荒川と隅田川(岩淵水門)
少し前に別のコーナーで、現在の東京の繁栄は先人たちの血の滲むような苦闘の末に完成した治水事業の成果の上に成り立っていることに我々は気付かないなどと偉そうに書きましたが、私も干支が一回り以上するほど東京で暮らしてきたのに、その苦闘の跡を訪ねることもしなかった、しかもその中心現場は私の生活圏から直線距離にして10キロも離れていない東京都区内の北西部、さらに私が最も永く勤続した板橋の帝京大学キャンパスからはわずか3キロほどしか離れていなかったにもかかわらず…、これは本当に恥ずかしいことですね。
昔から1/10,000の東京道路地図などで見ると、北区の北東側、埼玉県との県境では大きな河川が非常に不思議な形で絡み合いながら流れていることは知っていました。しかしそこを訪れてみようとも思わずに半世紀以上も生きてきた私は、本当なら東京人失格の烙印を押されても仕方ないほどのボンヤリ者なのです。
それで遅れ馳せながら還暦をはるかに過ぎたこの年齢になって、荒川と隅田川の分岐点に行ってみました。このGoogleマップで左上から右下へ流れる太いのが荒川、そこから分かれて左下へ向かうのが隅田川、荒川が隅田川に比べてかなり太いことが一目瞭然です。この2つの河川を隔てて首長竜のように見える陸地、ここは現在では野球場やゴルフ場や災害時のヘリポートなどが整備された公園地帯になっていますが、ここから上流を望んだのが下の写真です。
緑地で隔てられた2つの水面が見えますが、右手が荒川、左手が隅田川です。上のGoogleマップを参照して下さい。江戸時代の荒川は秩父山系の水を集めて上流から流れてくると、Googleマップにも見えますがここで新河岸川とも合流し、そのまま隅田川と一緒に東京の下町へ向かって東京湾に注いでいました。しかしこの細い川筋で流しきれないほどの大雨が上流に降ると、明治年間になってもたびたび流域に大洪水をもたらしたわけです。
特に明治43年(1910年)には広大な氾濫面積と多数の死者を伴う甚大な水害が発生したのを機に、現在の隅田川を流れていた荒川の水の捌け口を作る掘削工事が計画され、赤羽の岩淵水門から東京湾の河口に至る総延長約22キロの人工河川の建設が始められた、それが荒川放水路でした。
明治43年(1911年)に着手された荒川放水路掘削工事の技術的な指揮をとったのは青山士(あきら)技師で、この人は明治37年(1904年)から9年間にわたってパナマ運河の測量設計に唯一の日本人として参加、その技術的経験が荒川放水路にも活かされているとのことです。ちなみに青山技師は土木建設技術は全人類の福祉に貢献するものでなければならないという固い信念を持っていて、後の昭和20年(1945年)、太平洋戦争敗色濃厚な日本海軍が超大型潜水艦に爆撃機を搭載してパナマ運河攻撃作戦を企図した際、軍部からパナマ運河の攻撃方法を聴取されても、自分は運河の作り方は知っているが壊し方は知らないと頑強に突っぱねた非常に気骨のある方だったそうです。
上の写真の左手に赤い水門が見えていますが、これが青山技師の手になる岩淵水門、青山技師はそんなに水門を強固に固めるのかと周囲が驚くくらい堅牢な設計を施しましたが、お陰で工事中の大正12年(1923年)に発生した関東大震災でもびくともしませんでした。大正13年(1924年)にこの岩淵水門が完成して荒川(現在の隅田川)の水が放水路へと通水され、以後は東京が大規模な水害に見舞われることが少なくなりました。さらに荒川放水路によって分断された中川や綾瀬川の付け替え工事なども行われて荒川放水路が最終的に完成したのが昭和5年(1930年)、その後、昭和40年(1965年)にはそれまで荒川下流だった上の写真の左側水面が隅田川となり、荒川放水路と呼ばれていた右側が荒川本流となり、こうして平成から令和の現在に至る河川呼称が定着したわけです。ちょっとややこしいですね(笑)。
その後、施設の老朽化、地下水汲み上げによる地盤沈下、荒川治水の基本計画見直しなどの理由で、昭和57年(1982年)この岩淵水門のやや下流側にさらに巨大な新岩淵水門が建設されて、洪水時に隅田川の水を堰き止める役目を引き継いでいます。この4個並んだ巨大な四角い監視塔は京浜東北線が荒川の鉄橋を渡る時に下流側に望めますし、私が赤羽駅から住宅街を歩いていくと隅田川の堤防越しにかなり遠方からも見えました。
こうして見てくると、荒川をはじめとする東京の治水の歴史は遠く江戸時代やせいぜい戦前の時代までに完成したものではなく、私たちの世代が生まれて次の世代にバトンタッチしていく現代においても、まだ進行形で継続している課題なのですね。私がここを訪れた日も隅田川の堤防の耐震補強工事が行われていました。
時代を超えて江戸〜東京を水害から守ろうとした先人たちの労苦が無かったならば、東京は現代に至るもなお度重なる水害で甚大な経済的損失や人命の喪失を余儀なくされていたでしょう。しかも最近では温暖化の影響で日本列島の気候が亜熱帯のようになっていますから、東京都心に地下街や地下鉄を張り巡らしても毎年のように豪雨で長期間にわたって水没、すなわち現在の東京の繁栄はあり得なかったかも知れません。その東京治水の中心的な事業が荒川放水路掘削工事だったと言ってよいと思います。
しかしGoogleマップで上空から見た荒川放水路(現在の荒川)の広大な流域を眺めた時、工事計画を策定して推進した人々や実際の工事に携わった方々の労苦はもちろんですが、これだけの土地を提供した、あるいは提供させられた住民たちの犠牲も容易に察することができます。土地収用面積は寺社・田畑を含む1068ヘクタール、移転戸数1300戸。そしてこれらの土地や家屋所有者に対しては土地収用事務所から、土地買収協議書や移転協議書の書類のみが送付されただけ、しかもその内容といえば、承諾する者は承諾書に押印して持参し、期日までに家屋や墓地など地上物件を撤去するよう申し伝える、という強権的なものだったそうです。
国家の施策に関するお上の通達には協力しなければいけないという官尊民卑の気風が残っていた当時でさえも24名の土地所有者が訴訟を起こしました。上記の青山士技師はこの時の経験をもとに、後の昭和2年、鬼怒川改修のダム工事の土地収用に際して、役人と農民は交渉の場においては対等であり、大きな禍根を残す力づくの交渉は絶対に行なってはならないと現地の事務所に指示を徹底したということです。大日本帝国華やかなりし戦前の時代にこれだけの指示を出した青山技師の卓見には驚きますが、戦後になっても戦前と同じ官尊民卑の土地収用によって大きな禍根を残した成田闘争について、日本人は官民ともに歴史的に反省しなければいけません。