呉の製鉄所

 2016年2月2日の朝、電車の向かいの席に座っている人が読んでいた日本経済新聞のトップ記事に、業界一位の新日鉄住金が日新製鋼を買収して、呉製鉄所の高炉1基を休止する方針という見出しがついていました。
 別に私は鉄鋼業界に特段の関心があるわけではありませんし、経済一般に関する知識もまったくと言っていいほどありません。また高炉とは鉄鉱石から鉄を取り出すための溶鉱炉であることも、これまで言葉として知りませんでした。

 ではなぜこの記事に目を引かれたかというと、「ああ、呉製鉄所ってあそこか」と2年前の旅を思い出したからです。2年前に広島で学会があった帰り道、呉湾の東側をグルッと歩いて音戸の瀬戸を訪ねたことは別に書きましたが、呉市から軍港を後にしてアレイからすこじまの海岸通りをテクテク歩いて行くと、車道を隔てる緑の生け垣の向こう側に、赤茶けた鉄板や奇妙に曲がりくねった鉄パイプを気まぐれに積み上げたような風変わりな建造物が見えました。

 すぐに製鉄所だと分かりましたが、もちろん日新製鋼だとかそういう業界事情は知りません。しかし呉市近郊に製鉄所がある必然性は自明の理でしたね。ジャパンマリンユナイテッドの呉造船所に隣接しており、その昔は海軍工廠もありましたから、ここで製造される鉄は艦船の材料として利用されるわけです。戦艦大和に使われた大量の鉄もたぶんここで産み出されたものだと思います。

 鉄は黒金(くろがね)と呼ばれて古くから農耕や狩猟の道具、あるいは戦争の武器として利用されてきたそうです。そう言えば戦艦大和のような軍艦も、『
守るも攻むるも黒金の浮かべる城ぞ頼みなる』と歌われていますね。鉄は頑丈で細工がしやすいので、先史時代から人類は石器や青銅器の文化に引き続いて鉄器の文化を築き上げてきましたが、日本列島では鉄器時代がいつ頃に始まったかはいろいろな説があって明確ではないらしい。まあ、高温多湿な日本では、鉄などはすぐに錆びて無くなってしまうから、古代の遺物としては残りにくいのでしょうね。

 宮崎駿さんは長編アニメ『もののけ姫』の中に“たたら場”という古代の製鉄所を描いています。こんな大規模な製鉄所が無かった時代に作られた日本刀は、すべて日本古来のたたら法で製造されたものですが、古い製鉄法だから鉄の品質も悪いかと言うとむしろ逆で、たたら法で徹底的に鍛え上げられた鉄は近代の製品をはるかに凌駕していたと言われています。
 ずいぶん前のことになりますが、日本刀とアメリカのピストルとどちらが強いかを実験した映像を見たことがありました。しっかり固定された日本刀の切っ先に向けてピストルの弾丸を発射する、ピストルは日本刀の刃を砕くことができるか?結果はピストルの弾丸が真っ二つに割れてしまったのです。大量生産の製鉄ではそういう鉄を鍛えることはできないらしい。

 呉製鉄所を通り過ぎて、なおも音戸の瀬戸を目指してあるいて行くと、海岸沿いの一角に『巡洋艦青葉終焉之地』と書かれた石碑が建っていました。日本海軍の重巡洋艦青葉は1927年(昭和2年)に三菱重工長崎造船所で竣工し、太平洋戦争中は数々の武勲を残しましたが、1945年(昭和20年)7月の米軍艦載機による呉空襲で大破してそのまま終戦、2年後に解体完了してクズ鉄となりました。
 艦尾を破壊され、右舷に傾斜して陸岸近くに浸水着底した巡洋艦青葉の写真は何枚か見たことがありましたから、あれかこの場所だったかと感慨深かったですね。青葉の主計科士官だった中曽根康弘元首相が上右の写真の石碑を建立したようです。

 巡洋艦青葉に使用されていた鉄はクズ鉄となって戦後日本の復興に役立ったわけですが、大部分の艦船は多数の乗組員を乗せたまま大量の鉄と共に海底に沈んでしまいました。あと数十年ほどで海底の食鉄バクテリアの働きでこういう艦船は影も形も無くなってしまう可能性があると聞きましたが、呉という軍港の街で製鉄所を通りかかり、人類と鉄の歴史に触れた思いがします。人類は農耕や狩猟や建造物に用いた何十倍、何百倍でもきかないくらい大量の鉄を、戦争の兵器として使ったのではないか、残念なことです。

         帰らなくっちゃ