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歴史独り旅
              特別篇:神風特別攻撃隊のページ


歴史に思うこと

 私は歴史を専門に学んだわけではありませんが、頭が疲れた時など時空を超えて同じ地球上に暮らした御先祖様たちのことを思うことがあります。あの時、彼らは何を考えてんだろうか、何を望んでたんだろうか、と想像するわけです。
太平洋戦争を経験した先祖は2人(両親)
日露戦争から知っている先祖は4人(祖父母)
幕末から明治維新を知る先祖は8人(曾祖父母)
そうやって世代を遡るごとに先祖の人数はどんどん増えていって、
赤穂浪士の討ち入りを聞いた先祖は数百人
太閤秀吉の世にいた先祖は数千人
そして平安時代には現在の世界人口に匹敵するだけの先祖がいて、
聖徳太子の頃にはあまりにも膨大な数の御先祖様がひしめいていたことになります。
 世界中の人にそれぞれ夜空の星の数ほど先祖がいるはずがなく、人間の血筋なんてものは信じられないくらい濃厚・濃密に交じり合っていて、電車の中で足を踏まれただけの見ず知らずの他人だと思っていても、実は平清盛の館で飯を炊いていた女が共通の祖先だったり、関が原で徳川家康の馬を曳いていた男が共通の祖先だったりするはずなんですね。歴史に思いを馳せることは、現在の見知らぬ人たちにも思いを馳せることにつながると思います。
 だからこの欄では、気が向いたら思いつくままに日本の歴史に触れたいと考えていますが、私が一番興味を持っているのは、太平洋戦争末期における神風特別攻撃隊と、それを生んだ日本古来の精神的風土です。




建国記念日と体育の日
 日本人は自らの歴史を大切にしないと言う人が多いようです。私も国民の祝日の一つである体育の日に関してそう思います。体育の日はもともと10月10日でした。これは私以上の年配の人なら誰でも覚えているとおり、1964年(昭和39年)10月10日の東京オリンピックの開会式を記念するために定められた祝日であったはずです。
 あの日は第二次世界大戦でコテンパンにやられた我が国が、国民の努力によって奇跡的に復興した晴れ姿を初めて世界の檜舞台に御披露目した日でした。あの東京オリンピックを境に、日本は東海道新幹線や精密電子計時機器に代表される技術立国を認められ、世界の経済大国への道を歩み出した記念すべき日なのです。
 戦後の日本史にとってこんな大事な意味を持つ祝日を軽々しく10月の第2月曜などに変えてしまって良いのでしょうか。神武天皇の建国などよりずっと確かな根拠を持つ東京オリンピックの記憶を簡単に風化させる我が国の為政者の精神構造は不可解です。

 東京オリンピック開会式の思い出をひとつ……。開会式は風もなく素晴らしい秋晴れでした。その国立競技場の上空に航空自衛隊のブルーインパルス(曲技飛行チーム)のF86F戦闘機5機が5色のスモークを引いて見事な五輪を描きました。あの光景は東京都区内のほとんどで見上げることが出来ましたが、その20年前、東京の空をB29爆撃機から守ることが出来なかった旧軍航空隊関係者はどんな感慨を持ったことでしょうか。画用紙の上にバランスの良い五輪を描くことだって難しいのに、何の目印も無い空に5人のパイロットがそれぞれ1つずつ輪を描いていくためにはどれほどの技術と訓練が必要だったかを考えると、本当に感動してしまいます。
 それから月日が流れて1996年のアトランタ五輪の開会式の日、アメリカの曲技飛行チームが式場上空に姿を現しましたが、中継の日本人アナウンサーが叫んだとおり、「真っ直ぐ飛んだだけでした!」あのアナウンサーも32年前の東京上空を飛んだ我が国の飛行隊の晴れ姿を思い出していたのかも知れません。

                         東京オリンピック日程表



ナチスドイツの紙爆弾
 第二次世界大戦の終結から半世紀以上が経っていますが、我が家から当時の爆弾が出てきたことがあります。爆弾と言ってもドカンと爆発する物騒なシロモノではなくて、当時のナチスドイツが1940-41年(昭和15-6年)頃に同盟国や中立国に対する宣伝戦のために大量にばらまいた「紙爆弾」というヤツです。
 学生の頃、実家の押入れを片付けていた時に偶然発見して以来、大切に保管しています。英語版・独語版・仏語版が日本でも売られていたらしいですが、日本語版はかなり希少価値だそうです。開戦当初の電撃戦から連合軍のダンケルク撤退前後までを、ドイツ空軍側から見た大勝利の写真で埋めつくされており、ドイツ軍用機マニアにはたまらないでしょうね。こんな物が身近に出てくる可能性は常にあるわけですから、歴史とは書物の中にあるものではなくて、現在との連続線上に存在しているのです。

                                          紙爆弾



歴史の終末(滅亡大預言)
 歴史が終わるという預言はこれまで数々ありました。有名なのはノストラダムスの大預言で、1999年7月には人類が滅んでしまうと心配した方も多いのではないでしょうか。またエジプトのピラミッドの回廊に人類滅亡への年号が刻まれているという話もありましたが、何で紀元前に完成したと言われるピラミッドの内部に西暦の年号が書かれているのか、納得のいく説明はありません。人類の終末預言はこのように荒唐無稽な話が多いのですが、それでも人々はこういう話を、半ば恐れながらも幾分の期待をもって預言成就の日とされる時を待っているように見えるのは不思議なことです。
 どうしようもない絶望的な世界が早く終わってしまえば良いという、逆転の可能性もなくなったコンピューターゲームをさっさと終わらせてしまう気持ちに似たリセット願望ばかりではなく、この世界が自分の人生と共に終わってしまえば良いという、いわば後世に生き残る子孫たちへのジェラシーに似た気持ちもあるような気がします。
 そう言えばゴッホの名画の所有者が自分が死んだら絵も一緒に焼いてしまうと発言してヒンシュクを買ったこともありましたし、第二次世界大戦中、連合軍によるパリ解放を前にしてヒトラーはパリの名所の爆破を命令しました(「パリは燃えているか」という映画が1965年頃ありました)。古代の権力者が自分の死後に一族郎党の殉死を命じたのも同じ心理かも知れません。近年の終末預言ブームは、自分と共にすべてを終わらせたいという人間の隠された浅ましい願望を一般大衆にも味わわせてくれたという意味では、一種のカタルシスとしての功罪があったと思います。




イラク問題2003年
 2003年の2月現在、まだアメリカのイラク攻撃は始まっていませんが、イラク攻撃を支持するか、支持しないかは、これまでの歴史を振り返りながら考えてみると、非常に難しい選択だと思います。
 先ずアメリカ・イギリス・スペインなどのようにイラク撃つべしと主張する根拠は、まだそう遠くない現代史の中にあります。第一次世界大戦・世界大不況に引き続いて台頭してしてきたナチスに率いられたドイツは、当時のイギリスやフランスなどヨーロッパ諸国の国内に広がる反戦・平和ムードに乗じて、イギリスのチェンバレン内閣などを相手に、領土割譲や再軍備の黙認などの譲歩を次々に取りつけました。その結果はご承知のとおり、第二次世界大戦の勃発でした。巧みな外交の陰で次第に脅威を増していったナチスドイツを最初の段階で叩いておいた場合とは比べものにならないくらい大きな災厄をヨーロッパ諸国は蒙ったのです。イラクが早々に武装解除しない以上、当時のナチスドイツと同じ道に踏み出さないとも限らない、これがイラク征討論の歴史的根拠です。
 ナチスドイツがヨーロッパを席捲していた頃、アメリカもまた自国の若者を他国で戦死させるわけにはいかないという厭戦・平和ムードの中、ヨーロッパやアジアの戦火にも干渉しない孤立政策を堅持していました。そのアメリカを一転して世界の警察官・自由陣営の兵器庫に変貌させたのは、他ならぬ日本の真珠湾攻撃でした。それ以後、アメリカは朝鮮戦争、ベトナム戦争、中東戦争と、ほとんど世界各地の自由主義陣営が絡んだ紛争には積極的に対応するようになっているのはご覧のとおりです。

 ではアメリカのイラク攻撃に無条件で賛成するのかと言われれば、それが難しいところです。人類史上最強の武力を持ったアメリカが、古代のローマ帝国のような覇権を全世界に及ぼすようにならないとも限らないからです。確かにアメリカに代表されるリベラルな民主主義は、おそらくこれもまた人類史上最善の統治理論であり、しばらく前までのアメリカの大統領(最高権力者)はリベラルな民主主義の代弁者であり、実践者でもありました。ただ最近になって、非常に些細で枝葉末節のことかも知れませんが、このアメリカの最高権力者の姿勢が、古今東西の独裁者に一歩近づいた兆候が見られるのが気になります。その兆候について書いておきます。

 アメリカの巨大な軍事力の象徴とも言えるものに、原子力航空母艦ニミッツ級があります。現在8隻が稼動していますが、排水量は10万トン、たった1隻で小国を滅ぼすことができ、日本やドイツなど核兵器を持たない国の全軍がかかっても太刀打ちが困難なほどの戦力を有しています。このニミッツ級空母の9隻目の名前は「ロナルド・レーガン」、さらに10隻目は「ジョージ・H・W・ブッシュ」(現大統領の父親)だと聞いて、私は空いた口がふさがりませんでした。「アメリカよ、お前もか」という感じです。ニミッツ級空母の何隻かにはやはり歴代の大統領の名前が命名されていますが、いずれも故人となった後のことです。まだ生きている元権力者の名前を、まさに現代の浮かべる神殿とも言うべき無敵空母の艦名に命名するなど、これは歴史上の独裁者のやることではないでしょうか。それも空母「ジミー・カーター」ならともかく、アメリカの軍事力を背景に強硬外交を推し進めた大統領を優先的に顕彰するような形で命名することに私は大いなる危惧を感じます。
 ちなみに「ジミー・カーター」は2005年2月、シーウルフ級攻撃原潜の3番艦として就役しました。カーター元大統領はアメリカ海軍兵学校卒業で、潜水艦乗り出身者で初の米国大統領だそうですが、これもちょっとどうかね、という感じです。

 古き良きアメリカの話も付け加えておきましょう。やはりニミッツ級空母の名前になっているトルーマン大統領ですが、戦争中に亡くなったルーズベルトを引き継いで第二次世界大戦を終結させた大統領です。ドイツも日本も降伏して、戦争終結を祝う大統領主催のパーティー席上でのことです。大統領の娘が参会者の前でピアノを弾いて大変に誉められた。きっと天才的だとか、将来は音楽家?なんて言われたんでしょうね。有頂天になった娘は後で父親にそのことを報告したといいます。
「パパ、私のピアノ誉められちゃった。」
それを聞いたトルーマン大統領は微笑みながら娘に言ったそうです。
「それは良かったね。でもよく覚えておきなさい。お客様たちはお前のピアノに賛辞を言ったんじゃないんだよ。私の座っている椅子に御世辞を言ったんだ。だから私が大統領を辞めた後に、誰もお前のピアノを誉めなくなってもガッカリするんじゃないよ。」

 良い話じゃありませんか。大統領の権力は自らや自らの一族を顕彰するためにあるのではないことをしっかり弁えていたのです。ずいぶん昔に読んだ話なのでところどころ記憶違いがあるかも知れませんが、こういう大統領なら死んだ後に空母の名前に残っても良いような気がします。とは言っても我々日本人からすればトルーマンは原爆投下を最終的に命令した大統領として複雑な思いはあるのですが・・・。



2003年イラク戦争ついに開始
 2003年3月20日、ついにアメリカ軍がイラクに対して戦端を開きました。この日はおそらく今後の世界の歴史にとって重大な意味を持つ日として語られることになるでしょう。これからは国連が力を失い、アメリカがNOと言えばNOとなる世界が現出することになります。見れば判るとおり、アメリカは一国で全世界を相手に戦えるほどの強大な軍事力を保有していて、アメリカがこの軍事力を行使すると言い出せば、誰も実力で阻止することは不可能です。かつてのローマ帝国、モンゴル帝国などとは比べ物にならないくらい強力な相対的軍事力を持った国と共存することを、今後の世界各国は余儀なくされたわけです。各国の政府は当然そのことを視野に入れた上で対応に苦慮しているように見えます。取りあえずは”長い物には巻かれろ”が無難な選択肢として各国に受け入れられ、フランスやドイツなども渋々ながらアメリカを容認せざるを得ない状況になるでしょうし、ロシアや中国にも黙認以外の術はないと思います。

 今回のようなアメリカが主導する戦争が提起する深刻な問題が幾つかあります。例えば世界最大の大量破壊兵器を保有する国であるアメリカが、しかも過去に自国が大量破壊兵器を使用した経歴を今でも止むを得ぬことだったと主張する国民が多数いる国であるアメリカが、他国の大量破壊兵器の保有を理由に攻撃を開始した矛盾をどう説明すればよいのでしょうか。
 確かにイラクは過去に化学兵器を使用した独裁国家であり、フセインのような攻撃的な性格の人間に率いられた場合の危険性は計り知れません。私は今回もイラクの武装解除は絶対に必要と考えますが、ではイスラエルやインドやパキスタンの核兵器は武装解除しなくてもよいのかと問いたい。また当のアメリカの膨大な大量破壊兵器はどうするのでしょうか。どの国ならば大量破壊兵器を保有しても良いのかという重大な決定が、アメリカの一存にかかっているのです。フセインのような人間がアメリカ大統領の椅子に座ることが未来永劫にわたって絶対にないと誰が断言できるのでしょうか。現にブッシュは歴代のアメリカ大統領の中では独裁者の域に最も近づいていると思います。

 次に各国政府とも超大国アメリカの意向に真っ向から対立できなくなった状況で、国民の意思を政治に反映させていくのが非常に困難になったことです。小泉首相がいみじくも漏らしたとおり、国民の大多数に支持されなくとも政府は政府の方針を貫かなければならないというのが、日本に限らずほとんどの国の実情ではないでしょうか。
 このことは特に西欧の民主主義国家にとっては深刻な事態です。自由と民主主義を国是としてきた各国の存在意義自体が問われるからです。もともと民主主義とは一国内での統治原理なのであって、国際政治が民主主義原理によって動いたことは過去一度もない。そういう民主主義の限界が初めて明確な形で全世界の人々の眼前に突きつけられたのが今回の戦争の歴史的な意味だと思います。これで各国の反戦運動など民主主義的な大衆運動が無力感から下火になっていくとしたら憂慮すべき事態です。

 民主主義を国是とする国が増えても国際政治が民主主義原理で動かないのは、独裁者の意向一つで他国の主権を侵害する国家が今なお幾つも存在するからです。そういう国家をどう扱うべきかという議論を抜きにして単純に反戦を叫ぶことはできないというのが、私の現在の意見です。もちろん医師としては、世界の片方に莫大な努力を払って病人の生命を救おうとしている医療の世界があるのに、もう片方でいとも簡単にミサイルや爆弾で人を殺傷する軍事の世界があることに我慢はできません。民主主義原理で動かない事に対して民主主義はどのような役割を果たすべきかを今から真剣に考えておくことが、将来独裁的に振舞うようになる可能性が大きいアメリカを縛るためにも、人類の緊急の研究課題であると思います。



イラク戦争終結(21世紀の課題)
 アメリカのブッシュ大統領はイラク戦争の終結宣言を出しましたが、今回の戦争で明らかになったことがあると思います。イラク軍の抵抗は予想以上に脆く、開戦からわずか40日程度で戦闘終結となったわけですが、フセイン政権が雲散霧消したイラク国内で国民の反米デモが行なわれたというニュースが伝えられた時、ブッシュ大統領が余裕を持って言い放った言葉が印象的でした。
「デモをする自由があって良いことじゃないか」
どんなお人好しでもそろそろ気付かなければいけないことがあるんではないでしょうか。「戦争反対!」「人殺しはいやー!」とセンチメンタルに叫んでいれば戦争が避けられると思っているのは、ただの自己満足です。反戦にしろ、反米にしろ、そういうもろもろのスローガンを掲げられる自由を保障しているのが、とりもなおさず戦争の決定的な意志決定権を持ったアメリカと、日本も含むアメリカの同盟国政府であるという構図が、これほど明確に示されたことはかつてなかったと思います。

 サダム・フセイン政権下のイラクで「戦争反対!」と叫べたでしょうか?金正日政権下の北朝鮮で「核開発反対!」と主張できるでしょうか?戦争を含めてあらゆる国家の意志決定権を持った政府が、自らに反対する国民の主張を寛大に許容しているのは、アメリカを中心とする自由主義国家群だけです。見方を変えれば、自由主義国家における反戦運動というのは、お釈迦様の掌の上の孫悟空みたいなものと言えるかも知れません。
 なぜアメリカやその同盟国の政府は、これほど鷹揚に国民の反戦運動を許容できるのでしょうか?私は軍隊や警察など政府側の保有する武力が、民衆デモ隊の力から圧倒的に隔絶してしまったことがその理由であると思います。中世から近世くらいまでであったら、フランス革命を見ればわかるように、民衆の力が政府を引っくり返すことも出来たのです。そんな時代に、国民に反戦を叫ぶ無制限の自由を与える政府などあるはずもないですね。現代は、国民がいくら民衆運動を組織して反戦を叫んでも、為政者は余裕をもってそれを見守っていることが可能です。もし国民の運動が行き過ぎて暴走しても、たちどころに鎮圧できる自信があるからです。
 政府と国民の関係は、そのままアメリカと世界各国の関係に当てはまります。だからアメリカ大統領は、「デモをする自由があって良いことじゃないか」などという余裕のある言葉を吐くことが出来るのです。皮肉なことになりますが、自由と民主主義を守っているのは、アメリカとその同盟国政府の手元にある軍事力と警察力ということになります。そしてデモをしてアメリカやその同盟国政府を非難すればするほど、デモの自由を保障している彼らの正当性を確固たるものにしてしまうことになるのです。
 我々は反戦運動を行なうにしても、新しい方法を編み出さなければなりません。自由と民主主義を踏襲しながら、なおかつ為政者に政策変更を余儀なくさせる打撃を与えうる方法が必要なのです。一番恐ろしいのは、政府と民衆の力の差に絶望した一部の反対者たちがテロ行為に走ることで、これは絶対に避けなければなりません。21世紀の自由と民主主義の最大の課題だと思います。




有事法制関連法案
 2003年5月、与党(自民党・公明党・保守党)と野党の民主党・自由党などの賛成多数で有事法制関連3法案が国会を通過する見通しとなった。これまでこのような防衛論議自体が我が国ではタブーで、防衛問題を討論しましょうとか、万一侵略を受けた場合の研究をしましょうと言っただけで、世論の袋叩きにあってきたことを考えると、日本もずいぶん変わったものだと思う。2001年9月のニューヨークの同時多発テロや、北朝鮮の拉致問題や核開発問題など、国際情勢への不安感が国民の意識を徐々に変化させたのであろうが、5月現在、マスコミに登場する文化人や評論家の多くは、戦争準備の法律だから反対であるというような論調がまだ多数を占めていて、戦後長い間、防衛を真剣に考えましょうとさえ言えない雰囲気が日本を支配していた時代の名残が残っているのかも知れない。
 私も、ついこの前まで防衛論議さえ出来なかった国会が、きわめて短期間に与野党合わせて9割もの議員が法案に賛成するようになった振り子の揺り返し現象に危惧を抱いてはいる。この間までは、国防とか自衛隊とか言うと軍国的だとか好戦的だとか言われそうだから、そういう世論に迎合して黙っていた、ところがテロが起きたらどうするんだ、拉致までやるような北朝鮮は核ミサイルを持ってるかも知らんぞ、というような脅威論が浮上してくるや、我こそは憂国の士と言わんばかりの人間が雨後の竹の子のようにゾロゾロ出てくる。これは国会議員に限ったことではなくて、多くの国民も同じことである。私が戦史や兵器に興味を持っているのを非難がましく見ていた知人が、最近では北朝鮮の脅威を煽る週刊誌を読んで興奮していた。恐ろしいことである。
 周囲の人々が戦争反対と言うから自分も反対しておこう、皆が脅威だと言っているからやっぱり恐ろしいんだろう、というような周囲に迎合するような態度。実はそれこそが特攻隊などの悲劇を生んだ重大な要因の一つだったのではなかったか。特攻以外に方法はないと呼号する強硬派の前に、多くの高級参謀や司令官たちは沈黙せざるを得なかったあの時代と、どこがどう違うのだろうか。法案の賛成者のことだけを言っているのではない。今は法案に反対と言っている人たちも、戦後の平和ムードの延長の中で単に漫然と反対しているだけだとしたら、結局は同じ日本人の宿業から抜けていないことになる。
 私は今まで防衛論議自体がなされなかった方が不思議だと思っていたから、有事関連法案の成立は歓迎するが、せめて国会で3割から4割の反対があったらもっと良かった。国防は国の存続に不可欠な要素だが、それがブレーキが効かずに行き過ぎた時、特攻隊やひめゆり部隊のようなとんでもないことが起きる。どうして日本では賛成派と反対派が論議を尽くしたうえで事が決定するという基本的な議会制民主主義の原則が動かないのであろうか。世の中の大勢や周囲の人々の顔色を窺って態度を決めていくような人間ばかりだと、本当に大変なことになる。
 周囲に順応して物を決める人間は自分で責任を取れない。後になってから他に仕方なかったと責任逃れをするだけだろう。戦後の日本を見てみると、バブルを崩壊させて日本経済を危機に直面させた人間たちは責任を取っただろうか?イベントを招致して後の維持費がかさむハコ物を残した人間たちは損失を弁償しただろうか?おそらく事前に委員会などでイベント後も採算は採れるなどといい加減な報告書も作っただろうが、そういう委員たちは判断能力の欠如を指弾されただろうか?巨大な土木事業の事前の見通しと事後の責任も同じことである。そしてこれらの政策や事業を決定する最高の機関である国会や地方議会の議員たちに、自分のことだけ考えて投票した有権者たち、あるいは意志を示さず棄権した有権者たちは、責任をどのように感じているのだろうか?
 こういう戦後の各種政策や事業が決定されてきたプロセスの連続として今回の有事関連法案が成立することになるのである。与党も野党も国民も周囲の雰囲気に流されて、誰一人として責任を取らない国、それが日本である。日本の歴史で悪政の責任を取った最後の人間が大西瀧次郎だったのではあるまいか。
(大西瀧次郎については、神風特攻隊のページを参照して下さい)



アメリカの大義
 2003年の暮れを目の前にして、日本が58年振りにその兵力を戦地に送るかどうか、国論を二分する情勢になっています。日本人外交官2名もテロで殺害される事態にまで到って、政治家のコメント、マスコミの論調、識者と言われる人たちの意見、新聞の投書やテレビの街頭質問での一般の人々の意見、どれを聞いても自信を持って主張しているのは少ないなあ、という感じです。小泉首相をはじめ政権の自民党幹部は依然として自衛隊派遣の強硬姿勢を崩していませんが、もし自分が正しいと思うならさっさと行動に移せばいいのに、内閣支持率や連立する公明党との関係を慮ってか、何となく躊躇しているように見えます。
 こういう政権幹部はともかく、一般の日本国民の意見までが迷っているように見えるのは不思議です。日米安保だとか、憲法第九条だとか、ベトナム戦争だとか、あるいは湾岸戦争への自衛隊の貢献くらいまでは、政策に直接タッチできない一般人は是か非かの明確な持論を(それを表現するか否かは別として)持っていたと思います。派遣しなければならないのは分かるけれど死者が出てはねえ、とか、北朝鮮問題もあるからなあ、とか、奥歯に物が挟まったような、というのがこの問題に対する現在の日本人の態度かも知れません。
 こういう中途半端な態度を取る背景には、イラク復興を支援する、あるいはテロと断固戦うといったアメリカの行動は正しいという無条件の前提があると思います。アメリカが自国の利益のためにイラクを侵略していることが明確であれば、どんな条件下でも誰だって自衛隊派遣に反対とはっきり言えるでしょう。現在の日本人は無意識のうちにアメリカの大義を正しいものとして受け入れているのです。
 私もまた武装解除に応じなかったイラクのフセイン政権を打倒するというアメリカの行動は支持しておりました。第二次大戦前夜のヒトラー政権を野放しにしたために、世界が以後に支払った代償の大きさを考えてのことです。フセイン政権打倒を支持した日本人は私以外にも多かったと思いますが、そういう人たちは、あの時にアメリカを支持してしまったから戦後のアメリカ主導の統治までも支持しなければいけないような錯覚に陥って、自分の意見を変えることを恥と考えているのでしょうか。それは戦争を始めた以上は和平を恥と考えた昔の日本人と同じ思考論理です。まさに歴史は姿を変え、形を変えて各民族の上に繰り返し現れるもののようです。
 アメリカにとっても歴史は繰り返しています。アメリカ人は困った民衆を黙視することの出来ない正義漢とも言えますが、今回もフセイン政権の圧政下で抑圧されていた民衆の解放には成功しました。しかしアメリカ人は戦後統治はまったく駄目なのです。半世紀前の同様な例としてフィリピン解放がありました。ご存知のとおりフィリピンはスペインの植民地だったところへ米西戦争の結果アメリカが乗り込んできて、さらに第二次大戦では一旦日本の統治下に入りますが、戦後再び解放軍としてのアメリカを迎えました。作家の大岡昇平氏は「レイテ戦記」のエピローグに次のようなフィリピン人のコメントを紹介しています。
『スペイン人はよくなかった。アメリカ人は悪かった。日本人は一層悪かった。しかし最低なのは二度目に来たアメリカ人だ。』
戦争終結した時点でアメリカには手を引かせるべきでした。アメリカ軍が残留したために戦争は終結しても戦闘は残ってしまったのです。今からでも遅くはない、アメリカ軍が撤退すれば自衛隊も国連軍の一部隊として肩代わりに出動するという立場を表明するべきでしょう。現地では国連施設まで標的になっているので、それでもテロの標的になる覚悟はしなければならないと思いますが、アメリカの手先と思われて生命を危険に曝すよりは覚悟のし甲斐があると、もし私が軍人ならそう思います。



イラクへの自衛隊派遣−日本の本音
 イラク戦争におけるアメリカの大義について書いたついでに、自衛隊を派遣することになった日本の本音についても簡単に触れておきましょう。自衛隊のイラク派兵に反対する日本人は、私も含めてかなり多いと思いますが、問題は単に戦争反対、アメリカに反対、だけでは解決しないことを理解する必要があると思います。
 端的に申しましょう。イラク問題については、アメリカにつくか、アメリカにつかないか、の二者択一です。誰も好んで自国の兵士をわざわざイラクに派遣したいと思うはずはない。結局は、圧倒的な軍事力を持ってイラクをはじめとする中東産油地域を支配下に置こうとしているアメリカに協力しなければ、将来的に石油の配分にありつけなくなる可能性があるから、仕方なくアメリカの手伝いをしなければならない、というのが、日本をはじめ、イラクに軍を送っている諸国の本音だと思います。
 単純に自衛隊派遣反対と主張する人にお尋ねします。もし将来、アメリカが石油の配分を日本に回さないと決めたとき、アメリカから力ずくで石油の利権を奪いますか?(これはかつての太平洋戦争と同じことになります。)東シナ海あたりに油田を試掘しますか?(とても間に合わない!)そんなことは起こり得ないと能天気に毎日を暮らしますか?
 中東以外の産油地域への依存に切り替えることは可能でしょうが、とても現在の我が国の石油需要を賄いきれるとは思えません。現段階でイラク問題でアメリカに協力せずに済ますためには、単に平和、平和と叫んでいるだけでは駄目で、自らの手を汚さないためにはそれなりの覚悟が必要です。つまり現在の石油・エネルギー需要を徹底的に切り詰めて、中東地域に依存しないでも済むような体質を作り上げることしかないのです。
 湯水のごとくエネルギーを消費し、石油製品を使い捨てにする現在の生活を諦めることが出来ますか?用も無いのに毎日自動車やバイクを動かしているあなた、家まで我慢できずに全国あらゆる場所に設置された自動販売機で飲み物を買って飲んだあなた、電化製品なしで暮らせないあなた、(どうせ原子力発電所にも反対でしょうから)そういうあなた方の贅沢な生活を将来にわたって磐石なものにするために、自衛隊は今回イラクへ行くのだと思います。私はイラクへの自衛隊派遣は望ましくないと考えますが、それと同時に国民生活や産業構造におけるエネルギー問題の改善を、かなりの覚悟で推進しなければならないと思います。




曙vsボブサップin 2003
 2003年の大晦日の夜はK-1での曙対ボブサップの試合で日本中が盛り上がったようで、TV中継の視聴率は、あの国民的年末番組の紅白歌合戦を上回ったそうです。私もTVで観戦していましたが、あの試合を観て、日本人のある種の国民性を感じました。
 あの試合は、もし国技館での大相撲の取り組みだったら、「
横綱」曙の「押し出し」の勝ちでしょう。ボブサップ関の強烈な「張り手」にもめげずに、「土俵際」まで簡単に追い詰めた曙の「押し」は見事でした。でも残念だったのは、あの試合が相手をノックダウンか降参にまで追い込むまで戦うデスマッチだったことです。大相撲ならば、相手の足の裏以外の部分に自分より先に土を付けるか、土俵外に追い落としてしまえば勝ちとなりますが、世界の大部分の格闘技は、どれほど打たれても、どれほど転がされても、そのダメージから回復して最終的に相手を打ち負かせば勝者となれるのです。大相撲と世界の格闘技の間には、そういう決定的なルールの違いがあります。
 曙vsボブサップの試合を国家規模でやったのが太平洋戦争だったと思います。「
蹴たぐり」の技で真珠湾のアメリカ太平洋艦隊に土を付け、緒戦であっと言う間に米英豪蘭軍を土俵外に押し出して、勝った勝ったと喜んでいたら、最初のダメージから立ち直った相手とのパンチやキックの応酬では一本もポイントを取れずに、結局は総合力の勝負でダウンを奪われてしまったということです。曙の負け方は、旧日本軍の負け方とそっくりでした。終盤もう少し何か出来そうな期待を持たせながら、あっけなくリングに沈んだ様子も旧日本軍を彷彿とさせました。
 思うに日本人の淡白で、総合力を考えず、長年鍛え上げた精進の結果を一瞬に燃やし尽くすことを潔しとする考え方は、古来より大相撲に熱狂してきた国民性によく象徴されています。他国の格闘技の歴史に詳しいわけではありませんが、おそらくほとんどの格闘技は敵と戦うための軍事上の必要性から生まれてきたと思われます。しかし日本の大相撲は元々は神々に奉納される行事だったそうです。試合の勝敗は問題ではなく、神々の前で日頃の精進をお見せするのが目的でしたから、「勝ちゃ良いんだろ」という、ただ強いだけの粗野な勇者は忌み嫌われました。モンゴル出身の横綱朝青龍が正月の稽古を欠席したことに対して、自分は相撲など取ったこともない横綱審議委員会とかいう組織の連中が「けしからん」とか「引退勧告だ」とか言っている。要するに「体裁」と「世間体」だけなんですね。若い力士の指導は、やはりスポーツとしての大相撲を知り尽くした親方衆に一任されるべきです。
 「体裁」と「世間体」だけの「神事」が、敵を打ち負かす勇者を選りすぐる必要性から生れた諸外国の格闘技に勝てるわけがありません。曙には今後は大相撲を離れた格闘家としての訓練を積んで貰って、ぜひK-1での一勝を挙げ、「神事」と「格闘技」の違いの判らない日本人の目を覚まして欲しいものです。
 もし大相撲が昔から本格的な格闘技だったら面白かったですね。一旦土俵の外に押し出されても、また上がって行って相手力士に張り手をぶちかます、転がされても転がされても「手拭い」が投げ込まれるまでは全身土まみれになってぶつかり合う。そういうことになれば、「蹴たぐり」だの「うっちゃり」だの「はたき込み」だのという技は何の意味もありません。「猫だまし」などもってのほかです。そうするとかつての舞ノ海関のような小兵力士はほとんど活躍の機会もなく、日本国民からの圧倒的で熱烈な支持は得られなかったかも知れません。しかし「綺麗事」だけの「神事」を格闘技だと勘違いしていた日本人の国民性が、かつての真珠湾奇襲攻撃でアメリカに勝てるかも知れないと思い込んで戦争を始める精神的土壌になった可能性はあります。ではなぜミッドウェーやガダルカナル島で土が付いた時に、「負けました」と潔く土俵に一礼して立ち去らなかったかは不思議ですが、あとは神々に捧げるメンツの問題だったのでしょう。自分は三役クラスの番付と自負していたところ、幕下程度の実力しかないと思われるような取り組みをやってしまい、メンツを失って頭にカッと血が逆流した結果、「もう一番」「もう一番」とまるで横綱相手のぶつかり稽古のようになってしまったのは、大相撲を愛した国民としてはみっともない事でした。ただぶつかり稽古の終わった後は潔かったですが…。
 むしろ湾岸戦争でアメリカに負けた後も、したたかに軍事力を背景にした強硬外交を押し進めて、何度も何度もアメリカに噛みつく機会を窺いながら、最終的にはアメリカ軍に拘束されて口の中まで調べられるまで抵抗したイラクのフセイン大統領の方が、本物の「格闘家」の精神を持っていると言えるでしょう。こういう大統領が出る国ですから、イラク戦争が終結したからと言って事態が好転すると多少なりとも期待したアメリカのブッシュ大統領はよほど相手を見る目がない。ぶつかり稽古の後で、「やっぱりアメリカ関は強いですねえ」と爽やかに握手を求めて来るような「体裁」と「綺麗事」を求める国民がいる国と同じに考えていたのですから…。



シニカルということ

 「あの人はシニカルだ。」
これは少なくとも褒め言葉ではない。日本である人を指してこのように評する場合、理屈を言って批判ばかりしている、人を傷つけることを平気で言う、暖かみがない、等、等、あまり良いニュアンスで使われる形容詞ではなく、こう言われるような人とは、出来れば深くお付き合いしたくないと考えている人が大部分であろう。
 確かに研究社の新英和大辞典で「cynical」を引いてみると、「1)人間の行為をすべて利己心に帰するような、人間の善性を信じない。2)皮肉な、冷笑的な、世をすねた、シニカルな」と、あまり好意的な訳語は載っていない。もともとは哲学のキニク(犬儒)学派からきた言葉で、「独立自由な人格」が基本にあるらしいが、哲学は詳しくないのでこの辺で止めておく。しかしとにかく日本で「シニカル」と言われたら、半分以上は悪口を言われていると思った方がよいことは確かだ。
 ちなみに英英辞典で「cynical」を引いても、「犬儒学派のように考えること(thinking like a cynic.)」とあって、その犬儒学派(cinic)のことは「富や快楽を軽蔑し、自制を尊ぶこと。後にあらゆる事のアラを探す人とされた(One of a number of Greek phylosophers who showed contempt for wealth and pleasure and who praised self-control. Later, they were regarded as men who found fault with everything. 」と書いてあって、日本語の辞書よりはやや中立的なニュアンスはあるものの、こちらもあまりお友達になりにくいイメージではある。
 そんなわけでシニカルという言葉はあまり良い意味ではないと思っていたが、必ずしも否定的なニュアンスばかりではないことを最近知った。深堀道義先生が出版された「特攻の総括―眠れ眠れ母の胸に」(原書房)という本があるが、前編に当たる「特攻の真実―命令と献身と遺族の心」に対する読者の反響から書き起こした本で、私の手紙も冒頭に紹介して下さっているが、この本の中にあるアメリカ人の特攻に対するコメントも載せられている。1962年生まれで陸軍士官学校を中退したM.G.シェフタルさんという人で、達者な日本語で次のようなことが書いてある。「シニカル」という言葉の原義「cynicism」の使い方に注意してお読み頂きたい。

 
特攻の提案が出されたときに「おい!ちょっと待て!一体何を考えている!」という抗議の声がなぜもっと強くなかったのか?(中略)まず、日本は伝統的に西洋思考と民主主義のかなめ石ともいえる「cynicism」(客観性に満ちた皮肉癖)が苦手な民族である。純粋さと「元気」を称賛する日本の伝統的な価値観では、皮肉癖は無責任で、女々しい性格の特徴と思われる。
 しかし、健康な民主主義国家では、cynicismは大きな政治的な役割を果たす。ようするに、国民と国家をばかげたリーダーシップから守る安全ネットを敷く。この安全ネットのない国家の支配体制は「裸の王様」状態になってしまう危険性が高い。


 シェフタルさんはシニカルであることは健全な民主主義を守るために必要だと言っている。しかし日本人の多くはこう考えるだろう。そりゃ国家権力と国民の間ではcynicismも大事だろうが、友達や仲間同士の間ではやっぱり嫌な奴だよ、と。

 小泉首相がアメリカのイラク政策(戦争と戦後統治)を一も二もなく全面的に肯定してあからさまに支持を表明したことに批判的な日本人は多いだろう。少なくとも新聞の投書欄や報道番組の世論調査を見る限り、直接投票すれば小泉内閣のアメリカ支持政策は否決される可能性の方が高い。なぜフランスのように国連を前面に立てて、アメリカに対して一言物申すということが出来ないのか、と歯がゆい思いを抱いている人は多いはずだ。
 イラク問題におけるフランスの態度こそcynicismではないのか。アメリカに対して「おい!ちょっと待て!イラクの復興は大事だが、国連を中心にやるべきじゃないのか?」というわけだ。何で日本はこういう外交を出来ないのか、と不満に思っているのが、多くの日本人である。
 しかし指導者の外交手腕に関してはcynicismを要求する日本国民も、個人的な交際ではcynicismを嫌う傾向が強い。皆で何か行動しましょう、皆でお金を集めましょう、などという提案が出された時に、「おい!ちょっと待て!もっと考えよう!」と言い出す人間を煙たがるのが日本人である。また皆に煙たがられるのが判っているから、大勢がある方向に動き出した時に、「おい、ちょっと待て!」と自分から言える日本人も少数派である。おそらく前述のシェフタルさんは、こういう日本人の特徴に気がついたのであろう。Cynicismの苦手な国民が選んだ政府がcynicismに満ちた外交を展開できるとは残念ながら思えない。

 私はフランス人と付き合いはないが、小説家デュマの描くパリの社交界の雰囲気などはまさにcynicismそのものである。親友同士の日常会話の中でも相手の心をグサグサ突き刺すような皮肉や批判が飛び交い、日本人から見るとこれは喧嘩でもしているのかと間違うような場面が次々と登場する。どうせ小説の中の話だよ、と言われるかも知れないが、やはり個人がcynicismを心得ている国の文豪だからこそ、そういう場面を当たり前のこととして描き出せたのであって、日本の小説ならそういう皮肉を言う人はちょっと変わった登場人物として設定されているのではないだろうか。
 アメリカが「さあ、戦争するぞ!イラクをやっつけるぞ!」と言い出した時に、「よーし、俺も手伝うよ〜!」と無条件で手を上げた小泉首相こそ、われわれ日本の社交界にあっては最も好ましい人物像の一つなのである。




ああイラク人質事件

 2004年4月7日に発生したイラク領内(ファルージャ近郊)における日本人人質事件は多くの国民を震撼させたが、8日後の4月15日、無事に人質の3人は解放された。今回の人質事件をずっと注目していて、いろいろ思うことが多かったので一部を書いておきたい。
 今回人質にされたのは、イラクのストリートチルドレンを支援していたボランティアの高遠菜穂子さん、フリージャーナリストの郡山総一郎さん、劣化ウラン弾に関心を持って現地調査に行った今井紀明さんの3人で、本人たちの話によれば、ファルージャ近辺で拘束されて民家のような場所を点々とさせられていたらしいが、食事などの待遇は悪くなかったという。彼らはその後、クベイシ師の率いるイラク聖職者協会の求めに応じて解放されたということになっているが、この辺の正確な事実経過については当事者以外の人間が把握するのは困難であろう。
 ただ今回の人質たちが無事に解放されて帰国した時の日本の朝野の反応はあまりに異常なものであった。外務省の勧告を無視して勝手に危険なイラクに入国して、こういう事件に巻き込まれておきながら、救出のために多額の国費を使わせるとはけしからん、というまるで人質たちが犯罪者であるかのような言い方が幅を利かせたのである。人質たちが羽田空港に帰って来た時には、「自業自得」とか「税金泥棒」などというプラカードを掲げる人たちまでいた。
 世の中にはいろいろな意見の人がいるのは当然で、中には勝手に危険な場所に行ったのだから他の国民に迷惑を掛けるな、という人がいても別に不思議ではない。だがマスコミが街頭で拾った声や、雑誌や新聞に掲載された意見や投書の9割以上が、異口同音に人質たちは無謀で無責任だと責め立てていたのは、どう考えても異常である。だがこれも事件解決後1週間までのことで、アメリカのパウエル国務長官やフランスのルモンド紙の、日本人はもっと3人の行動を誇りに思うべきだ、というコメントが紹介されたあたりから、この気違いじみた”人質バッシング”も一気に下火になっていった。

 人質たちの「自己責任」を問う声も強かった。だが多くの国民がこれほどまで口を揃えて当事者たちの自己責任を言い立てるのも変ではないか。例えば我々の年金であるが、国の年金担当者たちは国民から信託されていた年金の財源を慣れない株式などに運用して大穴をあけてしまった。仮に財源を増やそうという善意から出た行動であったと考えてやるにせよ、本来の安全で堅実な運用を外れて損失を招いた行為は、明らかに国民への裏切りであり、とんでもない迷惑行為である。正規の業務以外の株式運用に手を出した行為こそ、年金担当者どもの自己責任で行なわれるべきものであったはずだ。だが日本の大衆は、人質たちに救出の費用を返済させろとヒステリックに騒ぎ立てはしたが、年金の財源に大穴をあけた責任者たちに損害を弁償させろとは言わなかった。
 長い物には巻かれろ、という日本国民は決して「お上」の責任を問うことはないのである。その代わり、隣人や同僚や国民同士の些細なアラを探し出しては、声高に後ろ指をさすのである。特に他人より目立っている人の場合は、出る杭は打たれてしまうのである。
 私も含む大多数の日本国民は、イラクに限らず誰かが困窮しているような状況について、マスコミなどを見ながら判ったような顔をして偉そうに批評などをしているが、あの3人のように直接現地に行って支援しよう、現実を確かめてみよう、とはなかなか思わないものだ。だからあの3人の行動は勇敢で眩しいものに思える。自らの信念を守ってイラクに入った3人の行動に対する一種の嫉妬が、今回の人質バッシングの根底にあると私は考える。自分にはとても出来ない行為を実行した3人に対する羨望の裏返しである。

 私は最初から人質たちは立派だと言いきってきた。ところがそれを言った途端、ほとんどすべての人から変な顔をされた。妻も同じ意見だったが、やはりいろいろな場所で変な顔をされたと言っており、私も同意見と知って安心したようだった。それほど今回の人質バッシングは世間のあらゆる場所で猛威をふるっていた。
 人質たちは、米軍―自衛隊路線という日本政府既成の人道援助とはまったく別の道を通ってイラク国民を支援しようとしていた。これは自らの責任と信念から出た行為で非常に立派で貴重なものである。フランスのルモンド紙も、日本にもこういうボランティアの若者がいることを知ったと絶賛していた。彼らはイラク国民に対してだけではなく、世界中の国民に対して、日本の人道援助は自衛隊だけではないことを印象づけてくれたのである。だが各国のメディアはまた日本の世論がそういう人道的な若者を不快に思っていることも同時に察知してしまったことであろう。
 今回の人質事件の意義は大きいと私は思う。
(1)日本政府は武装グループの要求に屈することなく、アメリカ寄りの(というよりキリスト教国寄りの)諸国の信頼を保った。ダッカ事件で日本赤軍のハイジャックに屈して犯罪者を釈放し、身代金を支払ったかつての日本とは違うことを印象づけるのに成功した。
(2)イラクのイスラム聖職者協会側にいる有力な勢力から「日本は友人」という言質を取ることに成功した。
 つまり米国とイスラムの両者にパイプを繋ぎ止めることが出来たのである。この機に乗じて小泉首相が国連主導のイラク統治を言い出したことはある意味で評価できるが、米国一辺倒の自衛隊派遣だけだった場合に比べて、3人の人質のような若者がいることを知らしめた後の方が、その提案の効果は大きくなる可能性がある。
 イラク聖職者協会は胡散臭い、誘拐事件も自作自演ではないか、という報道も一部でなされている。私は昔、岩波文庫で「千一夜物語」全26巻(渡辺一夫、佐藤正彰、岡部正孝訳)を通読したが、彼らはアラーのためならそのくらいの事はする民族である。それを潔くないというのは世界広しと言えども日本人くらいなものではないか。お隣の中国だって「三国志」などを読めば騙し合いと腹の探り合いは当たり前である。そもそもイラク戦争におけるアメリカのブッシュの大義だって似たり寄ったりのものではなかったか。
 そういう事を胡散臭いだとか卑怯だとか言って毛嫌いしているから、却って正々堂々とやろうと抜かりなくやったつもりが、手が滑って「真珠湾の騙まし討ち」みたいに言われる羽目になってしまうのだ。とにかく狐と狸の化かし合いの国際外交の舞台で、アメリカとイスラムの双方のパイプを繋ぎ止めたのは日本外交の成功であって、その一方のパイプに関しては、今回の3人の人質を始めとする危険をいとわぬ民間のボランティアの人々に負うところが大きい。日本国内で自爆テロなどをやられる確率もずいぶん減ったはずである。だがバッシングをした日本人たちは彼らを石もて迎えたのであった。
 ついでだが、あの3人の後から人質になった2人の日本人があった。こちらは墜落した米軍ヘリコプターの取材に向かおうとして拘束されたようだが、これはスパイと見なされても仕方ない危険な行為ではなかったか。もし太平洋戦争の末期、撃墜したB29爆撃機の残骸を取材したいと中立国を名乗るジャーナリストが東京の焼け跡に踏み込んで来たら、当時の日本の憲兵隊はスパイ容疑を掛けたはずである。(イラクは確かに”戦争”は終わっているが戦闘状態は続いており、スパイの罪を掛けられても文句は言えないだろう。)そんな2人のジャーナリストまで解放された裏には、「日本は友人」というイスラム側のコメントが大きく影響していたと思われる。

 今回の人質事件で本当に馬鹿だったのは誰か。敢えて検証させて頂く。
 
第一に人質の家族たちである。自分の家族が人質になったと知らされるや、自衛隊を派遣した日本政府が悪いとして、某既成野党を中心に「支援者」団体を結成して政府に圧力を掛けようと画策したのは非常識の一語に尽きる。人質たちは自分の責任を覚悟してイラク行きを決意したに違いないのだが、浅はかな肉親たちの非常識な行為によって心無い汚名を着せられてしまった。「自衛隊を一時でも撤退させてくれ」などというコメントがいかに愚かで身勝手なものか。そんなことで武装グループを欺いて人質を返して貰ったとすれば、次に人質になった人々がもっとどんな危険な目に会うか考えていない、自分の肉親さえ無事ならそれで良いというエゴイズム丸出しである。
 
第二にこういう非常識な家族たちへの対応にマジギレして感情的な発言をした小泉首相や福田官房長官などの政府高官である。年金財源に穴をあけた官僚どもの自己責任は棚に上げて、人質たちの自己責任論をブチ上げた挙句、一時はイラクへの渡航禁止を法制化しようとまで画策した。自分の望んだ通りに生きなければ子供を勘当すると怒るバカ親と同じで、先進諸国のメディアの前で日本のイメージを傷つけたこと著しい。
 
第三に人質バッシングに同調した国民大衆である。信念を持って彼らを非難するならばともかく、前述した人質たちへの羨望の裏返しの心理で、偉そうに自己責任を語った人たちこそ見苦しい。そもそも日本人は政治・外交向きのことなど日頃あまり互いに討論などしない国民なのに、一旦そちらへ関心が向けば9割以上の人間が右へ倣えで同じような事しか口にしないというのはどういうことだろうか。



重慶のブーイング

 2004年7月から8月にかけて中国で開催されたサッカーのアジア杯の大会は、日本チーム優勝という試合の結果もさることながら、その他にもいろいろ考えさせられることの多かったイベントであった。
 7月20日に重慶で始まった予選一次リーグを皮切りに、7月31日の重慶での準々決勝(対ヨルダン)、8月3日の済南での準決勝(対バーレーン)、そして8月7日の北京での決勝(対中国)と、いずれも中国人観衆による日本チームへのブーイングが度を越していたことで話題になった。もともとサッカーの国際試合で観衆の熱狂が度を越すことなどそんなに珍しくもなく、血の気の多い国民の間では暴動や戦争まで起こったという逸話もあるくらいだ。
 しかし今回のブーイング騒動は、孔子や孟子以来の古い歴史を持ち、教養の面で世界の最高水準になければならない中国人民が、単に試合内容に対するブーイングにとどまらず、日本国歌吹奏の妨害や日本人サポーターへの投石やゴミ投げ、果ては競技場外で日章旗を焼くなど、およそ礼節を欠いた暴挙に及んだという点できわめて遺憾な事態であった。こういう国際スポーツのマナーを踏みにじったという中国人民の汚点に関しては、2008年に北京オリンピック大会を控えた中国政府が責任を持って対応すべきことだと思うが、今回のような事態を我々日本人はどのように捉えるべきなのだろうか。

 日本人サポーターに物を投げつけた重慶の中国人観衆の1人が次のようにコメントしていたが、この中国人の言っている意味が判った日本人は何人いただろうか。
「俺たちが物を投げたっていうけど、ただの水を投げただけさ。向こうは爆弾を落としたんだぞ。」
これを読んで、この重慶の中国人が何を考えてこういうコメントをしたか、すぐに判る日本人は多くはないだろう。もちろん日本人サポーターが爆竹や花火を投げてきたという話ではなく、ましてや本物の爆弾を所持していたというようなことでもない。
 話は昭和13年(1938年)暮れのことだ。日中戦争が泥沼化の様相を見せ始めていた状況を打破すべく、日本軍は蒋介石の国民政府が移った重慶市街地に対して戦略爆撃を開始した。後のB29爆撃機による日本本土空襲や原爆投下などに比べれば規模は小さいが、五十歩百歩とはこのことだ。重慶をはじめとする中国奥地への日本軍の空襲はその後も継続され、1939年の重慶市民の死者は数千人と言われている。当時の日本人はこの作戦を「海鷲(海軍航空隊)の渡洋爆撃」と呼んで快挙と称えたばかりか、戦後の現在においてさえも重慶爆撃に関してはゼロ戦(海軍零式艦上戦闘機)の初舞台として、胸のすくような物語としてしか認識していない日本人の方が多いのではないか。
 話のついでに書いておけば、日本軍の中国奥地爆撃に対して中国空軍も黙って手をこまねいていたわけではなく、旧ソ連製の戦闘機をもって日本軍爆撃機を迎撃していた。日本軍の爆撃機の主力は、民間の毎日新聞社にも「ニッポン号」として供与されて世界一周飛行を行なった優秀な機体、九六式陸上攻撃機であったが、この飛行機を護衛して付き添って行くだけの航続力を持った戦闘機が無かったために、中国戦闘機に撃墜されるものが続出した。事態を重く見た日本海軍は当時開発中だったゼロ戦(試作機段階の呼称は12試艦上戦闘機)の戦力化を急がせ、昭和15年(1940年)8月19日に初陣の日を迎える。ゼロ戦の初めての空中戦は9月13日、重慶空襲に随伴したゼロ戦13機は中国空軍の戦闘機30機以上と遭遇して27機を撃墜、味方の損害なしという大戦果を挙げたのだった。
 これはゼロ戦の話には必ず出てくるエピソードであり、日本人としては誇らしい気分にさせてくれる物語なのであるが、背後には重慶空爆という歴史の汚点が隠されているのである。米軍の日本大都市への焼夷弾攻撃や、ヒロシマ・ナガサキへの原爆投下などを残虐行為と言うのであれば、重慶空襲もまた規模こそ比べ物にならないくらい小さいが、やはり残虐行為と呼ばなければならないだろう。

 先に書いた中国人観衆がこの重慶空襲を念頭においてコメントしていたのは明らかである。60年以上も前に空襲を仕掛けてきた国の子孫に対してゴミや水を投げ返す正当性があるかどうか、それを判断するのは中国人自身の教養と礼節にかかる問題であり、もしこういう風潮が将来も変わらないとすれば、現代の中国人のレベルはその程度かと思っていればよいだけの話である。一説によれば、自由化政策に伴って中国共産党の矛盾が噴き出しつつあり、それらを覆い隠すために中国政府は反日・反米教育によって国民の敵愾心を外国へ向けようとしているとのことで、いつまでも多くの中国人の心には日本人への憎しみが消えないということだ。
 そういうことは中国政府と中国人民の品位が問われる事態であるが、一方で我々日本人の方もかつての重慶爆撃を知らない、あるいは忘れたということになると、それはそれで日本人の教養と品位が問われても仕方がないのではないか。最初にC君を殴っておきながら、後からA君にこっぴどく殴られたからと言って被害者ヅラばかりしていては、C君が怒るのは当たり前である。アラブ人からお前はA君に殴られた怨みを忘れたのかと言われて、「やっぱり怨みは水に流して皆で仲良くやらなくっちゃ」などとシャアシャアと自分だけ良い子ぶっている日本人をC君がどう思っているか、自国の歴史を知らない国民には残念ながら総合的な対処など出来そうもない。

 歴史を知らないから、日本がかつて中国に対して戦略爆撃を実行した事実を踏まえた無礼な仕打ちをされても、何が何だか判らずにポカンとしているし、とにかく謝罪だ、贖罪だと頭を下げまくる人もいる。確かに日本は中国を殴った、しかし中国もまた拳骨を振りかざして日本を威嚇した歴史もあるのだ。別にクビライの元寇があった鎌倉時代のことまで持ち出そうというのではない。明治24年(1891年)に戦艦定遠と鎮遠を横浜に寄港させた清国の意図は何だったのか、まさか単なる日清友好のためだけだったとは言わせないよ、くらいは言い返してやっても良いではないか。と言っても、自国がかつて清国から威嚇された歴史も知らないから、どうせまた大部分の日本人はポカンとしているんだろうな。



まだ沈まずや定遠は

 定遠・鎮遠というあからさまに覇権主義的な名前を持った2隻の軍艦は、清国がドイツのフルカン(Vulcan)社に発注した甲鉄砲塔艦(戦艦)で、1885年に完成して11月に東洋に回航されてきた。排水量7335トン、30.4センチ主砲4門、15センチ副砲4門、魚雷発射管3門、速力14.5ノット、舷側の装甲は35.5センチの厚さを誇る、当時としては東洋一の巨艦である。
 清国海軍は北洋水師、南洋水師、福建水師、廣東水師の4つの艦隊を保有していたが(水師=艦隊)、定遠・鎮遠の二大巨艦は対日戦を担当する北洋水師に配備された。この布陣を見れば当時の清国の対日戦略が判るというものである。

 1871年、まだ主権が日清いずれにも帰属していなかった琉球の漁民が台湾に漂着して54名が殺害された事件に関して、清国は台湾の蛮人(化外の民)が行なった行為なので責任は取らないと通告してきたため、それならばと日本は1874年、台湾に出兵した。本来なら清国が台湾の“蛮人”を処罰すればそれで済むところだったのだが、それをしなかったために日本が代わりに出兵して大変な事態になった。清国もやむを得ず軍を派遣して日本に対抗するのだが、中央政府も現地司令官も弱腰で、戦わずして事件を収めてしまった。(この結果、琉球の主権は日本のものと決定する。)東方の野蛮人(東夷)と蔑視していた日本と戦わなかったことでメンツの傷ついた清国は、以後日本を仮想敵国とするに至る。
 これも日本帝国主義が琉球を掠め取ったということになるのかも知れないが、居留民の生命・財産が侵された事件に対して行動を起こさなかった清国に非があるのであって、日本は当時の国際法に照らして不法な事はしていない。しかし敢えて私見を述べれば、この事件は日本と清国という2匹の狼が、琉球という羊を奪い合ったと考えるのが公平な見方であり、さらに言えば、2つ以上の強国に挟まれた国が、当時の琉球のように非武装中立・等方位外交を貫くことは容易でないばかりか(琉球王国はそれまで島津藩にも清国にも恭順の意を表することでかろうじて国を維持していた)、却って強国間の紛争を誘発しかねないという冷厳な世界史の教訓でもあろうか。

 さて巨艦定遠と鎮遠であるが、北洋水師に配備されて対日戦備の中核となった。これも中国共産党の御用歴史学者の見解によれば、日本帝国主義者の侵略に備えるため、ということになるだろうが、どっこいそうは行かない。19世紀後半の戦艦(甲鉄砲塔艦)というものは敵の侵略から自国を守るという防衛的なものではなく、現代で言えば核弾頭を装備した弾道ミサイルにも相当する攻撃兵器であった。
 そもそも当時の軍艦の大砲ほど当てにならないものはなく、波に揺られながら互いに移動しつつある軍艦同士が遠距離から巨砲を撃ち合って相手を沈めるという戦術など考えられなかったのだ。敵艦を自分の大砲で狙って撃沈することにかなりの程度成功したのは、日露戦争の日本海海戦(1905年)が初めてであって、それまでは1866年の普墺戦争でオーストリア艦隊がイタリア艦隊を撃破したリッサ海戦が洋上戦のモデルになっていたのである。史上初の装甲艦同士の戦いであったリッサ海戦で、砲力に劣るオーストリア艦隊はイタリア艦隊に肉薄して、艦首水線下に突出した衝角をもって敵艦の横っ腹に激突して撃沈するという、まさに海賊船時代のような戦法で勝利を収めた。
 この戦訓は定遠・鎮遠の時代にあってもまだ生きており、その証拠に日露戦争で活動した日露の新鋭戦艦でさえも、その艦首水線下には鋭い衝角を備えていたのである。だから清国が日本艦隊の侵略に対抗するつもりであれば、命中精度の低い巨砲を積んだ戦艦などよりも海岸線の要衝付近に沿岸砲台を装備する方が効果的であったろう。
 それでも現在の核兵器と同じく、日本帝国主義に対する抑止力であったと言いたいだろうが、定遠・鎮遠が配備された頃、日本には戦艦と呼べる船は「扶桑」ただ1隻で、しかも排水量3718トン、24センチ砲4門、速力13ノットと、清国の2大戦艦に対抗すべくもなかった。

 では防御兵器でなく、抑止力でもなく、清国はなぜ対日戦略の中核に定遠・鎮遠の巨艦を配備したのだろうか。清国政府が誇り高い人々によって構成されていたとしたら、清国が最大の兵力を向けるべき仮想敵国は、アヘン戦争で香港などを掠め取ったイギリスであっただろう。だが清国は強力な西欧列強には国土の侵略を許しながら、自分よりも弱い(と考えた)日本に対してその鉾先を向けたのである。東アジアの歴史の流れ如何によっては、定遠・鎮遠の巨砲は日本列島に向かって火を噴いたに違いない。敵国の海岸線に対して有効な砲撃を加えた後から地上軍が上陸して進攻を開始する。つまり当時の戦艦は、海を渡れない陸軍の砲兵部隊に相当する役割を担っていたのであって、ジンギスカンの時代以前から敵国の領土侵略に先立って、飛び道具で歩兵や騎兵の突撃を援護するのと同じ戦法を担当する攻撃的兵器だったのである。だから18世紀頃から20世紀中頃まで、各国の領海は戦艦の備砲の射程距離を考慮した3海里と慣例的に決められていたのだ。

 これで1891年、こういう巨大な戦艦を横浜に寄港させた清国の意図は明らかであろう。あからさまな恫喝である。今は日本に対して被害者ヅラばかりしている中国政府であるが、かつて我が国に対してこのような威嚇(砲艦外交)を行なって暗に屈服を求めた歴史があり、これがその後の両国の不幸な歴史の原因の一つとなっていることを、我々もまた忘れてはならないと思う。
 何しろ中国人は春秋戦国時代や三国時代など、まだ卑弥呼の時代よりもずっと以前から打ち続く戦乱の歴史をくぐり抜けて、数々の名将や名軍師を輩出してきた民族である。最近の両国間の海底資源の採掘など、あの諸葛孔明のような頭脳から考え出された戦略ではないか。一方では弱い振りをして相手国から援助を引き出しながら、片方では核兵器を配備し、有人人工衛星を打ち上げ、さらに日本側の海底にある資源まで吸い取ろうと言うのだから…。こういうしたたかな民族が相手では尖閣諸島問題も我が国には分が悪いだろう。

 同じ領土問題でも韓国との竹島問題はやや本質が違うと思う。朝鮮半島の民族は過去に他国の主権を侵害した歴史がほとんど無い。古来中国大陸と日本列島間の通行路という地理的な条件から、両国の侵略軍の足場にされて蹂躙された歴史はあっても、朝鮮民族が日本や中国を侵略しようとしたことは過去に一度も無かったと言ってよい。
 だから彼等は他国主権の侵害の方法を最近まで知らなかったのだ。旧大日本帝国にさんざん痛めつけられたのだから、少しくらいは日本の領土を掠め取る権利が自分にもあると考えたかも知れない。だが相手がいくら強盗だったからと言って、その財産を盗めば自分も強盗になるのである。韓国は竹島に軍事基地まで建設して、今さら引くに引けず、互いに抜き差しならぬ状況を自ら作り出してしまった。中国ならこんな拙劣な侵略方法は選ばなかっただろう。
 だが韓国はまだマシである。北朝鮮は、あろうことか日本人拉致という重大な国家犯罪を犯してしまった。確かに日本にも朝鮮人連行という歴史上の汚点があるが、その報復として日本人を次々と拉致して自ら窮地に落ち込んだように思える。実に幼稚な国家犯罪である。
 いずれにしろ、韓国も北朝鮮も他国(日本)の主権を侵害する方法に関しては非常に未熟だった。考えてみれば、日本人もまた他国侵略の下手な民族である。アヘン戦争で帝国主義的に奪った香港を返還期限の1997年ギリギリまで手放さず、しかも最後まで惜しまれながら去って行った大英帝国のような手強さはない。

 ところで領土問題に戻るが、尖閣諸島にせよ、竹島にせよ、現在は海空軍の援護の下に地上軍を上陸させて奪還するような時代ではない。そんなことで島の領土と周辺経済水域を強引に奪い返したところで、却って有形無形の損失の方がはるかに大きい。かと言って、外交的交渉を継続したって、中国や韓国が「ハイ、そうですか」と領土をおとなしく返すわけがない。北方四島を見れば分かることだ。沖縄は交渉で帰って来たと言う人もいるが、あれは返還後もアメリカが軍事基地として治外法権的に利用できるという保障があったからこそ実現したのである。
 武力行使も外交交渉も駄目となれば、日本人はこれら領土問題にどのような態度を取れば良いのか。一方で形の上での外交交渉で主張すべきは主張しながら、一方では今後の政治・経済・科学・産業・貿易・文化・スポーツなど、軍事を除くあらゆる分野において中国人、韓国人、ロシア人を凌駕できるような人材を育成して、島を失った損失以上のものを合法的に取り返す気概を持つしかないであろう。
 定遠・鎮遠による無法な恫喝を受けた明治時代の日本人は、上から下まで日本国の危機を肌で感じ取って、いつかはこの外圧をはね返すぞという気概に燃えていたらしい。それを示す逸話が歌になって残っているので紹介しておこう。日清戦争となって日本艦隊が定遠・鎮遠を主力とする清国艦隊と戦った1894年9月17日の黄海海戦のエピソードである。

 
勇敢なる水兵  (作詞・佐佐木信綱)
一)煙も見えず雲もなく
  風も起こらず波立たず
  鏡のごとき黄海は
  曇りそめたり時の間に
二)空に知られぬ雷か
  波にきらめく稲妻か
  煙は空を立ちこめて
  天つ日影も色暗し
三)戦い今がたけなわに
  勤め尽くせるますらおの
  尊き血もて甲板は
  から紅に飾られつ
四)弾の砕けの飛び散りて
  数多の傷を身に負えど
  その玉の緒を勇気もて
  繋ぎとめたる水兵は
五)間近く立てる副長を
  痛む眼に認めけん
  彼は叫びぬ声高に
  「まだ沈まずや定遠は」
六)副長の目は潤えり
  されども声は勇ましく
  「心安かれ定遠は
  戦いがたくなし果てき」
七)聞き得し彼は嬉しげに
  最期の笑みを洩らしつつ
  「いかで仇を討ちてよ」と
  言う程もなく息絶えぬ
八)「まだ沈まずや定遠は」
  その言の葉は短きも
  御国を思う国民の
  胸にぞ永く記されん


 黄海海戦で日本側の旗艦「松島」乗り組みの三等水兵三浦虎次郎が敵弾に倒れて息を引き取る間際、傍らの副長に向かって「定遠はどうなりましたか」と訊ねたという逸話である。政治家でも司令官でもない、一介の国民から兵役に就いていた無名の下級水兵までが、死ぬ間際に「痛い」でも「郷里に伝えて下さい」でもなく、「定遠は沈んだか」と気にしていたのである。まあ、当時の軍国主義的な宣伝もあったろうが、一般の下々の国民までが定遠・鎮遠を葬らなければ日本が危ないと真剣に憂えていたのであろう。
 こういう軍事行動は論外としても、最近の日本人像と比べて何という違いだろうか。国の財政が危いという時に自分の老後の心配ばかりしているのである。政治家は特典満載の議員年金の廃止はしないようだし、こういう政治家をトップに戴いていては下々の国民も自分の年金の心配しかしなくなる。65歳、70歳になっても働ける健康に恵まれるということは医学的に実に幸運なことだし、その年齢でなお他人の為に働くチャンスに恵まれるというのは、雇用の専門家から見ればさらに幸運なことに違いないのに、そういう幸運に恵まれた人たちまでが、その幸運を感謝するどころか、少しでも早期に、少しでも多額の年金を…と眼の色を変えているのである。こういう国民の中に、中国や韓国を凌駕する人材など生まれるはずがないではないか。最近のこういう日本人像を見れば、佐佐木信綱は次のように歌ったであろう。
  
「まだ貰えずや年金は」
  その言の葉はいみじくも
  我が身を思う国民の
  肚の底にぞ記されん


 ちなみに参考までに書いておくと、韓国の閔庚燦氏の調査によれば、上記の「勇敢なる水兵」、奥好義が大変軽快で勇ましいメロディーを作曲しているが、現在の中国ではこのメロディーに中国語の歌詞をつけて、抗日娘子軍を称える歌として歌われているとのことである。



もっとアジア言語のプロを

 中国や韓国との間に領土問題が存在することは周知の事実だが、こういう領土問題は外交交渉で埒が開く問題ではないし、だからと言って軍事力行使などはとんでもない話だし、とにかく中国や韓国を凌駕できる人材の育成をするしかないと前の項に書いた。
 両国と太刀打ちする分野は数多いが、どこの分野で競合するにしても先ず問題になるのが相手国の言語である。自分が英語さえ満足に喋れないのにこんなことを言うのはおこがましいが、日本ではアジア諸国の言語に関してまったく立ち遅れている。中国人や韓国人で上手に日本語を操れる人が増えているのに、日本人は外国語というと先ず英語という意識が強すぎる。
 そもそも言語というのは、戦争においても戦略上、非常に重要な役割を果たすものである。相手国に自国の言語を理解できる人間が少なければ少ないほど有利なのは自明であろう。目の前で軍事機密を平文(暗号化していない文章)で喋っても、相手には何のことやらさっぱり見当がつかないからだ。太平洋戦争中、アメリカ軍は世界一複雑と言われる言語を話すナバホ族インディアンの青年たちを通信部隊に配属して、作戦命令を彼等に互いに伝えさせたという。これではたとえ英語が判る日本軍将兵が盗聴しても、通信の内容は解読できなかったであろう。日本もベルリン大使館と東京と間の国際電話に薩摩弁を早口で喋って連合軍を欺いたことがあった。
 逆に自国語を外国人に学習されてしまうことは、文化や学術の交流には役立っても、戦争や交渉や貿易や商売には不利である。戦後、日米間の貿易で日本がアメリカを席捲することが出来たのは、日本人ビジネスマンが英会話を勉強していたのに対して、アメリカのビジネスマンはまったく日本語が出来なかった、という事実によるところも大きい。アメリカ人は公然と「ジャップ(Jap)」などと口に出来ないが、日本人同士が互いに「この毛唐ども…」とうそぶいても相手のアメリカ人には判らなかっただろう。もちろんそんな非礼な日本語を口にしたビジネスマンはいなかったと信じたいが、自分たちの会話は相手に伝わらないという心理的優越は、さまざまな貿易交渉などで日本側に有利に働いたはずだ。
 日本人は今、これと逆のことを中国人や韓国人からされていると思った方が良い。数年前に香港に行った時、日本に留学しているという中国人の青年たちと親しくなった。彼等は日本語が流暢に喋れるので、日本人観光客になりすましてショッピングなどをすると(彼等もけっこう茶目っ気があるのだ)、店の中国人は「ジャップ」に近いような侮蔑的な表現を使って、「日本人であるあなたにはとても言えないような」ひどい事を、平気で目の前で喋っているという。完全に言語のadvantageは向こうに握られているのが現状である。
 これからの日本人は、英会話の勉強もいいが、それよりも北京語、広東語、韓国語などの学習にも重点を置くべきだろう。どうも日本人は言語の戦略的価値について過少評価してきたと思われる。戦前はアジアの植民地で露骨な皇民化政策を推し進め、宗教ばかりか、日本語までを無理やり中国人や朝鮮人に教え込んだ。その罰が当たって、戦後はこれらアジア諸国に言語のadvantageを握られることになった。現在でも年配の韓国人や台湾人は流暢に日本語を話す人が多いが、これは戦前の大日本帝国による植民地支配の爪跡である。
 ある時、年配の韓国人医師に「何で先生はそんなに日本語がお上手なんですか?」と訊いた日本人がいたが、あまりに自国の歴史を知らないことに、傍らで聞いていて冷や汗の出る思いをしたことがあった。
 もっとも戦後の日本にとって幸いだったことに、韓国の方もあまり言語のadvantageに熱心でなかったようで、植民地統治された古傷とはいえ、せっかく日本語を話せる人材が大勢いたにもかかわらず、戦後長いこと日本語や日本文化を凍結してしまったのである。少なくとも戦後初期においては、日本は韓国にとっての仮想敵国の一つだったはずだが、その仮想敵国の言語をマスターして、日本との戦いに備えることをしなかった。これはちょうど戦時中の日本人が、英語を敵性言語として排斥したのと同じくらい馬鹿げたことである。どうも日本人と朝鮮人は同じような性格的欠陥を遺伝的に共有しているらしい。
 最近、日韓両国で互いの文化交流も盛んになり、最近は日本でも「冬のソナタ」などという韓国ドラマが大ヒットして、一種の社会現象にまでなった。これを機に日韓友好が進むと同時に、日本にも韓国語を喋れる人材が増えて、各分野で対等に(そしてできれば平和的に)日韓が互いに切磋琢磨する環境が整っていくことを祈る。


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