ウィーン:シュテファン寺院

 最近、いろいろ不思議な縁で、ウィーンで育った女子大生の方から時々メールを頂くようになったので、またウィーンの思い出を書いてみようかと思う。私たち夫婦がウィーンを訪ねたのは1996年の秋のことだった。その時はブダペストでの国際学会からのウィーン入りだったので、どうしても旧東欧圏との比較で、ウィーンの軽妙洒脱で自由闊達な雰囲気ばかりが目についてしまったが、この女子大生の方とメールのやり取りをするうちに、この国にもそう遠くない過去に非常に重たい歴史があることを知るに至った。

 ところでこの写真はウィーン市内最大の観光名所、シュテファン寺院(Stephansdom)である。シュテファン広場と呼ばれる場所に建つゴシック寺院だが、広場とは言っても周囲に多くの建物が並ぶ小さな空間なので、とてもこの巨大な寺院の全景をカメラに収めることは不可能である。画面中央にカミさんが立っているが、背景の巨大な尖塔を持つのがシュテファン寺院、右手手前の建物は寺院とは関係ない。

 シュテファン寺院についてはウィーンの観光案内書や、いろいろな旅のサイトに詳しく述べられているので、そちらを参照して頂くことにして、ここでは先ずカミさんとこの寺院との不思議な因縁について書いてみる。
 私自身がウィーンを旅したのはこの時ただ1回だけだが、カミさんは海外演奏活動でそれまでも何度かこの音楽の都を訪れたことがあった。それでカミさんから何度も不思議そうに聞かされた話なのだが、カミさんはこのシュテファン寺院の中に入るたびになぜか突然悲しくなって、涙がボロボロこぼれるのだという。オーケストラの同僚や音楽の偉い先生と一緒にいても、必ずこの寺院に入ると悲しみを抑えられないらしい。
 誰か前世で好きだった人が葬られているんじゃないの?などと言いながら、私も軽い気持ちでカミさんと一緒に寺院の内部に入ったが、何と、本当に不思議なことにカミさんは涙で顔じゅうクシャクシャにしていたではないか。でも寺院から一歩外へ出ると、その悲しみは去るのだそうだ。

 私はさっそくこのことを例のウィーン育ちの女子大生の方に書いてみた。すると彼女の返事は:

ハプスブルグ帝国時代(特にマリア・テレジア女帝時代)の、一般市民を踏みつけにしたムチャクチャな国政がもたらしたたくさんの犠牲者の怨念がしみついている場所です。
もっと後の時代だと、ナチスドイツがオーストリアを併合した時、寺院に籠城して最後まで抵抗し虐殺された大勢の民衆の、無念な思いが未だにうようよしていると思います。


とのことだった。どうもカミさんの心はこういう時代に非業の死を遂げた人々の悲しみと時空を越えて共鳴するらしい。しかし音楽一筋のパッパラパーのカミさんのことだから、そんなオーストリアの歴史的知識の一片さえなく、実に不思議なことである。

 そういえばある美術系の人も不思議なことを言っていた。これは東京の○○通り(名前を出すと怖くて行けなくなる人もいるだろうから伏せておく)あたりを子供の頃に訪れた時、焼けただれた遺体の山や、ボロを来て無表情に佇む子供の姿が写真の二重写しのように見えたらしいが、そこが東京空襲の跡地であったことを知ったのはずっと後のことだったという。
 私はこういうのは、いわゆる霊体験というよりも、音楽でも美術でも芸術系の人の心は時空を越えて過去の人々の激しい感情と共鳴するほど研ぎ澄まされているのではないかと思っている。そんなバカなと笑う人も多いと思うが、時間と空間は別々のものでないと最新の物理学者たちも考えているではないか。


 ところでナチスドイツによるオーストリア併合の話だが、これは有名なミュージカル「The Sound of Music」の舞台にもなっている。以下は私自身があちこちのサイトを調べ歩くうちに段々判ってきたことだが、どうもオーストリア人はあのミュージカルをあまり観たくないらしいのだ。
 ミュージカルによれば、オーストリアはナチスドイツに強制的に併合され、主人公のフォン・トラップ大佐にもドイツ海軍から出頭命令が来る。しかしナチスへの抵抗から、トラップ大佐の一家は音楽祭にまぎれて故国を脱出するというストーリーだったが、どうもこのあたりがあまりに奇麗事すぎて、多くの古いオーストリア人にとっては触れられたくない歴史的な古傷であることのこと。

 確かにオーストリア人市民の中にはナチスに抵抗して起ち上がり、寺院に籠城して虐殺された者も少なくなかったであろうが、オーストリア政府としてはむしろ親ナチス的であり、ユダヤ人問題に関しても完全に潔白ではないのだ。ただ戦後は、ナチスドイツに“強制的に”併合されたという、いわば被害者の立場を強調することによって戦争責任を問われずに済んできた面があった。そういう後ろめたさから、オーストリアでは1980年代頃までは第二次世界大戦前後の歴史教育をしてこなかったと書いてある本もある。まあ、アジアのどこかの国と似ていなくもないが…。
 ただ日本と決定的に違っていたのは、第二次世界大戦での自国の歴史に後ろめたさを感じる世代から、戦後の新しい世代へと指導者や教育者の交代が進むにつれて、自国の歴史の栄光も恥部もすべて客観的に問い直し、真実を次の世代に伝えようという動きが強まったことだ。その新しい歴史教育の成果は、ウィーン育ちの女子大生から頂いたメールを読めば明らかである。

               帰らなくっちゃ