思い出の宿る場所
映画『君の名は。』は、どうせ戦後のラジオドラマのリメイクか、甘ったるい青春ドラマのどちらかだから、私がわざわざ観るほどのものではないと思っていた、などと書いておいて、いったん観てしまうと『小説・君の名は。』(新海誠)の文庫本(角川文庫)まで買って読んでいるのですから、いい気なものですが(笑)。
その文庫本の巻末に川村元気さんという方の解説がありますが、その中に面白いことが書いてあります。
人の記憶は、どこに宿るのだろう。
脳のシナプスの配線パターンそのものか。眼球や指先にも記憶はあるのか。あるいは、霧のように不定型で不可視な精神の塊がどこかにあって、それが記憶を宿すのか。心とか、精神とか、魂とか呼ばれるようなもの。OSの入ったメモリーカードみたいに、それは抜き差し出来るのか。
実は私も最近似たようなことを考えていて、私の考えを先に書いてしまえば、記憶は脳のシナプスの配線パターンと考えるよりほかにありません。なぜ私がそう考えるかをお話ししましょう。
例えば私は1989年(昭和64年/平成元年)1月7日の夕陽を鮮やかに覚えています。大学での仕事を終えての帰り際、本郷三丁目の高台から、「ああ、これが昭和最後の夕陽だな」という感慨をもって見渡した時の、茜色に染まった西の空の光景は今でも鮮やかに蘇ります…。
…ってその西の空の映像、画像情報として脳内に保存するためには何バイトくらいの容量が必要でしょうか。キロバイト単位で収まるか、メガバイトあるいはギガバイト単位が必要か。仮にキロバイト単位で収まるにしても、私が脳内に一応“画像”として保存している思い出は昭和最後の夕陽だけではありません。
幼稚園児の時に私をいじめようとした友達の顔、中学・高校の音楽部時代の練習風景、大学の入試合格発表の掲示板、産科医として初めて取り上げた骨盤位分娩の新生児、等、等…。65年も生きてきたうちで数え切れないくらい多くの場面の光景が、場合によっては音声付の動画として再生されることさえあります。いったいどれくらいのメモリーの容量があれば65年分の思い出を画像や音声として保存できるのでしょうか。
たぶん川村元気さんは、これだけ膨大な容量を持つ記憶が、人間1人の頭蓋内に蓄えられるはずはないから、眼球や指先が“外部記憶装置”みたいに情報を蓄えている可能性、あるいは魂といった現代科学では説明のつかない得体の知れないものが関与している可能性を挙げたのでしょうが、結局すべて脳のシナプスで説明できるというのが私の考えです。
では脳のシナプスがどのように働くと画像や音声まで含む思い出がメモリーに保存されるのか。昭和最後の夕陽を見た時、私の脳には「これが昭和最後の夕陽だな」という強い想念と一緒に、網膜に映った視覚刺激、本郷三丁目の街路の喧騒による聴覚刺激、こんな日本史の転換点にいるという興奮、そういう脳内の各部位が受け持つ各神経細胞の作用が特異的なパターンとして脳内に出現した。そして私が夕陽の映像を思い出すときは、あの時に網膜に映った画像情報がそのまま再生されるのではなく、あの時の脳内のパターンが再現されるだけです。その証拠に、あの時の本郷三丁目の街角の看板にどんな文字が書かれていたかは後から絶対に思い出すことはできません。もし画像情報そのものが保存されていれば、後からその画像だけ取り出して検索することもできるはずですからね。
私が1989年1月7日の夕陽を思い出す時、私の脳はあの時の各神経細胞の電気的な興奮がシナプスを通じて形成した特異的なパターンを再現しているのだと思います。視覚を司る後頭葉の刺激だけでなく、聴覚を司る側頭葉、感情や興奮を司る大脳辺縁系、その他いくつかの脳の部位で同時に発生した電気信号の総体が、あの日に特異的なパターンとして記憶されたのではないか。だから私が昭和最後の夕陽のことを考える時は、あの日の脳全体のパターンが再現されて、今でもあの夕陽を目の前に“見て”いるような錯覚が生じるのだと思います。
こういう思い出のパターンはおそらく大脳辺縁系と呼ばれる部位に蓄えられています。大脳辺縁系は記憶とともに情動も司っていますから、強い情動や感情を伴った記憶のパターンが、他の平凡な記憶に比べて脳内に残りやすいのも、これでよく説明できます。我々の大脳辺縁系には、そういう強い情動や感情を伴った特別な思い出があった時に脳内に起こった電気信号の特異なパターンを、まるでアルバムのように幾つも幾つも記憶として留めているのではないでしょうか。
リンゴの皮むき
私にはちょっと器用な特技があって(別に特技と言うほどでもないが)、1個のリンゴの皮を途中で切らずに1本に続けて剥けます。
「そんなの俺だって(アタシだって)できる」
とおっしゃる方も多いでしょうが、では1個のリンゴの皮むきの最長記録はどれくらいか知ってますか。
ギネスブックによると1976年10月16日にニューヨーク州のロチェスターで16歳のKathy
Wafler Madisonさんという女性が20オンス(567グラム)のリンゴの皮を12時間近くかけて172フィート4インチ(52.5メートル)の長さに剥いたのが世界最長記録だそうです。あなたもやってみますか(笑)。
一口に21時間かけて52.5メートルといいますが、それがいったいどんな作業だったのか検証してみましょう。普通より大きめな567グラムのリンゴですから胴回りは40センチ以上、これをグルグル回しながら剥いていくから1周の平均を大体20センチ前後と見積もって最低でも250周以上、リンゴの皮を1ミリの幅で剥かなければいけません…て本当かな?どなたか検算して、もし間違っていたらこっそり教えて下さい(笑)。
しかしこういう小手先の器用さは日本人のお家芸だと思っていたら、アメリカの16歳の小娘に負けましたね(笑)。リンゴ関係で日本または日本人がギネスブックに認定されたものは、青森県産の世界最大のリンゴというのと、音楽業界誌『Billboard』が集計するBillboard
Hot 100にランクインした史上最短のピコ太郎さんの曲『ペンパイナッポ―アッポーペン』がちょっと目立ちます。
ところでリンゴの皮むき52.5メートルと聞いたら、どうやってそれを計測したかを疑問に思わなければいけません。そんな長いリンゴの皮を、しかも紐のように細くて乾燥すればすぐ切れてしまうリンゴの皮を、どうやって12時間近くも切れずに保てたのでしょうか。リンゴ1個を完全に剥き終えた時点で計測しなければ、おそらくギネスブックには認定されないでしょうから、50メートル以上の繊細な皮を乾燥させずに、余計な外力が加わらないように半日間保存する作業の方が、もしかしたら実際に皮むきする作業よりも困難だったと思います。記録保持者のKathyさんを物凄い強力なチームが支援していたのではないでしょうか。
そういうことを考えずに、ネットに「リンゴの皮むき世界記録はアメリカのキャッシ・ウォクラさん(なぜか日本のサイトにはこの表記が多い)の約53メートル」と書いてあるからといって、「ヘーッ、凄いねー」と感心しているだけではいけません。
ネットに掲載されている他の動画、たとえばバターナイフを使ったリンゴ皮むき記録は144インチ(約366センチ)だそうですが、それを達成した時の証拠画像などを見ると、最初にリンゴの円周に沿って彫刻のようにスジを刻んだ後にナイフで切り出すようですが、実はKathyさんより前の記録保持者のことが昔の少年週刊誌に紹介してあったことがあります。それによると、皮むき料理人が細〜く剥いた皮が乾燥したりちぎれたりしないように、町の人たちが総出で塩水を含ませた布を持って一列に並んで、計測までの間ずっとリンゴの皮を慎重に支えていたとのことですが、これこそまさにチームワークの勝利ですね。
さてリンゴの皮を途中で切れずに1本で剥ききると、両側に対称的な渦巻きを示すこんな形になります。これで気が付いたんですが、リンゴの皮を1本に続けて剥く…と簡単に言っても、剥き始めと剥き終わりでは手首の使い方が逆になる。私の場合、右手でナイフ(または包丁)を持ち、左手でリンゴを反時計方向に回しながら、リンゴの芯の手前側から剥き始めますが、いつの間にかリンゴの回転は時計方向になって、剥き終わりでは芯の向こう側にナイフの刃を滑らせることになります。
この時は右手の手首がやや返し気味になって、剥き始めよりもやりにくい。それで思い出したのが先日の航空母艦の艦橋の話、左側に艦橋が突っ立っている航空母艦で、これに衝突しないように離着艦する時のパイロットの手首の使い方は、リンゴの剥き終わりと同じなのですね(笑)。きちんと真っ直ぐ剥けるには剥けるんだが、やはり反対側よりも何かやりにくい。私は記録に残っているのを読んだことはありませんが、日本海軍の空母でも、左側に艦橋があると重大な衝突事故にまでは至らなくてもニアミスが多かったんではないかと思いました。
まあ、空母の話は今回はどうでもいいんですが、日常の一つ一つの動作を解剖学的に分析してみると、何だか意外なことに気が付くものです。私も学生さんには解剖学の講義の最初の時間には必ず言い聞かせていました。
定年退職しました
さて私も還暦を過ぎてはや5年、昨年夏に定年の65歳を迎え、今年(2017年)3月31日に帝京大学を退職いたしました。考えてみれば四半世紀、25年もの長い間、大過なく勤め上げられたのも多くの方々のご理解とご支援があった賜物と改めて深く感謝いたしております。
帝京大学の先輩や同僚の医師たちを見ると、定年後もいったん退職金を精算されて再雇用の形で大学に残られる方がほとんどで、先日もある先生から、定年と同時に辞めたのは他に○○科のS先生だけだよと驚かれましたし、多くの学生さんたちも自分の卒業まで辞めないでくれと惜しんでくれましたが、いろいろ思うこともあって決断いたしました。
退職した理由は、ここに書くと差し障りのあることもありますが、一つには人間の社会活動は生物としての寿命と同じで、いつか終わる時が来ますし、それがたまたま今年だったということ、私を惜しんで下さる人たちにはそのように申し上げたいと思います。1年でも長くと頑張ってみても、3年後、4年後、5年後には間違いなくその時期が来ます。
私と同年配あるいは年長者の中には、そんな枯れたことを言ってんじゃない、俺なんかまだまだ現役だと威張って粋がっている人も見受けますが、大体そういう人の中には、自分が若かりし頃にさんざん年長者を批判していた者も多く、おいおい今度は自分の老害に気付けよと笑止千万ものですね。
学校にしろ病院にしろ、いつまでも年長者が君臨していてはいけない、次の世代にバトンタッチする準備を周囲に働きかけなければいけません。たった1個の受精卵の細胞からいかにして人間の身体が発生してくるかというようなことを勉強していると、自分が消えることによって次の新しい器官を誘導していくような細胞もいます。こういう細胞がいつまでも影響力を残そうとすると人間の体は奇形になってしまいますが、人の世では自分の発言力、政治力、影響力を維持しようと、定年後も組織の運営や人事に余計な介入をする馬鹿者も多い。私はそうやって晩節を汚すような真似をしたくありません。
とはいえ、このまま社会から引きこもってしまえば、私が時間を持て余す性分であることは百も承知です。趣味に生きる方も多いようですが、私は病理診断と医学教育という技能を磨いてきましたから、それを必要として下さる方がいれば可能な限りお応えしたいと思っています。現在の週1回の非常勤の病理診断は当面は続けさせて頂く予定ですし、私を惜しんでくれる学生さんたちの求めがあればどこへでも出かけて講義でも講演でもいたします。ただ医療は患者さんのため、教育は学生さんのためという正論が通じない職場は困りますが…。
実は5年前に還暦を迎えた時も途中退職を考えたことがありました。東日本大震災の直後でしたから、自分も何か復興のお役に立ちたいと思ったわけですね。5年後の今こそ新たな旅立ちの時という気がしています。あの時は具体的に何をして良いかも分からず、何ができるかも分からず、とにかく今の職場を辞めて現地に行けば何とかなるんじゃないかと“若気の至り”でしたが(笑)、あの震災で特に医療系の学校への進学を諦めざるを得なかった若い人たちに何かできるんじゃないか、何かしてあげたいと模索を始めたところです。
震災復興ソングとして『花は咲く』という歌があって、病理医のオーケストラでは毎年コンサートで合唱団と共に演奏していますが、私にはあの歌詞は歌えないんですね。涙が止まらなくなってしまうんです。私は人前では絶対に涙を見せることはないと自負していますが、あの歌だけはダメです。昨年か一昨年の帝京大学の卒業式で開式までの間、恒例のブラスバンドが『花は咲く』を演奏していたので、その晩の謝恩会で曲に関連して卒業生にスピーチしようとして思わず涙が出てしまいました。
君たちは今日ひとつの夢を叶えたが、震災で夢を諦めなければいけなかった子たちのことをどうか忘れずに、あの子たちの分まで頑張って働いて欲しい。
私は卒業式ごときで泣いたことなどなかったのですが…(笑)。
まあ、とにかく私も老け込んで“定年退職”したわけではありませんので、ご安心のほどを。またどこかでお会いしましょう。
最後の講義
本当に私は果報者だと思いますね。定年退職を目前にした今年(2017年)3月25日の土曜日、歴代卒業生の教え子たちが私のために退職記念講演会を開いてくれたのです。おそらく1人の教員の退職に当たって、こんなセレモニーは前代未聞に近いでしょう。少なくとも私自身は見たことも聞いたこともありません。
大学を長く勤め上げた教員が退職する時には、通常ですと医学部なら医局員や教室員、他学部でも講座や研究室の有志が音頭を取って最終講義だとか、退官パーティーなどというセレモニーを開くのが恒例ですが、そういう場合、セレモニーの趣旨や発起人氏名と共に、日時や開催場所などを記した麗々しい案内状が郵送されて、大体医学部関係だと1万数千円から2万円程度の会費(記念品代も含む)で、大学や学会関係のお偉方も顔を揃えて、ホテルの宴会場などで豪勢な飲み食いをするのが常です。
私は辞退したのですが、そういう会も大学近所のレストランを借り切って一席設けて頂きました。学部長や学科長をはじめ、学科の教職員や事務の方々、病院の病理部の方々、歴代教授を含む病理学教室の方々もお忙しい中を出席して下さって、手品や替え歌でけっこう盛り上がりました。ありがとうございました。
さてここまでは大学教授を勤め上げたならば、ほとんどの人がやって頂けるセレモニーなのですが、私の場合、さらに歴代の教え子たちによる教え子たちのための記念講演会と記念パーティーまで催して貰いました。麗々しい案内状ではなくfacebookやLINEなどのSNSを使って各期のクラスに呼びかけ、場所も新宿歌舞伎町のレンタル会議室を借りて開いてくれたもので、年度末の土曜日午後という卒後数年目の医療人にとっては貴重な忙しい時間であったにもかかわらず、北は北海道、南は九州・沖縄から110余名もの卒業生と、若干の在校生が集まってくれました。
さらに夜のパーティーに駆けつけてくれた卒業生や、当日は来れないからと別の日に10名以上で集まってくれたクラスとか、個別に大学の居室を訪れてくれた卒業生とか、急な予定が入ってしまったり体調を崩してしまったと丁寧なお詫びのメールをくれた卒業生なども何人もいて、こんなに多くの卒業生諸君に関心を持って頂けたのかと教員冥利に尽きる一日でしたが、教え子以外で講義を聴きに来て下さった何名かの方々には、教え子たちの熱気に圧倒されて落ち着かない思いをさせてしまったのではないかと大変申し訳なく思っています。
このセレモニー、私が退職することが知れ渡った半年くらい前からチラホラと、特に最初の頃の1期2期の卒業生あたりから私に打診があり、「先生の退官パーティーはやるんですか」とか「誰もやらなければ私が幹事やります」とかいろいろ嬉しいことを言ってくれる。しかし教え子たちが主体になって企画してくれる退任セレモニーなど、大学のさる方面の関係者からは反発も食らうだろうから、たぶん卒業生たちだけでは無理だろう、その気持ちだけでもありがたいと思って静観していたところ、昨年の秋頃に具体的に企画化されてSNSに上げられ、またたく間に1期生から今年卒業する8期生までの卒業生の間に浸透していったようです。
私も今さら新しい話もできませんから、講義は『物を見る(観る)ということ』と題して、こんな話とか、こんな話とか、こんな話とか、こんな話などをつなぎ合わせて1時間ちょっとお話しさせて貰いましたが、けっこう皆さん眠らずによく聞いてくれましたね(笑)。
さて私は学科開設準備期間を含めて12年間、臨床検査学科に在職しましたが、専任の教職に就く以上は学生に最高の講義をしてあげようと思っていました。そちらのページに:
「臨床検査技師は、医師との独自性の違いはそれほど大きくなく、患者さんや患者さんから採取された検査材料に相対するする時には、むしろ医師と同じ発想で動くことが多い。臨床検査学科の教授就任を言われた時、そういう職種の学生さんに医学を教えるのは責任が重くて大変だなと思ったが、医師として周産期医療から病理解剖までの現場を渡り歩いてきた私が手塩にかけて育てたら、どんな風に育つんだろうかという楽しみも大きかった」
と書きましたが、解剖学・病理学の講義と実習のコマ数を全部1人で担当して、人体の中で起こることを生化学や生理学の範囲まで含み、できるだけ満遍なく講義してきました。しかも10年間パソコンソフトやスライドも使うことなく、ひたすら黒板の板書のみで講義を進めてきましたから、学生さんは講義中寝るヒマもなくノートを取り続けたことでしょう。これはかつて私自身が学生時代に受けた組織学と泌尿器科学の講義スタイルで、次々と色とりどりのチョークで板書されたものを必死でノートに書き写した講義内容はまだ頭の中に残っている、その経験をもとに自分の学生さんには人体そのものを同じように教え込もうと思ったのです。
幸い他の教科の教員の方々も一生懸命学生を教えておられましたから、そこへリンクさせる形で解剖学や病理学を教えることができました。お陰でこれまでの卒業生は4年制の学部教育しか受けていなくても、大学院まで修了した同職種の人たちに匹敵する以上の知識を持たせることができたと自負しています。
今回のセレモニーで総幹事をやってくれた1期の卒業生は、学生時代から全国の医療系学生組織との横の連携を豊富に持っていましたが、彼女がまだ在学中に私に言うことには、コメディカル学生の教育に医師教員がここまでコミットしてくれる帝京の学生は幸せだということでした。
確かに臨床検査技師など他職種の教員に比べて、医師の教員は自分の方が偉いと思っているつもりなのか、コメディカルの学生教育には不熱心な者が多い、講義時間をさっさと切り上げて早めに終了してしまう、何度も講義をすっぽかす、こんなにたくさん講義したくないと不平不満や泣き言をいう、さらに人格低劣を絵に描いたような話になると、俺様がお前たちに講義してやるからありがたく思えと臆面もなく学生相手に威張り散らす、そんな医師教員が全国のコメディカルスタッフを教育する多くの現場にのさばっている現実を、たぶん彼女は全国の医療系学生との交流の中で見聞きしていたのでしょう。在学中からクラスメートや後輩を引き連れて私の部屋に出入りしてくれましたし、今度の最後のセレモニーも私の耳に入るずっと前から密かに計画してくれていたフシがあります。
私は最近はやりの教育用IT機器も使わず、パソコンのパワーポイントも使わず(先日の最後の講義だけは使った)、半世紀以上昔の先生方がやられていたとおりの板書とプリントだけで講義を進めてきました。また最近の教育専門家が推奨するポートフォリオだのルーブリックだのいう洒落た名前の教育理論もまったく応用するする気がありませんでした。
各大学とも最近はFD(Faculty Development)とかいうものを実践して、大学教員の教育能力を高めなければいけないということになっていますが、結局そんなものは文科省が大学の学部や学科を水増しで認可しすぎて教員の質が保てなくなったために、最低限のガイドラインが必要になっただけと解釈しています。
そういうことはまたいずれ記事を改めて論じたいと思いますが、最近の大学教育現場の方向に一見逆行するような教育を行なってきた私のような教員は、たぶん文科省のお役人様には煙たい存在だろうし、したがって大学経営者にも煙たい存在だろうし、もしかしたら同業の教員たちにとっても煙たい存在だっただろうと思います。
教育とは結局人が人に教えること、理論やシステムの問題ではありません。学生を教える情熱の無い人には、どんな優れた理論やシステムがあっても何の意味もないと思います。今回の私の講義に集まってくれた卒業生諸君との集合写真は、現在の大学教育の現場に私が最後に突きつけたアンチテーゼだと思っています。
この時の講義録はこちら
人工知能(AI)に病理診断は可能か
今年(2017年)春の病理学会総会がゴールデンウィークの前半に新宿で開催されましたが、学会のお偉方にとってもちょっとショッキングな話題で喧々諤々の議論になる場面がありました。何でも厚生労働省のナンチャラいう懇談会(正式には保健医療分野におけるICT“information
and communication technology”活用推進懇談会というらしい)で有識者とかいう人が、あと2〜3年のうちに巨大なデータベースを背景にした人工知能に病理診断をやらせると発言したというので、あと数年以内に失業するんじゃないかと戦々恐々としている病理医もいるらしいのですね(笑)。
確かに人間が診断するより機械の人工知能が診断する方が精度管理もしっかりできるし、病理医個人の気分や疲労度による診断誤差も防げるし、病理医がいない医療施設でも第一線病院と同じレベルの診断ができるし、素人の“有識者”には良い点ばかりのように思えるのでしょうが、私にとっては人工知能による診断などもう30年以上も前から飽き飽きするほど聞いてきた話なのです。
思えば最初は小児科の染色体異常の診断の話でした。小児科医だけでなく内科や産婦人科など、染色体を専門としていない医者でも、基本的な染色体異常の患者さんを正確に診断できる人工知能システムを作りたいと、確か昭和56年頃の話でした、当時浜松に勤務していた私は毎週1回、勤務が終わってから深夜にかけて東名高速道路を自家用車で往復して東大病院に通い、研究に協力したことがありました。染色体異常を専門とする私のような医者が、患者さんのどんな症状を見て染色体異常と診断するのかというフローチャートを解析し、所見の優先順位や重みづけを数値化して、ダウン症候群(21トリソミー)、18トリソミー、13トリソミー、ターナー症候群、クラインフェルター症候群の5疾患の診断システムを構築するという課題に挑んだのですが、まったく役に立つものはできませんでした。
なぜかというと、私に限らず染色体異常を専門としていた小児科医は、患者さんを一目見た瞬間にパッと診断が閃いてしまうのですね。これは染色体異常に限りません。血液疾患であれ、神経疾患であれ、その道の専門医は、この症状がどうとか所見がどうとかいう細々したフローチャートなど省略して妥当な診断を下せてしまう。診断フローチャートなど後付けの理屈でしかありません。
専門医は何でそんな事ができるのか。その理由も私はあの時に理解してしまいました。専門医が自分の専門領域の患者さんをパッと診断できるのは、専門の病気をたくさん診てきたというだけではなくて、専門の病気を持っていない正常な人たちをさらにたくさん見てきたからなのです。
私の例で言えば、確かに他の医者よりも多くの染色体異常の子どもたちを診断してきましたが、それよりも産院で毎日毎日大勢生まれてくる正常な子供たちを何百人何千人と見てきたわけです。正常なコントロール群(対照集団)をたくさん見るということが、限られた専門領域の疾患の患者さんを診断する上で非常に大事なことを知りました。正常な集団といっても決して均一ではありません。目が大きいとか小さいとか、背が高いとか低いとか、ある一つの所見だけ取っても実に大きなばらつきがあります。でもここまでなら正常という範囲をきっちり押さえているから、それを逸脱した専門領域の疾患はパッと診断が閃くわけです。
身長だとか、目の角度だとか、耳の位置だとか、比較的簡単に数値化できる所見をもとにした染色体異常診断システムでさえ碌なものができなかったのですから、もっと微妙な形態変化を捉える病理診断システムなど絶対できっこありません。全国の病理医の皆さんが失業することなどあり得ませんから、まだまだ働く覚悟を新たにして下さいね。
それから厚生労働省の物を知らない有識者に一言物申したいが、あなたはどうやって知人や友人の顔を識別しているのか。この顔がA君でこの顔がB君ということを人工知能に認識させるプログラムのフローチャートを作れますか。できるものならやってみろ、しかもその識別プログラムにC君やD君の顔が入ってきても妥当に認識できなければ役に立たないんですよ。病理診断は人の顔の認識以上に微妙な所見を問題にするし、第一A君とB君を間違えても怒られるだけで済むが、もし胃癌と胃潰瘍を間違えたら…(恐くてこれ以上書けません)
病理診断で悪性腫瘍を診断する場合、我々病理医は細胞の核が大きいとか歪んでいるとか、そういう微妙な所見を引っくるめて総合的な診断を下しています。そしてそれができるのも、我々は悪性腫瘍の何十倍何百倍もの数の良性の標本を診てきたからです。胃潰瘍とか胃炎とか良性の生検標本を何百枚も診断したからこそ、その中に2枚か3枚混じっている胃癌を確信を持って診断できるわけですね。
もし人工知能(AI)が同じことをしようと思ったら、悪性腫瘍の標本の画像だけを解析するプログラムではダメです。その何百倍もの良性の標本をすべて解析してデータベースに蓄積し、さらにそれが本当に良性だったというフィードバックを毎日毎日更新し続けなければいけません。
さらに人工知能(AI)による病理診断システムの最大の問題点はおそらく次のようなことでしょう。仮に百歩譲って良性疾患の解析機能も含めた神のようなシステムができたとして、そのプログラムがアウトプットしてくる診断は果たして本当に“正しい”のか。これは実は意外な盲点かつ大事な問題です。
確かにバカ正直な機械がやることですから、“正しい”診断をアウトプットしてくると思われるでしょうが、それは機械のプログラムに対して正しいだけであって、科学的・客観的に見て正しいかどうかは分からない。病理診断の歴史を振り返る時、それまで良性だと思われていた所見が実は悪性だった、逆に悪性と信じられてきた所見が実は良性だったというようなことは幾つもあります。どうやってそれに気付くことができたのか。人間が診断してきたからです。
教科書にはこう書いてある、偉い先生もこう言っている、だけどその後の経過を追ってみると、何となく違うような気がする、そうやって教科書や偉い先生の誤謬は少しずつ訂正されて、病理診断は一歩一歩真理に近づいてきたのです。人間が診断せずに機械が診断するようになったら、もうそういう進歩はそこで停止してしまいます。物を知らない有識者諸君は、もう現在の病理診断技術は神のごとき鉄壁無謬の域に達しているとでも信じているのでしょうか。
清酒のネーミング
今年(2017年)3月の定年退職を控えて、多くの卒業生や職員の方々からいろいろ心づくしの記念の品々を頂いて嬉しい限りですが、どうも私は酒飲みのイメージが強いのか、日本酒やワインや焼酎などを下さる方も多かったです。大好物をありがとうございました。健康に気をつけながら頂きます…、
…って、この4月5月のうちに頂いたお酒はほとんど味わい尽くしてしまい、特に夏場の高温に対して最もデリケートに思える清酒は、一升瓶(1800ml)2本と四合瓶(720ml)10本以上頂いたのに、もう最後の一升瓶に手を付けてしまいました(汗)。
昔ならば単なる儀礼で贈るお酒はウィスキーのジョニ黒かブランデーのナポレオンと相場が決まっていましたが、これはただ高価であることを誰もが知っているから、とにかく贈っておけば間違いないというだけの贈答品で、特に海外旅行のお土産には外国の免税店で1人3本までは税金が掛からずに持ち込めるからと、相手の嗜好など何も考えずにわざわざ重たい思いをして帰国の際に買って来る、まあ、私たちも新婚旅行でヨーロッパへ行った時には2人で6本買って来たものでしたが、昔はそうやって相手のためにいくら金を出費したかを競うだけとしか言えない無意味な慣習がありましたね。
本来、日本人の最大多数が好むビール以外のお酒は日本酒が多いはずなんですけど、あの当時の日本酒は人工エタノールを添加したものばかりで、本当に米だけから醸造した“高級な”日本酒は少なかったし、あったとしても知る人も少なかった、だからお酒の好きな人にはジョニ黒かナポレオンという風習が定着してしまったんでしょう。そんな中で新潟県の石本酒造がいち早く『越乃寒梅』を純米吟醸として売り出し、高級日本酒の先駆けとなったものだから、他の日本酒メーカーも清酒を復興させなければいかんということで(日本酒ルネッサンスですね)、次々と純米を醸造した吟醸酒を売り出すようになったと記憶しています。
私も年齢とともにウィスキーやブランデーなど度数の高いお酒の渋さも分かるようにはなりましたが、やはり日本人なら清酒が嬉しい(もちろん焼酎も…なぜかワインも…ただの飲兵衛!)。最近では日本全国の数えきれないくらいたくさんの日本酒メーカーからさまざまな美味しい日本酒が発売されていて、贈って下さる方々もそのネーミングなんかをいろいろ考えて選んで下さる。一律にジョニ黒やナポレオンだった時代には考えられないことです。
日本酒の味わいも辛口でキレの良いものから甘口のコクのあるものまで千差万別ですが、ラベルに記されている名前もそれぞれの蔵本の想いが込められた趣の深いものです。誰もが知ってる有名な酒あり、隠れた銘酒とでも言うべき酒あり、そんな中でも私にとって実に運命的な名前を持つ日本酒に巡り会いました。
上の写真、『田中六五』というお酒、福岡県糸島の山田錦を65%まで精米して、白糸酒造という江戸時代末期から続く山田錦の田圃の中に建てられた蔵で、8代目蔵本杜氏の田中克典さんが造った酒だから『田中六五』だそうですが、ちょうど私が65歳の年に巡り会うとは何という偶然、日本酒が好きだったからこそ、こういう銘酒との御縁もあったわけですね。
上の写真は大学の近くの行きつけの小料理屋さんで初めて巡り会った時のものです。今年の年賀状の図柄にも使い、フェイスブックのプロフィル写真にも使ったからでしょうか、定年退職の記念にと下さった方もいらっしゃいました。もちろんもう一滴も残っていませんが…(笑)。
本日は私が医師免許を取得した日(昭和52年5月25日)からちょうど40年ということで、乾杯の意味で日本酒の記事でした(祝)。
高等専門教育の戦略欠如
岡山県に本拠を持つ加計学園が愛媛県今治市に獣医学部を新設するにあたり、安部首相(官邸)からの圧力が有ったとか無かったとか、2017年5月現在大問題になっている。まあ、有ったにせよ無かったにせよ、どうせ日本の有権者の投票行動にさほど影響を与えるはずはないと知っているからだろう、与野党ともそんな真剣な攻防をしているようには私には見えない。週刊誌やテレビが大衆受けする新鮮な政治ネタに食いついているだけである。
しかし文部科学省の前の事務次官前川氏によって暴露されたこの件に関する『大臣ご確認事項に対する内閣府の回答』という内部文書の文面が首相からの圧力以外の何物でもないことは一読すれば明らかである。今治市を“国家戦略特区”に指定した時から最短で獣医学部を設置するという前提が総理の“ご意向”であると文書の冒頭に記されており、総理が議長である“国家戦略特区諮問会議”の決定として今治市における規制緩和は内閣府でやるから、獣医学部新設はそっち(文部科学省)でやってくれと指示している。獣医学部を新設できなければ文科省の大臣や事務官のクビが飛ぶぞというあからさまな恫喝でしかない。
まあ、そんなことは大衆受けする記事ネタの欲しいマスコミが、せいぜい“賞味期限”の切れないうちに突っ込んでいれば良いだけの話であるが、結局は教育という国家戦略が、規制緩和という経済的な甘い汁に絡めて決定される、そういった欲得まる見えの事案に堕していることが暴露されたことは憂うべきことである。
獣医学部における獣医師養成は、戦前ならば陸軍で使用される軍馬の健康管理をするうえで重大な国家戦略であったし、現在でも動物病院のペットだけでなく、食肉・畜産など食糧問題の国家戦略に関与する問題であるから、やはり適正な数の獣医学部を設置しておかなければいけない。そういう重要な“国家戦略”を担う学校の設置に対して、内閣府が文部科学省に余計な干渉を加えてきて迷惑だ、というのが今回暴露された『大臣ご確認事項に対する内閣府の回答』に関する前事務次官の言い分である。
しかしそんなことを言えば、文部科学省自体は“総理のご意向”が無ければ純粋に戦略的な判断だけで大学の設置を認可しているのか?いや、我々は大局的見地からきちんと国家の将来を見据えて大学や学部の新設を審議していると言い張るのであれば、それは「戦略」という言葉の意味を知らないのではないか?まあ、「便宜を図る」を「ビンセンを図る」と読んでいるような奴が副大臣を務めるような役所であるから、「戦略」という言葉を知らなくても大して驚きはしないが…(笑)。
獣医師だけでなく、人間の健康に関与する医師や看護師の養成もまた国家戦略の一つである。国家戦略を遂行するためにはトップの掛け声だけではダメだ。「アメリカやイギリスの資本主義をアジアから駆逐する」というのが戦前の大日本帝国のスローガンであったが、それは「スローガン」であって「戦略」ではない。これを混同する政治家や軍人によって我が国はかつて未曾有の災厄を招いたわけであるが、専門的な人材の養成にに関しても「スローガン」と「戦略」が混同されている。
アメリカやイギリスを駆逐するためには彼らを上回る軍事力を持っていなければいけなかったように、医師や獣医師を養成するためには若者を教育する教員が必要である。こういう戦略遂行のプロセスに関する視点が我が国の政策にはまったくといってよいほど欠如している。大学や学部新設の認可に関しても同じだ。新学部や新学科の名称を認可して校舎というハコ物を作れば大学経営者や建設業者はウハウハ喜ぶだろうし、天下り先が一つ増える文部科学官僚も内心ほくそ笑むだろうが、それは規制緩和というスローガンの一側面でしかない。新しい校舎の教室や実習室で教鞭を取る専門知識と技能を持った相当数の教員を配置できるかどうかを審査するのが文部科学省の仕事であろう。しかし文部科学省の事務官が教員の適正な配置ということにほとんど無関心であることを私は知っている。
私は数年前、看護師などのコメディカルスタッフを養成する学部設置を審議する委員を2年ほど委嘱されたことがあるが、その折に疑問に思った事例を一つだけご紹介しておく。ただし資料は会議後回収なので証拠はありません。
最近は看護師など医療職の求人が多くて他職種よりも就職しやすいことから、これまで文科系の学部しか持っていなかったような大学がこぞって医療系の学部新設を申請してくるようになった。しかし医療系学部の教育は講義や実習における教員の負担も大きいのに、新しく参入してくる大学のトップは従来と同じつもりで教員数を割り出してくるし、それをまた文部科学省側も十分にチェックしていない。
事例というのはこういうものである。看護教育の実績のあるA大学があり、ここは病院での臨地実習体制も整っていて、必要な教員を確保しているとしてすでに文部科学省の認可を受けていた。ここへ医療教育の実績のないB大学が参入してきたが、悲しいことに病院での教育体制がない、そこでA大学と契約を結び、学生の病院実習を委託する契約を交わした、この契約書を添えて学部の新設を申請してきていたが、皆さんは何が問題だと思いますか?
A大学の実習担当教員は100名近いA大学の看護学生の教育を行なってきた、ここへさらにB大学の100名近い看護学生が加わるのである。これまでの2倍の学生数を受け入れなければいけないのに、A大学の教員数に関しては文部科学省から何の是正勧告もなされない。本来ならばB大学の看護学部を認可する条件としてA大学の教員増加を要求すべきなのに、私が指摘するまで居並ぶ委員も役人も誰もそれに気付かなかった。まさかB大学の看護学部があのまま認可されたとは思えないが、もし認可されていればB大学経営者は専任教員を雇わなくても認可が下りてウハウハ、A大学経営者もB大学から莫大な実習委託料を受け取ってウハウハ、A大学の教育実習現場だけがヒイヒイ、こんなことがいわゆる規制緩和の美名の下に罷り通るのが我が国の戦略なのである。まあ、戦争負けるはずだわ。
国民の酒 焼酎
先日は清酒のネーミングについて語りましたが、私も近頃は清酒よりも焼酎を飲む機会の方が多くなっていました。しかしこの3月(2017年)の定年退職に当たって教職員や卒業生の方々からたくさん頂いたお酒の大半が清酒だったので、久し振りに清酒の味わいを堪能したというわけです。今回は公平に焼酎の話…。
最近では『魔王』とか『百年の孤独』とか『森伊蔵』などといった焼酎好きにとってたまらない幻の高級焼酎もあって、酒屋でもネット販売でもなかなか手に入りにくい、だからさらに希少価値が高まる、在職中はそれを飲兵衛の学生や卒業生たちが、家にありました〜とか何とか言って持って来てくれて、皆で酌み交わしたことも何度かありましたが、本来は焼酎という酒には高級も普通もないはず…なのですね。
その昔、共産党の『赤旗の歌』の替え歌で『国民の歌』というのがあって、私が学生時代に先輩から教わったその1節に、
国民の酒 焼酎は〜
安くてすぐに酔える〜
《繰り返し》
ビールでは腹が張る〜
ウィスキーは高すぎる〜
国民の酒 焼酎を〜
我等はしょっちゅう飲む〜
というのがありました。
まあ、歌詞は人により場所によりいろいろバリエーションがあったでしょうが、要するに焼酎というのは手軽に楽しめる庶民の酒だったわけです。『魔王』だの『森伊蔵』だの『百年の孤独』だの入手困難な高級焼酎などもってのほか、ウィスキーやワインはもちろん、同じ日本で生まれた酒でも清酒より高価な焼酎などあってはならない(笑)!
やはり日本人が最も愛する主食=デンプンの白米を醸して造る清酒などは昔は贅沢品だったはず、しかも江戸時代以前ならば米は年貢として収めなければいけなかった、だから庶民の口に入りやすいのは芋や麦や蕎麦などを、手軽かどうか知りませんが、蒸留した焼酎だったのですね。焼酎の素材には他に黒糖や栗などもあります。
ところで焼酎ばかりでなく、ウィスキー、ブランデー、ウォッカなどの蒸留酒は、清酒やワインのような醸造酒よりも一般にアルコール度数が高く、口に含んだ時の刺激が若い頃はちょっと苦手でしたが、不思議なもので年齢を重ねるにしたがって蒸留酒の良さも分かるようになります。特に物を思いながら独りで飲む時は蒸留酒の方がふさわしいような気がします…ってただの酒飲みの理屈ですが(笑)。何しろアルコール度数が高いですから、そうグイグイ飲むわけにはいかない。チビリチビリとゆっくり飲むせいかどうか分かりませんが、翌日の朝は滅多に二日酔いしない。
しかし私も若かりし頃は清酒党だったのに、だんだん焼酎党になった理由はそれだけではありません。焼酎などの蒸留酒はアルコール度数がかなり高いので、食品を劣化させる菌も繁殖しにくく、基本的に賞味期限はないと言ってよいのだそうで、確かに開封してからも冷蔵庫で保管する限り、私の舌ではそれほど風味の低下は感じられませんが、清酒はそうはいきません。清酒も未開封のうちは冷蔵庫などで保管しておけば問題はないのですが、いったん栓を開けてしまうと最初の風味を味わえるのは2日間だけ、3日目になるとおそらく大気中の酸素に触れて酸化してしまうのか、開封時よりも妙な酸味がついてしまう。
そうなると小さめな4合瓶(720ml)でも2日間で飲み干すのはやや辛いものがあります。風味の落ちた酒をがっかりしながら消費するのはお酒にも失礼、お酒を造った杜司の方にも失礼、そんなわけで私も最近は焼酎をもっぱら嗜むようになったわけですが、実はここにきて新たな焼酎のライバルが出現したのです。
この写真、退職の記念に頂いた錫のぐい呑み、金銀ペアで金色の方は金箔が貼ってありますが、錫の器には本当に不思議な力があることを初めて知りました。おそらく金属イオンの関係と思われますが、お酒の雑味をきれいに消してくれます。お酒を美味しくしてくれる器があるという話は昔からどこかで聞いたことがありましたが、「気のせい、気のせい(笑)」とまともに取り合ってきませんでした。しかし実際に錫のぐい呑みで飲むと確かに味が違う。この退職記念に何本か一升瓶も頂いて、これは困ったな、酒が不味くならないうちに命懸けで呑むかと悲壮な覚悟(笑)を決めていたのですが、開封後3日経っても4日経っても1週間経っても、錫の器で飲むと最初とほとんど変わらぬ風味を楽しめるのですね。開封後も風味が落ちることを心配することなく、清酒を注ぐのが楽しみになりました。残念ながら10日以上経過したデータはありません。
錫は昔から金銀に次いで高価な金属とされていたそうです。酒飲みは酒と肴にはこだわるくせに、普通は器には金をかけないものですが、全国の酒飲みの皆様、錫の酒器だけはお買い求めになって決して損はしないと思いますよ。私もこれからは焼酎もこれまでどおり愛飲しながら、若い頃からのお馴染み清酒も平等に愛そうと思います。まったく酒飲みに都合の良い理屈ばっかり並べた記事でした(御免)。
エアコン直った!
もうあれから7年も経ったのか。このコーナーにエアコン壊れた…と題した記事を上げてから、もう7回もの夏を過ごしてきた。我が家のエアコンが故障して冷房も暖房も送風もできなくなって、冬場は何とか電気ストーブで暖を取れたが、扇風機と団扇だけで過ごす日本の真夏は正直いって少し辛かった。タオルを首に巻いて扇風機の風を受けながら書き綴ってきたこのサイトの幾多の記事を読み直すと、改めてずいぶん長い期間を頑張ってきたんだなと思う。確かに私が子供の頃はエアコンなど無くても真夏を乗り越えられたが、あの頃はどの家にもクーラーなどという文明の利器は無かった、ところが最近では窓を開ければ周囲の住宅1軒1軒のエアコン室外機が吹き出す熱風の集中砲火、こんな四面楚歌ではもう逃げようがないではないか。
エアコンが故障した最初の夏は予定外のことで修理や買い換えの時間的余裕が無かったが、その次の年の春先が3月11日の東日本大震災、夏場になっても首都圏の電車や公共の場所は節電で冷房は停めたまま、大学でも私の2年生の顕微鏡実習は学生さんたちに「白衣着なくてもいいよ」と言って窓を開放して汗を拭きながらプレパラートを観察して貰った、あの時の子たちももう卒業して4年目を迎え、職場の中堅として勤務している者が多いし、結婚する子や、学校の先生になる子もいる。そんな長い期間、我が家には冷房の風が吹かなかった。
学生さんたちの中には、私の身体を心配して「頼むから家にクーラーを付けてくれ」と言ってくれた子もいたが、一軒家の今の我が家は、もともと住宅見本として、エアコンの取り換えなどまったく考慮せずに建てた家らしく、たった1台の室外機と暖房用ボイラーからの配管を壁の中を這わしてあり、中途半端な電気屋さんに依頼しても、「これは壁を壊さなければダメだ」と引き受けてくれない。震災直後の真夏を何とか切り抜けた自信もあって、もう一生クーラー無しの生活で押し通そうと開き直った。まさに「心頭滅却すれば火もまた涼し」の心境か(笑)。確か手塚治虫さん原作の『鉄腕アトム』に登場するヒゲオヤジ先生も21世紀の未来都市の中で団扇と風鈴だけで真夏をしのぐシーンがあったのを思い出す。
今回は非常に腕の立つ電気屋さんが見つかって、壁を全面的に壊す必要もなくエアコン交換ができることが分かり、また私も定年退職して据え付け工事に立ち会う時間的余裕を確保できることから、ついに7年越しで我が家にもエアコンが復旧したというわけである。
さて新しいエアコンが据え付けられて今日でちょうど1週間目、その間ムシムシして暑い日もあったが、不思議なことにせっかくの冷房を試す気分にならない。気温が34度〜35度というメチャクチャな猛暑ならともかく、30度をちょっと超えたくらいの気温ならば、私の身体は十分生身で適応できるのだ。これはやせ我慢ではない。現代日本人が失った基本的な耐暑機能を取り戻せたのは故障したエアコンのお陰かも知れない。
このエアコン故障中にもう一つのエピソードがあった。パソコン通信高速化のために通信回線を室内に引き込む工事を依頼したことがあったが、あの直径5ミリにも満たない線を通す穴が無い。先ほども書いたが、我が家のエアコンはすべての配管を壁の中に埋め込んであるので、「普通の住宅ならばエアコンの配管の隙間を通せるんですがねえ」と工事の人も困惑している。結局大変な作業をして天井裏にドリルで小さな穴を開けて頂いてパソコンの通信回線を新設した。
エアコン無しでも7年間暮らせたが、パソコン無しでは1日も送れなかったに違いないと思うと可笑しくて、まったく現代社会は『エアコンよりパソコン』だなというのが今回の教訓である。
赤いペンキ
皆さんもお気付きと思いますが、肝心のキーワードが伏せ字になったかのような看板を街でよく見掛けますね。警察や保健所の管轄事項が多いようですが、赤いペンキで書かれた文字はちょっと時間が経つと消えてなくなってしまう。この写真は近所のマンションの植え込みの中に掛けられていた看板で、
『犬のフンはみんなの迷惑です。飼い主が必ず持ち帰ること』
と書いてあったと日本人同士ならすぐに分かると思いますが、赤いペンキで書かれていた「フン」と「迷惑」と「持ち帰る」がすべてきれいに消え失せていますから、例えばご近所に越して来たばかりでかろうじて日本語の読み書きができるようになっただけの外人さんには何のことだか分かりませんね。
なぜこういう看板を作る人は、一番大事な文字をわざわざ消えやすい赤色にするのか、長いこと疑問に思っていましたが、ちょっと興味を持ってネットで調べてみたら少しだけ物理学的あるいは化学的な事情が理解できてきました。
まず大事な語句を赤字で示そうというのは人々の注意を引くため、私も大坂の法善寺のところの記事で書きましたが、生き物にとってかなり恐ろしい存在である火焔のイメージが赤だからです。この危険なイメージである赤い色に対して同じように危険回避の反応ができる個体だけが山火事などから生き延びてきただろうから、赤色で文字を書けば、ほとんどの人は「オッ、これは何だ?」と気に留めてくれるはず、それが看板を作った人の思惑であることは間違いありません。
しかし赤はこう消えやすいんじゃ困りますよね〜。
『地震だ!火を消せ!』
という看板もよく見掛けますが、もう消えちゃってるよ(笑)。
なぜ赤いペンキは消えやすいのか、中学・高校時代に習った物理や化学の知識をつなぎ合わせて考えれば理由は簡単明快なのですが、このネット万能時代にそんなこともしようとせずに、漫然と街の看板をあざ笑っていた自分自身が情けなく、自分の教え子たちに対しても恥ずかしいです。
赤色塗料の分子は白色の光の中から紫外線側の波長の短い部分、つまりエネルギーの高い部分を吸収して、波長の長い赤い光だけを反射するから人の目には赤く見える。このエネルギーの高い部分を受け止めるというところが問題で、塗料の分子構造の中でベンゼン環みたいな亀の子が連結した部分、その分子構造が波長の短い光を受け止めるわけですが、これがかなりのボディーブローになって、赤い塗料分子は他の色に比べて壊れやすいのだそうです。
これで必ずしもすべて説明できたとは思えません、例えばエネルギーが高いも低いもすべての波長を吸収する黒色塗料はなぜあんなにタフなのか。これはたぶん黒色塗料の光学的性質は、ベンゼン環みたいな亀の子に依存していないためなのでしょうが…。
また交通標識の赤色塗料が褪せにくいのは、この亀の子部分を強化した分子らしいが、高価なんだそうですし、また日本古来の神社仏閣に使われているような赤は鉱物性の毒性が強いので、どちらも手軽に看板などに使いにくいらしい。
さてそうなると、手軽に使える赤い塗料などで大事な語句を書かず、最初から黒色塗料を使えば良さそうなものです。人々の注意を引きたいというのであれば、文字は黒で書いて、その文字の背景だけ赤くしておくとか、いろいろ工夫はありそうですけれど…。まあ、そうなると街を歩いていて看板の伏せ字をいろいろ埋めてみる楽しみがなくなってしまいますね(笑)
ちなみにペンキという言葉、オランダ語のpekから派生した日本独特の言葉だそうで、英語のpaintも同じ語源かも知れません。日本で最初にペンキ塗装が施されたのは鎖国下の長崎オランダ商館だったとも言われているようです。
アスレチックの駅?
ここ半年ばかり、東京の新宿から郊外に向かう小田急電鉄の各駅停車で代々木八幡駅の下りホームを通るたびに、実にユニークな音声アナウンスが反復されるのを耳にしてニヤニヤしています。さすがに最初はギョッとしましたが…。
「改札口へはロープをご利用下さい」
ヘッ??
「改札口へはロープをご利用下さい」
何度聞き直してみても、ロープを伝って昇降しなければ改札口に辿り着けないようなことを言っています。この駅はアスレチック広場かい(笑)。
駅の情況を見れば何のことはないのですが、日本語の発音の難しさを改めて感じさせるものでした。代々木八幡ではしばらく前から駅の改良工事が始まっており、上りと下りのプラットホームをつなぐ跨線橋が廃止された後、それぞれのプラットホームの改修も開始されていたのです。
特に下りプラットホームは、従来は電車の前方からは階段で、後方からはスロープで改札口に行けるようになっていたのですが、現在は一時的に階段が閉鎖されてスロープからしか改札口に行けないようになっています。
そうです、つまりあのユニークな音声アナウンスは
「改札口へはスロープをご利用下さい」
と言っていたんですね。
何だ、お前は日本語の聞き取りも悪いのか、そんなこと常識で考えれば判るだろう、と大部分の人たちは仰るでしょうが、自分の最後の講義のDVD画像を見て自分の滑舌の悪さを反省した私としては、まさに諺のとおり、人の振りみて我が振り直せ、ですね。
その後何度も小田急電鉄の代々木八幡駅を通りましたが、やはり「スロープ」は「ロープ」にしか聞こえません。私の言語聞き取り能力が低下していると言ってしまえばそれまでですが、これは日本語の会話をする上で非常に重要な教訓を含む事例だと思いました。
「坂道をご利用下さい」と言えば絶対に間違えるはずはありませんが、“坂道”という日本語は特に自然の地形の傾斜を表すことに限定されている傾向があり、駅や公園や学校や病院などの施設内に作られた人工の傾斜について、現在ではほぼすべての場合“スロープ”という外来語が使われています。
こういう日本語化した外来語を発音する場合、プロのアナウンサーなどはどういう訓練をするのか知りませんが、英語のまま“slope”と発音すると間違いが起こりやすい。英会話の中の単語の一つとしてslopeが出てくれば、ある程度の会話能力のある人ならropeと区別できると思いますが、日本語の中でこの単語が出てきた時は危ないです。英語では単語の頭の子音の有無や、“l(エル)”と“r(アール)”の区別に意識が向いていますが、日本語では通常“slope”のように単語の先頭に無声子音があることはありませんから、日本語会話の中で“slope”と英単語そのままの発音をされると最初の“s(エス)”を聞き取ることが困難になってしまいます。
日本語は一つ一つの音節に母音を伴うのが原則で、例外的に「か行」「さ行」「た行」「は行」「ぱ行」の音に前後を挟まれた母音の「い」と「う」が無声化しやすい、またこれらの音が「…です」「…ます」のように文末にきた時にも無声化しやすいそうですが、“slope”の“s(エス)”はこれらのどれにも当てはまりません。
日本は世界の中で英会話が通じにくい国であると言われますが、そのくせ日本語には英語に由来する外来語が非常に多いのが問題です。「坂道」という純正日本語で代替できない言葉、「スロープ」のように人々の通行の安全に関わるような外来語の発音は、たとえアメリカ人やイギリス人にどんなに笑われようとも、「SLoPe」ではなく、「SuRo-Pu」と音節を区切って発音しなければいけないと思いました。
「メイ門中学高校」の講義
別のコーナーで最近軽井沢へ行って中学高校時代の学校の寮の跡を訪ねたことなど書きましたが、そんな記事を書いた直後、集英社新書でこんな本が出版されました。おおたとしまさ氏という教育ジャーナリストが書かれた『名門校「武蔵」で教える東大合格より大事なこと』という本です。
この著者自身、武蔵・開成と並んで男子御三家と言われた麻布中学高校を卒業された方で、私も大学時代以降、多くの麻布出身の人たちとお付き合いしましたが、麻布もかなり飛び抜けてユニークな卒業生が多かった。その麻布出身者から見た私の母校ということで、ちょっとこの本には興味を持ちました。
そもそも定年退職なんてすると、特に男は職場の地位以外に心の拠り所の無かった人が多く、ついつい知らず知らず鼻持ちならない母校自慢をするようになりがちですから、そうならないように少しは気をつけます(笑)。
先ほど“男子御三家”と書きましたが、昔は麻布・開成・武蔵というのが定番だったわけです。ところが最近ではこの3つ目がドロップアウトして、麻布・開成・○○と言われることが多い。これはたぶん東大合格率が下がってきたことによる世のマスコミや受験生の親たちの皮相な物の見方が反映しているんでしょうが、それを苦にしてかどうか、一部のOBなどが「武蔵どうした!」と校長を叱責することもあるそうです。(これは私が校長自身から直接聞いた話)
まあ、そういうOBは本当は物を分かってないんだなと思います。たぶん定年か何かで社会的地位を退くに当たって、自分の出身校は名門だったと言いたい、だから御三家陥落は困る…というところでしょう、しかしそんなOBのクレームに動じるような学校ではありません。そもそも現校長(梶取弘昌氏)は音楽部の私の1年後輩で(吹奏楽のホルンと合唱のバスをやっていた)、中学時代に始めた音楽に取り憑かれて東京芸大に進学(カミさんの先輩に当たるわけです)、声楽を専門に勉強していましたが、そんな男を校長に据えるような学校ですから、狭量なOBがいくらクレームをつけたって絶対に世間に迎合するとは思えません。
あの時代に音楽部から芸術系大学に進学したのは現校長の他にも数人はいましたが、“名門進学校”として決して異端というわけでもありません。おおたとしまさ氏の母校麻布にも東京芸大に進学する人はいますから、その点には別に驚いてはいないようですが、問題はその音楽家が校長になるかどうかですね。
日本語も堪能な応募者を差し置いて採用されたアメリカ人教師による英語劇の指導だとか、校内に棲みついたヤギやタヌキの観察に没頭する生徒だとか、そういう多少ブッ飛んだ教師や生徒の話は別に武蔵に限らず、いろいろな中学高校でも聞くところだし、他人の母校自慢ほど聞くに堪えない鼻持ちならない話題はないでしょうから、私も今日はこの本を読んで感じたことを一つだけ書いておくことにします。
私が在学した昭和39年から45年の頃は、外国人教師もいなかったし(その代わり英語の歌を聴かされたり歌わされたり、ジョン・ウェイン主演の映画『アラモ』の上映などあって、一応ネイティブの発音に触れられるように配慮してくれたのかな)、校内にヤギもタヌキもいませんでしたが、文科省の指導要綱など完全に無視した授業内容、大学受験という観点からは時間の浪費にしか見えない実習、そしてそれらを貫く
「自ら調べ自ら考える」=答えは自分で探しなさい
という建学の理想だけは、今も昔も一点のブレもなく変わっていないようです。
私たちの時は、春先に校庭の一角に芋畑の畝を作って苗を植え、その成長を毎日毎日観察し、秋に収穫した芋からデンプンを抽出して水飴を作るという半年がかりの実習をやらされました。こんなことやって何のためになるんだというような“批判精神”もまだ乏しい時期でしたから、皆でワイワイ騒ぎながらけっこう楽しんでました。勉強というよりは遊びの一環という感じ…。
生物や化学の教科書を読めば、光合成とか炭水化物とかいうキーワードはせいぜい1ページ程度の記載で記憶できるものですが、日照時間を気にしたり、害虫を駆除したり、嵐で倒れた苗をもう一度起こしたりしながら芋を丹精した経験は、都会育ちだった“坊ちゃん”たちには貴重なものでした。
それで思い当たったのが、私自身が大学で生化学を教えた際、まず最初に植物の光合成と炭酸同化作用から講義を始めたことです。私は医学的に人体を教える立場だったわけですから、動物が動くためのエネルギーはいかに産生されるかを教えれば良かったのですが、動物は植物が作った炭水化物を原料にして生きるための化学反応を行なうというところから講義すると、学生も興味を持ってくれるし、何より自分自身が講義の準備の予習をしながら楽しかったですね。
教える方が楽しくなければ学ぶ方はもっと楽しくない。あれもこれも教えなくちゃいけないと、義務感だけで講義する教員の講義は、たぶん学生や生徒からすれば面白くないと思います。武蔵中学高校の教師は自分が楽しみながら授業をしていると書いてありました。教えたいから教える、話したいことを話す、生徒にもそれが伝わるのですが、結局その授業は教師が講義したいことが中心ですから、必ずしも大学受験に有益なものとは限らないわけです。
しかし私の芋作りや水飴作り、つまり植物から動物への食物連鎖の実体験が人体のエネルギー代謝の知識を深める基盤となったように、それは大学卒業以降の学びの土台を広げてくれることにつながっていくのですね。それが「自ら調べ自ら考える=答えは自分で探しなさい」ということなんだと、この本を読んで改めて…というか初めて実感しました。
他にもガラス管の一端をバーナーの高熱で膨らませて温度計を作る実習とか、人工衛星による気象観測も無かった時代に毎日定時でラジオ放送されていた各地の測候所や定点観測船から送られてくる気象データをもとに各自天気図を作成する実習とか、今でも記憶に残っています。
大学(特に東大)合格が最終目標ではない教育、それが私の母校の教育だったんだなと、これも改めて…というか初めて思い当たりました。私は自分の学生さんたちに人体の解剖学、病理学、生化学、生理学など総合して教えてきましたが、自分自身がかつて習った医学の知識を自分なりにまとめて深めていくことは楽しかったし、さらにその学ぶ楽しさを学生さんたちに伝えたいと思って講義できたことも幸福だった、そんな講義は自分では意識しなかったけれど、中学高校時代の先生方が私たち生徒にやってきて下さったことだったんだと、気付くのが遅かったけれど今はっきり分かりました。
武蔵中学高校の卒業生は同窓の者同士で群れないのが特徴、同じ母校のOBじゃないかと何の脈絡もなくすり寄って来る奴は何か魂胆か下心があるんだろうと勘繰ってきた私ですが(昔々裏口入学斡旋を強要してきたのがいた)、これからはOB風を吹かさない程度に静かに後輩たちのことも見守っていこうかと思います。
Facebookの怪
フェイスブック(facebook)とは2004年頃にアメリカのハーバード大学の学生が起ち上げたソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)のツールの一つで、最初は大学生限定だったものが、数年を経ずして会社組織となって全世界の利用者が数億人規模に達し、日本でも3000万人近い利用者がいるという巨大な情報ネットワークに成長しています。
最初の頃は、自分の誕生日パーティーにフェイスブックを通じて友人を招待したところ何千人もの人々が自宅前に集まってしまったという失敗談などがやたらに強調されていたし、もともと大学生など若者を対象として発足したサービスで、私たち年輩者には使い勝手が分からなかったりしたものだから、私はしばらく自分には無縁なものとして敬遠していました。
大学の教員になると、教え子たちから「先生もフェイスブックやりましょうよ」とか「○○先生もフェイスブックにいますよ」とかいろいろお誘いも受けましたが、それでもまだ二の足を踏んでいました。しかし一緒にキャンプをやっている福島県の小児科の先生からもキャンプ中に誘われて断り切れず、好奇心も手伝ってついに手を出してしまいました。今から3年前の2014年8月のことです。とりあえずこの年号をよく覚えておいて下さい。別に歴史の試験ではありませんけど…(笑)。
いったん始めてみると、当初むずかしく考えていた使い勝手もそれほどではなく、フェイスブックの友だちも歴代の教え子たち、一緒にキャンプをやるボーイスカウトやガールスカウトやYMCAのメンバーたち、病理医のオーケストラのメンバーたち、中学高校時代の部活の仲間たちなどを中心に、250名あまりにまで増えました。
当然のことながらそれだけ“友だち”がいると、フェイスブックの利用法も十人十色というか千差万別で、自分ではほとんど投稿しないで友だちのを読むだけの人から、今ここにいます、今これを食べましたなどと日常の行動や習慣を仔細に報告してくる人や、半年に1回くらい自分の思いの丈を切々と述べてくる人までさまざまです。SNSに対する利用者の多様性を見る思いで実に楽しいですね。
しかし最近では私のような年輩者までがフェイスブックに参入するようになり、もともとは大学生の若者をターゲットにしたネット上の社交場だったわけですから、そういう多様性を楽しむ寛容にまだ乏しい世代の一部の若手利用者たちの間から、年輩利用者に対する厳しい注文がついているのも事実のようです。若者の目を気にする年配の方は、ご参考までに『フェイスブックおじさん』と検索してみてはいかがでしょうか。私はそういう記事に書かれた批判もまた多様性の一つと思っていますが、やはり一種の社交場である以上、わざわざ不必要な波風を立てないに越したことはない。
ところで私が“フェイスブックの怪”と書いたのは次のようなことで、多様性などといって済まされるものではなく、考えようによっては非常に深刻な問題だと思います。
フェイスブックをやっていると、時々「Facebookの過去の思い出をシェアしませんか」などという文面で、過去に投稿した写真などを提案してくることがあります。「シェアする」にOKすると、1年前、2年前に投稿した写真が再び投稿され、“友だち”との間で「もうそんなに経つのか」とか「あの時は楽しかったね」などと過去の思い出を振り返って懐かしむことができる、まあ、そのこと自体は決して悪いことではないのですが、最近私のところへフェイスブックから過去の思い出として提案してきた写真が上の左側。
10年前にfacebookに投稿した写真をシェアしませんか。
ということでしたが、先ほども書いたとおり、私がフェイスブックを始めたのは3年前のことです。この写真は私が10年前にこの『Dr.ブンブンの休憩室』にアップロードしたてつのくじら舘の写真、あれあれと思っていたらさらに2週間くらい経った頃、今度は
11年前にfacebookに投稿した写真をシェアしませんか。
として、11年前にアップロードした船の旅に使った写真(上の右側)を提案してきました。
何でフェイスブックに参加する7年も8年も前の写真が…?つまりフェイスブックは私のこのサイトの内容や更新日などを把握しているということです。この『Dr.ブンブンの休憩室』のサイトも全世界に対してオープンなものですし、私や私の周囲の人々にとって不都合な内容は含んでいないはずですから、別にシェアしませんかと言われて困ることもないのですが、やはり何か薄気味悪くないですか。
これは単にフェイスブックの問題というよりは、今ではパソコンやスマホを通じて全地球規模でネットワークを張っているSNS全体の問題です。おそらくフェイスブックのサーバーも、私のサイトが入っているサーバーも、あるいはもしかしたらYouTubeだとかWikipediaだとかGoogleなどのサーバーも、必ずどこかで相互リンクしていて巨大なデータベースを形成している、その事実を改めて認識させられたできごとでした。
こういうビッグデータは使い方次第によっては人類の生物学的生存戦略を強化し、愚かな政治家に代わる直接民主主義を実現できると別の記事に書きましたが、逆にこういうビッグデータをある種のキーワードで検索すれば一定の思想傾向を持つ人間をピックアップできて、最悪の独裁者を利することにもつながります。両刃の剣のSNS、私たちの世代が大学生だった頃はまだ存在しておらず、ついこの四半世紀ばかりの間にヨチヨチ歩きから急速に発展・普及してきました。皆さんもただ便利で面白いものだという認識だけでなく、未来に向けていろいろ考えるべき時期にきているのかも知れません。
糖質vs脂質論争
今年(2017年)の8月、Lancetという医学雑誌の電子版に「糖質(炭水化物)の摂取を制限すべきか否か」という論争にケリをつける論文が掲載されたとかで、巷でもずいぶん評判になっているようだ。18ヶ国13万人以上の35歳から70歳の人々を平均約7年半、栄養学的に追跡調査したところ、糖質(炭水化物)の摂取量が増えると死亡率も増える、脂質の摂取量が増えると死亡率が減少する、まあ、ザックリ言ってしまえばこういう結論である。(Dehghan,M.
et al.: Associations of fats and carbohydrate intake with cardiovascular
disease and mortality in 18 countries from five continents (PURE): a prospective
cohort study. Aug.29, 2017)
我が国では、こういう話になると権威筋の糖尿病学会の医者が颯爽と登場して、良質の糖分を摂らなければダメだなどと偉そうにいう、またそれに反感を持つ医者たちが糖質は制限すべきだと主張する、確かに糖尿病学会が栄養モデル地区として栄養指導した自治体で、却って糖尿病が増加したという泣くに泣けない、笑うに笑えない話があったことは事実のようだし、私自身も糖質制限を心がけているが、糖質制限は是だ非だと、健康の専門家を自任する医者ともあろう者が半ばムキになって言い合いしていると、一般の方々はいったいどちらが正しいのか判断に困ることになろう。
どちらの陣営の医者も、自分の論拠の方が新しい知見に基づいている、あるいは患者さんや自分自身の体で実証済みだなどと言い張って互いに譲らないが、私に言わせれば、どちらの陣営にも人体のエネルギー代謝をきちんと生化学的に理解している医者はきわめて少ない。これはどちらの医者も不勉強というわけではなくて、私もこのサイトに時々書いているが、医学部ではこういう基本的な知識を教えるカリキュラムがまったく無いのである。
自分が学生時代に教わっていないから、糖質制限是か非かを論争しようと思っても、例えばLancetのような権威ある医学雑誌の論文を引用するか、ヒポクラテス時代のように経験的な観察に頼るしか方法はない。私自身も学生時代には教わっていない。ただこの10年ほど臨床検査学科の学生さんたちを教育するのにこれではいけないと思い、自分自身でもう一度基本的な生化学の教科書などを読み直して、自分なりに整理した糖質代謝、脂質代謝の知識があるので、専門外の一般の方々のためにこのサイトにまとめてみようと思う。
そもそも糖質(炭水化物)と脂質、どちらを摂取するのが良いかなどという問題は、ガソリン車とディーゼル車どちらが良いかという問題以上に複雑なのであって、医者でさえほとんど理解していない知識を一般の方々に分かるように解説できるかどうか自信はないが、一部の医者が自信満々に自説を述べているほど問題は単純でないということだけでもお分かり頂けたらと思う。
この図は私が学生さんたちの講義に使ったもので(拡大図)、学生さんたちには渡していない。その代わり講義中何度もノートに手書きで書き写して貰ったから、私の教え子たちはそんじょそこらのお医者さんたちよりはこの問題をよく理解しているはずである。
本当はこの図だけで1枠90分の講義8コマ分くらいになるのであるが、それを徹底的に端折って端折って端折り抜いて解説する。図の概略をあらかじめ述べておくと、この図全体がほぼ1個の動物細胞に相当し、中央やや下よりの青い楕円形が動物細胞特有の細胞内小器官のミトコンドリアである。図の左上からミトコンドリアに向かって赤枠や赤線でマークした化学物質のラインが『解糖系』という化学反応、ミトコンドリア内部に青線でマークした化学物質のサークルが『TCA回路(クエン酸回路)』という化学反応、すべて炭水化物による化学反応である。このTCA回路で一連の炭水化物の分子から水素原子(H+)が引き抜かれてミトコンドリアの膜のところで酸素と結合して水になるが、これが『電子伝達系(酸化的リン酸化、呼吸鎖)』であり、この段階で物凄い量のエネルギー(ATP=アデノシン3リン酸)が産生されて動物の生活を支えている。この図ではミトコンドリアの左端に書き加えてある。
とりあえずここからお話を始めていく。
(1)炭水化物しかエネルギーを産生しない
これは“糖質制限論者”には一見都合の悪い事実だが、動物が動くためのエネルギーは『解糖系』『TCA回路(クエン酸回路)』『電子伝達系(酸化的リン酸化、呼吸鎖』の3つの化学反応でしか産生されない。脂質もタンパク質もそれ自体はエネルギー産生の燃料にはならない。自動車はガソリンや軽油を爆発的に酸化させてエネルギーを産生するが、動物は炭水化物を酸化させてエネルギーを産生しているのである。
(2)タンパク質は糖新生で炭水化物になる
肉食獣はタンパク質が主食であるが、タンパク質を分解したアミノ酸からアミノ基を外すと炭水化物になるので、これを酸化してエネルギーを産生できる。この場合、体を動かすのに必要な分だけアミノ酸から炭水化物に変換するので、血液中に過剰な炭水化物(血糖)が余ることもなく、糖尿病の危険を回避できる。
炭水化物とアミノ酸の相互変換については別の記事にも書いたが、体内のアミノ酸はアミノ基を外すことによって、上の図のピルビン酸、αケトグルタル酸、スクシニルCoA、オキザロ酢酸などのどれかに変換されてエネルギー産生に利用される他、解糖系を逆行して基本的な糖質であるグルコースになることもできる。だから『糖新生』(糖を新しく作る反応)と呼ばれる所以である。
(3)肝臓の悪い人に糖質制限は危険
“糖質制限論者”は糖を制限した代わりにタンパク質でカロリーを補いなさいと言うが、タンパク質を分解したアミノ酸を炭水化物に変換するためにはアミノ基を外さなければいけない。外れたアミノ基は体にとって猛毒のアンモニアになるが、健康ならばこれは肝細胞で『尿素回路』という化学反応によって解毒される。しかし肝機能の低下した人ではアンモニアの解毒が追いつかず、最悪の場合は昏睡から死に至る。肝臓の悪い人は肉をあまり食べるなというのはこの理由。ちなみに『尿素回路』も上の図でミトコンドリアの右側に書いてあり、『TCA回路』で発生した二酸化炭素を利用してアンモニア解毒の第一段階とするが、話が複雑になるので今回は省く。
(4)脂肪の過剰は体を酸性化する
中性脂肪は上の図でミトコンドリアの上側右に書いたとおり、グリセロール(グリセリン)と脂肪酸に分解され、グリセロールの方はジヒドロキシアセトンリン酸という物質に変換されて『解糖系』もしくは『糖新生』に利用されるが、1分子の中性脂肪から3分子産生される脂肪酸の方はミトコンドリア内部に入って『β酸化』という化学反応でアセチルCoAになり、これが『TCA回路(クエン酸回路)』に入ってエネルギー産生に関与する。これも別の記事に書いたことがある。
しかし脂肪しかエネルギー源として利用できないと、『β酸化』で大量のアセチルCoAが産生されるが、これでは『TCA回路(クエン酸回路)』がいわばエンジンの空焚き状態になってしまうのである。そこで過剰なアセチルCoAはケトン体という物質に変換されて血液中に放出される。ケトン体は心臓や脳の細胞に補足されてそこでエネルギーとして利用されるが、放出されるケトン体があまりに多いと体が酸性に傾き(これをケトアシドーシスという)、重篤な場合は意識不明になることもある。
(5)エネルギー源は家計の貯蓄と同じ
結局はエネルギー源として体内で燃えているのは炭水化物であるから、極端にタンパク質だけ、あるいは脂肪だけ摂取していれば良いというものではない。糖質摂取の増加に伴って死亡率が上昇するのは、おそらく血液中に過剰な炭水化物(大部分はグルコース)がだぶつくために、血液に溶け込んだ糖質による浸透圧の増加で血管壁が損傷を受けやすくなるためであろう。
しかしこの飽食の時代、周囲に甘くて美味しい炭水化物が溢れているのに、わざわざ肉食獣のように糖質を敬遠しているだけというのも面白くないという人のために申し上げる。エネルギー源は家計と同じである。家計も国や自治体の財政も金が無ければ動かない。個人の家計の場合、現金・ATM預金・定期預金の3区分を考えると判りやすい。エネルギー源としては現金がグルコース(血糖)、ATM預金がグリコーゲン、定期預金が中性脂肪に相当する。
グリコーゲンは今回は説明しなかったが、肝臓や筋肉に蓄えられているグルコースの重合体で、必要に応じてグルコースに変換できる、カードがあれば現金化できるATM預金のようではないか。
人体は炭水化物を摂取して血液中にグルコースがどっと流入してくると、それを優先的に使う。アルバイトして現金を受け取っておきながら、一方でカードでATMから現金を引き出す人はいないだろう。手持ちの現金もATM預金も残額が無くなると中性脂肪が動員される、これもやむなく定期預金を切り崩して急場を凌ぐのに似ている。定期預金もなくなると家や車を手放して現金に換えるが、これは体の構成成分であるタンパク質を『糖新生』で分解するのと同じ。
さて甘くて美味しい炭水化物、これを食べて血液中にグルコースが増えてきたら、血管壁を損傷する前にさっさと使ってしまえば良いのである。稼いだ現金だっていつまでも手元に置いておけば落とすかも知れない、泥棒の心配もしなければいけない、悪友に図々しくたかられるかも知れない(笑)。
体を動かしてエネルギーを消費し、摂取した過剰なグルコースはさっさと『解糖系』から『TCA回路』と『電子伝達系』で燃やしてしまうに限る。次の食事までの絶食時間中に必要な分はグリコーゲンとして貯蔵し、それでも余った分は中性脂肪で長期的に保存しておけば、過剰なグルコースが血管壁を傷めることもない。
食べて動かないのが一番よくない、やれ糖質制限だ、高タンパク食だと食事内容をクヨクヨ気にしすぎて憂鬱になるよりは、食べた糖質はさっさと消費する生活こそを私はお勧めするが…。ただし口で言うほど甘くはないぞよ。
樹の寿命
ゾウは長生きで80歳くらいまで生きるが、小さなマウスは2〜3歳までしか生きない。一般的には身体の大きな動物ほど寿命が長いということらしいですが、人間は体格の割にはゾウと同じくらい長生きですね。うまく生きれば120年くらい生きるそうですが、なんで人間の寿命は桁違いに長いのでしょうか。
ずいぶん前に人生30年という記事の中で、人間は神様からウマの分とイヌの分とサルの分の寿命をわけて貰ったから80年近くまで生きるようになったと書いたことがありましたが、まさかそんな昔話みたいなことがあるはずないです(笑)。ある学説によると、ヒトの祖先が肉食を盛んにするようになったため、食餌に混じっている病原体に対する免疫機能が著しく発達したこと、また肉にありつけない飢餓時に備えて体内に中性脂肪を効率よく貯蔵できるようになったことが、長寿化を促したということです。必ずしも十分に納得できる説だとは思いませんが、確かに侵入する病原体に対する攻撃能力と、その力を維持するエネルギー源の備蓄能力が完備しているということは、長寿の必要条件であることは確かでしょう。
しかしその長寿の人間どもの営みを何世代、何十世代にもわたって見つめてきた樹木の存在には畏敬の念を禁じ得ませんね。神様から貰った寿命がそれだけ長いのだから…と言ってしまえばそれまでですが、もし彼らに心があればいったい何を思っているのか、そういう樹木の前に立つとつい考えてしまいます。
その前に樹の寿命=樹齢の測定(推定)はどうするのか。よく屋久島の縄文杉など樹齢2000年とか3000年とか言いますが、どうやって数えたのでしょうか。伐採して幹の年輪を数えるのが一番正確だそうですが、まさか全国各地の御神木や老木を片っ端から切り倒して樹齢を調べるわけにはいきません。それにそういう老木で自然に倒れた切り株を調べてみても、中心部は腐食していて年輪は残っていないことが多いそうです。
科学的な推定方法としては、樹の幹に針を打ち込んで細いサンプルを採取し、それに含まれる年輪を数えることも行われるらしい。これは人間の肝臓や腎臓や乳腺や前立腺に針を刺してサンプルを採取する針生検と似ていて、我々病理医としては興味深いですが、これとて幹の中心が腐食していてはどうしようもない。
あと下の方の枝が折れた時にその年輪を数えるとか、考古学や地質学で年代推定に用いられる放射性同位元素を測定するとか、周囲の樹木の発育速度から推定するとか、いろいろ方法はあるそうですが、けっこう歴史的な書物や寺社の記録、民間伝承に残された記録に基づいたものが意外に正確なのだそうです。日本では近世以降、天皇陛下、皇后陛下、皇太子殿下のお手植えの樹木というものが各地にありますが、何百年、何千年後まで千代に八千代に我が国が栄えていけば、そういう記録が古木の樹齢の揺るぎない証拠になるわけですね。
鶴岡八幡宮の大銀杏も、鎌倉3代将軍源実朝を暗殺した公暁が隠れていたという伝承があるので、少なくとも鎌倉時代には大人が隠れられるくらいのサイズに育っていたという推定根拠になったわけですが、残念ながら平成22年に倒れてしまいました。やはり木の幹は中心が腐食して空洞になっていたため、年輪を数えることはできなかったそうですが、おそらく平安朝後期から源平合戦を経て武家社会へ、さらに戦国時代から泰平の江戸時代、開国して大戦争を繰り返しつつ現代へと、数えきれないくらい多くの年号をくぐり抜けてきたこの銀杏の樹がいったい我々に何を遺言したのか、ちょっと聞いてみたいと思ったものでした。
東京都には樹齢1000年を超えると伝えられる超古木は少ないですが、数百年昔を知っている樹には時々出会うことがあります。上の写真は池袋の近く、雑司ヶ谷の鬼子母神境内にある公孫樹の古木で、樹齢600年以上と記してありました。室町時代の応永年間に僧の日宥が植えたという伝承が基になっているようです。もし本当なら、遠い京の都の戦乱の噂を聞いているうちに、いつの間にか自分の生えている江戸の地が日本の政治の中心になり、幕末動乱から東京大空襲なども見てきたわけですね。本当にインタビューしてみたい。
ちなみに公孫樹はイチョウ、鎌倉のは銀杏と書かれることが多いが、鬼子母神のは公孫樹と書かれている、イチョウはけっこう樹木の中でも長生きの部類らしい。イチョウと並んで長寿の樹木にケヤキがありますが、私の中学・高校の校舎の中庭には大きなケヤキ(大欅)がありました。今では大学の校舎になっていますが、中学・高校の校歌(武蔵讃歌)の2番の歌詞はこの大欅を歌ったものです。
庭面にそそる大欅
千代の髪振り語りけり
野辺にかちうた歌いてし
ますらおのこはたけくもありき
というものでしたが、文武両道を歌っているようで私は好きでしたね。何となく戦国時代の武士の若者が武蔵野の丘陵を馬で駆け回っているのを見つめていた古木というイメージでしたが、この記事を書いたついでにちょっと調べてみたら、その推定樹齢は意外に若く200年以上ということでした。ちょっと拍子抜け(笑)。
満席のエチケット
先日練馬文化センターで全席自由席の演奏会があり、私もチケットを入手して出かけましたが、何と当日券も売りきれて完売、座席は1階席も2階席もほぼ満席でした。私は少し遅く入ったので1階には着席できませんでしたが、2階席から見ていると、明らかに単独で聴きに来ているのに、隣の椅子に荷物を置いて2人分座席を独占していると思われる方がチラホラ見受けられました。その後、会館の係員が座席を詰めて座るように通路を回ってアナウンスしていましたから、たぶん開演までには後から来られた方に席をお譲りしたとは思いますが、やはりちょっと混み合ってきたことを察したら、すぐに隣の席を空ける心遣いは必要かと思います。
これはコンサートホールなどに限らず、特に電車やバスなどの交通機関でも同じことです。
「座席は詰めて1人でも多くの方が座れるようご協力お願いします。」
というアナウンスがほとんどすべてのバスや電車の車内で流れるのをみても分かるように、まだまだ2人掛けの座席に1人で座って、隣に自分の荷物を平然と置いている乗客の方が多い。もちろん車内に十分な座席の余裕がある時ならまったく構いませんけれど、座席が残り少なくなってもまだ隣の席を空けようとしない人は困りますね。
確かにバスや電車で隣の座席に見知らぬ他人が座ると窮屈です。特に体格が良すぎて圧迫感のある人とか、コンコンゲホゲホ咳をする人とか、香水や焼肉や煎餅の臭う人とかに座られたら地獄、その気持ちは分かります。脚を組んだり、ヘッドフォンからシャカシャカ音を洩らすような奴は論外ですが、そうでなければ、見知らぬ同士が隣り合うのもお互い様という寛容な気持ちが欲しいと思います。
そんなことを考えていたら、昔ラジオで聞いた英語の小話をふと思い出したのでご紹介します。あまりに目に余る人に対してやってみたくなるような話です。確か文化放送のラジオ講座の1つ前の番組『百万人の英語』でJ.B.ハリス先生が教材にされていたテキストで、大体こんな話でした。
トムだかジムだか、たぶんもっと別の名前だったと思うが、列車に乗り込んだが座席が無い、でもよく見たら2人掛けの座席に紳士が1人で座って隣にトランクを置いていたので、「その席は空いてますか」と訊くと、ここは友だちが来るから…と紳士はすましたもの。やがて発車ベルが鳴って列車が走り始めたがその席は空いたままだったので、トムだかジムだかもっと別の名前の奴だかはいきなり窓を開けて、座席に置いてあったトランクを列車の外へ放り出した、慌てる紳士に対して、トムだかジムだかもっと別の名前が、
「残念ながらあなたの友だちはこの列車に乗り遅れたらしいから、荷物をホームに残しておいてあげよう。」
と言ったのがオチなわけです。
1人でも多くの人に座席を譲るという当たり前のエチケットも知らない連中に、1回でいいからやってみたいですね。
食べスマホ
もうずいぶん長いこと連載している雁屋哲さん原作の『美味しんぼ』(小学館)という人気漫画があります。主人公の山岡士郎が恋人(後に夫婦)の栗田ゆう子と共に東西新聞社の記念事業『究極のメニュー』の企画を主導して、実の父親である海原雄山が企画する帝都新聞社の『至高のメニュー』に対決していくという基本的なストーリーの中に、他にもいろいろな食材や食文化に関するエピソードを散りばめた漫画で、現在長期休載中でそろそろ最終回という話も聞きました。1983年に連載開始といいますから、ずいぶん長寿漫画のわけですね。
そもそも料理を扱う企画というものは、かつてのテレビ番組の『どっちの料理ショー』などもそうですが、どんな美味しそうな食材や調理法を見せつけられても、読者や視聴者は絶対にそれを味わうことができない、そういうフラストレーションの溜まるものはなるべく見ないようにしておりました(笑)。
しかもこの『美味しんぼ』では、あの“おふくろの味”が出せない嫁とはもう離婚だとか、こんな物を食べる友人とは絶交だとか、中でも私が一番よく覚えているのは、納豆を混ぜる前にタレをかけるような奴とは一緒に仕事できないとか、私も「なるべく見ない」などと言いながらけっこう読んでいるわけですが、この漫画の登場人物たちは、たかが食べ物一つのことで何でこんなに人生が引っくり返るような大騒ぎをするんだろうかと、まあそれが可笑しくて読んでいたようなこともあったわけです。
終戦時の海軍大臣であった米内光政提督は、出された食事が美味しかったら調理人を褒めて店を出るが、美味しくなかったら黙って食べて一切文句は言わないと言っていたそうですが、私もこちらの主義に賛成ですね。いちいち離婚したり絶交したり転職したりしていては人生面倒くさい。体内に取り込んだ栄養素を使ってもっと他にやるべきことがたくさんあるはずです。それに経済状態や健康状態によって満足な食事も取れない人たちのことも考えてあげなければいけません。
しかし先ほど「たかが食べ物一つ」と言いましたが、私には最近どうしても許せない光景があるのです。学生や会社員などが一人で入って食べることも多い店でのことですが、スマホを見ながら食べている奴の姿をよく見かける。注文の品を持ってきて貰うまでの手持ちぶさたな時間にちょっと画面を確認しているのはいいのですが、食事が目の前に出されてからも一心不乱にスマホを覗き込んでいる、こういう人たちにとっては調理人が作ってくれた料理など本当に「たかが食べ物一つ」なんでしょうね。
お前が作った料理などよりスマホの情報の方が面白い…と言っているようなもので、これは調理人に対して失礼なばかりでなく、食材として私たちに生命をくれた動物や植物たちに対する冒涜でもあると思います。こんな作法は『美味しんぼ』の精神にも反するし、米内光政提督の主義にも反します。店の調理人たちは、自分の作った食事を目の前で上の空で味わわれることに何の抵抗も感じないのでしょうか。まあ、中には店内に漫画の単行本まで揃えて、客が漫画を読みながら食事をしていても気にしない方もいらっしゃいますが、家畜から金を取って餌を与えているとでも割り切っているのでしょう。『美味しんぼ』の単行本もあったら物凄い皮肉ですね。確かにひき肉でなく、皮肉料理もまた面白いか(笑)。
まあ、若い人たちに申し上げますが、食べ物を口に運びながらスマホを見ている人とは、絶対に人生を一緒に歩いてはいけません。そういう人たちはたぶん…というか必ず、現在の熱い恋愛感情が冷めた後には、あなたを見ずにスマホの画面ばかり見ていると思います。
高校時代の先生がおっしゃっていたことですが、もし今食べている食事が人生最後の食事だと分かっていたら脇見をしながら食べますか?料理の究極の姿とは、豪華な食事であれ質素な食事であれ、調理人が全身全霊で作った物を、全身全霊で味わうべきものです。たった1回の人生の伴侶に対する姿勢と共通するものがあるはずです。
日本国民全員集合
今年(2017年)7月1日の日本の人口は1億2678万6千人(確定)だったそうで、今月(12月)の頭にはそれが1億2670万人にまで減少しているそうです。世界で人口が多い国は、中国とインドがダントツの1位2位でそれぞれ13億人以上、3位のアメリカ合衆国は3億2410万人とかなり差をつけられており、さらに2億人代がインドネシアとブラジル、1億人代がパキスタン、ナイジェリア、バングラデシュ、ロシア、メキシコと続き、日本は僅差でベストテン入りを逃しているようです。
もし日本人が小学生時代のように「前へならえ」で大体50センチ間隔で一列に整列すると、6万キロ以上の長さになりますが、日本列島の最北端と最南端の距離が3000キロとちょっとだそうなので、ほぼ国土を南北に10往復するほどのまさに“長蛇の列”をなすわけですね。この長蛇の列を真っ直ぐに伸ばすと地球を1周半することにもなります。
この列島10往復分の日本国民の列を先頭から順番に「1人…2人…3人…4人…5人…(以下省略・笑)」と数えていくのに果たしてどのくらい時間が必要でしょうか?ちょっと考えてみて下さい。赤ちゃんも高齢者も皆と同じように列に並んで貰い、計数中は人口の増減はないものとし、6万キロ歩いても疲労は感じず、食事や睡眠のための休憩は取らずに数え続けるものとします。
そうすると人間の頭数を数えながら少しゆっくり歩く速さが大体時速4キロくらいですから、列島10往復するとほぼ1万5000時間、すなわち625日ですか。何と1年8ヶ月もかかるんですね。…って本当にそれでいいですか?(笑)私はもっとずっとかかるような気がします。
たとえば7963万3697人目に並んだ人を数えるのに、
「ななせんきゅうひゃくろくじゅうさんまんさんぜんろっぴゃくきゅうじゅうななにん…」
と声に出してカウントするのに私は平均5秒ちょっとかかりました。しかも50センチ先に並んでいる次の人は、
「ななせんきゅうひゃくろくじゅうさんまんさんぜんろっぴゃくきゅうじゅうはちにん」
さらに次の人は、
「ななせんきゅうひゃくろくじゅうさんまんさんぜんろっぴゃくきゅうじゅうきゅうにん」
です。
5000万人目とか1億人目とか切りのいい数字の後はしばらくカウントも楽ですが、1人カウントするのに数秒かかる番号が続くところでは、1分間にほぼ12人しか数えられないことになります。ということは分速6メートル、時速360メートルとなり、列の先頭で数え始めた頃の速度の1/10以下に落ちてしまう。だから日本国民総出の列の最後尾まで数え終わるまで10年近くかかるんじゃないかと思いますが…。
ちょっと頭の体操をしてみましたが、もう2年くらい前に送られてきた12桁の個人番号って、反対した方も反対しなかった方ももうお忘れになっているかも知れませんね、現在どのように運用されているんでしょうか。あの番号ひとつ提示すれば面倒な役所の手続きも無くなりますとの触れ込みでしたが、私も高齢者の側に足を突っ込む年齢になり、さらに今年は定年退職で、納税やら健康保険やら介護保険やらずいぶん面倒な書類をやたらに書かされたような気がします。番号ひとつですべて国家が個人を把握してるんじゃなかったでしたっけ?
気高き蜜柑の不思議
お正月の果物と言えばみかん(蜜柑)ですね。お供えの鏡餅のてっぺんには必ずみかんがチョコンと乗っかって彩りを添えていますし(本来は橙という別の柑橘類だが蜜柑で代用されることも多い)、昔はほとんどの家庭の居間にあったこたつ(炬燵)の上にはみかんが山盛りに積んであって、暖かい炬燵から出なくても甘いみかんで小腹を満たすことができたものです。
ナイフを使わなければ剥きにくい堂々とした風格の漂うアメリカのオレンジと違って、日本のみかんは簡単に手で剥くことができて、何となく庶民的で可愛いですね。
日本のみかんは正式には温州蜜柑といって、中国の蜜柑産地の温州に由来する名称だそうですが、遺伝子を調べるとどうも南九州あたりに入ってきた蜜柑の木が突然変異したものらしいと言うから驚き・桃の木・蜜柑の木です。
日本の三大産地は、第一位が江戸時代に紀伊国屋文左衛門が命懸けで船で江戸に運んだという伝説もある紀州蜜柑の和歌山県、第二位が瀬戸内の温暖な気候に育まれた伊予蜜柑の愛媛県、第三位が石器時代の人骨(三ヶ日原人)が発見されたと小学校の教科書にも載っていた土地の三ヶ日蜜柑に代表される静岡県。私も浜松に勤務していた時期には自家用車でよく三ヶ日のあたりもドライブしたものですが、蜜柑の季節になると美味しそうな果実がたわわに実っているのが眺められました。
さて年末になると我が家に蜜柑を箱詰めで送って下さる方が何人かいらして、毎年日本各地の蜜柑の競演が楽しみですが、今年はさらに私が若い頃に3年間勤務した静岡県の三ヶ日蜜柑も加わって、本当に蜜柑づくしのお正月を楽しめました。ありがとうございました。少しはご近所にもお裾分けしましたが、私もカミさんも柑橘類は大好物ですから、正月三が日を過ぎたらもうどの蜜柑箱も底の方に1/4くらいずつしか残っていない情況です。
ところでその箱詰め蜜柑ですが、私には昔から不思議に思っていることが1つありました。数十個から場合によっては100個近い蜜柑が詰め込まれて、列車やトラックで運ばれて来るわけですね。蜜柑の箱を開ける時はワクワクした楽しみもありますが、同時に一抹の不安もあります。蜜柑にカビが生えてたらどうしようという不安です。箱詰めする農家の方も、出荷する商店の方も、輸送する運送会社の方も、細心の注意を払って送り届けて下さっているのでしょうが、それでもどうしても数十個に1個くらいは真っ青にカビが繁殖してしまっている蜜柑が混じっているのが普通です。今年我が家に届いた蜜柑箱はほとんど無傷でしたが、1箱だけ手違いで年末を越してしまい、可哀そうなことに5個くらいダメになっていました(合掌)。
私が以前から不思議に思っていたのは、蜜柑箱の中の蜜柑のカビの付き方です。ギッシリ詰まった蜜柑の1個が青カビの胞子をばらまくくらい真っ青になって腐っているのに、その隣にいる蜜柑はまったく無傷なことが多いのはなぜか。肌を接して並んだまま暗い箱の中で何日間か一緒に過ごしたわけですね。自分の皮の表面は隣の蜜柑がばらまいた青カビの胞子がビッシリこびり付いているのに、一皮剥けば中の果実はまったく問題ない。これはなぜなのか?
人体でもカビ(青カビではないが)が感染して病気を起こすことがあり、これを真菌感染症といいますが、カビ(真菌)に詳しい専門家に聞くと、カビはある意味でがん細胞よりも始末が悪いそうです。がん細胞は身体を破壊して浸潤していくにも血管とか神経とかは避けていく傾向があるが(少しは遠慮しているつもりか)、カビは自分の進行方向にあるものは何でもかんでも容赦なく破壊しながら浸潤するらしい。
ということは蜜柑箱の中でぎゅうぎゅう詰めに並んでいた隣の蜜柑との隙間など、カビは簡単に越えて行きそうなものですが、何故かそうはならない。私はこれまで、蜜柑箱の中で最初にカビの攻撃を受けた蜜柑は何らかの物質を放出して、仲間の蜜柑が腐らないように防衛してくれているのかなと漠然と思っていました。つまり崇高な自己犠牲の精神の権化ですね。
宮沢賢治の小説『グスコーブドリの伝記』を彷彿とさせます。主人公のグスコーブドリは大気中の炭酸ガスを増やして気温を上昇させ、飢饉を救うために火山を噴火させる計画を立案、最後に火山島に残って装置を作動させ、自爆同然に運命を共にする自己犠牲の役目は自ら買って出る、というストーリーです。2006年にリメイクで映画化された小松左京原作の『日本沈没』の草g剛のラストシーン、潜水艇で日本列島直下のプレートに仕掛けた爆薬を起爆して自らも帰らない役こそ、まさにグスコーブドリですが、今は蜜柑の話でしたね(笑)。
蜜柑は自分ただ1人(1個)がすべてのカビの攻撃を一身に受けて周囲の仲間を守っているのではないか、まるで奥州平泉で主君の源義経を守って追っ手の前に立ち塞がり、壮絶な立ち往生を遂げた武蔵坊弁慶のような天晴れな蜜柑ではないか、自分もこういう蜜柑のような生き方・死に方をしたいものだと何年も前から考えていました。
しかしちょっと待てよ…と。グスコーブドリには地域の農民たち、武蔵坊弁慶には源義経を守るということに精神的な価値を見出せる生き様や死に様があったわけですが、1個の蜜柑に仲間の蜜柑たちを守る生物学的な義理が何かあるのだろうか…と。
蜜柑の木は動物や鳥どもに甘い汁を吸わせる代償として種子を遠方へ運んで貰うために果実を実らせるわけです。1個や2個の果実がカビようが腐ろうが蜜柑の木にとっては痛くも痒くもない、もともと木にはそんな神経はないが…(笑)。何千個も実らせた果実の1個か2個でも何年後かに芽吹いてくれれば蜜柑の木の生存戦略は達成されるわけです。
そんな鉄砲玉のような蜜柑が箱の中でまるで武蔵坊弁慶のようにカビてしまう理由、今年はちょっと気になったので調べてみたら何のことはない。箱詰めにされた蜜柑は、下の方に詰められたものには当然のことだが重量が加わる、それで押し潰されて変形すると中の薄皮が破れて果汁がジュワッと漏れ、それが表面の硬い皮の表面までしみ出してしまう、蜜柑の表面の硬い皮は本来カビなどの攻撃に対して非常に堅固な防壁になっているそうです。人間の皮膚と同じですね。しかしここをカビの好む果汁が覆ってしまえばひとたまりもなく陥落してしまう。
だから表面にまで果汁がしみ出した蜜柑はあっと言う間にカビの標的となって真っ青になってしまうが、隣にいる蜜柑は自分の果汁がしみ出さない限り堅固な防壁に守られて無傷でいられるのだそうです。つまり内面の破綻さえ起こさなければ外敵恐るるに足らずということです。
人間の場合も内面の心を強く持って、ストレスのかかりにくい場所にいることが大事なのかな…と。何だか正月早々少し性格が悪くなったような気がします。
アルファベット筆記体
岩木一痲さんという人が書いた『がん消滅の罠−完全寛解の謎−』(宝島社文庫)という医療ミステリー小説があります。作者は医師ではないようですが、国立がん研究センターや放射線医学総合研究所で医学研究に従事された経験をもとに、がん治療を題材にした物凄いミステリーをお書きになったものです。DNAって何さ?プロ野球チームの名前?…というような生物学音痴の方には難しいと思いますが、多少とも高校で習うくらいの知識のある方には面白いんじゃないでしょうか。早期肺がんが全身転移して、それがまた完全寛解(がんが消えてしまうこと)するという非常に希有な症例が、選りも選って同じ内科医のところに集中するというストーリーで、医者の目から見るとこの小説がどういうトリックに落着するのかという興味で一気に読み終えてしまいました。
まあ、ミステリー小説のネタばらしなどという野暮なことはいたしませんから、ストーリーについてはここまでにいたしまして、この本の中にちょっと気になる舞台描写があったので書いてみます。この小説の主人公は“築地の日本がんセンター”の内科医、“日本がんセンター”の描写は実在の“国立がんセンター”そっくりで、知っている人が読めばどこがモデルになっているかは一目瞭然、あとストーリーの最初の方に“本郷の東都大学医学部”も出てきますが、これも一目瞭然(笑)、その“東都大学医学部”で主人公が大学院時代、研究の指導教官の部屋を訪ねる場面があるのですが、ここに次のような描写があります。
夏目はふと、部屋の端に設置されている大きなホワイトボードに目を向けた。研究に関する議論が白熱してきた時などはアイディアをまとめるために用いられるものだ。先生が一人でホワイトボードに向かっている姿を夏目は何度も目にしていた。
今、ホワイトボードに記されている内容は、先生が一人で書いたものだろう。全てが先生の筆跡で書かれているし、誰か他の人間が目にすることを想定していない悪筆で、特に大部分を占める、筆記体で書かれた英語部分についてはほぼ解読不能だった。
筆記体というのは英語のアルファベットの崩し字のことです。ちょっとサイトを検索するといろいろ筆記体の画像が出てきますが、上の表は学研出版のサイトに出ていたのを拝借しました。音楽の五線譜ならぬ四線、下から2番目の線が太く描いてある、これが英語の筆記体を練習するためのノートでした。懐かしいなあ…
…って私たちの頃は中学生で初めて第一外国語の英語を習い始めた時に、必ずこのアルファベットの筆記体を覚えさせられたものです。活字体というかブロック体の方は小学校でローマ字を習った時に覚えさせられましたが、1文字1文字カチッカチッと書いていくブロック体と違って、筆記体は1つの単語を続けて流れるようにサラサラッと書いていくわけですね。だからローマ字しか知らなかった生徒から見ると、まるでミミズがのたくっているようにも思えてしまうのですが、いったん覚えてしまうと実に機能的で美しいと感じるようになりました。1つの単語を書くのに必要な時間が半分くらいで済む。
私が最初に異変に気が付いたのは大学で学生さんたちを教えていた時のことです。私の講義は板書が主体でしたから、英語も覚えた方がよい専門用語などは筆記体でサラサラッと書いていたのですが、ある日1人の学生さんが手を挙げて、「先生、読めないんです」。
「エッ…!」
最近の若い世代の人たちが筆記体を習っていないことを初めて知りました。『がん消滅の罠』の小説の中では、“東都大学医学部”の出身であろう夏目医師も解読不能とのこと、先生が悪筆だから読めなかったなどと言っていますが、本来アルファベットの筆記体とはミミズがのたくるようにサラサラッと書き流す字体だから、hとkとか、uとvとか、似たような字の法則さえ覚えてしまえば悪筆かどうかなど関係ないわけです。
学研出版のサイトを読むと、2002年の中学校学習指導要領で筆記体が必修ではなくなったとのこと、またゆとり教育の影響ですか。しかもこの傾向は日本人の“東都大学”の大学院生ばかりでなく、アメリカ人でも筆記体を使いこなせる若者は少数派になりつつあるようです。アメリカの高校生に実施する大学進学適性試験(SAT)の全受験生のうち、筆記体で答案を書いたのはわずか15%に過ぎなかったと書いてあります。
パソコンやワープロの普及によって文字を手書きする必要性がほとんど無くなったのが原因と分析されていますが、まったくそのとおりだと思います。私の講義だって、他の進歩的な教員はパソコンを使った便利な教育ソフトなど使用してましたから、筆記体など必要ないわけです。ブロック体(活字体)では、限られた講義時間内に板書する時間がもったいないので、私も学生さんに教える英語の専門用語は必要最小限に減らしましたが、ではパワーポイントなど使ってスクリーンに次から次へとブロック体の英単語などを流していけば、学生さんはもっとたくさんの専門用語を覚えられたかというと、そんなことはないと思います。
人類は言葉を使って仲間同士のコミュニケーションを取りつつ協同作業ができるようになった、文字を発明して自分の経験を時空を越えて伝達できるようになった、肉体的には非力な人類という種族が地球上で繁栄を勝ち得る最大の原動力となったこれらの機能を、今どんどん文明の利器に依存するようになりつつある、これは種族の“滅びの徴候”だと思います。恐竜は身体を巨大化させることで他の種族を圧倒して繁栄しましたが、結局その形質を最大限に進化させたところで、環境の変化に適応する能力を失って滅んでしまった。人類もその頭脳が産み出した機械の力に依存するところが大きくなり過ぎた結果、もうすでに適応力の大部分を失っているのではないでしょうか。
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