なぜか。

 ある時、中学の配属将校の講義(講義には欠課というものはない)の中に気になる話があった。それは学校教練の合否や成績が、我々の将来を左右するということだった。その成績は我々の知らないところで常に我々について回る。例えば幹部候補生の試験にしても、たとえ軍隊に入った後からどんなに頑張って、どんなに惜しむべき人材と判定されたとしても、学校教練不合格では将校になる道はまったく閉ざされるというのだ。

 話は別だが、陸軍では何によらず、一度成績順位が決まってしまうと終生ついて回り、途中でいかに頑張っても挽回不能で、場合によったら命の長さまで成績序列で決まりかねなかったのである。教官は声を大にして、だから学校教練をおろそかにしてはならないと言った。私はもう健康上の理由で軍人や軍隊には関係ないのだから、この話どうでもいいと思いながらも、やはり頭の片隅に妙にこびりついていた。

 昭和14年、前述のような経緯があって、私は新設の東大附属医専に入学した。もちろん私はそこでも学校教練を休んだ。といってもやはり見学だけはさせられたが。
 配属将校は森本壮太郎大佐だった。2年生、3年生は大過なく経過したが、昭和17年、4年生になってから困ったことになった。それは徴兵検査の結果が思いもよらぬものだったからである。私は例の幼年学校受験の経緯から、当然徴兵検査でも丙種または丁種のつもりでいたら、何と甲種合格だったのだ。思わぬ成り行きとなったが、その年の徴兵検査とはいかなるものだったのか。

 検査は居住地の杉並区役所で行なわれた。その日、あらかじめ呼び出し状に指示されたように頭は丸刈りとし、身体を清潔にして褌を締めて会場に入った。検査は身体計測、眼科検査、耳鼻科検査、陰部肛門検査、検尿と続き、最後に内科検診となる。もちろん私は慢性腎炎の経緯を申告し、その結果、尿は検査項目を追加して再度調べられた。

 検査終了者は広い別室で判定を言い渡される。別室の正面は一段と高くなった壇上に国旗が掲げられ、その前にその日の徴兵官が座っていた。我々壮丁は徴兵官に向かい合うように並べられた50脚ほどの椅子に順次腰掛けて待たされた。検査場から書類が届くと、徴兵官は目を通して、「何の誰某(氏名)、第一乙種合格」などと宣告する。
 私は部屋の椅子に腰掛けてから徴兵官を見て、アッと驚いた。デンと座っていた徴兵官は顔見知りの退役軍人N中佐殿だ。何と、普段着姿ならよく見慣れた同じ隣組の小父さんではないか。軍服を着て一段高い所に座った姿の何と威厳のあることか。何か場違いな感じを覚えたのは事実だ。

 やがて私の番が来た。N中佐殿の前に私が立つと、中佐殿は朗々とした声で「田中英俊、甲種合格」と宣告した。いや待て、これを宣告というのかな、これではまるで死刑判決みたいだ。もっとも当時の戦況を考えれば、甲種合格も死刑判決も同じことだったかも知れない。私は我が耳を疑った。小父さん、書類の読み間違いじゃないのと問いただしたかった。しかしあの徴兵検査場の雰囲気の中でそんなこと言えるわけもなく、私はすごすごと引き下がるしかなかった。家族一同も皆びっくりした。

 2,3日後のある日、母が隣組のN中佐の小父さんに会ったら、向うから声を掛けられたそうだ。
「田中さん、おめでとう。少し問題があったが甲種合格にしておきましたよ」と。
これが入学試験ならゲタを履かせて貰ってありがとうと言えるかも知れないが、家に帰った気丈な母はカンカンになって怒った。陸軍は腎炎の患者は軍人にしないと言っておきながら、一兵卒としてなら採るというのか。その怒りはそれまで見たこともないほど激しいものだったが、さすがにその母も時節柄この話を我が家の門から外に持って出ることはなかった。

 この予想外の展開となった徴兵検査結果を持って、私は先ず配属将校の森本大佐を教官室に訪ねた。甲種合格の学生が学校教練不合格とあっては、さらにどんな事態が待ち受けているやら分かったものではないからである。私は中学2年の時の陸軍幼年学校受験にまで遡って健康状態を縷々申し述べたことは言うまでもない。教官は長い話を一応全部聞いてくれた。だが教官曰く、
「だが今頃になってそんな事を言われても、どうしてやりようもないではないか。」
そしてしばらく沈黙の後、
「何も約束はできんが、まあ、やれるだけやってみろ」とのこと。
多少希望のありそうな答えは貰ったが、しかし学業の卒業免状と違って、卒業時にだって学校教練合否の成績は一切公表してくれないので、ずっと心配の種は残っていた。
前述の短現採用試験が行われたのは、この森本教官との面談のあと幾許もない時期であった。これでは短現に合格できるわけがない。私は受験前から納得していた。
 以上、なぜ私が短現で軍医になれなかったかという理由の一部始終である。

 ついでに付け加えておくと、昭和17年10月1日、西部十八部隊に入営したら、聯隊には私の同類項の軍医志願幹部候補生の要員が約40人もいたのである。全部短現落第者だ。この人たちとは、後に熊本の西部十六部隊および北京の幹部候補生隊で共に教育を受けることになるのだが、入隊当初は同類項がこんなに多いのでは、今度は幹部候補生試験にも不採用者を出しかねない雲行きになってきたし、また実際にそういう噂も流れていた。こうなると私の場合、すぐに学校教練の成績が心配になるのである。

 必然的に私は初年兵教育の成績で挽回しなければならないと考えた。当時の私の健康状態は、蛋白尿の他に血圧も高くなっており、訓練中に鼻血が出ることもしばしばあった。一度は医務室で診察を受けたが、練兵休(軍事教練を休む許可のこと)はくれても、雑役まで免除にしてくれるわけではない。練兵休を貰って内務班で休んでいたところ、週番上等兵に呼び出されて、中隊全員の毛布を被服倉庫から運搬する使役をさせられた。かなりの重労働で、こんなことなら練兵休など貰わない方が良かった。その後は鼻血が出ても二度と医務室には行かなかった。そして自分でもよくあれだけやれたと思うほど頑張った。
 例えば朝の内務班の掃除、私はベッドの下にまで潜り込んで班内の床を全部雑巾掛けをした。また真っ先に便所掃除にも走った。とにかく人の嫌がりそうな仕事を見つけては頑張った。頑張っている間は心配事を忘れることができた。

 翌昭和18年2月11日、幹部候補生試験に合格した。努力は報われた。合格発表の後、合格者一人一人に中隊長、西田豊輝大尉の面接があった。呼ばれて初めて中隊長室に入ると、私の身上書やその他の書類に目を通していた中隊長、やおら顔を上げるとこう言った。
「何だ、お前は軍医になるのか。惜しいなあ。」
この瞬間、私は配属将校の森本大佐が学校教練の判定に一応は合格点をつけていてくれたと感じたのであった。

 以上だけを聞くと、人生何事も努力が大切という見本のような話になってしまうが、実は何のことはない、衛生部幹部候補生受験者全員が合格していたのである。一名、病気入院のため一日も初年兵教育を受けていない人もいたが、何とこの人までも合格していたのである。皆、呆気に取られた次第であった。

 以上でこの章の話は終わりであるが、これにはまだ後日談がある。あれほど大騒ぎした腎炎の話が立ち消えになり、80歳過ぎまで命を永らえた挙げ句、このような話を書いていられるのはなぜか。不治の病だったはずの慢性腎炎はどこへ行ってしまったのか。
 実は軍隊生活中も最初のうちは確かに気に掛かる問題であった。しかし作戦に従事して危険というものを嫌と言うほど経験するに及んでは、もはや腎臓病のごとき話など、私の脳裏から完全に消し飛んでしまった。大袈裟に言っているのではない。本当なのである。
 さて復員して本業に戻ったある日、患者さんの尿を検査していて急に思い出した。そうだ、私の腎臓はどうなった。臨床検査室にいたので事は簡単、早速自分の尿の検査。
蛋白尿は?おや、手順を間違えたかな。入念に再検。やはり陰性。当時の腎機能検査、現在に比較したら甚だ貧弱。でもやれるものは全部調べてみたが、所見は皆無。その後も折あるごとに検査をしたが、腎炎の所見は見つかっていない。
 ではあの腎炎騒動は何だったのか。医者のくせに無責任のようで申し訳ないが、全然分からない。ただ生命現象の複雑神秘にして、医学知識の何と頼りないことかと痛感させられた次第である。



後編:戦塵篇

第1章:戦争と衛生

 戦塵と表題をつけてみた。戦陣という言葉を知らないわけではない。軍医として衛生という軍の裏方として作戦に参加したその印象とは、不衛生の一語に尽きるのである。何もかも不潔で、軍の居る所すなわち病気の巣である。故に戦塵である。我々衛生部員の力量の不足、努力の欠如と言われればそれまでだが、実地に見聞した我々の見解も聞いて貰いたい。

 だがその前に、我々が従事した一号作戦(大陸打通作戦)の概要を簡単に述べておきたい。軍が企図していたのは、南方資源地帯から中国大陸、朝鮮半島経由で、敵潜水艦の脅威を受けることなく安全に物資を運び込める交通路を確保することであった。昭和19年にはすでにアメリカ潜水艦は日本近海の海上輸送路をおびやかしていたのである。
 それともう一つ、アメリカの爆撃機が中国奥地の飛行場を基地として日本本土空襲を行なえないようにするため、これら中国大陸の航空基地を殲滅することであった。長距離爆撃機B29開発の情報はすでに入っており、軍首脳は深刻に憂慮していたことであろう。

 これらを目的とした一号作戦は、いわば第一段としての京漢作戦(コ号作戦)と、第二段の湘桂作戦(ト号作戦)からなり、前半の京漢作戦は湘桂作戦のための後方の安全と補給の確保といった意味合いが強いとされる。だからこの作戦の主戦場は揚子江から南の地域となるわけである。

 前半の京漢作戦の中核は第十二軍で、これには私の所属する第二十七師団の他、第三十七、第六十二、第百十の各師団と、戦車第三師団、独立混成第七旅団、騎兵第四旅団が属しており、この方面を担当する中国の第一戦区軍を撃破して後方の安全を確保する。京漢作戦は昭和19年4月17日に発動され、5月9日には京漢線が打通され、25日にはこの方面の中国軍の根拠地だった洛陽も占領して、ほぼ順調に作戦を終了する。

 続く本番の湘桂作戦では漢口から出動した第十一軍や、広東から西進した第二十三軍も加わって、昭和20年1月末までには仏印打通と同方面の航空基地覆滅が完了したと戦史にはあるのだが。

 終戦直前、徹底抗戦を叫ぶ一部陸軍首脳は、「大陸には未だ無敗の精兵百万あり」と呼号していたらしいが、その現状がいかなるものであったか、私はそれらをつぶさに見てきたのであった。

 さて、作戦を企図する時、予想される地域の地理的、気象的な要件を考える材料、これを兵要地誌という。さらにその地方の風土病や環境の情報を兵要衛生地誌という。今次作戦でも一応はこれらも当然考慮されたことと思うが、しかし実は真剣に検討されてはいなかったのではないかという疑念が湧き上がるのを抑えることは出来ない。帷幄の計が机上の空論に過ぎなかったのではないか。特に主戦場として想定されていた揚子江から南の湘桂作戦においてその感を強くする何故か。

 中国四千年の歴史をひもといてみても、揚子江の南の地方で大決戦が戦われた史実は無い。何十万の大軍が動いたという話も聞いたことが無い。15世紀に元が中南支を制圧して統一を果たしたと言っても、揚子江以南の地は南支那海の海岸沿いに制圧していったに過ぎない。また日華事変開始以来、日本軍は揚子江以南に幾つかの作戦を展開している。が、長沙進攻3回および昭和17年の淅
カン作戦、これらはいずれも惨憺たる結果に終わっているのである。何故か。
 その一因は陸軍がマラリア、アメーバ赤痢、コレラなどを主とする伝染病を制圧することができなかったからである。そして軍が行動すると必ずこれら伝染病が爆発的に流行したからである。今、言論自由の世の中だからはっきり言わして貰えば、初めから「負け戦」を戦ったのである。退却というのは体裁が悪いから、転進と称して引き返しただけではないか。ちょっと考えただけでも、湖南、江西の地方で大作戦を起こすのは衛生の面からも無謀だったのではないか。

 今次作戦のように補給線が寸断される、というよりはむしろ補給線が皆無の状態に立ち至るに及んではもはや悲劇というほかない。南方に通ずる補給線を作る作戦が、逆に補給線を断たれてしまったのだ。ミイラ取りがミイラになるの譬えはまさにこのことである。念のため、同様な経過をとった淅カン作戦について私の知れる範囲の事を述べる。昭和17年の淅カン作戦は、作戦名の通り淅江省と江西省を中心として展開された作戦である。この両省を西から東へ揚子江と平行に流れる川がある。富春江(下流は銭
トウ江)といい杭州湾に注いでいる。折から雨季で流域は洪水(この川は数年に一度は洪水を起こすらしい)で、作戦は難渋することになった。難渋の原因は戦闘ではない。赤痢(アメーバ赤痢が主)とマラリアの蔓延であり、さらに後にはコレラまで流行して中国の占領地に広く伝播するに至ったのである。もちろん作戦は失敗である。

 時期は記憶していないが、その頃陸軍から「戦争栄養失調症」なる病名が提唱されたのである。派遣軍軍医部の説明によると、原因は悪条件の中で肉体的、精神的に極限まで奮戦した結果として、兵は消耗状態に陥り栄養失調症になったのであると。
 新しい病名の提唱とあれば内科学会としては黙っていられない。東大柿沼昊作教授を団長とする調査団が来て仔細に調査が行なわれた。その結果、陸軍の言うような栄養失調症なるものは見当たらず、ほとんどは慢性化したアメーバ赤痢やマラリアが基礎疾患として存在すると結論が出た。派遣軍軍医部としては面目を失墜する出来事であったが、これは世に公表された話ではない。済南陸軍病院の昼の会食(陸軍では部隊の将校が一堂に会して昼食を共にする習慣があった)の時に院長の高木千年軍医中佐が喋ったのである。軍医仲間でもほとんど知っている人が無かったことから推測すると、首脳部はなるべく口外したくない事実だったようだが、病院の一軍医が患者に「戦争栄養失調症」なる診断を下したのを院長が諌めたついでに、つい喋ってしまったことのようであった。しかし一度命名された「栄養失調症」なる病名は戦後の社会でも使われているようだ。(ただし別の意味で)

 いずれにしても2年前の淅カン作戦で得られたこれらの経験は、湘桂作戦において活かされることはなかったのである。私はこの点に重大な関心を持っているが、戦史にはこの点が伏せられているか、あるいは記載が不完全である。


第2章:野戦病院編制

 さてこの野戦病院編制の当初から手違いや残念な事件があったりして前途多難を思わせた。その陣容は病院のトップが院長、次が庶務主任(院長代理を務める立場)、あと軍医約20名、薬剤官2名、主計1名のほか、衛生将校、衛生下士官、衛生兵、および行李(病院のための輜重)の兵とそれを指揮する兵科の下士官から成っている。野戦病院には兵科の士官は1人もいない。すこぶる気合の掛からない部隊である。特に将校室などはまったく一般社会の縮図と言って過言ではない。先にも述べたとおり、一口に軍医と言っても現役軍医や短期現役軍医、幹部候補生上がりの軍医から、果ては懲罰召集の軍医まで、実にさまざまな人がいたのだから仕方がない。

 当初の予定は部隊長(院長)は天津陸軍病院から着任することになっており、谷淵軍医大尉が到着したが、野戦病院の院長は本来軍医少佐が務めるのが本来の姿だった。だが天津の病院には現役の軍医少佐がいなかったらしく、谷淵大尉は古参(大尉任官の年次が古いということ)だから良かろうというわけで転出させたらしい。ところが困ったことに第一軍(太原)から転出してきた林軍医大尉、御自分は庶務主任のつもりで来られたようだが、実はこちらの方がさらに古参だった。我々には知らされなかったが、内部でいろいろあったようで、結局古参の林次郎軍医大尉が院長すなわち部隊長となった。

 またさらに野戦病院はその職務により、庶務部、発着部、治療部、病室部、薬剤部、行李の各隊に区分される。ちょっと判りにくい言葉を説明しておくと、発着部とは一般の病院受付に相当する。一般と異なるのは、入院する兵が所持する兵器装具を始末するのが重要な仕事になることである。患者が治癒して退院すれば問題ないが、死亡するとそれらの扱いがさらに大変になる。後に湖南省の醴陵で野戦病院を開設した時には、死亡した兵が命より大切にしていた銃を20丁30丁と束にして縛り、馬の背に振り分けにして後方兵站に送り返すのを目撃した。これも発着部の仕事である。

 治療部というのは外科、病室部は内科に相当する。私が配属されたのは病室部で、内科勤務ということであった。部隊長いわく、
「君は済南の病院でマラリアの治療棟で勤務していたそうだな。今作戦では経験を活かして大いに働いて貰う。」
私の仕事はその他に自隊患者の診療と、警戒小隊の小隊長であった。野戦病院の将兵も病気をする。他部隊の患者だけ診て、自隊の患者を診ないというわけにはいかない。つまり野戦病院の隊付軍医ということだ。行軍中、宿営地に着くと自隊患者が診察にやって来る。しかし我が部隊は野戦病院なので、多くは自分の病気は皆適当に自分で薬を飲んだり手当てをしたりしていたようだ。だからそれほど忙しい事もなく、患者はほとんど行李(兵科)の兵隊だった。

 もう一つ、警戒小隊とは何か。野戦病院はいつでもどこでも野放図に患者を収容したわけではない。野戦病院は師団の中の一部隊であり、師団長に隷属している。負傷者や病人は多発して病院が必要になった時、師団長が病院開設命令を下すのである。開設命令が無ければ何をするか。大勢人間がいるけれど何もすることがないのである。しかし常に開設即応の体制なのである。したがって師団が戦闘している所、常に野戦病院が後からくっついて歩くのである。だから師団の移動が激しい時は、病院は衛生材料を担いで一生懸命行軍するのが任務となる。行軍中は医療の仕事は一切しない。そして行軍時には野戦病院は警戒小隊、本隊、行李の3つの隊に編制して歩く。そのうちの警戒小隊は小銃約50丁(野戦病院にだって小銃はある)を持った衛生兵が尖兵となって部隊の先頭を歩くのである。まるで歩兵だ。その小隊長を命ぜられたというわけだ。これが野戦病院の警戒小隊である。

 さて誤解があるといけないので附言すれば、医療には「即応の体制」がどれほど大切か。要員が遊んでいるように見えても、これは問題ではない。一例を挙げておく。今日この頃の救急病院とは、急患を待ち受けていて直ちに適切な治療をしてくれる病院と考えられている。大病院ではたいがいそのような体制で診察しているようである。しかしながら小規模な救急病院では患者さんが来る、それから手の空いた医師・看護婦(師)が集まってくる、それから仕事が始まるわけだから即応体制が万全とは参らない。したがって仕事が遅いという文句が出ることもある。これの改善は、医療の内容についてはともかく、「医療の即応性」についてだけなら直ちに実行できるのである。そのためには他の仕事をさせないで待機させておく救急要員を常時置いておくことである。野戦病院がそれである。戦闘に対する即応性が重視されるのである。火災に対する消防署の仕事も同様と思うが如何。ただしこれは多大の予算を必要とする。現物給付の健康保険制度では到底できない相談であろう。失礼、閑話休題。

 さて野戦病院の人員の集合編成も終わり、自分の部署も決まり、司令部への申告も済んで、第二十七師団に編入された。いよいよ師団の作戦命令を待って作戦地に移動するばかりとなり、いつでも出発できる準備が3月中旬には出来上がっていた。行き先はどこだろうという不安と、どこに行くとしても大陸内には間違いないだろうという楽観論が交錯して皆落ちつかぬ日々を過ごした。まだ部隊として任務も与えられず、宙ぶらりんの気持ちでただ待つという状態が、次第に軍紀、風紀の弛緩をきたした。おまけに部隊の将兵は華北の各地に何年も駐屯していた古つわもの集団である。野戦場の裏表を知り尽くした者が多く、一筋縄では行かない連中も散見したのである。そのためだけとは言えないが、ついに野戦病院にとって甚だ不名誉かつ残念な事件が起こった。それは将校による殺人事件である。

 H軍医中尉は部隊長と庶務主任に次いで最古参の軍医で、責任ある仕事をして貰う予定だった。ただし酒癖が良くなかったらしい。事件は深夜階行社で多量の酒を飲むうちに、他の部隊(第二野戦病院)の軍医と喧嘩になった。酔った勢いで軍刀を抜いたら、運悪く刀尖が相手の大腿を直撃し、股動脈を切断してしまった。もちろん即死。当のH軍医中尉は翌朝憲兵隊の留置場で覚醒した時、まったく何の記憶も無かったそうだ。

 もう一つ部隊は困った火種を抱え込むことになった。それは麻薬中毒のW軍医少尉だった。太原の第一軍から転属してきた。山西省の山の中の警備隊に派遣され、ただ1人でこなす衛生業務が年余に及ぶうちに、いつしか麻薬を覚えてしまったらしい。負傷兵の鎮痛に使用するパビナールアトロピンに手をつけていたのである。W少尉は軍医予備員で召集されてきた方で、「地方」での診療経験もあり、面白い話題の持ち主だった。技術も相当あったらしく、ある時の自慢話にいわく、
「山西の最前線の警備隊にいた時、部隊に手術を要する虫垂炎患者が発生した。患者を後送する手段が無かったので俺は軍医携帯嚢入組品の機械だけで衛生兵を助手にして手術を成功させたことがある。」
そんなことが果たしてできるのかと半信半疑ながら軍医携帯嚢入組品に含まれる機械を思い出してみた。
 メス1、直剪刀1、ピンセット1、止血鉗子2、持針器1、糸巻と糸2、縫合針数本、注射器1、機械容器1、酒精(消毒アルコール)容器1
ざっとこの程度の機械で本当に虫垂切除術が可能なのだろうか。残念ながら私にはそのような経験はなく、私たちのような新米軍医には驚くべきことであった。

 私もこのW軍医少尉とは天津の宿舎では同室だったので、時々同道で外出にも付き合った。だがやがて京漢作戦(後述)が始まってから、W少尉が時々私たちの宿舎に尋ねてきては適当な理屈をつけて麻薬を貰いに来るようになった。他の同僚軍医に相談すると、「俺もせびられた。隊長に相談しないといけない」ということになったが、隊長も知っていたらしい。W少尉は隊長とは同学の先輩後輩だったのである。京漢作戦が終了して漢口に着いた時、隊長は漢口の陸軍病院に少尉を収容してくれるよう頼みに行っている。伝え聞くところによると、陸軍病院側の回答は次のような驚くべきものだったそうだ。
「陸軍病院としてはこれからの作戦で多忙が予想される。とても麻薬中毒者など入院させるわけには行かぬ。お前の所は野戦病院だろう。作戦業務のついでに診てやれ。」
湘桂作戦は後述する通り、前線の野戦病院の立場から言えばまったく補給の無い作戦だったが、やむを得ずW少尉を作戦に連れ回すことになった。隊長は「薬品補給が期待できない折であるからW少尉には各軍医の所持する麻薬を分け与えることを禁ずる」と軍医連に厳命を下した。
 不幸にしてほどなく禁断症状が現れた。もはや常人ではない。当番兵がW少尉の略刀帯(将校用のバンドで幅が広く日本刀を吊るす)に綱の一方を縛り、もう一方を自分に結んで、絶対に離してはならぬと言われて行軍していた。すでに日本軍は制空権も無いので、行軍は夜行軍となっていた。後述するが、
ロク水という川のほとりに来た時に夜が明けた。W少尉の当番兵が1人で報告にきた。W少尉が昨夜11時頃、小休止中に用便だから綱をほどけと言って隊列を離れてから見えなくなったとのこと。部隊中の将校が集まって協議するが、すでに5時間以上行軍しており、W少尉は20キロ以上遠方に取り残されたことになる。しかも夜行軍。直ちに報告しなかった当番兵を責めても後の祭りだった。当時日本軍は衡陽総攻撃にてこずっている最中で、我々の部隊も間もなくロク水を敵前渡河する準備をしていたのである。W少尉のために捜索隊を出せる状況ではなかった。部隊長の「私に任せよ」の一言と同時に箝口令が敷かれた。部隊は直ちに渡河に取りかかった。
 その後W少尉の消息はいかなる形においても聞かなかった。実は行方不明になる1時間前の小休止の時にW少尉が私のところに麻薬をねだりに来たのだ。「田中さん、パビ頂戴。」声や容貌はもはやこの世の人ではないように見えた。隊長の命令もあり、今後戦傷者に使用しなければならぬのに、軍医携帯嚢中ただ1本しか無い麻薬を譲るわけにはいかなかった。あれから60年近く経った今日まで折あるごとにあの夜の情景に胸が痛むのである。あの時、「軍律厳しき中なれど、これが見捨てておかれようか」という戦友の人情でいくべきだったのか、あるいはまた「上官の命を承ること実は直に朕が命を承る儀なりと心得よ」という勅諭を遵守するべきだったのか、今日なお釈然と割り切った気分にはなれない。この場合、私情と公務といずれを優先すべきであったのか、まだ解答はない。諸子は以って如何となす?

 話が先に飛んでしまったので元に戻す。さて小人閑居して不善を成すというが、人間仕事が無いのがいけないように、軍隊も任務の無い時に軍紀風紀が弛緩してくる。このような状態がずっと1ヶ月弱も続いていたのである。しかしいよいよ4月11日出発の命令が出た。さてどんな所に行くのか、怖いもの見たさの不安半分の気持ちながら数日間準備に忙殺される。

 この折、病院装備として軍から支給された衛生材料一式を軍医一同と共に目にする機会があった。それらは約20個あまりの病院医笈と称する頑丈な木製の箱に収められており、手術器械をはじめとするあらゆる衛生材料が要領よく組み込まれていた。医笈の形状は2個を一組とし、1頭の馬の背に振り分けて駄載するのに都合よくできていた。病院開設の折にはお世話になるであろうそれらの衛生材料を見ていくと、その中に赤十字旗がある。
「こんな物まで持って行くのか。」
1人の先輩軍医が赤十字旗をつまみ上げながら言ったので、私は訊ねた。
「病院開設の時、この赤十字旗はどんな所に立てるのですか。」
赤十字条約の規定を受けて作戦要務令には「野戦病院は赤十字旗と国旗とを併せ樹立し」という記載があったのを思い出したが、しかし同時に「然れども之が為我が軍の配備を敵に暴露せざるを要す」とも書いてあったので、ちょっと訊いてみたのである。ところが、
「お前、何馬鹿なこと言っているんだ。こんな物を戦場で立ててみろ、敵弾が雨あられと降ってくるぞ」と一笑に付されてしまったのである。
 当時、赤十字条約に対する認識は「こんな物」程度だったのであり、赤十字の博愛精神を説いたところで受け入れられる素地も無かったのであった。これが後世七三一部隊問題が絡んだりして、元軍医の評価に悪影響を与えた可能性はある。


第3章:列車輸送

 天津では米国兵営に駐留していた。大東亜戦争以前は米軍が駐留していた。私はこの兵営を遠く離れて外出したことがなかったので、天津市のどの辺に当たるのか、現在地図を出されてもその場所を指示することが出来ない。そのせいかどうかは分からないが、私は作戦出発の記憶がまったく無いのである。列車が動き出したのが何時頃だったのかも覚えていない。初めて記憶に上るのが北京城の城壁を右に見ながら永定河の鉄橋を渡った時の光景である。香山、萬壽山、牙虎山、玉泉山の塔が遠くに見える。演習や学課に候補生時代の数ヶ月を過ごした懐かしい記憶と共に北京を走り去った。京漢線を南下し始めたのである。実を言うと目的地を一切明かされていなかったので、北京を通過して南下し始めた時、一応ホッとしたのである。その時までは事によると急転回して南方戦線に連れて行かれるのではないかというような冗談まで出ていたからである。何故そのような冗談が出たか、容易に想像できるであろう。

 さて軍用列車というのは貨車である。普通の客車の座席に居眠りしてのんびり行く今日この頃の旅行のようなわけにはいかない。軍隊につきものの兵器や車輌を積み込むからである。ただし兵員は雨や寒気を顧慮して有蓋貨車である。大陸の鉄道は広軌である。狭軌を採用した日本の鉄道の貨車よりはかなり広く感ずる。熊本の秋季大演習で水俣から八代まで列車輸送の経験はあったが、本物の列車輸送はあんなものではなかった。乗車時間が長い。当時京漢線は黄河の手前の新郷までは一般旅客の輸送業務も行なっていて、そちらのダイヤが優先するのである。したがって駅に停まると次に走れる線路が空くまで待つわけである。長い時には数時間に及んだ。乗っている者は長時間貨車の扉を閉めてはいられない。息苦しい思いをするよりは、少しくらい寒くても扉を開け放しである。その方が外の様子も分かって気晴らしになるが、うっかり寝呆けて転落しないように気をつける必要がある。
 だがこれらはそんな大したことではない。大変なのは用便である。列車走行中は一切用が足せない。いったん停車すると兵隊たちが次々に貨車から地面まで一気に飛び降りて(軍用列車はプラットホームに停車することはまずない)、その辺どこででも用を足すのである。大小いずれも同様である。何となれば駅に便所の表示も無ければ便所自体も無いのである。もっとも捜す努力は誰もしない。今思い出したが、大体中国の家には便所が見当たらない。個人の家に無いのだから、駅にも数十人が一度に利用できる大きな便所が期待できるわけがない。(60年前の話。念のため)

 余談になるが、そのような便所の見つからない社会に暮らす中国の人々が野放図に立小便などする姿は一度も見たことがない。大便においてもまた然りである。ではあちらの人々はいかにして用を足すのか?面白い話を聞いたことがある。あちらでは居室に必ず寝台が置いてある。そしてその下には必ず花模様のきれいな洗面器が置いてある。いやさ、日本人の目から見れば洗面器以外の何物にも見えないのだ。しかしこれがすなわち便器であるというのだ。
 始めのうち、この洗面器ではない便器の用途を知らなかった多くの日本兵は喜んで洗面に使用したというのである。そう言われてみれば、いつかどこかの宿営地で、朝になって当番兵が用意してくれた洗面水がきれいな容器に入っていたことがあったような気がしないでもない。60年も前のことなれば、このような記憶は無理にはっきりさせる必要はない。不愉快だ。
(註:幾つかの研究によれば、当時の中国の一般家庭には便所がなく、ちょうど日本の江戸時代の長屋に付属していたような、屋外の共同便所で用を足していたという。ただしこれも仕切りのない屋外にオマルのような壺が並んでいるだけのものらしく、中国人はこれに腰掛けて互いに語り合いながら用便するとのこと。ただし夜間は屋外に出ることはなく、寝台の下に置いた便器に用を足し、朝早くそれを家の前に出しておくと、中身を戸毎に回収して回る苦力が北方にも南方にもいたそうだ。)

 これで中国の家に便所が無い理由と、中国人が礼儀正しい理由は分かったような気がするのだが、用事が終わって再び貨車に乗るのがまた大変だ。プラットホームの無い所ではよじ登らなければならぬ。大陸の貨車の床は高いのだ。でも兵隊はこのくらいのことで一々文句は言わない。

 北京を過ぎてからはおおむね単調。扉を開けっ放しの貨車の右側には太行山脈が、あるいは遠くあるいは近く途切れることなく延々と続いていた。左側は渺茫たる大平原で、点在する部落以外には記憶に残るような景色も見えない。いつしか日も暮れると不寝番を残して皆横になる。客車と違って全員が床に伸び伸びと手足を投げ出すことが出来る。ちょうどこれから競りに掛けられる魚河岸のマグロを彷彿とさせる。

 がたんと列車が停まった。まだ夜中だ。珍しく列車がプラットホームに停まっている。駅名の表示板が目に入った。「邯鄲」。おや、ここが邯鄲か。何か懐かしい気持ちになって扉から顔を突き出して周辺を観察する。駅に近接した民家がわずかに見えただけで、あとは暗闇ばかりだった。実はこの駅名を見た瞬間に「邯鄲の夢」の物語を思い出した。中学一年の国語の教科書に載っていた盧生青年の話は不思議な共感をもって憶えていたのだ。それが懐かしさとなって現実を忘れるしばしの停車時間となった。そんな感慨を吹き飛ばすように汽笛が鳴って再び列車は動き始めた。

 新郷着。京漢線はこの先黄河の大鉄橋にかかる。当時日本軍が占領していたのはここまで。鉄橋はまともにあるのかな?この先列車が動けるはずはないと思って、皆そろそろ下車の準備に掛かっている。やがて「まだ列車から降りてはいかん」という指示が出る。新郷から支線が出ていて、新郷を出て二駅目でやっと今度は本当に停まった。下車。駅名は清化鎭。時に4月15日。


第4章:黄河大鉄橋を歩いて渡る

 清化鎭で列車を降り、周辺を見渡すと北から西の方に向かって屏風のように山地が続いている。北京から我々と行を共にした600キロの太行山脈、その山脈が黄河で見事にスッパリと切り取られた感じ。所によっては絶壁となってほとんど垂直になっている所もある。山を除いた270度の視界はずうっと大平原である。部落と畑の他は何も無い。雄大と言おうか、不思議と言おうか、まず日本ではお目にかかれない景観である。

 約2〜3キロほど歩いた所に営庭だけは広い兵営があった。施設には取りたてて云々するほどのものは何もない。将校宿舎は広い営庭の中で町に近い一隅にあって、ちょっと外出するにも気を遣う必要はなかった。

 宿舎は飯海辰夫軍医少尉と相部屋になった。前にも触れたように野戦病院には兵科の士官は1人もいないし、また現役軍医は部隊長と庶務主任だけである。現役軍医と言っても、医科の学生中に候補生として採用され、医科卒業後に数週間の訓練の後、直ちに任官したわけであるから、陸軍士官学校出身の兵科の現役のように必ずしも軍人精神が横溢していたとは思われぬような一面も散見した。したがって我々も将校宿舎に入ってしまえば、まるで「地方」だった。

 飯海さんとはウマが合ったのであろう。先輩であったが親しくお付き合いを願った。また飯海さんの弟が北京の候補生隊で私と同時に教育を受けた同期生だ。そして弟の方も卒後の任地が第二十七師団の砲兵隊だったのである。兄弟で同じ師団に所属とは珍しいと話題にもなったが、一つだけ面白くないことがあった。弟の方は乗馬部隊の軍医で馬が与えられ、行軍の途中に見かける彼は馬に乗っており、我々野戦病院の軍医は徒歩であった。馬上から「ヤー」と声を掛けられても握手も出来ない。

 ある日、飯海さんと連れ立って清化鎭に出かけた。数軒の店らしき家があった。中に一軒飯店らしき家があり、天井や壁紙が一部はげかかった古びた店だった。どうしようかと立ち止まっていると、中から親爺が出てきて、こちらへ来いと手招きする。店の奥に桶があって、怖い顔をした鰻のような長い魚が泳いでいる。言葉は分からないが、美味いから食べないかと言っているらしい。気味が悪いのでそれは止めにして、飯海さん曰く、
「八宝菜(パーポーツァイ)という料理は土地柄によっていろいろな形で出てくる。興味があるのであちこちに行く度に必ず八宝菜を食べている。君も付き合わないか。」
もちろん即座に賛成。しかし清化鎭の八宝菜の方は味も内容も記憶がない。飯海さんは中華料理にはすでに経験が深く、前の任地でよく通った店のメニューを餞別に貰って、必ず上衣の物入れに入れていたのである。どこでも飯店に入ると、やおらこのメニューを取り出して注文するのである。

 もう一つ、飯海さんを尊敬していることがある。飯海さんは橋田邦彦先生の著書「正法眼蔵釋意」を常に将校図嚢に入れて持ち歩いていた。私も徴兵検査で甲種合格になった時、おぼろげながら世の無常を感じ取っていたのである。などと気取った言い方をしなくとも、平成流にあけすけに申せば「これはヤバい」と思ったのだ。しかし死に直面しながら従容として身を処した偉人の話を聞くにつけても、もう少し我が魂を救う道はないのか。そう思って手始めにニ、三の図書をあさってみる。しかし急場しのぎで宗教が身につくわけもない。その時あさった図書の中に「正法眼蔵釋意」もあった。「眼蔵」の本文はこれが日本語かと思うほど難しく、それではと釋意を読むが、これまた本文同様に難解である。おまけに「あるがままの姿」とか「科学する心」といった新しい概念まで提示されている。これは駄目だ。入営まであと半年ときては「眼蔵」の一行だって理解できそうにない。間に合わなかった。その難解の書を折に触れて読んでいる飯海さんに尊敬を抱いた。「飯海さん、その本わかるんですか」と私の無遠慮な質問に、飯海さんニッコリ笑って「まあね」と答えた。

 飯海さんは胃腸が弱かった。ある朝、「困ったよ、アメリカの俳優になっちゃった」と言って便所から帰ってきた。「それ何ー?」「ゲーリー・クーパーだ。」下痢クーパーのつもり。とかく虚弱気味だった飯海さんはとうとう漢口で脱落してしまった。もっともそれから先の湘桂作戦では八宝菜にお目にかかれるような状況ではなかったが。

 さて清化鎭の兵営にいること1週間弱。野戦病院は何もすることがなく過ごした。否、待機していた。この間、兵科の士官(たぶん同じ兵営におられた支駐歩の方)が来られて実戦の諸注意があった。編制早々の野戦病院では戸惑うことも多かろうという師団の配慮でもあったようだ。中でも一番印象に残ったのが擲弾筒の実弾射撃の見学だった。私は歩兵の教育を受けていたので、擲弾筒については構造も操作法も知っていたが、実弾射撃を見るのは初めてである。「弾は150メートルほど先に落とすので心配ないが、念のため姿勢を低くしていて欲しい」とのことで、全員野原に伏せて見学した。原始的な構造の兵器にしてはかなり威力のあるものだなと感心した覚えがある。また別の日には、野戦病院全体の体馴らしということで、行軍演習を兼ねて近隣の部落や集落の間を数時間歩いた記憶があり、私はこの時、本番通り警戒小隊長を務めた。

 戦後になって戦史を目にして判ったことは、こうして我々野戦病院が清化鎭で待機していた間にも、兵科の戦闘部隊はすでに大変な戦闘をしていたらしい。4月18日、第三十七師団を主力とする日本軍が中牟という所で新黄河(徐州会戦の時に日本軍の追撃をかわすために蒋介石が堤防を破壊して作った河)を渡河している。(ちなみに中牟という地名は論語にも見える。漢学の先生はチュウボウと読ませる。)一方,第二十七師団はずっと西の洛陽の対岸(孟県のあたり)で擬装の渡河準備をしていたのである。陽動作戦である。そして日本軍の一部が黄河対岸に渡河したのを受けて、師団は急遽大鉄橋の北岸に終結のうえ渡河との命令が出たらしい。一週間の清化鎭兵営での待機生活に終わりを告げて、いざ出発。4月21日であった。

 この日、風はやや強いが好天であった。営門を出ると、分厚い土塀に囲まれた部落や、果樹園、野菜畑などの点在する華北特有の景色が広がっていた。道路は黄河大鉄橋を目指すがごとく、この情景の中を東南に向かってずっと延びていた。作戦参加初日とあって、心身がまだ疲労していないせいか、妙に頭が回転していろいろな考え事が浮かんでくる。入営以来、今日まで1年半の猛烈な教育訓練とはこういう事のためだったのか。何気なく後ろを振り返ると、太行山脈の終末が断崖絶壁となって切れている。平均標高約1000メートルといわれる太行山脈は、平坦な高地となった頂上から、直下の大平原に向かって垂直に駆け下るがごとき稜線となって、私の目に焼き付いた。

 この雄大な大自然の中で戦争という人間の営みの何と空しいことか。私はこの時、何とも名状しがたい感覚が全身を走り抜けて、一瞬、目頭が熱くなるのを抑えることができなかった。怒りでもなければ悲しみでもない。もちろんこれから先に起こるであろう事に対する恐怖でもなく、まったく不可解な感情というほかなかった。不思議なことに、このような感傷は、その後の作戦経過中のいかなる局面に遭遇しても、再び経験することはなかった。その後は戦争ですっかり心がひからびてしまったかのようであった。

 さて清化鎭から黄河までの行軍は、天気さえ良ければまったく何の支障もなかったのであるが、3日目の午後から雨が降り出し、かなり強烈な雨脚となった。野戦病院は幸運にもちょうど市街地の街路にさしかかっており、道の両側の商店らしい建物の中で雨宿りできたが、支駐歩一(支邦駐屯歩兵第一聯隊の略)の町田正司氏の「中国縦貫戦記」や、支駐歩三(支邦駐屯歩兵第三聯隊)の藤原 彰氏の「中国戦線従軍記」によると、これらの部隊は折からの豪雨による泥濘の中で数十人の兵員を失い、約2000人を黄河北岸に入院残置せざるを得ない状況に陥って、作戦開始を前に、相当の損害を出していたようである。

 ところで住民もいなくなった空っぽの建物の中で、軍装を解かずに馬もろとも雨宿りしているうちに薄暗くなってきた。すると誰かが「乾麺包を食え」と触れながら雨の中を歩いて来る。庶務主任の谷淵大尉だった。何も庶務主任ともあろう偉い人が、そんな雑用をしなくてもよいのに、と私は奇異に感じた。事情を聞くと、雨で飯盒炊爨はできないから、夕食には乾麺包にしろということだった。乾麺包とは調理しなくてもすぐ食べられるように陸軍が開発した携帯口糧の一つで、正式名称は圧搾口糧という。大麦を爆弾アラレのように真空処理したものを、ちょうど麻雀牌のような形に押し固めて、一口で食べられるようになっている。さらに副食として、砂糖、粉末鰹節、乾燥梅干粉末を同じように固めた塊が1個ずつ付く。湯をかけて軟らかくして食べてもよい。

 行軍4日目で黄河の北岸あたり(河は見えないのでよく分からない)に着いて渡河待機状態に入る。折から黄塵が吹き荒れ、途中の行軍は支給された防塵眼鏡(玩具の水中眼鏡のようなもの)をしないと歩けない。また顔に噴き出す汗に黄塵がくっついて「うぐいす餅」のようになる。眼鏡を外すとその部分だけ黄粉のついていない猿同然の顔になり、皆大笑いする。

 さて野戦病院は開設命令があるまではひたすら医療器具を持って師団について行かねばならず、したがってこれから黄河の大鉄橋も渡らねばならない。鉄橋を渡るといっても、汽車に乗って渡るのではない。歩いて渡るのである。しかも何万という軍隊が順番を待って黄河北岸にひしめいているのである。鉄橋の長さは聞かされたところでは約4キロだという(少し大袈裟かな)。
 司令部に命令受領に行った連絡将校から事細かに諸注意が達せられる。渡橋に際しては軍装を整え、物を落とすな(落としたら拾えない)。前の兵との間隔をしかと守れ、走ったりしてはならぬ(行軍の原則)。もちろん途中で用便は出来ない。途中で立ち止まることは一切出来ない。たとえ敵の射撃があっても空襲があっても止まっても伏せてもならぬ。伏せても遮蔽物はないからである。
 人間だけなら以上を注意すればよろしいのであろうが、当時の師団は車輌編制(当時は挽馬編制ともいった)であった。車輌編制と聞けば平成の現代人は自動車に乗って移動する部隊と思うに違いない。ところが案に相違して当時の車輌とは馬に牽かせて動く、まあ早く言えば荷馬車である。車輌が砲車の場合もある。ゆえに馬がたくさんいるのである。馬は野生の時代から群れて行動する習性がある。何か事が起こって一頭が走り出すと皆これにくっついて一斉に走り出すのである。一人が旗を振ると利害得失、理非曲直も弁えず皆これについていく集団―日本人は馬に似ているのではないか。くれぐれも無能なリーダー選ぶまじ。

 であるから軍隊では放馬を忌む。放馬とは手綱を放すことを言う。このような性質を持つ馬と人間とが交錯して縦隊になり、側路の無い一本道(一本橋?ちょっと表現が悪いが)を渡って行くわけである。一朝敵襲でもあって、あの大きな馬が暴れ出したらどうなるか。考えただけでも不安である。馬を扱う部隊や兵にはさらに厳重な諸注意があったようだ。野戦病院にも馬はいる。部隊長と先任軍医の乗馬3頭の他に行李の馬がかなりいるのだ。
 今まで何度か出てきたが、ここで行李とは。昔東京に遊学する学生が必需品を詰め込んで持ち歩いたのが柳行李、同じく将校が私物を詰めてトランクのように持ち歩くのが将校行李。だから私も行李とは初めは容れ物のことかと思っていたら、これが違ってれっきとした部隊のことである。早い話が各部隊専用の輜重隊と理解すればよい。行李は正規の編制に基く部隊だから荷を引くのは馬である。

 清化鎭出発時には野戦病院の荷が多すぎて編制の車輌に積みきれないので、現地で徴発した荷車を利用した。これが後々まで祟るのだが、動力は牛と騾馬である。牛は馬に較べてスピードが遅い。おまけに扱いが厄介で、馬のように手綱を取って「ドオドオ」と言えば素直について来るわけではない。牛の尻っぺたに廻って手綱を弛めて「イホーイホー(中国式)」と声を掛けて、後ろから押し出すように尻にムチを当てるとやっと歩き始めるのである。馬は引き、牛は追うというのはこのことではないか。つまりスピードは遅く、扱いにくい牛車までこの鉄橋を渡るのである。したがって野戦病院は一隊になって一緒に渡ることは出来ず、それぞれ分断されて渡ったはずである。町田正司氏の「中国縦貫戦記」(1984年:図書出版社)によると、4月24日夜に支駐歩一聯隊は渡ったようだ。野戦病院は歩兵の前に出るわけはないから、たぶん25日に渡ったはずである。

 渡河の日の早朝、大鉄橋の見える河原に到着。黄河には立派な堤防が築かれていたが、水際との間はかなり広い河原になっていて、大部隊が入ってもそれほど混雑することはなかった。この河原で他部隊との順番待ち。その間に先ず大小の用を足し、褌を締め直す。靴下の皺を伸ばし、脚絆をしっかり巻き直す。装具を点検し、最後に見習士官の正刀帯を一番上にしっかり止めて出来上がり。

   黄塵に 霞む敵陣 大黄河

 いざ出発。河に目を向けると何と川幅の広いこと。なるほど四キロほどはあるに違いない。あまり遠いので対岸は確認できないが、トーチカ陣地のようなものがズラリとあるようにも見える。この朝、風はやや凪いでいて黄河全体春霞がかかっているように見えた。一見のどかな感じがしないでもない。いよいよ鉄橋にかかる。「走るな」「止まるな」「間隔を守れ」「手綱をしっかり持て,絶対放すな」と怒声のごとき指示が飛び交う。

 数分間歩くとやや落ち着きを取り戻し、行進の足音のリズムに乗って軽快に歩く。あたりを見回すとこれは凄い。黄河の黄色い水が足元で渦巻く、というより沸き返っている感じ。黄色い水は日本人が一番よく知っているものにたとえるなら、まるで味噌汁だ。この水が橋脚に当たって川底から次々湧き上がってくる。こんな所で河に落ちたら死体も上がらないこと必定。流れは日本の渓谷のように響きは立てないが、何か吸い込まれそうな凄みがある。
 何メートルかごとに橋梁の上の桁に監視哨が作られ、対空火器もあるらしい。少しずつ対岸が近づくが空襲や敵襲の気配は無い。鉄橋はもちろん鉄道用であるが、昭和12年に重慶政府軍によって破壊されていたものを、作戦開始直前に鉄道第六聯隊の工兵によって修復されたものだという。馬や車輌も通れるように踏み板を敷き詰めた細工がしてあるのだが、結構その継ぎ目から黄色い川面が見える。下を見ると気分が良くないので、なるべく対岸の景色に目を向ける。岸に近づくにしたがって次第に安心感が増幅する。やはり40分ほどは歩いたのではないだろうか。

 やっと対岸に到着。河岸のやや小高い堤防(丘かも知れない)の向こうには鄭州の市街が見えるのではないかという期待(別に良い事があるわけではないが)を抱きながら丘を越えると、そこには荒涼とした風景が広がっていた。本当は鄭州は10キロほども奥になる。折から渡河前には止んでいた風が再び吹き荒れて、遠慮なく砂塵を吹きつけてくる。市街の道路らしきものはあるが家は無い。黄土の日干し煉瓦で壁を積み上げた家はいったん崩れ始めると止めどがない。
 荒廃した街路らしき道を歩く。小休止もせずに一気に街路を通り抜けると農村風景に変わった。と思ったら2日前の雨のために泥濘の連続である。野戦病院は行軍序列が最後尾だったのでますます都合が悪かった。当時の車輌の車輪は砲車でも輜重車でも幅が狭いうえに、外側は鋼鉄の箍(たが)が嵌めてある。現代の車輌はタイヤが嵌めてあって幅も広く、道路の少しくらいの軟弱凹凸は吸収するような能率の良いものになっているのとは大違いであり、おまけに前に通っていった部隊が泥を捏ねまわして泥沼化している。しかし馬の引っ張る行李の輜重車はまだ何とかなるが、牛や騾馬の牽く荷車には手を焼いた。泥濘のひどい所では荷を下ろして人間が運搬し、荷車を空にして動かす始末である。

 やがて泥濘を脱したところに部落があり、その先に茫漠たる麦畑の大平原が見えてきた。さていよいよ本格的な行軍になるなと気を引き締めながら行くと、部落のはずれに我が野戦病院本部付の中尉さんが誘導に立っていて、警戒小隊長を務めていた私を停めた。私は訊ねた。
「この先、どっちに行けばよいですか。」
「いやいや、今日の行軍はこれで終わりだから、君の小隊はあの左手の部落に入ってくれ。」
私は驚いて念を押した。
「まさか、もう宿営ですか。今日はまだいくらも歩いていませんよ。それに師団の他の部隊はもうその辺にいませんけど。」
私の生意気な発言に、道案内の中尉殿もちょっと困惑の体であったが、
「いやー、実は部隊長がね、人馬共に疲れたから、今日はこの辺で宿営すると言うんでね。」
と煮え切らない返事だった。私は驚いた。小学校の遠足じゃあるまいし、作戦命令で行動している軍の一部隊が、兵隊が疲れたから勝手に行軍を休んで宿営しましょうなどという話は聞いたことがなかったからだ。まさに兵科士官の存在しない野戦病院的発想だったわけだ。

 一応部隊長の指示であるから指定された部落に入ったが、何と陽はまだ高かった。私の記憶違いでない証拠には、私はその日その部隊でのできごとをよく覚えている。
 部落到着後、私が型の通り警戒処置を講じて休んでいると、小隊の兵数名が大きな甕を担いできた。何をするのかと訊ねると、
「この甕なら人が入れそうなので風呂を沸かしますから、待ってて下さい。」
野戦経験のある兵隊さんたちはまったく器用なもので、甕を据えつけると、その下から火を焚けるように作り上げてしまった。しかしこの甕は熱効率が悪いうえに、ろくな燃料も無いことであるから、風呂が沸くまでに結構時間がかかったようだ。
「風呂が沸きました。」
と兵が告げにきたので、よしとばかりに手拭いを下げて出かけてみたら、目の早い本部の将校さん(1人は主計さん)がもう先に入っていた。やむを得ず私は順番を待って3番目に入浴した。風呂から上がってもまだ日は暮れていなかった。

 つまり何を言いたいかといえば、宿営地ではそれほどの時間的余裕があったということだ。この日の宿営地入りはどう遅く見積もっても午後2時以降とは思えない。しかも我が野戦病院の行動行程は、黄河渡河があったとはいえ、10キロにも満たなかったはずである。作戦軍における行軍行程は支障ない限り1日24キロと作戦要務令で定められているし、師団の他の部隊が周囲に見当たらなかったことから、我が野戦病院はすでに師団主力から脱落してしまったとの認識に立って行動すべきだった。新米の見習士官だった私にさえ状況が判ったのに、疲れたから宿営するとは、いやはや以って大いなる誤算であった。


第5章:河南の進撃

 さて一晩明けてみると部落は大木を周辺にめぐらして外界の平原とは隔絶した平和な雰囲気を醸し出していた。木梢で小鳥が今まで聞いたこともない鳴き声で鳴いている。いつまでも座っていたい感じ。もし生きて帰ったらこんな所に住みたい、そう思った。いざ出発。部落の外に整列したら、その日天気は良く風も凪いで周辺には茫漠たる麦畑が際限もなく続いている。そうだ、日野葦平の「麦と兵隊」そのままの情景ではないか。

 しかしそんな呑気なことは言っていられない事態であることに皆気がついた。あたりに日本軍の姿がまったく見えないのである。銃声すらも聞こえない。もちろん住民だって人っ子一人いないのである。私は警戒小隊の小隊長という立場上、私が全病院の先頭を歩くことになるわけで、指示を受けようと部隊本部に行く。協議の結果、部隊長は決断した。大部隊の通ったあとの轍や足跡について行けば良いだろう、ということで部落を離れてみると探すまでもなかった。幅10メートルくらいに車輪や軍靴に踏み倒された麦が道路となって南へ延々と続いているのが見えている。よし、これでよい。本格的に行軍の態勢に入る。しかしこの麦の道が二手に分かれていたらどうすれば良いか?変な不安が過ぎる。その時はその時。歩く。

 警戒小隊というのは歩兵の尖兵の役割を担っていて、尖兵というのは将校の指揮する約1個小隊の兵力のことである。歩兵部隊本隊の前方300〜500メートルを尖兵中隊が進み、さらにその前方300〜400メートルを尖兵が進むのであるが、我々野戦病院の警戒小隊(尖兵)の場合は戦闘を目的としていなかったので、特に本隊との間に距離を取らなければならない規定はなかった。したがって行軍中、私が振り向けば常に隊長と庶務主任の乗馬姿が見えており、連絡事項の伝達は造作もなかったのである。

 終日歩いたが本隊の師団に追いつかぬ。後から聞いた噂話によると、この頃師団司令部でも野戦病院が一つ無くなってしまったと大騒ぎになっていたらしい。2日目、3日目、4日目、まだ味方の部隊は見当たらぬ。我々は野戦病院だ。兵科の部隊と違って残敵に急襲されようものならひとたまりもなく全滅である。そのための警戒小隊ではないかと言われても、たった4〜50丁の小銃を担っている兵隊は衛生兵で、普段はヨーチンで仕事をしている者ばかりだ。まともに部隊を守ることなど出来はしない。妙に心配になってくる。

 我々は一生懸命に行軍に専心しているのに、戦闘しながら前進する歩兵にまったく追いつけないとはいかなることか。戦時中の新聞にはよく『皇軍怒涛の進撃』といった見出しがついたが、それはこのことか。それに引き換え野戦病院はたるんでいるのではないかと疑われるばかりの行軍速度であるが、一つ理由があった。黄河の項でも述べたように、多数の牛車や騾馬による荷車を連れていたのだ。要するに運ぶ荷物が多すぎた。しかも牛車隊はスピードが遅いために1日の行軍が終わった時、宿営地には必ず遅れて到着するのである。戦闘部隊のまったくいなくなった後方に牛車部隊を残していくわけにはいかないのだ。

 師団を追っての行軍中、一度だけ敵機の空襲に遭遇した。許昌の手前に差し掛かり、やっと友軍の後尾に追いついて、ホッとして広い麦畑の中を歩いていた時、突如左後方に爆音がする。それは北京・天津の方角だから、どうせ味方の飛行機だろうと誰も気にもしていなかった。次第に機影がはっきりする。おや、双発の軽爆。皆、不審を感じ始めていると、急に降下体勢に入ってきた。「敵機だ。」皆、空襲は初体験で、何をしたらよいか戸惑っている。歩兵教育で教わったことを実践するのはこの時とばかり、私は「対空疎開、散れ」と号令を掛けてみた。警戒小隊員一斉に麦畑に型のごとく散開して折敷いた。敵機は我々の頭上を通り越して300メートルほど先に爆弾を1発落として去った。折敷いたまま周囲を見ると、特に退避行動をとった様子もないまま、のどかに歩いている部隊もある。私としたことが、張り切って教育演習のような事をやってしまい、何となく恥ずかしい気持ちだけが残った。実戦とは臨機応変でよいらしい。

 かくして約1週間して許昌の手前でやっと師団の後尾に追いついたのであった。結局、最初の宿営地での遅れを取り戻すのに1週間かかったことになる。5月3日、我が野戦病院は許昌を通過した。藤原彰氏の戦記によると、師団主力はこの時もうすでに六十キロも南の
レン城攻撃に掛かっていたらしい。次いで5月11日か12日頃(私には記録も記憶もなく、戦記を書いた人によっても異なっている)、確山に到達したのであるが、ここで北上してきた中支派遣軍と握手して第一段の河南作戦(京漢作戦)は終了したことになっている。

 この日も我が野戦病院は師団の最後尾から遅れないように、一生懸命歩いているつもりだった。やがて右前方に標高はさほど高くはないが、裾を長くなだらかに引いた山が見えてきた。その山の広い裾野の斜面のあちこちに多くの部隊が休止していた。部隊長に行軍を停止するかどうか意向を尋ねると、隊長は「先日のように師団から遅れると大変だから、前に出られるだけ出ておけ」というので、どんどん前進した。休んでいる歩兵部隊の兵が、気のせいか変な顔をしている。やがて前方から1人の将校(中隊長くらいの風格。階級章が見えない)が走り寄ってきて、
「止まれ。それ、どこの部隊だ。」
「野戦病院です。」
「何、野戦病院?冗談じゃない。ここは第一線だ。この先、日本軍はいないぞ。」
さっそく部隊長に報告。別命あるまで大休止となる。ここが確山だった。

 さて黄河を渡ってから15〜6日の間、我々はただひたすら衛生材料を担いで行軍しただけだ。衛生業務は一切なかった。傷病兵が一時に多発しなかったからだ。つまり勝ち戦だったのである。候補生教育隊の戦術教官だった軍参謀が発した一言は「歩のない将棋は負け将棋、予備隊のない戦は負け戦」。これに倣って私も一言、

   野戦病院 ひまな戦は勝ち戦

 ここで野戦病院とは一体いかなる組織なのかについて説明しておこう。昭和11年よりNHKが行なった国民歌謡なる企画でラジオで流した歌の中に「白百合」というのがあった。白百合とはもちろん白衣の天使(看護婦さん)のことで、その歌の第二節に次のような歌詞(西条八十・作)がある。
 黄昏 野戦病院の
 ベッドに呻く兵(つはもの)を
 弟のごとく慰めて
 巻く包帯に血は滲む

この歌は直接軍事に携わらなかった方々にとって軍事医療はかくあれかしという希望的心情を歌ったものだろう。これから野戦に赴こうとする人(陸軍では野戦上番者と呼んだ)に何かしら希望を与えるような歌詞になっている。それは野戦病院に対してほのぼのとした期待を抱かせていたとは思うのだが、歌と事実とでは大違いだった。
 まずもって期待外れだったのは野戦病院には白衣の天使などはいなかった。またベッドなどという結構な寝具もなかった。なぜかと言えば、野戦病院と称する部隊は師団長に直属する前線部隊の一つであり、傷病兵の治療を豊かにするような装備品は一切無かったのである。

 野戦病院とは常設の部隊ではなく、作戦軍を編成する時に必要に応じて要員を集めて新規に野戦病院を編成し、師団に配属させるのである。一つの師団は戦況に応じて4個までの野戦病院を持ち得たのであり、したがってまた必要がなくなれば随時病院を解散して、病院数を自由に増減できたのである。以上からお判りのとおり、野戦病院を運用するのは師団長であり、病院業務の開設・撤収もすべて師団長の発する作戦命令によったのである。すなわち師団長の命令がない限り、傷病兵の希望や衛生部員の自己判断で勝手に救護活動など行なってはならないのだ。野戦場では救護活動より戦闘が優先したからである。

 ではどのような局面で野戦病院を開設するかといえば、戦闘激烈にして死傷者多発し、隊付衛生部員だけで処理しきれなくなった時、初めて第一線の近傍に病院開設命令が出るのであり、また通例、師団の戦闘行動が一段落して駐留状態に時にも開設することになる。隊付衛生部員とは、歩兵・騎兵・砲兵・工兵などの戦闘部隊(兵科部隊)に配属された衛生部員であり、通常連隊本部に2名、各大隊にそれぞれ2名、つまり一個連隊あたり8名ないし10名の軍医と、相応の衛生下士官と衛生兵が配属されており、これを隊付衛生部員と呼んだのである。したがって野戦病院が開設されていない間はこの人たちが各部隊で発生した傷病者の診療に当たることになる。

 また師団の移動中は原則として病院を開設することはなく、野戦病院は戦闘部隊の後についてただ歩くことが仕事となる。黄河渡河以来、私たちがただ行軍してきたようにである。この間、野戦病院は一切診療業務は行なわない。たとえ行軍途中で傷病兵が苦しんでいる姿を見かけたとしても、野戦病院はさっさと通り過ぎてしまうのである。ではその傷病兵は誰が診るのか。それは先ほど述べた隊付衛生部員の仕事である。

 今日の平成の世の中では路傍に苦しむ病人を見かけた医者が、依頼を受けなかったからと言って黙って通り過ぎたとあれば世の指弾を受けないとも限らない。しかし野戦場においてはいかに崇高なりといえども、博愛精神だけでは通用しない厳しい鉄則があった。野戦病院は第一線の戦闘による死傷者多発に備えて師団と行動を共にしている以上、行軍落伍者に関わって部隊の行動が制約されれば、もはや部隊としての機能を果たし得ない状況になるわけだからである。またもし病院が惻隠の情を起こして、いかに治療のためとはいえ傷病兵を所属部隊に無断で収容移動させたりしたら、その兵は行方不明者として扱われることもあり、運が悪ければ逃亡者にされるかも知れなかった。

 これで患者と、患者の所属部隊と、野戦病院の関係がいかなるものか大体お判りいただけたと思う。野戦病院とは第一線の師団と行動を共にする部隊であって、後方の兵站病院や陸軍病院のような非戦闘地域に陣取って、整った施設にデンと構えて医療に専念できる病院とはわけが違ったのである。ちなみに私の場合、作戦に参加した天津出発以来、湖南省で別命を受けて作戦を離脱するまでの216日間のうち、野戦病院が開設されて診療業務に従事した期間は半分以下の107日間しかなかった。残りの約3ヶ月半は大陸を北から南へただ行軍していただけである。


第6章:長台関の雨

 さて京漢作戦が首尾よく終わり、いざ湘桂作戦に出陣の第一歩を踏み出した途端、思わぬ伏兵から手痛いしっぺい返しを食らうことになる。それは天候であった。黄河渡河の前後に降雨を経験した後は好天気が続いており、この好天続きが一転して大豪雨になろうとは想像も及ばぬ次第であった。いや、しかし注意深く観察するなら予兆はあったのだ。13日の夕刻、天の一角に稲妻が光り遠雷があったのだが、日没と共に遠のいた。

 翌14日は夜行軍を行なう旨の命令が出た。師団司令部に命令受領に出た衛生少尉から作戦命令とは別に、口頭で達せられた諸注意の中に次の一項が入っていたことは戦史を考察するうえで重要である。それは次のようなものだ。
「河南の作戦は終わり、次は湘桂作戦になるが、彼の地方は制空権が敵方にある。したがって行軍は夜行軍が多くなる。今回の信陽への移動は夜行軍の訓練を兼ねている。」
重ねて言うが、このことは命令の他に口頭で達せられたもので、命令文の中には記載がなく、また戦後に読んだ資料や戦記でもこの点に触れたものはない。

 野戦病院は14日は昼間軽く行軍して、夜行軍の序列に都合の良い位置にて大休止を取った。淮河橋梁に続く公道から200メートルほど西に小径(農道)を入った家屋であった。部隊の公道上への整列時刻(すなわち出発時刻)はたぶん午後5時頃だったと思う。皆これに合わせて屋内で軍装を整え、すぐ出られる態勢でちょっと腰を下ろしていた。それはまさにドンピシャリのタイミングだった。いきなり、ゴーでもザーでもない名状しがたい轟音を立てていきなり大雨となった。家の戸口から外を眺める。篠つく雨とはまさにこれだ。凄いの一言に尽きるのである。

 さあどうするか。もう出発の刻限になるが、この雨の中を行かねばならぬか、しばらくためらう。日本は台風国だ。台風なら息吹があって、大雨と小止みが交互にくると思っている。暫時様子を見た方が良いのでは、と考えているところに、奥から部隊長が戸口まで出て来た。皆が逡巡しているのを見て、部隊長は不機嫌に「もう時間だぞ」と言う。雨は期待に反してまったく止み間がない。大陸の雨は桁が違うようだ。誰も動かないのを見て、やおら入口に出て来た部隊長、「さあ行くぞ」と一声残して大雨の中へ1人で出て行ってしまった。視界はせいぜい1〜2メートル。部隊長の姿はすぐ見えなくなった。さあ困った。部隊長が行くぞと言って出て行ったのに我々だけ残っていたら、時と場合によっては敵前抗命の罪に問われる可能性がある。嫌な想念が頭を過ぎる。そうだ、雨よりは陸軍刑法の方がよほど始末が悪い。「さあ行こうか」と声を掛けたが、「軍医殿、凄い雨ですね」と兵隊たちはソッポを向いている。それにしてももう少し小降りにならないものかと空を見上げているところに、豪雨のカーテンを掻き分けていきなり飛び込んで来たずぶ濡れの人間は部隊長。家に入るや「これは凄いや」と一声残して奥へ消えた。下士官兵一同これを見て、安心して背嚢を下ろし、デンと腰を据えてしまった。

 雨が上がったらすぐ行軍になるかも知れぬから、軍装は解かずに休めということで休息になる。連日の疲れで皆すぐ眠ってしまった。どのくらい眠ったか、人声で目が覚めたら朝になっていた。雨は止んでいる。一体いつ頃まで降っていたかという記録はない。先ず起き上がって戸口より外を見ると、家の前に馬が2頭死んでいる。歩を移して街道の方へ出てみると、さらに数頭の馬の死骸。牛もある。薬剤部の兵に会う。昨夜の雨で衛生兵1人行方不明になって捜索中とのこと。徐々に不確実ながら情報が入るに従って、死者も多数出てひどいことになっているらしい。

 やがて司令部より連絡をもたらした磯辺衛生少尉は、信陽までの行軍が夜行軍から昼間に変更になったことを告げた。そしてこれまた命令外の談話として「昨夜の豪雨による死亡者は兵と軍夫併せて約500人」と告げた。戦後の戦記に計上されているのは兵166名となっている。私の記憶に誤りがないとすれば、軍夫(苦力:クーリー)の死者は兵に倍するものであった。
 幸いなことに薬剤部の行方不明の兵はやがて発見された。彼は繋駕作業中に雨に会い、道を失ったがハザ(稲架)のような物を見つけ、その中にもぐり込んで一夜を明かしたらしい。発見時衰弱の底であったが一命を取りとめることが出来た。

 この時の死者の死因は凍死と記載した方もある。5月中旬のことゆえ凍死の表現にはやや抵抗を感ずるが、そのメカニズムを考えるなら凍死とまったく同じ事が起こったのだ。由来被服の保温性は被服ならびに被服間の間隙に含有される空気に存することは今や常識である。そこで全身着衣のままずぶ濡れになったらどうなるか。着衣の中の保温層の空気が水に置き換えられる。熱伝導率の高い水が着衣の代わりとなれば、体温を体表に導き、さらに気化熱を奪って体温低下に拍車をかけ、その結果、生命機能の喪失となる。私が熊本の歩兵第十三聯隊に在隊中、阿蘇大矢の原演習場で雨中の行軍の経験がある。時は6月梅雨期で大雨が降り続いた。数時間の行軍だったが褌までずぶ濡れとなり、歯の根が合わなくなるほど寒かった。大体兵に支給された陸軍の雨外套なるものは実は質が悪かったのである。中古になると防水性は皆無と言ってよい。新品でも大雨の場合1時間とはもたなかったかも知れない。病院薬剤部の兵がハザ(稲架)にもぐり込んで体温の発散を防いで助かったのは正解であった。

 またもう一つの問題は輜重や行李の兵に事故が多かったことである。彼等は行軍整列の30分以上前から輜重車に馬を繋いだり、荷を積んだりしなければならなかった。その作業中にいきなりの大豪雨。勘の良い者は退避できて、遅れた者が犠牲になったのでは。
 ただ多数の馬や牛が繋駕を解かれた姿で死んでいたのは何を意味するか。当夜の豪雨があまりにも急激で、牛馬まで避難させる暇が無かったのではないか。私はこの夜の事件について、もう一つの疑問を持っている。行軍開始時刻である。午後5時と前記したが、記憶に確証が無いので、仮にこれをX時として論を進める。その時点では私がX時を失念しているはずはない。私は警戒小隊の小隊長で小隊の兵を指揮しなければならなかったから、その時は時計と睨めっこで出発の時間を計っていたのである。雨はX時ジャスト00分に降り始めた。豪雨の始まった時点までは我々の部隊が師団命令に違背していたはずはなかった。

 さてここで他の方々の戦記を参照すると、歩兵部隊は豪雨の時にはすでに行軍を始めていたように記載されている。他の部隊の中には、私たちの出発予定時刻だったX時よりかなり早くから歩き始めていた部隊があったようだ。支駐歩一の町田氏の部隊は出発後間もなく雨となって、夕方には暴風となり、夜間の泥濘を苦心惨憺して行軍したと回想しておられるし、支駐歩三の藤原氏は師団後衛として出発予定だったが、豪雨だったので前がつかえて立ち往生しながら歩くよりは、と出発を延期したと書かれている。X時に出発ならば、仮に少し早めに出たとしても豪雨開始時にはまだ多少は勝手を知った宿営地の近くにいたはずであるから、もう少し何とかなったに違いない。それとも司令部が各隊に異なった出発時刻を指示したのか。いや、その夜の行軍は夜行軍の演習を兼ねていたとすれば、そのようなことは考えにくい。

 どうやら当夜の師団各隊の動きはまったく統一性を欠いていたとしか思われない。特に天候急変後は、命令伝達、状況報告、各隊の連絡が完全に途絶してしまったのだ。今の人たちなら師団内の互いの連絡くらい無線を使えば良いのに、と当然思うだろうが、当時の陸軍には手軽に使える簡便な無線装置など無かった。通信は第二十七師団通信隊という専門部隊が担当しており、兵科の聯隊本部、大隊本部に所属する通信中隊が命令伝達を行なっていただけである。
 ついでながら、もちろん我々の野戦病院にも無線は無く、当時病院本部付下士官で、師団からの命令受領を担当しておられた阿部栄氏によれば、京漢作戦中の司令部から病院に対する命令は砲兵聯隊の通信隊を経由していた由である。

 ともかく、ここへきて第二十七師団が予期せぬ大損害を蒙ったことは、軍にとって大問題となった。由来、第二十七師団は40年来の支那駐屯軍で、完全に近い装備を持った精鋭師団であった。昭和13年の武漢攻略作戦(本間雅晴師団長)に従事した以外は、北支に駐留したまま大切に温存されてきたのである。軍はこの虎の子師団を満を持して一号作戦に投入したわけであり、しかも主戦場として想定された湘桂作戦に備えて兵力の損耗を避けるべく、京漢作戦中はできるだけ第二十七師団を前面に立てないような作戦指導となっていた。しかるにその虎の子師団が、たった一夜の雨で兵の死者166名と多数の病者のほか、馬匹の損失を招いて戦闘力が激減してしまったのだから、軍中枢のお腹立ちは想像に余るものがある。

 師団長竹下義晴中将と参謀長関根久太郎大佐はこのあとすぐ更迭されたし、またこの事態は全軍に布告されることになったと聞いた。この夜の事件について、町田氏の著書には次のようにあるので引用させて頂く。

 此の事件は本質的には予期しえない異常気象による天災であった。この報に接した第十一軍は第二十七師団(竹下義晴中将、23期)の戦力の低下を危惧するいっぽう、その真相の究明にのりだした。そして師団上層指揮者の情報判断の甘さ、地理、気象情報収集の不足、夜間渡橋計画の不備、そして指揮官の機に臨み変に応じた処置の不適などが指摘された。

 しかし現場であの事件に遭遇した者として感想を言うなら、誰が師団長で、誰が参謀長であっても、あの晩は同じ事が起こったに違いないと思うのである。更迭された竹下師団長、関根参謀長にはまことにお気の毒というほかないが、一つだけ私には納得できないことがある。それは、あの晩の行軍は、湘桂作戦に備えての夜行軍の訓練を兼ねていると、命令外に口頭で伝達された注意の件である。他の著者の記録を読むと、師団の漢口到着が遅れていたとか、空襲の恐れがあったとか、昼間は暑いから、といった作戦上の理由で夜行軍が計画されたように書かれているものが多いが、それなら雨の上がった翌日以降の夜行軍の予定がなぜ取り止められてしまったのか、その理屈が分からない。5月12日に京漢作戦が終了して兵馬ともに疲れていたのであり、この部隊で何もわざわざ夜行軍演習などやらなくてもよかったのではないかと思われる。あくまで個人的感想だが、事件の本質はここにあって、その責任が究明されていないのではなかろうか。

 翌日からは天気も回復し、昼間の行軍に変更になったので5月25日信陽到着。列車輸送待ちの数日を送る。早速飯海さんと信陽の街に出てみた。事変当初に日本軍に占領された所なので、街並みは十分修復されて戦争の面影はない。やはり時節柄町に活気はなく、景気は悪そうだ。町を歩いていたら一軒の飯店から小輩が跳び出してきて、家で食事をしろと言っているらしい。飯海さんが交渉する。胸の物入れ(ポケット)から例のメニューを出し、八宝菜を指してこれが出来るかと聞いたら、今日は出来ない、「明天来」と言う。翌日本当に八宝菜を作る気があるのか試しに行ってみようということになり、飯海さんと連れ立って例の店の前を通ったら、またもや昨日の小輩が跳び出してきて、「ワイ、パーポーツァイ」と我々のことを呼んでいる。これには驚いた。今日は大丈夫だから来いと言っているらしい。中国人は子供のうちから商売熱心なのにほだされて店に入った。どんな八宝菜だったか覚えていない。5月25日、またあの軍用列車で漢口へ。


第7章:初めての野戦病院開設

 5月26日朝、軍用列車は漢口に近づいた。列車の右側に大きな河が見えた。揚子江である。鉄橋を渡った時に見た黄河に較べると小さく見える。揚子江はもっと大きいはずだと期待していたので、少し拍子抜けの感じがする。しかし対岸にいる人の大きさを見たらやはり広い。約2キロ。それに黄河は黄砂で霞んでいたから、よけいに広く見えたのかも知れない。

 漢口の宿営地に入ったらまた驚かされた。明27日を期して作戦が開始されるとのこと、漢口に着いたら羽根を伸ばそうと思っていた古手の軍医連は大ショック。それ以上にびっくりしたのは、京漢作戦では車輌編制(黄河渡河の時に説明)であったが、湖南省に入ると広い道がほとんど無いので車輌は使用不可能とのこと。したがって一晩のうちに駄馬編制に装備替えをせよというのである。
 駄馬編制では荷物を振り分けにして馬の背の鞍に載せて運ぶので、輸送能力は激減する。兵科の部隊では山砲や重機関銃を馬の背に載せて分解搬送するのである。徴発した牛や騾馬とその荷車は列車輸送が出来ないので信陽から帰し、前線に持ち運びの出来ない荷物は兵站の貨物廠に預けることとなった。ほとんど不眠不休の作業であった。この時、漢口の貨物廠倉庫に預けた不急の物資の中には、我々将校の私物の入った将校行李もあり、あわただしい作業で積み上げたため、誰の物がどこに入ったかなど分からなくなってしまい、半年後に出張で漢口に戻った際、ある人からの頼まれ物を探し出すのに大変苦労した覚えがある。
 なお「車輌編制」の用語について念のため一言付け加えるならば、支駐歩一の町田正司氏も「車輌編制」と記し、また支駐歩三の藤原彰氏は漢口での編制替えについて「輓馬(車輌を牽く馬)はすべて駄馬(背に荷を積む馬)への編制改正」と記載しておられる。

 まったく休養もとれないまま5月27日作戦開始。京漢作戦疲れで発病者が出たので、かなりの数の兵員を漢口に残置した。我が親友の飯海さんもまたまた「ゲーリー・クーパー」になって入院となる。漢口で数日休養すれば治癒見込みの患者まで置いて行くことになった。戦争とはする事なす事みな不合理にしてかつ能率が悪い。

 27日、先ず渡し舟で対岸武昌に渡る。今回は鉄道輸送はまったくなく、いきなり行軍となる。粤漢線に沿って南下し、横溝橋で粤漢線に別れを告げ、通山、崇陽、通城、南江橋、平江と鉄道から約50キロほどの距離をおいて行軍は南へ進んだ。

 さて漢口で急遽駄馬編制に変更した理由はすぐ分かった。中国には南船北馬という言葉があることは周知のことであるが、これは誤解を生じやすい。南船は長江(揚子江)以南の地を指しているが、船さえあればどこでも自由に行けるわけではない。かなり大きな船が自由に航行しているのは長江くらいのもので、長江の四大支流と言われる湘江や
カン江はもはや舟の大きさは制限されるし、そのまた支流の汨水、瀏陽河、ロク水、メイ水となるととても舟行の便ありと言えない。これら小さな川にもちろん舟はあるが、対岸を結ぶ渡し舟か漁船に過ぎない。渡し舟が多いということは交通の手段はやはり陸行が主体だということを裏書きしている。

 では陸地はどうなっているかというと、せいぜい2メートル幅くらいの道が延々と続くのである。ただし道の中央に約50センチ幅くらいの石材を敷き詰めた石畳になっている。あちらの人は石畳の上に一輪車を動かして物を輸送しているのである。女性などは天秤棒の両端に荷を入れた目籠を吊り下げ、ヒョイヒョイと腰で調子を取りながら器用に歩くのである。時には目籠の片方に赤ん坊が入っていることもある。

 格言に相違してこのような陸上交通の手段しかないとすれば、駄馬編制は当然であろう。しかし大きな問題が生ずる。すなわち軍事行動の基本となる補給手段があまりにも貧弱になるのだ。物資を湯水のごとく消費する近代戦は、これでは成り立たないではないか。もちろん軍の首脳部はよく御存知だった。
 時と場所はよく憶えていないが、たぶん通城を過ぎたあたりであろう。第二十七師団に一時行軍を止めて、ある区間に自動車の通れる道路を作れという命令が出たのだ。乙兵站線という。野戦病院までも道路工事要員を出したはずである。ちょうど梅雨時に入って小雨のしょぼ降る中の作業だった。結局道路は未完成のまま我が師団は出発した。行軍の途中、蒋介石の作った軍公路はあったが、ズタズタに寸断されており、一部は田圃となって青々と稲が育っていた。あちらの民の凄まじい生活力にはまったく脱帽である。結論として言えることは、交通手段や補給路の確保は北馬の地方より南船の地方の方がはるかに厄介だったのである。(註:町田氏は道路工事は崇陽−通城−平江の間と記載しておられる。)

 通城からはこの地方の名山とされている幕阜山が見えた。ひときわ高くきれいな円錐形をした山だ。火山国の日本には円錐形の山は珍しくないが、中国では珍しいのだ。数日の後、この幕阜山の山裾をグルリと半円形に巻いて通過し、平江に着いた。6月19日だった。

 平江では初めのうち例によって何もすることが無かったが、野戦病院はここにしばらく駐留して野戦病院を開設するようになるという話が伝わっていた。第二十七師団の前に平江を通過した部隊(第三師団だったと思う)が多数の戦傷病者と衛生部隊を残していたが、この衛生部隊の前進に伴い、我々が傷病者を引き受けることになった。20日か21日に正式に病院開設命令が出たと思う。患者はまだ来なかった。

 翌22日、朝からよく晴れて暑かった。患者はまだ入院して来なかったので、数名の下士官兵を連れて水浴びに行った。ところが宿営地から100メートルほど歩いたところで空襲になった。敵機は1機だが双胴のP38。機首に旋回機銃を備えていて、水平飛行で輪を描きながら、いきなり目標を射撃してくる。P51のように急降下しながら目標に機首を向けて射撃してくれれば合間に身をかわすことも出来るが、P38には弱った。結局30分ほども田圃の畦道の潅木の蔭に張りつけになってしまった。P38が飛び去ったら皆水浴びの意欲も無くなって宿営地に帰った。
(註:機首に旋回機銃を持つP38は父の思い違いだろう。双胴の特徴ある機体なので見間違うはずはないと思われるが、別の爆撃機の旋回機銃で狙われた記憶と混同したか、あるいは複数機による襲撃だった可能性もある。昭和19年10月に成都に展開した双胴三座のP61夜間戦闘機の中には機体上部に旋回機銃を持っているタイプもあったようだが、時期が4ヶ月ずれている。)
飛行機の絵はMicrosoft社のCombat Flight Simulator 3で作成。

 ところが留守中に大変なことになっていた。約束の患者が大挙入院して来たのと同時に、師団司令部から出発前進(病院閉鎖)の命令も届いたのである。では入院した患者はどうするのか?後続の兵站病院が来ているはずだから、そちらへ転院させよとのこと。さっそく病院の庶務部から兵站病院に連絡が出た。兵站病院の回答は、命令ですからもちろん引き受けます、規則通りちゃんと病床日誌(カルテのこと)は付けて下さいよ。と言われても患者は野戦病院に今来たばかりで診察もしてないのに病床日誌なんかあるわけない。頼むから兵站病院初診ということで引き受けて欲しい。野戦病院も行軍出発時間が目睫の間に迫っているので、是非お願いしたいと頼んだそうだ。ところが兵站病院側はこれは規則だから病床日誌がない限り1人といえども引き受けるわけには行かぬとニベもない返事。そのゴタゴタの最中に、我々は河の途中から引き返して来たわけだ。もしあのまま泳ぎに行っていたらもっと大変な事になっていた。ちなみにこの河の名称は汨水だった。屈原が身を投げた所縁の河。当時その事を知らなかったので、無理に屈原の故事にこだわらなくて助かった。

 野戦病院は上を下への大騒ぎになっていた。患者は何でも200人を越していたのではないか。出発時刻は(これも記憶では)あと2時間くらいに迫っていたように思う。病室部(内科担当)の千頭軍医中尉、井上軍医中尉、三輪軍医中尉と私の4人で、この仕事を片付けなければならない。どうしよう。まともに仕事をするならその日1日かかったって済まないかも知れない。そんなこと分かっているくせに兵站病院は入院条件に難癖をつけたに相違ないのだ。病床日誌を付けて患者を入院させれば、てきめんに自分たちの仕事は楽になるからである。分かっていても規則を盾に断られたのでは喧嘩も出来ない。そこて一計を案じて、病室部の衛生下士官と衛生兵を総動員して分業のうえ、病床日誌を大量生産することとした。病床日誌の一面は所属部隊や患者の官等級氏名、生年月日等で、この部分は誰でも書けるし、また誰が書いても差し支えない。問題は二面以下の疾病の記録、これは病気を診て医師が記録しなければならぬ。軍の病院だろうと一般社会の病院だろうと同じ事だ。

 陸軍の病床日誌の初診記事には、以下のような決り文句があった。
「体骸ナニナニ(大・中・小)、栄養ナニナニ(良・不良)、顔貌ナニナニ(憔悴など)、体温何度、脈摶いくつ、等々」
決り文句が大半を占めていたので、体骸の大中小を観察、体温は額に手を当ててみて熱い者は検温、脈拍も手分けして計測し、あとは下痢の有無を付加してみたら、病床日誌は軍医がさほど手を下さなくても書き上がったのである。これではあまり何だからと言うことで、軍医が全員の心音を聴取した。驚くなかれ、200人以上の診察が1時間ほどで終わってしまった。そして患者数に相当する出来上がった病床日誌(カルテ)は耳を揃えて兵站病院に送り付けたことはもちろんである。

 聞くところによれば、今度は兵站病院もカルテ付きの患者とあって引き取らざるを得なかったらしい。野戦病院関係者の面々もあからさまに口には出さないが、内心ニヤニヤしていたのである。我々としてはまことに申し訳のない仕事をしたことになるが、作戦命令との板挟みにあって、背に腹は替えられなかったのだ。
 第四野戦病院の初めての病院開設業務はかくして何だかわけの分からぬうちに終了したのである。長居は無用、さっそく平江を発進。6月22日。平江を発進した時、師団の兵力は半数以下になっていたらしい。


第8章:戦闘地区に入った野戦病院

 平江発進、いよいよ交戦地域に入る。中国側のいわゆる第九戦区、敵将は薜岳。この人は彼の地では特に有名人らしく、彼の書いた書を入口や玄関に飾っている家を何軒も見かけた。まるで御守りの御札のようなあんばいにである。日本軍の兵隊も薜岳の名前は知っていた。
 この地方は高山ではないが山地が多く、北東から南西に向けて山脈が幾重にも重なって、ちょうど大波が打ち寄せる海のようだ。この延々と続く山並みが見えると峠越えの足がますます重くなる。一体どこまで行くのか。山を下りると今度は水田が続く。風景は故国日本によく似ているのだが、それは郷愁にはなっても慰めにはならない。例によって狭い石畳の道を行く。

 社港市を過ぎた所で山越えにかかるらしい。幕阜山脈か九頭山脈が南西に延びてゆく山並みの一つだ。部隊が止まってしまった。山裾で止まった前の部隊を見ると、しきりに馬の背から荷を降ろし、人力でそれを山の中腹の道路(道があるらしい)まで運び上げている。あまりにも坂の斜面が急なために馬が登れないのだ。荷を降ろした馬はどうするかというと、坂の2〜30メートル手前から助走をつけて、約50メートルほどの急坂を一気に駈け上がろうというのである。1人の兵が手綱を取り、2〜3人の兵が馬の尻を押して駈け上がるのである。中には一度で登りきれず、やり直しになるものもあり、大変難儀なことであったが、坂の上の道は割合平坦だった。戦記によれば、一ヶ月弱ほど前に通過した第三師団、第十三師団がこの辺で戦闘しており、道路が破壊されていたのだろう。

 たぶんこの山越えのあたりからであったと思うが、不思議な光景にお目にかかることになる。田圃の稲も青々と5〜60センチくらいまで育っている。その田圃の中に真ん丸く稲のない抜けた部分がある。一つ二つなら別に気にも留めなかったであろうが、あっちこっちに点々と多数あるのだ。円の大きさは畳にして10畳ほどの広さ、例外なく正円なのである。稲が伸びているので中がどうなっているか分からない。皆は無頓着で黙々と歩いているので、「あれは何だ」などと声を掛けるわけにもいかない。否,聞く必要はなかった。右前方行軍路の近くに例の穴がある。あれを見れば分かる。
 近づくにしたがって凄い悪臭がしてきたので、「ああ、そうか」と納得する。稲の枯れた円の中心に死骸が1体。完全に白骨化した体のあたりに綿の軍服(これも形をとどめない)が散乱している。はっきりしているのは頭蓋骨だけで、重い頭頂部を下にしており、完全に液化して甘酒状になった脳漿が大後頭孔より見えている。身体もすっかり液化してどす黒い液となって周囲に広がり、これが稲を枯らしたのである。この情景を何と表現すればよいか分からないので、松尾芭蕉さんの知恵を借りることにした。

     むざんやな 髑髏に集う蝿の群れ

 山間の切り通しの道を抜けたら河に突き当たった。河幅はそれほど広くないが、底知れぬ深さを暗示するように、澄んだ水がどす黒く見える。水の流れも速く、薄気味悪い恐ろしさをたたえた河だ。河を渡るとそこが瀏陽の街だった。部隊は街の手前で右折して再び山や田園地帯を歩くこと一時間。ここが瀏陽の仮の宿となった。

 宿営地に着いたらさっそく自隊患者(野戦病院の勤務者の患者)がやって来た。診察してみるとたぶん虫垂炎だったか、自分の隊では処理できない病気だったと思う。いくら自分の隊が野戦病院でも、病院業務を開設していない行軍途中の宿営地ではどうにもならない。さっそく部隊長に報告すると、「何で瀏陽の街を通りながら、そこの兵站病院に入院させなかったか」と御機嫌が良くない。実にごもっともとは思うが、私が叱られる立場にはないのに。とどのつまり患者搬送の任を承ることに相成り、約1時間行程の道を逆に往復することになる。

 やれやれ、今日の仕事は終わった。隊長室に報告に行く。まだ報告を切り出さないうちに、隊長「ちょっと待て」と部屋の奥に消えた。何か書類でも取りに行ったのかなと思いながら待っていると、あたりが急に騒々しくなって「空襲」の声が聞こえる。アッ、シマッタ。自分の部屋に鉄帽を取りに引き返す。部屋に帰ったら3人の先任の軍医方がいた。たちまち起こる敵機の急降下音、同時に「ダーン」という炸裂音(本当は銃撃音だったが、その時は爆弾の炸裂音かと思った)が響く。爆弾なら屋内で伏せていては危険と思ったので、「外に出ましょう」と誘ったら、一番先任の辻勝流軍医中尉(日本医大出身の方で戦歴はずっと古かった)が「今外に出たら発見されて却って危ない。皆ここにおれ。一蓮托生だ」と言った。私は野戦の古つわものの胆の据わり具合にすっかり感心してしまった。この一言に私の腹も座ったかと言えば、なかなかそうは簡単に行くものではない。

 またもや急降下音。「ダーン」という音が間延びして聞こえるのは、高速で近づいてくる飛行機から撃ち出される個々の銃撃音がくっついて一つに聞こえるためらしい。同時に家屋周辺の笹藪や木々の葉に「シャー」という驟雨にも似た音を聴き取ることが出来た。たぶん着弾音か。

 もう一つ気が付いたことがある。敵機の急降下音がしてから飛び去るまでの緊張の瞬間、どうにも顔の筋肉がこわばるのである。何でだろう。考えているところへまた次の急降下攻撃、今度はそっと3人の先任の軍医殿を観察する。皆さん3人とも目を大きくカッと見開き、噛みしめた歯を剥き出しにしている。自分の顔が突っ張って感じたのもこれか。歴戦の勇士でも精神の力で自制できるものではないらしい。たぶん防衛反射的なものではないか。私だけが腰抜けと考える必要はないようだ。

 話は変わるが、どこかでこんな顔を見たことがあった。そうだ、親父が死ぬ時だった。息を引き取り意識が消え入る瞬間の顔がこれだった。昔から断末魔の形相というのはこれであろう。また戦後、「史上最大の作戦」というアメリカ映画があった。落下傘部隊の兵が教会の塔に引っかかり、これを見つけた独兵が銃を向けるシーンがある。この時、落下傘兵は銃を向けられた恐怖のあまり断末魔の形相を呈した。これを見た映画見物のお客さんは、可笑しいと言って笑ったが、私はこんな事まで研究し尽くしていて、人生の機微に通じた映画監督さんに拍手を送りたい。閑話休題。

 空襲が終わったところで退避していた兵隊が帰って来た。「軍医殿、逃げなかったのですか」「あー」「じゃあお土産あげます」と言ってくれたのが、今撃ち込まれた銃弾と薬莢。銃弾の方は手の指の二関節分くらいはある。薬莢の方は優に万年筆がスッポリ入ってしまうほどの大きさである。これでは薬莢に当たっても命はない。この二品は面白がって持ち歩いていたが、復員船に乗る時に処分した。

 一件落着して、さっきの件の報告でまた隊長室に行く。隊長は私より遅れて入って来るなり言った。
「何だ、お前は空襲だというのに退避しなかったのか。」
隊長は私が空襲の間じゅう隊長室に突っ立っていたと思ったらしい。

 時に7月1日、本当はこの日から陸軍軍医少尉なのである。作戦中なので司令部から進級の命令などいちいち伝達して来ない。致し方ないのでしばらく見習士官の姿のままでいることにした。何分にも山の中では階級章を入手する術は無かったのである。

 7月2日より再び前進。この頃になると人馬ともに疲労し、発病者も増えた。馬が斃れたせいであろうか、山砲の砲身に丸太を通して二人の兵で担ぐ姿を見たのもこの辺だ。行軍のために人間が砲身を分解搬送するのではたまらないだろう。今回の空襲のせいもあり、夜行軍が多くなる。どこか蜿々と続く山間の谷間のような所を歩いていたようだが、記憶が喪失している。人間視覚の欠如した経験は記憶に留まり難いのであろうか。

 7月7日(町田正司氏の戦記から考察した)の夜が明けた。谷間を抜けて広々とした場所に出ている。前方に河があって部隊は止まった。河の向こう約2キロほどは平地で、そのさらに向こうには我々の針路を妨げるかのごとく高さ約百メートルの台地が横に広く拡がって見えていた。ここの大休止の時に、前述した麻薬中毒のW軍医少尉の失踪が当番兵より報告されたのであった。

 さてこの河は
ロク水というらしい。ロク水なる川の名は、戦後横浜中華街の店で買った地図によるものであることを断っておく。なおロクの字は日本の漢和辞典には出ていない。それはともかく、この河を渡河して前進するのだという。野戦病院の渡河の序列はまた最後だ。
 激しい銃声が前方一面に起こった。正面にも河上にも河下にも所きらわず銃声がする。敵はチェコスコダ製の機関銃を撃ちまくっているようだ。発射間隔を短くして(機関銃の発射間隔は調節できる)20発、30発と連射してくる。頭上に「ヒューヒュー」と流れ弾の飛ぶ音がする。我々が渡河する頃には友軍の重機関銃も応戦し始めたようだ。下半身は褌一枚になり、靴、巻脚絆、袴(ズボン)は背嚢に括り付けた。河岸は水面よりかなり高いので、渡河する兵隊にとっては川岸がよい遮蔽物となり、敵の射撃に対しては安全だった。

 渡河を終えたら直ちに前進の予定だった。ところが行軍進行方向に間断なく銃声が響いている。皆背嚢を背負ったまま、すぐ歩き出せる姿で待機したが、昼頃に渡河してから1時間経っても2時間経っても埒があかない。それで直ちに出発できる態勢で大休止と命令が変わった。
 とうとう夜になった。戦闘は一向にやまない。頭上の弾丸の飛翔音も間断なく続く。時には「ヒュン」と鋭い音もある。これは身近な所を弾丸が飛ぶ音で、こいつは危ない。野戦病院はまだ何もすることがないので、食事もそこそこに部落の土塀の蔭や畑の畝の谷間にゴロ寝をする。連日の夜行軍や渡河の疲れですぐ寝入ってしまった。
 何かの物音で目が覚めた。明るくなっていた。そっと頭を上げて周囲を見ると、皆まだ寝ている。不思議と皆、畑の畝の底に寝ている。弾丸をよける気持ちが自然にそうさせるのだろう。

 翌7月8日、部隊は前進するどころか、戦闘はますます激しさを加えて本格的になった。敵は迫撃砲を撃ち込んでくる。日本軍も山砲で応戦し始めた。これでは行軍前進は当分ない。皆背嚢を降ろして座り込んでしまったが、おちおち休んでもいられない。
 改めて渡河の後に入り込んだ部落を眺め回す。部落には家屋が20軒くらいあったようだ。部落周囲は背丈くらいの分厚い土塀をめぐらしてあり、数カ所破れた所がある。土塀の破れ目の外の畝道に出ると外の戦場が一望できた。前面約二キロの所に高さ約百メートルほどの丘陵がずっと横たわり、斜め右前方にはこの丘陵に切り通しがあるように見えている。敵はこの高地に陣取っているらしい。

 一方我が軍は私たちのいる部落からに200メートルほど左のこんもり木の茂った部落に支駐歩一の大隊本部があり、ここを基点に丘陵に向かって散開しているようだ。何か勇壮な戦闘が見えるかと期待したが、見えたものは味方の撃ち出した砲弾が敵陣の土砂を巻き上げて破裂する爆煙だけである。期待外れであった。もっとも実戦で映画のような戦闘シーンが目の前に展開するようなわけがなく、兵の姿がよく見えるような位置では敵兵の狙撃の標的になるだけだ。

 しかし音の方は凄まじい。「ヒュンヒュンヒューン」流れ弾の飛翔音の中に両軍の機関銃が音較べをする。早い発射速度で連射してくる中国軍のチェコ機銃に対し、日本軍の重機はテンポの遅い発射速度で「ドッドッドッド」と腹に響くような音を立てる。機関銃に負けずに砲撃も加わるが、日本軍の歩兵砲は「ドン」「シュルシュルシュル」「ドン」と発射音、飛翔音、炸裂音が三段構えで聞こえるが、これに対して敵の迫撃砲は発射音は聞こえず、「ヒョロヒョロヒョロ」と鳶の鳴き声に似た飛翔音に続いて「ドカン」と馬鹿でかい破裂音がする。ただしどこに落ちたか分からない。目を凝らすと大隊本部の森から薄青い煙がホワッと上がって風に流れるのがかろうじて見える程度だった。

 この日も暮れた。ここの家々に宿営となる。歩哨を立てて警戒に当たる。9日になったが、戦闘は進展しない。昼前になって野戦病院開設命令が出た。死傷者がかなり出たらしい。開設と同時にドッと負傷者が押し寄せた。平江の野戦病院の時は病室部(内科担当)がてんてこまいしたが、今回は発着部(受付)と治療部(外科担当)が大忙しとなった。忙しそうなので応援に出かけてみたが、部署以外の者には手の出しようがない。現在の社会の病院なら、医者であれば点滴くらいは手伝えるのだが、野戦病院では点滴など出来ないのだ。器具もなければ薬液もない。当時は一般社会でも一部の病院以外は点滴などやらなかった時代だ。中庭には負傷兵が運び込まれて治療の順番を待つ。喉が渇いたから水をくれと騒ぐ兵がいる。衛生兵が我慢せよと説得している。これまた当時は負傷者の喉の渇きに水を飲ませると死ぬという『信仰』のような考えがあったようだ。水を与えると血圧が上昇して出血増加を招くというのがその理由だったが。現代のように病人の脱水症を重視する考えはなかった。

 庭の風下では発着部の兵が死者の被服や装具の不用品を焼却処分している。もちろん兵器と名のつく物は火に投ずることはない。発着部の高沢軍医中尉が直接監督しており、何も軍医が焚火を監視しなくてもよかろうと思ったら、そうでないらしい。まだブリブリ怒りながら中尉の曰く、
「よく見もしないで青筒(ガス弾である)を火に投げ込んだ馬鹿者がいる。幸い俺が気がついて発火前に腕を突っ込んで取り出したのだ。」
なるほど怒るのも無理はない。

 10日になっても師団は前進不能。方針変更。7日に渡河したロク水をもう一度逆に渡河して元に戻り、渡河点から河の右岸(敵のいない側)を河下へ向かい行軍することになった。行く先が変わったらしい。問題なのは今度は野戦病院に多数の患者がいることだ。昔、陸軍は患者を移送する時、担送患者、護送患者、独歩患者の三種類の移送区分にしたがって患者を輸送していた。師団の部隊の中には衛生隊と称して患者輸送を専門とする部隊があったのである。ところが師団命令では収容している患者は病院が自分で運べということだった。衛生隊の任務まで併せて命ぜられ、病院の関係者はブーブー言ったが命令では致し方もない。もっとも人が命をかけて戦闘している時に高見の見物などしていたお返しか。

 とにかく担架を用意しなければならない。担架には4人の担ぎ手が必要だ。担ぎ手は自分の兵器と装具でただでさえ精一杯の重量に耐えているのに、さらに担架を担ぐのだ。場合によっては担ぎ手の衛生兵が参って部隊全体が落伍する恐れもあった。何しろ7月の湖南省は暑いのだ。ともかくも何とか用意した担架の数は40、それ以上はとても無理。これでも160人の兵員が必要だからだ。結論として担送患者40人、残りは全部護送患者となる。時に町田正司氏の戦記によると、この4日間の戦闘で将校6名、下士官7名、兵25名の戦死者があった由。戦傷者がどのくらいか、正確な数字を私は知らない。この戦闘のことを老八房・曹家尖の戦闘と呼称するそうだ。

 当時の戦況をもう少し説明しておくと、7月7日に渡河した地点の前方1ないし2キロの台地に敵は陣を張っていたらしい。台地までは水田が広がっていて、季節柄稲が50センチ前後まで生育していたが、そんなものでは遮蔽効果は不十分、この起伏のない水田地帯を前進しようとする日本兵は敵陣から丸見えで、いかにも地の利が悪かった。しかし日本軍の歩兵としては敵陣に突っ込んで白兵戦に持ち込むのが任務だったから、地形の不利を理由に尻込みするわけにはいかない。したがって支駐歩一聯隊は敵が照準を定めて待ち構えているポイントを駈け抜けて敵陣に突入するという危険な戦闘を始めたのであった。
 この戦闘の兵士たちは特別に志願した特攻隊員ではない。指揮官の「攻撃前進」という命令に対して、勇敢にも死地に飛び込んでいった一般の兵たちだ。彼らには後々ただ一片の栄誉の沙汰もなく、また語り継がれることもないままに、唯々死んでいったのである。これでは師団の衛生部員や衛生部隊がどんなに忙しく立ち働いても間に合うはずはなかった。

 患者を担送しながらの渡河は言語に絶するものだった。護送患者は最後尾についた。私と下士官数名が護送に当たった。渡河して敵の反対側の岸に移ったら、頭上を飛ぶ流れ弾がほとんど嘘のように無くなった。4日間聞き続けた「ヒューヒュー」いう弾丸の飛ぶ音が無くなったら、頭がスーッとして耳鳴りが止まったような按配だった。
 と言っても、戦闘がまったく止んだわけではない。砲声銃声は絶えず聞こえていた。耳を澄ませばそれは1ヶ所ではない。前にも横にも後ろにも四方八方から聞こえるのである。つまり敵の居場所を特定することは不可能で、いつ敵が射ちかけてくるか分からない。その中を野戦病院は担架を担いで行軍していたのだ。当時の日本軍の状況は皆目不明だったが、戦史によると、7月11日は難攻を極めた衡陽に対して我が軍が第二次総攻撃をかけた時期に一致している。したがって周辺地区の敵軍が日本軍に対して猛烈な反撃に出て、衡陽防衛の一助を担っていたらしい。もう一つ、戦史からの私の推量であるが、我が師団の最初の渡河は萍郷(有名な無煙炭の産地で、日本軍は「へいごう」と呼んでいたが、中国語は「ピンシアン」である)に向かうはずだったが、敵の反撃で行き先を醴陵に変更したのではないか。地図を睨んでその後の師団の行動を考えるとそう思えるのだ。

 途中、王仙に3日ほど宿営する。景色の良い平和な佇まいの部落だったが、宿営の内容は記憶がない。醴陵まであと15キロくらい手前であろうか。いよいよ醴陵だが、歩兵部隊が戦闘で難渋しているようだ。銃砲声が激しくなってきていた。

 7月16日発進。相変わらず散発的ながら流れ弾の音。この日も暑かったせいか、護送患者の疲れも段々目立つようになった。例によって私と数人の下士官が最後尾について患者の脱落を防いだ。2回目か3回目の小休止の後、一人の護送患者の足が止まった。
「どうした。」
「もう歩けません。」
「ここに止まってどうする。担架もないし頑張る以外ないではないか。」
下士官が元気づけるが、足はトボトボとやっと。腕を取って支えても駄目。
 ちょうど悪いことに前方100メートルほどに小高くなった所(高さ10メートルもない)があって、道路はこの岡を越えている。部隊の後尾が間もなく岡を越えて視界から消えた。心細いのは患者だけではない。護送の我々だってこんな所に取り残されたら大変なことになる。皆で声を励まして引っ張るようにやっと岡の上まで来た。
 岡に立って向こうを見ると、部隊の後尾はもう5〜600メートルも先を歩いている。その先約1000メートルほどの所に大きな森があって、部隊の先頭は森の中に入ってしまっている。これを見て、患者は「軍医殿、休ませて下さい」と言いながら座り込んでしまった。部隊の姿はいよいよ森の中に消えていこうとし、森の向こうに激しい銃声が響いている。
 「さあ、行くぞ」の掛け声に患者はガックリ首を垂れた。それからおもむろに横になった。すでに瞳孔は散大していた。かわいそうに。最後に何を見ていたのか。

   今生の 末期を過ぎる 夏の雲

どこの部隊の兵だったのか。何という名前の兵だったのか。私は今も判らない。たとえ御遺族が判ったとしても、こんな話は出来たものではない。戦場だから人の死に遭遇するのは珍しくはなかったが、この情景だけは六十年を経た今日でもはっきり脳裏に焼き付いて忘れたことはない。
 死体は道路に放置するわけにはいかない。また歩兵と違って軍医や衛生下士官は円匙(スコップのこと)も持っていないので、穴を掘って葬ることも出来ない。せめてものことに畑の縁のくぼんだ所を見つけ、付近の草木を掛けて遺体を隠した。

 さあ、行こうと思ったら、中島卓麿伍長(長崎県出身)が「アッ、遺骨」と言って死者の小指を切断し、大切に上衣の物入れに収めた。せめて遺骨だけは国に帰り着いたろうか。それが終わると我々は部隊が消えた森に向かって走り出した。あんなに必死に走ったことは後にも先にもない。銃声が気のせいか四方から聞こえるようだ。走って走ってもう走れないほどに走った頃、1人の下士官が言った。
「森の中に馬がいる。」
よく見ると他にもいる。人もいる。森まであと200メートルくらいまで来ると、部隊が森に遮蔽して休止しているのが分かった。やっと駈け足をやめた。息が弾んで苦しい。

 森に着いて分かったことは、部隊が我々を待ってくれていたわけではなかった。前方が戦闘になって歩兵も通れないらしい。隙を見て強硬突破するとのこと。1ヶ所うんと危ない場所があって、そこは三々五々各個前進で走り抜けるそうだ。冗談ではない。歩兵なら出来るかも知れぬが、野戦病院が担架を担いでそんなこと出来るわけがない。結局、暗くなってから行くかの話もあったが無理。一晩森の中の汚い小屋で過ごす。朝になって出発。歩兵の働きのお蔭で一応難なく通過できたと思ったらすぐ醴陵の街。7月17日の朝だった。


第9章:醴陵野戦病院、武運長久

 醴陵の街はロク水を挟んで南北二つに分かれている。二つの街を結ぶ橋の真ん中に中洲があって、中洲に立派な教会の建物があった。また株州から萍郷を経て南昌に通ずる淅
カン鉄道があるはずだが、地図ではあるはずの鉄路と覚しきものは影も形も無かった。

 さて野戦病院は街の南の端で田圃に面して見通しの良い所に場所を構えた。野戦病院は7月7日から10日までの戦闘の負傷者を多数連れていたし、また第二十七師団の前の通過部隊第三師団がここに第二野戦病院を設置して収容していた多数の患者を残して前進して行ったので、これらの患者もすべて引き受けることになった。発着部の話によると、患者総数は500余名だそうだ。
 そうだ、などと大変曖昧で申し訳ない次第だが、現在の日本の大病院が一つの大きなビルに入っていてすべてをコンピューターで管理しているような、そんな病院を想像して貰っては困る。一軒の民家に患者10名からせいぜい20名宛て収容していくのである。街中広範囲に病室が点在して、部屋割りを決めた下士官や兵に案内して貰わないと病室にも行けないのである。現代の社会の常識からすると、病室回診というよりは往診といった感覚になるのである。したがって発着部関係者以外は全体の患者数を把握していないのである。
 7月18日、醴陵野戦病院開設。師団の各部隊は患者を病院に入院させ、身軽になってこの街から攸県、茶陵方面に出発して行った。

 この後、私には地獄の一週間が待っていた。17日醴陵到着と同時に下痢が始まっていたが、ちょっと腹をこわしたくらいに思っていたら、一日に何回も下痢がある。おまけに左下腹痛もある。翌日も下痢は止まらないばかりか、便を見ると鮮血を混じた粘液が大量に出ている。ついにやられた。アメーバ赤痢である。部屋に帰り軍医携帯嚢を覗くとエメチン注射液が一本残っていた。これを注射するが一本で治癒するわけがない。検便しなくともアメーバ赤痢は確実だ。薬剤部にエメチンはないかと訊くと、補給が無いのにそんな薬あるわけないだろうと薬剤官の御託宣。特効薬エメチンが入手できないとあれば、もはや運を天に任すしかない。(註:アメーバ赤痢は劇症型の場合は腸管全体が壊死になって、手術をしないと命にかかわる。)

 発病5日目の21日頃には頬はげっそりとこけ、平常は不恰好なほどに太い下腿がすっかり細くなって歩行もよろめくようになった。さらに具合の悪いことに、この日の昼前頃からゾクゾク寒気が始まって、やがてそれは典型的なマラリア発作の悪寒戦慄となった。早速キニーネ、プラスモヒンを服用したが、薬が瞬間的に効くわけもない。マラリアの発熱時は物凄い気分の悪さがあり、この気分は経験した者でなければ分からない。
 やっと耐えていると急にあたりが騒々しくなった。空襲である。皆早々に屋外に退避してしまった。私も退避しなければと立ち上がったが、すぐつまずいて倒れてしまった。そばに当番兵の神谷君がいた。
「軍医殿、無理ですよ。私も一緒にいるから休んで下さい。」
そう言って押さえられてしまったが、神谷君のこの一言で勇気づけられ、この三重苦の時を切り抜けたのである。感謝しています。

 翌々日、もう一回マラリア発作に見舞われたが、これで今回の発作は終わった。一方、アメーバ赤痢は1日3〜4回と下痢の回数も減り腹痛も取れたが、この下痢は慢性化して復員するまで続いたのである。こうして一応両疾患とも小康状態になったが、とてもゆっくりと病み上がりで寝ていられるような状況ではなくなっていた。醴陵の街が敵の攻撃で危機に瀕していたからである。

 始まりは私がマラリア発作を起こした21日から6日間続けてP-51戦闘機5〜6機による連日の爆撃である。目標は街の南北をつなぐ橋梁であったらしい。6日間で延べ約30機が来襲して橋梁爆破を試みた。だが30発の爆弾が一発も橋に当たらなかった。これで敵さん諦めたかと思ったら、28日朝になって市街の一角に火災が起こったのを合図に、街を取り巻く周囲の丘陵に激しい銃声が起こった。一向に止む気配がない。

 真偽とり混ぜていろいろな情報が流れてくる。まず薜岳麾下の一個軍団が街を完全に包囲し、街の治安維持会長が拉致されたという。住民を一人も見かけない街に治安維持会があったとか、会長が拉致されたとかいう話は本当とは思えないが、完全に包囲されたのは本当らしい。この事件の数日前に師団の各隊はこの街を出て行ってしまったのである。街には野戦病院と入院患者500名と警備の一個大隊だけが残っていて、実はその大隊(支駐歩三、第三大隊、小高少佐指揮)も総勢300余人に過ぎないという。これは本当だった。また小高大隊から聞いてきたという話の内容が物騒なものだった。大隊から師団司令部に状況を打電したら、返電の最後に「貴隊の武運長久を祈る」とあったそうだ。先任の軍医の誰かが言った。こんな場合の武運長久を祈るという言葉は、援軍は送らない、最後の一兵まで戦えということを意味しているのだそうだ。私は初耳だったが、状況から察すれば真を穿った話だ。

 味方も本腰を入れて応戦し始めた。日本軍の重機関銃の音は分かる。敵も迫撃砲を撃ち始めたが、これは始末が悪い。一度空高く打ち上げられた砲弾が真上から「ヒョロヒョロヒョロ」と変な音を立てて降ってくるので、小銃弾のように地形地物を利用して避ける方法が無いのだ。おまけにどこを狙っているのかさっぱり予測できない。だがそのうちに対処法としては家の中に居るのが一番だということになった。迫撃砲弾は瞬発信管を使っているので、屋根に当たるとその場で破裂して屋内には大した被害を与えないのだという。

 夜は一応迫撃砲は止むが、今度は夜間の守備面で歩哨の不足という重大な欠陥が生じた。そこで小高大隊長から病院に要請があって、比較的症状の軽い患者を歩哨に立たせて欲しいとのこと。本来ならば無理な話と断わるところだが、歩哨線が抜かれて敵軍が突入して来れば、守備隊も病院も玉砕しなければならぬかも知れぬ。この要請を受けざるを得ない。病院本部から私の所へも受け持ち患者の中から何人か人選して出せと命令してきた。患者を中庭に集めて状況を説明し、一応患者の希望も聞く。二つ返事で引き受けた者は一人もいない。あそこが痛い、下痢をする、疲れて立っていられない……等々。私自身も今や患者であるから話はよく分かるが、戦争とは酷なもので命令の頭数だけは出て貰わねばならない。頼むようにして押し出した。復員で内地上陸時に後々のためと思って残したメモによると、500人の患者の中から150人を選んだとある。医者にとっては良心の痛む作業だった。

 翌朝になって歩哨の勤務を終えた患者が報告にきた。状況を訊くと、敵は夜になると歩哨線に向かって突撃してくると言う。「それでどうした」と訊く。敵は50メートルほど手前まで来て手榴弾を投げて逃げましたと言う。そして「軍医殿、お土産です」と不発の手榴弾を置いていった。同じ事は次の晩も次の晩も幾日か続いた。その度に敵の様子を訊くと、手榴弾を投げるだけで、日本軍の突撃のように突っ込んでくることはないという。
「向こうは日本軍との白兵戦は嫌いのようです」とのこと。病中にもかかわらず警備についてくれた傷病兵の中から戦死者が出なかったことは実に幸運であった。ホッとしたのは言うまでもない。8月中旬に入って敵の射撃は当初のような激しさはなくなってきたし、また夜間の突撃も規模が小さくなったようだった。

 私の病気も症候的には軽快して(本質的には治療薬が無いから完全治癒になることはないのだが)、少しは部落の外へ足馴らしに出て歩けるようになった。実はこんな時期に戦争、戦闘とは関係ないのだが、精神的に不思議な経験をした。母の夢を見たのである。しかもそれが白装束で夢枕に立ったのである。お互いに何も言葉は交わさなかったが、ハッと目が覚めた。米軍機の飛行音が遠くに聞こえていた。そう言えばこの作戦に出る前、どこかの地点で受け取った兄の手紙に母の病気を知らせてきていた。たぶんそれが心に引っ掛かっていたのだろうと思ったが、あまりにも現実味を帯びていてゾッとするような内容の夢だった。私はこの日付をしかと心に留めた。後日談になるが、復員帰宅して元気な母の姿を見た時、すべてが吹っ切れて今では日付も失念した。だがもしあれが正夢だったら私は今頃熱心な新興宗教の教祖になっていたかも知れない。

 雑談はさておき、せっかく野戦病院の話をするからには他の方々の戦記にはあまり書いてない衛生学的な話をしよう。醴陵を守備してくれた小高大隊が300余人にまで落ち込んでいたことは既述の通りだが、では原因は何か。戦死(弾に当たって、後送治療の余裕もなく直ぐに死ぬこと)だろうか?戦傷死(戦闘手段で負傷し、時間を経て死ぬこと)だろうか?実は戦闘手段によって命を落とした人は意外に少なく、大部分が戦病死なのだ。では病気は何か?マラリアとアメーバ赤痢がほとんどである。これらの病気は、既述の淅
カン作戦のところで述べたように十分予想出来たはずであるが、軍が予防のために兵に支給したのは、防蚊蚊帳と称して蚊帳地で出来た頭巾(頭だけに被る袋)と、これを塗ると蚊が来ないという防蚊液と、予防内服用のキニーネ数週間分。以上はマラリア対策用で、アメーバ赤痢予防に対しては文字通り処置なしであった。アメーバ赤痢治療用のエメチン注射薬でさえ軍医1人に1〜2本渡っただけだ。これらのうち多少でも有効だったのはキニーネだけだったが、長い作戦に後の補給がなければ無いに等しい。防蚊蚊帳などは被って寝れば睡眠を妨げ、行軍の疲れを癒すことも出来なくなってしまうので、これも無用の長物。兵隊たちはすぐ捨ててしまったようだ。

一部に汚物や寄生虫関係の凄まじい描写があります。そういう話の苦手な方々は絶対に読まれない方がいいと思います。お読みになる方はここをクリックして下さい。お読みにならない方はこのまま先へお進み下さい。

 8月も末になって敵の射撃はピタリと止まった。敵は撤退したらしい。そして味方の後続部隊が援軍として来るらしい。また後続部隊は兵站病院を連れていて、我々の患者を引き受けてくれるらしい。いろいろ嬉しい噂が流れ始めた。8月30日頃、噂どおりの後続部隊が醴陵に到着した。我々は師団の本隊に合流するためにまた行軍となる。私個人としてはまだ体調不充分。まだ痩せたままだし、しばらく歩くと息切れがする。体馴らしのために街の周辺を歩いてみる。

 約1ヶ月の包囲が解けた9月に入ったある日、街の南の端から一面に田圃の見える所へ行ってみた。田圃には稲の立ち枯れで出来た例の正円形の穴が多数あいている。1ヶ月前にこの街に来た時には何も無かったはずだ。私の体調を気にして一緒に付いて来てくれた衛生兵と共に田圃に下りてみた。街外れと敵の迫撃砲陣地のあった丘との中間くらいの地点に、さらに一段と大きな穴があった。覗くと2体の骸骨があった。そうか、敵はこんな近くまで攻め込んできていたのか。今更ながら危なかったなと思う。この2体の骸骨の間には機関銃(チェコ機銃ではない)とドングロス一杯に詰め込んだ弾薬が放置されていた。敵軍はこれを回収しないまま撤収したらしい。私は連れの兵と手分けしてこれを頂戴して帰ってきた。

 さて部隊は皆衛生部員ばかりでこの機関銃を持て余したが、行李の小隊長の野中曹長はさすがに兵科だけあって、2〜3日いじくっているうちに使えるようにしてしまった。名称はマドセン銃だそうだ。その後この銃は部隊で持ち歩いたが、部隊の性質上戦闘に使用する事はなく、マスコット的存在に終わったようだ。

 9月12日、小高大隊の護衛を受けながら醴陵を発進した。湖南省醴陵県醴陵という街は私の一生に深い印象と記憶を残した。私は本当によくぞこの地で命を落とさずに済んだものだ。つくづく運命の不思議を噛みしめている。はたまたこれを神仏の加護というのか。

(註:この時の後続として醴陵に到着した部隊に所属しておられた方の御子息からメールを頂き、周辺の事情が少し判ってきたので追記しておく。その方は徐州にあった第六十五師団・第七十一旅団・独立歩兵第五十七大隊所属で、この大隊は昭和19年6月に岩本支隊に編入、7月23日に醴陵に急進すべき軍命令を受領したとのこと。文中では8月30日頃に到着となっているが、部隊の先頭は8月20日到着、集結完了は8月26日だったそうだ。この辺の事情を見ると、「武運長久を祈る」は必ずしも「援軍は送らない、最後の一兵まで戦え」ではなくて、軍の上層部は早急に醴陵救援の手を打っていたことが窺える。しかしこの方の部隊も、これに先立って8月中旬に醴陵に派遣された第二野戦補充隊ともども相当の被害を出す大苦戦の末に醴陵への活路を開いたとのことである。長男記)


第10章:攸県野戦病院

 醴陵を出発以来、約10日をかけて攸県に到着した。途中、黄土嶺(現地の立て札には皇図嶺とあった)では周辺の敵情悪く4〜5日留まった。歩兵部隊は寡兵よく応戦して進路を開いた。攸県到着9月22日。攸県は
メイ水の右岸(北側)にある。到着後2〜3日は各部の宿営割り当てや病院開設に当たっての病室確保で忙しい思いをする。

 私の健康はいかにと言うに、醴陵攸県間約80キロあったが、行軍の方は落伍しないで歩き通した。もっとも一日何回かの下痢は続いていた。一日行軍して大汗をかいた後の宿営地では下痢がピタリと止まり、腹の痛みも不快感もなくなって全快と錯覚させるほど気分が良くなるのである。たぶん脱水症状が下痢用の水分まで汗にしてしまったのだろう。夕食、水分補給そして就寝するが、明け方になるとゴロゴロ腹鳴と共に下痢の前駆症状が始まる。そして下痢。この状態は復員するまで続いた。検査はしていないが慢性アメーバ症である。まあ、この程度のことで行軍を無事に乗り切ったと思ったら、攸県到着の3日目、またもやマラリア発作に襲われて4〜5日休む。軍医が病気では体裁悪いが、ここまで来るとまったく元気という人は20名の軍医のうち数名に過ぎない。

 調子が悪いといってそうそう寝てはいられない。少し良くなると病室に回診に行く。ここ攸県では醴陵病院の時とは患者の様子が一変していた。もちろんアメーバ赤痢、マラリアは私同様、まったくの初感染という人は少ない。だが4ヶ月あまりの戦闘の疲労も重なって皆痩せ衰えている。たまに痩せていない者がいても、よく見ると浮腫である。脚気症状も顕著である。戦場の衛生管理が悪くなったので皆虱がたかっていた。

 昭和17年の淅
カン作戦の折、「戦争栄養失調症」なる病名を発案した派遣軍軍医部の事情もよく分かるのである。医学論議は別として、衰弱患者が増えたことは事実だった。
 ある日一つの病棟の診察を終えて帰途につくと、診療助手を務めてくれた衛生下士官が言う。「軍医殿、あの何某という患者は明朝死んでいますね。」「何故」と私は訊いた。
「今見ていたら、あの患者から虱がどんどん這い出して両側の患者の方に移動していました。先日も同じような事を見ましたが、虱に見放されたら人間もお終いですね。」
なるほど鋭い観察力。ずばり患者の体温下降を暗示していた。今日現代の医療なら別に問題とするほどの症状ではないかも知れぬが、点滴はおろか生理食塩水注射も何も出来ない状況では。止むを得ないとは申せ、御遺族の心中を察すれば言葉も無い。現在の医療施設で同様の事が起これば間違いなく医療事故として厳しく糾弾されるであろう。そもそも基礎疾患であるマラリア、アメーバ症の段階でしっかり治療できる薬品の準備や体制があれば、これほど悲惨な結果をもたらさなくとも済んだのではないか。元を糾せば補給を怠った作戦に原因があるのではないか。

 陸軍にはもともと歩兵が一番偉いという思想があって、歩兵科でないと陸軍大将になれないという伝説まであったようだ(もちろん実際にはそうではなかった)。真っ先駈けて命を捨てる立場から、歩兵でなければ兵に非ずとまで思い込んでいた人もいたらしい。この思想の裏返しが、輜重兵すなわち補給部隊の軽視につながったのだろう。

   輜重輸卒が兵隊ならば 蝶々とんぼも鳥のうち

という戯れ歌が昔からあって、今次戦争中までもこの歌を口にする者があった。物資を大量に消費する近代戦をまったく理解していなかったものと言わねばならぬ。

 もろもろの要因が重なって不運にも栄養失調状態になった兵は、藁や戸板を敷いた名ばかりのベッドに寝かされた。蝿や蚊や虱に悩まされながら、顔の浮腫が引いた時には息も絶えていた。隣りに寝ている患者にも気付かれぬほどひっそりと死んでいった。

 病室、病人の話はこれ以上書くに忍びない。とても書けない。そんなこんなで攸県に滞留すること一ヶ月余り。気候もそろそろ涼しくなり始めた11月初め、初年兵受領のため漢口に出張せよとの命令を貰った。兵隊を受領するという言葉は、まるで兵隊を品物と取り違えているようで不思議な感じがした。

 この後、第二十七師団はさらに遂川、
カン州、信豊に転戦して、これらの方面に点在する在支アメリカ空軍基地の覆滅に当たったらしいが、私は終戦まで第二十七師団の本隊とは別行動となったため、これらの作戦については実際に体験していない。ちなみに言えば、アメリカ空軍が日本本土空襲の基地として利用できないように、これら中国奥地の飛行場を奪取することもまた一号作戦の目的の一つであったが、太平洋方面でマリアナ諸島が陥落したために、本土空襲阻止の目的は水泡に帰したわけである。


第11章:出張、初年兵受領

 初年兵とは昭和19年度の入営兵であった。内地の兵営はもはや米軍を迎え撃つ準備に手一杯で、初年兵を教育していられる環境ではなかったようだ。初年兵たちは兵器も持たずに丸腰で戦地に送られて来たらしい。その新兵たちが漢口周辺の部隊に分散して教育を受けているという。その後第二十七師団各隊に配属されるわけで、かなりの人数になるらしい。

 さて11月10日の出発の朝、所定の集合場所に顔を出す。受領隊の責任者は支駐歩第二聯隊の金井中尉で、総員約50名、その半分は将校である。金井隊長の顔合わせの訓示も、敵襲を受けた時の注意が主なものであった。曰く、
「この隊は将校が多いため小銃の数が少ないので、襲撃されたらひとたまりもない。将校は佩刀を小銃のように肩に担いで擬装して欲しい。特に衡山に出るまでの山道約50キロは要注意である。」
初めから物騒な話だったが、実際に行動を始めてみると何事もなく、戦争さえ意識しなければまるで遠足みたいなものだった。悩まされたのは敵ではなくて、またもや虱であった。この頃には全員がやられていて、大休止ともなると皆上衣やシャツを脱いでプチンプチンとやっている。将校の品位だの矜持だのと言ったって虱にはとても勝てない。我慢していると今度は背中をゴソゴソ這い回るので、くすぐったいやら痒いやらまったく始末におえない。

 かくして2日(または3日)行程で衡山に着く。衡山は中国において五嶽の一つと称えられる風光明媚の地で、蒋介石の別荘のあった所という話も伝わってきた。それはさておき、衡山は揚子江四大支流の一つである湘江が南から北に向かって流れる水上交通の要路であると同時に、粤漢線や南北を結ぶ軍公路が通過する要衝であり、また日本の衡陽攻略軍が大挙して押し通った通路でもある。日本軍は勝ったとは言っても、ただ単に点と線を占領したに過ぎないとはよく言われていたが、衡山一帯ではそのことを如実に見せつけられることとなった。この辺の鉄道や軍公路は湘江の作った谷間を通過しているので、道路の両側には山が続いている。そして両側の山の稜線には一定間隔で敵の歩哨の姿が見えているのである。射撃をしても命中しない程度に距離を取っている。これでは日本軍の行動はまったくの丸見えである。屈服したのではないという中国側の強固な意志を見せつける不気味な示威行動にも思えた。

 我々はこの湘江を北上し、たぶん(記憶が不十分)長沙のあたりから列車輸送となり、漢口に着いたのが12月2日であった。道中は交通機関の利用が多かったせいで、行動中の苦労の印象が少なかった。したがって記憶が薄いのである。人間楽をすると物憶えが悪くなるらしい。
 途中が楽だったせいで部隊行動の記憶はないが、軍事を離れて強く印象づけられたのは、衡山からたぶん長沙までだったが、その間の船舶輸送だった。船は50余人が一斉に乗れるほど大きなものではなく、サンパンと呼ばれるジャンクを一まわり小さくしたような帆掛け舟である。1隻に2〜3人宛て分乗して、舟団を組んで河を下った。空襲を避けるため夜間行動し、昼は最寄りの岸辺に舟を着けて上陸休憩する。食料は米を渡すと船頭が炊いてくれた。その飯の炊き方が日本人のとは違うのだ。船内に煮炊き用のコンロ(あちらでは何というか知らない)があって、これで平たい支那鍋にお粥が出来るほど多めに水を入れて米を炊く。沸騰して米が煮えた頃二〜三粒掬い上げて食べてみる。米が煮えていたら上澄みの重湯を別の容器に空けて、あとは蒸らして出来上がりである。あとは湯(スープ)を作って飯にかけてサラサラと食べるのである。最後に一番面白いと思ったのは、先ほど取っておいた重湯に少量の砂糖を入れてデザートよろしく飲むわけだ。あちらの水上生活者の風俗が垣間見えた船旅であった。湘江にゆかりの屈原の故事も偲ばれる思いで印象に残っている。

 さて漢口に着いた初年兵受領隊は漢口に待機しているはずの初年兵を受領したなら、すぐにまた南下して本隊の第二十七師団に合流するものと思っていた。ところが初年兵は内地で入隊と同時に戦地に送られ、兵としての教育が何も出来ていない。まだ軍人として使い物にならない状態で送られて来ていた。それで当地(戦地)で第一期教育を施行中だから、連れて帰るのはちょっと待てということだ。いつまで?来年の1月一杯は駄目だとのお達し。じゃあ一体初年兵はどこに居るのか?第十一軍(漢口)管下の各部隊に分散しているから受領隊は手分けしてそちらまで迎えに行って、そちらで時期を待てとのこと。まず受領とはもっと簡単なことかと思っていたら、えらい気の長い話になったもんだ。

 とどのつまり私は輜重兵聯隊の陸軍中尉金津元夫氏(陸軍士官学校56期、三重県出身)の指揮下に入って鴉鵲嶺という所へ行くことになった。鴉鵲嶺とはどこかと思ったら、宜昌(当時日本軍の対重慶最前線)の東側手前約25キロの所にあった。その辺は広島編制の第三十九師団の守備地区で、司令部の当陽はさらに後方25キロにあった。こんな第一線に近い所で初年兵第一期教育を実施するのかと一驚を喫した。当陽というのは三国志の英雄関羽が近くを流れる沮河のほとりで首を刎ねられた所である。昔の呼び名は臨沮すなわち沮河のほとりという意味である。近くに関羽の胴体だけを葬った玉泉寺がある。首は洛陽に葬られているとのこと。

 漢口から孝感まで列車(出発は12月5日)、その後はトラックの荷台に乗せられて応城(12月8日)、沙洋鎭(12月9日)経由で、司令部のある当陽には12月10日到着。自動車輸送は早い。当たり前だが、250キロをわずか5日で走破。現在ならせいぜい3時間くらいのはず。
 司令部で申告。すると君達の行く鴉鵲嶺はまだ25キロも先だと言う。まるで子供の時に読んだ「母を尋ねて三千里」みたいな話になってきた。鴉鵲嶺という所はその名の通り「カラス」と同じくらい「カササギ」がいる。カササギは一寸見にはカラスと区別がつかないが、首のところにツキノワグマのような白い輪があって、「カーカー」鳴く鳥である。鴉鵲嶺に着いたら、私だけは金津中尉と別れてもっと先の大山廟という所まで行ってくれとのことだった。ここでやっと出張は行き止まりとなった。折から12月に入った大山廟は周辺一面が枯草で覆われ、荒涼として寒かった。
 初年兵教育は寄宿先の部隊が引き受けているので、我々は何もすることが無かった。正月になっても餅も御馳走もあるわけでなく(そう言えば酒を少し飲ませて貰ったかな)、1月一杯ひたすら待って1月31日出発。今度は兵員数が多いので自動車輸送はなく行軍であった。2週間の行軍の末、2月14日漢口着。


第12章:追及隊

 漢口では原隊の第二十七師団に手ぶらの兵隊を連れて行っても戦力にならない。聞いたところによると、この初年兵軍団は内地を出発する時は手ぶらで、現地へ行けば兵器はいくらでもあるからそちらで受領せよということだったようだ。なるほど戦地では戦死した兵の使用していた銃や銃剣を持て余していたはずだ。醴陵野戦病院を閉鎖する時も、束ねた小銃を後送する光景を見ている。いずれにせよ内地には個人携行用の兵器さえすでに無かったようだ。それにしても軍は未教育で丸腰の兵隊を多数戦地に送り出して何をするつもりだったのか。戦争の結末をどうつけるつもりだったのか。まったく常人の理解を絶する脳構造と言わざるを得ない。60年前の話を一々憤慨しても始まらないが。

 さて初年兵たちも装備一式に身を固め、また送り込まれる部隊ごとに編制されて出発の準備が出来た。そしてこの一隊を、正規の名称かどうかは分からないが追及隊(本隊の進軍に追い付くの意か)と呼んだ。この追及隊は、病気で後送されて再び元気になり本隊に復帰する兵も途中で拾い上げていった。特に長沙ではそういう兵が多かったようだ。私の場合はまた金津中尉の輜重隊と同道することになった。

 昭和20年2月26日に漢口を発し、衡陽に到着する4月18日まで戦闘は無かった。この間の兵站線は一応確保されていたわけだ。また季節柄もあって蝿や蚊に悩まされることもなく、もちろんアメーバ赤痢やマラリアの新しい感染者はいなかった。しかし兵一般に体力の低下は覆うべくもなく、また初年兵はまだ十分に鍛えられていないので何となくひ弱に見えた。何より驚いたのは、初めて彼等の顔を見た大山廟で「彼等は昭和生まれ」と聞かされたことだ。昭和の子供まで兵役に就くのかと胸の痛む思いがした。私とてもそれほど年長者ではないのだが、未教育のまま戦地に投入された彼等にはまだ幼顔が残っていた。これら精鋭とはとても申せない部隊の隊付き軍医のような形で金津中尉の指揮下に入った。

 武昌と仲狄(武昌と岳州の中間:1972年新興出版公司の中国地図には中
テキ舗とある)は列車輸送で、残りは徒歩の行軍となる。しかも衡陽には本隊は無く、さらに南の来陽という所にいるらしいとの情報もある。また本隊はさらに前進の可能性があり、居るか居ないかは行ってみなくては分からぬとのこと。町田氏の戦記によると第二十七師団はこの時すでに発進して遂川からカン州に進撃していたらしい。要するに我々は何も分からずに行軍したが、どこまで行けば原隊に追い付くやら皆目分からない。目的がはっきりしないと兵の士気にも影響するのである。かくして長沙に到着したのは4月3日であったが、この辺は南の衡陽、広東、桂林へ通ずる幹線道路でもあり、前年の日本軍作戦の重点指向正面であったために、軍公路の両側は墓標の列が続いた。一体どれほどの数だったのか一々数えて歩いたわけではないが。まだ真新しい白木の柱に書かれた官等級氏名が眼を射る。

 長沙に4日間宿営中に、病気回復者の他に病馬廠を退院(馬の場合の用語を知らない)した馬2〜3頭を加えて衡陽に向かう。この馬で私は恥ずかしい失敗談がある。失敗という言葉は、本当は知っているはずなのに間違う事を言うが、この時の私の場合は最初から馬の事には皆目無知であったので、厳密な意味での失敗談とは言えないかも知れないが。

 長沙の病馬廠から戻った馬のうちの一頭はもちろん金津部隊長が乗った。そして別の1頭の馬を指して隊長が言うには、
「軍医さん、この馬に乗れよ。まさか軍医さんを歩かせて下士官を馬に乗せるわけにはいかないからな。」
私は断わった。
「私は乗馬はおろか馬に触ったことも無いですから。」
ところが隊長は、「この馬なら初めてでも大丈夫」と仰る。傍にいた馬の係りの兵も隊長に続けて言う。
「この馬はおとなしいだけじゃなくて変な癖があるんです。この馬は絶対に一頭では動かないんです。必ず他の馬の後ろにくっついて歩く変な馬なんです。だから軍医殿、乗っても大丈夫です。」
この言葉を真に受けて、初めてながら馬に乗ったのが運の尽きだった。では、とばかりに乗ろうと思ったら、背の低い私にはアブミに足が届かない。仕方がないので足台になりそうな物がある所まで馬を引いて来て貰ってやっと乗る。周囲で兵隊たちが笑っている。初めて馬に乗った感想は、あまりに背丈が急に伸び過ぎて、おまけに馬の背中がこんなに丸くて広いものかと意外に思ったが、さらに悪いことに馬の首があんなに向こうの方に遠いものとは思わなかった。いざと言う時にかじりつく所が無いような気がした。その時は落ちるしかない。それでも何回か乗って高い馬の背にもだいぶ馴れてきた頃、事件は起こった。

 ある日もう宿営地に近づいて来た時、私の馬だけが突然小走りに走り出した。絶対に一頭では行動しないはずのその馬が隊列を離れて一頭だけで走り出したではないか。私は走る馬に乗ったのはこれが初めてなれば、落ちないようにと手綱を握るのが精一杯だった。何でも馬を止めるには手綱を引くのだと聞いた覚えがあるので(頼りない話)、試みに引っ張ってみたがまったく止まる気配がない。二度、三度、やっぱり止まらない。乗馬の術を心得ない人間の乗った馬が勝手に走り出したわけだ。それこそ「ノンキ節」の一節じゃないが、どこへ行くのか、「俺は知らない、お馬に訊いとくれ」の状態になった。
 この私を助けられるのは、やっぱり馬に乗っている隊長しかいないので後ろを向いたら、隊長は徒歩の行軍と一緒にポックリポックリと馬を歩かせているのが見えた。これは大変と遮二無二手綱を引っ張ったら、馬の奴、今度は道から直角に右に曲がって、軍公路を背にして田圃の畦道を走り出した。状況はますます悪くなった。日本軍の占領地は点と線のみ、このまま走れば敵地区に突入は間違いなし。
 ふと気付くと畦道の真っ正面に部落が見える。馬だって部落を跳び越えるわけはなかろう。何とかなるだろう。案の定、馬は部落に駈け込んで一軒の扉の開いた家に突入した。「アッ、危ない」私は思わず叫んで馬の背にしがみついた。すんでのところで鴨居に頭を打ちつけるところだった。馬の走る勢いで頭を打っていたら、脳挫傷くらいで済むはずもなく、こんな悪夢を見納めに一巻の終わりになるところだった。後ろを振り向いて鴨居の高さと自分の頭の位置をつくづく見比べた次第だ。

 この時、急に家の奥からこちらへ走ってくる人の足音がする。すわ、敵かと思ったら、「軍医殿、一人ですか。早いですね」と声を掛けられて、先ず深呼吸。同じ追及隊の某君だった(この方の官等級氏名失念)。某君は部隊の設営隊として先発し、この部落で宿営の準備をしていた。実はその某君は私の乗馬の世話係りとしてこの馬を大変可愛がっていたのだ。またこの馬が飛び込んだ家は馬用に某君が準備していた所だった。馬は鋭い嗅覚や勘で一キロも手前から自分を可愛がってくれる人間の存在を感知したらしい。
 馬と人間の愛情物語は高く評価するが、背中に乗せられた私としてはたまったものではない。手綱を引っ張ったくらいで言う事を聞かないわけだ。一部の女性をじゃじゃ馬と申す理由はまさにこの時に悟った次第である。そして私はこの馬を辞退した。数日経って衡陽に到着してからの話。馬に運動させると言って例の馬に乗って自由自在に走り回っている者がいるのである。もちろん某君であった。聞けば彼は元競馬の騎手をしていたそうだ。なるほど、事の次第がよく分かった。

 4月18日、衡陽着。市街は湘江の左岸(西側)にあるが、前の年の激戦(3回の総攻撃の末、3回目にやっと陥落させた)の結果、街は一部の民家を残すだけで破壊されつくし、見る影もなかった。街の南側に小高い山があり、ここに敵の主陣地があったらしい。山の西側に田圃があって、その田圃の二面ほどに埋立て作業でも始めたのではないかと思われるようにうずたかく積み上がった部分がある。近寄ってみるとすべてが白骨化した遺体であった。衡陽陥落後八ヶ月も経っているのに遺体埋葬もしていない。遺骨の状況からすると、まったく整理されて置かれた様子はなく、適当に積み上げてそれが白骨化したとしか思えない。到底丁重に取り扱われたようには見えない。誰を責めるべきかは知らないが、こんなに夥しい数の白骨を見たのは初めてだ。悲惨の極み、言葉にもならない。

 日本軍が多大の犠牲を払ってやっと手に入れた南方への兵站線もここ衡陽までであった。軍が作戦開始時に企図した成果は十分ではなかった。衡陽を起点として桂林へ行く鉄道にしても、湘江に掛かった鉄橋は真っ二つに折れて河に落ちている。折れた鉄橋の西側から一応鉄道を運行していたが、走っているのはトロッコにエンジンをつけた車輌で、到底列車とは言えない。衡陽到着から間もないある日、この列車で桂林方面に赴任する見習士官四人を駅まで見送った。この人たちは幹部候補生教育を受けて原隊に復帰するため、漢口から金津追及隊と同道したのである。彼等が列車(無蓋トロッコ)に乗り込んだら列車長の注意が始まった。
「この列車の通路は日常茶飯事に敵襲がある。乗車中の指揮は列車長がとる。射撃されても命令なく飛び降りてはいけない。飛び降りても列車は止めない。」
いやはや大変な列車旅行で、赴任する見習士官たちのこれから先の苦難が思いやられた次第であった。これでは兵站線を確保したとは言えないわけで、我々の目指す本隊のいる広東方面も同様に通行できなくなっていた。金津隊長が司令部で得た情報では、追及隊のような弱小部隊が単独で通行するのは不可能だからしばらく衡陽に待機せよとのことであった。

 衡陽に待機中、私も敵機の襲撃を受けて胆を冷やしたことがあった。桂林行きの見習士官たちを乗せた軽列車を見送った頃のことだったと思うが、追及隊の兵の一人が入院を必要とする病気(病名は記憶がない)になり、患者と警護の兵2名を引率して兵站病院に赴くことになった。湘江右岸の宿営地を出て渡し舟で河を渡り、対岸の破壊された衡陽の街を抜けて、桂林方面に続く田圃の中の街道を2〜3キロも歩くと小高い丘陵に突き当たり、街道は切り通しになっていた。その切り通しの向こう側の低地に、木々の緑で遮蔽された兵站病院がひっそりと建っていたのである。

 入院手続きを終えて、患者を無事に送り込んだ後は、一仕事終えてホッとした気分で帰途についたのであったが、この切り通しのちょうど中ほどにかかった時、突然、飛行機の爆音が近づいてきた。ワウワウワウと唸りを立てる金属音の爆音だ。ほとんど毎日のように街道上を蛇行しながら獲物を狙う定期便のP51戦闘機に相違ない。周囲を見回しても、遮蔽物はおろか草一本も生えていない切り通しの中である。これではすぐ敵さんに発見されること必定。さあ、大変。3人は一斉に切り通しの出口に向かって走り出した。もう少しで切り通しを抜けようかという時、左側の壁に何人か入れそうな横穴がある。「しめた!」。1人の兵隊が先ず跳び込んだ。私ともう1人も後から入り込もうとしたが、中は思ったほど広くないらしく、もう1人の背中をどんなに押しても私までは入れない。すると中の兵隊が悲鳴を上げた。
「軍医殿、もうとても駄目です!軍医殿は他を当たって下さい!」
他を当たれと言われても、戦後の芋の買い出しじゃあるまいし、都合の良い穴が他にあるものではない。爆音はますます迫ってくる。止むなし。急いで切り通しを抜けて田圃に駆け下りた。

 しめた。天の助け、あった、あった、ちょうど人が1人入れそうな竪穴があった。間髪を入れずに跳び込んで体を隠したが、遅かったか。見上げれば、敵戦闘機は私の隠れた場所を中心にして、頭上仰角30度くらいの高さで旋回飛行に入っている。危ない!飛行機からは旋回運動の円の中心付近が最もよく見えるのだそうだ。見つかったか。全身総毛立って身構えたが、次の瞬間、敵機は何を思ったか、反対方向に向きを変えて衡陽の街の方へ消えていった。穴ごもりされては撃っても弾丸の無駄と考えたのか。

 ああ、助かった、やれやれ。安心して大きく息を吸い込んだ途端、ギョッとなった。「何だ、この臭いは?」慌ててあたりを見回す。「アッ、しまった、ここは肥溜めだ」と思ってももう遅い。最近の人は肥溜めと言っても知らない人が多いだろうが、化学肥料が無かった時代は、どこの国でも農作物の肥料として人糞や家畜の糞を使用しており、農家にはそういう自然肥料を貯蔵するために肥溜めと呼ばれる穴が掘ってあったものだ。

 足元を見ると、踝のあたりまで汚物にもぐっている。空襲の恐怖が遠のくと同時に、嗅覚も戻ってきた。これはたまらん、早く出なければ、と焦るが、今度は汚くてどこにも手を掛ける場所がない。そこへ先ほどの2人の兵隊が、空襲も終わってのどかにやって来たので、さっそく手を振って「早く俺を引き上げろ」と怒鳴った。多少語気が荒くなったが止むを得まい。将校が先に逃げ隠れするわけには参らぬから、お前ら2人を先に退避させてやったのだ。お蔭でこんな目に遭ったが、将校の矜持とやらを守るためには臭い思いも我慢しなければならぬのか、と口には出せないが、プリプリしながらやっと引き上げて貰う。ところが「ヨイショ!」と這い上がった途端に兵隊たちは慌てて3〜4歩後ずさりした。そして言った言葉が気に入らない。
「でも軍医殿、足首までで良かったですね。」
馬鹿者、肥溜めが満杯なら誰がこんなところに跳び込むものか。俺だって歩兵の演習で、瞬間的に弾避けの地形を判別するくらいの訓練は受けているんだぞ。この腹立ち、将校たる身分の手前、口には出せない。畜生め。生命に別条なくて良かったと自らを納得させるしか方法はなかった。だがもし肥溜めの中で戦死でもしていようものなら、いくら名誉名誉と言われても成仏などできやしない。フン死である。考えただけでもゾッとする。

 いつまでも怒っているわけにもいかなかったが、取りあえず宿営地に帰るには途中に渡し舟がある。いくら何でもこの足では舟に乗せてくれないだろう。と言ってその場で汚れた衣類や靴を洗濯している場合でもなし、大体、手を触れるのもおぞましいではないか。さてどうしたものか。
 ふと街道の反対側を見ると、田の畦の向こう側に灌漑用の水路があるらしい。近寄ってみると、幅約1メートル、深さ約20センチの小川にきれいな水がサラサラ流れていた。中に入って足を振ってみると、汚物はたちまち流れ落ちた。うまくいった。今度は子供の頃に小川に魚掬いに行った記憶が甦ってきて、私は水の中を右に左に駆け足で走り回った。5分ほど続けたら、衣類の皺や縫目の中に入っていた汚物も手を使わずにほとんど取れた。これなら渡し舟も乗せてくれるだろう。かくして一応無事に宿営地に帰ることが出来たのである。

 宿舎に着いたら、私の当番を勤めてくれていた畑中長三郎君(奈良県出身)が話を聞いて、別に驚く様子もなく、「ああ、そうですか」と言って、いとも気軽に汚れた私の衣類や靴を全部持って行って洗濯してくれた。ちょうど母親が子供のオムツを洗うように。おまけに足を洗うための水まで汲んできてくれたのには本当に恐縮した。
 畑中君は衛生兵だったから糞尿くらいでは驚かなかったのであろう。むしろこんなことを騒いだ私の方が軍医としてはまことに恥ずかしい次第であったかも知れぬ。結局、どう考えてみても、あの場所、あの状況では所詮あのような結果になる以外にはなかった。そうだとすればやはり私にはウンが付いていたのだ。神仏の加護にしてはずいぶん臭かったが。


第13章:敗色 江作戦

 衡陽到着から約1ヶ月弱経ったある日(たぶん5月14日)、金津隊長が軍司令部に呼ばれた。私は追及隊出発の命令が出たと思っていたら、戻ってきた隊長の口から聞いたのは驚くべき命令のことだった。宿営地は隊長と相部屋だったが、二人きりの所で話し出した内容は、
「おいおい軍医さん、大変なことになっちゃったよ。
江作戦が失敗で日本軍が撤退しているので、我々は援軍として中間地点の宝慶(現在は圏zという)まで行かなければならなくなったよ。おまけに軍司令官から『貴官の武運長久を祈る』と言われたよ。悪いけど軍医さんも覚悟を決めて一緒に行ってよ。」
というものだった。他に誰も聞いていないし、また金津隊長とは正規の隷属関係もないので、こんな日常会話口調での話になったが、これは命令口調でガツンとやられるよりもっと胸に響いた。しかし軍隊ではこんな命懸けの仕事がいきなり青天の霹靂のごとくに突然舞い降りてくるところが凄い所だ。江作戦とは、我が軍の一号作戦で桂林や柳州の航空基地を覆滅された在支米空軍が代替基地として利用し始めていた内陸の江を攻略するために、新たに発動された作戦である。
江作戦と同時に計画されていた老河口の敵飛行場制圧は3月3日に行動開始、4月11日には目標が達成されていた。

 5月15日出発。衡陽から西へ250キロ、トラック輸送で5月17日宝慶着。戦後になって初めて知った記録によると、江作戦の開始は4月15日で、我々が衡陽に到着する3日前である。また江作戦中止が発令されたのが5月9日で、その数日後に我々の江作戦救援のための宝慶行きが発令されたわけだ。今だからよく分かるのだが、軍司令官の「武運長久を祈る」の言葉はこのような戦況不利を示していたのだ。醴陵で包囲された時にも「武運長久を祈る」の師団司令部電報の話をしたが、やはりこの言葉は「死ぬまで戦え」と同義語であることが分かった。また移動には徒歩で行軍するのを原則とした軍が、我々の移動になけなしのトラックを提供してたった3日で輸送したことは、戦況の逼迫を如実に証明していた。

 さて宝慶では何をしたかと言えば、ただ駐留していただけである。何も任務は無いようでも宝慶不測の事態に備えての予備隊であった。我々の宿営地は裏に小高い山のある部落で、平和そうな佇まいには見えるが人っ子一人見当たらなかった。

 こんな中で一つだけ衛生業務上の収穫があった。古沢衛生軍曹(漢口または長沙から追及隊に加わる)からある日、
「こんなに全員に虱がついては問題だから、これを撲滅するために全員の衣類を蒸気で蒸したらどうだろう。」
と申し出があった。とにかく虱というのは洗濯しても落ちないし、手で潰したくらいでは間に合わないほど夥しい数の卵を次々と衣類に産みつけるのである。私も古沢軍曹の話には原則的には同感だったが、そのような設備をどうするかを危惧した。古沢軍曹は自信があると言うので一任したところ、たちまち有り合わせの鍋だのガラクタ容器を集めて、立派なとまでは言えないが、虱くらいは十分に殺せる蒸気消毒器を作り上げてしまった。お蔭で部隊全員その日から虱に悩まされることもなく、その後もかなり長期間にわたって恩恵を被ったのである。

 6月に入り、遠くに砲声が聞こえるようになり、戦闘機による空襲もあるようになった。いやな予感がしていたら急に我々の隊は御役御免、急遽衡陽へ帰還の命令が出た。ただし帰りは徒歩である。ただ3〜4名ならトラックに乗れるとのこと。では軍医さんというわけで、2〜3人の患者の護送を兼ねて私が乗せて貰うことになる。

 6月10日出発。車上から見たものは三々五々喘ぐように撤退する敗残兵の列だった。昔は敗残兵というのは中国軍と相場が決まっていたが、今や目にした敗残兵は間違いなく日本軍だった。軍服は破れて、繕ってはあるが継ぎ当ての布が中国生地の紺の木綿だから余計に哀れが目立つ。中には支給の軍服はなくなって適当な中国服を着ている者もいる。それでも銃と剣だけは後生大事に担いで、足を引きずりながら歩くその姿は痛々しいの言葉だけでは言い表すことは出来ない。どこの部隊かと思ったら、これが嵐部隊(第百十六師団)らしい。我々追及隊が長沙のあたりを行軍中に立派な装備で隊伍も堂々と、我々を追い抜いて行った大部隊があったが、これが確か嵐部隊だった。が、2か月経ったこの姿。一体どうしたのか。記録によれば江方面は援蒋ルートを通じての米国の援助が行き届いた地区だったので、敵の装備も自動小銃、バズーカ砲と米国式になっていた。地の利に加えて圧倒的な火力の優勢は日本軍の及ぶところではなかったようだ。その結果がこの体たらく。6月12日、衡陽帰着。

(註:この作戦は支邦派遣軍唯一の屈辱的大敗北とされており、ビルマ方面のインパール作戦にも比較されるものである。しかし蒋介石軍の損害も意外に大きかったようで、余力があれば一気に日本軍を宝慶まで追撃するところを手前で停めた。もし宝慶が陥落すれば父も玉砕していたことであろう。またしても命拾いをしたのである。なお
江作戦については、小平喜一氏の『湖南戦記−知られざる日中戦争のインパール戦』が光人社NF文庫から再刊された中に詳しい。)


第14章:追及隊、回れ右 湖南進軍譜

 6月中旬に入ってやっと本隊の第二十七師団の消息が分かった。この時は来陽を発進して江西省
カン州あたりに居たらしいが、その後の行動の動静が分からなかった。しかし日本全体の戦局から見て急に浮上してきたのがソ連参戦の可能性で、これに備えて第二十七師団はこれより北上するというのである。我々追及隊も漢口まで再び北上し、その後長江(揚子江)沿いに九江の近辺で本隊に合流せよということになった。
 それまではどうすれば良いか分からない宙ぶらりんの気持ちでいたが、急に今後の行動が決まって身も心もシャンとする。軍隊という所は自分の正規の所属部隊を離れていると本当に心細いものなのである。6月18日、衡陽に別れを告げる。今度は2月26日に後にして来た漢口まで、もと来た道を逆に辿るのである。部隊も第二十七師団としてまとまった形での追及でなく、金津隊長の単独裁量により行動するので割に身軽でもあった。

 途中、長沙の前後は列車輸送だが、乗車した地名に記憶が無い。下車したのは湘陰ではなかったかと思う。ここから船で岳州まで行くという。船は夜間しか行動できない。乗船まで時間があったので街を歩いてみると、他所で見たことのない食べ物にお目にかかった。もち米の粉を大福状に丸めて油で揚げてあるのである。どこに砂糖気を使用したのか分からないが甘かった。これは何だと訊いたら「モンドー」と答えた。小麦どころの北方の地方の饅頭(マントー)に相当するのではないかと思ったが、文字を書かせたわけではないので本当の所は分からなかった。

 さらに歩くと印鑑屋があった。連れの兵隊の1人が先ほどここで印鑑を作って貰ったという。タバコ一箱やると喜んで作ってくれるらしい。「軍医殿もどうです」と勧める。ではとばかりに交渉。本当にタバコ一箱(20本入り)でいいと言う。街を一回りして来い、作っておくとのこと。このあたりでは日本軍軍用タバコの「旭光」が大変価値があり、日本軍の使用していた軍票などよりよほど信用された。約束通りに街を一回りしてから店に戻ってみると出来ていた。材料は水牛の角で、篆書体の文字でフルネームが入っている。文字が気に入った。短時間でこれほどの物を作るとはさすがに文字の国の職人と感じ入った。現在も実印として愛用している。

 夕刻、湘陰発の船に乗船したらびっくり仰天。かなり大きな仕切りの無いずん胴の木造船で、胴の間にはガソリンのドラム缶が一杯に積み込んである。人間はどこに乗るのかと訊くと、ドラム缶の上に適当に腰を下ろせと言う。ドラム缶は空だから心配するなとも言う。空襲があっても騒がないでくれ、幾日か前の空襲で戦闘機が補助タンクを投下してガソリンを水上に撒き、それを銃撃して水面を火の海にしたと物騒な話をして聞かせる。これでは船に乗るより歩いた方がよっぽど気が楽だと思った。危なくておちおち眠るわけにもいかず、それでも翌朝無事に岳州に着いたが、その日は昼間から一日中寝てしまった。

 岳州から漢口までの約200キロは行軍である。粤漢線沿いの公路は戦略上の重要兵站線であるので、毎日のように敵機が飛んできて獲物を見つけると銃爆撃していくのである。兵站道路の上空を蛇行しながらいきなり山の稜線から飛び出して来るので油断は禁物、気持ちだけはいつでも退避できるように準備しながら歩く。

 武昌と岳州の中間に蒲圻という街がある。蒲圻の近くまで来た時のことである。曲がりくねった谷間の公路を行軍中に昼飯の時分となり大休止。両側の山は手入れの行き届いた段々畑になっていた。谷底の道路端よりも上の方が眺めも良く、飯も旨かろうと小高い山の中腹に陣取ったのが悪かった。皆食事も終わって一服つけながら休息を楽しんでいた。
 この時爆音。反射的に皆一斉に跳び上がると爆音の方向を確かめる。これはまずい。雛壇状の段々畑の表側の向こうから来るようだ。これでは飛行機に対して遮蔽物は何一つ無い丸裸状態である。
 とにかく場所を移動する時間はないので、その場に伏せて敵機の動静を見る。道路の右側の山陰から現れた敵機−P51だ−は道路の左手の山の上の望楼に一撃を加えると、機首を左に回して真っ直ぐに我々の方に向きを変えて下降し始めた。さあ、大変。楯にならぬとは分かりながら背嚢の陰にピシャと伏せる。もう一度背嚢の横から覗くと、もうこれは本当に駄目だ。そこに見えたもの−私は子供の頃から細工が好きで、模型飛行機も作ったがその設計図は三面になっている−それはまさにP51の正面図の姿だ。もしそれが空を飛ぶ実際の敵機の姿であったら、一体何を意味するか。桑原。もう少し横に移動した方が良かったかなと思っても、もはや体は動かせない。後の祭だ。林高氏の大脳生理学では、こんな状態を腰が抜けたというそうだ。猛禽に狙われた小鳥はこの防衛反射で身を守るとか。

 飛行機の爆音が頂点に達した時、ホワッと風が吹いて一瞬爆音が消えた。飛行機が落ちたのかな、そんな馬鹿な−そんな感覚だった。続いてホワホワホワホワ頼りない超低音で始まった爆音は再び力強さを取り戻して遠ざかって行った。敵機はなぜか射撃をしないで頭上を掠め去ったのである。私はこの時不思議な経験をした。先ず頭を過ぎった言葉が「あー、ドプラーの原理だ」であった。学校のテストの時間だったら喜ぶべき現象だが、この命の瀬戸際にドプラーがどうしたと言うのだ。本当なら「あー、助かった」と言うべきだ。やおら起き上がって大きく息を吐いた頃、山の彼方で銃撃音。今の飛行機が蒲圻の街を攻撃したらしい。
飛行機の絵はMicrosoft社のCombat Flight Simulator 3で作成。

 前年5月27日の湘桂作戦開始以来、漢口と衡陽の間約350キロをおおむね二往復した他、宜昌方面250キロを往復して約2000キロ弱を行動したことになる。この間に目にしたもの、日本内地では日本軍が進めば進撃したと言い、勝った勝ったと囃し立てた。しかし現地にいる我々は既述の通り、兵站線の状況を見れば到底勝ったなどと言えないことは分かっていた。ことに住民の視線は冷たかった。彼等は古来戦乱に馴れているせいか立ち回りが上手で、商売のためなら日本軍にでも近づいて来るが、それは友好とか親善とかとはまったく無縁であった。日本兵の勝者意識を嵩に着た態度が向こうの人たちの反感を買ったのも理由の一つであるが、まあ不徳の致すところと言うべきか。とにかく彼等は民を大切にしない権力には自国であれ他国であれ決して頭を下げない民族性を持っているのだ。したがって日本軍に協力することなどまったく無かった。これが日本軍が中国で点と線しか占領できなかった最大の理由であろう。

 粤漢線ルートを二往復する間に、対米戦闘で南の島が次々と玉砕するのと軌を一にするように江進攻軍も敗退し、もはや中国戦線も劣勢は必然となっていた。内地では報道管制の下に敗戦をひた隠しにしていたようだが、軍隊社会では秘密に出来ない。作戦当初は勇み立っていた将兵も、必勝の信念などとは皆目縁が無くなって、話題も米軍の上陸作戦の火力の凄さとか、日本軍の対戦車砲は目標に命中しても跳ね返って役に立たない等、万事休した話ばかりであった。

 前年の醴陵野戦病院開設時にも、ある歩兵聯隊長の某大佐殿(名を秘す)が入院。聯隊長も、まさか隷下部隊の将兵にはこのような話はしなかったと思うが、入院中の病室という気楽さもあってつい喋った内容が、「来年の今頃は皆除隊できますよ」。この話、聯隊長の主治医を勤めた先輩軍医の口から広がった。という次第で、派遣軍の将校も皆この戦争勝てるとは思っていなかった。

 また将兵の健康面でもこの作戦中まったく無病無傷という人はほとんど無く、マラリア、アメーバ赤痢、その他の病に冒された人々が多かった。さらにこれら病人の回復を図るのに必要な糧秣、医薬品が品切れでは、病気回復の目途も立たなかった。
 こうして心身ともに衰弱し、気分も退嬰的になって何か救いを求めたい気持ちになっていたところに、一つの歌が流行してきた。粤漢兵站線を往来する兵たちの間に口から口へと伝えられて、たちまちのうちにこの辺一帯に広まった。この時期、この地帯を通過したり勤務していた人でこの歌を知らない人はいない。曰く、湖南進軍譜。

    『湖南進軍譜』  (作詞:佐伯孝夫)
(一)一草一木いたわり進む
   兵の心の豊かさよ
   見ろあの雲もあの水も
   まるで故郷にそっくりだ
   さすが男の胸を打つ
(二)すすきの葉末に光るは露か
   やさし湖南のお月さま
   民安かれと軒下に
   今日もごろ寝の部隊長
   兵が着せゆく雨外套

 歌詞は四番まであるが三番以降に国際親善上ふさわしくない歌詞があるので以下割愛する。この感傷的な歌詞に加えて哀愁を帯びたメロディーは一度聞いただけで将兵の心を捉えてしまった。金津隊長も時折口ずさんでいたのを記憶している。

 戦後、木島則夫アナウンサーの番組で、軍歌も含む懐かしのメロディーに思い出を交えて取り上げた番組があった。その番組でこの歌も取り上げられて歌の成立の経緯が紹介されたことがある。実は記録を取っていなかったので多少間違っているかも知れないが、日本から佐伯孝夫、服部良一、渡辺はま子の3氏が慰問団として漢口陸軍病院を訪れた時、前線の苦労を聞いた佐伯孝夫氏が詩を作り、服部良一氏が即興で作曲し、渡辺はま子氏がすぐに入院患者の前で歌ったものだという。この歌は当時レコードにもならず、また電波に乗ることもなく、一般には知られていない。しかし戦地からこの歌を覚えて帰った私は、この歌を聴くと当時の情景が現在進行中の物事のようにリアルタイムの感覚で甦ってくるのである。


第15章:第二次追及隊

 諸々の苦労や恐怖の体験を重ねながらやっと7月13日漢口に辿り着いた。漢口には我々の他にまだ多くの第二十七師団の残党がいたので、この人たちも全部糾合して追及隊を編制し直した。総指揮を取るのは加瀬少佐という方で(経歴その他は分からない)、その下にそれぞれ建制に従って各隊を組んだ。今度は私は歩兵(たぶん支駐歩一)に配属され、7月18日には漢口を出発、長江右岸(南側)を瑞昌(九江の西三十キロ)に向かう。この辺は武漢戦以来の占領地区で敵襲の心配も少なく、7月30日瑞昌に到着。この地での情報によれば本隊の第二十七師団は九江に向かってはいるが、まだ当分到着の見込みはないので、しばらくはこの地に駐留となった。と思ったら8月2日、突然命令あり、歩兵の一隊(支駐歩一の約50名)と共に横口湾という所に警備に行けということになった。この時の隊長さんは申し訳ないが、どなたであったかまったく失念してしまった。

 横口湾は瑞昌の南西三十キロにあり、武漢戦の折には第二十七師団が通城(湖南省)へ進攻した時の通路に当たっていた。周辺は米所の田園地帯で日本内地の風景によく似ている。残念ながら山が重なって盧山は見えなかった。

 8月17日、公用で瑞昌に行った兵が日本降伏敗戦の報をもたらした。どうすれば良いのかまったく分からなくなった。命令なく勝手に行動するわけにも行かないので、不測の事態に備えて警備を強化して待機し、8月26日やっと瑞昌に帰った。皆この非常事態に困っていた。追及隊は正規の命令系統を外れた烏合の衆の部隊だから、皆次の行動を取りかねていた。本隊も九江到着までまだ何日かかかるらしい。当惑と心配の交錯した不安を抱えて日を過ごすうち、9月8日になってやっと本隊が数キロ先まで来たという情報が入った。後片付けと荷造りをして出発。この日の夜になって所属部隊を捜し当てた。嬉しかった。
 さっそく隊長室に至り、初年兵受領の出張より帰到したこと、および昨年7月1日付けで少尉に任官した旨(司令部で調べた)の二点を申告した。もちろんねぎらいの言葉を貰った。

 以上で初年兵受領の任務とその追及隊の仕事を全部書き終わったと思ったのだが、どうしても腑に落ちない事がある。それは前年の11月10日に攸県を出発してから、年が明けて9月8日に九江で本隊に戻るまでの約10ヶ月間に、野戦病院に配属されるはずの初年兵なるものを全然見ていないのである。昭和19年の12月に公務で漢口に到着した時に調べたが、野戦病院(第一、第二、第四)に配属される兵はどこに居るのか居ないのか不明だった。昭和20年2月26日に漢口で追及隊を編制した時にも居なかった。3月3日追及隊を再編した時も居なかった。9月8日、九江から本隊に帰る時、この時の記憶だけは敗戦のドサクサのせいもあって自信は持てないのだが、確かに野戦病院に配属される初年兵は居なかったように思う。では何のために私はこの出張に出されたのか。初年兵受領隊の隊付医官として働くために出張したのか。まことにだらしのない話になってしまった。


第16章:捕虜 常州野戦病院

 9月7日、第二十七師団原隊に復帰したが、敗戦国の軍隊に成り下がったわけだから爾後の行動はすべて中国側の指示に従わねばならぬ。我々は捕虜となったのである。捕虜となった以上は先ず兵器を取り上げられると思ったら、個人携行の兵器すなわち佩剣や小銃などはしばらくそのままということだった。当時蒋介石の軍隊は日本が降伏してもなお共産軍という敵と戦っていたので、いざと言う時には我々を利用するつもりがあったらしい。日本軍を故国へ送還するにはまだ相当日数が見込まれたので、早急に九江から移動するわけにもいかなかったようだ。今度は本当に何もすることが無い。小人閑居してお喋り以外することがなく、悪い噂が飛び交ったのもこの頃だ。
曰く、「下士官兵は南方に運ばれて強制労働。将校は全部死刑。」
また、「広島は焼け野原で50年間は草も生えないそうだ。」
あるいはまた、「本土は米軍が上陸すれば男は皆殺される。」
冗談半分か、恐ろしさ半分か分からないが、とんでもない流言が出始めた。だがちょうどこの頃と思うが、蒋介石が「暴に報いるに暴を以ってせず」と声明を発したとか伝わってきて、これで流言蜚語はかなり収まってきた。

 ここに一言付け加えるならば、この時の蒋介石の言葉を聞いた日本の将兵は蒋介石を偉い人だと称えた。しかしこの思想は彼個人のみの思想ではない。中国にはすでに2500年も前からこの思想はあり、老子63章にも「報怨以徳」の言葉が見えるのである。だがこの中国古来の思想にのっとり、我々捕虜を丁重に送り返してくれた恩義は忘れてはならぬと思っている。

 ある日命令が出て九江から乗船させられた。ふと後ろを見ると秀麗な盧山の姿が揚子江に浮かぶがごとくに見える。故郷鹿児島から見た桜島に似ていた。今度は戦争でなく平和な気持ちでこの盧山の姿を見に来たいものだと思った。あの山の手前に私の好きな詩人陶淵明の出身地がある。

 南京で船がストップさせられた。船内で1〜2泊したような記憶がある。我々の船に照準を合わせた速射砲が一門、我々を威嚇していた。次いで下船、ここで佩刀、小銃を提出させられて丸腰になった。直ちに貨物列車に乗車。周囲の景色などもうどうでもよい感じ。

 10月1日、常州という駅で下車させられる。蘇州と南京のちょうど中間点になる。この常州で復員船の順番待ちとなった。さてすっかり捕虜となって収容所へ行くのだから一体どんな場所でどんな扱いを受けるのかと不安な気持ちで隊列について行く。約2キロほど歩くと常州の街が見える。まさかと思っているうちに賑やかな街の一角にある立派な建物に入って止まった。ここは戦前米国人が経営していた病院の跡らしい。立派な三階建ての鉄筋コンクリートの病棟と、炊事場等の附属の建物、それに医員用の住宅数棟が完備していた。収容所とは程遠い姿で、将校には医員用住宅が割り当てられた。これでは日本へ帰るよりもっと豪勢ではないかと思った。

 もっと驚いたことに中国兵が周囲を取り囲んで見張っているわけでもなく、自分の部隊で歩哨を立てて出入りを取り締まればよかった。将校は外出自由だった。日常生活はすべて起床・点呼・食餌・消燈と号音ラッパで行ない、まったくの自主管理だった。
 だがその代わりというのも変だが、病院を開設してあちこちの収容所からの患者を収容治療する仕事が待っていたのである。時々中国の憲兵も病気で診察に来ていた。これではまったく捕虜になった気はしなかった。病院の運営はどうするかと言うと、今までの野戦場に作った急場しのぎの病院と違って本格的な施設を利用するのであるから、仕事もやりやすかった。私は内科担当で相変わらずアメーバ赤痢、マラリア、その他の診療に当たった。この頃になると結核性疾患も散見され始めた。また食餌も良くなったし、薬剤もそれほど不自由を感じなくなったが、これは戦争が終わったので貨物廠が惜し気もなく在庫物資を放出していたせいと思う。

 病院業務も順調に運転していたある日、先任の三輪軍医中尉が内科医を集めて、昨日入院した患者について相談があると言う。その患者は大量に頻回の下痢をして、あっと言う間に眼は落ち窪み、顔は細くなり、いわゆるコレラ様顔貌を呈しているが、コレラではなかろうかということである。ただ内科書には便は米のとぎ汁様と書いてあるが、まったく違う外観をしていた。だが便を直接検鏡するとコンマ型の菌がウヨウヨしている。誰かコレラ患者の診療に当たった経験から自信を持ってコレラと断定できる人はいないかというのが相談の内容だった。残念なことに誰一人コレラを診たことはなかったのである。野戦の生活では各人の医学知識も医療技術も進歩するわけがない。おまけに昔の内科書の、コレラの便は米のとぎ汁様という記載がどれほど災いしたことか。現場で見た実物は尿を漏らしたとしか思えないもので、よく観察すると尿よりは粘り気があり、粘稠度が高い感じがする。それだけである。現代の代表的な内科学の教科書「ハリソン内科書」によれば「小腸全分節より等張液が分泌される」とだけ書いてあって、色が白いだの濁っているだの(註:要するに米のとぎ汁様というようなこと)という記載は無いが、この方が我々の経験を納得させる。
 次に顕微鏡下のよく動き回る菌を私も見せて貰ったが、三輪さんが主張するようにコンマ型にも見えるが、そうでなくも見える。病理検査室もコレラまでは想定していなかったので、菌培養検査など急場の間に合いかねた。とどのつまり経験のないものをいかに議論してみても「蘭学事始め」状態で結論が出ない。もうちょっと様子を見ようということになる。

 翌日患者は死亡して、さらにその日のうちに同様の患者が数名発生した。もう疑う余地はない。直ちに厳重な防疫体制を敷き、軍医部にも報告する。都合よく構内に独立した病室があったのでコレラ病棟に当てる。病棟の外壁から約5メートルほどの幅を取って縄張りをする。縄張りの内側には石灰を撒いて、人が歩けば足跡がつくように細工して人の出入りを禁止する。ただ一つの出入り口には消毒液を浸した靴拭きを置き、病室を出る勤務者は靴の消毒の他、消毒液をしこたま噴霧される仕掛けも作られたが、これが陸軍式の隔離である。

 隔離室に患者を収容した時点で私はコレラ病棟勤務を命ぜられた。命令とは言いながら、さすがに2〜3日は飯が喉を通りかねた。だが泣き言を言っている暇はない。一週間もすると患者の数は5〜60人(はっきりした数は記憶していない)になった。また病院全員、患者も職員も含めて検便をしたら、保菌者は発生患者数の倍も見つかった。これでは患者だけを隔離しても間に合わない。病床も足りなかった。兵舎や一般病室にも隔離室を設ける。治療は生理的食塩水やリンゲル液の皮下注射だけで、現在のような点滴は普及していなかった。もちろん現在のようにテトラサイクリンのような特効薬もある時代でもない。

 患者はいきなり大量の失禁を伴って急激な症状で発病するが、流行当初の患者に重症が多く、数名立て続けに死亡した。当時出征した医師が皆持って出かけた西川義方氏著の「内科診療の実際」という本は、版は小さいが細かい文字で日常必要な事は漢方の話に到るまで何から何まで記載してあった。この本に何か良い治療法が書いてないかと睨んでいると、わずか3〜4行だけだがコレラの血清療法という項があり、コレラ菌で免疫した牛や馬の血清を用いるとなっている。この時閃いた。よしこれだ。牛、馬の血清となっているが、人間の血清ならもっと良いだろう。回復患者が出始めた折を見計らって元気そうな患者と交渉する。命令ずくで採血するわけにはいかない。
 あまりいい顔はされなかったが、一応相談に賛意を示したので血清にして約20ccを頂く。そして最重症と思われる患者の臀筋に注射したところ奏効したらしい。翌日にはほとんどケロリとするほど回復していた。これは行けると思ったが、血清を貰える回復期患者がたくさんいるわけではないのが隘路となった。それでも10数名ほどに血清療法を行なった結果、その全部が治癒した。

 その後段々と寒さの季節を迎え、コレラ流行も終焉に向かった。総決算として約100人のコレラ患者が発生し、他に100人の保菌者を出し、戦争も終わったというのに鬼籍に入られた人々がおおよそ50人だったと記憶する。武運拙くとは言いながら無念のほど思い半ばに過ぎるものがある。

 昭和21年を迎えた。なかなか帰還の話は出てこない。病院業務は平静に戻った。何より良かったのは近隣の地区にコレラが広がらなかったことだ。
 この常州の宿舎でも飯海さんと同室になった。時々正法眼蔵釋意を借りて読んだが、やはり難しかった。死線を越えて来たのだからもっと内容が分かるかと思ったが、道元禅師の思想は戦争とはまったく無縁のもののようだ。これは今後の宿題として残した。飯海さんと清化鎭で初めて飯店に入った時、行く先々の八宝菜を全部食べてみようという話になっていたことはすでに述べた。ここも部隊(病院)の門の近くにあまり綺麗とは言えない飯店があり、ここでは川海老の料理が大変旨くて何度も食べたが、八宝菜の方は食べたはずだと思うが記憶が無い。


第17章:帰国 復員

 3月に入って帰国が決まった。帰国するに当たって何がしかの私物の携行が許されるはずだから各自大きなリュックサックを作れという。材料はドングロスの布地だ。私の分は当番の有泉晴滋君(山梨県出身)が作ってくれた。器用な人で立派な物が出来てきた。

 携行を許可されるリストが回ってくる。危険物と文書の持ち出しは厳しいから気を付けるようにとのこと。したがって残念ながら瀏陽で受けた空襲の機銃弾と薬莢、面白がって持ち歩いていたが、ここで捨てる。また文書は各地点の通過日時等を記したメモだ。これはよく見て頭に入れてから破棄した。この内容は内地上陸早々、忘れないうちに有り合わせのノートに書き写した。この戦記を書くに当たっての日付はほとんどこのメモに依ったので、かなり正確なものと自負している。また文書でも医学書の携行は許可された。
 その他は毛布3枚(これは後々役に立った)、被服、薬品、食品類で、それも塩、砂糖に至るまで内容の種類、分量の明細証明書付きである。これら一式をリュックに詰めて用意完了。

 3月11日、上海の収容所に移動。ここは完全なる捕虜収容所。上海というのに街の燈も見えない。だから今は懐かしくも何ともない。
 ここでまたぞろ難題。部隊長の話ではこの収容所で医務室が手不足で困っている。誰か軍医を一人残留させてくれないかという話がきているが、「田中少尉どうだ」ときた。部隊結成以来将校の中で一番若手ということで、割の悪い仕事は皆私の所に回って来たような気がする。善意に解釈すれば厄介な仕事をこなす男と評価されたのかも知れないが、ちょっと待って貰いたい。故国に帰る船を前にしてお前残留しろとは人情味のかけらもない要求。この時ばかりは私も断固断わった。今更陸軍刑法の敵前抗命に問われる道理はない。隊長は「そうか」と一言。もちろんこれは命令ではなく、希望者を募るというものではあったが、あの状況で果たして希望する人がいたかどうか。

 3月15日乗船。兵装を取り払った海軍の海防艦だった。艦は復員者が鈴なり状態だったので昼間はほとんど甲板にいた。中国の陸地が視界から消えた時、心の底からホッとしたと同時に、今度は気が弛んだせいか、あるいはまたマラリア、アメーバ赤痢の疲れが出たせいか、私は初めて船酔いを経験した。食欲が無いばかりか、吐き気とめまいで本当に苦しい5日間の船旅だった。

 3月20日博多に到着。これですべてが終わったと思ったら、まだ終わりではなかった。艦は桟橋に行かず、港外に投錨して停まった。乗船者一同上陸を待ちに待っていたので、皆ブーブー不満の声を出す。やがて事情が判明した。乗船者の中に伝染病(たぶん腸チフスだったか)が発生したので、このまま検疫のために10日間は沖合いに停泊と告げられ、一同がっくり。変なものでこうなると艦は動かなくとも船酔いは治らないのである。3月30日、今度こそ本当に夢に見た内地の土を踏んだ。桟橋ではアメリカ兵に思う存分DDTをぶっかけられる。「俺は虱じゃない。」福岡市内のお寺に一泊。

 除隊復員について一応種々の手続きがあるらしい。庶務担当の士官、下士官の人たちは書類に忙殺されたことと思う。この時交付されたもの、従軍証明書、引揚証明書、罹病証明書、事実証明書、給与通報、郵便貯金証明書、全国どこへでも行ける乗車券、新円486円、等。最後に告げられたのは全員一様に一階級宛て進級して位が上がったと言うのである。皆一体それが今頃何になるのだという顔をした。私も陸軍軍医中尉になった。戦後人呼んでこれをポツダム中尉という。

(2003年8月31日脱稿)


おわりに

 この戦記は序文にも記したとおり、自らの積極的な気持ちで書き始めたものではなかった。60年も昔の記憶を、人に聞いて貰えるような形で引き出し得るものかどうか、はなはだ危惧したのである。一考しただけではほとんど不可能と思えたのだ。
 しかし失われているのではないかと思った記憶が、一度筆をおろして緒を掴んだら、堰を切ったように次々に芋づる式に上がってきたのである。
 この上がってきた記憶は、いずれも60年の歳月という篩にかけられても、なおかつ我が脳内にとどまっていたのである。経験は感情を伴う度合いが高いほど、記憶に残るという。戦争に恐怖や苦痛の体験が多いとすれば、記憶の篩に残った量も圧倒的に多かったはずである。しかしながら、記憶の篩に残った残渣からはもはや恐怖や苦痛やその他諸々の感情は消え去っていた。残っていたのは抽象化された事柄だけである。ファウスト末尾の詩の一節に『過ぎ去ったものは「映像」に過ぎない』(相良守峯氏訳)とある。すでに恩讐を超えて60年の風雪にさらされたこの戦争の記憶も、やがて生存者の消滅をもって終焉を迎えようとしている。ここに私は敢えて掉尾の一石を投ずるものである。
                 2003年11月3日  著者識

参照文献

森金千秋氏「攻城」1979年 叢文社
町田正司氏「中国縦貫戦記」1984年 図書出版社
藤原 彰氏「中国戦線従軍記」2002年 大月書店
大野勝雄氏「戦塵に塗れた野戦病院 大陸六千キロを征く 一号作戦従軍記」
               1991年 虎屋印刷出版部(金沢)
一億人の昭和史(日本の戦史) 日中戦争4巻 1979年 毎日新聞社
中国地図集 1972年 新興出版公司(澳門)
歴史群像 50巻 大陸打通作戦 2001年 Gakken
日本陸軍史 毎日新聞社発行

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