神風特別攻撃隊
太平洋戦争の末期、日本陸海軍は爆弾を積んだ飛行機を人間に操縦させて、本土へ押し寄せる連合軍艦隊に体当たりするという、もはや戦法とも言えぬ戦法を編み出して組織的に実行しました。飛行機ばかりでなく、人間が操縦する魚雷やモーターボートによる体当たり、さらに陸上では兵士自らが爆雷を抱いて戦車に体当たりする戦法も行なわれていたのです。こうして多くの兵士たちが若い生命を散らしていきました。もちろん古今東西、若い兵士たちが戦死しなかった戦いなどありませんが、太平洋戦争末期の日本軍のように、若い兵士たちが命令一下、100%戦死するしかない作戦に組織化され、大挙して出撃していった例は他にないのではないでしょうか。私は幼少の頃から、この神風特別攻撃隊に関心を持って研究してきました。隊員に対する崇拝、指揮官に対する批判、そして日本人としての反省、それらを気のおもむくままにホームページに書き止めておこうと思います。内容は前後することもあるかと思いますが、後日機会があれば大幅に加筆・編集のうえ出版するかも知れませんので、恐れ入りますが、この内容をどこかへ公表されたいと思われる方がもしいらっしゃいましたら御一報ください。また私自身がどなたかの著作権を知らずに侵害している場合もお知らせくだされば幸いです。
2003.2.23 | 神風特別攻撃隊との出会い |
2003.2.23 | 日本人は自爆がお好き? |
2003.3.9 | 「同期の桜」 |
2003.3.10 | 突入の瞬間 |
2003.3.16 | 特攻を止められなかった日本人の精神構造 |
2003.3.17 | 中間管理職はいかに生きるべきか |
2003.3.30 | 「ダラ幹」の責任 |
2003.4.6 | 指揮官たちの二重の責任 |
2003.4.13 | 海軍は免罪されたのか |
2003.4.16 | 責任を全うするということ |
2003.4.22 | 戦史の裏側のウソ |
2003.4.24 | 本当の責任者たちは誰か? |
2003.5.10 | 回天と桜花のミステリー |
2003.7.4 | 悠久の世間体 |
2003.7.15 | 「桜花」ミステリー・再び |
2003.5.25 | 栗田艦隊について |
2003.6.8 | 昭和天皇と特攻隊 |
2003.4.29 | 歴史はめぐる |
2003.5.3 | 歴史の風化とは何か |
2003.9.7 | 特攻の町・知覧にて |
2003.9.27 | 特攻隊伝承の原点 |
2003.10.21 | 日本のリーダー教育への提言 |
2003.12.13 | 志願と命令 |
2003.12.28 | 特攻花の物語 |
2004.1.12 | 特攻隊を美化する危険性 |
2004.2.11 | ホタルの変遷 |
2004.3.9 | まだ見ぬ若者たちを”特攻”で死なすな |
2006.9.16 | 「藪の中」なのか |
神風特別攻撃隊との出会い
出会いと言うのも変だが、私が初めて神風特別攻撃隊を知ったのは小学校3年生の頃だった。家の近所に子供たちを自宅に集めて絵や工作を教えている先生がいたが、絵の具が乾くまでの間、隣の部屋に置いてある週刊少年漫画雑誌を読み耽ったものである。当時は少年マガジンに続いて少年サンデーが発刊され、現在の漫画週刊誌文化の先駆けとなっていたが、今にして思えばそれらの出版に携わっていたのは戦前の軍隊経験者や、軍隊経験はなくても軍国少年として幼少時期を送った人たちだったのだろう。少年漫画誌の記事にも、戦艦大和とか零戦・隼戦闘機などが毎週のように登場して、我々戦後の少年たちも心をもときめかせながらそれらを読んだのである。灼熱の照りつける太陽も日没には美しい夕映えを見せてくれるように、十数年前に国民を惨禍に追いやった軍国の嵐も、その時は心温まるような美談や武勇伝だけが残っていたのかも知れない。
こういう戦争の記事の中に神風特別攻撃隊というのもあった。しかし私はこれを何となく敬遠した。隊名からして小説か映画のような作り物のように思えたからだ。だがついにその家にあった少年漫画雑誌は全部読み終えて他に読む記事がなくなってしまったので、最後まで残っていた神風特別攻撃隊の物語に目を通した。そして私の記憶はここで途切れている。あまりにも大きな衝撃だったのだ。小学生だった私には、隊員が二度と帰らぬ攻撃に飛び立って行ったという事実を受け入れて、自分なりに整理することは不可能だったのだろう。ただ5機の零戦が洋上を飛んで行く挿絵だけはありありと脳裏に焼きついた。
中学・高校の頃は特攻隊関連の書籍や隊員の遺書などを片っ端から読みあさった。そして信じられないと言う方もいるかも知れないが、私はもし自分がその場面にいたら真っ先に志願したに違いないと考えるに至る。自分が戦闘機を操縦して祖国に押し寄せる敵艦に突っ込んでいく場面などを想像すると心が踊った。16歳から18歳くらいの時のことである。神風特別攻撃隊の最も若い隊員たちと同じ年齢だった。
しかし20歳の頃にある夢を見た。自分がこれから戦闘機乗りとして出撃する夢である。生還の確率は50%とされていた。怖かった。50%の確率でこんなに怖いなら、100%死ぬ運命を背負って出撃して行った実際の隊員たちはどんなに怖かっただろうと思った。自分ならニッコリ笑って死ねると本気で考えていた10歳代後半の自分は甘かった。
そして自分が30歳を越えて特攻隊出撃を考案・命令した立場の者たちと同じ年齢になってみると、特攻隊を生み出した日本人の精神的土壌を深く掘り下げて研究し、教育や広報を通じて改善していかなければ、同じことがこれから何度も繰り返される可能性があると気付いた。例えば部下を特攻隊に送り出して自分は戦後栄達した上官と、国民に構造改革の痛みを押し付けながら自らの天下り先のポストを確保しておく官僚との精神構造にどれほどの差があるのか。医療事故が起こっても上級者は安穏として現場の若手医師や看護婦が訴えられるのも同じかも知れない。10歳代から現在まで、自分の年齢に合わせて特攻隊に関与した人々に思いを馳せてきたことによって、私は特攻隊の歴史に日本人の縮図を見たような気がする。そんなことを断片的に書き止めておきたい。
日本人は自爆がお好き?
神風特攻隊のパイロットたちは飛行機に爆弾を抱いたまま敵艦に体当たりして散華した。日本軍の場合、特攻が正式の作戦として採用される以前から、というより緒戦の勝ち戦の頃からパイロットたちは非常脱出用のパラシュートを搭載するのを潔しとしなかったと坂井三郎氏(元ゼロ戦パイロットの撃墜王)の記録にもあるから、最初から特攻と決まった者にとっては目的を成就した瞬間、自らの死もまた確実であった。そこには万に一つの生還のチャンスさえなかった。これは太平洋戦争末期のあの時代だからこそ考え出された特異的な戦法だったのだろうか。いや、これは日本人の普遍的な考え方の底に流れるあるひとつの美学が、状況の切迫に伴って表面化しただけと思われるのである。
自分は死んで味方に有利な戦況を切り開く、あるいは自分の身を犠牲にして他の多くの者を助ける、という場面は、いくつかの日本文学や映画などの中に見ることができる。例えば有名な宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」を見ると、主人公ジョバンニは親友のカンパネルラと共に銀河鉄道で旅するのだが、この列車は他人のために身を投げ出して死んだ者を天空に運ぶためのものなのだ。ただしこの小説では自己犠牲で死んだ者の魂が天空へ行くという、欧米人でも納得のいく設定と言えるが、同じく宮沢賢治の「グスコー・プドリの伝記」では、主人公のプドリは火山島を人工的に噴火させて旱魃を防止するためにただ一人島に残り、爆破スイッチを押して自らは生命を落とすところで小説は完了している。まさに特攻隊員の精神の原型がここにある。特攻隊員たちの遺書を見ると、自分の死後に日本が勝って、あるいは日本が生まれ変わって父母や弟妹たちが幸せに暮らすことを夢見ながら出撃した者が多い。プドリもまた、子供の頃の旱魃で家族と離れ離れになって辛酸を舐めた自分の境遇が再び皆の上に降りかからないことを祈りながら火山島に残って死ぬのである。
しかし戦前の宮沢賢治を見るまでもなく、戦後には特攻隊をもっと髣髴とさせる形で生命を落としたヒーローたちがいる。その1人は手塚治虫原作の鉄腕アトムだ。ロボットを1人というのもおかしいが、あまりにも人間的なのでそうしておく。テレビ放送の最終回(1966年)、アトムは活動を増した太陽を沈静化すべくロケットに鎮静剤(?)入りのミサイルを積んで出発するが、発射直前のアクシデントでミサイルが撃ち出せなくなる。仕方なくアトムは自らが鎮静剤を抱いて太陽に自爆するのだ。まさに特攻隊ではないか。当時の少年たちの多くがこの場面に感動したことは事実である。
また1978年に公開されたアニメ映画「さらば宇宙戦艦ヤマト愛の戦士たち」でも主人公の古代進と森ユキはヤマトと共に白色彗星帝国の巨大戦艦に向けて特攻自爆する。私はもうアニメは卒業していたが、親類の子供は泣きながら見ていたという。またこの映画を話題にしたインターネットのウエブ上でも「感動した」「泣けた」という意見(おそらく私より若い人たち)の方が圧倒的に多い。主人公が100%の確実な死と引き換えに多くの人々を救うというモチーフは、日本人の心に不思議な共感を呼び起こすらしい。歴史を遡っていくと、赤穂浪士、楠木正成・正行親子などは、実際の姿がどうだったかは議論の余地はあるが、少なくとも人々の心に語り継がれてきた人物像は現在のアトムや宇宙戦艦ヤマトにまで連なるのではなかろうか。明治時代になって国民国家という概念が生まれる以前では、主人公が生命を捧げる対象が主君や家や天皇だったという違いはあるものの、個人よりもっと大きな価値がある何かのために生命を投げ出す行為に日本人は弱いのである。忠君愛国のスローガンを徹底的に叩き込まれ、楠木正成や忠臣蔵の物語を幼い頃から聞かされてきた戦前の子供たちならいざ知らず、戦後の民主主義教育で育ってきた日本の子供たちまでが鉄腕アトムや宇宙戦艦ヤマトの最期を感動して受け入れる素地があることに私は改めて驚きの念を禁じえない!
日本の映画やドラマの製作者にはこの日本人の心情を利用する人が多いと思われる。筋書きに行き詰ったら主人公を特攻隊に出すのだ。戦争中の話でなくても主人公が平和のため、社会のため、その他とにかく何か善なるもののために自ら生命を投げ出せば観衆の感動を取れる可能性が大きくなる。007やランボーやインディ・ジョーンズのようにどんな危機からでも必ず目的を達して帰って来る不死身の主人公は日本にはあまりいない。こんな日本の主人公を皮肉ったようにも見える映画があった。「エイセス(Aces)」(1991年)という飛行機の映画で、航空ショーなどで第二次大戦中の模擬空中戦を演じて興行する日米英独の元エース4人の話なのだが、ひょんなことから南米の麻薬組織の新鋭ジェット戦闘機に対して戦いを挑む破目となり、それぞれ零戦、P38ライトニング、スピットファイア、メッサーシュミットの旧式の戦闘機を駆って出撃する。英独のパイロットは撃墜されてもしぶとく脱出するが、千葉真一演ずる日本のパイロットは空中で被弾するや麻薬組織の輸送機に体当たりしてあっけなく死んでしまう。さすがにここまであからさまに描かれれば日本人としては面白いはずもなく、興行成績も同種の映画と比べてかなり低かったようだ。
実際の戦争でも欧米のパイロットは撃墜されたら敵の捕虜になってでもしぶとく生き残ろうとしたのに対して、日本のパイロットは基地へ帰れなければ自爆するように教え込まれていたといい、このため助かったかも知れない多くの優秀な人材が簡単に死んでしまったと坂井三郎氏は嘆いていた。
日本人が個人より大きな価値のもののために生命を投げ出す心情を利用したのが特攻の計画者たちであろう。欧米ならば個人より大きな力を持ったものが個人を保護するのが当然なのに、日本では古来この価値観が逆転しているのである。しかしいかに日本人が欧米人以上に自己犠牲の美徳を有していたとしても、若いパイロットたちを組織化して特攻隊を次々と編成するためには、さらに死の恐怖や生への執着という動物的な本能のハードルを越える必要があった。
ここで特攻自爆した戦後のヒーローたちを見てみると、鉄腕アトムも宇宙戦艦ヤマトも奇怪な転生・復活を遂げているのが気になる。アトムが太陽に自爆してTV放映が終了してからしばらく経った頃、ある少年雑誌に次のような不思議な後日談が特別篇として掲載されていた記憶がある。アトムが自爆した時、たまたま太陽系を通りかかった宇宙人がアトムを救助して修理してくれたのだという。その後の筋書きがどうだったかは覚えていないが、文字通り分子を原子(アトム)にまでバラバラにする太陽の高温の中からアトムを救い出すなんて出来るわけないじゃないかと思ったものだ。きっとあまりに荒唐無稽だから筋書きも覚えていないのだろう。
宇宙戦艦ヤマトにいたってはお話にもならない。もともと自爆したのは劇場上映用のヤマトであって、テレビ放映シリーズ用のヤマトはその後も続くのである。あっちのヤマトは死んだが、こっちのヤマトは生きてるというわけだ。アトムといい、ヤマトといい、特攻自爆したはずのキャラクターがどこか別の次元に生き返る、あるいは生き残る。戦後の二大ヒーローが同じような「輪廻転生」を見せたのは決して偶然ではないと私は思う。
作家にとって自分が生み出した人気キャラクターは大切な財産のはずだ。何度でも使い回したい気持ちは解るが、それならそんなに安易に特攻自爆させるなよと言いたい。007のように爆破した敵の要塞から美しいヒロインと共に間一髪で生還させればいいじゃないか。幼少時の私の記憶に残っている限り、特攻自爆して本当に二度と再び帰らなかったのは藤子不二雄の「海の王子」(少年サンデー:昭和34年)だけだったかな。はやぶさ号という万能ロケットを乗りこなす海底王国の王子は、最終話で敵の不死身の巨大ロボットとそのコントロールセンターに対して美しい妹と共に自爆するのだ。もっともその後の藤子不二雄の漫画家としての活躍ぶりを見れば、マイナーなキャラクターだった海の王子を復活させる余裕も必要もなかっただけなのかも知れないが‥‥(もしオバQやドラエモンがいなければ海の王子も生き返っただろうか?)。
さて何を言いたいのか。つまり簡単に言えば、日本人の心情においては特攻自爆では主人公は死なないのである。日本の子供たちは代々幼い頃からこの強烈なメッセージを受け続けてきたのではなかろうか。一種の洗脳でもある。国のため、主君のため、お家のために自発的に生命を捧げた者は永遠に顕彰され続け、人々の心の中にずっと生き続けることが出来るという強烈なメッセージ。例えば鉄道唱歌の2番は次のようだ。
ここは品川泉岳寺、四十七士の墓どころ
雪は消えても消え残る、名は千載の後までも
こうして事あるごとに、個人よりも大きな価値のために進んで死んだ者たちは立派だ、永遠に名前が残って後世の人々に称えられるのだ、と吹き込まれ続ければ、戦時中の特攻隊に指名された者が死の恐怖を乗り越えるための大きな心の支えになったことは間違いない。まして作家が自分の作り出した大事な架空のキャラクターを特攻に出すなど、何ほどのことでもないのだ。観衆や視聴者は却っていつまでも彼らのことを覚えていてくれると考えたのではないかと思う。007のように敵の要塞を破壊した後で美女といちゃついているようでは駄目なのだ。
個人の楽しみを後回しにして、それどころか自分自身を殺してまでも国のため、社会のため、会社のため、家族のために目標に邁進するのは崇高なことだと日本人が考えている限り(たとえ自分がそういう崇高な人間ではないにしても)、そしてそのメッセージを次の世代に対してさまざまなメディア等を通じて発信し続けている限り、再び特攻隊が編成されるような世の中が来るかも知れない。繰り返すが、欧米では個人よりも大きな力を持ち、したがって個人よりも大きな価値を持つものが個人を保護するのが当然なのである。だから個人の側にも自分を保護してくれる大きなものを守るのは自分自身が生きるためだという心が芽生える、それが本当の愛国心であり、愛社精神であるということを改めて胆に銘じておこうではないか。このことはまたいつか話題にすることがあると思う。
「同期の桜」
特攻隊の物語を思う時に脳裏に浮かぶメロディーのひとつが「同期の桜」で、これは他の多くの人たちも同じではなかろうか。戦記物や体験記などを読むと、あまりこの歌を皆で歌ったという記録が思ったほどは見当たらないので(むしろ童謡や民謡を歌っていた話はよくあり、その心情を思うと切ない)、実際の隊員たちが「同期の桜」を歌いながら出撃を待っていたかどうかは定かでない。しかしやはりこの歌には特攻隊の歌というイメージが強いので、今回は私の思い入れを書いてみたい。
私はこの歌はかなり早くから知っていた。例の図画の先生の家で神風特攻隊を知ったのと同じ頃である。家にあった小さなソノシートの軍歌集に載っていた歌詞などはすぐに暗誦してしまった。「作者不詳」となっていて、「不詳」という単語も生意気にも小学3年生の頃には覚えてしまった。その歌詞は次のとおりである。(ただし著作権の関係か、ソノシートには歌はなく、メロディーのみが録音されていた。)
一)貴様と俺とは同期の桜 同じ兵学校の庭に咲く
咲いた花なら散るのは覚悟 みごと散ります国のため
ニ)貴様と俺とは同期の桜 同じ兵学校の庭に咲く
血肉分けたる仲ではないが なぜか気が合うて別れられぬ
三)貴様と俺とは同期の桜 同じ航空隊の庭に咲く
仰ぐ夕焼け南の空に いまだ帰らぬ一番機
四)貴様と俺とは同期の桜 同じ航空隊の庭に咲く
あれほど誓ったその日も待たず なぜに死んだか散ったのか
これは現在でも巷間に伝わる「同期の桜」の歌詞の基本形である。(オリジナルの歌詞は後述する。)「みごと散ります」が「みごと散りましょ」になったり、「仰ぐ夕焼け」が「仰いだ夕焼け」になったりとマイナーなバリエーションはある。あとこの4連の他に、次の歌詞もよく見かける。
五)貴様と俺とは同期の桜 別れ別れに散ろうとも
花の都の靖国神社 同じ梢に咲いて匂おうよ
これも「別れ別れ」が「離れ離れ」になったり、「同じ梢に咲いて匂おうよ」が「春の梢に咲いて会おう」になったりしている。また歌詞の順番も、一〜五と順番に歌うのもあれば、一、ニ、五と歌うのや、一、ニ、三、五と省略するものもある。私が最初に知ったのは一〜四と歌うものだった。
付け加えておくと、この歌は海軍の歌である。兵学校は言わずと知れた海軍兵学校のことで、海軍士官を養成する学校。陸軍の同種の学校は陸軍士官学校である。また航空隊も海軍の呼び方で、陸軍なら飛行隊となるはずである。「同期の桜」には陸軍の軍歌「戦友」に相通ずる心情が歌い込まれているように思われるが、海軍の軍歌には死んでいく戦友たちへの挽歌とも言える歌がほとんどなく、大戦末期になってやっと海軍関係者たちの間にも自然発生的に「同期の桜」のような挽歌が広く歌い継がれるようになったのではなかろうか。 「戦友」の歌詞はこちら
この歌が「作者不詳」となっていたことはすでに述べた。私は心情的には作者不詳のままの方が良かったと思っている。だが現在、この歌の著作権関係は、作詞:西條
八十 、作曲:大村 能章ということになっていて、それはほぼ次のような事情によるものである。もともとは講談社の「少女倶楽部」という雑誌の昭和13年2月号に掲載された上海の海軍陸戦隊の物語に付けた「二輪の櫻」(西條
八十)の詩が元になっていた。このことは戦後になって「同期の桜」の著作権問題を契機として、いろいろな資料が提出されて明らかになってきたようである。「二輪の櫻」の歌詞を書いておくが、この著作権はまだ西條
八十さんの遺族にあると思われるので使用には注意して欲しい。
二輪の櫻 -戦友の歌-
一)君と僕とは二輪のさくら 積んだ土嚢の陰に咲く
どうせ花なら散らなきゃならぬ 見事散りましょ 皇國(くに)のため
二)君と僕とは二輪のさくら 同じ部隊の枝に咲く
もとは兄でも弟でもないが なぜか氣が合うて忘られぬ
三)君と僕とは二輪のさくら 共に皇國(みくに)のために咲く
昼は並んで 夜は抱き合うて 弾丸(たま)の衾で結ぶ夢
四)君と僕とは二輪のさくら 別れ別れに散らうとも
花の都の靖國神社 春の梢で咲いて会ふ
これが「戦友の唄」と改題されて、樋口静雄氏の吹き込みでキングレコードから発売されていたのである。ちょっと宝塚趣味だが、海軍陸戦隊の物語が少女雑誌に掲載される時勢は現在の日本では想像すらできない。目次のページには戦闘機の編隊を背景に日の丸を振る少女の挿絵が描かれていたりする。「二輪の櫻」の物語は戦死した海軍陸戦隊員の妹が、兄が戦地で知り合った少女と共に篤志看護婦を志願する筋書きであるが、少女倶楽部の他の記事を読むと従軍看護婦は当時の軍国少女たちの花形だったことが窺われる。赤十字病院の看護婦養成所訪問記には担架の担ぎ方なども書いてあって興味深い。
それはともかく、 「同期の桜」は昭和15年頃から海軍兵学校で歌われ始めており、作詞は兵学校71期の帖佐裕氏である。帖佐氏による元の歌詞は以下の通りである。
一)貴様と俺とは同期の桜 同じ兵学校の庭に咲く
咲いた花なら散るのは覚悟 みごと散りましょ国の為
ニ)貴様と俺とは同期の桜 同じ兵学校の庭に咲く
血肉分けたる仲ではないが 何故か気が合うて別れられぬ
三)貴様と俺とは同期の桜 離れ離れに散ろうとも
花の都の靖国神社 同じ梢に咲いて会おう
以上が「同期の桜」の正真正銘のオリジナル歌詞である。写真集海軍兵学校(秋元書房)に帖佐氏の回想が載っており、昭和14年12月に71期生として兵学校に入学後、休日の外出時に上記の「二輪の櫻」のレコードの替え唄をつけて口ずさんでいたところ、全海軍に広がって自分でも驚いたとのこと。ちなみに皆で歌う時は明るく活発に、一人で歌う時はメランコリックに、ということだそうだ。
ここで考証を付け加えるならば、「同じ航空隊の庭に咲く」に続く基本形3番、4番の歌詞は後から付け加えられたものであることが判る。夕焼けを見上げて未だ帰還しない戦友の飛行機を待っている光景はあまりにも暗く悲しく、この部分は大戦末期になってパイロット(日本海軍では搭乗員と呼んだ)たちが激戦の中で次々と戦死していった頃の情景をよく表わしている。
さらに、現在では歌詞として残っていないが、これらの他にも部隊や経歴が異なる海軍関係者ごとに、負け戦の中でさまざまな「同期の桜」の歌詞が生まれたのではないか。私が鮮明に覚えているのは、特攻隊を描いた「南太平洋波高し」(1962年)という東映映画の冒頭部分、潜水艦内で回天特別攻撃隊員たちによって「同期の桜」が歌われるシーンがあるのだが、その歌詞が私が暗誦したのとは違っていたことである。
貴様と俺とは同期の桜 同じ兵学校の庭に咲く
今度逢うときゃ来年4月 さくら花咲く九段坂
というものだったと思う。とにかく自分の記憶と違っていたのが印象的だった。あの映画は高倉健や鶴田浩二などが出演していたが、鶴田浩二などは戦争中は特攻基地に勤務していたようで(本人自身が元特攻隊員だったかどうかという問題もあった)、戦時を知る人たちが数多く映画の製作にも関わっていたであろう。そういう人たちがわざわざ新しい歌詞を作るはずもなく、当時の戦友たちを偲んでそれぞれの記憶に残る歌詞を映画に使ったと考えられる。だから「同期の桜」の歌詞には明確な著作権は設定できないのではなかろうか。
昭和36年9月にはコロンビア・レコードから「正調・同期の桜」と西條八十の「二輪の櫻」の中間のような歌詞で、沢本忠雄氏の吹き込みによる次のような歌が発売されている。もちろん作詞は西條八十だが、作曲者不詳となっていて、題は「二輪の桜」である。
一)貴様と俺とは二輪の桜 同じ梢の枝に咲く
咲いた花なら散るのは覚悟 見事散りましょ男なら
ニ)貴様と俺とは二輪の桜 同じ梢の枝に咲く
血肉分けたる仲ではないが なぜか気が合って離れられぬ
三)貴様と俺とは二輪の桜 はなればなれに散ろうとも
好いて好かれた男と男 花の世界で咲いて逢おうよ
これは靖国神社とか兵学校とか航空隊とか軍国の匂いのする言葉をいっさい除外した純・戦後版の歌詞と思われる。同期の桜のメロディーを平和な戦後になってからも歌い継いでいって欲しいという企画者の意図が見えるような気がするが、やはり根本的に無理があると私は思う。却って何か妙な雰囲気である。
ところで「同期の桜」は我々戦後世代も時々歌う。私も遠州総合病院時代の花見で看護婦さんたちも一緒になって皆で歌った覚えがある。またずいぶん前のある新聞にも、若い人たちがよく結婚式などで「同期の桜」を歌うのを聞くけれど、国のために散る一番ではなく、なぜか気が合う二番の歌詞を歌った方が良いという年配の方の投書が載っていたこともあり、特にミリタリー趣味の者だけが好んで歌っているわけでないことを示している。私の高校時代は反戦運動まっさかりであったが、クラスの仲間たちもよく歌う者がいた。しかし誰かが「同期の桜」を歌ったりしていると露骨にイヤな顔を見せつける者も少数いたことは事実で、こういう人間が本当に真面目に反戦を考えていたかどうかに関しては、また別の機会に考察してみたい。
突入の瞬間
特攻隊員たちは最後の瞬間に何を考えていたのか。特攻が自殺攻撃である以上、わかるはずもないと思っていたが、特攻現場の敵艦隊上空から奇跡的に生還した人も皆無ではなかったようだ。1995年(平成7年)7月の新聞に次のような記事が見られる。元海軍中尉の長谷川薫さん(当時21歳)は3人乗り爆撃機「銀河」で1945年5月25日に沖縄近海に出撃したが、米駆逐艦「キャラハン」に撃墜され、海中に投げ出されたところを同艦に救助された。「キャラハン」もその2ヶ月後に撃沈されており、沈没50年目に同艦の元乗組員が戦友会を開くことを知って自らも渡米、自分を救助してくれた米海軍士官と再会を果たしたとのことである。長谷川さんは元海軍中尉とのことだが、学生出身の予備士官だろうか。また元海軍二等飛行兵曹の鈴木勘次さん(当時18歳)も同じく爆撃機「銀河」で1945年4月17日に喜界島近海で米空母に突入寸前、米戦闘機に撃墜されて海中に投げ出され、やはり米駆逐艦に救助されて九死に一生(というより万死に一生)を得た。鈴木さんは戦後に「虚しき挽歌-特攻、この不条理の記録」という本を書いておられるが、森本忠夫氏が著書「特攻-外道の統率と人間の条件」の中で鈴木さんへのインタビューとその本を要約する形で事実経過に触れている。それによると眼前に広がる敵空母の姿に向かって最後の突入コースに入った時、鈴木さんには興奮も敵意もなく、考えていたほどの恐怖もなかったという。やっと肩の荷がおりた、使命は果たした、もう死んでもいいのだ、自分の戦争は終わったのだ、という安堵の心があったとのことだ。
戦後30年近く経てから書かれた文章なので多少の修飾は加わっているだろうし、また年齢から考えて中学卒業と同時に海軍の飛行機乗りを志願した人だろうから、大学出身の予備士官の人などとは死生観も違っていて、必ずしもすべての特攻隊員が同じように感じて突入していったわけではないだろう。だが敵国アメリカへの恨みも憎しみもなかったことだけはほとんどの隊員に共通していた真実と思われる。私の18歳の頃、空想世界の中で敵艦に突入していった私の分身たちも、迫り来る敵艦の舷側を見つめながら国を守る潮と一体になれる喜びだけを感じていたし、何となくそれが日本人として最高の死に方のような気がしていたから、鈴木さんの体験記は特に意外ではない。戦後出版された戦没予備学生の遺書を読んでも、予科練など少年航空兵の遺書を読んでも、米英に対する狂信的なまでの敵愾心を綴った者はいない。現在、世界には自らの体に爆弾を巻きつけて自爆テロを決行する若者たちがいるが、彼らの標的の大部分が軍事目標ではなく無力な一般市民であるという手段の卑劣さを抜きにしても、なおその心情において特攻隊員たちとはまったく別世界のものなのである。人はおのれの怒りと憎しみを極限までかき立てれば、その憎い相手と刺し違えても構わないという気持ちに比較的簡単になれるだろう。その上で無抵抗・無警戒の一般市民に狂暴な怒りを向けるテロリストと、狂信的な敵愾心を示すことなく強大な米艦隊に向かって出撃して行った特攻隊員たちとを同列に論じてはならない。
粛々と祖国のために死出の攻撃行に参加した特攻隊員たちに対して、私は心から厳粛な尊敬の念を禁じえないし、私自身も若い頃はそうありたいと常に願っていたものである。だが今では世界の狂信的なテロリストたちと異なる静かな心で祖国に殉じることのできた日本人の精神的特性について善悪の判断を下すことは避けたいと思うようになった。30歳前までの私なら間違いなく神風特攻隊員たちの心情こそ日本人の比類ない美徳と断じたであろうが、かかる心情は同じ心情を共有する為政者の下にあってこそ美徳たりうるのであって、そうでない為政者にとってはこのような精神的特性を持つ国民ほど御しやすいものはないということに気づいたからである。まったく無謀な自殺攻撃を命じても反乱を起こすこともなく、為政者が過激なアジテーションや狂信的教育を施したわけでもないのに、言われるまま従順に敵に突っ込んで行った兵士たちほど、当時の指導者や軍の上官にとって好都合なものはなかったであろう。特攻隊に限らず「万歳」を叫びながら突撃して玉砕した陸上の兵士たちの場合も同じことである。また戦後の奇跡的な復興は我が身をすり減らして馬車馬のように働いた日本国民の血のにじむような努力が無ければ決して達成できなかったはずのものであるが、そのようにして国民が築き上げた経済大国の地位にあぐらをかいた為政者や官僚たちの行状を見るがいい。自らの地位を守るために汲々とし、国民の財産を浪費してその手柄は独り占めにしたあげく、バブルが崩壊した後は国民のみに痛みをしわ寄せして自らはまだ権力にしがみついている。これでもまだ革命も起こさない国民というものが、どれほど彼らにとって好都合でありがたいか、考えてみるまでもなかろう。そろそろこのページも核心に入ってきたようだ。
特攻を止められなかった日本人の精神構造
特攻隊員にも海軍兵学校出身の職業軍人、一般大学から志願・あるいは召集された予備士官、中学卒業と同時に軍のパイロットを志願した少年飛行兵など出身や経歴によって、その出撃に際しての思いはさまざまであっただろうが、最後はやはり国のためには自分たちが行かねばならないと自らを納得させて出撃の日を迎えたに違いない。懊悩や未練もあっただろうが、やはりその心情は愛国心のひとつの形態であり、外国人の中にもこれを賛美する者もいる。有名なのはフランス人のベルナール・ミローで、彼は著書「Kamikaze」の中で西欧と日本のギャップについて痛感しながらも次のように書いている。
むしろそれは偉大な純粋性の発露ではなかろうか。日本国民はそれをあえて実行したことによって、人生の真の意義、その重大な意義を人間の偉大さに帰納することのできた、世界で最後の国民となったと筆者は考える。(中略)これら日本の英雄たちは、この世界に純粋性の偉大さというものについて教訓を与えてくれた。彼らは千年の遠い過去から今日に、人間の偉大さというすでに忘れられてしまったことの使命を、とり出して見せつけてくれたのである。
ただしミロー自身は合理的な精神からは決して受け入れがたいと言っているのであるが、すでに散華された特攻隊員たちに対しては最大級の墓碑銘である。
しかし外国人を含む各方面から寄せられる賛辞は、あの時代の特攻隊員たちのみに受ける権利があるのであって、現在に生きる我々日本人が無反省にこれを受け入れて、特攻精神こそ我が民族の誇りなどと得意になっていてはいけないと思われる。国難に際して我が身をもって敵艦に体当たりした特攻隊員たちこそ民族の誇りであると声高に説く人は今でも跡を絶たないが、そういう人たちは我が国が未曾有の経済危機にある現在、自らの私有財産と可処分所得のすべてを国庫に納入して、この国難を支える第一線にお立ちになるがよかろう。国家はそういう「優良な」国民に対しては最低限の年金くらいは保障してくれるであろう。特攻精神を賛美するとは現実的に言えばそういうことである。
特攻とは人命を使い捨てにしたという点できわめて無謀かつ非人道的な作戦である。有為の人材を最初から死なせることを前提にして出撃させる、これは負けが決まったことを意味する。仮に特攻で戦勢を挽回できたとしても、その時には勝ちに行く兵隊もいなくなっているからだ。このことの愚かさに気付いていた人は、軍の内外・立場の上下を問わずおそらく何千人もいたと思われる。特攻の考案者とされている海軍の大西瀧治郎ですら、特攻は統率の外道と言っているのだ。他の人々に反対のないわけがない。なぜ止められなかったか。いや、止めるどころか敗色がさらに濃くなるにつれて、特攻は将兵を死なせることだけが自己目的化していった節すらある。前項で引用した奇跡的な生還者の鈴木勘次さんの場合、一緒に出撃予定だった他の3機がエンジン不調の事態になったのに、上層部は鈴木さんの爆撃機だけ1機で出撃を強行させたという。編隊を組んで突入しても成功の確率は高くないことを知りつつ1機だけで突っ込ませるとは、ただ特攻隊員を死なせて帳尻を合わせる以外の目的は感じられない。隊員を殺すことだけが目的の作戦・・・。いや、戦争末期になると隊員だけではない、上層部は「一億玉砕」などと言ってすべての国民に死を強要するようになり、沖縄では「鉄血勤皇隊」や「ひめゆり部隊」など、次代の日本を担うはずの少年少女たちまでが「戦死」させられたのである。こんなことがなぜ止められなかったのか。
特攻隊やひめゆり部隊に関する多くの著作を読むと、あのような悲劇が二度と起きないように反省しなければいけない、という論調で結ぶのが常套となっているが、では何を反省すればよいのか。それも政治家や軍人(自衛隊員と言ってもよい)だけが反省すればよいのか。特攻のような無謀な作戦の継続を許してしまった日本人の精神構造に何か脆さはないのだろうか。戦後の歴代政府は国民の愛国心を高める施策を狙っているように見える。私も現在の日本人に国を愛する気持ちが希薄なことは心配だが、それ以前に日本の為政者や官僚たちがなぜ日本国が国民から愛されないのかを真剣に考えていないことの方に、より大きな危惧を感じている。政府はかつての特攻隊員たちのように命令が下れば祖国のために我が身を犠牲にする従順な国民像を期待しているのだろう。国家による愛国心の強要ほど危険なものはない。
だがちょっと待て。「上級者による従順な忠誠の強要」ということに関して、我々日本人はあまりに脆弱ではなかろうか。「国家による国民に対する愛国心の強要」をさらに下部レベルで見てみると、「組織の長による所属員に対する価値観の強要」「教師による生徒に対する価値観の強要」さらには「親による子供への価値観の強要」という相似形が浮かび上がってくる。国家から愛国心を強要されるのは御免だが、社会のさまざまな場面での上級者による下級者への価値観の強要は当然と思っている人は多いと思われる。和をもって尊しとなす農耕社会では長老に従うことが絶対の不文律であったろうし、これに長幼の序を厳しく規定した儒教的な考え方が加わって、近世以降の日本人は目上の者の価値観には絶対に服従することを要求されて育ってきたし、自分が上に立った場合には下級者が自分に従うのは当然と言わんばかりに君臨していることが多い。下級者から異論が出ることは想定していない。異端の言辞や行動を示す下級者に対して合理的に説得する能力など必要なく、ただ上級者の権威を背景にした威嚇と制裁があるばかりだ。下級者の方もいずれ自分が上級者になる日をひたすら夢見て、上級者の機嫌を損ねないようにじょうずに立ち回っているというのが日本社会のモデルである。これが特攻隊を出した時代と同じような愛国心を生み出す土壌となるのは間違いない。そもそもこの精神構造が大東亜共栄圏の失敗を招いたのではないか。イギリスやオランダによる過酷な植民地支配に喘いでいた東南アジア諸国の解放には日本軍が大きく貢献しているが、本来なら感謝されてもよいくらいの働きをした日本が(事実インドは極東軍事裁判に加わらなかった。彼らにしてみればイギリスこそ裁かれるべきだと考えていたのだろうか)戦後数十年たっても怨嗟の的になっているのは、日本人のこの考え方も大きな原因となっているように思われる。
おそらく大日本帝国はアジアにおいてイギリスやオランダのような過酷な植民地政策をとるつもりはなかったのではないか。欧米に対抗する大東亜共栄圏を作り上げて、アジア全体を一軒の家(八紘一宇)とする、家である以上、諸国は家長たる日本に服従するのは当然と無邪気に考えていたような気がする。こうして言語も宗教も家長である日本と同じものに統一する皇民化政策を推し進めたわけだ。それが日本以外の地域ではどれほどの反発を招くかなど想像も出来なかったのであろう。これと似たことは戦後に海外進出した日本企業についてもよく語られたことである。
欧米においては国家と国民がどのような関係にあるべきか、歴史的な議論が繰り返されてきた。また国民を裏切ったとして民衆の名の下に殺害された君主や為政者もいる。こういう歴史を経て、欧米では上級者は先ず自らの権威をもって下級者の生活や権利を保護するという有形・無形の精神的土壌を獲得した。少なくとも日本の不文律のように上級者へ絶対服従するという考え方は乏しい。上級者や上級組織が先ず個人を保護するから、個人も上級者や上級組織のために時として生命を投げ出して戦うことができる。単に国のために戦うのではなく、自分を守ってくれる国のために戦うのだ。それが本当の愛国心なのであろう。日本の為政者や官僚はなぜ国民がこういう気持ちにならないのかを真剣に反省する必要がある。また国民ひとりひとりも家庭や学校や職場や組織において、下級者を無条件に自分の価値観に従わせるような振る舞いを自制して、たとえ親子・師弟といえども合理的な討論を行なう習慣を自らに課し、将来国家から不条理な愛国心を強要されないような国民世代を形成していくべきであろう。
中間管理職はいかに生きるべきか
前項の話をもうしばらく続ける。我々日本人は幼い頃から目上や長老に対しては服従する、少なくとも逆らわないことを骨の髄まで叩き込まれて育ってきた。親の言うことに反抗せずに従うのが良い子、素直に勉強に励むのが良い生徒、組織の方針に疑問を差し挟まずに上司の顔を立てて業務に励むのが良い部下、そしてこの先にあるのが愛国の情に燃えていざとなれば率先して死地に飛び込めるのが良い国民ということになる。そして戦前は大日本帝国と同じ価値観を持って友好的に従う国が良い国であると独善的に思い込んで、アジア諸国の反発を招いた。ついでながら2003年のイラク問題を見ると、アメリカも大東亜共栄圏を目指した大日本帝国に少し似てきたようだ。
それはともかく、日本ではこうして目上に服従して育ってきた者は、自分が上に立てば同じことを下の者たちに要求し、逆らえば権威を楯に強圧的な態度に出る。下の者たちもそれを解っているから、ひたすら自分が上に立つ日まで耐え続ける。こういう国では上層部のやることに対する批判は出にくい。陰に回ってお上をコソコソ批判することはあっても、実効性のある反対勢力は結成されないのだ。昔から悪政のため食うに困って一揆を起こした者はあっても、お上による鎮圧を恐れて表向きは黙って見て見ぬふりをしていた者の方が多いのではないか。だから日本では革命は起こらなかった。
特攻隊の時代も同じだったのであろう。パイロットの生還を許さないような無謀な作戦と思っていても、それを口に出せない。特に中間管理職的な立場の指揮官たちにとっては辛かったのではないか。上級司令部から何月何日までに特攻隊要員を何名出せという指示がくる。あまりに無謀な作戦と判っていても上級者の指示に従わねばならず、直属の部下の中から指定された人数だけ特攻隊員として「推挙」する。その推挙が部下たちの運命にとってどういう意味を持っているかは、お互いに十分すぎるほど判っていた。こういう中間管理職的な立場で特攻作戦に関わって生き残った人たちが、戦後一番辛い思いを抱き続けていたのではなかろうか。こういう立場だった人たちによる特攻作戦の手記が最も少ないことを見てもそれは明らかだ。現在ならば「お前の部署から何名リストラせよ」と上から指示された部課長クラスの人たちの苦悩に例えられるかも知れない。
ただああいう時代にあって最後まで特攻作戦に反対し続け、自分の指揮する隊から1人も特攻隊員を出さなかった隊長がいたことは救われる気がする。海軍兵学校出身の美濃部正少佐で、特攻が正式に始まったフィリピン戦の頃はまだ一介の大尉だったが、全軍特攻の雰囲気に押し流される中、自分の隊からも特攻要員を差し出せという司令部からの命令を頑強に拒み続け、「生命が惜しいか」と参謀に怒鳴りつけられながらも、「特攻しなくても必ず戦果を上げる」と一歩も譲らず、ついに自分の部下からは特攻隊員を出さなかったという。この間に美濃部大尉(当時)は部下を掌握し、創意工夫を出し合って熱心に戦法を研究して次々に戦果を上げたからこそ、上層部も口を出せなかったのだ。
戦場が沖縄に移ってからは少佐に進級して、夜間戦闘機隊の飛行長に任命されたが、「芙蓉部隊」という変則的な編成の部隊だったせいもあって特攻隊員を出すことはなかった。一説によれば、フィリピン戦で頑強に特攻に反対した美濃部少佐の部隊から特攻要員を差し出させることに対して、上層部にも多少の遠慮があったらしい。いかに不条理な日本社会といえども、やはり正論には弱いということだ。
日本のような国では中間管理職的な立場が最も社会からのストレスを受けやすいが、自分の身辺に一点のやましい所もないように常に心がけ、日々の業務に邁進するのと同時に信念をもって正論を曲げない勇気を持つことが大切なのだと痛感させられる。おそらく美濃部少佐も特攻に反対すれば懲罰的な人事で最も危険な任地に飛ばされることも覚悟していたことだろう。中間管理職が勇気を持ち続けることは容易ではない。だがそれこそが次代の日本人が不条理な特攻に駆り立てられないための重要な布石でもあると胆に銘じたい。
「ダラ幹」の責任
最近では死語になってしまったのか、少し前までは特に左翼系の労働運動や全共闘系の学生運動で「ダラ幹」という言葉があった。堕落して無気力なくせに威張りちらす幹部という意味だが、別に左翼運動に限らずダラ幹は今も昔もどこの分野にも巣食っていて、組織を沈滞化させ、下級者や部下に必要以上の負担を強いている。ダラ幹を少し厳密に定義すれば次のようになるだろうか。
「国家、自治体、組織あるいは雇用者から任命された地位と支払われる報酬に見合った職責を果たそうとせず、あるいは果たす能力や自覚もなく、その外面的な見栄と体裁に安住して、惰性で無為に日々を過ごす上級者または指揮官」
太平洋戦争末期の日本のこういうダラ幹たちは、特攻作戦に反対を唱えるわけでもなく、自らが特攻や特攻に近い危険な任務を志願するわけでもなく、ただ上級司令部のやり方に陰で愚痴をこぼすだけで、表面上は忠実に(しかし漫然と)任務を遂行しているように見せかけていて、まさにそのために却って彼の直属の部下たちは「選抜」されて二度と帰らぬ特攻隊員となって出撃して行ったのである。確かにこういうダラ幹が特攻などという無謀な作戦を考え出したわけではないが、特攻隊員たちの不条理な死に対してまったく責任がないわけでもない。こういう中間管理職的な指揮官たちが連帯して異議を唱えれば上層部も考え直したであろうし、もちろん当時は今と違ってそんなことができる時代ではなかったことくらい私も判っているつもりだが、それでも指揮官自らも死ぬつもりで抗議すれば少なくとも自分の直属の部下からは特攻隊員を出さずに済んだ公算が大きいのである。事実、深堀道義氏の「特攻の真実−命令と献身と遺族の心」の中に、陸軍第6飛行団第65戦隊のそういう例が引用されている。第65戦隊の隊長であった吉田穆少佐(陸軍士官学校出身)は沖縄への航空総攻撃に際して部下の中から特攻隊員を選ぶように指示されたが、部下たちとは常に死なば諸共と言ってあるので、部下たちだけ特攻には出せない、どうしても行くなら自分自身が率いて特攻出撃すると述べて、上層部の命令を撤回させたという。
海軍の美濃部少佐(既出)といい、陸軍の吉田少佐といい、職業軍人としてのエリート教育を受けた現役バリバリの士官であれば、自らの死も覚悟してこれくらい毅然とした態度を示すのは当然である。それが各分野における専門高等教育を受けた人間の責任であろう。これが出来ない人間をダラ幹と呼ぶのである。軍人にしろ、官僚にしろ、弁護士にしろ、医師にしろ、高等な専門職業教育を受けた人間にとっては、こういうダラ幹であるということ自体が非難されるべき罪状だと思う。
日本においては身内同士を庇い合う「美風」や、上級者の非を指摘しない「恭順の美徳」のお陰で、こういうダラ幹がのうのうと事もなく自分だけ生き延びることが出来る素地は大きい。特に中間管理職的な指揮官のダラ幹ぶりについて、あまりはっきりと記載された手記などは少ないが、その少ない中から印象的なものを一つ紹介しておこう。零戦パイロットとして有名な坂井三郎氏の記録である。坂井氏は戦争中、数多くの修羅場をくぐり抜けて生き抜いた人であるが、その中に氏の手記の読者ならば誰でも知っている硫黄島への長駆帰還の話がある。
神風特攻隊は昭和19年(1944年)10月25日に初めて体当たり攻撃を実施したわけだが、実はそれに先立つ7月に敵空母への体当たりを命じられて硫黄島から出撃した部隊があった。雷撃機8機、戦闘機9機、全機一丸となって空母の舷側に体当たりせよと命じられたうちの1機が坂井氏だったのだが、途中で敵戦闘機の迎撃を受けて部隊は散り散りになり、坂井氏は体当たりを断念して自分の部下の2機と共に必死で硫黄島へ帰って来る。やっとの思いでたどり着いた硫黄島の司令部では、出撃を命じた指揮官は酒を飲んでいたのであった!部下に体当たり攻撃を命じて出撃させた指揮官が、安全な基地で酒を飲んでいた。私は人間としてはこの指揮官に同情する。戦局は悪くなるばかりで何ら打つ手もなくなってしまい、隊の「名誉」のために部下に死を命じた、その心の葛藤や自責の念が彼をして酒に酔わせたのであろう。その心の痛みはよく判る。日本人同士はこういう心の痛みを互いに察する人情に富んだ実に暖かみのある民族である。自分だって当時の硫黄島の指揮官だったら同じように振る舞ったかも知れないのだ。だからあまり他人を責めないのは、もしかしたら我が身可愛さの裏返しの表現なのである。
こうしてダラ幹はダラ幹同士で庇い合って、心の傷を舐め合いながら生き延びていく。誰もダラ幹を咎めることはない。ダラ幹の「被害」を受けた下級者も「恭順の美徳」から口を閉ざしてくれる。坂井氏は戦後多数の手記を出版しておられるが、昭和の年代に書かれた手記の中では、硫黄島の指揮官が酒を飲んでいた事実には触れられていない。おそらく存命中の関係者を憚って伏せていたのであろう。私が初めてその事実を読んだのは平成になってから出版された著作の中であった。旧海軍の中では世界的に最も有名になった坂井氏ですら、当時の上官やその家族に配慮して、都合の悪い事はあからさまに書き立てなかったのだ。こういう「美風」がいずれ次の世代の特攻隊を生むことになるのではないか。
指揮官たちの二重の責任
あの過酷で絶望的な戦況の中で特攻隊員の方たちは本当によく戦われたと思う。隊員たちの勇気と自己犠牲はまさに他国に類を見ない種類のものであるが、一方で彼らに死の出撃を命じた指揮官の無能と無責任もまた我が国に特有のものではなかろうか。隊員たちの美徳はいくら称えても十分ということはないが、同時に指揮官の無能と無責任についてもきちんと検証しておかなければ、日本はいつかまた同じ過ちを繰り返す可能性がある。と言うより、すでに同じ過ちを犯しつつあるのではないか。特攻作戦は部下や国民が上層部の無能のツケを有無を言わさず払わされた歴史の一幕であったが、あの無謀な作戦を指導した指揮官たちが心から反省せず、悲惨な大戦争の中で止むを得なかったと総括する者が多いことを危惧しなければならない。戦争だったから仕方なかった、という言い訳が通用するなら、21世紀の現在においても、バブルが崩壊したから仕方がない、不景気だから仕方がない、イラクで戦争が起こったから仕方がない、という同様な言い訳のもとに、再び多くの国民が上層部の無為無策のツケを払わされることになるからである。銀行の融資が受けられずに倒産する企業、業績に行き詰まってリストラされる従業員の数とともに、我が国の中高年の自殺者の数もまた上昇中という。戦後の復興から経済大国への道を支えたこれらの人々の運命は、半世紀前の特攻隊員たちの運命とある種の共通点があるように思えてならない。
ここで私は指揮官たちの責任について述べようと思うが、それは実際の個々の指揮官に対する個人的な非難ではないことをあらかじめ断っておきたい。特攻を命じた者も命じられた者も日本史の舞台の中で偶然にその役割りが決定されただけであり、もし戦争がもっと早く始まっていたとすれば、実際の戦史では指揮官として理不尽な命令を下した人たちこそが第一線の若い将兵として真っ先に敵に体当たりした(あるいはさせられた)世代となったことは間違いない。またもし戦争が30年遅かったら、実際の特攻隊員であった人たちの世代が私の世代に対して特攻出撃を命じて、私や私の学友たちの何名かは特攻戦死していたかも知れないし、さらに戦争が60年遅ければまさに私の世代の者たちが若い人たちに不条理な特攻命令を下していたはずである。つまり特攻作戦は日本という舞台の中で演じられた世界に類の少ない特異な歴史なのであって、個人として誰が誰に命じたかなどはあまり問題とすべきではないと思う。それよりも日本の歴史においては、なぜ上層部があれほど無能で無責任なのか、なぜ国民はあれほど指導者に対して従順すぎるほど従順なのかを厳しく検証しなければならないのではないか。おそらく日本史の舞台の中で指導者となった者の多くは当時の特攻指揮官と同様の振る舞いをする可能性が高いという前提の下に私は議論を進めていくつもりだし、そうしなければ実際の特攻作戦の指揮官の世代の方々がすべて亡くなってしまえばあの特攻作戦自体も時効となってしまい、それではまた同じような無謀な事態が(それは必ずしも人間に爆弾を抱えて敵に体当たりさせるというものではないはずだ)再び繰り返されるのを防げなくなってしまうことになる。
二重の責任と書いたが、先ず指揮官たちが特攻などという無謀な作戦を考案したこと、それを実行に移したこと、さらにそれに反対しなかったこと、いずれも上層部の無能以外の何物でもない。国策遂行のために最小限の損害で敵国に武力で勝利することが軍人の使命であり、その使命を果たせずに徒に損害ばかり増やしてしまったことは上層部の無能である。アメリカがあまりにも強力な敵国だったと言うのなら、尋常な作戦では勝てない公算の大きい国と戦争を始めたということ自体、また勝てないことが解った時点で戦争を止めなかったこと自体が政治家をも含む上層部の無能を象徴している。当時の日本の指導者たちは自分たちの無能を棚に上げて、次代の国家を担う若い世代を無為に次々と死なせていったわけだが、私はこの最初の責任については自明のこととしてこれ以上は述べない。私が問題にしたいのは、当時の指揮官たちが、この最初の責任を回避しようとした二つ目の責任についてである。
戦後になって当時の指揮官クラスだった人たちから特攻隊に関する何冊もの著作が出版されたが、私が読んだ限りでは特攻作戦の立案と遂行に立ち会ったことへの自らの責任を正面から受け止めたものはない。あの無謀な作戦さえなければ、特攻隊として出撃した若者たちのうちの何割かは生還することが出来たはずで、それらの人たちの人生を無為に終わらせてしまったことへの反省がほとんど感じられないのである。
おそらく特攻隊に関する最も初期の著作である「神風特別攻撃隊」(猪口力平、中島正著:いずれもフィリピンの特攻作戦に関与した海軍大佐と中佐)は昭和26年にすでに「リーダーズ・ダイジェスト」によって世界に紹介されているが、その結びで著者らは次のように述べている。
そのような有為の人材を戦争のために失ったことは惜しみてもあまりある。その意味においては、そのような若人たちを死所に追いやったわれわれは大いに責められてよい。しかし、特別攻撃に散華していった若者たちへのとかくの非難だけは絶対に許されない。それは作戦の是非や善悪を越えた、崇高な、神聖ともいうべき行為にほかならないからである。
私は中学生の頃、この文章をある種の感動をもって読んだものである。そして次に我が国が戦争に巻き込まれたならば、自分こそが特攻の先陣を切りたいものだと夢想していた。しかし、著者がこの一文を書いた年齢の頃を超えた現在、もう一度読み直してみると、何という身勝手な責任逃れの文章であろうかと怒りを禁じえない。確かに限定的に自らの責任を認めているように受け取れる部分も巧みに散りばめてあるが、結局は特攻隊員たちの崇高な殉国の至情に免じて、これ以上の責任追及は止めて欲しいという本音が隠されているのが明らかだからである。そして本文中には、この文章を裏付けるように特攻隊員たちがいかに平静に、いかに純粋に自らの運命を受け入れて死地に赴いて行ったかというエピソードが幾つも綴られているのだ。もし1970年代に日本に戦争が起こっていたなら、この著作に感銘を受けていた私は真っ先に決死隊に志願していたことであろう。
昭和55年の「海軍特別攻撃隊」(奥宮正武著:特攻作戦当時は大本営参謀の海軍中佐)には次のように書かれている。
このように経歴も階級も異なる人々が、自らの意志で、特攻に参加した背景には、彼らのすべてに共通した認識があったものと思われる。人生には、時には、右か左かを選択せざるをえない時があるものである。彼らは、そのような事態に直面して、自ら死への道を選んだのであった。しかし、当時の状況から考えて、私は、彼らの行為がわが国民性を表していたものかどうかには疑問を抱いている。特攻は、わが国民性の望ましくない面が生んだ非常事態にさいして採用された、異常な出来事であったと信じているからである。
当時の立場を利用して、歴史の真実を分析する、後世に伝えるなどという美辞麗句の下にこのような文章を書くのであれば、何も書かずにひっそりと沈黙していて貰いたかった。昭和50年代の、部下の特攻隊員やその同僚たちの著作も多数出版される頃になって、このような内容の文章を書ける神経が信じられない。これではまるで、特攻隊員たちは上層部が命じもしないのに、自らの意志で特攻機に乗り込んで出撃して行ったかのようではないか。しかもそのような行為が日本の国民性の望ましくない部分によるとは、何という責任逃れの言い方であろうか。さらに著者は隊員たちに対する慰霊の姿勢を強調したいためか、巻末に海軍特別攻撃隊員全員の氏名(連合艦隊告示の資料による)を掲載しているのだが、その中に何と前出の鈴木勘次さん(敵空母手前で撃墜され、米軍に救助されて戦後生還した隊員)の名前まで、何の注釈もなしに書かれているから驚くほかはない。著者の戦後の経歴からすれば奇跡的に生還した特攻隊員の素性など、その気になればわかったはずだ。あまりにも誠意が感じられない。
こういう上層部の責任逃れの体質こそが我が国民性の最も望ましくない面であり、特攻作戦に関してもこの点を追求しない限り、再び特攻隊に類する悲劇は日本史の中で繰り返されることであろう。私は最初にも述べたとおり、これらの本の著者たち個人が責められるべきだとは思っていない。歴史の中のさまざまな事件の中で、日本人の精神的土壌を受け継いでいる人間なら誰でも、同じような立場に立たされた時には同じような振る舞いをしてしまう傾向があると思われるからだ。歴史の中でのいろいろな人物の行為や言動を見て、現在に生きる我々自身への反省とすることが「歴史から学ぶ」ということではなかろうか。
ついでながら本当に責任を感じている人間はどういう振る舞いをするものか、あまりに凄惨な事件にまつわる関係者たちの事例を挙げておこう。特攻隊と同様、太平洋戦争末期の異常事態の中で起こった九州大学医学部の生体解剖事件のある当事者の述懐である。これは撃墜されて捕虜となったB29爆撃機のアメリカ人パイロットが九大に連れて行かれて、救命の意図のない実験的な手術で生命を落とした事件で、遠藤周作氏の「海と毒薬」や、上坂冬子氏の「生体解剖」に詳しい。豪放で学究的な教授が軍関係者からのひょんな人脈で捕虜を使った実験が出来ることになり、それを諫めきれずに心ならずも加担した助教授が老年になって上坂氏の取材に応じた時の言葉が、私も同業者であることからひときわ心に響く。
(戦時下だしああするより他に仕方なかったのでは、という上坂氏の問いに対して)それを言うてはいかんのです。(中略)どんなことでも自分さえしっかりしていれば阻止できるのです。(中略)言い訳は許されんとです。当時反戦の言動を理由に警察に引っぱられた人たちがおりました。あの時代に反戦を叫ぶことに比べれば、私らが解剖を拒否することの方がたやすかったかもしれません。ともかくどんな事情があろうと、仕方がなかったなどというてはいかんのです。
そして関係者たちは、すべては自分さえしっかりしていれば起きなかったことで、すべては自分の責任という自責の念から、戦後はお互い同士ですら沈黙を守って生きてきたという。確かに生体解剖と特攻作戦遂行とは次元が違うが、事件の責任の重みとはこういうものではなかろうか。戦後の出版会にしゃしゃり出てきて、堂々と的外れな弁明を行なう旧海軍の指揮官たちの著作には最近反発を感じている。むしろ旧陸軍関係の特攻隊指揮官は戦後も沈黙を守った人が多いが、このあたりの事情については次で考察しよう。
海軍は免罪されたのか
旧海軍の大本営参謀だった奥宮正武氏が、その著書の中であまりに無責任で的外れな弁明を行なっていることは前項で述べた。別に私は奥宮氏個人を責めるつもりはない。もし太平洋戦争が大正年間に勃発していれば、きっと奥宮氏こそ特攻隊の先陣を切った世代になっていたはずで、その意味では歴史の偶然のせいで的外れな弁明をする巡り合わせとなった奥宮氏自身もまた不運と言わざるを得ない。それはともかく、特攻隊員は自らの意志で死の出撃をしたと言わんばかりの弁明が、昭和50年代になってから海軍指揮官だった人の筆で書かれたところを見ると、何千人もの若者たちが非情な命令で死を宣告されたことなど海軍関係者の間では他人事になっていたのではないかと思われる。奥宮氏の文章に見る無責任ぶりや的外れぶりは、独り奥宮氏のみのものではなかろう。旧海軍関係者には水交会という集まりがあるし、また海軍兵学校の同期のつながりは一生続くものだという。もし奥宮氏の海軍関係者の世代が特攻に関して本当に責任を感じているとしたら、生体解剖の九大医学部関係者のごとく戦後も重苦しい沈黙を守り通して、とても同期生の間であのような著書を出版する雰囲気になどなったはずはない。考えてみると、戦後も生き延びた海軍指揮官が、自らは免罪されたと感じても不思議ではない状況があるのだ。
昭和20年8月15日の終戦の日、海軍の特攻隊指揮官2人が相前後して自らの生命を絶った。1人は特攻の生みの親と言われる大西瀧治郎、もう1人は第5航空艦隊長官として沖縄方面の航空特攻作戦を指揮した宇垣纏(ともに海軍中将)。この2人がまるでキリストのごとく、海軍関係者の特攻の責任を一身に背負って死んで行ったように思えてならない。さらに太平洋戦争の歴史観においては、陸軍の悪玉に対する海軍善玉論が戦後定着して、ただでさえ海軍関係者は気が楽になったのではなかろうか。すでに亡くなった人や評価の定まった人にできるだけ多くの責任を押しつけて自分の責任を回避しようとするのは、裁判などで罪を軽減するための被告人の当然の権利としては認められる。しかしある職業のプロとして(特攻の指揮官なら職業軍人として、私たちならば医師として)、人々の期待を裏切るような仕事しか出来なかったことへの責任を回避するのは職業倫理として絶対に許されないのではないだろうか。
海軍兵学校で多額の国家の資材をつぎ込んで貰い、戦前の国民の尊敬を一身に集めながら職業軍人として栄誉ある高等教育を受け、卒業後も破格の待遇を受け続けたにもかかわらず、戦時に到っては特攻のような作戦しか思いつけないような状況になるまで負け続け、そのうえ戦後になってからはアメリカ軍は強大だったとか、上層部の国策が誤っていたとか、最初から判っていたような愚にもつかない言い訳を今さらのように並べ立てる一方で、特攻隊員たちは立派だった、民族の誇りだったと弁明することで、何となく自分の責任を帳消しに出来ると考えるのは(特に武人としては)卑怯であると思われる。もし私たちが医療ミスをしたとして、十分な医療スタッフを確保しなかった病院経営者が悪い、万全の医療を保証できるような医療費を設定しなかった行政が悪いと言い訳しても、許して貰えるはずがないのと同じである。確かに大佐・中佐などの佐官クラスの指揮官が開戦を決定したわけでないし、特攻作戦を考案したわけではない。また仮に運良く特攻作戦を中止せしめることが出来たとして、あの戦局で通常の作戦を行なったとしても、隊員たちの生還の確率は特攻と大して変わらなかったかも知れない。
しかし陸海軍とも自分の管轄から特攻隊員を出させなかった佐官クラスの指揮官たちは少数ながらいたのである。そしてこういう立派な指揮官に巡り合えなかった不運な隊員たちは特攻という死刑宣告にも似た非情の命令を受けて出撃までの短い間を悩みに悩み抜き、その苦悩を無理やり押し隠して死出の旅に赴いたわけだが、その不必要な苦悩を押しつけたのは指揮官の責任である。また隊員たちのそんな心情を戦後になってから思いやった遺族の心に国家に対する不信感とシコリを残したのも指揮官の責任である。然るべき教育を受けて然るべき地位に立った人間が当然の責任を果たし、その責任を果たせないと思えば職を賭してでも改革を訴え、結果として職責が果たせなければ潔く身を引いて事後の責任を取る、これが立派な国家の指導者というものであろう。日本はこういう指導者のケジメがない国家である。特攻はそのことを思い知らせてくれる恰好の事件であった。
参謀や飛行長といった中間指揮官であっても、戦後に著作を出版するなら、せめて申し訳なかった、自分さえしっかりしていれば何人かの隊員は死なずに済んだのだ、と率直に詫びて欲しかったが、これを代わりにやってくれたのが特攻の生みの親である大西瀧治郎であった。大西は終戦工作が進行している中でも、日本人男子の半分を特攻に出せば勝てると叫んでいたようだが、終戦の詔勅が下った翌日の未明、次のような遺書を残して官邸で日本刀で自決した。
特攻隊の英霊に曰す 善く戦ひたり深謝す 最後の勝利を信じつつ肉弾として散華せり 然れ共其の信念は遂に達成し得ざるに至れり 吾死を以て旧部下の英霊と其の遺族に謝せんとす(以下略)
大西は54歳であった。隊員たちの2倍から3倍の人生の春秋を味わい尽くした男が1人、腹を切ったところで死んだ隊員たちは帰って来ない。死んで責任を逃れたという声もあるが(あるウェブ上にもそういう若い人の書き込みもあった)、もし大西が自刃せずに戦後も生き残ったとしたら大西個人に対してはもっと大きな批判が起こったことであろう。私は特攻考案の責任とすれば自刃は当然と考えるが、大西の自決が他の多くの海軍指揮官たちを免罪してしまったことはかえすがえすも遺憾の極みである。
生出寿氏の「特攻長官 大西瀧治郎」の中に次のエピソードが紹介されている。真珠湾攻撃の立役者の1人で、戦後は参議院議員にもなった源田実は、戦前戦後を通じたバリバリのエリートだが、大戦末期は四国松山の防空戦闘機隊の司令であった。源田は自分の隊からも特攻を出させようとしたが、飛行長の志賀淑雄少佐から「いいでしょう。私が先に行きましょう。(中略)司令、最後にあなた行きますね、紫電改で。どうぞやりましょう」と言われて、黙って前言を取り消してしまった。別の手記では、フィリピンで最初の特攻隊が出た時に、これこそ民族の誇りだとはしゃいでいた源田が「ならば次は貴様が行け」と言われてシュンと鼻白んでどこかへ姿を隠してしまったという。そんな源田は戦後になってから大西の自決に関して、「大西の立場に立たされれば、山本五十六も山口多聞も同じことをやったろうし、彼ら自身が特攻機に乗って出撃したであろう。それが海軍軍人である」と言っていたそうだ。確かに山本五十六と山口多聞ならやっていただろうが(終戦時はすでに戦死してともに故人)、源田実は絶対にやれなかっただろう。大西によって免罪されたこういう人間が戦後の日本でも羽振りを利かせていたのである。
さて大西と共に終戦時に生命を絶った宇垣纏については話は同じではない。宇垣は終戦の詔勅が出た8月15日の夕刻、自ら特攻機に乗り込んで沖縄に停泊中の米艦隊を目指して出撃、死亡した。日没後で目標視認が困難だったために米軍側には大した被害は出なかったが、これは重大な国際法違反の攻撃である。こういう攻撃に部下を巻き込んで死んだ宇垣自身は満足だったかも知れないが、これは大西の自刃とは意味が異なるのではないか。連合艦隊司令長官の小沢治三郎中将は「玉音放送で終戦の大命を承知しながら、死に場所を飾るなどと私情で兵を道連れにすることはもってのほかである。自決して特攻将兵のあとを追うならひとりでやるべきである」と言って宇垣の行動を批判している。道連れにされた隊員たちが気の毒でならない。部下たちは長官の「特攻」に随伴するのを熱望して、最初の命令では5機だけだったのを11機が乗組員ともども自発的に準備を整えていたという。隊長の中津留大尉は「長官が特攻をかけられるのに5機だけという法がありますか。私の隊は全機でお伴します」と言ったらしい。ただし宇垣の戦陣日誌「戦藻録」の編者後記には最初の命令は5機となっているが、猪口・中島共著の「神風特別攻撃隊」では3機となっていたりする。どうも隊員の熱望ぶりを強調したいがための虚飾もありそうである。また見送る人々も、感極まって、その手をちぎれんばかりにふって壮途を見送ったと書いてあるが、下士官搭乗員だった安永弘氏の「死闘の水偵隊」にはそうは書いていない。
ようやくにして生きて戦い終わる日を迎えた十九か二十歳の若者を、死の旅に誘うとは、武士の情を知らぬ匹夫のやり方ではないか。落城を前に、部下の命乞いをして、自ら命を断つのが日本武将の常ではなかったか。(中略)
あんたが死ぬのは勝手だ。多分当然だろう。その面で俺たちを感激させ、奮い立たせることはできない。今、そこで短剣を喉に突きさせば話は別だが。
「オイ、(長官が)こっち向いたぞ」と私の斜め後ろで若い声がする。「あいつ、独りで死ね!」と応じた声がある。そうだ、俺もそう思うぞ。(中略)
立場上死なねばならないので、部下搭乗員どもにお伴をさせて死にに行くのだ。拳銃自殺よりは、航空艦隊の長官らしくパッとした花道が欲しいのだ。(中略)年寄りだから自分一人で死ぬのが怖いのだろう。だったら搭乗員ではなくて、参謀たちを連れて集団自決すればいいじゃないか。
指揮官クラスの人たちが書いた同じ場面と比較して生々しい現実感がある。特攻隊の指揮官は死んで当然、だがその死に方も難しいのだ。だが特攻を命じられた若者たちが味わった死の苦悩に比較すれば物の数ではないかも知れない。
海軍の宇垣纏中将に対比されるのが、陸軍で同じ立場だった第6航空軍の菅原道大中将だが、この話は次に回す。
責任を全うするということ
特攻の発案者とされている大西瀧治郎海軍中将は終戦翌日の未明、官邸で自決した。第5航空艦隊長官として沖縄への特攻作戦を指揮した宇垣纏海軍中将も終戦の日の午後、自ら特攻機に乗って死んだ。宇垣の死に方には問題があるものの、やはりこのクラスの指揮官が特攻の責任を取るとすれば自決より他に道はなかったと思われる。部下の若い将兵に有無を言わせぬ死の出撃を命じた以上、自らもまた死ぬことが最も多くの人たちを納得させることが出来る身の処し方であった。もちろん戦争が終わってしまったのだから、いくら将官クラスの指揮官だからと言って今さら死ぬまでもない、生きて別の方法で責任を果たすべきだという考え方があることも理解できる。
しかし部下に死を命じた責任は自らの死で償う、この考え方がなければ部下や国民は将来のこの国の指導者を信頼できなくなると大西中将は考えたのではないだろうか。部下に死を命ずるためには自らも必ず死地に飛び込む覚悟が要る、私は大西中将は今後の日本の指導者にこのことを身をもって示したように思えてならない。だが残念ながら大西中将は多くの海軍指揮官たちに安直な免罪符を与えてしまったし、さらに昨今の政治家に至っては大西中将の死に方から何も学ぼうとする気がないようである。
最近、ある週刊誌に悪相と書かれて激怒した一群の政治家たちがいた。日本全国に高速道路網を当初の計画どおり建設せよと主張する一派である。そのための資金は将来の国庫の負担になることなどお構いなしで、さらに景気回復のために道路以外にも5兆円10兆円でもどんどん投入すべきだともおっしゃる人もいる。この億兆の金が将来の日本国民の肩にどれほどの重さでのしかかってくるかを本気で考えているんだろうかと疑いたくなる。特攻機を5機10機と投入すべきだと主張した旧陸海軍関係者のイメージが妙にダブって見える。
私は財政の専門家ではないから、5兆円10兆円投入すべきかどうかは判らない。しかし今の政治家が言うことであれば直感的にいやだ。あの人たちは自分の政策判断が失敗しても本気で責任を取りそうに見えないからだ。別に公共投資が失敗したら大西中将のように自刃せよと言うのではない。国民に大きな財政負担を強いた責任を取るために、自らの財産を処分して素寒貧になってでも国庫に返済しようという覚悟くらいあるのかと言いたいのだ。今では死語になったが、そもそも昔は政治家のことを「井戸塀」と言ったらしい。政治を一生懸命やれば金がかかるので、自分の財産を売り払って資金を作り、最後は屋敷には井戸と塀しか残らないという意味だ。昔の政治家はそれだけの覚悟で政界に乗り出して志を高く掲げたのである。そういう志の高い井戸塀の政治家であれば、一国民として喜んであなたの政策を支持しましょうというものである。然るに最近の政治家はどうだ、政治には金がかかると言い訳しながら政治資金規制は少しでも骨抜きにしようと躍起になる一方、企業献金だ、パーティー券だと金の無心ばかりしているではないか。中には法に触れるような集金までしておいて、後から秘書が、後援会が、と他人の咎のように言い訳している輩もいる。妻にまで責任をなすりつけた政治家もいたが、まさに開いた口が塞がらないとはこのことだ。
こういう昨今の政治家たちが大西中将のような覚悟で政策を決定しているとは到底思えない。指導者が自分のすべてを賭けて行動しているかどうかは、部下や国民から見れば大体わかるのだ。自分が素寒貧になる覚悟もなくて大言壮語してるだけの人はその品格が顔の相に出てくるもので、生命や財産を取られる方の立場からは見る人が見れば見当がつくというものである。ある元特攻隊員は、大西中将の訓辞を聞いた時、この人は自分も生き残るつもりはない人だなということが伝わってきたと語っている。それとは対照的に、大西中将の副官として最初の特攻隊の人選をした玉井中佐などの言うことは空虚だったとも述べられている。玉井中佐は戦後仏門に入った。それを元指揮官クラスの中には部下の菩提を弔う誠意と書いている人もいるが、別の元隊員は卑怯だと切り捨てている。下級者は上級者の本質をある程度見抜いているということだ。小泉首相は戦時中の特攻隊員のことを思うと感無量であるというようなことをコメントしたことがあるが、このクラスの人間は特攻作戦を指導した将官たちの生き様と死に様こそを考えてくれないと困る。
やはり軍の将官クラス、一国の政治家や高級官僚クラス、あるいは社会的に大きな影響力を持つ組織の幹部クラスの者は、自分の決断が失敗に終わって部下や国民に耐え難い苦痛を与えたことが明白になった場合には、それぞれの仕事のプロとしてそれと同等の苦痛を伴う道義的な責任を自らに課すべきである。経営に失敗して企業を倒産させ、従業員の一家を路頭に迷わせた社長や会長が、自らは高額の退職金を手にして悠々自適の引退生活を送ったとしたら、世間はそれを許すだろうか。
大西瀧治郎は部下を死なせた責任を自らの死で償った。宇垣纏も最後は未練たらしく部下を道連れにはしたが、一応は自らの死で自分の経歴にピリオドを打った。この2人と比較されて戦後ずっと悪く言われてきたのが陸軍第6航空軍の司令官菅原道大中将である。第6航空軍の司令部は福岡にあって、沖縄戦をはじめとする陸軍航空特攻作戦の指揮をとっていた。終戦の日の司令部の様子は高木俊朗氏の「特攻基地 知覧」に次のように書かれている。これは昭和39年から40年にかけて週刊朝日に連載されたものである。
鈴木大佐は決意した。その場に隊員を待たせ、すぐ司令部に帰って、重爆一機に爆装、出撃の準備をさせた。午後八時。鈴木大佐は軍司令官の部屋に行った。菅原中将は参謀長の川島虎之助少将と協議をしていた。鈴木大佐は宇垣長官の出撃を報告し、すかさず、
「軍司令官もご決心なさるべきかと思います。重爆一機、用意をいたしました。鈴木もおともをします」
菅原中将は参謀長と顔を見合わせ、当惑した色を浮べた。ふたりは低い声で、しばらく語っていた。そのあとで、菅原中将はねちねちと、
「海軍がやったとしても、自分は、これからのあと始末が大事だと思う。死ぬばかりが責任をはたすことにならない。それよりは、あとの始末をよくしたいと思う」
川島参謀長も同じ意見をのべた。鈴木大佐は、それ以上、強要しなかった。死ねる人ではないと、あきらめてしまった。
大変な侮蔑のこもった文章である。私は最初にこの文章を読んだ時、何か意趣を含んだ書き方に引っかかるものを感じてはいたが、海軍の宇垣中将と比べて何と卑怯な振る舞いであろうと思ったものである。しかし後になって読み返すと、終戦の詔勅が下った後から司令官の道連れとして不条理に死なされるところだった操縦員への思いやりが感じられず、この高木氏の本の他の部分の論調とは著しくバランスを欠いている。しかもこの文章の前には、海軍の宇垣中将の出撃の様子を、猪口・中島らの表現をほぼ丸写しした形で引用していて、終戦後に道連れにされた海軍搭乗員に対してはひどく冷淡である。菅原中将を必要以上におとしめる意図が感じられた。
佐藤早苗氏の「特攻の町 知覧」でも菅原中将の決断について触れられていて、菅原の終戦前後の日誌を引用しながら、自決のタイミングを探る心の葛藤があったことに理解を示している。そして、元特攻隊員の「後からかならず行くといって、それもうそっぱちだ。のうのうと九十五歳までも生きてた」という恨み言を紹介しながらも、戦後の菅原の慰霊と贖罪の人生に関連して、
あのときに潔く自決して果てた指導者と、世間の非難も浴びながら、生き永らえて後始末をした指導者と、いずれが立派だったのか、それを比較するのは難しいが、もし自決を選んでいたら、かりに自分のためであったにせよ、これらの大仕事はなされなかったことだろう。
と最大限に好意的な結論を導いている。もちろん完全に菅原中将を肯定しているのではなく、「特攻参加の動機は全く英霊達の発意なり」というような菅原中将の発言には率直な疑問も呈されている。
次に深堀道義氏は「特攻の真実−命令と献身と遺族の心」の中で次のように書いている。深堀氏は姓こそ違うが、菅原道大中将の次男であり、自身も終戦間際の海軍兵学校出身者でもある。
日本軍でなければ実現しなかったであろう特攻作戦、この異常な作戦の指揮官としての責任の取り方はどうあるべきだったのか。それは当時の観念からすれば、英霊および遺族に謝す方法としては、自決以外にはなかったであろう。それ以外に責任を果たす方法はあり得なかったのではないだろうか。そして、筆者(深堀氏)が思うには、自決するにしてもそれを行う時期と方法が大切なのである。
その上で深堀氏は、日本軍は落城したのではなくて降伏したのであるから、高級指揮官が終戦の日に自決したのは責任の放棄であり、無責任であると指摘する。そして降伏に関する事務手続きすべてが完結した適当な時期を選んで自決すべきであったと考えておられるようだ。だが自決というものは時期を逸すると心理的に難しくなり、菅原中将もついに世の謗りを受けながら生き永らえることになってしまったと分析されている。
深堀氏自身、息子ということで特攻隊員の遺族から父親のことを面罵されたこともあったといい、いろいろと複雑な思いもあるのだろう。実の父親でありながら、その分析は男同士、軍人同士ということもあり、佐藤早苗氏よりははるかに手厳しい意見である。私も菅原中将は自決して軍人としての経歴を全うすべきであったと考える。理由は大西中将の自決について書いたことの裏返しである。ただ菅原中将自身も特攻作戦に無条件で賛成だったわけではあるまい。軍の上層部の命令で仕方なく第6航空軍を指揮して、若者たちに不本意に特攻を命ずる破目になったものと思われる。だから戦後の事務処理に日を過ごすうちに自決の決意も次第に鈍っていったのだろう。自分の心からの信念で特攻作戦を指揮していれば、やはり軍人としての矜持から菅原中将も正しい時期に自決できたと思う。
ここで問題にしたいのは、中将クラスの高級指揮官が特攻に反対を表明できなかったのかということである。佐官クラスや尉官クラスの指揮官や、まして軍外の人々に比べれば、中将や少将クラスの将官が特攻に反対するのはたやすかったはずである。まさか陸海軍の将官全員が特攻に賛成だったわけではあるまい。菅原中将は特攻に賛成していなかった将官の1人だったであろうと私は思うのである。佐藤早苗氏や深堀道義氏が断片的に引用している菅原中将の日誌を読む限り、中将が熱烈な特攻作戦の遂行者であった形跡が見られないからだ。もし菅原中将が自分の立場を利用して特攻に反対を表明していたとすれば、終戦直後に生か死かでハムレットの心境に立たされることもなければ、卑怯者の汚名を着て戦後の日々を過ごすこともなかったであろう。正論を表明するということがいかに大事であるか、そして日本においては地位が高い人間でも自分の信じる正論を貫くことがいかに困難であるかを痛感する次第である。2003年のイラク戦争の開戦前の段階で、米英の政権中枢の閣僚クラスの高官でも、戦争に反対して辞職する人がいた。そういう信念の表明を当然のこととして受け入れることの出来る米英の精神的土壌を私は羨ましいと思う。信念を貫くこともまた高官の責任なのだ。
ついでに言えば、私より若いと思われる人たちが開設している特攻隊に関するサイトを、いろいろと検索をかけて閲覧させて貰っている。特攻隊に肯定的な人も否定的な人もいる。いずれの側にもなかなか立派な意見だと感心させられるものが少なくないが、どういう方が書いておられるのだろうと開設者の経歴などをたぐっていくと、結局匿名というのが多いのが非常に残念なことだ。特攻隊のように我が国の歴史の上できわめて重大な事項に関する自分のコメントに責任を持った署名を付けられない、これが日本人の精神的特性だと思われる。
戦史の裏側のウソ
特攻は海軍中将の大西瀧治郎が考案したということになっている。しかし大西がフィリピンで最初の特攻隊を編成したのは昭和19年10月20日前後とされているが、これより前の10月1日百里原基地で人間爆弾「桜花」(ロケット推進による体当たり専用の特殊機)の部隊が編成されていたといい、すでに海軍上層部は特攻隊の着想を抱いていたことが指摘されている。昭和52年に水交会で行なわれた元軍令部作戦部長である中沢佑氏の講演でこの点に関して疑義が発せられたが、中沢氏は絶句したまま立ち往生してしまったらしい。このあたりは深堀道義氏の「特攻の真実-命令と検診と遺族の心」に検証されているので省くが、特攻はすでに海軍上層部の既定方針であり、大西長官は単なる言い出しっぺの役に過ぎなかったことは、我々のような素人でも入手できる書籍からも明らかであると思われる。
ひとつは坂井三郎氏が昭和19年7月にすでに体当たり攻撃を命じられて硫黄島から出撃していることである。坂井氏の幾つかの著作によれば、昭和19年7月4日、硫黄島の海軍航空部隊は残存の攻撃機8機、戦闘機9機に最後の出撃命令を出したという。指揮官による異常な出撃前の訓示も書き記されているので引用してみる。
「今から山口大尉の率いる戦闘機9機、○○大尉(残念ながら失念)の率いる天山艦攻8機をもって敵第58機動部隊に対する白昼強襲をかける。とくに戦闘機隊に対して注意を与えるが、本日は絶対に空中戦闘を行なってはならない。雷撃機も魚雷を落としてはいけない。戦闘機、雷撃機打って一丸となって全機敵航空母艦の舷側に体当たりせよ。」
こういう異常な命令が、特攻作戦が正式に採用される4ヶ月も以前に、現地指揮官の一存で下せるものだろうか。前にも書いたが、作戦が失敗して坂井氏たちがやっとの思いで硫黄島に帰ってきた時に酒を飲んでいたのがこの指揮官である。指揮官として常軌を逸した振る舞いに違いないが、よほどの心身の重圧があったものと思われる。すでに海軍上層部の一部には過激な者たちによる特攻実施への具体的な圧力が存在していたのではなかろうか。もしも自分が当時の硫黄島の指揮官で、どうしてもこれ以外にないと自分自身で決断して下した命令であったならば、部下たちが確実に死んでいく時間に酒など飲んでいられるはずがない。上層部の過激な圧力に負けて、心ならずも非情な命令を下した自分自身に対する悔悟の念を酒で紛らわせようとしたというのが、最も納得のいく解釈である。
さらにもうひとつ、フィリピンで最初の特攻隊がフィリピンで編成された時に関して、昔から読んでいて不審に思っていることがある。当時のフィリピン方面の海軍基地航空部隊は、大西瀧治郎中将の第一航空艦隊(一航艦)と、福留繁中将の第二航空艦隊(ニ航艦)があり、最初は福留のニ航艦は特攻に反対していたのだが、やがて大西の一航艦に押し切られて全軍合わせて特攻作戦に傾いていくことになる。この辺の記載については、私が特攻隊に感銘を受けていた頃からも何となく腑に落ちない点があり、しかもいろいろな特攻関連の書物を読んでも納得のいく記述を得られなかったことから、少しくわしく引用してみることにする。
猪口力平・中島正共著の「神風特別攻撃隊」にはこれらの事情について次のように記述されている。
「捷一号」作戦成功のカギをにぎる基地航空部隊の主力として、ニ航艦350機の大兵力が、長官福留繁中将とともに比島クラーク飛行場群に進出してきたのは、ちょうど23日であった。大西長官は、到着したばかりの福留長官にたいして、23日の作戦会議で、第二航空艦隊の特別攻撃隊加入を強く申しいれた。
「第一航空艦隊は、9月以来敵の猛攻をうけ、ほとんど壊滅状態にあって、空戦にたえうる戦闘機約30、その他一式陸攻、天山艦攻および彗星艦爆をあわせて50機にもならない。この兵力でまともな戦闘を継続することは不可能である。無理にこれをおこなえば、敵の大機動部隊のまえにただ全滅あるのみである。詳細はおって説明するが、物心両面、あらゆる角度から利害を検討した結果、一航艦では特別攻撃を敢行することにけっした。よくよく戦況を考えてみると、もはや特別攻撃以外に攻撃法があろうとは思われない。このさい、第二航空艦隊もこれに賛成して、ともにやってもらいたい」
しかしこれは、第二航空艦隊の受入れるところとはならなかった。そこで大西長官は、その夜ふたたび福留長官にたいして、
「第二航空艦隊が既定方針どおり、大編隊攻撃法によって進むことは、異議をさしはさむ筋合ではないが、おそらくいまこの練度をもってしては、攻撃効果の期待はおぼつかない。第一航空艦隊の特別攻撃はかならず戦果をあげうるものと信ずるが、機数がひじょうに少ない。そこで第二航空艦隊の戦闘機の一部をさいてこれに加勢してもらいたい」
という趣旨の意見を熱心に申しいれた。しかし福留長官は、いままでに訓練した大編隊攻撃への期待と、特別攻撃法を採用した場合におこりうる各搭乗員の士気の喪失を懸念して、これにも賛意を表さなかった。
しかし、もっとも大切な24、25両日におこなわれた第二航空艦隊の250機の大編隊攻撃が、巡洋艦2、駆逐艦3を撃破したにとどまり、みるべき戦果をあげえずに終わったのに反して、第一航空艦隊の特別攻撃隊は、敷島隊のわずか5機で、敵空母1撃沈、1撃破、巡洋艦1轟沈、同菊水隊の彗星艦爆1機により空母1撃破という戦果をあげたのであった。
ここで小さな文字で次の注釈が入っている。
(注)米軍側の発表によると、第二航艦が行なった大編隊攻撃によって受けた損害は、
24日、急降下爆撃により、補助空母プリンストンが航行不能に落ちいったのち僚艦によって沈められたほか、駆逐艦ルーツおよび上陸用舟艇552号が水平爆撃によって沈没、また油送船アシュタビュラが雷撃によって損害を受けた。
25日、駆逐艦リチャード・M・ローウェルが銃撃された。
となっている。
このあと、再び本文となっていて次のように続く。
25日夜、大西長官と福留長官は、寝室の机をはさんで、三たび、特別攻撃にたいする意見の交換をおこなった。大西長官は、
「特別攻撃以外に攻撃法のないことは、もはや事実によって証明された。この重大時機に、基地航空部隊が無為にすごすことがあれば全員腹を切っておわびしても追いつかぬ。第二航空艦隊としても、特別攻撃を決意すべきときだと思う」
という意見を強調し、福留長官のもっとも心配する搭乗員の士気問題については、確信をもって保証すると断言した。そのため福留長官もついに意を決して、参謀長ならびに先任参謀をよびよせ、26日の深更2時をすぎるまで研究を重ねたすえ、特別攻撃を採用することに決定した。
長々と引用したが、つまり大西長官は従来の攻撃法では戦果が上がらないから特攻をすべきだと福留長官に迫ったことになっているけれども、実は福留長官の通常攻撃でも戦果が上がっていたのである。米軍側の資料によると、第38機動部隊の第3機動群(空母2、軽空母2、戦艦2、巡洋艦4、駆逐艦13)は10月24日の早朝、日本機の襲来を受け、その大部分を援護戦闘機で迎撃して撃墜したが、それらの戦闘機を収容するタイミングを見計らって雲間より姿を現した急降下爆撃機から投下された爆弾が軽空母プリンストンに命中、同艦は艦内の燃料や爆弾に引火して手のつけられない状況になり、午後になって放棄された。プリンストンは軽空母とは言うものの、基準排水量11000トン、速力31.6ノット、搭載機数45機で、巡洋艦の船体を空母に転用したれっきとした軍艦である。しかも正規の機動部隊の一角を占めており、戦国合戦で言えば大将ではないまでも、本陣を守る有力部将に相当する艦であり、第二航空艦隊は僥倖もあったかも知れないが、この軽空母を撃沈しているのである。当時の日本側としてもフィリピンの航空基地で敵の通信を傍受していれば、敵機動部隊の有力艦に損傷を与えたことくらい判っていたはずであるが、大西はなぜかこの事実を無視して、通常攻撃では戦果を上げられないことは事実をもって証明されたと断言したとされている。事実を押し隠してでも特攻を採用しなければならない、つまり既定方針となっていた特攻を何としても福留長官に採用させなければならないという欺瞞があったように思える。
そして奇怪なのは、戦後になって書かれた猪口・中島共著の「神風特別攻撃隊」の注釈である。プリンストンをわざわざ「補助空母」と呼び、航行不能になって僚艦に沈められたとサラリと書き流しているだけである。では第一航空艦隊の特別攻撃隊が撃沈した空母と比較してみよう。最初の神風特攻隊によって撃沈された唯一の空母はセント・ローであるが、基準排水量7800トン、速力19.3ノット、搭載機数34機、船体は商船の手法で建造されており、こちらこそ文字どおり戦時急造型の「補助空母」なのである。さらにセント・ローは正規の機動部隊に属していたわけではなく、同様な補助空母と駆逐艦よりなる護衛空母群に所属しており、しかもこの部隊は前日には戦艦大和、長門、金剛などを含む有力な日本艦隊と遭遇してさんざん砲撃を浴びた後だったのである。もし第二航空艦隊の通常攻撃がこの部隊に向けられていたら、ほとんど全滅に近い損害を与えていた可能性もある。こういうシミュレーションを行なうこともなく、戦後に至ってもなお特別攻撃の方が、通常攻撃よりも効果が高かったという、当時の大西長官の理屈をそのまま旧海軍関係者が踏襲している理由は何であろうか。昭和19年10月の時点ではすでに特攻が海軍の既定方針として定まっていたことを、当時の関係者たちは口裏を合わせてカムフラージュしようとしているのではなかろうか。昭和52年になってからも、安延多計夫氏(海軍兵学校出身で飛行長、航空隊参謀などを歴任)は著書のまえがきに次のように書いている。
拙著「南溟の果てに」(神風特別攻撃隊かく戦えり)を出版してから、すでに17ヵ年の歳月を経過した。この間に新しく得た資料、特に防衛庁防衛研修所戦史室編纂の戦史が公刊されて、特攻攻撃の情況がよりいっそう明白になった。これと照合して拙著を訂正することは、事実を正しく後世に伝えんと意図した著者にとって当然の義務であると感ずる次第である。
だが事実を正しく後世に伝えようとした意図とは裏腹に、本文中には次の記載がある。
集団攻撃法による第二航空艦隊の24、25両日の戦闘経過はいたずらに兵力を損耗する結果となったのに反し、第一航空艦隊の神風攻撃隊は、一挙に護衛空母1隻を撃沈し、同空母3隻を撃破した。
プリンストンのプの字も書いていない。悪質な歴史の隠蔽工作である。別に今となっては、どの航空隊がどの敵を沈めたとか沈めなかったとかが大事なわけではない。単に戦果を羅列するだけの著作に比べるだけならば、むしろある特攻隊員の遺族(妹)の次の談話の方が心にずんと沁みる。
「兄は特攻隊員で、沖縄に突入して死んだのです」
「アメリカの軍艦に命中したのですか?」
「いえ、海の中に落ちたそうです」
「それは残念でしたね」
「でも、誰も殺さないで兄だけが死んだのだから、それでよかったと思います」
しかし私がここで長々と引用してきたのは、どちらの戦果が立派だったかなどを検証するためではなくて、こういうある程度の軍事マニアか戦史マニアでなければ気がつかないような用語のすり替えや意図的な省略を行なってまで、特攻でなければ駄目だったという結論を導かなければならない事情は何だったのかを探りたいためである。海軍上層部は昭和19年の夏頃にはすでに特攻をやりたかったのではないか。そういう強硬派の精神的支柱であり、代弁者でもあったのが大西長官であろう。特攻をやりたかった当時の海軍上層部の人間たちの中で戦後も生き残った幹部は、自らの良心の呵責を逃れるために、すべての責任を大西長官に押しつけようとして、戦史の細部に関して口裏を合わせてウソで塗り固めた。それが数十冊もの特攻関連の書物を読み漁ってきた私の感想である。
本当の責任者たちは誰か?
お前はフィリピンの最初の特攻隊員たちの功績にケチをつけるのかとお怒りになった方もあるかも知れない。そういう人たちには私からも質問をさせていただこう。
「あなたは軽空母プリンストンを爆撃した第二航空艦隊の勇敢な搭乗員の功績を不当に低く評価するつもりですか?」
250機の大編隊攻撃と言っても大部分の搭乗員の技量は未熟で、敵艦隊上空に達するまでに多くの飛行機がアメリカの戦闘機によって撃ち落とされたという。殊勲の搭乗員はこれではいかんとわざと敵艦隊を迂回して時間を稼ぎ、戦闘機を収容するタイミングを見計らって空母部隊に接近、プリンストンの爆撃に成功したのであろう。これは特攻隊の搭乗員に劣らぬ勇気と剛胆を示した冷静沈着な戦いぶりであるが、気の毒なことに日本海軍の戦史では不当に軽く扱われ、一部では無視さえされているのである。なりふり構わず特攻を本格的に押し進めた人間を庇うための計略としか思えない。正々堂々と上げた戦果を、これほど味方の側から迷惑がられている軍人も稀なのではないだろうか。
戦局の逼迫していた時期で、プリンストンを撃沈したことも判らなかったということかも知れないが、日本軍の敵信傍受は終戦にいたるまでかなり優秀なレベルにあって、艦隊にあっても敵機動部隊と飛行機隊の交信を傍受してトリックを仕掛けたり(週刊読売:昭和50年4月5日号より)、原爆を運んだB29のコールサインを識別したり(「昭和史の天皇」より)していたという。甚大な被害を受けた敵空母が僚艦に救援を求める電波を聞き逃していたことは十中八九ありえないと思っている。
日本海軍の上層部としては、フィリピンの戦闘に先立つ10月12日から16日の台湾沖航空戦の苦い教訓があって、戦果の過小評価をしたという理屈も成り立たないことはない。これは台湾方面に来襲したアメリカ機動部隊を、日本陸海軍航空部隊が総力をあげて通常の正攻法で迎え撃った戦いで、一時は空母11隻撃沈など大戦果を上げたと発表されたが、その後の偵察で判明したところではアメリカ軍の損害はかすり傷程度のものだったのである。いわゆる典型的な「大本営発表」だったわけだが、この戦いの反省から、プリンストン撃沈も控え目に過小評価してしまったというのであれば、少なくとも戦後になってからの著作ではそのように書けばよいではないか。
要するに海軍上層部では、すでに大西瀧治郎を中心とした過激な幹部たちが、特攻あるのみと呼号して部内を煽っていたのだろう。台湾沖航空戦では正攻法が通じなかった、さらにそれに先立つ6月のマリアナ沖海戦でも大敗して、日本軍の飛行機はアメリカ軍から「マリアナの七面鳥撃ち」と言われるほどあっけなく次々と撃墜されてしまった。こうなった以上、フィリピンでは飛行機ごと敵艦に体当たりする以外に方法はない。このように主張する過激な幹部たちの口調は熱を帯びて、相手を威嚇せんばかりであったに違いない。「しかし特攻は」などと反論しようものなら、たちまち「神州日本が滅んでもいいのか」「貴様には大和魂がないのか」と激しい罵声が浴びせられたかも知れない。体当たり攻撃には問題があり間違っていると考えていた穏健な幹部たちも、強硬派の幹部から突き上げられて、自論を述べることも出来ず、却って曖昧な言質を取られて暗黙の了承を与える結果になってしまったのだろう。こうして大西は海軍上層部の総意を取りまとめた形となって、自らが特攻の言いだしっぺの役を引き受けたと思われる。
戦後に生まれたくせに、いかにも見てきたようなことを言うじゃないかと思われるだろうが、同じような状況は私たちの世代もいくつか経験してきているのだ。私たちの学生時代は大学紛争の火ダネがまだ燃えさかっており、学生運動のリーダーたちは各教室を回って物凄い激烈な口調でアジテーション演説をぶち上げていくのである。「労働運動との連帯」「反戦」などのスローガンを声高に叫ばれると、政治的に中立な学生たちは、自分の学業しか考えていなかったように見える自分に引け目を感じてしまい、シュンと沈黙してしまうのであった。時流に乗った威勢のいい一派が威圧的な大声を出せば、穏健な考え方の人間は押しまくられて引っ込んでしまい、強硬派の意見だけが通ってしまうという構図は、今も昔も大して変わりはないだろうと思う。何しろ同じ遺伝子を持った日本人のやることなのだ。
大西瀧治郎はこうしてフィリピンの第一航空艦隊を舞台に思う存分に腕をふるって特攻作戦を軌道に乗せていったわけである。だがフィリピンにはもう一つ、福留繁の第二航空艦隊があって特攻に反対していたのではなかったか。大西と福留は海軍兵学校の同期で、しかも階級も同じ中将であった。お互いに何の遠慮もない仲ではないか。
しかし福留には重大な引け目があったし、もし福留がどうしても折れなければ、大西はその引け目を突いて福留を従わせる心づもりであった可能性はある。実は福留は昭和19年3月末に起こった帝国海軍開闢以来の最大の不祥事の当事者だったのである。海軍乙事件といわれるこの不祥事は、連合艦隊司令部が2機の飛行艇で移動中に荒天のため遭難、連合艦隊司令長官の古賀峯一大将は殉職、参謀長だった福留は不時着して抗日ゲリラの捕虜となり、後日陸軍部隊に救出された事件である。諸外国であれば、先の湾岸戦争でもイラク戦争でも敵味方に相当数の捕虜が出るのは当たり前だが、当時の日本軍にとって敵の捕虜になるということは重大な問題であった。戦陣訓で「生きて虜囚の辱めを受けず」と日本軍は兵士たちに固く降伏を禁じ、敵の捕虜となるくらいなら潔く自決せよと命じていたのである。それが事もあろうに連合艦隊参謀長の海軍中将が敵の捕虜になり、機密作戦文書を押収されたうえに、おめおめと自決もせずに生きて救出されたのだ。こういう引け目のある人間が特攻に反対を貫けるはずがない。
日本軍は下級兵士たちには厳しく捕虜になることを禁じたのに、上級者には甘かったと言われても仕方がない。だが上級者に甘く、下級者に厳しいのは、日本においては軍隊組織だけにとどまる問題ではあるまい。胸に手を当てて考えれば日本の現在の社会機構にも同様な現象は枚挙にいとまがないと思われる。
福留中将については、さらに不条理な一件が坂井三郎氏の平成年間の著書にすっぱ抜かれている。開戦当初の破竹の進撃が続いていた頃、敵地上空で墜落した海軍の攻撃機のクルーたちが苦心惨憺のあげく、味方の陸軍部隊に救出されて生還したところ、捕虜になったものと認定されて、あろうことか名誉を守るために次の出撃で自爆を命じられたというのだ。こうしてせっかく生還したクルーたちは、同伴した隊長の飛行機が監視する中で、むざむざ自爆させられて戦死してしまった。この冷酷非情な処置を強硬に主張したのが福留中将だったという。この話は許せないが、これも少し考えてみれば、自分では守れないことを部下に強要する上司は、日本の職場には珍しくないのではないか。
いずれにしても大西の強硬論を押さえるためには、福留はあまりに役不足であったし、その他の穏健派の将官たちはあまりにも非力であった。戦後も生き残った非力な幹部たちは良心の呵責を逃れるために、特攻のすべての責任を大西に押しつけておこうと画策したが、私はこういうその他大勢の歴史的責任は免れないと思う。世の中が順調にうまく行っている時は、強硬派も穏健派も何とか波風立てずに共存できるものだが、いったん歯車が狂い出すと、何とか元に戻そうとして強硬派が台頭してくる。こういう強硬派の暴走の前に立ちふさがるためには、普段から引け目を作らない正々堂々とした生き方をしていることが大事である。さらにその上で、一途に自論をまくし立てる相手に対して「それは間違っている」と言うためには相当の覚悟も要る。
これまで長々とこの駄文を読んで下さった方々(そんなにいないと思うけど)、自分なら出来ると断言できますか?肝心な時にそれが出来なければ、次の世代の「特攻隊」の責任者は我々自身かも知れません。
回天と桜花のミステリー
フィリピンの戦史のごまかしに関して、大岡昇平氏の「レイテ戦記」に重要な記述があったのを失念していた。
この頃米軍はむろん日本機の特別攻撃法を知らなかった。25日1100、C.A.F.スプレイグの護送空母第三群が、関大尉の特攻が終わったので、消火と負傷者に専念していた時、15機の彗星機が近づくのを見た。
「キトカン・ベイ」は直ちに迎撃機をカタパルトで発進させたが間に合わなかった。一機が「キトカン・ベイ」の艦尾から突込んで来た。その一翼を高角砲弾で吹き飛ばされながら投弾した。爆弾は右舷25メートルの海面に落ち、機体は艦橋に衝突した。同時に別の一機が「カリニン・ベイ」の飛行甲板に突入し、続いて一機が煙突に命中した。火災は五分間で鎮火した。その他二機が突込んできたが、対空砲火によって近くの海面にそらすことが出来た。
モリソンの『海戦史』は、これも神風攻撃として記録しているのだが、機種、機数、攻撃法から見て、これは福留繁中将の第二航空艦隊の一部の攻撃でなければならない。この日の午後の二航艦の戦果は、栗田艦隊を盲爆しただけとなっているのだが、二航艦の名誉のために、訂正する必要があろう。
とにかく昭和19年10月24日から25日にかけての日本軍の戦果、特に第二航空艦隊の挙げた戦果については過少評価される傾向があり、現在ではやっと整理されてきたものの、昭和年間の間は幾つかの記録を読んでいくと混乱することも多かったが、これは真珠湾攻撃から終戦にいたるまでの他のすべての海戦の記録には決してあり得ないことであった。いかに海軍航空作戦の指導者だった人々が歴史の隠蔽と歪曲に奔走したかを物語る結果であると考えている。
ところで日本海軍の他の部署において、航空機による特別攻撃が正式に採用される以前から体当たり攻撃用の兵器が開発されていた。潜水艦から発進する人間魚雷「回天」である。「回天」は黒木博司大尉と仁科関夫中尉によって考案され、昭和19年2月26日に試作が踏み切られた。当初は脱出装置をつけることで試作が許可されたのだが、性能が落ちるなどの不利があって、考案者の黒木大尉自らの反対などにより、昭和19年の夏頃には、脱出装置無しの試作機で性能試験が開始されている。
黒木大尉は海軍兵学校ではなくて海軍機関学校の出身者であり、機関学校出の士官は潜航艇の艇長にはなれなかったのを、昭和17年に血書まで書いて潜水学校に入学、特殊潜航艇の艇長配置になり、さらに戦局が傾いたのを知って、兵学校出身の仁科中尉と共に人間魚雷回天の試作を熱心に主張するようになったのであった。まさに絵に書いたような特攻隊員である。私がこのことを引用した板倉光馬氏(元海軍少佐・潜水艦長)の「あゝ伊号潜水艦(続)」には、航空作戦指揮官だった佐官クラスの人たちの著書のようなごまかしは見出せず、信用するに足る事実であると考えている。
潜水艦の人の書いたものは信じるが、航空関係の人のものは信じないのはフェアでないと言う人がいると思うので、日本海軍における潜水艦事情を、私が知った範囲で解説しておく。日本海軍では潜水艦をドイツのUボートのように主として通商破壊戦に用いる考えは持っておらず、ひたすら敵の主力艦隊攻撃用の兵器と考えていた。つまりひとたび戦争が始まれば、日本の潜水艦は押し寄せる敵の主力艦隊を待ち伏せて攻撃する任務を帯びていたのであり、首尾よく敵艦隊に遭遇して敵戦艦なり空母なりを撃沈したとしても、次の瞬間には敵の護衛艦の反撃を受けて徹底的に制圧される運命が待ち受けていたのだ。ほとんど特攻隊に近い修羅場であり、潜水艦の乗員は普段から生還は期しがたかったと思われる。敵との刺し違えが当然の作戦行動だったから、早くから「回天」のような特攻兵器が考案される素地もできていたのであろう。黒木大尉と仁科中尉の以前にも、竹間忠三大尉や、入沢三輝大尉と近江誠中尉なども同様の提案を行なっているが、生還率皆無ということで却下されている。しかもこれらの人々は自分が人間魚雷に乗って行くことを前提としていて、航空特攻のように他人が行くことを当たり前とは思っていなかったのである。
さらに潜水艦は敵に制圧されて撃沈されれば、艦長も士官も下士官も兵員も一蓮托生で全員が戦死してしまう。偉い人が命令して若いパイロットが出撃するような情況ではない。ひとたび現場に出れば階級の上下を問わず、誰もが同じ死の危険を犯す部署だったので、部下は死なせても自分だけ助かろうというような無意識の逃避も、航空関係者に比べればほとんど無かったのではないだろうか。坂井三郎氏の著書によれば、航空隊に配属されてきた兵学校出身の士官たちは、空中戦の訓練をすれば熟練の下士官搭乗員とは比較にならないほど未熟だったくせに、自分たちはどうせ出世して作戦全体を把握する立場に立つんだからと、負け惜しみとも本音ともつかないことを平気で口走っていたという。参謀や飛行長になって特攻作戦を指導したのも、元はこういう人間だったかと思うと情けない。
日本の潜水艦乗員の覚悟を伝えるエピソードがある。戦前の潜水艦は各国ともよく事故を起こしたが、最近のロシアの原子力潜水艦でさえ悲劇的な結末になったのを見れば判るとおり、潜航中の事故はほとんど脱出の道はなく、乗員にとっては100%生還の望みは無いと言ってもよいかも知れない。日本でも明治43年に佐久間大尉を艇長とする第六潜水艇が潜航中沈没、乗員全員が殉職したが、最後まで持ち場を離れず、冷静に沈没原因の報告を作成した後に遺書を認めていたという。また昭和19年の戦時中、伊号第33潜水艦が訓練中に沈没し、ハッチから脱出して奇跡的に救助された2名を除いて全員が殉職したが、戦後引き揚げられた艦体内の、最後まで空気が残っていた区画では、乗員たちはそれぞれの寝台で遺書を書いて従容と死の瞬間を待っていたという。これが諸外国の潜水艦事故の場合は、乗組員同士が最後の酸素を争って本能に導かれるままに争った形跡が残されていることが多いらしい。日本の多くの潜水艦関係者は、少なくとも一部の航空関係者に比べれば、こういういざという時の覚悟が定まっていたために、人間魚雷「回天」の発想はかなり自然に生まれたのではないかと考えられる。
ちなみに「回天」の語源を「天に還る」とする研究があり、外人にもイメージが馴染みやすいためか、一部の海外の研究者もこの説を紹介しているが、潜水艦関係者の手記では「天運を回す」意味にとっている方が多いように思われる。また幕末の幕府軍艦「回天」をあげる者もいるが、明治新政府の流れを引く帝国海軍でわざわざ幕府軍艦と同じ名前をつけるかどうか疑問である。
ともかく人間魚雷「回天」は、航空特攻開始に比べて自然な背景の中で誕生してきたという印象が強いが、それは決して私が「回天」を容認できるという意味ではない。たとえ純真な憂国の士が熱烈に提案してきたものであったとしても、上級者はそれを却下すべきであった。隊員の死をもって任務を全うするという非人間性は、日本国憲法で保障される基本的人権の概念がまだ未熟な時代であっても、有能な兵員の生命を1回限りで使い捨てにするという非合理的側面を考えれば、純粋に軍事的作戦面からも受け入れられるものではない。そもそも兵員を含む国民の生命と財産を守るのが国防の任務であるという初歩的な原理を旧日本軍の指導者たちが無視したことが、戦後の日本人に国家と軍隊に対する決定的な不信と嫌悪を植え付け、我が国をまともな国防論議さえ出来ない幼稚な国にしてしまった元凶なのではないか。現在の日本の国防に最も緊急に必要なのは、有事法制の整備などではなくて、国家や軍隊は国民1人1人の生命と財産を守るために存在するのだという根本的なコンセンサスである。
真珠湾攻撃には機動部隊の他に5隻の特殊潜航艇も参加しているが、山本五十六連合艦隊司令長官は生還の目途があることの確約を取ったうえで承認を与えたという。少なくとも開戦当初は正論が通る状況であったが、戦局の逼迫とともに次第に頭にカッカと血が上って常識的思考ができなくなってきたということであろう。もっとも、真珠湾攻撃の時の特殊潜航艇の乗員たちも、計画上は攻撃終了後に母艦である大型潜水艦に帰還することにしていたが、誰一人として生還するつもりはなかったという。もし帰路を敵の飛行機や軍艦に追跡されれば大型潜水艦もろとも撃沈されてしまうので、自分たちは攻撃終了とともに自決する考えを密かに抱いていたのだ。つまり真珠湾攻撃の特殊潜航艇にせよ「回天」にせよ、日本海軍の潜水艦乗りの気構えはまったく変わっていなかったのである。
ただ戦争末期の「回天」の乗員としては、航空隊を志願した予科練出身者たちも加えられており(「回天」戦没者の約4割が予科練出身であった)、「回天」搭乗員として後に続いた若者たちを思う時、黒木大尉ら「回天」考案者たちも罪なことをしたものだという気がする。
さて人間魚雷「回天」は昭和19年2月に試作に踏み切っているが、航空特攻作戦が正式に開始された昭和19年10月との微妙なタイミングが気になる。フィリピンで最初の神風特攻隊が出たのは10月25日だが、実はこれより先に人間爆弾「桜花」の部隊が編成されていたことはすでに書いた。「桜花」は昭和19年8月考案された。一式陸上攻撃機の胴体下に吊るされて敵艦隊上空まで運ばれ、操縦する人間が移乗して母機から切り離されるやロケット推進の補助を得て滑空しながら敵艦に体当たりするもので、米軍からは「バカ爆弾(BAKA
bomb)」とまで呼ばれた不条理な特攻兵器である。ではなぜ米軍は「回天」を「バカ魚雷」と呼ばなかったのであろうか。それどころか米軍は終戦直後、「回天」搭載中の潜水艦への停戦命令の徹底をわざわざ改めて確認するほど「回天」を恐れていたようだ。
以下は単なる私の想像で、今となっては確かめる術もないのだが、「桜花」は「回天」の空中版二番煎じと思われるのである。二番煎じには一番煎じのような迫力もない。しかし兵器の性格や開発に至る経過がかなり類似している。「回天」は潜水艦を母艦として敵艦隊またはその泊地に接近するが、「桜花」は攻撃機を母機として敵艦隊に接近する。また「回天」は黒木大尉と仁科中尉という憂国の士官によって提案されたが、一方の「桜花」もまた太田大尉という士官によって考案されたことになっている。開発中は機密保持のために考案者の名前をマルで囲んで「マル大部品」と呼ばれていたが(ちなみに「回天」は「マル六金物」と呼称)、この太田大尉とは太田正一とも太田光男とも言われている。冗談ではない。こんな重大な兵器の開発者の氏名に諸説あるのは、結局これが作り話だということにはならないか。
昭和19年の2月に「回天」の試作が開始される。当初はもちろん極秘事項だったに違いないが、作戦指導者の将官や佐官クラスの人たちが、兵学校の同期生などと話をした時にまで互いに秘密にしていたであろうか。昭和17年のミッドウエイ海戦の計画ですら機密は守られていなかった。まして同期生同士の会合などあれば、潜水艦関係の同期生が人間魚雷のことを耳打ちすることくらいあっただろう。これを聞いた航空関係者は自分の部署に帰ってそのことを上司や同僚に報告する。
「おい、潜水艦では人間魚雷を作って体当たりをやるそうだ。」
「ついにやるのか。俺たちも体当たりをやらなけれな。」
「我々も安閑としていては何を言われるか判らんからな。」
という調子で、航空の部署でも体当たりの話がトントン拍子に進んでいく。とりあえず「回天」に相当する兵器をというので思いついたのが人間爆弾「桜花」であったかも知れない。しかし急場しのぎの杜撰なアイディアでは米軍を恐怖に陥れるには至らなかった。
他人がやるから自分たちもやらねば何を言われるか判らない、こういう論理は日本人なら軍人ならずともおなじみではなかろうか。つまり世間体である。皆がやっていることをやらなければ、あるいは皆がやらないことをやると世間体が悪い、世間の人たちから後ろ指をさされるという考え方、これほど日本人が度しがたい馬鹿な国民であることを示す証拠はないと私は思っている。ある人が法律に触れたり他人にひどい迷惑をかけているわけでもないのに、その人の行為や言動を陰に回って悪く言う、つまり後ろ指をさす人間の方こそ人格が低劣であるはずなのに、後ろ指をさされることを極度に恐れる。これはつまり自分が逆の立場に立てば他人の行為や言動の後ろ指をさすような下劣な人間であることを自ら証明しているのに他ならない。自分は自分、他人は他人という互いに独立する自信が無いだけなのだ。
ともかく世間体が悪いから自分たちも特攻を、という論理は、実際に戦艦大和の有名な沖縄特攻でも用いられた。航空隊が全軍挙げて特攻出撃しているのに、有力な水上艦隊が内地で安閑としているのは問題だというわけだ。ドイツなどは強力な戦艦ティルピッツをノルウェーのフィヨルドに隠して連合軍の兵力の一部をクギ付けにしており、大和の場合も仮に北方へ出撃させてハワイやアリューシャン列島などを狙う構えを見せれば、敵機動部隊をより遠方へ、より長期間引きつけることも可能だったのに、それだけの知恵もなく沖縄方面へ出撃させて犬死にさせてしまった。
こういう経緯もあるから、航空特攻、特に人間爆弾「桜花」が、人間魚雷「回天」の開発に刺激されて、航空関係者の世間体を保持するために急遽実現化の方向に走り出したとしても不思議ではないような気がする。
補遺
航空特攻は「回天」開発に刺激されて、関係者の世間体を保つために付け焼刃的に決定されたものかも知れないと書いたが、最近(2002年)出版された小島光造氏の「回天特攻」にかなり決定的な資料を見出すことができた。小島氏は甲標的(真珠湾攻撃にも用いられた特殊潜航艇)の艇長だった海軍兵学校出身者で、「回天」考案者の黒木博司大尉とも親交があった人である。終戦はフィリピンで迎え、「回天」作戦にはタッチしていなかったが、水中特攻部隊の関係者として非常に優れた資料を残しておられる。
その著書の中に、黒木大尉と最後まで同じ部署にいた眞嶋四郎氏が戦後黒木大尉の両親に宛てた追想の書簡が紹介されているので、その一部を引用させて頂く。眞嶋氏と「回天」の将来について語り合った時の黒木大尉の言葉である。
「もちろん、俺も○六(回天のこと)が決定的なものになるとは思っていない。がここまでくれば、俺がもし参っても大丈夫、ある程度の役に立つ兵器として発展すると思う。(中略)しかも何と言っても飛行機さ。飛行機の連中が俺と一心になってくれたら文句はないのだ。むしろその方が目的とも言えるのだ。量と速力の世の中だからな。」
つまり黒木大尉は、航空部隊の特攻への決起を促すために「回天」を考案したのだと言わんばかりの言葉を同僚に残していたのだ。そういうことなら、何も「回天」開発を機密事項として部内にまで内密にする必要はなかったであろう。黒木大尉の熱烈なシンパは、むしろ積極的に人間魚雷開発のことを海軍部内に(特に航空部隊に)触れて回ったに違いない。これでは航空部隊の参謀や隊長のメンツは丸つぶれである。航空部隊としては、「回天」が活躍を始める頃までに(それはつまり昭和19年秋頃だが)総員の意見を取りまとめて、航空特攻を開始する必要があった。大西瀧次郎長官は航空特攻開始の意見の取りまとめ役であったのだ。何としても昭和19年の秋までに航空特攻部隊を編成しなければならぬ。大西長官の決意は並々ならぬものであっただろう。折から始まったフィリピン方面の戦闘こそ正念場であった。フィリピンには大西の第一航空艦隊の他に、福留繁の第二航空艦隊も進出していて、こちらは通常攻撃で米軍の軽空母を撃沈していたが、大西は敢えてその事実をも無視して強引に航空特攻作戦を開始したと見ることは可能ではなかろうか。海軍がやれば陸軍も体面上航空特攻を始めなければならない。こうして陸海軍は先を争うようにして全軍特攻へとなだれ込んでいく。
そうすると太平洋戦争末期に全軍を巻き込んだ特攻作戦の源流は黒木博司大尉ということになる。確かに日本海軍の潜水艦の部署では、黒木大尉以前にも何人かが人間魚雷の提案を行なっているが、すべて搭乗員の死が不可避だという理由で却下されたという。航空隊だって、事の成り行きで大規模な特攻作戦を行なってしまったが、戦後生き残った幹部たちのほとんどが後ろめたい思いをしていたのは確実なのだ。誰だってみすみす部下を死なせるような作戦など発案したくないに決まっている。潜水艦の幹部たちは黒木大尉に煽られて、ついに人間魚雷の開発を容認してしまう。さらに航空隊の幹部が煽られて、とうとう止むに止まれず、意地とメンツをかけて日本軍として後に引けない所まで突き進んでしまったのではなかったか。
小島氏は次のような見解まで述べている。
結局、回天とは何であったのか。極端な見解を示せば、黒木個人の死の美学を満足させるための道具に過ぎなかったのではないかとさえ思わせる。それが「青年の殉国の精神にこたえる」という美名のもとに、人間の死を前提とした特攻作戦へと発展する。
私はこのページをここまでまとめてきて、やっと一つの像が見えてきた感じがする。黒木大尉という人物は、私たちの世代の特異な体験であった学生運動の活動家たちと多くの共通点があるように思われたが、これについては項を改めて考えてみたい。
ついでに小島氏の著書には、このページの「突入の瞬間」でも触れた長谷川薫氏のことが書いてあって、海軍兵学校出身者であることを知った。なお連合艦隊による特攻戦死者の告示によれば、その日に出撃した3人乗りの爆撃機「銀河」のうちの1機は2人分の氏名しかなく、これが長谷川氏の飛行機であろう。してみると長谷川氏が撃墜されて米軍に救助されたことは、日本側はすでに戦時中に承知していて、わざわざ連合艦隊告示から氏名を削除したことは間違いないと思われる。
悠久の世間体
「悠久の大義に殉ず」とは散華された特攻隊員たちを形容する時によく使われる常套句であるが、我が国にとって悠久の大義とは何であったのか。万世一系の天皇によって統治された国体の護持、というのが軍官民を問わず、よく語られた悠久の大義の内容であったと思われるし、どんな本や手記を読んでも具体的にこれ以外に「悠久の大義」を言い表しているものはなさそうである。しかしこれはとんでもない欺瞞である。
楠木正成の菊水の旗印は特攻作戦のシンボルとしてよく使われており、沖縄方面の特攻作戦が「菊水作戦」と命名されたほか、菊水隊という特攻隊名もあったし、正成・正季兄弟のいまわの際の言葉からとった七生報国も特攻隊の合い言葉となった。また回天特攻隊にも隊名のある金剛隊や千早隊などは楠木正成の居城のあった地名に因んでいると思われる。しかし昭和天皇は厳密に歴史的には北朝方であり、現皇室から見れば、南朝方の守護神として名を上げた楠木一族こそ逆臣のはずではないか。たかだか数百年の昔、万世一系のはずの天皇を二統に分けようとした南朝一派は、戦前・戦中の歴史観から見れば、まさに不倶戴天の敵である。また、もし後醍醐天皇は源氏・北条氏と続いた武家政権から天皇親政を取り戻した功労者だと言うのであれば、昭和天皇こそは後醍醐天皇の正当な一派から皇位を簒奪した者の後裔として、憎んでも憎みきれない相手のはずである。
日本人にとっての悠久の大義であった天皇制国家とはせいぜいこの程度のものである。何千年も昔からの民族の大義を掲げて戦っているユダヤ人やパレスチナ人が聞いたら、腹を抱えて大笑いするであろう。日本人は誰かの下で国を作るにしても、誰かのために戦うにしても、自分自身で責任を持った価値判断を下せない民族であるから、とりあえず周囲の人たちと同じものに理想を合わせて、周囲から浮き上がらないように自分の行動と言動を調節することだけは巧みになった。その最も当り障りのない理想が天皇制だったに過ぎなかったのではないか。だから天皇と名がつけば誰でもよかった。南北朝時代の天皇とは違うのではないかなどと余計な詮索をする人間は弾圧された。要するに、天皇のために生命も捧げて尽くすという戦前の考え方は、日本人として後ろ指をさされないための世間体の象徴だったと思われる。
日本人にとっては世間体となっている「大義」の本質について自分の頭で考える必要はないのである。ただ自分が所属する集団の他の構成員たちと同じように振る舞うことだけが求められているからだ。1960年代から1970年代にかけて、我が国でも左翼系の学生運動は頂点をきわめていたが、そういう学生運動家の集団にもそれなりの「大義」というか世間体があって、彼らも彼らなりに仲間たちから後ろ指をさされないように努力していたと思われる。口を開けば労働者との連帯なる言葉と共に、マルクス主義という単語が飛び出してきたものであったが、マルクス主義を信奉しているということが彼らの最も重要な世間体であった。しかし私が個人的に知っている学生運動家の中でマルクスの「資本論」を全編読んだことのある者は皆無だった。天皇制にしろ、マルクス主義にしろ、厳密にそれらの本質を見極めることもなく、ただ集団の他の構成員から後ろ指をさされないために身にまとう世間体に過ぎなかった。国内で学生運動の限界が見えてきた頃、そういう状況に絶望した運動家たちの中に、パレスチナ人民の戦いを支援するという日本赤軍に共鳴して中東へ出て行った者もいたが、その中には「シオニズム」の意味を取り違えている者すらいたという。つまり日本人にとっては左右のいかなる思想も世間体に過ぎないというわけか。
世界には自分の肉体に爆弾を巻いて自爆テロを決行する若者が跡を絶たない。これらの若者と、天皇のために生命も惜しまなかった多くの日本人との相違は何であったか。自爆テロを決行する若者はイスラムの殉教の教えに従って散華するわけだが、彼らは自分が聖なる殉教者となるために、自ら進んで自分のために生命を差し出すのである。しかし日本人は他人から後ろ指をさされるのを恐れて表向きは天皇に忠誠を誓っていたのではなかったか。これが日本の戦前の天皇制もまた世間体の象徴であったと考える所以である。特攻を命じられたり志願した隊員たちの心には、もし自分が命令を拒否したら、あるいは自分が特攻隊員を志願しなかったら、自分自身や肉親家族たちが世間から後ろ指をさされるのではないかという恐れの気持ちがなかったと言いきれるだろうか。
ある思想や物の考え方が集団の中で生きていくための踏み絵になる状況は世界各国いつの時代にもあったであろう。イスラム原理主義のタリバン政権支配化のアフガニスタンでは、人々は息をひそめて過度の教義に従う素振りをせざるを得なかった。金正日体制下の北朝鮮の国民が「偉大なる将軍様」に熱烈な歓呼を送っている映像を見ても、あれが本心だと考える人はほとんどいないだろう。誰もが権力者からの懲罰的な報復を恐れているのが明白だからだ。だが日本においては、権力者以外にも、いつでも世間体のなっていない他のメンバーを見つけ出してやろうと虎視眈々と狙っている人格低劣な構成員同士の監視にも気をつけねばならない。「後ろ指をさされる」という私刑が横行しているからである。
戦後、天皇に忠誠を誓わねばならない国家レベルでの世間体は消失したが、組織レベル、家族レベルなど小集団レベルでの世間体は根強く存続した。それぞれの集団に所属するメンバーはそれぞれの集団内で後ろ指をさされないように小心翼々と日々を送っているが、これらの世間体はそれぞれの集団の上級者のメンツを守るために存在するのである。すなわち集団の上級者は自分のメンツを守るために、いかに不条理であっても下級者に集団の価値観を押し付ける。下級者の方もそれが不条理だなどと抗弁してはならない。上級者が下級者に価値観を押し付ける日本人の欠陥がここで顔を出す。下級者の方も、上級者が押し付けてくる不条理な価値観にも絶対服従して、いずれ自分が上級者の立場に立った時には同じように振る舞えばよいと達観する。この順送りの道理が理解できるようになった者を、日本社会では「大人」と呼ぶのだ。
しかし特攻隊に関しては同じようには行かなかった。お前たちが上級者になった時にはお前たちが自由にやれば良いだろう、だから「大人」になれよ、と言ったところで、特攻を命じられた若者たちは大人になる機会を永遠に奪われ、自分たちが上級者になれるはずの社会から遠い所へ旅立ってしまったのである。これが特攻を命じた者たちの心にずっしりと重い罪悪感を残したのであろう。特攻隊員と言えば他の戦没者とは格別の慰霊が行なわれるのも、特攻を命じて自らは生き残った者たちに贖罪の意識があるからに違いない。戦争中は特攻隊でなくても自分を犠牲にして味方に貢献した例は枚挙にいとまがない。例えば昭和17年5月、日米機動部隊の対決となった珊瑚海海戦で、敵機動部隊に触接していた菅野兼蔵兵曹長の索敵機は母艦に帰還する途中、敵を攻撃に向かう味方の航空隊と出会い、燃料が途中で切れることを知りつつ味方を敵機動部隊上空に誘導するために反転、燃料が無くなるまで戦いの経過を見守った後、最期は自爆して任務を全うしたが、このような英雄的な行為ですら特攻隊とは別に扱われている。多くの旧指揮官たちが戦後も執拗に弁明したように、もし特攻隊員たちが自らの意志で体当たりを決行したとするならば、何故に菅野兵曹長たちなどと慰霊のレベルを別にする必要があろうか。
特攻作戦は軍の上級者たちが自分のメンツと世間体を守るために部下たちを犠牲にした実に日本民族の欠陥そのものであった。自らの胸に手を当てて考えた指揮官たちは、そのことを誰よりもよく知っていたし、心から悔いていたはずである。だがこういう世間体が横行する国においては逆の事態に進むこともありえたのではないか。つまり若い部下をみすみす殺すような体当たり作戦を命ずるなんて何と非常識なことかという論理の方が主流になっていれば、大西瀧次郎だろが源田実だろうが、世間体が悪くて特攻など言い出せるはずもなかったに違いない。事実、日本軍の中で最初に体当たり攻撃案が具体化されたと考えられる潜水艦関係者の「回天」でさえ、その開発が具体化するまでには、何度も相次いだ人間魚雷開発の具申をそのたびごとに却下してきたのである。部下を殺すような兵器の開発に着手すれば世間体が保てないからだ。
前にも述べたように、人間魚雷「回天」は海軍機関学校出身の黒木博司大尉の発案によるものであるが、この黒木大尉こそメンツも世間体も関係なく、自分の信じる理想のために周囲の思惑なども振り切って邁進するタイプの人間であったようだ。機関学校の出身者は航空機や軍艦や潜水艦などで直接敵と弾丸や魚雷を撃ち合う兵科の任務には就けず、軍艦の動力など機械を取り扱う士官として勤務することになっていた。黒木大尉も卒業後は戦艦山城の機関科に配属されたが、どうしても性に合わないと海軍兵学校出身者以外には門戸を開いていなかった潜水学校に血書付きの嘆願書を出して強引に入校、特殊潜航艇の艇長の配置を得る。ただし小島光造氏によると潜航艇の操縦は下手だったという。それはともかく、規則を破ってまでも戦艦の機関室から比べると格段に戦死の公算の高い潜航艇艇長を志願したところに黒木大尉の面目が躍如としている。もっとも戦艦山城の機関室勤務のままであったなら、レイテ沖海戦で西村艦隊の旗艦としてスリガオ海峡に突入、生存者10名を残して撃沈されてしまったのだが、黒木大尉が着任した開戦当初の頃には誰もそんな悲惨な運命を予知していたはずはない。
黒木大尉は特殊潜航艇の艇長になってもまだ飽き足らず、今度もまた隊内に波紋を巻き起こしながら人間魚雷「回天」の発案と開発に全身全霊を上げて奔走することになる。そして実物が完成するや、自分自身が乗り組んで訓練の先頭に立ったが、訓練中に海底に座礁した「回天」艇内で殉職する。だが黒木大尉は死んでも、その遺志どおり「回天」作戦は実施に移されることになり、多数の若者の生命が海底に消えた。そしてさらに人間魚雷の開発に煽られた海軍航空部隊もまた「後ろ指をさされないために」特攻作戦に踏み切り、そうなると陸軍も「世間体」を守るために海軍に追随することになる。こうして見ていくと、そもそも特攻作戦の遂行に当たっては日本人の世間体が大きな意味を持っていると私は考えているのだが、特攻の先駆者だった黒木大尉だけはそういう多くの日本人とはまったく異なる人間ではなかったかと思うようになった。むしろ中東で自爆テロを決行するパレスチナの若者たちに近いのではなかろうか。今後は特攻の源流となった黒木大尉の思想や人間像も掘り下げて研究してみたい。
「桜花」ミステリー・再び
珊瑚海海戦で、燃料が切れて墜落するのを覚悟の上で味方飛行機部隊を敵艦隊上空まで誘導した菅野兵曹長のような行為が、特攻隊員と同列に扱われないのは何故だろうかと、前項で疑問を呈したが、特攻隊員の出撃が自発的な意志によるものだとすれば、その戦死の意義は菅野兵曹長などとまったく変わらないわけで、特に戦後生き残った指揮官クラスの人々がことさらに特攻隊員のみを他の戦没者以上に手厚く慰霊・顕彰しようとした論理に破綻が生じる。おそらくこの疑問に対して用意されているであろう答えの一つは、特攻隊員には命令を受けてから出撃までの何日間かの間に耐えがたいまでの死の苦悩を味わわせてしまった、せめて彼らの死後であってもその苦悩をしのんで埋め合わせしてやりたいというものであろう。
だがこの論理も破綻していることは、すでにこのホームページに書いた一つの事実によって明白である。その事実とは昭和20年5月25日、海軍兵学校73期の長谷川薫中尉が神風特攻第10銀河隊員として陸上攻撃機「銀河」で鳥取県第二美保基地を出撃、沖縄方面へ向かったが、米駆逐艦キャラハンに撃墜され、長谷川中尉のみが米海軍に救助されて奇跡的に死の淵から生還したことである。この攻撃について連合艦隊告示第148号には、長谷川中尉が指揮していた第10銀河隊第一小隊の戦死者として、「銀河」1機分2名の氏名が布告されているのみで長谷川中尉の名前は無い。この日は長谷川中尉指揮下の4機のうち他の3機は天候不良のため基地に引き返しているが、それにしても3人乗りの「銀河」で2名分の氏名しか布告しないのは不自然である。日本海軍としては敵信傍受または中立国経由の情報などで長谷川中尉が米軍に救助されたことを知った上での処置であることは明らかである。「生きて虜囚の辱めを受けず」が建て前の日本軍にあって、海軍兵学校出身の士官が捕虜になっては都合が悪かったのだ。(海軍乙事件の福留中将のような上級者はいくら捕虜になってもお咎めなしであったが……)
これとまったく同様のことは真珠湾攻撃に参加した5隻の特殊潜航艇のケースにも見られる。2人乗りの甲標的と呼ばれる特殊潜航艇が5隻、決死の覚悟で真珠湾内に潜入、隊員9人は遂に帰還しなかったということで、「真珠湾の九軍神」として大々的に国民にも報道された。2人乗り5隻で何で9人なのかと、ちょっと算数のできる人間なら誰でも疑問を持つような間抜けな報道ぶりであったが、実は座礁した1隻の特殊潜航艇の乗員の1人が失神したまま米軍の捕虜となったことが明らかになったためで、戦時中の日本軍の建て前を考えれば、特攻「銀河」の長谷川中尉の場合と同様、やむを得ない処置であったとも言える。
しかし長谷川中尉のケースで私が問題とするのは戦後の記録である。元航空関係の参謀だった安延多計夫氏の戦後の著書に付記された特攻隊の一覧表の中では、長谷川中尉の氏名は抹消されたままで、長谷川中尉が本来指揮していた小隊の指揮官名が次席の戦死した搭乗員にすりかえられている。別に長谷川中尉は卑怯・未練な振る舞いをして生き残ったわけではないのだ。最後まで敵空母に突入しようとして果たせず、気がついたら米駆逐艦上に救助されていたに過ぎない。すべてが運命の悪戯でしかなかったのだ。職業軍人としての教育を受けた長谷川中尉は、特攻作戦は当時としてはさほど異常なものとは感じなかったと戦後に述べているが、100%の死が待っている特攻と通常攻撃とでは心理的負担に大差があったとも述べている。そういう人間としてギリギリの極限の死の苦悩を克服して出撃した隊員が、たまたま奇跡的に生還したばかりに特攻隊長であったという経歴までを記録の上から抹消されてしまうことが許されるのだろうか。せめて戦後になってからの記録では、第10銀河隊の第一小隊指揮官は長谷川中尉であったが、奇跡的に米艦に救助されたと注釈しておくべきで、それが事実を正しく後世に伝えるということではないか。生き残った特攻隊員を邪魔物扱いするような人間に、特攻隊員たちの苦悩をしのんで云々などと言う資格はない。
小学生の頃に初めて特攻隊に衝撃を受けて以来、多数読破してきた特攻隊関連の書籍の知識を拾い集めてこのホームページを書き綴ってきたが、この長谷川中尉のケースのようにホームページを作り始めてから新たに知った事実も多かった。「回天」考案者の黒木博司大尉が特攻隊の源流ではないかという確信もまたホームページ作成中に生まれてきたものである。また黒木大尉とは逆に「桜花」考案者とされる大田正一中尉についてはいまだに謎の部分が多く、特攻の不条理に翻弄された壮絶な犠牲者だったのではないかという思いが強くなってきた。ここでは大田中尉について述べてみたい。
「大田中尉」と簡単に書いたが、階級については諸説があり、終戦時は中尉だったとするのが一般的のようだ。軍人の階級は当然昇進があり、特に特攻隊として戦死すれば二階級特進などもあって生前の階級と死後の階級は異なってくる。この項ではこれからは大田中尉と記すことにする。中尉と言っても海軍兵学校を出た士官ではなく、高等小学校を卒業した後に海兵団を志願して、水兵から叩き上げて士官にまで昇進した中尉である。海軍ではこういう叩き上げの士官を、兵学校出身の士官と区別するために特務少尉、特務中尉などと呼んで区別していたが、昭和17年後半になって階級名の呼称から「特務」の二文字を外すようになった。零戦の撃墜王として有名な坂井三郎氏も終戦時は中尉だったが、やはり海兵団からたたき上げた特務中尉である。
大田中尉の階級に関しては一応解決したが、次に「大田」か「太田」かの問題がある。これは本当の「桜花」考案者が誰かという厄介な問題とも関連があるので、少しくわしく書いておく。私がホームページで何度も引用させて頂いている深堀道義氏(「特攻の真実」著者)が私の文章を読まれて送って下さった記事のコピーがあるが、「四十九年目の太平洋戦争」という特集の中の、秦郁彦氏の「「桜花」特攻・大田正一の謎」という文章である。人間爆弾「桜花」の考案者とされる大田中尉の経歴をこの記事から簡単に拾ってみる。(どなたかこの記事をご存知の方がいらっしゃいましたら出典を教えて下さい。)
大田正一は大正元年に山口県で生まれ、名古屋で育った。高等小学校卒業後、昭和3年に少年電信兵を志願して呉海兵団に入団、昭和7年に艦上攻撃機の偵察員となる。同僚の話ではなかなかのアイディアマンで、ロケットで大きな網を空中に打ち上げて敵の飛行機を撃墜する方法などを考えていたという。日中戦争で中国を転戦、昭和15年に一旦は予備役に編入されるが、木更津航空隊教員を経て、昭和18年にラバウルへ出動、海軍少尉に昇進した。昭和19年4月、輸送機の1081航空隊に転勤となって日本の内地勤務になったが、「桜花」を着想したのはこの頃だったと思われる。大田少尉はロケット式人間爆弾のアイディアを上層部に具申、昭和19年8月16日、大田の頭文字から命名されたマル大部品(大の字を○で囲む)の試作命令が下され、三木忠直技術少佐を設計主任として服部六郎技術少佐、鷲津久一郎技術大尉などの特別スタッフが編成された。そして早くも昭和19年10月1日には「桜花」(マル大部品)を装備する実働部隊である721航空隊が神ノ池基地で開隊されたわけだが、これは大西瀧次郎がフィリピンで最初の特攻隊を編成したとされる時期よりも前であり、すなわちここにも特攻隊の歴史を改竄しようとする意図があったに違いないことはすでに述べた。
「桜花」の悲劇的な戦歴については幾つもの文献があるので省略するが、「桜花」考案者とされる大田正一には、さらに数奇な人生が待っている。秦氏の記事を追ってみると、終戦直後の昭和20年8月18日、大田正一はあまりに残酷な兵器を発案した者として周囲の謗りを受けつつ、零式複座練習戦闘機(いわゆるゼロ戦の練習機型)で神ノ池基地を離陸して再び帰らなかったという。昭和20年9月5日付で大田の本籍地に「海軍軍人死亡の件報告」が提出されている。それによると死亡の事由として零式練習戦闘機で試験飛行中海面に墜落、捜索を行なうも発見できず、生存の見込みまったくなし、とされている。また昭和31年11月20日に呉地方復員部が作成した「内地死没者名簿」にも大田正一は航空殉職で戸籍抹消済となっているそうだ。
ところが、秦氏の記事によれば大田正一は戦後も生きていた!神ノ池基地を離陸した後、金華山沖で北海道の漁船に救助され、田中敏文元北海道知事の計らいで、樺太(サハリン)からの引揚げ者として新しい戸籍を作って貰い、全国を転々としながらまったくの別人として人生を送ったという。秦氏は大田正一のこういう数奇な人生の裏に、「桜花」開発のために大田をあやつった黒幕的な人物がいたのではないかと疑い、さまざまな調査を行なったが、成果は上がらなかったと述べている。こうして秦氏はこの黒幕の人物を記事にすることを断念して、やはり「桜花」の着想は大田正一のオリジナルであったろうと結んでいる。他の記事を書く時の秦氏の執念に比べてやや腰砕けなのが気になった。
そこでここからは私の追加だが、「桜花」の開発者には大田(太田)正一と太田光男の諸説あると前に書いた。秦氏の記事を読んで、この問題はすでに大田正一で決着を見たとばかり思っていたが、丸の2003年8月号に元海軍中佐の鳥巣建之助氏が書いた「戦史で語る「世界の潜水艦」」の中に次の一文がある。
航空特攻の方も動き出しており、その先駆は人間ロケットであった。第762航空隊の太田光男少尉が着想し、小川太一郎工学博士が設計した人間操縦の爆弾であった。
すなわち四式一号火薬ロケットを装備したグライダー爆弾で、一式陸攻の胴体下部に装着、敵艦隊の手前で発進、滑空およびロケット推進で目標に突進し、体当たりするもので、マル大兵器という秘匿名で試作された。結局「桜花」と名づけられ、この部隊を「桜花特別攻撃隊」といった。
鳥巣氏は水雷・潜水艦関係の専門で、航空関係の得意な秦氏に比べれば、この方面の記事では間違いのある確率は高いと思われるが、鳥巣氏も秦氏もいい加減な伝聞や文献の孫引きで記事を書かれるような人ではない。だからこそ、この2人が互いに異なる内容の記事を書いていることの意味は大きい。どちらかが必ず嘘なのである。そしてその嘘は現在に至るまで完全には訂正されていないのだ。どちらが嘘かと言われれば、鳥巣氏の引用した太田光男説の方であろう。「桜花」は試作段階での秘匿名を「マル大部品」あるいは「マル大兵器」といった。発音すれば「マルダイ」である。もし太田少尉の名前を取ったのであれば「マル太部品」にならないか。「マルタ」または「マルタイ」と呼称して何ら差し支えないはずである。いくら海軍軍人が言葉遊びが好きだからといって(岩田豊雄は小説「海軍」の中で、海軍では娘のことを隠語で「daughter」→「銅」→「copper」→「コーペル」と言い換えたことを紹介している)わざわざ太田を大田と読み替える必要はない。救国の必殺兵器を考案した人間に対しても失礼である。また「大田正一」も一時は「太田正一」として伝わっていたことを考えれば、誰かが故意に「大田」を「太田」に混同させようとした可能性すらあるのではないか。それは誰か。その人物こそ秦氏が追及しようとした黒幕ではなかろうか。
最近ではインターネットのサイトを検索すると、いろいろな人がいろいろなことについて書いていて、匿名である故の文献的価値は書物に劣るが、インターネット上で調べようとして調べられないものは無いと言ってもよい時代になった。大田正一についても幾つかのサイトが見つかったが、それらの中から彼の数奇な運命の詳細がさらに浮かび上がってきたので紹介しておく。
「殉國之碑」というサイト(http://www.asahi-net.or.jp/~UN3K-MN/index.htm)に大田正一が取り上げられていて次の記載があった。
昭和20年8月18日 神ノ池基地を零戦で発進、鹿島灘で自決未遂。
漁船に救助され宮城県、鳴子陸軍病院に入院。
昭和20年9月5日 722航空隊司令発「海軍軍人死亡の件報告」。
大田正一「死亡認定」。
昭和22年 北海道で樺太からの引揚者に混じり新戸籍を作成。
昭和22年 「青木 薫」を名乗り神ノ池に居住。
昭和22〜24年頃 日本各地を転々と移動。
昭和24年6月 「北海道へ行く」と外出したまま行方不明。
昭和31年11月20日 呉地方復員部「内地死没者名簿」作成。
大田正一「航空殉職」「戸籍抹消済」と記載。
昭和51年 「横山道雄」を名乗り大阪に居住。
平成6年12月7日 京都バプティスト病院にて病死(無国籍)。
利用された経歴
大田正一は、兵卒から叩き上げられた応召の特務士官で、しかも当時は予備役であった。海軍の主流は海軍兵学校を卒業した兵科士官であり、彼のような経歴で意見具申をしても、途中で握り潰されるか長大な時間がかかるのが常であった。にもかかわらず大田の「桜花」プランが採用されるまでの期間は、あまりにも短すぎる。これは軍令部が「兵卒から盛りあがった特攻」というイメージを強調するために、大田の経歴を有効に?利用したものと推測される。
人道に対する罪
大田正一は、戦後家族を捨て名前を変えながら、身を隠すように全国各地を転々とした。なぜか。
終戦後、戦争犯罪人を罰する罪の一つに「人道に対する罪」があった。特攻計画の中枢にいたある軍令部参謀は、大西中将の自決により全責任を大西中将に負わせ、自分は安全圏に身を置いた。その参謀は「桜花」計画の全貌を秘匿するるため、大田正一に「戦争犯罪に時効は無い」と脅していた形跡がある。自決を試みて未遂に終わり全国を逃げ回る大田正一には、「人道の罪」「戦争犯罪の時効」の定義を調査する精神的余裕、相談相手は無かったのだろうか。
その軍令部参謀は戦後、自衛隊を経て参議院に当選したが、精神を患って病院に隔離され、看取る家族も無く死んだという。
次に「War Birds」という戦史や軍用機マニアのサイト(http://www.warbirds.jp/index1.html)の「桜花」や大田正一に関するコーナーに、アメリカ在住と思われる人からの次のような書き込みがあった。
こちらの番組 History Undercover で特攻の特集があり、それによると太田氏は名前を変えて生存していたそうです。癌に冒され余命を宣告されたとき、はじめて家族に自分の本名と桜花の顛末を明かしたと遺族の息子さんが語っておられました。この番組は日米双方の関係者から直接のインタビューを集めた非常に質の高いドキュメンタリーで、ぜひ日本でも放映して欲しいものです。重い桜花を抱えつつ、一糸乱れぬ緊密編隊を組んだ陸攻の間を縦横無尽に F6F が飛び交うカラーのガンカメラ映像は涙なしには見られません。
私が見た番組によれば、大田氏は最初から自分が搭乗するつもりで桜花を提案したものの、技量未熟の理由で桜花隊には配属されなかったそうです。神雷部隊出撃の日、大田氏は桜花搭乗員に頭を下げ「私がこんな物を考えてしまった為に、申し訳ない」と謝っていたそうです。
戦後、彼が「のうのうと」生き延びた事には批判もあるでしょう。しかし私は、彼が桜花に対して感じていた責任があまりに大きかったからこそ生き延びたのだと思いたいです。意志と無関係な死を若者達に強要してしまった責任として、自らの意志では死ぬ事ができなかったのではないでしょうか。
あまりに厳しい時代にあまりに厳しい運命を生きた彼の心中は、平和しか知らぬ私ごときには想像すら及ばない葛藤があったのでしょうけど・・・。(S)
これらのサイトから垣間見えてきた大田正一の戦後は悲惨の一語に尽きる。神ノ池基地を零式練習戦闘機で離陸した後、海面に不時着したところを漁船に拾われ、サハリンからの引き揚げ者として新たな戸籍を取得、まったくの別人として戦後の生活を送ったらしい。旧ソ連や中国など大陸から引き揚げて来る日本人の身元や戸籍が相当混乱していたのに乗じてのことであろう。この間、最後の勤務地だった神ノ池にも居住している。癌に冒されて余命を悟った時に初めて本名や「桜花」の顛末を語ったという家族は、戦後になってから作った家族である。終戦までの大田正一にも家族があったが、彼らとは神ノ池基地を離陸した時に縁を切ったのであろう。秦氏の記事によれば、戦後に大田正一の死因が自決ではなく殉職となっているのは、遺族が年金を申請する際に手続きが有利になるようにとの、上層部の配慮であったという。
大田正一という生まれながらの名前を捨て、戦前・戦中の時代を共に支え合ったであろう前の家族を捨て、自らのそれまでの存在の証しをすべて捨ててまで、日本全国を転々としながら戦後を生き抜いた大田正一の心中はいかばかりであったのか。おそらくサイトの書き込みにもあったごとく、自らが考案と開発に関与した人間爆弾「桜花」で死んでいった隊員たちへの贖罪の意識が消えることは1日としてなかったのではなかろうか。
ここで気になるのは、「人道に対する戦争犯罪に時効は無い」と脅していた形跡があると書かれていた元軍令部参謀の存在である。秦氏が先の記事を書くに当たっておそらく気付いていたに違いない黒幕、そして記事にすることを断念した黒幕とはこの人物であろう。だが大田正一は黒幕に脅されて逃げ回るような人間ではなかったと思う。おそらく純朴で一途な性格、自らの「発明品」のせいで死んでしまった若者たちに一生をかけて償いをしたいと真剣に考える人物だったような気がする。黒幕から、「桜花」のような残虐な兵器を開発した人道上の罪は消えないぞと言われたとしても、捕虜処刑など軍事法廷で裁かれた戦争犯罪とは性質が違っていることすら気付かないほどのお人好しでもなかったであろう。ただ戦後になってからも大田正一がかつての上官からの口止めの指示に逆らうことが出来なかったのは、兵員から叩き上げられた彼の身に染み付いた軍人の習性であったろう。
ただこの黒幕が大田正一に真実を語られるのを恐れていたのは確かだと思う。考えてみれば、神ノ池基地を離陸した後、うまい具合に北海道の漁船に拾われ、サハリンからの引き揚げ者に紛れて戸籍を偽造してくれる人物に巡り会い、そこそこ物質的には不自由なく戦後を生き抜いたということに、何らかの作為を見ることも出来る。つまりこの黒幕の参謀が大田正一に口止めするために、万事に手を回していたということである。戦後参議院に当選するほどの人脈を持っていた黒幕にとってはいとも簡単なことに違いない。秦氏もおそらくこう考えて調査を始めたのだと思われる。
そもそも黒幕がいなかったとは考えられない。日本の組織において、下級者からの提案がすんなりと短期間に採用されて、実用化への軌道を順調に走り始めることなど考えられないからだ。私も医学の世界で何回か経験したが、日本の組織の上級者はほとんど例外なく下級者からの提案を歓迎しない。自分がそれまで慣れ親しんできた方法を変えられるのを本心では嫌う。大田正一のように兵員から叩き上げられた者が、海軍兵学校出身の者を差し置いて、新しい兵器のアイディアを提出したとしても、そんなものにたちまち飛びつくようでは上級者の権威が疑われ、日本の社会ではメンツが潰れることは間違いない。しかし大田が人間爆弾のアイディアを提出したとされる時から半年も経たないうちに「桜花」の実働部隊が発足していることを考えれば、海軍上層部にかなり顔の効く人間が一枚噛んでいない限り、現実問題として絶対に不可能なことである。あるいは「回天」の黒木博司大尉のような強烈な個性があれば別だが、大田には黒木ほどのアクの強さはない。
ではその黒幕とは誰か。「殉国の碑」のサイトに、自衛隊を経て参議院に当選とあるから、これは源田実以外にありえない。ここまで判っていながら、今さら名前を出すのも憚られるのだろうか。昭和16年には第一航空艦隊(機動部隊)参謀として真珠湾攻撃計画を立案し、大戦末期には東宝映画「太平洋の翼」(1963)やちばてつや氏の漫画「紫電改のタカ」(1963-1966)のモデルとなった松山の防空戦闘機隊343航空隊の司令として赫々たる戦歴を残したかと思うと、戦後は自衛隊のジェット戦闘機を乗りこなし、昭和37年以来、参議院議員に4回当選も果たしている。
だがこのページにも何回か書いたが、その輝かしい経歴にもかかわらず、源田実について語られていることは芳しくないことがあまりに多い。特攻隊を賛美するにもかかわらず自分は決して特攻に行こうとはしなかった話、343航空隊の司令時代に部下から特攻隊を出そうとしたが、最後に自分も行けと言われて引っ込めてしまった話。これだけ時代の花形として脚光を浴びてきたエリートであるから、当然いろいろな嫉妬受けていたのは事実であろう。だからこういう悪い話も半分にして聞いておいた方がよいが、それにしても源田実という人物は日本の指揮官の悪い類型のひとつであったと思われる。源田実はフィリピンで特攻作戦が始まった当時はちょうど40歳で、日本海軍航空の第一人者としての地歩を固めた頃であり、そういう地位や名声に対する未練が芽生える年代であった。これは私自身の心の動きや、私の周囲にいる同年輩以上の人々の行動を見て類推することであり、決して源田実個人に対する非難や中傷ではない。40歳に達してそれなりの世間の評価を受けるに至った人間が、何も自分がわざわざ特攻に行かなければならないと思う義理はなかった。自分はすでに海軍航空を立ち上げ、真珠湾攻撃も立案し、それなりの功労を上げてきた人間であると思えば、特攻に行くべきなのは自分より若い人間であるべきだと考えたとしても不思議はない。しかしこの思考パターンはかなり多くの日本の上級者に見られるものではなかろうか。
自分はすでに世間からある程度の評価を受けるに至った功労者であり、若い頃に苦労したから今さら業務の最前線で働かなくてもいいだろう、後方で管理業務のデスクワークや監督者としての楽な作業だけしていたいと考えている上級者が、日本の組織ではあまりに多いのである。上級者の大部分が同じように考えて、長老同士が互いを庇い合っていることが、現在の日本の組織を低迷させている原因の一つであると私は思う。例えば日産自動車のように外国人社長を任命して奇跡的に復活する企業があるのは、外国人経営者は従業員の整理なども断行するが、同時に役員や重役などの管理職の勤務状態も厳しく査定して降格人事やリストラを実施するからであろう。部下たちだけ特攻に追いやったような日本的指導方針はすでに破綻しているのである。
源田実論が少し長くなったが、果たして源田個人が「桜花」考案者の大田正一を脅していたのであろうか。確かに源田は特攻作戦への関与を認めたがらなかった。自ら著した「海軍航空隊始末記」の中でも、フィリピンで神風特攻が始まった頃は中央の軍令部で航空作戦に深く関わっていたはずであったにもかかわらず、特攻作戦が決定された経緯などについては見事に割愛されていて、昭和19年6月のマリアナ沖海戦の記述の次は、日本海軍航空隊最後の花道とされる松山の防空戦闘機隊の司令であった昭和20年1月へと飛んでしまうのである。このように隠されれば隠されるほど、特攻作戦発動の経緯は源田の人生にとって最大の汚点であったに違いないと勘ぐってしまうのは人情である。もし仮に源田が人間爆弾「桜花」開発推進の実力者であったとすれば、もちろんそのことは源田が最後まで隠しておきたかったことであろう。
源田の経歴はあまりにかっこよすぎる。海軍航空を育てた幹部の一人、真珠湾攻撃の立て役者、松山の343航空隊で米空軍に一泡吹かせた司令。この輝かしい経歴はもちろん源田個人も望んだことではあろうが、私はそれだけではなかったと推測する。源田の赫々たる戦歴と端正で精悍な風貌に政治的な利用価値があると値踏みした集団が、源田の風評になるべく傷をつけまいと画策した跡が見られるのだ。大田正一が脅されていたとすれば、源田個人ではなく、源田を政治的に利用しようとした集団であった可能性がある。このような集団があったと推定する根拠はミッドウェー海戦における幾つかの記述である。
ミッドウェー海戦は、日本海軍が空母赤城、加賀、蒼龍、飛龍の4隻を失って大敗し、以後の太平洋の戦局が逆転したと言われる戦いであり、源田は機動部隊の参謀として参加していた。源田は機動部隊の航空作戦を一手に任されていたから、ミッドウェー海戦敗北の最大の責任はもちろん源田にある。ところが海戦当時、源田は風邪を引いていて、十分な作戦能力を発揮できなかったという説があり、かつて少年向けの記事にも、もし源田参謀が風邪を引いていなければミッドウェー海戦に勝っていたという記載があったのを確かに記憶しており、亀井宏氏も「ミッドウェー戦記-さきもりの歌」の中で同様の説を紹介している。つまりミッドウェー海戦も源田が本調子ならば勝っていたと言わんばかりのこじつけだが、この風説を流したのは明らかに源田ではない。なぜなら源田は、自著「海軍航空隊始末記」の中で、結果的にミッドウェー海戦の敗因となった戦術転換は自分が長官に具申したものであることを正直に記載しているからである。
自分を政治的に利用しようとする勢力の前では、源田は特攻隊に関する事実については告白することすら許されなかったのであろうか。戦後も華やかな道を歩み続けた源田も、あるいは大田正一同様、人知れず特攻の重荷に打ちひしがれていたのかも知れない。
補遺
この項で「桜花」の考案者を太田光男少尉とした鳥巣建之助氏の文章について、本棚を整理していたら、鳥巣氏自身が10年前に書いた「太平洋戦争終戦の研究」の中の文章をほとんどそのまま引用したものであったことが判った。この本は特攻と原爆が太平洋戦争を可能な限り最も望ましい形で終結させたと主張するものであるが、その論旨はここでは省略する。水雷専門で潜水艦長などを歴任して回天特攻作戦を指揮した経歴の鳥巣氏にとって、やはり航空関係の資料の収集には秦氏ほどの緻密さはなく、フィリピン方面の神風特攻隊の戦果についても若干の誤りが認められる。「桜花」の発案者を太田光男としたのも他意はなく、おそらく最初に調べた文献をそのまま鵜呑みにされたようだ。
実は私は、海軍兵学校58期の鳥巣氏が6期先輩の源田氏を庇って、故意に太田光男説を記載した可能性も多少は疑っていたのだが、本棚をあさっているうちにそうでないことが判った。なぜなら鳥巣氏の「太平洋戦争終戦の研究」の中には、源田実が特攻作戦発動に大いに関わっていたことを示唆する記載があるからである。この補遺ではその部分を抜粋するにとどめておこう。
前出の大海指第431号にある「ニ、奇襲作戦、2.潜水艦、飛行機、特殊奇襲兵器などを以ってする各種奇襲戦の実施に努む」によって、すでに(特攻の)腹は決まっていたわけで、大西中将が現地に出発する直前、航空特攻に関する内示は行なわれていたと推察されるが、軍令部から一航艦長官宛の電報もこれを立証するものであろう。
「大海機密第261917番電
神風隊攻撃の発表は全軍の士気昂揚並に国民戦意の振作に至大の関係ある処、各隊攻撃実施の都度純忠の至誠に報い攻撃隊名<敷島隊、朝日隊等>をも併せ適当の時機に発表のことに取計い度処、貴意至急承知致度」
この電報は軍令部作戦課(第一課)の航空担当源田実中佐(52期)が10月13日起案し、上司の承認を得て発信している。
栗田艦隊について
昭和19年に陸軍に召集されてフィリピンの戦闘に参加した大岡昇平氏の「レイテ戦記」は主として陸軍から見たフィリピン戦の様子を描いているが、その前半部分にはかなりの分量を割いて海戦と神風特攻隊のことにも触れられている。そして神風特攻隊については、次のように手放しの賞賛を送っているのである。
われわれはこういう戦意を失った兵士の生き残りか子孫であるが、しかしこの精神の廃墟の中から、特攻という日本的変種が生れたことを誇ることが出来るであろう。限られた少数ではあったが、民族の神話として残るにふさわしい自己犠牲と勇気の珍しい例を示したのである。
大岡氏は、神風特攻を通説に従って、捷号作戦の段階で、現地から自然発生したと見なした、とわざわざ付記しているとおり、「桜花」や「回天」など必ずしも通説どおりではない事例があることも承知されている。そして上記の賛辞は実際に出撃した隊員たちに限定されたものであり、若者たちに特攻を命じた上層部に対しては以下のように手厳しい。
口では必勝の信念を唱えながら、この段階では、日本の勝利を信じている職業軍人は一人もいなかった。ただ一勝を博してから、和平交渉に入るという、戦略の仮面をかぶった面子の意識に動かされていただけであった。しかも悠久の大義の美名の下に、若者に無益な死を強いたところに、神風特攻の最も醜悪な部分があると思われる。
そしてさらに次のように続いていく。
しかしこれらの障害にも拘らず、出撃数フィリピンで400以上、沖縄1,900以上の中で、命中フィリピンで111、沖縄で133、ほかにほぼ同数の至近突入があったことは、われわれの誇りでなければならない。
想像を絶する精神的苦痛と動揺を乗り越えて目標に達した人間が、われわれの中にいたのである。これは当時の指導者の愚劣と腐敗とはなんの関係もないことである。今日では全く消滅してしまった強い意志が、あの荒廃の中から生れる余地があったことが、われわれの希望でなければならない。
死の出撃を命じられた精神的な衝撃を克服して、若者たちが「見事に」敵艦に体当たりした事実そのものに対して、ここまでストレートに賛辞を呈することは、私は非常に危険なことだと思うが、大岡氏もまた召集兵としてフィリピンの地上戦で地獄を味わってきた経歴を持つ人であったことを考えれば、仕方のないことかも知れない。実は上に引用した文章は、レイテ沖海戦における栗田艦隊の戦いぶりに対する批判から続いたものなのである。上記の引用文冒頭の「こういう戦意を失った兵士」というのは実は栗田艦隊を暗に指している。栗田艦隊がもっと性根を据えて戦ってくれたならば、陸軍ももう少し有利に戦えたかも知れないのに、という非難が根底にあり、神風特攻隊は自らを犠牲にしてあれだけ戦ってくれたじゃないか、という対比が強調された文章と考えられるのだ。
栗田艦隊云々について簡単に触れておく。当時の日本の作戦指導としては、フィリピンで敗れれば対米戦は絶望的になるとの認識の下に、米軍がフィリピンに来攻した場合には陸海軍の全力を挙げてこれを迎え撃つ捷一号作戦を策定していた。ちなみに米軍の鉾先が台湾であれば捷二号、本土ならば捷三号、北方ならば捷四号とそれぞれ決まっていたが、その戦場がフィリピンになる公算が最も高かった。
海軍としてはフィリピン近海を最後の決戦場と定め、すべての艦隊が全滅することも覚悟の上で乾坤一擲の大作戦を決行したのである。すなわち栗田健男中将に率いられる主力艦隊は戦艦大和、武蔵、長門、金剛、榛名を擁して、ボルネオの油田地帯から北周りにフィリピンのレイテ島沖に突入し、米軍の上陸軍を粉砕するというものである。米軍の上陸を許せばすべてが不利になることは明らかだったから、ここが海軍の作戦の唯一の目的と言ってよかった。だが航空機の援護のない栗田艦隊が圧倒的に優勢な米海軍を打ち破ってレイテ沖に到達することは非常な困難が予想されたので、他の部隊がかなり巧妙な陽動作戦を展開して栗田艦隊を助けることになっていた。先ず旧式で低速な戦艦山城と扶桑を中心とする西村艦隊が南回りでレイテ沖を目指す。さらに日本本土からは残存する空母瑞鶴、瑞鳳、千歳、千代田をかき集めて、これに航空戦艦伊勢、日向を加えた小沢艦隊がフィリピン目指して南下して、米軍の強力な空母部隊を引きつける囮になるというものである。
くわしい経過は今日ではさまざまな文献に載っているので省略するが、結果だけを言えば、南回りの西村艦隊はレイテ近海の米戦艦部隊と交戦してほとんど全滅したが、その代償として米戦艦部隊はこの方面にクギ付けにされた。本土を出撃した小沢艦隊も空母はすべて撃沈されたが、ハルゼー提督率いる米機動部隊を長時間にわたってレイテ島方面から引き離してしまうのに成功した。
こうして西村艦隊、小沢艦隊とも我が身を敵弾に晒して、まさに特攻隊にも匹敵するような捨て身の囮作戦を遂行したにもかかわらず、栗田艦隊だけは戦後になってからもさまざまな疑惑を生むような中途半端な行動を取ったあげく(その中途半端な行動が米軍を欺瞞したりもしたが)、戦艦武蔵と多数の巡洋艦、駆逐艦を失いながら、当初の作戦目的を放擲して反転してしまったのである。途中、上陸作戦を航空援護していた米護衛空母部隊と遭遇してかなりの損害も与えたが、その攻撃も中途半端なものに終わってしまった。なお、大西長官が編成した最初の神風特攻隊に攻撃されたのもこの護衛空母部隊である。
栗田艦隊がもっと果敢にレイテ沖に突入して、米上陸軍に一矢報いてくれていたらよかった、という大岡氏の感想は、陸兵として現地にあった者なら誰でも抱く共通のものであろう。大岡氏は「レイテ戦記」の中で、戦後の日米の記録や関係者たちの証言を念入りに検討したうえで、栗田艦隊を一刀両断に批判している。
これらの疑わしい証拠の蓄積、長官幕僚の混乱した証言、弁明、言い替えの群れから浮び上ってくる事実は、栗田艦隊の戦意不足、レイテ湾に突入の意志の欠如ということであろう。
地上戦で苦杯を舐めた著者の感情として、レイテ沖に殴り込んでくれなかった栗田艦隊への恨みは尽きないようである。栗田艦隊がもしレイテ沖に突入したとすれば、これもほとんど全滅して多数の悲劇が付け加えられることになったことは、理屈の上では承知しながらも、なおこのような非難をせずにいられないことに、戦場を体験してきた人にしか理解できない心理があることを窺わせる。
栗田中将の個人的資質に問題があったことは事実であろう。だが部下たちだけ飛行機に乗せて、安全な立場から特攻を命じた指揮官たちに比べれば、栗田中将の場合はレイテ沖に突入して戦艦大和が沈没すれば自分も死ぬことになるのである。本能的な死の恐怖は特攻隊の若者たちと同じであったろう。いや、年齢を食った分だけ卑怯、未練な振る舞いに及びやすくなっていたかも知れない。
栗田艦隊がフィリピン近海から反転して引き返す直前、新たな敵機動部隊を求めてこれと決戦する、とアリバイ的に打電したことに関して、大岡氏は、実質的怯懦を攻撃精神におき替えるわれわれの精神の習性を示している、と書き、こういう卑怯、未練な振る舞いは独り栗田中将のみならず、多くの日本人に共通するものではないかと示唆している。生命に関わるような決断は必要でなくなった戦後の現在においても、責任や危険を伴う義務は出来るだけ避けようとして、小官僚的な弁明やアリバイ工作を弄するような、旧軍隊であれば中将クラスの指導者たちの何と多いことか。大岡氏の指摘を現在に活かすとすれば、こういうプチ栗田とでも言うべき責任分担の放擲を許さないということであろう。
また自分が少しでも他人より楽をしようなどという下司な了見を起こさないことも大事であるが、これは戦後の日本においては全く語られなくなった美徳かも知れない。吉川英治の「新書・太閤記」の本能寺の変のくだりに、信長と共に討たれた信忠の家臣で、光秀軍と一戦に及ぼうとしていた武士が、古井戸を見かけてつい生命が惜しくなり、井戸に隠れていたところを光秀方の武士に発見されて不名誉な死を遂げることとなった話が書かれている。吉川英治はこういう恥を晒さないようにするには、大言壮語しているだけでは駄目で、常日頃から精神の鍛錬を心がけねばならないと説いている。
何でもかんでも「だから戦争はいけないんだ」「戦争の人殺し反対」だけで片付けるような時代になって、戦争の無い平和な時代にあっても守らなければならぬ美徳までを我々日本人は失ってしまったのではないか。
昭和天皇と特攻隊
昭和天皇に戦争責任があったかどうか、非常に難しい議論である。大日本帝国憲法によれば、大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス(第1条)となっていて、天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ(第2条)と書いてあるから、戦前の天皇は文字通り大日本帝国の最高責任者だったのである。しかも大日本帝国憲法によって、立法、行政、司法の三権を統括する他、天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス(第11条)、天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス(第13条)と軍事や外交の最終決定権までを握っているものと規定され、ヒトラーやスターリンやサダム・フセインや金正日が聞いたら羨ましがるであろうほどの独裁的な権力を賦与されていたのである。こうなれば日中戦争や太平洋戦争の責任を免れ得ないのは当然のように見えるが、大日本帝国憲法には、天皇ハ神聖ニシテ侵スベカラズ(第3条)というとんでもない条項も付いているのだ。つまり天皇に万一何か誤りや間違いがあっても、その責任を追及して神聖な天皇を冒涜することは許されないのである。この意味で昭和天皇には戦争責任はないし、太平洋戦争の中で起こった特攻隊やひめゆり部隊の悲劇にも責任は持っておられないと私は解釈する。
では誰に責任があったかと言うと、本来天皇が負うべき責任を肩代わりすべき立場の人間のことが大日本帝国憲法には規定されておらず、これが戦前の日本が悲劇の奈落へと転落していく運命にブレーキをかけることが出来なかった最大の要因となった。軍部も政党も自分の野望を実現させるために、最高権力者である天皇の名前を語り、錦の御旗を掲げて反対勢力を封じ込めようとしたのである。こんな都合の良い御旗はなかった。軍事や外交を含む全てのことがらに関するオールマイティーであり、しかも神聖にして侵すべからざるものであるから、誰からも責任を追及されることはなかったのだから・・・。
天皇の名を語ってゴリ押しされた政策の最たるものの一つが統帥権干犯問題であろう。1930年のロンドン海軍軍縮条約の締結は、時の民政党の浜口雄幸内閣が天皇の大権を侵し奉ったものであるとして、海軍軍令部ばかりか野党の政友会までが騒ぎ立てて、結局浜口首相は暗殺されるに至った事件である。これ以降、軍事に関することは天皇の大権であるという口実が堂々と罷り通るようになり、誰も戦争へと続く政策に表立って反対を唱えることが出来なくなってしまった。
ここで誰しもが思うのは、天皇には独裁的な大権が賦与されていたのだから、戦争には反対であると何故一言おっしゃらなかったかということであろう。昭和天皇は戦前から国際派でいらして、対米戦争に反対されていたのは今では有名であるが、それなればこそ何故という疑問はさらに強いものとなる。昭和天皇独白録によると、昭和天皇は張作霖爆殺事件をもみ消そうとした田中義一首相を強い口調で詰問したところ内閣総辞職に至ってしまった混乱を反省して、政治関係の事には輔弼の者の言に従うようにしていたようである。立憲君主であろうと努力したことが却って仇になってしまったのだろうか。二二六事件の鎮圧と太平洋戦争の終戦の2回だけは、この立憲君主としての立場を超えて積極的に発言されたと述べておられるが、むしろ昭和天皇が独裁して下さった方が却って我が国にとって幸せであったなど、当時の輔弼の任に在った者たちは墓の中で恥を知るべきであろう。昭和天皇は美濃部達吉の天皇機関説にも好意的であったし、現人神と言われても自分は普通の人間と同じ人体の構造をしているから神ではないと言ったなどと、さすが生物学者と思わせるきわめて常識的な精神を持ち合わせていらしたことを示すエピソードも独白録の中に収められている。
このように昭和天皇御自身は、大日本帝国憲法の規定を行使して独裁体制を取ろうなどとは決して思っていなかった常識人であった。私は歴代の天皇の中でも最高の名君だったのではないかと密かに思っている。もし後醍醐天皇のような方だったら大変なことになっていたであろうが、昭和天皇の側近たちの中には、後醍醐天皇の側近のような者もいて、結局は天下の状況を正しく判断することも出来ないまま、国家に大乱を引き起こすことになってしまったのは皮肉である。
昭和の軍人たちが後醍醐天皇の御世に憧れを持っていたことは、特攻隊の隊名や沖縄方面の作戦名に、後醍醐天皇系の南朝方の忠臣である楠木正成の旗印から、菊水隊とか菊水作戦などの命名があることから明らかである。楠木正成は足利尊氏の大軍を湊川に迎え撃って戦死するが、到底勝てる戦いではないことを知りつつ、南朝方のために死を覚悟して出撃して行ったことが、太平洋戦争末期の昭和軍人たちの心情にもマッチしたのであろう。正成・正季の兄弟の死の間際の言葉とされている「七たび人と生まれて国に仇をなす逆賊を討たん」から取った七生隊という特攻隊名もあった。ただし純粋に歴史的に言えば、昭和天皇は北朝方の末裔でいらっしゃるから、楠木正成こそ本来は逆臣なのである。だが日本人の心情にとっては、北朝でも南朝でも構わない、とにかく天皇と名がつく人のために生命を捨てて戦うということ自体が崇高な行為だったのである。
天皇のために生命を惜しまず戦うことが日本人の死生観と一体となったのは、昭和とか大正・明治といった新しい時代に限ったことではない。「海ゆかば」の歌詞が大伴家持の古歌から採られていることはよくご承知であろう。
海ゆかば水漬くかばね
山ゆかば草むすかばね
大君の辺にこそ死なめ
かえりみはせじ
深堀道義氏は「特攻の真実-命令と献身と遺族の心」の中で、戦前の日本においては、天皇のためということは個人崇拝ではなく、国家のためと同義であったと述べているし、小島光造氏もまた「回天特攻」の中で、天皇とは西欧国家における神と同様の意味を持っていたとして、お二人とも天皇制なくしては特攻作戦はあり得なかったのではないかと述べておられる。戦前の教育を受け、軍の専門学校(海軍兵学校)を出られた方々が揃って天皇制を重要視されていることから考えて、おそらく特攻作戦は、命じた側も命じられた側もその心理において、天皇制と密接に関わっていたことなのだろう。
だが悲しいことに(それは幸せなことなのかも知れないが)、我々戦後に生まれた者にとっては、いくら戦前の人たちが書かれた書物を読んでみても、天皇制と特攻隊の関連について全くイマジネーションが湧いて来ないのだ。特攻隊員を命じられた若者たちの心もなりきることが出来そうだし、特攻を命じた者たちの後ろめたい気持ちも今の年齢に達してようやく判ってきた。しかしそれらの人たちの心の中で、昭和天皇や天皇制がどういう位置を占めていたのかはあまりにも難解で、戦後生まれの我々の理解力を遥かに越えている。
我々戦後世代は、天皇は日本の国の象徴ですと教わってきて、無条件にそれを受け入れてきた。しかし考えてみれば天皇が何を象徴しているのかは曖昧である。戦前だって天皇は大日本帝国を象徴していたのであるし、日本は神の国ですと純粋に信じている当時の国民の象徴でもあったはずだ。かわぐちかいじ氏の「ジパング」という劇画の中にもこれと同じ発想が見られる。現代日本の海上自衛隊の最新鋭イージス護衛艦が太平洋戦争の真っ最中の昭和17年にタイムスリップする話だが、戦争中の木戸内大臣が敗戦後の天皇の地位を心配して21世紀人に訊ねる場面がある。戦後の天皇は日本の象徴であると知った木戸内大臣は、この時代においても同じだと明快に答えるのだ。
では私自身にとってどうかと言うと、かつて日曜の朝にある民放で「皇室アルバム」という番組を放映しており、天皇・皇后や皇太子ご一家の幸せそうな様子を毎週見せてくれていて、天皇はこれを象徴しているんだろうと漠然と考えていた。つまり天皇は、そういう日本国民が理想とするような幸福で平和な家庭を象徴していると思われるのであるが、一方の戦前においては国民が一丸となって建設していく理想の神の国を象徴していたのではないか。我々戦後生まれの世代にとっても、幸福な家庭とか愛する者のために特攻隊に行くというのは、それほど理解不能な状況ではない。このように考えていくと、実際の特攻隊の現場に居合わせた人々の脳裏には、天皇の下に一丸となった神国日本のイメージがあったであろうことも少しずつ判ってくるような気がする。ということは、さらに裏を返せば、日本人は天皇が象徴するもののためには死ぬことが出来る民族なのかも知れない。天皇にはいつまでも幸福で平和な家庭の象徴であり続けて欲しいものだ。
天皇と特攻隊については何だか中途半端な議論になってしまったが、天皇と特攻隊という二つの言葉から連想する一つの小さな事件がある。大部分の人たちは忘れてしまったと思うが、昭和39年の東京オリンピックの開会式には天皇も臨席されていて、世界各国からの選手団に手を振って応えられていた。それをイタリアのある記者が、「20年前、特攻隊の若者を送り出した亡霊が、今は世界の若者に手を振っている」というような内容の記事を本国に配信したという記事を目にした。おそらく宮内庁あたりが驚いて事の収拾を図ったのだろうが、「ステキなおじさまだったわ」とか「ヒトラーやムッソリーニとは違うよ」といった他の外国人特派員のコメントを集めて事なきを得ていた。しかし天皇の戦争責任に関する日本人の態度は、西欧諸国の合理的な人間には特攻隊と同様に判りにくいものであることを、これもまた象徴しているように思える。
もう一つ、純粋な戦後生まれ世代としての感想を言えば、特攻隊員たちが自らの生命を投げ出してまで戦ったのが名目上は昭和天皇のためであったことはせめてもの慰めであった。もちろん戦没者御遺族の心の中には許せないものもあることは判るが、これがヒトラーやスターリンのような者のために戦わされた結果だったとしたら、そのやりきれなさは比べ物にならないほど大きかったのではないか。さらにサダム・フセインや金正日のように国民の苦しみをよそに自らの蓄財と奢侈に走っているような指導者のためだったとしたら、さらに各種利権を貪って責任を取ろうとしない戦後日本の政治家たちのためだったとしたら・・・。敗戦後の昭和天皇の言動や行動はある種の胸を打つものがある。国民を助けるためならば自分はどうなっても構わない、どこへでも行くと述べられたそうだが、おそらく自らの戦犯容疑での処刑も覚悟しておられたとしか思われない。マッカーサーも、天皇の司令部への来訪は自らの生命乞いのためだろうくらいにしか想像していなかったが、日本国民を助けて欲しいと懇願されて意表を突かれたと回想しているのを読んだことがある。昭和天皇こそは特攻隊員たちの心情を共有していた君主だったと私は思う。
歴史はめぐる
前に書いた福留中将は、開戦当初、敵地に不時着して後日生還した攻撃機のクルーに対し、捕虜になっていた疑いありとの理由で自爆を強要しておきながら、自らは抗日ゲリラの捕虜となって陸軍部隊に生きて救出されたうえ、第二航空艦隊長官という要職に返り咲いたわけだが、フィリピン戦の当初、搭乗員の士気低下を理由に大西の主張する特別攻撃に反対していたのは、その引け目ゆえのせめてもの罪滅ぼしのつもりだったと思えなくもない。あまりにも卑怯・未練で不甲斐ない人間像しか思い浮かんでこないが、結局は人間というものは生物本来の自己保存本能の制約から逃れることが出来ないうえ、年齢を経るとともに権力欲や虚栄という余計なものまで背負い込んで、保身のために身動きがとれなくなる哀れな生き物であるようだ。
軍人ばかりではなく、学者だって同じことだ。ついでながら1933年(昭和8年)に起こった京大の滝川事件は、滝川教授の刑法学説は赤化思想であるとして文部大臣鳩山一郎が罷免を要求し、大学の自治と学問の自由を弾圧してきた事件だが、この事件で保身のために自説を曲げて当局に迎合した教員もずいぶんいたらしい。そんな教員を皮肉った替え歌が残っている。(「戦友」のメロディーで)
此処はお江戸を何百里
離れて遠き京大も
ファッショの光に照らされて
自治と自由は石の下
思えば悲し昨日まで
真っ先かけて文相の
無智を散々こらしたる
勇士の心境変われるか
停年近い頃なれど
地位が見捨てておかれよか
妻子のためじゃ かまわずに
講義をしようと目に涙
世相に心はとがむれど
辞めてはならぬこの身体
強硬教授と別れたが
戦い負けとなったのか
後になってから歴史を振り返ってみると、結局こういう人たちの態度が軍部独走を招き、最終的には特攻隊出撃の遠因ともなったわけであるが、戦前の厳しい言論統制の中で、この替え歌で皮肉られた老教授の立場に立たされた時、誰が自信をもって自分なら正論を貫き通せたと断言できようか。あの時代はあまりにも遠くなりすぎてイマジネーションが湧かないという人であれば、昨今のマスコミで伝えられているサダム・フセイン体制下のイラクや、金正日体制下の北朝鮮で軍部や大学の要職にあるとして、自分なら上層部に対して正論を貫けるかどうか、頭の中でシミュレーションしてみてはどうだろうか。
かく言う私だって、10歳から20歳代くらいまでは、40歳50歳になった大人とはそれなりの経験を積んで立派な見識を持った人間たちだろうと思っていたわけだが、自分が50歳の坂を越えてみると、大人なんて子供の頃に想像していたほど大したものではなかったんではなかろうかということが初めて判った気がする。これまで営々と築き上げてきた自分の人生が何かの加減で音を立てて崩れるんじゃないかという不安に常に怯えながら、小心翼々と保身の術を繰り返す日常に、ちょっと油断すればドップリとはまり込んでしまいそうな自分自身の姿がそこにある。福留中将や菅原中将を非難したり、京大の某老教授を嘲笑する資格が自分にあるとは到底思えない。
だが大人の正体が判った今になってみると、そんな大人たちに指導され、命令されて死んで行った若き特攻隊員たちの人生とは何だったのだろうかと考えざるを得ない。特攻作戦を指揮した人間たちが、すべて立派な見識を持って覚悟が定まっていた人ではなかった。いや、むしろ大部分は戦後もおめおめと生き残り、特攻を出した責任を追及されることからコソコソと逃げ回る凡人ばかりであった。もちろん、特攻隊に行った人たちがもし死なずに生き残ったとすれば、その大部分はやはり凡人として、今度は私の世代の者たちに対して理不尽な命令を下す立場に立った可能性は否定できない。問題はなぜこのような不条理が代々繰り返される素地が日本史に内在されているかということだ。
私は特攻隊員の若者たちを、我が民族の誇りなどと誇大に美化するつもりはないし、また凡人であった指揮官を糾弾するだけで問題が解決するはずはないとも思っている。私が言いたいのは、なぜ日本においては近代から現代に至るまで、各時代の上級者が下級者に対して理不尽な命令を下し得る素地が残っているのかということだ。西欧においても中世以前においては、封建領主の下で一般の領民たちは自分や一族の生命までを含めてあらゆるものを搾取されていただろうが、特攻隊の構図は世界史の中では封建制度下のこの領主と領民の関係が最もよく類似しているのではないか。ちなみにアラブ世界における自爆テロは、テロリスト個人の側に強烈な憎しみを込めた個性と信仰があって初めて成り立つ行為であり、日本の特攻隊とは最初の動機からして異なっている。
つまり日本は形だけは西欧型の民主主義を取り入れた近代国家ということになっているが、その精神的な根底において、まだ中世の封建時代の名残から完全に脱却できていないのではなかろうか。だから20世紀になってからも上層部の命令一下、特攻隊のような不条理な組織的戦闘が行なわれたし、21世紀にわたって構造改革の痛みを一般国民だけにしわ寄せする政府が相変わらず存続できる素地を残しているのだとも思われる。
だが日本人が祖先から受け継いだ遺伝子や生活習慣や文化的背景が1世紀や2世紀で急に変わるわけもない。我々日本人にとって代々繰り返されうる不条理の連鎖を断ち切る一番の近道は、「恥を知る」という徳目を励行することだろうか。ルース・ベネディクトは日本文化は恥の文化であると言ったが、これは世間の目を気にしたうえでの恥ということだ。私がこれからの日本人に必要だと思うのは、自分自身に対する恥、若かった頃の自分に対する恥である。人間は誰でも若い頃は理想と使命感に燃えて、不正や卑怯な行為に対する感受性も最も強い時期であるが、大人になってからは、あれは若気の至りだったの一言で捨て去ってしまう人がほとんどである。しかし若い頃の理想、特に上級者に対する批判の中には多くの真実がある。少なくとも指導的立場に立った者が、かつての上級者の轍を踏まないという心構えを保ち続けるだけでも日本はずいぶん変わるはずだ。
現実はどうか。若い頃に「労働者と連帯」などというスローガンを掲げて学生運動に熱中した闘士たちで、大人になってからは組織の管理職として従業員の非情なリストラを平然と行なっている幹部は多いのではないか。また1970年代にかけての学生運動は医学部の医局解体闘争を契機に、一気に全学に拡大したものであったが、我々医学部の業界でも、当時は学生運動の熱烈なシンパだったくせに、教授・助教授になるや管理者然としてふんぞり返っている者がいる。ひどい例になると、博士論文を書くのは医局制度に迎合するものだと叫んで同僚や後輩の学位取得を強圧的に阻止した人間が、自分に出世の芽が出るやいなや宗旨を変更して学位を取得、助教授から教授に昇り詰めた者もいる。おそらくどこの業界でも同じであろう。私はこういう人間たちのことを恥知らずと呼びたいと思う。若い頃の理想主義は若気の至りと平然と切り捨てられる者のみが指導的立場に昇っていき、こういう人間は同じような人間を周囲に集めて後継者に指定していくから、歴史はいつまでたっても同じところを回っている。
歴史の風化とは何か
若い人たちに言いたい。周囲の大人たちを見て、どんどん批判して欲しい。そして絶対に自分が批判したような大人にだけはならないで欲しい。そういうことの積み重ねだけが歴史の過ちを繰り返さないための歯止めになるのである。しかし特攻隊員の人たちはそれすらも許されなかった。無能で無責任で上級者の権威だけを楯にして、無謀きわまる愚かな作戦を継続しようとした大人たちによって、次々と強制的に死地に追いやられたのだ。だから若い人たちの未来を奪わないこと、これだけは残された世代や後に続く世代の者が、特攻隊員たちに代わって、実現しなければならないメッセージだと思う。親として、教師として、上司として、為政者として、あらゆる上級者としての立場に立った時に、下の若い者たちが未来を選択する権利を、身を賭してでも守らなければならない。日本人がそういうことが自然にできる国民になった時、初めて特攻隊員たちの御霊も浮かばれるのではなかろうか。
ところで歴史が風化するとはどういうことか。特攻隊の歴史、ひめゆりの歴史、原爆の歴史、大空襲の歴史、そういう歴史を風化させずに後世に伝えなければならないと言って精力的に語り続けている人々がいる。その努力には素直に頭が下がるし、敬服しなければならないと思っている。だが具体的に歴史を風化させないとはどういうことなのだろうか。そもそも風化しない歴史はあるのだろうか。
特攻隊で出撃して行った若者たちにただ涙して、もう戦争はイヤだと叫ぶだけで、特攻隊の歴史は風化しないのだろうか。兄弟や夫などの肉親や恋人が特攻隊で戦死された方、実際に特攻隊の出撃を見送った方、こういう実際の特攻隊員の面影とともに生き続けてこられた方々にとっては、特攻隊の歴史は生々しい現実である。故人との想い出や、あの頃の情景を思い出すことによって、涙の乾く時は一日としてなかったに違いない。
しかし菩提を弔われる人と共に、弔ったすべての人たちもまた鬼籍に入られた時、あらゆる歴史的事件は一旦風化するのである。日露戦争の旅順要塞攻撃で戦死した兵士たちを涙を流して追悼する人が、この平成の時代に何人いるだろうか。与謝野晶子の反戦詩や、司馬遼太郎の「坂の上の雲」などで、無機質な歴史的記述として認識する人がほとんどであろう。さらに織田信長に皆殺しにされた一揆衆や、蒙古軍に蹂躙された壱岐・対馬の住民の歴史に到っては言うまでもない。そして神風特攻隊の歴史も今から100年後、200年後には確実に同じような情況になるはずである。
特攻隊は可哀想だった、気の毒だった、不条理だった、残酷だったと、単に嘆き悲しみ、憤るだけでは、いつか無機質な歴史的記述に変貌してしまう。生身の人間としての特攻隊員の姿を知る人もまた必ずいなくなってしまう以上、隊員の死を無駄にしないためには何をするべきか、私はずっと考えてきた。私自身、生身の特攻隊員を知っているような世代ではないし、肉親にも幸いに戦死した者はいない。そんな私が到達した結論は、歴史的記述をできるだけ正確に読み解くこと、そして特攻を命じた者と命じられた者がどういう精神的土壌の中で、それぞれの役割を演じたのかを解析して、何かに書き残しておくこと以外に、私たちの世代に出来ることは無いというものだった。
私は戦後の民主主義教育を受けて育ってきた。戦後の教育においては、戦争は悪であり、遠ざけておくべき罪であり、知ろうとしてはならない過去の日本人の病根であった。仲間の間では「戦争反対」と言えば良い子になれたし、「そんなのは軍国主義的だ」という言葉は相手を言い負かす万能のセリフだった。第二次大戦の戦記物を読んだり、艦船や航空機などの兵器に関心を持っていたりすると、必ずそれを批判的な目で見る者が何人もいた。軍歌などを歌おうものなら「やめろよー」と露骨に不快な顔をする者もいた。彼らにとっては、そういう態度を示すことで、すなわち自分は平和を愛する模範的な日本国民ですということをアピールしているつもりになっていたのではなかったか。
このホームページのコーナーも、特攻隊の精神的土壌を語ると言いながら、某大佐や中佐がどうしたとか、空母を撃沈したとか、そんなことばかり書いて、ちっとも特攻隊の人たちのために泣いていないじゃないか、と批判的な目を向ける人も多いのではないだろうか。期待外れだった読者には申し訳ないが、私が、私たち戦後初期の世代までが死に絶えた後になって、一旦風化した特攻隊の歴史を新たに息づかせる方法はないものかと考え抜いた末にたどり着いた結論の実験場がここなのである。まだ私の余生は、順調にいけばあと20年ほどはあろう。その間にもっといろいろ考えていきたいと思うので、ご意見やご批判があればお聞かせ頂きたいと思う。
特攻の町・知覧にて
2003年の夏、長年の念願がかなって鹿児島県薩摩半島の知覧を訪れることが出来た。近年になって、さまざまな書物や映画やドラマやドキュメント番組などによって多くの人たちに知られるようになった特攻隊の街である。太平洋戦争の末期、日本の陸軍航空隊はこの知覧を前進基地として、沖縄に来攻した強大な連合軍の機動部隊や上陸船団に対して特攻作戦を実施したのである。ちなみに海軍は同時期、対岸の大隈半島の鹿屋基地から特攻作戦を行なっていたが、一般には知覧の方がよく知られることになった。知覧には特攻隊員たちの母と言われた鳥浜とめさんの富屋食堂があり、とめさんの隊員たちに対する慈母のような献身的な愛の物語があったためである。とめさんは戦後には進駐米軍兵士や戦争孤児たちに対しても分け隔てのない慈愛を示し、まさに観音様の化身のような人生を送ったことが、戦後生まれの若い世代に対しても深い共感と感動を呼び起こしているのは確実である。
私が知覧の特攻平和会館で感じた感想は、館内の寄せ書きにも見られた多くの方々のものとは少し違うので、ここに書き残しておく。
会館内は厳粛な空気であり、たまたま一緒になった数十人の小学生の一団も最初はワイワイ私語していたのだが、次第に気押されるようにシーンとなっていく。そしてやがて年配の男性の解説が始まると、児童たちは真剣な眼差しになって話に釣り込まれていくのだが、この男性はおそらく特攻隊を次世代へ語り伝えようというボランティア的な方とお見受けした。
「まだ二十歳にもならない若者が最後に書いた手紙、『お母さーん、喜んで下さ〜い』、優しいお母さんへの想いを手紙に託して、自分が征かねば誰が征くんだと覚悟を決めて、ここ知覧の飛行場を飛び立って行ったのです。」
お母さーん、という箇所は悲壮な哀愁を帯びて、まさに声涙共に下る美文調の名調子。これが特攻隊を後世に語り伝えるということなのか?私は少なからぬ違和感を覚えた。
あの名調子の解説はなかなか文章では表せないので、会館で売っていた「知覧特別攻撃隊」という写真・遺稿集のあとがきを引用させていただく。編集は村永薫氏で、ご自身も学徒出陣で海兵団に入団した経験を持ち、復員後は知覧町に勤められた方だから、特攻隊員たちとは同世代である。
検閲をうける軍隊の手紙や遺言は、真実が記されているはずもなく、なかには強制されて書いたのもあるかも知れない‥‥などと思うことはおろかなことです。死を覚悟した勇士が、何で検閲をおそれましょう。
死を前にして真情を吐露したいからこそ遺言を書き、辞世の歌をよんだのです。
この小冊子を読み了えるのに、さして時間はかかりません。しかし短い遺言や、はがきの走り書きを、よく味わっていただきたいものです。
例えば「完全ナル飛行機ニテ出撃致シタイ」(後藤光春)とはどういうことでしょう。特攻機のほとんどはおんぼろで二百五十キロの爆弾を積むと、やっと離陸できる始末だったとか。なかには木製でジュラルミン張りの機体もあったり、ノモンハン事件(昭和14年)のとき使用した旧式のおんぼろもあったとか。
私は昭和21年6月8日、知覧基地跡の真ん中あたりに積み重ねてある残骸の中に、素人眼にもわかる、木製でジュラルミン張りの機を見ました。そのとき私は怒りをおぼえるとともに、勇士の心が思いやられ、涙が出てしようがありませんでした。戦争末期には、もう完全な飛行機をつくる力は、日本にはなかったのです。
それでも勇士は、与えられた機をこよなく愛しました。不幸にも徳之島の沖で散華した藤野道人曹長を陸上げしたとき、曹長の腕と足はしっかり機に結んであったと、潜水夫は証言しています。勇士の多くは、きっと愛機もろともにと、体を機に結びつけて征ったのでしょう。おんぼろの機に‥‥。
また「俺が死んだら何人泣くべ」(前田啓)とは、何と冗談めいた言葉でしょう。このようなジョークの絶筆が、平和会館には数多く展示されています。出撃の前夜、毛布を頭までかぶり、思う存分涙を流した勇士もいたそうです。枕は涙でびしょぬれになっていたと聞きます。だが、思う存分泣いた勇士は、あくる日はからりと晴れたかろやかな気分となり、このようなジョークを書いたのでした。
勇士は身辺をきれいにして征きました。不孝をわびる手紙、若い妻をたのむという手紙、どうしても言えなかった継母に「お母さん」と手紙で呼びかけ、心のわだかまりを洗っていった勇士、そうしてジョークを書けるようになって、「何も言うことなし」と「笑って」征ったのです。なかには念仏をとなえながら‥‥。
どうか手紙や和歌や絶筆や日記の奥底にある勇士の心をしのんでください。
解説の方が名調子で児童たちに語っていた内容は、ほぼこの通りである。もう一度言うが、これが本当に特攻を語り継ぐということなのだろうかと、私は違和感を覚えた。一晩泣きつくさねばならないほどの苦悩を背負わされ、おんぼろの飛行機に乗せられて体当たり攻撃を命じられるという不条理を十分理解していながら、しかもご自身もまた学業を中断させられて軍隊社会に投じられた経験をお持ちでいながら、何故このような結論にしか結びつかないのだろうか?
上に引用したあとがきの文章の筋立ては、「神風特別攻撃隊」を共同で著した猪口力平・中島正両氏に始まる海軍指揮官たちが、戦後になって自らの責任を回避しようとした文章とまったく同じである。軍の作戦方針には大いなる過ちがあった、また若者なるがゆえに前途を絶たれることに対しては計り知れない苦悩があっただろう、しかし特攻隊員たちは何の不満も言わず、ニッコリ笑って出撃して行ったのだ、日本人は国家の危難に際して自らの身を喜んで犠牲に出来るような立派な同胞や先輩を持っている、彼らを誇りにこそ思え、決して悪く言ってはならない、と。
まったくその通りである。誰も特攻隊員を悪く言う人はいない。世界中の戦争映画や戦争小説などで特攻隊員がナチスドイツの親衛隊や秘密警察のような描かれ方をしたものがあったら、ぜひ教えて頂きたい。また命令に忠実なだけの機械のように冷酷な自殺人間であるという描かれ方をしたものも無いはずだ。仮にあったとしても、まともな人間なら振り返りもしないような二流・三流の低級娯楽作品に違いない。こうして実際にありもしない特攻隊員たちへの悪口が、さも存在しているかのような前提を設けたうえで、それらから隊員たちの名誉を守るかのように振る舞い、そうすることによって自らの責任を帳消しにしようというのが、多くの特攻作戦指揮官クラスの人々の戦後の論理である。
これと同じ論理に乗っかって特攻隊員たちを語り継ごうとする風潮が、知覧特攻平和会館のみならず、かなり若い人々の間にも見られるのが気になる。おそらく戦争を経験した年配の方々から上記のような語り方をされた世代であろう。何を隠そう、この私だって若い頃は、主として旧海軍指揮官たちの著作によって、特攻隊に対する感銘を深めさせられた一人であり、もし20歳前後の頃に日本に戦争が起こっていれば、特攻平和会館に展示されているような遺書や辞世の和歌を残し、ニッコリ笑って死にに行くことの出来た人間であったことは間違いない。だが仮に若き日に特攻戦死したとした私の魂魄がこの世に戻ってきて現代の日本を見た場合、私の霊魂は何を思うのだろうか?自分はこんな連中に良い羽振りをさせるために死んだのか、そう思わせるような為政者や官僚や財界トップがあまりに多くはないか?
富屋食堂の鳥浜とめさんと特攻隊員たちとの束の間の交流の魂を揺さぶるような感動の物語を後世に語り伝えることは非常に大切なことである。その意味で知覧の特攻隊を世間に紹介した数々のドキュメンタリー番組やドラマや映画や書物の功績はきわめて大きいし、とめさんのような女性が日本にいたことは日本人としての誇りでもある。しかし特攻隊員たちの姿を涙を誘う名調子で語るだけでは、平家物語を吟じた琵琶法師たちと大して変わらないのではないか。私は特攻平和会館内での小学生児童に対する名解説を傍らで聞きながら、何か大事な物が欠けていると感じていた。
源氏の白旗が平家の赤旗を西海に追い落として源氏の世となって以来、琵琶法師たちは今は亡き平家の公達の良き武者ぶりなどを朗々と歌い上げ、その語りは哀愁を帯びて聞く者たちは落涙を禁じ得なかったという。しかし琵琶法師たちがいくら源平の戦を後世に語り伝えても、驕れる者たちは後から後から現れては風の前の塵のように滅んでいったのである。今のところ驕れる者たちの後尾に位置しているのは、旧大日本帝国陸海軍であり、戦後日本の経済界である。このように人間は、とりわけ日本人は歴史上の出来事を朗々と語り伝えられただけでは何の反省も出来ず、同じようなことを何度でも繰り返しているのだ。
では現代の特攻の語り部たちに不足しているものは何か。それは私がこのサイトで何度も何度も繰り返して述べている上級者の責任である。白井厚氏は岩波ブックレットNo.572の「いま特攻隊の死を考える」の中で次のように書いている。
自発的に自己の生命を捧げて他の命を救うという行為は、尊く美しいことです。しかしその目的は、人類愛の精神にもとづき、歴史の批判に耐えるものでなければなりません。
アジア太平洋戦争はこの条件を欠き、しかも特攻隊編成は“統率の外道”で、前途有為の青年たちに自爆死を命ずるものでした。沖縄戦に至ってはその戦術的効果も激減しますから、それを知りながら延々と出撃を命じ続けた軍首脳の責任は極めて重大です。
隊員の死は、生きていれば社会に貢献したであろう人たちが無理に殺されるという悲しくも空しい死でした。情報閉鎖集団の中で“悠久の大義”などと言って満足できるものではありません。当時の“大義”は、決して永遠のものではありませんでした。当時のほとんどの国民が、皇国史観にも戦争目的にも疑問を持たなかったのは残念なことです。
しかしその中でも、愛や強烈な現状批判を示した隊員がいたことは、われわれに勇気を与えます。われわれはそれを受けついで、二度と戦争することのない社会を築くべきでしょう。
最後の一文でお決まりの反戦スローガンになってしまっているが、特攻隊の語り部たちに欠けているのは、白井氏が述べているような、特に上層部の決めた物事に疑問を持たない我が国民性への真摯な反省である。もし私に受け持ちの児童がいれば次のように教えたい。特攻隊員たちは立派だった、国の危機に際して何の不満も見せずに自分を犠牲に出来る人たちだった、だがこういう立派な人たちを大勢死なせた特攻作戦は非常に愚劣なものであり、この間違いに気付かなかったり、気付いていてもそれに反対できなかった当時の他の人々にも問題がある、そして誰も反対できる人々がいないのを幸いに、こういう愚劣な作戦を立案して実施した上層部の人たちこそ最も卑怯な人間である、と。さらに次のようにも問いかけたい。君たちが大人になって何か大きなことを決めなければならなくなったら、最後は自分が責任を取る覚悟で決めたまえ。戦争末期の指導者たちも、大勢の若者を死なせた責任を最後に自分が取らなければならないと覚悟していたら、あのような無謀な作戦を決定できただろうか、と。
お決まりの反戦スローガンと書いたが、反戦スローガンが何故いけないか。上層部の無責任と、そういう上級者に盲従する国民性というものは、必ずしも戦争に限ったことではないからである。国家のプロジェクトは軍事ばかりではない。さまざまな公共投資もまた国家プロジェクトの一環であり、戦後の我が国におけるさまざまなプロジェクトにおいて、無責任な上層部に盲従する国民性という図式は、特攻隊の時代とまったく変わらない形で現代に引き継がれている。採算が十分見込まれると「無責任に」見積もられた道路や鉄道や公共施設の収支決算が当初の計画を大幅に下回って、国民や住民に巨額の財政的負担となってのしかかっている事実、環境への影響に懸念はないと「無責任に」評価されたダムや堤防のために第一次産業が決定的なダメージを受けた可能性も否定できないのに、担当の役所はそれを再評価することにすら腰が重いという事実。これらは「無責任に」決定された特攻作戦で多くの若者たちが散華したのに、大西瀧次郎以外はまともに責任を取ろうともしなかったことと軌を一にしていると思われる。(宇垣纏については確かに終戦時に死んだが、まともな責任の取り方ではなかったと考えたい)
こういうあらゆる局面における上層部の無責任体質を問い直さない限り、特攻作戦に類する愚行は再び我が国で繰り返されることは必至である。それに戦争のない社会を作りましょう、などという当たり障りのない結論に落ち着くにせよ、現在の世界情勢を見る限り、戦争の無い社会などあり得ない。日本だけがきれい事を言っていたって、誰がアメリカやロシアや中国に軍備を止めさせられるのか。多額の経済援助で日本が恩を売っているはずのインドやパキスタンにすら核装備を廃止させられないではないか。現に我が国自体も憲法で交戦権放棄を謳っているにもかかわらず、自衛隊の戦力保持はおろか、海外派遣までも既成事実として語られるようになっているではないか。
私は上層部にしっかりした責任観念があれば、日本も戦力保持は当然と考えている。だが軍事に限らず、あらゆる国家プロジェクトにおいて上層部に責任意識の希薄なことが問題なのだ。軍事問題に関して言えば、戦争に巻き込まれないように行動する責任、万一戦争に巻き込まれてしまったら決して負けないようにする責任、最悪の場合でも大多数の国民に納得の行かないような犠牲を出さずに済ませる責任、そういった責任を為政者や官僚に持たせることが重要なのだと思う。美文調の戦記物語で「勇士たち」を語り継いでも、それは聞く者たちにカタルシス作用を起こさせるだけで、肝心の上層部の責任をウヤムヤにしてしまう危険をはらんでいる。
補遺(1) 知覧から教育の現場に:
知覧の特攻平和会館で小学校児童の団体に対して、会館のボランティアと思われる方が、非常に感動的な調子で特攻隊員たちの姿を語っていたことはすでに述べた。そしてもし私が子供たちに何か語るとすれば、特攻作戦を決定した上層部の愚劣さと無責任を教えたいも書いたが、本当に子供たちに言いたいことは、自分たちの身の回りでおかしいと思う不条理なことがあったら、誰にも遠慮せずに堂々と反論を述べられる人間になって欲しいということだ。特攻作戦は何かおかしいと感じていた人間は当時も多かったはずだが、ほとんどの人が周囲の雰囲気に逆らえずに口をつぐんでしまった結果、無謀な特攻作戦は終戦間際まで継続され、多くの若者たちが無為に死なされていったのである。
納得のいかないことを納得できないと反論することも出来ず、周囲の状況に押し流されていく我が国の国民性を反省しなければ、特攻隊員たちの霊も浮かばれまい。このことを次代を担う小中学校や高校の児童・生徒たちに伝えなければならないのに、今の教育現場はそれが出来ないのではないか。「親の言いつけは守りなさい」「学校では先生の言うことに従いなさい」という教育の行きつく先には、「国のために笑って生命を捧げられる“立派な”人間になりなさい」という到達点しかありえないのではないか。目の前にいる児童や生徒たちが、将来特攻作戦に類する愚行の犠牲者にならないようにするのが、少なくとも現代の心ある教育者の使命であろう。
聞くところによれば、全国の学校の中には、生徒たちの服装から日常行動を些細な点に至るまで細々と規定した校則が数多くあるらしい。もちろん人間として大切なしつけとなる校則もあるが、ずいぶんくだらない校則もある。こういう校則に従順に従うだけの生徒を良しとする教育現場が、将来にわたってどういう国民を生み出していくか考えて欲しい。「生きて虜囚の辱めを受けず」「上官の命令は朕(天皇)の命令と心得よ」というような実にナンセンスな規則に素直に従う兵士たちがいかにして育て上げられてきたかを考えれば、答えはおのずから明らかであろう。下らない校則で生徒を縛るな、校則に疑問を呈する生徒を厄介者扱いするな、教育者自身も校則の正当性を今一度疑ってみよ、と言いたい。
補遺(2) それでもどうしても特攻隊を美化したい人たちへ:
国難に際して自らの生命を捧げた特攻隊員たちは立派であった。だが今後はこのような愚行が決してあってはならぬ。これが私の基本的な姿勢であるが、私の言うことが気に入らない方は大勢いらっしゃるだろう。もちろん反論は歓迎する。しかし反論する前に、我が国が未曾有の経済危機にある現在、特攻隊の自己犠牲は無条件に美しいと考える方は、ご自身の私有財産と可処分所得のすべてを国庫に納入して、御自分もまた平成の国難に殉じる覚悟があることを示していただきたい。現在の財政危機を考えれば焼け石に水であろうが、若き特攻隊員たちが青春と生命までを召し上げられたのに比べればまだましなはずである。
特攻隊伝承の原点
前回、知覧の特攻平和会館での美文調の解説に違和感を覚えたことを書いたが、特攻隊の語り部として次の世代を担う児童たちに、特攻隊員たちの姿を語り伝えようとしておられるその努力に対して、少し酷だったかも知れないと気になっている。しかし、あの場で解説を聞いているうちに、私は何だか無性に悲しくなってきたことだけは確かなのだ。そこで私の真意が誤解されないように、少し補足しておくことにした。
最近,卑劣な犯人に自宅に押し入られて、最愛の奥さんと子供を殺された被害者の夫の方が、奥さんとの交換日記を公表されたことがあった。あの夫の方は、なぜ自分と奥さんだけの愛の記録をわざわざ公開されたのか。それは他人に読ませるために書いたものではなかったはずで、縁もゆかりもない世の中一般の人々に公表して、こんな素晴らしい私の妻を忘れないでいて下さいと懇願するために公表されたものでは絶対なかろう。卑劣な男に最愛の家族を奪われた悲しみ、しかも犯人の人権ばかりは大切にされるくせに、被害者である自分には何の権利も認めてくれようとしない世の中への怒り、こうした不条理を世間に訴え、世の中の人々にもっと考えて貰おうと意図して、わざわざ奥さんとの秘密の交換日記までを公表されたのであると思う。
特攻隊員や戦没学徒たちの遺書や日記を公表することもまた、最初は同じような意図の下に始まったはずだ。特攻隊員たちは後に残す肉親たちに自分の思いを伝えようとして遺書を書き、自分の思いを身近な人々に分かって貰うことだけを念じて日記を綴っていたに違いない。まさか私信や日記が自分の死後に、活字となって公開され、記念館などに展示されるなどとは決して思っていなかったはずである。そういう個人の内面を記した文書類を、故人の意志を確認する術も失われてしまった後になってから、生き残った人間や、後世に生まれてきた人間が、敢えて勝手に公表・展示する以上、その行為には本来の意志が反映されるよう配慮する責任がある。
では本来の意志とは何か。1949年に出版された「きけわだつみのこえ」は特攻隊員に限らず、学徒として戦争に駆り出されて戦死した学友たちの遺書や日記を、生存者たちが整理してまとめた本だが、それらの記録を公にするに当たっての生々しい葛藤がその序文の中に読み取れる。感想という形で顧問格の渡邊一夫氏が著したものだ。
本書は、先に公刊された『はるかなる山河に』の續篇である。編集に當つては、組合出版部の方々が論議を重ね、その結論を顧問格の僕が批評し、更に出版部の人々が協議して、やうやく方針が決定したのである。僕としては、全體の方針を、肯定し、適切だと思つてゐる。初め、僕は、かなり過激な日本精~主義的な、或る時には戦争謳歌にも近いような若干の短文までをも、全部採録するのが「公正」であると主張したのであつたが、出版部の方々は、必ずしも僕の意見には賛同の意を表されなかつた。現下の社會情勢その他に、少しでも悪い影響を與へるやうなことがあつてはならぬといふのが、その理由であつた。僕もそれは尤もだと思つた。その上僕は、形式的に「公正」を求めたところで、かへつて「公正」を缺くことがあると思つたし、更に、若い戦歿學徒の何人かに、一時でも過激な日本主義的なことや戦争謳歌に近いことを書き綴らせるにいたつた酷薄な條件とは、あの極めて愚劣な戦争と、あの極めて残忍闇黒な國家組織と軍隊組織とその主要構成員とであつたことを思ひ、これらの痛ましい若干の記録は、追ひ詰められ、狂亂せしめられた若い魂の叫び聲に他ならぬと考へた。そして、影響を顧慮することも當然であるが、これらの極度に痛ましい記録を公表することは、我々として耐えられないとも思ひ、出版部側の意見に賛成したのである。その上、今記したやうな痛ましい記録を、さらに痛ましくしたやうな言辞を戦前戦中に弄して、若い學徒を煽てあげてゐた人々が、現に平氣で平和を享受してゐることを思ふ時、純真なるがまゝに、煽動の犠牲になり、しかも今は、白骨となつてゐる學徒諸子の切ない痛ましすぎる聲は、しばらく伏せたはうがよいと思つたしだいだ。
しかし、それでも本書のいかなる頁にも、自然死では勿論なく、自殺でもない死、他殺死を自ら求めるやうに、またこれを「散華」と思ふやうに、訓練され、教育された若い魂が、−若い生命ある人間として、また夢多かるべき青年として、また十分な理性を育てられた學徒として、−不合理を合理として認め、いやなことをすきなことと思ひ、不自然を自然と考へねばならぬやうに強ひられ、縛りつけられ、追ひこまれた時に、發した叫び聲が聞かれるのである。この叫び聲は、僕として、通讀するのに耐へられないくらゐ悲痛である。それがいかに勇ましい乃至潔い言葉で綴ってあつても、悲痛で暗澹としてゐる。
(中略)
そして最後にフランスの詩人ジャン・タルヂューの次の短詩で締め括られている。
死んだ人々は、還つてこない以上、
生き残った人々は、何が判ればいゝ?
死んだ人々には、慨く術もない以上、
生き残った人々は、誰のこと、何を慨いたらいゝ?
死んだ人々は、もはや黙つて居られぬ以上、
生き残った人々は沈黙を守るべきなのか?
まさに血を吐くような想いが滲み出ている。死んで行った学友たちの無念の想いを決して忘れず、二度と繰り返してくれるなという強い想い。そのためにこそ亡き学友たちの形見の日記も遺書も敢えて公表すると言っているのである。さらに過激な言辞を書かされた学友たちの一部に記録については、これまた敢えて伏せるとも言っているのである。そういう言辞は当時の指導者たちに無理やり言わされたものであることを、同じ時代を共に過ごしたこれらの人々は知っているからこそ伏せるのである。どんなに勇ましい言葉や潔い言葉が書いてあっても、それに騙されるなとも言っている。この想いを無にしてはならない。自己犠牲の甘美な物語に変質させてしまってはならないと、私は思うのである。
1953年に封切られた大映映画「雲ながるる果てに」(家城巳代治監督)も同様なメッセージを含んだ映画である。特攻隊員たちがさまざまな葛藤や未練を断ち切り「理想的な」特攻隊員となって、ニッコリ笑って潔く出撃して行く過程を描いた映画で、俳優鶴田浩二が主演している。鶴田浩二は元特攻隊員だったと言っていたが、それは経歴詐称ではないかと問題になったことがあった。確か彼自身は本当は特攻隊員ではなかったが、特攻基地に勤務して隊員たちの声を代弁したいと願っていた俳優には違いなかったという決着がついたと記憶している。
その映画の中で、腕を怪我した隊員が腕を操縦桿に括り付けてでも親友たちと一緒に出撃したいと申し出る場面があるが、その後に挿入される参謀連のセリフが、この映画が伝えようとするメッセージを代表していると思われる。
「特攻隊に美談がまた一つ増えましたなあ。」
「さっそくデカデカと報道班員に書かせますか。」
「明日の新聞が賑やかになりますなあ。ハッハッハ。」
こう言って他人事のように笑う参謀の声。この隊員はここにいる参謀の一人から数日前に、「貴様のような自由主義の染み込んだ奴は特攻隊にしか使い道が無いんだ」と罵倒されたばかりなのだ。そしてこの特攻隊が敵艦に突撃を開始して次々と最期の無電が途切れていくのを平然と聞きながら、この参謀連は次のような会話を交わす。
「思ったよりいかんな。」
「まだまだ技量未熟だ。」
「なあに、特攻隊はいくらでもある。」
自分で命令しておきながら、隊員たちの死を他人事のように考える軍司令部の実態を鶴田浩二らの世代は知っていたからこそ、敢えて映画の中にこの参謀のセリフを入れたのであろう。あまり技巧的な演出ではないと思うが、だからこそ印象的とも言える。
司令部の幕僚たちがそんな倣岸不遜だったわけはない、戦後の反軍宣伝の一つだと強弁される方もいらっしゃるかも知れない。ところがそうではない。特攻隊員たちの死を他人事と考える司令部の態度については、信じられないことに当の本人たちが証拠を残しているのである。鹿屋基地で沖縄方面の特攻作戦の指揮をとった第5航空艦隊の宇垣纏海軍中将は「戦藻録」という几帳面な日記を残しているが、その昭和20年5月25日の項に実に驚くべき記載があるのだ。
(前略)
沖縄周邊艦船攻撃機亦出發せるが中には練習機白菊を混用す。敵は八五節−九〇節の日本機驅逐艦を追ふと電話す。幕僚の中には驅逐艦が八、九〇節の日本機を追ひかけたりと笑ふものあり。特攻隊として機材次第に缺乏し練習機を充當せざるべからざるに至る。(後略)
「白菊」というのは偵察員などが機上作業を訓練するための練習機で、速力は非常に遅い。そのような練習機をも特攻作戦に投入せざるを得ない状況にまで至っていたわけだが、このような貧弱な飛行機に乗って体当たりするように命令した挙句、搭乗員が必死の努力で敵駆逐艦に迫ろうとしている状況を敵の無線を傍受して察知していながら、司令部の幕僚たちは次のような不謹慎な会話を交わしていたのである。
「85ノットから90ノット程度の低速の日本機が敵駆逐艦を追いかけているそうです。」
「なにー、駆逐艦が90ノットの日本機を追いかけている間違いじゃないのか。ハハハッ。」
この特攻隊員の霊が戻って来て司令部の中を覗いたらどう思うだろうか。貧弱な機体で必死の肉薄体当たり攻撃を敢行しようとする、まさに戦死直前の特攻隊員たちのことなど他人事とでも思っているような倣岸不遜な幕僚たちではないか。しかも司令官の宇垣纏中将はそれを咎めるどころか、平然と日記に書きとめている。
こんな上層部の出した命令によって若者たちが次々と死なされていったことを当時の仲間たちは皆知っていたのだ。だから「雲ながるる果てに」の製作スタッフはあの参謀のセリフを挿入したのであるし、「きけわだつみのこえ」の序文からは血を吐くような生々しい想いが滲み出てくるのである。これからも特攻隊員たちを語り伝えようとする人々は、この事実を忘れてはならないと思う。醜悪な部分がすべて時の流れの中で浄化されて、「むかしむかし戦争がありました。若者たちは国の運命を盛り返そうと、爆弾を抱いてニッコリ笑って征きました」で終わってしまっては、死んだ人たちは決して浮かばれない。
日本のリーダー教育への提言
特攻隊の人たちは立派だったし、各地の激戦で国のために死闘を演じた陸海軍の将兵たちもまた立派であった。そのことに異論はない。問題は日本の下級兵士たちはなぜこんなに立派なのに、上級者たちはなぜこんなに無能だったのかということだ。ある雑誌で読んだが、現在でも自衛隊が海外で他国との共同訓練に参加すると、下士官兵クラスの隊員たちの質の高さには諸外国武官の賞賛が集まるそうだが、将校クラスに対する評価は低いのだそうだ。
日本では立場が上になるほど駄目になるらしい。これは軍隊や自衛隊に限ったことではなく、政界・財界・産業界、それに我々の医療の分野も含めて、日本のあらゆる分野に内在する欠陥なのではなかろうか。下級者の資質を引き出す教育はある程度成功しているにもかかわらず、それを指揮する上級者のリーダーシップ教育がなっていないということだ。私は1996年に自分の勤務する大学医学部の雑誌に医学部教育に関する文章を書かされたが、その折に医学生に対する@臨床能力の教育、A医学知識の教育と並んで、Bリーダーシップの教育が必要であると主張したことがある。ここではその論文の中から、リーダーシップ教育に関する部分を抜粋してみたい。原典は「帝京医学雑誌」第19巻第5号の459-472ページ(1996年)である。
内容は医学教育に関するものであるが、必ずしも医学に限る必要はなく、読者の方々はそれぞれご自分の分野におけるリーダーシップ教育に置き換えて考えてみて欲しい。
リーダーシップの教育
リーダーシップはこれまで日本の医学教育に限らず、どの教育分野に関する議論からも完全に脱落している項目である。日本人はリーダーシップと言うと、命令して服従させるいわゆる労務管理のことと考えるか、あるいは人徳とか人望といった言葉に集約して一般の人には無縁な天賦の才能と考えるかのどちらかしか無いようだ。しかし米国の海軍士官教程では、リーダーシップとは「1人の人間が、他の人間の心からの服従、信頼、尊敬そして忠実な協力を得るような方法で、人間の思考、計画、行為を指導でき、かつそのような特権を持てるようになる技術、科学あるいは天分」と定義されているそうだ。天分という言葉は使ってあるが、これを見る限り米国人はリーダーシップを努力や研究により獲得すべきものと考えているのは明白だ。
私は将来の医師たる医学生に求めるリーダーシップの基本的条件として、実務能力と責任感を挙げたい。医学教育に取り入れるべきリーダーシップ教育の具体的内容としては前例もないので、私がかつて臨床医として関係したチーム医療の中で私たちが日頃から気をつけていた内容をかなり無理にまとめてみたものである。当時は某国立大学病院の採血ミス事件という医師と看護婦の信頼関係を損なった不幸な事件の後だったにもかかわらず、チームの助産婦や看護婦たちは実に積極的にわれわれ医師団を支援して下さったものだ。
果たして医師のリーダーシップの条件が実務能力と責任感だけで十分かどうかは他の先生方のご意見を聞く必要もあろうが、パラメディカルスタッフ(看護婦、臨床検査技師、放射線技師などの職種)から見た場合、少なくとも自分たちの管轄範囲内で起こった事項を速やかに責任をもって解決してくれる医師との方が円滑な連携を取りやすいことは確かである。
医療におけるリーダーシップは医師に限らず、各職種の婦長、主任、室長クラスの者にも当然求められるべきものだが、医師は患者の診断や治療方針の決定などの重要事項に関する最終的な全権を帯びている以上、他のパラメディカルスタッフの支援を受けつつ、彼らの能力を最大限に引き出す形で診療活動を指揮するという、より高度なリーダーシップを要求されるものと覚悟せねばならない。船長は航海中の船内の全権を掌握するし、軍隊の士官は階級に応じて平時および作戦中の部隊の一部ないし全部に関する行動の全権を掌握する。医師も立場に応じてさまざまな医療活動の局面に関する全権を掌握しなければならない場合がある。その時にパラメディカルスタッフが医師の指揮に服する根拠となるのが実務能力と責任感の2点であると私は考えるし、これらは卒業後医師免許を取得したからといって一朝一夕に身につくとは思えない。学生時代から、あるいは医学部学生を選抜する段階から、さまざまな方策が考慮されるべきだ。
なお、私は本章で軍隊の士官教育を例に挙げることも多いと思うが、昨今の日本の風潮によれば軍というものは否定的なイメージをもって語られることが多く、そのために私の論旨が大きく曲解される危険も予想されるので、ここで蛇足ながら付記しておきたいことがある。私が本章で取り上げるのは軍の中でも正規士官の教育であって、これは兵士たちの先頭に立って作戦を遂行するため、自ら指揮官としての資質を磨くべく自発的に軍の専門学校に志願して選抜された人々についての例であり、医療の現場での指揮官を目指して医学部に志願したという点に限定すれば医学生の教育と相似であると考えられる。苛酷な制裁を伴って規律への絶対服従を強要された一般召集兵士や、学業半ばで予備士官に徴用された学徒出陣者の場合と混同しないようにお願いしたい。
またさらに言えば、戦前・戦中の日本の正規士官はアジア諸国で残虐行為を指揮したではないか、沖縄戦では同胞にまで銃を向けたではないかという声まで聞こえてきそうであるが、まさにそのような結果にこそ日本のリーダー教育の欠陥が露呈されているのであって、私は日本の医師の教育が同じような轍を踏んではならないと考えるからこそ、本項のこの部分をあえて執筆した次第でもある。
1) 実務能力
特に臨床医として病院に勤務する場合、医師は自分一人だけで患者の訴えを聞いて診療を進めているわけではなく、その合間に病棟や外来や検査室のパラメディカルスタッフから次々と届く報告に対して一つ一つ適切な指示を出し、医局や各部門の会議に出席し、さらに時間が許せば学術活動にも精を出すというのが、職場における一般的な生活スタイルである。1人で何種類もの仕事を果たさねばならず、かなり忙しいというのが実感だが、医師の指示を待ちながら自分の職務を遂行しているパラメディカルスタッフにとっては、そのことが医師の指示の遅れやミスに対する口実とはならない。つまり医師は病院内で臨床能力を円滑に運用する実務能力までも要求されるのである。
この実務能力の向上について、米国政財界の要人を多数輩出している海兵隊の士官養成キャンプの方法はわれわれにも参考になるかも知れない。海兵隊では上級士官を選抜するキャンプで候補生たちに苛酷な肉体訓練の他、時間のマネージメントに関するストレスを加えるという。候補生は達成すべき一連の課題を与えられ、それを遂行する時間が決定的に不足する状況に置かれる。このような状況下で、候補生は何が重要で何が重要でないか、完全性を目指しながらもどこで妥協しなければならないかを決断せざるを得ないそうである。(野中郁次郎著:「アメリカ海兵隊」より)
この方法は医学部の少人数教育でも比較的簡単に応用ができるのではないか。たとえば限られた実習期間のうちに教科書の広範囲な部分を指定して最終日に試験をする。しかも実習中は連日のように担当症例のレポートを提出させ、回診やカンファレンスに出席させるなどして、学生に強烈なストレスを与える科があってもよい。
なすべき各種の義務の量を許容時間内に配分する時間管理能力は、将来の医師としての業務にとって必要なだけでなく、医師国家試験の広大な範囲の受験準備にも有用である。
2) 責任感
医師は患者の診断や治療に関して全権を握っている以上、診療行為の一切に責任を負うのは当然であるが、このことを自覚せずに自らを単にパラメディカルスタッフの上に君臨する存在と勘違いしている医師は多いように見受ける。もともとわが国では政治形態からして、あらゆる行政の責任は各監督官庁を通じて最終的に内閣総理大臣が取ることになっているにもかかわらず、実際の運用では責任の所在が不明確になって、政治のリーダーシップに伴う責任がなおざりにされているし、また旧陸海軍ですらいろいろな局面での決断は最終的に天皇の名でなされる制度になっていて、将校や士官には責任回避の道が残されていたばかりか、終戦時には戦争犯罪の責任を部下に押しつけて罪を逃れた上官も多かったという。
このようにわが国では政治や軍事においてすら、リーダーシップには責任が伴うという重要な事実が十分認識されておらず、指揮や監督を受ける側からの不信を招いている過去や現在の状況があるが、これが日本人の国民性に根ざした欠陥に基づくものとすれば、これらを反面教師として、医学部の学生には医療に伴う医師の責任という項目を法律的にも道義的にも徹底的に教える必要があろう。
具体的には、各医療法規に規定された医師の責任や、さまざまなパラメディカルスタッフの機能や責任分担範囲などを、卒前卒後を通じて機会あるごとに伝授するのはもちろん、医学部教育においてもクラブ活動を奨励して、学生が1つの団体を主体的に責任を持って運営する訓練の場とするのが望ましい。またワークショップや小グループ内討論などの機会を与えて半ば強制的に発言を求めるのも責任感を育てる良い方法だろう。大勢の前で自分の意見を発表するということは、その後の自分の行動に対して発言に基づいた責任を持たせるという意味も大きく、欧米では初等教育の段階からこの種の訓練は行き届いているという。
はたしてこれらの方法が学生の責任感を育てるうえで有効かどうかは断言できず、結局は家庭教育や初等教育、さらには政治家やマスコミをはじめとする日本人全体の躾とモラルの問題に帰してしまうのかも知れないが、とりあえずは教員自身がまず身を正し、学生にとって良いと思われる方法を試みていくより他にないであろう。
ところで昔からさかんに言われている医師の倫理教育は、結局のところ医師の責任感の問題として具体的にとらえる方が医学教育の現場には馴染みやすいと思われる。むろん倫理の方が責任感よりも高次の精神活動に違いないが、観念的な題目として倫理教育を挙げるよりは、医師の責任感を述べる方が実効的である。たとえば道路交通法を遵守して安全運転に努めるのがドライバーの責任であり、これは自動車教習所で教育されるべき項目だが、歩行者や道路近隣住民の気持ちに対する配慮とか、環境問題への関心といったより高次のマナーは教習所で教わるものではなかろう。
それに簡単に医の倫理というが、たとえば脳死問題でも医師の間でさえ議論が分かれるとおり、臓器移植を待つ患者のために脳死判定基準の決定を急ぐべきなのか、ただ1人の誤判定をも避けるためにもっと慎重に検討すべきなのか、どちらがより「倫理的」なのかを決めるのは不可能である。(註:執筆時はまだ脳死移植は立法化されていなかった。)
3) その他
リーダーシップについて述べてみたが、学生も結局は自分が医師になって医療の現場に立つまではリーダーシップの何たるかを明確に実感することはないだろう。そこで医療の現場の指揮官としての自覚を漠然とでも促すために、イメージトレーニングとしての読書を勧めるのも良い手段かも知れない。
どのような指揮官が現場で歓迎され、どのような指揮官が逆に忌避されるのか、リーダーシップが発揮されるべきさまざまな状況に関する記録や文学はわれわれにいろいろな事を教えてくれる。特に戦後の出版文化のおかげで、前の大戦における日本人の戦争体験の記録が多数出版されているが、同じ国民性の長所も短所も共有する人々が肉声に近い筆で語りかけてくる内容には深く自戒しなければならない要素も多い。確かに源平合戦や戦国時代などとは異なり、明治時代以降の戦争は歴史的にさまざまな問題点も含んでいるが、自らの歴史的、思想的な立場を確固として保っていれば(それもまたリーダーに必要な資質であるが)、リーダーシップの訓練にこれ以上の教材はないと思われる。
志願と命令
2003年12月、依然として戦闘の続くイラクへの自衛隊派遣が正式に決定されたことを受けて、自衛隊の最高指揮官である小泉首相が防衛庁長官を通じて隊員に宛てたメッセージを伝えたという記事を読んだ。隊員に宛てたということだが、密室で伝達されたわけではなく、マスコミに報道されることを意識したものであろうから、それは隊員のみならず日本国民全体に宛てたメッセージと解しても構わないであろう。この小泉首相のメッセージを読んで私は驚愕してしまった。イラク派兵の是非については別に論じるとして、とりあえず新聞に報道された全文を掲載しておく。(赤字強調は筆者)
危険な任務であるが、自衛隊は日ごろから努力して訓練を行ってきた。自衛隊は自衛隊でなければできない任務を果たしてもらいたい。政府としても最大限の努力をしたい。多くの自衛隊員が命(めい)に対し、自己の意思により派遣に赴くということを聞き、このような自衛隊員が数多くいることを誇りに思う。本日は(防衛庁)長官を通じて伝えるが、どうか隊員に私の気持ちを伝えてほしい。私は今後、隊員に私の気持ちをどのように伝えるのか判断したい。
私のような戦後生まれで、軍隊・自衛隊経験の無い者がとかく勘違いしやすいことは、軍隊組織の行動パターンについてである。軍隊では一旦上級者からの命令が発せられれば、下の者はたとえ生命の危険があろうとも有無を言わずにそれに従わなければならない。下の者がいちいち上級者の方針に口を挟んでいたら作戦は成り立たず、却って味方や祖国の運命を危険に晒すことになるからだ。民間企業ではワンマンオーナーなどと言われて批判されるような人間こそが、軍隊の指揮官でなければならない。
「行ってくれる者はいるか?」「ハイ!」
ではない。
「行け。」
なのである。だからこそ軍隊を指揮する上級者は、兵員や場合によっては一般国民の生命までを左右するという自覚を持って、民間企業オーナー以上の責任感が求められるのである。
然るに私が小泉首相のメッセージを読んで驚いたのは、隊員たちの「自己の意思」を強調したことである。君たちが行くと言ってくれたから命令を出せたんだ、と言わんばかりの将来の責任逃れへの布石に聞こえる。隊員たちが志願したか、強制されたかは問題ではない。軍隊においては上級者が一旦命令を下した以上、その結果生じたあらゆる損失や不利益はすべて命令者の責任である。何故なら下級者は上級者に対して一切の異議を申し立てないことが軍隊の行動原理だからである。小泉首相は少なくともこの責任の一端を将来隊員の「自己の意思」に帰することを意図したとしか思えない。仮に自衛隊員たちが全員イラク行きを熱望したとしても、最高指揮官たる首相のメッセージとしてはそれに触れてはならなかった。かの特攻隊発案者とされる大西瀧次郎のごとく、すべての責任はおのれ一身で引き受ける覚悟を示すべき場面であった。
ちなみに言えば、もしイラクで自衛隊員が何名か戦死した場合、小泉首相は政界を引退するのが当然と私は考えている。もし今回イラクで日本人隊員が戦死するような事態になれば、それは1950年10月の朝鮮戦争における日本掃海艇の沈没以来50余年ぶりの戦死者ということになる。海外派兵を憲法で否定してきた我が国のこれまでの国策を覆したうえで、自衛隊員の戦死という事態を招来したとすれば、その事件のインパクトは太平洋戦争末期における神風特攻隊にも匹敵する。したがって本来ならば大西瀧次郎のごとく自刃されるのが望ましいが、ここは少なくとも政界から身を引いて、国策決定の責任の重さというものを国民に示すことが、我が国の将来のためである。
小泉首相周辺は必ず責任逃れの意図などあるはずがないと反論されるであろう。しかし私がこのページで述べてきた日本陸海軍の特攻隊指揮官のうち、大半の生き残りの人たちが口を揃えて特攻は隊員たちの志願であった(自らの意思であった)と述べていることと、今回の小泉首相のメッセージの間には共通点があると思う。
国策や作戦を遂行するために武力行使の決断をする、ということは場合によっては兵員の生命を奪う結果を予測しなければならない。特攻隊の場合は必ずパイロットを死なせることであったから、今回のイラク派兵に比べれば一層冷酷な決断であるが、50余年間続いた平和の後で兵員の戦死を予測する決断に対しては、日本人としてほとんど同じくらいの重みがあるものと考えたい。
まあ、インパクトの重みについては立場によっていろいろ考え方はあろうが、とにかく前例の無い方法で兵員の生命を大きな危険に晒すという意味では同じである。その決断は死に直面せざるを得ない兵員にとってはまさに命懸けの苛酷なものであるが、本来はそのような命令を下した上級者にとっても自らの信念と、進退と、良心を賭けた厳しいものでなければならないはずだ。しかし太平洋戦争中の特攻隊指揮官の生き残りたちが、実に巧妙な手口でこの命令を下した責任を自らの一身で受け止めることを回避してしまったことは、これまで書いてきたとおりである。その手口とは、特攻は隊員たちの志願であった、自然発生的なものであった、と主張することだった。兵員たちも納得の上のことだったということにすれば、命令者の良心的な負担はずいぶん軽くなろう。
特攻責任者たちのこういう責任回避のテクニックを現代の政治家(それも小泉首相のように比較的まともな政治家と思われる人)が受け継いでいることは警戒しなければならない。ただしこれは小泉首相個人の資質を言っているのではなく、日本人なら政治家になれば誰でも同じような手口を使って自らの責任を回避しようとするであろう。
ここで神風特攻隊の「志願か強制か」の問題について考えてみたい。戦後早くから特攻隊員の遺書や記録として紹介されたのは「きけわだつみのこえ」などのように学徒出陣で陸海軍に徴用された予備士官たちのものが多かった。言うまでもなく彼らは敗色濃厚となる戦況の中で「強制的」に軍務に就かされ、その一部の者は特攻隊にまで指名されて若い生命を散らしていったのである。その多くの者が、形式上はどうであれ、自発的な志願であったはずはない。しかしだからと言ってあの時代の特攻隊員すべてが泣く泣く強制的に死地に赴かされたと考えるのは間違いである。
特攻隊員として出撃した者は、学徒出身の予備士官のほかにも下士官や兵、およびこれらから叩き上げの特務士官たちがおり、数としてはむしろこちらの方が多かった。特に下士官や特務士官は兵としての任期が切れた後も軍人として陸海軍に残る道を選択した、いわば職業軍人であり、今回イラクに派遣される自衛隊員たちと同じ立場である。そして下士官・特務士官搭乗員として特攻待機要員となりながら、奇跡的に生きて終戦を迎えた小澤孝公氏の「搭乗員挽歌−散らぬ桜も散る桜」や、角田和男氏の「修羅の翼−零戦特攻隊員の真情」などを読むと、命令があれば行くのが当然と、淡々と使命と割り切っていたことがよく判る。戦後に書かれたこれらの手記の中でも、特攻を命じた上官に対する反発や批判は少なく、今回イラクへの派遣が決まった自衛隊員たちのマスコミで紹介される多くの簡潔なコメント、「命令があれば行かなければなりません」、と驚くほどの共通点を持っている。
さっそく、玉井司令は搭乗員に向かって、
「飛行機も搭乗員も、見たとおりの現状であるが、(中略)いま、ここにいるわれわれの戦力で、敵を一艦でも多く撃滅しなければならない。それにはみんなが特攻隊員となり、最後の一機まで、最後の一人まで戦いぬき、敵を撃滅するのが君たちの任務と思う。(中略)無理にとは言わん。特攻隊員を志願する者は、一歩前に出て、階級、氏名、搭乗機種を言ってくれ…」
と特攻志願者をつのった。
司令の説明と訓示に、大石兵曹とたがいに顔を見あわせ、
「志願するか」
「志願しましょう」
”よしッ”と、二人は目と目でうなずきあい、司令の横にいたI飛行隊長の前に出て、
「彗星艦爆小澤上飛曹、おなじく大石一飛曹」
と、まっ先に特攻隊志願の名乗りをあげた。
司令は「ようし」と大きくうなずく。すると、かたわらのI大尉が、志願者の名前を記帳する。つづいて、
「零戦搭乗員…」
「彗星艦爆…」
と、搭乗員がつぎつぎにすすみ出て、志願を申告した。
(以上、小澤孝公氏「搭乗員挽歌」より)
玉井司令とは戦後仏門に入って生命を永らえた海軍の指揮官の一人である。ある元特攻隊員は彼の仏門入りを卑怯だと切り捨てている。角田和男氏も「修羅の翼」の中で、エンジン不調で引き返してきた同僚の搭乗員が玉井司令から、「特攻に出た者が少しくらいのエンジン不良でなぜ帰って来るか、エンジンの止まるまでなぜ飛ばないか」と、部下たちの前で臆病者、卑怯者呼ばわりされ、次の出撃では敵影も見えないのに、二度と基地へ帰らず自爆してしまった話を紹介しているが、それでも角田氏は玉井司令に対する批判は書いていない。しかも角田氏は自分もまた、特攻隊を援護して出撃し、戦果拡大のため自分も爆弾を積んで体当たりするために一旦基地に帰ったところ、玉井司令から「何しに帰ってきたかッ」と、理不尽にも怒鳴りつけられた経験をお持ちなのである。
下級職業軍人の上官に対する忠誠、命令に対する服従は、今も昔も変わらないのだ。それを「命令があれば行きます」という彼らの言葉を、単純に「自らの意思で志願した」と強弁するのは、上級者が自らの決断の責任の一旦を下級者に押しつけて、良心の呵責を少しでも和らげようとする姑息な手段に過ぎないと思う。
まさか現在の自衛隊にはそんなことはないと信じるが、上記の小澤氏の文章に続く部分を引用してこの章を閉じる。
だが、このときになっても、残る三名は名乗りを上げず、志願するのをこだわっていた。
司令は、取り残されたように、私たちのうしろに立っている搭乗員に向かい、志願をうながすように、
「君たちはどうするのか。決断がつきかねるかね」
と、言葉はやわらかいが、全員志願を迫っているようにいった。志願をためらっている中のひとりが、
「通常の攻撃で弾丸に当たって死ぬのならあきらめますが、出撃前から死ぬのがわかっている攻撃には行きたくありません」
と、われわれが度肝を抜かれるようなことを、平然と言ってのけた。また、あるひとりが、
「全員が志願すれば、私たちも志願してもいいです」
と答えた。司令は、
「見たとおりだ。ほとんど全員が志願しているではないか。志願をためらっているのは、君たちだけだよ」
と、さきほど『無理にとは言わん』といいながらも、全員の志願を希望しているようすであった。
残る三名は顔を見合わせ、うなずきあった。
「それでは志願します」
と、階級、氏名を申告した。本人の意志の諾否はさておいて、結果的には、二十三名の生き残り搭乗員全員が、形のうえでは志願したことになった。(中略)
最後まで志願をためらった搭乗員の『全員が志願をすれば…』との心の底には、(おれたち下士官搭乗員が全員、死んでゆくのに、士官連中は、いったい、なにをしているのだ)という、口には出せない士官に対する抵抗と批判がこめられていたのも事実であった。
そして間もなく、この志願をためらっていた三名を先頭に、この時の志願の順序が遅かった順に特攻出撃が命じられ、真っ先に志願した小澤氏は最後の出撃順だったために、奇跡的に特攻待機が解除になったという。日本独特のいじめの構造が窺えるような気がする。
特攻花の物語
最近、開聞岳の方を旅行した時、観光パンフレットの中に「特攻花」という言葉が記載されていた。特攻花とは近年になって一部の人々にはよく知られるようになった花で、正式にはキク科のオオキンケイギクという黄色い可憐な花を咲かせる北米原産の多年草だそうである。この特攻花の姿については幾つかのサイトを検索して頂ければ見ることが出来るので、ここではその物語の方から触れていくことにしよう。
私が「特攻花」という言葉を知ったのは、平成10年8月にTBSで放映された終戦特別企画ドラマ「二十六夜参り」(武田鉄矢原作、和久井映見主演)によってであった。簡単なあらすじは以下のとおりである。
戦時中に青春を送った祖母の過去を知るために鹿児島県開聞岳の麓を訪れたヒロインが、祖母の意外な過去を知って、人を愛することの大切さに気づいていくという設定である。戦争末期、祖母は出征中の夫の留守を守っていたが、昔の恋人が航空兵となって知覧に進出してくる。もちろん特攻隊員である。出撃の日、祖母は昔の恋人に花束を贈って生還を祈るが、恋人は「自分の代わりに生きよ」と開聞岳の麓に花束を投げて沖縄へ突入した。だがこの時、祖母のお腹にはその特攻隊員の子供が宿っていたのである。戦後、復員して来た夫は、昔の恋人の子供を産んだ妻に冷たい目を向けるのだが、それに耐えきれずに死を決意して開聞岳の麓にやってきた祖母の目に写ったものは、恋人が特攻機の操縦席から投げていった花束から芽が吹き出した一面の花畑だった。この花に励まされて祖母は鹿児島を離れて生き抜く決心をする。
かなり無理のある設定ではあるし、確か放送の中では特攻平和会館が開聞町にあるように思えるような描き方もされていたように記憶しているが、そういう地理的、歴史的な不正確さには触れないとして、この番組の放映があった頃から時々特攻花という言葉を聞くようになったのは事実である。確かに感動的なドラマ仕立てである。
オオキンケイギク(大金鶏菊)という花は、明治時代から日本に入って来ているという説もあるし、あるいは外地から飛来する航空機の車輪などに付いて入って来たとする説もあるが、ちょうど沖縄へ多数の特攻機が出撃した年から開聞岳付近に咲くようになったので、鹿児島県では誰言うともなく「特攻花」と呼ぶようになったという。上記のドラマの話も、武田鉄矢氏が鹿児島県加世田市の旅館の女将から取材した実話を元にしているとも言う。
だがこの話は史実を歪めているとして異議を唱える方がおられる。万世特攻慰霊碑奉賛会理事の苗村七郎氏で、インターネットのサイト上も含めて機会あるごとに主張されている。(http://web.archive.org/web/20011230110925/http:/homepage2.nifty.com/nippon-kaigi/sakura/#a)
苗村氏は、若き特攻隊員たちが自分の分身となるべき花を機上から蒔くなどという女々しい振舞いをするはずがなく、特攻隊員たちが自らの運命を重ね合わせていた花は、潔く散る桜の花をおいて他にあるはずがないと述べておられるのだ。真の特攻花は日本の国花たる桜の花であって、外来種のオオキンケイギクなどが特攻隊員たちの生命が宿る花として誤って後世に伝えられることは由々しい事態であると嘆いておられるのである。
私も特攻隊の花は桜であると思う。特攻隊に限らず、桜の花はあの時代の日本陸海軍兵士たちの象徴であった。花弁が腐るまで樹上に残る他の花と違って、花の盛りにパッと潔く散っていく桜の花に軍人たる我が身を重ね合わせて、それこそが日本民族のあるべき姿であると信じつつ、誇らしい気持ちで国と天皇のために若い生命を捧げていったのであろう。かつて自分もまた特攻隊員に憧れていた私には、この気持ちがよく理解できる。
しかし最近(2003年)、この桜の花と特攻隊員について、大貫恵美子氏による優れた考察「ねじ曲げられた桜−美意識と軍国主義」が発表された。それによると、日本人が桜の花のように潔く天皇のために散ることへの国家主義的な美意識は、特に明治以来、我が国の指導者たちにより、教科書・唱歌・流行歌・演劇等を通じて、周到に計画されたものであるというのである。それ以前の日本人にとって桜の花は、稲の神、美しい女性、愛、人生の謳歌、死と再生、もののあわれ等、時として相反する意味合いも含みながら、実にさまざまで多元的な心象を伴って日本人の美意識に訴えてきたが、この多元的な意味を持ち得る花であったことが逆に致命的な弱点となって、明治以降の国家主義者や軍国主義者たちに、国民をして桜の花のように潔く戦死させることを可能ならしめたというのである。
そしてこれらの指導者たちの策謀がどこまで意図的で、効果的であったかを検証することは非常に困難だが、結果として、当時最高の知的水準にあった学徒出身の特攻隊員たちですら、ほとんど何の抵抗もなく桜の花のように潔く戦死するという美意識を受け入れていたことから、桜をモチーフとして国民を潔い戦死に導く方針はかなり成功していたと考えておられるようだ。
フィリピンから最初に出撃した特攻隊の命名の基準となった本居宣長の和歌も、必ずしも潔く散ることを称えたものではないという。
敷島の大和心を人問はば
朝日に匂ふ山桜花
確かに人知れぬ山奥に慎ましく咲く山桜を彷彿とさせる情景であるが、朝日を浴びて神々しく輝く様子を歌ったとしか考えられない。ところが戦時中の軍部の指導者たちは、この桜に潔くパッと散るイメージを重ね合わせて公表し、しかも誰もそれを疑問に思わなかった(旧帝大出身の予備士官たちでさえ)というのは不思議なことである。前記の苗村七郎氏もまた、「敷島の山桜のようにパッと散華して使命を達成された特攻隊員の至純の心▲という表現をされている。
では俗称「特攻花」として伝えられるオオキンケイギクをどのように捉えたらよいのだろうか。私はこれは歴史の一般論としての「反作用」であると考えたい。歴史というものは常に時の権力者・勝者の側からのみ伝えられるのであるが、時代に埋没させられた民衆・敗者のエネルギーもまた、どこかに残ることが多いのである。有名なものでは、古事記・日本書紀に描かれた古代大和の成立の陰に消えていった地方豪族の思いなども出雲神話などの形で残っているらしい。
戦争末期、特攻隊の若者たちは自らを桜の花になぞらえて潔く出撃して行った、彼らを見送った者も当時のマスコミも桜の散る様子を重ね合わせていた、そしてそのような英霊を出したことを家族たちは家の誇りとして受け止めた。これが歴史の表側である。今さら心配しなくてもこの歴史が既述から消えることはないであろう。
だがもっと長生きしたかった、息子や兄弟や恋人を死なせたくなかったという、他人にはなかなか言えなかった気持ちが、表側の歴史の力によって押し潰されることもなかった。その象徴がオオキンケイギクの特攻花であると私は思う。
特攻隊を美化する危険性
東京オリンピックの1964年をはさんだ頃、当時全盛をきわめつつあった少年漫画週刊誌に有名な幾つかの航空戦記漫画が連載されていた。少年サンデーの「大空のちかい」(九里一平、隼戦闘機)、少年キングの「0戦はやと」(辻なおき、零式戦闘機)、そして少年マガジンの「紫電改のタカ」(ちばてつや、紫電改)である。これらの漫画に夢中になっていた少年が大人になった世代をターゲットにしたのか、最近これらの中の「紫電改のタカ」の復刻版を書店で見かけ(そう言えば20〜30年前は「のらくろ」に夢中になった私の父親の世代がターゲットになっていた)、久しぶりに主人公の滝城太郎に再会したが、最後まで読み進んでいくと、あれあれ、こんな結末だったのかと驚いてしまったので、ここに書いておくことにする。このコーナーに書くからには、もちろん特攻隊がらみの話である。
「紫電改のタカ」は少年飛行兵の滝城太郎の活躍を描いたもので、滑走路もない孤島に着陸して敵兵と渡り合ったり、目を負傷して視力を失いながらも勘で戦闘機を操縦して敵の重爆撃機を撃墜したりと、あまりに荒唐無稽な筋書きだが、それらは少年向きの熱血漫画として許せる範囲であろう。少年剣士や少年忍者が少年パイロットに入れ替わっただけだから…。ところが「紫電改のタカ」のラストシーンは、主人公たちが特攻隊として出撃するところで終わるのだが、これは絶対に見逃すわけには行かない。このシーンは日本人全体に見られる特攻隊容認の体質を計らずも露呈した筋書きと思われるからである。
主人公の滝城太郎は最後の好敵手となったアメリカのパイロットに勝って基地に帰ると、特攻の鬼と言われた指揮官が着任していて、早速翌朝の特攻出撃が命令されるのであるが、これがあまりに唐突である。この漫画のモデルとなった第343航空隊は本土防空のための局地戦闘機隊で、全機揃って沖縄へ特攻出撃などするはずがなかったし、アメリカのエース級のパイロットに勝てる滝城太郎のような腕利きパイロットをそう簡単に特攻隊に出さなかったのも史実であって、最後に作者がこの主人公をわざわざ特攻戦死させる必然性はまったく無かったはずなのだ。
「紫電改のタカ」の最終回は、例えば「0戦はやと」のように主人公が好敵手と雌雄を決したところで終わらせても良かったし、「大空のちかい」のように戦隊長亡き後の加藤隼戦闘隊の若き後継指揮官として育っていくところでも良かったのである。それを事もあろうに、あまりに唐突な特攻出撃とは…。主人公は、前日に母親と幼馴染の恋人からの来隊の電報を受け取って、家族との面会を楽しみにしていた。だがその母親と恋人の乗った列車が、基地の近くの駅に着く頃、滝城太郎以下の第343航空隊の面々は沖縄へ向けて離陸した後だった。最後のコマに以下の白々しい文章が空しく綴られている。
そのころ滝城太郎ははてしない大空に飛び立っていった。
母を捨て信子を捨て…先生になるゆめもすてて―
ただ自分の死が祖国日本を救うことになるのだということばを
信じようと努力しながら…。
これはうわべだけ見れば、映画「雲ながるる果てに」と同じ設定である。あの映画では、突然の息子の出撃を駅で知らされた父母が息せき切って基地まで駈けて来た時には、特攻機は次々と滑走路を蹴って離陸していくところだった。呆然と立ちすくむ母、ヨロヨロと進み出て万感迫ったように万歳を叫ぶ父。あまりに非情で無残な家族の別れである。「紫電改のタカ」の作者ちばてつや氏は作品連載中にこの「雲ながるる果てに」を見て(あるいは思い出して)感銘を新たにし、自分の作品の最終回の設定もこれにしようと決めたフシがある。それほどあまりに唐突で意味のない主人公への特攻出撃命令なのだ。主人公の特攻出撃という重大なテーマが、最終回のわずか1回(1週分)に無理やり詰め込まれている感がある。
なぜちばてつや氏は、自分が生み出した漫画のキャラクターに、こんな残酷な辛い別れを経験させたのだろうか。その理由はそうすれば多くの日本人読者もまた感銘してくれるに違いないと確信したからであろう。
「雲ながるる果てに」は特攻を計画した者や命じた者たちへの非難と怒りが全編を通じて描かれていて、最後のシーンもまた特攻隊員たちの生命を玩具のように翻弄する指揮官たちへの批判を象徴するものとなっている。しかし「紫電改のタカ」では何と特攻の鬼と言われた指揮官の中佐に対して、滝城太郎は「特攻命令など聞けるか。」と一旦は反抗するのだが、中佐から逆に「わしも第一陣に加わって出撃する。どうか日本の国民のために笑って散って欲しい。」と目に涙を浮かべて懇願されて一言もなく、従容とこの中佐に従って出撃してしまったのだ。何という浪花節的な美談…。
ちばてつや氏が自らの作品の最終回をこのような形で完結させた背景には、「雲ながるる果てに」で述べられたような特攻作戦批判の主張が、すでに1960年代当時から多くの日本人にとって理解できないものになっていた可能性がある。特攻作戦の沿革や指揮命令系統に対する十分な知識も批判精神もないままに、祖国のために笑って死んでいったとされる若者たちへの愛惜と尊敬の念だけが過大に膨らんでしまったのだ。作者のちばてつや氏だけの責任ではない。隊員だった若者たちの自己犠牲の勇気と祖国への忠誠心の物語に陶酔しきってしまって、真実を知ろうとしない、あるいは自分の心に触れた感動的な部分だけが真実であると錯誤してしまうような、我が国の国民性こそが問題なのだ。
1960年代と言えば、「ああ同期の桜」というTV番組もあって、特攻で戦没した学徒兵の遺書や手記に取材したという視聴者の涙を絞らせるような物語を毎回完結で放映していたし、特攻隊関連の映画のキャッチフレーズには「貴様も俺も笑って死のう、どうせ散るなら太平洋を真っ赤に染めて殴り込み」とか「同じ想いの貴様と俺の散っていく日がなぜ違う」など、日本人好みの浪花節的な文字が踊っていた。このようにして日本国民はいつしか特攻隊のことを、悲しいけれども美しく素晴らしい物語、日本民族として誇らしい歴史として無意識に受け入れていったのではなかろうか。「紫電改のタカ」の最終回も、そういう日本国民の精神史の流れと符合するものがある。東京オリンピックを境に奇跡の戦後復興と言われた経済発展を達成しつつあった当時の日本にあって、その礎となったのは特攻隊員たちであったという、戦争を生き残った者たちの贖罪にも近い気持ちが表出したものであろう。しかし当時の内閣には戦争を指導した者たちの系譜を引く閣僚も加わっていたためか、特攻隊員たちへの賛美だけは高まったが、特攻作戦への批判はほとんど行なわれなかった。
その後、1970年代から1980年代にかけて日本経済が順調に実績を伸ばし、バブル経済と言われた絶頂期を迎える頃になると、なぜか特攻隊を過度に賛美したり、過度に愛惜したりする物語は下火になっていった。金さえあれば何でも手に入る現世における究極の贅沢に多少は負い目を感じていたのかも知れない。そしてバブル経済もはじけた1990年代になると、再び特攻隊が一種のブームになった。その火付け役は言うまでもなく知覧特攻隊の物語だったと思っている。
知覧については、高木俊朗氏のノンフィクション「特攻基地 知覧」が1964年から翌年にかけて週刊朝日に連載され、後に単行本にもなったにもかかわらず、知覧がそれ以上世間に知られることはなかった。深堀道義氏の著作に詳しく、また私もこのページに少し書いたとおり、この作家の執筆姿勢にはいくらか問題点があるが、「特攻基地 知覧」は特攻作戦を遂行した上層部への批判を真っ向から打ち出した作品であり、特攻隊を美しいものとして受け入れたいという当時の日本国民の気持ちには合致しなかったのであろう。現在でもおそらく絶版になったままである。
特攻を計画した者たち、命令した者たちへの責任追及は放置したまま、特攻隊員たちを美しいもの、立派なものとして誇りたいという多くの日本国民の心情にマッチした形で再び現れたのが、富屋旅館の鳥浜トメさんを中心とした知覧特攻隊の物語である。(鳥浜とめと平仮名で書かれることも多いが、実娘の赤羽礼子さんの著書「ホタル帰る」ではトメと片仮名で書いてあるので、以後はこれに従う。)ホタルとは、「ホタルになって帰って来るから」とトメさんたちに言い残して昭和20年6月6日、知覧から特攻出撃した宮川三郎軍曹のエピソードが元になっている。そして本当に宮川軍曹が戦死した日の夜、富屋旅館の入口から一匹の大きなホタルが入って来たという。このエピソードは1964年の高木俊朗氏の「特攻基地
知覧」にも紹介されているにもかかわらず、当時はまったく読者の興味を惹かなかった。ところが現在ではホタルと言えば知覧特攻隊の象徴として人々の感動を呼ぶようになっている。出撃前夜にトメさんたちの前で泣きながら祖国の歌「アリラン」を歌って行った朝鮮出身隊員の光山文博少尉の話をモデルにした東映映画も、やはり題名は「ホタル」である。もっとも高木俊朗氏が紹介したホタルのエピソードに比べると、最近出版されているものは多少美化されているように思われるが…。
知覧はホタルという象徴とともに、現代の日本における特攻隊伝承のメッカとなった。地元のタクシーの運転士さんから聞いたところによると、全国各地から大学生や高校生など若い人たちも大勢訪れるという。ためしに「知覧」「特攻隊」「ホタル」などのキーワードでサイトの検索をかけて探してみれば、それらの中に「泣けた」「感動した」「隊員の皆様にまた会いに行きたい」などの書き込みがたくさん見られるのが判るが、「あの人たちを死なせた上層部を許せない」という種類の感想は非常に少ない。特攻隊の若者たちの殉国の想いを、美意識として自らの中に取り込んでいく日本国民が増えつつあると感じる。しかしこういうことは特攻隊員たちが、大切な者を無謀な作戦で奪われた者たちが、そして彼らを見守って支援してきた鳥浜トメさんが、数十年後の日本人に本当に望んだことだろうか。
祖国のため、他人のために自分を犠牲にすることは勇気ある崇高な行為である。また現在の日本人には自分(たち)さえ良ければいいという利己主義が蔓延していて、他人のために自分を捧げようという理念に欠けているのも非常に嘆かわしいことである。しかし祖国や他人のために何かを捧げる自己犠牲をも厭わぬ気持ちと、国家の上層部が国民に対して強要しようとする国家への忠誠心と犠牲とは、厳然と峻別しなければならない。国民の美意識に訴えかけて、国民を国家への犠牲に供しようとする上層部の試みは、現在の知覧に対する多くの国民の熱い思い入れのような隙間を狙って入り込んでくるものだからだ。
赤穂浪士の討ち入りは、当時の民衆の幕府に対するモヤモヤした気分を晴らす快挙として熱狂的な支持を受けたが、その後も「忠臣蔵」の物語は時を越えて日本人を熱狂させ続けている。本来は主君に対する忠義と滅私奉公の物語であったが、明治以降の軍国主義者たちは物語の中に朝廷からの勅使を登場させたりして、巧みに天皇制国家への忠誠心を煽る道具として利用していったと、大貫恵美子氏は指摘している。
他人のために何かしようとする気持ちと、国家のために犠牲になることを峻別できるかどうかを知りたければ、私がこのページで何回か書いているように、平成の国難とも言うべき現在の未曾有の経済危機に対して、あなたは自分の全私有財産と全所得を国家に差し出すことが出来るかどうか、自分の胸に手を当てて考えてみるがよい。
ホタルの変遷
最近、若者たちをも含む多くの日本人を感動させている知覧の特攻隊の象徴となっているホタルの物語は次のようなものである。赤羽礼子氏(鳥浜トメさんの次女)、石井宏氏の著書「ホタル帰る―特攻隊員と母トメと娘礼子」から引用させていただく。
宮川三郎軍曹が知覧の富屋食堂に姿を現したのは五月の半ば頃であったろうか。六月六日の出撃までにはかなり間があったので、鳥浜家の家族とはふつうの隊員よりも仲よくなった。彼はまだ童顔の残る二女の礼子を可愛がった。あまり可愛がるので、長女の美阿子が「礼ちゃん、大きくなったら宮川さんのおヨメさんになればよいのに」と冷やかしたほどである。その姉の美阿子も宮川軍曹のことを「雪国の人らしく色白のハンサムな人だが、どこか淋しそうな兵隊さん」と呼んでいる。
宮川軍曹はいつも滝本恵之助伍長と連れ立って現れた。二人は親友というより、二人だけの一蓮托生の仲間という感じで、ほかの隊員たちからは離れていた。というより疎外されていた。あるいはみずから壁を作っていたと言っていいかもしれない。というのも、宮川は第一〇四振武隊員、滝本は第一〇二振武隊員として同じ万世飛行場から出撃した仲間であったが、この二人だけが機体の調子がわるく、途中で引き返してきた。以来二人ははぐれ狼のように扱われて知覧に転任してきたのであった(ちなみに知覧から出撃した一〇四振武隊員は宮川軍曹ひとりである)。宮川たちの飛行機は再整備に出され、後方の基地に移動したまま戻ってきていない。”生き残り”の烙印を押された二人の知覧での毎日は孤独だったのだ。
(中略)
そんな2人にもいよいよ特攻命令が出る。富屋食堂近くでの出撃前夜の情景は、あまりにも悲しく美しく、印象的に書かれているので、再び引用させていただく。
宮川の声がした。
「小母ちゃん(トメさんのこと)、おれ、心残りのことはなんにもないけど、死んだらまた小母ちゃんのところへ帰ってきたい。なあ滝本」
「うん」と滝本の声がした。
「小母ちゃん、おれたち帰ってきてもいいかい」
「いいわよ、どうぞ帰ってらっしゃい。喜んで待ってるわよ」
そのときホタルが一つ、すーっと川を離れて、五人のいる藤棚に来てとまった。
「そうだ、このホタルだ」宮川が感に堪えぬように言った。「おれ、このホタルになって帰ってくるよ」
「ああ、帰っていらっしゃい」とトメは言った。そうよ、宮川さん、ホタルのように光り輝いて帰ってくるのよ、と内心で言った。
「おれたち二人だよ。おれと滝本でさ、二匹のホタルになって小母ちゃんのところへ帰ってくるからね。そうだ。二匹のホタルが富屋の中へ入ってきたら、それはおれたちだから、追っ払ったりしちゃだめだよ、小母ちゃん」
「誰が追っ払ったりするものかね。どうぞ帰ってきてください。待ってるからね」
宮川は懐中電灯でちらと自分の腕時計を照らして言った。
「九時だ。じゃ明日の晩のいま頃に帰ってくることにするよ。おれたちが入れるように、店の正面の引き戸を少し開けておいてくれよ」
「わかった。そうしておくよ」とトメが答えた。
「おれが帰ってきたら、みんなで《同期の桜》を歌ってくれよ」
「わかった。歌うからね」
「それじゃ、小母ちゃん、お元気で」
「……」
トメには別れの言葉がない。死にに行く人を送る言葉なんてこの世にあるのだろうか。
二人は富屋をあとに、暗い道の中に消えていった。
翌6月6日、滝本伍長だけが富屋食堂に現れるのだが、滝本は雨で視界が悪かったため途中で引き返してきたのだ。宮川へも「引き返そう」と手振りで合図を送ったのだが、宮川は聞き入れずに1人だけ進撃して、再び帰って来なかったのだという。滝本だけ1人で酒を飲んでいるところへ、大きなホタルが富屋食堂の中へ入ってくる。「宮川さんが帰ってきた」とトメさん一家が言い合っていると、滝本や他の兵隊たちもホタルの周囲に集まってきて、泣きながら「同期の桜」の大合唱となった。
日本中に知覧特攻隊のブームを巻き起こした「ホタル帰る」の物語は非常に感動的である。この話を読んでジーンとこない人はいないだろう。まるでドラマを見ているようである。この本を読んで「涙が止まらなかった」「感動した」という数多くの書き込みが、あちこちの特攻隊関連のサイトに見られることはすでに述べた。特攻隊で卒論を書くという大学生や、子供たちにもこの物語を読み聞かせるつもりだと書いた学校の先生もいる。
私は特攻隊員たちのことを忘れまいとする心情は尊いと思うし、それに水を差すつもりは毛頭ないが、現在のこのような特攻隊賛美の風潮には危ういものを感じるので、敢えて検証させていただく。だがその前に、1964年に連載が開始された高木俊朗氏の「特攻基地 知覧」では、このホタルの物語がどのように伝えられているかみてみよう。
また、奇妙な印象を残した隊員もいた。宮川三郎軍曹は五月に一度出撃して、飛行機の不調で帰ってきた。戦友に死におくれたことを苦悩して、その気持を鳥浜礼子にあてた手紙のなかで書いている。
『先輩、同期生がつぎつぎと散華し、自分たちばかり残るというのは、心苦しいことです。この心は、わかっていただけると思います。だが、決して死を早まらんつもりです。任務を完遂するまでは、断じてやります。ご安心ください』
宮川軍曹が二度目に出撃したのは、六月六日であった。その前夜、鳥浜とめに別れをいいにきて、冗談をいった。
「あした出撃したら、今度はホタルになって帰ってくるかな」
近くの麓川で、カジカがなき、ホタルの飛んでいる時であった。宮川軍曹は永久橋でホタルを見てきたのだろうと、とめは思った。
翌日、宮川軍曹は滝村曹長と編隊をくんで、沖縄に向った。滝村曹長は途中で、引返そうと誘ったが、宮川軍曹は前進をつづけた。引返した滝村曹長は、その夜も富屋にきて、隊員たちと酒を飲んでいた。
店の裏側の窓に、夕顔のつるがのびていた。そこへホタルが流れてきて、ほの白い花のあたりにとまった。鳥浜とめは、それを見て、昨夜の宮川軍曹の言葉を思いだした。全身に寒いものを感じて、叫んだ。
「あ、宮川さんがもどってきた」
滝村曹長が飛上がるように立った。顔色まで変っていた。とめが、その訳をいうと、
「宮川が、本当にそういったか」
と、不安な顔になった。滝村曹長が、あまりおどろいたので、とめは不審なものを感じた。この日、滝村曹長が途中から引返したことと、何か関連があるかと思った。疑問は、ながく、とめの心に残った。
宮川三郎軍曹の出撃と、その晩のホタルの出現だけが同じであるが、あとはまったく違う話である。高木氏の「特攻基地
知覧」から、赤羽氏・石井氏の「ホタル帰る」までの期間は40年近くあり、関係者の証言内容や記憶に食い違いがあったであろうことは、容易に想像がつくが、どちらの文章にも脚色があることは間違いない。ある事実を文章に残すという行為には、必ず文章を書いた人の脚色が入ってしまう、つまり事実が100%の文章などありえないわけで、誰が、どのような意図を持って、どの程度の脚色を行なったかについては、常にチェックしていなければならないのである。もし文章を書いた人がある悪意を持って脚色を行なったのであれば、それはもはや単なる脚色ではなく改竄である。
そこで「ホタル帰る」の文章だが、知覧から出撃した特攻隊員の真相を伝えようとした赤羽氏と石井氏にどんな悪意もあろうはずはない。だが悪意がないだけに却って、後世に禍根を残す可能性がありうる。私が以下に書く文章は、決して赤羽・石井両氏を批判するつもりでここに掲載したものではないことを判って頂きたい。それはこのページの前半に書いてきた海軍の特攻指揮官たちに対する非難の文章とはまったく違うのである。
先ず細かいことであるが、「ホタル帰る」の文章の中では、宮川軍曹が《同期の桜》を歌ってくれ、と言ったことになっているが、私は陸軍の「飛行隊」の特攻隊員たちが、海軍の「航空隊」の兵士たちと同じ歌を同じ歌詞で歌ったかどうか疑問である。また「同期の桜」を戦時中の陸軍兵士たちが歌ったかどうか、これも検証の余地があると思っている。
また仮に「同期の桜」を皆で歌ったとしても、最初から「疎外されて」「孤独だった」宮川軍曹のために、富屋に居合わせた他の兵隊たちまでが声を合わせて「同期の桜」を合唱した情景についての説明が、「ホタル帰る」の本の中ではあまりに希薄である。
だがこの2点に関してはどうでもよい。特攻隊員たちのために涙したいという多くの日本人の心情に訴える手段としての脚色であれば、私には何の異論もない。
しかしどうしても腑に落ちないのは、宮川軍曹の相棒の氏名と階級が高木氏の「特攻基地
知覧」とは異なっていることである。高木氏の文章の中では「滝村曹長」となっており、「ホタル帰る」の中では「滝本伍長」となっている。果たしてどちらの作者が、どういう意図の下に「脚色」を行なったのだろうか。ちなみに宮川三郎軍曹については、どちらも同じ氏名、同じ階級で登場しており、出撃した命日にも食い違いはない。
先ず階級について、ちょっと考えれば「ホタル帰る」の内容はおかしいことがすぐ判る。宮川は軍曹、滝本は伍長、軍曹は伍長より階級が上である。だから下の階級の伍長が、天候が悪いからといって、上官の軍曹に対して引き返そうと合図したあげく、自分だけさっさと勝手に編隊から離脱して帰ってきてしまうことなどありえないのではなかろうか。高木氏の書いた曹長の方が正しいと思われる。
次に氏名については、滝本と滝村のどちらが正しいのか。実は高木氏の執筆姿勢には大きな問題があって、自分の作家としての野心のためなら、取材内容を何でも活字にしてしまう悪い癖があったようだ。元々が報道班員(新聞記者)であるから、作り話を公表するようなことは職業人としてのプライドが許さなかったであろう。だがその代わりに、自分が取材したことについては、周囲への配慮もないまま容赦なく出版してしまうというエゲツナサがあった。戦後の知覧に起こったある出来事、それは題材となった本人への影響が大きいから決して文章にしてくれるなと、鳥浜トメさんから固く釘を刺されていたにもかかわらず、自分の野心のためと思われるが遠慮なく執筆してしまった事項があり、後に大変な問題を引き起こしたことについて、佐藤早苗氏が「特攻の町・知覧」に書いている。(これは特攻隊とは直接関係がない話で、また私までが関係者の実名をこれ以上広める必要もないので、ここには書かない。)
私も鳥浜トメさんの生前の映像を見たことがあるが、本当に観音様の生まれ変わりといってよい、人を疑うことを知らぬ温厚で実直な方とお見受けした。本当に特攻出撃する隊員たちに実の母親以上の愛情を抱いておられたのは映像や音声だけでヒシヒシと伝わってきた。「ホタル帰る」の文章の中にあるように、「ホタルのように光り輝いて帰ってくるのよ」などと死後の栄誉をほのめかすようなことを、かりそめにも思うはずはなく、トメさんの実の娘の赤羽氏が、石井氏による安易な特攻隊賛美の行き過ぎた筆をチェック出来なかったことが惜しまれる。
しかしそれはともかく、「ホタル帰る」の石井氏によれば、晩年のトメさんは報道関係者を極端に嫌っていたというが、その大きな原因は高木氏のこのエゲツナサにあったのではなかろうか。ともかく少なくとも戦後の一時期においては、トメさんも高木氏の取材には可能な限り応じて、高木氏の人柄に気づかぬままに知っている限りのことを答えていた形跡が窺える。ということは、つまり1960年代に取材されたホタルのエピソードの登場人物についても、高木氏のいう滝村曹長の方が信憑性がある。(おそらく防衛庁の資料を調べれば事実は明らかになると思われるので、今は推定で止めておく。)
ではなぜ赤羽・石井両氏は滝村曹長を敢えて滝本伍長と名前を変えて登場させたのであろうか。私が一番問題にしたいのはこの点である。高木氏はおそらく鳥浜トメさんから独自に取材できる立場であることを誇りたかったであろうから、トメさんから聞き書きした内容はそのまま活字にしていたはずである。そしてトメさん自身も取材当時は高木氏を疑うこともなかったであろうから、自分が印象に残った戦時中のことについてそのまま高木氏に語ったことであろう。つまり高木氏の「特攻基地 知覧」に書かれたホタルのエピソードの方が真実に近いと思われるのである。そうすると、赤羽・石井両氏が滝村曹長を実名で登場させるに忍びなかったのではないかという状況が浮かび上がってくる。なぜなら滝村曹長は出撃命令を受けながら、途中で天候不良を理由に基地に引き返してしまったからである。それ以外の理由は思いつかない。
特攻の出撃命令を受けて見事に死んだ宮川軍曹は、知覧特攻基地の象徴となって死後の賞賛を受けているのに、死にきれなかった滝村曹長は名前さえも変えられて脇役にされてしまうのか。「ホタル帰る」には次のような後日談も紹介されている。
戦後まもない頃、宮川三郎軍曹の遺族を訪ねてきた男がいた。復員したかつての僚友滝本恵之助伍長である。滝本の心境は複雑であった。特攻隊員として死ぬつもりが死ねず、”生き残り”として非難され、チャンスのないまま終戦となり、戦後は新聞や雑誌が特攻隊員をしたり顔で批判する。いったい自分たちのしてきたことは何なのか。価値観の転倒にはとてもついていけそうにもなかった。
滝本はまず宮川の遺影に手を合わせ、それから墓参をした。そのあと宮川と過ごした三週間や最後の出撃と別れについて両親に語って聞かせた。両親は涙ながらに話を聞き、感謝した。そして「とくに用がなければ」しばらく滞在してはどうかと奨めた。食料難の時代ではあったが、農村にはまだ取り置きがあり、滝本をわが子と思って留め置くくらいのことはできた。しばらく滞在した滝本は厚く礼をのべて去っていった。
それから一週間もしないうちに宮川家は滝本が死んだという報せを受けた。滝本の死因についてはだれもが語りたがらない。
奥歯に物がはさまったような、思わせぶりでスッキリしない後日談だが、高木氏の「特攻基地
知覧」の文章と読み合わせると、ああそうだったのかと察しがつく。すなわちホタルのエピソードの本質は何も変わっていないのだが、その語り口は約40年間の戦後の時を経てここまで変貌しているのである。
おそらく赤羽・石井両氏は、特攻で死にきれなかった滝村曹長の「名誉」を守るつもりで仮名にしてやったのであろう。つまり特攻で死にきれなかったことは「不名誉」であると、無意識のうちに思っておられるのではないか。ということは特攻の命令は正当なもので、その正当な命令を守りきれなかった滝村曹長の行為を、暗黙のうちに否定しておられることになる。このことの論理的帰結は恐ろしいものである。特攻は正当な命令であったと言っているのと同じだからである。
特攻が正当な命令であるはずはない。国家や軍隊は国益を守るために、軍人たちに戦えと命令する権限は有している。しかし旧日本軍は、あろうことか、この一線を踏み越えて兵士たちに死ねと命令したのである。これは基本的人権の概念が無かった戦前の日本においても、軍人勅諭に違反する行為であると三村文男氏は「神なき神風―特攻五十年目の鎮魂」の中で厳しく糾弾している。軍人勅諭には「上級の者は下級の者に向ひ、いささかも軽侮驕傲の振舞あるべからず。公務の為に威厳を主とする時は格別なれども、そのほかは努めてねんごろに取扱ひ、慈愛を専一と心掛け、上下一致して王事に勤労せよ」とあり、罪無き部下を大事にせず、自殺攻撃を命じて単なる消耗品として扱った上官の軍人勅諭違反は免れないというのだ。
不当な命令に従いきれず、基地に帰ってきた滝村曹長には何の罪も無い。罪があるのは、「戦闘命令」を踏み外して「自殺命令」を下すことによって、自らの無策の責任を若者たちに転嫁しようとした無能な上官たちである。むろん不当な命令であっても、国のためにと決死の覚悟を決め、敵艦を求めて見事に散華した宮川軍曹以下、数千名の特攻隊員たちの行為は崇高なものであるが、死にきれなかった若干の者たちをこれら体当たりを敢行した若者たちに比べて「不名誉」なものであると、多くの国民が心のどこかで思っているとしたら、後世これほど大きな災いはないであろう。
現代の若者たちまでを感動させている知覧の特攻隊に関する物語は、特攻というあるまじき作戦を計画、指導、命令した者たちへの批判という視点が完全に脱落したまま、出撃した若者たちを心ゆくまで賛美するだけ、という大きな過ちを犯していると私は指摘したい。これは特攻に関する単なるドラマである。ドラマは歴史ではない。書く側も読む側もそのことを十分に了解していれば何の問題もないが、「ホタル帰る」の石井氏はあとがきの中で、自分が赤羽氏から聞き書きしたものを記録に残せば、特攻隊や鳥浜トメに関する誤りは起こらないだろうと自負したうえで、この本を一般読者の前に出版したのである。この本を通じて初めて特攻隊に触れた戦後生まれの若者たちも多い。彼らは、命令の正当性とは関係なく、見事に体当たりして死んだ隊員たちを勇士として賛美する感動的な物語のみを読まされているのである。
知覧の特攻隊の物語に感動したこういう若者たちは将来どうなっていくのだろうか。上層部の責任追及まで含めて初めて特攻隊の「ドラマ」が「歴史」になりうると気付く時が来るだろうか。実は私自身、少年時代に少年週刊誌の記事の中で特攻隊を知って以来、特攻隊の「ファン」になったことはすでに述べた。戦争が起これば真っ先に特攻隊に志願したいと思ったものであったが、特攻を計画・指導した者の責任ということまでは考えが及んでいなかった。人間の生存を否定する命令を下す鬼のような冷酷な心までは洞察できなかった。
自分が特攻の計画者や命令者たちと同じ年齢になるまでに、私はさまざまな歴史や哲学や文学などに触れた。そしてこれらのおかげで私は、哀切に満ちた甘美で感動的な特攻隊の「ドラマ」を卒業することが出来た。特に西欧世界においては、国家と人民の権利と義務に関する論争が繰り返されることによって近代国家が成立してきた歴史があることを学んだのは大きかった。これは日本にはなかった歴史である。これがおそらく特攻隊成立の要因の一つであろうという考えも持った。
一方で特攻隊の「ドラマ」が書き続けられていくのは当然である。人々の生活の潤いのためには、歴史や日常生活などあらゆる題材をもとにしたドラマも必要だからである。だがその一方で、あらゆる学問の自由が保証されたうえで、若者たちの批判精神を養っていく教育も絶対に不可欠なのである。さもないと「ドラマ」がいつしか歴史的な真実として後世の人々の行動を律する価値基準となり、後世の指導者たちの不当な権力行使を正当化する後ろ盾となって、再び若者や国民を無謀な政策や作戦に駆り立てる結果を招くに違いない。
最後に一例を挙げておく。戦前の若者や子供たちの中に次のように考える者はいなかったのだろうか。太平記の物語では、九州から東上する足利の大軍を前にして、楠木正成は京都を一旦敵手に明け渡して後醍醐帝の比叡山への動座を建言するが、坊門清忠をはじめとする側近の公卿たちに一喝されて、仕方なく勝ち目もない湊川の戦場へと出陣して討ち死にする。一党の頭領としては一族の安全を考えて北朝方へ寝返るという選択肢もあったはずであるが、これはともかくとしても、単なる強がりから正成の合理的な作戦を却下した後醍醐帝や側近の公卿たちの敗戦責任を後世追及する必要はないのかと、どうして誰も考えなかったのか。こうして無理な作戦に赴かされて従容と討ち死にした正成一党の見事な最期のみが「ドラマ」として昭和時代にまで伝えられ、兵士たちは「楠木正成のように」潔く死ぬことを強要されてしまったのではなかろうか。
思えば楠木正成の物語と、特攻隊員の物語は、日本の歴史の中で瓜二つだ。到底勝ち目のない大軍との戦闘、無能で無責任な上官、これらに一切の異議も差し挟まずに従容と死んでいく兵士たち…。何百年後かの戦争では、どのような「特攻隊」か「必死隊」かは知らないが、桜や菊水の旗印の他にも、ホタルが隊員たちのシンボルになっているのではなかろうか。
まだ見ぬ若者たちを”特攻”で死なすな
「特攻隊員たちが無駄死にであったなどと冒涜することは絶対に許されない。」
特攻隊を賛美あるいは擁護する人々の著書やサイトによく見られる言い回しであるが、こういう言い方で槍玉に挙げられている本の一つが昭和58年初版の「つらい真実―虚構の特攻隊神話」であろう。著者は小沢郁郎氏で、特攻隊や航空関係ではないが、高等商船学校出身の船員として戦時を海上に送った経験を持つ方である。
私はこれまで特攻隊員を本当に冒涜する書物にはお目にかかったことは一度もなく、本書もまた、特攻作戦は戦術的に効果が少なく、実際の戦果も数えるほどのものでしかなかったと書かれてはいるが、本来の主張は特攻作戦を考案、実施、命令した旧軍の指揮官たちは、特攻は命令ではなく志願であったなどと数々のウソを並べて、隊員たちを美化することによって自分たちの責任を回避しようとしたというもので、私がこのページで述べてきたこととほぼ同じである。特攻隊員たち自身を誹謗したり嘲笑したりする部分などまったくなく、むしろウソで固めた美談を作り上げて歴史を歪曲し、自らの責任をウヤムヤにする旧指揮官たちの戦後の言動こそ、隊員たちを侮辱し、冒涜するものである。小沢氏に決して特攻隊員を冒涜する意志がなかったことは、以下の文章からも明らかである。
若者たちの献身が純粋で美しくあればあるほど、その若者たちの生も死も利用しつくす者の醜悪さはきわだつ。特攻隊は、その実施時の実態においてとともに、その「神話化」の過程において、昭和期天皇制軍隊の恥部―指揮官・参謀クラスの醜悪さをかくすイチジクの葉として利用されつくしている。
ただ戦術的に無効だった、戦果が少なかった、と小沢氏が主張する前半の部分を否定することによって、もっと大切な後半の主張までを葬ってしまおうというのが、旧指揮官たちの論争の作戦であろうが、彼らは本物の戦争における作戦はまったく無能だったが、こういう論争上の作戦には巧みな人も少なからずいるらしい。
確かに小沢氏は特攻作戦の戦果を過少評価していると言えなくもない。護衛空母(戦時急造型の補助空母)や駆逐艦以上の艦船の撃沈はなく、撃沈した連合軍艦船の排水量合計は小舟艇まで含めてやっと大型空母1隻分にしかならないとしていて、これは数字としては正しいと思われるが、実際には撃沈に到らなくても甚大な損害を与えた大型の正規空母が何隻かあったことを無視していて、そういう論拠の弱点を狙って旧軍の参謀や指揮官たちは反論を試みてくるのである。だから小沢氏に代わって少し補強しておく。
大損害を受けたアメリカの正規大型空母としてはサラトガ(戦死123名:モリソンの太平洋海戦史による)、ワスプ(同101名)、フランクリン(同724名)、バンカーヒル(同約400名)などがあり、この4隻だけでも米軍の戦死者は1300名を越えていて、航空特攻の戦死者が3000乃至4000名であったことを考えれば、他のすべての被害艦艇を合計して互角以上の人員殺傷の目的を達したとも言える。これはよく戦ったと称賛されている硫黄島守備隊の陸戦の戦死率(米軍約6000、日本軍約20000)よりもかなり有効なように見えるが、考えてみれば航空機による艦船攻撃では、航空機側の損害は通常はもっとはるかに少なくなければならない。戦艦大和を撃沈した米軍の航空隊の損失は計12機で14名戦死、また開戦初頭の英国極東艦隊の戦艦2隻を撃沈した日本海軍航空隊では陸上攻撃機3機が撃墜され、1機が不時着したのみであった。ただし相手が空母の場合は敵も航空機で迎撃してくるので味方の損失はこれよりもやや大きくなり、このような海空戦では戦闘の態様が複雑になって敵味方の損害の算定も不確実になるが、珊瑚海海戦でレキシントンを撃沈、ヨークタウンを大破した戦闘での日本海軍航空隊の直接の損害は23機、ミッドウエー海戦で日本の大型空母4隻を撃沈した戦闘での米軍の直接の損害も約30機程度となるが、神風特攻隊の効果に対する損失の比率に比べたら物の数ではない。要するに特攻隊は航空作戦としても損得(戦術)を度外視した無謀きわまりない暴挙なのであって、こんなことを部下に命令した指揮官たちの責任が追及されずに済む道理はないはずである。
小沢氏はまた旧軍の参謀の中でも特に奥宮正武氏を名指しして徹底的に批判しているが、私がこのページでも奥宮氏の文章を引用した個所とほぼ同じなので省略する。奥宮氏は特攻隊関連の他にも、南京大虐殺の不正確な目撃談や、日米開戦前の揚子江上の米軍砲艦パネー号誤爆事件の実行者としての自らの責任に関して、2000年に「正論」誌上で中川八洋氏から論争を挑まれてしどろもどろになるなど、かなりいい加減な人間であることは確かだ。こんな指揮官たちに命令されて死地に赴かされた特攻隊員たちが気の毒でならない。
また三村文男氏は「神なき神風―特攻五十年目の鎮魂」の中で、大西瀧次郎ばかりか、戦後に大西を擁護する人たちまでを執拗に批判している。しかし小沢氏にしろ、三村氏にしろ、特攻作戦に対して批判的な立場を取る人たちにしても、過去に指導的立場にあったこういう旧軍人への個人攻撃に終始する傾向があることが惜しまれる。なぜなら個人の非をいくら責めたところで、こういう実際に特攻作戦を指揮した人たちがすべて鬼籍に入ってしまえばあの特攻作戦自体は自然に時効になってしまう。これからは特攻隊という歴史の中から、日本人が何を学び、何を反省すべきか、本当に真剣に考えなければ、再びいつの日か日本人が特攻に類する暴挙を演じる日が必ずやってくるのではないか。
私は長いこと鹿児島県の知覧を訪れたいと願っていた。陸軍の特攻基地があった知覧の地名を初めて知ったのは、高木俊朗氏の「特攻基地
知覧」によってである。高木氏の取材姿勢、執筆姿勢には彼独特の驕りと独善があって非常に問題があるが、少なくともこの作品は猪口力平・中島正氏に始まり、奥宮正武氏、安延多計夫氏などへ続く特攻作戦の実際の指揮官たちが自らの責任を回避するために美談を列挙した書物と違い、特攻作戦を正面から糾弾したものであった。だから知覧こそは特攻作戦を憎み、本当の意味での隊員たちの慰霊と鎮魂が行なわれている場所であろうと漠然と想像していたのであるが、知覧の特攻平和会館を訪れて少なからず失望してしまった。そこで行なわれていたのは単なる特攻隊への賛美でしかなかったのである。
特攻平和会館を訪れ、あるいは書物やテレビ番組や映画で知覧特攻隊の象徴であるホタルの物語に触れて、私より若い世代の人たちの中にも激しく感動して涙を流して若き特攻隊員たちに想いを馳せる人々は今や跡を絶たない。しかし彼等のうちの何人が、特攻作戦を発案、計画、実施、命令した上層部の醜悪さまでを気付いているだろうか。いや、国に殉ずる覚悟で敵艦に突入した健気な特攻隊員たちも日本人なら、特攻を命令しながら自分は戦後も生き残って浅ましくも責任回避を試みている醜悪な上層部もまた同じ日本人であることを、どのくらいの人々が意識しているだろうか。健気な若者たちと共に醜悪な上層部がいれば、必然的に第二、第三の特攻作戦はいつか繰り返されるのである。美しく書き変えられたホタルの物語などに感動している場合ではない。
しかし何故、日本人は健気な若者たちへの感動にばかり気が向いてしまうのだろうか。それは自分たちもまた醜悪な上層部の素質を持っているからではないのか。組織の上級者としての権威にすがり、どんな無理難題に対してもニッコリ笑って服従してくれる健気な下級者を欲しているのではないか。我々の親・教師の世代はそうだった、上司もそうだった、組織のリーダーも国の為政者もそうだった。そして我々もまた下級者からは同じように接して貰って安閑と権威にすがっていたい、そう考えているのではないか。
特攻作戦こそは日本人のこの上下関係があからさまに具現された歴史であった。多くの人々が醜悪な上層部の責任に正面から向き合えないのは、自らの醜悪さを直視できない人間の弱さだと思う。自らの中にも潜む醜悪な部分を直視しない代わりに、上層部の命令に対して素直に死んで行ってくれた特攻隊員たちを賛美したがるのではなかろうか。その方が居心地が良いのだ。
特攻隊員たちの物語に感動する人々は、必ず最後に「平和は大事です」とか「二度と戦争をしてはいけない」などと付け加えるのが常である。こういう言葉を添えておけば、あとはいくらでも心ゆくまで特攻隊員たちの悲劇の物語に浸って感動する免罪符となるらしい。とても危険な兆候である。そういう人たちが戦争を無くすための具体的な方策を示したことは一度もないのだから、これらの言葉は感動を手に入れるための単なる方便でしかない。
健気な若者たちと共に醜悪な上層部がいれば、必然的に第二、第三の特攻作戦はいつか必ず繰り返される、と先に書いたが、すでに現在の年金問題や公共事業や行政改革・政治改革などを見れば、官僚や為政者たちの無責任な施政に黙って健気に堪える国民たちという図式は確実に定着している。ただしこれだけではまだ「特攻」が再発する土壌とは言えない。あと必要なのは一般国民の心の中における「特攻」に対する美意識の完成と正当化である。この第三の要素をもたらしうるものとして私が危惧しているのが、最近ブームになっている特攻隊の物語なのだ。国家や社会が重大な危機に瀕したら、国民は指導者の命令に素直に従って生命までも捨てる覚悟が必要だ、という倫理観念が国民一般の中に当然のこととして受け入れられ、実際にかつてそのように死んでいった者たちへの感動のみが素朴に伝えられていった場合、現在のような醜悪な上層部と健気な国民がこの先どのような歴史を紡いでいくか、目に見えるようである。
無責任なかつての特攻作戦指揮官の1人、奥宮正武氏は「海軍特別攻撃隊―特攻と日本人」の中で、生きている特攻隊員はいないとして、生存者が彼らに代わって彼らの真意を伝えることはできそうにもない、とまさに「死人に口なし」を地で行くような無茶苦茶な論法を展開して、特攻作戦への批判をかわそうとした。だがシャトー・ディフの地下牢から脱出したモンテ・クリスト伯のごとく、あるいはガレー船から生還したベン・ハーのごとく、特攻機に搭乗して敵艦の一歩手前まで突入し、奇跡的に生き残った少数の特攻隊員がいたことはすでに何回か引用した。この中の鈴木勘次氏は昭和52年に「虚しき挽歌―特攻、この不条理の記録」という本を出版して、おそらく多くの特攻隊員たちの真情に最も近い文章を綴ってくれているので、それらを紹介してこの項を終わりにしたい。それは奥宮氏などの旧指揮官が仕立てた美談とも違うし、戦後の若い世代までが素朴に感動する美談とも違っている。
鈴木氏はそれほど文章の達者な方とは思えず、特攻について書き残すに当たっても、心の奥から湧き上がってくるものを持て余しかねているようなところもある。今は亡き戦友たちの氏名を書き連ねて追悼する箇所では、次のように特攻を一見肯定するような文章が見られる。
日本人として最も栄誉ある死に方で、彼等は死んだのである。死ぬことに嬉びと不撓不屈の精神が入れば人は美しくなる。美しいものは人を引きつけるものだ。
みな暗黒の闇に消えた男たちだ。陽光は背にしていなかったが、伝統を背負っていた。不運な生涯を送った若者たちではない。任務に限りなき執念をもった男たちであった。
天地の義を明確にして自らに力を得て使命を果すことは、大和民族の神髄にして、国防の神兵を以って任ずる飛行機乗りに課せられた義務であった。
しかし昭和20年に入ってからの特攻作戦は、もはや命ずる側も命じられる側もほとんど惰性に近いもので、立派とか立派でないとか、そんな価値判断の対象になるようなものではなかったと回想している。
特攻への行動は複雑なる思考と、自らの決断の可能な人間の初めての時期から、戦略への適応過程をとおして単純な反射行動のみの見られる段階にまできていた。
特攻隊員なんて能力があろうと弱虫であろうと誰にも出来るものなんだ。ここまで辿りついた苦しい激しい人世の遥かな道のりで、悟り得たのはこのことだけだ。
そして特攻の死の淵から帰ったこの人は特攻そのものも、特攻を賛美することをも明確に否定しているのだ。
伝統とは立派な出来ごとを連続的に貫いてゆき、再現されて伝えられていくものであろう。この特攻が立派なもので後の世に再現されて、のこすものであろうか。特攻は海軍の伝統をうけついだものではないし、後世に伝統として続けることのできるものでない。われわれは突然変異でできた異端者であり軍人ではないのだ。
私達の特攻への出撃をすなおに称賛し、失敗は許されない自己放棄の心を賛辞で語られていても、われわれへの死を悼む悲しみ、哀れみの表現はなにかうつろに聞こえ、かえって先立たれた先輩、同僚を傷つけているような腹立たしい気持になることすらある。どう説明しても、その時の私達の気持は経験していない人達には理解できないだろう。
日本人の好む”オナミダ頂戴的”な効果を狙った演出のように思えることが多い。こんな演出で、犠牲者を英雄だといわれるのを聞いていると、特攻隊は、軍隊が作り出した”最低の芸術品”だといっているように聞こえる。
体験すれば、恐怖や不快感がつのる数々のできごとも、文字や話になると、読む者、聴くものは一変して、楽しみになるからである。
逃げることのできない重縛の中から、辿りついた敵空母への道程は実に永く、けわしい道であった。そう簡単に、英雄だ、悲劇だといって片づけられる性質のものではなかった。
今となって考えてみると、特攻とは私にとって、まことに不愉快なことであった。当時の考え方からすれば、終戦条件によっては、処刑、あるいは隠遁生活を送らなければならないと思っていた。「俺も恐ろしい体験者だな」と帰国当時、二、三度考えたこともあったが、戦争の思い出はなるべく避けるようにしていた。吉川功、田中茂幸の二人の同僚と、最後まで行動を共にした体当りという自殺行為の記憶は、時代とともに美化された思い出に変るものではなく、三十数年過ぎた今でも、身体の傷とともに心の傷として残り、消え去らないものである。
こんなことから、私は特攻を崇拝する人、あるいは「特攻」という言葉に反感を覚える。殉国も、献身という賛辞も私にはすべて不謹慎な偽りの言葉に聞こえ、素直に喜ぶことはできない。
殺りくを途中でやめられない悲劇こそ戦争であろうが、国民があらゆる負担や苦難に堪え、国土を破滅に引きずり込もうとしている軍や政治に、懐疑や警戒をいだかなかったこと。特に戦争末期に勝ち目のないことを誰もが知りながら、愛国心や正義感や精神力で勝利を期待できるように印象づけ、捨身の特攻体制を英雄化し、大勢の犠牲者を出させるような行為に憧憬するがごときは、「戦争に勝てないような国民は生きるに値いしない」と考えている軍人や、一部の責任者もきびしい批判を受けなければならないが、国民全体の良心と、良識の弛緩からきている事柄が自己批判されていないのではなかろうか。
鈴木氏が自らの内部の想いを文章にするのに、ひどく苦労しているように見える部分が非常に多いが、当事者にとっての「特攻」とは、そう簡単に立派なことだとか、むごいことだとか、割り切れるような単純な出来事ではないことをよく表わしていると思われる。だが鈴木氏がこれほどまでに「特攻」を嫌悪しておられたのは、特攻隊員が「消耗品」扱いだったからではないだろうか。この本の中には、飛行場で米軍機の空襲を受け、鈴木氏が僚友と共に水路に飛び込んで難を避けた時の記載がある。敵機が去った後もしばらく水路の中で鈴木氏たちが放心していると、通りかかった士官から浴びせられた言葉があった。
「たるんどる!消耗品の屑めが!」
特攻隊員は消耗品でしかなかったのだ。
戦後のアメリカの戦争映画に「They Were Expendable(彼らは消耗品だった):邦題
コレヒドール戦記」というのがあるが、日本軍の侵攻の前にフィリピンに置き去りにしてしまった米軍兵士を追悼し、その勇気を称賛する作品である。しかしその映画の中で、司令部の退却のために要所の守備を任された兵士たちは、特攻隊員に比べれば決して消耗品として酷使されたようには描かれていなかった。普通のアメリカ戦争映画である。あれを消耗品扱いであったとして下級兵士のために懺悔するのがアメリカの軍隊なら、特攻作戦のようなまさに人命消耗作戦を計画・命令しながら、それを戦後美化しようとした日本軍はまさに人でなしの鬼としか言いようがない。
そんな鬼たち自身が醜悪な自己弁護のために特攻隊員たちを美化するばかりか、一般の人たちまでが特攻隊の物語を美談に脚色して称賛する風潮を鈴木氏はどのように感じられたのだろうか。「国民全体の良心と良識の弛緩」として厳しく糾弾されたあの言葉は、現在の日本人すべてに向けて発せられたものであると理解したい。
鎌倉武士の美談、楠木正成の美談、赤穂浪士の美談、そして特攻隊の美談。こういった類の脚色された美談に単純に感動していれば、その影響は次世代の下級者たちの運命を左右することになりかねない。これからこの国に生まれてくる若者たちを決して「特攻」のような愚行で死なせてはならない。
日本のような国で特攻のような愚行が再び繰り返されないようにするにはどうすべきなのか?私も今のところ明快な解答を用意しているわけではないが、国民一人一人が自分の意見や考えを正々堂々と述べることが出来るような教育を施す以外にないのではないか。現在の日本は表現の自由が保証されているにもかかわらず、上級者としてのキャリアにある人々でさえも、自分の意見を発表するのを躊躇することがあまりに多すぎると思う。こういう状況の中に既成の感動が持ち込まれると、人々が我も我もと同じ感動に浸っていって、国民全体に望ましくない行動規範が確立してしまう恐れがあるのではなかろうか。
「藪の中」なのか
神風特別攻撃隊のページに最後の記事を付け加えてから1年以上が経過した。私が40年以上にわたって追求してきた特攻隊に関するコメントも一段落したわけである。そろそろこのページをもっと読みやすい形に編集する作業に取りかかるべき時期であるが、その前に一つだけ総括しておきたいことがある。
黒澤明監督の映画「羅生門」は、芥川龍之介の小説「藪の中」を見事に映像化した不朽の名作で、1996年のアメリカ映画「戦火の勇気」にも明らかに影響を与えていると思われるが、その言わんとしているのは、事実は一つであっても、語り手の視点によっては幾とおりにも解釈ができてしまうということである。特攻隊の歴史に関しても同じではなかろうか。
私は言うまでもなくプロの物書きではない。プロの文筆業の方々のように、特攻隊の関係者やご遺族にインタビューする機会もなかったし、防衛庁やアメリカ国防省などの資料を閲覧する時間もなかった。私の取材はすべて既存の文献を自分なりに解釈しなおしたものである。
当然、特攻隊という歴史的事実に関して、Aという人と、Bという人と、Cという人が記載を残せば三者三様の解釈と主張になる。まさに黒澤明監督の「羅生門」の世界である。Aさんはこう言ってます、Bさんはこう書いてます、Cさんはこう考えてます、と羅列するだけでは、私自身の独自の見解は出せない。
そこで私のとった手法は次のようなものであった。例えばAさんがある記載をしているのを読んだら、そこに述べられている“事実”をBさんとCさんはどう述べているかを比較検討した。幸いなことに、私はこういうことに関する記憶力に恵まれており、何年も前に読んだ文献でも対応する記載の要点を思い出すことが出来た。例えば最初にフィリピンで第一航空艦隊による特攻作戦が開始された時、もう一方の第二航空艦隊が特攻によらない通常攻撃で米空母を撃沈していた戦史をそれぞれの立場の人々がどのように記載していたかを検証することが可能であった。また日本を感動の渦に巻き込んだとされる「ホタル帰る」に記載されている内容が、40年前の「特攻基地知覧」とはまったく書き換えられた美談に仕立て上げられていることも見抜いた。
こういった頭の中にあるライブラリーの他に、私は40年以上も特攻隊に関係した人々を思いながら年齢を重ねてきたために、それぞれの立場の人がある記載をした場合、その記載内容をその人の立場や心理状態と照合するという作業ができた。人がある文章を書き残す時、そこには必ず主観が入る。どういう種類の主観が入るかを予測した上でその内容を検討すれば、記載内容を補正してより事実に近づくことができる。もちろんこの段階で今度は私自身の主観が入るが…。
このようにして特攻隊に関する文献を多数読み解いていくと、その著者によって幾つかのグループに分類すべきであることが判った。
先ず第一は特攻隊員自身の遺書や絶筆である。出撃を控えて隊員たちが書き残したこれらの文書には彼らの覚悟のほどが窺われ、国や家族の行く末を案じる純粋な気持ちには涙を禁じ得ない。ただしこれを100%鵜呑みにして彼らの愛国心、忠誠心、自己犠牲の崇高な心の発露であるなどと考えてはいけない。軍の検閲が厳しかったとか、特攻に行かなければ自分ばかりか家族までが非国民の汚名を着ることになるという恐れはもちろんあっただろうが、実際に昭和19年から20年頃の隊員の気持ちになってみれば、そればかりでなかったことはすぐに推察がつく。
当時は南方やビルマ方面の戦局が思わしくないことは誰でも判っていたことであり、同じ時期に陸海軍に入隊していた肉親や郷里の友人や知人が英霊となって無言の帰宅をしても少しも珍しい時代ではなかった。誰某は○○方面で戦死したらしい、などという情報は日常茶飯事だったであろう。いずれ自分にも遅かれ早かれ順番が回ってくるのは暗黙の了解だったはずだ。
しかし陸軍部隊の玉砕、海軍艦艇の沈没では、同じ戦死にしても大勢の中の1人でしかない。それなら航空特攻のように1人1人名前が読み上げられる戦死の方が名誉ではないか。こういう気持ちは彼らの中に必ずあったと思う。それが彼らの遺書の中によく見られる高揚感、喜びの表現なのではないか。それをただ単純に彼らは喜んで死にに行ったと解釈するのは非常に危険である。
次に第二のグループは特攻を命じた指揮官たちの記載である。このグループの人たちはほとんど百人が百人とも、あの戦局では特攻は止むを得なかった、大西瀧次郎中将が特攻を始めた、隊員たちは喜んで志願して死をもいとわなかったと記載しており、中間指揮官たる自分たちには何の責任もなかったと暗に主張する魂胆が見え隠れしている。執筆動機としては最も醜いと言えるかも知れないが、これをそのように唾棄すべきものとして遠ざけてしまうことも危険である。なぜならこれが人間の所業だからである。
関係者としてなすべきだったこと、あるいはなさざるべきだったこと、それらを口をつぐんで責任を回避しようとする態度は人間なら誰でも持ち合わせているはずだ。その人間の弱さを直視せずして、自分が同じような立場に立った時に今度は自分のその弱さを克服することはできない。他山の石とすべき貴重な記録である。
第三のグループは特攻を徹底的に憎む人たちによる記載である。大西瀧次郎をはじめとして、特攻作戦を立案、指導、実施した人々をほとんど罵倒するような論調が特徴であるが、これは何の解決にも教訓にもならない。特攻の責任者として糾弾した対象の人々がすべて死に絶えた現在、特攻という“事件”は被疑者死亡で審理終結を宣言しなければならなくなるからである。
第四のグループは特攻隊をオナミダ頂戴の美談に仕立て上げて、悲劇を求める読者に迎合する書籍である。最近では「泣きたい症候群」という言葉があるらしい。それとは別に精神科医の香山リカ氏も著書「若者の法則」の中で、最近の若者たちは自分は泣けるような特別な経験をしていて、無為に生きているわけではないことを確認するために、「泣ける物語」を求めているのではないかと述べている。こういう若者たちの趣向に合わせた美談なのではないか。特攻に行った隊員たちも、白血病で死んだ恋人たちも同じ「泣き」の対象ではたまったものではない。
いずれにしても、私は第四のグループを除く前三者の視点を突き合わせることによって、少しでも特攻の事実に近づけるのではないかと思って、このページを書き進めてきた。「藪の中」を原作とした黒澤明監督の「羅生門」では結局事実は判らずじまいということになるのだが、この映画にヒントを得たアメリカの映画「戦火の勇気」では確か真実が明らかになる結末だった。特攻作戦が終結して日本が終戦を迎えてからすでに60年以上が過ぎた。しかしもう真実は“藪の中”と諦めてしまっては、再び日本で同じような愚行が繰り返されることになる。生存する関係者の数は年々減少してほとんど皆無に近いが、これからはそれらの人々が書き残した文献の記載内容を、著者の立場や心理を加味して科学的に考察することで真実を明らかにしていかなければならない。
実はこの立場をとる第五のグループの著作も多く、これらの著者はプロの文筆業、評論家の方々も多いので、その取材源は生存する関係者やご遺族へのインタビューから公的機関の資料まで幅が広く、残念ながら私のごとき素人の到底及ぶところではない。ただこういう方々の中には取材内容を小出しにされる方もいらっしゃるようで、確かに莫大な努力と労力を費やして取材した内容は著者の方々にとっては大切な財産であり、商売道具であるからどのように使おうと文句を言う筋合いのものではないが、ご自分が筆を擱くまでにはぜひすべて公表しておいて頂きたいものである。
このページは匿名ではありません。私の素性はトップページからご覧ください。
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