音戸の瀬戸

 先日、春の学会があって広島へ行って参りました。学会行事がすべて終わった後に1日だけ自由時間が取れて、普通の人なら広島で1日だけ時間があれば西へ向かって安芸の宮島を訪れるのでしょうが、私の場合は東のへ行って大和ミュージアムに入ったり、軍港で潜水艦を眺めたりしたいですね。前回の広島学会の時もそうでした。

 今回は少し時間が無かったのですが、それでも軍港を一巡りした後、呉湾の東側の突端、警固屋といういかめしい地名の町まで歩いてみました。この地名はもともとは『食小屋(けごや)』、つまり工事用の飯場に由来するようです。何の工事かと言えば、1167年に平清盛がここ警固屋と目と鼻の先にある倉橋島の間に、船を通すことのできる水路を開いた、その大工事の時の飯場です。

 その後、戦国時代に毛利氏がこの地に警固を置いたので警固屋と書かれるようになりましたが、それはともかく清盛が開いたという水路が音戸の瀬戸です。私は今回この音戸の瀬戸を見下ろす公園に立ってみましたが、はるかに浮かぶ瀬戸内海の島々を背景に大小の船が行き交う光景はのどかなものでした。
 言い伝えによれば、工事期間が足りなくなったので清盛はこの丘の上に立ち、沈む太陽を扇であおって時間を戻させた、それでこの地を『日招きの丘』とも呼ぶようですが、まさに太陽でさえも従わせるほどの平家の権勢だったということでしょう。確か映画『スーパーマン』の中で、死んだ恋人を生き返らせるためにスーパーマンが地球の自転を逆転させるシーンがありましたが、まさに清盛も平安時代の日本が産んだ偉大な元祖スーパーマンだったわけです。

 音戸の瀬戸を海上から見た光景です。瀬戸には赤塗りのアーチ型の橋が2本架けられていますが、そのうちの手前の1本が見えていますね。

 この地峡を突き抜ければ福原(神戸)までの航路を大幅に短縮できる、清盛はそう考えて中国との交易(日宋貿易)のために音戸の瀬戸を開削したという説明が一般的ですが、これを聞いて「アレ?」と思いませんか。

 広島付近の瀬戸内海の地図を出してみて下さい。広島の南東の方角に呉があり、そこからさらに南に下ったあたりが音戸の瀬戸です。現在でも四国の松山と広島を結ぶ船舶にとって音戸の瀬戸は最短距離であり、船の燃費など考えれば経済的な効率は計り知れないものがありますが、それでは中国(宋)から関門海峡を通って瀬戸内海に入って来る大型船にとってはどうでしょうか。

 最初から少し南寄りに航路を選べば、何もわざわざ潮流の早い音戸の瀬戸を通らなくても福原(神戸)に向かうことができます。ですから「
平清盛が日宋貿易のために音戸の瀬戸を開いた」という従来の歴史教科書の記述は誤りであると思いますね。

 それにこの付近はもともと船が通るに十分な水深があったという最近の地質学的調査もあるそうです。おそらく清盛は、日宋貿易のためではなく、平家の氏神である厳島神社への参拝航路として音戸の瀬戸の拡張工事をしたのではないか。水面下に隠れている大岩を排除したり、海面上に出ている岩礁を削ったりして、水路をより安全に通行できるようにした、それだけでもあの時代にしては難工事だったはずです。

 福原から厳島神社への船旅なら、音戸の瀬戸を通った方が陸岸に近く船を走らせることができるので安全だし、時々陸地に船を着けて休憩したり遊んだりできるし…、そういうことだったんじゃないかなという気がしますが、皆さんはいかがお考えでしょうか。歴史は当時の人の身になって、そのように考えてみるとなかなか面白いものです。

        帰らなくっちゃ