高所恐怖症

 ここは横浜マリンタワー、高さ106メートルの展望台は東京スカイツリーや東京タワーに比べて特に高いというわけではありませんが、横浜の山下公園周辺には超高層ビルがニョキニョキ林立しているわけではないので視界を遮られることもなく、近くは港湾に出入りする船舶や横浜ベイブリッジ、遠くは富士山や都心方面の景色などの眺望を楽しむことができます。

 ところでマリンタワーの展望台を下からよく観察すると、赤い矢印でお示ししたように、床の一部に長方形の窓のようなものがあります。これってもしかして…いや、もしかしなくてもタワーの頂上から下界を覗き込む窓(ガラス床)で、こういうアミューズメント施設を計画する人なら誰でも設計する構造だと思います。東京タワーにも145メートル下方を覗けるガラス床が、さらに東京スカイツリーにも倍以上の340メートル下方を覗けるガラス床があるそうですが、私は気が付かなかった…。いや、別に怖かったわけではなくて、スカイツリーは夜だったし…(笑)。

 マリンタワーのガラス床から下界を覗くと、根本の円形のビルと付近の道路がこんな感じに見えます。別にガラス床の上は立ち入り禁止ではありませんでしたし、1平方メートル当たり数百キロの重量が加わっても大丈夫な強度が保証されている、つまり大相撲の力士が4人飛び乗って四股を踏んだってビクともしないことくらい分かるのですが、やっぱりこのガラス床の上を歩くのはちょっと勇気が要る(笑)。私が登った時も展望台には20人くらいのお客さんがいましたが、誰もチャレンジしてませんでした。

 しかし私の感覚では、これは厳密には高所恐怖症というものではありません。これが高所恐怖症なら、飛行機に搭乗して下界を眺めて味わうスリルもまた高所恐怖症と呼ばなくてはいけなくなります。基本的に安全を保証されている高い場所から下界を眺めた時に感じるのは、単なるスリルとかエンターテインメントと同じものです。

 ではマリンタワーや東京タワーやスカイツリーの展望台にバンジージャンプの施設があって、自分がいる空間と外界との間を隔てるガラスが無かったら、あるいは搭乗した飛行機が自衛隊の空挺部隊(パラシュート部隊)の輸送機だったり、スカイダイビングを楽しむ人たちの遊覧飛行機だったとしたら…。

 命綱のロープだとかパラシュートなどの“安全装置”を装着せずに外へ飛び出せば、まず間違いなく地上に激突して敢えない最期を遂げるでしょう。こういう状況で感じるのがいわゆる“高所恐怖症”だと私は思っています。

 以前訪れたことがある東京ゲートブリッジです。歩道から60メートル以上も下の海面を覗き込むと、生命喪失に対する根源的な恐怖に襲われると書きましたが、これこそ私の言う高所恐怖症です。ゲートブリッジの歩道には大人の腰の高さくらいの手すりしか設けられておらず、お台場のレインボーブリッジのように海側がフェンスで覆われていないので、故意または事故にかかわらず、自分の身体が向こう側へ転落する危険な状況は現実味を伴って感じられる。だから生命喪失の根源的な恐怖につながるわけです。

 私は二度とゲートブリッジを徒歩で渡りたいとは思いませんね。あの記事の最後に、橋の対岸に新しい街路が完成したら、そこを経由してお台場や大田区方面へ歩きたいなどと書いてますが、あれはウソです(笑)。第一あの記事を書いている最中にも、思い出すと全身がゾワゾワッと総毛立つなどと白状していたのですから…。

 さて二度と徒歩で渡りたくない橋をもう一ヶ所発見してしまいました。埼玉県にある秩父公園橋(秩父ハープ橋)です。秩父市街と秩父ミューズパークをつなぐ全長153メートル、地上からの高さ40メートルの橋で、高さからいうと東京ゲートブリッジにも及びませんが、下界の景色はなかなかのものです。

 荒川上流の流れに架かるもう一つの橋が、ご覧のようにまるでドローン映像みたいに望めるのですね。しかも東京ゲートブリッジ同様、歩道の手すりは大人の腰の高さしかないので、やはり歩道を歩いていると、転落の恐怖は現実のものとしてヒシヒシと迫ってきます。

 もし手すりの向こう側へ飛び出したら2〜3秒後には荒川の水面に激突する、その2秒ちょっとの間に人間は何を思うのだろうか、そんなことを考えるだけで居ても立ってもいられないくらい恐ろしくなって、何ヶ月も前の話なのに、この写真を見ただけで体が震えてしまいます。まさにこれこそ私の高所恐怖症!

 そもそも秩父ハープ橋は物凄いロケーションの場所に架けられています。これはハープ橋の上から見えた“普通の橋”の近くから見た写真ですが、何の変哲もない秩父の山里の風景の中に、高さ85メートルものこんな巨大な1本の主塔が唐突に聳え立ち、そこから何本ものワイヤで橋が支えられています。上から見下ろしても、下から見上げても、確かに物凄い景色ですよ。こういう絶景に巡り会って震え上がるのも徒歩旅行の醍醐味ですかね。自動車でパアアッと渡るだけなら、身近にこんな場所があるなんて気付かなかったでしょう。

 さてこういう高い所に行くと思い出すのが、小松左京さんのSF小説『さよならジュピター』(1982年)の一節です。舞台は22世紀、太陽への直撃コースにある小型ブラックホールから太陽系を救うために、木星を核融合反応で太陽化させてブラックホールにぶつけて進路を変えさせようという壮大なストーリーでしたが、木星の大赤斑に絡む異星人の大型宇宙船とか、火星の万年氷の下に眠っていた古代の巨大なナスカ絵とか、SF小説ファンにとっては空想をかき立てられる素材が満載だったのに、結局何一つ分からないまま物語が終わってしまう、まるで犯人のいない迷宮入りのミステリー小説のような印象しか残っていない作品でしたが、広漠たる太陽系の宇宙空間と、生命に満ち溢れる地球上という対照的な舞台を見事に描き分けた小松左京さんの筆は素晴らしかった。願わくは中途半端なストーリーがもう少し何とかならなかったのかねと未だに残念です。

 小松さんはこの作品の中で、地球上の生命進化を次のように述べています。太古の海の中で育ってきた動物が陸地へ進出するに当たって、重力による転落の危険は無視できなかったが、生命は敢えてその危険を冒した。人類が宇宙空間に進出しようとしているのもそれと同じことだと…。

 どうです、この対比は素晴らしいでしょう。陸上へ進出した際の“転落の危険”、なかなか印象的です。生命の上陸、これは植物にとっては主として乾燥や寒冷との戦い、動物にとってはそれに加えて重力による危険を克服する必要があったが、人類は高層建築を作り、空飛ぶ機械を発明して、安全を追及しながら重力に対抗してきたわけです。

 そして今や人類は宇宙へ…、月面や太陽系の探査は一段落して、いよいよ火星への有人飛行までが現実味を帯びてきました。“高さ”を恐れなくなった人類が新たな進化のステップを踏むためには、現代世界の深刻な戦乱と分断と異常気象をどうするかが鍵となりますね。高所恐怖症どころではありません。


         帰らなくっちゃ