てつのくじら館
広島県の呉市に“てつのくじら館”というのがオープンしたと聞いて、学会出張の帰路をかねてさっそく訪ねてみました。まったく何のための学会なんだか…(絶句)。
“てつのくじら”とは“鉄の鯨”、つまり潜水艦の比喩ですが、ご覧のように退役した海上自衛隊の潜水艦「あきしお」(昭和61年竣工、基準排水量2250t、全長76m)を陸に上げて資料館とし、2007年の4月5日に開館したもので、正式名は海上自衛隊呉資料館というそうです。
“てつのくじら館”はちょうど“you me”というショッピング・センターの隣り、“大和ミュージアム”(呉市海事歴史科学館)とは道路を隔てた真向かいにあり、呉市のこの一角はちょっとした
Navy Center に生まれ変わり、海軍ファンにとってはかなり嬉しい。私などは2年前に立ち寄ったばかりなのに、また来てしまいました。潜水艦の手前に錨やら小型潜水艇など見えてますが、これらはすべて大和ミュージアムの屋外展示品です。
実は“てつのくじら館”(海上自衛隊呉資料館)の本体は、この潜水艦の裏手にある3階建てのビルで、ここには機雷掃海の展示やら、潜水艦関連の展示などがあって、海上自衛隊の広報の一環を受け持っていますが、やはり何と言っても最大の目玉は本物の潜水艦!
博物館本体から渡り廊下を伝っていよいよ実物の潜水艦内に入ると、士官居住区や艦長室、司令塔直下の発令所などが現役当時のままに再現されていて、潜望鏡なども覗かせてくれます。潜望鏡を覗くと呉港内の様子が見えますが、やはり陸上に固定された艦内から眺めるのと、実際に海中に身を隠して洋上を窺うのとでは緊張感も違うんだろうなあ。
司令塔内は写真撮影禁止となっていて、一部の計器類は文字が消されたりしていました。すでに退役した潜水艦であっても、その性能が明らかになってしまうと、もっと新しい潜水艦の性能までが推定されてしまうからでしょうが、イージス艦の極秘データがああも簡単に漏洩してしまうんだから、我が国の潜水艦が水中速力どのくらいで何メートルくらい潜れるかなんて、周辺諸国の軍事関係者はすでに知っているんじゃないかと心配になる今日この頃であります。
やっぱり陸に上がった潜水艦よりは現役の潜水艦の方が迫力があるだろうということで、海上自衛隊の潜水艦埠頭まで足を伸ばしてみました(写真上)。ここは呉湾東側の“アレイからすこじま”という観光スポットで、帝国海軍時代の雰囲気を保存したエリアです。最大の呼び物は潜水艦埠頭、日本で一番身近に潜水艦を見られるというのがキャッチフレーズみたいです。私が訪れた時も海上自衛隊の潜水艦が3隻ほど繋留されていました。
潜水艦の後方にいる“690番”をつけた船は掃海艇「みやじま」(掃海艇は島の名前)、奥にいる大きな船は掃海母艦「ぶんご」(これは水道の名前で、同型艦は「うらが」)です。海上自衛隊の縁の下の力持ちたちの溜まり場ですね。
“アレイからすこじま”とはちょっと耳慣れない呼び名ですが、アレイ(alley)は公園の小道、また今は埋め立てられているが、大正年間までは烏小島という島があったというのがその由来のようです。ここは“てつのくじら館”や“大和ミュージアム”から約3キロほどの距離にありますが、もともと呉という土地は海以外は山で囲まれているため、狭い斜面に沿って造船所や工場や倉庫が所狭しと並んでおり、道路もその間を縫って走っているので非常に歩きにくい。クネクネと曲がりくねり、アップダウンが激しいだけでなく、道幅も十分でないので歩道が片側にしかない部分もあります。しかもそこを大型トラックが猛スピードで走り抜けて行きますから、普段からあまりウォーキングに自信のない人には徒歩はお勧めしません。
そもそもそういう険しい地形だからこそ防諜上の利点に軍が目をつけ、呉は海軍の軍港として発展してきたわけで、老人とか障害者にとっては決して優しい街ではありません。福祉と軍事は絶対に両立しないということを証明する街と言ってよいかも知れません。
そういうわけで“アレイからすこじま”への徒歩の散策はあまりお勧めしませんが、途中の丘の上からは戦艦大和を建造した造船所を見渡すことができました。今でこそ壁に“大和のふるさと”などと書いて観光客にアピールしていますが、その昔はこんな方向から写真を撮影したら、憲兵隊がすっ飛んできて、お説教どころでは済まなかったでしょうね。
大和のふるさとでは現在でも大型クレーンが動き回り、工作機械が轟音を上げ、溶接の火花が盛んに散っていました。
さてせっかく呉まで行ったのですから、やはり“大和ミュージアム”も再訪してみました。2年前に来た時は館内に戦前・戦中派世代と思われる方々の団体ばかりが目立ったのですが、今回一番驚いたのは高校の修学旅行生が大勢訪れていたことです。それも女子高校生のグループも非常に多い。
私たちが幼かった頃は、女の子は軍艦や戦闘機に興味を示しませんでしたが、館内で見かけた女子高校生の一団は、ボランティアの説明員の方の熱心な説明に何度も頷きながら聞き入っていました。ここ何年か戦艦大和や特攻隊を描いた映画が幾つか封切られましたが、それらに出演した俳優さんたちを重ね合わせていたのかも知れません。
彼女らの姿を上から眺めているうちに、私はあることを思い出しました。別のコーナーにも書いたのですが、戦艦大和を建造した頃の日本には外貨を稼ぐ産業もなく、唯一の輸出基幹産業ともいえる製糸業は貧しい農家から身売り同然の女工として働く娘たちの生命を賭けた重労働の上に成り立っていました。早朝から深夜まで、労働基準法も健康保険法もなく、少女たちは十分な栄養も休養もないままに生糸生産の重労働に従事して、結核症に倒れる者も少なくなかったといいます。日本はそういう少女たちの犠牲を伴った労働で生産された絹製品を輸出して外貨を稼ぎ、軍備を充実させて戦争への道を突き進んで行った…。
まさに上の写真の女子高校生たちと同じ年頃の少女たちの物語です。何ともコメントのしようがありません。彼女らの目の前に再現されている戦艦大和、それを造るための礎(いしずえ)になったのは彼女らと同じ年頃の貧農の娘たち…。そこまで知って初めて歴史は生きた教訓となるのです。