キャンベラ (Canberra)

 私の初めての海外旅行は昭和52年(1977年)8月、行き先はオーストラリアでした。今でこそオーストラリアは新婚旅行の人気スポットの一つで、シドニー空港の通路には日本語の観光案内ポスターが目につくし、土産物屋には日本人アルバイトの姿もチラホラ見受けられますが、当時の日本はやっと海外旅行が一般的になりつつあったばかりの時代、それも行き先はほとんどがハワイかアメリカ西海岸、あるいはパリを中心とした西ヨーロッパがほとんどでした。観光旅行で赤道を越える人は非常にまれで、だからオーストラリアで黄色い顔の人間が歩いていると、お前は中国人か、シンガポール人か、ととても珍しがられたものです。

 ちなみに私が日本人だと判ると、今度は、お前はタナカの知り合いかと訊いてくる。何で俺の名前まで判るのかと思ったら、当時はロッキード事件が世界中を揺るがしていた時で、あの頃、世界で最も有名な日本人は、ロッキード社の飛行機選定に関して賄賂を受け取ったとされる渦中の人物、田中角栄元首相でした。
 俺が田中だと言うと、この列車はワシントンへは行かないよ、などとからかわれる、お蔭で旅行中は会話のネタを一つ余分に持っているようなものでした。



 この写真
はオーストラリアの首都、キャンベラ(Canberra)の中心、戦争記念館(Australian War Memorial)の正面からアンザック・パレード通り(Anzac Parade)を見下ろした光景、さらにその向こうにはバーレイ・グリフィン湖(Lake Burley Griffin)を挟んで国会議事堂(Parliament House)が見えます。

 キャンベラは初めて訪れた外国の首都、それも完全な独り旅で、本来ならばもっと鮮明な記憶が残っていてもよいと思うのですが、妙に印象が薄いのです。旅行中に私が書いていた手帳を見直してみると、1人の都市設計家(Burley Griffin氏)の頭の中に描かれた理想都市が、ほとんど立地条件の制限を受けずに、そのまま現出した人工の街なので、何となく実在感がない、と記しています。
 最近、シムシティ(SIM CITY)という都市作りのパソコン・ゲーム・ソフトがありますが、ちょうどそのゲームと同じです。ゲームでは土地の起伏を好きなように調整し、川や湖を作り、木を植えて森や林を作って都市の地形を完成させた後、そこに道路や鉄道を敷設し、官庁や公共施設を配置し、住宅地や商業地域や工業地域を指定して、あとは都市の発展を見守っていく、という展開になりますが、そのゲームとまったく同じことを93年前(1913年)に実地にやらして貰ったのが、Burley Griffin氏というわけです。川を堰き止めて作った人造湖の名前は、もちろんこの人から取ったものです。

 さらに私の手帳には、公園の中に街があると言った方が適当なキャンベラは、至るところに木々の緑と芝生があり、鳥が鳴いている、空気はきれいだし、人は少ないし、実にのんびりしている、とも書いています。徳川の理想都市江戸が370年後の現在(旅行した頃)、さまざまな問題で苦悩しているように、キャンベラもまた年月を経て歴史を重ねるにつれて、都市としての実在感を増していくのであろうか、とも偉そうに書いていますが、要するに観光客の目には苦悩の少ない天国のように写ったわけですね。しかし、住むならキャンベラよりもシドニーの方が良いという感想も、当時の私は持ったようです。

 実際に旅行中ですら実在感に乏しい街でしたから、その後、時を経るにしたがってキャンベラの印象はどんどん夢のように消えてしまいました。戦争記念館の前で写真を撮っていたら、国際結婚してキャンベラに住んでいるという女性から突然「こんにちは」と日本語で挨拶されたことなども、普通ならば私の旅の記憶にはしっかり残るはずの事柄なのですが、手帳を読み直すまでは完全に忘れてしまっていました。ふとした弾みに夢の出来事を思い出すことがありますが、あんな感じ…。



 ただ戦争記念館の展示だけはよく覚えています。やはり軍事マニアだからでしょうか(笑)。この写真
は旧日本海軍の特殊潜航艇です。何でキャンベラに日本の潜航艇があるのか、御存知でない方も多くなったでしょうね。
 太平洋戦争の劈頭、日本海軍は真珠湾攻撃を決行しましたが、航空母艦から飛び立った航空機だけでなく、5隻の大型潜水艦から発進した5隻の特殊潜航艇もまた真珠湾潜入を試み、少なくとも1隻は戦艦群雷撃にも成功したのではないかと言われています。
 その後、昭和17年5月31日夜、3隻の特殊潜航艇がシドニー湾に潜入、兵員宿泊用の船を撃沈しましたが、自らも帰還しませんでした。その際オーストラリア軍によってシドニー湾の海底から引き揚げられた艇体2隻分が組み合わされて、キャンベラの戦争記念館に展示されていたのです。
 特殊潜航艇は同じ5月31日夜、マダガスカル島のイギリス軍港にも2隻が潜入しましたが、これら緒戦における戦いでは、海軍上層部は乗員の生還を条件に出撃を許可、また母艦となった大型潜水艦もギリギリまで粘って乗員の回収を試みました。これが日本海軍本来の特別攻撃隊(特攻隊)のあるべき姿です。
 しかし潜航艇の乗員は、自分たちが大型潜水艦を目指して帰還しようとすれば敵に追尾されて、100名近い潜水艦乗員の生命までを危険に晒すと考え、自らの判断で最初から生還を期さない決死の出撃をしたのです。最後まで乗員の救出を試みた上層部と、母艦の同僚たちを道連れに巻き込むよりは自らの死を選んだ潜航艇乗員。これこそが我が国古来の自己犠牲の精神の発露だと思います。それに比べて戦争末期の“特攻隊”では、安易に部下に“自己犠牲”を強要した上層部の醜悪なこと…。(詳細は神風特別攻撃隊のページで)

              帰らなくっちゃ