もしこの街が
もう15年も前のことになりますが、まだこのサイトを開設したばかりの頃、東京給水塔巡りと題して東京都内各地の給水塔(水道タンク)をご紹介したことがありました。その頃はまだ昭和6年に建設された板橋区大谷口の給水塔が残っていましたが、老朽化が著しいため平成17年に撤去されてしまったと書きました。いったん撤去されてしまえば、もうこんな古めかしい形の巨大な建造物が跡地に建つこともあるまいと思っていたところ、先日近くの日大板橋病院に用事で行ったら、あの給水塔の丸いドーム状の屋根が遠くに見えるではありませんか。
日大病院の人に聞いたら水道局が建て直したとのことだったので、早速翌々日に散策がてら訪ねてみました。かつて帝京大学に自転車通勤していた時は、ちょうど自宅と職場の中間に水道タンクがあったので、自転車の機動性を生かしてこの近くもあちこち探索したものですが、あの頃に比べて何となく小ぎれいになった街並みの中に、巨大な水道タンク=給水塔が再建されていました。ズングリした円筒形に丸いドーム状の屋根という基本的なスタイルは変わらないが、外壁のコンクリートも真新しくなり、スカートのようにちょっと裾の開いた洒落た形になってます。電線も整理されて空がスッキリ見えることもあるでしょうが、給水塔の存在感は昔と変わらないのに、街の景観はガラリと一変したように感じました。下の写真は右が15年以上前、左が現在です。
平成31年1月現在 | 平成10年頃 |
この水道タンクは以前から街のシンボル的な存在でしたが、別にそういう記念碑的なモニュメントを残そうとして再建されたものではなさそうです。確かにドーム状の屋根はちょっと時代的なものを感じさせますが、そういう外観は残しながらも、内部は最新の配水機能を備えた設備になっているようです。
給水塔に面しているバス通りの歩道上に応急給水栓があり、普段はシャッターが閉まっていますが、非常災害で断水した時には付近住民に水を配る設備になっているようです。
心強いことだと思いましたが、もしもここがそういう役割を果たすような事態になった時、それはもはや“万一”などと言って悠長に構えていられないような非常事態になった時のことを想像すると、身の毛もよだつようですね。
思えば今年(2019年)の1月17日はあの阪神淡路大震災からちょうど24年目でした。関西は地震に強い、関西には大きな地震は来ない、そういう“常識”を覆すような大震災から間もなく四半世紀が過ぎようとしていますが、この間に日本列島には東日本大震災をはじめ、東北、熊本、鳥取、北海道、大阪と相次いで強い揺れに襲われ、多くの地方でたくさんの方が亡くなったほか、いまだに住む家も無い方々もいらっしゃいます。大震災に対してこの四半世紀間ほぼ無傷だったのは、最も危ないと言われ続けてきた首都圏だけかも知れません。
阪神淡路大震災を契機に、大正12年9月1日の関東大震災のの記憶を今一度呼び覚まして覚悟を新たにし、次は東京だ、明日にも首都圏が揺れるかも知れないと戦々恐々で気持ちを引き締めてきましたが、震災に襲われるのは他の地域ばかり、首都圏住民はいつの間にか“不沈戦艦”にでも乗っているような、妙な油断と根拠の無い楽観論に毒され始めているように見えます。
その最たるものがオリンピックの東京誘致、大震災で中止となるリスクさえも考えなければいけない東京オリンピックの競技場施設に何千億円も支出するよりは、現実の震災被災地の復興を優先して、災害に強い列島作りで日本という国家の足腰を鍛えなければいけない時期ではないのかなあ。いよいよ1年半後に迫ったオリンピックに浮かれている時ではないと思いますけれど。
熊本震災後の子供支援のボランティア活動に行った帰りの飛行機で、すっかり日の暮れた関東地方を見下ろしました。もう天空は星明かりだけでしたが、地表は各地の街の灯が集合して日本列島の海岸線や関東平野の形がおぼろげに光って見えます。
「もしこの大地が揺れたらどうなるんだろう」
そう思った時の得体の知れない恐怖感は今でも忘れられません。
(ちなみにこの写真は飛行機の窓から撮ったものではありません。スカイツリーの展望台からの夜景です。)
震災後の熊本市や益城町の仮設住宅も見て回りましたが、東京湾上空から見渡した首都圏には、ああいう仮設住宅を建設する土地がほとんど無いと感じました。被災して家を失う人々の数は圧倒的に多いと予想されるのに、その人たちが当面雨露を凌ぐ場所の確保は覚束ない。マンションの壁面などに亀裂が走って、居住が危険と判定されれば、そのマンション1件当たり数十世帯くらいの住民はどこかへ移動しなければならないが、1つの区域の何十何百ものマンションに倒壊の危険が発生した場合、住民はどこへ行けば良いのでしょうか。またその人たちの水は?食糧は?ガスや電気は?医療は?
さらに東京には商用や会議や観光で海外、県外から訪れる人々もきわめて多いでしょうが、その方々が無事に東京を脱出するまでに何週間もかかるでしょうから、そのための一時居住場所や食糧なども確保する必要がある、一時〜中長期の被災者の居住を考えただけでも、首都圏の大震災は日本という国家にとって致命傷になりかねない危険をはらんでいます。それに大量に発生する死傷者や、火災・津波の被害や、通信網・ライフライン・交通機関の寸断という最悪の状況も重なってきますから、“パニック”などという生易しい言葉では表現できない状況になるかも知れない。人間の生存に欠かせない水ひとつとっても、巨大な給水塔があと100個や200個欲しいところです。
この四半世紀、日本各地で天変地異がこれだけ猛威をふるう状況を目の当たりにしながら、なおオリンピックに浮かれていられる日本人の楽天性は驚くべきものだと思います。万一オリンピック期間中に大災害が東京を襲ったら、せめて外国からいらしているお客様だけでも無事に帰って頂けるように、自分たちが犠牲になる覚悟はありますか。
やってみなけりゃ何が起こるか分からない…などという日米開戦さながらの能天気な先行き予想だけでオリンピックを招致したのですから、本当にそのような事態になったら外国からのお客様だけは何としても守るという気概を新たにしなければいけませんよ、平成〜新元号時代の日本人。
成田闘争とは何だったのか
新宿西口の東京都庁上空をかすめて羽田空港への最終着陸態勢に入ったボーイング737ジェット旅客機、こういう情景を見ると、昭和30〜50年代に国内を騒乱状態に陥れたあの内戦さながらの成田闘争とはいったい何だったのかと疑問に思ってしまう。もちろん2019年1月末現在、まだ新宿上空は羽田空港への進入路にはなっていないが、2020年の東京オリンピックに向けて国際線の羽田空港受け入れ増便計画がもし実施されれば、風向きと時間帯によっては、大型ジェット旅客機が東京スカイツリーよりやや高いだけの飛行高度で、数分間に1機ずつ新宿上空を通過することになると発表されている。(この写真は合成)
昭和30〜50年代に高校・大学時代を送った世代なら誰一人その名を知らない者はないであろう成田闘争、農民の労苦に思いを馳せることのできる者の多くは、過激な“闘争”を支持するかしないかは別として、政府の方針に反発を感じつつも最終的に心に政治的なトラウマを負わされた事件でもあった。
1960年代に入ると、大型ジェット旅客機の就航に伴って世界的に空港の需要が高まり、当時の羽田空港の現状では旅客機の離発着に限界があるということで、新東京国際空港の建設が急務となった。そこで当時の佐藤栄作内閣は新空港の建設候補地として、千葉県の富里・八街地区を最優先としたが、付近の農民たちへの公聴会も開かれないまま、政府と千葉県のトップが調整に入ったことから、農民を中心とした反対同盟が結成されて猛烈な空港誘致反対運動が巻き起こった。事態の収拾がつきそうもなくなったことから、政府はすったもんだの末、空港予定地を北東へずらした三里塚地区として、これも十分な地元への公聴会も開かないまま、政府と千葉県トップが水面下で交渉に入り、1966年6月にその経過が報道されるや、三里塚地域でも猛烈な反対運動が巻き起こる。
成田闘争は三里塚闘争ともいわれたが、この三里塚は終戦直後に国有地を開放して、満州から着の身着のままで引き揚げてきた農民や、アメリカに占領されて帰れなくなった沖縄の農民など、いわゆる国策の犠牲になって困窮していた農民たちを入植させて開拓した農地だった。そういう貧しい農民たちだから適当な買い上げ価格と代替地を提示すればあっさり用地を提供してくれるだろうとの読みが政府部内にはあったとされる。
ところが農民がさまざまな苦労の末に愛着をもって開墾し、それもやっと安定した収穫を期待できるようになった農地を新空港に差し出せというのだから、そう簡単に事が進むものではなかったはずだ。「土地は農民の命だ」というスローガンは闘争の中で常に聞かれた言葉だった。その後、空港用地の強制収用をめぐって、新空港建設を至上命題とする政府(国家権力)と反対同盟の戦いは、双方に多数の死傷者を出しながら10年以上にもわたって続き、成田国際空港はやっと1978年3月に開港できる見込みとなったが、この土壇場にきて闘争支援の新左翼の過激派が管制塔を占拠して内部の機器を破壊したため、開港はさらに2ヶ月遅れるという事態も生じた。
この事件が私も含む当時の若者世代に残した政治的トラウマがある。結局、国家権力はやろうと思えば何でもできてしまうというのが1つ。これに対して反対派は自分の党利党略ばかり考えて分裂するから国家権力に対抗できないというのが2つ。これらは半世紀近く経った現在もまったく同じではないのか。
予備校時代の英語の教科書に出ていた英文解釈問題に次のようなのがあった。フランス革命のあった18世紀は武器もそんなに発達していなかったから、国王の軍隊に民衆が挑むことが可能だった。棒きれや投石や放火だけでも国王の近衛軍団に十分対抗して民衆の意見を聞き届けさせることができたが、20世紀(その文章が書かれた時の現在)になると国家権力は、銃砲などの殺人兵器を持ち出さずとも、ジュラルミンの楯や催涙ガス弾や強力な放水車をもって民衆のデモ隊を簡単に制圧することができる、これはせっかくフランス革命で人々が勝ち取った自由と民主主義の危機だという結論だったと思うが、大学を卒業して間もなかった私にとって、まさにその通りの現実を突きつけられた思いだった。沖縄の辺野古埋め立てでも、原子力発電所再稼働でも同じことが起こっているではないか。
もう一つ、そんな国家権力に対抗するために反対派は一致団結して結束しなければいけないのに、共産党や社会党(現社民党)は最初のうちは支持者を獲得するために現地入りして支援者ヅラをしていたが、闘争が党利党略に沿わないものに変貌してくるとさっさと手を引いてしまった。それに代わって暴力も辞さない過激な新左翼グループも参入したが、結局は自分のセクトの論理を声高にアジテーションするばかりで、強大な国家権力に対するイヤガラセ程度の破壊活動に終始して自分たちの挙げた“戦果”に自己陶酔するのに夢中だった。そんな暴力闘争を支援していた学生の中には、後日国家権力内の要職に就き、民衆の声を圧殺する立場として出世していった者もあるやに聞いているが、実に腹立たしいことである。
さて次回の東京オリンピックに向けて、羽田空港への新進入経路になる都区内の住民に対しては関係者の説明会なるものも開かれているが、どうせ安倍政権による国家権力には住民の反対意見など聞く耳はないだろうから、いずれ新宿上空に低空でジェット旅客機が騒音を撒き散らしながら進入して来る日は近いだろう。旅客機は太平洋側か日本海側から都内に進入して来るのだから、新宿上空に飛来する前後に幾つもの区の上空を通過し、さらに高度を下げながら渋谷区や目黒区や品川区の上空から大田区の羽田空港に着陸することになる。練馬区でも私の自宅を挟んでほぼ東西に2本の空路が設定されている。
羽田空港への新しい進入空路を設定する計画の概略については2年ほど前に最初の報道があったが、その時は怪しからんことに、練馬区・板橋区上空から真っ直ぐ南南東に向かって羽田に降りる空路が図示されていた。当然千代田区の皇居上空を横切っている。戦前は陸海軍機でさえ飛んではならなかった皇居上空に、オリンピック目当ての商業ベースの航空路を設定する、いくら事前の世論の動向観察のためのアドバルーンであっても、あるいはたとえ冗談であっても、皇居上空に飛行機を飛ばすなどと言ってはいけない。やはり幕末に京都御所に大砲を撃ち込んだ国賊長州藩の末裔内閣のブレーンにはこんな奴が威張り散らしているのかと憤慨したものだったが、さすがに現在公表されている羽田進入路は皇居を大きく迂回するように設定されている。
さて皇居上空を通過しなくても、もう一つ騒音以外の大きな危険が残っている。着陸前の旅客機から落ちる部品や氷塊である。地上の飛行場に着陸する飛行機は必ず格納していた車輪を機外に出さなければいけないが、この時の振動で機体に付着していた氷塊が落下したり、場合によっては金属疲労した部品が落下することがある。内陸にある成田空港周辺では毎年落下物が何件も確認されているそうだ。だから空港としては、成田に着陸する飛行機は海上で車輪を出してから陸地に進入するように求めていて、大部分の航空会社はきちんと遵守しているが、そうでない航空会社があるから決して無視できない多数の落下物が発見されるのであろう。
成田周辺はまだ農業地帯だから、落下物による事故が発生する確率は非常に低いと言えるが、これがもし人口密集した東京都区内だったらどうなるのか。氷塊1個でさえ人に当たれば確実に死傷する。私の自宅だっていつ飛行機の部品で屋根を突き破られるか分かったものではない。
当然政府の関係者は、羽田に着陸する各航空会社には海上で車輪を出すように厳重に求めると答弁するだろうが、私はそんなものは信じない。車輪を降ろして余計な物を機外に突き出せば空気抵抗が増加して燃費が悪くなる、そんな燃費の負担がかかる状態で東京23区内を大きく迂回してくれる航空会社ばかりではなかろう。機長の国民性によってはギリギリまで車輪を出さずに新宿上空当たりで車輪を操作する奴だって皆無ではないに違いない。
飛行機ではないが、そんな寄港先の面倒なルールに縛られたくない国も私は知っている。この写真は東京晴海を出港する某国の巨大客船(黄色い円内)、この国の客船はおそらく乗客の乗船が終わると船長判断でさっさと出港する習性があるのか、予定時刻の30分くらい前には岸壁を離れてしまうことが多い。この日は小雨も降って視界もそれほど良くなく、しかも航行管制信号灯(赤の円内)は“F”が点滅している。これは全長が100数十メートル以上の大型船は入出港禁止、いわゆる大型船の赤信号であり、信号がoutの“O”点滅にならなければ大型船は出港できないはずなのだが、この国の船はよく我が国の信号を無視する。こういうことを旅客機に東京都区内でやられたらどうなるのか。
政府の関係者は、人口密集地に氷塊や機体部品をばらまかれて人的・物的被害が出たら、該当航空会社に賠償させ、自分たちも雁首並べて頭を下げてみせることで事態を穏便に終熄させることしか考えないであろう人たちだ。とにかく自分たち“お上”の意向を下々に押しつけるだけの国家権力、場合によっては天皇でさえ政治利用するための道具としか考えていなかった長州賊の末裔、都内を低空で降りてくる旅客機を見かけたら、成田闘争で日本国民に突き付けられた大きな政治的課題をもう一度考えてみたらいかがだろうか。そもそも都民の安全を脅かしてまで羽田空港と航空路の拡張により国際線増便ができるなら、あの時なんで成田の農民の生活と誇りを壊すような農地の強制収用をする必要があったのか。
天皇のお言葉と日本国憲法
いよいよ平成の元号も今年(2019年)で終わり、5月からは新元号に切り替わるが、それに先だって天皇在位30年を記念する式典が挙行され、陛下自身もお言葉を述べられた。平成の30年間は対外戦争はもとより、安保闘争や成田闘争のような内戦さながらの目立った政治的対立もなく、まさにその名のとおり平穏に成った時代だったとも言えるが、その反面、平成7年の阪神淡路大震災を皮切りに日本各地を襲った巨大地震、中でも平成23年の東日本大震災では原子力発電所の事故まで誘発されて我が国は未曾有の危機に立たされた。また集中豪雨による水害も毎年のように日本各地を襲って多くの方々が亡くなったり家を失ったりした。その度に天皇・皇后両陛下は被災地を巡幸されて国民を励まし続けて下さった。私なども何度か身近にお姿を拝する機会もあったが、本当に両陛下は心から国民のことしか考えていらっしゃらないのだなと頭の下がる思いであった。
その天皇陛下が、今回の在位30周年でもそうだが、機会あるたびに仰せになったお言葉は30年間いささかも変わらず、日本国憲法を大切なものとして守りながら、日本国の象徴としての道を模索してきたということ。このお言葉を式典に居並んだ政治家たちはどのように聞いていたのか。
「あんなみっともない憲法は早く改正する」
と臆面もなく言い放った者を首班とする内閣は、現在の政治的優位を恃んで元号が替わると同時に憲法改正に具体的に着手するだろう。天皇と皇室を国体の中心に据えた明治維新から戦前までの神国日本を復活させる意図は歴然だ。
現内閣の憲法改正を支持する有権者にとっては、二律背反を迫られる政治的選択を突き付けられることになる。天皇を国体の中心とする新憲法を定めようとする内閣に対して、天皇ご自身はそれを望んでおられないからだ。これまでも天皇や皇太子が護憲的な発言をされるのを、政府要職にある者や国家神道の中心となる神社の宮司などが畏れ多くも批判する場面が何度もあった。彼らが心中では天皇や皇室を敬っておらず、政治的な道具としか思っていないのは明らかだ。
幕末に御所(皇居)に砲弾を撃ち込んだ賊の末裔が政治を欲しいままに動かしているのだから仕方ないが、そんな150年以上も昔のことを言うなということであれば、半分の75年前のことも言っておく。大日本帝国憲法で天皇を隠れ蓑にしてきた一味が戦後も何をほざいていたか。神風特攻隊も戦艦大和の沖縄特攻も、すべて昭和天皇に責任をなすりつけてきたのだ。
フィリピンで最初の特攻隊が敵護衛空母を撃沈したことを奏上した際、昭和天皇がフィリピンの地図の上に深く頭を垂れて、「そうまでせねばならなかったか、しかしよくやった」と仰せになった。自分たち軍部は昭和天皇が「これで戦争は止めよう」とおっしゃって下さると期待していたのに(どうせ後付けの理屈)、「よくやった」と言われてしまって引っ込みがつかず、ズルズルと特攻作戦に頼って戦争を継続してしまっのたと見苦しい言い訳をする者も多かった。
戦艦大和の時も戦局をご説明した時に、昭和天皇が「もう日本には艦は無いのか」とご下問になったので、仕方なく戦艦大和を沖縄に突っ込ませるしかなかったと弁解した。要するに自分たちの責任をすべて押しつけることのできる存在が天皇なのである。
日本人は責任を取りたがらない、いざという時には責任を押しつける相手が欲しい、そんな日本人の弱点は、すでに旧敵国によって的確に見抜かれていた。戦前から戦時中、さらに戦後にかけて日本に対する情報戦の秘密任務を担当したザカライアス(Zacharias)大佐は著書『Secrets
Missions(日本との秘密戦)』の中で次のように書いている。
日本人の、さまざまな条件の下における、さまざまな活動の仕方を注意深く観察することによって、必然的に次の結論に達したのであった。すなわち、地位身分の如何にかかわらず、日本人は本質的に自分一個の責任において物事をなすことを好まないので、何か重要なことを決定する場合には、それが自分一人の責任にかかって来ないということがはっきりするまでは、何回でも、くどくどと長ったらしい議論をくり返すのを好むということであった。これは我々が十分に利用せねばならない日本人の弱点である。
ザカライアス大佐は、その日本人の弱点をカバーしているのが天皇制だということも理解していたと思われるが、皇居と伊勢神宮を爆撃してはならないと進言している。ちなみにザカライアス大佐は日本における終戦工作が遅々とではあるが水面下で進んでいたことも把握しており、原爆投下は人道的に誤った選択であったと明確に非難している。
天皇陛下が在位30年の間にたびたび述べられてきた日本国憲法を守るご意志は、単に憲法9条に規定された平和条項に関する消極的な受け身の姿勢だけではない、為政者をはじめとするすべての日本国民が自立して、自分一個の責任に目覚めよという強い望みを託しておられると思う。幕府を倒して薩長土肥賊が作った明治新政府以来の、天皇を最終的な責任の逃げ場にするような政治体制を復活させてはならない。旧敵ザカライアスに冥土の物笑いのタネにされるだけだ。
もしも憲法改正するなら、私に言わせれば第9条など副次的な争点、むしろ第1条で天皇は“日本国の象徴”ではなく、“日本国民の象徴”と明記すべきだ。そして天皇の国事行為には責任は伴わないと規定されているとはいえ、法律の公布や国会の解散など、為政者が気まぐれで政治責任の一端を天皇に持って来れるような重要な行為の条項は削除すべきである。
子どものしつけとは?
今年(2019年)1月以来、千葉県野田市の小学校4年生の女児が父親の過激な折檻によって死亡した事件が問題になっている。躾(しつけ)のために就寝間際だった10歳の娘を浴室に連れて行って冷水を浴びせたら動かなくなってしまったと自ら警察に通報したらしい。女児の身体所見や、近隣や学校関係の知人などの証言や、小学校や児童相談所のこれまでの対応記録などを見ると、父親による虐待は相当以前から始まっていたと見られ、児童相談所が一時保護もしたが、小学校が実施したアンケート調査で父親からの暴力を訴えていた内容のコピーを、事もあろうに学校関係者が父親本人に見せてしまうという取り返しのつかぬ失態を演じたために、父親の虐待が一気にエスカレートした可能性もある。
死亡した女児があまりにも可哀そうだということで、ネット上には父親を鬼畜呼ばわりする声が満ち溢れており、父親が「虐待ではない、躾のつもりでやった、悪いことだと思っていない」と供述していることに対しては、サディストやサイコパスの範疇に入る人間だとの指摘も見られる。
またせっかくアンケートを実施して、女児から父親による暴力のSOS信号をキャッチしていながら、そのアンケートのコピーを迂闊に父親本人に渡してしまった学校のミス、「父親の暴力はウソです」と明らかに強制的に書かされた女児の文面を信じて一時保護を解除した児童相談所の杜撰なミスに対しても批判が高まっており、国会でも児童虐待防止法などの改正で、親権者の躾における体罰禁止を盛り込むことを検討し始めた。
しかし子どもの躾は、社会的規範を大きく法的規範と道徳的規範に分けた場合、法的規範で規制すべきものなのだろうか。道徳は人の内面を規制するのに対して、法は人の外面に表れた行動を規制するという違いの他にも、法は国家権力が刑罰を伴って執行するものという決定的な違いがある。もしも体罰による躾を法律で禁じた場合、子どもからの通報によって逮捕される親が続出するであろうことは容易に想像できる。そんな時代になっても良いのか?
今回の女児死亡事件、確かに父親の“躾”と称する虐待は度を越え過ぎているが、この父親が少年時代に自分の親からどういう“躾”を受けてきたかも問題である。人は自分が上級者からやられたことを、そっくりそのまま下級者に対してやる傾向があることは以前別の記事に書いた。
一等兵に進級した兵隊が、自分が二等兵時代に受けた上官からの暴力を新しい二等兵に対して行う「二等兵いじめ(新兵いじめ)」がその典型、自分が親からやられたイヤなことを自分の子どもに対してもやってしまったのが今回の事件の父親であるという見方もできる。祖父母が女児死亡に直接関わったはずはないわけだが、親から子へ、子から孫へと続くしつけの連鎖を無視していては、最近頻発する子どもが家庭内暴力の犠牲になる事件の原因は明らかにならないだろう。
江戸時代の1776年に長崎商館長に随行して江戸幕府参内を果たしたスウェーデンの植物・博物学者カール・ツンベルク(ツュンベリー:Carl
Peter Thunberg)はその道中の見聞録を『江戸参府随行記』という書物に残しているが、その中で日本人は尊大で勇敢だけれども激情に走ることなく、法による正義と経済安定は国中に行き渡っており、工芸製品の品質は優れ、国民は自由と清潔を好むなどと、当時のヨーロッパ人との違いを実によく観察している。その中で江戸時代の日本人の子育てに注目している記述があって、日本人は家庭でも道中の船の中でも大人が子どもを打ったり叩いたり殴ったりすることがほとんど無いと驚いている。
ツンベルクよりも少し後の1839年に小川保麿という人が庶民向けに著した『養育往来』という育児書には、子育ては樹を植えて育てるようなもの、樹木同様に子どもも自由奔放に成長するものだから、「こうしてはいけない」とか「こうしなければいけない」といちいち申し聞かせて育てなければいけないが、その際に決して子どもに手を上げてはいけないと書いてあるそうだ。
つまり江戸時代の子育ては体罰と無縁だったことが窺えるが、では近世から現代へと時を経るにつれて、子どもの躾と言いながら何でこんなに体罰や折檻による児童死亡の例が増えてしまったのか。一説によるとキリスト教の考え方が無批判に日本人に受け入れられたからだと言うテレビのコメンテーターがいた。キリスト教は人間性悪説、子どもの中に潜む悪魔を追い出すためには体罰もやむを得ないと考えられているとのこと。なるほど『トム・ソーヤー』とか『ハックルベリー・フィン』だとかいう少年たちが活躍する小説を読んでいると、少年たちが学校の先生から鞭でお仕置きされる場面が何度か出てきて、まだ幼かった私は何だか違和感を覚えたし、今でも釈然としない思いは残っている。
では私自身は体罰を受けたことが無かったかといえば、そんなこともなくて、親や学校教師から何度か手を上げられたことはある。もちろん生命に関わるような体罰ではなかったが、当時の親や教師の年齢をはるかに超えた年齢になって冷静に思い返してみると、叩かれたり殴られたりしなければ矯正できなかったような落ち度が自分にあったとは思えないことの方が多い。前後の状況まで覚えている事例では、たまたま親や教師のムシの居所が悪かったんだなという証拠さえ思い当たる。
また私が体罰を受けたわけではなかったが、放課後の教室の清掃終了が遅かったからと言って頬が真っ赤に腫れ上がるくらい殴られた掃除当番の女児がいた、またゴミが残っていたと言って床を舐めさせられた男児もいた、さらに朝礼の後に教室へ戻る誘導が悪かったと言ってクラス注視の中で何発も往復ビンタを食らわされた学級委員もいた。その教師は東北弁の訛りが抜けなくて、そんなこと児童は誰も気にしたこともなかったのに、勝手にコンプレックスを募らせて児童に暴力の矛先を向けたのではなかったか、今にして思えば精神医学的に説明できる。
私たちの育った戦後昭和時代でも一歩間違えば傷害罪を適用されてもおかしくない事例はあった。江戸時代の先人たちが見たら何と言うだろうか。よく現在でも、「あの時あの人に殴って貰えたお陰で目が覚めた、感謝している」などと言う人もたまにいるが、そりゃよっぽどの人格者に導いて頂けたのだろうとしか言えない。子どもや若者を心を込めて殴る時には、殴った大人の手の方が痛いものだと言うが、蓋し名言である。
私も小学校のクラスメートたちも、江戸時代の親や教師たちならば決して体罰を受けることはなかっただろう。そんなに子どもの痛覚に訴えなければ直せないような重大な落ち度があったとは思えない。やはりキリスト教の人間性悪説に毒された明治期以降の日本人たちが体罰を容認するようになったこと、さらにリンチまがいの制裁が天皇の御名において正当化された日本軍という組織の影響が国中に蔓延した時代が長く続いたことが原因と見るべきなのか。
もう一つ、私には江戸時代以前と明治時代以後の価値観がガラリと変わったことも無視できないと考えている。江戸時代の人々は士農工商の身分が生まれながらに固定されていて、平民は決して士族になることはできなかったから、親は子どもに過大な要求を押しつけることもなかった。子どもも親と同じように世の中を渡っていってくれれば、それが唯一最善の躾(しつけ)だったはず。自分自身の生きる姿を見せておけば良いのだから、おそらく子育てにもある種の余裕はあっただろう。
ところが福沢諭吉も書いたように、明治時代以降は日本人は士族も平民もなく平等になった。平民でも学問次第では上級職に取り立てられる可能性が出てきた。当然のことながら親の子どもに対する過剰な期待と要求も高まる。親が自分の望むとおりの生き方を子どもに強要するだけでも精神的虐待になる可能性があるが、それが行き過ぎて体罰にエスカレートしたのではないかというのが一つ。
もう一つはさらに深刻である。江戸時代までなら平民で終わったであろう人間が、明治時代に学問によって代議士だ、弁護士だ、開業医だと地元の名士に“出世”する。つまり江戸時代なら“士族”に相当するような、周囲から崇められる家柄に昇格したわけだ。元々は平民の分際だから今度はそれを必死に守ろうとする意識が働いて、家名に泥を塗るような子どもには制裁が加えられる。それが私の祖父母の世代である。
その祖父母が上げた家名を守れと過剰な要求を押しつけられて、日本軍の制裁が罷り通る時代に両親の名誉一筋に耐えてきたのが私の父母の世代。そして自分が上の者からやられたことは下の者にも順送りする、そうやって育てられたのが私の世代。さらに順送りの構造が変わらぬまま、私よりやや若い世代が親として子育てをしているのが現在である。
こういう明治時代以来の因果によって最近の児童虐待が起こっている可能性もあるのではないか。頻発する児童虐待に時代の宿業のようなものを感じる。児童の虐待を考える時、日本の中に深く流れる歴史的背景を無視したまま道徳的、法的議論ばかり繰り返していても有効な防止対策は立てられないのではないかと思う。このまま国家権力が児童虐待防止に法律をもって臨むようになれば、おそらく次の時代には子どもが親を警察に突き出す世の中となり、恐いもののなくなった若い世代が年長者を見下して勝手放題に闊歩する地獄が現出するだろう。
二度目の元号越え・令和元年
2019年4月30日をもって、平成時代は終わりを告げますが、4月1日の正午前に次の新しい元号が発表されました。菅官房長官が記者会見で発表したのは『令和』です。ちょうど午前中の健診が終わってチームの人たちと昼食を取る時間帯だったので、発表の瞬間を見ようとずっとスマホでネット中継を見ていましたが、ちょっと意表を突かれた感じでしたね。昭和から平成に変わった時と同じです。ついに私も3つの元号を生きることになりました。子どもの頃は「明治・大正・昭和」と3つの元号を生きた人たちはずいぶん長生きだな思っていましたが、とうとう私も「昭和・平成・令和」を経験するわけです。
考えてみれば当時の小渕官房長官が『平成』と書いた色紙を持ち上げたテレビの映像からもう30年以上が過ぎたのですね。そんなに長いこと使い慣れてきた元号が来月から切り替わってしまうのですから、ある種の違和感があるのは当然です。私にとって生まれて初めて物心ついた時から元号は『昭和』、それが37歳の時にいきなり『平成』に変わったので最初はかなり戸惑いました。たぶん平成年間に生まれた人たちも今は同じ思いかも知れません。
天皇一代につき元号を1つとする一世一元の制度になった明治以来、元号はそうちょいちょい変わるものじゃないという固定観念が国民の頭にはあるのでしょう。自分が物心ついた時の元号が絶対であり、西暦とも1対1で対応するものと思っていると、突然元号の方だけリセットしなければいけなくなるわけですから、ちょっと頭の体操も必要になって大変です。
しかし明治時代以前も20年以上続いた元号もあるにはあるが、10年未満で改元されたものが大部分です。昔の人の方がもっと大変だったのではないでしょうか。そもそも昔は西暦が使われていなかったはずですから、どうやって自分の年齢を算出したのでしょうか。現在の年号(和暦)と自分の生まれた年号(和暦)を単純に引き算したって自分の年齢は計算できません。
【問題】 安政4年に生まれた人は慶応3年の誕生日に何歳になるか(笑)
安政は7年、万延が2年、文久が4年、元治が2年でその次が慶応だから、まだ10歳みたいです。
もうずいぶん前になりますが、そんな元号など廃止して西暦で統一した方が合理的だという議論もありましたが、結局日本人は元号の存続を選択しています。そりゃ当たり前でしょう。大化の改新以来ずっと続けてきた日本の文化ですから、神の名の下に無数の人々を虐げて殺してきたキリスト教などに我々がつきあってやる必要はありません。
しかし昔の人たちが10年未満の周期で次から次へと元号を変えていったので、新しい元号の選定に当たった人たちはさぞ大変だったのではないでしょうか。あの字もこの字もみんな過去に使われちゃってる、まさか“悪”だとか“臭”だとか“糞”だとか使えませんですしね。
そんな状況で今回決まった『令和』、なかなか良いと思います。これまで数多の元号の中で、『令』のように上方に向かって伸び上がる字体は無かったのではないでしょうか。まるで山がそびえるような、あるいはロケットが上昇していくような、そんな字の形に見えます。これまでの元号にもよく用いられた『天』や『大』も上に伸び上がる『人』の字が含まれますが、せっかくの上昇を横棒が遮ってしまっている。
『令和』を選んだ人々のセンスの良さには賞賛の言葉しかありません。新しい時代の日本の行く末を期待を持って見守ることにいたしましょう。
しかしちょっと情けない騒動もありましたね。一部の地域で『新元号決定』の号外が配られるや、群衆が我先にと配布員の所に押し寄せて怪我人も出たらしいとか…。昭和から平成の時は小渕長官の発表をテレビでしか見られなかったが、平成から令和はスマホで見ることもできた、平成年間に開発された新機器のお陰で今さら新聞の号外でもなかったはずです。時代の停滞と逆行を感じました。
また新元号の発表は4月1日11時30分と事前に公表されていたのに、実際に始まったのは10分遅れの11時40分頃でした。これもいけませんねえ。こういうことに関しては日本人は寸分の狂いもなく実行できる素質を持っていたはずです。各方面の手筈をすべて整えて、万全の準備を周到にこなして、約束の時刻にドンピシャリで物事を実行できるのが日本人、そしてそれができなかった歴史的事件が真珠湾攻撃に先立つはずだった宣戦布告の通達。新元号の発表くらいで10分も遅刻するなよと言いたい(笑)。
あと新元号の候補に上がって最終的にボツになった案に関しては公表しないということになっていましたが、翌日にはすでに『英弘』、『久化』、『広至』、『万和』、『万保』の5案が洩れていました。これはアイウエオ順ですが、一番最初の『英弘』の前にもう一つあったそうです。たぶん首相の苗字の一字が入ったものだから漏洩するのが憚られたのかも知れませんが(『安晋』だったりして・笑)、結局は選定に関わった誰かが残りの5つの候補を洩らしたに違いありません。極秘のミッドウェイ作戦が事前に洩れていたのと同じですね。こんなことじゃ戦争はできませんから、『令和』の時代も戦争は無しで行きましょう。
関東河川の大変貌
以前別の記事でも書いたように、同じ東京人でも東京都区部の西側に住んでいる人間には、東側を流れる大きな河川のイメージが掴みにくいのですが、それをイヤというほど思い知らされる経験をしました。それはちょっと時間が余ったので両国の江戸東京博物館をブラブラしていた時のこと、何気なく江戸の経済圏のパネルを眺めていたら、妙な違和感に襲われたのです。パネルには江戸湾(江戸内海)に流れ込む4本の河川が書き込まれていましたが、南の方の川崎あたりで流れ込む多摩川はともかく、図の江戸と書いてある右側、ちょうど下町あたりで流れ込む3本の河川は、左から順に隅田川、中川、江戸川と書いてあります。
こう書いてもたぶん都区内の西側で生まれ育った東京人の中には何が変なのかさえ分からない人が半分くらいいらっしゃるでしょうし、私自身もし3年前だったら何も気付かなかったかも知れません。物を知らないということは恐ろしいことですね。知らなくても普通に生きていけるし、これまでも普通に生きて来られた。しかしその普通の生活が実は先人たちの血の滲むような苦闘の歴史の上に初めて成り立っていたことに気付いたのです。はい、この図の違和感、正解は荒川が無いんですね。
隅田川(浅草橋〜両国間) | 中川(葛飾区西水元付近) | |
江戸川(葛飾区柴又付近) | 荒川(葛飾区東四つ木付近) |
最近これらの河川の近所で仕事する機会も増えてきました。どの川も立派ですが、何で荒川だけ江戸時代には仲間外れにされてしまったんでしょうか。荒川の歴史を遡っていくと、とても一言では語り尽くせないくらい多くの変遷を遂げてきているんですね。そもそも江戸時代以前には荒川は江戸湾(東京湾)には注いでいなかった。江戸時代以前の荒川は秩父山系に源を発して、関東平野に出ると熊谷あたりで利根川と合流、当時はそのまま利根川が江戸湾に注いでいたようです。驚きですね。
江戸時代初期に利根川東遷事業が行われます。利根川の“付け替え”とか書かれていますが、日本でも有数の大河川の河口を、江戸湾から犬吠埼方面へ流し替えようというのですから大変な土木事業です。水害対策の治水だけでなく、千葉や茨城の新田開発の水資源確保、太平洋方面の水運確保、あるいは伊達藩など東北諸藩を仮想敵にした軍事的防御の目的もあったと言われます。
その際に荒川は現在の隅田川の流路を流れるように付け替えられ、付け替え以前の流路は中川に注ぐ元荒川となりました。さらに時代は下って明治・大正時代になると、度重なる台風や豪雨で甚大な被害を出すので荒川放水路の建設が計画され、大正2年に土木技官の青山士(あきら)を責任者として工事に着手、17年もの難工事を経てようやく完成した荒川放水路のお陰で、その名のとおり暴れ川だった荒川の水を制御できるようになりました。なおこの青山土木技官は日本人としてただ1人、パナマ運河開発にも関わった人です。
その後も昭和年代にかけて中川の付け替えや江戸川放水路の掘削などが行われて、東京の東側の河川や水路はほぼ現在の形になりましたが、荒川放水路は東京オリンピック翌年の昭和40年に荒川の本流とされ、それまで隅田川と合流して流れていた元の本流が隅田川になりました。物凄く複雑な歴史ですね。その複雑な歴史は東京の東側を流れる河川の信じられないような流路の形によく表れています。例えば、これも東京の代表的な河川である綾瀬川は、新小岩付近では荒川(元の荒川放水路)と首の皮一枚の堤防で隔てられたまま平行に流れて中川に合流し、今度は中川も同様に荒川と平行して流れて河口の東陽町付近で合流して東京湾に注ぐ、自然の河川がこんな不自然な流れ方をするはずがありません。こうやって溢れそうな河川から隣の河川に水を放水して東京の洪水を防いでいるわけです。
私をはじめ特に西半分に住む東京人や、ほぼすべての平成生まれの東京人は、荒川だ、隅田川だと当たり前のように鉄橋を渡り、河川敷に遊びますが、こういう河川を整備した先人たちの苦闘が無かったならば、東京の現在の繁栄はなかった、そのことにはなかなか気付かないのですね。地球温暖化によって亜熱帯化した首都圏はたびたび豪雨に見舞われるようになりましたが、河川の付け替えや堤防建設のお陰で人的・物的被害が最小限に抑えられてきたことなど意識にも上りません。
しかも東京治水の歴史はまだこれで完成したわけではありません。今後もし秩父の荒川水源地帯に3日間で500ミリを越える雨が降った場合、荒川の堤防が決壊して東京都心部が1ヶ月にわたって浸水する被害も想定されているそうです。現在でも各河川の河原を歩くと護岸工事や水門補修をはじめ河川管理のための作業が営々と続けられています。もう半世紀以上も水害らしい水害に襲われなかった首都圏ですが、江戸時代以来の先人たちの努力と苦闘の上に現在も未来もあるということを肝に銘じなければいけません。
フェイスブック帝国の野望
1989年1月8日に始まった平成時代も2019年4月30日をもって終わりを告げた。太平洋戦争とバブル経済という2つの大きな事件に代表された昭和に比べると、何となく影の薄い時代のような気がしながら30年間の日々の生活を送っていたが、終わってみると実はこの2つの事件に勝るとも劣らない歴史的変化が起こっていた時代であったことに気付いた。
その大きな歴史的変化は私のこのサイトの生い立ちを考えればよく分かる。更新等の記録のページの下の方に簡単にサイト起ち上げの経緯を記してあるが、私がパソコン(パーソナル・コンピューター=個人用コンピューター)を購入したのが平成9年(1997年)、実際にサイトが起ち上がったのが平成15年(2003年)、つまり『Dr.ブンブンの休憩室』という私のホームページができたのは、平成時代も約半分が過ぎた頃の話だったのである。
当時は新しもの好きの人間たちによるメーリングリストが次々と起ち上がり、面識も無かった仲間たちと知り合って、テキストファイル送受信によるほとんどリアルタイムのメッセージ交換という従来なかった新しい形態のコミュニケーションを楽しんだものだ。ちょっとパソコン操作に手慣れた者たちはホームページ作成にも手を出して、あの頃は雨後の竹の子のようにさまざまな人々によるいろいろなサイトが起ち上がった。ただし私の同業者たちのサイトも数えきれないほど誕生したが、数年を経ずしてほとんど消滅した(笑)。
つまり昭和天皇が崩御されて、小渕官房長官が『平成』の色紙を掲げたあの時代、個人でコンピューターを所有している人はほとんどいなかった、昭和を惜しむ記事を載せるような個人のサイトは皆無に近かった、携帯電話だとかスマートフォンだとか影も形も無かった、つまり今では当たり前にSNSなどと気取って省略するソーシャル・ネットワーキング・サービスで個人と個人が繋がることなど夢のまた夢だった。
パソコンや携帯電話で個人と個人が瞬時に簡単に繋がる時代変化、それはまさしく日本においては平成の御世に起こった全世界的な“事件”であり、もしかするとどんな戦争や革命にも劣らないほどの大きな影響を持っているかも知れない。それを象徴するような出来事がアメリカ合衆国で報告されている。
代表的なSNSの一つであるフェイスブックの名前をチラホラ聞くようになったのは、ミレニアム越えの2000年(平成12年)を数年以上も過ぎた頃だったと記憶している。あの“2000年問題”を世界中が注視していた頃にはまだ有力なSNSは無かったということだ。私がフェイスブックを始めたのは2014年(平成26年)のこと、すでに若い世代はラインだとかインスタグラムなどという他の多様なネットサービスに流れて、若者のフェイスブック離れが進行していると言われていた頃だった。それでもまだ多くの若い世代も残っていたし、私と同世代の年輩者たちが盛んに記事やコメントを投稿していて、私もけっこう楽しく利用していたが、このフェイスブックがアメリカ合衆国の大統領選挙に好ましからざる悪影響を与えた可能性があると報じられたのだ。
ちょっと注意力のある利用者ならお気付きになると思うが、フェイスブックの「友達」たちに関してはただ読み流しているだけでも、彼らが投稿記事にした訪問地や参加イベントばかりでなく、彼らの性格や嗜好や好感度や実際の交友関係までをかなりの確度で言い当てることが可能である。
●この人はどういう記事を投稿したか
●その投稿に対してどういう「友達」から「いいね」を貰ったか
●またその投稿に対してその「友達」はどういうコメントをしたか
●この人はどういう「友達」のどういう投稿に「いいね」したか
●またその投稿にどういうコメントをしたか
この5点に注目しながら、ある期間フェイスブックを読んでいるだけで、その「友達」の人柄を言い当てることができるし、「友達」の中でも誰と誰が特に仲が良いか、あるいは喧嘩しているかも手に取るように分かる。
フェイスブック上の「友達」が20〜30人くらいしかいない人でも(これはフェイスブックとしては少ない方)、誕生日などのイベントや日々の投稿に対して、実社会の親友や同僚たちから常に暖かいコメントを貰っている人もいるし、逆に何百人もの「友達」がいても、その投稿に対して“何でも「いいね」”(笑)や空虚な社交辞令のコメントが飛び交うだけの人もいる。
毎日毎日顔を合わさずとも、そういう「友達」たちの実像や虚像が浮かび上がってくるフェイスブックその他のソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)は面白いと同時に、非常に恐いものだと常々思っていた。似たような分析法を使って自分も「友達」たちから同じように観察されている可能性もあるからである。
しかし「フェイスブックで友達になりましょう」という“友達申請”と、「いいですね。よろしくお願いします」という“友達承認”のステップを踏んで友達になった人、つまりある程度素性の知れた「友達」から観察されるのは構わないし、むしろ望むところでもある。しかしこれが得体の知れない巨大な存在から監視されているとしたら薄気味悪いことこの上ない。
私がフェイスブックに参加する何年も前にこの「Dr.ブンブン」のサイトに上げた写真を、フェイスブックが把握していたという奇怪なできごとを、以前別の記事に書いたことがある。私がフェイスブックに登録した7年も8年も前にこのサイトの記事に付けた写真を、「以前facebookに投稿した写真をシェアしませんか」と提案してきたのである。その後よく考えてみたら、私はフェイスブックに参加する時にこのサイトのアドレス(URL)も登録してしまっていた。フェイスブックの「友達」たちにもっとよく私を知って貰おうと思って自分のサイトも紹介したのだが、フェイスブックはいつの間にか私のサイトにアクセスして、記事によく使われるキーワードやら画像やらを吸い出していたらしい。(敢えて盗み出したとは言わないが…。)
以前「あなたがfacebookでよく使う言葉は?」とかいう質問が送り付けられてきたので、何の気なしにクリックしてみたら、私がフェイスブックの投稿に用いた単語を洗いざらい書き出したような画像が表示されたことがあった。私はフェイスブックの投稿の中で、「今日」とか「思う」だとか「キャンプ」だとか「講義」だとか「教え子」という単語をよく使うらしい。その時は凄いなと感心しただけだったが、考えてみればこれは恐ろしいことである。
私1人のことだけなら何ということもないが、フェイスブックは日本で約3000万人、世界で数億人もいる利用者の膨大な投稿の中から、その人がよく使用するキーワードを簡単に抽出する能力があるということだ。それだけでこの利用者はどういう嗜好があり、何に興味を持ち、どういう日常生活の態度で、普段どういうサイトにアクセスして、どういう政治的立場を支持しているかなどについてかなり正確に分析できるだろう。そしてその利用者が頻繁に「いいね」を送る「友達」のことも分析すれば、さらに確度の高い分析結果が得られるはずだ。
フェイスブックが利用者たちにソーシャル・ネットワークで単に“繋がる”楽しみを提供する利他的な目的だけで会社組織を運営しているとは考えにくい。やはり利用者の投稿を分析して抽出した趣味、嗜好、生活態度、政治的立場などの個人データを商人や政治家に売って収益を上げるのが最終的な目的ではないのか。考えてみればこれは当然の論理的帰結なのだが、フェイスブックに参加する時には「友達」が増えるという楽しみだけに目を奪われて気が付かなかった。
確かに例えば自動車会社が商品広告を発信する場合、運転しない人や自動車の嫌いな人に宣伝しても効果は薄い。SNSでよくドライブの楽しみを語る人をターゲットにした方がはるかに効率的だ。従来ならば未成年者や運転免許非保持者をターゲットから外すくらいしか方法は無かっただろうが、SNSの個人データを元にターゲットを絞り込んだ方が良いことくらい誰にでも分かる。私も海底二万里についてネットで調べたら、その後かなりしつこくノーチラス号の模型の広告がフェイスブックで送られてきたことがあった(笑)。
しかし自動車や潜水艦の模型の販売くらいなら良いが、これが政治家に悪用されたら大変なことになる。その危惧がどうやら現実のものになったらしいのが、2016年のアメリカ大統領選挙と言われている。この選挙ではケンブリッジ・アナリティカという会社がトランプ陣営と契約を結び、全米1億人の有権者の心理特性分析を行なったらしいが、その際に用いられたのがフェイスブックのデータだったということだ。
フェイスブックをやっていると、時々「あなたの性格は?」とか「あなたの適性は?」といった類の心理テストがゲーム感覚で送られてくる。「あなたの前世は?」とか「あなたを神話の神々にたとえると誰か?」とか、明らかにナンセンスなアトラクションに混じって送られてくるから、ついつい答えてしまう利用者も多いだろう。しかしそれが罠ということもある。フェイスブックはそういう心理テストを受けた約30万人の利用者のデータをケンブリッジ・アナリティカに引き渡した。さらにその心理テストを受けた利用者の「友達」を手繰ってターゲットを5000万人にまで拡大、彼らが「いいね」する行動を解析して心理傾向を把握すると同時に、別のさまざまな媒体を通じて1億人の有権者の心理傾向を分析する手法まで編み出して有権者を幾つかのグループに分類、その上で各グループごとに最も適切な内容の政治宣伝文を送り付けたという。
つまりトランプを支持する傾向の強いグループにはその意志をさらに強固にする内容、一方頑なにトランプを忌避するグループには無力感を煽って棄権するように誘導する内容、というような感じだろう。先日NHKの報道番組を見ていたら、選挙前に大量に送られてきた政治宣伝メールによって自分は投票を忌避して(させられて)しまったと主張する男性が登場していた。そんなのお前の責任だろうとも思ったが、日本でもアメリカでもこれだけネットに依存する人間が増えてきている以上、トランプ陣営とケンブリッジ・アナリティカが用いた選挙戦略は今後ますます有効なものになっていくに違いない。
思えば私がこの「Dr.ブンブン」のサイトに載せた写真がフェイスブックに把握されていた事件、おそらくフェイスブックはさまざまなネット上の媒体にアクセスして、なりふり構わず個人情報を収集しまくる方法の試験でもしていたのだろうか。若い世代や好奇心の強い人々にネット上の娯楽を提供して依存症にさせ、その一方であらゆる方法を使って個人情報を抜き取り、それを高額な報酬で商売人や政治家に売り渡す。フェイスブックなどのSNSの本音がそろそろ垣間見えてきたというのに、利用者の方はいつの間にかネットなしには生きていけないほどの依存症にされてしまった。そういう全地球的規模での変化が、日本では平成年間に起こったのだ。その影響力の大きさは、ある意味で第二次世界大戦を上回るかも知れない。
尊敬する偉人たち
「あなたが尊敬する歴史上の偉大な人物(偉人)は誰ですか」
小学生の頃、何回か学校の作文や宿題で書かされたことがありました。せいぜい10歳前後の小学生に歴史上の偉人とか言われても、NHKの大河ドラマが始まったのが私の小学6年生の年、また大河ドラマを見たとしても日本の歴史をそんなに深く考えられる年齢じゃない、“中学お受験”とやらで鎌倉幕府はイイクニ作る源頼朝…とか必死に年号を語呂合わせで覚えるのに精一杯でしたから、まあ何とか適当に見つくろって答えておきましたけどね。ちなみに私が小学6年生の時の第1作目の大河ドラマは井伊直弼を描いた『花の生涯』(舟橋聖一原作)、もちろん見てません(笑)。
もともと年端もいかない小学生が、偉人にしろ悪人にしろ賢人にしろ、歴史上の人物自体をそれほどたくさん学んでいるはずがありません。だから児童向けの伝記本を読んで印象に残っていた人物を答えることが多かった。
私がこの質問への答えとして覚えているのは、まず二宮金次郎(自筆の署名は金治郎だそうです)、幼い頃に家が貧しかったので薪を背負って歩きながら勉強した偉い人だから…(笑)。私が通っていた小学校の校庭にもその姿を模した銅像が建っていました。どんな思想を持ってどんな生き方をしたかなんて当時は知らなかったけれど、歩きながら一生懸命勉強した人を偉いと言っておけば、親も先生も喜ぶだろうから間違いはないと…そのくらいの知恵はあったわけですね。あと当時はくだらないナゾナゾもあって、最初の神社で10円落とし、次の神社で20円拾った人は誰か、つまり2つの宮で損して得したから二宮尊徳…と。ちょっと寒いですが、二宮金次郎が成長して二宮尊徳と名乗るようになることくらいは知っていて、その名前には何かしらインパクトがありました。小学生の歴史認識なんてその程度のものだったか(笑)。
あとは黄熱病の原因を突き止めたとされる野口英世博士、幼い頃に左手を大火傷したハンディキャップを克服して立派な医学的業績を上げたから偉い人です…。黄熱病の病原体発見などの研究成果は後に否定されたものが多く、またウィルスが知られていない時代であったことには同情の余地はあるが、その研究発表にはやや売名行為に近いものもあったらしいなどということは、当然児童向けの伝記に書いてあったはずはありません。
他にも明治時代の発明家でトヨタグループを興した豊田佐吉とか(あの頃はホンダよりもトヨタだった)、世界史バージョンだとエジソンとかシュバイツァー博士とか、結局は岩波書店とか講談社とか小学館などといった老舗の出版社から児童向けに発売された偉人伝・伝記シリーズの受け売りでしかなかったわけですね。あと“尊敬する偉人”の定番としては豊臣秀吉を外せません。これが信長でも家康でもない、秀吉というところが面白い。蜂須賀小六の家来になって小六の寝室から刀を盗み出す知恵比べとか、信長の草履番として草履を懐で暖めて主君に誉められる話とか、清洲城の石垣の普請で職人たちを互いに競わせて3日で仕上げる割普請の話とか、そういう日吉丸〜藤吉郎時代の活躍を読んでいるから、豊臣秀吉という人物に親しみを持つんですね。残念ながら他の武将や武士ではそういう児童受けするエピソードの数において秀吉にかなわない。
しかし児童向けの伝記には、秀吉の外交・内政の最大の失敗であった朝鮮出兵のことなどほんの少ししか書いてなかった。いや、完全に欠落していたかも知れません。本当はそういうところまで理解した上で人物評価がなされるべきなのですが、やはり児童に歴史上の人物を評価しなさいという設問は無理ですね。どうしても面白いエピソードの持ち主が高評価を得ることになります。私も豊臣秀吉は天下を統一した偉い人です…と書いてしまいましたが、いかに無知で未熟な歴史認識しか無かったにせよ、日本をキリスト教国に売り渡すお先棒を担いだS本R馬などという売国奴の名前を答えた記憶が無いことだけは救いです。
では何ら歴史に貢献することなく60年以上も無駄飯を食ってきて、それなりの歴史観も身に着いた現在の年齢になって、さて歴史上の人物の誰を尊敬するかと訊かれたら何と答えましょうか。歴史上の人物に対して、もう秀吉だ、信長だ、家康だ、とそんな簡単に評価を下せるわけでないことは十分わかりました。歴史の歯車は良くも悪くもたった1人の人間の力だけで回せるものではありません。天下統一にしたって、信長や秀吉や家康に付き従う武将や家来がいて、その時代の産業や文化を支えた領民や国民がいて初めて可能だったこと、発明発見や学術研究も、協力者や助手がいて、それまでの業績の積み重ねがあって初めて可能だったことです。また歴史の歯車を悪い方向へ回転させた人間として近世で最も忌み嫌われているヒトラーにしたって、ヒトラーだけの責任で第二次世界大戦の惨禍がもたらされたわけではない。第一次世界大戦の敗戦国だったドイツに対する過酷な制裁をテコにして自国内での自分の権力基盤を固めようとした戦勝国側の政治家や実業家、さらにヒトラーの政権を支持したドイツの有権者などがいなければ歴史は動かなかった。そんなことも当然のこととして受け入れられるようになった私のような人間に対して、歴史上の人物で誰を一番尊敬しますかなどという質問は、児童向けの伝記しか読んでいない無垢な小学生に対するのと同様、まったく無益な愚問です。
ただ多くの人間の力で回転している歴史の中で、自分はどの人物と同じような生き方をしたいか。それは私がこのサイトを書き進めてくる過程で、新たに触れることのできた人物たちの生き様から少しは見えてきたように思います。大きな歴史的な出来事の中で、自分に与えられた天命を全うした人、そしてそれに驕ることなく常に部下や民衆のことを考え、我が身の栄達のことなど頭になかった人、そういうお二人とこのサイトを通じて出会うことができました。
1人目はパナマ運河開発に日本人として唯一参加した青山士さん。荒川放水路のところでも書きましたが、この方はいかに後世の国益に関わる土木事業であっても、土地を収用する際には民衆との対等な対話が必要であることを戦前の時代に見抜いた人です。土木工学は全人類の福祉に益するものでなければならないという固い信念を貫いた人でもあり、パナマ運河建設に関わった理由も個人的な栄誉や栄達ではなく、当時の未熟な熱帯医学や感染症対策の下でパナマ運河建設現場では技術者や作業員がバタバタと熱帯病に倒れており、赴任を希望する者も少ないことを知った青山さんはパナマに単身乗り込んだのだそうです。後にアメリカ海軍当局から日本海軍のスパイではないかとあらぬ嫌疑を掛けられたために、運河の完成を待たず、追われるようにして帰国したようですが、それにもかかわらず太平洋戦争末期に日本海軍が計画したパナマ運河爆撃作戦への情報提供を拒否した。時代の背景を問わず、土木事業は全人類の福祉に貢献するべきという信念を曲げることがなかったわけですね。晩年も政界や実業界に名を売って脚光を浴びることもなく、ひっそりと清貧に甘んじたそうです。せめて彼の郷里静岡県磐田の人々くらいは、サッカー選手の名前だけでなく、青山士という人の名前を郷土の誇りとして覚えておいて欲しいという声もありました。
2人目は沖縄に突入する戦艦大和を護衛した駆逐艦冬月艦長の山名寛雄さん。沖縄突入作戦直前までは駆逐艦霞の艦長を勤め、どちらの艦でも名艦長として乗員の信望を集めていたそうです。威張らず叱らず温厚でいて、ここぞと言う時には本領を発揮するが、手柄を自慢することもない。しかも戦後は海上自衛隊という新たな栄達の職場ができたにもかかわらず、海上保安庁の巡視船でかなり危険な台風観測にも従事していた、自分が船に乗るのは国民を守るためという信念と誇りが感じられますね。戦後もかつての駆逐艦の部下たちの飲み会にも毎年呼ばれて、ニコニコ笑いながら皆の話の聞き役に回っておられたといいます。
生きた分野は異なりましたが、このお二人のように生きられたら、私も残りの人生に悔いはありません。
キリスト教の没落:ハリウッド版ゴジラ part 2
2014年の前作に引き続き、日本でも今年(2019年)5月に封切られたハリウッド版ゴジラ(GODJILLA)、「キング・オブ・モンスターズ 王の覚醒」などと銘打ったこの第2作、世界中の怪獣ファンの大喝采を浴びていますが、一部の評論家が人間ドラマが雑だとか何とかイチャモンを付けて酷評したことに対して怪獣ファンがネット上で反撃、それならメスのゴジラを登場させて恋愛させろなどといろいろ面白いことになっているようです(笑)。
私も観てきました。定年退職後は平日の昼間の時間帯に映画館に行けることもあり、かなり空いている劇場で鑑賞できました。窓口でチケットを購入する際、どこの席が空いているか尋ねたら、どこでも空いてますよというので、G列中央と言ったら「あ、そこはもう埋まってます」、G列両端と言ったら「そこももう買った人がいます」、仕方なくG列の中央を少し外れた席を貰いましたが、ゴジラ映画のG列にこだわる人は多いんですかね(笑)、中央も両端も3人とも若いお嬢さんたちでした。
映画のストーリーは、ハリウッド映画なら戦争物、災厄物、パニック物、SF物、どれを取ってもこんなものかという平凡な筋書きでしたが(もちろん映画の中では平凡という意味で、もし実生活でこんなことが起こったら大変だ・笑)、さすがハリウッドの映像技術は素晴らしいですね。特に首が3つもあるキングギドラは凄かった、あの巨大な龍の首が目の前に迫って熱線を吐きますが、もし3Dで観てたら私は今頃生きてないかも知れません(笑)。
炎の翼を羽ばたいて猛スピードで空中を追いかけてくるラドンも凄かったし、東宝のよりもリアルな昆虫の顔で迫ってくるモスラも凄かった、こういう日本で生まれた怪獣たちが世界各地で大乱闘するという設定だから、怪獣ファンにとってはたまりません。ただモスラは本作では中国奥地に眠っているということになっていましたが、やはり南太平洋の楽園のインファント島にして欲しかった。
冒頭から全編通じて怪獣のバトルがメインストーリーのわけですから、一部の映画評論家が酷評し、怪獣ファンが反撃する、そういうことになってもおかしくないとは思いますが、私にはもう一つ、ハリウッドの映画制作者自身も欧米の怪獣ファンも果たして気付いているかどうか、今回のハリウッドゴジラ映画から読み取れる重大なメッセージがありました。場合によっては世界史そのものを覆す破壊力を秘めたメッセージ…。
この映画は世界の破滅を人々に焚きつけてきたイエスキリストに対する挑戦ではないのか。それを象徴するシーンがネットにも公開されている予告編映像の中にあります。甦ったキングギドラが山頂で咆哮する場面、その前景となる手前の山にはキリスト教の大きな十字架が立てられています。十字架の背後で雄叫びを上げるキングギドラは何を意味しているのでしょうか。そしてこの映画を観たキリスト教徒はそれに何も感じないのでしょうか。
この映画ではキングギドラは宇宙から降りてきた生命体という設定で、地球上の怪獣たちを意のままに扱って地球を他の星のように作りかえようとする悪役なのです。ハリウッド映画に限らず、欧米の映画では悪役がナチスドイツ軍であれ、宇宙人であれ、隕石であれ、大災害であれ、それらから人々を救うのは神=イエスキリスト、もしくは暗黙のうちにキリストを信じる善良な人間の集団なのですが、この映画でキングギドラから人々を救うのは人智を越えたゴジラです。日本の映画ではこういう描き方もそれほど珍しくないと思いますが、欧米キリスト教国の映画としては、すでに正義の味方と悪の手先、善悪の構図が崩壊しているのです。
キングギドラの前に為す術もなく佇むキリストの十字架、キリストの代わりに地球の怪獣たち(巨大生命体)を率いてキングギドラを倒したゴジラ、キリストを信じない私のような者にとっては、実に小気味よいメッセージでしたが、この映画のキリストへの挑戦はさらに続きます。劇中で中国人の女性科学者(実に魅力的な役です)が、西洋は物事を善悪に分けて悪を倒せば良いと考えるが、東洋ではすべてが調和の上に成り立っているというような意味のことを発言し、ゴジラが地球の環境を守る免疫系のような存在であることを見抜く手掛かりを与えています。ちょっと映画に夢中になり過ぎて正確なセリフをフォローしきれてませんが…。
西洋と東洋の世界観の違い、本当は芹沢博士役の渡辺謙さんに喋って貰いたい気もしましたが、この中国の女優さん(チャン・ツィイー)もなかなか素敵でしたし、渡辺謙さんは初代芹沢博士とは逆の目的で同じ行動をする素晴らしい役で出演されてましたから(ネタバレあるのでこれ以上書かない)、まあ、良いかな…っと。
またキングギドラを倒した後、怪獣たちの通った跡や棲んだ跡には自然が甦ったという後日談のストーリーになっていて、これなど手を触れただけで水をブドウ酒に変えただの、病人を治癒させただのいう誰かさんへの痛烈なパロディーになっていますね。そのうちゴジラが世界中の人々の信仰の対象になれば、戦争や環境破壊も無くなるんじゃないかと期待を持たせる今回のハリウッド版ゴジラでした。
余談ですが、この映画のクライマックスで、モンスターの王として覚醒したゴジラがキングギドラを倒した後、世界中の怪獣たちがゴジラの周囲にひれ伏して頭を垂れる場面があります。地球を守る怪獣の王としての姿ですが、家来になった中には日本生まれの怪獣ばかりでなく、アメリカ生まれのキングコングを思わせる巨大な猿もいるのですね。実際に話を追っていると『髑髏島
Skull Island』という地名が出てきて、ここは2017年のアメリカ映画でキングコングの生息地ということになっていますから、キングコングもゴジラの家来になったことを示していると思われます。1962年にキングコングを日本に呼んで『キングコング対ゴジラ』という東宝映画が制作されましたが、あの時は揉み合ったまま熱海の海に落ちた2頭のうちキングコングだけが浮上して悠々と帰って行き、ゴジラは海中で行方不明という屈辱的な(笑)扱いだった。隔世の感がありますね。あの時のゴジラの無念も晴れたでしょうか。
シルバー民主主義だって
令和初の国政選挙となった2019年7月21日の第25回参議院選挙は、最終的に投票率は48.80%で確定したと総務省から発表がありました。50%を割り込むのは1995年以来の“怪挙”だそうです。特に20歳代の投票率は予想どおり最低だったようで、初めて選挙権を手にした18〜19歳よりも低いようです。
投票率を支えているのは、日本最高の投票率を誇る私たち60歳代です。70歳以上の方々はいろいろ心身共に衰えて投票所へ出かけられないこともあるだろうから仕方ないとして、若年層の投票率の低さはどうしたことでしょうね。日本経済新聞のサイトには“シルバー民主主義”なる言葉が載っていました。こんな言葉が今年の流行語大賞にノミネートされないことを祈ります。
若年層を中心に日本中が政治に冷めてると言ってしまえばそれまでですね。2000万円貯金しておかなければ老後は安心できない、現政権は懸命の言い逃れしてましたが、棄権した有権者はそれでも政治に冷めてるつもりなんでしょうか。まあ、野党が夢みたいに語る経済再建策や生活防衛策だって、自分が責任政党でないから無責任に放言しているだけだということくらい、有権者は見抜いているんですね。庶民の味方なんてどこにもいない、自分たちが政権を取ったら結局自民・公明政権と同じことになる。永田町に救いはないという諦め、達観…、哀しい政治的無関心です。
それでもイケイケドンドンの勢いに乗る党員・シンパや、強力な支持母体を持つ与党は、野党に比べてやや優勢な有権者の投票行動を期待できます。野党でこれに匹敵する強力な党員・シンパを誇っているのはアソコだけでしょうが、いまだに共産主義の亡霊と訣別して「労働党」などに改称できない政治勢力など、口先でいくら立派なことを公約していても、最終的に国民を裏切るのではないかという懸念は払拭できません。
今回の参院選でちょっと面白かったのは、東京選挙区の野原ヨシマサ氏。バリバリの創価学会員の沖縄壮年部でありながら、わざわざ公明党の山口那津男代表が出馬している東京選挙区に、れいわ新選組から殴り込みをかけましたが、私はこういう人は好きですね。この候補者に投票しても“死に票”になる恐れが大きかったですが、この人が山口代表に真っ向から喧嘩勝負を挑んだ理由が素晴らしい。現在のように政権におもねって国民を苛めるような公明党は潰してしまえと…、それが池田大作氏の意志でもあるんだと…、「小さな声を聴く力」などと言っていながら、沖縄では県民投票の結果を無視して安倍政権ベッタリではないかと…。支持するかしないかは別として、こういう人にはこれからも頑張って欲しいですね。こういう異端の人がいてこそ、社会も組織も健全に機能するんです。
勝った自民党はおめでとうございます。維新の会を入れても改憲勢力2/3に及びませんでしたが、過半数を得たことで、これは改憲論議を進めろという民意だと安部総裁は強弁したそうです。選挙期間中は改憲なんて表の争点に出していなかったはずなのに、結局最初から安倍は“改憲”ありき…なんですね。あまりの狡猾さに開いた口がふさがらない感じです。こういう狡猾な自民党に、“小さな声を聴いてもそれを無視する力”を持った公明党が同調して改憲を発議することになるのでしょう。そして野党の“野”の字は野合の“野”の字…、屁のつっぱりにもならない泡沫政党乱立の中で、共産主義の亡霊に取り憑かれたあの党が遠吠えする。
あまりに不毛な日本の政治状況に若い世代は冷めてしまったのでしょう。気の毒といえば気の毒ですが、こうまで若い世代の低い投票率をこれまで何年も見せつけられてきたので、私も政治を論じる気力が冷めてしまいました。最後までシルバー民主主義を掲げて生きてはいきますが、もうどうせ定年退職したし、微々たる額ではあるが年金も貰えているし、今さら兵役の赤紙が来るわけでないし…。
4年前に声を上げていたSEALDs(自由と民主主義のための学生緊急行動)のような若者たちはもう出現しないのでしょうか。若気の至りで未熟な主張しかしないかも知れませんが、そういう世代が自由に物を言える日本の未来を守るためならば、その主張を支持するかしないかは別として、老骨に鞭打って支援したいとは思います。
野放図な隣人韓国
何も今に始まったことではないが、2018年から2019年にかけて急速に近年類を見ないほど日韓関係が悪化している。事の発端は、戦時中に労働力不足を補うために朝鮮半島出身者を徴用したいわゆる徴用工問題で、2018年秋に韓国大法院(最高裁判所に相当)が日本企業に賠償を命じる判決を下した件、日本政府は1965年に韓国政府との間で交わした日韓請求権協定で解決済みとしているが、韓国政府はこの大法院判決を黙認している。
国家間で締結した国際条約が、政権が変わるとこうもあっさり卓袱台返しで引っくり返されるようでは国際的な信頼関係など築けるはずもないが、この時日本政府は韓国に無償で3億ドルの経済援助を行なって、日韓両政府はそれぞれの国民間の請求権問題を完全かつ最終的に解決したと宣言したのである。今回の処置はもう韓国政府の裏切りではないのか。植民地支配や強制徴用問題など、現在の価値観で問い直せばいくらでも非難の余地は出てくるが、日本は当時固定相場制だったドル換算で1080億円もの無償援助を供出したのだ。これは当時の韓国国家予算の2.3倍に相当する大金である。この金額に謝罪の意味が込められていないはずがない。
韓国政府はその金で徴用工の補償を行わなければいけなかったし、それが日韓請求権協定の主旨だったはずなのに、その金はどこかへ雲散霧消してしまった。韓国は任期の終了した大統領が不正蓄財などの罪で訴追されることの多い呆れた国であるから、どうせ日本から受け取った金も誰か反日大統領の懐に入ってしまったのだろう。今になってあの時の金を韓国政府に請求しようという動きもあるそうだ。
文在寅(ムン・ジェイン)大統領も窮地に陥っているのだろう。これまでは「植民地支配を反省しろ」、「徴用工問題で金を出せ」、「慰安婦問題も謝罪しろ」と、韓国民の反日感情を煽って居丈高に吠えれば日本もおとなしく下手に出てくれていたが、さすがに大法院判決で日本政府も堪忍袋の緒が切れてしまった。確かに国内の三権分立と国際条約のいずれを優位とするかは、どこの国でもかなり難しい問題だと思うが、国際条約の条文が国内法の手続きによる制限を受ける場合は、相手当事国の承認が必要であるということは、近代法治国家の常識であろう。
日本政府は大法院判決への報復とは明言していないが、まず韓国への半導体材料の輸出管理手続きを見直して、従来の包括的な輸出許可から個別の輸出許可へ移行させ、さらに食糧や木材以外の輸出品目についても同様な管理手続きに移行させることを決定した。これで軍需に転用できると判断された多数の品目について、韓国は日本から必要なタイミングで必要な量を輸入調達することが困難になり、韓国経済への打撃は計り知れないとされている。これまでどおり黙って言いなりになってくれると思っていた日本政府の強硬な対応に驚いた韓国政府は怒り狂い、世界貿易機関(WTO)に提訴したり、アメリカに仲裁を求めたりしていたが、結局現段階ではどの国にも相手にされていないようだ。
誰が見たって韓国大法院判決への報復のように見えるが、実は韓国への半導体材料や軍需転用可能品目の輸出は非常に危険な一面を持っている。2018年12月20日、海上自衛隊の哨戒機が韓国海軍の駆逐艦から火器管制レーダーを照射される事件があったのを覚えておられるだろう。撃墜を警告する戦闘行為に及びながら、韓国当局からはいっさい謝罪も釈明もなかった一件である。あの駆逐艦のレーダーなどにも日本から輸入された半導体材料が使われていた可能性が高いが、事態はそんな些末なことでは済まない。
およそどんな国の海軍であろうと、統制のとれた軍隊である限り、明確な敵対意志もなしに面白半分や国家間の対立感情だけで戦闘行為を行なうはずはない。あの時の駆逐艦は海上自衛隊の哨戒機から何かを隠したかったから、敢えて火器管制レーダーを使用して強制的に退去させたと考えるべきである。韓国駆逐艦は漂流中の北朝鮮船舶の救助作業をしていたと主張しているが、本当は韓国から北朝鮮へ半導体材料や軍需転用目的の禁制品を海上で引き渡していたのではないか。そんなところを日本の哨戒機に見られるわけにはいかないだろう。これは私の推測ではなく、韓国内の野党系のツイッターが投稿していたものである。あながち穿った見方というわけでもない。
同盟国だと信じて軍需品目の輸出管理も甘くしていたら、何と日本からの輸出品が北朝鮮へ横流しされている可能性も否定できなくなり、文在寅(ムン・ジェイン)大統領が目指す南北融和政策は日本にとって非常に危険であることも分かってきた。何でもかんでもムチャクチャな反日感情を剥き出しにし、国民にも異常な反日感情を煽って支持率を保つしか能のない者が次々と大統領になるような国が北朝鮮と歩調を合わせることになれば、核ミサイルを保有する反日統一国家が日本列島に匕首を突き付ける形になり、アメリカ合衆国や台湾の安全保障にも重大な影響を及ぼすことになる。今年7月には中国とロシアの爆撃機が竹島上空を侵犯した事件もあったが、日韓関係に楔を打ち込んで韓国を西側陣営から引き離そうとする意図に他ならない。
慰安婦問題も日韓関係の大きなトゲになっているが、これも韓国人はいったい何を考えているのか。今年の7月にソウル近郊の安山市の慰安婦像に日本人を装って唾を吐きかけた韓国人がいたというニュース、韓国人自らが慰安婦像を賤しめておいて、それを日本人のせいだと言いふらす。何という低劣下品な韓国人の品性か。日本人の方がまだ慰安婦問題に対して真摯であることを示す報道があった。今年の8月から愛知県で開催中の国際芸術祭『あいちトリエンナーレ2019』に出品されていた『平和の少女像』が、慰安婦を象徴する作品だとして韓国人と同レベルの日本人からの脅迫で展示が中止されたが、これに対して「作品を見なければ議論もできない」として表現の自由の立場から展示の中止に抗議する日本人の健全な常識も発揮されつつあるようだ。
それにしても慰安婦問題に関しては、私にはきわめて不愉快かつ残念な思い出がある。実は私も1回だけ韓国を訪れたことがある。学会での2泊3日の短い日程だったが、言語に尽くせないほどの不愉快な思い出のせいで、いつどこに滞在したかなど忘れてしまった。2000年か2001年頃にソウル大学で開催された日韓相互交流の学術研究会だったが、カミさんは忙しかったので私は単独で出張したのである。かなり立派な中堅クラスのホテルに滞在中のこと、そろそろ寝ようと思っていたらホテルのフロントから電話があり、男のホテルマンの声で信じられないような“商談”があった。
「女は要りませんか。良い子がいますよ。」
日本人に限らず、スケベな男は万国共通、しかしホテルマンがそれを斡旋するか!そんな国に今まで行ったことがない。怒りと口惜しさで頭の中が真っ白になった。
そんな万国共通の牡♂と同じに見られた口惜しさもあるが、こいつらは同胞の女性を素性も知れぬ外国人の夜伽に平気で差し出すのか。私が金に物を言わせてデリヘル嬢など要求したならまだしも、普段は“チョッパリ”などと呼んで侮蔑している日本人の男に自国の女性を斡旋する浅ましい心情が許せなかった。戦時中なら慰安婦問題、戦後もキーセン(妓生)観光などといって、日本の男どもがいかに朝鮮の女性たちを卑しめてきたかを声高に語って反日感情を露わにしているくせに、その裏で朝鮮の女性を日本人など外国人に売り渡して上前をピンハネしていたのは実は韓国人の男どもではなかったのか。まさに売国奴といってよい破廉恥な輩である。
私はもう二度とあの国を訪れる気はないし、あの国をかつて訪れたことを思い出す気もない。すっかり忘れていたことを最近の日韓情勢悪化のせいで不意に思い出してしまった。
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