たかが論文、されど論文

 大きなニュースに隠れて目立たなかったが、私たちのような仕事をしている者にはちょっと関心のある事件が報道されていた。東京のある私立医科大学の52歳の元准教授が、麻酔学に関する少なくとも172編の論文のデータを捏造していたことが露見したために、麻酔科学会も処分を検討していたところ、本人から先に退会届が出されていたという記事である。

 麻酔科というかられっきとした臨床医、しかも実地経験を積んで熟練すれば医師としての評価も上がる分野なのに、何故そんなにデータ捏造してまで論文の数を増やしたかったの…?というのが、私の偽らざる感想であるが、臨床医の経験者なら普通は誰でもそう思うだろう。
 私立医科大学の50歳代の准教授ということだから、最後にもう一段ランクの高い地位に就きたかった、そのためにはとにかくたくさんの論文を発表したかった、ということだろうが、それにしても170編以上の論文がすべてデータ捏造というのはあまりに異常だ。

 科学論文のデータ捏造事件はこれまでにも幾つもあった。福岡伸一先生の『世界は分けてもわからない』(講談社現代新書)という本の中に、1980年代初頭に世界のガン研究者を震撼させた“スペクター事件”の顛末が興味深く書かれている。発表当初はノーベル賞クラスとまで言われた研究論文が、実はデータ捏造だったと露見した経過がwikipediaなどに書かれているのとやや違っているので、関心のある方には一読をお勧めする。
 要約すれば、細胞がガン化するためには細胞内の酵素(もっと専門的に言えばリン酸化酵素)が何段階にもわたって関与するという指導教授の仮説を、大学院生のスペクター氏が見事に実験で証明した、指導教授はスペクター氏を研究室で最も信頼してしまうが、実は彼の実験自体が巧妙に仕組まれた捏造だったのである。

 福岡先生はしかしスペクター氏を“とんでもない奴”として責めていない、むしろ同情的でさえある。細胞のガン化に多段階のリン酸化酵素が関与するという仮説そのものは結局のところ正しかったわけで、それを何とか実験で証明したい、ガン化の真理を自分の手で解き明かしたい、そういう科学者の性
(さが)がスペクター氏をして実験の“捏造”に手を染めさせ、指導教授(ボス)をはじめ世界中のガン研究者たちをしてこの“データ”を賞賛せしめたのだ。
 福岡先生が言いたいことは次のようなことであろう。科学者が真理に憧れれば憧れるほど、また自分の仮説が魅力的であればあるほど、「自分の見たい物」を事象の中に見ようとしてしまう、それがちょっと踏み間違えれば“捏造”と言われても仕方がない事態になる。

 私は福岡先生の前記の著書を読んで、学生さんの遺伝学の講義でも使うエピソードを思い出した。まだ遺伝の仕組みなどまったく分からなかった時代、生物の素は父親側(精子)にあるのか、母親側(卵子)にあるのかという論争の真っ最中であった。その頃、発明されたばかりの当時のハイテク機器であった顕微鏡を用いて精子を観察したところ、あるオランダ人科学者は精子の頭部の中に小さな人間が胎児の姿勢で座っているのを認め、精子こそ人間の素だと主張した。
 実はこの話は福岡先生も別の著書に書かれているそうだが、このオランダ人科学者の観察結果は明らかに捏造なのである。しかしこれを“捏造”だと言って責める人は誰もいないだろう。科学者は魅力的な仮説に取り憑かれれば、さまざまな事象の中に「自分の見たい物」が見えてしまい、それで自分の仮説を裏付けてしまうものである。

 しかしここで最初の話題に戻るが、今回のニュースで170編以上の論文のデータに捏造を加えた人物は普通の自然科学者ではない。麻酔科医というバリバリの臨床医である。福岡先生の言うように、「真理を探究して解き明かしたいという欲求のために“ついやっちゃった”」というレベルの話では済まされない。
 医者が捏造したデータを論文雑誌に掲載すれば、それを読んだ他の医者が明日にでもそれを自分の患者さんに応用してみようと考えることもあり得る。重大な捏造であればただちに患者さんの生命や健康に直結する恐れのある行為である。

 そもそも大学病院だとかセンター病院が医師を採用するに当たって、応募者の論文の数を重視する傾向が強いから、今回のような事件が起こるのも無理ないのではないか。私が個人的に見聞きする患者さんの誤診は、有名な大学病院に行けば少ないというものではない。むしろ逆である。大学病院の医師は論文を書くためにどんどん専門化していって、現在の一般的な医療水準はかなり危険なものになっていることを、私は以前このサイトの一連の記事で指摘した。

 有名大学病院、有名医療センターなどのチーフスタッフに採用されるためには、臨床医として患者さんを診療する腕よりも、発表した論文の数が物を言う世界なのである。それにしてもデータ捏造してまで170編以上の論文を書いたというのは、その異様な執念にも驚く。
 他の理科系研究分野や、医学部でも基礎医学分野の研究者ならば、一流の欧文医学雑誌に40編や50編の論文を発表しなければ一人前ではない。私の小児科時代の師匠だった中込弥男先生は日本の遺伝子・染色体研究の草分けでいらしたが、患者さんが研究材料に見えてしまうといけないとおっしゃって臨床の現場からは完全に身を引き、研究者となってLancetという一流医学雑誌に80編近い論文を発表された先生である。
 余談だが、大学教授は定年退官時に御自分が在職中に発表された論文などをまとめて『業績集』として刊行されることが多い。私たち不肖の弟子ども一同はLancet掲載論文がズラリと並んだ中込弥男業績集を楽しみにしていたが、そのような物は作られず、退官パーティーに富士山のパネル写真が参加者全員に配られただけだった。医学論文とは自分の経歴を飾るためのものではないという信念を、身を以て後進に示された立派な先生だった。
 なおこの時の富士山のパネル写真は中込先生が自ら撮影されたもので、先生は定年後もいまだに毎年二科展に作品を出展されている。

 特に臨床医をはじめとする医療系スタッフに関しては、論文数が多いほど偉いという判断基準は間違っている。論文など書かなくても、病院や地域で患者さんを助けて立派な仕事をされている方は全国に数知れずいらっしゃる。
 しかし特に医療系の大学に勤務するスタッフに限って言えば、自分で書いた論文が1つも無いというのも困り者である。最低1つか2つは、どんな雑誌でもよいから、自分で書いた論文が無ければいけない。医学論文を書くという行為は、何か医学的事項に関心を持って取り組み、それを表現し、相手(論文の査読者:レフェリー)とディスカッションして、自分の主張を認めさせる、その一連のアクションである。若い学生さんたちに医学を教える立場であれば、これら一連のアクションを自ら遂行した経験が必要である。

 一口に医学論文と言っても、一般の方々には馴染みが薄いと思われるが、論文のように見える刊行物の中には
投稿論文依頼原稿がある。
 
依頼原稿とは医学書籍専門の出版社などがいろいろな特集号を企画して、大学病院や大病院の偉い先生方にそれぞれ得意とする専門分野の解説記事など依頼してくる、すると教授や偉い先生方は自分で執筆することも多いが、忙しい時には代わりに自分の部下の若い医者などに下請けで記事を書かせる、大部分の偉い先生はそれを大して下見もせずにそのまま出版社に返送すると、出版社は有り難がって全国の他の先生方に依頼した記事と合わせて項目別に編集し、1冊の特集書籍として出版し、販売することになる。執筆者にも小遣い程度の原稿料が入る。こんなものは論文でも何でもない。

 本物の論文である
投稿論文とは、執筆者が自分の最新の研究結果を全国、あるいは英語論文であれば全世界に発表したくて書くものである。書き上がった論文は昔なら封筒に入れて医学雑誌出版社や各専門学会の学会誌編集局に送ったものだが、最近では電子メールで地球の裏側の編集局であっても瞬時のうちに送付する、するとあまり価値の無い論文を掲載すると自分のところの雑誌の信頼が失われるから、これを査読者(レフェリー)と呼ばれる人たちが審査して、あれこれ注文を付けてくる。このデータは再検討してくれとか、この写真はよく分からないから撮り直してくれとか、このあたりの考察をやりなおせとか…、けっこう手厳しいが、そういう注文が付くのはまだ望みがある証拠、本当に価値のない論文には最初からNGが出てしまう(泣)。

 こういう手順を経て晴れて雑誌に掲載されたものが投稿論文または原著論文といって、本当に価値があるものである。ただし原著論文の著者として、通常は数人ないし多いものでは十数人の氏名が書き連ねてある場合がほとんどであるが、さらに本当に価値があるのはその筆頭著者だけである。例えば:
 A山一男、B沢二子、C岡三吉、D田四江、E川五右衛門
と5人の著者が並んでいた場合、本当に論文を執筆して投稿し、相手のレフェリーとディスカッションを繰り返したのは最初のA山君だけで、あとの4人は単なる共著者である。その中で研究グループの総帥として最終的な責任を負うのが最後のE川氏であることは確かだが、その他のB沢さん、C岡君、D田さんはただの便乗者、お飾りであることも多い。
 ただし互いに相手の論文に貢献し合っている研究グループならば、今度はB沢さんやC岡君が筆頭著者で論文を書くときにはA山君が共著者になることもある。だからある人の論文リストを見せられた時に、依頼原稿以外は共著論文しか無いような人は、ああ、この人は要領よく他人の論文に便乗していただけだなと思われても仕方ないし、若い学生に医学的な物の考え方をちゃんと指導できるんだろうかと疑われても仕方がない。

 臨床医は常に患者さんの傍らにあって、その診療に最善を尽くすことを最優先しなければいけない。だから普通ならよほどの体力と頭脳が無ければ、論文を50編も60編も書く時間など無いはずだ。しかし大学のスタッフとして学生を指導したければ、きちんと投稿手続きを踏んだ筆頭著者の原著論文を最低でも1編か2編は手掛けていなければいけない。たかが論文、されど論文、というわけである。


暑さ寒さも彼岸まで

 今年(2012年)は残暑が厳しかったそうで、高麗の巾着田の彼岸花も開花が例年より大幅に遅れているという話です。しかし年をとると、悲しいことに身体の中から燃えるエネルギーの炎が衰えてくるのか、還暦を過ぎた私には、夏の暑さも若い頃ほどにはこたえなくなってしまいました。今年も自宅ではエアコンを使わず、扇風機だけで過ごせましたが、その代わり冬の寒さが今から心配です。

 それはともかく、今年の残暑もお彼岸の秋分の日(9月22日)頃になってようやく影をひそめるようになり、天気予報のお天気キャスターもしたり顔でテレビ番組に出て来て、『暑さ寒さも彼岸まで…ですね』などと得意そうに喋っている映像が目に浮かぶようですが、ちょっと今年は「オイオイオイ…?」という感じ。

 今年は8月末頃から、お天気番組などで気象レーダーや気象衛星の画像などをふんだんに使って、「この前線の西側は秋の空気、来週からは夏と秋の空気が入れ替わって過ごしやすくなります」などとさんざん気をもたせてくれましたが、気温は1度か2度は下がったかも知れないが、いっこうに過ごしやすくならないまま、ついに秋のお彼岸を迎えました。
 何のことはありません、最新のレーダーも人工衛星も、昔の人たちの『暑さ寒さも彼岸まで』の言い伝えに勝てないのかと悲しくなりました。こんなことならお天気番組の言うことなど期待せず、今年もお彼岸までは頑張るぞ〜と最初から覚悟を決めていた方が良かった…。
 涼しくなると言うから秋向きのシャツを着て出かけたら、絞るほどの汗でグッショリ濡れながら帰宅する時のやるせなさ…、あの人たちのせいではないんだけれど、ついついテレビに出ていたお天気キャスターを呪いたくなりますね(笑)。

 そう言えば、先日も午後から土砂降りの大雨になるとの予報だったので装備して出かけ、夕焼け空の下を長い傘を引きずり、重たい雨靴をバッグに背負って帰りながら、あんな番組を信じた自分が恨めしくなったこともありました。何年も前には予報が外れた翌日の番組で“ゴメンナサイ”をした気象予報士のお姉さんもいらっしゃいましたが、最近は当たるも八卦、当たらぬも八卦で、当たろうが外れようが頬かむりのようです。
 同じ経験をされて実際キレた方もいらっしゃるようで、しばらく前にネットに『最近の天気予報は嘘つきでアタマに来ると思いませんか』と書き込みがありました。これに対するネット上の返事が、これまた気象関係者の方々のプライドを逆撫でしてしまうと思いますが、『別にアタマには来ません。彼らは嘘をつけるほど真実を知っているわけではありません』というものでした。
 私の医師としての診断(“病気予報”)がこんな風な言われ方をしたら、もう翌日から私は仕事も出来ないほど落ち込んでしまう、気象関係者の方々はどう感じておられるのか聞いてみたいものです。

 私が天気予報が何かヘンだ…と思うようになったのは、例の降水確率とかいう数字で予報するようになってからです。降水確率による予報は欧米の多くの先進国でも行われているそうですが、素人から見るとどうも分かりにくくて胡散臭い、気象レーダー、気象衛星、そういう科学の武器を使ったうえに、いかにも統計的手法を用いているように見せかけたハッタリ、外れても誰も文句を言えないように巧妙に仕組まれたトリックを感じます。

 過去に似たような気象状況になった時の降水状況を統計的に分析して、雨や雪の降る確率(雨量は問わない)を経験的に割り出すものであると“科学的”に説明されていますが、そもそも『
過去の似たような気象状況』というところがくせ者です。
 まず過去1日たりとも完全に同じ気象状況の日があったはずはない。例えば気圧の数値から等圧線の走り方まで完全に一致する確率は限りなくゼロに近いから、どのくらいの誤差までを過去の似たような気象状況』と見なしているのかという肝心な点が不明瞭なんですね。

 本当に文句ばかり言って申し訳ないんですけど(笑)、いっそのことこういう基礎データを必要最小限でいいからインターネット上に公開するシステムを開発したらどうでしょうか。例えば現在の気象状況と似たような状況』と判断できる過去50日分くらいの天気図とその後の天候の推移を閲覧できるようにしておいて、あとは傘を持って行こうが行くまいが、雨靴を履いて行こうが行くまいが、各個人の自己責任という形にしておくわけです。そういう判断を自分で下すのが面倒な人はテレビのお天気番組を見ればよろしい。

 考えてみれば現在の医療はそれに近い形になっています。例えば私たちがある病気を診断して、今後の治療方針などを考えた場合、過去の治療成績などをお示ししてそれを患者さんやご家族に説明しますが、何となく不安だ、納得が行かないなどと感じられたら、それをセカンド・オピニオンといって他の医療施設の専門家の意見を聞くことも出来ます。それで治療方針が2つ以上の医療施設で異なっていたら、最終的にどちらを受け入れるかは患者さんやご家族の決定次第ですから、これもある意味で自己責任ということになりましょうか。

 病気と天気の人生における深刻度は雲泥の違いですから、天気予報にまで自己責任を持ち込む必要があるかどうかは議論の余地があるでしょうが、「天気予報は嘘つきだ」とか「あの人たちは嘘をつけるほど気象を分かっていない」などと心ない書き込みをされるくらいなら、『自己責任天気予報システム』の構築も意味があるかと思います。

 しかし太平洋戦争の終わった年、ラジオの天気予報が復活したのを聞いて、やっと平和を実感したという人々も多かったようです。日本上空の気象などをわざわざ敵空軍に教えてやるようなものだから、本土空襲が始まってからは天気予報の放送など中止されていました。嘘でもいい、当たらなくてもご愛敬だから、やはり天気予報番組は平和の象徴として欠かせないものかも知れませんね。


テレフォンカード

 もうすぐ“死語”になるものにテレフォンカードがあります。“公衆電話”もやがて街角から姿を消し、次の世代の若者たちは、口臭の強いオジサンの持っている携帯電話のことを“コーシュー電話”と呼ぶようになるかも知れません。

 昔々、まだ携帯電話などSF映画やスパイアクションに出てくる気の利いた小道具くらいにしか思えなかった頃、駅前や百貨店や飲食店や交差点など街中のあちこちには公衆電話が設置されていたものです。忘れちゃいけないのがタバコ屋の店先ですか。あと病院には必ず公衆電話がありましたね。私の小児科医時代を紹介したページにも、病棟の壁際の公衆電話の写真があります。
 私が知っている公衆電話は、最初の頃は郵便ポストと同じ真っ赤な色をしてましたが、やがて黄色が登場してきました。現在では緑色かグレーを基調とした色しか見かけませんが、色によって機能も異なっているようです。

 自宅や仕事場を離れたら、昔はこういう公衆電話を使わなければ電話はできません。公衆電話機には硬貨投入口があり、受話器を取り上げてここに10円玉を入れてからダイヤルする。昔は同じ市内では10円硬貨1枚で何時間でも通話することができた、だから駅に1台しか無い公衆電話で皆が順番を待っているのに、30分も40分もベラベラ喋っているクソオヤジに腹が立ったこともありました。高校1年生の頃です。

 私が高校3年生になった1969年、電話料金も同一市内でも時間制になり、大体10円で3分間しか話せなくなりました。ちょっと通話が長引きそうな時は10円玉をたくさん用意しておかなければいけなくなった。そのうち100円硬貨を入れられる公衆電話機もできましたが、ひどいことにお釣りが出ない、まだ電電公社の時代でしたから、新聞などで『百円入れてもお釣りは出ん出ん』などと揶揄される始末…、だから出先で電話を掛けることがあらかじめ予想される場合、10円玉を何枚も用意しておかなければならないので、小銭を崩しておくために要らないガムやチョコレートを買ったりして、けっこう気を使ったものでした。

 そういう小銭の心配をしなくて済むようになったのは、上の写真にお示ししたような磁気テレフォンカードのお陰です。テレフォンカードはまだ電電公社の時代、私たちが結婚する直前の1982年に発売されました。
 写真中央の岡本太郎画伯のデザインが日本最初のテレフォンカードでした。一時期、こういうカードの収集家が大勢いた頃は未使用のままだと額面以上の値段で取り引きされたものでしたが、最近はどうでしょうかねえ。知り合いから貰ったのですが、新婚間もないカミさんと外出した時に、近所の公衆電話で使ってみて、「オオッ、こんなカードで電話が掛けられたよ〜!」と、プリペイドカード初体験の強烈な思い出の方が、今になってみれば貴重に思えます。プリペイドカードという耳慣れない言葉も、あの後しばらくして知りました。

 その後、磁気テレフォンカードは実にバラエティに富んださまざまな図柄のものが発売されるようになり、私のように物持ちの良い人間は自分の使ったカードはほとんど捨てずに保存してありますが、風景あり、動植物あり、乗り物あり、歴史あり、科学あり、中には温泉美女のデザインまであり、1000種類近い図柄のカードを今になって取り出して眺めると、それだけで楽しいコレクションです。過ぎ去った一つの時代のようなものを感じますね。私たちの新婚時代と相前後して発売されたテレフォンカード、お互いに仕事が発展して忙しくなっていく時期、まさに人生を駆け抜けた私たちのポケットやバッグには常にテレフォンカードがありました。

 携帯電話の普及と共に、公衆電話の衰退に伴って、私のポケットに入っているテレフォンカードの図柄はもう2年以上も変わっていません。時々それを取り出して公衆電話を掛けると、何だかとても懐かしくなるのは、私ももういい年なんでしょうかね。


最後の晩餐

 『最後の晩餐』と言えばレオナルド・ダ・ヴィンチ作、20世紀末に大規模な修復作業が行われてダ・ヴィンチの技巧や意図なども明らかになりつつあるが、さらに謎が謎を呼んでいく世界的に有名な絵画です。しかし私はここでその名画について語ろうというのではありません。

 もうずいぶん前になりますが、テレビ朝日のニュースステーションで、まだ久米さんが司会だった頃、最後の晩餐というコーナーがあって、面白いなと思っていた時期がありました。
もし明日、地球が滅亡するとしたら、今夜の夕食(最後の晩餐)に何を食べますか
というのがテーマで、いろいろなゲストが出演して、“最後の食事”の献立をいろいろ論じていました。

 もし明日で地球が終わるなら、私なら美味しい焼酎(真夏なら生ビール)を頂いた後に、ザル蕎麦で締めたいと思います。私は蕎麦、それも冷たい蒸籠(せいろ)の蕎麦が何より好きです。うどんも蒸籠に盛った冷たいのが大好きですが、やはり最後の晩餐ならば蕎麦にしますね(笑)。
 日本の麺というと、大体うどんかそうめんの方が贈答品として用いられることが多く、蕎麦よりも高級品のイメージがありますが、それでは蕎麦がかわいそう…、蕎麦の名産地というと信州が先ず思い浮かびますが、寒冷などの天災のため農作物が育ちにくく、日本の中では比較的貧しい地方だったことが、蕎麦のイメージに影響しているのでしょうか。

 子供の頃に『おそばのくきはなぜ赤い』という昔話を読んだことがありますが、蕎麦の茎は根本が真っ赤だそうです、残念ながら私は見たことがないのですが…。その理由は次のようなことだそうです。

 
むかしむかし、大きな川のほとりで蕎麦と麦がお喋りしていると、1人のお爺さんがやって来て、向こう岸まで渡してくれと頼んだ、しかし川の流れは速く、水は冷たい。「俺はイヤだね」と麦は断ったが、親切な蕎麦はお爺さんを背負って川を渡った、向こう岸に渡ったお爺さんはたいそう喜んだが、蕎麦の足は冷たい水に浸ったために真っ赤に腫れてしまった。それで蕎麦の根本は今でも赤いそうです。ところでそのお爺さんは穀物の神様で、川を渡してくれたお礼に、蕎麦は夏の日差しをいっぱいに浴びてスクスク育つ穀物にしてあげたが、冷淡な麦は冬に頭を踏まれながら(麦踏み)育たなければいけない穀物にしてしまった…。

 蕎麦は夏の日にスクスク育つので、寒冷地方の農民の冬の非常食として大変重宝されたのでしょう。平安時代などには都の裕福な貴族たちは蕎麦など知らなかったようです。現代に至るも、高級な贈答品としてのイメージがうどんやそうめんに劣るのもそういう理由だとすれば、それは蕎麦に対して失礼というもの、日本人は親切な蕎麦をもっと大切にしなければ…。

 さて地球滅亡前日の私の夕食のメニューはザル蕎麦で締めですが、皆さんはいかがでしょうか。ここで次の問題ですが、もし最後の晩餐で注文したお気に入りの料理が期待はずれでマズかったらどうしますか。
 「出された料理が美味しくなかったらどうするか」について、終戦時の海軍大臣だった米内光政が確かこんなことを言っていたと読んだ記憶があります。料理が美味しかったら調理人を褒めて店を出るが、期待はずれだったら黙って食べて、文句はつけない。質素な軍人のことですから、食べ物が口に入るだけでも有難いと思えということもありますが、これは我々普通の人間も心がけておいたら良いと思います。
 食堂やレストランなどで料理に文句をつける人ほど見苦しいものはない。ああ、この人は自分は何かやって貰って当たり前、他人に感謝などしない人だな、と思ってしまう。私も米内提督の話を読んでから、料理が美味しかったら褒める、不味かったら黙って食べる、をモットーにしています。卓袱台返しなどもってのほか…!

 それに料理店であれ家庭であれ、食事を作って貰う以上、調理人に生殺与奪の権利を握られていると考えた方が良い。まさか昔のように毒を盛られることはないにせよ、あんまりうるさくケチをつける人にはわざと手抜きをすることだってあり得ます。かつての軍隊では、兵隊いじめをするイヤな上官のお茶にはツバやフケを入れて持って行き、それを飲む顔を見ながら兵隊たちは心の中で溜飲を下げていたそうです。

 それはさておき、最後の晩餐で注文したザル蕎麦がグチャグチャで美味しくなかったらどうするか。私ならやっぱりそれを黙って食べて、「ごちそうさま、明日はいよいよ滅亡だね」と挨拶して店を出ます、そして少し時間をおいてお腹を空かせてから、もう一軒別の蕎麦屋に行きますね。どうせ明日は滅亡するんだし、もう糖尿病も高血圧も怖くないですから…(笑)。汁も全部飲んじゃおうかな。
 そう言えば、意気がって蕎麦に汁をほとんどつけずに食べるのを自慢していた男が、死ぬ間際に、ああ、蕎麦に汁をたっぷりつけて食いたかった…と言い残す落語がありましたっけ。


マヤ暦、地球滅亡の日

 前回、地球滅亡の前の晩の“最後の晩餐”について書いた時にはまったく忘れていたのですが、今年(2012年)の12月21日は、古代マヤ文明の暦によれば地球最後の日だったそうです。そう言えば昨年くらいから一部の人たちが面白可笑しく騒いでいたっけな〜と思い出しました。
 12月20日の“晩餐”はザル蕎麦ではありませんでした(笑)。確か学生さんの実習で遅くなって、ギョウザチェーン店『王将』のギョウザ定食を独り寂しく食べたような気がします。もしマヤ文明の予言が当たっていたら後悔するところだった…。

 1999年7月に人類滅亡と予言したノストラダムスに肩すかしを食わされ、2008年にアジアに大地震が起こると予言したジュセリーノ氏にあきれ果てた日本国民としては(地震は2011年だった)、マヤの滅亡予言に特に騒いだ形跡もありませんでしたが(滅亡したのは衆議院民主党だけか)、ロシアではプーチン大統領が今回の予言ブームを沈静化させるべく釘を刺したという報道がありました。実は私はこの海外からの報道を見ていてマヤの予言を思い出した次第です。

 次はどんな“滅亡予言”が飛び出すか、こうなったらもう楽しみにするしかありません。ちょうどジェットコースターやフリーフォールで、衝突死や墜落死の疑似体験を味わうスリリングなアトラクションと同じですね。
 しかし人類も生物の種族である以上、いつかは滅亡の時が来るはずです。それがどういう形で訪れるのか、そんなことを考えていても仕方がないのですが(まさに杞憂です)、今回はちょっと思い巡らせてみましょう。古代マヤ人やノストラダムス先生たちがせっかく私たち現代人に“トリック”を仕掛けて、そういうことを考える機会を提供してくれたわけですから…。

 地球上にはこれまで無数の生物の種族が誕生しては滅亡していきました。その滅亡のパターンには概ね2通りあると思います。
 1つは地球の地殻変動を含む天変地異に巻き込まれて滅んでいったもの。これらのうち最も劇的だったのが、隕石の衝突で滅亡した恐竜たちですが、ロッキー山脈のパージェス頁岩の地層に閉じ込められた幻想的な姿の生物たちもまた、5億年以上昔に同じ運命に見舞われたのでしょう。
 人類にも同じ運命が降りかからないという保証はありません。今回のマヤの予言では、地球の軌道が“フォトンベルト”とか何とかいう毒ガス帯みたいなところを通過するというような珍説をマジメに論じていた記事も見た覚えがあります。シャーロック・ホームズの生みの親であるコナン・ドイルも『地球最後の日』というSF小説で、このアイディアを使っています。地球の軌道上に毒ガス帯があり(本当は宇宙の真空中でガスが集合していることなどあり得ませんが)、地球はこの毒ガスに突入して人々が次々に死んでいく、ところがこの毒ガスはそれほど致死的ではなくて、ただ丸1日間だけ眠らせるだけの作用しかなかった…という物理学的にも医学的にも無理のあるオチでした。マヤの予言も似たようなものだな。
 映画でも地球温暖化による突然の氷河期に見舞われる『The Day After Tomorrow』(2004年)や、隕石が衝突する『Deep Impact』(1998年)、『Armageddon』(1998年)などがあります。ただし映画の中では、人類は恐竜たちと違って、勇気と英知で天変地異に立ち向かい、未来への希望を残すという設定になっていますが、果たして人類は人類自らを創り出した大自然の威力にさえ立ち向かう力を持ち得るのでしょうか。

 さて生物滅亡のもう1つのパターンは、他の種族によって滅ぼされるというもの、地球上に生まれた同じ生物の仲間たちを最も数多く滅亡に追い込んだ種族はまさに人類そのもの、人類こそ生物進化の中で最も凶暴な種族であることは間違いありませんが、生物の長〜い歴史の中で、必然的に滅亡せざるを得なかった不運な種族、あるいは滅亡するために生まれたと言ってもよい種族があります。
 隕石の衝突で恐竜が滅亡した後、地球上では哺乳類の進化が始まりますが、生物進化は哺乳類に過酷な試練と宿命を与えました。母親の乳で育つ同じ哺乳類でありながら、カンガルーやコアラのように母親の袋の中で育つ有袋類と、母親の胎内で長いこと成熟する有胎盤類の2つのバージョンを作り、互いに生存を賭けて競わせたのです。その結果、母胎内で頭脳までを最大限に成熟させることのできる有胎盤類は分娩(お産)が重いものの、同じクラスの種族同士ならば知能が段違いだったので、例えば胎盤ネズミは袋ネズミを圧倒し、胎盤コウモリは袋コウモリを圧倒し、胎盤ウサギは袋ウサギを圧倒した…、袋サーベルタイガーはたちまち滅亡したそうです。オーストラリア大陸が他の大陸と地続きだったら、現在のカンガルーやコアラも生き残ることが出来たかどうか…。
 そうやって胎盤類の方が有利ということになって、さらに進化が続いたその先に誕生したのが霊長類、そして人類でした。この最強の知能(悪知恵)を誇る人類を滅亡させる種族がこの地球上に生まれることはまず無いと思います。人類を滅ぼすことができるのはウィルスか、バクテリアか…。知能という武器を持って繁栄する種族に対抗するには、知能以外の生存戦略しかあり得ません。

 異星人の侵略のテーマは、『宇宙戦争』(ウェルズの小説、2005年のアメリカ映画)とか、『Independence Day』(1996年)とかたくさんありますが、いずれも幾つかの偶然が重なったり、人類の英知と勇気で危機を切り抜けることができました。最近の『Battleship』(2012年)では何と第二次大戦中の戦艦ミズーリ号まで動員して異星人を追っ払っています。
 知能(科学力)で人類に挑んでくる他の種族(異星人)に対して、小説や映画では人類の勇気や英知が勝利の鍵となることが多いのですが、まさにこの英知の減退こそが人類滅亡の原因になるのではないか。最近ではそれを指摘する人が増えてきました。

 人類の知能が暴走したことによる全面核戦争、最終戦争の危機は完全に去ったとは言えませんが、それよりも特に先進工業国において、人類がさらに発展し続けよう、さらに繁栄を続けようというモチベーションを保ちがたい状況が生まれつつあります。先進国の人々は必要最小限の生存を確保したうえで、さらに自分の欲望を最大限に実現させるだけの物資や悦楽を享受する術を手に入れた、これ以上何を望むのか?
 物資や悦楽が不足だと感じれば、他人を押しのけてでも手に入れたい、自分より貧しい人々、途上国の人々を援助などそっちのけ、と人間としてのモラルさえ無くしてしまった人も多い。

 人類の滅亡は、ノストラダムスや古代マヤ人の似非予言のような形では訪れない、もっと静かな形で、老いが体の中から健康を蝕んでいくように徐々に進行するのではないか。人類の英知では防ぎ得ないような形で進行する滅亡のシナリオは、もうどうしようもありません。しかし地球上に繁栄した他の種族たちに比べて、人類の種族としての綻びの早さに愕然とせざるを得ません。


ゴジラ敬遠

 2012年は年末にちょっと寂しい話題が飛び込んできた。ニューヨークでゴジラこと松井秀喜選手が記者会見で引退を表明したとのこと。巨人軍時代、松井秀喜選手が初めて一軍の試合に出場した時、私は後楽園ドームで観戦していたから、今回の引退報道には感慨深いものがある。鳴り物入りで巨人軍に入団、長嶋茂雄監督が指揮をとっていた頃だが、あの松井選手も日米でそれぞれ10年ずつ、20年も現役でファンを魅了してきた、その名選手もついに引退の日を迎えるのかという想いが強い。

 松井選手といって私が先ず思い出すのは、まだ石川県の星陵高校時代、1992年の夏の甲子園大会で明徳義塾高校が強打者松井を5打席連続敬遠した試合である。一種の“事件”と言ってもよい出来事だった。
 高校生なら若者らしく潔く勝負すべきだ、という論調が主流を占め、敬遠を指示した当時の明徳義塾高校の監督に対する大きな批判が巻き起こった。野球漫画で有名な水島新司氏などは人気漫画『あぶさん』の中で、この敬遠作戦を批判するストーリーを描いている。あぶさんの息子の景虎(後にプロ選手になるが、この時はまだ子供、しかし実力はセミプロ級)に対して、地元のリトルリーグの子供たちがオドオドしながらも果敢に立ち向かうというもの。

 しかし私があの時に思ったのは、批判的な論調を書く大人たちは、何で高校生にばかり純粋さや潔さを求めるのかということだった。大人は目的を達するため、金を稼ぐためなら、逃げることもズルをすることもある、しかし高校生には、かなわぬと思っても当たって砕けることを要求するのか。
 自分は常に何事にも全力を尽くしていると胸を張って言える大人はどれほどいるのか。それなのに一体あの相手チームバッシングは何だったのだろう。あれからもう20年、私は日米での松井選手の活躍が報道されるたびに、あのバッシングを思い出して何か釈然としないものを感じてきた。

 5打席敬遠作戦は、勝つためには何でもするという大人のエゴだと書いた記事も覚えている。だが敬遠はルール違反ではないのだから、チームが背負っている県民(明徳義塾高校は高知県)の期待に応えるための作戦として、いささかも非難される筋合いのものではあるまい。むしろ甲子園で松井の本塁打を見たかったという思いが裏切られたことへの八つ当たりの怒りだったとしたら、その方がよほど大人のエゴである。
 20年前の感想は今でも変わっていないが、当時の明徳義塾高校の監督もまた、あの作戦は間違っていなかったと今でも思っているそうである。超高校級の怪物(ゴジラと呼ばれ始めていた)が相手だったのだから当然であろう。
 怪物相手に単純に当たって砕けることを潔しとする国民性は、アメリカ相手に宣戦布告し、最後は特攻隊まで次々と送り出した精神構造と似ていなくもないのではないか。

 何はともあれ、日本とアメリカでおそらく悔いのないプロ野球人生を送ったであろう松井秀喜選手、20年間お疲れ様でした。


ああ年賀状

 また今年(2013年)も新年が明け、たくさんの年賀状を頂いた。と言うことは、昨年の暮れには自分もまたたくさんの年賀状を書いたということでもある。虚礼の代名詞ともいえる年賀状、何で年末の一番忙しい時期に多くの国民があれほどまでに気を遣い、労力を費やさなければならないのか。
 あんな習慣は早く止めちまえという意見はずいぶん昔からあったが、郵政省(今では総務省の日本郵政グループ)の陰謀なんだかどうだか、現在でも一定の年代以上の人々の間からはなかなか無くなりそうもない。ごくごく親しい友だち同士のメールだけで新年の挨拶を交わす若い世代の人たちを見ていると、羨ましいと思えなくもないが…。

 確かにもう何年もお会いしていない方々、そして今年もお会いする予定もない方々からも年賀状を頂いているし、昨年の暮れにはこちらからもお出しした。これはまったく無駄な労力なのか?

 私は宛名だけは自筆で書いているが、これはボケ防止にはなかなか良い。郵便番号や住居表示を住所録や昨年の年賀状から転記するのが、記憶力の鍛錬になりそう…(笑)。郵便番号は最近はすべて7桁になったが、人間の短期記憶の限界が数字なら7桁だという話をかつて聞いた覚えがある。また知らない住居表示の漢字なども宛先に転記するまでの数秒間が、年齢と共にかなり苦痛になってきているのを自覚している。だから毎年あの百何十枚もの年賀状の宛名を自筆で書くのは、けっこう良い記憶のトレーニングになっているのではなかろうか。

 そればかりではなく、やはり何年もお会いしていない方々でも、宛名を書いている間、その方と交流していた頃の暖かい気持ちを思い出すことができる。たとえ1年に数秒間だけであったとしても、かつて自分と繋がりのあった方々の記憶を呼び覚ますことが出来るのは、年賀状の習慣とキッパリ決別できない因果な世代の特権と言えるかも知れない。

 ただ最近、私が年賀状の宛名書きをする時に最も苦痛に感じるのは、宛名の表記法である。郵便番号の7桁の数字さえ正確に記載してあれば、あとの地名などはすべて省略しても構わないが、丁目や番地や部屋番号などの固有の数字だけはきちんと書かなければいけない。配達人がこの数字を見ながら配達するのだから当然といえば当然だが、配達人に正しく読んで貰えるように書く、というのが苦痛である。

 欧米と違って、我が国では数字の書き方が算用数字と漢数字の2通りあるが、私はこれを郵便の宛名書きに限ってすべて算用数字に統一して欲しいと常々思っている。そもそも漢数字こそ数字の誤読の原因と思っている人は私以外にも少なくないのではないか。科学論文の数字データを漢数字で書くバカなど1人もいない。

 例えば『20−122』または『20の122』という番地表示は算用数字ではこれ以外に書きようはないが、漢数字で『二〇』と書くか『二十』と書くか、『一二二』と書くか『百二十二』と書くか、どちらで書いた方が配達人に判りやすいか、数字の組み合わせによっていちいち考えなければいけない。
 漢数字は縦書きだから、『一二二』と書く場合、上の『二』と下の『二』が混同されないように、また一番上の『一』と紛れないように書かなければいけないのである。これを百何十枚も気を遣って書くのは面倒だ、いっそのこと葉書の宛名を全部横書きの算用数字に統一してくれたら良いのに…と何度思ったことか。

 さらに最近ではご自分の住所をワープロで印刷して送って下さる方も増えたが、筆書きのフォントの縦書き漢数字で書かれた昨年の年賀状からその住所を読み取る際に、例えば『三』の横棒から横棒へ“墨痕鮮やか”に字体が流れていると、『三』だか『五』だか判読が難しい。老眼が進んだ人にはあのワープロの字体は数字誤読の原因になりかねない。

 せっかく郵便番号7桁の算用数字だけ書けば県名も市名も区名の記入も不要になったのだから、番地表示もすべて算用数字で統一して頂きたい。それが年の暮れに毎年感じる切なる願いである。
 ちなみに郵便番号さえ正確に書かれていれば他の地名は書かなくてもよいというのは本当である。もう7〜8年前になるが、鹿児島県の指宿に旅行した時、自宅の郵便番号7桁と番地だけを書いた葉書を投函したら間違いなく配達されてきた。全国の郵便局の数字読み取り機の精度は抜群である(笑)。


年寄りの冷やスマホ

 この1月、ついに携帯電話をスマートフォンに替えた。私もワープロやパソコン使用、個人サイト開設、デジタルカメラや携帯電話購入と、いろいろ新しい物に対して、同世代の人たちよりは少し早め早めに自分の生活に取り込んできたつもりだったが、スマホ(スマートフォン)だけは使うこともないだろうと思っていた。あの小さな画面を指先タッチだけで操作する自信はまったく無かったからだ。

 それがどういう風の吹き回しか、いきなりスマホに買い換える決心がついたのは、電車の中などでスマホをいじっている人が圧倒的に多くなってきたのに気付いたからである。一昨年から昨年初めくらいまでは、まだ携帯電話をパチンと開いてメールを打ったりしている人の方が多く、スマホなど持っている人を見かけると、オーオーカッコつけちゃって、ミスタッチするなよ、カッコ笑い…などと心の中で冷笑する余裕もあったのだが、最近はスマホの人が7割から8割以上いるのではないか。

 スマホ派が坊ちゃん嬢ちゃんたちばかりならまだ良かったのだが、へたすると私より上の年代らしき爺ちゃん婆ちゃんがスマホの画面を指でサッサッと撫で回していたりする。まさか画面を拭き掃除しているんじゃないよね。そんな爺婆の前でポケットから携帯電話を
(颯爽と)取り出してパチンと開くのが、何となく肩身が狭く感じるようになった。

 私って意外に見栄っ張りだったのね(笑)…ということもあるが、私がスマホに買い換えたのは、実はもっと切実で恐ろしいことに気が付いたからである。
 あっと言う間にスマホが普及してきて、従来の携帯電話を圧倒しつつある、ということは3年後4年後、これがどういう状況になるか、その時になって現在使っている携帯電話機が古くなって機種変更の時期になっても、もう携帯電話機は細々としか販売されていない、ほとんどの中年以下の世代はスマホに鞍替えしてしまっていて、携帯電話機は老人向けにボタンの大きい機種以外に選択の余地が無くなっているに違いない…。

 今のうちにスマホを使いこなせるようになっておかなくては…私は恐怖に駆られてスマホへの機種変更を決心したのである。まったくこの種の機器の栄枯盛衰は激しい。ワープロ専用機が無くなってパソコンに統合されてしまったのも、一時期あれほど持て囃されたMOディスク(覚えている人いますか?)がショップの店頭から消えたのも、すべて数年足らずの間の出来事だった。次は間違いなく携帯電話機が消える…。

 というわけで私は2013年1月現在、新しく買い換えたスマートフォンで悪戦苦闘中である。先日はカミさんから電話が掛かってきて「さっきの電話の用事は何?」と問い詰められた。知らないうちに着信履歴から呼び出しボタンにタッチしてしまったらしい。
 年寄りの冷や水…ならぬ冷やスマホ、またいつか数々の失敗談、苦労談をご披露することになると思う。中年以降にスマホを始めた人の多くは、携帯電話機から乗り換えたことを後悔するものだという。スマホを床に投げつけたくなるものだともいう。ボケ防止だと思って頑張ろう…かな(笑)


合格点

 また今年も入学試験シーズンが巡ってきた。学校の教職員も忙しいが、受験生はもっと大変だろう。入学試験は満点を取らない限り、これで安心ということはないからかなり必死である。限られた入学定員枠に滑り込むためには、競争相手より1点でも余分に点数を取っておかなければいけない。99点を取ったって、他の受験生が全員100点満点を取ってしまえば自分は不合格となってしまう。

 最近では入学定員割れする学校もあるが、そうでない場合は受験生にうまく点数の優劣をつけて定員分だけ選ばなければいけないから、試験問題の出題者はけっこう辛いものがあるのではないか。幸いにして私は入試問題を作る役目だけは免れているので、出題者の先生方に比べればまだ気が楽である。
 試験問題はあまり難しすぎると全員が0点、あまり易しすぎると全員が100点満点を取ってしまって、差をつけることが出来なくなってしまう。例えば私の学科の志願者に、木星軌道に人工惑星ロケットを打ち上げる計算問題など出題すれば全員0点になってしまうだろうし、逆にかけ算の九九など出題すれば全員がほぼ満点を取るだろう。それでは入学者選抜試験の意味が無くなってしまう。

 そういうわけで入学試験は受ける方も出題する方もお互いにかなりのストレスがあるものだが、世の中にはもう一つ別の試験がある。例えば私の学科の卒業生たちは間もなく国家試験を受けて臨床検査技師の資格取得を目指すことになるが、そういう資格試験は競争試験ではない。一定のレベルに達したと認定された受験生すべてが合格する試験である。だから別に他人より1点でも余分に得点しなければいけないとガツガツする必要はない。

 私もかつて受験した医師国家試験の合格基準点は今も公表されていないようだが、臨床検査技師の国家試験の場合、筆記試験で60点以上得点すればよいということになっている。また私が病院で関与している細胞診という検査は、細胞検査士という資格を持った臨床検査技師が日夜診断してくれているが、この細胞検査士の資格試験は、国家ではなく日本臨床細胞学会という組織が、筆記試験と実技試験でそれぞれ70点以上得点した人を認定すると公表されている。
 こういう資格試験は、自動車運転免許試験も司法試験もみな同じで、ある合格基準点を超えた人は全員合格となる。それで上記のある細胞検査士の人が言っていたことであるが、細胞検査士は70点以上取れば合格できるが、では実際に業務をした時に30%間違えても良いのだろうか。

 患者さんの検体を10件検査して、3件間違えても有資格者として認められるかと言えば、もちろんそんな甘いことはない。国家資格であれ、学会認定の資格であれ、何らかの資格を持った人間ならばプロとして常に100%(100点満点)を目指さなければいけないのは当然である。
 では70点という合格基準点はどうやって決めたのか。資格試験といえどもかけ算の九九のような誰でもすぐ分かる問題ばかり出題するわけにはいかない。少なくともある専門資格を目指してどれくらい真剣に厳しく勉強してきたかを試すわけであるから、出題委員の専門家たちが、これでもかこれでもかと難しい試練を課す、日常一般の業務レベルより数段ハイレベルの問題であるから、出題者自身だって100点満点など取れやしない。それを60点なら60点、70点なら70点取れれば、まあ、こいつはきちんと勉強して受けに来たに違いないと認めてやろうということである。

 試験の点数の話はそれくらいにして、先日(2013年2月6日)東京に雪が降った。1月の成人の日に次いで今年2度目の雪である。1月14日は物凄い大雪で新成人も難儀をしただろうが、その日の天気図と似ていたということで気象庁がまた2月6日も大雪警報を出してしまった。ところがこれがハズレ〜だったのである。
 明け方は雨でまだ積雪も無かったが、明るくなる頃から雪に変わって積もり始めた。しかし成人の日ほどの大雪にはならなかったのである。それを都内のJR各線は気象庁の大雪警報を真に受けて、朝から電車の運転本数を減らして間引き運転を実施した。

 実は都内のJR各線のダイヤはその時に限って連日の大混乱続きだった。まず2月4日の夜は池袋駅のポイント故障で何時間も埼京線と湘南新宿ラインが運転を見合わせた、翌2月5日の朝は今度は山の手線が人身事故で止まって朝の通勤の足が乱れた、2月6日も雪でダイヤが混乱したとなれば3日連続である。必ずしもJRの直接責任ばかりではないにしろ、さすがに気が引けたのではないかと推察する。
 2月6日の朝、都内のJRは「大雪のため
通常の7割程度の運行にする」と発表した。つまり我々の資格試験と同じように、難しい試練に対して一応合格点の努力をしてますよというアピールのつもりであろう。大部分の通勤・通学客は鉄道会社発表の7割という数字に大して疑問を感じていないようであったが、実際は70点には程遠い運行状況だった。
 私は池袋駅から毎朝北行きの埼京線で通勤するが、平日朝の埼京線は午前7時から8時の時間帯は1時間に13〜15本の電車を走らせている。つまり通常の
7割の運行と言うのであれば、1時間に8本から9本は電車を動かさなければ合格ではない。しかし私が駅に着いた時には10分以上電車が来なかったらしく、ホームは人で一杯だったうえ、さらにそれから15分以上も電車は来なかった。つまりこの瞬間に限って言えば電車の運転間隔は20分以上、1時間に3本も電車を走らせていなかったことになる。JRの得点は100点満点の20点にも達していなかった。どこかで帳尻を合わせて7割の本数を走らせたと言い訳するつもりだろうが、“何となく合格点”のイメージがある7割という数字を持ち出したのは、いささかフェアでない。

 JR各線は普段から本当に正確に列車を運行してくれて感謝しているので、さまざまな不運が重なって2日や3日ダイヤが乱れたくらいで責めたりするつもりはないが、そういうイメージだけで数字を使って欲しくない。数字を用いる以上は、その数字を裏付ける実績がなければいけない。
 まあ、他人の業界を云々する前に、私たちも医療の専門家である以上は常に100%の数字を目指して、言い訳の必要ない仕事をしなければいけないと改めて思った雪の朝であった。


10年という年月

 私がこのサイトを起ち上げてからちょうど10年が経過しました。サイトの原型を初めてプロバイダに送信したのが2003年の建国記念日の夜、ずいぶん昔のようでもあり、あっと言う間だったようでもあり、こんなサイトでも作らなかったら何の区切りもなく過ぎたであろう歳月でした。

 世界ではイラク戦争があり、インド洋で大津波が発生し、特に東アジアでは北朝鮮が核実験を強行し、チベットや東シナ海で中国の侵略者の素顔が明らかになり、韓国大統領の愚行で日韓関係もガタガタになって日本人の精神的な非戦の留め金が外れた…。
 国内では東日本大震災と原発事故で日本人は自信を失い、世界的経済不況の煽りを食らって経済も先行き不透明、政治への不信感を表すように政権は自民党と民主党の間を激しく揺れる…。

 本当に次の10年がどうなるのか、まったく見当もつきません。そもそも人間の歴史に安定など無かった、たまたま私たちの世代の日本人だけが人類史上希有な安定成長期を経験できただけでしょう。それを思うと、他の国々の人たちや、日本の若い世代に対して何か申し訳ない気持ちにもなります。

 自分自身もこの10年間でずいぶん変わりました。このサイトを始めた頃はまだ病院病理部の助教授でした。現在の学科に移って若い学生さんたちを教えることになるなど思ってもみませんでした。
 また10歳も年を取って身体や頭脳もそれなりに機能が低下してきました。最初の頃は、サイトの記事に何を書こうかなどという構想はいつでも頭の中に入れておくことが出来ましたが、最近ではせっかく良い記事のアイディアを思いついても、翌日になっていざ書こうとすると、「アレ、あの時オレは何を書こうと思ったんだっけ???」と忘れてしまうことが多くなりました。
 次の10年もサイトを続けていられるように、身体と頭脳をトレーニングしながら元気で頑張るつもりではありますが、こればかりはどうなるか分かりません。10年後にはもう私も現役を退いて悠々自適か、ボケ老人か…。今さらながら時の流れの怖さを身に沁みて感じています。

 ある一定の年代以上の方々なら10年前、まだ20歳代以下の若い人たちならば5年前、自分が何を感じ、何を考え、何を夢見て、どんな生活を送っていたか、思い出してみることをお勧めします。昔の人はよく日記をつけていたものですが、最近は学校の夏休みや冬休みに絵日記の宿題などはあまり出ないようで心配です。しかし近頃は若い人たちも、私のようなサイトではなくても、ブログやミクシやフェイスブックなどに自分の足跡を残していく人が多いようで、これは後になってみるとなかなか役に立つことも多いです。

 人間という生き物はいきなり大人になれるものではない。赤ん坊の時代があり、子供時代があり、思春期から青春の時代を経て、はじめて大人になっていくものです。今の自分自身に迷ったら、自分が昇ってきた階段を振り返ってみる、それはけっこう大事なことじゃないかな。
 今日はサイト開設10年目ということもあり、少しセンチメンタルになっていますが、もう老境に差しかかってから始めたホームページ作成、それでも確かに10年間の歩みはあるものです。今さら高校時代の日記を読み返すのは恥ずかしくて赤面ものですが、大人になってからの足跡を振り返るのは、まだまだこれから生きていく励みになるものだと実感しました。


新型出生前診断について

 今回は誰が何をどう書いても、必ずどこかから反論が来てしまう非常に重たい話題です。昨年くらいからネット上などでも議論が盛んにされるようになっていましたが、妊婦さんの血液検査だけで胎児の染色体異常がかなり正確に診断可能という出生前診断が、いよいよ今年(2013年)の4月から試験的に開始されることになりました。私はかつて小児科医時代、染色体外来を担当して100人以上のダウン症候群のお子さんとそのご家族を見守ってきましたから、やはり避けて通るわけにはいきません。ご参考までに私の意見を開示しておきます。

 まず今回の“新型”出生前診断、費用はかなり高額なようですが、従来の羊水診断や胎盤絨毛組織生検などのように母体や胎児に侵襲を加えることなく、妊婦さんの血液検査のみでほぼ確実に胎児の染色体異常を検出できるということです。画期的な検査法と言ってよいでしょう。

 従来の出生前診断の場合、問題点として私が妊婦さんに説明してきたのは次の項目でした。
(1)流産の危険がある
(2)誤判定の可能性もゼロではない
(3)すべての異常が分かるわけではない
(4)倫理的・社会的な問題がある

 倫理的・社会的問題というのは、出生前診断とは胎児に異常があった場合には、ある意味で妊娠中絶を前提とした検査であるから(実際に異常が分かった妊婦さんの90%以上が妊娠中絶を希望する)、本当に重篤な先天異常ならともかく、例えばダウン症候群のように実際に社会で生活しておられる患者さんもいるような疾患の胎児を中絶してしまうことは、そういう患者さんまでを“望ましくない存在”として排除してしまうことにつながってしまうということです。
 また当時は第1児がダウン症候群だった場合、第2児以降の妊娠では出生前診断を希望されるご家族が多かったですが、その弟や妹が健常な子供だったとしても、成長して兄や姉がダウン症候群であることを知る、そして自分がまだお腹の中にいた時に両親が出生前診断を受けたことを知る、もし自分にも異常があったら両親は自分を中絶していたに違いないと考えるに至る、それは親に対するものすごい葛藤になる可能性があると思います。幸いにして私はそういう事例を知りませんが、児童心理学の専門家からの指摘はありました。

 まあ、とにかく従来の羊水診断や絨毛診断の場合、妊婦さんには上記の4項目を中心にご説明してきたわけですが、新型出生前診断では(1)は不必要になります。これは高額な費用を別にすれば、出生前診断に対する心理的ハードルがずいぶん低くなることを意味します。
 したがって新型出生前診断の検査希望者が増え、ダウン症候群を中心とした染色体異常を持った胎児の中絶が増え、(4)の倫理的・社会的問題が以前とは比べ物にならないくらい大きくなってくるでしょう。
 (2)の誤判定の可能性もゼロではないという程度の非常に低いものですし、(3)のすべての異常が分かるわけではないという問題点も、特に高齢の妊婦さんにとってみれば染色体異常の可能性だけでも否定して貰えれば、ずいぶん気が楽になるという意見が多い。

 私が染色体外来を担当していたのはもう30年近くも昔のことですが、いつかはこういう検査法が開発されるだろうと薄々予測していましたし、そんな時代まで医師をやっていたくないとも思っていました。それほど重苦しく難しい問題です。専門家や一般の方々、妊婦さんやそのご家族、実際のダウン症候群の患者さんを持つご家族なども混じったネット上の議論も、やはり倫理的・社会的な問題が大部分を占めていました。

 「生命の選別につながる」とか「疾患を持つ胎児を中絶することは、同じ疾患の患者さんの価値を否定することになる」とか、30年前はそういう論理に対して正面から反論する人は皆無といって良かった、しかし匿名で議論できるネット上の意見を読んでみると、一般の人々、妊婦さん、実際のダウン症候群のご家族、それぞれ面と向かっては口に出せない本音もあったんだなあと思います。
 一方、ネット上の匿名の議論でも、どんな異常があっても我が子は可愛い、出生前診断で異常が判っても絶対に産むと明言される女性もいらして、やはり人によって価値観は多様だなあとも思います。

 私が外来をやっていた頃は、第1児がダウン症候群で第2児を妊娠された妊婦さんだけが羊水診断を希望されていましたが、いくら医療や福祉関係者が綺麗事を言ったって、実際に患者さんを育てる上での負担はご家族が受け止めなければいけないのだから、出生前診断を受けるか受けないかの判断は最終的にご家族に任されるべきだという立場で私はやっていました。

 しかし実際に出生前診断を受けない、たとえ胎児に異常があっても出産すると決断されるご家族がいらっしゃる以上、社会もそういう異常を持って生まれてきた子供を支援する体制を作らなければいけないのではないでしょうか。この点に関してはネット上に心ない発言も見られて残念ですが、これも口先で言うのは易しいが、現実問題としては非常に難しい。
 私はダウン症候群など先天異常のお子さんも、できるだけ普通の子供たちと一緒に就学するのが良いという立場で見守ってきました。普通の子供たちに触発されて病気の子供たちは精神的発達を引っ張り上げて貰えるし、普通の子供たちも世の中にはいろいろな病気の子がいることを知って、思いやりの心も育まれるからです。しかしバブルの時代、小泉改革に象徴される競争原理の時代を経て、これは30年前よりもさらに難しくなっている気がします。

 考えてみれば、「障害者」あるいは「障害児」という言葉、これが現在の私たちの社会を端的に象徴していると言ってよい。何をもって「障害」というのか、皆さんはお考えになったことがありますか。
 「障害」を持った人たちを「差別」することにつながるから新型出生前診断に反対、と口では簡単に言えますが、ではその「障害」とは何なのか、何が差別なのか。

 以前別のコーナーにも書いたことですが、「障害者」とは産業革命後の産業社会において必要になった概念、工業製品の大量生産・大量消費・市場確保を推進するうえで支障を持つ人々が「障害者」なのではないかと思うようになりました。必要最小限の読み・書き・計算の能力を有し、最低限度の経済力を有していなければ産業社会の市民として生活していくことが困難です。
 しかし人類は産業革命で物資の余裕も出来たので、そういう人々を切り捨てることなく、自分の仲間として受け入れるヒューマニズムを持つことも可能になった、しかし産業社会で自立して生活するのが困難な人たちを識別して手を差し伸べるために、あえて「障害者」という概念が必要になったわけです。ある意味では「逆差別」と言えるかも知れない。

 たとえば知恵遅れの青年がいるとします。誰かの力を借りなければ消費社会で買い物するのが困難、こういう人は「障害者」の概念に含まれます。こういう人を「差別」してはいけない、むしろ支援しなければいけない、それがヒューマニズムを持った産業社会における正論です。
 では「障害者」の概念が無く、「差別」するもしないも無かった前産業社会ではどうだったのか。これも別のコーナーに書いたとおり、古典落語の与太郎さんを見ればよい、与太郎はいくら教えても何事もうまく出来ずにヘマばかりする、落語の世界ではこれを可笑しいと言っておおらかに笑うわけです。現代社会で同じスタンスでテレビ番組を制作したら大変なことになるでしょう。
 古典落語では貧乏な人も可笑しいと言って笑い飛ばす、あいつは金が無いくせに見栄を張ってバカなことしてるぞ、このスタンスも現代社会には通用しません。「経済的弱者」には福祉の手が差し伸べられるべきであるというのが正論です。

 しかし古典落語の与太郎さんや貧乏な一家に対する笑いは、酒癖や女癖が悪くて間抜けなことをする人間や、いい気になりすぎて懲らしめられる乱暴者やお調子者、世間知らずのボンボンや若旦那に対する笑いと同質であることに気付かなければいけません。
 現代社会では酒癖や女癖が悪くても、乱暴者やお調子者であっても「障害者」とは呼ばれません。自立して産業社会に寄与できる能力を持っているからですが、古典落語のモデルとなった時代においては、知恵遅れの青年や貧乏な人たちと同じ笑いの対象だった、人間として皆まったく平等だったと私は思います。

 話が少し脇道に外れましたが、新型出生前診断は少なくとも「障害者」の一部を胎児の時期にほぼ確実に診断して、その出生を未然に止める方向への道をさらに堅固にしたと言えます。新しい検査法が出生を止めようとしている「障害者」とはどのような人たちなのか、「障害」という言葉の歴史的背景までを考えて今後の議論に役立てて下されば幸いです。


桜の花の入学式

 今年(2013年)の3月21日は私の学科の第4期生の学生さんたちの卒業式でした。この写真は卒業生たちの晴れ姿…ですが、何となく違和感がありませんか。そう、背景に桜の花が咲いているんですね。
 今年は2月から3月にかけて気温が高めで、桜の開花も例年より早いと予想されていましたが、まさか卒業式でそろそろ見頃になるとは思ってもいませんでした。

 幸い、この後に冷え込む日が何日か続いたため、4月になってからも辛うじてお花見ができましたし、入学式にも桜の花が残っていましたが、やっと普通の桜を見たという感じ、桜と言えば4月、入学式の思い出を彩る日本の国花ですよね。

 私の小学校入学式の日も満開の桜でした。校長先生とクラス担任の先生を中心に記念写真を撮影してから皆で教室にゾロゾロ入って、自分の席を指定されたのを覚えています。私は図体が大きかったので、席は教室の一番後ろでした。ひとつ前の席の女の子の長いお下げ髪がやけに眩しかった…(笑)。
 1958年(昭和33年)のことですから、記念写真はもちろん白黒ですが、あの日のよく晴れた空と綺麗な桜の花の色は今でも鮮やかに目に浮かびます。ちょうど今日の卒業式のような色彩でした。

 ところで少し前、東京大学が入学式を春爛漫の4月から秋に変えると発表して物議をかもしました。発案者はたぶん何か変わったことをやって後世に名前を残したいという名誉欲に駆られた人間でしょうが、何でこういう貧困な発想しかできないのかと悲しくなります。
 欧米が秋に新学期を開始するから我が国もそれに同調するということらしいですが、我が国の独自性を捨てて欧米の流儀に合わせることが、そんなに国際化のメリットになるのでしょうか。第一、春学期から秋学期への移行の過渡期には、人材の動きと企業などの活動が半年ずれて、日本の経済活動にも半年のロスが生じる恐れがある。
 それだけではありません。日本国民にとっては生まれた時から、進学・進級・就職などの人生の節目節目を桜の花が彩ってきた、長い冬が明けて桜がパッと咲いてパッと散って季節が春から夏へ移っていく、それが日本人が新しい生活を始めるリズムだったのです。それを破壊することで日本人の心の持ち方が変わるとどんな影響が出るのか、社会学的、心理学的、民俗学的に十分な検討がなされなければいけないと思います。

 いずれにしても春学期から秋学期制への移行をあっさり決めてしまうような人間は国賊と言ってもよい、私は外国のスパイではないかとさえ思います。考えてみれば日本政府は週休2日制、ハッピーマンデー制度、郵政民営化など、日本人の誇りと独自性を打ち砕き、外国に追従するようなことを平気で次々と決めてきた、日本の中枢には日本を弱体化させて外国を利する手先が入り込んでいるなあと思って見てきましたが、東大よ、お前もか、という感じです。そう言えば東大にも推薦入試導入とか言って、これまた物議をかもしてましたっけ。


すきま風

 今月に入ってから(2013年4月)、従業員17人が胆管癌を発症した大阪の印刷会社に大阪労働局が強制捜査に入ったという報道があった。印刷の課程で使用するジクロロエタン、1,2ジクロロプロパンを換気の悪い地下の作業室で取り扱ったため、20歳代から40歳代の従業員が胆管癌を発症しており、さらに全国の同様な印刷工場でも胆管癌の発症が報告されて、健康被害は拡大する様相を見せている。普通はこの胆管癌はもっと高齢になってから発症することが多いから、20歳から40歳に集中して発生しているのは明らかに異常である。

 一口に癌(がん=悪性腫瘍)といっても専門的にはいろいろあり、若い人に多いがんとか、あまり転移しにくいがんとか、抗がん剤が効きやすいがんとか、早期発見しやすいがんなど、さまざまな種類の悪性腫瘍がある。だから昔はよく雑誌などに『私はがんから生還した』などと一般的な表現で患者さんの手記が掲載されることがあったのを、ちょっと困ったなと思って見ていたが、最近では“○○がん”ときちんとがんの種類ごとに書いてくれているので、正しい情報が他の患者さんにも伝わっていると思われる。

 ところでなぜ印刷会社の上記の物質が胆管癌を起こすのだろうか。人間の体は有害物質を吸入して体内に取り込んでしまうと、それを分解して体外に排泄しようとする。その排泄経路としては呼気に捨てるか、尿に捨てるか、あるいは胆汁に混ぜて消化管に捨てるかなど幾つかあるが、上記の物質の分解産物は胆汁中に排泄されると考えられる。
 肝臓は体内に侵入した物質を解毒して排泄する最大の機能を持つ臓器であり、胆汁に含まれて大便中に排出される毒物もかなりある。その胆汁の通り道が胆管であり、上記のジクロロエタンや1,2ジクロロプロパンの分解産物が大量に胆管を通過する刺激で胆管粘膜に悪性腫瘍が発生したのが今回印刷工場で多発した胆管癌である。

 さて今回の大阪の印刷工場であるが、以前の報道によれば新社屋建設の際、ジクロロエタンや1,2ジクロロプロパンを扱う作業室を地下に移したという。これは実は思わぬ盲点であって、住み慣れた古い建物と同じつもりで新築の建物に移転すると、気付かぬうちに大変な健康被害を起こす可能性がある。最近の建築物は空調効率を高めるために非常に気密性が高くなっているので、わざわざ換気装置を設けなければいけないほど空気の出入りが悪いのだ。もちろんそれは建築関係者に言わせれば建材や工法が格段に進歩したからであろうが…。昔はすきま風が換気してくれたものだ。

 昔の建物はビルでも一般家屋でもドアや窓の隙間からスースーすきま風が入って、特に冬場などは寒くて仕方なかった。“すきま風”と言えば貧しいボロ家の代名詞でもあった。昭和30年代の私の小学校には各教室に大きな石炭ストーブがあって、厳冬になると当番の生徒が毎朝薪をくべてから石炭を燃やし、授業が始まるまでに教室を暖めることになっていたが、今の学校でこんなことをしたら生徒の大半が二酸化炭素中毒で病院に運ばれるに違いない。

 最近の新しい建築で屋内をほぼ密閉させても大丈夫なのは、二酸化炭素を発生させない電気やスチームによる暖房装置が普及したからであるが、二酸化炭素を発生させるのは別にストーブなどの燃焼暖房装置だけではない。まずそこに生活する人間自体が二酸化炭素を発生させているではないか。
 私の大学も昨年から新しい建物に移転したが、試しに二酸化炭素測定装置を購入して自室で二酸化炭素濃度を測定してみた。すると部屋に誰も居ない明け方や休日の日中などは、ほぼ自然の大気中の二酸化炭素濃度と同じ400ppm前後なのだが、驚いたことに10畳ほどの部屋に私が出勤してきて20分もしないうちに700ppmくらいにまで増加してしまう。もちろん各部屋には全館換気用のダクトが通っていて、常時換気装置が回っているから、最初のうち、私は測定装置が故障しているのではないかと疑ったほどだ。

 しかしいろんな部屋でいろんな時刻に測定を重ねるにつれて機械の故障ではないことが次第に分かってきた。部屋にお客さんが3人くらい来ただけで、二酸化炭素濃度は1000ppmを越えてくるが、これが建築基準法で義務づけられた換気装置の能力の限界…、古い建物の時代には、同じくらいの面積の部屋に10人以上の学生さんたちが集まって賑やかにお喋りしたこともあったが、あの頃と同じつもりで新しい部屋を使ったら大変なことになる恐れがある。

 人体という二酸化炭素発生源だけでもこういう状況である。そんな密閉空間で健康被害を及ぼす気体を発生させたらどうなるか。最近の建築における建材や工法というハード面だけが勝手に独り歩きして先行してしまい、室内の作業や居住というソフト面がおろそかになっている感じは否めない。
 新しい設計と設備だから従来より機能的になるはず…などという独善的な論理を罷り通して、何の根拠もなく新築の床面積を古い建物の“8掛け”(2割減の80%)に抑え、建築費を値切ろうとするケチな施工主もいるらしいから要注意だ。


テーブルマナーの話

 1978年頃、トップアイドルの1人だった山口百恵さんが『プレイバックPart 2』という歌の中で、
坊や、いったい何を教わってきたの♪
という歌詞があったが、最近あの歌詞をつい思い出してしまうような状況に、時々ある種の場所で頻繁に遭遇するようになった。別に車のミラーをこすられたとか、そういうこととは全然関係ないが…。

 私たちの世代が子供だった頃は、人々が外食するという習慣は今ほど盛んでなく、食事といえば家庭で主婦が作るものという観念が強かった。質素といえば質素だが、1年のうちほぼ300日以上の朝昼晩の3食を毎日毎日食材を買って調理するのだから、主婦の労力たるや大変なものだったに違いない。他にも主婦の仕事は掃除、洗濯、育児と目白押しだったのだから…。

 外食(=自宅の外での食事)などかなり特別な日に限られていて、しかも現在のようなファストフード店は影も形も無かったし、ホテルのレストランはよほどのVIPが行く所、昭和30年から40年頃までの普通の庶民が外食する場所と言えば、家の近くの食堂やお蕎麦屋さんなどで、私も高校時代のクラブ活動が終わった後などに友人たちとそういう店で“外食”したのは楽しい思い出だった。
 そう言えばあの頃は喫茶店というのもそろそろ見かけるようになっていたが、何となくいかがわしい雰囲気のある店で、高校生なども行ける喫茶店のことをわざわざ“純喫茶”と呼んでいたような気がする。初めて喫茶店に入った時はドキドキした。

 昔はちょっと改まった外食と言っても、百貨店のレストランとかせいぜい不二家や中村屋のレストランが最高の外食であって、一般庶民がホテルのレストランで気兼ねなく食事をできるようになったのは昭和50年代に入ってからである。私も医学部の臨床実習が終わった後、ホテルオークラのレストランで仲間たちと打ち上げをしたのが、(テーブルマナーの練習などではなく)本当に普通の食事としてホテルを利用した最初の機会であり、さらに大学卒業時に同じ場所で両親と御礼の会食をしたのが、あの世代にとっても最初の機会であった。

 あの頃はホテルのレストランと言えば大半がフランス料理で、他の国の料理もあるにはあったが、日本人にとっては外国料理の代表は長いことフランス料理であった。その後、本格的なフランス料理店も全国あちこちに開店して、比較的手軽にフランス料理も食べられるようになった。初期の頃のそういうフランス料理店のシェフの方々の多くは銀座のレカンで修業したと言われる。

 さてそうやってフランス料理も日本人庶民の外食リストに入ってくるようになると、一番気になったのがテーブルマナーというやつである。何しろフランス料理は格調高い料理であるから、“正しい作法”にのっとって頂かなければいけない、そういう強迫観念があの頃の日本人にはあったものである。
 誰でも最初は家族や友人連れでもネクタイにドレスの正装で出かけたのではないか(笑)。けっこうお高く止まっているフランス料理店もあって、昭和50年代にはネクタイを着用していなかっただけで入店を断られたことがある。その店はその後しばらくして潰れたが・・・。

 家族や親しい友人と行っても、一張羅の服を着て、ガチガチに肩の力を入れて食べるから、せっかくの料理も落ち着いて味わえないのが、あの当時の日本人のフランス料理…(笑),隣近所のテーブルで食べている他の人々の様子をチラチラ横目で窺いながら、何とか恥をかかずにデザートと食後のコーヒーまでを無事にクリアしたい、何と当時の日本人の小心翼々たることだったか。
 それもそのはずで、フランス料理にはナイフとフォークの厳しい作法があると吹き込まれていたから、当時は誰でも多少は緊張していたと思う。一番おかしいのは、右手でナイフを持ち、左手にフォークを持つのはよいが、グリーンピースなどを食べる時もフォークの丸くなった背の方に豆粒を数個ずつ乗せて粛々と口に運ぶというもの、バカじゃないの、フランスの庶民が腹を減らせて食事にかぶりつく時もこんなアホな作法を守ってるわけないだろ、と思いながらも、一応は教科書通りの作法だけは身につけた。

 考えてみれば日本にだって箸の作法があるが、我々も次は味噌汁にしようか煮物にしようかと少し迷った末に、芋の煮っころがしに箸を突き刺して食べたりするではないか。フランス料理もそんなにガチガチに固まって食べることはないんだよということを、少しは向こうの事情に通じた人たちが伝えてくれたので、日本人ももっとリラックスしてフランス料理を美味しく頂けるようになった。

 しかしリラックスできるとなったら、今度はとことんリラックスしすぎて羽目をはずすのが日本人の集団の悲しい習性である。今では全国津々浦々にフランス料理店が立ち並ぶようになったから、そういう店で大勢で会食する団体も増えた。私も時々そういう集団と鉢合わせすると、そのマナーの悪さに愕然とすることが多い。
 店を貸し切りにして貰っているならともかく、他の一般のお客さんたちもいる店内で、もう居酒屋か赤提灯なみの大騒ぎをしている。日本人の集団(あと韓国人と中国人も同じ傾向があるが)は仲間が大勢集まると、自分たちの集団以外の目をまったく意識しなくなる。
ドワーッハッハッハッハ!」「キャーッキャッキャッキャッキャ!
まるで日光の猿の方がお行儀が良いくらい、手を叩いて哄笑し、
おーい、お前、それでね、それでね。」「○○さん、もっとやって、もっとやって。
とテーブルの端から端まで聞こえるような大声を張り上げている。こういう連中がツアーや出張でパリのレストランなんかに行けば、さぞかし日本人の評判を下げてくれるんだろうなと慨嘆してしまう。これでは他のテーブルで食事しているお客さんが自分たちの会話を楽しめないではないか。自分たちだけ飲み食いして楽しければ良いというものではない。やはり洗練されていない国の人々には会食と宴会の違いが分からないんだろうねえ。

 テーブルマナーとは何のためにあるのか、少しは考えた方が良い。別に手先の器用さの訓練のためにグリーンピースやライスをフォークの背中に乗せることではないはず…。口の中に物を入れて喋らない、これは高校時代の英語の教科書にも出ていた文章で、『with your mouth full(口を一杯にして)』のwithの用法を覚えた文章だったが、口に食べ物が入ったまま喋るとそれが飛び散るんじゃないかと隣の席の人が不安になるからである。調味料のビンなどを回して貰うのは、自分で立ち上がって取ろうとすると隣の席の人の邪魔になるからである。
 とにかく一緒に食事をしている人たち(知り合いだろうと他人だろうと)に誰一人不愉快な思いを抱かせない、それがフランス料理に限らず食事のマナーの基本ではないのか。フランス料理の席上、ある無粋な田舎の人が間違えてフィンガーボールの水を飲んだ、本来それは手の指を洗うための水だが、それに気付いた主人が自分も同じようにフィンガーボールの水を飲んだ、すると列席していた他の人たちも主人の真似をした、この話も何か英文で読んだ記憶があるが、これはそのたった1人の無粋な人に恥をかかせないためのテーブルマナーの真髄であると書いてあった。要は思いやりの気持ちである。


シモネッタ嬢への贈り物

 先日、東京のある場所で信じられない物を見つけたので、さっそく写真を撮ってオランダのScheveningen在住のシモネッタ嬢に贈ることにした(シモネッタ夫人の娘さんです)。
 季節は今やバラの時期、東京でもあちこちで“バラとガーデニング”の催し物の車内吊り広告が目立つ今日この頃、ちょっとした都内の住宅地などでも庭にバラの花が咲き誇っていて、その家の住人の風雅な心も偲ばれる。

 そんなお宅の(オタクではない)庭先のバラを眺めながら、良い天気に誘われて世田谷の砧公園まで足を伸ばすと、そこにも大きなバラの花壇があって、色とりどりのバラの花が競うように咲いている、中でもひときわ目立つ赤いバラが私の目に止まった。

 赤いバラといっても、その赤さは千差万別、黒みがかった深紅もあるし、燃え上がるような炎の色もあるが、そのバラの色は何とも言えない美しい色だった。普通の赤でもない、紅でもない、朱でもない…。上品にして情熱的、清楚にしてゴージャス、燃え上がるようでいて洗練された落ち着きがある、強いて言えば紅色のバラの花弁に金粉を溶かして陽光に輝くような色とでも形容できるか…(私もけっこう文学的・笑)。

 私はこういうバラの花園を見ると、必ず『星の王子さま』の話を思い出す。故郷の小惑星B-612に咲いていたバラの花と喧嘩して故郷を飛び出した王子さまは地球にやって来て、ある庭に同じようなバラが何千も咲き揃っているのを見る、自分が故郷で大切に思ってきたあの花はいったい何だったんだ、ここには同じ花が数え切れないくらいたくさんあるじゃないか…、王子さまは思い悩むが、友だちになったキツネに諭されて本当の真実に気付かされる、何千もあるバラの中で本当に大切なのは自分が面倒を見てあげた一つの花、そのたった一つの花を思う気持ちは目に見えないけれど、目に見えないものこそ本当に大切なんだと…。

 もう10年ほど前に、サン=テグジュペリ(Saint-Exupery)のオリジナルのイラストのついた『星の王子さま』が岩波書店から出版されたが、その中のバラの花も赤でも紅でもなく、何となく朱色がかっているが、このバラと似た色に彩色されていた。

 ところでこのバラの原産はフランス、何とこの立て札に書いてあるような名前の品種だそうだ。私はこのような単語をとてもこのサイトの本文に書く勇気はないが(笑)、原語では“Tchin Tchin”、フランス語で“乾杯!”という意味だという。

 フランス人がワインで乾杯すると、日本の犬は後ろ足で立ち上がり、日本の男の子は大喜びで●▲■▼◆…。

 そう言えばもう何十年も前、先日亡くなったウクレレ漫談の牧伸二さんの「やんなっちゃった節」でこんなのがあったのを覚えている。交通事情の悪化に伴って路面電車の廃止が進んでいた頃の歌だ。

ア〜アア、やんなっちゃった、ア〜ア〜ア、驚いた
チンチン電車は時代遅れ
東京が都電を外そうとしたら
幼稚園の子供が大反対
チンチン取られちゃ大変だ
ア〜アア、やんなっちゃった、ア〜ア〜ア、驚いた


 私も何十年経ってもこんな歌詞を覚えているくらい、男の子にとってこの単語は幼児期から少年期のいろんなコンプレックスに結びついた気恥ずかしいけど忘れられない単語なのだろう。牧伸二さんもいろいろあってやんなっちゃったのだろうが、ご冥福をお祈りします。楽しい漫談だった。

 歌といえば1969年頃、里吉しげみ作詞、小林亜星作曲でハニー・ナイツが歌っていた『オー・チン・チン』という唄もある。別に犬が後ろ足で立ち上がる唄でもないし、もちろんフランスのバラの花の歌でもない。まさに男の子の下半身に関する幼い思い出をたどる可愛い歌詞なのだが、当時のPTAに代表される大人社会には堅物で洒落っ気のないバカが多かった、「あの歌詞は何だ」「けしからん」「青少年の教育上よろしくない」「吐き気がした」…とにかくありとあらゆる罵詈雑言を浴びせられて放送禁止になってしまった。
 最近ではネット上で復権して、検索をかければいつでも聴くことができるので、私たちの一つ上の世代の大人たちが、いかに私たちの世代を型にはめて抑圧しようとしたか、ちょっと確かめてみて頂きたい。だからあの時代にちょっと品のないウクレレ漫談などを昼の放送で流していた牧伸二さんは、意外に反骨精神に富んだ人だったのかも知れないと今にして思う。

 それはともかく(笑)、フランスで生まれたせっかくの名花も、日本ではその名前ゆえに笑いのネタになってしまうところが気の毒である。そんな話をしようと思ってオランダのScheveningen在住のシモネッタ嬢にメールを送ったのだが、彼女の住んでいる街の名前もまた日本人が聞くと笑いをこらえるのにちょっと困る。
「スケベニンゲン」
これはちょっと…ということなのか、最近ではオランダ人の発音に近づけて「スヘフェニンゲン」と表記することもあるようだ。ドイツ語読みすると「シェベニンゲン」だが、戦争中にドイツ人スパイを見つけ出すために、わざわざこの街の名前を発音させたともいう。
 そんな話もシモネッタ嬢から聞きたいと思ったのだが、彼女はあいにく休暇を取ってバリ島のKintamani湖に行ってしまって留守だった。


ってどんな色?

 先日都内で開かれた学会でソムリエの田崎真也さんの講演を聴く機会がありました…って何の学会に行ってんだよと思うでしょうが、れっきとした医学関連の学術集会の昼休みに、特別ゲストとしてお話をされたわけです。1995年に世界ソムリエコンクールで日本人として初めて優勝された凄い方で、食べる楽しみを皆で共有することが大切であるとおっしゃっていました。

 やはり一つの道を極めた一流の方のお話は、自慢話めいた後味の悪さが全然なく、淡々としていながら実に奥深いものでしたが、私が最も面白いと思ったのはソムリエの修業の方法についてです。ソムリエは年間に何百本という数のワインを試飲して、これはどんな料理と一緒にお客様に勧めればよいかを判断しなければいけないが、一度飲んだワインの味や香りは文章にして記憶するというところ。

 この「
文章にして」というのは、実は私も学生さんに顕微鏡標本の見方を教える時に言っていることと共通点があるのです。まず私が学生さんに掲示してある勉強法をご覧下さい。(多少補足してあります)

画像問題の勉強法
 国家試験や各種模擬試験を見ると、病理組織学や血液検査学分野で顕微鏡写真問題が必ず何題か出題されており、組織名、細胞名などを問われている。
『これは何の組織か』『この細胞は何か』
何年も病理検査に関わった医師や技師ならば簡単に見分けられる画像でも、まだ顕微鏡で人体組織や細胞を勉強し始めたばかりの学生にはなかなか判断が難しい。

 以下の2枚の写真は、今年の2年生の解剖学実習試験としてそれぞれ1組と2組に出題したものであるが、正解率100%というわけには行かなかった。腎臓と膵臓の組織は初心者の目にはどちらも同じように見えるから注意が必要だと、実習中に教えたにもかかわらず…。

 背景の“海”の中に丸い“島”が浮かぶ構造、この2つの組織は学生にとってはなかなか見分けるのが難しいが、それは何故か?

 人間の目は最高級のデジタルカメラを凌駕するほど精密な感覚器官である。その人間の視覚情報をもとにしているのが解剖学や病理学、細胞診断学、血液診断学などの形態診断であるが、それを何年も続けてきた専門の人間でなければ、画像情報を画像のまま頭の中で処理することは困難である。学生諸君があと2年や3年、学校の教科として顕微鏡を覗いたくらいで到達できる領域ではない。

 国家試験対策、あるいは卒業後の細胞検査士試験対策など、画像診断の初心者や初学者は、まず
膨大な画像情報をテキストファイル情報に変換すること
 細胞の形、数、密度、染色の色、核の形、管腔の形、大きさ、血管の密度…、とにかくありとあらゆる形態の要素を、できるだけ正確に詳しく自分自身の言葉で表現して、それをテキストファイルの形で記憶すること。そしてそのテキストファイルの記憶を解凍して、元の画像を思い浮かべることが出来るように反復訓練すること。

 最近のUSBメモリなら、文豪トルストイとドストエフスキーが2人で一生かかったって、文書ファイルで満杯にすることは出来なかったであろうが、ある程度の画質を持つ画像ならばそう無制限に何枚も保存できるわけではないことを考えれば分かるであろう。ファイルの大きさは桁違いである。つまり画像のまま記憶しようとするよりも、テキストファイルの形で記憶する方が、メモリの容量ははるかに小さくて済むのだ。

 画像情報をテキストファイルで記述する表現力を鍛えるために、目に見える風景、友人の風貌などを片っ端から文章にしていく練習をするのも良いかも知れない。
 上の写真の正解は左が膵臓、右が腎臓である。

 
まあ、味覚・嗅覚と視覚の違いはあるが、人間の五感で取り込んだ情報をプロとして活かしていく訓練としては似たものがあるように思いました。しかし細胞や組織の形に限らず、人の顔や風貌などの視覚情報ならば、丸い、四角い、細長い、大きい、小さい、濃い、薄い、淡い、均一、まだら…等、等、目で見た情報を記述するのに適当な語彙がけっこう豊富に見つかりますが、味覚や嗅覚の情報はどんな単語を使って表現したらよいのでしょうね。
 レモンのような香りといっても、今度はそのレモンの香りがどんなものか記述しなければいけません。きっと一流のソムリエのような人たちは、絶対的な味覚や嗅覚の基準を幾つか持っているのかも知れません。例えば「庭に毎年咲くバラの香り」とか「あの店のケーキの甘さ」とか「あの胃薬の苦さ」などの基準に比べてどれくらい近いか、あるいはどういうふうに違っているかなど…。

 聴覚情報も記述は難しいですね。そう言えば誰かの声を記憶する時は、高い声とかガラガラした声などという一般的な形容詞の他に、○○さんとよく似た声とか、▽▽君を少し低くしたような声などという覚え方もします。
 こうしてみると視覚情報を記述するにあたっては、他の感覚情報とは比べ物にならないくらい語彙が豊富なことに気付かされますね。それは世の中の多くの人たちが共有できる絶対的な視覚情報の基準が完備しているということであり、別の言い方をすれば人間が生きていくうえで視覚に依存する割合は非常に大きいということでもあります。もし犬が人語を喋れれば、彼らはきっと驚くほどたくさんの嗅覚情報に関する語彙を持っていることでしょう。

 ところでその最も記述しやすいと思われる視覚情報ですが、例えば赤ってどんな色ですか?「赤い」と言えば、世の中のほぼすべての人が「ああ、
こういう色だな」と意味を共有できるので、それ以上は記述しなくて済む。しかしよくよく考えてみれば、私が見ている赤と、皆さんが見ている赤は同じ色かどうか、本当は分からないし、確かめようもありません。
 私が見ている赤は、私の網膜の細胞が受信した大体700nm前後の波長の光を、私の脳が識別して、私の意識に対して投射した幻影に過ぎません。私の意識が「赤い色が見える」と思った時、約700nmの波長の光が私の目に入ったということだけが唯一の事実であり、同じ波長の光が皆さんの目に入った時に皆さんの意識の前にどんな幻影が展開されているのか、それは皆さんしか分からないことです。
 もし私の意識だけが身体から離脱して皆さんの身体に入り、皆さんの網膜と皆さんの脳を使って波長700nmの光を見た時にどんな幻影が展開されるのか、たぶん私の意識が知っている赤とはまったく違った色だと思います。もしかしたら色彩の概念そのものも違っていて、私の意識にとっては音に近いものかも知れない、しかしそれは永久に分かりません。

 ソムリエの田崎真也さんの講演を聴いて、久し振りに人間の五感の相対性について考えてみました。しかし視覚も聴覚も、味覚や嗅覚も、それぞれの人の意識に投射される幻影は違っていても、それが心地よい幻影なのか不快な幻影なのかは大体誰にとっても共通だと思います。
 そもそも動物に感覚器官が備わっているのは、個体の生存や種の保存にとって都合の良いように運動を制御するためですから、どんな感覚刺激もほぼすべての個体に対して同じように、ポジティブまたはネガティブな幻影を投射するはずです。と言うより、ある刺激に対して一定のパターンで反応できる個体だけが適者生存で子孫を残してきたと言うべきかも知れません。


小児科研修医時代

 2013年6月初旬、札幌で日本病理学会があり、その時に一般市民への病理医紹介も兼ねて日本病理医フィルが演奏会を開催した話は前回書きました。ところがその演奏会に、まだ駆け出しの小児科医だった私を最初に手取り足取り指導して下さった小児科の先生が聴きに来て下さっていて、何枚かカーテンコールの写真を頂きました。

 1977年5月に医師免許を取得した私はそのまま東大病院の小児科に入局して研修医生活が始まったわけですけれど、その一番最初に私をマンツーマンで指導する係だった先生が、現在は札幌で開業しておられ、今回の演奏会の話を知って聴きに来られたのです。

 その後はこの先生はあまり東京におられることが少なく、1983年に小児保健学会が沖縄の那覇であった時にそちらの病院に転勤されていたその先生と再会し(この先生は沖縄出身だった)、1988年に病理学会が札幌であった時にこちらで開業されたばかりの先生にお会いし、その後の平成になってからは年賀状のご挨拶だけになっていたのですが、今回また不思議な縁でメールを頂いたのでした。もっとも私の方はまさかいらして下さっていたとはツユ知らず、札幌では失礼してしまって、後から知った次第です。

 私が卒業したてホヤホヤの研修医だった頃、この先生はすでに医師として4年目のキャリアを持っていました。大体時代を問わず、どこの科でも新人医師の直接指導に当たるのは卒後数年の経験を持つ中堅医師であり、この兄貴分、姉貴分の指導医師のことを「オーベン」、その下で研修する新人を「ネーベン」と呼びます。オーベンはドイツ語で「上」、ネーベンはドイツ語で「傍ら」という意味から派生したものと思われますが、医師の研修病院の業界用語ですね。ちなみに看護師や検査技師は指導者集団・対・新人集団のいわゆる集団指導体制が多く、あまりこの言葉を使っているのを聞いたことがありません。

 さて私はこの先生を最初のオーベンとして、その後何十年間にもわたる医師生活をスタートしたわけですが、いくら医師国家試験は通ったとはいえ、やはり最初はビクビクものでした。自動車の運転免許を取って最初のドライブみたいなものですか。

 研修医はオーベンの先生の傍らについて、何人かの病棟の患者さんたちを受け持って診察するのですが、私の研修した東大病院小児科は、オーベンの先生たちが本当によくネーベンの面倒を見てくれました。私が研修した頃は、医師は患者さんを診るのが本義であって研究などに時間を割くのはけしからん、という“診療原理主義”みたいなところがあって、そのため東大小児科のアカデミックな研究レベルが他大学に大幅な遅れをとる原因にもなりましたが、1年目の研修医としては1人1人の患者さんを丁寧に診療する基本的姿勢を身につけることができました。これは職業生活を通じての一生モノの財産です。

 他の科などではオーベンたちは自分の研究論文を書くためにほとんど研究室にこもってしまい、1日1回か2回くらいしか病棟に姿を現さない、あとは研修医のネーベンが患者さんの訴えを聞いてさまざまな処置を行ない、何か困った時だけ研究室にいるオーベンに電話で相談する…なんて状況も多かったようです。こんな初期研修を受けて育った医師に後々受け持たれた患者さんは不幸だと思います。

 研修医に任される仕事は基本的な問診と身体所見を取ってカルテ記入、翌日の検査の準備と伝票書き、血液や尿や骨髄などの顕微鏡検査、また私たちは小児科医でしたから患者さんの遊び相手、等、等、いろいろ忙しく、毎晩10時過ぎくらいまで病棟で働いていましたが、自分もこれで社会人になったという気分もあってけっこう楽しかったです。

 クタクタになって地下鉄の本郷三丁目の駅から帰る途中1回だけ、高校時代の友人に遭遇したことがありましたが、向こうはもう社会人3年目、銀行支店の部下の若い女の子たちを何人も引き連れて意気揚々と飲み歩いており、ちょっと羨ましいと思いました。何しろあの当時は銀行の窓口の女の子たちでさえ年収が一千万近くあるという噂で、そんな女の子たちに酒食をふるまっているあいつは何者なんだよ…というわけ(笑)、私たちは無給だった。当時も研修医は雀の涙くらいの日給は貰っていたが、私たちの入局した東大小児科は、そんな金を受け取って大学当局に“管理”されることを“政治的”に“拒否”していたのです。

 あと研修医時代の強烈な思い出は患者さんの採血と点滴でした。これは医師免許を持っているから1年目の研修医でも施行することが出来ます。医療職の免許を持たずにやれば刑法で傷害罪にさえなりかねませんが…。
 最初はかなりドキドキするものですよ。大人の患者さんはおとなしく腕を差し出してくれるからいいが、子供は当然のことながら嫌がって暴れることが多い。だから看護師さん(当時は看護婦といった)とペアで病棟を回り、彼女らに子供の腕を押さえて貰って、血管を探って針を刺すわけです。
 まだ駆け出しの研修医なんかより看護師さんの方がもちろん採血も上手でした。中には医師に注射器を持って構えさせておいて、自分の方で子供の腕を動かして血管内に針を挿入し、「ハイ、先生、今だよ、ピストンを引いて!」と合図をして、医師が言われるままに注射器のピストンを引くと子供の血液がスッと入ってくる、なんていう神業みたいな採血技量を持った超ベテラン看護師さんもいたものです。

 最近では看護師よりも臨床検査技師の方が採血の技量は数段上ですね。少なくとも若い看護師さんでは私の学科の教え子たちにかなわないでしょう。私、採血うまいよ、と自慢話をしていく卒業生も何人もいます。でも誰でも最初は皆ドキドキしてるものです。特に1回針を刺して首尾よく血液が採れず失敗した後の気まずさ、大人の患者さんでもそうですが、小児科の場合は親御さんの目の前で子供の腕に針を刺すわけです。まるで我が子の血を吸う不倶戴天の敵を見るような眼差しでじっと睨みつけられた時のプレッシャーったらなかったです。
 1976年にリリースされた森田公一とトップギャランの『青春時代』という歌に、
青春時代の真ん中は 胸にとげさすことばかり〜♪
という歌詞がありますが、我々はカラオケなど行くと、
研修時代の真ん中は 腕に針さすことばかり〜♪
と替え歌にして歌ったものでした。

補遺:私の小児科研修最初のオーベンは、札幌でかねし小児科を開業されている兼次邦男先生です。


アイスクリーム早食い競争

 早いもので今年(2013年)ももう半分過ぎて7月になりました。夏と言えば若い頃は学校のプールに出かけて毎日泳いでいたものでしたが、最近はそんな元気もなし。あの頃は水泳パンツの上にシャツを羽織って音楽部の夏季練習に出て、練習が終わったらそのままプールへ直行でした。

 まあ、今も昔も変わらぬものは、夏と言えばアイスクリームやシャーベットにかき氷、
私は昔から冷たい物が異常に大好きでした。かき氷を食べると頭の芯が冷たくなってキーンと痛くなるという人がいますが、私などはグズグズしていて氷が溶けたら勿体ないので、さっさと食べてしまいます。頭なんかちっとも痛くなりません。私が大盛りのかき氷を一杯食べ終わった時にまだ半分以上残している人が大部分ですね。手伝ってあげたい気分…(笑)。
 小児科の研修が終わったばかりの頃、若い看護師さんとサーティーワンでアイスクリームの食べ比べをして圧勝したこともありました。とにかく私は冷たい物を食べる量も、食べるスピードも絶対他人に負ける気がしません。私がこれまでの人生で、冷たい物を食べ遅れた相手はただ御一人、今回は私がシャーベットを食べ負けたその御方のことを書いてみます。

 7月といえば14年前、例のノストラダムスの大予言が的中するかどうか、密かにドキドキしていた人も多かっただろうと思います。私も半分冗談でしたけれど、恐怖の大王が降って来て職場の部屋が瞬時に水没する光景とか、自宅が火炎の中で蒸発する光景とか、思い巡らせてみることもありました。
 その1999年7月最後の週末、カミさんのバイオリンリサイタルがサントリー大ホールで開かれることになっていましたから、人類が滅亡してもしなくてもどうでも良いから、そのリサイタルだけはやらせてあげたいと思っていました。

 そしてリサイタル当日、サントリー大ホールは満員の盛況でリサイタルは大成功を収めましたが、この演奏会に皇族の
高円宮親王がいらして下さったのです。私より3歳年下でしたが、とても気さくで頼りがいのありそうな方で、この方が生きておられたら日本の皇室ももっと何とかなったんではないかと思います。
 それで高円宮様のお出ましからお帰りまで、私が付きっきりでお相手させていただきました。緊張のあまりとてもカミさんの演奏どころではありませんでしたが、私がシャーベットを食べ負けた相手こそ、この宮様だったわけです。

 リサイタルの休憩時間、宮様には私と一緒に控え室でお休み頂く手順になっており、そこへシャーベットが2人前運ばれて来ました。1つはもちろん宮様の分、もう1つは私の分です。直径6センチくらいのボール状のユズのシャーベットが2個、シャンパングラスの中に入っています。いくら緊張していたとはいっても、冷たい物を食べるスピードが決して鈍るはずもありません(笑)。ところが…
 いつものペースで食べ終わってみると、高円宮様はもうすっかり召し上がられているではありませんか。一般庶民のようにガツガツ食べた様子など微塵もなかった、それなのに宮様はご自分のグラスを早々に空にして、まさに何食わぬ涼しげなお顔で談笑を再開されたのです。これには私もまったく恐れ入ってしまいましたね。

 冷たい物の食べ比べで負けたというよりも、その召し上がり方の洗練された上品さには完全に脱帽だったです。食べ物を召し上がっておられるという雰囲気が少しも漂ってこなかった、だから私もお気を遣わせては申し訳ないので、先ず自分が食べてしまわなければいけないと思っていたわけです。ところが食べ負けた…、あの時いったい何が起こったのか、実はいまだによく分かっていません(笑)。

 今にして思うと、現代の皇族の方々は常に日本国民を代表して国内外を回られている、そのスケジュールはおそらく分刻みの過酷なこともあるでしょう。しかもその途中で飲食の接待も多いでしょうが、時間が無くて万一にも食べ残すことがあってはならない、その飲食物を作った人や給仕した人に気を遣わせるからです。やんごとなき方に召し上がって頂けなかったという悔いを感じさせてはいけない、だから皇族の方々は一般庶民以上に気を遣われているんだなあと思います。

 私があの日、目の当たりにしたのは、そういう日々のスケジュールの中で自然に身についた立ち居振る舞い、帝王学の一端だったかも知れません。今でも丸い形のシャーベットなど食べていると、あの日の洗練された高円宮様の雰囲気が懐かしく思い出されます。
 あの3年後、高円宮様は急逝されました。とても残念です。ご冥福をお祈りいたします。


ここは病理医の独り言の第9巻です      第8巻へ戻る       第10巻へ進む
トップページに戻る      病理医の独り言の目次に戻る