常識の嘘のウソ−人は死んだら毛は伸びる?

 日本海軍の伊号第33潜水艦は昭和19年(1944年)6月13日、伊予灘で訓練中に事故で水深60メートルの海底に沈没した。日本海軍の潜水艦乗りにとって「3」という数字は忌むべき鬼門として恐れられていたが、選りも選ってその「3」が2つ並ぶ番号の艦が沈没したのである。実はこの伊号第33潜水艦は新造後間もない昭和17年(1942年)にもトラック島で沈没事故を起こし、引き揚げ修理直後、再度の沈没だった。
 事故後ハッチを開けて、辛うじて8名の乗組員が海上に脱出できたが、漁船に拾われたのは3名のみ、さらにうち1名は救助後に死亡して、伊号第33潜水艦の生存者はわずか2名という痛ましい事故だった。

 それから9年後の昭和28年(1953年)、伊号第33潜水艦はサルベージ会社の手で海底から引き揚げられたが、その際艦内に海水の入っていなかった区画があり、ここで13名の乗組員の御遺体が発見された。海底60メートルの低温、低酸素状態に置かれていたため、13名の御遺体は死後の変化が最小限に抑えられており、声を掛ければ再び目覚めて起きてくるのではないかと錯覚するほど、生前そのままの姿で横たわっていた。
 欧米の潜水艦が事故でこのような状況になった時には、最後に艦内に残された酸素を奪い合って乗組員同士が殺し合いまでした形跡が残るケースも珍しくないのに、日本の潜水艦乗組員の場合は全員が自分の場所に留まったまま静かに従容と死を迎えることがほとんどだという。伊号第33潜水艦の場合も、13名のうち12名は自分の寝台に横たわり、おそらく最後まで息のあった1人が孤独に耐えかねて縊死を図っていただけだった。

 引き揚げ成功の直後、1人のカメラマンが艦内のこの区画に入って写真を撮影、その時の写真を見せられた吉村昭氏は『総員起シ』というノンフィクション歴史小説を発表している。「総員起シ(そういんおこし)」とは日本海軍の艦船や部隊における起床の号令である。つまり起床の号令を掛ければ今にも起きて来そうな姿で9年間も海底に眠っておられたという意味だ。

 吉村昭氏は別のコーナーでも述べたように、近世のノンフィクション作品を書く時には、現存する関係者から丹念に取材して徹底的に検証した事柄だけを使って作品を書き上げることをモットーにしていた。別のコーナーでは、吉村昭氏の戦記小説『戦艦武蔵』の中に、武蔵進水時に長崎湾に高波が起こったというエピソードを紹介したが、『総員起シ』の中にはもっと驚くべき記載がある。9年の時を経て引き揚げられた潜水艦内から生前そのままの姿で発見された乗組員たちの髪の毛が5センチ、爪が1センチほども伸びていたというのだ。

 海軍の兵員はイガグリの坊主頭のはず、それが髪が5センチ伸びていたということは、少なくとも1ヶ月や2ヶ月の間、髪の毛は伸び続けていたことになる。爪が1センチ伸びるのとほぼ同じ期間だ。
 吉村昭氏のこの記載をどう読むか。虚構を徹底的に排する作風を信条にしていた吉村氏が、こんなオカルトまがいの虚構を書くとは思えない。『総員起シ』は今にも起きてきそうな姿のまま亡くなっていたと言いたいための題名だから、むしろイガグリ頭のまま亡くなっていた方が都合が良かったはずだ。それをわざわざ死後も髪の毛や爪が伸びていたなどと、にわかに信じがたい突拍子もない事を虚構として書くだろうか。

 死後も人の髪や爪が伸びるかどうかは、けっこう多くの方々が関心を持っていらっしゃるようで、ネット上にも幾つかの質問が寄せられている。実は私も小学生の頃、確か週刊少年サンデー誌上に氷河を解説する記事があって、氷河に転落すると救助に行けないので、何年も経ってから遺体が回収されることになり、そのような氷漬けの遺体では髪や髭が伸びていると書いてあったのを読んでゾッとした覚えがある。黒々とした髪と髭が伸びて瞑目している男の簡単なカットの挿絵がそれから何度もフラッシュバックされたものだった。

 さてネット上の質問に対する解答は全部否定的なものだった。死後も髪や爪が伸びるのはウソです、デマです、あり得ませんと書いてある。中には御丁寧にアメリカのブリーマン氏は、死後は皮膚が乾燥して縮むので毛が伸びたように見えるだけだと言ってます、というのまである。
 ホウ、アメリカ人が言うと真実なの?とへそ曲がりな私はさっそく原典を当たってみた。確かにBritish Medical Journalという由緒あるイギリスの医学雑誌の第335巻1288ページ(2007年)に「Medical myths (医学的な神話)」と題して、Vreeman, R.C.氏は死後も髪や爪が伸び続けるのは“神話”であると書いている。

 これは厳密には医学論文ではなく、医学雑誌の中のサロン的なコーナーに寄せられた駄文の類であり、ブリーマン氏は厳密な実験や観察に基づいて述べているわけではない。「毎日水をコップ8杯飲まなければいけない」とか「脳の10%しか使っていない」とか「毛を剃ると濃くなる」などといった事柄とひっくるめて、「死後も髪や爪が伸びる」のも“神話”であると書いているだけなのだ。医者でも信じてしまうことがあるが、これらの常識だと思っていることは嘘だよという主張である。

 しかし私はブリーマン(Vreeman)なるアメリカ人よりも吉村昭氏の記載の方が信憑性があると思う。ブリーマン氏は「携帯電話は病院内で電磁波障害を引き起こす」のも神話であると書いたために、後から雑誌に物凄い反論の投書が殺到したが、死後の髪の毛の部分に関しては、この由緒あるイギリス医学雑誌の読者たちも妙に納得しているらしく、誰も何も反論していない。

 上記『総員起シ』の中で、いつもは淡々と事実を追って記載していく吉村昭氏も、
男の体に死が訪れても、毛と爪は単独に生きてでもいるように伸びることをやめなかったのか。
と、さすがに驚愕を隠せない文体で綴っている。
 ところが医学や生物学を勉強した人ならば、うんと自分の頭を振り絞って考えてみれば、死後も髪や爪が伸びることは絶対にあり得ないなどと、一刀両断に切り捨てることは出来ないはずなのだ。医学的な知識だけを使って考えてみても、心肺停止した死後も髪や爪が少なくとも何ヶ月間か生き続ける可能性があると言えるのである。決してオカルトでも何でもない。次回タネ明かしをいたします。


常識の嘘のウソ−人は死んでも毛は伸びる!

 前回の続き、人が心肺停止して死んだ後も毛髪や爪が伸びるかという問題に関して、この春先から学生さんたちに懸賞付きの宿題を出していたが、その提出期限が締め切りを過ぎたので、学生さんたちに開示した私自身の答案をこちらに示しておく。British Medical Journalの読者たちでさえ気付かない論点であったから、さすがに学生さんたちには難しかったようで、人間の死後も細胞が生き残る可能性についていろいろ習いたての専門的知識を総動員して解答を提出してくれた者は少なかった。

 こちらのサイト向けにもう少し噛み砕いて説明すると、人間の毛髪や爪は身体の表面を覆っている皮膚の一部であり、重層扁平上皮という組織が特殊化したものである。重層扁平上皮とはその名のとおり、薄っぺらな細胞が何層にも積み重なった形をしており(私の解答ファイルの図を参照して下さい)、体の芯を保護する役目を持っている。
 皮膚は身体の全面にわたって重層扁平上皮(単に扁平上皮ともいう)で作られており、体の表面に何かがぶつかったり、いろいろな刺激で傷を受けたりしても、表面に近い細胞がそれらを受け止めることで体の芯まで傷つくことはない。皮膚に加わった刺激があまりに強ければ、重層扁平上皮の表面だけで受け止めきれずに底辺の細胞までが削り取られてしまって、
血が出ることになる。しかしそれほど強い刺激でなければ、例えば皮膚が痒いので指先で引っ掻くとか、ちょっと柱の角に体をぶつけてしまったとか、そのくらいのことならば、重層扁平上皮の表面近くの細胞だけが削り取られてクッションの役目を果たし、血が出ないで済む。

 つまり皮膚の表面だけなら削り取られても
血は出ない、ということは皮膚の表面は血は通っていない、ということは皮膚の表面の細胞は血液から栄養分を貰っていない、それでも細胞は生きている
 
皮膚の表面の細胞は、人が生きているうちから、血液循環を必要としていないこれは驚くべきことだ。だから人が亡くなって心肺停止した後も、微生物による腐敗や通常の大気中での乾燥から守られる限り、皮膚の細胞は本来の寿命が尽きるまで活動を続けることができるようにもともとできている。毛根や爪床の細胞も活動を続けるから、ある特殊な条件さえ整えば死後も毛髪や爪が伸びる。

 口腔内や食道や子宮頸部などの重層扁平上皮についても同じことが言えるが、死後も毛髪や爪が伸びることを医学的に説明しようとすれば、皮膚の重層扁平上皮について考察すれば十分である。皮膚の細胞がこれほどまでタフにできている可能性があることは驚きだが、それ以上に、たったこれだけの記述が医学関係の教科書やネットに記載されている形跡がまったく無いことはさらに大きな驚きである。前述Vreeman氏がイギリス医学雑誌に載せたコメントは世界中の読者が読んでいるはずだが、誰も重層扁平上皮のタフな構造まで挙げて反論している人はいない。

 あなたの皮膚の表面の細胞は、今もあなたの心臓が送り出す血液をもはや必要としていない。何と健気な細胞ではないか。ちょっと体の一部をぶつけたくらいなら出血もせずにあなたの身代わりに散ってくれるのだから…。
 私に解答を送ってくれた学生さんもさすがにこの点には気付けなかったようだが、私でさえ顕微鏡で人の組織を観察する仕事に何十年も従事していながら気付かなかったのだから当然と言えば当然。しかし人の死後も細胞が生き残る可能性を生化学的、組織学的に考察しようとしてくれた姿勢は立派だった。

 私は日頃から、偉い人が言っているから正しい、本やネットに出ているから本当のことだと思ってはいけない、自分の頭でよく考えなさいと学生さんたちには言い聞かせている。死後も毛が生えるかどうかという今回の私の仮説も、まだ精密な実験や観察によって科学的に証明しなければいけないが、ネット上で「常識の嘘」というような形で流布されている「一見科学的な説」にも、これだけ論理的な反論の余地があることを実際に見せてあげることができた。
 私ももうそんなに長く教職に留まらないと思うが、最後に「常識を疑うこと」、「常識の嘘を疑うこと」を実践してみせることができて本当に良かったと思っている。ついでに「常識の嘘のウソ」も疑うこと。

補遺:British Medical Journalの該当記事に対して、私の考え方を電子メールで投稿しておきました。最初の1日だけで“Click to Like”ボタン5個押して貰った(笑)
以下British Medical Journaに投稿した英文です。1年後には“Click to Like”ボタンが70個を越えてダントツだった(驚)

 Recently, I came to believe that hair and fingernails do continue to grow after death. Stratified squamous epithelium, involving hair follicle and nail bed tissue, consists of several layers, parabasal, middle and surface layer upwards, and only parabasal layer cells can receive some substances and chemical signals from blood vessels. Middle and surface layer cells can hardly take oxygen, glucose or amino acids, and hardly receive hormonal signals from blood streams, but they continue to grow everyday.
 Probably, they produce ATP by anaerobic glycolysis and make proteins such as keratin from intracellular amino acid storage. Enough glucose (glycogen) and amino acids must have been supplied from blood vessels when they were in parabasal layer, so they can, I suppose, survive after death, if putrefaction or drying does not occur for weeks or even months.



小さな足跡

 前回、死後に毛髪や爪は伸びないというBritish Medical Journal(BMJと省略することが多い)の記事に対して、上記の私のコメントを投稿したと書いたが、その手順があまりにも呆気なかったことに改めて驚いている。私がまだ小児科医だった頃や、駆け出しの病理医だった頃、何らかの専門雑誌に自分の文章を掲載して貰おうと思ったら、まず原稿を清書して、必要なら図表を作って、それらをすべてまとめて封筒に入れて雑誌の出版元に郵送する、ワードもエクセルもフォトショップも何にも無いから、そういう原稿は日本語なら全部手書き、英語ならタイプライター打ち、昔はワープロもパソコンも無かったから仕方ない。

 私が初めてアメリカ癌学会誌に論文を投稿した時も、電動式タイプライターをたどたどしく打ったものだったが、対米宣戦布告文をタイプ打ちで清書させられる在米大使館員の苦労を描写する『トラ・トラ・トラ』という映画のワンシーンを思い出したりしたものだった。

 そうやって原稿を郵送して大体1ヶ月近く待っていると、出版元から掲載するとかしないとか返事がきて、ここを修正してくれとか指示があった場合は、また手書きかタイプ打ちで修正原稿を作って封筒に入れて送り返す、そんなことをやって、最初に論文や記事を投稿しようと思い立ってから早くても2ヶ月、グズグズしていれば半年近く経ってからやっと印刷されて活字になる…といった悠長な作業であった。

 今回の私の文章は正式な論文ではなく、サロンの会話的な単純なコメントで、査読者(レフェリー)による審査もないから手順は至極簡単であるが、それでも昔なら1ヶ月ほどかかることもあった。それが私の気が向いて投稿しようと思い立ってからわずか3日目でインターネット上に私のコメントが公開され、世界中のパソコン画面上で読むことが可能になったのである。
 
 これが“世界が狭くなった”ということであり、情報伝達距離もこの10年20年の間だけでも飛躍的に短縮されたということでもある。ただ惜しむらくは、私はこの狭くなった情報空間を学術的に十分利用してこなかった。私が最初に入局した東大小児科では、別項でも書いたとおり、論文書くより患者さんをしっかり診療しろという“診療原理主義”であったし、次に入局した東大病理学教室も、論文書くための研究よりも患者さんの検体を正しく診断する方が大事だという“診断原理主義”みたいなところがあって、私もどちらかと言えば実務の方が性格に合っていたらしく、あまり論文らしい論文を書かないまま年齢を重ねてきてしまった面があった。

 今回の文章はサロン的な駄文の割り込みだが、少なくとも私が何十年かかけて到達した医学的な結論の文章が今後何年間かはインターネット上に残るわけだし、君たちに解剖学・病理学を教えたのはこんな医者だったんだよと教え子たちに示す小さな足跡を印せたことで、以て瞑すべきか。


宇宙の航海者ボイジャー

 今年(2013年)9月、アメリカ航空宇宙局(NASA)から惑星探査機ボイジャー1号が、昨年夏頃に太陽系を脱出して現在恒星間空間を航行中であると報道された。搭載されている原子力電池はまだあと10年くらいは寿命があって、太陽系外宇宙の観測データを送信してくるそうだ。もう地球から188億qも離れているから、ボイジャー1号が発信した電波は10数時間かけて地球が受信することになる。気の遠くなるような距離だ。
 相次いで打ち上げられた兄弟分のボイジャー2号もあと2〜3年で太陽系外へ脱出するらしい。またボイジャー兄弟より前に打ち上げられたパイオニア10号、11号も太陽系外空間を目指しているが、こちらはもう電池の出力が低下して地球上で電波を受信することはできないそうだ。

 恒星間宇宙へ乗り出す探査機には、太陽系の第3惑星には文明を持った生物がいますよというメッセージが積み込まれており、これを誰か宇宙人が拾ってくれるんじゃないかという人類の夢も託されていたが、その後、もしこれを拾った宇宙人が敵意を持っていたらどうするんだ、恒星間宇宙飛行をするような宇宙人にもし侵略されたら今の人類では太刀打ちできないという危惧も生まれたという話を確か読んだ気もする。だがもう打ち上げてしまえば後の祭り、追いかけて行って取り戻すことも出来ない。
 確かに地球上の大航海時代を思えば、文明の利器を発達させた航海者たちが未開の土地に対して行なった侵略行為は、そのまま宇宙レベルでも起こり得ることだ。私などパイオニア兄弟に太陽系の位置や地球の位置を記した特殊な金属プレートが積んであって、それに人類男女の姿が描いてあるのを知って、これを拾った宇宙人が友好的とは限らないのになあと心配した覚えはあるが、現在までのところ地球はまだ幸いにして宇宙人の侵略を受けていない。

 パイオニア兄弟、ボイジャー兄弟の太陽系惑星探査の時代はかなり知的好奇心をかき立ててくれた。各探査機が大きな惑星に接近して鮮明な写真など何枚も送ってくるたびに、いろいろな科学雑誌が太陽系の特集記事を組んだもので、惑星やその衛星上の想像図など眺めているだけで、絶対に自分が行けるはずはないことがわかっているのに、やはり心が浮き立った。どの探査機だったか、土星の輪を突き抜けるというミッションに挑んだ時は本当にハラハラした。無事に輪を突き抜けたことが分かった時には、土星の輪のあまりの薄さに驚いてしまった。

 さて数々の惑星探査を終えたボイジャー1号は、人類が製造したものとして初めて太陽系を抜け出して恒星間宇宙に乗り出したが、ボイジャー兄弟が地球を出発したのは1977年夏のことだという。私などまだ卒業したてのホヤホヤの研修医だった。あれから私が医師として働いている間ずっとボイジャー1号は太陽系空間にあってさまざまなデータや写真を地球に送り続けていたのか。
 そう言えばたぶんボイジャー1号だったと思うが、太陽系を後にする探査機が後ろを振り向いて、地球がかずかに見えるだけの写真を送ってきたとの記事があった。地球にお別れ・・・とか何とか見出しがあったが、こういう話は探査機を擬人化してちょっとホロリとしてしまう。日本の小惑星探査機はやぶさが大気圏に突入する少し前に、カメラを地球の方に向けて最後に故郷を見せてあげたなどというのも良い話だった。

 ボイジャーはこれから果てしない恒星間の旅に出るわけだが、私などは唐の詩人王維の詩を思い出してしまう。

 
送元二使安西
 渭城朝雨潤輕塵  
(渭城の朝雨 輕塵を潤す)
 客舎青青柳色新
  
客舎青青 柳色新たなり)
 勸君更盡一杯酒  
(君に勸む 更に盡くせ一杯の酒)
 西出陽関無故人
  
(西の方陽関を出づれば故人無からん)

まさかボイジャー君に別れの酒を注ぐわけにもいかないが、今後地球や太陽系が滅んだ後までも旅を続けることになるという・・・・・・・絶句。

 そうなると私はまたちょっと別のことも頭に浮かぶ。前回このコーナーで死後も毛は伸びるという話を書いたが、私のあの記事に対する1つの反論は想定している。

「先生は重層扁平上皮の細胞はタフだから心肺停止後も生き残ると言いましたね。でもすべての細胞の死を“個体の死”と定義すれば、それはまだ個体は死んでないということじゃありませんか」

まだこういう反論をしてきた人は誰もいないが、確かに私の説明では皮膚の重層扁平上皮細胞はずいぶん長いこと生きていられる。では皮膚の細胞が生きていれば個体は生きていると言えるのか。

 人類が宇宙へ放り出した惑星探査機が活動を続けている限り、人類は存続していると言えるかという命題とある意味似ている。
 例えば1999年7月にノストラダムスの予言どおり地球に大災厄が襲いかかり人類は1人残らず滅亡しました、でもまだ宇宙には人類が生み出した宇宙探査機が何機か飛んでいました、だから人類はまだ滅亡していません・・・
ということになるかと言われれば、通常の意味からはこの話はおかしい。

 同じように皮膚の細胞だけ生きていても、通常の意味からは人の生存とは言えない。人の死とは心臓死もしくは脳死であるから、皮膚の死を待って人の死とするわけにはいかない。なぜなら皮膚の細胞は心臓や脳のように個体全体の運命を決定することはできないからで、宇宙探査機もそれだけでは人類の運命自体を決定することがないのと同じことである。

 だとするといよいよ恒星間に乗り出すボイジャー1号にもし心あれば、今頃いったい何を考えているだろうか。まさにほとんど不死の運命を背負ったまま、何の目的もない旅をこれから何億年、何十億年と続けなければいけないのだ。
 探査機に積まれた高性能のコンピュータが、この気の遠くなるような年月の間にさまざまなことを学習して賢くなり、自分をこんなむごたらしい目に合わせた人類に復讐しに帰って来るなんていうSF小説などいかがでしょう(笑)。文明の進んだ宇宙人に拾われて地球侵略を招来する・・・という筋書きよりは現実味がある。


大記録の当たり年

 最近はサッカーも国民の人気スポーツになったが、私たちが子供の頃は大相撲の他にはテレビやラジオ中継してくれるスポーツといえば野球しか無かった。野球はプロ野球でなくても、夏と春の甲子園高校野球は全国中継があるから、ベースボールは正岡子規の時代からよほど日本人の性分に合ったスポーツなのであろう。
 もっとも昔はプロ野球中継はほとんどセントラルリーグの巨人戦に限られており、巨人軍が絡まないゲームの中継など椿事といってよかった。それでもセントラルリーグの球団ならば巨人戦を中継して貰えたが、パシフィックリーグの球団になるとリーグ優勝しなければ、年に1回の日本シリーズの中継さえない、球場には閑古鳥が鳴いていたという。

 私も巨人・大鵬・卵焼きの時代からけっこうプロ野球の試合結果には関心を持っていた。巨人軍9連覇の時代であり、当たり前の事が当たり前のように起こらないと何となく不安のような…、要するに形式的巨人ファンであった(笑)。
 しかしこれではまずいということで、その後プロ野球の新人獲得にドラフト制度が導入されて高校・大学や社会人野球の人気有望選手も各チームに均等に入団するようになり、それでも巨人大好き江川投手のドラフト破りなどあったが、必ずしも巨人優勢ということではなくなって本来のリーグ戦の楽しみ方ができるようになった。

 私はここまでで良かったんじゃないかと思っているが、21世紀に入ってから、確か最初にパシフィックリーグでプレーオフ制度として導入されたポストシーズンのトーナメントゲーム、これをセントラルリーグでも導入してクライマックスシリーズと銘打つようになった頃から、私は急速にプロ野球に対する興味が失せてしまった。
 何でシーズン中にセ・パで一番勝ち星を挙げたチーム同士で日本一を争わないの?シーズンを通して3位までに入っていれば、2位と3位の勝者が実質優勝の1位を抑えて勝ち抜ければ名目優勝となってしまい、“名実ともに”リーグの覇者という意味合いが無くなってしまうじゃないの?長い1年間のシーズンはシード権を獲得するだけの戦いなの?
 いろいろ疑問はあるが、それならいっそのこと4位と5位の勝者にもトーナメント出場資格を与えたら面白い。ついでに最下位のチームも勝ち抜きトーナメントで上位5球団すべてに勝ち越したら日本シリーズ出場というのも有り…かな(笑)。

 というわけで私はプロ野球のクライマックスシリーズには反対なのでありますが、今年に限っていえば(あくまで今年に限って…ですよ)、巨人軍には申し訳ないけれど、ヤクルト
楽天の日本シリーズを期待してしまうのであります。巨人軍の皆さま、ゴメンナサイ。
 理由はプロ野球ファンなら言わずと分かると思いますが、今年はセントラルリーグでヤクルトのウラディミール・バレンティン(Wladimir Balentien)選手が王貞治選手の年間ホームラン記録を書き換え、パシフィックリーグでは楽天の田中将大選手が稲尾和久投手のピッチャー連勝記録を書き換え、まだ2013年9月22日現在、両チームとも公式戦日程を終了しておらず、どこまで日本記録が伸びるか楽しみな状況であります。
 先ほどは偉そうなことを書いておいて不謹慎な話ではありますが、今年は是非ヤクルトに名目優勝して欲しいのであります…って
ヤクルト最下位じゃん(笑)。あれだけのホームランバッターを擁していながら…(呆然)。やっぱり最下位まで入れてクライマックスシリーズだな(笑)。田中将大とバレンティンの対決見たかったな…(泣)。交流戦の時はまだ記録達成してなかったしな。

 …と愚痴ばかりですが、バレンティンのホームラン記録に関しては日本のプロ野球も成熟してきた感じはします。バース(1985年)、ローズ(2001年)、カブレラ(2002年)と王選手の年間ホームラン記録55本を外国人選手が抜こうとするたびに敬遠の四球で新記録ならず、ということで、当時それぞれの選手の相手球団監督が王貞治だったこともあって、王監督が卑怯者呼ばわりされたことはプロ野球ファンなら記憶にあるでしょう。
 王監督自身は自分の記録にそんなにこだわってなかったと思いますが、一部のOBやコーチなどプロ野球関係者から、王選手の記録を外国人選手に抜かせてはならないというニュアンスの発言があったことは事実です。王選手も台湾出身ですが…。
 そんな“上司”の圧力の中で現役投手が真っ向から勝負できるはずはありません。日本はスポーツ界ですら上司の顔色を伺う社会ですから…。そんな国籍を意識した雰囲気が変わったのは、イチロー選手が大リーグの年間安打記録を書き換えた時など、アメリカの球界もファンも大記録をフェアに讃えてくれた、そんなアメリカ球界のフェアプレイを見せつけられちゃ、バレンティンを敬遠なんてしてられませんよね。


宮崎駿と手塚治虫

 今年になって宮崎駿の話題が良くも悪くもネットを賑わわすことが特に多くなったように思う。宮崎駿と言えば、今ではもう誰も知らない者はいないだろうと言えるくらい世界的に有名なスタジオジブリを率いる名アニメ映画監督である。
 その長編アニメ作品をちょっと思い出しただけでも、『風の谷のナウシカ』、『天空の城ラピュタ』、『となりのトトロ』、『魔女の宅急便』、『紅の豚』、『平成狸合戦ぽんぽこ』、『耳をすませば』、『もののけ姫』、『千と千尋の神隠し』、『猫の恩返し』、『ハウルの動く城』、『崖の上のポニョ』、『コクリコ坂から』など数々の名作を生み出して、世界中の子供と大人を楽しませてくれた。

 ギレルモ・デル・トロ監督が人型巨大ロボットを題材にして主として日本市場をターゲットにしたと思われるSF映画『パシフィック・リム』が2013年の夏休みに日本で上映されたが、興行成績が確か7位か8位と振るわなかったことを、アメリカでも「あのジブリに対抗するのは無理だよ」という慰めともつかないコメントが掲載されたらしい(笑)。
 そのギレルモ・デル・トロ監督のこの夏のライバルだったジブリ映画が『風立ちぬ』だった。これまでの宮崎駿の作風とガラリと変わった作品に、長年のジブリファンからも少なからぬ失望の声がネットに広がっているが、私もこれは一体どうしたのかなという感想を持った。

 アニメ映画『風立ちぬ』は零式戦闘機の設計技師である堀越二郎(実在の人物)を主人公にして、堀辰雄の同名の恋愛小説をモチーフにした作品であるが、重篤な結核の婚約者との時間をかけがえのないものとして愛おしんだ堀辰雄の『風立ちぬ』に対して、宮崎駿の『風立ちぬ』は結核で明日をも知れぬ婚約者よりも自分の夢が大事、そしてその夢は何かというと海軍から発注のあった戦闘機の設計、典型的な護憲平和主義者に見える宮崎駿が、飛行機は本当は戦争の道具じゃないと懸命に言い訳しつつ、何で零戦の主任設計技師を堀辰雄の恋愛小説の主人公に“抜擢”したのか。
 ネット上でもさまざまな憶測や分析がなされているから、興味のある人はそちらをご覧になって頂きたいが、零戦も堀辰雄も知らない人でなければ、このアニメ映画を素直に鑑賞することはできなかったのではないか。余計な予備知識があれば「アレレ?」となってしまうだろう。
 実際の堀越二郎さんも草葉の蔭で、俺はあんな薄情な男ではないと訴えているような気がする。確かに実在の堀越さんは仲間や部下からも“根掘りこし葉掘りこし”と揶揄されるほど徹底的に物事に没頭集中する人だったというが、今回のアニメのように病気の婚約者を顧みないほど冷酷な面がプライベートにあったのかどうか?
 こういう名監督がこういうアニメを作ってしまうと、実在の登場人物もまたその通りの人間であったというイメージが後世に長く伝えられてしまう恐れがある。宮崎駿ももし自分の死後に、重病の婚約者をも顧みずにアニメ制作に打ち込んだ男というレッテルを貼られるような映画を作られたら、草葉の蔭の自分自身はともかく、自分の遺族がどう思うか、それを考えたことはあっただろうか。

 しかしこれが我々凡人には理解できない創作の苦しみなのだなと思う。以前このサイトに画家の創作もまた苦しいものかと書いたが、アニメ映画もまた同じであろう。宮崎駿はまさに芸術家だったのだなと今にして思う。
 自分の心の奥底から湧き上がってくる創作の炎を表現するために、初期の頃は風の谷やラピュタなど壮大で精緻な仮想空間を作り上げ、その中で物語を完成させていったが、おそらくそれでは物足りなくなったのではないか。後の方の作品では『耳をすませば』とか『コクリコ坂から』など現実世界に根を下ろした物語も制作しており、引退作と言われる『風立ちぬ』ではついに実在の人物を描くに至った。

 空想世界から現実世界へ…、宮崎駿はその道を芸術家としての信念をもって貫き通したように思える。そうすることによって自分が描いた実在の人物の評価が変わってしまうかも知れないなどという“雑念”も感じることなく…。

 日本のアニメのもう1人の巨匠であった手塚治虫はこれとはまったく逆だったのではなかろうか。手塚治虫は芸術家ではなかったし、作品を生み出すに当たって宮崎駿ほどの葛藤と戦うことはなかったと思う。
 もう何十年も昔のことになるが、手塚治虫が何かの対談記事で述べた言葉を私は今でもよく覚えている。
以前は目の前に立ち塞がる高い壁を空を飛んで越えて行く夢を見たりして、それが鉄腕アトムにもつながっていったものだが、今では道端で10円玉を拾ったような夢しか見ない
と自分の空想の翼が失われていくことを嘆く発言だった。自分の空想の翼をもって日本中の子供たちを(時には大人たちも)楽しませる、手塚治虫は芸術家ではなく、エンターテイナーであった。ライフワークの『火の鳥』は舞台が過去と未来を振り子のように往復しながら現代へ集約してくる構想だったが、それがついに完結しなかったのは手塚治虫の生涯を象徴しているように思える。

 手塚治虫は膨大な数の仕事をこなして、できるだけ多くのアニメ作品を子供たちに提供するために、動画1秒あたりのコマ数を減らして経費と手間を省いたというが、そのことを宮崎駿は批判したりしている。日本のアニメを雑にしたのは手塚治虫だと歯に衣着せぬ言い方だった。それも手塚治虫の追悼文として批判したから、人間的にちょっとどうかね、と思わぬこともないが、これも宮崎駿が妥協を許さぬ芸術家だからこそと考えれば納得もいく。

 2人の生き方はここまで違っていたと初めて思い至ったが、手塚治虫がエンターテイナーとして根付かせた日本アニメを、宮崎駿が芸術として開花させたと言えなくもない。2人ともいろいろ突っ込もうと思えば突っ込みどころは多いが、この2人に先導されたアニメ文化が日本の子供たちの感性に及ぼした影響を考えれば、ただただ感謝するしかないだろう。宮崎駿も今度こそは本当に引退を宣言しているが(もう2〜3作期待したいところだが)、御苦労さまでしたと申し上げたい。


腹立ちぬ

 今年は台風の当たり年で、関東地方も10月になってから2度も立て続けに大型台風に脅かされた。特に10月16日に強い暴風域を伴って関東地方に接近した台風26号は伊豆大島に大変な土砂災害を引き起こした。亡くなられた方々のご冥福をお祈りします。

 この台風26号は東京都心部でも朝の通勤時間帯に重なり、私の大学も学生さんは休講になることが前日から決まっていたが、学生は休講でも教員は休みではない。大学に行っても差し当たってやることは無いのだけれど、医療職は常に可能な限り職場に待機して緊急事態に備えるという臨床医時代の心構えが身に着いてしまっていて、この日も暴風雨を冒して出勤した。

 医療職とは因果な商売である。雨だ風だ雪だ、交通機関のストライキだと、そのたびに欠勤していられない。病院には常にどんな時でも患者さんがいらっしゃる可能性があるからである。交通機関が動いている限り出勤する、場合によっては動いてなくても、タクシーででも自転車ででも徒歩ででも出勤する。医療職でなくても、自分の仕事に責任を持つ人間ならば、それが当然の心構えであろう。
 私の学科の卒業生にも、今日は朝から早番の仕事なので暴風の中を出勤したとメールをくれた者もおり、ああ、もうこの子も学生ではないのだなと感慨に耽った。

 雨傘も壊れる物凄い風の中を私鉄の駅に着くと、私の乗降する駅は改札口が屋外に面しているので、駅員さんたち総出で改札機が大雨に濡れないようにビニールシートを掛け、そのシートが暴風に吹き飛ばされないように4人掛かりで押さえながら乗降客の対応に当たられている。
 ああ、この人たちも乗客の輸送に責任を持って仕事をしているのだなと一種の連帯を感じながらターミナルの池袋駅までやって来たが、ここで腹立ちぬ…!

 東京都区内の鉄道の中心であるJRは最初から間引き運転をしているではないか。本日は大型台風で暴風警報が発令されているから列車の本数を減らして運行しますと、当たり前のようにいけしゃあしゃあとアナウンスしている。
 都内の私鉄も橋梁上で風速が増した、架線に障害物が飛んできた、とさまざまな困難な状況で列車が走れない状況になりながらも、1本でも多くの列車を1つでも先の駅へ、と乗員の皆さんが奮闘している様子がネットを通じて伝わってきた、そうやって郊外の乗客が都心のJRの駅までは何とか到着するのだが、肝心のJRは最初からいつもの半分も列車を動かす気がないので、プラットホーム上は危険なくらい乗客が溢れている。腹立ちぬ。

 JRとしても列車運行の安全という言い分はあるだろう。しかし私鉄各線はギリギリのところまで列車を動かそうと努力しているのに対し、JRは今日はもう台風だから列車は動かせませんと最初から自分の仕事を投げている。こんなことだから、2月の大雪警報空振りの時も、雪は大したことないのにJRの列車は通常の2割も動かないという醜態を演じたのである。腹立ちぬ。

 JRはやはり親方日の丸の国鉄時代の体質で、私鉄各線に比べて自分の業務に責任を感じていないと思うが、考えてみれば今の日本、JRだけとは限らない。
 最近では全国津々浦々までネットワークが行き渡った宅急便(宅配便)サービス、我が家は夫婦とも外での仕事が多く配送の方々に大変なご迷惑をお掛けすることも多いが、それでも何とか1日でも早く届けて下さろうと最大限の努力をしてくれるクロネコヤマトのような親切な業者もあれば、その時刻には配送できませんと最初からにべもない業者もいる。腹立ちぬ。

 医者も同じ、私が小児科の臨床医だった頃は、外来の待合に患者さんが大勢いらっしゃったりすると、自分の当番でなくても1人でも多くの患者さんを少しでも早く診察してあげるために、病棟など他の仕事が終わったら直ちに外来に応援に駆けつけて手伝ったものである。しかし最近では、自分の当番でないから外来患者さんは診ないという臨床医、自分の当番でないからその標本は診ないという病理医がいることをコメディカルの方々から聞いて驚いた次第だった。たぶん患者さんは腹立ちぬ。

 そして…
「この状況でそれは出来ません」
「それは私の仕事ではありません」
今の日本でこのセリフが罷り通る最大の場所は役所の窓口である。腹立ちぬ。


間違いだらけの入試面接

 今年(2013年)も先日から私の大学の入学試験シーズンに突入した。私たちが学生の頃は、大学入試は年明けに幕開けと相場が決まっていたものだったが、1990年頃からAO入試とやらで秋口から志願者の選抜が行われるようになった。
 ちなみにAO入試とはadmission office(入学管理事務所の意味…何だ、こりゃ?)の試験とのことで、大学の求める学生像に合った志願者を優先的に入学させる制度である。

 …と口で言うのは簡単だが、じゃあどうやって大学の求める学生を選抜するの?そもそも大学の求める学生像って何なのさ?
(どんなに高くても)きちんと学費を払ってくれて、(ちゃんとした教育環境を整備してくれなくても)大学に文句も言わず、真面目に勉強する学生…ってのが本音じゃないの?

 口先だけの綺麗事で始めた制度なんて、ちょっと突っつきゃいくらでもボロが出るのものだが、とにかく制度がある以上はどの大学でも知恵を絞って良い学生を入学させようと必死である。
 じゃあAO入試と普通の一般入試とどこが違うかといえば、実はそれほど大した違いはない。筆記学力試験があって、面接試験があって…、ただどこの大学でも同じだと思うが、AO入試の場合は一般入試よりも面接評価の割合がやや高くなっている。まあ、志願者の人物を査定するという建前に即しているわけだが…。

 そこで当然のことながら、受験生としては学力に自信が無くても、面接官を口先だけでうまく煙に巻いてしまえば合格できそうな幻想に取り憑かれるのだろう、かくして高校や塾の先生方から面接官の目を眩ます小手先のテクニックを教わってきたと思われる受験生が次から次へと面接会場に姿を現すことになる。

 入試面接を担当するのは我々のような大学教員である。学力はともかく、我々の学科で勉強する意欲の無い者までが、何となく大学に入りたい一心で、我々の目を眩まして大学に潜り込もうとするのを見抜いてやろうと待ち構えているのだ。そういう学生は首尾良く入学しても、卒業まで継続して頑張るのも大変だし、それより4年間の勉学に耐えきれず途中で退学などという事態になると、せっかくの青春の時間を無駄にさせてしまって気の毒でもある。

 「私は微生物検査をやりたい」などと面接で嘘をついても、北里柴三郎だとか志賀潔などといった日本の有名な細菌学者を1人も知らない、「私は化学の実験が好きです」と見栄を張ってみても、「高校でどんな化学実験をしましたか」と聞かれて途端に言葉に詰まる、そんなのは論外だと思って欲しい。
 本当に大学に入る前から我々の分野に関心を持って熱望しているかどうかなんて、専門の教員がちょっと質問すればすぐ分かること、メッキだけの熱意はすぐに見破られると知るべし。面接重視のAO入試といえども、本物の熱意でなければ受験生にとってメリットはない。面接に当たる我々教員が欲しいのは、本物の熱意を持った学生である。

 また「何でこの大学を志望するのですか」と尋ねられた途端に、「しめた」とばかりに顔を輝かせ、「ハイ、貴学は環境も良く、建学の理想にも共感できて…」と見え透いたお世辞をタラタラ並べ始める受験生も願い下げだ。
 そりゃ学校経営者や事務官に聞かせれば、「ああ、この子はこんなにウチの大学を誉めてくれる」と喜ぶかも知れないが、面接を担当するのは入学後に実際に教科を教えることになる教員、そんなお世辞をチャラチャラ並べる受験生よりも、将来、「ああ、この子を教えて本当に良かった」と思える学生を求めているのである。

 最近聞いた話によると、大学の立地だとか、環境だとか、カリキュラムだとか、建学の理想だとか、教育方針などを徹底的に調べて、とにかく誉めて褒めて誉めちぎりなさいと、高校や塾の先生方が教えているのだそうだ。
 どうしてそんなことになっているか知らないが、私の学科や他の学科の先生方、あるいは他の大学の先生方にも何人か聞いてみたが、受験生が大学を抽象的に讃美するお世辞を述べ始めるとウンザリする、と異口同音に仰っている。

 そういう間違いだらけの入試面接指導は今すぐ止めて頂きたい。私たち教員が入試面接で求めているのは、本当にこの道に進みたいと熱望している学生さんである。付け焼き刃の演技など求めてはいない。本当に心の底から熱望してくる受験生は、最初に会話の口火を切った瞬間に判るもの、それが滔々とお世辞など言い出すと、背後でどんな大人が入れ知恵したかが見えてしまって、目の前の受験生が気の毒に思えてくる。

 あとちなみに高校時代にサークル活動やアルバイトで多少鳴らしたなどという経歴も、別にそれほど重視しているわけではない。学問の道に入るからには、まず素直な謙虚さが必要である。サークルやアルバイトで多少期待されてチヤホヤされたために、却って自分がいっぱしの人間と思い上がってチンマリまとまってしまうようなことになれば、医療人としては使い物にならなくなってしまう。


世界で一番怖い夢

 つい先日も朝の通勤電車の中で、座席を4人分も占拠して横になって爆睡している男を見掛けました。まったく迷惑なことです。自分は明け方まで酒を飲んで都心のターミナル駅から乗車して、車内も空いていたからゴロリと横になって、そのまま気持ち良く眠りこけてしまったのでしょう。

 こういう自分勝手な人間をどうしてくれようと思いますが、揺り起こしたって起きやしない。ヘタに目覚めさせて妙に絡まれたら、こっちも朝っぱらから気分が悪くなる、かと言って座席から引きずり落としたり、他の乗客の皆さんと協力して車外へ放り出して怪我でもされたら、こちらが犯罪者になってしまう。まったくこの類の輩には、これ以上怖いものはないという悪夢をプレゼントしたいですね。

 ところで皆さんが一番見たくない怖い夢って何ですか?多くの人が大人になっても悩まされるというのが学校時代の試験の夢、時間が迫るのに解答が分からず冷や汗をかいて目が覚めるといいますが、私は試験ができない夢を見たことはありません。
 むしろ大学受験に失敗して浪人していた時、志望校に合格した夢を2度見ました。しかしこれは目覚めた時にけっこう辛いものがあります。ああ、これで大学生になって受験勉強から解放されるとホッと安堵した瞬間に目が覚めるのですが、現実は浪人のままなのだから、あの失望感は何とも言えないものがありましたっけ。

 しかし試験の夢なんて出来ても出来なくても大したことはない。もっと怖い夢、お化けに追いかけられる夢…?私も小学生の頃に真っ黒いお化けに追いかけられる夢を見ましたが、今になって思い出すとなかなかユーモラスでした。
 じゃあ死ぬ夢、殺される夢、死んだ人が出てくる夢…?それもどうってことはありません。お世話になった人や親しかった人が亡くなってからも夢で会えれば却って嬉しいかも知れませんね。

 私にとってこんな夢は絶対に見たくない、もし見たら怖くて二度と眠るのがイヤになるだろうという夢が1つだけあります。電車の座席に寝っ転がって眠っているような人間に見せてやりたい(笑)。

 酒を飲んで電車の座席をベッド代わりに眠っていたが、
目が覚めたら回りに誰もいない、電車の中だけじゃなく、世の中どこにも誰もいない、自分1人だけ地球上に取り残されてしまった。傍若無人な振る舞いの罰として、傍らに人が無い世界でこれから3億年もの間、たった1人で留守番をしなければいけなくなったのだ。
 最初の1年か2年の間は自分の他にも誰かいるんじゃないかと思って、自動車や自転車を使ってあちこち探してみたが誰もいない、そのうち100年も200年も経つと世の中の道路も建物も荒れ果てて移動も居住もやりにくくなった、しかし自分の肉体は元気なままで、何も食べなくても力がみなぎってくる、1万年も2万年も経つと人間の文明自体も荒れ果ててしまい、100万年も経つ頃にはほんの痕跡程度しか残らなくなってしまった。しかも自分はその課程を毎日毎日見ていたのだ。まだ留守番の時間は2億9900万年もあるのに…。
 1億2485万7544年目の夏に宇宙人が地球にやって来た。彼らの宇宙船が故障して不時着したのだ。友だちになりかけたが、地球の環境が彼らには過酷だったのか、1年足らずで死んでしまった。また独りぼっち…。
 2億1337万3751年目の冬に火山の大噴火があり、あそこに身を投げれば苦役も終わると思ったが、自分の肉体は噴火の炎でも焼くことはできなかった。まるで手塚治虫の『火の鳥・未来編』の主人公みたいになってきたが、やっと気の遠くなるような3億年もの時が過ぎて、もう何も考えることさえ出来ずに頭もボーッとしている
と、
「お客さん、終点ですよ。」
電車の車掌さんが少し怒った声で耳元で怒鳴っている。夢の中で経験した3億年間の出来事は、たった1時間足らずの睡眠の間でしかなかったのだ…。

 というようなことがあったら、皆さんはまた今夜も眠りたいと思いますか?もう一度、3億年の孤独に耐える夢を見てしまうかも知れないのに…。いや、今度は10億年かも知れない…。


結石漫談

 早いもので初めて尿管結石で救急車に乗ってから4年も経った。あれからずっと痛みもなく、決して自分に尿管結石があることを忘れていたわけではなかったけれど、特に薬を飲むわけでもなく普通に生活してきたが、先月末(11月)に再びあの痛みが襲ってきた。
 前回もそうだったが、今回も最初は便秘と間違うような腹痛だった。しかし急激に痛みが増して吐き気も催してきた時点で、ああ、これは尿管結石だと気付き、4年前に貰ったまま使用することもなかった痛み止めの座薬で持ちこたえ、翌日に泌尿器科外来に受診して左尿管結石の診断が正しかったことが分かった。前回のように慌てふためいて救急車を呼んだりせずに済んだのは大きな進歩…(笑)。

 ところで4年前の時は自然に石が動いて症状もなくなったので、特に治療もしなかったのだけれど、今回見つかった結石は直径が8mmほどもあり、それが尿管という細い管の真ん中にはまり込んでいるので、体外衝撃波結石破砕術で取り除くことになった。
 物理学的な理屈はよく分からないが、機械で電磁衝撃波を発生させ、それをX線で透視した結石に向かって皮膚の上から体壁を貫いて発射する、するとその衝撃で石が歪んで破壊されるというわけである。

 1回の治療で合計4000発の衝撃波を1分間に70発の頻度で石に向けて撃つ、大体時間にして1時間弱、治療が始まると石がある方の側腹部が小さな鞭でピシッ、ピシッと連続的に引っぱたかれる感じがする、ああ、女王様、もっと〜というところだが、痛み止めを注射されているので頭は朦朧としている。
 昔は水着を着て大きな水槽に入って治療を受けたらしいが、今は特殊なベッドにただ寝ていればよい。4000発の治療が終わって服を着替えようとしたら、衝撃波で撃たれた部分の皮膚が10円玉ほどの大きさの皮下出血になっていた。治療費もけっこうお高くて、衝撃波1発あたり15円くらいか(笑)。

 さてこの治療後に砕けた石が尿に出てくると経験者から聞いたので、排尿のたびに採尿コップを用意して待っていたが、待てど暮らせどいっこうに石が出てくる気配がない。これは石は砕けなかったかと2回目の治療を覚悟したが、1週間後の受診で撮ったX線写真で結石は跡形もなくなっていた。粉々に砕け散ってしまったらしい。

 ところで直径8mmの私の尿管結石が砕け散ったのと相前後するかのように、世間ではもっと大きな物が砕け散って騒然となっていた。今世紀最大の彗星と呼び声の高かったアイソン彗星が11月29日、太陽に最も近づく地点で砕けてしまったらしい。うまく通過してくれれば12月上旬の日の出前に長く尾を引くアイソン彗星が観望できると期待されていただけに残念だ。もしかしたら私が尿管結石を砕いたために、大彗星もまた運命を共にしたのであろうか(笑)。

 彗星とはどういう天体か、昔このコーナーで書いたが、大学生の皆さん、少しは予習してあるでしょうか?(笑)
 地球を含む太陽系の天体は太陽の周囲を公転しているが、これは厳密には太陽を中心とした円運動ではなく、太陽を1つの焦点とする楕円軌道を描いている。楕円とは2個の焦点からの距離の和が一定である点の軌跡である。地球や火星など、水金地火木土天海冥の軌道は2個の焦点がそれほど離れていないのでほぼ円に近いが、焦点が極端に離れてしまうと天体の公転軌道は非常に細長い楕円になる。

 そういう細長い公転軌道を描く天体が彗星であり、太陽に一番近づいたところで急カーブを描いて方向転換する時に太陽の重力による衝撃を受ける。アイソン彗星はこの重力の衝撃に耐えきれず、私の尿管結石と同じように粉々に砕け散ってしまったのだろう。全世界の天文愛好家たちには大変申し訳ないことをいたしました(笑)。

 惑星が太陽を焦点の1つとする楕円軌道を描くということは、1609年にヨハネス・ケプラーによって発見され、アルキメデスの浮力の法則に次いで人類が2番目に発見した自然界の法則と言われている。ケプラーは1571年12月27日に南ドイツで7ヶ月の早産未熟児として生まれた。彼の肖像画を見ると非常に細い顔つきで、未熟児だった人に特有な頭の形をしている。未熟児の赤ちゃんは新生児期に体力も筋力も弱いので首を動かすこともできず、ベッドの上で左右いずれか一方を向いたままじっとしているので、頭蓋骨が左右から押されたように平べったくなってしまう。

 ところで7ヶ月の早産と言えば、現代の週齢の数え方では在胎28週前後、未熟児として人工呼吸器を必要とする子も多いが、もちろん16世紀末のヨーロッパに人工呼吸器も未熟児用保育器もあるはずない。何でケプラーは助かったのか。天体運行の法則を予言すべく地上に遣わされた人材だから、神様の加護もあったのだろうが…。

 おそらくケプラーの母親はかなり重い妊娠中毒症だったのだろう。妊娠中毒症になると胎盤機能が著しく低下して胎児に強いストレスがかかる。すると人間の体はうまく出来ているもので、胎児の方もこの胎盤で子宮の中にいたらヤバイということを感知するのだろう、本来ならあと3ヶ月ほど羊水の中でヌクヌクと育つこともできるのに、早産で母体を早々に追い出されても生き抜けるように、肺など全身臓器の成熟を一段と加速させるのである。
 私も周産期医療をやっていた頃に、本当に人間の体は不思議だと思ったことが何度もある。7ヶ月くらいの早産児が酸素も人工呼吸器も使わずに無事に成育したり、体重900gの赤ちゃんが大気中の酸素だけで元気よく泣いていたり…。たぶんケプラーもこんな元気な未熟児の1人だったのだろうと思う。


正月早々…

 2014年も明けました。
門松は 冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし
という一休禅師作と伝えられる歌ではありませんが、私も年齢を重ねるごとに正月も何となく煩わしく思うようになりました。
 そのせいかどうか、今年は新年早々、これはどうかしてると思われる某民放のTV番組がありましたので、ちょっと書いてみます。皆さんはどうお考えになるか。何もお正月からそんな事に目くじら立てなくても…とおっしゃるなら、それはそれで結構です。

 昔から『ドッキリカメラ』という番組があって、芸人やタレント同士、あるいは時として一般人までを相手に他愛もない悪戯を仕掛け、それに騙された人の反応を見て楽しむという趣向で、通常ならあり得ない動作や会話で居合わせた人を驚かせたり、タレントを嘘の番組企画に釣り込んで騙したり、とほのぼのした悪戯が多く、けっこう楽しめます。
 今年のお正月も『ドッキリアワード』と銘打ったこの企画、大倉忠義さんの首落ちドッキリなど面白かった。ちなみにこの“首落ち”は何年も前に『欽チャンの仮装大賞』という番組で高校生くらいの女の子が披露したのが最初で、立っている人の首がストーンと前に落ちるように見えます、私もあの時は本当に驚きました、そのネタを今では世界中のプロのマジシャンも使っているとか…。

 今年の『ドッキリアワード』ではそんなことも思い出しながら楽しく見ていましたたが、最後のネタがあまりにもひどかった。タレントの森脇健児さんを嘘の番組のオーディションで騙して富士の麓にセットを組んで競走させ、ゴール直前に落とし穴を掘っておくというもの。
 そもそも落とし穴というのはかなり危険な悪戯です。穴の底には発泡スチロールか何かのクッションを十分敷いてあったようでしたが、いくら森脇さんが陸上競技の経験者だからといって、気温氷点下のセット会場で全力疾走の途中、いきなり不意に落とし穴に落下させられたらどんなアクシデントが起こるか予想できません。取り除いていなかった異物が目に入ったり顔面を傷つけたり、などという危険はまだ序の口で、最悪の場合は神経反射で心臓停止だって起こり得ます。

 いくら笑いが取れて視聴率が稼げるか知れないけれど、本当に悪趣味で性格の悪い仕掛けです。もし番組を見ていた子供たちが仲間同士で真似をして怪我人でも出たら、責任者は何と言うつもりでしょうか。
 たぶんあの番組の企画会議でも同じような慎重意見を持ったスタッフはいらしたと思いますが、“イケイケドンドン”の雰囲気になるとそういう真っ当な慎重意見を言えない、言っても無視される、無視されるどころか「じゃあ代案出せよ」とか何とか凄まれて罵倒される、だから意見を言わない…、そんな番組スタッフの心中も想像してしまいます。たぶん戦時中の特攻作戦も、現在の閣僚の靖国参拝もそんな感じで決まっていったんでしょう。今回は森脇さんには怪我もなく済んで幸いでしたが…。


あおげば尊し 2番

 私がこのコーナーにあおげば尊しの歌について書いたのは、早いものでもう7年も前のことでした。あの頃は私も現在の学科の教員になっていましたが、まだ初年度入学の1期生の専門教科も始まっておらず、どんな学生を教えることになるのか、まるっきり顔も名前も知らないといった状態でした。それでも一応“教師”という身分になっていた手前、毎年卒業式シーズンになると袴姿のお嬢さんたちが街を闊歩するようになるのを見て、つい自分も昔のことを思い出して、ああ、俺も小学校を卒業した時にあの歌を歌ったなあと感傷にひたったわけです。

 2年ほど前も某都道府県立高校の卒業式で、“進歩的”教師が『あおげば尊し』を卒業生に歌わせることに抵抗したという記事が出ていて、「教師への尊敬を強要するな」という“進歩的教師”の言い分に対して、かなり辛辣な意見が多数ネット上に書き込まれていたのを思い出します。
仰がれても尊くないことを自分で分かっているから反対してるんだろ。
子供の頃は「和菓子の恩」と思っていたが、教師なんか和菓子以下の存在。
尊敬できない教師は「我が師」に含まれてません。
自分たちが尊敬される対象でないことを理解したうえでの自虐。
こうなりたくないという反面教師こそ最高の恩。
バカ教師の勝手な解釈で歌わないことを強要するのはやめてくれ。
この歌を歌いたいと思われる教師になれ。
今は尊敬を強要しなけりゃ尊敬されない教師ばかりだろ。
敬って貰えるだけの教育ができて初めて先生、先に生まれただけじゃダメ。
少数派として反対の行動に酔ってる人ばかり。
「僕は生徒に感謝を強要しない素晴らしい教師」と悦に入ってるなら気持ち悪い人だ。
仰げば尊しと言われるように努力するのが先だろ。

とにかく散々な書かれようでしたが、私も7年前の記事では:
 「あおげば尊し」を児童生徒に歌わせるのはけしからんと、進歩人ぶって偉そうに述べた教師どもはどんな人間だったのだろうか。児童生徒と対等の立場にまで降りていくことによって、教育の責任を放棄し、何を言っても“友達”だからと許される気安さに安住して、そのくせ“先生”という肩書きには執着して一身の栄誉だけは手放さなかった連中ではなかったか。
と書いています。思えば若気の至り(55歳・笑)でした。当時まだ私がほとんど講義を担当していないフレッシュマンだった1期生も今ではいろいろな医療機関の中核として働く年齢となり、その後すでに4つの学年が私たちの前を通り過ぎて立派に巣立って行きました。
 感謝されてたんだか、感謝されてなかったんだか、考えてみればそんなことが意識に上るようでは、失礼ですけれど例の某都道府県立高校の反対派の先生方は教壇を去られた方が良いのではないでしょうか。

 ところで今回はそんなことを書くのが目的ではなく、この『仰げば尊し』の歌の由来について新しい事実を知ったからです。もう一つの卒業式の歌である『蛍の光』の方は元はスコットランド民謡であることが分かっているし、譜面にもそう書いてありますが、『あおげば尊し』は誰が作曲したか不明のままでした。ユーキャンという会社が編集した『美しき日本の歌−こころの風景』(2007年)という映像付きのDVDの歌詞集の中に以下の解説があります。少し長いけれど引用します。

 
卒業式には必ずのように歌われている曲です。明治17年(1884年)、日本初の音楽教材集『小學唱歌(三)』に載ったのですから、「蛍の光」(明治14年)と共に非常に長期間歌われてきました。作詞、作曲者については、編集に関係していた大槻文彦、里見義、加部巌夫の合作といわれていますが、今のところ確証はありません。原曲が外国の民謡らしいという説にも根拠がなく、逆にもし日本人の作曲であるとしたら、当時としては非常に珍しい西洋風の長音階で作られています。戦後の一時、この歌に教師側が抵抗を見せましたが、PTA側は卒業式にはこの歌でなければ承知しなかったようです。事実、「卒業生を送る歌」などいろいろ新しい楽曲が作られましたが、いずれも水泡のように消えています。映画『二十四の瞳』でこの歌が使われ多くの人々を感動させたのも、「あおげば尊し」に対する感傷性が大きかったせいではないでしょうか。

 つまりまだ2007年頃は「あおげば尊し」は誰が作曲したか分かっていなかったのです。ところが2011年に一橋大学名誉教授の桜井雅人氏が、アメリカで1871年に出版された『The Song Echo』という歌集の中に『Song for the Close of School』という古い歌を見つけ、これが『あおげば尊し』の原曲だということを発見しました。作曲者はH.N.D.とイニシャルしか記載されていませんが、作詞者はT.H.Brosnanという人です。
 題を翻訳すれば『学校を終える歌』となりますか。ネットに原版の譜面の写真がありますが、茶色く変色したページに8分の6拍子、ホ長調の四部合唱で書かれています。

 日本人は明治の昔から作詞・作曲は誰かも知らないまま100年以上も卒業式で歌い続けてきたわけですね。私が不思議だと思うのは、『小學唱歌(三)』を編纂した日本人たちは何故この歌の原作者の名前を残さなかったのかということです。現在だったら著作権問題など大変なことになるでしょう。
 同じ頃の『蛍の光』はきちんとスコットランド民謡として伝えられているのに、『あおげば尊し』の方は無断で借用してしまっている、写譜など繰り返すうちに作詞・作曲者名が脱落してしまったとも考えられますが、作曲者がイニシャルだけなので本当に誰に断れば良いのか分からなかったのかも知れません。どうせ歌詞の方は日本で独自に作るんだし…。

 せっかくですから元の歌詞も勉強してみましょう。

(1)
We part today to meet, perchance, Till God shall call us home;
And from this room we wander forth, Alone, alone to roam.
And friend we've known in childhood's days May live but in the past,
But in the realms of light and love May we all meet at last.
(2)
Farewell old room, within thy walls No more with joy we'll meet;
Nor voices join in morning song, Nor ev'ning hymn repeat.
But when in future years we dream Of scene of love and truth,
Our fondest tho'ts will be of thee, The school-room of our youth.
(3)
Farewell to thee we loved so well, Farewell our schoolmates dear;
The tie is rent that linked our souls In happy union here.
Our hands are clasped, our hearts are full, And tears bedew each eye;
Ah, 'tis a time for fond regrets, When school-mates say "Good Bye".


日本語訳もネットに出ていますが、もうちょっとしっくりくるように訳してみます。古語が多いのでよく分からないところを、英語の先生は採点しないように(笑)。

(1)
私たちは今日別れてしまえば、神様の御許に召される時まではたまにしか会えなくなる。
私たちはこの部屋から独りぼっちでさまよい出るのだ。
知り合った若き日の友だちは過去の追憶の中に生きますように。
でも最後には光と愛の王国でみんな会えますように。
(2)
古い教室よ、さようなら。もう汝の壁の中で私たちが楽しく集うことはない。
もう朝の歌や夕べの賛美歌を繰り返すこともない。
でも何年経っても私たちが夢見るのは愛と真実の光景、
私たちの大切なもの、それは汝、若き日の教室となろう。
(3)
私たちがこよなく愛した教室よ、親愛なる若き日の友だちよ、さようなら。
私たちの魂をここで一つに繋いでいた幸福な絆は切れた。
私たちは手を握り合い、心は満ち、目に涙を浮かべ、
友だちが「さよなら」を告げる時、ああ、惜別の悲しみ。


 ところで何で唐突に『あおげば尊し』の原作が分かったという話になったかと言うと、たまたまネットを見ていたら、ある高校の卒業式風景がYouTubeの動画になっていて、何気なく見ていたら在校生の『蛍の光』に続いて卒業生の『あおげば尊し』の斉唱になりました。ところが何か足りない…。それでいろいろ調べたわけです。
 私たちの世代が歌った『あおげば尊し』の歌詞を復習してみます。

一)仰げば尊し わが師の恩
   教えの庭にも 早や幾年
   思えばいと疾し この年月
   今こそ別れめ いささらば

二)互いにむつみし 日ごろの恩
   別るる後にも やよ忘るな
   身を立て名を上げ やよ励めよ
   今こそ別れめ いささらば

三)朝夕馴れにし 学びの窓
   蛍のともし火 積む白雪
   忘るる間ぞなき ゆく年月
   今こそ別れめ いささらば


 でもネットでみたある高校の卒業式ではこの2番が歌われていないのです。それでいろいろ調べてみたら、最近では『あおげば尊し』は歌っても1番と3番だけのことが多いそうですが、その理由が私の目から見ると何ともやり切れない。

 「身を立て名を上げ やよ励めよ」
が立身出世主義で良くないということだそうです。たぶん『あおげば尊し』には賛成でも、2番の歌詞は反対という人も多いのではないですか?

 「名を上げ」はともかく、「身を立てる」ために頑張ろうよと励ますことが何でそんなにいけないことなのか、私には本当にやり切れない。大学で教員などしていると、最近の若い人たちは「身を立てる=世の中で生きていく」ために頑張る訓練をして貰っていない気がします。
 聞くところによると、最近では子供を怒ってはいけない、叱ってはいけない、無理強いしてはいけない、他の子供と競争させてはいけない、他の子供と比較してはいけない、とにかくあれしちゃいけない、これしちゃいけないで、子供の自主性を尊重して優しく気長に見守ってやらなくちゃいけない、ということになっているんだそうです。

 まあ、幼児教育や初等〜中等教育の専門家ならそれも良いでしょう。自分が預かった子供や若者たちに優しい顔だけ見せて、物分かりのいい大人ぶっていれば良いんだから…。それで自分の守備範囲の年限が過ぎたら次の段階の専門家にバトンタッチ、つまり丸投げ…。
 若者たちの中には、ああ、そんなに頑張らなくても良いんだな、少し良い子にしていれば大人たちは多少のことは大目に見てくれて、次の段階に進めてくれるんだな、と思ってしまう者も少なからずいます。(全部がそうというわけではありませんが…。)
 大人たちの厳しい面を見せて貰えなかったそういう子たちが、いよいよ高等教育を終えて私たちの専門教育の段階に進んでくる、特に私たちの医療職教育の場では卒業後の国家試験受験に備えて、頑張らせなければならない、知識をある一定レベルまで無理強いしなければならない、級友たちのレベルと比べなければならない、努力の足りない者は叱らなければならない、しかしそれまでオブラートでくるむようにして大事に大事に傷つかないように育てられてきた子の中には、これでついて来れなくなってしまう者がいる。

 子供は大切に傷つかないように育てましょう、などと自分たちだけ良い大人ぶっている幼児教育や初等〜中等教育の専門家たちに、この修羅場を見せてやりたいと思いますね。歌われなくなった『あおげば尊し』の2番に関連して、いろいろなことを考えてしまいました。


あおげば尊し 3番

 せっかく『あおげば尊し』の記事を2番まで書いたので、蛇足ですが3番まで書き加えておきます。『あおげば尊し』の1番は先生に対する感謝、2番は友達に対する感謝、3番は校舎に対する別れを歌っていますが、前項に述べたアメリカの元歌の原詞はこの3番の意味合いが最も強いように思います。確かに友達との別れも歌っているが、やはりその友達と共に過ごした懐かしい校舎(教室)への愛惜を一番感じますね。

 自分が幼い日々、若かりし時代を過ごした校舎は、年齢を経れば経るほど懐かしさが募ります、もう一度あの教室、あの校庭に立ってみたい、いったいどんな感慨が湧くでしょうか…
 とここまで考えてハッと気付きました、私が学校時代を過ごした校舎って今どのくらい残っているのでしょうか。私の学校時代はほぼ昭和30年代から40年代にかけて、つまり戦争で焼け残った建物や、戦後の急場が少し落ち着いた頃に作られた建物が多かったですから、その後のバブル経済の時代、激しいスクラップ・アンド・ビルトの嵐の中で、私の卒業後に取り壊されたり改装されたものも多い。

 私の小学校は、元阪神タイガースの田淵選手も先輩の1人ですが、“越境”してバス通学する児童も多かったので、区立小学校としては比較的早い時期に新校舎建設が始まりました。私の在校中にすでに2棟の鉄筋コンクリートの新校舎が完成し、それまでの木造校舎とは違うモダンな内装が嬉しかったものです。
 この新校舎はその後もずっと変わらずに建っており、私も近くをバスや車で通り過ぎるたびに、ああ、懐かしいなあと思っていたのですが、昨年ここを通ったら何もかも取り壊されて更地になっているので愕然としました。薪を背負って本を読む二宮金次郎の銅像もどこか見えない所に行ってしまった…。帰宅して慌ててネットなど調べたら、別に廃校になったわけではなくて現在建て替え中ということが分かってホッとしましたが、私の足跡が残る懐かしい校舎はもう無くなってしまいました。

 中学・高校は6年一貫教育で、私の在校中に新校舎の建設計画が始まりました。当時日本中に吹き荒れていた大学紛争に影響されて左翼ぶった一部のクラスメートが、「新校舎建設反対!」などと訳の分からないアジ演説をやっていたものでしたが、あの頃の学生運動なんて何でもかんでも反対反対と騒いで自己満足する幼稚なものでしたね。
 それはともかく、私が中学1年から高校2年までを過ごした懐かしい校舎は、拡張された大学校舎として改装されてしまいました。外壁だけは今も変わらぬ佇まいですが、中に入ると昔の面影は何も残っていません。
 一方、高校3年の1年間だけを過ごした新校舎は今も残っていますが、当時の日記に「あまりに綺麗すぎて武人の蛮用に耐えないだろう」などと生意気なことを書いたとおり、あれから40年以上にわたる後輩たちの“蛮用”で壁も床も薄汚れて見る影もありません。

 東京大学も私の卒業後に大規模なキャンパス整備が進んで、立派な新しい医学部棟や附属病院が建設されましたが、戦前に建てられた煉瓦造りの医学部本館だけはまだ昔のまま学生講義にも使われており、私も毎年1回だけここの基礎医学講堂で母校の後輩の学生さんたちに病理学の講義をさせて貰っています。私の学生時代から変わらぬ古めかしい雰囲気の講堂ですが、何十年も前に講義を聴いた講堂で今度は自分が講義をする、時の流れを感じますね。
 しかし自分の学生時代を偲べる部屋はここだけで、あとはすべて改装されてしまい、私が小児科医や病理医として研修した場所さえも今はもうありません。ちょっと寂しいです。しかも研修終了後も医師として歩んできた病院は軒並み全滅というか、都立築地産院と母子保健院は廃止、遠州総合病院は新病院になって別の場所に移転、東大小石川分院も廃止…と私が働いた病院の建物は悉く無くなりましたし、最後のご奉公である帝京大学も、就職して10数年間勤めた旧病院や旧大学棟は取り壊されて新病院と新大学棟になりました。

 私の教え子たちも、第3期生くらいまでの卒業生たちの中には自分が講義や実習を受けた古い建物を懐かしむ者も多い。学校のみならず住宅や職場も含めた建物はそこに生活した人たちの成長を見守ってきた歴史があるのです。古くなったからと言って、やむを得ざる場合を除き、そう簡単に取り壊したり建て替えたりして良いものではありません。

 と言うより、やむを得ず新築・改築する場合は、そこで生活して育っていった者たちが再び帰って来れるように、何十年も先を見越してしっかりした物を作らなければいけない。早稲田大学の校歌にあるように、特に学校は“心の故郷”なのです。最近雨後の竹の子のように続々と建設されるいろいろな大学の新棟は、受験生やその父兄に応募して貰うことを第一に考えてどれも立派な見栄えはしますが、内装や設備は十分でなく、中には建築法規を満たしていないものすらあるようです。講義や実習や学生生活を充実させるソフト面ばかりでなく、学びの場所が何十年でも同じ場所にできるだけ長く存在し続ける、そういうハード面を整備してあげるのも学校関係者の責務だと思います。


STAP細胞は止まった(The STAP has stopped)

 2014年1月に英国科学雑誌Natureに掲載されてノーベル賞候補とまで言われ、栄光の頂点を極めるかに見えた小保方晴子さんのSTAP細胞がとんでもないことになってしまった。Natureに掲載された論文に使われた図表が実は自分の博士論文の使い回しだったり、画像に切り貼りの作為が加えられていたり、他の人が書いた論文の文章をほぼそっくり丸写ししていたり、と原著論文の体裁をなしていないと厳しい判定が下ったのである。論文は取り下げられる見通しらしい。

 小保方さんの所属する理化学研究所(理研)は記者会見の席上、理事長でノーベル化学賞受賞者でもある野依良治氏が、小保方さんは科学者として未熟、データの扱い方も杜撰で無責任と断罪した。まさに天国から地獄、栄光から屈辱へと急転直下…。

 小保方さん本人は、投稿画像に切り貼りなどの操作を加えてはいけないことを知らなかったと述べていると報道されているが、一言の弁護の余地も無くそれはないだろうと思う。最近は電子画像全盛の時代で、昔のように写真画像を1枚1枚現像するようなことも必要ないから、画像の切り貼りなど素人でも朝飯前にできるようになった。夜道の風景写真に人影を貼り付け、“心霊写真”などと言って人を騙すのと同じことを科学者がやったわけだ。

 これをやられたら論文の他の不備、写真の使い回しだとか他論文からの文章のコピペ(コピーして貼り付け)が単なる不注意でしたと言われても、ハイそうでしたかと納得できるものではない。故意の不正があったかどうかは現在(2014年3月現在)調査中というが、故意でなくてこれだけ不備な論文になるとは私には思えないが…。

 小保方さんが何でこんな故意の不正をしたのか理解できない。世界中で追試が始まれば嘘のメッキはすぐ剥がれることくらい分からなかったはずはない。金(研究費)か、ポスト(地位)か、色恋関係か、世間はいろいろ勘繰り始めているが、私はやはり小保方さんは何かSTAP細胞の存在を思わせる事実(錯誤であったかも知れないが)を目にして、それを強く信じ込んでしまい、実験結果の検証もそこそこについ先走ってしまったのだと思いたい。

 日本の科学研究の信用が…と心配する人も多いが、こんな科学のペテン事件は世界中でいくらでも起こっている。別に推奨するわけではないが、スペクター事件については他の記事で触れた。しかし最近、佐村河内守氏のゴーストライター事件とか、汚染水漏れがあっても安倍政権の原発安全宣言とか、ニセ物事件が跡を絶ちませんね。

 いずれそういうことはマスコミやネット社会が食いついていくだろう。STAP細胞発表当初は研究リーダーが若くみめよい女性であったことから、“リケジョ(理科系女子)の星”などと持ち上げてアイドル扱い、個人のプライバシーまで暴こうとしたかと思うと、一転STAP細胞への疑惑が明らかになると掌を返したように、ろくに知識も無いくせに批判合戦を繰り広げる、もうちょっと物を見る目を養って欲しいと思う。

 さてそういう一連の世俗的な騒動は放っておいて、果たしてSTAP細胞なる細胞は本当に存在するのかというのが次の問題である。STAP細胞とは、Stimulus-Triggered Acquisition of Pluripotency の頭文字を並べたもの、すなわち刺激により引き金を引かれて多能性を獲得するという意味で、日本語では刺激惹起性多能性獲得細胞と呼ばれる。
 山中伸弥教授のiPS細胞(induced Pluripotent Stem cell:人工多能性幹細胞)のように細胞の核内DNAに遺伝子を導入してやる必要もなく、細胞を酸に漬けるといった外部からの刺激だけで細胞が多能性を獲得する、もし本当なら再生医療の分野などできわめて将来性の高い画期的な新発見だった。

 多能性というのは、体のどの細胞にでも分化しうる(成長して姿を変えられる)ということである。生物の体は最初はたった1個の受精卵細胞から始まる、最初のその細胞は頭のてっぺんから爪先まで、神経でも筋肉でも肝臓でも肺でも、ありとあらゆる細胞に分化することができる、だから動物の複雑な体が形成されるわけだが、いったん神経なら神経、血球なら血球に分化した細胞はもう元へは戻れない、心筋梗塞の患者さんに血球だの皮膚だのの細胞を注入したって心臓の筋肉の細胞になってくれるわけではない。
 人間もオギャアと生まれたその瞬間は、大リーガーだろうがミュージシャンだろうが医者だろうが弁護士だろうがF1レーサーだろうが、ありとあらゆる可能性を持っているが、その後社会の中でいろいろな役割を担うようになると、違う職業に就くことは普通はもうまったく困難になるのと同じ、まあ人間の場合は細胞と違って努力と覚悟次第で別の道へ進む可能性が皆無ではないが…。

 いったんある細胞に分化してしまった細胞に幾つかの遺伝子を導入することで、また赤ちゃん返りをした細胞が山中先生のiPS細胞、それに対して過酷な環境を経験した細胞が別の細胞に生まれ変わろうと心機一転して努力したのがSTAP細胞ということになる。人間でさえ必死に努力すれば別の道に進めるのだから、細胞にできないことがあろうか(笑)。
 私たちも小学生の頃、植物の枝を半分土に埋めて挿し木しただけで、それが一人前の植物に育つのを不思議だと思った経験はないか。トカゲの尻尾も同じだが、哺乳類の細胞だって同じことができるんじゃないか。

 小保方さんはそう考えてSTAP細胞の研究を始めたんだそうだ。かなり夢が大きすぎて功を焦った観はあるが…。それで私もたまたま若い人と英文の抄読会をやる予定があったので、せっかくだからNatureに載った小保方さんの論文を読んでみた。
 事態がこうなってしまってから言うのは後知恵みたいでフェアでないが、読み終わった直後の私の感想は、「これ大丈夫かね?」だった。私のような病理の医者の“常識”から言えば、細胞を酸で処理すると万能のSTAP細胞ができるというのは信じられない。世界中の何十億人もの人々の胃の中では毎日毎日塩酸が分泌されて、胃粘膜の細胞は絶えず酸に暴露されている、酸の出方やpHの値(どのくらい強い酸性かの指標)は千差万別、たまたま小保方さんが実験したのと同じ程度の酸に暴露された胃粘膜細胞の数は、19世紀以来それこそ無限大に近い、だのになぜSTAP細胞ができていないのか。

 気がつかないだけだと言うかも知れないし、できたSTAP細胞を拾い集めて定着させるのが大変だということかも知れないが、もし胃粘膜に無限大もの数のSTAP細胞ができていれば、確率の問題としてその中の10や20個くらいは万能の細胞に特有な腫瘍になってもおかしくない、小保方さんのグループもSTAP細胞の証拠として追跡したテラトーマという腫瘍である。

 テラトーマは日本語では奇形腫というおどろおどろしい名前だが奇形とは関係なく、腫瘍の中に皮膚とか神経とか骨とか歯とか内臓とか、人体のあらゆる組織の成分がゴチャゴチャにミックスして存在しうる腫瘍である。手塚治虫さんの漫画ブラックジャックの助手にピノコという可愛らしい女の子がいるが、あれはブラックジャックが凄腕で奇形腫を人間の形にしてやったという設定になっている、本当はそんなことは絶対にできっこないが、万能細胞の証拠として奇形腫発生が一つの指標となる理由はよく理解できるであろう。(本当はブラックジャックの話を読むと“封入胎児”という病変だと思うが、話の流れから“奇形腫”のままにしておく。)

 しかし胃やその前後の消化管は四六時中さまざまな程度に胃酸に晒されているにもかかわらず、19世紀に顕微鏡を使った病理学が発達して以来、この奇形腫が胃に発生しやすいという報告は皆無に近い。私の不勉強で症例報告を見逃しているだけかも知れないが、そんなに簡単に酸でSTAP細胞ができるなら、何かのはずみで胃に奇形腫が発生する頻度はもう少し高いんじゃないか。
 私は病理医の常識でそう考えたわけだが、まあ、病理医の常識は世間の非常識、病理医は世間離れした変な人が多いからあまり信用せずに、世界中の科学者たちの追試結果を冷静に見守って下さい。


あなたならどうする?

 前回STAP細胞について書いたが、その論文執筆の際に小保方さんが他の人の論文などを大幅にコピペ(コピー&ペースト)していたことが問題になっているのを見て、私も自分のことで思い出したことがある。それで「皆さんならどう対処しますか?」とお聞きしてみたい。

 コピペとは別の原本から図表なり文章なりをコピーしてきて、自分の図表なり文章なりに貼り付ける(ペーストする)ことである。最近ではいとも簡単に“コピペ”などと言うが、私たちの世代が社会人になったばかりの頃までは、コピーなどという作業は大変な労力を必要とする容易ならざる大仕事であった。

 例えば私たちの高校時代の音楽部、ある合唱曲を練習しようと思ったら、元の譜面を買って来て(あるいは借りて来て)合唱部員の数だけコピーしなければならないが、私たちより10年以上世代を下った人たちには到底理解できないような苦労をしたものである。
 現在ならゼロックスで人数分コピーすりゃいいだろと当たり前のように思うだろうが、その昔はそんな複写機は無かった。もしかしたらアメリカの国防省あたりには写真複写機のような物もあったかも知れないが、当時の民間人は『謄写版(とうしゃばん)』という器具を使って元の文書や図表の複製を何枚も印刷したものである。豆板醤(とうばんじゃん)ではない、謄写版とは、油紙をヤスリ板の上に置いて先の尖った鉄筆で文字や絵や楽譜を書くと、鉄筆でなぞった部分の油紙に細かい傷がついて、その油紙を印刷用紙の上に敷いてインクを染み込ませたローラーを押しつけると、その傷穴からインクが用紙に乗り移って、油紙に鉄筆で書いたとおりの文書や図表が何枚も印刷できるという仕組みの器具であった。
(エーイ、分からなければ分からなくていい、スタジオジブリのアニメ『コクリコ坂から』を観て下さい)

 とにかくゼロックスのようなコピー機が普及するまでは、昔はコピーという作業はそんな簡単なものではなかった。最近では我々も必要な文献など手軽に複写機でコピーしてしまうが、昔は原本を図書館で借りて来たら、返却期限までに必要な箇所はすべて読んで内容をノートにでも記録しておかなければいけない。だから昔の人間は今より勤勉だった。最近では必要な文献などをコピーしただけで安心してしまい、後で読めばいいやと放置したまま忘れてしまうことさえ多い。

 もっと怠惰になったのは学生たちである。成績評価のためのレポートなど、wikipediaのようなインターネット上の文章をコピペして提出してくる、さらに悪質なのは友人のレポートのファイルをコピペしてくる。こんなのはもう勉強でも学問でもないが、おそらくこのレポートコピペ問題はどこの大学の教員も手を焼いているに違いない。本来なら露見次第退学でも構わないほどの学問への冒涜なのだが、我々教員の方も何百人もの学生の提出してくるレポートのコピー元をいちいちチェックしている時間も無いのでどうしようもない。Natureの査読者でさえ小保方さんのコピペを見抜けなかったではないか。

 最近ではパソコン上の簡単な操作だけで膨大な文章だろうが大容量の画像だろうが、他人の物をパクって自分のものに貼り付けることが出来るようになってしまった。著作権の問題を持ち出すまでもなく、これは他人の知的所有物を窃盗する犯罪行為なのだが、そういう罪の意識を微塵も感じないくらい簡単なキーボード操作で済んでしまうのである。

 それで私の問題というのは次のようなものである。皆さんはどう対処しますか?
私もこんなサイトを10年以上にわたって運営してきたが、私と同じようなテーマでサイトを運営していらっしゃる方がいないかどうか、時々ヒマを見つけては幾つかの共通のキーワードで検索をかけて探してみる。そうしたら先日とんでもないブログを見つけてしまったのである。

 その方、仮にA氏としておく、は私のサイトの中の記事を3つばかり、まるまるコピーしてご自分のブログにペーストして公開しているではないか。私のサイトを読んで、ドクターブンブンはかく語りき…と紹介・引用したうえでご自分の文章を続けているのではない、例え話の内容から助詞の“てにをは”までそっくり丸写しで、ご自分の文章として載せているのだ。

 私も驚いた。まるで私も最近話題になったゴーストライターみたいだが、もちろん私には何の連絡も無い。コピペされたのはもう数年以上も前のこと、さあ、皆さん、どうします?

 A氏はなかなか文才があり、波瀾万丈の人生を送ってこられた方で、私もA氏のブログの他の部分を読ませて頂いて感銘を受けることが多かった。何も私のサイトの記事を盗用せずとも、ご自分の才覚だけで十分サイトを運営できる方なのに何故…?また私に一言メールで連絡して下されば記事の引用やリンクなど快く許諾したくなる方なのに、ネット上の同好の士になれそうな方だったのに何故…?

 皆さんならどうしますか。抗議のメールを送って該当記事を削除して貰う、もちろんそれが当然の対処法です。しかしA氏はもう私の抗議メールをご覧になることはない、A氏の両眼はすでに疾患のために光を失ってパソコンの画面を見ることもできないからです。
 失われていく視力に対する不安に比例するかのようにブログの使用文字も大きくなる、そんな様子も画面から窺えました、そしてある日を境にブログは唐突に終わっていた…。たぶんA氏はその後も頑張って生きておられる、私はそれを心の中で応援したいと思っています、しかし障害があるからといって私の記事を盗用して良いというものではない(別に金や名誉になる文章ではないが)、最近のゴーストライター事件や論文コピペ事件などの報道に接して、つい思い出したくもないことを思い出してしまいました。あなたならどうしますか?


STAP細胞の終幕

 さてSTAP細胞絡みで記事を2回書かせて貰ったが、2014年4月9日に当の小保方晴子さんが大阪で2時間以上にもわたる記者会見を開き、一時またネットやマスコミが騒がしくなった。みめよい若き“リケジョ”が、時には涙を浮かべながら表情豊かに語る姿に魅せられたのか、彼女の強い自信を感じたとか、魔女裁判みたいで可哀そうとか、訴える力を持った女優のようだなどという論調も見られる。

 確かに女優としてなら許せるかも知れないが、彼女がSTAP細胞をもう200回以上も作ったと自信を持って言い切るということは、自分はもう心霊現象を200回以上も見たと言っているのと同じことだ。昔『たけしのTVタックル』という番組があって、その年末特集番組になると、地球にはもう宇宙人が暮らしているんですよと、(演技だったんだか本気だったんだか)真面目に主張する面白いオジサンが出演していたが、あれと同じレベルの話になってしまう。

 小保方さんが魔女裁判の哀れな犠牲者だろうが、煮ても焼いても食えないしたたかな女だろうが、私のような理科系男子(リケダン?)にはどっちでも構わない。STAP細胞は実在するかどうか、科学の論争はそれだけが勝負のはずだ。ところが当初からのSTAP細胞の報道では割烹着とかピンクの壁紙とか、余計な物がチラチラ見え隠れし過ぎていた。

 小保方さんが論文で発表したとおりの方法に従えば、世界中どこの研究所でも同じようにSTAP細胞ができる、それだけで小保方さんは誰からも文句を言われずに栄冠を手にすることになる。今からでも遅くない、最初の論文はちょっとズルしちゃったけど、ここを少し変えて追試してみて下さい、そうすればSTAP細胞は必ずできますと訂正してくれても良い。

 それをせずに大袈裟な記者会見など開いたことで、ああ、これで本当にSTAP細胞は最後なんだなと私のようなリケダンは思ってしまう。彼女に魅せられた企業やマスコミや資産家がおられたら、ぜひ彼女を援助してSTAP細胞を作らせてやって欲しい。恥の上塗りをさせるだけかも知れないが、もし本物だったら何十億ドルもの特許になる。


ネットの探検家(インターネットエクスプローラ)に何が起こったか

 2014年4月28日、おそらく最も利用度の高いブラウザであるマイクロソフト社のインターネットエクスプローラを使うなという警告が世界中を駆け巡った。私の職場でもインターネットエクスプローラ(略してIE)を使うなという通達が回ってきた。

 このブラウザに重大なセキュリティの欠陥が見つかったという最初の警告が、製造元のマイクロソフト社からではなく、米国の国土安全保障省というものものしい政府機関から発せられたことで、パニックもよりいっそう大きかったと思われるが、そもそも全世界のインターネットユーザーの中には、インターネットエクスプローラって何?、IEって何?、ブラウザって何?というレベルの人も多いから、この警告の意味すら判らないんじゃないかという冷ややかな見方もある。

 5月の連休に入って製造元のマイクロソフト社から修正プログラムの自動更新が配布されるとの報道があったので、事態もひとまず落ち着きを取り戻したが、いったいインターネットエクスプローラに何が起こったのか?世界のどこかで何かの実害が発生したというわけでもなさそうだったので、何だかキツネにつままれたような感じである。説明によると、インターネットエクスプローラである特定のサイトにアクセスすると自分のコンピュータが悪意ある攻撃者によって不正な操作をされてしまうということらしいが、そういう事例が実際に1つでもあったのだろうか。

 何にも実害が発生する前に米国機関から警告が発せられた…ということに関して、私にはひとつ思い当たることがある、あの時も何か変だったなあということが…。

 2001年9月初頭、私は夏休みを取って成田空港からイスタンブール行きの国際線に搭乗したが、普段なら機内持ち込みOKの旅行バッグを有無を言わせずチェックインさせられてしまった、つまり航空会社預かりにされてしまったのである。
 お陰で機内での身の回り品に大変な不便を余儀なくされたわけだが、何となく釈然としないままトルコの旅を続けていたところ、例の9月11日のニューヨーク同時多発テロである。アメリカ政府機関は航空機テロの予兆を未然に察知しており、アメリカ本土まで航続距離のある旅客機の手荷物管理を厳重にするよう世界各国の政府と航空会社に指示を出していたと考えればすべて辻褄が合う。

 今回もたぶん米国の国土安全保障省は、テロリストまたは仮想敵国からのインターネットエクスプローラによるサイバー攻撃の情報を事前に察知したうえでの警告だったのではなかろうか。今回は事の性質上、航空会社に警報を出すだけでは不十分、それで全世界のネットユーザーに向けての発信となったのではないか。
 また全世界のインターネット環境を揺るがすような大事件が起こらなければ良いがと、密かに祈っているが、これまでは絶対安全と信じられているスマートフォンなどもサイバー攻撃の標的となり得ることが警告されるようになってきた。インターネットは今では生活に無くてはならない大変便利なツールだが、それを利用するユーザーもセキュリティー自衛のために果たすべき責任を自覚して、必要な正しい知識を身につけなければならないだろう。


幻の日本人ノーベル賞

 ついに小保方さんのSTAP細胞には、本来あり得ない染色体異常が見つかって、これで本当に止めを刺されてノーベル賞どころではなくなったようだが、今回はそんな話をするつもりではない。今回のSTAP細胞のように恰好の週刊誌ネタになると、普段は科学などまったく見向きもしないマスコミまでがしゃしゃり出て来て大騒ぎ…などという現象は実に困ったものだと思う。

 今回の事件で我が国の科学研究の信用が…などと嘆くのも良いけれど、科学の世界は誰が最初に真理に辿り着いたか、それだけが勝負のはず、しかし実は裏へ回ればそうでもないという話を書いてみたい。
 世界で初めて遺伝の法則を発見したメンデル(Mendel)は僧院の坊さんだったために、その重要な発見は当時の世界の医学界の重鎮たちからいわれない無視と反発を浴びて35年間評価されることはなかった。
 分娩介助など患者の傷口に触れるような処置の前に、世界で初めて手指の消毒を行なったセンメルワイス(Semmelweis)は多数の婦人たちを産褥熱から守ったにもかかわらず、ヨーロッパの片田舎ハンガリーの出身であったために西ヨーロッパの医学界の主流からの反発を浴びて、その重要な処置の実践は見送られてしまった。

 これらはSTAP細胞のように誰にも追試が成功しない、などという代物ではなかった。世界中の大学や研究所がメンデルやセンメルワイスの報告に基づいて追試していれば、何万人もの産褥熱の婦人の生命を救えたであろうし、遺伝子治療などの進歩も今より20〜30年ほどは早まっていたであろう。その意味では最近問題になっているノバルティス社の降圧剤論文データ改竄事件と同等以上の悪質な事件であった。

 医者が坊主に先を越された(メンデルの法則)、ハンガリーの田舎医者に先を越された(センメルワイスの消毒法)、そういう職業的偏見、地域的偏見が根底にあったとしか思えない。ということは、もしこれらが日本人の業績だったとしたらどうなっていたか、推して知るべしだろう。

 江戸時代の華岡青洲が、近代医学史上世界で初めて全身麻酔に成功したことがシカゴの国際外科学会の栄誉館に顕彰されているなどというフェアプレイはむしろ珍しいのであって、日本人が人種的偏見からノーベル医学・生理学賞を取れなかった事例は幾つかある。華岡青洲は有吉佐和子さんの小説『華岡青洲の妻』でご存じの方も多いと思われるが、では次の業績を世界に先駆けて行なったのは誰か、お分かりだろうか?

細胞膜電位を世界最初に測定したのは…?
世界最初に動物に人工的に癌を起こしたのは…?

 生物の基本単位である細胞の膜の内外を隔てて電位差が存在し、我々の神経や筋肉の興奮にはこの電位差が関与するが、微細な細胞内外の電位差を測定するには繊細なガラス管内に電解液を満たしたガラス電極が用いられる。
 このガラス電極を1934年に世界で最初に発明して、ゾウリムシの繊毛運動を制御している細胞膜電位を測定したのは当時イギリスに留学中だった鎌田武雄である。その後、イカの巨大神経細胞に金属電極を刺し込んで細胞膜電位を測定したアラン・ホジキンとアンドリュー・ハクスレイは1963年のノーベル賞を受賞した。またエルヴィン・ネーアーとベルト・ザックマンはガラス電極による細胞膜電位測定法の開発によって1991年のノーベル賞を受賞している。
 鎌田武雄は1946年に故人となっているから、もちろん受賞資格は喪失していたが、彼の業績を知っていた日本人は果たしてどれくらいいたのか、また現在鎌田武雄の名前を知っている日本人はどれくらいいるのか?小保方の名前は知っていても、鎌田武雄の名前を知らないようでは、我が国の科学研究をとやかく言える立場ではない。

 もっと有名で、ノーベル賞受賞資格があったにもかかわらず受賞できなかったのは山極勝三郎である。彼は1915年にウサギの耳にタール塗布で刺激を反復することで世界で初めて人工的に発癌を起こし、慢性刺激が癌の原因であることを実証した。この化学発癌の成果はその後の腫瘍研究の分野に大きな影響を与えたにもかかわらず、ノーベル賞選考委員会の中には「東洋人にはまだノーベル賞は早すぎる」というような人種的偏見に基づく発言もあったとされ、結局山極の受賞は見送られている。
 確かに有色人種国家の中で、平和賞・文学賞以外のノーベル賞受賞者数は現在のところ日本が圧倒的だが、これをもって中国や韓国をバカにする日本人は山極勝三郎の名前を知っているだろうか。自国の先人たちの業績も知らずに他国を見下していると、とんでもない独善に陥ってしまう。

 八木秀次は受信電波を増幅する八木アンテナを発明し、1926年に米英で特許を取った。米英軍は八木アンテナを応用したレーダーを開発して第二次世界大戦に実用化していたが、1942年シンガポールを占領した日本軍の情報将校は押収した英軍文書の中にYagi antennaの文字を見つけ、それが何のことだか理解できなかったという。これを日本軍の電波技術者に教えた捕虜の英国技師も信じられない思いだったのではないか。

 自国の技術者が開発したアンテナを敵国が実用化していることを15年以上も知らず、自分は無敵だと思い込もうとしていた戦前の日本人の体質は、鎌田や山極の名前も知らずに日本の科学は中国や韓国よりも上だと思い込んでいる現代日本人にも受け継がれているのではなかろうか。

 ついでの話だが、山極が受賞するはずだった人工発癌の研究によるノーベル賞は、デンマークのヨハネス・フィビゲルに与えられている。彼は1913年に線虫に感染させたネズミに胃癌を発生させ、1926年にノーベル賞を与えられた。
 確かに今でこそピロリ菌が胃癌の原因になることが知られ、生物学的な発癌因子として研究されているが、当時の科学界を考えれば山極の化学発癌の方が後々の研究にとってインパクトが大きかった。しかもフィビゲルの研究は誤っていたのである。別にSTAP細胞のように画像の切り貼りとか、他論文のコピペがあったわけではないが…。

 フィビゲルが観察したのはある種のラットがビタミンA欠乏症の時に発生する非腫瘍性変化でしかなかったことが現在確認されている。まあ、当時の研究段階としては仕方がなかったこととはいえ、人工発癌の業績はフィビゲルと山極の共同受賞という形が最もフェアだったと思われるが、やはり有色人種にはノーベル賞を与えたくなかったという本音は見えている。

 さらについでの話になるが、ビタミンA欠乏症のラットではどんな変化が起こるか、特に医療系の学生さんたちはすぐに答えられるだろうか。
 まあ、鳥目になって夜間に行動できなくなってネズミ一族としては困ったことになるであろうが、もう一つ、全身の脂肪が白っぽくなるはずである。動物の脂肪は黄色い色をしており、特に大怪我をして深い傷を負った方や、脂肪腫という良性腫瘍を摘出された方などは、動物の脂肪組織が鮮やかな黄色を呈していることをご存じだろう。これはビタミンAの関連物質であるカロチンが脂肪組織中に蓄えられている色である。
 しかし焼肉店など行って霜降りの肉など注文すると、脂肪の色は真っ白ではないか。この違いが何故だか考えたことのある人はどれくらいいるだろうか。こういう疑問を次々と感じることのできるセンスこそが科学の第一歩なのである。

 答えは簡単である。日本の消費者は食肉の脂肪がきれいな白色のものを好むので、畜産業者も食肉用の牛や豚の飼料にビタミンAを添加しない。だからスーパーマーケットや食肉店に並ぶ肉や、焼肉店で出される肉の脂身は真っ白なのだそうだ。


記憶はすべてを超越する

 私の記憶力がちょっと他人とは異なっているかも知れないという話は以前このコーナーに書きましたが、今回はそれとは違う話、現在ではまだオカルトの超常現象と取られかねないので、あんまり真面目に論じると非科学的な迷信家と思われるような話です。

 私のカミさんがウィーンのシュテファン寺院の内部に入ると突然悲しみに襲われて泣いてしまうという話は前にご紹介しましたが、この話を書いたら、実は自分の家族もあの大寺院の中で不思議な声が聞こえて外へ出てしまったという人の体験を教えてくれた人もいました。
 他人の又聞きの体験談はともかく、カミさんについては本当です。STAP細胞をあれだけこきおろし、“科学的な”病理医を自称する私が、わざわざこんな嘘をついて信用失墜するはずがありません。私もウィーンに行くまでは、カミさんからそんな話を聞いても眉にツバをつけてせせら笑っていました。そしていざカミさんとシュテファン寺院へ入る直前まで、愉快な話で気分を盛り上げていたのですが、あの薄暗い寺院に足を踏み込んでほんの数メートルも歩かないうちにカミさんを振り返ると、涙で顔をクシャクシャにして泣いていました。あれは本当に背筋がゾクッとしましたね…。

 ハプスブルグ帝国時代の圧政、ナチスドイツによる併合に抵抗して籠城した市民たちの虐殺、そういった過去の人たちの大きな悲しみや苦しみと、カミさんの心が時空を越えて共鳴するのではないかと別のコーナーに書きました。最近の物理学理論によれば時間と空間は一元的に捉えられるものだそうです。つまりSF的に言えば、我々が生活している空間と同じように、過去や未来も同時に存在している。
 ということは我々も心を研ぎ澄ませていれば、遠く離れた場所にいる人々や、過去や未来の人々の記憶に刻みつけられた大きな感情の起伏を感じることができるのかも知れません。カミさんの心はたぶん数十年数百年の時の流れを越えた人々の悲しみに揺り動かされた、そう考えるより他にないような不思議な状況でした。

 もしこういう摩訶不思議なものを感じる器官が体内にあるとすれば、それは大脳辺縁系という場所でしょう。大脳の片隅(辺縁)という意味ですが、実際は大脳の中心奥深くに存在し、ちょうど果物の芯や地球のマグマのような位置に相当します。
 研究者により大脳辺縁系の定義は微妙に異なりますが、視床下部、海馬、嗅脳、扁桃体などという幾つかの構造を含み、我々の感情や意欲、記憶、内分泌などの自律調節系を支配していて、太古の海に発生した原始生物の時代から動物に備わっていたと考えられています。
 太古の海の底に生まれた我々のはるか遠いご先祖様たちの生活を考えてみましょう。彼らはいかにして餌にありつき、敵から身を守り、種族を増やして繁栄してきたか。

 彼らが外界を認識する最大の手段は嗅覚でした。臭いを嗅ぎ分ける嗅神経は真っ直ぐ大脳辺縁系に入ります。餌の匂い、天敵の臭い、それらの切実な情報は記憶として海馬に蓄えられます。餌にありついた時の快感、敵に襲われた時の恐怖も大脳辺縁系で処理されます。
 また恐怖に襲われると扁桃体を介して全身の戦闘態勢または逃避態勢のスイッチが入ります。動物が進化して大脳皮質が発達してくると、大脳辺縁系は大脳の奥に封じ込められる形になって、大脳皮質の統制に服するようになり、扁桃体なども恐怖の感情だけで暴発するのではなく、大脳皮質の理性でコントロールされるようになると言われています。
 これで大脳辺縁系の大体の雰囲気は分かったと思いますが、まだ現代の脳科学の手が届かない領域なので、いろいろ異論があるかも知れません。

 我々のご先祖様は大脳辺縁系の機能によって、餌にありついて快感を味わい、敵に襲われて恐怖を味わい、それを種族の記憶ともいうべき本能として保持してきました。では大脳辺縁系に蓄えられた記憶はどうやって1つ1つ(1匹1匹)の個体の壁を越えたのか。
 1つにはフェロモンという個体間分泌物質があります。生物はある種の信号物質を体外に放出して、餌や危険の在りかを伝え合ったり、セックスアピールしたりするそうです。ここまでは現代の科学でもかなりの程度わかっているようですが、フェロモンだけでは限られた空間内にいる個体にしか伝わらない。

 それで私は大脳辺縁系に刻みつけられた記憶は時空を越えるのではないかと思ったわけです。生物は餌の快感や天敵の恐怖を時空を越えて子々孫々に伝えており、それが何千世代何万世代後に種族の本能として定着する。

 獣は本能的に火を恐れるが、山火事で焼け死んだご先祖様の苦しみを信号として受け取っているのかも知れない。人間は大脳皮質の知能の働きで火をコントロールできるようになりましたが…。
 カミさんの大脳辺縁系はシュテファン寺院で殺された過去の人々からの悲しい記憶の信号を受け取っているのかも知れません。そう言えば火や水や高い所を怖がることも人並み外れていますね。ちょっと動物的なのかな(笑)。

 私も東名高速道路であわや一命を落とす大事故寸前にまで至りましたが、その日は出発前から何とも言いようのない不吉な胸騒ぎを覚えていたことは書きました。あれも私の大脳辺縁系が、未来の自分自身が発する恐怖の危険信号を未然にキャッチしていたと考えれば説明もつく。大脳辺縁系の記憶は個体を越え、時空を越えるわけですね。

 もちろん私はこんなことを現時点で学会に発表しようとか、何か科学雑誌の記事にしようなどと考えていません。これは(仮に真実であったとしても)現代の科学で実証できるものではないからです。ただこういう風に考えると、超常現象的と言われるものの幾つかは説明できないこともない。

 しばらく前に出典は忘れましたが、旧海軍の搭乗員の手記で次のような記述がありました。南方から内地に帰る途中、台湾付近の南シナ海で強力な低気圧に巻き込まれてしまう、必死に操縦桿を握っていたが、「俺もここで低気圧にやられたんだ」と意識に語りかけてくる存在がある、幻覚でもないし亡霊でもない、そういう存在を経験したと書かれていましたが、それもやはりそこで亡くなられた別の搭乗員の大脳辺縁系の信号だったかも知れません。

 改めて言っておきますけど、私はこんなことを現代の科学の世界で真面目に議論するつもりはまったくありません。現代のレベルではこれを実証しようがないので悪しからず…。


国際スポーツ大会…困っちゃうな

 ブラジルで行われている2014年サッカーWカップも予選リーグが終了して、残念ながら日本チームの決勝リーグ進出はならなかった。戦績をいろいろ言う人もいるが、ここのところ毎回のようにWカップに出場していることだけでも素晴らしいのだし(たとえアジア地区は南米や欧州ほど強豪チームが多くないにしても)、そもそも出場チームの半分は予選リーグで姿を消すわけだから、客観的に見れば恥とすることではない。
 戦争もスポーツも相手があるのだから、勝つこともあれば負けることもある。そのへんのところは勘違いしてはいけない。まあ、選手の人たちは、俺があのボールを止めておけば…、俺があのシュートを決めておけば…と悔いを胸に秘めて帰国するだろうから、サポーターの国民としては黙ってそれを見守ってあげればよい。
 そう言えば1932年のロサンゼルスオリンピック大会の選手同士の淡い一方的な恋心を描いた田中英光の『オリンポスの果実』からは、そういう敗れて帰る選手の心境なども窺える。あの作品は小説の形をとっているが、作者の田中英光自身がオリンピックのボート競技の代表選手であり、往復の船上で女子陸上走高跳選手に抱いた恋情が作品のモチーフになっていたことを、初めて読んだ時は知らなかった。

 ただしスポーツならばそれで良いが、戦争となれば話は別である。勝つこともあれば負けることもあるなどと、思慮の浅い政治家どもに簡単に戦争など始められてはたまったものではない。

 それはともかく、今回のブラジルのWカップ大会も、前回のロンドンオリンピックも、日本で応援するとなるとちょっと大変、現地での試合時間が日本での深夜や明け方になることが多いが、これはその気になれば何とか根性でテレビの衛星中継で試合経過を見守り、あとはさらなる根性で翌日の仕事を頑張る、ゲームを観ていたので眠くて集中力が保てないなどという言い訳をするようなサポーターでは代表選手たちに申し訳ない。

 しかしもっと困るのは平日の勤務時間中に試合が重なることだろう。今回のWカップも確か日本対ギリシャ戦は金曜の朝だった。熱心なサポーターの皆さんはどうしたのだろうか。
 私は例の“インターネットエクスプローラ事件”以来、ネット検索にも頻繁にGoogleも使うようになったが、あのGoogleの表紙のロゴがいつも面白くて楽しみにしている。大体その日にゆかりの人物や出来事をモチーフにしていて、富士山が国際文化遺産に登録された時は富士山の絵だったりしたが、Wカップ大会開始後はサッカーの動画のモチーフが続き、G・o・o・g・l・eの6文字を擬人化して、裏町のコートでボールを蹴ったりヘディングしたり、観衆がウェーブしたり、ちょうど試合時刻に合わせて対戦国同士の応援合戦になったり…、日本人が日の丸の扇子をパッと広げるとコロンビア人が民族衣装をパッと広げるなどというのもあった。

 その中でもちょっと身につまされて気に入ったのがこれ、G・o・o・g・l・eの6文字(6人)が会議室でサッカー中継を観ていると、ロゴの左手からBの字(BossのBか)が登場、そうすると一番右端のeの字がコントローラーで画面をパッと変えると、そこには営業成績か何かを示す折れ線グラフが写っていて、いかにも真面目に会議をやっているように見せかける。
 そしてBの字が右手へ消えるとまたeの字がコントローラーで画面をサッカー中継に切り替える。この単純な繰り返しなのだが、これには笑ってしばらく見入ってしまった、ついでに写真など撮ってしまった(笑)。
 このロゴを考えた人のセンスには感心するし、これがわずか1日くらいしか画面を飾らなかったのは惜しいと思うが、世界的なスポーツ大会で自国チームを応援したいが、あいにく勤務時間と重なって…という悲哀は全世界共通なのだなと可笑しかった。

 ドクターブンブンは2014年6月20日(金)の朝は何してたって?もちろん一生懸命仕事してましたよ。


一生懸命に歩くこと

 別に運動不足解消のために歩けという話ではない。それも大事だが、街中を歩くときは、一生懸命歩くことに専念しなさいという話である。
 昔は多くの小学校の校庭に、薪を背負って歩きながら書物を読んで勉強する二宮金次郎の銅像が建てられていたものだ。私の小学校にもあった。二宮金次郎は薪を背負って仕事しながら寸暇を惜しんで勉強して偉い人になった、だから君たちも一生懸命勉強しなさいと、先生たちは生徒に訓話を垂れた。

 しかし私は歩きながら本を読んで勉強するほど勤勉ではなかったので、それほど偉くならなかった。それに戦後の都市部の交通事情を考えれば、先生方も勉強しなさいとは言っても、道路を歩いている最中まで本を読めとは言えなかった。道路を渡る時は、右を見て左を見て、しっかり注意して歩きましょうと何度も注意して下さった。もう二宮金次郎の真似のできる時代ではなかったのだ。

 ところが最近のバカな人間どもは二宮金次郎もどきに歩きながら別のことをやっている。書物を読んで勉強しているならともかく、携帯電話やスマートフォンを操作しながら都会の雑踏を歩く、イヤフォンやヘッドフォンで(外国語会話を勉強している者もいるかも知れないが)お気に入りの音楽を聴きながら歩く、中には携帯ゲーム機で遊びながら歩く…、二宮金次郎もあの世で「このクソバカどもが」と苦々しい思いでいるに違いない。

 音楽で聴覚を遮断して雑踏を歩く、メールの画面に視覚を釘付けにして道を歩く、それどころか効果音つきのゲーム機で視覚と聴覚を両方とも遮断して駅や街路を横切って行く、これが自分自身にとっても周囲にいる他人にとってもどれほど危険であるか、たぶんやってる本人も薄々は感づいているはずである。

 しかし迷惑行為だと感づいていても、日常の楽しみになってしまった携帯やスマホやゲーム機を歩行中も手放すことができない。こんな身勝手な国民が、いきなり集団的自衛権を決めてしまうような安倍内閣を圧倒的に支持している、ちゃんちゃら可笑しい…。こんな国民が戦争に勝てるわけなかろうが…。

 今の世の中、いつ通りすがりの犯行に巻き込まれるか分からない、いつ脱法ハーブを吸ったドライバーが突っ込んでくるか分からない、どこもかしこも危険でいっぱいという前提で行動しなければ生命が幾つあっても足りやしない。身に迫る危険を比較的遠距離で感知できる感覚器官は視覚と聴覚だけである。そのどちらか一方または両方とも作動させていない、もうバカじゃないのとしか言いようがないし、そんなバカの巻き添えになってこっちの身まで危険に晒されるのは真っ平御免である。もっと一生懸命に歩けよ。


東大医学部の歴史的汚点

 先日の学校給食の記事のところで、アメリカの戦後食糧戦略によって我々の世代の日本人がパン食に対する抵抗が無くなって、これはアメリカに感謝しなければいけないと書いたが、それに関連して、私たちの小学校時代の他愛もないお遊び(というほどでもないが)の光景を思い出した。
 休み時間や昼休みに椅子に足を組んでボンヤリ座っている友だちを見つけると、その上にして組んでいる方の膝をポンと叩いて、もし膝が自動的に上がらないと皆で囃し立てたものだった。私と同世代の学童だった者なら、たぶん日本全国どこでも同じことをやったと思うが、膝が動かなかった友だちを何と言って囃し立てたか、覚えていらっしゃるだろうか。

 組んでいる膝を叩くと足が自動的に上がる、これは医学的には膝蓋腱反射といって神経学的には非常に重要な検査法なのだが、膝蓋骨(膝のお皿)のところに張っている腱を叩くと大腿四頭筋というふとももの筋肉が伸びるので、筋肉が過度に引っ張られるのを防ぐために、大脳の指令を待たずに自動的にこの筋肉を収縮させる機序が働き、自分でも意識せずに膝がヒョイと上がる。
 まあ、小学生がお遊びで友だちの膝を叩いても、大抵の場合トンチンカンな場所を叩いているのでこの反射が起きないだけの話なのだが、膝が上がらないと当時の小学生たちは、
「ヤーイ、脚気だ、脚気だ」と言って囃し立てた。

 脚気とは「かっけ」と読む。戦後の児童はもう学校給食などでパン食を初めとする洋食にも慣れていたから脚気にかかる者はほとんどいなかったが、米食中心の戦前の時代には脚気は我が国の国民病とまで言われたほど頻度の高い病気で、そのために生命を落とす者も非常に多かった。

 脚気は今ではビタミンB1の欠乏による疾患であることが分かっている。ビタミンB1はチアミン(thiamine)という物質だが、動物はこれを体内で作り出すことができず、食物からビタミンとして補給しなければいけない。
 チアミン(ビタミンB1)は体内で幾つかの化学反応を触媒する酵素を補助するが、その中でも最も重要な化学反応は、ブドウ糖からエネルギーを取り出す反応である。ブドウ糖はデンプンから取り出される基本的な糖質であり、これについては別項にも書いてあるが、同業者を目指す学生さんたちのためにほんの数行だけ専門的に書いておくと、ピルビン酸デヒドロゲナーゼ(解糖からクエン酸回路への橋渡し)、αケトグルタル酸デヒドロゲナーゼ(クエン酸回路自体の中の反応)という酵素はビタミンB1が欠乏すれば作動しなくなり、クエン酸回路がストップして人体に重大な支障をきたすことになる。これが脚気の原因である。

 クエン酸回路自体にはいろいろな意義があるが、中でも最も基本的なのはデンプンを分解した炭水化物からエネルギーを取り出す反応である。我々は何でデンプンを摂取しなければいけないかというと、体の活力であるエネルギー(専門的にはアデノシン3リン酸:ATPという物質)を作るためであり、その材料であるデンプンを戦前の日本人は主として米から取っていた。しかし精白された米にはビタミンB1が不足している、麦などの雑穀や、精米する時に捨ててしまう糠などにはビタミンB1が含まれているのだが、戦前までの日本人は精製された白米をありがたがって、これのみを主食とすることが多かったが、この食生活が実は大変な矛盾を含んでいたわけである。
 エネルギー(活力)を得ようとして米のデンプンを摂取しているのに、ビタミンB1不足のためそこからエネルギーを取り出す化学反応がストップしてしまうのだから…。

 こういう原因で起こる脚気という病気の予防法を最初に講じたのが高木兼寛という幕末から明治にかけての医師だった。兼寛は維新後薩摩藩お抱えのイギリス人医師からイギリス医学を学び、海軍軍医となって1875年(明治8年)から5年間イギリスに留学した。
 この人は後の東京慈恵会医科大学(慈恵医大)の創始者であるが、ここに脚気に関する高木兼寛と東大医学部との深刻な対立があった。東大医学部と他大学医学部の対立というと、多くの人は戦後の下山事件における慶應大学との法医学所見の食い違いを思い出すだろうが、脚気に関する明治初期の高木兼寛(慈恵医大の母体)vs東大医学部の対立は、そんな程度の話では済まなかった。何しろ東大医学部側の誤りによって実に多数の人を死なせてしまったのだから…。

 海軍軍医であった兼寛は、留学先のイギリスには脚気が見られなかったこと、遠洋航海中の海軍艦艇は航海中に脚気が多発するが、外国の港に停泊中は脚気患者が減少することなど、さまざまな臨床的、疫学的観察を積み重ねて、洋食にすれば脚気を予防できると直感し、それを今考えても見事な調査で実証した。
 海軍のある練習艦が遠洋航海中に多数の脚気患者が出て死者も多かった、こんなことでは万一有事になっても艦隊は海戦する前に脚気で戦闘力を失ってしまう、兼寛はただちに次の遠洋航海に出る軍艦筑波の艦内食を洋食に切り替えるよう海軍省や大蔵省を奔走した、その結果筑波では同じ航路をほぼ同じ日程で航海したにもかかわらず脚気患者はほとんど出なかった。後のビタミン発見につながる高木兼寛の有名な疫学実験航海である。

 海軍軍医部はただちに兵員の食事を洋食に切り替えることにするが、当時の兵員は現代の我々と違って、パンは嫌いだ、肉など食えるかという典型的な日本人、せっかく海軍に入って白い米の飯を毎日3度食える楽しみがあるというのに、何で大和男児が西洋のパンなど食わされなければいけないか、と不満が続出した。そこで苦慮のあげく、完全な洋食でなくても米に麦を混ぜれば脚気の予防効果はあるというので、海軍軍人の主食は米麦混合ということに決定した。

 この麦食混合のお陰で海軍における脚気の発生は激減し、日清戦争でも日露戦争でも兵員を脚気で失うことなく、ほぼ100%の戦力を維持することができた。戦艦定遠、鎮遠を破った黄海海戦もバルチック艦隊を撃滅した日本海海戦も、元はと言えば高木兼寛が脚気を予防していたからと言ってもよい。

 ところが陸軍は東大医学部の学閥となっており、東大医学部では脚気細菌感染説に固執していた。実は明治新政府が外国から導入する医学をイギリス流にするかドイツ流にするかという選択に際して、基礎医学的な理論を重んじるドイツ医学一辺倒にしてしまった。
 医学は基礎医学と臨床医学の両輪があるのに、なぜ基礎医学のみを重視したのか、なぜ臨床を重んじるイギリス医学と両立させる方策を採らなかったのか、私は今でも明治の大先輩たちを詰問したい思いである。まだ開国したばかりの国が世界に伍して行くためには基礎医学研究を発展させて世界から一目置かれたいという気持ちはあったのだろうが…。
 これは現代でも東大医学部に受け継がれる体質だし、東大だけではない、兼寛の設立した慈恵医大の先生方の中にも業績至上主義の方は多い。そういう研究重視、業績重視の風潮がとんでもない病気を見逃す臨床軽視につながっている事例は別項にも書いた。

 ところで当時のドイツ一辺倒の東大医学部、そこから軍医を派遣している陸軍軍医部では、兼寛が軍艦筑波の実験航海で食事改善が脚気予防につながることを実証したにもかかわらず、相変わらず脚気細菌感染説にこだわっていた。兼寛の疫学実験にはドイツ流の学問理論が無い、たまたま脚気が予防されたように見えるのは偶然に過ぎないと主張したのだ。
 東大医学部出身でドイツに留学して陸軍軍医部を統括する森林太郎(森鴎外)などは、その文学者としての筆力に任せて高木兼寛を必要以上に侮辱する表現で脚気栄養不足説を排斥しようとした。こういう軍医部や背後の東大医学部のために、陸軍は日清戦争で戦死者数を上回る兵士の脚気死亡者を出し、日露戦争でも戦死者の半数近い兵士が従軍中に脚気で死亡した。これをもって日露戦争でいかなるロシアの将軍よりも多数の日本兵を殺したのは森林太郎(鴎外)であるとさえ言われることがある。

 まあ、確かに医学の発展段階のことであるし、特にドイツの細菌学は隆盛を極めており、結核菌、ペスト菌など現代の学生さんたちを試験で苦しめている微生物が次々と発見されていた時代であったから、脚気が細菌感染による病気だと信じたこと自体に医師としての落ち度はない。その後日本でも北里柴三郎や志賀潔など世界的な細菌学者が輩出したのはドイツ医学の源流を取り入れていたからに他ならない。

 しかし高木兼寛が食事改善で当時国民病とまで言われていた脚気を撲滅寸前まで押さえ込んだこと、陸軍の一部の部隊でも脚気多発に業を煮やして海軍流の麦飯を導入して成果を上げていたこと、そういう事実を謙虚に検討しようともせずに、あるいは追試しようともせずに徒に頑迷に自説にこだわり続けた、それは医師としての頭脳の柔軟性に欠けていたと言わざるを得ない。そのために死ななくて済んだはずの何万人もの陸軍兵士が脚気で死んだのである。また病死者に数えられていなくても、脚気で足元がふらついていたために敵弾を避けきれず戦死した者も多かっただろう。東大医学部はおそらく未だにこの先輩たちの誤りを公式には認めてはいない。

 その後、1911年に東大農学部の鈴木梅太郎が米糠からオリザニン(後のビタミンB1)を抽出して動物の脚気様症状を予防することを報告したが、東大医学部は「たかが百姓学者が」というような鼻にも掛けぬ態度で無視した。もし医学部の教授連が共同歩調を取っていれば、あるいはあの有色人種軽侮の時代であっても、初の日本人ノーベル賞を受賞していたかも知れない。

 ところで高木兼寛が海軍兵食に導入した麦飯に関してはちょっと怪しからん後日談がある。高橋孟さんという太平洋戦争中に主計兵だった方の『海軍めしたき物語』という本があるが、戦艦霧島に乗務中、未使用の麦の袋を海中に投棄したという話が書かれている。先にも書いたが、日本海軍では兵員の主食は高木兼寛の時代に米麦混合と決められ、その比率に応じて米と麦の袋が軍艦には積み込まれていた。しかし貧しい家から徴兵あるいは志願してきた水兵たちは、軍隊では白い米の飯が食えると期待していたから米が多い方が喜ぶ、それでどうしても人情として米を多く入れるので麦が余り、艦内倉庫に麦が余っていると監査が入った時に問題になるので、これを深夜密かに舷側から海に投棄したのだそうだ。
 食糧事情も良くなかった時代にもったいない話だが、高木兼寛もあの世で眉をしかめていたに違いない。


顕微鏡で見た大宇宙

 よーく目を凝らしてご覧下さい。画面やや中央を斜めに横切るボヤーッとした白い煙のような帯が写っていますが、これが天の川です。まさに銀色の河(銀河)、西洋ではThe Milky Way(ミルクの道)などとも言いますが、これは我々の太陽系が属する円盤状の星雲(銀河系)を地球上から眺めた時に、円盤の直径方向には恒星の密度が高いので、無数の星々が帯状に集合して見えるものです。
 まさによく晴れた夜空を大河のように流れる天の川、織女星(おりひめ)と牽牛星(ひこぼし)が年に1度の逢瀬を楽しむ七夕の物語は、誰でも幼い頃に何度も聞かされたと思います。天の川の両岸に別れ別れになった愛し合う2つの星、鵲
(カササギ)という鳥が翼で橋を架けてくれたので2人は逢うことが出来るのですが、子供の頃に聞いても何となくロマンチックなお話でありました。

 ところでこの銀河の写真は我が家の寝室で撮影したものですが、別に我が家は富士山頂や八ヶ岳など人里離れて空気の澄んだ場所にあるわけではありません。実はこれSEGA TOYS(セガトイズ社)から販売されている家庭用プラネタリウムHomeStar Classicという機械で寝室の天井に投影したものなんです。毎年夏休みになっても旅行にも行けない私を憐れんで、天のお星さまがプレゼントしてくれた…(笑)

 直径13センチばかりの球体に直径5センチ強の円盤をセットして、暗くした部屋でスイッチを入れると天井一面に星空が投影されます。ドーム天井の本格的なプラネタリウムにはかないませんが(太陽や月や惑星を映せない)、それでも思わず息を呑むようなかなりの迫力でしたね。5センチばかりの円盤上に約6万個の星が描かれているのだそうです。
 それで興味に駆られたので、この円盤を昼休みにちょっと顕微鏡で覗いてみました。

 プラネタリウムから外した円盤を顕微鏡の台(ステージ)にセットして、カメラのレンズを接眼レンズに近づけていくと、ちょうど良い位置に来た瞬間、顕微鏡の視野が画面いっぱいに広がります。私が担当する解剖学や病理学の顕微鏡実習で、多くの学生さんたちはこの方法で標本の写真を撮影しています。
 昔の学校の顕微鏡実習では、学生は私たちも含めて、観察した標本を自分で色鉛筆を使ってスケッチしたものでしたが、顕微鏡で観察する画像情報は学生さんたちの負担になるばかりで、丁寧にスケッチさせたところでそう簡単に記憶に定着するものではないという私の持論から、私はこういう一見すると手抜きのような方法も許しています。

 さて例の家庭用プラネタリウムの円盤を顕微鏡で覗いて驚きました、普段見慣れている人体標本とはまったく違ったものが…(当たり前ですけれど)。まるで天体望遠鏡を宇宙の一角に向けた時のように、無数の細かい星たちが光り輝いているではありませんか。
 写真中央にはオリオン座の三つ星が見えますが、背景には肉眼では見えないような小さな名もない星たちが金粉銀粉を播いたようです。実際にこの円盤を天井に投影してもこれらの小さな星々は見えないのですが、こういうところがしっかり作られているから、この家庭用プラネタリウムは実物そっくりの星空を再現できるのかと感心しました。

 何万光年、何億光年の世界が一挙にミクロンの世界に凝集された不思議な感動を味わっているうちに、私は昔読んだ空想科学小説を思い出しました。本当の原作は読んだことはありません、確か小学校5年生か6年生の学習雑誌に読み切り小説として、小松左京さんがアレンジして書いておられたもので、『実験室の中の宇宙』とか何とかいう題だったと思いますが、後に高橋留美子さんも漫画『うる星やつら』の中でこのモチーフを使われてますから、たぶん本物の原作は他にあるかも知れません。空想科学小説としては秀逸なモチーフです。

 小学生の学習雑誌で読んだ話は次のようなものでした。友人の科学者が宇宙のミニチュアの製作に成功したというので見に行くと、真空な容器の中にいろいろな物質を入れて磁場か重力場を加えると物質が凝集して小さな宇宙ができている、恒星のような高熱のガスの塊の周囲には惑星が形成され、いくつかの惑星上には生命が発生しており、それを外部から顕微鏡のような機械で観察することができる、何しろ物凄く縮尺の小さな宇宙のことなので、時間の経過も桁違いに速く、あっと言う間に原始生物から恐竜のような生き物を経て、文明を持った生物が進化してロケットを飛ばすようになる、(このロケットを飛ばすところはよく覚えています)、しかしこの科学者はもう実験は成功したからこの宇宙を破壊すると言い出したので、主人公が、そんな勝手な行動は許さない、ここには生命もあるんだぞと言って、押し問答の末に喧嘩になり、結局その科学者が実験装置の中に倒れ込んで宇宙もろとも自爆してしてしまうといった内容でした。
 『うる星やつら』の方は、宇宙の学校でまだ小学生だったラムちゃん、ランちゃん、雪ちゃんが夏休みの工作の宿題に宇宙を作るが、ランちゃんのせいでラムちゃんの作品が失敗して、それをラムちゃんが根に持っているんじゃないかとランちゃんが疑心暗鬼になるというストーリーでしたが…(笑)

 漫画の方はともかく、我々が住んでいるこの宇宙も、もしかしたら誰かの実験室の中で勝手に作られたものかも知れない、小学生の頃に感じたそんな途方もない感覚を再び思い出させてくれた今回の新鮮な体験でした。考えてみれば生成と消滅を繰り返す三千大千世界のような仏教の世界観にも一脈通じるような壮大な考え方ですね。


正義の味方

 2010年にアメリカ ハーバード大学のマイケル・サンデル(Michael Sandel)教授が来日して、東大安田講堂で日本の大学生を相手に、ディスカッション形式による『正義について』の講義が行なわれ、NHKで放映されて大変興味深かった印象がある。あれ以来、私も正義とは何かについて折に触れて考えることが多いが、世の中にこれほど難しい問題もあまりないのではなかろうか。

 正義とは何か、と大上段に振りかぶって考える前に、悪とは何かを考えるとこれまた難しい。子供の頃からテレビや少年雑誌には“正義の味方”のヒーローやヒロインが大活躍して悪人をバッタバッタとやっつけるアクション物が大人気だったが、その中でも最も古いものの1つ『月光仮面』…、
 
どこの誰かは知らないけれど 誰もがみんな知っている
 月光仮面のおじさんは 正義の味方よ良い人よ…♪

と歌われて、私たちも幼い頃に月光仮面ごっこをする時は、家から持ち出した風呂敷を頭に被って全員が月光仮面になり、正義の味方同士が大乱闘したものだった。しかし今になって考えてみると、どこの誰かも分からない住居不明のおじさんはどうやって税金を払っていたのだろうか、まさか脱税常習者?(笑)身元も明かさず、当時としては高級贅沢品のオートバイを乗り回していた人が正義の味方とは思えない。

 悪の味方だってそうそう世の中に存在するものではない。少年漫画の中では世界征服の野望を持った悪人の秘密組織に対して鉄人28号やマジンガーZが挑んでいたものだったが、あれに似た状況として思い出すのが、東京の地下鉄にサリンガスを撒いた1990年代のオウム真理教、ロシア製のヘリコプターまで手に入れて日本を乗っ取ろうとしていたとしか思えない狂気の沙汰だったが、ではあの事件で誰が正義の味方だったのか?日本の警察か、日本政府か?

 国際情勢を見てみれば事態はもうちょっと混沌としている。ニューヨークで同時多発テロを起こしたとされるビンラディン一味は悪か、外国人の一般市民を誘拐して殺害するイスラム国は悪か?仮にこれを悪としてもよいが、それでは正義の味方は誰なのか?アメリカやその同盟国が単純に正義なのか?

 国際的行動はどの国も自国が正義だと主張して憚らない。アメリカにはアメリカの、イスラム国にはイスラム国の、中国には中国の、韓国には韓国の、日本には日本の正義があり、その“正義”の課程で自国がどんな非道な残虐行為に及ぼうが、それは不問に付してしまうのが国際的正義だ。韓国にさえ1960年代のベトナム戦争では海兵隊による他国顔負けの残虐行為があった。

 しかしこんな物が正義なんだろうか、それがサンデル教授の番組を見て以来、私の頭から離れないことである。国際問題に限らない、日常的な個人の職場や学校でも、自分の気に入らない人の言動や行動をいちいち批判的に断罪して、それで自分が正義だという顔をしている人は多いはずだ。何の落ち度もないのに一方的に断罪された人、それを周囲で見ている人が不愉快になるようなそんな行為が果たして正義なんだろうか。

 何か明快な正義の指標はないかと思っていたら、先日あるサイトでアンパンマンの作者
やなせたかしさんの明快な定義を見つけて感動した。本当にハッとするような言葉だった。

 
正義とは実は簡単なことなんです。困っている人を助けること。ひもじい思いをしている人に、パンの一切れを差し出す行為を「正義」と呼ぶのです。
 正義って相手を倒すことじゃないんですよ。アンパンマンもバイキンマンを殺したりしないでしょ。だってバイキンマンにはバイキンマンなりの正義を持っているかも知れないから。
 正義って、普通の人が行うものなんです。政治家みたいな偉い人や強い人だけが行うものではない。
 怪獣を倒すスーパーヒーローではなく、怪獣との闘いで壊された街を復元しようと立ち上がる普通の人々がヒーローであり、正義なのです。


 サンデル教授の難しい理屈が分からなくても胸に響く言葉であり、ユーモラスなヒーローと共に珠玉の言葉を残してくれたやなせさんのご冥福をお祈りする。


月蝕の夜に

 2014年10月8日、日本各地で皆既月蝕が観望できました。東京ではやや雲が多かったものの、それがまた月食に風雅な趣を添えて、多くの人が夕刻から東の空に昇った満月が次第に欠けていく様子を楽しんだようです。

 私も職場から歩いて帰る途中、東の空が開けた駅前や路地裏にはやはり仕事帰りの人たちや、家事の手を止めて家から出てきた人たちが何人か集まって空を見上げていました。ちょっと残念だったのは小学生くらいの子供の姿が少なかったこと、もし家の中でテレビゲームなんかしていたのだとしたら由々しいことです。我が国の理科系教育に重大な暗雲が立ちこめるのではないか。これは蝕が最大になる時刻あたりから東京の空を覆い始めた雲以上に気がかりなことです。

 奇しくもこの日は青色ダイオードを開発した赤崎さん、天野さん、中村さんの3氏のノーベル物理学賞受賞が決定しましたが、また日本人が受賞したと手放しで喜んでばかりはいられません。別にノーベル賞を取るのが科学の真の目的ではありませんが、科学の衰退した近代国家は必ず滅びる、科学的な精神の芽は、天文学であれ医学であれ物理学や化学であれ、幼い頃からこういう自然現象に興味や感動を示すことによって育まれるものです。他人のプログラマーが製作したゲームの仮想世界でピコピコやって勇者になったところで一体それが何になる!

 また月蝕の原理を子供たちに説明できる大人もどれくらいいるのか、考えてみればこれもお寒い状況かと思います。私も以前学生さんたちに(医療系の若者たちですが)日蝕と月蝕の原理を質問したところ、日蝕の原理を正しく答えられたのは7割、月蝕まで正しく答えられたのは5割でした。またこの日もエレベーターの中で他の学部の学生さんでしたが、月蝕があることに関連して今夜が十三夜か十四夜かと真顔で議論していたので驚いた、何で私が驚いたか分かりますか?

 理科系の精神は近代国家の土台の広さであり、文科系の精神は近代国家の文化の高さです。何だか最近では大学の文科系の学部を廃止するなどと狂気の沙汰としか思えない文教政策を持ち出す動きもあるようですが、そうやって我が国の文化の程度を下げ、一方で理科系教育の土台の形成にも失敗していったら、日本は本当に何にも無い国になってしまいますね。

 ま、そういうことはいずれ別の機会に論じるとして、帰り道に空を見上げている人たちの多くが月蝕の天体ショーの記憶を残そうと、携帯電話やスマートフォンなどのカメラを天空に向けていました。そこで私も1枚、池袋の豊島清掃工場の煙突の上の月蝕です。
 
月が出た出た、月が出た(ヨイヨイ)三池炭鉱の上に出た
 あんまり煙突が高いので、さぞやお月さん煙たかろ(サノヨイヨイ)

という『炭坑節』を思い出しました。お月さまの顔がまるで煤けたようで可笑しいですね。
 皆既月蝕の時は満月が地球の影に入って月面が暗くなるのですが、地球の大気を屈折して曲がった太陽の光が届くので、月面は完全に真っ暗にならず、赤みがかった色に照らされることになります。それをスマホよりは少し高級なデジカメで写したのがさらに下の写真(↓)、赤銅色の月面にクレーターまで写した天文学的に貴重な写真には負けますが、たまたまカメラの絞りや露出の関係でこういうツートンカラーになった月蝕の写真を見て、私は子供の頃に読んだドリトル先生シリーズを思い出しました。

 ドリトル先生…懐かしいですね。第一次世界大戦に志願して従軍したロフティング(Lofting, H.J.)が、負傷して射殺される軍馬を見て着想した子供向けの小説と言われてますが、180歳のオウムのポリネシアから動物語を習って話せるようになった獣医のドリトル先生と、先生を慕う動物たちが繰り広げる奇想天外な物語です。
 アヒルの家政婦のダブダブ、ブタのガブガブ、猿のチーチー、フクロウのトートー、犬のジップなどの動物キャラクターと共に、私が最も印象に残っているのがオシツオサレツという奇妙な動物、胴体の前後に2つの頭がついていて、シャム双生児のような奇形を思わせますが、両側に頭のついたこういう奇形は医学的にはあり得ません。それはともかく、前後から2つの頭が押し合うから“オシツオサレツ(押しつ押されつ)”、ではこれは原語では何という名前か、興味が湧いたのでネットで調べてみたら“pushmi-pullyu”だそうです。つまり“俺を押す-君を引く”という意味、これを最初に日本語に翻訳した大槻憲二や井伏鱒二は苦労したでしょうね。

 ドリトル先生シリーズは全12巻あり、私は全巻児童向けの本で読みましたが、この7巻から9巻でドリトル先生は月へ行くんです。その中の月蝕の場面が強く印象に残っていて、今回この月蝕の写真を見ていてふと思い出しました。
 月には地球の火山の噴火で天空に巻き上げられた植物や動物が住んでいて、人間も1人いる。原作は1927年から1928年のことですから、我が国の『竹取物語』のかぐや姫より1000年以上も遅れてますね。この月世界の動物たちが地球の名医ドリトル先生の噂を聞いて巨大な蛾(モスラみたいなものか)を使者に送る(『ドリトル先生と月からの使い』)、ドリトル先生も月世界の動物たちのために月を訪れ、しばらくそこに留まる決心をする(『ドリトル先生月へゆく』)、ドリトル先生は地球へ帰る時は月面で狼煙を上げると助手の少年(これも動物語を習って話せる)に言い残していたので、このトミーという少年は来る日も来る日も月で狼煙が上がるのを動物たちと一緒に待ち侘びる(『ドリトル先生月から帰る』)というお話です。

 物語ではたまたま月蝕が起こりますが、トミーや動物たちはこの晩こそドリトル先生からの帰還の報せの狼煙が上がるに違いないと信じます。何故なら地球で月蝕が起これば、地球で報せを待っている自分たちが月蝕を眺めていることを月面のドリトル先生も想像しているだろう、だから万一にも合図を見落とすリスクの少ないこの晩に狼煙を上げるに違いないと信じるわけですね。

 実際にドリトル先生からの報せはこの月蝕の晩に上がるのですが、その月蝕を家の屋根に登って眺めているトミーと動物たちの会話をだんだん思い出してきました。ちょうどこの写真のように月面が影に入って暗くなっていくと、トミーが「あれは地球の影だよ」と動物たちに教える、そうするとブタだったか猿だったか、「あれが地球の影なら、何であの上に俺たちの影が映ってないんですかね」と訝る、トミーは「僕たちは地球に比べてうんと小さいからあそこには見えないんだよ」と説明したと思うんですが、何だか子供の頃に読んだお話って、普段はまったく忘れてしまってますが、何かの機会に触れて記憶の奥から鮮明に浮かび上がってくることもあります。テレビゲームではこうは行かないでしょう


 ところで最後に無粋な話で恐縮ですが、今回懐かしいドリトル先生シリーズをネットで検索して、これまで自分がとんでもなく恥ずかしい思い違いをしていたことを知りました。ドリトル先生は原語ではDoctor Dolittle、これは単語を分ければdo little、つまり“ほとんど何もしない”先生という面白い意味になります。エッ、お前のことだって?
 まあ、それはどうでもいいんですが、私は太平洋戦争中の昭和17年、航空母艦から発進して日本本土初空襲を敢行したアメリカ陸軍のドゥ―リトル(あるいはドーリットル)中佐はドリトル先生と同じ名前で、日本語表記が微妙に違うだけだと思っていました。ところがこれが浅はかな大間違い、日本を初空襲したのはDoolittle中佐です。“o”が1つ多い。かつてのドリトル先生ファンとしては危うく大恥をかくところでした。


ハロウィンの夜

 私たちが子供の頃はハロウィンなどというイベントは普通の日本人は誰も知らなかったが、古代ケルト人の祭りとされる10月31日のハロウィンは、ディズニーランドなどのテーマパークなども舞台にして若い人たちを中心にかなり盛り上がるようになりました。
 ケルト人の1年は10月の収穫祭をもって終わりますが、これはある意味で合理的かも知れません。農業社会においては、冬の農耕準備期間を年始にして種蒔きの春、穀物が育つ夏、実りの秋と季節が進む、だからすべての農作業が一段落する10月を1年の終わりにしたのでしょう。だからハロウィンは大晦日みたいなものかも知れませんが、またこの日はケルト人たちは死者の魂が家族の元に帰って来る日とも信じていたようで、その意味ではお盆にも相当しています。

 もちろん日本の若い人たちは古代ケルト人の信仰などとは無縁に、さまざまな仮装をして楽しんでいるようですが、これはケルト人たちが死者が帰って来る日に他の悪い精霊も一緒に出て来るので、魔除けのためにお面を被ったと伝えられている、たぶんそれが転じて西欧のキリスト教諸国でも子供たちの仮装につながっているのかも知れませんね。

 仮装といえば、昔は運動会などでよく仮装行列というイベントがありました。幾つもの団体やチームがいろいろな物に仮装してその巧拙を競う競技です。最近では『欣チャンの仮装大賞』などという番組は毎年1回くらい放映されてたいそうな人気のようですが、そういう番組出演を目指す人以外は仮装する機会も無くなったのかと思っていたら、若い人たちはハロウィンで仮装を楽しんでいたわけです。私の教え子たちのfacebookなど見ているとけっこう面白いことをやっていてちょっと羨ましい。現代のインターネット上では“なりすまし”とか“匿名”とかいう新しい形態の仮装がはびこっていますが、こういうもっと無邪気な仮装の方が良いに決まっています。

 私の仮装の思い出というと、中学生の頃の学校の体育祭の仮装行列があります。音楽部という団体として出場しましたが、ブラスバンドの強みでインディアンに仮装した部員たちがインディアン風の音楽を演奏していると、そこへリアカーを改装した幌馬車に乗った白人の開拓者(侵略者?)が登場、インディアンに襲撃されて敢えなく全滅というストーリー、もちろんブッチギリの優勝でした。私は保安官に仮装していましたが、往年のジョン・ウェインほどではないにしろ、けっこうサマになっていたかな(笑)。

 ところで今回はしょうもないことをツラツラと書いていますが、今年のハロウィンの夜は、私の所へ性悪の精霊ならぬとんでもないお知らせが舞い込んだので、私のサイトを訪れて下さる方々にご報告だけしておきます。現在このサイトが入っているNTTコミュニケーションズの「Page ON」というサービスが
2015年2月28日をもって終了するんだそうです。って、いきなりそんなこと言われてもねえ。
 さんざんインターネットだ、ホームページだと煽り立てておいて、人がその気になって頑張っているところで自分はさっさと退却してしまう。そんなことするヤツはいつの時代にもいたし、確か7年くらい前には似たようなことをした総理大臣がいたような気もします。
 しかしそんなことを憤慨していても仕方ありません、会社には会社の経営方針もあるでしょうから、利用者の方もそれに対応するだけのスキルを身につけなければ…。そんなわけで私も一応元気なうちはボケ防止の意味もかねてこのサイトを続けようと思っていますが、もしかしたらスキルが足りなくて『Dr.ブンブンの休憩室』が消滅する可能性も皆無ではありません。もし気に入って頂けた記事などありましたら、どうぞ今のうちに保存しておいて下さい。出典を明らかにして下さっていれば、いずこなりとも転載オーケーです。


人類の生存戦略とネット社会

 最近、Yahoo Japan知恵袋に2011年に掲載されたある問答が話題になったので読んでみた。質問者はある意味でかなり不謹慎な質問をぶつけてきているのであるが、そのベストアンサーに選ばれたのが非の打ちようのない名解答だったので、今になって話題になったのである。

 質問の要旨は、自然界の掟は弱肉強食で強い者が弱い者を捕食して生存しているのに、なぜ人間は税金を使ってまで弱者を生かしておくのか、自然の摂理に反しているのではないか、人権などの話は抜きにして答えて欲しい、というもの。

 この質問に咄嗟に答えられる人はどれくらいいらっしゃるだろうか。まさに意表を突かれたというか、普段から人類が弱者を救済する目的について、誰もが明確な意見を持ち得なかったことの裏返しでもあろう。
 私も、このサイトを比較的丹念に読んで下さっている方ならお判りと思うが、人類は産業革命で余剰の富を生産できるようになって弱者を救済する余裕を持てるようになり、ヒューマニズムを発達させることができた、とまでしか答えられていない。しかしその生物学的な意味付けまでは考えたこともなかった。

 それでその質問に対するベストアンサーに選ばれたmexicot3というハンドルネームの方の完璧な解答には本当に脱帽した。
 その解答の要旨は、自然界の掟は弱肉強食ではなく適者生存である、強い虎は絶滅に瀕し、虎に捕食される兎は世界中で繁殖している、種族として遺伝子を次代へ伝えていくのが適者であり、種族として生存戦略を確立したものが適者として繁栄していく、人類は文明を発達させて社会を形成し、弱者も含めたさまざまな形質を持つ多数の個体を生存させて次世代に遺伝子を伝えていく生存戦略を選んだのである、どの形質が将来有効になるかは計算外であり、どんな形質が将来の生存に有利か不利かの意義づけはすべて等価である、現代人は社会を離れて独りジャングルで生存することはできず、その意味ですべて弱者である、弱者を含めた社会形成こそが人類の生存戦略である。

 まったくお見事、目からウロコが落ちたような思いでこのベストアンサーを読ませて貰ったが、最近これを裏付けるような現象が全世界で広く進行していることに思い当たった。ネット社会である。
 インターネット上には、実に多数の人がwikipediaに寄稿し、facebookに参加し、さまざまなサイトを作製している。私のような弱小サイトや、一部の団体専用のサイトや、エログロナンセンスなサイトまで含めて、ネット上に掲載された知識や情報の量は計り知れない、もう無限大と言ってよいのではないか。しかも日々新たな情報が更新されて積み上げられていく。

 これらネット上の情報を一括して運用するシステムが考えられているらしいが、これを称してビッグデータというそうだ。ビッグデータの利用価値はまだ未知数だが、ネット上に蓄積された各種のデータは、正しいものも誤ったものも、真剣なものも面白半分なものも、保守的なものも革新的なものも、あらゆる国家、あらゆる宗教のものも、すべて引っ括って運用できれば、それは人類の知的資産の総体と言えるのではなかろうか。

 現代社会では弱者として税金で救済されている人、あるいはその周囲にいる人々からの発信も含めたすべての情報を統括して運用できる“主体”がいれば、そういう存在に決定権を委ねるという生存戦略もあり得るのではないか。それはもはや個人ではあり得ない、全能の神に近い存在に全人類が運命を委ねる、独裁制でも間接的民主主義でもない。現代の愚かな政治家に運命を委ねるよりも賢明な選択ができるのではないか。
 皆さんはどう思われますか。


未だ物を知らず

 先日、晩秋の好天に恵まれて東京台東区の谷中あたりを散策していたら、『大名時計博物館』というちょっと珍しい博物館を見つけました。何でも陶芸家の
上口愚朗氏が蒐集した江戸時代の時計を並べてある博物館で、旧勝山藩の下屋敷跡を利用して建てられています。いかにも博物館といういかめしい造りではなく、鬱蒼と樹木の生い茂る敷地内に建つ小さな洋館で、まるで昔の探偵小説の舞台にでもなりそうな感じでした。

 大名時計というのは江戸時代の大名がお抱えの職人に作らせたゼンマイ仕掛けの機械で、日本独自の手工業技術で作られたものだそうです。また当時の日本では、夜明けから日暮れまでと、日暮れから夜明けまでをそれぞれ6等分して時刻を計りましたから、季節によっても単位時間(一刻)の長さは変わってくるわけですが、どうもそれにもきちんと対応していたようです。
 ゼンマイや分銅のおもりで歯車を動かして時間を刻む大名時計を見ていると、その後の日本が重工業の時代を迎えても世界の先進工業国に伍してトップを走り続けた理由も分かるような気がします。身につけて歩いた歩数を計測する“万歩計”まで発明していたのですから驚きでした。江戸時代の大名も運動不足だったんでしょうか(笑)

 ところで私もこの博物館を訪れて解説文を読み、今まで当たり前のように使っていた言葉について何も知らなすぎたことに気付いて愕然としました。皆様はいかがでしょうか。
 それは「時計」という言葉、これは何と読みますか?「とけい」ですよね。当たり前です。小学校で習いました。では何でこれを「とけい」と読むのか?「
」の漢字には音読みでも訓読みでも「」という読み方はありません。

 私はこれまで何となく、「
き」を計る機械だから「けい」だと漠然と思っていましたが、これが物を知らない恐ろしさ、江戸時代には時を計る機械を、昔の中国の時を計る道具である「土圭」とか、「斗景」、「斗鶏」などと書いており、いずれも読み方は「とけい」だった、それで近代以降も「時計」という漢字を「じけい」と読まずに江戸時代以前のまま「とけい」と読ませている、いわば当て字であるわけです。

 どなたかご存知でしたか?ご存知だった方はよほど物識りか、よほど偉い国語の先生に習われた方だと思います。しかし毎日毎日“時計”を見ながら60年間も生きてきて、その読み方に何の疑問も抱くことが無かった自分が恥ずかしいです。


生物の設計図

 この年末から2015年の新年にかけてちょっと面白い本を読みましたのでご紹介します。グレゴリー・チャイティン(Gregory Chaitin)という数学者が書いた『ダーウィンを数学で証明する』という本ですが、原題は『Proving Darwin』、“making biology mathematical”(生物学を数学にする)という副題が付いていて、水谷淳氏の翻訳で早川書房から出版されています。

 著者は以下のように断言してこの本を書き進めています:
もしダーウィンの進化論が生物学的に真実ならば、それを数学で証明できないのは数学者の恥だ。
 私も以前このコーナーで2ヶ所ほど(ここここ)で、原始地球上で生成した有機物が“たった40億年ばかり”の間に単なる偶然だけで人類まで進化する確率はほとんどゼロではないか、宇宙の絶対者(神)でもいない限りそんな事象は起こり得ないから、“盲目的に”科学教を信じる気になれない、と書きましたが、グレゴリー・チャイティンは数学者としてまさにこの命題に挑んでくれたわけです。

 あまり数式を使わない本とはいえ、門外漢には数学は難解であることに変わりはありませんが、この著者が言わんとしていることは以下のとおりだと思います。生物の設計図はDNAという物質で、アデニン(A)、チミン(T)、グアニン(G)、シトシン(C)という4種類の塩基(A,T,G,C)が一列に並んだだけのもの、この4種類の塩基の配列だけで、それがRNAにコピーされて、そのコピーをもとにアミノ酸の配列が決まって生物の基本構成要素であるタンパク質が決定される…:

 これは現在ではもう高校生や中学生でも学校で習う基本的な生物の知識ですが、私たちは大学に入って初めて本格的に生化学で勉強した、DNAの遺伝情報をRNAがコピーして、それをタンパク質に翻訳する、これを生物学の中心定理(セントラル・ドグマ)と言いますが、たぶん私たちの世代ではこれを直感として素直に受け入れられた者は少ないと思います。
 先生の言うことだから本当だ、生化学の教科書に書いてあるから真実だ、と権威から与えられる知識を無批判に受け入れるだけしか能の無い従順な学生は別ですが、懐疑的に物を考えられる人間にとって、この生物の中心定理はかなり衝撃的だったはずです。“たった4種類の塩基”だけで生物の形質の全容が決定されている、ということはこの膨大な塩基配列が“たった40億年ばかりの間”に人類まで進化してきたと考えざるを得ないことになるからです。これはもう生物を科学的に捉えようと思ったら、こんな小さな偶然の確率を支配できる絶対者を想定しなければいけなくなる、物凄いジレンマでしたね。

 それで数学的素養の乏しい私は、もうこの件に関しては思考停止状態のまま40年以上過ごしてきたわけです。ただこの間に状況が大きく変わったのはコンピューターの普及でした。
A、T、G、Cというたった4種類の塩基だけで生物の膨大なプログラムが書ける、それも40年前は不思議なことでしたが、我々の使っているコンピューターは0と1というたった2つの素子の配列だけで複雑なプログラムを実行している。
 私がこんなサイトに文章や画像を貼り付けてインターネット環境にアップロードしている、こんな行為もすべて0と1だけのプログラムで書かれているのです。この話は私ももう何年も前から学生さんの講義では話しています。

 グレゴリー・チャイティンはこのコンピューターのプログラム言語こそは、あらゆるものをコードできる最強の言語と意義づけており、我々がこんな言語を発明する何十億年も昔から自然はDNAという最強の言語を使って生物を進化させてきたと述べています。こういう言語は、それが表現しうるすべての事象が形成する言語空間内をランダムに動き回って、より適合性の高いものへと変化(進化)することができるのだそうですが、残念ながら私に理解できるのはここまでですね。
 しかし生物の進化を神という絶対者なしに証明できる数学的モデルがありそうだ、少なくともそのモデルの構築に挑んでいる人がいるということは心強いことでもあります。進化とは人類で終わりではない、これからもDNAという生物の言語はまだまだ無限の進化を遂げることができるわけです。現代の人類がこういう純粋科学とは別の機序を働かせて自滅してしまいさえしなければ…。


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