日本の若者たちへ

 
最近、私のウェブサイトを見つけてたびたびメールを下さる20歳くらいの女子大生の方がいらっしゃる。20歳といえば、私が大学で受け持っている学生さんたちも19歳から22〜23歳前後、たぶんこの学生さんも私の大学の学生さんたち同様、魅力的で可愛い方なんだろうけれども、物事の考え方という点から言ったらはるかに「大人」であって、日本の各大学の学生さんたちはもちろん、40歳代50歳代の教師クラスの大人たちでさえ、この子と対等に議論できる人ははたしてどれくらいいるのだろうか?少し日本の将来が心配になったので、今回はこの女子大生から少し前に頂いたメールの一部を、彼女のお許しを得て、あまりコメントもつけずに転載させて頂くことにした。

 表題をあえて「日本の若者たちへ」としたが、本当に読んで頂きたいのは、日本の小中高校など初等・中等教育に関わる教員方である。この女子大生はお父さんがオーストリア人で、そちらで中学校くらいまで教育を受けられたという。日本人の血も引いておられるが、こういう物の考え方が出来るようになるのは、遺伝よりも後天的な教育の方が重要であることを示している。
 ヨーロッパの人々は自国や民族の歴史ひとつ取っても、これだけ子供たちの教育にエネルギーを注いでいるのかと私は衝撃を受けた。私の大学の学生さんに訊くと、日本史は選択してませんとか、平安時代までしか習ってませんなどという答えしか返ってこない。一体これは誰の責任なのか?????
 なおこの女子大生の方からは他にもいろいろ面白い話を教えて貰っているので、機会があれば他のコーナーでも御紹介したい。ではどうぞお読みになって下さい。

 
私の父の国オーストリアは、複雑な歴史と多種多様な民族・文化・宗教を基盤として成り立っているので、子供達の教育も、『歴史の犯した過ちと民族(主にユダヤ系の人々)対立がもたらした悲劇を理解・反省する』が大きな軸になっています。日本の学校にある修学旅行みたいなものはなく、小学校低学年の頃から、ベルゲン・ベルゼンやアウシュヴィッツなどを何度も訪ねて、同じ時代に自分が加害国側の人間だったら、また、侵略・迫害される側の人間だったら、どのような行動を取りどう生きればいいのか、みたいな授業をします。同じ過ちを二度と繰り返すまい、としていても、「人間は、侵略し差別し、また戦争をおっ始めてしまう愚かな生き物である」という事をキモに銘じた上でみんな生きているので、歴史教育は、どんなに徹底的にしてもし足りないほど、オーストリアに限らずヨーロッパではとても大切なことなのです。杉原千畝さんの事も、小学二年の時に授業で習いました。自分がもし同じ状況におかれたら、国家反逆罪で家族もろとも処刑される恐怖を抱えながらビザを発行し続ける勇気があっただろうか・・・・と、真剣にみんなで議論しあった事を覚えています。その答えは、もうすぐ二十歳になる今でも、私はまだ出ていません。

 日本人の平和ボケ現象は、“教育=いい学校へ入る&裕福な人生を送る為のお勉強”というこの考えに完全にとり憑かれてしまっている大人達が原因で、もっと本当の「オトナ」になって変えていかなければ、この国はまた63年前の暗黒の時代≠ノ逆戻りしてしまう気がします。ベルリンの壁崩壊とほぼ同時に生まれ、冷戦後のゴタゴタしたヨーロッパの歴史の流れをいやがおうにも目の当たりにして育った私達世代のオーストリア人から見た日本の同世代の人たちは、ごく一部を除いて、とっても無邪気で、「大丈夫かぁ〜?」と思わずツッこみたくなってしまいます。



補遺・ある女子高校生の投書

 ウィーンで育った女子大生の方からのメールを読んで頂いて、日本の初等・中等教育における歴史教育を考える契機にして貰おうと思っていたら、今朝(2008年7月7日)の毎日新聞の投書欄に、松枝由香里さんという17歳の高校生の方の文章が掲載されていた。日本でもまだこういう考え方のできる高校生が育つ余地があったのかと安心したので、その全文を転載させて頂く。

 
最近、日本人が持つ自国に対する感覚が、外国人とは少し違うのではないか、と思う。
 日本にも歴史の授業はあるが、私自身、自国で起きた出来事だという実感が薄く、人ごとのように自国の歴史を見ている気がする。一方、外国人は、しっかりと自国の歴史を知り、自分自身の歴史観を持っている人が多いようだ。
 先日、テレビ番組を見ていると、あるアフリカ系の外国人が「日本人は自分の国の歴史を知らなすぎる。自分の国のことも知らないで、恥ずかしくないのか」と言っていた。
 私はそれを聞いて悲しくなった。日本に今のような豊かな暮らしがあるのは、他国の影響が少なからずあるはずだ。それなのに日本人は、他国の歴史を知らないばかりか、自国の歴史をも知らない人が多い。テレビの中の外国人が怒るのは、当然だ。
 今後の日本のためにも、しっかりと日本の歴史を知ることが大切だ。


 まったくこの高校生の言うとおりである。こういう問題意識を持てる高校生や中学生は多いはずなのに、それを伸ばしてやれない、歴史を学ぶ機会を増やしてやれない。この国の歴史教育がダメなのは、子供たちに物を教えるべき大人たち自身が歴史問題から目をそらしているのが原因だと思う。自分なりの歴史観を持とうとすれば、ある特定の思想グループとの摩擦も覚悟しなければならなくなる。それが億劫なばかりに、日本の大人たちは歴史問題から故意に目をそらしてきた。違う論点を持つ人たちと議論をする勇気がないばかりに、次の世代の子供たちを、自国の歴史も知らずに世界を漂う“根無し草”にしてしまった。そういうことではないのか?


終戦記念日に思う

 2008年の8月15日は63回目の終戦記念日であった。早いもので、戦争が終わった年に生まれた人たちもすでに還暦の60歳をはるかに過ぎていることになる。
 私たちの世代がまだ高校生・大学生だった頃、よく学園祭などで歌われる歌集には必ず載っているフォークソングがあった。当時のフォークソングといえば、世界的なブームだった有名な「花はどこへ行った(Where have all the flowers gone?)」に代表されるように、反戦運動を象徴する歌も多かったが、日本でもジローズというグループの「戦争を知らない子供たち」という歌を聴いたこともないという若者はおそらくいなかったのではないか。ベトナム戦争たけなわの頃である。

  
戦争を知らない子供たち (北山修 作詞)

 戦争が終わって 僕等は生まれた
 戦争を知らずに 僕らは育った
 おとなになって 歩きはじめる
 平和の歌を くちずさみながら
 僕等の名前を 覚えてほしい
 戦争を知らない 子供たちさ


 かつてカラオケも無かった時代、ギターのコード弾きの伴奏だけでこの歌を歌っていた“子供たち”も今や“戦争を知らない大人たち”になり、我々の次の日本人世代もまた“戦争を知らない子供たち”である。
 それはそれでとても喜ばしいことなんだろうが、ほとんどの国民が戦争を知らない大人と子供ばかりになったこの国は、これから先もこのまま手放しで喜んでばかりいて本当に大丈夫なのだろうか?
 63回目の終戦記念日は折からの北京オリンピックの最中であり、日本人選手の活躍が連日のように報じられているが、オリンピック報道と同時にグルジア共和国とロシア軍の戦火のニュースもまた絶えることはなかった。おそらく最近ではニュースにもならなくなってしまったが、中東やイラクやアフガンでも銃声の途絶えた日はなかったのではないか。

 もちろん一介の国民としては、こういう戦火の続く地域に対して手を差し伸べようにも、その力には限界があるのは当然だが、最近の“戦争を知らない子供たち&大人たち”は、かつてのベトナム反戦運動の頃のような国際的な関心を保ち続ける努力も忘れてしまったのではないか?
 これだけロシア軍のグルジア侵攻の映像が配信されていても、自分たちには関係がないと思って、北京オリンピックで誰が勝った負けたしか話題にならない、そんな国民になってしまった。その北京オリンピックでさえ地対空ミサイルで護られた競技場で行なわなければならないほど緊迫した国際情勢が背後にあるというのに、そのこともすでに忘れがちだ。

 確かにベトナム戦争が1975年に終結した当初は、ベトナム反戦市民運動の盛り上がりという世界的規模の国際世論が果たした役割も大きかったように見え、市民運動の持つエネルギーへの期待も一時は高まったのだが、やはり結局は虚しかったという現実がある。ベトナム戦争終結後も中東地域やアフガンで戦火が絶えたことはなく、2001年にはニューヨーク同時多発テロで、その市民社会自体が標的にされるという新たな事態に突入してしまったからだ。
 もうグルジアで何が起ころうが、イラクで何が続いていようが、チベットで何が問われようが、そんなこといちいち考えたってきりがない。オリンピック競技でも見て一喜一憂していた方が面白いや。あるいはそれは世界的な風潮なのかも知れないが、日本人はそれがより一層顕著ではないのか。

 大国が小国に武力で介入する。小国は武力テロでそれに応酬する。何でもかんでも武力だ。武力万能の信仰が世界中に蔓延しつつある。武器さえあれば国民の安全は守れるのか?
 かつての大日本帝国も武力の点では世界から一目置かれる存在だった。世界第3位の海軍と、世界一強いと言われた兵隊を擁する陸軍を保有していたが、それで国民の安全は守れたのか?明治維新以来、営々と積み上げてきた強力な軍備でさえ、国民を守るどころか、国民に塗炭の苦しみしかもたらさなかったではないか。その事をドイツ国民と共に世界で最もキモに銘じたはずの日本国民が、今や戦争から目を背けてしまっている。この重たい現実を改めて感じた63回目の終戦記念日だった。


迷走国家

 この国はどうなっているのだろうか?同じところを堂々巡りして迷走しているのではないか?この夏の終わりは(2008年)、そんなことを思わせる事件が相次いだ。
 先ず一国の最高責任者であるはずの総理大臣が突然政権を投げ出して辞任会見する(福田康夫首相)。いつか見たような光景…。確か前回の時(安倍晋三)は、一応申し訳程度に健康上の理由にはなっていたが(どうせ仮病)、今回はそれさえもない。
 また食品偽装で三笠フーズの社長がお詫び会見する。食品関連会社社長のお詫び会見、これもこれまでずいぶん見た光景…。しかもこれまでのは、せいぜい産地偽装だとか、賞味期限のゴマカシだったが、今回のは農薬やカビ毒で汚染されて食用にしてはならない事故米を食用に転売したという。
 対外的には、核不拡散条約(NPT)に加盟していないインドに対して原子力関連輸出承認をゴリ押しするアメリカに追随した。唯一の被爆国を自称する日本もアメリカには腰砕け…。そもそも日本に原爆を落としたのは、北朝鮮でも中国でもない、当のアメリカではなかったのか。

 こんな事ばっかりでこのサイトにコメントを書く気にもならない。(別に読みたい人もいないだろうが…。)最近の日本は同じところをグルグル迷走しながら、どんどん悪い方向へ行っているような気がする。
 でも本当に怖いのは国民がそれに慣れっこになっていることだ。福田が政権を投げ出し、後継の自民党総裁候補が5人も雁首揃えているのを眺めて、マスコミも国民もお祭り騒ぎをしている。ウィーンの新聞では『猿の惑星』と酷評されているそうだ。
 マスコミも世論もついこの間まで、後期高齢者医療制度をボロクソに叩いていたと思ったら、その政策の元締めでもあった小泉純一郎の首相返り咲きを望む国民の声も多いと報じられていた。今回の総裁選には立っていないが、某新聞の調査では、麻生太郎を筆頭に第2位か3位の人気だったそうだ。この国民は3日経てば何もかも忘れてしまうのだろうか。

 そう言えば、この8月には東京を大地震が襲うというジュセリーノ氏の予言が一部の週刊誌ネタになっていた。こんな記事を書けば雑誌の売り上げが伸びるというのも、この国民の愚かさを雄弁に物語っている。このペテン師は一昨年の年末から、今年の9月13日にアジアのある国(中国または日本)で死者100万人級の大震災が起こると予言していたが、結局それも無かった。この人の“公式サイト”を見ると、自分の“予言”は確定したものではないと述べているが、そういうのは予言とは言わないんだよ!(流言蜚語という。)
 1999年のノストラダムス騒動に懲りず、またこういう予言騒動に踊らされる人がいるとは…。『猿の惑星』の方がまだマシだ。猿は天井に吊るしたバナナの取り方を学習できるから。日本人の場合、3歩あるけばすべて忘れるニワトリではないか。


一杯のかけそば

 先日、大学の入試業務の折、職員食堂の昼食弁当に賄いの方々のサービスでかけそばが付いてきた。蕎麦好きの私としては喜んで一杯頂いたが、食べながらふと20年前の違和感のある古い記憶が蘇ってきた。『一杯のかけそば』という物語の記憶である。

 物語の概略のストーリーは次のようなものである。
ある大晦日の晩に2人の子供を連れた母親が蕎麦屋にやってきて、かけそばを一杯注文する。もう閉店時刻だったが、3人の母子の雰囲気に何かを感じた店主は、こっそり大盛りにしたかけそばを出すと、3人はそれを分け合って食べた。事情を聞くと、父親を事故で亡くした家族は貧しい生活をしながらも、生前父親が好きだったかけそばを大晦日に食べることだけが楽しみだという。それ以後も毎年大晦日になるとその親子は店にやって来てかけそば一杯を3人で分け合って食べることが続いたが、ある年からはぱったり来なくなってしまった。どうしたのかと心配していると、さらに何年か過ぎた後、すっかり立派になった2人の息子と共に再び店に現れた母親は、今度は3人前のかけそばを注文して、過ぎし日の店主の好意に謝意を述べたという。

 いかにも日本人の大好きな“お涙頂戴”の物語で、20年前に日本中を感動の渦に巻き込んだとされる。母子が毎年大晦日にやってきたという札幌の蕎麦屋は大繁盛するし、作者(その後いろいろ不祥事もあったので名前は出さない)の“全集”まで出版される始末。
 作者の不祥事が世に出る前から、当時の私はこの“一杯のかけそばブーム”には何か言い知れぬ妙な違和感を覚えていた。ある意味で不快感と言ってもいい。

 当時はバブル経済末期で、景気崩壊の予感はあったものの、日本の多くの国民は明日の生活をそれほど心配することもなく、一億総中流意識のもと、毎日を可もなく不可もなく生きていたのである。そういう時代にあって、育ち盛りの息子2人を抱えた母親が、かけそば一杯も満足に注文できないような極貧の生活に喘いでいる物語を美談として賞賛し、泣ける感動話として持て囃したのだ。「一杯のかけそば」は当初は札幌で実際にあった話として紹介されたものである。(後に実話だ、いや創作だと論議の的になったが…)

 他人の不幸や苦労を美談にして感動に浸る、これって何かに似ていないか?そう、私もこのサイトで何回か問題にしている特攻隊の話である。20年前に『一杯のかけそば』の物語に感じた違和感は、数年前に『ホタル帰る』などの特攻隊の物語に感じた違和感と同じであることに、私もやっと気が付いた。
 この国民は、他人(といってもそれは同胞である)が貧困に喘ぎながら頑張る姿、他人が国のためと言われて無謀な作戦に死にに行かされる姿は、単なる“お涙頂戴”の感動話でしかないのだろうか?自分はそんな事はイヤだけれども、他人がその運命に翻弄される姿を眺めるのは大好きという、この無責任な国民性は一体何なのか?

 貧困に関してはもはや他人事ではなくなった。現在10歳代20歳代の若い人たちの将来は大丈夫なのか?30歳代40歳代の人々だって大変な苦労をしているというのに…。
 小林多喜二の『蟹工船』がブームだという。仕事も無い日雇いの労働者たちが集められて、蟹工船という洋上の閉鎖空間で資本家に酷使される、それが現代の派遣社員やパート労働者の実態と似ているという理由からだ。決して『一杯のかけそば』のような感動話として読まれているのではない。
 バブル経済を生きてきた年配の我々日本人は、これからを生きる日本人たちのために、もっと何かするべきだったのではないか?“かけそば話”ごときに踊らされて感涙に咽んでいるヒマがあったら、そういう家族がこれ以上苦労しないで済むように、もっと日本経済が実体ある物を残す努力に気付くべきだったのではないか?先日小泉純一郎が政界引退を表明した日、ニュース報道では「あの人が日本をこんなにした」などと言う街の声を拾っていたが、今さら何を言っているのだ?

 同じことは『ホタル帰る』ごとき美談に踊らされて特攻隊員を讃美した日本国民に、10年後20年後、もっと切実な問題として降りかかってくるに違いない。


国のため、と言うのなら…

 自民・公明の与党は、生活者支援については定額減税でなく、給付金方式で行なうことにしたらしい。どうもすっきりしない話だ。定額減税だと課税最低限以下の低所得者層に恩恵が及ばないなどの理由から仕方ないと思うが、この財源だって国民の血税である。別に自民党や公明党の偉い奴らが身銭を切って払ってくれるわけではない。

 こういう話を聞いたことがある。ある心の優しい人が日々の食事にも困っている人の生活を見るに見かねて毎日お金を差し入れてあげていた、ところがある日その人もお金に困って差し入れを中断しなければいけなくなった、すると今まで援助して貰っていた人はこれまでの好意に礼を言うどころか、なぜ今日は金をくれないのかと心優しい人に食ってかかったという。

 生活が苦しい人を助けるために現金をばらまくのは最悪の政策である。本来ならば、そういう人たちが自ら働いて必要最低限の賃金を得られるような環境を整備するのが政治家の使命であるはずだが、それだけの政策立案能力が欠如していることを隠蔽するために、事もあろうに国民から巻き上げた税金を、いかにも自分たちが慈善家であるかのごとき顔をして貧しい人たちにばらまくとは一体どういう了見か。次の総選挙の票を集めるために国民の血税を使ったと言われても当然である。

 しかし我々がかつての選挙で選んだ政権与党が決めたことであり、また今回限りのことであれば多少の景気刺激策にはなるかも知れず(私はそんな甘いものではないと思うが)、まあこれ以上は何も言うまい。
 ただし、もう一つすっきりしないのは、この給付金を貰う国民の方の態度である。この給付金はあくまでも生活に困っている人たちのためのものであり、現在そこそこに生活できている人たちがこれを受け取って良いのか?
 給付金の受け取りについて、ある程度の所得のある人の懐に入ってしまうのを防ぐために、所得制限を設けるかどうかについて議論もあったらしいが、結局は事務手続きが煩雑などの理由で誰でも貰えることになるらしい。

 乏しい財源の中から国が生活に困っている人たちを援助するという大義名分で金をばらまく政策であるから、こんなサイトに文章を綴るくらいの余裕がある私は当然辞退させて頂く。それが国のためである。
 私はこれまで数年にわたってこのサイトに神風特攻隊の話を書いてきた。それも若者たちを国のためという大義名分で死なせた上層部を批判する内容だったが、お前は国を愛する隊員たちの気持ちが判らないのかという批判のメールは何通も頂いた。ここで私はそういう方々に言わせて頂く。
「あなたもこんなサイトにメールを送れるだけの余裕があるなら、当然国のために給付金を辞退されますね?」
 特攻隊員たちは生命をかけて国に殉じた。我々は生命に別条はない。何万円かの現金の権利を放棄するだけの話である。あの給付金を受け取って良いのは、その現金が無ければ生命に関わる人たちだけだ。まさか特攻隊員たちの愛国の至情が判る人たちが、今さら何だかんだと理由をつけて、ただでさえ乏しい国庫の金を受け取るとは思いたくない。



日米開戦の不思議

 この写真は金沢の兼六園で見た松の木である。木の幹に開けられた無残な傷口は見物客の悪戯によるものではない、立て札の説明書きによると、昭和20年6月、大日本帝國政府の指示により、航空機用燃料を作るために松脂を採取した痕だという。戦争末期には石油の備蓄も底を尽いて“松根油”などと称して松の油を採ったという話はよく読んだが、まさか戦後60年以上も経た現在、そのあまりに馬鹿げた無謀な国策の傷跡を目にするとは思わなかった。この哀れな松の木は一体我々に何を訴えているのだろうか?

 今年(2008年)は日米開戦67年目に当たり、曜日もあの年と同じである。12月8日は今年は月曜日、開戦の1941年も月曜日だった。日付変更線の向こう側のハワイ真珠湾はまだ日曜日であり、休日早朝の眠りの中にあるアメリカ太平洋艦隊に奇襲攻撃をかけて戦争の主導権を一気に握ろうという乾坤一擲の大作戦を決行したのが、日本時間で12月8日の月曜日だったわけである。

 真珠湾攻撃については、アメリカ側は事前にすでに知っていたのではないかとか、日本は戦艦大和を完成させておきながら何で得意の艦隊決戦に持ち込むような戦い方をしなかったのかというような疑問は、現在に至るもなお尽きることがない。
 しかし私に言わせれば、真珠湾攻撃の最大の疑問は、日本の軍事指導者は本当にアメリカに勝てると思っていたのか、少なくとも真珠湾でアメリカ艦隊に打撃を与えておけば、あとは先手先手で攻めまくって負けないうちに和平に持ち込めると本気で思っていたのかということである。

 そんなことは今になってみれば後知恵で何とでも言えるという反論は必ずある。そりゃ確かに結果論で過去の事を批判するのはフェアでないことくらい十分に承知している。しかし1941年当時の人間になったと想定した場合、アメリカに負けずに済むという結論を導き出す頭脳とは一体全体どういう構造をしていたのか、それを考えることは単なる後知恵ではない。

 当時の日米の国土、人口、経済力、軍事力、工業生産力、そういう総合的な国力を比較する客観的なデータは大日本帝國の政府や軍の手元には揃っていたはずである。そしてそれらは万に一つも日本に勝ち目の無いことを示すデータだったはずだ。それなのに何故真珠湾に攻撃隊を放ったのか?鎌倉時代の元寇の時のように大嵐が来てアメリカ軍が壊滅することを期待していたとすれば、よほどオメデタイ頭脳と言わざるを得ない。
 そういうオメデタイ頭脳の持ち主によって日米戦に引きずり込まれた我が国は、名庭園の松の木が幹を剥がれただけではない、多数の一般婦女子までが焼夷弾の火に焼かれ、原子の火に焼かれ、連合国の砲火銃爆撃の中で生命を失ったのである。

 合理的かつ客観的なデータを持っていながら、自分に都合の良い面だけを見て無謀な政策に突っ走る日本の政治家の姿を如実に表わす歴史的事件であったが、果たしてそれは真珠湾攻撃だけに限った話なのだろうか。田中角栄の『日本列島改造論』以来、土建国家とまで言われた日本であったが、公共事業の名の下にバラ色の未来像を描いて全国津々浦々に建設された道路や巨大な建物などが当初の需要見込みを大幅に下回って、今や地域経済のお荷物と化している現状はよく報道されるし、健保組合が患者から巻き上げ、医療機関に支払を渋って貯め込んだ保険金で建てた保養所なども、赤字財政のために売却の憂き目を見ているらしい。その金を有効に使ってさえいれば今日の医療崩壊は回避できたかも知れないのに…。

 とにかく政治家や官僚や昔の軍人は、自分の利益と保身のためなら客観的なデータで導き出せるはずの未来予測を無視して、愚かな政策に突っ走る傾向がある。そういう傾向が始まったのはいつかと言えば、日露戦争に辛うじて勝って世界の一等国と見なされた頃からではなかろうか。
 そして真珠湾攻撃から太平洋戦争敗戦、それで一旦は骨身に沁みて懲りたはずなのに、東京オリンピックを境にめざましい経済発展を遂げて奇跡の戦後復興などとおだてられた頃から再び政治家や官僚の慢心が始まった。代議士が自分の名前を残すために地元に無理やり新幹線の駅を作る、空港を建設する、そしてそういう駅や空港には何年か後には閑古鳥が鳴いている。
 こういう日本の現在の指導者層の浅ましい姿を重ね合わせて過去を眺めてみると、真珠湾攻撃なども意外に簡単な動機で始めたものではなかったのか?当時の複雑な国際情勢などを分析してみるのもバカバカしいほどの単純な動機、つまり政治家や高級軍人の単なる保身や名誉欲でしかなかったとさえ思えるのである。



経済崩壊の時代

 思ったより早い速度で日本の経済が崩壊しつつある。アメリカに端を発した経済危機に煽られる形で、我が国もその経済基盤の脆さを露呈している。昭和末期には世界中を席巻するかのごとき栄華を誇った経済大国日本であったが、結局は平家物語の琵琶法師に語られるまでもなく、驕れる者が長続きすることはできず、風の前の塵のごとく終末を迎えるのであろうか。
 思えば平家ばかりでなく、源氏・北条氏の政権に続いて、足利氏も信長・秀吉も、徳川政権もいずれは倒される運命を免れることは出来ず、大日本帝国も昭和20年8月の敗戦をもって終わりを告げた。そして昭和後半に奇跡の発展を遂げた経済大国日本もまた終焉を迎えることになろう。

 次がどんな世の中になるのか。その変換の時期にどんな事件や混乱が起こるのか。おそらくそれは誰にも予測できまい。
 次がどんな時代になろうとも、最も恵まれた世代
の一員として戦後の時代を生きてきた私には、ある意味でもう関係の無いことではあるが、やはり私が現在の職場で教えている若い学生たちの将来を考えると暗澹たる気持ちになる。私たちは自分の教え子たちが現代の“蟹工船”の中で使い捨てられていくのを黙って見ていなければいけないのか。昔の陸海軍航空隊の教官たちが、自分の育て上げた若いパイロットたちの特攻出撃を見送る、そんな悲哀を味わえというのか。

 思えば日本経済の崩壊はここへきてあまりにも急である。戦後日本の発展の象徴だった重工業は、造船や鉄鋼などに翳りが見えても、それらに代わる自動車や非鉄金属部門や情報産業部門が力を伸ばして日本を支え続けた。しかし現在、これらほとんどすべての分野が力を失い、それに引きずられるように日本の経済基盤そのものが没落して、働く人々の生活をも呑み込んでいく。医療分野も例外ではない。

 どうしてこんなことになってしまったのか。確かに世界不況の煽りを食らっている現実はある。しかしそもそも我が国には欧米世界を相手にマネーゲームを展開するだけの実力はあったのか。大日本帝国が実力不相応な軍備拡張路線に突入したのと同じ過ちはなかったのか。
 治にいて乱を忘れず、とは必ずしも戦乱に関してのみ言えることではない。軍事にせよ経済にせよ、物事が順調に進捗している時にこそ、将来予測される破綻に備えよということだ。大日本帝国は日清・日露の両戦争を勝ち抜き、第一次世界大戦で連合国側に参戦して国際的に有利な地位を占めるに至ったが、やってはならない対米戦争をやって手痛い打撃を受けて崩壊した。

 戦後日本も朝鮮戦争での軍需景気で勢いを盛り返し、東京オリンピックを機に一気に高度経済成長を成し遂げて、世界の経済大国の地位にのし上がった。しかしそういう順調な時にこそ、将来の経済危機に備える態勢までを整えておく必要があったと思う。1929年の世界大恐慌の教訓は当時からあったはずだ。

 私は経済政策の専門家ではないから、あるいは的外れな意見かも知れないが、現在日本を襲っている不況の打撃を少しでも軽減するために、政府も国民も好景気の時に絶対に許してはいけなかった事が一つあったのではないか。それは「価格破壊」である。
 多額の元手を持った一部の商人が、金に物を言わせて大量の商品を即金で買い付け、それを薄利で売りまくる。これでは資本金の少ない他の同業者はひとたまりもない。しかしこういう商法も経済の自由競争の一つであるとして政府も黙認(奨励)したし、多くの消費者もまた同じ商品を安価で買えるとしてこれを歓迎した。価格破壊という言葉もずいぶん聞いたものだ。

 これがかなりのボディーブローとなって日本経済の致命傷になりかけているのではないか。価格破壊とは、商品を安く消費者に提供する前に、仕入れる段階でさらに安く買い叩いているということである。他人の作った商品、あるいは他人が提供してくれるサービス、そういうものを徹底的に買い叩いて価格を破壊すればどうなるか。その結果が見えなかった方がどうかしている。
 ある商品が安く買えたと喜んだ消費者もまた、経済の舞台の別の場面では商品製造者であり、サービスの提供者である。他人の商品を安く買い叩けば、買い叩かれた相手の購買力は鈍り、今度は自分の提供する商品やサービスも値下げしなければ売れなくなる。自分だけ得すればいいという浅ましい了見がいつまでも長続きするはずはない。

 昔は百貨店(デパート)と小売店が共存して消費者のニーズを分担していたが、最近では量販店の類が容赦ない安売り合戦を展開して、互いの潰し合いの様相を呈している。他者との共存共栄の精神を忘れて独り勝ちを狙う浅ましい商売の手法が、今日の不況の傷口をさらに広げているのではないかと思う。
 さらに大手企業でさえ現在の危機を乗り切るために「派遣切り」どころか「正社員切り」まで断行しようとしているが、これはまさに人を人と思わぬ特攻作戦に相通じるものがある。労働者を切れば彼らは賃金を得ることが出来ずに購買力を失う、それは日本経済にさらなるダメージを与えることにしかならない。

 この期に及んで政治家や官僚や大企業トップが自らの保身を考えていれば、今の日本が滅びるのは時間の問題だろう。国家のトップに立つ人間どもが自分の利益を社会に還元して、戦後日本がこれまで貯め込んできたすべての富を注ぎ込んででも雇用を維持する、これだけが現在の危機を乗り切る唯一の作戦である。



シビリアン・コントロール崩壊の予兆

 シビリアン・コントロールとは日本語に訳せば「文民統制」、つまり国民の代表である政治家(文民)が軍隊を統制するという意味で、これは民主主義国家の国防の基本でもある。軍部が勝手に兵力を動かして日中戦争、ノモンハン事件、太平洋戦争へと戦火を拡大させ、日本を破滅寸前まで追いやったことへの反省として、戦後の自衛隊ではシビリアン・コントロールが当然の原則として機能している(はずである)。
 しかし、戦前の軍部といえども、最初から暴走に次ぐ暴走を繰り返して国民や文民政治家の手に負えない存在だったわけではない。少なくとも戦前のある一時期まで、日本陸海軍に対してもシビリアン・コントロールの効いていた時期があり、しかもそのシビリアン・コントロールを破ったのは軍部自身ではない、文民政治家の言論だったという事実を知らない世代が増えてきた。というより、私たちの世代ですら知らない人の方が多いのではなかろうか。少し心配なこともあるので、私の病理学の実習の一部を割いて、学生さんたちに歴史教育をしたばかりである。

 戦前のシビリアン・コントロールが完全に破綻したのは、統帥権干犯問題が原因であると私は考えている。第一次世界大戦後の世界各国の海軍軍備拡張に歯止めをかけるべく、世界最強の兵器であった戦艦の保有量を定めるワシントン海軍軍縮条約が1922年に締結された。三大海軍国と言われた米・英・日の戦艦保有量は5:5:3と定められ、日本は仮想敵国のアメリカに対して6割の戦艦しか保有できないことになってしまう。進水したばかりの戦艦土佐はこの結果、廃棄処分となった。
 それではというので、今度は各国とも戦艦に次ぐ巡洋艦の新規建造に乗り出す。中でも日本の妙高級巡洋艦の性能は列強の注目を集めた。せっかく戦艦を制限しても日本にこんな巡洋艦を無制限に作られてはたまらんと、今度は1930年、ロンドンで補助艦制限のための海軍軍縮会議が開かれた。海軍は対米7割を断固譲らずと主張したが、時の浜口雄幸内閣は、我が国に米英と軍備競争をする実力はないとして、対米6割強で妥結。この国際協調路線の結果、浜口首相は東京駅頭で右翼に狙撃され、翌年生命を落とした。

 しかし海軍強硬派も一時はロンドン軍縮妥結も止むを得ないと腹を括っていたところがあったらしい。事もあろうに海軍強硬派を焚きつけ、右翼をして首相を狙撃せしめる直接のきっかけになったのは野党議員の演説である。野党の政友会の犬養毅と鳩山一郎は、おそらく政局を狙っての爆弾発言のつもりだったのであろう、日本の軍備を定めるのは天皇の権限(統帥権)であって、ロンドン軍縮条約に調印したのは内閣の越権行為であるとして、与党の立憲民政党を激しく攻撃した。これが右翼を刺激して浜口首相狙撃へとつながったのである。
 また軍部もこれに力を得て、それ以後は統帥権という言葉を持ち出せば文民政治家は口を出すことが出来なくなり、軍部は独断で軍備拡張も作戦拡大も自由にやれるようになった。今になって考えれば何ともバカな政府追求をやったものだが、当時の憲法解釈からすれば、鳩山一郎の演説にも一理ある。

 まず大日本帝国憲法においては、第3条に
天皇は神聖にして侵すべからず
とあり、王権神授説の時代と変わらぬ無条件の絶対性が規定されていた。そして第11条、
天皇は陸海軍を統帥す
また12条、
天皇は陸海軍の編制及び常備兵額を定む
とあり、絶対君主が軍を指揮し、兵備を決定することが憲法で決められている以上、内閣ごときがロンドン海軍軍縮条約に勝手に調印するのは、確かに天皇の権限を侵した行為であった。

 しかしこの統帥権干犯問題がその後の日本の破局の最後の引き金になったとしたら、間違っていたのは憲法だったのか、それとも政友会の犬飼・鳩山だったのか?
 昔のことはもうどうでもよい。しかし時の憲法で定められている最強の権利の名において、軍の独断専行を許しかねない事件が最近もなかったか?
 昨年(2008年)秋、田母神俊雄航空幕僚長が懸賞論文に応募して、我が国は侵略国家ではなかったという主張を展開、しかもこの内容を防衛省に届け出る義務を怠っていたということで更迭されたが、田母神氏はこの処分に対して言論の自由の侵害であると抗議したという。

 確かに言論の自由の侵害である。例えば私が同じ事を自分の大学で学生に講義したために職を追われたとすれば、それはまさに言論の自由が侵害されたことになる。現行憲法が保障する最強の権利の一つ、それが言論の自由だからだ。
 しかし私は一民間人、田母神氏は航空自衛隊のトップ、昔で言えば大将にも相当する人物だ。軍の大将が国の国際政策に口出しすることまでを言論の自由で保証したらどうなるか。統帥権干犯問題の類似形になるのではないかと私はひそかに危惧したが、幸いにして今回は大手メディアも、与野党の文民政治家も、言論の自由の名の下に田母神氏を表立って擁護することはなかった。
 まあ、今回の件で言えば、田母神氏がかつての関東軍のように独断で兵を動かして、東アジア諸国の上空に日の丸の戦闘機が飛ぶような事態になるものではなかったが、こういう蟻の穴からすべてが崩れて大事に至るのであるから、やはり国民はもっと近代史を学ぶ必要があるのではないか。私は今の学生さんの世代を見ていて、あまりにも頼りないと思う。



定額給付金、やっぱり辞退

 2008年度の第二次補正予算関連法案が3月4日、衆議院で再可決され、いよいよ例の定額給付金の支給が一部の自治体で開始された。国民1人あたり12,000円、総額2兆円という気が遠くなるような数字だが、つまり裏を返せば勤労納税者1人当たりその何倍もの税金を使われているということだ。現金を前にしてこの単純なカラクリも見抜けないような国民ばかりかどうか、次回の総選挙で日本国民の知的レベルが問われることになる。

 高額所得者が給付金を受け取るのは「さもしい」とまで言った麻生太郎首相はじめ、閣僚や自民党議員たちも給付金を受け取るという。今回の給付金の最初の趣旨は“弱者救済”だったが、後になって“景気刺激”の意味合いも含まれるようになったから、受け取っても「さもしくない」、だから給付金を貰ってどんどん消費して下さい、などと言われても、私は「はい、そうですか」と素直に受け取るわけにはいかない。私は別項にも書いたとおり、やはり辞退させて頂く。

 大体、今の世の中には12,000円貰ったら、それを10日にも20日にも食い延ばして生活をしのがなければならない人が増えているのだ。そういう人たちの雇用を確保するために、かつての米国のニューディール(New Deal)政策に相当するような国家的プロジェクトを組まねばいけないという時に、こんな小遣いバラマキで有権者の機嫌を取ろうとするバカな政府しか持てない我が国民は不幸である。
 閣僚や議員たちは給付金でドンペリ買って、「私も消費に貢献しました」などと得意になってアピールするんだろうな。国際会議に出張して、国費から必要経費で落とした金で同行の女性記者たちにワインを振舞うような感覚の持ち主ばかりだから仕方ないか。

 小泉純一郎元首相がこのバラマキに反対の意向を示して関連法案採決を欠席したが、誰も同調者が現れず、かつての飛ぶ鳥も落とした威光はどこへ行ったか、哀れをとどめた。今回の造反に対する処分もないという。郵政民営化の時は造反者に刺客を放ち、自民党を除名までしてやりたい放題だった小泉も、もはやその仇討ちすらする価値もない男に成り果ててしまったようだ。
 「自民党をぶっ壊す」などとイイカッコしておきながら、最近の不況の責任の一端を問われて次回の総選挙に勝ち目が無いと見るや、息子に選挙地盤を譲って引退表明するなど、結局は「さもしい」人間だったから仕方ないことであるが、こういう状況を見ていて、英国かどこかの政治の諺を思い出してしまった。「最悪の首相はいない、なぜなら次の首相はもっと悪いから」



北朝鮮“飛翔物体”

 1998年8月31日のテポドン1号に続いて、2009年4月5日、北朝鮮から打ち上げられた飛翔物体(北朝鮮は人工衛星、日本などは“ミサイル”
(カッコ付き)と主張)が再び日本上空を通過した。北朝鮮は人工衛星打ち上げに成功したと、例によって大々的に報じているが、直後の調査ではどうも一段目ロケットは日本海秋田沖に、二段目以降は太平洋上に落下したらしい。
 人工衛星であろうと、弾道ミサイルであろうと、食糧やエネルギー支援を他国に仰ぎ、自国民を飢えさせている国家が、こういう“火遊び”をするとは何という本末転倒であることか。そういうことに関しては、ほとんどの日本人が同じ感想を持つに違いない。

 北朝鮮が危険な国家であることは言うまでもないことだが、振り返って我が国は他人の国のことばかり言っていて大丈夫なのだろうか。と言うのも、北朝鮮が今回“人工衛星”打ち上げを通告してきて以降の日本国内の報道が、あまりにヒートアップしていたからである。相手がいかにならず者国家であろうとも、現在まだ戦争状態にあるわけでもないのに、まるで北朝鮮が我が国に宣戦布告でもしたかのごとき報道であった。
 イージス艦が日本海と太平洋に出動しただとか、パトリオットPAC-3システムの装備が航空自衛隊浜松基地から東北地方に出発しただとか、いちいち報道している。明治時代の欣舞節ではないが、
 
日清談判破裂して〜 品川乗り出す吾妻艦〜
の時代ならともかく、こんなこっちゃ現代のミサイルが飛び交う時代の戦争に間に合わないよ、と思ったのは私だけか。しかもPAC-3システム運搬中のトラックが途中で障害物に引っ掛かったとか、実際の打ち上げの前日には早まって誤報が流れたとか、何となくマヌケな印象も拭えないから困ったものである。

 しかし我が国のミサイル防衛システムがバタバタと動いている様子を逐一報道させたのは、民主主義国家として当然のことだし、また前回のテポドンミサイル以来、莫大な国家予算を投入して整備した弾道ミサイル防衛システムの有用性をこの機会に世間にアピールしておきたいという思惑もあっただろうが、日本政府が意図しているもう一つの狙いがあったと思う。
 国連がこういうならず者国家の北朝鮮を放置しておくのであれば、我が国は今後も領土防衛のためにどんどん軍事力を増強させて対応するぞ、というメッセージを全世界に向けて送ったのではなかろうか。我が国は北朝鮮からイヤガラセを受けたわけであるから、国防のために相応の対抗処置を講じるのは当然のことであるが、それが度を越してくると、そして日本民族はこういうことに度を越しやすい欠陥があるが、日本も北朝鮮と並んで東アジアの二大ならず者国家と称されるようにならないとも限らない。くれぐれも自制を忘れぬように願いたい。

 ところでミサイル防衛のPAC-3システムなどで迎撃しても当たらないと発言した日本政府高官がいたとのことであるが、本当に弾道ミサイルを迎撃ミサイルで撃墜するのは難しいらしい。防衛省はこの高官の発言に反発したらしいが、北朝鮮が飛翔物体はここを通りますよと予告した地点までエッサエッサとミサイルを運んで行って、撃ってくるのを待ち構えているような悠長なことをしているのだから、実際の戦争となったら絶対に撃墜できないことは明らかであろう。
 それももし“人工衛星”打ち上げ用の一段目ロケットの残骸が間違って降ってくるような場合、計算された軌道を突進してくるわけではなく、制御を失った鉄の塊がフラフラと落ちてくるのである。枯葉が木の枝から地面まで落ちる軌跡を予測するのは絶対不可能と聞いたことがあるが、木の葉のように舞い落ちてくるロケットの残骸にこちらのミサイルを命中させて破壊するのは至難の技である。
 かの源平合戦の弓の名手、那須与一も空を飛ぶ鳥を狙って射落とせるのは3つに2つだったという。屋島合戦の折、日が暮れて両軍とも今日の戦はこれまでと兵を引いた後、沖の平家の軍船上で18歳か19歳の女官が扇の的を掲げて、浜辺の源氏に手招きしたとの故事であるが、威勢が良いだけで小憎らしい北朝鮮のオバタリアン・アナウンサーの挑発では、そんな風情が生まれるはずもなく、無意味に東アジアの軍事的緊張が高まっただけのつまらない国際劇だった。

 あまり関係ない話題であるが、前回テポドンが日本上空を通過した後に太平洋に落下した時、防衛庁(当時)幹部が、ミサイルは三陸沖に『
弾着した(ダンチャクした)』と発表したのが今でも印象に残っている。弾が落ちるなら『着弾(チャクダン)』だろうというのが普通の日本語のセンスであるが、軍事関係者はどうも漢字を引っくり返して『弾着』というらしい。一般の報道関係者が着弾と言っているのに、防衛庁関係者が頑固に弾着と言っているのが面白かった。
 飛行機の着陸は“陸着”とは言わないし、ライターで着火することも“火着”とは言わない。それなのになぜ弾丸が落ちると“弾着”というのか?やはりこれは今も昔も軍事関係者領域の専門用語なのだろう。

 軍事関係領域以外にも弾着という言葉はある。それは映画などで銃撃された人が血を噴き出して倒れるシーンを撮影する時の特殊映像技術のことを言うが、防衛省などの軍事関係者の言う『弾着』はもちろんこれではない。
 太平洋戦争中のレイテ島の戦闘を舞台にした大岡昇平さんの小説『野火』の中にも、確か「弾着が近づいてきた」という表現があったように思う。沖合いの米艦隊が陸上の日本軍を掃射するために、海岸線から次第に内陸部へと少しずつ照準を変えて艦砲射撃をする、その着弾地点が段々自分たちの方へ近づいてくる情景である。
 また第二次大戦中の戦艦は必ず飛行機を搭載していた。あの飛行機の任務には、連絡や偵察もあったが、実は敵艦隊との決戦が始まったらならば、敵艦隊上空に張り付いて、味方の艦隊からの砲撃位置を修正する役目も負っており、これを日本海軍は“弾着観測”と呼んだ。
 艦上のマストから見張り員が双眼鏡で観測できればよいが、戦艦大和などは40キロ以上先まで主砲弾を飛ばせるのであるから、敵艦隊上空に飛行機を飛ばして“弾着”を観測しなければ、とてもとてもそんな遠距離の敵艦に弾丸を命中させることなど覚束ない。味方戦艦が何隻もいると、どれが自分の艦の“弾着”か判らなくなるので、日本の戦艦の主砲弾には着色料が仕込まれていて、海上に落ちると色とりどりの水柱が上がったらしい。昭和19年10月25日、フィリピンのサマール島沖で日本の戦艦部隊から砲撃を受けた米護衛空母部隊の水兵が、「奴ら総天然色で撃ってきやがる」と叫んだという逸話を聞いたことがある。



豚パニック

 医師として医学的に不確実な事柄には触れずにおこうと思っていたが、最近あまりにも目に余るものがあるので書いておく。当初は豚インフルエンザと呼ばれていた新型インフルエンザのことである。
 今年(2009年)の春先頃からメキシコを中心に北米大陸でヒトからヒトへの感染と見られる流行が確認され、メキシコやアメリカ合衆国で死者が出たというので世界中でパニックが起こった。インフルエンザ大流行近し!しかも罹患すれば致死性が高い!そういう早まった風説が一般国民の間にも流れたためである。

 そもそもウイルスのやることなど、いちいち前もって正確に予知することなど不可能である。医学や保健衛生の専門家の間でも、今回の新型インフルエンザの症状は当初予想したほど重症ではないので、それほど厳重に警戒しなくても良いのではないかという人もいたり、今後さらにヒトからヒト、またヒトからブタへと感染していくうちに強毒性を獲得する恐れもあるから悠長なことを言っていられないという人もいる。
 どちらが正しいかと言えば、私はどちらが正しいとも言えないというのが正解だと思う。ウイルスは元々自然界の中で人間様の都合とは関係なく勝手に進化を遂げてきた。ブタからヒトへ感染したと言われる“今回の”新型インフルエンザウイルスが、今後人類に対して牙を剥くかどうかは五分五分の確率ではないのか。
 いずれ時期が来れば、非常に致死性の高い別のウイルスがブタやトリなどの動物を経てヒトに襲いかかるのはほぼ間違いないが、それが今回なのかどうかは判らない。その意味では首都圏をいつか巨大地震が襲うのはほぼ確実だが、それが今日か明日かは判らないのと似ている。完全な“杞憂”とまでは言えないまでも、自然界のやることに対して人間がいちいちパニックになっていては何にも始まらないし、却って危険である。

 今回の日本のパニックは滑稽でさえある。たちまち薬局などからマスクが売り切れて、次回の入荷予定も判らないというし、海外に修学旅行に行って生徒が新型インフルエンザに感染して帰国してきた学校にはイヤガラセ電話やメールが届くし、これだけ個人情報、個人情報と大騒ぎする国で感染確定者の氏名がネットに流出したとも聞く。私の学科の学生さんは電車の中で鼻をかんだだけで隣の人に露骨に車両まで変えられたと言っていた。
 また公共機関の中には自分の管轄内での人間同士の触れ合いを神経質に制限したり、活動を自粛したりさせたりして、責任を追及されるかも知れないことに対する過剰なまでにヒステリックな防衛反応を示すところもある。聞いた話だが、関西方面で開催されるはずだった医学関連の学会も中止されたらしい。まったく医者が率先してパニックになっててどうするんだか…。

 そうかと思うと、周囲の人々がこれだけピリピリしているのに、人混みの中で手も当てずに平気で大きなクシャミをする無神経なオッサンもいる。人前に向けての咳やクシャミは今回のインフルエンザに限らず重大なマナー違反のはずだが…。それはそれでまた別の話題であるが、こういう一連の現象を見ているうちに、いずれもっと強力なインフルエンザが世界的大流行の兆しを見せた時に、我が国で起こる可能性の高い恐るべき近未来像が頭に浮かんでしまった。

 1923年の関東大震災直後の東京で、朝鮮人が井戸の飲み水に毒を撒いているという根も葉もないデマに惑わされてパニックになった群集によって、多くの朝鮮人だけでなく日本語の発音が少し違う日本人が虐殺された事件と同じ心理状態が現出するのではないか。
 もし強毒ウイルスに感染させた工作員を敵対国に送り込んでテロを行なう国があるというデマがまことしやかに流された場合、日本人はこの種のデマに惑わされやすい側面を持っていないか?そうでなくても、どういう家庭教育を受けたか、高校生がホームレスを襲って殺傷する国である。今回のインフルエンザ騒動の中でも、もしかしたら人混みで口に手を当てずにクシャミをしたという理由だけで暴行を受ける事件が今にも起こるんじゃないかとハラハラしている。



政治家の進退

 政界なんてどうせウラがあるんだろうという勘繰りは完全に否定できないとしても、今回はちょっと最近には珍しい政治家の進退劇だった。鳩山邦夫総務相が、日本郵政のオリックス不動産に対する「かんぽの宿」などの施設売却をめぐる不透明な入札の責任は看過できないとして、西川善文日本郵政社長の続投にこだわって事態収拾を図る麻生太郎首相に辞表を提出した一件である(2009年6月12日)。

 もともと米国でさえ民営化を断念した郵政事業を、こともあろうにその米国からの圧力で民営化した以上、今回のような問題を含め、いろいろ利権の絡んだ問題が起きてくるのは時間の問題であった。郵政民営化こそは、小泉純一郎と竹中平蔵という稀代の売国奴を国民が圧倒的に支持した結果、日本経済が米国に屈した屈辱的な出来事であったと私は思っている。
 私はかつて小泉純一郎が声高に郵政民営化を主張するのを見て、海音寺潮五郎氏が小説『蒙古来たる』(昭和28〜29年)の中で、売国奴は常に愛国者の顔をして人々の前に現れる、と後の小泉・竹中を予言していたような文章を書いておられたのを思い出していた。
 海音寺氏はこの小説の中に、大国蒙古の勢力下に入ることこそ我が国の国益に合致すると説き回る公家を登場させているが、そういう売国奴は絶対に自分の組織(国)や仲間(国民)を“売る”とは言わない、“その方が得だ”と言ってそそのかすのが常套手段である。

 郵政民営化という売国奴の政策がスタートしている以上、与党の党首である麻生首相が今さら問題点を表沙汰にしたくないという心理は判る。だから何とか鳩山邦夫氏のメンツを立てる形で幕引きを図りたかったのだろうが、鳩山氏は自分の信念に反するとして、頑として聞き入れず辞任した。形の上では更迭であるが、近頃では珍しい進退劇であった。思えば“慰留”という形で裏取引の場で妥協し、職に留まった大物政治家が多かったために、我が国は何と信念の無い国家に成り下がってしまったことか…。呆れたことに、麻生首相までが実は自分も郵政民営化に反対だったなどとヌケヌケと答弁している。一体どの口が言っているんだか…。

 どうせ政治家のことだから、これからまたドタバタがあるかも知れないが、現時点では鳩山総務相(元)の行動は信念を通したものとして賞賛すべきものだろう。おそらく次の総選挙の台風の目になる可能性も大きい。
 しかし兄の鳩山由紀夫氏率いる民主党は早々と兄弟連携を否定しており、この人たちは選挙の戦略が判っているのかなあと首を傾げている。由紀夫氏はこれまでも核武装論や海外派兵論に関しても定見の無い危ない議論を繰り返し、
統帥権干犯問題で海軍強硬派や右翼を煽った鳩山一郎の血を引いているなあと思って危惧しているが、“信念の人”のイメージが定着した邦夫氏との共闘は民主党にとって決して悪いことではない。
 そもそも次回の民主党の総選挙は、前回売国奴の小泉に完敗した岡田克也氏を立てて、小泉ジュニアを粉砕し、小泉チルドレンを殲滅して自民党に圧勝しなければ、党の将来にとって大した意味はなかったのではないか。まあ、総選挙も近いという噂だし、今回の話題とは関係ない話なので、この辺で止めておきます。

補遺)
 鳩山邦夫氏は政治家の名門の出身だから、自分の信念に反するとなればケツをまくって組織を飛び出しても食うに困らない。確かに一般の人々が同じように自分の信念を通したら大変なことになるだろう。この不景気の世の中ではおそらく不可能…。
 じゃあお前はどうなんだ、と問われれば、医者もどちらかと言えば食うに困らない方の部類に属する。地位や名誉にこだわらなければ何とか生活はできるだろうから、私も万一(本当に万々一ですよ!)信念を曲げなければいけない事態になったら、このウェブサイトに理由を洗いざらい公開してケツまくっちゃおうかしら。それとも私も学会幹部に喧嘩状を叩きつけたりして、常々同僚からお前は血の気が多過ぎると怒られているから、少しは自重しようかしら。



人身事故…

 最近、朝夕の通勤・通学の時間帯に鉄道の人身事故の速報を目にする機会がめっきり増えてきたように思う。
『○○線は△△駅構内の人身事故のため、上下線とも運転を見合わせております。』
こんな電光掲示板を見るたびに、ああ、またかと溜息が出てしまう。先日は私が通勤に利用する西武池袋線も人身事故で長時間列車の運行がストップしてしまったので、私も十何年かぶりでバス通勤をした。
 「昨日は◇◇駅構内の人身事故のためご利用の皆様には大変なご迷惑をお掛けいたしましたことを深くお詫び申し上げます。」
翌日の列車内で車掌さんがお詫びの車内放送をしていたが、最近頻発する“人身事故”が鉄道会社に責任のある単なる“事故”でないことくらい、誰もが何となく暗黙の了解で判っているのではなかろうか。
 こういう“人身事故”が頻発するようになってしばらく経った数年ほど前のこと、ある鉄道会社に運転士として勤務する方からの悲痛な新聞投書がそれを物語っている。
『私たちは人様の人生を終わらせるお手伝いをするために電車を動かしているわけではありません。』

 「どうせ飛び込むなら迷惑にならない時間帯にやれよ。」
先日、ある乗客の方の心ない言葉が耳に入ったが、別に世間に迷惑を掛けようと思って飛び込むわけではなかろう。この不況下で給与カット、派遣切り、強圧的な退職勧告、等、等…。
 今日1日の生活すら覚束ない切羽詰った人たちが増えている。そういう方々の前で大勢の人々がいつもと変わらず通勤する姿、それが目に入った時の気持ちを思うと何とも切ない。

 ますます多くの人々が経済的に追い詰められていくこのご時世に、与謝野経済財政担当大臣が先日(2009年6月17日)景気底打ち宣言を出したというから呆れて物も言えない。厳しい状況にあるものの、一部に持ち直しの動きが見られるということらしいが、もし日本経済がわずかでも持ち直したとすれば、それは企業が非情な人員削減などで人件費を浮かせた効果が大きいはずだ。多くの労働者の犠牲の上に立った日本経済の立ち直りでしかない。
 何十機もの特攻機を犠牲にして、せいぜい駆逐艦1隻撃破した程度の戦果を得々として公表するとはどういう神経か!日本の指導者の精神構造は太平洋戦争中も現在もまったく変わっていないことを示す好例である。
 そりゃ与謝野さんは景気が良いでしょうよ。1週間後の新聞には、先物取引のダミー団体を通じて違法な迂回献金が与謝野さんたちに入っていたと報道されていた。国民の痛みなんか理解できる人たちじゃない。後方の安全地帯の料亭でインパール作戦計画を立てていたという牟田口司令官やその高級参謀どもを彷彿とさせるような事例に、腹が立って仕方がない。



政治家の人望

 2009年夏、いよいよ国会解散・総選挙が具体的な日程に上り、例によってドタバタの三文芝居がクライマックスに達しようとしている。都議会選挙の敗北で尻に火がついた自民党などは、現在の麻生太郎首相の下では総選挙は戦えないとして、『麻生降ろし』の動きが活発化しているが、これに対して麻生側近グループも巻き返しを図るなど、ドタバタ以外の何物でもない。
 昨年アキバ(秋葉原)あたりで無責任な麻生コールが沸き上がるのを見て、麻生の顔を看板にしておけば自民党もしばし安泰と思って、この男を党の総裁に選出したんだろうが、結局はその時の自民党議員どもの魂胆は自分の議席を守りたいだけの保身でしかなかったから、今になって世論調査で支持率が目に見えて下がってくると慌てふためいているだけなんだろう。まったく浅ましいったらありゃしない。人望もクソもあったもんじゃないわ。

 一見、絶大な人望があったかに見えた2005年の郵政民営化の小泉純一郎も、定額給付金の予算案に反対して議決を放棄した時は、かつて小泉チルドレンと呼ばれたチンピラ議員どもでさえ、これに付き従う者は誰1人いなかった。やはり親分(小泉)に義理立てして組織(自民党)から制裁を受けるのが怖かったのだろう。
 まったくこういう仲間内からの人望さえない政治家どもが次から次へと代替わりしたところで、国民は困ってしまう。自民党ばかりでなく、民主党にしたって、長らく代表としてしがみついていた小沢一郎の顔が汚れてきても、やはりその亜流で選挙に強そうなだけの鳩山由紀夫を担ぎ出してくるようでは大して期待はできん。あとの有象無象は問題外。

 政治家の人望と言えば真っ先に思い出すのが西郷隆盛で、この人は明治維新で職を失った士族たちの不満の代弁者として担ぎ上げられ、その政治的主張は確かに近代日本の進むべき道とは真っ向から対立するものであったし、軍事的蜂起は言語道断であったが、最後に新政府軍に鎮圧される土壇場になっても、西郷を支持した者たちの多くは彼と運命を共にして、田原坂から城山で戦死したのである。定額給付金に反対してたった1人でトボトボと議場を後にした小泉純一郎の惨めな姿とは対照的である。

 まったく政治家に限らず人望とは難しいものである。羽振りの良い時、力や勢いのある時、地位の裏づけがある時は、金を握らせ、酒食を饗し、あるいは自分の優位な立場を利用して恫喝を掛けたりすることで、子供でも、学生・生徒でも、部下でも、国民でも、ある程度は自分に従わせることが出来る。しかし自分の優位をすべて失った後まで残るのが人望とすれば、それはまさに天下に得がたいものであると同時に、そういう人望を持った政治家に国を引っ張っていって貰いたいというのもまた国民の切なる(そしておそらくは叶わぬ)願望であろう。



やっぱり壊滅、自民党

 2009年8月30日、奇しくも私の58回目の誕生日に行なわれた第45回衆議院選挙で自民党は大敗を喫した。予想通りと言うべきか、予想以上のと言うべきか…。民主党308議席、自民党119議席は、公示前の議席数(自民300、民主115)がほぼ逆転した数字である。(開票開始わずか2時間で民主党は単独過半数を獲得した

 この総選挙の結果については、いろいろなメディアで専門家がさまざまな分析をしているから、私ごときが今さら口をはさむことではないが、私は別の面から多少の危機を感じている。この選挙結果自体は確かに民意であるが、我が国の民意の在り方は本当にこれで良いの…?それが私の危惧するところである。

 前回の総選挙で、小泉純一郎の郵政民営化ごときにコロリと騙されて、日本国民が自民党を大勝させた時にも同じようなことを書いたから、私が決して自民党支持者でないことはお判りと思うが、今回の民主党大勝も私は素直に受け入れることはできない。もちろん他の有象無象の政党ごときは問題外である。
 前回は郵政民営化という売国奴の政策を見抜けず、ライオンのような長髪を振り乱して絶叫するお調子者のムードに酔って、日本国民は小泉純一郎の自民党を圧倒的に勝たせた。しかしその後、政権投げ出しオヤジだの、絆創膏オヤジだの、酩酊オヤジだの、得体の知れない魑魅魍魎どもが続出したあげく、国に預けたはずの年金は無くなるわ、医療費は上がるばかりで医療は崩壊するわ、痛みばっかり押し付けられて景気は悪くなるわ、雇用は無くなるわ、日本社会はとんでもない迷走を繰り返し、こんなはずじゃなかった、こんなことなら自民党の奴らにも痛い目を見せてくれるというムードに流されて、今度は鳩山由紀夫の民主党を大勝させた。

 わずか4年間で、こんなに振り子が赤から青へと(あえて右から左とは言わない)大幅に揺れ戻すような民意を示した国民の危うさを私は危惧する。売国奴の小泉をあんなに支持しなければ日本はここまでメチャクチャにならなかったはずだし(この4年間の野党完全無視の自民党の施政を見ればそれは確実)、もし今度、民主党が国民の期待に応えきれなかった場合、次の時代の民意はどこへ向かうのか?私はそう簡単に自民党に戻るとは思わない。
 自民党もダメだし、民主党ももしダメとなった場合、この次は非常に国家主義的な色彩を持った極右の政治的勢力の登場を許す基盤が形成されてしまうのではないか。

 一般的な日本国民の政治意識を1枚の情景で描けと言われたら、私には大きなガラス瓶に詰まった1円玉が頭に浮かぶ。かつて
竹下首相が3%の消費税導入を決めた時、主婦を中心としたかなり多くの国民が行なったと思われるささやかな政治的レジスタンスの情景である。3%の消費税がかかれば物価には1円玉の端数が出る。今まで100円で売買していた商品なら103円になるわけで、そのお釣りとして出す1円玉が大量に必要になる。その1円玉を家庭で大量に貯め込んで死蔵してしまうことによって、“日本経済を混乱させ”、“消費税を導入した政治家どもを困らせてやろう”、それがこのレジスタンスの目的だった。けっこう教養のあるオバサン連までが、鼻息も荒く『1円玉死蔵大作戦』の戦果を得意になって語っていたものである。

 要するに日本国民にとっての政治的主張は、ある政党なり政治的勢力の政策を理解することではない、なるべく面倒な変化なしに幸せを約束してくれそうな政党に投票し(戦後続いた自民党政治はまさにその象徴)、裏切られたと感じたら罰を与える、それによって絶妙なバランスを取ってきたのが戦後の日本の政治だったのではないか。消費税導入の時は『1円玉死蔵大作戦』ばかりでなく、次の参議院選挙で自民党を敗北させたが、政権を決める総選挙では本格的な政権交代までは至らなかった。(消費税率アップの時も同様)
 しかし4年前の郵政民営化の選挙では、このバランスが一気に自民党に傾き、今回は自民党に対する不満が爆発して一気に民主党に傾いた。この振れ幅の大きさは戦後日本が初めて経験する異常事態ではないのか。だからもし民主党が国民の不満を吸収して期待に応えられなかった場合は、日本政治の天秤は自民へも民主へも振れることができずに、とんでもない方向へ吹っ飛ぶ可能性がある。
 そんなことにならないよう、今は政権交代が実現したせっかくのチャンスなのだから、民主党の手腕に期待して、日本の行く末をもう少し眺めてみようと思っている。



日本のロケット

 2009年9月11日、種子島宇宙センターからJAXA(宇宙航空研究開発機構)によるH2Bロケットの打ち上げが成功したと報じられていた。最大6トンまでの重量を地球の衛星軌道に投入できる性能を持った国産の新鋭大型ロケットで、国際宇宙ステーションに大量に補給物資を供給する手段として国際的な期待も大きいという。

 本当に今の日本の若い人たちや子供たちには想像もつかないだろうけれど、私たちの世代が小学生・中学生だった頃、まさかこんな時代が来るとは夢にも思っていなかった。ソ連が初めて人工衛星スプートニク1号を打ち上げたのは1957年、私が小学校に入学する前年である。
 人工衛星打ち上げで1歩リードされたアメリカも翌年1月にはエクスプローラー1号の打ち上げに成功したが、その時にはソ連はすでに与圧室(衛星内の気圧を地上と同じに保つ気密室)を持ったスプートニク2号の打ち上げに成功していた。ただスプートニク2号の与圧室内には実験用の犬が乗せられていて、地球上の生物として初めて宇宙旅行をしたわけだが、当時は人工衛星を再び地上に回収する技術などあるはずもなく、犬にとっては二度と還らぬ片道旅行だった。
 “可愛いワンちゃん”を宇宙に放り出して殺したソ連の非情な宇宙開発に関しては、全世界の動物愛護団体が抗議したと思うが、日本でもラジオ放送か何かで、この可哀そうな宇宙犬を悼む歌が児童合唱団のコーラスで放送され、まだ子供だった私などはバス停でバスを待っている間もそのメロディーが頭の中で鳴り響き続け、心が揺さぶられて困った覚えがある。
 しかし今よく考えてみると、日本人はその12年前、若者たちを特攻機に乗せ、米艦隊に向けて二度と還らぬ片道攻撃に放り出した民族である。ソ連の非情な宇宙実験を見て、それとは比べ物にならないくらい非情な作戦を決行した自分たちの歴史を少しでも反省した大人はいたのだろうか???

 それはともかく、さらに後の1960年に打ち上げられたスプートニク5号に搭乗した犬やネズミたちが無事に帰還したことにより、有人衛星打ち上げへの道が開け、1961年にボストーク1号でガガーリン少佐が世界最初の有人宇宙飛行に成功した。「地球は青かった」というガガーリン少佐の言葉は一躍世界中に有名になり、また1963年のボストーク6号で世界初の女性宇宙飛行士になったテレシコワが軌道上から送信した「私はカモメ」という言葉も有名だった。
 最初の人工衛星打ち上げばかりか、最初の有人宇宙飛行までもソ連にリードされたアメリカが宇宙開発の威信を取り戻すのは、1969年に最初に人間を月面に送り込んだ一連のアポロ計画を待たねばならなかった。

 さてこういう米ソの派手な宇宙開発競争が繰り広げられた1950年代後半から1960年代にかけて、「日本のロケットはどうしているの〜?」と我が国の子供たちが切歯扼腕していたのはもちろんである。米ソの先端宇宙技術が少年雑誌や子供向け科学雑誌などで紹介される際に、日本の宇宙技術も負けてはいませんよ、というような内容の記事も掲載されることがあったが、糸川英雄博士のペンシルロケットなど初期のものは全長23センチメートル、いくら優秀なロケットかは知らないが、所詮は零戦
グラマンか、とがっかりしたものである。
 この糸川博士は戦前から戦中にかけては陸軍の隼戦闘機などの設計に関わり、戦後も日本初の人工衛星おおすみ(1970年)に関わった、日本の航空宇宙技術の第一人者であるばかりでなく、バレエやバイオリンや占星術にも興味を持つなど多才多芸な人で、ダヴィンチや平賀源内を彷彿とさせる。何かの写真週刊誌にバレエを踊る糸川博士の写真(ちょっとキモい…)が掲載されたこともあった。

 確かに初期の日本のロケット技術は米ソに比べればまだまだ未熟だったわけだが、その後やはり鉛筆のようなペンシルロケットから、ベビーロケット、カッパロケット、ミューロケットと着実に進歩を遂げ、現在のアメリカのNASAからも頼られるようなH2Bロケットの開発につながったばかりか、米欧と並んでハレー彗星探査に名乗りをあげた「さきがけ」「すいせい」、小惑星に軟着陸した「はやぶさ」、月面の鮮明な画像を送ってきた「かぐや」など、日本の宇宙開発技術は世界でも一流となった。
 終戦間際にドイツから輸入されたロケットエンジン技術の経験があったうえに、糸川博士らの独創的な研究があったからこそ、敗戦国でありながら宇宙開発先進国の米ソに何とか食いついてこれたのだろうと思う。

 しかし1950年代から60年代にかけて米ソが宇宙開発の激しいツバ競り合いをしたのも、我が国が北朝鮮の“人工衛星”にピリピリするのも、宇宙開発技術はまさに軍事技術と紙一重、両刃の剣だからである。日本はすでに潜在的な軍事大国であり、近隣諸国ばかりか米中露などからもその宇宙技術と原子力技術は期待もされ、恐れられてもいるはずである。ロケット、ロケットと手放しで喜んでばかりもいられない。より一層の自重が望まれるのではないか。



幻の東京五輪

 2016年の東京オリンピック大会招致の夢は、2009年10月2日にコペンハーゲンで開かれた国際オリンピック総会で潰えたようだ。東京、シカゴ、マドリッドを押さえて大会招致に成功したのはブラジルのリオデジャネイロだった。

 東京五輪招致に努力された石原東京都知事や元オリンピック選手の方々には残念なことであったと思うし、日本の繁栄のためにと思って一生懸命に奔走して下さったのだろうから、大変ご苦労様でしたと心から申し上げたいが、やはり申し訳ないけれど、これで良かったのではないか、あるいは結局はこうなるしかなかったんではないかと思う。

 世界から大勢の観光客を集めて国際的ビッグイベントをやる、その経済的効果は計り知れないものがあるのは確かだろう。1940年の国際博覧会のために建造された隅田川の勝鬨橋(写真)は、戦火のためにその本来の意味を果たせなかったが、1964年に東京で行なわれたオリンピック大会は、戦後の貧しかった日本を一躍世界の檜舞台に押し上げた。今や東京も勝鬨橋を中心としたリバーサイドエリアに成熟した近代的な街並みを建設できるまでに発展している。
 あの夢よ、もう一度…という関係者の希望は断たれることになったが、同じ夢はアメリカ人もスペイン人も見たかったはずである。そうであれば、その“良い夢”は今度はブラジル人に見て貰おうというくらいの度量の深さが今の日本人にも必要である。

 確かに1964年の東京オリンピック、子供心にもワクワクするようなビッグイベントだったことは、このサイトにも何回か書いたことがある。その夢と希望を現代の日本の若者たちにも与えようという意見もよく読んだが、果たして今の大人にそんなおこがましいことが言えるのだろうか?
 あの頃の日本の大人社会と現在の日本の大人社会、若者や子供たちに対する態度はまったく正反対だ。昭和30年代の学校教育のところでも書いたが、昔の学校は、戦争で何もかも失った大人世代の手で子供たちに教育という財産を分与しようという目的で動いていたように思われたし、当時の学校時代を経験した教師や生徒たちの文章を読めば今の学校には無い暖かさすら感じられるが、そういう教育を受けてきたはずの子供たちもバブル経済に狂って金に目が眩んだ大人になり、学校教育に関わる人間どもまでが若者や子供を食い物にすることを先ず考えるようになってしまった。
受付窓口に来た入校希望者をカウンターの陰で“○万円”と呼ぶ学校があると聞いた。
「寄付金が集まらないから教育なんて出来ません」とおっしゃった教頭も知っている。
少子化の先行きが見えているのに雨後のタケノコのごとく続々と認可された新設学校、新設学部が、きちんと学校教育の基本的精神を遵守しているのかどうか、鳩山新政権も過去の文部科学行政を厳正に洗い直してみたら良い。

 日本の若者や子供に夢や希望を与えるためのオリンピック招致ならば、若者を食い物にしなければ立ち行かないような社会の在り方を先ず改めることが先決であろう。



日本列島改造論

 先日も博多で学会があったが、国内の出張に限っては、私はあまり飛行機は使わない。博多も東海道・山陽新幹線を使うことが多い。
 お前は飛行機恐怖症かと言われれば、そうであるともないとも言えない。確かに飛行機は墜落したらまず助からないが、新幹線も、いつ襲って来ても不思議ではない東海大地震が発生して、もしトンネル内で運悪く落盤にでも遭遇すれば、これもまず助からない。要するに人間には、そんな確率の小さな事象までいちいち心配して交通機関を選択する余裕など無いということだ。

 そうなると飛行機よりも鉄道の方が沿線の状況が身近に感じられるので、私にとってはおもしろい。福岡から羽田まで飛行機に乗って窓から下界を見下ろしていると、晴れた日であれば途中の近畿地方上空から、日本史の教科書でお馴染みの仁徳天皇陵が望めて興味深かったりするが、あとは日本列島の海岸線は紀伊半島の一部を除けば、九州から関東までず〜〜っと都市部が続いているだけ…。まるで東日本から西日本にかけての本州の太平洋沿岸全体が1つの巨大都市(メガロポリス)になってしまったようだ。

 飛行機に乗っていると、これがかつて
田中角栄首相の提唱した国造りの結果なのだなとしみじみ思う。田中角栄氏が日本列島改造論を打ち出し、長期政権だった佐藤栄作氏の後を継いで首相に指名されたのは昭和47年(1972年)のことであった。
 日本全国を高速道路・新幹線網で結んで地域格差をなくす、という田中角栄氏の持論は、そのまま政策に反映され、それまでも順調に進行していた経済発展に対する強力な起爆剤となった。土地に対する投機が進み、物価は一気に上昇し、日本は土建国家とまで呼ばれ、東京23区の地価でアメリカ全土が買えるとさえ言われたものだった。

 あの日本列島改造論から35年以上経って、田中角栄氏も歴史上の人物となった現在、我々はあの政策の功罪を冷静に見極めなければいけない。あの時代の日本人は何を求めて突っ走り、その結果としてどういう現在があるのか?

 飛行機の窓から見下ろした巨大都市(メガロポリス)の姿こそは、日本列島改造論の終着点であり、あの時代の日本人が夢見たものだった。ぎっしりと工業地帯や商業地帯や住宅地帯が詰め込まれた土地、それらは森林や砂漠よりもはるかに生産性の高い宝石のような土地であることは明らかであり、それがここ何十年かの間の日本人の豊かな生活を保証してきた原動力であった。

 高速道路や新幹線で東京や大阪などの中央と連結されれば地方の隅々までも繁栄が行き渡る、地方の過疎化も防止でき、東京の過密化も緩和される、それが日本列島改造論の当初の目的だったはずだ。飛行機から見ればその政策はかなり成功したように見える。

 しかし新幹線に乗っていると、必ずしも話はそうではない。新幹線を誘致すれば、あるいは高速道路を建設すれば、中央と直結できるので東京や大阪の繁栄が地方にも流れ込んできて、地方経済も潤う、そういう図式が最初は為政者にも住民にもあったと思う。はたしてその予測は正しかったのか、少なくとも一部に限っては幻影に過ぎなかったのではないか、そんな思いが頭をかすめる。

 博多から東京へ。それは日本の歴史の道の方向でもあり、日本列島の大動脈にも例えられるルートである。博多を出た新幹線は、新大阪までの区間がJR西日本管轄、新大阪から東京までの区間がJR東海の管轄であるが、のぞみ号に乗っていると、同じ日本列島の大動脈であっても、その輸送量にはかなり濃淡がある。人体の本物の大動脈でも、心臓を出る所が一番太くて、頭や腕や腹部に血液を送る血管が次々と枝分かれして、下半身に血液を送る部分になるとずいぶん先細りしてくる、ちょうどそんな感じがする。

 余談だが、昭和39年の東海道新幹線開業当初は列車の名前は「ひかり」と「こだま」の二本立てだった。何しろ世界最速の営業運転列車だったから、音速のイメージのこだま号、さらにそれより早いひかり号と納得のネーミングだったが、もっと早い列車を運転するという話になった時、私は光速より早いものは無いのにどういう列車名にするのかと心配していたら、のぞみ号ということで、これもまた納得だった。希望はすべてを超えるということか!でもリニアモーターカーの時はどうするのだろうか?

 さて東京−博多間の新幹線の乗客数であるが、大雑把に言って東京−関西間はいつもそこそこ乗っているが、関西−九州間は空いていることの方が多い。博多から乗って帰京する時など、関西を過ぎるあたりから座席が詰まってきて窮屈になるので、弁当などはさっさと食べておく。
 上空から見下ろすと、東から西までどこまでも一様に都市化したように見える東海道と山陽道であるが、実感としては東京に近づくにつれて、人の流れも物の流れも次第に濃密になってくる現実は否めない。これがこの日本列島の大動脈から枝分かれした地方幹線やローカル線ではさらに細くなってきて、例えばJR東日本の東北・上越新幹線の北の駅には東海道新幹線のような賑わいはない。

 要するに何が言いたいかといえば、地方の人には面白く聞こえないだろうが、新幹線や高速道路を建設すれば中央の賑わいが列島の隅々まで流れ込んできて、地方経済も豊かになるだろうという日本列島改造論の主張は幻影だったということである。
 昭和39年(1964年)に東海道新幹線が東京と新大阪を結んだ翌年には名神高速道路も全線開通し、いよいよ日本にも高速輸送網の時代が到来したと言われたものだった。それまでもアメリカの高速道路やドイツのアウトバーンなどはたびたび紹介されていたし、鉄道の速度比べなどもいろいろな読み物に掲載されていたが、そのトップ5はいつもフランスやイタリアなど欧米の列車であった。それが名神・東名高速道路の開通と、新幹線の開業によって、やっと日本も一躍世界のトップクラスに踊り出た!

 我が国の技術力をもってこの高速輸送網で列島全体を覆えば、日本全国どこへ行っても東海道沿線並みの経済的繁栄がもたらされるはずだ、その発想は現代もまだ続いている。
 しかし東海道・山陽新幹線と東名・名神・中国高速道によって一本化されたはずの東京〜北九州間も、新幹線に乗れば判るとおり、西の端まですべてが“東海道化”されたわけではなかった。新幹線が開通したから東海道が栄えたわけではない。近世の東京遷都以来、もともと人や物の流れが最も多かった区間に新幹線や高速道路が最初に建設されただけである。この因果関係だけはしっかり押さえておかなければいけない。

 最近、公共事業の是非をめぐって、高速道路や新幹線整備計画も議論の対象になっている。この問題には地方と中央の利害の対立が複雑に絡んでおり、おおいに議論するべきだが、これら一連の高速輸送網計画が30余年前の田中角栄氏の列島改造計画に端を発していることを考えれば、あの時代の日本政府の未来予測が正しかったのかどうか、あの時代の日本国民の選択が今の日本にどういう結末をもたらしているのか、それを歴史的に検証すべき時代に入ってきているのではなかろうか。



日米同盟危機

 民主党の鳩山政権発足以来、我が国の運命を大きく左右しかねない重大な懸案がいまだに滞っている。それは沖縄の普天間基地返還に伴う代替基地建設問題である。
 純粋に軍事的な観点や、日米関係堅持の観点から、移転先は沖縄が最も望ましいとする意見やら、沖縄県民に配慮して県外・海外移転を望む意見やら、さらには昔の反戦・反安保のイデオロギー闘争的な主張までが入り乱れて、事態はドロドロの様相を呈してきた。そういう中で鳩山首相は単に解決の先延ばしを計っているようにしか見えず、まったくの判断停止状態である。

 これではもう日米の安全保障に関する協調の土台はガタガタに崩れたと見るべきであって、解決策の提示がこれだけ遅れたうえに、さらに県外・海外移転などということにでもなれば、もうアメリカの国防関係者の民主党政権への信頼はほとんど無くなるだろう。

 アメリカにとってみれば、最大の仮想敵国の一つである中国と戦火に及ぶ場合の主戦場は台湾海峡であり、そこで米中が軍事的に火花を散らすことになれば、それは単なる極地的な小競り合いで収まる可能性は低く、両国が台湾問題に絡ませた特殊な法律的プロセスによって、事態は大規模な軍事衝突に発展するだろう。
 台湾有事に際して、米軍が最も即応できる基地が沖縄の普天間であり、この線を後方に下げるのは中国政府を喜ばせることになる。中国政府も賢いから、そう簡単に米国と一戦に及ぶとは思わないが、どんな確率の小さな国際問題であっても、常に万全の対策を施しておくのが中国も含むあらゆる国家の指導者の務めである。

 別に日本が寄り添う相手はアメリカでなくても良い、中国でも良いではないかという意見もあるが、何でもかんでも強い者に対してムカッ腹が立った若者時代の“反米闘争”のイデオロギーを思い出す。
 今後の日本はアメリカに寄るのか中国に寄るのか、それともどちらにも寄らずに等距離を保つだけの自立した実力を持つのか。まあ、3番目の道は無理であり、アメリカ、中国(あるいはロシアを含めてもよいが)のいずれかと安全保障上の協定を結ぶ以外に日本の進むべき道はあるまい。

 アメリカを単なる超大国の一つとしか見ない立場からは、中国を“同盟”の相手とする選択肢もあり得る。日中同盟ならば、中国にとって敢えて日本国内に基地を求める必要もないから、沖縄基地問題も一挙に解決するに違いない。純粋に軍事的にはそれも良かろう。

 しかし世界の超大国と言われるアメリカ、中国、ロシアは、それぞれまったく異なった統治原理で動いている。日本はそのうちのどれに最高の価値観を見出そうとするのか?どの超大国の統治原理を最も優れたものとして受け入れようとするつもりなのか?
 国民がお祭り騒ぎで大統領を選ぶ国を選ぶのか、一党独裁と言われている国を選ぶのか?それはもう戦後に教育を受けた世代の日本人なら、今さら問われるまでもあるまい。

 お前はアメリカの顔色を窺うのか、と言われれば返す言葉はない。お前は沖縄県民にだけ苦労を押しつけて平気なのか、と言われても反論はできない。
 だが逆に言えば、一国の政策を討論する場において、こういう情緒的な“殺し文句”が存在すること自体、戦前・戦中から連綿と続く日本政府の無責任を感じる。
 沖縄を戦火に巻き込み、県民多数を玉砕させた大日本帝国の無責任さえなければ、沖縄県民がこれほどまで日本政府に対して被害者意識を抱くことはなかったのではないか。そして戦後も中央政府は沖縄を本土経済の食い物にしかしてこなかった。

 また米中の狭間にあって微妙な軍事的位置にある沖縄が再び戦火に巻き込まれる可能性を、たとえわずかでも未然に防ぐどころか、両国の間でいい気になってはしゃぎ回る愚かな政治家どもが多過ぎはしないか。中国を無用に挑発して反日の口実を与え続けた小泉・安倍もそうだったが、選挙目当ての耳障りの良い言葉でアメリカとは対等だと怪気炎を上げた小澤・鳩山も同類項だ。本当に我が国は与党も野党も国際感覚に乏しい人材が多いとしか思えない。



スペイン風邪の落し物

 年が改まった2010年になっても、いわゆる新型インフルエンザの流行はなかなか終息しそうもない。その感染力やウィルスの毒性は、当初恐れられていたほど強くはなさそうなので一安心ではあるが、学生さんたちからインフルエンザ発症しましたなどという報告を聞くと、講義でも実習でも定期試験でも強制的に休ませることになるので、我々教員の手間も増えてヤレヤレと思ってしまうし、若い世代が感染すると、私などはスペイン風邪で死んだ武者小路実篤の『愛と死』のヒロインとダブって、あまりいい気持ちはしない。

 さて1918年から1919年、第一次世界大戦の真っ最中にパンデミックを引き起こしたスペイン風邪であるが、最近『歴史群像』(Gakken)という雑誌の2月号を読んでいたら、今まで知らなかった、あるいは見過ごしていたような知識を得ることができたので、今回はそれをご紹介しておこうと思う。この雑誌は古今東西の戦争に関する記事を特集しているものだが、スペイン風邪がいかに戦争と密接に関連していたかを知って、ちょっと目からウロコが落ちたような気になった。

 まず私が今まで無知だったことに、スペイン風邪の発生地はスペインだとばかり漠然と思っていたわけだが、実はアメリカのカンザス州らしい。それがアメリカの第一次大戦参戦に伴う戦費調達のためのキャンペーンに集まった群集の中で一挙に感染が拡大し、さらにアメリカからも大勢の若い兵士たちが動員されてヨーロッパに派遣されたことから、世界的流行に到ったということだ。
 アメリカ参戦のきっかけは、ドイツの潜水艦(Uボート)による無制限潜水艦戦でルシタニア号が撃沈され、多数のアメリカ人船客が犠牲になった事件だが、Uボートの魚雷はアメリカ大陸に限局されていたインフルエンザウィルスを世界中にばらまく風穴を開けてしまったことになる。

 これをスペイン風邪と呼んだわけは、当時交戦中だったヨーロッパ各国では報道管制が敷かれていてインフルエンザ感染の被害も秘匿されていたが、中立国のスペインでは王室や閣僚のメンバーの発症が自由に記事になって配信されていたからだという。ここにも戦争の歴史とパンデミックの興味深い関連が見られる。

 いわゆるスペイン風邪による死者は数千万人とも言われ、第一次世界大戦の犠牲者数をはるかに上回ったのだが、実はさらに20年後に膨大な犠牲者を出す遠因にもなったようだ。第一次世界大戦の戦後処理を話し合うパリ講和会議に出席したアメリカのウィルソン大統領がスペイン風邪に罹患し、回復後まだ体力・気力とも不十分なままに会議に臨んだために、フランスの対独強硬路線に譲歩し、日本の中国大陸における利権要求にも譲歩してしまった
 アメリカは当初、ドイツに対する過酷な賠償金や領土割譲は報復を招くとして反対の立場を取っていたし、日本の大陸における利権はアメリカと真っ向からぶつかるものであった。どちらも後年の第二次世界大戦の引き金となる条項であったから、もしウィルソン大統領がインフルエンザで気力を失うことなく交渉に当たっていたら、その後の世界史の展開はどうなっていたか、真実はどうであったかはともかく、歴史の“if(イフ)”の物語としては興味が尽きない。

 今回はまとまりの無い話であったついでに、スペイン風邪とは関係ないが、やはり何かの雑誌に掲載されていた第一次世界大戦の小さな落し物のことをご紹介しておく。確か私は何年も前に、病院勤務医向けの雑誌か何か(『いずみ』とかいう雑誌名だったか)で読んだ記憶がある。
 地中海のマルタ島の乳児検診で、お尻に青アザのある子供が見つかった。当然これは親による乳幼児虐待に違いないとして、担当の小児科医は地元の警察に通報するが、その子の両親にとってはまったく身に覚えの無い濡れ衣だった。ヨーロッパ人にとっては殴られもしないのに子供のお尻に青アザがあるなんて信じられない。
 ところがたまたま日本人(だったか他の東洋人だったか)の医師が、これは殴られた青アザではなく、蒙古斑(Mongolian spot)という東洋人の小児期に見られる母斑の一種であると証言する。我々日本人など東アジア民族は、乳幼児期に臀部などに青黒い色素沈着が見られ、よく年長者が若者をバカにする時に「ケツの青い奴」などとも言う。
 ではなぜ東洋人が居住した歴史もないマルタ島に蒙古斑が見られるのか?第一次世界大戦中、ドイツの潜水艦Uボートは地中海にも跳梁し、連合国側の商船に多大な損害が出ており、日英同盟に従って連合国として参戦した日本は駆逐艦部隊を地中海に派遣した。その日本艦隊の根拠地がマルタ島だったそうである。
 つまり地中海に派遣された日本の水兵さんと地元のマルタ島の若い娘が仲良くなって、あとは御想像にお任せするが、後年の悪名高い従軍慰安婦ではない。当時、地中海に派遣された日本艦隊の活躍ぶりは他の連合国艦隊の中でも群を抜いており、Uボートに撃沈された商船の乗員を身を挺して救助したりして、船乗りたちから大変感謝されたという。日本艦隊に護衛して貰えなければ出港しないと主張した船長もいたらしい。そんな勇敢な日本海軍の将兵たちはマルタ娘の憧れの的だったかも…。



高貴なる義務

 高貴なる義務(英:noble obligation、仏:noblesse oblige)という言葉がある。貴族、高貴なる者、さらに変じて多くを与えられている者には相応の義務がある、という意味で、元々はヨーロッパに伝わる考え方らしい。
 高い地位に就いて報酬にも恵まれた者は、下の者に対して率先垂範してより厳しい義務に服さなければならないという意味だが、これは上の者に対する強制というよりは、むしろ相応の義務を求められる上位者自身の誇りではなかろうか。ヨーロッパの王侯貴族は普段は領民の労働の上に君臨して裕福な暮らしを保証されていたが、一旦戦争になればその子弟は軍の先頭に立って戦いに赴いたという。必ずしもすべての王侯貴族がそうだったわけではあるまいし、むしろ卑怯な振る舞いをした者も多かったに違いないが、言葉の意味としてはそのように定着した。
 数々のスキャンダルもある英国王室だが、その皇太子たちは戦場に従軍し、途上国にボランティア活動を行なったりしている。

 前回マルタ島の日本海軍の話を出したが、列強海軍の軍艦の名前にこのnoblesse obligeの伝統がよく表れている。第二次世界大戦中の有名なドイツ戦艦ビスマルクは19世紀に鉄血宰相として知られたドイツ帝国初代宰相であり、「賢者は歴史から学び、愚者は経験からしか学ばない」などの名言がある。そう言えば「人が必ずウソをつくのは狩猟の後、戦争の最中、選挙の前」というのもあるらしい。
 ドイツはこの国民の誇りだったであろう宰相の名前を戦艦に冠して戦場に赴かせた。そして戦艦ビスマルクに従ったのは巡洋艦プリンツ・オイゲン、これも貴族の系譜の17世紀から18世紀のオーストリア軍人の名前、さらにこの巡洋艦プリンツ・オイゲンはアドミラル・ヒッパーの同型艦だが、これも第一次世界大戦時のヒッパー提督の名前である。

 一方、戦艦ビスマルク追撃戦に活躍したイギリスの戦艦プリンス・オブ・ウェールズの艦名もウェールズ皇太子で、これはイギリス王室の第一王位継承者の総称である。戦艦ビスマルクも戦艦プリンス・オブ・ウェールズも戦いの中で沈没したが、ヨーロッパ諸国はそういう危険のある戦場に国家や国民の英雄の名前を冠した軍艦を送り出したのだった。優雅なものではフランスの巡洋艦ジャンヌ・ダルクもあり、この艦名は現在のフランス海軍のヘリコプター空母にも引き継がれている。(ヘリ空母ジャンヌ・ダルクは2010年退役)

 アメリカも歴代大統領の名前や海軍将官などの名前が軍艦に冠せられ、存命中の大統領経験者名を世界最強の原子力空母に冠したのはいささか傲慢な行き過ぎと思うが(空母ロナルド・レーガン)、これもヨーロッパのnoblesse obligeの伝統の流れであろう。そう言えば『ファイナル・カウントダウン』というSF映画で、真珠湾攻撃前夜にタイムスリップした原子力空母ニミッツは、第二次大戦中の太平洋艦隊司令長官の名前を命名されている。ニミッツ提督は大戦中に元帥に昇進したが、映画の中で空母ニミッツが1941年当時のアメリカ海軍と交信し、「我が海軍にはそんなペーペーの局長の名前を付けた空母など存在しない」と言われる場面は面白かった。

 振り返って我が日本を見ると、日本には勝海舟だの東郷平八郎など海軍ゆかりの人名を冠した軍艦は1隻もなかった。戦艦三笠はあくまで三笠山に因んだ艦名であって、決して三笠宮殿下ではない。日本にはnoblesse obligeの伝統がなく、下の者は上の者が傷つかないように奉るだけ、そして首尾よく自分が上の立場に立ったならば今度は自分が下の者から当然のように奉られる、という図式が、国政レベルから下々の各職場や家庭に至るまでしっかりと定着している証拠であろう。
 必ずしも日本にnoblesse obligeが皆無だったというわけではない。昭和天皇などは敗戦後、進駐軍のマッカーサー司令部に赴き、自分が法廷に召喚されて場合によっては処刑されることも辞さないから国民を助けて欲しいと嘆願されたが、これこそまさにヨーロッパ流のnoblesse obligeであろう。
 我が国の朝廷は政治家が自らの責任をなすりつけるための道具として存続してきたから、天皇や皇太子自身がnoblesse obligeを発揮することは許されなかった。皇族にそんな高貴な義務を発揮されては、政治家や職場の上司をはじめとするすべての上級者は、すべからく相応の義務を果たすべし、ということになってしまう。そんなことにならないように、我が国民は昔から皇族を抱き込んで、上級者にとって居心地の良い社会体制を守り続けてきた。それが軍艦にも上級者の名前を命名しなかった理由だろう。昭和天皇がnoblesse obligeを実践できたのは、当時の日本政府がほとんど無力化していたからである。

 護衛艦「とうごう」だの「のぎ」だの、新しいところで「こいずみ」だの「はとやま」だのいかがですかね〜(笑)。「おざわ」は勘弁して欲しい…。もっとも我々の世代には護衛艦「こいずみ」なんて就役したら、
何てったってアイドル〜♪の方を思い出しちゃうかも…(笑)。

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