髪の神様

 東京都北区の王子駅近くを歩いていた時のこと、ちょっと通りを外れて横道に入ったあたりに王子神社という割に大きな神社があります。王子の狐で有名な王子稲荷神社とはまた別ですが、私は神社の鳥居を見るとちょっとお邪魔してお参りして行く習慣がありますから、この時も参拝を終えて帰ろうとすると、同じ境内にちょっと目を引かれる關(関)神社という小さな神社が並んで建っていました。なぜ目を引かれたかというと、そこには『
髪の祖神』と書いてあったからです。しかもお堂の傍らには“毛塚”という何やら有難そうな塔が…。

 「エッ、髪の神様…?」
というわけで早速参拝。
 ハイ、何をお祈りしたかって?ずいぶん昔になりますが、ある雑誌か何かで、世界中の男性が世の中で何を最も恐れているかに関する調査を読んだことがあります。大体どこの国の男性でも、恐いもののトップ3に必ずランクインするのが、そう、髪が失われる状態、つまりハゲですね。その記事が何年経っても強く印象に焼き付いていました。

 もちろん私もハゲは恐い。カミさんからは「ハゲても好いよ」と暖かいお言葉を頂いてはおりましたが、やはり若い頃は戦々恐々でした。かつて国際学会でご一緒させて頂いた東北大学産婦人科元教授のY先生は、全頭きれいにハゲておられましたが、そのことをネタにして周囲の人たちを笑わせたり和ませたり、それはそれは明るく(本当に明るく)ご自分の頭部と付き合っておられ、私ももしハゲたらこのY先生のように生きようと固く誓っておりました。しかし幸か不幸か、白髪にはなりましたが、還暦を過ぎても未だ頭の地肌が透けて見えずに済んでいます。

 それやこれやを御礼申し上げてお参りしたわけですが、ハゲて当然の男性でさえ毛髪を失うのがこれほど恐いのだから、抗がん剤治療などで頭髪を失う女性の辛さは尋常ではないと思います。お参りしながらそういう境遇になった女性患者さんたちの悲しみも思い浮かんで胸が痛みました。

 しかし髪は本当に不思議なものです。以前に別のコーナーで書きましたが、毛髪は心肺停止して人が死んだ後もかなり長いこと伸び続けます。
 私は死んだ後も髪の毛が伸び続けて当然という新説(?)を、そちらのコーナーに医学的に解説してありますので、興味のある方はお読みになって下さい。またBritish Medical Journalという英国の医師会雑誌のコーナーにも電子投稿して、この手の投稿にしてはダントツの“いいね”(Click to Like)を貰ってますから、そのうち世界の誰かがそれをヒントにしてハゲの予防法を開発してくれるかも知れません。
 死んでも伸びるはずの頭髪が、何でハゲの男性では生きているのに伸びなくなってしまうのか?これはまったく不思議な話と言わざるを得ませんね。

 さてお参りを終えてこの神社の由来書きを読んでみると、關神社に祀られている髪の神様は延喜帝の第四皇子の蝉丸公だそうです。
 
これやこの 行くも帰るも別れては 知るも知らぬも逢坂の関
という百人一首の和歌を読んだ蝉丸で、百人一首の札で“坊主めくり”などという外道の遊びをする時に、この蝉丸が出ると、他の坊主(失礼)の絵よりも風態が異様なので特に悔しい思いをする札でしたが、まさかこんな偉い神様だったとは…、幼少時の数々の御無礼お許し下さい(笑)。

 蝉丸公は逆髪に悩む姉君のために、侍女の頭髪を切って貰って、それを姉君の頭に被せて逆髪を隠したといいます。つまり日本最初のかつらを考案したというわけですね。髪の毛が逆立っていたために逆髪姫とバカにされた姉君も關神社に祀られていますし、またかつらを作った蝉丸の侍女の古屋美女も同じく神様として祀られています。

 そんなわけで關神社奉賛会には人毛商工組合や床山協会やかつら協会などが名前を連ねていますが、古くは江戸時代のかもじ業者たちが、蝉丸公ゆかりの地である滋賀県大津市の逢坂山の關蝉丸神社から江戸の地にお迎えしたのが最初だそうです。

 ところで蝉丸という人は“坊主めくり”では坊主に数えられていますが、本当は出自も素性もよく分からない人らしいです。視力を患いながら逢坂の関のあたりに庵を構えていた歌人であり、琵琶の名手であるということで有名ですが、特に髪に悩む女性にかつらを考案して光明をもたらした、やはり苦しむ人々に希望を与えた人だから神様として祀られて当然だという気はします。

 しかし話は飛びますが、しばらく前に小泉元首相が、我が国では人は死ねば神様になると言ってA級戦犯を神様扱いしましたが、ちょっと違うんじゃないかい。人の普遍的な苦しみを救った人なら神様でよいが、時の政権に都合の良い国家の英雄などを神様にしてはいけない。日露戦争時の乃木将軍と東郷提督の神社はありますが、同じように太平洋戦争中に真珠湾攻撃を計画した山本五十六の名を取って山本神社建立の話が持ち上がった時、「山本はそんなことを好む男ではない」と知人・友人たちが言下に否定したそうです。

         帰らなくっちゃ