横綱 朝青龍問題
最近のスポーツ欄を賑わわせている記事に、大相撲の横綱 朝青龍問題がある。朝青龍は2007年7月の名古屋場所で優勝を飾った後、左肘靭帯の故障と腰椎疲労骨折を理由に大相撲の夏巡業を休場したまではよいが、その後モンゴルに帰国してサッカーに打ち興じる元気な姿をテレビで放映されたから大問題になった。
地方のファンサービス、地域の復興支援などの目的も兼ねて行なう巡業を仮病を使ってサボったということで、日本相撲協会の怒りは頂点に達した。これまでも数々の素行問題を引き起こしてきた横綱だけに、今回は堪忍袋の緒が切れたということだろう、8月1日の緊急理事会で、2場所出場停止、30%の減俸、病院と稽古場以外は自宅謹慎という厳しい処分を決めたという。
このニュースに関して一般の街の声も拾っていたが、「日本の国技の威厳」とか「横綱の品格」といったキーワードを挙げて、朝青龍を非難する人が多かった。中には「辞めてしまえ」という声まであったが、これらはすべて日本人の国際常識を疑わせる事態だと私は思っている。
何でこんな大相撲の話題が「歴史独り旅」のコーナーにあるかと言うと、かつて2003年の年末に行なわれたK-1の曙vsボブサップの試合に関して、やはりこのコーナーで考察したこともあるからだ。日本の国技である大相撲は諸外国の格闘技と違って、戦いの勇者を選抜する目的よりも、日頃の精進を神前に捧げる儀式としての色彩が濃く、したがって勝敗は二の次であり、格式とか品格などという得体の知れない要素が重視されると書いた。
こういう国技の精神構造が真珠湾攻撃や対米戦の一因である可能性を指摘したが、それについては別項の方を読んで頂くとして、今回の朝青龍に対する厳しい処分や、ほとんど罵倒に近いファンの人々の声には疑問を感じざるを得ない。
日本の国技の精神が踏みにじられたと憤る前に、それでは何でそんな神聖な国技の世界に外国人の青年を引きずり込んだのか。我々日本人は相撲協会も相撲ファンも、モンゴル人の朝青龍(本名ドルゴルスレン・ダグワドルジ)に何を期待していたのか。
思えばかつてハワイ出身の関脇 高見山、大関 小錦、横綱 曙や武蔵丸らによって“強い外国人力士”の時代が始まったわけだが、いったい日本人は彼らに何を期待してきたのか。彼らの心までを日本人に染め上げて、神聖な国技の優越性を誇りたかっただけではないのか。それでは大東亜共栄圏のアジア諸国民に“八紘一宇”や“万世一系の皇室”という日本の価値観を頭から強制した傲慢な精神構造と何ら違いはないではないか。
そもそも諸外国の格闘技ではチャンピオンが一番偉いのである。一番強い人間が一番威張っていても、他国ではそれが当たり前と受け止める人々の方が多いと思う。一番強い力を秘めた人間が非常に謙虚に振舞うことを立派だとする価値観は、確かに日本人の誇るべき美徳であると思うが、独りよがりの美徳を他人に押しつけた時、それは傲慢に変わる。大東亜共栄圏の失敗がそれを如実に物語っている。
我が国が経済発展で豊かになるにつれて日本人の“ハングリー精神”が減退し、大相撲の新弟子たちの中にも全盛期のような有望株が少なくなった。それに代わって相撲部屋の親方たちはハワイやモンゴルやヨーロッパの青年たちの中に昔の日本人のような敢闘精神を見出し、日本にスカウトしてきて弟子入りさせた。それは結局、強い力士を育成して大相撲の興行を支えたいという協会や熱心なファンの願いでもあったはずだ。
スカウトされた外国人青年たちは、言葉もしきたりもまったく違う異国で頑張って番付を上げていった。それは想像もつかないくらい大変な努力の賜物だったであろう。彼らは本当によくやった。彼らの修行の道は賞賛に値する。しかし我々は決して彼らの心までを日本人に染め上げることを期待してはいけない。彼らの母国に生きる格闘技の精神までを否定してはいけない。
今回の事件で朝青龍は極度の鬱状態になったという。彼の心が日本人に染まりきらなかったからといって彼を罵倒した日本人ファンに言いたい。外国人の心までを日本人に染め上げるのが国技の伝統だと言うのなら、外国人をスカウトしてまで興行成績を保とうとした大相撲協会をこそ、先ず真っ先に非難するべきではないのか。大東亜共栄圏以来、少しも変わっていない日本人の傲慢な心を私は愧じるものである。
お調子者の“航空母艦”
2007年8月23日、13500トン型と呼ばれる海上自衛隊最大の護衛艦の第1艦が横浜で進水し、何と宮崎県地方の旧国名をとって「ひゅうが」と命名された。旧帝国海軍にも「日向」という名前の戦艦があり、これは後にミッドウェイ海戦で撃沈された大型空母4隻の穴を埋めるべく、艦尾側約1/3ほどを空母のような飛行甲板に換えて、いわゆる航空戦艦となったことは艦船マニアの間では有名な話である。
ところで海上自衛隊では旧国名を冠した艦はこれが初めてである。このサイトの別のコーナーでも論じたことだが、海上自衛隊の護衛艦には、旧海軍の駆逐艦のように天然現象から艦名を取った大型護衛艦(むらさめ、あさぎり、はつゆき等)、軽巡洋艦のように川の名前を取った小型護衛艦(ちくご、あぶくま、いしかり等)、重巡洋艦のように山の名前を取ったヘリ搭載大型護衛艦やイージス艦(はるな、くらま、あたご等)があり、仮に旧海軍で戦艦に命名されていた旧国名が護衛艦につけられるとすれば、それは航空母艦であろうと予測した。
海上自衛隊に航空母艦が誕生するとすれば、それは専守防衛路線を一歩逸脱して、日本の海上戦力が攻撃型海軍に脱皮することを意味する。私は今回の13500トン型護衛艦が旧国名を取って「ひゅうが」と命名されたことは意外であったし、遺憾であるとも思っている。「ひゅうが」の延長線上に航空母艦「やまと」「むさし」「ながと」「いせ」などの就役が現実味を帯びてきたからでもあるが、「ひゅうが」がどんな艦であろうとも、今回の命名法は海上自衛隊が従来の護衛艦とは一線を画した新しい種類の艦を保有したという意志を、内外に向けて誇示したことには違いないからである。
先ずはたして「ひゅうが」は空母だろうか?海上自衛隊幹部や政府関係者は空母ではない、ヘリコプター空母(ヘリ空母)だと弁明するだろうが、そう簡単に納得できないことも事実である。確かに空母とヘリ空母は違う。厳密に空母と言えば“攻撃型空母”を指し、戦闘機や攻撃機を搭載して敵地や作戦地近くの海面にまで進攻して航空作戦を実施する艦種であり、一方のヘリ空母は対潜作戦の中核として活躍するばかりでなく、大災害などの被災地に派遣されて救援活動などに従事するにも手頃な艦だ。
今回の進水式の写真を見れば、「ひゅうが」はアメリカ海軍のニミッツ級空母などに比べれば艦型も貧弱で排水量も少なく、どちらかと言えば列国海軍のヘリ空母に近い。だがこの点だけをもって「ひゅうが」は空母でないとは言いきれない。問題は「ひゅうが」がハリアーなどに代表される垂直離着陸戦闘攻撃機の運用までを考えて設計されているかどうかである。垂直離着陸航空機はヘリコプターのように狭い場所から垂直に離着陸できるばかりでなく、一旦上空に上がってしまえば固定翼の航空機に匹敵する性能を示すこともできる。もし「ひゅうが」が将来的に垂直離着陸戦闘攻撃機の運用までを考えているとすれば、これは攻撃型空母に準ずる艦種と考えなければいけない。
判断基準は飛行甲板の強度である。通常のヘリコプターのようにフワッと上がったり降りたりするだけならよいが、垂直離着陸航空機は強力なジェット噴射を下向きに垂直に噴射するから、飛行甲板もそれに耐えられる強度を持っていなければならない。「ひゅうが」の飛行甲板が垂直離着陸航空機の発着に耐えられるように設計されているかどうか、残念ながら私は知らない。
13500トン型護衛艦(「ひゅうが」)の計画に先立って、艦船マニアにはおなじみの不思議なできごとがあった。もう数年前になるが、艦船専門誌に掲載された13500トン型護衛艦の完成予想図は実に奇妙な形をしていたのである。長大な艦体の中央に艦橋が位置しており、飛行甲板は艦橋の前部と後部に分割された変な格好、つまりできるだけ空母に見えないように意図して描かれた絵であった。
こういうゴマカシをしてまで作る物にロクなものはない。国民に誤解を与えないように、なるべく空母に見えないような完成予想図を公表したと弁解するかも知れないが、すでに当時は複数のヘリコプターを運用できる輸送艦「おおすみ」が完成しており(写真右)、この艦のシルエットもまさに空母そのものであるから、今度の13500トン型護衛艦にそんなゴマカシをする必要はなかった。ちなみに輸送艦は半島の名前から命名されており、「おおすみ」の同型艦には「しもきた」「くにさき」がある。
この経緯を考えたとき、私はやはり「ひゅうが」は攻撃型空母の先陣を切って進水したという疑いを拭いきれない。周辺諸国への配慮とか、艦載航空機部隊の運用に色気を示してくる航空自衛隊への牽制から、今のところはヘリ空母と名乗っているが、いつの日か機密のベールを脱ぎ捨てて垂直離着陸戦闘攻撃機を搭載した準攻撃型空母に変身する可能性はある。
現在は攻撃型空母の最大の保有国はアメリカ海軍であり、空母を用いた航空作戦はアメリカの独擅場だが、実は日本こそ空母を攻撃的任務に運用した最初の海軍だったではないか。世界を見渡せばエッと驚くような小国海軍でも今は空母を保有していたりもするが、その大部分は“ナンチャッテ空母”であって、本来の用途に用いられているものは少ない。戦史上で攻撃型空母を本来の大規模な航空進攻作戦に運用した経験のある国と言えば、アメリカの他には、フォークランド戦争(1982年)のイギリスと、第二次世界大戦の日本しかないのだ。
60年以上も昔と現在とでは空母運用の技術も戦略も格段の進歩を遂げているが、かつて空母を運用した経験のある日本にとってその空白を埋めることは、例えばロシアや中国などが新たに空母部隊を創設することの困難さに比べたら物の数ではないと思う。日本には空母作戦を実施しうる素質はあるのだ。実際に空母を運用した経験者から直接に指導を受けた世代がまだ現役のうちに空母を建造しようと画策するのは、軍人ならばごく自然な発想である。
さて将来の日本がそういう攻撃型空母を保有する国であってよいかどうか、それを決めるのはもう我々の世代だけではなくて、次の世代の日本人たち、すなわち空母艦載機に乗り組んで○○湾に奇襲攻撃をかけることになるかも知れない世代、あるいは空母に乗り組んだ息子や娘たちの無事を祈ることになるかも知れない世代の日本人たちの手に半分以上委ねられた。憲法9条を変えるかどうか、アメリカやインドを飛び回って半ば公然と中国封じ込めを口にするような政治家一味を支持するかどうか、そういう国民の一挙手一投足にかかっている。
とりあえずここでは空母保有の是非は問わないことにして、次に新型の13500トン型護衛艦に「ひゅうが」と命名した海上自衛隊など防衛関係者の思慮の浅さについて指摘しておきたい。従来の海上自衛隊の主力護衛艦には天然現象名、河川名、山岳名がつけられているが、何で今回は別のジャンルの旧国名を選んだのか。今度の13500トン型護衛艦はこれまでのとは一味違いますよということをわざわざ得意になって公表しているようなものだ。何と無邪気でナイーブで馬鹿な連中であろうか。
仮に空母でなかったとしても、従来とは違う命名をしたことによって空母に違いないという疑惑を抱かせるに十分であり、周辺諸国の警戒感や過剰な対抗処置を招くので、これは国防上実に由々しき事態だ。
またもし本当に空母だった場合はもっと馬鹿である。俺たちは空母を作ったぞと内外に吹聴するに等しい自滅行為だ。戦艦大和を作った時、俺は世界最大の戦艦を作ったぞと吹聴したか?重巡洋艦に変身することをあらかじめ予定していた「最上」級巡洋艦だって、わざわざ軽巡洋艦の名前で進水して意図を秘匿したではないか。
本来ならば、実は空母であろうとヘリ空母であろうと、13500トン型護衛艦には従来の山岳名から命名しなければならなかった。すでに「はるな」「ひえい」「くらま」「しらね」というヘリコプターを3機搭載した護衛艦があるし、天然現象名をつけた護衛艦でもヘリコプター1機を搭載したものが多い。今回の13500トン型もそれらの延長線上ですよというパフォーマンスが必要な局面であった。確かに「あかぎ」などと命名すれば、舷側に絆創膏を張った漫画で茶化されないとも限らないが、他にも「あまぎ」でも「いこま」でもあるだろうに、それを「ひゅうが」とは…。しかも日向の国は日本神話発祥の舞台でもある。その国名をわざわざ選ぶなんて…。まさか東国原知事にあやかったわけではあるまい。
こういう能天気なお調子者が我が国の国防に関わっていること自体、我が国の危機である。まるで新しい玩具の鉄砲を買って貰った子供が得意になって、学校で皆に見せて回って自慢しているような危うさを覚える。そんなことだからイージス艦の機密情報が漏洩したりしても何の罪悪感も無いのだろう。昔なら誰か上層部の1人や2人が腹を切って自決しているところだ。
イージス艦も玩具ならヘリ空母も玩具、新しい玩具を手に入れた子供がそれを見せびらかしたくて仕方がない、そんな風情を感じる。俺にはこういう玩具で一緒に遊んでくれる凄い兄貴分(アメリカ)もいるんだぜ、それも見せびらかしたくてたまらない。兄貴分もいるからインド君もオーストラリア君も俺らと一緒にC君を包囲してやろうよ、そんな子供騙しの構想を手土産に世界を歴訪する馬鹿者が首相をやっているから、防衛関係者もいい気になって玩具を自慢しまくる。
今の防衛省などに国防を任せておいたら、我が国はどうなってしまうのか。そんな心配事が多すぎるではないか。その極めつけが防衛大臣(小池百合子)と防衛次官(守屋武昌)の人事に関する確執で、政治家と官僚が対立する醜態を国民や諸外国の目の前で演じてしまった。何という人心の混乱、「人は石垣、人は城」と言った武田信玄がこの様子を見たら何と嘆くか。
まあ、今回の“航空母艦”劇からは話題も逸れてしまったし、新しい防衛次官になった人物は高校時代の同級生であることに免じて、この辺で終わりにしておく。
戦後レジームとは何だったのか
今回はやはり“あの事”についてコメントしなければなるまい。2007年9月12日の安倍晋三首相の突然の辞任劇のことである。この件についてはマスコミやネット上でいろいろ語り尽くされている観もあるので、ここではただ一点、安倍が盛んに口にしていた“戦後レジーム”とは一体全体何であったのかについてコメントしてみたい。
先ず安倍が初めて公に辞任の意志を表明した場面について、最も真実に近いのではないかと思われる記事が翌日の毎日新聞第一面にドキュメントとして掲載されていた。それによると…
12日正午すぎ、首相官邸。自民党国対委員長・大島理森と同副委員長・小坂憲次が首相・安倍晋三を訪れた。国会では、まもなく各党代表質問が予定されていた。
大島と小坂は、テロ対策特別措置法問題で安倍が民主党代表・小沢一郎に呼びかけた党首会談について、同党国対委員長・山岡憲次との協議内容を説明しに来た。
「総理、何かご指示がありますか」。水を向ける大島に、安倍は唐突にこう口にした。「それでは私の考えを伝えさせてもらいます。辞めることを決意しました」
ということだったらしい。何だい、これは…?唖然として声も出なかった。2人の自民党国会対策委員も腰を抜かさんばかりに驚いたことだろう。いよいよ敵軍との決戦を控え、両軍の前線がまさに戦いの火蓋を切ろうとしているその瞬間、指示を仰ぎに来た参謀に対して最高指揮官が「俺だけ退却するぞ」と言い放ったのだから…。
インターネットなどを見ると、安倍首相のある病名がまことしやかに書き込まれている。もし本当ならば医学的には同情申し上げるが、首相という職責を負った人間が突然任務を放擲する理由にはならない。参院選惨敗後も党内外の批判を押し切って首相続投に固執し、臨時国会開会に当たって施政方針演説で論戦の檄を飛ばしたばかりの指揮官が、その舌の根も乾かぬうちに唐突に辞任を口にする非常識、まさに前代未聞である。胃腸障害にしろ、ネット上に囁かれている病名にしろ、施政方針演説からわずか1日や2日で執務が不可能になるほど急速に悪化することはあり得ない。
私自身もかつて心身の重圧の強かった医療現場を撤退した人間であるから、安倍が健康上の理由から職責を全うできなかったこと自体を咎める資格はない。しかし私も含め、大きな責任を背負わされている人間が職を退く場合、きちんと後任を立て、職務の申し送りに遺漏なきように万全を期してから職場を去るのが常識であり、そんなことはここで改めて断るまでもないことだとばかり思っていた。
しかし一国の首相にまで指名された人間が、参謀クラスの者にとっても寝耳に水の唐突な辞任劇を演じるとは…。ここで思い返してみるがいい、安倍という男は首相就任早々から“戦後レジーム(体制)からの脱却”などという気取った単語を得々と語っていたのである。安倍が最も目の仇にした“戦後レジーム”とは憲法9条に象徴される平和ボケ国家、祖国に対する責任感も希薄になった最近の日本だったのではないか?
日本の最高責任者として形式上は信託されていながら、理由にならない理由で議会に対する責任を放擲し、祖国を裏切った安倍という男こそ、まさに“戦後レジーム”の悪しき一面の体現者としか言いようがない。安倍という男は私の3年後に戦後日本に生を享け、日本国憲法の庇護の下、個人の幸福を最大限に追求することを許されたほぼ同じ時代に幼年期、少年期、青春時代を過ごしてきた。折からの日本の経済発展の中、岸信介、安倍晋太郎と続く政治家の“名門”と言われた裕福な家庭に育った安倍晋三は、経済的にも何一つ不自由なく、ヌクヌクと戦後の時代を生きてきたはずである。
私などもどちらかと言えば同じように家庭的にも恵まれて同じ時代を生きてきたから、安倍のことをとやかく言えないが、だからこそ私は、安倍が“戦後レジーム”と呼んだこの時代をありがたいと感じ、貴重なものとして次の世代に伝えていくことが大切だと思った。
しかし安倍という男は自分がヌクヌクと育ったこの時代に向かって唾を吐き、自分を守ってくれた日本国憲法を破棄することこそ自分の使命と公言した。イソップの物語だったと思うが、こんな話があった。狩人に追われた鹿がブドウ畑に逃げ込んだ。鹿の姿はブドウの葉に隠れて狩人からは見えなくなり、鹿は命拾いをする。しかし狩人が行ってしまうと腹の減った鹿は我慢できなくなり、ブドウの葉を食べ始めた。やがて鹿の姿は丸見えとなり、そこへ戻ってきた狩人、「何だ、鹿の野郎、こんな所にいたのか」と呟くなり、鉄砲を構えてズドンと撃った。鹿は一巻の終わり。
私には安倍という男はこの物語の鹿のように思えてならない。自分をヌクヌクと育ててくれた戦後レジームを声高に否定したために、それまで自民党内でくすぶっていた強硬なタカ派の連中が担ぐ絶好の神輿(みこし)と見なされてしまった。順風満帆に見えた時期はまだ良かったが、閣僚の失策が相次ぎ、年金問題・政治資金問題の逆風が吹き荒れるに及んで、実力不相応な器でしかなかったことが誰の目にも明らかになってからも、まだタカ派の単なる神輿として利用されるだけ利用されつくしたあげく、心身ともにズタズタになって自滅していった。
思うに“戦後レジーム”の最大のキーワードは自由である。他人の自由を侵害さえしなければ何をしても自由、何を学んでも自由、何を考えても自由、何を言っても自由。我が国には自由を否定する自由さえある。日本国憲法第99条で、自由、民主主義、平等、福祉、平和を謳ったこの憲法を尊重擁護する義務は、天皇、摂政、国務大臣、国会議員、裁判官、その他の公務員に限られているが、このことは逆にその他の大多数の国民には憲法に保障された自由や平和などの価値を否定する自由があると解釈されてきた。(ドイツにはナチスを肯定する自由はない。戦後の日独の最大の違いである。)
安倍という男はこの自由な“戦後レジーム”の中で憲法9条を否定したために、自民党内に巣食う亡霊たちに取り憑かれて利用されて滅んでしまった。しかし憲法99条によれば、本来国会議員であった安倍には憲法を否定することは許されなかったはずなのだ。しかし安倍という浅はかな男は敢えてそれをやって、ブドウの葉を食べた鹿と同じ運命を辿った。
まったくつまらぬ子供の総理大臣ごっこに付き合わされたという腹立たしさだけが残る不愉快な結末である。何が“美しい国”だ!何が“戦後レジームからの脱却”だ!気取った身振りと表情で得意げにそれらを語っていただけに余計に腹立たしい。
どこの世界にも飲み会をやると、「俺の知ってるいい店があるから二次会に行こう」と皆を強引に引っ張って行く迷惑なヤツが必ず何人かいる。仕方なく付き合わされていくと、自分だけ店のママと懇ろに話し込んだり、デュエットで盛り上がって自分だけ良い気分になっていて、ああ、こいつはリーダーの器じゃないなと思って私は眺めているが、まさに安倍はこのタイプであった。
クラブ『美しい国』へ行こうと一人で気負いこんで国民を強引に二次会に誘って自分だけ盛り上がったあげく、勝手にゲロを吐いて酔い潰れてしまったからますます始末に負えない。こんなヤツとは二度と飲みたくない。
しかし安倍辞任に伴う後継者選びも呆れるばかりだ。麻生太郎幹事長はどうやら安倍の辞意をあらかじめ知っていながら、それを自分の後継総裁選を有利に戦うための材料にしようと目論んだ形跡があるし、昨年の総裁選には高齢を理由に出馬しなかった福田康夫元官房長官は1つ年取ったくせに今回は妙にギラギラ脂ぎっているし、2005年の総選挙で初当選した新人議員どもは議会での“保護者”を求めて小泉純一郎担ぎ出しを画策するし、まったく今の自民党は狐と狸とチルドレンしかいないのかと情けなくなってくる。
オリンピックがやってきた
デアゴスティーニ・ジャパンという会社から週刊昭和タイムズという雑誌(というよりMOOK)が創刊され、昭和時代の64年間を毎週1年ずつ特集していく企画らしい。時が平成に移ってまもなく19年、これも昭和という時代がまるごと歴史として振り返られるようになった象徴か。
その創刊号が昭和39年(1964年)だった。昭和元年でもなく、昭和最後の年でもなく、あるいは長かった昭和時代を戦前と戦後に区切った昭和20年でもなく、昭和39年を創刊号に選んだ理由は何となく納得できる。あの時代に青春を送った団塊の世代や、その少し後の私の世代は、昭和39年という年を特別な思い出を持って記憶しており、その世代にアピールすることでこの企画を成功させたいと思ったのであろう。
昭和20年までの時代に思い入れを持つ世代はすでに現役引退して購買力も弱まっているだろうし、現在の消費・購買の中心とも言える30歳代〜40歳代の世代が最も鮮明に覚えている昭和は札束が舞う酒池肉林の時代、旧約聖書に描かれたソドムとゴモラのような時代だったから、これを創刊号に持ってくるのは多少は憚られたであろう。また戦前・戦中の時代というのは、最近でこそその復権を求める人も多くなっているが、戦後の歴史認識の中で一旦は否定された価値観の時代、そして順風満帆の経済発展の末にたどり着いたバブル経済の時代は今では跡形もなくはじけて、その価値観に疑問も生まれてきている。
つまり昭和を戦前・戦後前期・戦後後期の3つに大きく分けると、その前と後の各1/3ずつについては未だに時代の善悪の評価が混沌としているのに対し、真ん中の1/3に関してだけは何故か圧倒的多数の人々が“古き良き時代”として回顧しているのだ。昭和33年を描いた映画「三丁目の夕日」が大ヒットして続編も制作中という。もちろんあの時代も良い時代ではなかったという人もいるにはいるが、軍国主義の時代やバブル経済の時代を否定する人の数に比べたらきわめて少ない。
さてその“戦後前期”の締めくくりとも言えるのが昭和39年だった。このサイトの別のコーナーにも書いたとおり、昭和30年代というのは、20年代の復興で軍事の時代に負った深い傷も癒え、40年代から本格化する経済競争の時代の緊張感もなかった、そういう日本の端境期である。
世界の国々を相手に猛烈な殴り合い、取っ組み合いの大喧嘩の果てに生死の淵をさまよう重傷を負って入院、その後の世界情勢の中で各国の思惑もあって、喧嘩相手とも取り敢えず仲直りできた。お見舞も言ってくれる。陽光がさんさんと降り注ぐ明るい病室の窓辺で、これからは皆と腕力でなく知恵を絞って商売で競い合っていくか、そんなことを誓いながら将来のビジョンを思い描いている戦後日本、それが昭和30年代であり、いよいよ明日は退院というのが昭和39年であった。そんな年に良いも悪いもない。昭和各年代の中でも最大多数の日本人が“古き良き時代”として回顧するはずである。
戦争の重傷も治癒して明日は退院、晴れて国際舞台への復帰を祝うセレモニーが東京オリンピックだった。最近ではまた東京都知事自らがオリンピック招致キャンペーンの先頭に立っているようだが、仮に2016年に再び東京でオリンピックが開催される運びになったとしても、その歴史的意義は当時と現在とではまったく異なっている。第一、この30〜40年ばかりの間にオリンピック自体の意義がすっかり変わってしまったではないか。
1964年の東京オリンピックの開会式は10月10日、絶好の秋晴れの下で点火された聖火はそれから2週間にわたる熱戦を見守り続けたわけだが、この好天の日を開会式に選んだ日本オリンピック委員会に対しては、天気が好いのは別に委員会の功績ではないんだけれど、金メダルクラスの偉業だと各国関係者や報道機関から外交辞令の賞賛が寄せられた。まさにスポーツの秋だった。
しかしいつの頃からか、オリンピックは北半球の真夏に行なわれることになってしまった。屋内競技や水泳などならまだしも、マラソンや競歩など過酷なロードレースまでが真夏の炎天下で行なわれている。世界の若人のスポーツの祭典と言いながら、何で開催国の最も気候の良い時期に開かないのか。これは結局、各国の各種国内商業スポーツ(プロスポーツ)の試合日程に影響が出て、スポンサーの収益が減少するからではないのか。プロスポーツの優勝がかかる試合が多く見込まれる時期に、アマチュア競技に観客を取られちゃ大変だという非常に薄汚れた醜い商業主義が見え隠れしている。
1964年の頃はオリンピックと言えば、少なくとも当時の大多数の日本人にとっては本当に神々の祭典だった。確か開会式の日には国民的スポーツだったプロ野球でさえ試合日程を早めてシーズンを終了しており、最大のヒーローだった読売巨人軍の王、長島らもオリンピックを観戦したというニュースがあったと思う。先日亡くなられた長島の奥様も東京オリンピックでコンパニオンをしていて長島選手に見初められて結婚したのである。
スーパースター王・長島を擁したプロ野球でさえ試合日程を前倒ししてオリンピックを迎える、そんな時代の輝きは残念ながら現在の誘致運動には見られない。全世界的な商業主義に汚されたオリンピックを、同じく金儲けのタネとしか思わない政財界の要人たちが懸命に誘致しようとしているだけだ。競技場や選手村などのハコモノが完成してしまえば、そういう人たちの熱は冷めてしまう。
1964年のオリンピックを控えていた頃の日本は、子供の目から見ても純粋な国だった。私たち当時の子供も、大人と一緒になって東京オリンピックを楽しみに待ちわびていたようなところがあり、街中が凄い活気に満ちてウキウキしているように感じられた。クリスマスや年末の熱気が3〜4年ずっと継続していたようなものである。あの時代の雰囲気を経験できたのは、私たちの世代にとって幸運だった。
小学校の国語の教科書にも、東京オリンピック開催が決まった日の感激を綴った海外特派員の方の文章が載っていた。部屋で仕事をしていると別の国の記者が勢いよくドアを開けて、「トウキョウ!」と叫んだという話だったが、日本人として誇らしい気持ちが児童にも伝わってきた。
テレビでは外国からのお客様を暖かくもてなしましょうという番組がよく放映されていて、街頭で外国人から道を訊かれた時の返事の仕方などもやっていた。英語を知らない人でもこう答えればいいですという万能の言い回しも教えていたが、当時まだ英語を習っていなかった私は、残念ながらこの便利な言い回しの記憶がない。
子供向けの漫画週刊誌にもオリンピック・ネタはずいぶん登場した。ギャグ漫画の鬼才、赤塚不二夫さんの「おそ松くん」にも、1年間違えて早く日本に来てしまったマラソン選手とか、オリンピック期間に合わせて世界の泥棒たちが技を競う東京スリンピックとか、いろいろあった。
オリンピック直前に開業することになる東海道新幹線が全線開通して試験列車が走る日には、東京駅から新大阪駅まで空・陸・車内のカメラを動員して完全テレビ中継が行なわれた。何しろ当時としては世界最速の列車だったから、これで世界から来た人たちも目を回すぞと期待したものだ。
今になってみれば、そういう純粋に熱狂しやすい日本人の国民性が軍事に対して発揮されれば太平洋戦争のようになると思うけれど、当時の子供心としては決して居心地の悪いものではなかった。敗戦のショック“入院”から立ち直って、いよいよ国際舞台へと“退院”する予告であったし、また最近のような金まみれではない神聖な祭典を迎えるわけだったから、当時の日本人の熱狂は当然だったと思う。あの時代を体験しなかった世代の方々にとっても、そう考えればある程度理解できるのではないか。
そして1964年10月10日、いよいよ代々木の国立競技場で東京オリンピックの開会式が開かれた。上空には航空自衛隊のブルーインパルスの戦闘機5機が5色の煙を引いて見事な五輪を描いたのが実家の窓からもよく見えた。おそらく東京23区のほとんどの場所から見えたのではないか。
画用紙の上に5つの輪をバランス良く描くことでさえ難しいのに、何の基準点もない大空に5人のパイロットがそれぞれ1つずつ飛行機で輪を描き、しかもそれが地上からは五輪のシンボルに見えなければいけない、これは想像を絶する高等飛行技術である。万一、空中で接触事故を起こせば世界環視の中での大惨事となる。よほどの自信が無ければ決行できるものではない。その後のオリンピックの開会式でも各種アクロバット披露があったが、あの東京オリンピックのブルーインパルスを凌ぐものはひとつもなかった。東京オリンピック開催が決定して以来5年間の日本人の熱狂が頂点に達した象徴として、今も私の眼に焼きついている。
体育の日はどこへ行った?
2007年の体育の日は10月8日の月曜日である。しかし1964年10月10日の東京オリンピック開会式を覚えている世代にとっては、体育の日は今でもあくまでも10月10日でなければならないのである。10月の第2月曜日などという小賢しい日であってはならない。
思えば平成10年に改正された国民の祝日に関する法律によって成人の日が従来の1月15日から1月の第2月曜日になり、体育の日が10月10日から10月の第2月曜日になった。その後、7月20日の海の日が7月の第3月曜日に、9月15日の敬老の日が9月の第3月曜日に移動させられ、これをハッピーマンデー制度というんだそうだ。
特定の月曜日を国民の祝日にすることによって、週休2日の施設では土曜日から月曜日までの3連休が確保されるという意図らしいが、日本人は働き過ぎという一時の諸外国からの批判をかわす目的の他に、国民が余暇を楽しむので内需の拡大も見込めるという意地汚い読みもあるようだ。日本人の誇りはどこへいってしまったのか。
前項にも書いたとおり、1964年10月10日の東京オリンピック開会式は戦後日本が世界に対して自信と誇りを取り戻し、その威信を再び全世界に対して披露した日なのである。本来、10月10日の「体育の日」はその東京オリンピックを記念する日だったはずである。世界中から仕事中毒と蔑まれようが、連休が減って国民のレジャー投資が多少鈍ろうが、戦後の日本人はあの日の誇りを後世に語り伝えなければいけなかった。
あの日、代々木の国立競技場上空に五輪を描いた航空自衛隊の曲技飛行チームのブルーインパルス…、まさにその練度の高さを全世界に示したわけだが、奇しくも20年前の10月10日は沖縄が米軍機の初空襲を受けた日、またそれに先立つ6月からはB29重爆撃機による日本本土空襲も始まっており、日本の空は米軍を中心とする連合国空軍部隊によって完全に蹂躙されていたのである。かなわぬと知りつつ圧倒的な敵空軍に立ち向かった防空戦闘機隊のパイロットたち、降り注ぐ焼夷弾の雨の中で生命を落とした無辜の市民たち、それらの人々の魂があの大空に描かれた五輪のマークをどんな思いで見ていたのか。私はそれを考えると目頭が熱くなる。
さらに電波兵器や音響兵器などの技術力で敗退した日本が、19年後に示した高い科学技術力も世界を驚嘆させた。最近のオリンピックでは当たり前のことになっている競技結果の電子計測や電子判定、またカラー映像の世界同時配信などもあの東京大会が初めてだった。そして競技場の外には世界最速の弾丸列車が営業運転している技術立国ぶり…。今では誰もがそれで当たり前と思っているが、それらを国産技術によって成し遂げたということは多くの日本人にとって誇らしいことだった。
1964年10月10日はまさに戦後日本の威信が復活した日だったのである。この日を祝わずして何を祝うのか。少なくとも2月11日の建国記念日よりもずっと確固とした根拠があるではないか。
東京オリンピックの後、順調な成長を続ける日本経済に嫉妬した諸外国は、日本人はウサギ小屋に住む仕事中毒のエコノミックアニマルだと評した。それに卑屈に迎合する形で日本人は週休2日制を推進し、連休を増やし、「私たちも遊んでますよ」というポーズを取ることに汲々となった。また連休を増やせば国民が内需向けに落とす金も増えるのではないかとも画策した。
一方でこんなみっともない事をしていながら、もう一方で「自虐的歴史観はやめましょう」などと言っている。一体この国はどういう国なのか。体育の日の本来の意義を忘れ、諸外国から蔑まれるままに休日を増やしたり動かしたりした、そっちの方がよっぽど自虐的ではないのか?
戦後日本の軍事行動について
2007年11月に期限の切れるテロ対策特別措置法(正式には『平成十三年九月十一日のアメリカ合衆国において発生したテロリストによる攻撃等に対応して行われる国際連合憲章の目的達成のための諸外国の活動に対して我が国が実施する措置及び関連する国際連合決議等に基づく人道的措置に関する特別措置法』というらしいが)への対応をめぐって、自民党と民主党の論戦が続いている。2001年9月11日のニューヨーク同時多発テロ直後の11月2日に当初は2年間の時限立法として施行され、その後4回にわたって期限延長されたが、今回は先日の参議院選挙で自民党が大敗したために民主党の反対を押し切って再延長することが困難になった。
アフガニスタンにおけるテロ活動封じ込めの国際協調作戦行動から撤退すれば我が国の国際的信用にかかわるので、何としても再延長、それがダメなら新たな立法でインド洋における海上自衛隊の給油活動を継続したいとする自民党に対して、この給油活動は国連の承認するものではなく、また給油した燃料がアフガニスタン以外のイラク戦争に流用された疑いもあるとして、給油活動の中止を主張する民主党が猛反対を唱えている。しかし民主党は何が何でも戦争反対という立場かというとそうではなく、国連の承認するISAF(国際治安支援部隊
International Security Assistance Force)への参加なら認められると小沢党首も述べている。
まさに与野党の激突といえるが、これが一昔前の日本ならば、自民党のタカ派に対して社会党や共産党などのいわゆる護憲政党が戦争絶対反対を唱えて噛みつくというのが、典型的な与野党の構図だった。あの時代と比べると信じられないほどの様変わりである。我が国の武力行使の是非を感情的にではなく、国際関係論に照らして理性的に議論するようになり、国家として成熟してきたように私は感じている。
社民党(旧社会党)などは前回の参議院選挙惨敗によってほとんど存在感を無くしてしまったが(自民党惨敗の陰に隠れて目立たなかったが、実は社民党も自民党以上の手傷を負った)、本来ならこの党の戦争絶対反対という主張が、国会論戦の一方にはあったはずなのである。いくら福島党首が声を枯らして憲法擁護・戦争反対を叫んでみても、多くの国民が耳を傾けようとすらしないのは、社民党自身に問題があるからだ。
1994年の自社さ共同政権構想(自民党・社会党・新党さきがけ)などというわけのわからない合意に基づいて、本来なら正反対の主張であるはずの自民党と連立し、当時落ち目であった自民党に結果的に利用されたばかりか、社会党の村山富市首相などは自衛隊の観艦式に臨んで嬉しそうに振舞うなど、野党としての面目を完全に失墜させてしまった。あの時代の総括を現・社民党は行なっていない。当時の社会党の責任を徹底的に追及することなく、今になって憲法を守りましょうなどとソフトな女性党首が訴えたって、眉毛の長い爺さんが観艦式でニコニコしながら手を振った映像が頭に浮かんでしまう。
こういう過去の責任を水に流して追及しない態度、それがインド洋給油活動にせよ、国際治安支援部隊にせよ、我が国の自衛隊が直接間接に他国の武力紛争にいかに関わっていくかという国民的合意を形成するための最大の障害になっているという事実を、自民党や民主党もまた認識しなければいけない。
我が国の軍隊が最後に組織的な戦闘を行なったのは、言うまでもなく1945年に終戦となった太平洋戦争であるが、その戦争において軍隊が国民を守らなかったという記憶が現在に至るもなお国民のトラウマになっていて、自衛隊が他国領域においてどこまで活動すべきかという国民的合意形成のための理性的かつ合理的な思考や議論を阻害していると思われる。
旧日本軍は日本各地からの志願兵・召集兵をまったく勝ち目のない戦闘に次々と投入して、何の戦果も上げられないのを承知で無為に戦死させた。下級兵士たちの多くは戦争さえなければ農家や商家の大事な働き手であり、大黒柱でもあったのだ。また戦況が最終段階に至ってもまだ戦争を止めようとせずに本土決戦・一億玉砕を呼号し続けた。こういう歴史的責任を徹底的に追及することなく、今また自衛隊の国際貢献が大事ですと言われても、結局は国民の頭の中ではあの歴史的記憶と結びついて、冷静な判断ができなくなるのである。おそらく現在の日本国民は、インド洋での給油活動や国際治安支援部隊などの是非を問われても、自民党と民主党のどちらを支持すれば良いのか、悩んでしまうのではなかろうか。
特に自民党の有力者たちは、戦争責任問題というとすぐに中国や韓国との摩擦を持ち出すが、冗談ではない、日本国民に対する責任問題をこれまで置き去りにしてきたからこそ、今になってツケが回ってきているのである。ドイツだって同じではないかと言うかも知れないが、ドイツでは国民を戦争に巻き込んで塗炭の苦しみを味わわせたヒトラー率いるナチスの戦争責任に対しては、対外的ばかりでなく、国内的にも厳然と対処してきた。特に西ドイツは我が国と同じく自由主義陣営に属してきたが、いくら言論の自由はあってもナチスを肯定する自由は認められていない。
我が国はどうか。開戦時の行政責任者、軍部の実行責任者を日本人の手で追及することなく、神として靖国神社に祀り上げ、そこに公然と参拝した首相さえいるのだ。こういう国が再び戦闘行為に直接間接に関与する、責任を取る習慣のない国家が武力を行使する、その危うさに関するジレンマが今、日本中に満ちあふれているような気がする。
愚かなり、民主党
2007年11月1日にテロ対策特別措置法が期限切れになったことを受けて、インド洋で給油活動を続けていた海上自衛隊の補給艦「ときわ」と護衛艦「きりさめ」が現地を撤収したが、これに関連する件に関しては民主党の愚策ばかりが目立つ。たった1回ばかりの参院選に勝利しただけで、ここまで思い上がって国を誤るとは、残念ながらこの党にも将来はないだろう。いずれ自民党に吸収されることになるかも知れない。その場合、自民党はもともと「自由党」と「民主党」の保守連立でできた「自由民主党」だから、さらにまた民主党が吸収合併されれば「自民民党」などというセミの鳴き声みたいな党になってしまう。
今回の海上自衛隊のインド洋補給活動に関して、民主党の小沢一郎代表は、国連決議がない活動だから我が国の憲法に抵触するとして一貫して反対し続けた。シーファー駐日米国大使の会談要請もいったんは一方的に蹴るなど、国際常識の感覚を疑わせる傲慢な鼻息も見せた。国連決議と日本国憲法という観点から見て、確かに小沢氏の主張は一本スジが通っている。だからこれを押し通すのかと思って期待していたが、結局はただの自民・公明政権を揺さぶるためだけの小手先の政治的駆け引きでしかなかった。
小沢氏はインド洋での給油活動は国連決議がないから反対と主張する一方で、国連決議のある国際治安支援部隊(ISAF)への参加は許せるとした。ではなぜただちにISAF参加のための国内法整備に着手しなかったのか。与党ではないから外交・安全保障には手が出せないなどと寝呆けたことを言っている民主党議員もいたが、参議院で最大議席を握っているのだから、ISAF参加法案の提出はできたはずである。それをしなかったのは無責任の極みである。
結局は国内にしか目が向かないバカでしかなかった。今は夫婦喧嘩の最中だからと言って町内会費を踏み倒すような人間を、どこの国際社会が許すものか。
思うにISAF参加法案などを提出すれば、戦争嫌いの日本国民の支持を失う。おそらくそれが一番大きな理由だろう。(どこの国民だって戦争は嫌いに決まっている!)小沢氏は今回のテロ対策特措法に関して、いくら民主党が参議院で反対しても、たぶん自民党が衆議院で再可決して、国際的な大問題にはならずに済むだろうと踏んでいたのではないか。そうなれば民主党は責任を問われず、却って戦争に反対したという実績を強調できると読んでいたかも知れない。ところが民主党の反対のせいで、ついに海上自衛隊の補給部隊がインド洋を離れることになってしまい、国際的責任論は民主党にふりかかることになった。
米国の国防関係者の失望は深いに決まっている。当然強い不快感を持っているだろう。幸い日本は一応の国際的地位を保っている国であるから、米国も露骨な内政干渉などはしてこないだろうが、民主党に不利になるような経済的圧力を講じて、次の総選挙で自民党が挽回できるような政治・経済工作を陰で画策してくるに違いない。民主党の小沢代表はそこまで先を読んで、将来予想しうるあらゆる妨害工作への対処を万全にしたうえで、米国に対してここまで突っ張ったのか。
米国や関連諸国からの圧力が強まれば、結局被害を受けるのは一般国民なのである。そのことも判らず、自らも大国と勘違いして、国内だけの美意識や独り善がりの理屈だけで大国に突っ張る。これは近代日本の政治家の最大の欠陥である。明治時代の日清戦争、日露戦争で勝ったという驕りが平成時代にまで続いていると見た方がよい。中国を不用意に挑発した小泉・安倍と並んで、米国に無責任に突っ張った小沢は、21世紀初頭の3バカと称されるかも知れない…
補遺:
…などと書いたら、翌日(11月4日)になって小沢一郎氏が民主党代表を辞任する意志を表明したという報道が流れてきた。まさか私のサイトを読んで辞意を固めたわけではないだろうが、やっぱりバカか…という感じである。こりゃ安倍晋三と同類項のバカだわ…。
前々日(2日)に福田首相から持ちかけられた自民党との大連立話に小沢代表は食い気を示したが、民主党に持ち帰って相談したところ、役員会で猛反発を受けて、そりゃ俺に対する不信任だとヘソを曲げたというニュアンスの報道内容だった。民主党は慰留する腹のようだが、どうなることやら…。
本当のバカだわ…と言いたいところだが、実は小沢一郎はしばらく前から逃げ道を探していたんじゃないかと私は思っている。今回の福田首相との密室会談での大連立話、世論は自民党が追い詰められているとの見方だが、私は違う。追い詰められていたのは小沢代表である。
そもそも例のインド洋での給油活動の件、小沢はテロ特別措置法期限延長に関して、衆議院可決→参議院否決→衆議院再可決というシナリオを想定しており、民主党は責任をかぶることなく、米国に対等に物を言える政党として一人だけ良い子になることを目論んでいた。ところが実際にはインド洋から海上自衛隊の補給部隊は引き揚げざるを得なくなって民主党の国際責任を問う声も強まった。世論も確かインド洋給油活動継続に関しては賛否半々である。
しかし小沢も以前うっかり口を滑らせたISAF参加を主張するわけにも行かず(世論の支持を失う可能性大)、国際責任論と世論の板ばさみになって身動きが取れなくなった。最近、小沢も民主党幹部もISAFの件には触れないでしょう。無責任きわまりないが、小沢はたぶんこう考えたのだろう。福田首相からの自民・民主大連合構想に乗っかって、ドサクサに紛れてインド洋補給部隊撤退もチャラに戻せたら…。ところが身内の民主党執行部から猛反対を食らって、本当にどうしようもなくなった。もう何もかも投げ出してやれ。まったく安倍晋三お坊ちゃまと一緒だわね。
父の古戦場
先日、父の従軍記として私の父が第二次大戦中、中国大陸を転戦した記録をこのサイトに載せたら、同じ地域に従軍された方のご子息からメールを頂いた。父は日本陸軍最後の大作戦とも言うべき大陸打通作戦(一号作戦)に軍医として従軍、湖南省の醴陵という街で重慶政府軍の薜岳将軍率いる大部隊に包囲され、あわや玉砕という危地に追い込まれたのであるが、詳しくは上記リンクから従軍記本編を参照して頂きたい。
ところで私にメールを下さった方の父上(A氏としておく)は、包囲された私の父の部隊を救援するために急遽醴陵に派遣された部隊に所属しておられたとのことで、7年ほど前に慰霊のため醴陵などを訪れたそうだ。その折の写真をA氏のご子息から頂くことができ、サイトへの掲載もお許し頂いたので、その中の1枚をここにご覧に入れたいと思う。
ご説明によると、これは醴陵近郊の楓樹台から玉仙舗方面を望んだ写真ということだが、なだらかな丘陵の手前に一面に広がる稲作水田地帯の風景は日本の農村とほとんど変わらない。私もかつて中国の南京〜上海を旅した時、やはり気候・風土が日本に似ていることに驚いたものであった。
父は当時の日本の国策に従って中国大陸を転戦、この地で危うく生命を失うところだった。もしそうなっていれば、もちろん現在の私はこの世に生まれるはずもなく、こんなウェブサイトも存在しなかったのである。
日中戦争については、最近に至るもなお日中双方からさまざまな議論が起こっている。日本をはじめ中国国民党(重慶政府)、中国共産党、また当時の連合国であった米英などのレベルで言えば、各国政府のさまざまな政治的、歴史的思惑が絡んで、中には日本の行動が正当化される議論も含まれてくるのは当然だ。
しかし一般民衆レベルから見た場合、日本軍はやはり侵略者以外の何者でもなかったのだ。近代日中関係史を議論する場合、その民衆の視点だけは絶対に忘れてはいけないと思っている。上の写真がもし日本国内のどこかの稲作地帯の風景だったとした場合、そして半世紀前にその地に中国軍が駐留した歴史があったと仮定した場合、おそらく日本国民は中国軍を許さないであろう。そういう素朴な民衆の感情を理解しない議論は不毛だし、中国政府自身もまたチベット人民などに対して同じ過ちを犯しているのではないか。
ところでこの醴陵の地で父の部隊を包囲した薜岳という将軍は重慶政府軍の名将であり、昭和16年12月(つまり日本軍が連合軍に対してまだ破竹の進撃をしていた頃)、長沙に進攻した日本軍に対して多大の損害を与えて撃退したことがある。その年の9月にもやはり長沙に進攻して(第一次長沙作戦)不十分な戦果しか得られなかった日本軍を挑発して、誘いの隙を見せて奥地へ引きずり込み、周囲から一気に包囲して殲滅を図ったのである(天炉戦法)。
南方では米英豪蘭軍に対して連戦戦勝、中国軍を軽く見た日本軍(軍司令官は阿南惟幾中将)は弾薬不足にもかかわらず、強引に長沙を目指して奥地に深入りして手痛い敗北を喫した。こういう中国軽視(蔑視に近い)の風潮が、21世紀の現代においても日本の一部の指導者の行動や言動に見られることは不安である。
しかし司令官の傲慢による失策があっても日本軍兵士たちはよく戦ったらしい。日本軍は中国軍の重包囲の中、戦死者は埋葬し、負傷者は1人残らず担架で搬送しつつ整然と退却して行ったと、敵将薜岳をして驚嘆せしめている。この見事な退却ぶりは後の朝鮮戦争やベトナム戦争におけるアメリカ海兵隊にも比肩しうるものであり、ともに軍隊としての完成度の高さを示すものだ。後にこの日米両軍が戦った硫黄島の戦いがいかに熾烈だったかが判ろうというものである。
さて昭和19年7月、父の部隊(第27師団)は3年前に日本軍が苦杯を喫した長沙の東側の線に沿って大陸を打通すべく醴陵の街に入った。そして師団本隊はさらに南を目指して進撃を続け、父の野戦病院とわずかな守備隊だけが醴陵に残ったが、そこを薜岳将軍の部隊に包囲されたようだ。敵は名将薜岳の大部隊、味方は傷病兵とわずかな守備隊のみ、これは絶体絶命の危機である。よくまあ私がこの世に生まれたものだ。
私は多少(?)軍事マニアの気があるが、どちらかというと海軍ファンで、あまり陸戦にくわしくなかったので、なぜ薜岳将軍が醴陵の包囲を解いて、後世の私が生まれてくる機縁を残してくれたのかがよく理解できなかった。その理由が判ったのは、先に述べたA氏のご子息から父上の部隊の状況をお聞きできたからである。
A氏は当時徐州にあった第65師団・第71旅団・独立歩兵第57大隊所属、この大隊は昭和19年6月に岩本支隊に編入され、7月23日に醴陵に急進すべき軍命令を受領し、大変な損害を蒙りながらも8月下旬には醴陵に入られたという。お陰で父は命拾いして、私もこの世に生まれることができた。
考えてみれば陸戦は海戦と違って囲碁や将棋の盤面のようなものらしい。艦隊がワーッと押しかけて行って、負ければ尻尾を巻いて帰ってくるというミッドウェイやフィリピンの海戦のイメージしか無かった私には新鮮な発見だった。日本軍が大陸打通を目指して進撃する、当然各部隊間の補給線は伸びる、その弱くなった部分を薜岳将軍が断ち切ろうとした、それが醴陵包囲である。しかしそこで線を切られれば先へ進んだ部隊も盤面から浮いてしまう、そうはさせじと醴陵確保のためにA氏の後詰の部隊が前進を命じられ、首尾よく薜岳将軍の手を封じることができた。
まさに囲碁のように味方の石で線を伸ばして陣地を確保する、また敵の石が伸びないようにそれを切りに行く、そのせめぎ合いが戦略とか戦術というものであり、太平洋方面の戦いでも日本陸軍はそれをやりたかったのだろうが、制海権も制空権も失って石を伸ばすことも出来ず、むざむざ味方の石が切られるのを拱手傍観していなければならなかったということだ。
要するに日本という国には戦略家の輩出する素地が無いのではないか?太平洋という盤面を睨んだ時に、これは大陸と同じ方法は使えないということを先に見通しておくことが戦略である。かつての戦史を振り返ってみてもそうだが、最近の経済政策なども長期的な戦略のビジョンがあるのかどうか、疑問に思ってしまう。
またまたハズレ、大予言part 2
2008年最初の更新は、1年前のお約束の記事である。1年前に何かあったかしら?と思われた方のために、昨年のまたまた大予言?の記事の一部を再掲しておく。
ジュセリーノ氏によると2007年は大災害の多い年だという。彼は2007年に起こる自然災害を2つ挙げていた。
●一つはトルコなど西アジア方面で大震災が起こる。
●もう一つは今まで見たこともないほどの台風がフィリピンを襲う。
いずれも戦慄すべき予言だが、いずれかが外れた場合(両方とも外れて欲しいが)、やっぱりジュセリーノ氏の予言も嘘じゃないかと笑い飛ばすことができる。ぜひ1年後のウェブ更新ではそう書きたいものだ。
しかし両方とも当たってしまった場合、次の検証の機会は日本人にとって実に切羽詰った状況となる。ジュセリーノ氏は2008年9月13日(この日は土曜日である)にアジアのある国で、地震と津波のために百万人単位の犠牲者が出ると言っているそうである!
そう、2006年の12月30日にテレビ朝日で放映された『ビートたけしの超常現象マル秘ファイル2006』で紹介された予言者ジュセリーノ氏の予言(預言)に関するコメントであるが、やっぱりハズれていた!世界各地で大災害は跡を絶たなかったが、2007年が特に災害の当たり年というわけではなかった。それに第一、トルコ方面で大震災など起こらなかったし、見たこともないほどの台風がフィリピンを襲ったわけでもなかった。見たこともないほど小さな小さな台風だった可能性はあるが…。
かくして予言者ジュセリーノ氏もノストラダムスと同じ運命をたどったと思っていたら、2007年の年末にはまた新たな滅亡大予言が流布されるようになった。何でもマヤ文明の暦によれば、人類は2012年に滅びるそうである。銀河系のフォトン・ベルトなどという怪しげなものと関連させる予言まで出る始末…。よほど人類は滅亡したがっているらしい。
しかしこういう滅亡予言がハズれたからと言って、人類が滅亡せずに末永く幸せに繁栄できるという保証が得られたわけではない。むしろ逆である。
ジュセリーノ氏は確か2043年に人類が滅亡すると言っていたと思う。つまりジュセリーノ氏の予言が正しいとすれば、人類は少なくとも西暦2043年までは生き延びることができたはずである。だがその予言がハズれたということは、人類が決して滅亡しないという意味ではなく、もしかしたら人類滅亡は明日かも知れないということである。それは2012年かも知れないし、2008年かも知れない。滅亡予言がハズれたと言って胸をなで下ろしている場合ではない。
現在、全世界規模で人類の生存を脅かしている最大の問題は地球温暖化であるが、2007年12月にバリ島で行なわれた第13回国連気候変動枠組み条約締約国会議(COP13)でも、地球温暖化対策の具体的な数値目標を設定する準備段階にすら至らなかった。また仮に全締約国首脳がシャンシャンと手拍子で数値目標を決められたとしても、それはどうせ10年後20年後に温室効果ガス排出を30%40%削減するという程度の甘いものでしかないことは明白であり、地球環境の復元力崩壊による破局がそれまで待っていてくれるという保証は何もないのである。
それなのにノストラダムスの予言はハズれた、ジュセリーノ氏の予言も当たらなかった、マヤ暦の予言もどうせデタラメだろう、そう言って漫然と現在の繁栄を享受している人類の愚かさには危惧を感じる。
まだ地球温暖化など誰も気付かなかった頃からこの地球上に生を享けている私たちの世代ならば、おそらく誰もが薄々感じてはいるだろう。夏の暑さ、冬の暖かさ、雨の降り方、嵐の激しさ、昆虫などの生息状況、それら自然界の様子が私たちの幼少の頃から微妙に変化してきていることを…。
もちろんこれまでも“異常気象”といわれた年は何回もあった。しかしそれらは一過性の異常であり、翌年にはまたいつもどおりの季節が巡ってきた。しかし最近の異常はそうではない。何者かが少しずつ近づいてくるような連続性の変化である。しかも変化のスピードは年々早くなってきているように思われる。
昔、ハンドブレーキを引き忘れたまま車を停めていたことがある。道路がわずかに傾斜していたために、車は自然に動き始めた。最初は徐々に、ほとんど気付かないほどの速度だったが、やがて目に見えるまでに加速されてきた。私は異常に気づき慌ててフットブレーキを踏んだので、危うく事なきを得たが、最近の気候の変動は、ちょうどあの時と同じ感覚である。今度は誰がブレーキを踏んでくれるのか?私は資源節約、エネルギー節約にも人一倍気を遣っているつもりだが、そんな事だけで本当にブレーキは掛かるのか?私は滅亡予言など信じないが、マヤの暦に予言されたという年号が、恐ろしい現実感をもって感じられる!
補遺:
こういう地球温暖化問題などに対する各国政府の対応を見ていて、私が最も不安に思うことは、政治家とか経営者とかいう人たち(要するに文科系といってよい)は、事態を直線的にしか捉えられていないということである。
つまり地球の平均気温がこの100年間で1度上昇したというデータがあったとすると、次の100年間でもまた1度しか上昇しないと考えているのではなかろうか。確かに現在、気温が1度上昇したことは重大な問題だが、さらに3度〜4度上昇して本当に危険なレベルに達するまでに、まだあと300年も400年も猶予がある、それまでには何とか問題解決の新しい方法も開発されるだろうし、第一そんな先の話は俺には関係ない、直接の子や孫の世代も関係ない…、文科系の人々の多くはそんなふうに考えているんじゃないかと心配になる。だから世界各国の偉い人間たちが毎年のように集まって、雁首揃えて相談しても、20年後30年後に温室ガス削減目標達成などという悠長なことしか言えないのではないか?
理科系の人間ならば、物事は指数関数的に変化するという直観が働く。要するに物事の変化は加速度的に起こり、ある点で突然最終状態(破局と呼んでもいい)に到る。先ほどのハンドブレーキの外れた自動車の例で言えば、最初は車は非常にゆっくりゆっくり、ほとんど気付かないほどの速度で動き始めるが、その速度は時間と共に増加して、単位時間あたりの移動距離は時間の二乗で効いてくる。そして時間が経てば経つほどブレーキを掛ける力も余計に必要になり、最終的には壁か電柱か他の車か歩行者に衝突して突然の破局を迎える。
ハンドブレーキを掛け忘れた車が暴走を始めたのに気付いた時、運転席にいた運転者ならば必ず咄嗟にフットブレーキを踏むだろう。今は考え事をしているから5秒後にブレーキを踏もうと考えるバカはいない。それは高校時代に物理学など習わなくても、車には加速度がついてどんどん速くなることを直観で知っているからだ。
しかし温暖化へ向けて地球環境が静かに暴走を始めた現在、温室効果ガス排出のブレーキはまだ10年後、20年後、30年後でも間に合うと思っている人類の浅はかさ。最近のあるアンケート調査によると、温暖化防止のために自分の生活水準を下げられるかという質問にYesと答えた人がNoと答えた人を上回ったということだが、まだNoと答える人も4割近くいるらしい。
だが現在の問題は、庶民レベルで生活を切り詰めるとかいう程度の対策で済む話でないことも事実だ。庶民の生活を切り詰めるより先に、世界で最もバカバカしい二酸化炭素発生源である戦争や軍需産業をこそ停止すべきではないのか。来月(2008年2月)からまた日本の海上自衛隊がインド洋で多国籍軍艦艇に給油活動を再開することになった。これは外交・国際関係維持のためにはある程度やむを得なかった処置であるが、軍艦や戦闘機や戦車やミサイルなどには排気ガス削減装置など無いに決まっているし、軍需用に供給された石油の燃焼などは地球環境にとって絶対あってはならない温暖化負荷である。
現在、テロ対策と地球温暖化対策はまったく別個の課題として論議されているが、一方で自動車の排気ガスを少しでも削減しようと頑張っている技術者がいるのに、他方では戦闘機やミサイルが二酸化炭素を吐き出しながら飛び交っている矛盾…。片方で医者が人の生命を救おうと努力しているのに、もう片方では戦争で躍起になって人の生命を奪っている矛盾と同じである。
結局、バカは死ななきゃ直らない、という日本の格言は、人類全体の愚かさのことを言ってたんだろうか?戦争も金儲けも後回しにして、今すぐに二酸化炭素排出にブレーキを掛けられないならば、やはり人類はバカだったとしか言いようがない。
飢餓の列島
2008年1月は大変なニュースで締めくくられることになった。中国の工場で生産されて日本に輸入された冷凍餃子から、メタミドホスという普通の人は聞き慣れない名前の有機リン系殺虫剤が検出され、それによる食中毒事件が日本各地で発生しているという。
問題の餃子のパッケージに穴が開いていて、製造段階から販売段階までの過程のどこかで故意に混入された可能性があるとか、保健所など各都道府県の対応が鈍くて危機管理の情報伝達が遅かったとか、いろいろ報道されている。問題の餃子で中毒症状が出た人が保健所に届け出たのに保健所が検査を拒否したとか、食中毒の出た家庭内にトラブルがあって刑事事件を疑ったために国への報告が遅れたとか、信じられないような杜撰な対応の事例が次々と報道されているが、マスコミも一般国民も今回の事件が暗示するもっと深刻な問題について、あまりにも無関心と言えるのではないのか。
今回はたまたま中国製の食品について問題が起こって、中国国内の衛生事情は日本に比べてあまり良くないとか、中国製の野菜は物凄い量の農薬が使われているとか、各メディアはいろいろ国民の不安を煽る報道を垂れ流している。それでは中国の野菜はイヤだ、アメリカの牛肉はイヤだと、わがままな駄々っ子みたいなことを言っていて、日本人はこれから何を食って生きていけと言うのか?
アメリカ産牛肉問題といい、中国産食品問題といい、これらから浮き彫りになってくるのは、我が国の食糧がほとんど外国任せになっている実情である。アメリカでも中国でも、日本人は大騒ぎしすぎだと報道している。そんなにイヤならもう売らないと言われたらどうするのか?これから食糧事情は全世界レベルで深刻な段階に到るだろう。これまでは“一流の経済”による¥マネーの力で強引に食糧を買い集めることができた。買い手市場だったから、日本人がクレームを付ければ相手国が慌てて対応してくれた。しかしこれからは人口増加と、食物のバイオ燃料への転用と、温暖化による耕地面積の減少が拍車を掛けて、食糧は世界的に慢性的な不足傾向になり、経済の失速した日本人が望むような理想的な食品ばかり買い揃えることは不可能になるだろう。
結局、食糧自給体制をおろそかにして都市化・工業化一本で突っ走ってきた日本の体質そのものが問われなければいけないのに、この期に及んでまだ道路だ新幹線だと巨大公共事業の利権を守ろうと躍起になっているバカどもが政界でのさばっているこの国が滅びるのはもはや時間の問題ではないのか。
国民の生活第一などと言っている野党のバカどももガソリンの暫定税率を撤廃することで国民に媚びて選挙に勝とうという浅ましい魂胆が見え透いている。道路が立派になろうが、ガソリンが安くなろうが、腹が減って車の運転が出来るか!
これからの政治は食糧と水という国民の生命に直結する資源までの確保という差し迫った緊急の課題に取り組まなければいけないのに、そういう国の根幹を見据えた政策を打ち出せる政党は我が国では存在し得ない。それは道路だガソリンだと目先の利益に釣られて投票するような阿呆な国民が大多数を占める国だから仕方のないことだが…。
日本人の対中国感情は現在あまり良くない。政治家の中にもあからさまに中国に対して暴言を吐く人間もいる。日本人はそういう国に食糧の輸入を頼っているのだ。反米感情の強かった時代に、そのアメリカから石油を輸入しながら対米戦を企図していた大日本帝国、アメリカから買った石油で戦艦大和を動かせばアメリカに勝てると思っていた浅はかな大日本帝国と同じ末路、いやもっと悲惨な末路までを予感してしまう。
太平洋戦争中、アメリカ軍の最初の反攻を受けたガダルカナル島では守備隊に対する食糧の補給路を封じられて“餓島(がとう)”とまで言われたのだ。第一線装備さえあれば食糧の補給など朝飯前と考えていた旧陸海軍首脳と、道路や新幹線さえ作れば食糧は輸入で賄えると考えている現代日本の政財界首脳と、頭の中身は大して変わっていないのではなかろうか。
海軍さん、たるんじょる!
1970年に20世紀フォックス社から日米合作で公開された戦争映画の超大作「トラトラトラ!(TORA!
TORA! TORA!)」の中にこんなシーンがあった。真珠湾攻撃の作戦方針が定まり、日本海軍の航空部隊が鹿児島湾を真珠湾に見立てて猛訓練を実施する場面、湾上の標的をめがけて鹿児島の市街地上空に超低空で次々と飛来する攻撃機に向かって、芸者たちがキャアキャア騒ぎながら窓から手を振ると、磯釣りをしていた男性がそれを見ながら苦々しく呟く、
「海軍さん、この頃たるんじょる!」
映画の中の海軍航空隊は別に芸者たちを喜ばせるサービスをしていたわけではないが、あの釣り人の吐き捨てるようなセリフ、最近の日本海軍(海上自衛隊)を見ていて思い出すことがとみに多くなった。
イージス艦の機密データの漏洩があったかと思えば、缶コーヒーを加熱するために護衛艦「しらね」の艦橋に私物の電熱器具を持ち込んで失火させ、艦を炎上させたり、さらに先日(2008年2月19日)の早朝には最新鋭イージス艦「あたご」が漁船に衝突して沈没させてしまった。まさに「海軍さん、たるんじょる!」と言いたい気分である。私にとって海上自衛隊は、もしかしたら自分が働いていたかも知れない職場であるだけに、次々に露見する不祥事は残念でたまらない。
特に「あたご」の漁船衝突事故については、起きてしまったものは陸上の交通事故と同じで、原因究明と責任者の処分を受けるのは当然であるが、この過程で事故の当事者の取った態度には疑問を感じてしまう。
これまでの報道によれば、ハワイへの長期航海からの帰路、母国を目前にして気が急いていたのか、イージス艦が漁船を確認していながら、その針路を突っ切ろうとして衝突したものらしい。海難防止の立場からはイージス艦の過失は免れないという。自動車の運転で言えば、交通信号が黄色から赤に変わったが、先を急いでいたのでそのまま赤信号を無視して横断歩道を強引に突っ切ってしまった状況に相当する。だから車でこういう乱暴な運転をした覚えのある人は、今回のイージス艦の違反を他人事みたいな顔をして責めることは出来ないはずだ。
それはともかく、そういう事故を起こしてしまえば警察(海上保安庁)の事情聴取に応じなければならないが、ここでイージス艦側の責任者たちは海難審判での自分の責任を少しでも軽くしようという魂胆か、レーダーの使用状況、見張り状況、当日の漁船視認状況などについて、いくらかの隠し立てをした形跡が窺える。だがこれは国家の最高機密を預かる者としての自覚が足りないのではないか。
事故の状況がなかなか当事者の口から明らかにならないので、マスコミは各種評論家や専門家のコメントを紹介して、イージス艦の性能やその運用を次々と暴こうとした。防空識別については桁外れの能力を有する最新鋭艦である。それが何で漁船を見逃したのか。当然、素人の関心はその点に集中する。対水上識別能力は対空識別能力ほど優れていないんじゃないかとか、レーダーの感度を下げていたんじゃないかとか、素人・玄人入り乱れて憶測を交えながらこの最新鋭艦の能力を論評し始めた。これが軍事的にはいかに危険で馬鹿げたことか、海上自衛隊関係者は考えたことがないのか。そんなことだからイージス艦の機密データが漏洩したりもするんだろう。
起こってしまった事故に関しては今さら元に戻せないのだから、海上保安庁の事情聴取やマスコミへの記者会見では、せめて我が国の高度の軍事機密の内容までが無責任な論評にさらされる前に、潔く事故の過失をすべて認めるべきだったのではないか。操艦責任者の個人的責任、海上自衛隊としての組織的責任、それら法的責任を少しでも軽くしようとして隠蔽を図った結果、イージス艦のハード・ソフト両面での能力の一部が一般マスコミの好奇の目に触れる結果に到った責任は大きいと思う。
イージス艦のレーダーは漁船を捉えており、見張り員もまたこれを視認していたが、衝突は避けられると誤った判断を下してしまったと、事故発生当初から素直に発表していれば、これほどまでイージス艦の性能が一般の好奇の対象になることもなかったのではないか。まして最近では日本近海にも近隣諸国の工作船が出没している御時世である。日本の最新鋭艦を襲撃するためにはどういう状況を狙えばよいか、そのヒントを与える報道を誘発するような事後処理であった。
理科系バカ
先日もこのコーナーで、地球温暖化問題に迅速かつ適切に対応できないのは文科系の人間の発想がバカだからではないのかと書いたが(問題の箇所はここ)、それでは理科系の人間は頭が良いのかという疑問が出るのは当然である。
医学部は一応大学受験の時は理科系に区分されるが、その後は純粋に科学(science)や技術(technology)をやっている他の理系学部に比べると、物事の発想や思考がやや曖昧でいい加減な部分があるが、一応は人体という自然を相手にしているので理科系の仲間に入れて貰うことにしておく。
ところで先日書いたのは、地球温暖化などという環境危機が差し迫ってきたのに、文科系の人間はまだ戦争だとか金儲けなど、狭い政治的・経済的視点からしか事態を捉えられず、このままでは対応が遅れて人類は取り返しのつかないことになるだろうということだった。
要するに人類を滅ぼすのは文科系の人間の発想ということだが、では理科系の人間のバカな発想が人類を危機に直面させたことはなかったのか。今回は理科系バカの例を2つ挙げる。
理科系の頭脳はあらゆる現象を客観的に冷静に捉える。人間の都合だとか、欲望だとか、希望だとか、そういう心の中にある一切の“人間的な要素”を排除して物を考える習慣が身についている。だから地球温暖化などという自然現象が観察された場合、それが今後どのように進行する可能性があるかということを、人間様の都合などお構いなしに冷静に考えることが出来る。
これが理科系の人間の賢さであるが、一方ではとんでもない愚かさにつながってしまう。理科系の人間は、文科系の人間がバカであることを知らない、それこそが理科系の人間のバカなところである。文科系の人間は常に自国(または自社など)の優位とか、金儲けなどを優先して考えている、そのことを理科系の人間は考慮しようとしない。そのために理科系バカがとんでもない悲劇を幾つも人類にもたらしてきた。
理科系バカがもたらした大きな悲劇、その一:
まずは何と言っても核兵器の開発と実用化である。核分裂あるいは核融合のエネルギーを利用すれば、従来の燃料や爆薬に比べて桁違いのエネルギーを得られることが理論的に判っていれば、それを実用化せずにいられないのが理科系バカのどうしようもないところである。原子爆弾など実用化すれば、政治家や軍人などの文科系バカが何をしでかすか、そういう発想が全然ないのである。原爆開発のマンハッタン計画に関与した物理学者の中には、広島・長崎の惨状を知って生涯罪の意識に苛まれた人もいたらしい。後悔先に立たずである。
理科系バカがもたらすかも知れない大きな悲劇、その二:
トウモロコシなど食物からのバイオ燃料抽出技術である。こんな技術は理科系の頭脳が無ければ開発できないが、これを知った投機家や資本家などの文科系バカが何を考えるか、予測できない方がどうかしている。すでにバイオ燃料技術の普及によって穀物の値段が上昇して、世界的な食糧不足に拍車をかける可能性が高まってきた。人間に食べさせるよりも機械に食べさせる方が儲かるとなれば、文科系バカは平気で人類を飢えさせるだろう。今になって慌てて雑草などから燃料を抽出する技術に取り組む理科系人間も出てきたようだが、もう時すでに遅し。何しろトウモロコシなどの穀物は何百年も前から栽培されていて、これまでの農耕技術の集積を応用すれば、大規模な収穫がただちに可能であるが、一方の雑草から燃料を安価に抽出できたとしても、雑草を大量に“収穫”する技術がないではないか。
穀物を燃料に転用する技術を開発した理科系バカは、原爆を作ったバカと同等以上の悲劇を人類にもたらすかも知れない。
年年歳歳花亦不同
また今年も桜の花が咲く頃になった。毎年この時期になると、あの唐詩選の有名な詩の一節が思い出される。作は劉庭芝。
古人無復洛城東 古人洛城の東に復る無く
今人還対落花風 今人また対す 落花の風
年年歳歳花相似 年年歳歳 花相似たり
歳歳年年人不同 歳歳年年 人同じからず
中国人にとって花と言えば桃の花らしいが、大部分の日本人にとっては花と言えば桜であろう。4月の新年度の始まりに当たって一斉に咲き誇り、お花見の絶好の舞台となるが、桜の季節は春嵐の季節、折からの強風に煽られてあっと言う間にはかなく散ってしまう。日本人の心を最も揺さぶるのが桜の花だからかも知れない。武士の時代や軍国主義の時代には、桜の花のように散るのが男子の本懐などと持て囃されたために人々の心を捉えたこともあったろうが、最近のように他人が潔く散る物語には感動するくせに、自分は最後まで枝にしがみついていなければ損だと言わんばかりの利己主義者の世になっても、相変わらず桜は日本人のシンボルの花であり続けている。
唐詩選の詩の例の一節は、花は毎年同じように咲くが、それを見る人、あるいはそれを見る人の心は毎年毎年移ろっていくという意味で、自然の営みに比べて人の世のはかなさを詠んでいるらしい。1945年(昭和20年)の桜の花に自分自身をなぞらえて死地に向かった人たちも、1905年(明治38年)の桜が最後の花見になるかも知れないと眦(まなじり)を決してバルチック艦隊を待ち受けた国民たちも、今はもう誰もいない。昭和元禄と呼ばれた空前の好景気に札束を舞わせて桜を愛でた人々もすでに年老いた。まさに歳歳年年人不同…。
しかし桜の花も実は毎年同じではなかった。確か2年前に私の学科の一期生を迎えた年は、4月の入学式に桜の満開だったが、最近では3月下旬には桜が開花して、4月を待たずして散ってしまう年も多くなった。これは花見の幹事や花見ツアーを企画する旅行社をかなり泣かせるものらしい。私が子供の頃は東京では桜は4月とほぼ決まっていて、私の小学校入学式も満開の桜の木の下で行なわれたのを覚えている。
また昔は先ず沖縄から鹿児島で桜が咲き始め、それから順に九州・四国、中国、関西、東海と桜前線は徐々に北上したものだったが、今年は東京で真っ先に咲いた。九州よりも本州で先に桜が咲くことも最近たまにあるような気がする。これも地球温暖化、気象異変の表れか。
私はかつて遺伝学の講義をする時、「遺伝」の反対語は何かと学生に考えさせた。「遺伝」の反対語は「環境」である。生物は自らに内在する遺伝情報を発現させて生きているが、生物を外から規定するものが環境因子だからだ。
その学校ではちょうど遺伝学の講義は4月に始まったから、桜の花は良い比喩だった。先の割れた淡いピンクの5枚の花びらは内部の遺伝によって決まるけれども、入学式の頃にまだ咲いていなかったり、満開になっていたりするのは外部の気温など環境によって決まるんだよという話をすると、何となく遺伝のイメージが伝わったものである。あの頃、3月に桜が散り終わるなんていうのはかなり極端な比喩だった。そのうち年年歳歳花は咲かず、歳歳年年人も居ないなんてことになるんじゃないかと心配している。
ところで私の記憶にある中で最も見事な桜は昭和63年、つまり昭和最後の桜だった。この年は何と言ったら良いのか、“正常な異常気象”とでも言うべきか、桜が開花した後に寒波が襲って、東京でも雪が積もったのである。昔から異常気象は何度もあったが、その年1年限りの異常で、翌年にはまたいつもの四季が巡ってくるという意味では、よくある当たり前の“異常気象”だった。最近の温暖化などとは違う。
その昭和63年の春、一旦七分〜八分咲きになっていた桜の花は雪の中で冷蔵庫に保管されたように長持ちして、その年は足掛け3週間近くにわたって花見が楽しめたものだった。その年の暮れにかけて昭和天皇の御病状は次第に思わしくなくなり、翌年1月についに崩御されたという報道に接した時、ああ、あの時の桜は太平洋戦争で亡くなった人たちが昭和天皇に挨拶に来たものであったかとしばし感慨に耽ったものである。
ねんきん特別便が来た
先日、厚生労働大臣枡添要一様より懇切丁寧なる書状を頂いた。もしかしたらとは思っていたが、私の年金記録の一部が基礎年金番号に結びついていない可能性があるとのことである。私も5000万件のうちの1人だった。
もとより私は現在の年金制度の未来には悲観的である。政治家も知識人もマスコミも少子化のせいで年金も医療もうまく回らなくなったという論調であるが、こんな国家レベルのネズミ講まがいの論理が罷り通っているところに我が国の知的脆弱性が見えてしまう。
我が国の産業構造を見れば誰でも判るとおり、食糧やエネルギーなど実質的価値はほとんど生み出さず、さまざまな付加価値の産生だけで経済を支えている。こんな国で人口だけ増えたところで、国民1人あたりのパイの分け前が減るだけの話で、とても増え続ける老齢人口の生活を支えることは出来ないはずである。
私はこれからの日本は大幅に人口を絞って産業構造を変革して、最低限の自給自足体制を整えなければやって行けないと思っている。
我が国は団塊の世代以降これまで、世界的な平均をはるかに上回る教育を施された大量の人口に支えられて、物の付加価値の産生だけで経済大国にのし上がった(すなわち貿易立国)、その恩恵を存分に味わい尽くしてきた我々の世代は、今こそ国家の捨て石になる覚悟までを決めなければいけないのではないか。戦艦大和の臼淵大尉の言葉ではないが、日本の新生にさきがけて散るしかなかろう。10歳代、20歳代の若さで散らされた人々の人生に比べたら文句は言えない。
まあ、私の持論が正しいのか、経済政策の専門家やマスコミの論調が正しいのか、残念ながら私には最後まで見届けることは出来ないと思われるが、それはともかく、私自身が散る覚悟を決めるとは言っても、今回の年金問題に関する政府や社会保険庁の不手際は許せるものでは決してない。
例えば今回、社会保険庁が把握していた私の年金記録は現在の職場のものだけである。私の場合は国立病院や都立病院が多かったから共済年金で記録もしっかりしているが、それでも一部民間病院や非常勤職員だった時期の厚生年金はあるのだ。
私の職歴は経営母体そのものが無くなってしまったようなことはなく、今回のように過去の職歴調査票のような判りやすい書式を送ってくれれば、すぐに当方で調査して返信するから、私が5000万人の1人になる可能性はほとんど無かったのではないか。平成9年に私の基礎年金番号が割り振られて以来、今回のような懇切丁寧な調査は無かった。
確かに「他の公的年金に加入していたことのある人はお知らせ下さい」とか、「共済年金は別ですから記入しないで下さい」などと不親切な記載しかない調査票が送られてきたことはあったが、国家が公権力を背景に給与から強制的に天引きした保険料の管理形態を、国家の都合で変更しようという時に、その調査の労力を国民に押し付けるとはいかなる発想によるものか。国家の干渉さえなければ、個人的に株式やら不動産投資やらで老後の小遣いを貯める元手にできたかも知れない保険料である。もっとも大部分の人々は何となく消費してしまっただろうが、どちらにしても国家が有無を言わさず召し上げた保険料なのだ。お前らがしっかり管理せよと言いたい。
そもそも厚生労働省や社会保険庁には、基礎年金番号統一という事業を申請した際に莫大な予算や人員配分が裁可されたはずである。大きな機関や組織の事業とはそういうものだ。聞くところによれば各省庁間の予算の分捕り合戦は熾烈を極めているらしい。厚生労働省は基礎年金番号統一化という事業をブチ上げて予算を獲得しておきながら、もう10年以上も通り一片の通知だけで何ら効果的な作業を行なってこなかったとしか言えないではないか。
予算だけ獲得してしまえば事業をさらに効果的に進行させる知恵もなく、工夫もしようとさえせずに安閑と地位にしがみつく、そういう日本の因循姑息な官僚機構の欠陥が露見したと言えなくもない。このサイトの他のページでは太平洋戦争に関する歴史的考察を行なうことも多いが、こういうサイトを作っていると、何で日本は戦争を始めたんでしょうねという質問を受けることがよくある。その問いに対する最もバカバカしい答えの一つがここにあるのではないか。つまり戦争をしないと陸軍や海軍に予算がつかなかったから…。
オリンピックは何のため?
2008年夏に行なわれる北京オリンピック大会の聖火リレーを巡って、世界中で混乱が起こっているが、4月26日にはいよいよその聖火が日本の長野市へやってきた。10年前の冬季オリンピック大会を開催した都市だから日本では長野が選ばれたのだろうが、これが六大都市などでなくて良かった。大都市の真ん中を今回の聖火が駆け抜けたら、交通マヒなど大混乱になっていただろう。
チベット人権問題に関連する今回の聖火騒動、歴史的には1949年に始まった中国共産党のチベット介入が直接の発端である。あえて中国の“侵略”という言葉は使わないが、チベット人民から見れば侵略としか言いようのない事態であったらしい。それは日中関係に置き換えれば、現在に至るも日本人や政府関係者の中には、大日本帝国の中国支配は大東亜共栄圏による白人資本への対抗であったとか、ソ連の共産主義の浸透を防ぐためだったなどとして、日本の行動を正当化しようと試みる人がいる一方、大多数の中国人民の目にはあれは日本軍の“侵略”としか写らない、現在のチベット問題もそれとまったく同じ構図である。
1950年に毛沢東の人民解放軍はチベット全域を制圧、1955年チベット北部の社会主義改造に着手、翌年に起こった対中国蜂起を境にチベット独立運動は東西冷戦構造に組み込まれて、チベット独立派にはアメリカCIAが背後につくが、1972年の米中国交正常化によりチベット問題はいつしか世界史の表舞台から消えてしまった。しかしそれが今回の北京オリンピック大会を契機に再び世界の注目を浴びるに至ったということである。この間、1959年にダライ・ラマ14世のインド亡命とチベット臨時政府の樹立、翌年には中国がチベット全土支配と事態は進んでいった。
中国共産党の主張によれば、チベット仏教の僧侶など特権階級の支配の下で農奴として搾取されていた人民を解放したということだが、かつての大日本帝国のアジア支配と同じ論理であるとしか思えない。白人資本に搾取されているアジア人民を解放するために、大和民族が先頭に立って鬼畜米英に立ち向かうのだというのが、少なくとも当時の大日本帝国のプロパガンダであった。
しかし大日本帝国の過ちは諸国民の独立と自治を認めなかったことだ。白人資本に搾取されていると言っても、それに対抗して祖国を守るのはあくまでその国の国民の自由意志による決定なのであって、多少軍事力や経済力で勝る大国がお節介すべきではないということを少しも理解していなかった。チベットに対する中国政府とまったく同じ精神構造である。
今回の聖火リレー妨害に抗議する一般中国人の声もマスコミで拾われているが、学生と思われるインテリ層までもが、チベットは中国の不可分の領土であると熱烈に叫んでいる姿には違和感を覚えた。チベット人権問題批判の急先鋒であるフランスへの抗議行動も度を越している。反仏行動に参加しているのは、何年か前に小泉元首相の靖国参拝や日中の歴史認識問題に抗議して反日運動に参加したのとほとんど同じ層ではないのか。自分が殴られた痛みは忘れないが、自分が誰かを殴っているかも知れないという反省がない。確か先日来日した韓国の新大統領も,かつての日本の植民地統治に関してある席上で同じようなことを述べたという記事があったが、我々日本人は今回の一部中国人のあまりに自己中心的な愛国主義の見苦しさを見たら、我が身を振り返って反省しなければいけない。それが国民の教養というものである。
ところでオリンピックの聖火リレーであるが、最初に行なわれたのは1936年、ヒトラー政権下に挙行されたベルリンオリンピック大会のことであったらしい。第一次世界大戦の敗北から復興なった新生ドイツ第三帝国の威容を世界に誇るために計画されたのだろう。ベルリン五輪の開会式では前年から生産開始された新鋭のメッサーシュミットBf109戦闘機のデモンストレーション飛行もあったという。(確か子供の頃に少年漫画週刊誌に書いてあった。)
古代ギリシャでは国家間の戦争が絶えなかったために、せめて4年に1回くらいは皆で集まって楽しくスポーツを競いましょうという趣旨でオリンピック大会が開かれるようになったというが、近代オリンピックの精神はまったく変貌してしまっている。次期または次々期大会開催地の決定が議題になるたびに、何で各国ともああまで目の色を変えて立候補したがるのか。
その理由の一つは商業主義である。2016年の東京誘致運動はもちろん、欧米の自由主義国家が開催権を欲しがるのはこの理由に他ならない。そしてもう一つの理由が国威発揚である。ナチスドイツのベルリン大会が典型だが、1964年の東京大会だって戦後日本の躍進を世界に知らしめるという目的があったのは確かだ。
国威発揚という目的が絡んでくると古代オリンピックの精神は完全に踏みにじられる。古代ギリシャ世界では国威発揚は戦争によるのが当然だったが、せめて4年に1度はその国威を忘れて仲良くやりましょうということだったはずだ。
1964年の日本のように平和主義憲法が定着してそれほど危険でなくなった国が開催するのであれば、他の国々も笑って国威発揚を許してくれるだろうが、そうでない場合、あの国に国威を発揚されたくないという国々が他にあれば今回のような騒動になる。1980年のソ連のモスクワ五輪がその最大のケースだった。前年のソ連軍のアフガン侵攻に端を発した西側諸国の大会ボイコットは象徴的である。この時は確か中国もボイコットした。おかげで1984年のロスアンゼルス五輪はソ連など共産圏諸国の多くが報復的にボイコットし、資本主義国ばかりの大会になったせいか、この大会以来オリンピックの商業主義は目に余るようになってしまった。
今年の北京大会はダライ・ラマも成功を望んでいるとのことなので何とか成功して欲しいとは思うが、この機会に中国の“国威”を取り除きたいと願うチベット人民の希望があることも理解できる。こう書くと中国系の人たちの多くは反発を感じるだろうが、これはかつての日本軍の中国侵攻に対する中国人民の憤りを理解できるのとまったく同じ理由からである。
しかし国威発揚や商業主義に毒された近代オリンピックなどサッパリと止めてしまって、ギリシャのオリンポスに世界各国が資金を提供しあって永久的な競技場を建設し、4年に1度のオリンピック大会は必ずそこで開催する、聖火リレーもやりたければ各国の選手や関係者が火を分けて貰って自国に持ち帰り、国内を巡回するだけにする、ということにした方が本来の五輪精神に戻れるのではなかろうか。
山本五十六語録
私は高校時代から山本五十六という人物に憧れに近い関心を抱いていて、阿川弘之氏の「新版・山本五十六」やご子息の山本義正氏の「父 山本五十六」などを皮切りに、山本五十六やその事績に関する本はかなり読みあさった。
山本五十六と言えば真珠湾攻撃を決行した日本海軍の連合艦隊司令長官で、早くから大艦巨砲主義に見切りをつけて海軍航空隊の育成に心血を注いだとか、国際協調派として米内光政や井上成美と共に日独伊三国同盟に反対したとか、戦死した部下の氏名を手帳に書きとめていて霊前で号泣するほど部下思いだったとか、そういう人間味あふれる一面に魅力を感じて、高校時代に尊敬する人物は誰かと問われれば、私は迷わず山本五十六と答えたであろう。
しかしその後、さらにいろいろな人(例えば生出寿氏など)の山本五十六論を読んだり、あるいは山本五十六と同じ年齢になって医療の世界で似たような立場に立たされた自分自身と引き比べたりした時に、やはりそれほど神格化するべき人ではなかったということは判った。(私もそろそろ山本五十六が真珠湾攻撃をやらかした年齢になる。)
人間はプラスマイナスいずれの側面も持っているものであり、山本五十六もまたそういう人間の1人だったということであるが、一方その語録にはなかなか味わいの深い言葉がある。私が今でも心に銘じているものを2つほどご紹介する。
一つは多くの人がよく引用する言葉:
やってみせ 言って聞かせて させてみて
誉めてやらねば 人は動かじ
要するに自分が先ず手本を示せということだ。自分がやりもしないことを他人に偉そうに指図する人間をよく見かけるが、そういう人間は人の上に立つ資格はない。そして相手がうまく出来たら誉めてやれと言っているが、幼稚園児じゃあるまいし、大袈裟に誉めるというよりも慰労の気持ちを忘れるなということであろう。
実はこの言葉には第2節、第3節があることをあるブログを検索していて発見した。第1節ほど軽妙な響きはないが、やはり味がある。さすが山本五十六というべきか。
話し合い 耳を傾け 承認し
任せてやらねば 人は育たず
やっている 姿を感謝で見守って
信頼せねば 人は実らず
別のもう一つの言葉は、確か雑誌「丸」に掲載されていた記事からである。誰だったか失念したが、山本五十六の下で副官か何かやっていた人で、陸上部署に転勤になった際、早く艦隊に戻って来たいと退任の挨拶に行ったら、どんな勤務部署でもしっかりやらねばいかんと叱られた後に、座右の銘を書いてくれたという話だった。だから山本自身の言葉か、あるいは山本が好んでいた先人の言葉かは不明だが、いずれにしても山本の処世観が窺われる言葉である。
自処厳 (自らに処するに厳)
他処寛 (他に処するに寛)
まさに言葉どおりの意味である。高校時代にノートの片隅に書き止めたが、その後いつだったか、これとまったく同じことを言っていた幕末〜明治の元勲がいたことを知り、驚いたものである。
これも出典は忘れたが、西郷隆盛が語っていたという言葉である。正確な語順は忘れたが、山本五十六と同じ心境の人だったのだなと感じた。
他人を責めるごとくおのれを責め
おのれを許すごとく他人を許せ
あえてくどくど説明の必要もあるまいが、おそらく山本も西郷も、これら自分の発した言葉を自分自身が満足に実践しているとは思っていなかったはずだ。事あるごとにこれらの言葉を示すことによって、他人に厳しく、おのれに甘くなりがちな自分自身の振る舞いを常に自ら諫め、反省していたのではなかろうか。
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