秦野たばこ祭

 今回は小田急線の急行で新宿から1時間20分、特急ロマンスカーだと1時間の距離にある神奈川県の秦野で仕事でした。昔よく小田原に通っていた頃は何度も通過した駅ですが、実際に降りたのは今回が初めてです。秦野は地名としては“はだの”と読むのが正解のようですね。

 小田急線はこの駅のあたりでやや北向きに方向を変えるので、小田原方面行きの下り電車の
左側前方の車窓から富士山が見える唯一のポイントです。東海道新幹線の新大阪方面行きの下り電車で左側後方の車窓に富士山が見えるのは静岡駅を過ぎて安倍川を渡るあたりですが、こういう雑学は乗り鉄にとっては何となく楽しい。興味ない人にはどうということもないんでしょうが…(笑)。

 ついでに小田急の雑学といえば、新宿を出て小田原へ向かう電車は東京都と神奈川県の県境を最大11回も越えるということです。特に鶴川と多摩川学園の間では120メートルの間に上り線は5回県境を越えますが、先頭車両が東京に入っても2両目は神奈川県、3両目が東京都といった感じで、もしこれがパスポートチェックを要求される国境線だったら大変なことですね。東京都町田市と、神奈川県川崎市の飛び地の境界線が複雑に入り組んでいるせいなのですが、今回それはともかく…(笑)。

 秦野市は丹沢山系の懐に抱かれた瀟洒な街ですが、9月の週末は“秦野たばこ祭”が開催されるらしく、駅前の大通りやバスターミナルには提灯が下がり、ご覧のような派手な幟も林立しており、改札口前にはタバコの鉢植えが飾られていました。タバコの煙はしょっちゅう嗅がされているけれど、元の植物を実際に見たのは初めてです。この植物の学名はNicotiana tabacum(ニコチアナ・タバクム)、さもありなんという名前で、ナス科の植物だそうです。茎の上の方の葉に人の神経ボロボロにするニコチンが含まれていて、タバコの種蒔きから1年目で収穫した葉を、8ヶ月ほどかけて熱したり乾燥させたりして熟成の準備をし、さらに1年以上ケースに詰めて熟成した後タバコ製造工場へ出荷、それから刻んだり香りづけしたものを紙に巻いて製品が完成するとのこと。大変な手間ヒマがかかっているんですね。

 ところでJTのホームページによると、2014年の世界の葉タバコの生産量は中国がダントツで2995千トン、第2位ブラジルの862千トンを大きく引き離しています。以下インド、アメリカ、インドネシア、パキスタン、マラウイ、アルゼンチン、ザンビア、モザンビークと上位10ヶ国が続きますが、日本はわずか20千トン、それでいてタバコのシェアは世界上位に食い込んでいるのですから、全世界から葉タバコを買い漁っているのでしょう。しかし生産量トップの中国の葉タバコはほとんど中国国内で消費されるそうですから(それも驚きだが)、それ以外の国から輸入するということですね。

 さて国産の葉タバコですが、たばこ耕作組合中央会の資料によると、平成26年(2014年)の県別耕作面積は第1位が熊本県、以下青森県、岩手県、沖縄県、宮崎県、長崎県、鹿児島県、秋田県、佐賀県、福島県とトップ10が続きます。あれ?“たばこ祭”なんかやってる秦野の神奈川県はどうしたの?

 日本にタバコが伝来したのは戦国末期から江戸時代初期のようです。秦野でもタバコ栽培の記載が最初に登場したのが1666年のことらしいですから、その頃に伝わったものでしょう。そして1707年の富士山の宝永噴火による降灰で田畑が全滅、以後火山灰地でも育つタバコの栽培が盛んになり、明治時代以降は栽培技術の革新に努めた結果、全国でも銘葉と称される葉タバコを生産するようになったとのことですが、タバコ産業が民営から専売公社に移管された頃から次第に低調になり、近年の禁煙ブーム・健康ブームが追い討ちをかけて、ついに昭和59年(1984年)には秦野でのタバコ栽培は中止されたとのことです。しかし昔の伝統があったことを語り伝えようと、現在でもたばこ祭が開催されているらしい。

 まあ、百害あって一利か二利しかないと言われるようになったタバコ、栽培農家の方々の高齢化もあって日本全国でも葉タバコの栽培面積は減少しつつあり、先ほどのたばこ耕作組合中央会の資料によれば、平成12年(2000年)に23991ヘクタールあったものが、平成26年(2014年)には8564ヘクタールと1/3にまでなってしまっている。国民の健康のため、医療費抑制のためには大歓迎すべきことでしょうが、やはり一つの文化が衰退していくということでしょうね。

 文化の衰退という一面をつい最近になって見せつけられる経験をしました。昭和49年(1974年)に松竹で封切られた松本清張原作の映画『砂の器』を久し振りに観る機会があったのです。若き日の丹波哲郎、森田健作、加藤剛、島田陽子らが出演する懐かしい映画ですが、封切られたばかりの頃に大学の友人と観た時にはそんなに気にならなかった登場人物の喫煙シーン、今もう一度観るとあまりにも異様で話の筋書きどころではなくなります。

 刑事役の丹波哲郎は登場するたびにタバコに火を付ける、今では見られない国鉄列車の食堂車の座席でも一服する、お前そこで吸うかと突っ込みたくなりますね(笑)。現在では鉄道の車内は原則禁煙ですから、警察関係者が吸ってはいけません。他にも事件現場で一服、捜査会議で一服、事件の参考人と面談して一服、絶対ニコチン中毒ですよ。怪しからんことに、大学の法医学研究室で医者らしき白衣の人物も一服、オイオイ…(笑)。

 半世紀もたたない間に人々の喫煙に対する物の見方がシビアになったということでしょう。せっかくの名作の映画化もタバコの煙が台無しにしてしまう。時代劇のチャンバラで武士が人を斬るのは、ああいう時代のストーリーだからねと観客は許して観ていますが、何気ない喫煙シーンの連続も、ああいう時代だったから…と許せるようになるまでには、もうしばらくかかりそうだなと思いました。


         帰らなくちゃ