学校でのイジメ

 最近、学校でのイジメを苦にして中学生や小学生が遺書を残して自殺するという痛ましい事件が相次いでいる。自殺した生徒や児童が残した遺書や、事件後に学校関係者が渋々認めた事情などから考えると、やはりかなりの程度の“いじめ”があったことは確実なようである。しかも2006年10月11日に自殺した福岡県の男子中学生の場合、学年担任の教師までが“いじめ”を助長する発言を繰り返していたというから呆れて物が言えない。
 いつから日本人はこんなに弱い民族に成り果ててしまったのか。自殺した生徒・児童が精神的に弱いという意味ではない。級友を自殺に追い込むほどいじめる人間たちこそ弱いということである。動物行動学者のコンラッド・ローレンツ(Konrad Lorenz)の著書『ソロモンの指環』には、まさに最近の日本人を象徴するような動物の逸話が書かれている。
 世界中で平和の使者とされている愛くるしい鳩の仲間たちも、時には同族同士の争いに発展することがあるらしい。この時、たまたま強い方の鳩は相手を徹底的に攻撃し、羽をむしり、目をえぐり、誰か人間がこの鳥同士の争いを止めてやらなければ相手を殺してしまうまで執拗に攻撃するのだという。
 これに対して残忍な動物とされている狼などは同族同士で争った時、弱いほうの狼が相手の牙の前に自分の首筋を差し伸べて降参のポーズをとると、強い方の相手はそれ以上の攻撃が抑制されてしまうそうだ。つまり“牙”という強い武器を持った種族では、その武器で相手を必要以上に傷つけないための本能的な自制が働くのに対して、鳩のように何の武器も持たない弱い種族では相手を徹底的に痛めつけるまでは攻撃を止めないのである。
 確かに人間も含めて動物同士の争いというのは、自分のテリトリー(主張)を守るための行動であるから、相手が降参したことの保障を取らなければならない。牙を持った動物なら、降参のポーズを取った相手がもし裏切っても再び自分の牙で叩き伏せることが出来るから、それ以上同族の相手を傷つける必要はない。しかし牙のない動物では一旦ねじ伏せた相手がもう一度向かって来たら再度仕切り直しで最初から戦闘を始めなければならなくなる。動物の本能とは、それぞれの種族の持つ力に相応のプログラムとして備わっているものらしい。

 人間はもちろん本能だけで動いているわけではないが、知性だとか理屈だとかいうものも奥底ではやはり本能的あるいは原始的な感情によって突き動かされている部分が大きい。例えばクラスメートという同族の相手に対しては、「友達とは仲良くしましょう」という道徳的な知性で表面的にはバランスを取っているが、心の中では「こいつは俺よりデキる」とか「俺よりモテたら困る」とか「私より目立つなんて許せない」といった類の嫉妬や憎悪の感情が無いとは言えないだろう。要するに自分のテリトリーが級友によって脅威を受けるわけである。
 しかし強い人間ならいざと言う時には自分のテリトリーを自力で防衛する自信があるから、目障りな相手を必要以上に威嚇したり攻撃したりはしない。相手が自殺を考えたくなるほど追い詰めてしまう人間は、結局は自分のテリトリーを防衛する能力に乏しい弱い人間なのである。
 強い人間とはどういう人間か。“牙”を持った人間である。別に生物学的に犬歯が大きいわけではない。腕力でも学力でもいい、芸術や運動の才能でもいい、いざとなれば自分を押し出していって、邪魔する相手を蹴散らす能力を持った人間のことである。そういう能力を持った人間は決して弱い相手をいじめない。よく漫画などで、ある才能に長けた人間が周囲の相手を見下して鼻持ちならない態度を示すキャラクターとして描かれているが、そういう人がもしいるとすれば、その人はまだ自分の才能に自信が持てていない弱い人間なのである。

 いざとなれば敵対する相手を排除できるほどの能力(=“牙”)を持つような人間は、戦後の教育の中で一貫して否定され続けてきた。別にすべての人間に“牙”がある必要はない。クラスの中に“牙”を持った人間が何人かいれば、自信のない人間はそういう強い人間の庇護を求めて傘下に入ることができる。そしてある集団(ガキ大将グループ)が形成されるが、“牙”を持った大将が統率している限り、この集団は決して弱い者いじめはしない。
 ところが最近の学校は“鳩”の集まりではないのか。互いに自信のない者同士が烏合の衆と化して統制もとれないままに、ちょっとクラス内で目立つ子や浮いてる子を標的として攻撃を爆発させる。誰かを攻撃し続けることで、その間だけは自分が攻撃される心配は少なくなる。そういう群集心理に支配された鳩の群れ…、それが最近の日本の学校の姿ではないのか。
 そういう攻撃の標的になっている子の側に立つと、自分も一緒に攻撃されるから生贄の子を助けることも出来ない。“牙”のある子なら標的にされている子を自分の傘下に入れられるが、そういう子は今の日本の学校にはほとんどいない。

 “いじめ”なんてものは最近に始まったことではない。昔からあった。私だっていじめられたことは何度もある。しかし学校には“牙”のある子が何人もいたし、私自身“牙”が無いわけではなかったから、いじめられそうになるたびに対処のしようがあった。
 “いじめ”は学校だけではない。れっきとした大人の社会にもある。最近の例で言えばこんなことだ。ある国の偉い人が国際的に問題のある神社に参拝した、偉い人だから誰も逆らわなかったが何人かは問題があると発言して周囲から浮いてしまった、そしたら家に火をつけられた、でも周囲は誰も見向きもしてくれなかった…。学校で問題になる“いじめ”と同じ構図である。
 国中で一番偉い人たちがやっているのだから、子供たちの世界で似たようなことが起きないはずはない。“いじめ”は止めましょうなどと言っても無駄だ。いじめられないように“牙”を持ちましょう、いじめられている子を助けられるように“牙”を持ちましょう、と指導するしかない。

 私がまだ幼稚園だった頃、確か祖母に連れられて目白の映画館で観た映画があった。アフリカの野生動物の記録映画で、当時としては珍しいカラー映像だった。今でも生々しく思い出すことができる。飢えたライオンが草食動物を襲うシーンは非常にショッキングだった。逃げる群れから遅れたキリンやシマウマにライオンが襲いかかり、一撃で大地に倒してしまう。食いちぎられる肉、流れる鮮血…。映画館を出た時はとても気分が悪かったのを覚えている。
 あの時、幼い私が考えていたことは何だったか。肉食動物に襲われる弱い動物になるのはイヤだけど、ライオンになるのもイヤだなあ。
 ちょうど同じ頃、家に『科学大観』という雑誌があって、第一巻の動物特集の表紙はゾウとライオンの絵だった。ジャングルから出てきたゾウにライオンが踏みつけられているところである。この絵を見て私は思った、ゾウのような人間になりたいと…。自分は弱い動物を襲って食うことはしないけれど、肉食動物の餌食になることもないゾウがとても羨ましかった。
 私は“ゾウ”になれたかどうか。若い人たちに言いたい。弱い者に対する“いじめ”をしないで済ますためには、自分にもいざとなれば相手を倒すだけの力が必要なのだと。


4次元の世界

 10歳代はじめの小学生から中学生くらいの頃は誰でも人生で一番好奇心が強い時で、男と女の営みについて知るのもこの頃、大人の愚かさに気付くのもこの頃、世の中の政治や経済に関心を持つのもこの頃である。また学校で習わないような事にわざわざ興味を持つのもこの頃であって、大人たち、特に若い世代の教育に当たる人々はこういう小中学生の好奇心を受け止めて、大切に伸ばしていってあげる義務がある。

 私は中学3年生の時、クラスメートの影響で相対性理論だとか量子論だとかいう現代物理学とか、4次元世界の現象などに強い知的好奇心を煽られることになった。当時も現在と同じように、そういう難解な理論を一般向けに平易に解説してくれる書籍が多数出版されていたので、それらを読んで何となく最新の理論をマスターしたような気になっていたのだから若気の至りである。
 しかし私は偉い学者が素人向けに書き下ろした解説書を読んでも、それを頭から信じるようなことはしなかった。中でも「4次元」というものについて、一般の解説書に書いてあることには懐疑的だった。今回はその4次元の話…。

 念のために言うと、我々の世界は3次元である。前後にしか進めない“線”の世界が1次元、前後左右に進めるようになった“面”の世界が2次元、そして前後左右に加えて上下にも幅がある世界が3次元である。もうちょっと数学的に言うと、3本の直線が互いに直角に交われるのが3次元ということである。
 そうすると4本の直線が互いに交われるのが4次元で、縦・横・高さの3本の直線すべてと直角に交わる4本目の直線は“時間”である、というのが当時の(そして現在も)偉い学者が一般向けに説明する内容だったが、私はこれに疑問を持った。4次元世界の住人にとって4本目の直線が時間のわけはなかろう!

 1次元では座標中心からの1つの距離(x)だけで位置が決まる。2次元では座標中心から2つの方向への距離(x,y)だけで位置が決まる。これは高校までの数学で最も頻繁に生徒を苦しめる座標の問題である。3次元では座標中心から3つの方向への距離(x,y,z)で位置が決まる。すなわち縦・横・高さである。
 そうすると4次元では座標中心から4つの方向への距離(x,y,z,
w)で位置が決まることになるが、このwを“時間”と表現したのは偉い学者先生たちの誤りであると、私は今でも思っている。大体現実と合わない。難しい数学や物理学の理論は必ずしも現実の感覚と合わなくても構わないのであろうが、それでもやはり何か間違っている。ノーベル賞を取ろうとか思う人でなければ、4次元の第4座標軸は“時間”であるという説明は何かおかしいと感じるセンスが必要である。

 我々3次元世界の住人は前後・左右・上下の3方向に対して“距離”を見ることが出来る。ところが学者先生たちの説明によれば、4次元世界の住人は前後・左右・上下の他に、過去と未来に対して“距離”を見ることが出来ることになる。つまり昨日までの距離は100メートルとか、鎌倉時代までの距離は3万キロメートルとかいう具合に…。すると4次元世界の住人が時速100キロメートルの乗り物(タイムマシン!)で鎌倉時代まで移動すると300時間かかることになるが、この300時間という数字は何なのか?まさに“時間”ではないのか?4次元では距離として見える時間の他に、座標内を移動するのに必要な時間が別に流れているのか?
 4次元座標の中で、点A(x1,y1,z1,w1)から点B(x2,y2,z2,w2)までの間は距離としてメートルとかセンチメートルで計測できるはずである。その距離をある速度で移動したとすれば当然時間が必要であるが、これは(距離÷速度=時間)で表わされる時間であって、4次元の第4方向の時間(w)ではない。偉い先生たちは4次元は縦・横・高さ・時間の4方向ですと言って、素人を騙そうとしたが、私は騙されない。

 これは2次元世界の住人を考えたって判る。2次元世界では(x,y)で位置が決まるから、点A(x1,y1)から点B(x2,y2)まである速度で移動した場合の所要時間は、我々3次元世界の住人と同じ感覚の時間である。2次元世界の住人にとって、1つ上の次元に相当する“高さ”が時間の代わりをしているわけではない。
 私が中学3年生の頃、悩みに悩んで考え出した結論は次のようなものだった。
「4次元世界の第4方向は、我々3次元の住人には名付けようのない距離要素である。そして時間とはどの次元の住人にとっても、常に1つ上の次元として流れるものである。」
つまり4次元世界の住人にとっては5次元の第5方向が“時間”である。16次元世界の住人にとっては17次元の第17方向が“時間”である。100次元世界の住人にとっては101次元の第101方向が“時間”である。しかし100次元世界になんか住みたくないね。この世界の立体の体積を求めるためには縦×横×高さ×(次元その4)×(次元その5)×………×(次元その100)と100個の数字を掛け合わせなければならないのである。算数の試験なんて1問解くのに“何時間”もかかってしまう。

 何でこんな昔のことを思い出したかというと、カミさんがある大先生の講演会を聴いていたら、講演終了後、ある中学1年生が私と同じ質問を大先生にしていたという話を教えてくれたからだ。カミさんは“4次元”など無縁のパッパラパーの芸術人間であるが、カミさんからの又聞きの言葉で推察するに、その中学生も4次元世界における“時間”の取り扱いに疑問を持っていたようだ。
 日本もまだ捨てたものではないという感じである。4次元とは縦・横・高さ・時間ですと説明されて、「ハイ、そうですか」と簡単に納得してしまう人間ばかりでは日本の将来は心配だ。日本一偏差値が高いと言われた某大学でさえ、「それは○○の教科書に出ていたよ」で済ませてしまう人間が多かった。疑うことが科学の基本であるが、必ずしも将来ノーベル賞など狙うような人間でなくともよい、社会の身の回りに起こるいろいろな事に対して、偉い人間や目上の人間が言ったことをそのまま鵜呑みにしない人間こそ将来の日本に求められているのである。
 中学生や小学生がこういう好奇心を持ったら、教育に当たる人々はその心を大切にして貰いたい。カミさんが言っていた中学1年生の質問に対する大先生のお答えは、ここで述べるのはやめておこう。


冥府の鬼手

 実在の病理学者だった順天堂大学教授・伴俊男を描いた『冥府の鬼手』(毎日新聞社)という医学小説があった。昭和53年(1978年)の出版だが、現在はすでに絶版になっていて古書店でもなかなか入手は困難、お読みになりたい方は図書館を探していただくより他にない。
 ところでこの小説の著者は皆実功さんという方だが、先日ひょんなことからこの著者が『やぶ医者のなみだ』とか『やぶ医者の一言』など「やぶ医者シリーズ」を書かれていた森田功先生であったことを知った。確かに森田功先生の著者紹介欄には元順天堂大学講師と記されており、ある本の本文中には病理学をやっていたことも書いてある。ああ、この方は伴教授の数少ないお弟子さんだったのかと初めて知った次第である。

 私も病理に移った最初の頃(昭和60年頃)、『冥府の鬼手』を読んだが、すでにその頃からこの本の入手は難しく、図書館に勤めていた知人に頼んで借りてもらった。この超レア本を最近また手に取る機会があったので、この機会に内容などを紹介しておきたい。
 鬼手というのは名医を言い表す古語で、最近では死語そのものだが、もともとは「鬼手仏心」から来ていると言う。私の家も三代続いた医師だから、この言葉の由来は幼い頃に聞かされたような気がする。医師は仏のように人を助ける心を持っていなければいけないが、その手(技術)は鬼のごとく冷静でなければならないということだった。
 つまり『冥府の鬼手』というのは冥府の医師、すなわち死者たちの医師ということである。この物語の舞台だった昭和30年代には、まだ病理学は病理解剖が主体であって、不幸にして死の転帰をとった患者さんのご遺体を解剖させて頂いて、その死因を究明することが最大の使命だった。
 最近の病理学では、これから病気と戦う患者さんたちの生検材料や手術材料を検索して、適切な治療法を指示することに力点が置かれるようになってきており、死因を究明する医学としては、むしろ法医学の方が一般の人々にも馴染みが深いのではないか。西丸先生の『法医学教室の午後』シリーズとか上野先生の『死体は語る』『死体は生きている』などの本をお読みになるのも面白いと思われる。

 ところで『冥府の鬼手』は病理学がまだ病理解剖を主体としていて文字通り“死者たちの医学”だった昭和30年代。三重医大を出た主人公の小杉真(これは森田功先生自身であろう)が順天堂大学の伴俊男教授の病理学教室に入室した昭和29年5月から、伴教授が亡くなる昭和37年7月までの物語である。作中ではA医大となっているが、誰が読んでも順天堂大学医学部であることは明らかだ。順天堂大学に職員組合が形成された頃の内情なども書かれていて(それが伴教授の寿命を縮めた直接の原因にもつながる)、実名を挙げるわけには行かなかったのだろうが、実名を挙げたに等しい書き方だったために、その後は版を重ねることもなく、わずか数年で書店から姿を消すことになったのかも知れない。

 伴俊男教授は一高・東大の典型的なエリートコースを進み、東大病理学教室でも顕微鏡観察能力が一段と優れていて早くから将来を嘱望されていたのだが、30歳代の頃に病理解剖中に結核症に感染、効果のある抗生物質など無かった戦前のことだったから、その後も一生この厄介な病気を背負い込むことになった。確実に肺を蝕んでいく結核に対して昭和11年、日本で13番目の胸郭整形術を受けて奇跡的に生命は取りとめたが、若くして無理の利かない体になってしまい、東大病理学教室の先輩である内科医・東俊郎が見るに見かねて、医大昇格前の順天堂医院の附属研究所にポストを用意する。無理をしないで好きな研究に打ち込めるようにとの温情だったが、これが縁で後に順天堂大学の教授になり、理事にさせられ、結局は死期を早める結果になってしまったと森田先生(ペンネーム・皆実功)は書いている。

 書中では伴教授の奇行がコミカルに描かれる部分がある。教授会のために会議室に行ったらまだ誰も来ておらず、ちょうど尿意を催していた伴教授は洗面の流しに向かって放尿を始める。自室では常にやっていたことだという。悪いことにそれを学長に見つかってしまったが、伴は悠然としたもの…。日頃から自分に敬意を表わさない伴を苦々しく思っていた学長は伴の奇行を学内で吹聴したが、却って伴の人気を高めたらしい。
 伴は権力をひけらかしたり経歴を飾り立てたりする者たちに媚びることはしなかったが、学生や下の者たちに対する心遣いは人一倍だった。弟子入りした小杉真(=森田先生)と同僚の原田洋(これは誰のことだろうか)に対しても、研究発表や病理診断の指導は容赦のない厳しいものだったが、貧しい弟子たちが夜半教授室に忍び込んで文献をあさったり、飲食物をくすねたり(こちらはまさに泥棒行為)するのを黙認してくれたり、夜中の解剖を終えた弟子たちにホテルで朝食をふるまったりしてくれた話も書かれている。小杉(森田先生)が下宿代に困っていると当直付きの住み込み医院を紹介してくれたのも伴だった。
 だから伴が会議室の流しに小用を足した行為も愛嬌として書かれているが、一方の学長に対しては森田先生の反感も相当なものだったと思われる。学長は胃の症状が長く続き、原因がなかなか判らなかったために試験開腹することになった(当時の胃カメラはまだ初歩的なものでしかなかった)。胃癌と思い込んだ学長は入院を控えて学生・職員を集め、声涙くだる名演説で告別の辞を述べたらしいが、結局はただの胃潰瘍で、茶番を演じただけに終わってしまった。伴は結核に冒されていつ死んでもおかしくない状態だったのに、ことさら悲壮ぶることもせず淡々としたものだったと、森田先生はこの時の学長の茶番劇と引き比べている。

 病理は変人が多いとは昔も今も言われるところだが、世間の名利を超越した憎めない変人だったのだなというのが、私のような“一応関係者”が『冥府の鬼手』を読んだ感想である。小杉(森田先生)たちも相当風変わりな生活を送っている。解剖の臓器を入れる容器で米を炊いて食べたり(当時は物がなかったとはいえ、臨床医はもっと裕福だった)、内科が実験に使った牛の心臓を貰ってきてブツ切りにし、トイレの床タワシの柄を削った櫛に刺してコンロで焼いたりと、ちょっと現代の病理医にも想像がつかない凄まじい情景である。
 また当時の東大の病理学教室では、入門することを“入局”と言わず“入室”と言うとか、教室員同士は互いに「○○先生」と呼ばず「○○さん」と呼ぶとか(先生と呼ばれるほどの馬鹿でなしということである)書かれているが、これらは私が東大病理に入った時も教えられたことである。要するに“世間並みに”チヤホヤされることを嫌ったわけで、これも一種の変人のうちである。(この文中で本来ならば私は森田先生を「森田さん」と呼ばねばならないが、そうするとこの人は何と生意気な人であろうと誤解されるから、世間並みに呼ばせて頂いている。本当はこちらの方がずっと失礼なことなのだが…。)
 さらに小杉(森田先生)は一度だけ伴の怒声を聞いたと書いている。製薬会社の薬効の論文に病理組織を解説したついでに、著者の臨床医が末尾に「伴教授の御校閲を感謝します」と付記したのを見て(この手の文章は現在でも儀礼的に記される)、「薬屋の提灯持ちができるか」と怒鳴ったそうだ。この気概は昔の病理医、病理学者の多くが持っていて、そういう世間的な名利にこだわることを潔しとしなかったことの表われである。その後の医療の進歩に伴って大きな検査センターが幾つもできて、そこで病理検査もしようとなった時、偉い病理医や病理学者たちは口を揃えて言ったものだ:「そんな商業ベースの病理の検査をするなんてけしからん!」
 ところが高度経済成長からバブルといった時代の流れは恐ろしいものだ。多くの病理医や病理学者は伴教授の時代の気概を忘れ、清貧を嫌がるようになり、あまつさえ伴教授の弟子筋の年代の者たちの中のほんの一握りの大先生たちは検査センター経営トップの名利にドップリ漬かって、病理診断の“薄利多売”を画策するご時世となってしまった。我が業界の内情暴露はこのくらいにしておくが、もしこういう風潮が心配だと考える人は、ご自分やご家族が手術や検査を受ける場合、専任の病理の医者がいる病院を選ぶことをお勧めしておく。そこにはたぶん変人の病理医がいるだろうから…。

 さて昭和30年代、順天堂大学にも職員組合が結成されてお決まりの労働争議となる。これが伴教授の生命を縮める原因になった経緯がくわしく書かれているわけだが、労働側の委員に病理学教室の技官が加わっていたことから、経営側の教授会としては伴教授に労務担当の理事を押し付けようとする。伴の肺は結核に冒されて正常な呼吸機能は常人の半分以下の危険なレベルにまで落ち込んでおり、伴は健康上の理由で理事就任を固辞した。ところが教授会のメンバーの中に、伴に向かって「大学の危機より自分の健康が大事か」と詰め寄った教授がおり、これで結局理事を受けざるを得なくなったと書いてある。
 順天堂大学もその学長のことも、実名を挙げたも同然な書き方をした皆実功(森田功先生)だったが、この教授会のメンバーだけはあくまで名前を秘している。それほどまで腹に据えかねる思いだったのであろう。医師でありながら相手の健康よりも大学の基盤(というより自分の生活と栄達の基盤)を盾にした発言を、森田先生は許せなかったのだと思う。
 考えてみれば御国のためだと言って一億国民に玉砕を迫り、多くの特攻隊員を送り出した職業軍人たちもまたこの部類の人間である。敗戦になって軍が滅びるということは、自分たちの拠って立つ組織が無くなるということである。それを先延ばししたいがために国民や特攻隊員たちに犠牲を強いた…。それと同じ論理である。この教授会メンバーは自分が結核だったら労務担当理事などという重責は逃れようとしただろうし、特攻を命じたほとんどの上官たちは美辞麗句で隊員たちを讃えたが、自分たちは終戦時に自決して国に殉じることなく、のうのうと戦後を生き延びて軍人恩給を食い潰した。

 伴教授は一方で組合対策に駆けずり回りながら、経営側の理不尽をも指摘して大学のために事態の収拾に奔走するかたわら、学生たちの講義に手を抜くことはしなかった。苦しい息の下から声を振り絞った最後の講義の鬼気迫る様子も文中から窺えるが、私の病理学の師匠だった東京大学の浦野順文教授もご自身の最後の講義に当たっては、伴教授のことが頭にあったのではなかろうか。浦野教授は昭和天皇の病理診断を担当した教授として一般にも名前を知られているが、ご自身もまた肝臓癌に冒されており、現職教授のまま他界された。最後の講義は私は分院に出向していて聴講できなかったが、やはり伴教授の最期を彷彿とさせる様子だったという。

 こうして昭和37年、伴俊男教授は61歳の生涯を終えた。結核による肺の空洞は類を見ないほど巨大なものだったという。弟子だった小杉真(森田功さん)はその後、順天堂大学の講師まで勤められたようだが、伴教授の感化を受けたためか、世間の名利を捨てて地域に開業して住民たちから信頼される医療に生涯を賭けた。数々の「やぶ医者シリーズ」の著書は読まれた方も多いだろうが、平成10年に直腸癌で71歳の生涯を閉じられたという。
 また伴教授も最後の頃は学生の講義も東大病理学教室の後進に代講を依頼することが多くなった。それらの中でも後に伴の遺体を解剖した橋本先生の名前が『冥府の鬼手』の中に少しだけ出てくるが、これは伴教授の後を継いで順天堂大学の病理学教授になった橋本敬祐先生である(実際は昭和33年から第二病理学教室教授に就任)。この方は後年、日本の病理学会が細胞診という新しい検査に冷淡なことを憂いておられたが、私はこの橋本先生から事情を伺って細胞診を勉強し、最も細胞診に冷淡な教室の一つであった東大の病理に風穴を開けた。私の権威嫌い・権力嫌いも病理に転向してますます年期が入ってきた次第であるが、橋本先生もまた平成16年に89歳で逝去された。
 今回は『冥府の鬼手』という超レアな古書を再び手に取る機会に恵まれ、まんざら自分と関係のない世界でもないだけに、やや深く内容をご紹介した。もしお読みになりたければ図書館を探すか、古書店をシラミ潰しに当たるしかないが、例えば順天堂大学の労使紛争というような時代の裏側を、下積みの立場から批判的に記載したような書物というのは、数年を経ずして葬られてしまう危険があることを改めて認識した次第である。何か書くときはよほど工夫して、国家や学会やその他諸々の権威筋の裏をかいてやらねばなるまい。


病腎移植と社会の病根

 宇和島徳洲会病院の万波誠医師を中心とした移植グループによる病腎移植が問題になっている。腎動脈瘤、尿管癌、腎癌などによって摘出された腎臓を、慢性腎不全に苦しむ他の患者さんに移植したということである。
 確かに病気で摘出された腎臓が、慢性腎不全で透析から離れられなかった患者さんを救うことになれば、これほど良いことはない。万波医師は慢性腎不全で苦しむ患者さんたちを見るに見かねて、今回の病腎移植に踏み切ったのであろう。それはそれで非常に理解できることであり、医師としては少なくとも私よりは立派かも知れない。ただ今回の万波医師の態度は典型的な父権主義(パターナリズム)であり、現在の医療の基本原則にはそぐわないものであった。
 慈愛に満ちた父親のような医師が、何とか慢性腎不全の患者さんを救ってあげたいと願っていた。一方で何らかの病気で腎臓を摘出しなければならない患者さんがいる。この両者の橋渡しをして、摘出されて不要になった腎臓をもう一方の患者さんのために役立てることは出来ないだろうかと、慈愛に満ちた父親のような医師は考えた。簡単に言えば、今回の病腎移植問題はそういうことである。

 万波医師に対する移植学会などからの批判は強いらしい。また癌の腎臓を他人に移植することによって癌を移すことになりはしないかという世論の恐れももっともなことである。しかし普通の健康な免疫があれば、他人の癌を移植することなど絶対に不可能である。移植された癌細胞は免疫細胞によって探知され、攻撃されて、あっという間に殺されてしまうだろう。そもそも他人の癌に限らず、自分自身の体にできた癌細胞でさえ免疫細胞によって“日々”撃滅されているのである。
 我々の肉体では毎日毎日何億という膨大な数の細胞が細胞分裂を繰り返して新陳代謝を行なっている。そのうち何十個か何百個かは知らないが、かなりの頻度で遺伝子の突然変異が生じて新たな癌細胞が誕生していると推測されている。しかしこれらの癌細胞は免疫細胞の警戒網をすり抜けることは出来ないのだ。ただしこれはあくまでも健康な免疫状態にあればということであって、腎移植を受けた患者さんのように免疫抑制剤を使っていればどうなるかは判らない。
 医師の中には他人の癌細胞までを移植してしまうことはあり得ないとして、万波医師を擁護する声もあるようだが、これらを含めてすべて父権主義である。父親のような慈愛に満ちた医師にすべて任せておけば何もかも大丈夫なのだろうか。

 今回の病腎移植問題ではインフォームドコンセントが十分だったか否かが最大の争点である。腎を摘出される患者さんと、病気の腎臓を移植される患者さんが、双方ともきちんと説明を受けて納得していれば病腎移植も問題はない、死体腎、生体腎に続く第三の腎移植の道であるという論評も一部にはある。しかし私はそうは簡単に解決できないと思う。
 専門家によるインフォームドコンセント、果たして素人はそれを100%信用できるのか。例えば腎臓から膀胱へ尿を送る尿管という管に腫瘍があったとする。尿管の癌の部分だけ切除して、残りを繋ぎ合わせてやれば十分なことも多い。しかし慢性腎不全の患者さんも救ってやりたいと願っている慈愛に満ちた医師は、尿管癌の患者さんにこれをどのように説明するだろうか。
@あなたの尿管には癌がある。
A尿管を切除する必要がある。
B部分的に尿管を切除することも可能だ。
C腎臓まで切除すれば再発の危険もある程度は減らせる。
D腎臓まで切除しても腎臓はもう1個あるから心配はない。
Eだが片腎になると将来もう一方も癌になった時には必然的に透析になる。
ここまで説明して、尿管だけ切除した場合の再発危険率と、腎臓まで切除した場合にもう一方の腎臓にも癌ができて腎透析になってしまう危険率とを比較して、患者さんにどちらかを選択して貰うのが正しいインフォームドコンセントのあり方である。
 しかしここでBとEを
意図的に省略されてしまった場合、果たして素人の患者さんやその御家族は医師の真意を見抜くことが出来るだろうか。医師の脳裏には、慢性腎不全に悩むまったく別の患者さんのことが去来しているのだ。
 ただし現在では尿管癌に対しては腎摘出まで行なう施設がほとんどであり、腎臓を温存する手術は群馬県立がんセンターなど限られた病院でしかやっていないようである。

 専門家である医師が
意図的に説明を省略して、患者さんの選択を誘導することなどあり得ないと思っている人はよほどのお人好しである。医師に限らず最近の“専門家”たちの言うことを真に受けていて良いのだろうか。良いことばかり宣伝している保険に加入したら保険金が支払われなかった、専門家が太鼓判を押したマンションは骨抜きだった、犯罪捜査のプロたる警察官が事故だと言っていたのに実は殺人だった、等、等…。ついうっかりの事柄ではない。“専門家”たちが故意に一般人=素人を騙したとしか言いようのない状況である。
 今回の病腎移植は万波医師が個人的に善意で行なったものであるかも知れないことは認めよう。しかしこれが全国的なシステムにまで発展した時にどのような問題が生じるかという想像力に欠けていることは事実である。
 専門家とは素人たちのためにさまざまな判断を下し、素人たちのためにさまざまな業務を行なうように特別な訓練を受けた集団のことである。それが最近では自分たちの利得や名誉や虚栄心や自己満足が先に立っているとしか言いようのない事例が増えてきている。まさに社会の病根である。
 
「国家は貴官を大学校に学ばせた。貴官の栄達のために学ばせたのではない」
これは司馬遼太郎さんが「坂の上の雲」に伝えている児玉源太郎の言葉である。旅順要塞を攻めあぐねて無謀な白兵突撃を漫然と反復させている第三軍の参謀に浴びせた罵声だ。
 万波医師に児玉大将の罵声は気の毒かも知れないが、やはり医療を自己満足のレベルでしか捉えていなかったと指弾されても仕方がないと思う。


夢から覚めた夢

 つい先日、最近ちょっと疲れているせいか変な夢を見た。何十年かぶりで将棋を指そうと思って駒を並べようとした夢で、王将の隣に金将、銀将と並べても、まだ桂馬と香車までの間が埋まらない。何の駒だったか迷っていると、最近は将棋のルールが変わって歩兵(歩)が盤面に18個並ぶのだという。(だから横の区画が増えているわけだ!)しかも18個の歩は6個ずつチームになって協同作戦を取る。一手の間に6個の歩を同時に動かすことができて、これで敵の金や銀を取り囲み、ここに香車や飛車の筋を利かせるのが最新の戦法なのだそうだ。(なぜか角筋ではない。)
 ここで目が覚めて考えた。しばらく将棋も指さなかった間に、ずいぶんルールも近代的になったものだ。そう言えば確かインターネットでも紹介されていたっけ。6個の歩の同時移動は敵前上陸作戦を象徴するもので、香車や飛車はその航空援護を表わしているものだと…。
 何ということだ。目が覚めて考えたこともまた夢の続きだったのである。ついでに言っておくが、私は最近話題になっている硫黄島作戦の映画(『父親たちの星条旗』と『硫黄島からの手紙』)はまだ見ていないので、なぜ夢の中で“上陸作戦”が話題になったのか判らない。また私はそれほど将棋が好きなわけではなく、雑誌や新聞に掲載される対局譜などにも興味はない。

 しかし夢というものは不思議な現象だ。睡眠中の1人の個人の頭の中に浮かんでは消えていくものだから、やはり人間の脳の中の電気的な出来事には違いない。動物の脳は非常に多数の神経細胞から成り立っており、神経細胞同士が電気的刺激を伝えたり伝えなかったりすることによって、動物の本能から日常の行動までを制御していて、それが特に人間では“神”とか“宇宙”とか“善悪”といった哲学的あるいは抽象的な思考までを生み出しているから不思議である。
 こういう高等な思索が単なるタンパク質や脂質でできた塊りの中から生まれてくるはずはないという偏見から、やはり人間の肉体には人智を超えた霊魂が宿っているのだという考え方も根強く残っていることは事実であるが、いずれ医学や生物科学の発展によって記憶や思考や感情など人間の脳内で起こる現象はすべて“唯物的”に解明される日が来るだろう。

 “タンパク質と脂質の塊り”の中で実に多彩で高次の活動が生じうることに関しては、実は我々はある程度のモデルをすでに日常茶飯事に目にしているのである。タンパク質や脂質の素材ではないが、鉄・銅・アルミニウム・プラスチックなどで作られた“塊り”であるコンピュータは、その素材からはとても信じられないような動作をしているではないか!
 コンピュータの素子と、脳の神経細胞の働きは似たようなものだ。個々の素子や細胞はそれぞれがバラバラに荷電したり荷電しなかったりしているだけであるが、多数の素子や細胞の働きが集合することによって複雑多岐なプログラムを遂行できるのである。

 もっとも素子がたくさん集まっただけではコンピュータは作動しない。ウィンドウズとかマックとかいう基本ソフト(OS=operating system)をインストールして、さらにワードとかエクセルなどというアプリケーション・ソフト(application software)もインストールしてやって初めていろいろな作業が出来るようになるのである。
 人間の脳の場合、各種のアプリケーション・ソフトは生まれてからの教育や経験によって導入されてくるものであるが(例えば読み・書き・計算など)、では人間の脳の基本ソフト(OS)はどのように捉えたらよいのだろうか。すでに遺伝的にインストールされているものなのか、それとも生後ある一定期間のうちに導入されるものなのか。
 とにかく我々の脳にも、人間としての“基本ソフト”的なプログラムが組み込まれているはずであり、それがなければいくら無数の神経細胞が集まっていても所詮はタンパク質と脂質の塊りに過ぎなくなってしまう。そして日常生活における論理的思考や高次の思索などは、この基本ソフト(OS)がさまざまなアプリケーション・ソフトを駆使して出力していると考えられるのではないか。

 夢とは非常に不思議なものであるとして、昔からたくさんの人がいろいろ研究してきた。私も中学生の頃に宮城音弥さんの『夢』(岩波新書)などを読んでずいぶん興味をかきたてられたが、最近の新宮一成さんの『夢分析』(これも岩波新書)を読んでみると、また別の方面からの研究が進んでいて面白かった。しかし“夢”の研究は今も昔も、結局は被験者の夢のレポートと心理分析の対比という方法論からなかなか踏み出せそうもない感じもする。
 私も今回、妙な将棋の新ルールの夢をいやに鮮明に覚えており、悪夢ではなかったことからしばらく夢の余韻を楽しんでいたら、突然ある考えが浮かんだ。コンピュータは夢を見るのだろうかということである。何人かのSF作家はロボットに夢を見させているし、中でもフィリップ・K・ディックという作家は『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?(Do androids dream of electric sheep?』というそのものずばりのタイトルの傑作を書いている。

 さて睡眠とは脳の基本ソフト(OS)をシャットダウンした状態である。ではウィンドウズやマックをシャットダウンした後、もしかしたら私たちのパソコンは余剰電流でワードやフォトショップが勝手に動いて“夢”を見ているかも知れない、そう考えたら急にワクワクしてしまった。もしシャットダウンしたパソコンの中でアプリケーション・ソフトが中途半端に動いたらどうなるのか、夢のモデルに使えないだろうか。心理学の素人の妄想であるから別に真剣に考えて貰う必要はないが、アプリケーション・ソフトが勝手に動くうちに基本ソフト(OS)の一部にも電流が流れて、夢から覚めた夢を見せてくれるのかも…。


お風呂医者

 本日(2007年1月21日)の毎日新聞朝刊トップに、笑うに笑えない記事が掲載されていた。フジテレビ系の人気番組「あるある大辞典U」で放送内容(1月7日)に捏造があったという。系列の関西テレビが制作した番組で、毎日朝晩1パックずつ納豆を食べるとダイエット効果があるという内容に関する実験や検査や、あげくの果ては米国の大学教授のコメントまでもが嘘だったというから新春早々のお笑いだ。
 いや、笑っては失礼か。番組を信じて毎日2パックずつ納豆を食べたという女性たちからは怒りの声が上がっているというし、奥さんと娘さんに毎日納豆を買いに行かされたという男性会社員のコメントも紹介されていた。私も納豆が好きだが、どうも最近1〜2週間ほどスーパーでも品薄だと思っていたら、こういうことだったのか。(私はこの時の放映は見ていなかった。)

 こんなことなら、あの時ホリエモンのライブドアに買収されていた方が良かったんじゃないの、などという憎まれ口は控えることにして、最近のテレビでは医学や健康をテーマとした番組が以前よりも圧倒的に増えてきたと感じている。一般の視聴者に対して難解な医学知識を平易に啓蒙するという意味から言うと大変有意義なことであり、現在のほとんどの番組は良心的に制作されていると私は信じている。
 しかしテレビで専門家がコメントしているからと言って、それが100%真実だと鵜呑みにしてはいけない。やはり専門家の言うことであっても、一度は自分の頭で常識と照らし合わせてみることをお勧めする。大体、今回の「あるある大辞典U」は捏造だったにしても、常識で考えれば、納豆食うだけで痩せるわけはなかろうが…。納豆と一緒に食った白米のカロリーはどこへ消費されるんだよ?
 これは別に医学や健康に限らない。食品や建築や政治や経済や国防の“専門家”が言うことが全部真実なら、日本の国は今頃世界中が羨む理想郷になっているはずではないか!納豆ダイエットを信じた多くの皆さんには大変申し訳ないが、もう少し常識を鍛えることをお勧めしたい。もともと納豆は健康食品だから今回少し食べ過ぎただけで済んだことを感謝するべきである。

 ただし今回の捏造番組が生命に関わる人も世の中にはいたのだ。例えば心臓の人工弁などを植え込んだ患者さんでは、人工弁の所に血液凝集が起こって血栓ができやすくなっていて、血液凝固を抑える薬剤を長期間服用するのであるが、納豆には血液凝固を促進する作用がある。だからこういう血栓ができやすい人にはわざわざ納豆を禁止するくらいである。もし医師からの十分な指導・監督の下にない患者さんが今回の番組を見て多量の納豆を食べていたとしたら…。背筋が凍る。
 私が産科医・小児科医だった頃、妊娠末期の妊婦さんには納豆を勧めていた。新生児がビタミンK欠乏によって突然頭蓋内出血を起こして亡くなったり、後遺症を残したりという事例が頻発していた時期のことである。ところが妊娠末期に妊婦さんが計2パック(1日2パックではない)の納豆を食べるだけで新生児の頭蓋内出血がほぼ完全に予防できるのだ。子宮を通してわずか2パックで出血を予防できるほど、納豆の血液凝固効果は強い。そんな食品を捏造番組に惑わされて大量に摂取させられた視聴者の中に、血栓形成の危険が高い人は含まれていなかったことを祈りたい。

 最近ではテレビ局もこの種の番組を制作する時にはきちんとした検証をするようになっていると思われるが、以前はいい加減なのもあった。専門家のコメントなんてこんなもんだよという実態を一つだけお教えしよう。
 さまざまな番組の医学・健康コーナーには一応“専門家”として医学博士の肩書きを持った医者が登場するが、一時期ほとんどの医者があらゆる状況で入浴を勧めたことがあった。
「こういう皮膚病はどうすれば良いんですか?」
「毎日お風呂に入って清潔にして…。」
「この病気の予防法はどういうことでしょうか?」
「毎日お風呂に入ってよくマッサージして…。」
「ストレスを避けるには何が良いでしょう?」
「毎日お風呂に入ってよく暖まって寝ましょう。」

 これじゃ落語に出てくる葛根湯医者と同じだよ。葛根湯は漢方でよく使われる基本的な漢方薬の一つだが、何でもかんでも葛根湯で済ます藪医者を笑った落語がある。
「私は頭が痛いんで。」
「葛根湯をおあがり。」
「私は腹が痛いんですが。」
「葛根湯をおあがり。」
「私は眼が痛いんで。」
「葛根湯をおあがり。次の方は?」
「私は付き添いで来ただけで。」
「まあ、葛根湯をおあがり。」
 小児科医だった頃、子供の発熱でも腹痛でも何でもかんでも“ケフラール”という抗生物質を処方する医師が多かったが、我々はこれを“ケフラール医者”といって軽蔑していた。ケフラールは広範囲の細菌に効く強力な抗生物質であるが、こういう乱診乱療ともいえる乱暴な処方をしていては抗生物質に耐性を持った細菌を世界中にはびこらせる結果となってしまう。今でも“ケフラール医者”はむしろ増えているから要注意!

 さすがに最近はテレビに出てきて、日本人の風呂好きに乗じて“お風呂”“お風呂”と当たり障りのないコメントでお茶を濁す“お風呂医者”は少なくなった。入浴前後の急激な温度変化や、特に日本人の好きな熱い風呂では体の表面と深部の温度差が大きくなることで、却って脳血管障害心筋梗塞の危険が高まることが言われるようになったことも影響していると思われる。
 しかし「入浴すればある病気が予防できる」という命題を提示された時に、「では真冬でもシャワーで済ますドイツ人にはその病気は多いのか」とすぐに反証できるのが健全な常識というものである。医学・健康問題に限らず、日本人にはこういう健全な常識が育っていないのではないかと思わざるを得ない状況が多すぎる。


ナビゲーターは亡国マシン

 近頃、“カーナビ”を使わなければ運転できないと言う人が増えてきた。カー・ナビゲーター、つまりGPS(Global Positioning System:全地球測位システム)の働きで自分の車の位置を表示して、目的地までのコースを自動的に誘導してくれる装置のことである。カーナビ付きの車に乗せて貰ったこともあるが、モニターに表示される地図の上に自分の車の位置と方向が表示され、装置の設定次第では「そのまま直進して下さい」とか「次の交差点を左折して下さい」などと音声アナウンスもしてくれる。私は興味ないからあまり詳しくないが、交通情報をキャッチして渋滞を避けさせてくれる装置とか、運転席から見た概略の景色を表示して適切な進行方向をモニター画面で指示してくれる装置もあるらしい。近頃ではカーナビを使っているタクシーの運転手さんも多く、昔のように東京都内の道路はどんな裏道までも頭の中に入っていますよと自慢するような名人運転手さんは少なくなった。
 そうかと思うと、最近では自動車の運転に限らず、携帯電話でアクセスして目的地までの道順を誘導してくれるサービスも普及してきているようだ。やはりGPSを使って自分の居場所を即座に表示してくれ、目的地を入力すれば次にどの方向へ歩いて行けばよいのか教えてくれるらしい。私は別に機械音痴でもないし、最新の情報サービス内容に疎いわけでもないが、こういうナビゲーション・サービスは生身の人間の能力を確実に減退させる“亡国マシン”だと思っているから、今後とも使用する気はさらさらない。

 私は自動車を運転する時、必ず目的地までの地図を確認して、通過する主要交差点名と大きなランドマークを頭に叩き込んでから出発する。少々遠い場所の時はそれらをメモに書きとめておいて、赤信号で停止している間などに簡単に再確認できるようにしておく。
 男性ドライバーにとって最も憧れなのは、助手席に
生身の美しいナビゲーターを同乗させて水先案内して貰うことなのだけれど、私のナビゲーター(やや古くなったが…)は昔から助手席に座るとすぐ居眠りしてしまうのでちっとも役に立たず、仕方なくドライバーたる私自身がナビゲーターの役割まですべて果たさざるを得なかった。
 しかしそうやって自分自身の頭脳を駆使して運転するうちに、頻繁に行く方面の道路に関しては精通して応用も利くようになり、交通状況の多少の変化にも自分の力だけで余裕をもって対応できるようになってくる。列車やバスで行く場合も同様である。今では列車やバスの時刻表を網羅して、目的地までの最適乗車ルートを即時に割り出してくれるコンピュータ・ソフトもあるが、私は全部自分で時刻表と路線図を突き合わせてルートを決める。徒歩のコースも精密地図であらかじめ大体の土地柄を把握しておく。だから私は旅先の移動にはある程度の自信を持てる。

 別に自慢しているわけではなく、昔はこれが当たり前だったのである。だから昔の人は地図を見る能力も養えたし、見知らぬ土地で道に迷っても何とか状況を打開する方向感覚を磨くこともできた。また迷わぬようにコースを覚える記憶力も鍛えることができたし、最適なコースを自分でアレンジする感性も養えた。
 世の中にはこういう能力がまったく無い人もいて、いわゆる“方向音痴”と呼ばれているが、そうでない限り昔の人たちはこうやって移動能力を鍛えたものであった。
 では車での移動も、列車・バスによる移動も、あるいは徒歩移動までも、すべて機械のナビゲーターがやってくれるような時代になったら、そういう移動能力はもう人類にとって必要ないのか?方向感覚もアレンジ能力も記憶力もすべて機械にやって貰えばそれで済むのか?
 そう言えば、先日NHKで「google革命」の番組を見たが、生活面での個人的な記憶一切までをgoogleのサーバーに頼りきり、自分の生身の脳はそれらをすべて忘却しているという男が登場していた。単なるSFホラーではなく、事態はすでにそこまで進行しているのかと唖然とする思いだった。しかし車の運転から徒歩のお出かけまで、すべてナビゲーターに頼りきっている人間もまたこれと同類項ではないか。機械が右へ行けと言うから右へ行く、直進しろと言うから真っ直ぐ行く、そういう人間ばかりになる世の中がすぐそこまで到来している。

 まあ、百歩譲って、機械任せで用が済めばそれで良しとしよう。どこの交差点で曲がるか判らないドライバーが、キョロキョロ迷っているうちに歩行者を轢いてしまったというような事態よりは確かにマシかも知れない。しかしナビゲーター人間(文法的に正確に言えばナビゲーテッド人間)ばかりになってしまう本当の怖さは、その個人が本来持っている生身の能力が減退するということばかりではない。他人にあることを教える、あるいは人類として次世代に何かを伝えるという行為自体がまったくナンセンスになってしまうのだ。

 例えば普段はカーナビを使って東京駅まで無事に運転できる人がいる(当たり前だ)。しかしこの人はカーナビのアナウンスに従って右折したり左折したりするだけで、それ以上は自分の頭で考えることはしないとする。この人がある日、友人に頼まれて新宿駅から東京駅まで車に同乗して道案内してあげることになったが、あいにく友人の車にはカーナビが付いていなかった。はたしてこんな人が友人の車を無事に東京駅まで誘導してあげることが出来るだろうか?
「東京タワーが見えるからあっちかな。」
「いや、品川方面に来てしまったぞ。」
「ここは皇居だ、見覚えがある。」
などとさんざん迷ったあげく、
「お前もカーナビ付けろよ。」
の捨てゼリフで終わってしまうに違いない。

 実は自動車運転の道順に限らず、人に物事を教えるということは自分の頭で考えない人間には不可能である。自分の生身の頭脳で「ああでもない」「こうでもない」と迷った末にやっと自分なりの解決を導いた人間だからこそ、他人がどこで迷うか、どう悩むかを知っており、適切な解決法を提示することが出来るのである。機械の言いなり、偉い人の言いなりに物事をそつなくこなしてきた人間には、教師として他人を指導することは絶対に出来ない。
 ところが最近の教育現場では、機械のナビゲーターこそ使用する場面は少ないが、“ナビゲーター的教育法”が取り入れられるようになってきている。生徒たちが黙って座っていても必要最小限の教科内容が要領よく頭に入るように、カリキュラムの順番を整理し、消化の良い教材を準備し、教師も話し方を工夫してやる、そうやって何から何までお膳立てしてやって生徒たちを何とか無事に卒業させてやることが“良い教育”ということになった。先生も生徒も、生徒の父兄も皆そう思っている。
 生徒たちは黙って座って授業を聴いていれば、自然に必要最小限の教科内容だけは頭の中に入れて貰えるようになった。漢字の読み書きでも英作文でも因数分解でも、それなりに熱心に教室で座っていた生徒なら、ほとんど反射的に模範解答を作ることは可能だろう。
 初等教育や中等教育までの段階ならそれも良いかも知れない。しかし最近では大学でも状況は同じなのである。ここには世間で言う“偏差値の高い大学”も含まれる。大学の教員たちは学生たち本位のカリキュラムを作成してやり、学生たちが理解しやすい教材を編集してやる、これでは教員自身がナビゲーター化したと言ってよい。ナビゲーター化した教員に誘導されて必要最小限の教科内容を導入して貰った学生たちは、はたして次の世代の学生たちを教育することができるだろうか。
 私たちの世代が大学生だった頃は、教授や助教授などの教員たちは自分の得意分野についてマイペースで講義していた。我々学生は、A教授のあの時の講義と、B助教授の今日の講義は同じことを別の角度から述べたものだなと、自分の頭の中で位置づけをして知識を整理していったものである。ところが最近の大学のカリキュラムでは、A教授とB助教授は同じ時期に講義をして、この分野の知識をあらかじめ体系づけた形で学生たちに提示してやるべきだということになっている。
 これがかつては“最高学府”と呼ばれた大学の講義だろうか、と嘆いていても仕方がない。すでに全国の医学部ではこういう講義形式が一般化している。他の学部も多かれ少なかれ状況は同じだろう。ナビゲーターと化した教授・助教授連に消化しやすいように体系化して貰った知識で卒業していった学生たち、ほとんど悩んだり迷ったりすることなく必要最小限の知識を身につけた学生たちが、次の世代の学生たちを同じように教育してやることは期待できないと思う。次の世代の学生たちが必要な知識を学ぶうえで何に迷い、何に悩むかを彼ら自身が知らないからだ。
 こうして人類が営々として蓄えてきた専門知識は、世代を追うごとにスパイラルを描いて低下していくであろう。これがナビゲーター時代の本質的な危機である。現に大学を出た数学の教員の中には、中学や高校の数学問題ができない者さえいるそうではないか。


補遺・医学部ナビゲーション教育

 車のカーナビはともかく学校の教育もナビゲーター化して問題だと書いたが、ナビゲーターのように判りやすく教えて何が悪いと思う方もいらっしゃるだろうから、医学部の実態をふまえて具体的に追加しておく。

 私が医学部学生だった頃の大学のカリキュラムは学生の都合などいっさいお構いなし。内科は内科、外科は外科、病理は病理、産婦人科は産婦人科、小児科は小児科で、各講座の教授や助教授や講師や非常勤講師の時間の都合だけで講義の時間割が決まっていた。だから例えば胃癌の講義にしても、病理は3年生の冬にあり、内科は4年生の春にあり、外科は4年生の秋にあるといった具合に、同じ疾患の講義でも各科バラバラに時間割が組まれていた。
 ところが最近では医学教育の専門とか称する人たちが、御親切にもお節介にも、これでは学生たちが効率的に学べないではないかといって、同じ系統の講義はなるべく同じ同じ時期にまとめて時間割を組んであげることにしてしまった。だから例えば消化管関連として内科も外科も病理も合同して1〜2ヶ月程度の短い期間内に集中的に講義が行なわれ、その中で先ほどの胃癌についても内科と外科と病理などがほぼ同じ時期に講義する仕組みになっている。
 こういうカリキュラムを良いと考えるか、悪いと考えるか。私に言わせれば、これは学生さんたちを徹底的に馬鹿にしたカリキュラムである。どうせ学生さんたちは内科で講義してもすぐに忘れてしまうから、半年も経ってから外科で同じ疾患を講義しても効率が悪い。そういって最初から学生さんたちの勉学の動機付けを見くびった方法なのである。
 しかし教師が教師なら学生も学生。講義で聴いた内容を自分の頭で再度整理して考えることもせず、自分が判らないのはすべて教師が悪いと他人のせいにする傾向がある。最近の大学では学生が教授や助教授の講義の良し悪しを評価するのが当たり前になっていて、これもまた教育の専門家と称する人たちがもたらした医学教育の流行である。

 医学部の教育スタッフのナビゲーション能力を向上させ、学生や専門家たちの評価に晒させ、教育効果を上げていく。なるほど建前としては立派であるが、ではそういう風潮などまったく無かった昭和期以前の医学部には良い医師は育たなかったのか?
 そんなことはあるまい。むしろ学生の都合などちっとも考えてくれなかった昔のカリキュラムに必死について行こうと苦労して勉強してきたからこそ、我々今の教員世代は学生さんたちにお節介とも言えるほど懇切丁寧なカリキュラムを提供できるのではないか。こういう因果関係を考慮せずに、今後ますます学生さん本位のカリキュラムを進めていけばどういうことになるか。学生さんたちは次の世代の医学生に教育を施すことは出来なくなるだろう。

 我々医学部教員の仕事は、これから医学の世界に旅立つ学生さんたちに地図を教え、作法を教え、途中で出会うさまざまなことへの対処法を教えることである。決して荷造りまでしてやることではない。これから旅行に出かける人たちのスーツケースに必需品一式を何から何まで詰めて手渡してやる人間がどこにいるか。
 これから旅立つ人々は、行き先の情報を人から聞いたり書物で読んだりして、自分なりの対処法を準備して荷造りするのである。今の教え方は、「胃癌」についてはスーツケースのここに入れておきなさい、「肺炎」についてはこっちですよ、といちいち指図してやるようなもので、学生さんたちに自分で荷造りさせる経験をさせないことになってしまう。
 教師がお節介でも、学生がそれに応えてなお一層勉強してくれれば良いのであるが、最近の学生さんたちは“ゆとり教育”の煽りで自分の頭脳を酷使する訓練をして貰っていない。しかも試験はほとんどがマルチプル・チョイス…。私はこういう状況を憂慮しているのである。


数字は語らず

 2007年2月4日(日曜)の毎日新聞トップニュースは興味を惹かれた。
「小泉政権下で(地域間の所得格差)拡大」実証 ( )内は中見出しとの組み合わせ
というもので、所得の不平等感を0から1の数値で示すジニ係数(イタリアの統計学者ジニが考案したもの)について、毎日新聞社が東大大学院の財政学教授神野直彦氏の協力を得て集計したところ、小泉政権発足後の2002年を境に上昇に転じたということらしい。ジニ係数が上昇するということは、不平等感が増すということのようだ。

 私は経済学や財政学が得意なわけではないし、今回算出されたという数字をもとに小泉政策の是非を論じようというつもりもない。私は別のところでも書いているように、小泉純一郎という品性低劣な人間は大嫌いだが、ある統計的数字だけをもとに上記のような見出しを新聞のトップ記事に持ってくるのはフェアでないと思う。

 ジニ係数だか何だか知らないが(私はこれを初めて知った)、正しく計算されて実態を正確に表わす数字であったとしても、上記の見出しの表現はかなり恣意的である。確かに小泉前首相の政策によって所得格差が広がったかも知れないが、統計学的な数字はそこまで“実証”するわけではないのだ。
 上記のジニ係数に関する調査から言えることは何か?
@「2002年から日本の所得の不平等感が広がった」
A「2002年は日本は小泉政権下にあった」

この2つだけであり、しかも@とAの間の直接の因果関係までを示すことは出来ない。小泉政策を批判したい人はAだから@になったと因果関係を言いたいだろうが、そういうことであれば次のようなことも成り立つ。
@「2002年から日本の所得の不平等感が広がった」
A「2002年は世界はニューヨーク同時多発テロ直後の混乱にあった」

あるいは、
@「2002年から日本の所得の不平等感が広がった」
A「2002年は日韓共催のサッカーWカップが開かれた」

とさえ言えるのである。Wカップ開催は所得格差の不平等感が広がった原因と言えるだろうか?

 統計学的な数字は決して物事の因果関係にまで踏み込んで“実証”することはない。このことを誤解してはいけないし、マスコミや学者などはそういう誤解を一般人に与える恐れの大きい発言をしてはならない。統計は物事の因果関係を表わさないということの、もっと判りやすい例を挙げる。

 もうずいぶん前になるが、女性のブーツだかミニスカートだったかを製造・販売しているメーカーから出された分析で、次のような記事が新聞に載った。
「真冬でもミニスカートとブーツでふとももを露出している女性は、ジーンズやパンタロンを履いている女性よりも脚が細い。寒風に脚をさらすと細くなるらしい。だからもっとミニスカートやブーツを履きましょう」
というものだったが、特に女性の皆さんはどう思われるだろうか。メーカーでは何百人ないし何千人の若い女性の協力を得て計測した脚のサイズをデータとして利用していたが、この記事の結論は正しいか。女性をスタイルだけで決めつける差別記事だという批判はひとまず別にしておいて、この調査からは、ミニスカートを履いたから脚が細くなったのか、脚が細いからミニスカートを履いていたのか、因果関係はどちらとも言えないのである。
 こういう統計学的な議論に騙される人は、納豆を食えば痩せるなどという捏造番組に踊らされる人でもあるから、もっと常識で考えるトレーニングをしなければいけない。偉い学者がこう言っていた、何だか理屈っぽい数字で表わされている、だから真実だろう、こういう安直な態度は捨てて自分の頭で考えることだ。

 ついでにもう一つ、かつて新聞に報道された別の調査を例として挙げておく。これは正しいかどうか、自分の頭で考えて下さい。自分が病院にかかる患者さんの身になれば論理のトリックが見破れます。
「雨の日は晴れや曇りの日に比べて喘息発作で外来に受診する患者さんは少ない。だから雨で空気が湿っている時は発作が起こりにくいのである」


あおげば尊し

 毎年3月の卒業式シーズンになると、街中に袴や晴着を着た若い女性たちの姿があちこちに見られるようになる。以前はそれほどでもなかったが、最近ではそういうお嬢さんたちを見ると、自分もかつて通り過ぎてきた学校時代をいやでも思い出すような年齢になってしまった。先日、TVニュースであるアスリートの高校卒業のシーンを放送していたが、その中に卒業式の代表的なメロディー「あおげば尊し」を皆で歌っている場面があり、私はオヤッと思った。この歌は、もう何十年も前から歌われなくなったと聞いていたからである。
 「あおげば尊し」は私の世代の人たちならば、必ず何回かは自分の卒業式で歌った経験があるはずだ。ちょっと歌詞を思い出してみよう。

一)仰げば尊し わが師の恩
   教えの庭にも 早や幾年
   思えばいと疾し この年月
   今こそ別れめ いささらば

二)互いにむつみし 日ごろの恩
   別るる後にも やよ忘るな
   身を立て名を上げ やよ励めよ
   今こそ別れめ いささらば

三)朝夕馴れにし 学びの窓
   蛍のともし火 積む白雪
   忘るる間ぞなき ゆく年月
   今こそ別れめ いささらば


 私はこの歌は小学校を卒業する時に卒業生として歌ったが、6年生の3学期、この歌の音楽の授業での練習に当たり、音楽の先生が「一番は先生に対する感謝、二番は友達に対する感謝、三番は校舎に対する別れなんだよ」と説明してくれた時、クラスの女の子たちがもう泣いていた光景を不思議によく覚えている。もちろん卒業式当日は大泣きだった。
 余談だが、一番の歌詞の「いと疾し」=「いととし」は、小学生にとっては「いとおしい」という意味にしか聞こえなかったし、各段の最後の「別れめ」も、やはり「分かれ目」にしか聞こえなかった。しかし物心ついて以来、初めて文字通りの別れを経験した小学校の卒業式、この歌は子供心にもジーンとくるものがあった。

 「あおげば尊し」が学校の卒業式で歌われなくなり、代わりに金八先生の「贈る言葉」など多様な歌が小中学校の卒業式ソングになったと聞いた時には意外に感じたものである。何でも一番の歌詞の冒頭、「仰げば尊し わが師の恩」がいけなかったらしい。教師は生徒が仰ぎ見るような上下の関係ではなく、対等の関係だからあの歌詞はけしからんということだった。
 それを突っ張り生徒がイチャモンを付けたと言うなら話も判るが、進歩的と自称する教師どもが言い始めたと聞いて呆れた。あれが「友達教師」の始まりだったのだろう。つい先頃はこういう友達教師がクラスの生徒と一緒になって特定の生徒に対するイジメに加担し、自殺に追い込んだというショッキングな報道もあった。

 小中学生よりはもうちょっと年長の学生たちを教える立場に身を置くようになってみると、別に物を教えたからと言って感謝して貰いたいなんて思わない、とんでもない話だ。自分のように未熟な教員の講義をよくサボらずに聴いてくれるものだと逆に感謝したいくらいである。若い人に物を教える責任の重圧とでも言うのだろうか。これが「友達教師」のように対等の関係だったら、どんなに気楽なことかと思う。自分が教壇で言い放ったことに何の責任もないからである。
 「あおげば尊し」を児童生徒に歌わせるのはけしからんと、進歩人ぶって偉そうに述べた教師どもはどんな人間だったのだろうか。児童生徒と対等の立場にまで降りていくことによって、教育の責任を放棄し、何を言っても“友達”だからと許される気安さに安住して、そのくせ“先生”という肩書きには執着して一身の栄誉だけは手放さなかった連中ではなかったか。
 「先生」と呼ばれるための覚悟を取り戻すためには、やはり「あおげば尊し」の歌が復活する必要はあるだろう。児童生徒や学生を見ず、役人に媚びへつらい、教育委員会にゴマをすり、校長や学校経営者の顔色を窺うような教育者ばかりでは、日本の教育はさらに荒廃するだろう。


昔の開業医

 私も機会あるごとにこのサイトで病院勤務医の実情に触れてきた。産科医の撤退、小児科医の過労死にとどまらず、内科や外科やその他の科でも、少ない人員で神経をすり減らす膨大な診療業務をこなしたうえに、頻回の夜間当直業務に疲弊して、今や続々と第一線病院の現場から退く医師は後を絶たず、そのため病院に残った1人1人の医師の負担がさらに増加するという悪循環におちいっている。

 病院を退いた医師の向かう先はどこかと言うと、私のように病理学などの基礎医学分野や、あるいはまったく医学と関係ない分野(文筆業など)に転進する人は数少なく、ほとんどは地元で開業することになる。昔は病院勤務医は開業医よりも自由時間が多くて精神的には楽だと言われたものだが、最近では事情が逆転してしまったようだ。10数年前までは開業する先生方はかなりの覚悟を決めてから医院を開いたという。
「一に在宅、二に在宅、三、四がなくて五に在宅」
とにかく自宅に併設した診療所で患者さんを待ち受ける以上、よほどの事情があっても留守にすることは出来ないという厳しい状況を表わした“標語”である。
 ところが最近では地域の救急医療体制が整備されたために、開業医は夜間診療の過度の重荷から解放されることになった。(その分、救急病院の勤務医が悲鳴を上げているわけである。)しかもテナントのビルにオフィスを借りて昼間の間だけしか診療しないという開業形態も増えており、これだと夜間当直に追われ、事務官から顎で使われる病院勤務などバカらしくてやってられないわということになるのだろう。

 そういう医療のアンバランスを修正すべく、厚生労働省の官僚どもはまた狡猾な診療報酬改定を企んでいるらしい。つまり診療所(病床数19床以下、主として開業医)の初診料・再診料を引き下げ、病院(病床数20床以上)のを引き上げる、さらに夜間・時間外診療の加算分を拡大するというのだ。こうすれば、官僚どもの目からは“敵前逃亡”に映る“優雅な”開業医をいぶし出せるとでも考えているのだろうか。何たる悪辣さか、言うべき言葉もない。誰が医療をかくまで浅ましいものにしてしまったか、官僚どもはその元凶をご存知ないのか。

 昭和32年1月8日の閣議で、政府は国民皆保険を5年で達成することを決定、昭和34年1月1日、新しい国民健康保険法が施行された。ただし国民皆保険が実質的にいつ達成されたことになるかについては諸説あり、この日をもって国民皆保険ですと厳密に言いきるのは難しいようだが、日本が戦後の高度経済成長期に入る前の1950年代後半から1960年代前半にかけて、政府主導で導入されたことは間違いない。(ただ私の父は国民皆保険の報酬体系になったのは昭和34年12月1日だったと明言している。)
 私はこの項で別に国民健康保険法の厳密な経緯を問題にしたいのではなく、私の実家が代々開業医であり、ちょうど国民皆保険に移行する前後の時期を体験した私の父親から、当時の開業医(医師会)の事情を聞く機会があったので、ここに書きとめておくものである。もちろん以下は開業医側の一方的な言い分であり、患者さんや官僚どもにはまた違う見方もあるだろう。

 保険医療以前の地域医療とはどんなものだったか。
 まず開業医には土曜・日曜はなかった。また1日の診察時間も朝9時から夜9時までとなっていたが(私の実家の場合)、「急患はこの限りにあらず」との但し書きがついていた。私の父だけが地区の医師会メンバーの開業医たちより余計に働いていたとは思えず、他の診療所に足並みを揃えていたはずであるから、ほぼ日本全国の開業医の勤務状態もこんなものだったであろう。
 だから私の小学校低学年くらいまでは日曜に父と遠出したことはなく、夕食も患者さんたちの診察の合間を縫って、そそくさと母屋へ戻ってきては、慌てて食べてまた出て行くという状態だった。この診察時間については保険医療以降もしばらくは惰性で長く続いていたように思う。
 他の業種の人たちも戦後の経済復興に向けて仕事は大変な時代だったと思われるが、ほとんどの全国の開業医もまた、
朝9時夜9時土日なしという勤務で、勤勉な国民たちの医療を担っていたのである。
 当時の開業医には誇りと使命感があったと言う。その誇りと使命感を支えていたものは何か?

 開業医には相応の報酬と裁量権が保障されていたから、それなりの誇りも持てたのである。保険医療導入前の医師は職人であった。伝統芸能でも何でもいい、職人と呼ばれる人たちを頭に思い浮かべて、それがメスや聴診器や注射器を持って仕事をすると思えば、当時の開業医のイメージに最も近いかも知れない。
 診療報酬は開業医と患者さんの間の契約がすべてであり、第三者が介入することはなかった。これも手塚治虫さんの漫画『ブラックジャック』のイメージを思い浮かべるのが手っ取り早い。だから開業医は、社会的地位も高くて金持ちの患者さんからは身分相応の治療費を請求したし、生活に困っている患者さんには無料で診療を施した。高い治療費を請求された患者さんの方もまた、自分を正当に評価してくれたと喜んで高い治療費を支払った。
 同じ手術(例えば虫垂炎、俗にいうモーチョー)でも、会心の手術で回復も早かったような場合には高く請求したし、ちょっと傷の治りが悪くて入院を長引かせてしまったような場合は“値引き”した。

 ところが保険医療では、入院が長引くようなヤブな手術の方が診療報酬が高くなった。投薬は不要と判断できる名医よりも、何でもかんでも薬漬けにするヤブ医者の方が稼ぎがよくなった。このことは私もかつて小児科勤務医として実感している。
 そして何より医師の職人気質が失われた。役人にイチャモンをつけられながら診療報酬を請求して、査定の通ったものだけ恩着せがましく支払機関から報酬を与えられる。こんな状況では腕を磨いて技量を向上させようなどと考える職人気質が失われて当然だし、身を削ってでも患者さんたちに尽くすという誇りも使命感も保てるはずがない。これは開業医のみならず、勤務医にとっても同じこと。これなら少しでも安全で楽な職場で定年までのんびり勤務した方がいいやと誰でも思うようになるだろう。

 さらに問題なのは健康保険制度の完備により、診療報酬として支払うために国民から巻き上げた膨大な保険料の銭が国庫にプールされることになった。銭が集まれば利権が動き、役人どもがこれに群がるのは世の習い。国民からの負担を増やし、医療機関への支払いを値切って、できるだけ銭を膨らませ、“福祉・健康増進”施設と銘打って余分なハコ物を作りまくる。厚生省(今の厚生労働省)の数多くの高級官僚たちがこういう施設に続々と天下って、優雅な余生を送ったはずである。

 健康保険制度導入に関しては、医療の亡国になるとして日本医師会は当初から反対していたが、池田勇人(当時の大蔵大臣、後に総理大臣)が、「医師の方々への報酬は決して粗略にはいたしませんから」と泣きついてきて、やむなくこれを呑んだらしい。ところが政治家や役人などというものは、今も昔も最初だけはバラ色のことを言うが、いったん物事を決めてしまえば、これが“民主主義”とばかりにやりたい放題。とうとうここまで日本の医療を荒廃させてしまったのである。しかも国民の批判をそらすために、マスコミを通して“医者は高給取り”なる悪質なプロパガンダを撒き散らしたため、国民(患者さん)と医療機関の間の不信感は高まり、医療は完全に崩壊した。

 海外でも例えばイギリスなどは医療費政策の失敗によって医療現場の士気はガタ落ちになったという。日本も間もなくそうなるだろう。いや、もうそうなっているのか。医療現場に限らず、いったん現場の士気が落ちると回復はほとんど不可能となる。戦争でも負け戦で退却が始まれば陣形の立ち直しは困難で、なだれを打って敗走ということになるのと似ている。
 今さら健康保険制度を廃止すれば、誇りも使命感もなくなった医療現場には詐欺まがいの悪徳医療がはびこるだろう。また医療機関への正当な報酬を確保するために国民の負担を今以上に増やすことも困難である。本当は余計なハコ物や天下り先を処分して先ず厚生役人が身を正さなければならないのに、我が国ではそういう清廉な人物は役人で出世できないようだ。
 さあ、どうするか?誰か良い知恵はございませんか?


タミフルは本当に異常行動の原因か

 オセルタミビル(Oseltamivir) は、リン酸化した製剤としてスイスのロシュ社から販売されているインフルエンザ治療薬で、商品名はタミフル(Tamiflu)という。このタミフルという名前、今年(2007年)は日本で一躍有名になってしまった。本来、A型B型のインフルエンザ治療に効果があるとされ、さらに近々流行が恐れられている新型インフルエンザに対しても有効ではないかと言われていて、まさにインフルエンザウィルス対策の有望株なのだが、投与された患者さん(特に若者)が服薬直後に異常行動を起こして、窓から飛び降りたり道路に飛び出したりして亡くなってしまうという痛ましい事故が相次いだためである。どうも幻覚を見ているようなのだが、回復した患者さんたちには異常行動の記憶がないという。

 厚生労働省では事態を重く見たようで、2007年3月22日、10歳代の患者に対するタミフルの原則投与禁止を緊急発表するに至ったが、マスコミや一般国民の方々の間からは対応が遅いという批判が巻き起こっている。
 確かに厚生労働省のみならず役所の官僚の対応は遅いし、不適切で不十分なことが多いが、今回のタミフルの件に限って言えば、遅いとか不十分とか言って官僚を責めるのは酷ではなかろうか。医学関係者の目から見れば、これは本当にどうしようもないことであった。

 まず薬と副作用の因果関係について、これを高い確率で断定することは非常に難しい。マスコミの記事だけ読んでいると、「タミフル飲んだ→異常行動で亡くなった」、とこれが絶対に正しい因果関係のように錯覚してしまいがちだが、実は医学における因果関係の断定はきわめて困難であり、100%断言するのは不可能と言ってもよい。
 百人百様といわれるさまざまな体質や個性を持った人間のうち、ごく一部の患者さんにのみ発生した異常現象を、絶対に薬のせいだと言い切るためには、実は大規模で非人道的な人体実験が必要になる。例えば次のようなものである。
 多数の健康な中学生・高校生を2つのグループに分けて、一方にはタミフルを飲んで貰い、もう一方にはタミフルそっくりの錠剤に詰めた砂糖か何かを飲んで貰う。このそっくり薬は偽薬(プラシーボ placebo)といって、何か薬を飲まされたという心理的影響だけで症状が出てしまう可能性を除外するために重要な実験手順である。さらに同時にインフルエンザと診断された多数の中学生・高校生を2つのグループに分けて、やはり一方にはタミフルを飲んで貰い、もう一方には偽薬を飲んで貰う。
 これで投与後の様子を観察して、もし健康かインフルエンザかを問わずタミフルを飲んだ生徒さんたちの間にだけ異常行動が見られれば、タミフルが原因であると高い確率で推定できるわけである。ちなみに飲んだのがタミフルか偽薬かに関係なくインフルエンザの生徒さんたちの間にだけ異常行動が出れば、インフルエンザ脳症が原因であると高い確率で推定できるし、さらにタミフルを飲んだインフルエンザの生徒さんたちだけが異常行動を示せば、インフルエンザ脳症とタミフルの相乗作用が原因であると高い確率で推定できるわけである。

 これが医学における厳密な因果関係である。裁判官や検察官が言う法曹界の因果関係も我々には判りにくいが、医学における因果関係もまた難しいのであって、ここに書いたような大規模な実地試験なしには確信を持って物を言うことはできない。問題の異常行動の発生頻度は低いから、おそらく被験者数千人規模の実験が必要になるだろう。
 しかしこんな人体実験などできないことは自明の理である。第一、健康な若者にタミフルを投与するなど人道に反する行為である。だからインフルエンザでもないのに早まってタミフルが処方されてしまったような特殊なケースの集積が大切となる。(実際に、インフルエンザと確定しないうちにタミフルが処方されて異常行動を起こした例が1例報道されていたが、これも偽薬効果を完全には否定できない。とにかく例数が足りない。)
 十分な人体実験ができない以上、タミフルと異常行動の因果関係について十分な確信を持って対策を立てることは出来ないのであって、このことをマスコミも一般の国民の方々も理解して頂きたい。もしも本当はタミフルが異常行動の原因ではなかったにもかかわらず、その投与を禁止してしまったために、インフルエンザそのものによる死亡が増加するという事態が起こったら取り返しがつかない。

 さて今回のタミフル騒動では、一部の研究者が発売元のロシュ社傘下の中外製薬から研究費を受け取っていたということも国民やマスコミの不信感を煽ったが、これもまた難しい問題である。我が国においては製薬会社などの企業が研究費を提供しなければ、真面目に仕事をしている研究者たちはたちまち資金難に陥ってしまい、日本の科学研究(医学も含む)は世界から大きく立ち遅れることになるだろう。日本の貧困な科学行政にもメスを入れるべきだ。
 しかし企業から資金を受ければ、研究内容は中立を保てなくなるのもまた事実である。医学の世界も最近ずいぶん論文の不正や捏造が騒がれるようになり、欧米には“医学論文”を研究した論文まである。捏造したデータには独特の数字の繰り返しがあるとか、統計学的な検定を意図的に違えてあるなどという事自体を研究しているのであるが、そういう論文の中に、企業がスポンサーになっている研究論文では結果に偏りがあると指摘したものもある。やはり疑惑を招くようなことは、いずれ正していかなければならないだろう。(もちろん厳正中立な研究費予算の確保もまた同時に進めるべきであるが。)


ありがたみ…

 この写真は何だかお判りだろうか。一番右側に文庫本を1冊、大きさを比較するために置いてあるが、そこから左へ順に、3.5インチのフロッピーディスク(黄色)、続いてそれぞれ5.25インチと8インチのフロッピーディスクである。

 私が小児科から東大の病理学教室に移籍したのは昭和59年の夏であったが、その頃はまだPC98というコンピュータが全盛の頃で、アイコンで動くパソコンなど誰も見たことさえなかった。当時の東大病理学教室の教授は
浦野順文先生だったが、東大医学部教授などという硬い職業の割には新しい機械などの利用に積極的で、このPC98なるコンピュータが教室にも2〜3台導入されていて、それを使った解剖例や手術例の統計的解析などを手がけておられた。

 私も(年齢は食っていたが)新入教室員としてこの仕事を手伝ったが、その時に使ったのが一番左端にある“8インチフロッピー”である。文庫本の表紙の3倍の面積を持つ紙製ケースに収められた磁気円盤は、駆動装置にセットして演算実行命令を“キーボード入力”すると(“クリック”ではない)、カチャン・コン・カチャン・コン…と悠長な音を立てて回転し始め、当時としては信じられないくらいのスピードでデータを処理してくれたものである。たぶん“カチャン”で円盤を1区画回し、“コン”で磁気データを読み出したのだろう。

 ではその頃の私はどんな仕事をしていたのか。過去20数年分の東大病院の手術例を疫学的に整理するお手伝いだったが、ある疾患についてせいぜい2000〜3000例のデータをフロッピーに入力しておいて、男女はそれぞれ何人とか、どういう年齢分布をするかといった単純な集計作業が多かった。データさえ揃っていれば、現在ならExcelか何かのソフトを使ってクリック1発で瞬時に終わる作業である。
 しかし当時は、例えば2000件のデータから男性だけ抽出しようとすると、面倒臭いコマンドをキーボードから打ち込んで機械をスタートさせる、すると例によってカチャン・コン・カチャン・コンと始まるので、自分の部屋に戻って、その日の担当の病理標本を顕微鏡で観察して所見を記載し、コーヒーを1杯飲んでから機械の前に行くと、そろそろデータが出ているのであった。
「2000件のデータのうち男性は1200件」
というのが出てくると、今度はそのうち50歳代の男性は…、カチャン・コン・カチャン・コン…、続いて40歳代の男性は…、カチャン・コン・カチャン・コン…。

 とにかく今から見れば、果たしてあれは“コンピュータ”と呼べるような代物だったのかと思えるほどドン臭い機械だったが、それでも当時はこれこそ最新の機器であると頭から有難がって使ったものであった。
 何しろそれまでは同じ作業をしようとすると、何年分もの台帳を片っ端からページをめくって必要事項をメモっていくか、せいぜいパンチカードを使うくらいしか方法が無かったのである。パンチカードというのは、厚紙のカードの縁に幾つもの小さな丸穴が開いていて、データ1件あたり1枚、男性なら“男性”の丸穴がパンチされて切り落とされている。この何十枚ものパンチカードを束にしておいて“男性”の丸穴の箇所に棒を突っ込んで持ち上げると、男性のデータだけは丸穴がパンチされて(かじられて)いるので下に落ちてしまうが、女性のカードは“女性”の丸穴だけがパンチされているので落ちない。そこで下に落っこちたカードを拾い集めて、男性は何人と計測するのである。当然カードが2000枚もあると重くて持ち上がらないから、100枚ずつくらいに分けて数えることになる。

 この従来のおそろしくドロ臭い原始的な方法に比べれば、カチャン・コン・カチャン・コンのコンピュータはまさに文明の利器であった。しかしこんな時代を知っている私ですら、最近のWindowsパソコンがスイッチを入れてから
30秒以上もなかなか立ち上がらないと言ってイライラし、Excelが3000件のデータのグラフを描くのに10秒もかかったとブーブー文句を言っているのだから、人間とは何と身勝手な生き物であろうか。

 思えば日本全国に鉄道網が整備されつつあった明治時代、“汽笛一声新橋を”離れた汽車で東海道本線を旅してきた乗客の感慨を鉄道唱歌は次のように歌っている。
   おもへば夢か時のまに 五十三次はしりきて
   神戸の宿に身をおくも 人に翼の汽車の恩

ああ、何という奥ゆかしさ。新橋から神戸まで歩かずに旅ができたのは、汽車の恩であると感謝しているのである。当時の汽車など、新橋−神戸間は“思えば夢か時のまに”どころではなかったであろう。東海道本線開業時(1889年)、その所要時間は20時間5分だったそうである。ところが最近では、新幹線が
5時間も遅れるとマスコミの記者たちは“乗客は車内でグッタリ…”などと報道するようになってしまった。私も台風による土砂崩れで新幹線が名古屋から東京まで12時間もかかった時はイライラした。明治の人たちならば12時間で来れた、人に翼だと大喜びしたであろうに…。

 どうも先進国の人間は「ありがたみ」という言葉を忘れてしまったように見える。自分の欲する物は即座に完璧に得られるのが当たり前だと思ってしまい、しかもそれを“機械の恩”とも思わなくなってしまった。音楽が聴きたきゃ電車の中でも聴ける、電話がしたけりゃ歩きながらでも掛けられる、都会ならばあちこちに自販機もありゃコンビニもあり、自分の欲しい物を30分以上我慢する必要はなくなった、こういう自販機やコンビニに24時間品物を揃えておけるのもトラックという機械のお陰である。

 汽車が走って有難いと思えた昔の人、東海道新幹線に「のぞみ」号が増発されても当たり前としか思わない今の人…。その違いはいつ頃から生じたのだろうか。おそらくこれは機械に対してだけではないだろう。自分の周りに人がいてくれる、その有難みも感じなくなってしまった人が多くはないか。家族や友人や同僚が自分の周りにいて当たり前、自分の欲求を満たしてくれて当たり前、しかしそういう周りの人たちに対する感謝の気持ちはない。どこで現代人は変わってしまったのだろうか。どうも私が生きてきた時代のどこかに何かの原因があったように思う。


私と写真

 5月連休のある日、鳥の鳴く声に朝早く目覚めて窓の外を眺めたら、西の空に月が沈みかけていた。夜更けに見た時は煌々と光を放って夜空に輝いていた月も、明け方には昇る朝日に主役を譲った淡い影でしかない。

ほととぎす 鳴きつる方を眺むれば
    ただ有明の月ぞ残れる


百人一首に選ばれている後徳大寺左大臣(本名は藤原実定で、百人一首の撰者である定家のいとこ)の和歌そのままの情景に思わず一人で笑ってしまったが、残念ながら私には平安末期から鎌倉初期に活躍したこの歌人に対抗して歌を詠む才覚はないので、さっそく愛用のデジカメを取り出して、眠い目をこすりながら取りあえず1枚シャッターを押した。しかしこれだけズームを掛けるなら三脚に固定した方が良いと思い直して、ゴソゴソと部屋の片隅から三脚を引っ張り出したが、モデルの方は三脚を待ってくれず、さっさとマンションの屋根の向こう側へ沈んでいってしまった。

 この写真が百人一首の和歌のように何百年も残るはずもないが、現代人にとってカメラはある瞬間の情景を凝集させて写し取る手段の一つであろう。昔の風雅な人々なら言葉を操って和歌や俳句を詠み、詩を綴ったのだろうが、現代の我々は便利な機械に任せてかなり“手抜き”をしているわけである。

 私が初めて持ったカメラはフジペットというバカチョンカメラで(バカでもチョンでも写せるという意味らしいが、あまり良い言葉ではない)、針穴写真機の原理を応用しているので距離を合わせる必要はなく、また露出やズームなどの面倒な装置もなく、フィルムを手動で巻き上げたら被写体にレンズを向けて、先ず@のボタンを押し、次にAのボタン(たぶんシャッター)を押せば写真が撮れるという、至って操作が簡単な小学生向けの玩具みたいなものであった。

 その後、私の成長と共に日本の光学機器メーカーも成長して、より性能の良い機種が比較的安価に買えるようになり、中学・高校の頃は手頃なポケットサイズのカメラを持ち歩いて、クラス旅行やクラブの合宿などで友人や先輩・後輩たちを撮っていた。ただしこの頃はカラーフィルムは非常に高価で、しかも現像に時間がかかったので、白黒フィルムによる撮影が主体であった。
 私が最初に写っているカラー写真は、中学3年の修学旅行の時、奥入瀬渓谷の紅葉をバックに友人が写してくれたもので、これは当時はなかなかの貴重品だった。何しろその頃はカラー写真の現像は日本でできず、フィルムをいちいちアメリカに送っているという話だったし、白黒写真の現像が1枚10円に対してカラーの現像は100円もした。私自身が初めてカラーフィルムを使ったのは高校2年の修学旅行の時で、その2〜3年の間にカラー写真のコストもかなり下がっていた。

 大学に入ってからも友人と旅行するたびにカメラを持って行ったが、それは高校時代から使っていた機種だった。しかし大学時代に気が合って最も頻回に一緒に旅行をした友人が写真部に所属しており、大型の一眼レフのカメラを使っていた。(恥ずかしながら私は当時、一眼レフという言葉を知らなかった。)その機材も羨ましかったが、彼の撮る写真は構図が見事に決まっていて、私のカメラを使って同じ物を撮影して貰っても、私が撮った写真とはまったく別物であった。要するにファインダーの使い方が私よりも格段にうまいのである。私は彼の一眼レフの機材以上に、その撮影技術が羨ましかった。

 大学を卒業して小児科医になってみると、彼と一緒に旅行した経験が大変役に立つことになった。医師は時々患者さんの症状を記録するために写真を撮影しておくことがあるが、ファインダーの使い方を研究していたから、私が撮った写真はまず失敗がなかった。もちろんデジカメなど無い時代であるから、撮影直後に画像をモニターで確認などということはできない。現像が出来てからピントがボケてたり、構図が片寄ってたりしても後の祭りである。しかも私の患者さんの場合、ほとんどが赤ちゃんであったから、決してじっとしていてくれない。泣き叫びながら手足をバタバタさせる“患者さん”でも、構図を決めるファインダーの使い方やシャッターを押すタイミングについて、学生時代に友人を模倣して研究していたことが大いに役立った。

 大体、あまり上手でない人が人物写真を撮ると、人物の顔を中心に持ってくるので(これは日常相手を見つめる時の網膜の視野である)、現像された写真の対角線が交わるあたりに人物の顔がきて、画面の上半分は間が抜けてしまう。また人物の全身を撮るときも顔が中心となるから、人物の姿は画面の下半分にこじんまりと写って、豆粒のようになってしまう。
 全身像を写す時は、モデルの臍のあたりがファインダーの中央にくるように構えて、頭と爪先が上下にはみ出すくらいに接近して(あるいはズームをかけて)撮影するのがよい。零戦の撃墜王だった坂井三郎さんによると、初心者は空中戦の時、かなり遠くから敵機に向けて弾丸を発射するが、ベテランは照準器(ファインダー)からはみ出すくらいにまで敵機に近づいてから撃つということである。人物の撮影も同じだなあと思い当たった。

 そういうわけで私は患者さんを含む人物の撮影に失敗したことはない。もちろん写真展で評価されるような傑作は撮れないが、それなりにその人の表情や雰囲気や性格などを写し取って、写真を差し上げた相手から喜ばれる程度のものは残せる。
 ただ昔のアルバムなどを眺めていると、人物を撮影した写真が極端に少ない時期があったりして(そういう時期は風景写真が多い)、ああ、あの頃は人間嫌いになっていたなあ、と苦い思いがよみがえってくるが、今となってはそれはそれで私の心の軌跡でもある。

 最近では人物写真でもなく、風景写真でもなく、先ほどの有明の月のように、これは面白いなあとふと思った時に、取りあえずシャッターを押すという機会が増えてきた。昔の歌人や俳人が矢立と筆を取り出して、情景や心境を五・七調で書きとめたのと似ているかも知れない。
 所詮は人物も風景も一期一会、自分の心が何か感じることも一期一会。これからの自分の人生がどれくらい残っているか知らないが、あの時の自分の心はこんなだったと後から振りかえることができるような写真を残しておきたいと思う昨今である。


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