バイバイ、小泉純一郎


 最近これほど呆れた新聞記事を読んだことはない。先ずは2006年11月8日の毎日新聞朝刊から、私が呆れた部分を引用する。

 小泉純一郎前首相は7日、自民党「日本夢づくり道場」のあいさつで、昨年初当選した衆院議員61名に対して「政治家は使い捨てにされることを覚悟しなければならない。甘えちゃだめだ」と述べた。
 自民党執行部が進める郵政造反組の復党を容認し、復党に反発する新人議員に党内を混乱させないようクギを刺した発言とみられる。
 小泉氏は「参院選に負けるぞ」と語るなど、早期復党に異論を唱えていただけに新人議員は衝撃を受けた様子。杉村太蔵衆院議員は記者団に「使い捨てにされないように頑張る」と語った。【米村耕一記者】


 2005年9月11日のいわゆる「郵政解散」に伴う総選挙で、小泉首相(当時)は郵政民営化に反対した造反候補者に自民党公認を与えず、“刺客候補”を立てて追い落としたうえ、自民党からも除名するという荒療治を施したものの、このままでは2007年の参院選で惨敗の可能性もあるので、自民党としては各選挙区に強力な地盤を持つ造反議員を再び自民党に迎えようと画策している。そうなると、刺客候補として利用され、“にわか自民党議員”になった新人議員は党内での立場が無くなってしまう。
 刺客候補として立候補して初当選し、“小泉チルドレン”などとチヤホヤされていたこれら新人議員の中には、政治家としての資質を問われるような間に合わせ的な人材も少なくなかったので、一般国民としては彼らが“使い捨て”にされるかどうか、実に面白い三文芝居の見世物には違いないのだが、彼らを使い捨てにした張本人自らが「使い捨てにされることを覚悟しろ」などと宣ったというのだから、これはもう呆れたと言うか、驚いたと言うか、そういうレベルをはるかに越えて、言うべき言葉も見つからないという感じである。何という低劣・下品な人格…。
 小泉氏は郵政民営化という自らの信念(野望)のために、2005年の総選挙ではなりふり構わず旧来の自民党員を切り捨てて刺客候補を放ったのである。郵政民営化法案が通ってしまえば刺客候補の有象無象は邪魔者扱い、2007年の参院選のためには使い捨ても辞さず。
 それはそれで自民党としては筋の通った戦略ではある。そんな党の本質も見抜けず、利用されるだけ利用されつくした泡沫刺客候補が使い捨てにされようが、それは各候補者の自己責任というものである。別に刺客候補として立たずとも後ろ指を差されるような状況ではなかった。

 しかし刺客候補の新人たちをおのれの野望のために利用するだけ利用した挙げ句、「使い捨てにされるのも覚悟しろ」と言い放った小泉純一郎の品格とはいかなるものか。我が日本国民はこれまでこういう品性下劣な人間を首相に戴いていたわけである。
 ここはどういう状況であろうとも、小泉氏の口から出るべき言葉は次のようなものであったはずだ。
「昨年の総選挙では、私の主張する郵政民営化のために存分に働いてくれてありがとう。しかしこの期に及んで来年の参院選を控えた自民党としては諸君を見捨てるようなことになるのも止むを得ない状況となってしまった。
大変申し訳なかった。不肖小泉、心より礼を申し述べると共に、諸君の今後の奮闘をお祈りする。善く戦いたり、深謝す。
 最後の一文はもちろん、特攻隊の生みの親と言われた大西瀧次郎中将の遺書の中の言葉であるが、小泉純一郎には大西長官ほどの良識すら無かった。私は、人が人を使い捨てにしたというような状況を見ると、どうしても特攻隊のことが頭に浮かんでしまう。人を使い捨てにした人間自身がそのことを正当化して居直る姿を見ると、ああ、日本人とは今も昔も変わらぬものだなと嘆息してしまう。

 大西中将は特攻隊の生みの親とされているが、本当に特攻作戦を発案して推進したのは源田実など、当時軍令部にいた参謀たちであった。もちろん大西中将も特攻に賛同していたからこそ自ら推進役を買って出たのであろうが、大西と共に特攻隊員たちに深謝して自刃すべき人間は他にも大勢いたはずである。ところが彼らは特攻作戦は日本人として当然の愛国心の発露であったと自分の責任を回避して居直ったのである。今回の小泉純一郎と同じである。
 小泉純一郎が使い捨てにしたのは、今回の新人議員だけではない。日本国民全体をも使い捨てにしているのだ。戦後の日本が経済躍進を遂げたのは、会社や企業に一途に身を捧げて奮闘した国民たちのお陰である。その国民たちの汗の上に築かれてきたのが戦後の自民党政府である。小泉純一郎を筆頭とする自民党は、国民に支えられた経済躍進の恩恵を受けて君臨しておきながら、医療や福祉の面でこれら“経済戦士”たちを切り捨て、まさに使い捨てようとしているのである。小泉純一郎は戦後発展を支えた経済戦士たちを切り捨て、郵政民営化を支えた新人議員たちを使い捨てて、自らはまだ権力の座に君臨するつもりなのであろうか。

 私もこのサイトの別のところで神風特攻隊について書いているが、私は隊員たちの憂国の至情を軽んじているわけではない。人を使い捨てにしておいて自らは生き残り、戦後も栄達を極めておきながら、隊員や遺族に対して一言の謝罪もない、自らの懺悔もない、今回の小泉純一郎のような破廉恥な上層部を批判しているのである。私のサイトを読んで下さった大部分の方々はそういう私の意を汲んで、全面的な賛意をメールなどで寄せて下さっている。
 私は、自分自身が特攻に行かないような人間が特攻隊を賛美することを生理的に許せない。軍令部参謀だった源田実は、美辞麗句を呈して特攻隊を賛美しながら、自分が行かなければならない状況になると、その場から逃げ出した人物である。特攻隊を公然と賛美する人間は最近また増えてきているが、果たしてその何割が自分自身が特攻に行くことまでイメージしているのだろうか。
 私は若い頃は次の戦争で自分こそ特攻の先陣を切るぞと心底考えていた。幸いにして戦争は起こらず生命永らえてみると、そういう馬鹿正直な人間だけが損をする日本という国の構造的な欠陥が見えてしまった。私はこの平成日本で特攻隊を無条件に賛美する人間は、自分自身は特攻に行かない人間、いや、部下を特攻に行かせる立場の人間ではないかと思っている。
 小泉純一郎とかいう人物はかつて特攻隊員を賛美した。その男は自分を支えてくれた新人議員を使い捨てにした。日本の経済発展を担ってくれた世代の国民を見殺しにした。これ以上の状況証拠があろうか。



やらせのタウンミーティングと匿名サイト

 文部科学省の教育改革タウンミーティングで、お上主導の「やらせ質問」が用意されていた問題が浮上した。政府・自民党が目論む教育改革に向けて世論を方向づけるために、一般人向けと称するタウンミーティングを企画し、そこであらかじめ用意していた発言者に政府の意図に沿った質問をさせるという実に姑息な“やらせ”である。文部科学省は局長を処分する方針を示したが(どうせ形式上だけだろうが)、これは本当はこの程度の騒ぎで済む問題ではない。

 戦後の日本は民主主義国家ということであるから、国が上意下達で国策を押し付けることは原則的に許されていない。そこでタウンミーティングで民意を偽装した形の「やらせ質問」が画策されたと見るべきであろう。国家権力側もいろいろ“学習”して、やり口が巧妙になってきている。
 実は国家権力の民意偽装工作として、私が最近特に気になっているのがインターネット上の匿名サイトである。無責任な投稿者がある事ない事織り交ぜて誹謗中傷を書きまくる掲示板の類はこの際問題としない。逆にそれなりに立派な意見が述べられている匿名サイトの中には、国家権力の意を代行した危険なサイトが多いのではないかと私は疑っている。

 私は幼少時からの関心で、他人様の書いた神風特攻隊に関するサイトはしばしば閲覧させて頂いている。最近では特攻隊に否定的なものより肯定的なサイトの方が目立つようになってきているが、それなりに制作者の立派な見解と知見を述べたものであるにもかかわらず、多くが匿名である。
 特攻隊員を顕彰する、その愛国の至情を賛美する、その考え方には私もまったく同意である。しかし特攻作戦を発案・計画・実施しながら自らはその責任を回避した上層部に対する批判を併記しなければならないというのが私の主張であり、それは実名の私のサイトに詳細に述べたとおりである。特攻隊を上層部の立場から一方的に顕彰・賛美するだけでは、再び同じ悲劇が繰り返されるであろう。
 むしろ国家権力側の人間としては、再び日本人を命令一下、国策のために喜んで死んでくれる国民に作り変えたいと画策しているはずである。ここではまさか「特攻隊に関するタウンミーティング」など開催できるはずもないから、権力側が“やらせ質問”の代わりに企むのは何だろうか、考えたことはありますか。

 インターネットが普及し、将来の“特攻要員”である若者たちのほとんどがパソコンを操作するような時代においては、特攻隊を顕彰・賛美するサイトを公開して、これが日本の“民意”なのだと錯覚させる、これほど有効な手段はない。こういうサイトに多くのサクラたちがアクセスして、サイト開設者の意向に沿った書き込みをする、これだけで「ああ、やっぱり日本民族には特攻なのだ」と思わせ、国民を酔わせる効果は絶大である。
 特攻隊に限らず、教育問題、愛国心問題、外交問題・・・、どこの誰が書いているか判らないような情報には十分な警戒が必要であり、国家によって仕組まれた情報操作の可能性も疑ってみるべきである。現に教育問題タウンミーティングでは文部科学省の担当者は姑息な手段を用いて民意を誘導しようとした汚点が明らかになったのだから・・・。
 またもし本当に国を憂えて意見を述べるつもりの方であれば、所属と氏名を明らかにして正々堂々と持論を述べるべきである。偉そうなことを言っておきながら、実際に自分がそのように行動しなければならなくなった時にコソコソ逃げるような人間でないということを、自ら証明するのが論客というものではなかろうか。



二十世紀の意味:人類の未来

 私はよく文明論としてA.トフラーという人の「第三の波」(別項で紹介)を引用するが、これとは別にK.ボールディング(Kenneth E. Boulding)の「二十世紀の意味 The Meaning of the Twentieth Century」という本も忘れ難い。東京オリンピックが開催された1964年に出版された本で、著者はイギリス生まれのアメリカ人(帰化)の経済学者だそうである。岩波新書から清水幾太郎による翻訳があった。
 トフラーは人類の歴史を農業革命(第一の波)、産業革命(第二の波)、情報革命(第三の波)の3つに分けたが、ボールディングは@
文明前社会、A文明社会、B文明後社会に分けており、農業によって余剰食糧の備蓄が可能になるまでの時期を文明前社会、農業に継いで工業を起こして技術を発展させてきたのが文明社会、そして世界中で文明化がほぼ完了して次の文明大転換を乗り越えた後の時代を文明後社会と定義している。
 おおまかに言えばトフラーの第一の波と第二の波を合わせた技術革新の時代がボールディングの言う
文明社会であり、2人とも20世紀から21世紀にかけて人類文明は質的な大転換を迫られているという点では一致している。しかしトフラーはどちらかというと第三の波の到来を楽観的に捉える傾向があるのに対して、ボールディングの方は文明社会から文明後社会への移行は非常に困難をきわめるだろうと悲観的予測をしており、人類がこの大転換を乗り越える上での大きな障壁を具体的に4つ挙げている。

 20世紀中に人類を待ち受けているであろうとボールディングが予測した具体的な障壁=落とし穴(pitfall)とは次の4つである。

A)戦争の落とし穴
 これはもう今さら言うまでもない。戦争とは“核戦争”のことである。当時は米ソ両大国の核軍拡競争が人類生存を脅かしていたのであるが、アメリカがソ連を圧倒して崩壊せしめた現在、核戦争の危機は去ったかと言えばそんなことはない。イギリス、フランス、中国などに続きインド、パキスタンも核実験に成功、北朝鮮、イラン、イスラエルなども核兵器保有国への野心をむき出しにしており、核兵器に関する世界情勢はさらに混沌としてきた。個人のテロリストでさえ小型原爆を爆発させることが可能であるとさえ言われているのだ。

B)人口の落とし穴
 人口爆発の危機のことである。出生率の低下を伴わずに主として乳児死亡率が劇的に改善されたことによって人類は人口爆発の重荷を背負い込むことになった。ボールディングは人口爆発によって増加した若い世代への教育が不全に陥り、社会への知識の集積が滞ることを主に恐れていたようだが、事態はさらに重大である。食糧や水など個体が生きていくうえに必要不可欠な資源の配分が出来なくなり、次の戦争は植民地や石油をめぐるものではなく、穀物や水を賭けた悲惨な戦いになるとさえ言われている。

C)技術に内在する落とし穴
 現代の技術はほとんどすべてが主として石油という化石燃料に依存しており、これが次の大転換の足枷になっているとボールディングは指摘する。ボールディングは単に石油や石炭などの資源の枯渇を一番心配していたが、21世紀になってしまった現在、この落とし穴はさらに厄介な問題を含んでいることが明らかになった。石油の埋蔵量は当初予測されていたよりも多いと推定されるようになったが、これらを燃やすことによって大気中に放出される二酸化炭素による地球温暖化が無視できなくなったのである。人類の活動そのものが地球環境に重大な影響を与え、人類の生存そのものを脅かす要因となったが、そういう温室効果ガスの排出を規制しようというささやかな努力(京都議定書)さえも、アメリカ、中国、インドなどの大国が拒否している現実がある。このまま地球温暖化が進めば、南極や氷河の氷が溶けて海面が上昇し、異常気象も手伝って必然的に耕地面積の減少、食糧の減産、食物争奪のための戦争へと続く恐れがあり、以上3つの落とし穴は複合的な危機でもあるのだ。

D)人間そのものに内在する落とし穴
 仮に人類がすべての危機を乗り越えて新しい時代を迎えたとしても、すっかり技術的にも成熟して危機の去った環境において、人類はこれまでどおり発展への意欲を保ち続けることが出来るだろうか。要するにハングリーでなくなった人類は発展を放棄して退化していくのではないかという危機である。ボールディングはこれを物理学の法則に準拠してエントロピーの落とし穴とも呼んでいる。つまり熱力学的に安定化した系においてはすべての反応が止まるのに似ているということだ。これはイギリスのSF作家H.G.ウェルズも「タイムマシン」の中で予言している。日本など飽食の先進諸国におけるニート(NEET)問題は、あるいはこの予兆かも知れない。

 こうして考えてみると、1960年代にボールディングや他の多くの学者たちが警告した人類文明の危機は解決されるどころか、さらに深刻化、先鋭化して我々に突きつけられているのではないか?ところが人類はこれまで一向に解決のために力を合わせようとはしなかったし、現在もしていない。世界的なレベルでの核軍縮を提唱した国家はないし、温室ガス排出規制を謳った京都議定書にはアメリカが参加しようとさえしない。せっかく人口爆発を食い止めても、それが逆に災難であるかのように騒ぐ国もある。人類には本当に明るい未来があるのだろうか?

 そもそもこういう文章を書く場合、最後の締めには「人類の英知を結集して云々」とか「無限の可能性を信じて云々」とか、当たり障りのない希望的、楽観的な言葉を書き添えるのが、特に日本人にとっては暗黙の了解になっているフシがある。それは単なる自己欺瞞、現実逃避になっていることを正直に認めなければいけないのではないだろうか?さもないとそういう玉虫色の気休めに惑わされて、危機に立ち向かう意志の表明が遅れることになりかねない。



またまた大予言?

 2006年の年末は普段よりも余計にTVにかじりついていたら(昔は“ブラウン管”にかじりつくと表現したものだが、最近のTVは液晶画面になってしまった)、またしても新しい大予言(大預言)が登場したようだ。12月30日放映の『ビートたけしの超常現象マル秘ファイル2006』(テレビ朝日)でやっていたので、ついつい興味を持って見てしまった。私も結構ヤジ馬ではある。

 例のノストラダムスの大予言によれば、1999年7月は恐怖の大王が降ってきて人類は滅亡するはずだったが、我々は何とか21世紀を迎えている。彼の預言詩の中にあった“マルス”とか“アンゴルモア”とかいう単語を覚えている人もかなり少なくなったのではないか。
 そもそも私はそういう滅亡大預言は、自分の死と共に世の中もすべて滅んでしまえばよいという人間のエゴイズムを魅了する悪質な流言蜚語に過ぎないと思っているが、今回のブラジル人ジュセリーノ氏の預言は、時期も場所もかなり具体的であるということで興味をそそられた。要するにノストラダムスの詩のように抽象的な単語が並んでいるわけではなさそうなのだ。

 例えばノストラダムスでは「弓形の中で2つの閃光が輝く」という言葉が、日本に落とされた2発の原爆を予言していたなどということになるので、何となくケムに巻かれて暗示にかけられてしまうのだが、ジュセリーノ氏の予言は西暦何年にどこでどういう事件が起こるのかを正確に言い当てるのだそうだ。2001年のニューヨーク同時多発テロも、2004年のインド洋大津波も予言が的確で、政府や自治体の関係者から礼状も届いているとのことである。
 ジュセリーノ氏は未来の出来事を夢で見ることができて(予知夢)、その災害を未然に防ぎたいがために警告を発しているのだという。ノストラダムスの解説本を書いて印税を稼ぎまくり、予言が外れた後は知らん顔をしているような欲深い人間たちとは心根が違っていることは確かだ。

 でもちょっと待ってよ。同時多発テロとかインド洋大津波など“過去”の事件を見事に的中させたからって、本当に信用してもいいのかい?という意地悪な興味を抱いて私は番組を見ていたのであった。過去の大事件を“予言”したと称する人間は世界中に何千人もいる。
 しかし今回のジュセリーノ氏の預言に関しては、2007年中に真偽のほどを検証できる重大な鍵が番組の中で述べられていた。こういう予言(預言)は外れてしまうと「ああ、またか」で終わってしまって、大部分の人が忘れてしまう傾向にある。そこで私も年末年始のヒマにまかせてこのウェブサイトにメモを書き残しておこうと思い立ったわけである。

 ジュセリーノ氏によると2007年は大災害の多い年だという。彼は2007年に起こる自然災害を2つ挙げていた。
●一つはトルコなど西アジア方面で大震災が起こる。
●もう一つは今まで見たこともないほどの台風がフィリピンを襲う。
いずれも戦慄すべき予言だが、いずれかが外れた場合(両方とも外れて欲しいが)、やっぱりジュセリーノ氏の予言も嘘じゃないかと笑い飛ばすことができる。ぜひ1年後のウェブ更新ではそう書きたいものだ。
 しかし両方とも当たってしまった場合、次の検証の機会は日本人にとって実に切羽詰った状況となる。ジュセリーノ氏は2008年9月13日(この日は土曜日である)にアジアのある国で、地震と津波のために百万人単位の犠牲者が出ると言っているそうである!
 また温室ガス排出規制が遅れると気温が摂氏60度を越す地域が出るとか(これは別に預言者によらなくても本当である)、さらに2043年に人類滅亡とか…。まあ、前項二十世紀の意味でも書いたとおり、別に予言者(預言者)が何も言わなくたって20世紀後半から21世紀にかけての人類文明は綱渡りの連続なのである。預言が外れても結局は同じ事、では何にもならない。



歴史観の相対性

 2006年は太平洋戦争最大の激戦と言われた硫黄島攻防戦を日米双方から描いた戦争映画二部作が公開されて話題を呼んだ。クリント・イーストウッド(Clint Eastwood)監督による『父親たちの星条旗』と『硫黄島からの手紙』で、私はまだどちらも観ていないので内容については後日機会があれば書くことにして、今回は双方から歴史を検証する意義について考えてみた。

 この“硫黄島二部作”は米国のイーストウッド監督が日米双方の視点から映画を制作したのであって、日本側の視点は日本人が監督したわけではない。両方とも米国人監督が制作したにもかかわらず、通常の米国娯楽映画の手法のように単なる勧善懲悪(勧米懲日)になっていないことは、各種の批評や予告編映像、観てきた人たちの話からほぼ明らかである。
 つまり日本軍を成敗すべき悪玉として描いてもいないし、当時の米国のあり方を絶対正義としても描いていない。このように1人の米国人が旧敵味方の枠を超えて、硫黄島攻防戦の歴史を振り返ろうとした意義は大きいと思うし、これは日米のみならず、日中・日韓・日朝・日露(日ソ)・日欧・日豪などいずれの国家間の歴史を検証するうえでも大切な態度ではなかろうか。
 今回のイーストウッド監督はたまたま米国人だったが、米国人にこういう態度が多く見られるというわけではない。私はそういう国籍を超えて、イーストウッド監督個人の歴史的態度を賞賛したいと思う。

 イーストウッド監督は1930年生まれ、硫黄島攻防戦の頃はおそらく多感な青年時代を迎えていた。彼の目には大日本帝国や日本軍はどう写っていただろうか。ナチスドイツと手を結び、アジアに進出して欧米の利権を妨害し、真珠湾に騙まし討ちをかけてきた国…。決して好意的に見ることは出来なかったはずである。
 そういう恩讐を越えて日米軍人を公平に眺められるようになる、あるいは公平に眺めなければいけないと思うようになるまでには、ずいぶん長い時間が必要だったのではないか。数十年もの長い時間をかけて、かつて自分の国の人々と殺しあった敵国の人々もまた同じ人間であり、それぞれの置かれた国家の事情によって心ならずも不幸な歴史を刻んでしまったという認識が生まれたのではなかろうか。

 我々がイーストウッド監督から学ばなければならないのは、この歴史的態度である。日本は現在、中国や韓国との間の歴史認識について決して良好な状況にはない。日中の歴史を検証する両国の協同作業も計画されているというが、日中双方の研究者にイーストウッド監督の歴史的態度がなければ絶対にうまくいかない。
 例えば日本側から見る場合、当時の中国人の身になって考えてみればどうなるか?対華21ヶ条などという植民地的要求を突きつけられ、日本軍に中国各地の要所を占領され、爆撃機が空襲を仕掛けてきた…、これらは日中立場を逆転して考えた場合、すなわち対日植民地要求を突きつけられ、日本国土が中国軍に蹂躙され、空爆まで受けた歴史があったと仮定した場合、日本人は過去の中国を許せるだろうかということにつながってくる。(中立条約を一方的に破って侵攻し、北方領土を掠め取ったソ連を日本人の大部分は許していないではないか。)
 日米と日中の歴史の本質は異なっているけれども、相手国の国民もまた同じ人間であるという認識があれば、いずれの場合でも互いの歴史に対してどういう痛みを感じるかはすぐに理解できるはずである。

 そして相手国の人間の身になって考えていけば、却って相手国側の非も自然に見えてくる。例えば日中近代史が不幸に推移した大きな原因は中国(清国)の対日侮蔑、対日挑発にあったと私は思っている。過去の栄光をかさに着て、相手国を征服できるほどの巨大な軍艦で脅しをかければ、たとえ小国といえどもどういう反応をするか、中国側の歴史研究者にも同じ人間として考えて欲しい。この対日挑発の件は別項で詳しく述べてある。

 歴史認識の相違については、互いに声高に自分の正当性を主張しあい、声の大きい方が勝ちというだけで良いのか?政治的にはそれで決着させられるのかも知れないが、それでは歴史は学問となり得ない。歴史はただの政治の手段であるというならそれも構わないが、私には受け入れることのできないやり方である。

 イーストウッド監督による硫黄島攻防戦の映画二部作はアメリカでも相応の評価は受けたようだが、では原爆の映画が同様な手法で制作された場合、どういうことになるだろうか。残念ながらまだアメリカ社会はヒロシマ・ナガサキの歴史を日米双方の視点で描いた映画までを受け入れるには到っていないのではなかろうか。
 日中戦争も1970年代に山本薩夫監督によって映画化された五味川純平原作の『戦争と人間』などは日中双方の視点を意識した大作で、こういう視点を極端に目の仇にする人も日本ではまだ多いけれど、それなりにきちんとした正当な評価を保っている。少なくとも国土に外国(日本)の軍隊の駐留を受けた(中国や朝鮮)国民の立場も公平に描こうとする態度は、今回のイーストウッド監督と共通するのではないか。残念ながら中国国内にはこういう態度はありそうもない。(中国にとっては一方的な無過失の被害者で済むのかという問題である。)

 では現在の北朝鮮との関係も、何十年かすれば公平に見られるようになるのだろうか。金日成から金正日と続いた独裁政権の下で“祖国”への愛と忠誠を誓わせられ、十分な国際情報も与えられぬままに日本や米国や韓国を“敵”と教え込まれ、特殊訓練を受けて危険任務に赴かされた若者たちを、同じ人間として公平に描ける日がいずれ来るのだろうか。

 これは横浜港の海上保安庁施設に展示されている北朝鮮の工作船(不審船)だ。日本の巡視船と交戦して自沈した後、引き上げられて調査された船体である。常に瀬戸際外交を展開して近隣諸国間の緊張を高め、外国人拉致や麻薬密輸・偽札製造などの犯罪行為を半ば公然と行ない、先日はついに核実験まで強行した北朝鮮に対し、我々最近の日本人はどうしても敵意を先に感じてしまう。
 しかし金独裁政権の下で洗脳教育を受けて工作員となり、苦しい訓練の明け暮れの果てに、こんな粗末な工作船に乗って日本海に乗り出して生命を失った北朝鮮の若者たちを、好意的とは言えないまでも、同じ人間として公平に見ることの出来る日がいずれは来て欲しいと思う。



硫黄島上陸作戦の謎

 今年2007年は硫黄島作戦のあった1945年と同じ曜日になる。つまり硫黄島上陸が開始された2月19日は今年と同じく月曜日だった。上陸作戦開始前夜の日曜日、島にこもった日本軍将兵も不安と恐怖に襲われていただろうが、上陸を控えたアメリカ海兵隊員の不安と恐怖も相当なものだったのではないか。アメリカ側指揮官とすれば、日曜日に十分な休息を取って週明けから“仕事”という算段であったろうが、実際に日本軍の銃弾を浴びる兵士たちは、勇猛果敢を絵に描いたような海兵隊員ばかりではなかったに違いない。おそらく明日の自分の生命を思い、故郷の家族を思い、この日曜日が永遠に続いてくれたらいいと願っていたのではなかろうか。現在の我々のような敵弾が飛んで来ない職場でさえ、週明けの仕事始めは憂鬱である。

 ところで当時の硫黄島の日本軍陣地の攻略はアメリカ海兵隊以外には不可能だったのではなかろうか。島を守る日本軍も生命を惜しまぬ勇猛な軍隊なら、攻めるアメリカ海兵隊もまた生命を惜しまぬ勇猛さにかけては日本軍に勝るとも劣らないものだった。もし当時のドイツやソ連も含むヨーロッパ諸国の軍隊であれば、作戦開始数日間の損害に怯んで島の奪取を断念したであろうし、中国国民党軍も島を遠巻きにしていただけだろう。私の父は負傷兵ばかりの野戦病院で圧倒的な国民党軍に包囲されたが、敵は日本軍との白兵戦を恐れて攻めて来なかったという。中国八路軍はもっと勇猛だったらしいが、これは指揮官が兵隊を縦一列に並べて敵陣に突入させ、逃げる兵隊は後ろから射殺したというから、これでは兵隊は前へ進むより他に仕方ないではないか。しかしこの戦法では硫黄島の日本軍陣地は抜けない。

 要するに何を言いたいかといえば、約6800人もの戦死者を出してまで島を占領する意志と勇気と技量を持った軍隊はアメリカ海兵隊をおいて他に無かったということである。アメリカ陸軍(海兵隊とは別組織)でさえ単独で硫黄島に星条旗を立てるまで戦意を維持できたかどうか。

 逆に言えば、アメリカにとってここまでして硫黄島を奪取する必要があったのだろうか。私が硫黄島上陸作戦の謎と書いたのはまさにこの点である。バンザイ突撃だ、玉砕だ、特攻隊だと、人命を鴻毛の軽きに喩えて使い捨てにする日本軍とは異なり、アメリカ軍は一兵卒の生命でさえも決して無駄には失わせないのではなかったか。
 アメリカの対日基本戦略は、マッカーサー将軍のフィリピン・沖縄ラインと、ニミッツ提督のマリアナ・小笠原ラインの、合計2本の矢で日本本土に迫るというものだった。アメリカ軍は十分な余裕を持って対日戦に臨んでおり、マッカーサー将軍の担当作戦にしても、日本軍の南方拠点だったラバウルを後方に残してフィリピンを攻略している。これは開戦当初、日本軍の攻勢にフィリピンを追われたマッカーサーの意地もあったに違いないが、背後のラバウルを放置したままフィリピンを攻めるというのは、通常なら腹背に敵を受けて挟み撃ちにされる危険を冒すことになる。しかし日本軍をラバウルに残しておいても十分防ぎきれるという自信がアメリカ軍にはあったからこそ、敢えて人員を損耗するラバウル上陸作戦を避けたのではないか。
 日本軍はもう完全に舐められていたと言ってよい。フィリピンを落とした後は台湾を素通りして沖縄を攻めることが決定されたのは1944年9月、まだフィリピン作戦が本格的に始まっていない段階である。損害を出してまで台湾に上陸作戦を敢行する必要はない、さっさと沖縄を占領して日本本土に匕首を突きつけようという狙いである。不要な上陸作戦で兵員を損耗することは避けるというアメリカ軍の基本姿勢が窺える。

 ではなぜ硫黄島を攻めたのだろうか。硫黄島攻略が決定されたのは1944年9月、フィリピン攻略後は台湾を素通りして沖縄に上陸するという方針が決定されたのと同じ席上である。当時のアメリカ軍の戦力を考えれば、マリアナ諸島を足場にして、硫黄島の頭越しに日本本土上陸作戦も不可能ではなかった。
 一般には、マリアナ諸島を飛び立って日本本土空襲を行なっているB29爆撃機が損傷を受けた場合の不時着基地が欲しかった、またB29を護衛して行くP51戦闘機の基地が欲しかった、だから必死に硫黄島を取りに行ったということになっている。
 しかし硫黄島上陸が開始される2月19日まで、マリアナ基地から直接日本本土空襲を行なったのは東京、名古屋、神戸などへ計18回、延べ1602機が出撃して71機喪失という程度であるから(「丸スペシャル太平洋戦争海空戦シリーズ」より)、洋上に不時着して潜水艦や飛行艇に救助される搭乗員も多いことを考慮すれば、何千人もの海兵隊員を犠牲にしてまで硫黄島を奪取する必要性は感じられない。B29の喪失率はヨーロッパでの対ドイツ戦略爆撃の損害を上回っていたらしいが、上陸作戦開始前、日本軍守備隊の数は1万数千人と推定されていたから、順調に作戦が推移して人員損害を日本軍の1/10以下と見積もったとしても約1000人のアメリカ軍兵士が死傷するのである。B29爆撃機の搭乗員の死傷せいぜい数百人とは引き合わない。しかも硫黄島上陸作戦の頃から、日本本土空襲は夜間焼夷弾攻撃に方針変更された。したがって護衛戦闘機の必要性云々もあまり重要ではなくなっている。
 さらに硫黄島飛行場の日本軍戦闘機がB29爆撃機を待ち伏せして攻撃することがあるとは言っても、B29編隊の通過時間に合わせて硫黄島に艦砲射撃を加えるか、空母の艦載機を飛ばして一時制圧しておけばよいのである。海兵隊の上陸作戦に伴う損害に比べれば物の数ではない。

 ではなぜ上陸後も、海兵隊の損害が当初の予想をはるかに上回ってきているのに、作戦を一時中止しなかったのだろうか。兵員の人命を優先するアメリカ軍が硫黄島に力攻めをしたのは非常に不思議である。ラバウルや台湾に対する上陸作戦を余裕でキャンセルしたアメリカ軍とは思えない。硫黄島が強力な要塞だったから背後に残すわけにはいかなかったというのも理屈にはなっていない。アメリカ軍は当初、硫黄島などはせいぜい1週間で落とせると予想していたのであるし、もし日本本土上陸作戦が開始されれば硫黄島などは補給を失って孤立化し、重大な脅威にはなり得ないからである。

 私はここにアメリカという国家の戦後への意志を感じる。硫黄島上陸作戦の行なわれた1945年の2月から3月頃、アメリカ軍が次に予定していたのは沖縄上陸と日本本土上陸である。硫黄島上陸が沖縄や日本本土上陸の予行演習の意味を持っていたことは確かだろうが、純粋な軍事要塞への攻撃はこれが最後のチャンスなのだ。アメリカ海兵隊はガダルカナル島以来、装備の改良や作戦の手直しなどさまざまな経験を積んできた、その復習をしておきたかったのではないか。

 何のために…?それはその後、朝鮮戦争やベトナム戦争でのアメリカ海兵隊の八面六臂の活躍を見れば判る。海兵隊とは、地上部隊とそれを支援する艦艇や航空機が一体となって、地球上いかなる地域へも急速に展開できる陸・海・空総合戦力のユニットである。アメリカにとっては、枢軸国打倒後に控えている共産主義国家との戦争を遂行するために、どうしても欠くことの出来ない貴重な存在だった。
 もはや日本を打倒するためにはそれほど必要でもなかった硫黄島。それは次の仮想敵国、ソ連を筆頭とする共産圏諸国に見立てられていたのではなかろうか、というのが私の見解である。それが当初の予想をはるかに上回る損害を出してしまった。アメリカ軍上層部が周章狼狽したとすれば、まさにこの点に関してである。アメリカ軍にしては珍しく、上陸初日だけで2000人以上が戦死したとされるのに、1週間後の国内向け報道では戦死者644人としか発表していない。上層部にとっていかに衝撃的だったか。日米両国家の意地とメンツだけのために硫黄島に倒れた両軍将兵に対して、私は等しく涙を禁じ得ない。



半鐘泥棒

 最近、全国各地でマンホールの蓋やら、ガードレールやら、消防署の半鐘やらの金属部品が盗難の被害に遭っているという報道が多い。現在は別に火事があっても半鐘を叩いて知らせるという時代ではないが、やはり消防の象徴である記念品の半鐘までが盗まれるというのは由々しき事態である。こういう物を盗むのは、金属がまさに“金”になるからであって、そのうち家の窓枠、店のシャッター、電線やパイプ、自転車などから、駐車場に停めてあった自動車の部品や鉄道のレールまで、金属であれば何でもかんでも狙われる時代が来るのは時間の問題だ。

 ところで最近、人類の暗澹たる未来を予言するような新聞記事がひっそりと掲載されていたのを御記憶の方はどれくらいいらっしゃるだろうか。2007年2月16日の毎日新聞夕刊の該当記事を全文引用しよう。

「金属資源2050年にも枯渇」
 BRICs諸国と呼ばれる中国やインドなどの経済成長が現在のまま続くと、銅、鉛、亜鉛、金、銀など多くの金属資源が2050年までに枯渇するとの予測を物質・材料研究機構がまとめた。鉄や白金は比較的豊富で100年以上採掘可能とする試算も過去にあったが、今回は50年までに累積使用量が可採埋蔵量に達すると試算された。同機構は「このままでは地球規模での経済発展を賄えない」と警告している。
 同機構は、過去50年間に日本が使用した21種類の金属の使用量と経済成長率との相関を調べた。これを、先進国と中国、インド、ロシア、ブラジルのBRICsの経済成長予測に当てはめ、各金属ごとに50年までの累積使用量を試算。銅、鉛、亜鉛、金、銀、錫、ニッケルなど12種類の累積使用量は現時点の可採埋蔵量を上回り、インジウムは72倍、銀は10倍、鉛、金は約6倍となった。
 比較的豊富といわれている鉄や白金も、50年までには可採埋蔵量に匹敵する使用量に達することもわかった。 【下桐実雅子記者】


ということだが、これは人類に対する余命宣告にも等しいのではないか。人類は経済活動を止めて、今さら自給自足の狩猟生活に逆戻りするわけにはいかない。経済活動に必要なのはエネルギーもそうだが、とりわけ金属は重要な材料である。その金属資源があと50年もしないうちに採り尽くされてしまう。エサはあと50年分もありませんよという宣告である。

 かつて太古の時代、生い茂る植物を餌として草食恐竜が繁栄し、草食恐竜を餌とする肉食恐竜も君臨した。植物が繁茂しやすい気候だったのを幸い、草食恐竜も肉食恐竜も豊富な食物のおかげでどんどん体が巨大化していった。そして地球の気候変動とともにエサがなくなり、恐竜は絶滅した。
 これと同じことが間もなく人類に起こる。なに、50年の間には金属採掘技術も進歩するし、リサイクル技術も発達して人類を救うだろうなどと楽観していてはいけない。多少の技術の進歩はあるだろうが、人類が使用できる各種金属の量を一挙に2倍にしてくれるとは思えない。仮に2倍になったとしても、人類の余命は50年から100年に延びるだけである。

 これまでは石油の埋蔵量に限りがあるとか、石油を燃やせば地球が温暖化するとか、エネルギーの面だけしか考えられてこなかったフシがあるが、今度は人類の経済活動のエサそのものがなくなってしまうのだ。食物が不足してくれば人間は他人の分を盗んででも飢えを満たそうとして浅ましい行動に走る。半鐘やマンホールの蓋の窃盗はそういう時代の予兆である。

 もし人類に助かる道がわずかでもあるとすれば、それは哺乳類や鳥類に学ぶことである。地球上の食糧が枯渇して恐竜たちが絶滅していった時、哺乳類や鳥類たちはエネルギー効率の良い小さな体型をしていた。特に鳥類は恐竜から進化したと言われる。エサが豊富な時代であれば、肉体が大きい方が力も強くて寿命も長く、小さな動物よりは生存競争に適していただろうが、エサが乏しくなれば図体がデカイだけのヤツは自滅するしかないのである。
 アメリカとかEUとかBRICsとか日本とかいう恐竜が自滅していった後、鳥類のように生き残れる国や地域はどこか、地図帳を開いて探してみたらよかろう。もはや経済先進国の図体を小さくする術がない以上、そういう小さな国々までを戦争や温暖化で滅亡の道連れにしないことだけが、人類という種族の希望を未来につなぐ方法だと思う。



美しい国?

 2006年に安倍晋三政権が誕生して以来、「美しい国」という言葉をよく耳にする。美しい国造りが安倍政権のキャッチフレーズだそうで、首相自らが著者となった同名の本もだいぶ売れたらしい。美しい国…、まあ醜い国よりは結構でございますが…。

 美しい国という字面を初めて見た時、私はアメリカのことかと思った。私と同世代の人たちなら覚えておられると思うが、1960年代から1970年代にかけて、中国の文化大革命や毛沢東思想にかぶれた左翼学生運動家たちの反米闘争が盛り上がっていた。大学のキャンパスには学生運動の象徴であった立て看板(タテ看)がズラリと立ち並び、アメリカ帝国主義を打倒せよというスローガンが独特の汚い書体で殴り書きされていたものである。
 学生運動家たちの中にはそういうタテ看に『
国帝国主義打倒』とは書かずに、彼らの崇拝する毛沢東の故郷中国に倣って『国帝国主義打倒』と書く者も多かった。美国とは中国語でアメリカのことである。嘘だと思うならネットで「美国」と入れて検索すれば、アメリカ関連の中国語サイトがたくさん引っ掛かってくる。話のついでにそういうサイトからアメリカの州名を幾つか拾ってみたが、読めますか?夏威夷州、路易斯安那州、肯塔基州、密歇根州、密西西比州、蒙大拿州、内布拉斯加州、俄亥俄州、阿拉斯加州、佛蒙特州、威斯康星州、阿肯色州、康涅狄格州…。

 お遊びはこれくらいにして、安倍首相のいう美しい国とはアメリカのことだろうか。小泉前首相と同じく、この人もアメリカべったり、アメリカにそっぽ向かれたらあとは何の策も無さそうなことは、北朝鮮問題で6ヶ国協議の経過なんか見ていても明らかだが、まさか美しい国=アメリカそのものではなかろう。

 本当は国のトップに立つ政治家がこういう抽象的な表現で国の未来を語ることは望ましくない。具体的な定義の裏づけがないからだ。「美しい国」と言われた時に頭に思い描くイメージは人それぞれによってまったく異なっている。そしてどういうイメージを描いたとしても、「美しい国」は「醜い国」よりも良いに決まっているから、政治家から「あなたは美しい国に反対ですか?」と聞かれれば、誰だって「そんなことはありません。賛成です」と答えざるを得ない。
 これが非常に危険なのである。例えば「美しい国は?」と問われた国民が、山紫水明、風光明媚な国土を思い浮かべて「美しい国」のスローガンを支持したとしても、政治家の方は、上層部から命じられれば特攻隊として“美しく”死にに行く国民が大勢いる国をイメージしている場合もあり得る。教育改革における言動など見ていると、おそらく安倍首相の魂胆はそうだろう。

 政治家というものはこういう論理のすり替えを巧みにやるのである。その好例が「自由」という言葉である。「自由は良いことだ、この国は自由なんだ」と言っていた歴代首相が、国民には思想や言論や学問の自由など“精神的な自由”のバラ色のイメージを振りまきながら、実際には強い者が弱い者を自由に食い物にする“経済的な自由”に基づく政策を推し進めてきたではないか。今や“精神的自由”と“経済的自由”の違いを、法律など習わなかった人でも日本国民なら十分身にしみて思い知ったのではなかろうか。

 「美しい国」に関するバラ色のイメージ作りも現在着々と進行中である。国土交通省のウェブサイトなど見ると、まさに山紫水明、風光明媚な国土のイメージが散りばめられている。しかし誰がダムや河口堰や潮留め堤防などの過剰な公共事業で自然の生態系を壊してきたのか?誰がゴルフ場などに代表される国土の乱開発を許してきたのか?
 また「美しい国」を壊してきたのは廃棄自動車放置やゴミ投棄などモラルの無い行為であるとして、一般国民の心が美しくないからだと言わんばかりの表現もある。確かに国民のモラルが荒廃が見られることは事実であるが、では政治家はどうなのか?光熱水費無料の議員会館を事務所にしていながら、年間数百万円も事務所経費に計上していた大臣を首相がかばう。確かにこういう“美しい”友情のモラルは一般庶民には見られない。

 今のところ安倍首相が気取って「美しい国」などと口にしてみたところで、多くの国民がシラけて相手にしていないように見えることだけが救いである。少しは国民も政治家を見る眼が肥えたのか、それとも安倍首相がどうしようもない世間知らずで国民感覚が判らないだけなのか。



父の従軍記−湖南進軍譜−

 2002年8月末、父が倒れたと母から連絡があった。その年の3月には半世紀続けた医院を閉めて引退したばかりだったので、さすが歴戦の医者ともなると自分の寿命も悟って人生の後片付けをしてから逝くのかと感慨に耽りながら実家に向かう。玄関では母と弟夫婦が、これで父との今生の別れというような悲壮な顔で出迎えた。しかし最後の孝養で末期の脈を取らせて貰おうと覚悟して枕元に行ったら、何とただの脱水であった。確かに意識は朦朧として応答は無いのだが、死相がまったく出ていない。輸液の1本もすればすぐ戻るだろうと思い、私の勤務する大学病院に入院させた。
 結局、私の診断は正しく、父が天に召されることはなかったのだが、いずれそういう日が来ることも改めて実感させられた出来事であった。そうなれば父が中国で歩いた足跡が判らなくなってしまう、私が真っ先に思ったのはそのことだった。ご多分に漏れず我が家でも息子にとって父親は煙たい存在ではあったが、一方でまた父親の足跡を追っかけてみたいという思いも強かったのである。父が戦争中に中国戦線に従軍したことを、私たちは幼時以来、日常の話の端々から窺い知ることはできた。だがそれは北京の話であったり、八宝菜の話であったり、揚子江の話であったりしてさっぱり要領を得ないのである。そこで何とかこの入院の機会を利用して、父が通った足跡を少しでも復元しておく方策は無いものだろうかと考えた。

 だが父はあまり中国での従軍体験について得意になって語ることはなかったように思う。それはそうだろう、同じ陸戦経験者でも、南方で米豪軍と対峙した人たちには、連合軍の物量相手によく頑張ったという賛辞がある。ビルマ方面で英印軍と対戦した人たちには、無謀な作戦で大変でしたねというねぎらいの言葉がある。また満州方面にいた人たちには、横暴なソ連に戦後も長く抑留されてご苦労でしたという言葉がある。しかし中国戦線に行った人たちには、侵略者として中国人民をいじめたんじゃないかという冷たい目を向けられることの方が戦後の日本では多かったのではないか。中国戦線といえば南京大虐殺とか731部隊の人体実験とか、中国大陸の日本軍にはナチスドイツばりの悪役イメージが定着してしまった。
 これでは父に限らず、中国戦線からの帰還将兵たちの多くは口を閉ざさざるを得ないだろう。中国戦線からの帰還の確率は南方やビルマなどの激戦地に比べればかなり高かったと思われるが、戦後になってから出版された陸軍戦記の数は、帰還したはずの兵員数に比して明らかに少なかったと思われる。大体、昭和30年代の少年漫画週刊誌には戦艦大和とか零戦や隼とかの他に、マレー半島・フィリピン・硫黄島などの陸戦記が掲載されたことも何回かあったが、中国戦記が掲載されていた記憶はない。これもそういう戦後の微妙な雰囲気を反映しているに違いない。

 そう喋りたがらない中国戦線のことを、改まって顔を合わせて訊ねるのも何となく気恥ずかしいし、また仮に父も老境に入って多少は喋る気になっていたとしても、どうせ60年も昔の話だから記憶も曖昧になっているだろうと思って、私は一計を案じた。学習研究社(Gakken)から出ている『歴史群像』という雑誌に大陸打通作戦(父の参加した一号作戦)の特集記事があったので、それを老眼でも読めるように拡大コピーして入院中の父の病室に届けたのである。私としたら父が見聞きした事柄をそのコピーの余白や裏面にでも書き止めておいてくれたら、後から戦史と照合して父の足跡をたどる心積もりであった。
 ところが翌日、一晩かけて記事を読み終えた父は、自分は第二十七師団にいてここを歩いたとか、途中で別命を受けて最後まで師団と一緒ではなかったとか、ポツポツ話し出した。またちょうどこれと相前後して、やはり第二十七師団にいて同じ作戦に参加した兵科の藤原彰氏の戦記が出版されたので、それも買い求めて父に渡したら、どうやらこれが父を刺激したらしい。その後たまに実家に顔を出すと何やら奥の書斎でゴソゴソやっているような事がしばらく続いていると思ったら、あの入院騒ぎからちょうど1年経ったある日、「宿題ができた」と言って見せてくれたのが、大判の大学ノート106ページにわたって細かい文字でビッシリ書き記された戦記だったのである。また印象に残った情景については、小さなスケッチブックに鉛筆による素描が何枚か添えられていた。

 この戦記は一旦、個人書店という出版社から自費出版したが、その時に読んで下さった何人かの方からの疑問に答える形で、さらに膨大な原稿が追加され、これは潮書房の『丸』という雑誌の巻末長編戦記として、2006年の3月号と4月号にわたり、「光るは露か湖南進軍譜」と題して掲載して頂いた。これには過分な原稿料も頂いて、おそらく父にとってこの世の最後の稼ぎ(年金や恩給は別)となるであろうが、やはり残念なことに紙面の制約上、軍医としての医学的な事項については大幅にカットしなければならず、また鉛筆描きの素描も載せるスペースはなかった。
 一般向けの軍事雑誌であるから止むを得ないことであるが、私は父と同業者という立場上、やはりちょっと惜しいと思っていたところ、戦記完成後に突然作文に目覚めた父が地区の医師会の会報に従軍記を投稿しはじめたのである。こちらは同業者向けということもあり、また原稿を書いてくれる奇特な会員もそれほど多くない雑誌であるから、前後3号にわたってかなり専門的な事項も含めた記事が全文掲載された。

 そこで私は、最初の戦記をベースにして、今回の医師会会報の原稿内容を織り交ぜた新規の原稿を作成し、このウェブサイトに公開することを思い立った。もちろん素描も一緒である。父がなぜ軍医になったか、それもなぜ陸軍二等兵の新兵体験を経なければならなかったか、さらに父が所属した野戦病院とはどういう組織か、などという医療関係の詳細な記事に関しては、このサイトが初公開となる。

 父が中国戦線に従軍した事実をこのサイトに公表することに関しては、私も多少躊躇するところがあった。私にも何人か中国の友人がいる。私の父が軍務で中国に渡ったのは、日本の敗色濃くなった昭和18年のことであり、確かに現在日中間で問題になっている南京大虐殺などのあったとされる時期ではないが、やはり日米戦などに比べると微妙な問題を含む日中戦争に私の身内が参加していたことなど、わざわざ言わなくても良いじゃないかという気持ちもあった。
 しかし個人の親交と国家間の歴史は違う。国家の歴史に関しては隠したり遠慮したりするべきではないと思い至った。私の父も当時のほとんどの日本兵士たちも、何も好んで鉄砲担いで中国に渡ったわけではない。厳然たる国家間の歴史の中で、個人的な意志に関係なく、戦闘行為に参加したのである。
 その歴史の中で何があったのか。それを語り伝えるのが体験者たちの義務であり、また現存する体験者たちが少なくなった現在では、その言葉を受け継いだ者たちが代わって語り伝えなければいけないのではないか。限りある生しかない人間が希少な体験を後世に伝えるにはそれ以外にない。それもできるだけ元の言葉のままで…。

 そういうわけで父の戦記を再び『湖南進軍譜』という原題でここに書き止めておくことにした。最近ではまた日本は第二次世界大戦で負けたのはアメリカに対してであって、中国に負けたわけではないぞという強がりが聞かれるようになってきたが、この従軍記を読むと必ずしも正しくないと思えてくる。確かに中国はアメリカなどの連合国の援助なくして日本軍に勝つことはできなかったかも知れない。しかし「遠交近攻」というか、当面の敵を叩くためには、後世の敵となるかも知れぬアメリカとも結び、犬猿の仲である国民党と共産党も手を組む、そういうしたたかな戦略を持ち得る底知れぬ国であることが実感されてくる。
 また軍医関係の戦記もこれまで何冊か出版されているが、また違う立場からの医学的考察や実地見聞の記録など、現代の医療関係者としても興味がある。それではこちらからお入りになって下さい。湖南進軍譜
 なお日本語ワープロに変換が難しい中国の地名に関しては、止むを得ず字の色を変えてカナ書きにしてある。



ジパング黄金狂騒曲

 2007年3月18日、日曜日の午後0時45分頃、その事件は起きた。岐阜県高山市丹生川町の飛騨大鍾乳洞に併設されている大橋コレクション館から、重さ100キロ、時価2億円の金塊が強奪されたのである。鍾乳洞発見25周年を記念して1989年から展示されていたという。この鍾乳洞は、私も浜松勤務時代に病院の職員旅行で訪れたことがあるが、その時はまだ金塊の展示はなかった。
 事件当時、日曜のお昼時というのに来場客は皆無で、金塊展示場の一つ下のフロアに女性従業員が2人だけだったそうで、4人組の犯人は手薄な警備の隙を見計らって金塊の台座を破壊して盗難車で運び去ったらしい。まるで映画のような…と言いたいところだが、何とも間抜けな話である。

 多くのメディアでは、2億円もの金塊を展示するのに常在のガードマンも置かず、あまりにも警備体制がお粗末だったと指摘する声が多い。確かにその通りだが、日曜の昼時のゴールデンタイムに入場者がほとんどいないような展示館に、ガードマンなど雇う経済的余裕などなかったのであろう。また山奥や離れ島のようなもともと鄙びた土地では、昔から泥棒もいなかったので家の鍵を掛ける必要もないと聞いたことがあるが、そういう他人の善性を信じる土地柄も無防備な展示体制につながったかも知れない。
 しかし私が「間抜けな話」というのは、そういう手薄な警備のことではない。何で鍾乳洞に金塊を展示するのかということである。鍾乳洞発見25周年のモニュメント…。金鉱が発見されて採掘が始まってから25周年というなら話は判る。そんなに金塊がありがたいのか。

 ここで思い起こせばバブル景気の真っ只中の1988年から1989年にかけて、当時の竹下登首相は「ふるさと創生」とか称して、全国3200余の市町村自治体に対して一律に1億円をばら撒き、各自治体が自分たちで自由に使って「ふるさと」を作れと指示したことがあった。現在から考えると何とも夢のようなバカバカしいバブルな話で、これを「ふるさと創生基金」という。
 濡れ手に粟で、お上から1億円もの大金を下された各自治体の使い道は、これまた何ともバカバカしいものも多かった。中でもやはり純金絡みの話は目立っていて、兵庫県津名町では1億円の金塊を買って展示した、青森県黒石市では純金のコケシを作って展示した、高知県中土佐町では純金のカツオを作って展示した。どこの自治体だったか忘れたが、やはり1億円の金塊を買って海に沈めようという話も出て物議を醸した、沖合いに金塊が沈んでいると思うだけでロマンであり、新しい黄金伝説ができるんだそうだ。こんなアホなことを考える議員しか選べない自治体は不幸である。さすがにこの話は沙汰やみになったらしく、その後は話題にもならないようだが…。
 しかし中土佐町の金のカツオは後日盗難に遭った、黒石町の金のコケシと津名町の金塊はいずれも自治体の財政悪化のため売却の話も出て、住民の間で議論が巻き起こっているらしい。金という絶対的経済価値の裏づけを持つ物に換えておいたために、当時の基金1億円は現在では1億数千万円になっているらしいが、やはり金というものは人間の欲望をかき立てて、最後はロクなことにならないようである。

 そんな金の塊りをただ飾って満足している人間の中でも最近の日本人は特に間抜けである。ただ金塊をありがたがって、見て喜び触って楽しんでいるだけで、他に使い道を知らないのではないか。展示して客寄せに使い、海に沈めてロマンを買おうなどと言い出す間抜けな人種。バブル景気の頃、高級寿司店では金箔で握り寿司を包んで食うような成金どもが写真週刊誌に載って話題を撒いた。古今東西、金は王侯貴族など特権階級が独占して権威の象徴とされるのが常だったが、ここまで馬鹿なことをした民族はいなかったのではないか?

 申し訳ないが、今回の飛騨の金塊盗難事件を読んで割り切れないものを感じた。日本人は本当の金の価値を知らない。かつては黄金の国ジパングと称され、中世から近世のヨーロッパ人の憧れの的、コロンブスもジパング目指して旅立ったと言われているほどだが、江戸時代末期には日本の金・銀交換レートが他のアジア諸国よりも割が良かったので、当時のヨーロッパ商人たちのカモになって、多量の金が海外に流出したと言われる。金の工芸品製作には優れた技術を持っていたが、その経済価値に関する国際情報にはその頃から疎かった。

 確か子供の頃に読んだイソップの寓話だったと思うが、こんなのがあったのを覚えている。ある欲張りな親爺が金塊を庭に埋めて、毎晩密かに掘り出しては、それを眺めて喜んでまた埋めておく。ところがそれを見たイソップが金塊を別の場所に隠して代わりに石ころを埋めておいた。今夜も掘り出して目の保養をしようとした親爺は、金塊が石ころに変わっているのを見て嘆き悲しむが、イソップいわく、
「あんたのように金塊をただ眺めているだけなら石ころでも同じことだ。あの金塊はもっと有益に役立てる人のところへ持って行った方がいいよ。」
イソップが金塊を返したかどうかは覚えていないが(大体イソップ物語は世界各地で語り伝えられる内容が異なっているので、たぶん日本の子供向けの話では金塊は返したのではなかろうか)、とにかくイソップはそう言って欲張り親爺を諭したということになっていた。
 しかしお客さんが金塊展示を見て触って幸せな気分になるのだから、それを強奪する犯人を決して許せるものではないが、今回の強奪事件が万一迷宮入りして金塊が失われてしまった場合、日本人はこれを教訓として不幸中の幸いとするべきである。トマス・モアが理想の世界を描いた有名な著作『ユートピア』には、ユートピア人たちは金銀で飾り立てて富を見せびらかす他国人たちを嘲笑しているとあった。それは単なる虚栄だからである。日本人が本当に金の価値を引き出せる民族になれるかどうか、今回の事件からどういう教訓を得られるかにかかっている。
 これは金(きん)に限らず、いくら金(かね)を持っていても、有効なところに出し惜しみ、却って後から大損をこく馬鹿な守銭奴も日本には多いのではないか。

補遺:
 その後ネットで調べたら、金塊を埋めておくイソップの寓話で一番多く紹介されているパターンは、次のようなものだった。
 守銭奴が金塊を埋めて毎晩掘り出しては楽しんでいたところ、泥棒に盗まれてしまう。嘆き悲しむ守銭奴親爺を慰めて言うことには、「そんなに悲しまなくてもいいよ。どうせただ眺めているだけで有効に使わないなら、金塊の代わりに石ころを埋めておけばいいんだから。」
 私が幼い頃に読んだのもこのパターンだったかも知れないが、何しろ○十年も昔のことだから思い出せない。ただし物語のモチーフは大体どれも同じである。このパターンだとまさに今回の飛騨大鍾乳洞の事件そのものではないか。イソップならこう言うだろう。
「金塊が盗まれたってそんなに悲しまなくてもいいですよ。ただ展示しておいて有効に使わないなら、金塊の代わりに鍾乳石でも展示しておいたらどうですかね?」
 万一、金塊を取り返せなかった場合は代わりに石を展示して、このイソップの寓話を紹介するコーナーに作り変えたらいいのではなかろうか。金(かね)を儲けるだけ儲けておきながら、安全対策に出し惜しんだために長年培ってきた顧客の信頼を一気に失った馬鹿な守銭奴一族が経営する老舗の洋菓子メーカーが話題になったばかりだ。財力は有効に使わなければ意味がないという教訓を伝えるために今回の事件を活かせば、日本にもまだ救いがあるというものである。

後日談:
 この事件、3ヶ月後の6月19日に盗まれた金塊の一部を所持する男女3人が逮捕されたという報道があった。金塊は切り売りされたらしく、約2/3の大きさになっていたらしいが、まずは現物が戻ってきて良かった、良かった…。しかし目減りして戻ってきた金塊を再び展示するかどうか、野次馬としては興味の尽きないところではある…。



沖縄戦の集団自決と教科書検定


 来春から高校で使用する教科書の内容に関する2006年度の検定結果が文部科学省から公表された。やはりその中で特に問題となるのは、沖縄戦における住民の集団自決について、従来は日本軍による強制を認めていたが、強制や命令とは言えないとして歴史教科書の記述の修正を求めたことである。その理由としては、集団自決を命令したとされる日本軍の元少佐が、裁判で命令を否定する証言をしたことが挙げられている。

 確かにタイムマシンで1945年の沖縄戦の現場に戻って確認しない限り、集団自決の命令があったかどうかなど断定できないし、また仮に現場を確認したとしても、具体的に沖縄防衛に当たった師団長や大隊長、中隊長、小隊長といった現場責任者が住民を集めて「国に殉じろ」と言って殺害したり自殺幇助した事実などはないだろう。あったとしても局地的なものであり、国家機関としての軍の責任にまで及ぶようなものではなかったはずだ。

 しかし検定意見の理由として法廷における証言を挙げるべきではない。座間味島で集団自決を命令したとされる元少佐が、命令の事実はなかったと大阪地裁で証言した事実を文部科学省は重視しているが、裁判で争われた事実であれば両論併記すべきであるのに、両論併記では誤解されるとして「日本軍による命令」の記述を削除させたらしい。歴史研究に対する政治圧力と言ってよいだろう。
 そんなことを言い出せば、教科書に不名誉な記載をされた過去の歴史上の人物すべてについて名誉回復のための再調査をしなければならなくなる。あの世では明智光秀が織田信長を殺ったのは俺じゃない、やらされただけたと訴えているかも知れないではないか。

 それでも信長は光秀の軍勢に囲まれた本能寺で落命したわけだし(本当は厳密に言えばこれだって“事実”として認定してよいかどうか判らない)、沖縄戦では住民が集団自決したわけである。古今東西の歴史を見れば、戦いに負けた方の住民が、具体的な命令があったにせよ無かったにせよ、集団で自決するなどということは、特に近世以降の歴史においてはかなり異常なことである。その異常なことが日本で起こったという事実こそが歴史である。
 文部科学省は、極限状態に置かれた住民がさまざまな事情の絡みで集団自決したとの指摘もあるなどと、まるで集団ヒステリーででもあるかのごとき見解を述べているが、これは日本国民を愚弄するものではないか。

 なぜ集団自決が起こったか。それは軍が昭和16年1月に制定した戦陣訓がそもそもの発端ではなかったのか。「生きて虜囚の辱めを受けず」とは軍人に対する行動規範として定められたものであり、確かに住民の行動までを縛るものではなかった。しかし昭和19年のサイパン島陥落の際、島の北端に追い詰められた婦女子を含む大勢の一般住民までが断崖から身を投げるという悲惨な状況に対して(これがバンザイ・クリフの地名となった)、赤十字など国際機関が日本政府に現地の住民保護を呼びかけるよう要請したが、これを日本政府が一蹴した事実を何と考えるのか。サイパン島における住民の集団投身自決を国際機関から知らされた当時の日本政府は、我が国では婦女子までが国に殉じる覚悟を決めているとして、これを内外に向けて賞賛したのである。
 これでは同じ状況になったならば、そして沖縄ではまさに同じ状況になったわけであるが、日本軍が玉砕した後は住民も後を追って死ねと命令したも同然ではないか。しかも集団自決を命令したのは現地指揮官ではない、日本国家そのものだったのだ。歴史教科書には沖縄戦の局地的状況で生じたかも知れぬ事柄を記載するよりも、当時の日本国家が軍人ばかりでなく民間人にまで自決を強要する背景を持っていたこと、そしてその精神的土壌を具体化させた責任者が現在でも“神”として靖国神社に祀られている事実をこそ記載するべきではないのか。

 戦陣訓を通じて負けたら死ねと軍人に命令したのは東条英機陸軍大臣、またサイパン島で住民までが断崖から身を投げたのを賞賛して、一般日本国民もかくあれと命令したのも同じ東条英機首相が率いる日本国家だった。そういう国家の意向を受けて従容と自決した沖縄住民に対して、まるで集団ヒステリーであったかのごとき見解を述べて、従来の教科書の記載を削除させた文部科学省の役人どもには怒りを禁じ得ない。結局はこれが従軍慰安婦問題などに対しても同じ態度なのではないか。自国民すら大切にできない政府や役人が、外国人を大切にするわけがない。
 考えてみれば被爆者に対する援護も不十分だったし、水俣病やイタイイタイ病などの公害に苦しむ住民たちにも冷淡だった。またテロ対策などと言って米軍の派手な軍事行動には追随するくせに、テロの犠牲になった国民や遺族に対する支援などは、欧米各国に比べたら無いに等しい。
 歴史教科書の記述に検定意見が付されたこと自体は小さな事件に過ぎないかも知れないが、それと軌を一にするこれだけの背景があることを我々は見逃してはならない。



昭和の日

 2007年4月29日は「昭和の日」と呼ばれる最初の祝日となった。昭和時代には「天皇誕生日」であり、平成になってからしばらくは「みどりの日」と呼ばれていたが、2007年からは「昭和の日」になるということである。
 2007年度の大学の新入生の中には、平成の早生まれ(1〜3月生まれ)の人がチラホラ見受けられる。入試面接をやっていて愕然としたものであるが、考えてみれば他の大多数の新入生も昭和62年・63年生まれであるから、彼らが物心ついた時にはすでに世は平成時代になっていた。たぶん私たちの前後の世代が大学に進学した頃には、ついに戦争を知らない世代が大学生になったと言われていたことであろう。こうやって時代は移っていくのである。

 では昭和とはどういう時代だったのであろうか。これは一口に言うのは難しい。例えば明治時代も45年まであり、昭和に次いで長い元号だったが、幕藩体制が消滅して近代的国民国家が成立すると同時に、鎖国を解いて諸外国との交易を開始してから、富国強兵政策の下、日清・日露戦争を勝ち抜いて、世界の強国の座に登り詰めるまでの時代として、比較的まとめやすい時代でもあった。もちろん紆余曲折はあったが、明治日本の出発点と到達点は歴史的に明確である。

 しかし昭和時代はこうは行かない。昭和は大きく前期と後期に分けられ、明治・大正日本の栄光を背負って出発してから無謀な太平洋戦争でドン底に突き落とされるまでが前期(戦前昭和)で、そのドン底から這い上がって東京オリンピックを境にめざましい経済躍進を遂げ、バブル経済の頂点に達するまでが後期(戦後昭和)ということになる。
 こういう時代を記念して「昭和の日」を制定したと言われても、はたして昭和時代の何を記念しているのか、さっぱりピンとこないものがある。日本国民が昭和時代の真髄として後世に記憶していくべきものは何なのか?軍事的に突っ張って日中戦争から対米英戦争に突入していった時期のことなのか、廃墟の焼け跡から立ち直って奇跡の経済発展を遂げていった時期のことなのか。

 この昭和時代を通じて一貫して共通しているものが2つあると私は考えている。一つは日本国民、もう一つは昭和天皇である。

 日本国民はおそらく世界でも有数の従順で勤勉な国民であろう。骨身を惜しまず働くうえに、上級者に対してはほとんど文句も言わない(言えない)。これが軍事の時代においては世界最強と言われた兵隊の育つ土壌となった。世界のジョークの中にこんなのがある:世界最強の軍隊はアメリカ人の将軍・ドイツ人の参謀・日本人の兵隊の組み合わせである。(ちなみに世界最弱の軍隊は中国人の将軍・日本人の参謀・イタリア人の兵隊とのこと…。)
 また義和団事件(昭和ではないが)で列強の軍隊の駐留を受けた中国で、中国の兵隊が最も嫌った相手はロシア軍と日本軍だそうで、その理由はロシア軍は乱暴だから、日本軍はマジメに戦争するからだったらしい。

 こういう日本の国民は戦争末期、一億玉砕を合言葉に一般兵士たちばかりか、市民たちまでがサイパン・沖縄・日本本土で文句も言わずに死んでいったが、この国民気質は戦後も経済戦士として受け継がれ、日本は奇跡と言われた戦後復興と経済躍進を遂げた。同じ敗戦国だった西ドイツと肩を並べるほどの復興と発展は、日本人も欧米人種に劣らぬ能力を持っていることを証明したもので、かつての明治日本の発展が決して僥倖や偶然の産物ではなかったことを改めて世界に知らしめたものであり、これは日本人として誇りを感じてもよい。

 しかし日本の経済発展に恐れを抱いた欧米人は、日本人をウサギ小屋に住むエコノミック・アニマルと呼んで蔑んだ。恐れと侮蔑は紙一重である。
 さらにこの軍事・経済における2度の奇跡的発展が、文句も言わずに骨身を削る日本人の国民性に
のみ依存していたものであったとすれば、手放しで得意になってばかりはいられないのではないか。こういう国民の血と汗の上に胡坐をかいてきた無能な権力者を許してしまうことになるからだ。

 ここで昭和の戦前・戦後を通じたもう一つの共通項である昭和天皇が重要な意味をもってくる。昭和天皇は立憲君主制の本義を守ろうとして、戦前の軍部や政治家の政策に対して発言を控えられておられたと告白しておられる。2・26事件の時に反乱軍の鎮圧を命じて以来、太平洋戦争の終戦の御聖断までの間、昭和天皇は政権の中で沈黙を守り通された。したがって戦争による惨禍は決して昭和天皇の責任でなく、広い意味での戦争責任すら昭和天皇にはなかった。
 それにもかかわらず、昭和天皇は戦後進駐してきた連合軍を統括するマッカーサー司令部に自ら赴いて、自分はどうなってもよいから日本国民を救ってくれとマッカーサー将軍に直訴されたのである。昭和天皇は自分を戦争責任者として処刑せよと強硬に主張する国があることを知っておられた。それを承知の上で自ら国際法廷に立ち、絞首刑も辞さないから国民を助けてくれと懇願されたに違いないのである。この時、昭和天皇44歳。
 こういう君主が世界中のどこにいるだろうか。民のかまどに煙が立つのを見て喜ばれたという古代の故事が必ずしも作り話ではないことを証明しているといってよい。昭和天皇の訪問を司令部で受けたマッカーサー将軍が、天皇を見下すように傲然と並んで立つ有名な写真があるが、マッカーサーが後に人に語ったところによると、昭和天皇が自分の生命乞いに来たものだとばかり思っていたところ、自分の代わりに日本国民を助けて欲しいと懇願されたので厳粛な気持ちに打たれたらしい。

 前線の日本兵士たちで死ぬ間際に「天皇陛下万歳」と叫ぶ者は意外に少なかったらしいが、やはり戦後のマッカーサー司令部を訪れるような君主を戴いていたことは、昭和日本の誇りであったと考えてよいと思う。戦後の大部分の時代、勤勉で従順な国民の上に実質的に君臨していた自民党政府の大臣や高官の中に、昭和天皇の半分でも国民のことを考えていてくれた者はどれくらいいたのか。実質的に自分の責任でないことまでも、自らの立場にかけて一身を以って償おうとした者はどれくらいいたのか。
 そのことに思いを致す日として「昭和の日」を制定したのであれば有意義なことだと私は思う。



俺は、君のためにこそ死ににいく…?

 『俺は、君のためにこそ死ににいく』という映画が2007年5月12日に東映系で封切られた。『ホタル帰る』(赤羽礼子、石井宏著)で一躍有名になった知覧の陸軍特攻隊を描いた映画で、特攻隊員たちを本物の母親と同じように慈しみ、心からその死を悼んだ鳥濱トメさんを中心に物語は進むらしい。現東京都知事の石原慎太郎氏が制作の指揮をとったことでも話題をまいたし、この映画にあやかって『ホタル帰る』の本も増刷されて書店に平積みされ、特攻隊や特攻作戦を特集した雑誌の別冊特集はいつになく多い。

 私はこの話は何度でも書くが、どう考えても釈然としないのである。確かに今度の映画も石原慎太郎氏自らがインタビューで語るとおりの反戦映画であろうし、さらに赤羽・石井氏の『ホタル帰る』や、特攻作戦の別冊特集も、隊員たちの死を不条理なものとして悼む視点だけは一応保っているように見える。そして当然のことながら、日本人は特攻精神を堅持しましょうとか、一朝事ある時は我が身も顧みず国に殉じましょうなどと主張する者など誰もいない。

 だがそれならなぜこういう作品や出版物の中に、「愛するもののために死んでいった」とか、「敢然と使命を果たした」とか、「隊員たちの熱き思い」などという美辞麗句ばかりが目立つのか。そもそも特攻隊員たちの死を「散った」と表現すること自体、人間を桜の花にたとえて日本人の美意識に訴えたいという意図が見え透いている。
 多くの特攻隊員たちの犠牲にもかかわらず日本は戦争に敗れてしまった、でも特攻隊員たちが犬死にだったとしたらあまりにも気の毒である、せめてその死に方は無駄ではなかった、美しくさえあったとして讃えたいという心境はよく判る。それが「散る」という言葉に託された我々日本人の心情である
 しかしほとんどの日本人がここまでで思考停止している間に、我が国は再び、口先では特攻隊員をはじめ国に殉じられた方々を讃えながら、福祉や医療面で国民を平然と切り捨て、戦前回帰の教育改革・軍政改革を躊躇なく推し進める政治家が跋扈する国になってしまった。

 私の特攻隊論は、これも何度でも書くが、次のとおりである。
祖国を守るために身を捨てて敵艦に突入した若者たちがいたことは日本民族の誇りである。しかし軍政・軍略・作戦の失敗を若者たちにだけ尻拭いさせて自らは生き残り、何ら道義的責任すら取らずに戦後栄達した指揮官がいたことは日本民族最大の汚点であり、恥辱でもある。
 ほとんどの日本人はこの後半部を理解していない。まして石原慎太郎氏のような指導者層が、ヘタすれば自らの行跡にもかかわってくるような後半部を強調するはずがない。かつて「美しく散った若者たち」がいたということだけを描いて国民を感動させようという魂胆がもしあったとすれば、国民はそういう指導者層の意図を見抜けるくらい賢くならなければいけない。
 もっとも私はまだ石原氏制作のこの映画を観ていないので、本当はこういうことを憶測で書いてはいけないのだが、石原氏の日常の言動を見ていれば、たとえば昭和20年代の映画『雲ながるる果てに』に描かれたような指導者への憎悪に近い怒りまで描かれているとは思えない。

 今回の映画にあやかって出版された別冊特集の中で、別冊宝島『特別攻撃隊−決して忘れてはいけない歴史の真実!』は少し異色だった。森史朗氏(『敷島隊の五人』の著者)は記事の中で指揮官を愚劣と糾弾し、大西中将1人に責任を押しつけて責任回避した旧指揮官クラスを非難しており、さらに桃井四六氏が『ホタル帰る』についても、赤羽・石井両氏のあまりに美しすぎる記述を高木俊朗氏の『特攻基地知覧』と並べて公平に紹介している。(この件に関しては私もこのサイト内に関連記事「ホタルの変遷」を書いている。)

 この別冊宝島の中に知覧の富屋旅館三代目女将の鳥濱初代さんの話が出てくる。富屋旅館は戦時中はトメさんが切り盛りして特攻隊員たちの憩いの場になっていた場所である。その三代目はトメさんの孫のお嫁さんだそうで、初代さんは今でもトメさんと特攻隊員たちの語り部になっておられるようだが、おそらくトメさんの口癖だったであろう言葉がいつも最初に出るそうだ。
「伝え間違っちゃいけないよ。あん子らの供養とこの国の平和と発展のために…。」

 平成日本では、特攻隊員たちが伝え間違えられていないだろうか。我々は本当に愛するもののために死にに行けるのだろうか。誰でもいい、この人のために死んでもいいと思える人を頭に思い浮かべてみるがいい。そしてその人と一緒に生きるよりも、その人のために死にに行けと命じられる自分を想像してみるがいい。あなたは本当に死にに行けるのか。
 せいぜい、本当にその人のためになるのなら、と条件付きで死にに行くのがやっとだろう。しかし特攻隊員たちにはその条件付けすら許されなかったのだ。彼らは愛するもののために死んだ、などと軽々しく口にできる人間を私は絶対に信用できない。これからの日本は経済的にも環境的にも重大な局面を迎えることだろうが、本当の土壇場が来た時にはそういう人たちは真っ先に死にに行くことができるのだろうか。

 おそらく鳥濱トメさんは戦中から戦後にかけて、口先だけで立派なことを言う人間をたくさん見てきたことだろう。そういう人間たちが口をきわめて特攻隊員を賛美するのはイヤと言うほど聞いているはずだ。そのうえでなお「伝え間違っちゃいけないよ」と孫に語っていたトメさんの心…。別冊宝島に今回この話が載ったのは、特攻隊が浅薄な美談に仕立て上げられていくばかりの平成の世を、亡きトメさんが今もなお地下で憂えているからではないのかとふと思った。



また一つ歴史が変えられた

 2007年5月に封切られた東映の映画『俺は、君のためにこそ死ににいく』が、半年後になってやっとDVDで観られるようになった。今度この映画をDVDで鑑賞する機会を得たので、前回批判めいたことをこのウェブにも書いた手前、簡単に総括しておく。前回の記事をお読みになっていらっしゃらない方は、そちらを先にお読み下さい。

 まず一言で言えば、やはり思っていたとおりの映画であった。知覧の特攻隊員の母と呼ばれた鳥濱トメさんと若き隊員たちとの心の交流は非常によく描かれている。岸恵子さん演じるトメさんが隊員たちのために憲兵隊に反抗する場面は、実際のトメさんもかくあったであろうと思わせるほどだ。本当にトメさんの身体には憲兵隊からふるわれた暴力の跡があったという。
 また知覧のシンボルとなったホタルになって帰って来た隊員の話、出撃前夜にアリランを歌っていった朝鮮半島出身の隊員の話、新妻に心を残して事故死した隊員の話、途中の島に不時着して再起を期す隊員の話、これらはいずれも知覧の特攻隊員たちの逸話に残るものであるが、過度に感傷的にならず、淡々と実にみごとに映像化されていると思う。ここまでは、さすが石原慎太郎氏と賞賛できるのだが…。

 石原氏は映画の冒頭で次のようなメッセージを送っている。
「雄々しく美しかった、かつての日本人の姿を伝えて残したいと思います」
石原慎太郎氏のような政治家はなぜここまでしか物を言わないのか?特攻隊を賛美し、靖国神社に参拝する政治家は皆そうだ。

 特攻隊に関する歴史は、私がこのサイトのあちこちに書いているように、「雄々しく美しかった日本人の姿」だけを描いていては完全ではないのだ。隊員たちにだけ死を命じて自分は生き残った「女々しく醜かった日本人の姿」までを描かなければ、我が国にとって後世まことに憂うべき事態となることは間違いない。事実、国民だけ痛みに耐えさせて自分たちは甘い汁を吸った「女々しく醜い日本の為政者の姿」は、最近もニュース報道でイヤと言うほど見ることができる。(“雄々しい”“女々しい”という対の言葉は明らかな男尊女卑だと思うが、ここでは石原氏に異議を唱えるために、敢えて歴史的用法のまま使わせていただく。)

 特攻隊研究でこういう考え方もあることを意識したのか、石原氏はこの映画の中で実に驚くほど狡猾な歴史の捏造を行なっている。若い人たちはせっかく映画を観ても、この捏造には気付かない人がまず大部分だろう。
 『俺は、君のためにこそ死ににいく』の映画は、冒頭フィリピンで日本最初の特攻隊が決定されるところから始まる。大西瀧次郎
海軍中将が関行男大尉を特攻第一陣の指揮官に指名する有名な場面だが(本当は大西の意を受けた副官が関大尉を指名したことになっている)、これはあくまで海軍の特攻作戦の口火であって、大西中将は陸軍の特攻までを命じたわけではない。
 しかし映画では、
海軍の関大尉の出撃を述べた後は、知覧の陸軍特攻隊のエピソードを次から次へと描いたうえで、終戦の日に大西海軍中将が特攻の責任をとって自刃する場面を挿入している。これは映画制作者が何を意図したものか、観客はきちんと理解しておかなければいけない。(巷間伝えられる記録によれば、関大尉は長髪をオールバックにした現代風の好漢だったというが、映画の関大尉は丸刈り頭だった。何か制作の意図があったのかも知れないが、これはとりあえずどうでもよい。)

 確かに日本最初の特攻隊を編制した現場指揮官は大西
海軍中将であり、彼は終戦の日に部下の海軍特攻隊員たちに詫びて自刃したのである。大西に陸軍特攻隊員たちにまで詫びる気持ちがあったと考えるのはあまりに荒唐無稽であり、日本の官僚組織のあり方を知らない意見である。大阪府の不祥事の責任を取って東京都知事が辞職するようなものだ。

 おそらく石原氏は映画の中でこう言いたいのであろう。若き特攻隊員たちは死をもって敢然と任務を果たしたが、上層部もまたきちんと落とし前をつけたのだと…。
 しかし
陸軍には死をもって隊員たちに詫びた高級指揮官などいなかった。フィリピンの陸軍特攻を指揮した富永恭次中将は、自分もこの地で死ぬと豪語し、報道陣を意識した熱弁をふるって隊員たちを死地に送り続けたが、フィリピン戦の最終段階にきて病気を理由に辞任を申請、中央の許可もないうちに勝手に台湾へ脱出して、司令官の敵前逃亡とまで言われた。(後世の安倍晋三などという人間によく似ているではないか!)沖縄戦の陸軍特攻を指揮した菅原道大中将も終戦の日、最後の特攻機で出撃すべきという部下の進言を拒否し、終戦後も自決の機会を逸して部下たちの謗りを受けつつ天寿を全うした。(これも莫大な予算を食い潰してオリンピック招致に失敗しておきながら、責任を取ろうとしない石原慎太郎都知事などという人間の同類項か?2009年10月追記)

 これではさすがの石原氏も映画には描けないではないか。石原氏はこの映画を作る以上、隊員たちと共に上層部もまた雄々しく美しかったのだと、嘘でもいいから主張する必要があった。だが石原氏は軍や部隊の上層部が若者たちにだけ死の出撃を命じておいて、自分たちは責任を回避した史実を知っていた。そして自ら制作指揮した映画ではその事実を伏せて、国民に対してのみ雄々しく美しくあれというプロパガンダを行なうべく、
海軍陸軍の話を都合の良いところだけ継ぎ合わせて、まったく妙な映画をこしらえたのだ。日本の指導者層の一人である石原氏のような人が、こういう巧妙な歴史の捏造を行なうのに国民は惑わされてはいけない。



憲法知らずの日本人

 2007年5月、国民投票法案が国会で可決され、いよいよ日本国憲法改正の手続きが動き出した。野党はこの法案は“憲法改悪”を狙う与党の思惑であるとして反対しているようだが、彼らは憲法を何も判っていない。大体、日本国憲法改正の手続きに関しては、日本国憲法自体の中に明確に規定されていることだから、改正のための手続き法案そのものに良いも悪いもない。国民に日本国憲法を守ろうという意志があれば改正されることはないのだし、国民が憲法改正を望んでいるのであれば、それを阻止しようという野党の反対はそれこそ憲法無視である。
 ただ問題なのは、日本の与党も野党も国民も、まったく近代憲法というものを理解していないのではないかと思われることである。日本国憲法は占領軍から押し付けられた憲法だから改正しましょうというのが政府与党の改憲論者たちの言い分だが、こんな議論がなされていること自体、日本という国は近代憲法の精神を知らない、そしてまたその成立の歴史も知らない、基本的人権の後進国なのだなあと思ってしまう。

 人類も17世紀くらいまでは基本的人権とは無縁で暮らしてきた。国王や貴族の“領地”に住む人民は“領民”と呼ばれたことでも判るように、その土地に生えている草木や生息している獣などと同じような“財産”の一つでしかなかったからだ。まあ、王侯貴族たちの住民に対する監視や干渉も現在の国家機構のように厳格なものではなかったから、王様は王様、民衆は民衆で普段はそれぞれ勝手に暮らしていたわけで、それほど深刻な問題でもなかっただろうが…。
 では国王が土地や人民を“領有”する権限はどう考えられていたかというと、「王権神授説」、すなわち神から与えられた神聖なもので、誰も文句を言えるものではないというものだった。

 ここで1689年、イギリスの名誉革命で「権利の章典」が承認されたが、これは議会の承認を得ない王権は無効とされた画期的なものである。しかしこの「権利の章典」も国王と議会という権力側の合意に基づいて施行されただけのものであり、まだ国民一人一人の人権保護という側面までは持ち合わせていない。
 国民(人民・市民)が主体的に基本的人権を勝ち取るのは、1789年のフランス革命を待たねばならなかった。バスチーユ牢獄襲撃に始まったフランス革命は、その後ジロンド党とジャコバン党の内紛や、ナポレオン皇帝の出現など紆余曲折を経ながら、王妃マリー・アントワネットら大勢の血を流した末にやっと、国民の側からの基本的人権要求という、現代の先進国では至極当然な考え方が定着した。

 国家権力は増大傾向があり、放っておけば個人の人権を侵害することになる。そうならないように国家権力を縛るものが「近代憲法」であり、したがって基本的人権の尊重を謳い、国家権力増大を防ぐための三権分立を規定したものだけが近代憲法なのである。
 だから604年の我が国の十七条憲法は、聖徳太子の国造りの理念を謳ったものではあるが、基本的人権の条項がないので、残念ながら近代憲法の仲間には入らない。

 最近の我が国の改憲論議に欠けているのは、憲法とは国民の基本的人権を守るために国家権力を縛るものだという近代憲法の理念である。そもそも権力中枢の内部にいる人間自らが憲法改正を政治の争点にするなどと言い出す状況は、タレ目の優男がニヤニヤしながら「新しい鎖で私を縛って下さい」などと訴えているようなもので気色悪い。SMショーじゃあるまいし、いつでも切ることのできるイカサマ鎖に変えておこうという魂胆があるんじゃないかと勘ぐりたくなる。

 我が国における近代憲法の歴史はそもそも正道を踏んでいなかった。江戸幕府体制を倒して政権を奪取した薩長の明治新政府は、開国して諸外国と対等な国交を結んでいくために、近代国家の象徴ともいえる憲法制定を目指した。そして大日本帝国憲法が発布されたのが1889年、しかしその際に参考としたのが人権先進国のフランスやイギリスだったらその後の日本の歴史も変わっていただろうが、ヨーロッパの中では後進国だったドイツのプロイセン憲法だった。(註:イギリスには成文の憲法はない。)
 大日本帝国憲法第3条には、「天皇は神聖にして侵すべからず」とあるが、これはまさに権利の章典以前の王権神授説の考え方である。もちろんこれは明治天皇が望んだことではなかろう。明治新政府の指導者たちが天皇を利用して統治しやすくしようと画策した結果に違いない。
 後に尾崎行雄が桂太郎首相を弾劾する演説の中で「玉座(天皇の地位)を以って胸壁となし、詔勅(天皇の命令)を以って弾丸となし、以って政敵を狙撃するものなり」と喝破したごとく、権力者が天皇を利用することを企図したのである。すなわち大日本帝国憲法は、国民の基本的人権を守るためではなく、権力者が自ら国民を統治しやすいように作られたものであった。
 この体制が結局は太平洋戦争の破局を招く一因となったのであるが、それは結果論。しかし統治者が自分に都合の良いように憲法を定めて国民に押し付けた事実は歴然としている。これは明治日本が官民共に近代憲法の理念をまったく理解していなかったことを示すものだ。

 だがそれでは太平洋戦争の敗戦を経て、日本人は近代憲法の歴史と理念を学んだだろうか。私にはそうは思えない。戦後の日本人もまた、近代憲法が基本的人権を守るものだという理念を上も下も未だに知らないからこそ、昨今のような改憲論議が巻き起こるのではないか。
 「押し付けられた憲法」だって…?大日本帝国憲法だって統治者が国民に押し付けたものだ。日本には明治の昔も平成の今も、憲法とは統治者が自らの施策の便宜のために作るものだという程度の認識しかないのか。一応は国民の人権を守るために権力を縛るという体裁だけは整っているように見えるが、結局はSMショーのイカサマ鎖…。SMショーという比喩に品が無いというのなら、大脱出マジック用の鎖だ。
 一流マジシャンがよくやる脱出マジックでは、マジシャンは紐や鎖でグルグル巻きに縛られて鍵の掛かった箱に閉じ込められ、火中や水中に投じられた後にいずこからともなく平然と再登場してくるが、あの鎖などは縛られたはずのマジシャンがいつでも解くことができるような仕掛けがあるに決まっている。政権与党が提案してくる憲法改正草案などはこのマジックの鎖と同じだ。しかも下手糞なマジシャンのように仕掛けが見え透いているのに、観客の国民の方も近代憲法を知らないから、それがまったく見えていない。今から政権与党の下手糞なマジックの仕掛けを暴いてみせよう。

 大体なぜ自由民主党は自由党時代から戦後一貫して憲法改正を目指してきたか。彼らが変えたいと思っているのは、結局は第9条の一点ではないのか。他にも総理大臣が天皇の国事行為に名を借りた7条解散でなくとも、衆議院解散が自由にできるように権力を集中させたいというような政権運営の技巧的な改正ポイントもあるだろうが、これは現行憲法下でも2005年総選挙の前に小泉前首相がやっているから、今わざわざ改正する必要もない。
 しかし憲法第9条はイラク派遣問題や集団的自衛権との絡みで最近いろいろ政策決定上の支障が出てきており、与党にとっては目の上のタンコブであろうが、それとは別に、やはり60余年前のあの時、占領軍によって牙を抜かれた、翼をもがれた、そういう鬱屈した思いがここへきて一気に表面に噴き出した観がある。それが「押し付け憲法」という言葉に込められた思いであろう。

 他の国々ならば同じ敗戦国仲間のドイツやイタリアでさえ軍備を完全に否定されるような極端な戦後政策を押し付けられなかった。何で我々日本だけがこんな“屈辱”を味わわされたのか?特攻隊まで出して死に物狂いの抵抗をしたせいか?硫黄島守備隊をはじめ生命を惜しまぬ日本人に恐怖を抱かれたせいか?
 それらはすべて邪推というものである。あの時の世界はいかなる状況にあったか。第一次大戦の惨禍を教訓としたベルサイユ体制を敷いて平和を願ったにもかかわらず、それから30年と経たない間に世界はさらに悲惨な大戦争を体験してしまった。戦勝国とはいえ余裕で勝ったわけではない。非戦闘員の死傷率が最低のアメリカでさえ、戦前の孤立主義を守っていれば死なせずに済んだはずの30万人近い若者を犠牲にしたのである。
 もう戦争はイヤだという思いは全世界共通のものだったはずだ。日本にだけ戦争を放棄させて自分たちは今後も勝手に戦争しようというようなケチな了見があったはずはない。しかし枢軸国が完全に壊滅したとはいっても、さらに次の大戦争の予兆はあった。共産圏諸国と自由圏諸国の対立である。この両陣営が全面戦争に突入すれば第二次世界大戦をはるかに上回る犠牲者が出るのは火を見るよりも明らかだ。共産主義は着々と足場を固めている。列強の植民地支配を脱した途上国は貧しさのために共産主義が浸透しやすい。中国もまた共産党が国民党を追い詰め始めている。ドイツは東西に分割された。それが1945年から1946年頃の世界の状況であった。

 もう人類が二度と戦争をしないで済むような平和の理想を実現する実験台はないものか。政治的にまったく空白になった国に「戦争放棄」を謳った憲法を制定すれば、あるいは戦争が無くなるかも知れない。日本国憲法の草案を作った人々の間には、日本人、外国人を問わず、そういう思いは強かったと私は思う。占領軍が押し付けたと言うが、むしろ占領
の軍人ならば、日本に再軍備させて対共産圏の砦にしようという発想の方が自然である。しかしそうはならなかった。

 第9条はおそらく1946年当時の世界の心ある人々にとって、世界平和という人類共通の理想の実験場だった。しかし戦後60年、世界が日本を見習って戦争を放棄しなかったために、今さまざまな矛盾が噴出して、日本人自身が“世界平和”への実験を放棄しようとしている。
 それはそれで国民の多数が望むならば仕方ないことだが、世界中がおそらく注目するであろう第9条改正問題に関して、下手糞な脱出マジックやSMショーのような小細工をしないで欲しい。戦争したくてたまらないという下心が丸見えの新憲法草案など出してこないで欲しい。以下は2005年の10月29日の新聞に報道された自由民主党の草案のうち、最大の争点になるであろう第9条関連部分である。

第2章 安全保障 (これは現憲法では「戦争の放棄」となっている)
第9条(平和主義)
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
(この1項は現憲法とまったく同じである)
第9条の2(自衛軍)
我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保するため、内閣総理大臣を最高指揮官とする自衛軍を保持する。
A自衛軍は、前項の規定による任務を遂行するための活動を行うにつき、法律の定めるところにより、国会の承認その他の統制に服する。
B自衛軍は、第1項の規定による任務を遂行するための活動のほか、法律の定めるところにより、国際社会の平和と安全を確保するために国際的に協調して行われる活動及び緊急事態における公の秩序を維持し、又は国民の生命若しくは自由を守るための活動を行うことができる。
C前2項に定めるもののほか、自衛軍の組織及び統制に関する事項は、法律で定める
(下線は筆者)

 ざっと以上であるが、私が下線を付した部分こそ、脱出マジック用の鎖と同じ仕掛けである。草案を作った人々の中には法律を専攻した者も多かったであろうに、こんな拙劣な縄抜けの仕掛けをよくマスコミに暴露したものであるし、さらに驚いたのは、この草案が報道された後、この点を突いた批判は幾つかあったけれど、反対論の主流にはならなかったことである。自民党の政策に反対する立場の人々の中にも法律を専攻した者は多いはずだが、こんな単純なタネ明かしを何でもっと国民にアピールしないのか。これも憲法を理解していないのではないか。

 憲法は言うまでもなくその国の最高法規であり(最高法規性)、その憲法の定める手続きに従って国会や地方議会や行政省庁で制定された下位の法律、条令、命令に正当性を保障するものであるが(授権規範性)、その保障は決して白紙委任ではなく、憲法に違反した法律や条令や命令は出せないのである(制限規範性)。すなわち憲法には、法律などでここまで決めてよい、これ以上のことは決めてはいけないという明確な規定が含まれていなければならないのであるが、上記の下線部は完全な白紙委任である。

 自衛軍の活動はどこまでやってよくて、どこから先はやってはいけないか、それが憲法条文だけで判断できなければいけない。しかし上記草案では、その時その時に応じて国会で作った法律があれば何をしても構わないということになる。国会運営は多数決が原則であるから、時の与党が考えたとおりに自衛軍を動かすことが可能である。これは国際紛争解決ではない、国民の生命を守る活動だと言いくるめて、徴兵制でも核武装でも隣国出兵でも何でもできる。そういう国になっても構わないという国民が多数を占めるのであれば、今から3年以降に予想される憲法改正の国民投票で第9条が変貌してしまっても仕方がないが…。
(私の9条問題に関する意見は別項を参照して下さい。)



出来っこない話

 どうしてこうバカバカしいことがあるのか知らないが、年金記録が消えてしまったらしい。そう言えば私の所にも平成9年1月1日付けで基礎年金番号の通知書が来たことがあったような気がして探してみたら、通知書に付属する照会欄には、これまで年金制度ごとに別々に加入記録が管理されていたこと、しかしこれからは今回の基礎年金番号をもとに整理する必要があるので、ご協力をお願いする旨の文章が確かに書いてある。しかし税金を徴収する時には、納税者側のあらゆる状況まで想定した場合を“懇切丁寧に”列挙した小冊子を送り付けてくるくせに、この年金番号の整理統合に関しては実にお粗末なわずか数行の文章でしかない。こういう杜撰な手続のために消えた年金記録は5000万件ともいう。
 支持率が急落した安倍政権は慌てて、年金給付の時効を撤廃する法案を強行に可決したが、これは参院選挙を睨んでのことであろう。また野党は審議不十分としてこの法案に反対していたが、これだってこんな法案で国民のご機嫌が直って参院選挙で自民党に票が戻っちゃ大変だという程度の認識に決まっている。要するに政治家どもは自分のことしか考えていないのである。
 安倍晋三が気色ばんで時の厚生大臣の菅直人(現・民主党)のせいにすれば、菅直人はノラリクラリと次の厚生大臣の小泉純一郎のせいにする。まったく政治家どもの泥仕合は見ていて反吐が出そうなほど醜悪きわまりない。

 大体、国家による詐欺だ業務上横領だと批判の多い年金記録未照合5000万件、これを全額国民に返還するなどと、与党も野党も参院選目当てに口当たりの良いことばかり言っているが、ちょっと考えれば常識的にそんなこと出来っこないではないか。1日1万件ずつ土日返上で順調に照合していったって全部終わるまでに13年以上かかる。照合作業のために必要な人件費・事務費はおそらく数百億円以上で税金からの余分な出費だ。さらに全額補償するとなればその財源は数兆円規模になるのではないか。そんな経済的余裕がこの国のどこに残されているのか?
 政治家も官僚も、どうせいつかは国民に諦めさせねばならないと腹の中で考えているに決まっている。7月の参院選挙が終わればそういう本音がチラホラ聞こえてくることだろう。これこそまさに私が常日頃からこのサイトに書いている特攻隊と同じ構図なのである。国の指導者どもの判断の甘さと失策のツケを国民がすべて払わせられ、上層部は従順な国民の犠牲の上に胡坐をかいて責任逃れをする。
 特攻隊の場合、本来なら若者たちに自殺行を命じた指揮官は全員後を追って終戦時に自刃すべきだったのに、それをやったのは大西瀧次郎ただ1人だった。(私兵特攻の宇垣纏は含まず。)今回、国民の財産を雲散霧消させた歴代の政治家や官僚は、それが全額償いきれなければ自らの私有財産すべてを投じて弁済に当てるべきであるが、そのくらいの責任感のある政治家や官僚は日本にはもういないであろう。

 日本が特攻隊の時代と何ら変わっていないことが歴然と判る時が間もなくくる。それでもあなた方はまだ特攻隊の悲劇に酔ってばかりいるつもりなのか。それとも財政難の国家にこれ以上の負担をかけないために、年金の一部を放棄する覚悟まで決められたのか。

補遺:
 社会保険庁の杜撰な作業のため、多数の年金記録が宙に浮いた状態になった“事件”の責任について、もう少し別の観点から考えてみよう。つまり国家の管理責任か、国民の自己責任かという点についてである。
 今回、年金記録が消えたとは言っても、年金保険料を支払ったという領収書があれば何も問題はない。しかし何十年も前の領収書など保存しているわけないじゃないかという国民の不満と苛立ちの言い分が、今のところは(2007年6月現在)認められているように見える。しかし政府側の弁明の中に「領収書があれば云々」という文言が、さりげなく散りばめられていることに注意しなければいけない。おそらく自民党勝利のうちに参院選が終われば、まさにこの点を突いて、領収書を紛失した国民の自己責任という論法で、年金問題の幕引きが行なわれる可能性があるからだ。
 確かに支払に対する対価を受け取るまでは領収書を保管しておくのが、何か契約する上での常識だし、支払者の自己責任と言われても仕方がない。しかし年金保険料は国家が公権力を背景に強制的に徴収したものである。国民が老後のために任意で契約したものではない。民間保険会社と任意に契約した年金であれば、会社の倒産などにより戻って来なくなった場合、領収書が紛失していれば損失の救済を求めることはできないだろう。まさに自己責任。
 一方、国家が強制的に徴収した金であるならば、その記録が紛失したということは、国民の側の領収書紛失という問題以前に、国家側の管理責任が問われるべきである。しかしそれでは「俺は確かに払った」と言い張る人が出てきた場合(おそらく本当に払った人も、払ったと思い込んでるだけの人も、さらには新手の詐欺師も含めて膨大な人数が申し立ててくるだろう)、国家は言い値で年金を払うのか?本当に払ったのに領収書を紛失してしまった人であれば仕方がないが、払ってないのに嘘の申告をした人にまで年金を支給するのであれば、その損失は誰が負担するのか?結局は国民の血税や、さらに若い世代の年金保険料を食い潰して詐欺師の懐を肥やすつもりなのか?
 ただでさえ未曾有の経済危機にある中、こういうジレンマに陥る原因を作った歴代の官僚や政治家(首相、厚相)は、必要最小限の生活費を除く自己の全財産を国庫に納入して、詐欺師に吸い取られる分を肩代わりするくらいの覚悟を国民に示すべきである。かつて自分の発案によって若き特攻隊員たちの生命を奪った大西瀧次郎海軍中将が終戦直後に自決したように…である。しかし問題の時期に厚生大臣だった小泉純一郎は、ある会合で大臣時代の給与を求められた際に「俺にはそんな金は無い」と居直ったそうだ。これがかつて特攻隊を賛美した前首相の生きザマなのか。



「美しい国」の正体

 2007年7月4日のNHKの人気番組「その時歴史は動いた」で、戦後の政治家 石橋湛山を特集していた。1956年12月に内閣総理大臣に就任したが、病を得てわずか3ヶ月で退任せざるを得なかった首相である。
 石橋湛山氏の屋敷は私の実家の近くにあって、まだ私が幼稚園や小学校低学年の頃、その屋敷の前を通るたびに、祖母が「ここが石橋湛山のお家よ」と言っていたのを思い出す。どうも今にして思うと祖母はわざわざ遠回りして石橋家の前を通っていたのではなかったか。私も幼心に“タンザン”という珍しい名前が脳裏に焼きついた。石橋湛山は“井戸塀”の政治家だとも祖母は盛んに言っていたから、たぶん当時の祖母のような人間にとっても石橋湛山は尊敬のマトだったに違いない。
 “井戸塀(いどへい)”とは高潔な政治家を指す言葉で、本当に国民のためを思って自分の財産も投げうって政治に専心すれば、家財としては井戸と塀しか残らないという意味である。現在のように土地が投機の対象になるような値打ちのある時代ではない。昔は土地などは安価でいくらでもあって、その土地に建っている上物(うわもの)の方が遥かに高い価値を持っていた。それらをすべて費やして政治に打ち込んだ政治家ということである。最近の議員どもには耳の痛いことであろう。

 NHKの番組によると、石橋湛山は戦前は軍部に逆らって日本のアジア植民地政策に真っ向から異を唱え、戦後はアメリカの世界支配体制に反対して、共産圏とも経済的に交流する道を開くことで当時の冷戦構造を打破しようとした世界的な政治家ということである。最初アメリカは石橋湛山を警戒して妨害しようとするが、その後は結局石橋湛山と同じやり方を踏襲して共産圏諸国との接近を図るようになったと番組では述べていた。石橋湛山こそ真に非常な先見の明のある人であった。

 惜しむらくは脳梗塞で倒れて短命政権に終わってしまったが、その後も中国など共産圏諸国との関係改善に力を尽くしたという。石橋湛山と首相の座を争った対抗馬は岸信介であった。湛山の勇退でタナボタで首相の座に着いたが、この人などは戦後日本の政界にしゃしゃり出てきてはならない人物である。東条英機内閣の商工大臣として開戦に賛成した(満場一致)責任を忘れ、戦後は一転して対米一辺倒でアメリカ寄りの政策を推し進めた。
 戦前は軍部に反対し、戦後はアメリカに楯突いた石橋湛山とはまるで正反対の人物だったが、こういう両極端の人物も抱え込んでいられたのが戦後の自由党−自由民主党の強さだったのだろう。しかしともかく岸信介のように目先の風を読みつつ、強い方に媚びてのし上がっていく体質はどうも遺伝的なもののようで、岸信介の孫もまた、小泉とかいう強い人間に尻尾を振って首相の座に登りつめたが、何ら具体的なビジョンも無いから「美しい国」などという抽象的な言葉を弄んでばかりいる。

 さて時は平成年間の西暦2007年、年金問題・政治資金問題などで支持率急落した安倍晋三首相、7月末に控える参院選で敗北した時の責任論を訊ねられて、戦う前からそんなことは考えていないと突っぱねたらしい。どうせ政治家の責任論など、敵将の小沢一郎も含めて、選挙に負けた時の身内に対する責任であって、国民に対する責任ではないことくらい見抜いておかなければいけないが、この会見の席上、安倍首相は教育改革法案や(憲法改正のための)国民投票法案の成立を挙げて、「美しい国づくりに向けて着実に土台ができている」と実績を強調したという。

 これまで「美しい国」などという抽象的な言葉でケムに巻かれていたけれど、これでようやく安倍首相の言う「美しい国」の具体的なイメージが垣間見えたわけだ。つまり憲法を改正して軍備を明文化し、子供たちに愛国心を押し付けるのが、安倍首相のいう「美しい国」なのだ。
 ほとんど需要のない公共事業に血税を投入して国土を乱開発してもかまわない。政治家自らが襟を正して清貧を実践し、国民から愛されるように努力する必要もない。“お上”が右を向けと言えば国民こぞって右を向く、そしてそれが愛国心だと思い込むように子供たちを教育する。それが安倍首相のいう「美しい国」だ。これはもうごまかしようがない。参院選惨敗の危機感にカーッと頭に血が上った首相が思わず洩らした本音であろう。こういう首相に同情票を集めて、与党に過半数の議席を与えるような国民ばかりであれば、私はもうこの国に未練はない。石橋湛山のような政治家は期待できないのだろうか。



続・「美しい国」の正体

 2007年7月29日に投票が行なわれた参議院選挙は自民党の“歴史的大敗北”に終わった。社会保険庁の年金記録が宙に浮いて消えてしまった問題とか、
松岡・赤城農林水産大臣の事務所費問題に端を発する政治資金問題への不信とか、自民党に対する強烈な逆風が吹き荒れる中で行なわれた選挙であったから、当然の結果とも言えようが、まさか自民党がここまで国民から愛想を尽かされているとは思えぬほどの惨敗であった(改選121議席中64→37議席)。
 自民党とタッグを組む連立与党の公明党までもが地滑り的に議席を減らすありさま(12→9議席)。この党も昔は日本の由緒正しい野党であったが、政権欲しさに自民党と連立を組んだばかりに、もはや国民の信頼を失いつつあるのではないか。やはり支持母体が強力なので急速に衰退することはないと思われるが、同じ過ちを犯したかつての社会党(現・社民党)が今に至るも国民から野党としての信頼を取り戻せていない、その二の舞を踏んでいるのは確実である。

 せっかく連立を組んでくれた公明党にまで大迷惑をかけて、これほどの“歴史的”な惨敗を喫したにもかかわらず、自民党総裁である安倍晋三は早々と首相続投を宣言し、党内外に責任論がくすぶるのも無視して、首相を退陣する気はさらさら無いらしい。参院選に大敗したのは社会保険庁の杜撰な年金管理や、松岡・赤城農林水産大臣らの政治資金運用への不信感が原因なのであって、自分が掲げる基本政策は国民に支持されているはずであるという傲慢で独善的な理屈を記者会見などで述べ立てているのだが、まさかこれほどの馬鹿とは思わなかった。見苦しいにもほどがある。

 自分の基本政策が支持されていると主張したいのであれば、小泉純一郎が郵政民営化の時に決行したように、衆議院を解散後に総選挙に打って出て“民意”を問うべきなのであって、それをせずに首相の座に居座り続けることは許されない。
 安倍晋三は何が何でもおのれの手で憲法を改正し、教育を改正し、“戦後レジーム”とやらを廃棄して、「美しい国」を作りたいようだ。もっとも最近では「美しい国」という言葉に対する違和感があることに気がついたのか、特に参院選惨敗後は「新しい国」という言葉をよく使っているが、結局は同じことである。美しい国と言おうが、新しい国と呼ぼうが、自分の目指す国造りの価値観を強引にゴリ押ししていく。それが安倍の野望である。

 これでますます安倍のいう「美しい国」の醜い実態が見えてきたのではないか。国民が何と言おうが、党内外の政敵が何と言おうが、それらにはまったく耳を傾けず、権力の座に固執する。こういう国家を何というか…、独裁国家である。安倍のいう「美しい国」とは権力者とその一味だけが良い思いをする独裁主義国家だったことが、我々国民の前に明らかになったわけである。

 参議院で民主党に第一党を奪われた直後の記者会見で安倍自身、「これからは野党の言うことも聞かなければいけない」などと述べていたが、これではまるで今まで野党と協議する気など無かったと言っているも同然である。
 こういう人間が衆議院の議席2/3に物を言わせて暴走した結果が、憲法改正や教育改革に向けての布石であり、いずれも野党の言うことに耳を貸さずに強行採決に次ぐ強行採決で突破してきたものばかりである。それで自分の基本政策=「美しい国」には国民の理解があると居直っているのだから始末が悪い。

 そもそも安倍が強行採決の道具に使った衆議院の2/3の議席は、2005年9月の総選挙で郵政民営化ただ1点を問われた国民が小泉純一郎に与えたものであって、安倍の「美しい国」などを信託したわけではない。この辺の理屈も判らぬ人間が民主主義を国是とする国家の首相を務めている…!国民がこの大いなる逆説に気付かずにいると、ナチスの台頭を許したワイマール憲法下のドイツ国民と同じ歴史を築いていくことになる。

 ところで今回の参院選で自民党にとって最大の致命傷になったと言われる
松岡・赤城農林水産大臣絡みの事務所費問題であるが、安倍も赤城もいけしゃあしゃあと「法律に従って適正に処理している」と繰り返すばかりで、決して政治資金の領収書を公開することはなかった。
 権力者自身が自らに都合の良い法律を作っておいて、その法律に則っていれば問題はないのか?安倍のいう「美しい国」では法律に触れさえしなければ何をしても良いのか?人間社会にはさまざまな規範があり、法律的規範はその一部に過ぎない。法律的規範は社会的に見れば必要最低限の規範でしかないのであって、それより上位にはもっと高等な道徳的規範・倫理的規範があるのだ。
 道徳的規範・倫理的規範には法律的な処罰はないけれど、政治家も国民もこういうより高次の規範に従って行動する国こそが本当に美しい国なのではないのか?こうまでして権力にしがみつく安倍などというさもしい根性の人間に「美しい国」とか「新しい国」などと語る資格がはたしてあるのか?


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