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医療費について
サラリーマンの医療費負担引き上げが問題になっています。私は開業医の家に生まれ、父親も祖父も地域で医師をやっていましたが、現在の健康保険制度の前の医療費がどんなだったか、幼い頃に聞いたことがあります。医師は金持ちの病気を治せば米一俵でも牛一頭でも置いて行かせたけれど、お金の無い患者さんからは一銭も取らなかったと言います。それで金持ちも文句は言わなかったし(むしろ金の有る人間が医家に余分に払うのは当然という誇りを持っていたらしい)、困っている人に何の報酬もなく医術を施すことに医師もまた誇りを持っていたようです。
健康保険制度には生命と健康は皆平等という理念があります。しかし大企業の重役や大政党の幹部が風邪を引いても、リストラされて生活に困っている人が風邪を引いても、病院の窓口での支払が変わらないことが本当に医療の平等ということなのでしょうか。生命と健康の平等を持ち出して健康保険制度を作ったのは金を持っている側の人間だと思います。自分たちも金に困っている人たちと同じ支払で済まそうという魂胆があったようにも見えますが、皆さんはどう思われますか
正当な報酬ということ
これは医療費に関してだけの話ではありません。でも医療を例として話を進めさせて貰えば、有給休暇を取って1泊2万円もするリゾートホテルに泊まって会員制のクラブを利用するような身分の人が、あるいは海外旅行へ行ってビトンやエルメスを何十万円も買って来るような人が、たまたま病気になって入院した時に1万円も医療費を取られたと言ってブツブツ不平を言うのはおかしくないでしょうか。あなたの入院中は医師や看護婦(士)が一晩中不測の事態に備えて院内で待機しているのですよ。そのための費用は天から降ってくるわけではありません。
皆さんもご自分の職業に置き換えて考えてみればお分かりと思います。自分の商品や自分の労働力が、不当に安く買い叩かれていると感じたことはありませんか。でも人間とは身勝手なもので、自分が相手の商品やサービスを手に入れる段になると、出来るだけ安く買い叩いておきたいと思ってしまうのですね。こういう強欲で不遜な人間の性が今日の経済危機の一因となっている可能性があります。
自分の商品やサービスは高く売りたいが、他人の商品やサービスは安く買い叩きたい。こうすれば確かに一時は純益が上がるように見えるけれど、決して長続きはしません。買い叩かれた他人は購買力が下がって、今度は自分の商品やサービスを買ってくれる力を失ってしまうからです。こうして世の中全体が購買力を失って停滞していくのです。さらに自分の商品やサービスを安く買い叩かれれば誇りも失ってモラルも低下する。今の医療従事者に最も心配なのはこの点です。
「金は天下の回りもの」と言った昔の人に比べたら現在の人間は馬鹿ばっかりですね。何かで読んだ話ですが、江戸時代のある商人が暗闇の道で現金2文の入った財布を落としてしまった、その商人は3文払って蝋燭を買い求めさせ、夜道で無くした2文を探し出した、2文探すのに3文も使うなんて、と嘲笑する周囲の人々に対して言ったことは、夜道で無くした2文は死に金になってしまうところだったが、これでまた天下に通用するようになったし、蝋燭代の3文もまた蝋燭屋の利益となったから、万事これで良いのだと。
商品やサービスを提供してくれた人の利益をも考えるところに自分の利益があり、世の中の繁栄もあるのだということを、昔の人たちは知っていたのですね。日本の経済を立て直すには、医療費に限らず、相手に対して正当な報酬を支払うという原点に立ち返る必要があるのではないでしょうか。だから私はディスカウントショップも行きませんし、超安値の航空運賃なども利用しないようにしています。
患者様〜?
最近大体どこの病院へ行っても気になることがある。院内放送のアナウンスでも、壁に貼ってある注意書きでも、「患者様」という表現が当たり前になっていることだ。以前は単に「患者さん」と言っていたし、私の実家が開業医だった時も両親は「患者さん」と呼んでいた。この10数年間、常に批判の的だった医療機関の不親切な応対を改善しましょうという対策の一環が「患者様」らしい。名前を呼ぶ時も「小泉様」「鳩山様」だ。子供の患者さんにまで「様」を付けて呼んでいる。そう言えば銀行の窓口も「様」付けだが、最近の銀行が到底顧客に対して丁寧で親切だとは思えない。一応相手を敬うふりをしてお金を落として行って頂こうというのが医療機関や金融機関の本音なのだろうか。そのうち「患者様を患者さんと呼んだからけしからん」と吊るし上げられる日が来るかも知れない。
しかし相手に何でも「様」を付けて呼べば敬意を払った丁寧な対応になるのだろうか?(交番へ行って「おまわり様」などと言えば警察官を侮辱した罪で逮捕されちゃうかも知れないぞ。)こういう形式的で一律な横並びの対応で事が済むと思っているのが日本人の安易なところだと思う。とにかく他人(他施設)と同じことをしておけば間違いないということか。こういう態度が過剰な言葉狩りを助長することにもつながるのだ。
相手に対する敬意だとか差別だとかいうのは、使われる言葉自体にあるのではない。言葉を使う人の心の中にあるのだ。この間、最近では色盲という言葉は使わずに、色覚異常と言う方が良いですよ、と教えて貰った。「盲」という言葉がいけないのである。知らなかった。
「色覚異常の方はいろいろと危険も予想されますので、私どもでは責任上ちょっとお引き受けいたしかねますが。」と言って慇懃に仲間への参加を断る人。
「お前、色盲だってな。信号が見えねえと危ないから道渡る時は俺にしっかりついて来いや。」と言って一緒に仲間に入れる人。
どっちが差別する心のない人なんだろうか。
続・患者様〜?
「患者様」の件について、さらに面白い情報を手に入れた。ある病院で、外来を受診した患者さんたちにアンケートを実施して、患者様と呼ばれることをどう思うか訊ねたところ、詳しい数字は不明だが、患者様と呼ばれて気分が良いと答えた人はほとんどいなくて、せいぜい1割程度、逆にやめて欲しいと答えた人は7〜8割に達するという。当たり前である。私自身も金融機関の窓口で「田中様」などと呼ばれると背中がムズムズするような不快感が残るし、さらに医者だって病気や怪我をすることもあるが、たまたま病院にかかって会計をする時に、「田中様」などと呼ばれると「おいおい、ちょっとおかしいんじゃないの?」と思う。自分の病院の院長が受診した時も「様」を付けるんだろうか。
院長も風邪を引いたら患者様(心の俳句?)
要するに何でもマニュアルどおりに「様」を付けてるだけなのだ。普通に呼びかけても大して失礼でもなく、世間の常識にそれほど反してもいない状況で、わざわざ相手に「様」を付けて呼ぶとはいったいどういう心理にもとづくものか。「ハイ、ハイ、あなた様はとてもお偉い人でございますよ。」と慇懃無礼で皮肉な態度を取る時にもわざと「様」を付ける。また相手との対等な会話を意識的に遮断したい時にも必要以上の尊敬語や謙譲語を使って相手の発言を抑制する。こういうネガティブな敬語の用法は誰でも身に覚えがあるはずだ。「さん」付けでは失礼で、絶対に「様」を付けなければいけない状況は確かにあるが、医療機関と患者さんが病気や怪我という非常事態の中で互いにフランクに向かい合わなければならない状況には当てはまらない。そんな杓子定規な言葉使いを気にするより、もっと他に気を配ることがあるのではなかろうか。
続・続・患者様〜?(これで最後)
広辞苑を引くと、「様」の説明の中に「氏名、官名、居所などの下に添える敬称」とあり、「患者様」はもちろんこの用法に当たる。居所に付ける用例としては「禁裏様」が挙げられているが、人に付ける氏名と官名はいずれも呼び掛ける相手の属性である。例えば相手が田中なら「田中様」、イチローなら「イチロー様」という具合だが、「信長様」「家康様」の時代ならともかく、現代の口語体で実際に「様」を付けてもサマになるのはギャルたちが黄色い声でお目当ての男性アイドルの名前を連呼したり、オバチャンたちが贔屓の役者にオヒネリを投げたりする時くらいではないか?官名に付ける場合だって声に出すのは「お代官様」とか「お武家様」のように時代劇くらいしか思いつかない。現代の日本で親しみを込めて相手の官名に敬称を付ける時は「社長さん」とか「運転手さん」とか「さん」付けの方が普通で、どんなに畏まった時でも決して「社長様」とは言わないであろう。「社長様」などと呼び掛ける状況を無理に考えてみると、社長にペコペコ頭を下げて契約を取ろうとする卑屈な相手くらいしか思い浮かばない。現代の口語体で「様」付けに違和感がないのは、店に来てくれた人に対して店員が「お客様」、保育園や小児科のスタッフが子供の親に対して「お父様」「お母様」と呼ぶことくらいだろうか。しばらく前までは医師も「お医者様」と呼んで貰えたものだが、最近はダメかも・・・。
以上のことに対して異論はあるだろうし、まだまだ私が見逃している用例があるかも知れないことは認める。しかし「患者様」で一番おかしいのは、患者であることをあたかも氏名や官名と同じく相手の属性と見なして、それに「様」を付けている無神経さである。病院は相手を「患者」でなくしてあげなければいけないし、仮に治らない病気であっても相手が「患者」であることを意識させるようではいけないのに、その「患者」であるという状態名に「様」を付けるとは何事か。まさに「患者」になって下さってありがとうという皮肉な意味まで感じ取る人だっているのである。
昔ながらの「患者さん」という言葉には長年の用法から、あなたは運悪く病気や怪我をしちゃったけれど早く治してあげますからね、という意味を言わずながらに共有できる素地が日本の社会にはあったのに、それをわざわざいじくり回すから、病気や怪我の人にことさらそのことを意識させるような耳障りな日本語ができるのだ。第一、アメリカの病院で「Mr.&
Ms.Patients」などと言うか?
あまり文句ばかり言っていても仕方ないので、どうしても「様」を付けて呼びたい場合の代案を示す。「外来にお越しの皆様」とか「ご入院中の皆様」とか「受診される皆様」とか呼べば良いのだ。もっとも「患者様」という言葉は各医療機関自身が独自に考えたものではなくて、これまであまりに患者さんへのサービスをないがしろにして批判が渦巻いていた医療機関を指導・監督するために、「お役人様」が有識者を集めて考え出した対策を通達したんだと思う。そうでなければある時期を境にして多くの病院が一斉に呼び方を変えることなんてあり得ないからね。本当に「お役人様」はご立派でお偉い方々でございます。
医者の不養生
2000年の秋、左足首を骨折して自分の病院の整形外科にかかっていたら、たまたま白衣に松葉杖とギプスの私の姿を見た他の患者さんたちから、「医者でも骨を折るのか」と笑われたことがある。医者も生身の人間なんだから当たり前である。最近世界中を恐怖のどん底に陥れた重症急性呼吸器症候群(SARS)では、患者さんと接触した医師や看護師などの医療スタッフから大勢の痛ましい犠牲者が相次いだ。しかしそれでも医者は病気にならないと信じている人も中にはいるようだし、医者の中にも自分は病気にならないと漠然と思っている人も多い。
確かに他人の病気ばかり診ていると、自分や自分の一族も病気になる可能性があるという事実を忘れていることに気がついて、愕然とすることもある。そんなわけで俗に言う「医者の不養生」という結果になってしまうらしい。実は私も1年半前の健康診断で、成人病予備軍から正式の成人病に一歩踏み出した重大な結果を突き付けられることになった。血液中の中性脂肪222mg/dl、空腹時血糖123mg/dlだったのである。正常値上限をわずかに超えたばかりではあるが、さすがに医者としてはこれが10年、15年後にはどうなっていくのか予測はついた。そう言えば、30歳台後半頃から体重は増える一方で、50歳を超えた頃には理想体重を十数キロも上回っている。特に夏の軽装をすると腹が出てきたことをイヤでも自覚せざるを得なくなっていた。
これこそまさに医者の不養生、しかし日本は世を挙げて飽食の時代を謳歌している現在、同じような危機に瀕している人は多いはず。そこで我が身を実験台にして、この成人病の魔の手から逃れる方法を試みることにした。最近めっきり太ってきた人、血圧や血糖や血液中の脂質の高めな人はぜひお試し下さい。
こういうことは長続きしなければ意味がない。私の成人病脱出法の要点は次の2つである。
1)3度の食事と晩酌は制限しない。
好きな酒をやめてまで長生きしてもつまらない。美味しいものを味わわなくて何のための人生ぞ。3度の食事は十分に頂きますが、ただし間食だけは絶対に止める。人間には空腹が必要なのだ。人間の体には血糖値を下げるホルモンはインスリンだけしかなく、他のホルモンはすべて血糖を上げろと要求するばかり。3度の食事の間にもお菓子をパクパク、清涼飲料をゴクゴクやっていては、インスリンの感度が鈍ってしまう。インスリンも少し休ましてあげなければ・・・。と考えて、間食を絶対に口にしなくなった途端、自分がここ何年間も空腹感を忘れていたことに気付いたのである。空腹は飢えとは違って人間に必要なものではなかろうか。少なくとも空腹を感じている間はインスリンは休んでいるし、その間に体内に余分に蓄えられた「ぜい肉」が燃えている。
2)運動は特にしない。
健康のためにジムに通ったり、毎朝ジョギングしたり、といった運動は特にしないが、やはり「ぜい肉」を燃やして減量するためには、少しは体を動かさなくっちゃ・・・。というわけで、私は通勤の帰り道に30〜40分歩くことだけをノルマにしました。電車で2駅ほど手前で降りて歩く、または2駅ほど歩いてから電車に乗る。この程度の意志の強さは持って欲しい。ただし交通事故には気をつけないといけないが・・・。私は台風が東京を直撃した日を除いて、他は毎日30分は歩いて帰宅した。日祭日はもちろん家でゴロゴロしていた。
どうですか、何となくできそうでしょ?私はこれだけ毎日実行したところ、1年で体重は10キロ減量、中性脂肪も血糖値も血圧も正常値内にまで急降下しました。同じ悩みを持った中年諸君にも頑張って貰おうと思って、恥を忍んで公開しました。
ただしこれは成人病の初期の場合の話で、すでにいろんな合併症が出てしまっているような人は、きちんと主治医の言いつけを守って正式の治療を頑張って下さい。
日本経済の健康状態?
前回、私の健康診断について書いたので、ついでに医者の目から見た日本経済の健康状態を考えてみましょう。私は経済や経済政策の専門家ではありませんから、いろんな政治家や経済学者の唱える日本経済再建策はどれが正しいのか判りません。もちろん言ってる本人たちだって神様じゃないんだから、どの政策を実行すれば日本経済が立ち直るのか、100%断言できるわけでもないでしょうが・・・。
しかし国家も自治体も一つの組織体、人体もまた器官や細胞から成り立っている組織体。その中での物資やエネルギーの流れには共通点があるのではないでしょうか。国家も人体と同じように、怪我をしたり病気になることもあり、いつかは死ぬことになります。日本は1940年代にアメリカと喧嘩をして瀕死の重傷を負い、もう一発殴られれば間違いなく死ぬというところまで行った。
戦後、日本は栄養を摂って体力をつけてきたが、最近では肥満が著しくなってきました。成人病ですね。東京オリンピックや大阪万博のようなカンフル剤が一時は体力回復の特効薬だったのですが、それも肥満した現在の日本では効き目も薄れて、却って麻薬のような中毒症状を引き起こしてしまった。とにかく何かイベントを持って来ればその先にバラ色のパラダイスが待っているというような幻覚症状にむしばまれているのです。
肥満した人は体を維持するために次から次へと食べる。食べるからさらに太る。太るからまた食べる。この悪循環から逃れるためにはダイエットして運動して肉体を引き締めるしかないのですが、肥満した人はつい目先の食い物の誘惑に負けてしまうのです。
肥満した日本経済も、無駄なぜい肉がいっぱい付いた国の機構を動かすために次から次へと金を注ぎ込む。金を動かすために余計な箱物を作ったり不要な機構を作ったりするから、さらに金が必要になる。日本経済の「肉体」はもうボロボロだと思います。国債をもっと発行しろとか、公共事業をもっと起こせとかいう政策を唱える人は、糖尿病や肥満などの成人病患者が腹ペコで死にそうだと泣いているから美味い物をもっと食わしてやれと言うヤブ医者と同じかも・・・。
日本経済の処方箋
この前、医者の目から見た日本経済の健康状態について書きましたから、ついでに治療の処方箋も出しておきましょう。
日本の国はすでに中年から初老期に入っていると考えられます。つまり若い頃と同じような肉体の無理はきかず、したがって若い頃のように激しく活動していた時と同じつもりで同じ量だけ食べれば、そっくりそのまま贅肉として残って、成人病による死期を早めるだけでしょう。
日本の国が老いている証拠を、人間の肉体と関連させて幾つか挙げてみます。出生率の低下は新しい細胞の誕生する割合が減ってきていることに相当しますが、さらに国の若い細胞であるはずの青少年たちに元気が無いこと(体力低下や無気力)も気になります。昔なら混み合ってきた電車やバスのわずかな座席に若者が先を争って座ることなどほとんどありませんでしたし、地べたに座り込む少年少女などいませんでした。また青少年に限らず、自分の欲望を満たすために平気で窃盗や殺人まで犯す人間が増加している事実は、がん細胞の出現が増えてくる「がん年齢」に相当するかも知れません。
これらの現象は日本の国がもはや若くないことを示す一例に過ぎません。本当に危険な徴候は、ほとんど採算の取れない道路や空港や鉄道や施設や、意味の無いダムなどの公共事業などに何やかんやと理由をつけて多額の資金を注ぎ込み続けなければ経済が立ち行かなくなっている肥満体質にこそあります。
政治家や学者たちは、「構造改革」が先か、「景気回復」が先か、とよく議論しているようですが、これは医者の目で見れば実にくだらない論争です。これは肥満体質の改善には、「ダイエット」が先か、「空腹を満たす」のが先か、と議論するようなものです。痩せるために運動しようと思うが、とりあえず小腹が空いているから飯を食ってからにしよう、なんて言っている人間に肥満改善など出来るでしょうか。
先々必要となる公共事業に先行投資して…などと綺麗事を言っていた政治家もいらしたようですが、これもとりあえず今日は飯を食っておいて、明日から本気でダイエットしようなんて言っているのと同じで、決して当てに出来るものではないです。構造改革を先になすべきであるのは自明の理です。
ではお前は小泉首相の構造改革に賛成なのかと問われれば、総論は賛成に決まっていますが、小泉流の構造改革はやり方がメチャクチャです。中年から初老期になった人間が、健康のために削らなければいけないのは皮下脂肪などのいわゆる贅肉であって、全身の筋肉や内臓などは逆に保護・増進させてやらなければなりません。ダイエットには食事制限だけでなく、適度な運動が必要なゆえんです。よく若い女性がムチャクチャな断食ダイエットをやって死に到ることさえあるのは、筋肉や内臓へ行き渡るべきエネルギー源や蛋白源までを制限してしまうため、人間の体が自分自身の筋肉や内臓を分解して代謝してしまうからです。暖房用の薪も無くなって家の壁や天井まで剥がして暖炉で燃やすようなものですね。
小泉首相はよく「痛みに耐えろ」と言いますが、ダイエットの痛みに耐えるべきは皮下脂肪などの贅肉であって、筋肉や内臓に痛みが加わってはなりません。実質的な資金の流動を作り出すことの出来る企業や商店などが日本経済の筋肉であり内臓なのです。これらの企業や商店がバタバタ倒産している時に、大銀行に税金を投入して救済するというのはまったくの暴挙だと思います。
銀行は資金の流れだけで見れば、余剰の資金を吸収・貯蔵しておいて必要な時に必要な所に放出するという、いわば資金流動の円滑化の機能を果たしていて、銀行マンというのは非常にバランスの取れた経済観念を持っていると思います。人体で言えば皮下脂肪のようなものです。皮下脂肪と言うと、いかにも健康の敵のように聞こえますが、こういう脂肪組織が無ければ人体のエネルギーの流れはギクシャクしてしまいます。脂肪組織が余ったエネルギーを吸収しておいて、エネルギーが不足した時に放出してくれるので、我々は1日3回だけの食事で十分に活動していられるのですね。ただしこれは通常の状態での話です。
ところが人体の筋肉であり、内臓でもある中小企業や商店が危機的状況に陥っている非常事態に際して、銀行の方を優遇するとは本末転倒も甚だしい。将来の経済再生に備えて企業や商店の予備力を高めておくことは絶対に必要です。痛みに耐えるべきは銀行の方であって、企業や商店の方ではない。小泉改革は痛みを分かつべき対象を見誤っていると診断します。
朝日新聞コラム
「日本経済の健康状態?」を書いた直後、朝日新聞の経済論説委員の荻野博司さんからメールを頂きました。大谷康子のサイトを検索するうちに私のサイトに入り込み(やっぱりカミさんの方が有名なんです)、面白い話だからぜひ「日本経済の病理」について話を聞かせて下さいとのことでしたので、一度私の職場に来ていただくことになったわけです。非常に硬い肩書きの方ですが気さくで面白い人で、何より感心したのは喫煙されないこと。部屋でひとしきり「日本経済の処方箋」に書いたようなことを取りとめもなく喋った後、ご一緒に石焼ピビンバを食べて帰りましたが、しばらくして次のようなコラム記事にまとめて下さいました。要領よく的確に書いてあって、さすが文章のプロにはかなわないと思いました。平成15年12月9日の朝日新聞夕刊「窓」に載せて頂きました。
日本の病理
難しい話を分かりやすく伝える。記者には欠かせない技法だ。よく使うのが身近な例え話。抽象的な問題も、これで取っ付きやすくなる。
この10年余りの日本経済の混迷を伝える記事によく使ったのが病気の比喩だ。「出血が続く財政」「公共事業のリンゲル注射」などなど。
でも、しょせん医学の門外漢。ピント外れではないかという不安もある。そこで専門家の診断を聞こうと、帝京大学病院にある田中文彦先生の研究室を訪ねた。
みずから歴史や社会を論じるホームページを作った好奇心旺盛なお医者さんだ。仕事場は患者の細胞を顕微鏡で調べ、治療の方針を見定める病理部。地味ではあるが、欠かせない役割だ。
日本という重病人への診断は次のようなものだった。
●中年期から初老期に入っていることへの自覚不足。激しく動き回っていた頃と同じように飲み食いを続ければ贅肉が増え、その先には成人病が待っているのに。
●若者がどこでも座りたがるなど、若い細胞の生きが悪くなっている。無軌道な行動に走るがんの増殖も心配だ。
●構造改革が先か、景気回復が先か、という議論はくだらない。やせようと運動しているのに、ちょっと小腹がすいたからお菓子が欲しいというのでは、肥満は治らぬ。
要するに、皮下脂肪を削り、筋肉や内臓を強くすること。筋肉にあたる中小企業や商店を元気づける策を急ぐべきで、橋や道路に税金をつぎ込むなどは論外との厳しい見立てだった。<荻野博司>
国が死ぬ時
ちょっとショッキングなタイトルですが、さまざまな構成員から成る国家は、さまざまな細胞から成る人体と同様であると考える以上、国家もまた人体と同様、いつかは死ぬ運命にあると言えます。しかしこれは個人的に心配する必要はないのであって、これまでも世界史の中で日本も含めてほとんどの国が死と再生を繰り返してきました。大河の流域に世界四大古代文明が興って以来、あるいはそれ以前から地球上には無数の国家が生まれては死んでいったのです。
ではここで長生きをしている国家の死と再生のパターンを見てみましょう。私が最も面白いと思うのはお隣の中国です。この国は黄河・揚子江流域に世界最古の文明の一つが勃興して以来、常に世界史の中で隠然たる勢力を保ち続けてきましたが、この中国とて決して不死身だったわけではありません。よく中国は人民の海の中に王朝が浮かぶ国と言われますが、これは中国の政権(歴代の王朝と現在の共産党政府も含む)と中国人民は別物だということです。中国人民は権力者として漢族が来ようが、モンゴル族が来ようが、満州の女真族が来ようが、その統治の下で自分たちの変わらない生活を何千年も続けてきた民族です。権力者たちが良い政治をしようが悪い政治をしようが、自分たちは自分たちの生活を守っていく力強さが感じられます。
20世紀においても日本海軍のパイロットだった坂井三郎さんの文章の中に次のような象徴的な記載があったのを覚えています。坂井さんが中国大陸の戦場の上空から日中両軍の戦闘を眺めた時の話だそうですが、日本軍と中国正規軍(おそらく国民党軍)が衝突して銃砲を撃ち合っている場所からわずかしか離れていない農地で、中国農民が平然と農作業に精を出しているのを見て、さすがの坂井さんも驚いたそうです。政府は政府、人民は人民という、実にあっけらかんとした話ですが、こういう民衆を母体とする国は長生きするのではないでしょうか。
元が死んで明が生まれる、明が死んで清が生まれる、清が死んで中華民国が生まれるといった具合に王朝(権力者)が次々と交代しても、中国民衆は世界史の中で常に隠然たるエネルギーを発揮し続けてきたのですが、これと同じパターンは現在も長続きしているほとんどすべての国に見られることだと思います。例えば日本だって、平安の貴族王朝の国家が死んで鎌倉幕府による新しい国が生まれる(良い国作ろう源頼朝でしたね)、鎌倉幕府が死んで室町幕府が生まれる、室町幕府が死ぬと戦国の混乱を経て江戸幕府が生まれる、江戸幕府が生まれる、江戸幕府が死んで明治政府が生まれる、明治政府は太平洋戦争で死んで戦後の日本が生まれる、このようにして日本の民衆もそのエネルギーを保ち続けてきたわけです。だから別にバブルがはじけて経済が混乱して現在の日本が死んでも、日本人はこの日本列島で次の新しい政府の下で変わらず生活していくに違いありません。
ただし新しい日本がどのような国になるかは想像がつきません。幕末の民衆が果たして明治御一新の世を想像できたでしょうか?戦前の日本人が戦後の日本を想像できたでしょうか?(戦後の日本を想像できたとすれば、あんな馬鹿げた戦争はさっさと止めたはずですよね。)我々は経済中心の平和主義で発展してきた戦後日本の末期にいるのかも知れません。これからどんな混乱が起こるかも知れませんし、起こらないかも知れませんが、いずれにしろ日本という国が死んだとしても、日本民族そのものが跡形もなく消滅するといった事態を心配する必要はないと思います。
日本も中国型の歴史を繰り返しながら、世界史の中で命脈を保っているわけですが、他のすべての国々にも多かれ少なかれ同じようなパターンは見られると思います。ところが国家が長生きをするパターンには、きわめて限られた特異な例があるのではないかと最近気がつきました。それはユダヤ人です。ご承知のとおり、ユダヤ人は迫害を受けて何千年にもわたる流茫の生活を送ってきましたが、彼等の民族としての同一性が失われることはありませんでした。~との契約というあまり合理性のない根拠だけに基づいた民族の同一性が何世代にもわたって受け継がれてきたのは非ユダヤ人から見ればまさに奇跡です。
したがってユダヤの王国は不死だったと言えます。肉体の無い霊魂だけの存在が死ぬことはないように、国土という実体を持たなかったユダヤの国家が永続したのは当然だったのです。ところがこのユダヤの国家も第二次大戦後、イスラエルという実体を持った国家になりました。これはある意味でユダヤ人にとって危機かも知れません。不死の霊魂が有限の肉体を手に入れてしまったのですから、つまり滅亡の可能性も出たということです。
またこれはユダヤ人(イスラエル)だけの危機ではありません。何千年も昔の行動原理で動く霊魂が、突然肉体を持って現世に甦ったわけですから、周囲との軋轢も大きいと思われます。中国型の政権交代を繰り返しながら生きてきた他の国々の中に昔と同じ考え方を持って生き返った古の大王は今後はどのようなことになるのでしょうか。SF小説やコメディなどで、昔の人間が現代にタイムスリップする話が時々ありますが、これはまさに現代の世界に実際に起こっていることなのです。
Generalistとspecialist
最近我々の業界でよく耳にする言葉で、普通の英和辞典には載っていないgeneralist(ジェネラリスト)という単語がある。もしかしたら和製英語かも知れないが、specialist(スペシャリスト=専門家、専門医)と対をなす反対語として使われる。つまり一般医という意味だが、このスペシャリストとジェネラリストの問題について深く考えさせられる事例を経験したので紹介しておきたい。
先日、私の知人が思いもかけず某病院に即日入院させられたというので見舞いに行ったら、何と心筋症でかなり重症の心不全状態に陥っていたのだという。その病名にも驚いたが、もっと驚いたのは、症状はずっと続いていて、それまでも有名な大学病院などに受診して、消化器や呼吸器や泌尿器のスペシャリスト(専門医)たちが診察していたにもかかわらず、誰も心不全を診断できずに、下剤や鎮痛剤などが処方されていたらしい。さらに心不全の時には投与を控えるべき喘息の薬まで飲まされていた形跡があり、まかり間違えば重大な過失を問われる医療過誤になっていた可能性すらある。
幸いにして別の大学病院で心臓のスペシャリストに当たったために心不全に気付かれて事無きを得たが、これこそ現代の医学の最も脆弱で普遍的な欠陥を如実に物語る事実であるので、ここに警鐘を発しておきたい。確かに現代の日本の医学は、私が子供だった頃に比べれば格段の進歩を遂げており、その技術や知識は世界有数のレベルにあると言ってよいが、このきわめて高度な医療レベルは大学病院やセンター病院などの大勢の専門医たちによって支えられているのである。
こうして優秀な専門医たちの活躍によって、一昔前なら助からなかったような悪性腫瘍や難病の患者さんたちが次々と社会復帰を果たせるようになったが、その一方で、一昔前の医師なら常識として診断できたはずの基本的な症状や症候が易々と見逃されるようにもなってきた。専門医たちは、自分の領域のことであれば全世界のあらゆる医学雑誌に載っているような最新の知見までも詳細に把握しているのに、別の領域のことは素人に毛が生えた程度のことしか知らないのだ。肝臓の専門医は肺を診られない、心臓の専門医は神経を診られない、血液の専門医は血管を診られない、といった奇怪なことが起こっている。
そういう専門医にはそれぞれの分野で高度医療を支えて貰って、それ以外の「普通のお医者さん」がしっかりと患者さんの全体像を診れば良いじゃないかと誰でも考えるだろうが、そうは行かないのがこの業界の不思議なところである。普通のお医者さん=ジェネラリストになりたいと思う若手医師や医学生が少ないのだ。多くの医師たちは専門医への道を目指して、自らの選んだ領域の専門雑誌に目を通し、専門の学会に加入して、論文を書いたり発表したりするために専門的な研究に没頭していく。そうやって書いた論文の数が多いほど大学病院やセンター病院で評価されて偉そうな顔も出来るし、出世の近道にもなるからだ。
ジェネラリストの方はそうは行かない。朝から晩まで患者さんの診療に打ち込んでいても、学会で認められるような最新の論文を書くことは出来ない。ドラマ「白い巨塔」(フジTV)のドクター里見は、毎日患者さんを熱心に診療するかたわら、学会でも一目置かれるような研究者として描かれていたが、あんなことは現代の医学界では不可能だというのが私たち多くの関係者の見解である。
かくして地味な縁の下の力持ちであるジェネラリストよりも、スペシャリストとして医学界に一旗揚げようとする医師たちが大学病院やセンター病院に増えてくるわけだが、これは患者さんたちにとっては実に困った問題なのである。大体、週刊誌や特集本などの「名医シリーズ」で紹介される医師たちの大部分はこのスペシャリストの可能性が高い。実際に受診する患者さんたちは「名医」というイメージを持っていても、ある限られた専門領域以外では、実は医学部を出たての研修医と良い勝負といったことさえあろう。
驚くほど美味しいケーキを焼いてくれる専門店に行って、饅頭や団子を注文させられるようなことを、患者さんたちは知らないうちに強いられていると言ってよい。しかもケーキ屋で「饅頭下さい」と頼めば、「よその店へ行ってくれ」とイヤな顔をされるはずだが、多くの専門医たちは一応医師免許を持っているというプライドがあるから、オーブンで饅頭を焼くような中途半端な診療をしがちだ。こうしてさらに困ったことになる。入院した私の知人も、一応診察の真似事でも胸に聴診器を当てられているはずであるから、きちんとしたジェネラリストの素養を持った医師でありさえしたならば、おそらく心拍数の異常とか浮腫の所見だとか、すぐに見つけて貰えたはずなのである。
続・generalist(一般医)とspecialist(専門医)
専門医、専門医と草木もなびく〜、といった医学界の風潮について、もう少し考えてみる。なおgeneralistという言葉は全世界のホームページにspecialistとの対比で何万件も見出すことができ、決して和製英語でないことが判ったが、それにしては大きな英和辞典にも載っていなかったことを見ると、比較的新しい言葉なのかも知れない。考えてみれば過度の専門化が進んで全体像が見えなくなる傾向は、医学のみならず近年あらゆる分野に共通の現象である可能性が高い。
ここで蛇足になるが、1950年にA.E.ヴァン・ヴォークトという作家によって書かれた「宇宙船ビーグル号の冒険」というSF小説があった。多数の科学者を乗せて宇宙空間を旅する巨大宇宙船の物語で、もちろん進化論で有名なダーウィンが乗り組んだビーグル号からの命名であろう。この宇宙船ビーグル号の物語の主人公は「総合科学」を専攻する若き科学者という設定だが、この耳慣れない学問は、あまりに専門化が進みすぎて互いの連携が取れなくなった各学問分野を新たに再統合する学問であると説明されている。1950年代にすでにそのような「総合科学」の必要性を予見したSF作家の洞察力には敬服するしかない。(残念ながら現在は絶版で、もう一度読みたくても読むことができない。)
そこで話を元に戻して専門医について。現在の我が国の専門医制度のモデルはアメリカに範を取っていると思われるが、アメリカでは普通に医師免許を取得しただけでは、何でも自由に診療行為ができるわけではない。例えば医師免許取得後、何年間か研修を積んで認定を受けて初めて外科の手術が許されるようになり、さらに何年間か専門の訓練を受けて心臓外科なら心臓外科の専門医として心臓の手術をすることを許されるのだそうだ。これまでの日本の医師のように、免許を取った翌日から原則的にあらゆる医療行為を許されるものではないのだ。アメリカで専門医を標榜するというのは実に大変なことなのである。
だからアメリカではあらゆる医療分野で専門医が威張っている、といって語弊があるなら、業務を独占しているらしく、アメリカ流の専門医の弊害もまたよく指摘されるところである。日本では内科医や外科医や産婦人科医が自由に超音波診断装置(エコー)を使って短時間に要領よく患者さんの診断をしているが、アメリカでは放射線科の専門医を取得しなければエコーを施行することは出来ない。したがって例えば内科の医師が急ぎで超音波診断の必要性を感じても、放射線科にオーダーを出して順番を待たなければならない。また目の前で患者が心停止しても、麻酔科の専門医を呼ばなければ気管内挿管(気管に管を差し込んで肺に直接空気を送り込むこと)による蘇生法を行なうことも出来ない。
アメリカではこのように各種専門医による業務独占が進んでいて、かなり診療体制が硬直しているという話もよく聞く。あちらの専門医は資格を取得するために並外れた努力をしているので、限られた分野における実力は相当なものであるが、一方で他科の診療能力は意外に低く、「専門バカ」の傾向は否めないという指摘もある。前回書いた日本の専門医たちとまったく同じ状況だというのだ。
医師のうち約半数が一般医(ジェネラリスト)で、残りの半数が各分野の専門医(スペシャリスト)というくらいの比率が本当は望ましいのではないか。ところがなぜ多くの医師たちは、特に大学病院やセンター病院に残る医師たちは、我も我もと専門医を目指したがるのか。大学病院などでは医師の大部分が専門医または専門医予備軍である。だから前述した私の知人の場合のようなチグハグなことが起こるのだ。
アメリカでは専門医の資格を取得すれば収入もグンとアップするが、日本では専門医になったからといって給料が増えることはない。卒業後の年次だけで決まる給与体系に従って昇給していくだけだ。それなのになぜ日本の医師たちはアメリカのように専門医志向が強いのだろうか。
続・続・generalistとspecialist
Specialist(専門家)について、ダニエル・キイスという作家の小説の中に非常に鋭い問題点を衝いた部分がある。「アルジャーノンに花束を」という日本でもファンの多い作品なので、読まれた方も多いと思う。
この小説の主人公はある先天性の代謝疾患のため重度の知能障害を持つ青年だったが、脳の活動を驚異的に高める医学実験に参加した結果、あれよあれよと言う間に知能が上昇して、ついに天才の域にまで到達してしまう。天才と言っても並みの天才ではない。あらゆる自然科学と人文科学における現代最高峰の知識を理解し、ヒンズー語や日本語をはじめ世界中のあらゆる言語をマスターして最新の論文をすべて短期間に読みこなし、さらにはピアノ協奏曲まで作曲してしまうといった桁外れの超天才なのだ。しかし結局実験は失敗して主人公は再び元に戻ってしまうのであるが、そういう作品の本質にかかわる議論はここでは省略するとして、この全知の神にも似た天才の出現を前に、世間で”専門家”と称する人間たちがどのような滑稽な反応を示したかが描かれている部分があって、私には非常に印象的で興味深かった。
経済や文学など世間の専門家たちは、それぞれの専門分野においてこの主人公と対決させられるわけだが、何しろ相手は超天才であるから、自分の専門と称する領域においてすらまったく彼に太刀打ちできないのだ。すると専門家たちは、それは自分の専門外だから別の人に訊いてくれ、などと言ってそそくさと議論を切り上げてしまうのである。「彼らはおのれの知識の狭隘さが露呈するのを恐れて、逃げ出す口実を見つける(小尾芙佐訳)」のであった。
つまり、専門家を少し皮肉っぽく定義すれば、専門以外の事は知らないと言って済ますことが許される人、ということになろうか。専門医も同じことである。血液の専門医は血管を知らず、血管の専門医は呼吸器を知らず、呼吸器の専門医は神経を知らず、神経の専門医は血液を知らず、それでも許されるということになる。もちろん最近の医学は日進月歩であり、自分の専門領域ですら世界の最新の知見に追いついて行くだけでも大変だということは認めざるを得ない。だが、私の知人のケースのように、いくら他領域が専門だからと言って、一応「医師」を自認している人間が何人も寄り集まっていながら、重症心不全の徴候を見逃していたという事態が起こってもよいものだろうか。
大学病院や医学会など医療の内輪の世界において、専門医を自称して、かつ仲間からもそれを認められるということは、早い話が専門以外の領域については「私には判りません。その件についてはその専門の○○先生に訊いてみて下さい」で済ますことが許されるということだし、逆にある限られた領域のことに仲間たちより数段精通していれば、その範囲に限っては権威筋としての立場を尊重して貰えるということにもなる。だから医学の世界の中では、Aの分野の「専門医」とBやCの分野の「専門医」たちが互いのプライドを認め合い、かつ称え合う非常に居心地の良い不思議な関係が築かれることになる。
もちろん医師としての十分な資質と能力を備えたうえに、なおかつある分野では優れた専門医であるという人は何人も知っているが、残念ながら上記のような虚栄心を満たしてくれる居心地の良いポジションに就くために(当然本人はそうは思っていないだろうが)専門医を目指す医師も少なくないのではないかと、以前から密かに疑っていた。今回たまたま私の知人が何人もの「専門医」たちから重症心不全を見逃された事例に接して疑いが確信に変わったので、このような文章をホームページに掲載する気になったわけだが、医学会内部のことを書く以上、その鉾先は当然自分自身にも向けられざるを得ない。そこでより良い高度医療・専門医療を目指すためには何が必要かを考えてみたい。
高度な専門医制度を保障するためには優秀な一般医(ジェネラリスト)が多数必要である。前回、私は医師の半数が一般医で残りの半数が専門医というくらいの比率が望ましいのではないかと書いた。半数の専門医に関しては、腕さえ確かなら「専門バカ」であっても構わない。残りの半数の一般医たちが、その「バカ」の部分を補えばよいのだから。
ただしここでいう「医師の半数」というのは、何らかの野心とか動機付けを持った医師の半数ということである。単に専門医を目指す気力もなく、ただ漫然と診療を続けているような医師は考えに入れるべきではない。なぜなら(医学の分野に限らないことと思うが)何らかの野心や動機付けを持った人間の方がよく勉強するからである。よく勉強する医師の半数が一般医(ジェネラリスト)、残りの半数が専門医(スペシャリスト)という比率が本当は望ましい。
これまではよく勉強する医師たちのエネルギーの大半は専門医として認定されることに向けられていたと思う。発展途上国や紛争地でボランティアとして働きたいというような医師は例外だが、日本国内で活動するならば専門医の方が一般医よりも偉い、という思い込みが、医師たち自身だけでなく、患者さんやマスコミなどにもかなり根強いからだ。どうせ努力して勉強するなら、居心地も良くて社会からも偉いと思われる専門医になった方が得ではないか。それに各種専門医を認定する制度はいろいろな学会(例えば内科学会、小児科学会、病理学会など)で整備されているが、優れた一般医を認定する制度はまだ出来ていないどころか、誰がどのように認定すればよいのか名案もなく、その必要性すら論議されていないのが現状ではなかろうか。
続・続・続・generalistとspecialist
近代以降の医療の世界において、いわゆる「何でも屋さん」的な一般医(generalist)というものは存在しえないであろう。国際協力や僻地医療を志す医師たちは、内科全領域の診察から簡単な外科手術や小児科診療程度は一応基本的なトレーニングを受けているだろうが(2004年から日本で始まった新しい研修制度もそういう医師作りを目指しているが、これはまたいずれ別の機会に書くかも知れない)、どんな種類の患者さんに遭遇しても満遍なく60点以上の合格点を取れる処置の出来る医師はいないはずだ。
最も極端な状況を想定すれば、例えば目の前で骨盤位(逆子)の妊婦さんが突然産気づいたというような事態に適切に対処できる医師は、少なくとも日本では産婦人科医以外では皆無に近いし、また乳幼児の痙攣や突然の発熱に適切な処置ができる医師もそれほど多くないだろう。しかしこういう妊婦や乳幼児の緊急事態は以前からやや特殊な領域で、産科や小児科で数年単位の現場経験がなければ訓練が行き届くというものではなく、以前から必ずしもすべての医師に求められる医術ではなかったと思う。
ここで問題にしてきたのは、多くの医師たちが臓器ごとに、例えば循環器とか消化器とか神経とかに専門分化してしまい、さらにそれぞれの臓器の中でもさらに細分化された専門領域にのみ専念せざるを得なくなった結果、昔の医師なら当然熟知していたような他領域の基本的な診療知識や手技を忘れてしまい、自分の狭い専門範囲以外の患者さんに対しては駈け出しの研修医と同じレベルか、それ以下の診察しか出来ない医師が増えてきたということである。なぜ医師がそれほどまでに専門化しなければならないかと言えば、早い話が狭い範囲に限定して知見を深めなければ有力な医学雑誌に掲載して貰えるような論文が書けないからであり、したがって大学や学会で「実力」を認められる機会も少なくなり、教授などに「出世」できないからである。
なぜそんなに論文にこだわるのか。なぜ患者さんの診療に一生懸命に打ち込むだけでは不足なのか。これもまた戦後のアメリカ医学の風潮を反映していると思われる。戦前は主としてドイツを中心としたヨーロッパ医学の導入が盛んだったが、その頃に医学を学んだ古い先生方と話をすると、医学への精進に対しても一種の哲学があった。
「学問とは何か。」
「良い研究とは何か。」
「医師として何を考えるべきか。」
ヨーロッパ医学全盛の時代にはこういう良い意味での哲学があったと思われる。何か研究をして論文を書いても、一年間は机の中に寝かせておいて、その時になってもまだ値打ちのあるのが本当に良い研究だ、というようなことを若手に言って聞かせるような先生もおられたらしい。(私伝・吉田富三 癌細胞はこう語った)
ところが戦後のアメリカ医学の時代になって、医師の処世哲学は非常に浅薄なものになった。とにかく論文の数が勝負だ、人真似でもいい、多少のハッタリがあってもいい、少しでも上位にランキングされている医学雑誌に掲載されるような論文を書いて書いて書きまくれ、というのが医学研究の合い言葉になった。「医師たる前に研究者たれ。(業界用語で言うと、MDたる前にPhDたれ)」と医局員に檄を飛ばした教授もいるとの噂も流れた。(ちなみに言えば、私の知人の重症心不全を見逃したのは、この教授がかつて辣腕を振るった大学病院である。)
どれほど熱心に患者さんを診療しても評価されない。一流と言われる医学雑誌に掲載された論文の数だけが医師の実力を計る基準として使われる。これが戦後のアメリカ医学を導入した医療界の現実である。専門医たちが多くの悪性腫瘍や難病に対する治療法を確立して、悩める患者さんたちを救ったではないか、と反論される方々も多いと思われるが、そういう難しい治療法を研究する動機付けとなったものは、やはりそれが論文のネタになるからだ。だからこういう論文至上主義が一概に悪いことだとは言わない。しかし勉強熱心な医師の多くの部分が論文を書くために次々と専門分化して高度な医療に挑戦していく一方で、ごく基本的な診療能力を磨く努力を忘れた専門医たちが増えていることに、そろそろ警鐘を鳴らさなければならないだろう。
医学部教授やセンター施設長などを目指す野心を持った医師というものは、「白い巨塔」の財前五郎のように権力欲や名誉欲に駆られた人間が多いわけではない。むしろその逆で、親しい身内や友人が病に苦しむ姿を見て何とかしたいと思った、とか、野口英世やシュバイツァーの伝記を読んで感銘を受けた、などという動機で医師を目指したという人の方が多い。だが戦後のアメリカ式医療の中で自分の理想を実現するためには、否応なく”論文製造競争”に加わらざるを得ず、並外れた努力を傾注して、どんどん専門化していってしまう、というのが実情なのである。
例えば内科なら内科の、外科なら外科の、それぞれ全領域をカバーできる診療能力を身につけようとして、同じだけの努力を払ったジェネラリスト(一般医)がいたとしても、ある特定の範囲に関する診療能力や研究能力は、その範囲の専門医には到底太刀打ち出来るはずはないから、ランキングの高い医学雑誌に掲載して貰えるような論文を書くことは出来ない。こうして特に大学病院やセンター病院においては、自然にジェネラリストが淘汰されて、スペシャリストばかりが残っていくという傾向になるわけだ。
大学病院やセンター病院にもジェネラリストを養成すべきだという議論がそのうち始まるかも知れないが、どうせそういう議論を行なう委員会などのメンバーは、すでに専門医として”功成り名を遂げた教授連”が主導することになるだろうから、患者さんにとって役に立つジェネラリストが本当に誕生するかどうかは疑問である。
最後に世間の人々、特にマスコミの方に言っておきたい。僻地医療とか国際貢献を志して、あるいは地域医療を貫徹してジェネラリストの道を選んだ医師を見た場合、この医師はヒューマニズムに富んだ立派な人である、という受け止め方は当然として、診療技能に関しては大病院にいる専門医の方が上であると決めてかかっていないだろうか。そりゃ、ある特定の分野に限って言えば専門医の方が世界一の腕前かも知れない。しかし診療技能というものは、海のものとも山のものとも知れぬ一人の患者さんを前にした瞬間から始まる総合能力なのであって、例えばこの患者さんは別の医師に紹介した方がいいな、とか、この薬を処方したら危ないかも知れないな、というような勘が働く一般医の技能を決してバカにしてはいけない。何か健康上の不安があった場合、もしかしたら大病院へ行くよりも、普段からよく勉強している開業医や個人病院、中小規模の市中病院の医師の方が適切な診断をしてくれるかも知れないのだ。
ここまで書いてきてふと思ったのだが、大学病院やセンター病院などでは、病理の医師が最もジェネラリストに近い立場にあると思われる。病理医は内科・外科をはじめ院内のあらゆる診療科から提出される手術や生検の検体を一手に引き受けて検査しているわけだし、いろいろな診療科で不幸な転機をとった患者さんの病理解剖なども手がけている。こういう病理検査や病理解剖を1例1例丁寧に解決しようと努力している病理医は、各診療科の臨床医とも連絡を密に取り合っているから、それぞれの科でどういう疾患がどのように問題になっているか等について、いわゆる耳学問で広い範囲をカバーしているのだ。
もちろん細かい点の知識や技術において臨床医には到底及ぶものではないし、手術も注射も採血も投薬も出来るわけはないが、人間の肉体に起こり得る大概の事について病理医は自分の眼で確認しているのである。だから日常の病理検査や病理解剖に真剣に取り組んでいる病理医ならば、例えば臨床の受持医が手をこまねいて迷っているような症例についても、比較的有効な方向付けの手伝いくらいは出来ると思う。
これまで病理医は検査室の作業ばかりで、病院の外来や病室には姿を現さない医師ということになっていたが、これからは積極的に患者さんに接する機会を増やしていくべきではなかろうか。
「こういう症状が出て○○科にずっとかかっているんですが、なかなか改善しないんです。」
「外科でこういう手術を勧められたんですが、どんなものでしょう。」
「この治療法ではどのくらい効果を期待できるんでしょうか。」
こういった患者さんの質問に対して、診療科間の壁を越えて解答を考えることが出来るのは病理医の他にはいないと思われるし、また臨床医の陥りやすい盲点もまた熱心な病理医は気付いているものである。「病理外来」などと大袈裟なことを言わないまでも、患者さんと病理医が直接に接することの出来る窓口を常時開設することを、大学病院やセンター病院は考慮してみたらどうだろうか。
最後は我田引水のようになってしまったが、現代の医療におけるスペシャリストとジェネラリストの問題について考える材料になれば望外の喜びである。
人はなぜ親に似るか?
この問題は古くから人類が抱く大きな疑問の一つだったが、今ではちょっと理科の好きな小中学生なら簡単に答えてくれるだろう。人間は人間の遺伝子を持っているから、親が人間なら子供も人間で、子供は父親と母親の遺伝子を半分ずつ受け継ぐから、子供が親に似るのは当然である、と。
遺伝子はDNA(デオキシリボ核酸)という物質で、生物の基本的な設計図として細胞の核内に存在し、その必要な部分がRNA(リボ核酸)という物質にコピーされて細胞の核から細胞質(核外)に伝えられ、そこで元の設計図の情報をもとにしてアミノ酸の配列が決定されてタンパク質という生命の基本物質が合成される。子供は親と同じタンパク質を作る設計図を父母から半分ずつ受け継ぐため、必然的に親に似てくるのだと、現在では大半の人がスラスラと答えられるに違いない。
しかし「親に似る」と言っても、例えば親子で顔つきや体型が似る傾向にあることは昔からよく知られているが、この現象を説明することは意外に困難である。また親子でなくても、テレビ番組で「そっくりさん」のコーナーなどを見れば判るように、親子や親戚でなくても有名人や芸能人にそっくりな顔つきの人がいたり、あるいはまったくの赤の他人であるのに、街角で肉親や友人や昔の恋人によく似た人を見かけてドキッとした経験をお持ちの方は多いだろう。これを世間では「他人の空似」というが、遺伝的には「肉親や友人や昔の恋人と同じ遺伝子が発現している人」と定義できる。歴史を数百年ないし千数百年前まで遡れば、まったくの赤の他人でない人はかなり大勢いるはずで、遥か昔の共通祖先から同じ目鼻立ちの遺伝子を受け継いでいる人を偶然見かける確率は思ったほど少なくないはずだ。ではどうして同じ遺伝子が発現すると、顔つきや体型が似てくるのだろうか。
顔つきや体型が似てくるのは何故か?私はかつて国際線の飛行機で退屈な時間を持て余している時に考えてみたことがある。現在の医学は遺伝子の時代であると言っても、この問題はまだ熱い論点にはなっておらず、最新の研究のpriority(優先権)に抵触することはないので、勝手に思いついたまでのアイデアをここに書いておく。(学者の世界ではこういうpriorityの問題が案外うるさいのである。もし誰かが同じアイデアをすでにどこかに発表していたら、以下の文章も一部改変もしくは削除いたします。)
最新医学の記事などで「がん遺伝子」とか「がん抑制遺伝子」などという言葉を御存知の方は多いはずだ。これらの遺伝子も人体の設計図の中に組み込まれており、その異常によってさまざまな悪性腫瘍が発生することはよく知られている。またこれらの遺伝子の発現を正常に戻すことによって悪性腫瘍の治療に役立てる研究も急速に進んでいる。
ではなぜ人間は生物進化の過程で「がん遺伝子」などという「厄介な遺伝子」を背負いこんでしまったのだろうか。どうせなら「がん抑制遺伝子」の方だけを備えていて欲しかったとは誰でも考えることだ。医師の私でさえ、初めて「がん遺伝子」の論文を読んだ時には、これは人体の自爆装置だろうかと考えたほどだ。(軍艦などには艦内に海水を注水するキングストン弁という装置があって、損傷を受けて回復不能と判断された時にはこの弁を開いて自沈するのである。またビルなども老朽化した時に取り壊しの手間を省くため、最初から爆薬が仕掛けてあることも有名な話だ。)
ところがよく考えてみれば判るように、「がん遺伝子」というのは細胞を増殖させる作用を持ったタンパク質の設計図となる遺伝子であって、例えばaという「がん遺伝子」(一般的にいろいろな遺伝子は数文字のアルファベットや数字を並べて命名されている)が規定しているAというタンパク質分子が作り出されることによって、ある種の細胞に増殖指令が伝わるのである。年をとってからこのAが不必要にたくさん産生されると、異常な細胞増殖が起こってがんになるのであるが、これが胎児の時期とすると話はまったく逆になる。胎児期は細胞を増殖させて人間の体を形成していく重要な時期であり、この時期に細胞が増殖しなければ大変なことになる。この時に「がん遺伝子」aが細胞増殖指令を持ったタンパク質分子Aを作らなければ、胎児は成長できないのだ。
ただし悪性腫瘍になった時には「がん遺伝子」aは無秩序にタンパク質分子Aを乱造しているのに対し、胎児期には秩序正しく、然るべき時期に、然るべき場所で、然るべき量だけAが産生されているはずである。私が国際線旅客機の中でワインを飲みながら考えていたのは、この秩序がどのようにして保たれているかということだった。
「がん遺伝子」が細胞を増殖させる指令を発するのに対して、「がん抑制遺伝子」の方は細胞増殖を止める指令を出しているだろう。つまり「がん抑制遺伝子」bが規定するタンパク質分子Bは、aやAと拮抗する、いわばアクセルとブレーキの関係として胎児の成長を調節しているに違いない。
ここで話を判りやすくするために、手塚治虫さんの作品「火の鳥 黎明編」の猿田彦に登場して貰おう。
手塚さんはご自分の鼻にコンプレックスがあったためか、「鉄腕アトム」のお茶の水博士をはじめ巨大な鼻の持ち主が登場人物中にかなり目立つが、この猿田彦もまた御覧のように大きな鼻を持っている。猿田彦はヤマタイ国の勇士で、手塚さん自身の解説によると、「火の鳥
未来編」の猿田博士までの一連の雄大な叙事詩の中で、彼の代々の子孫が重要な役割を担うことになるのだが、彼の子孫と思われる人物はいずれも大きな鼻の持ち主として描かれている。ではなぜ大きな鼻が代々子孫へと遺伝するのだろうか。
実はここで手塚さんはある重大な誤りを犯している。しかしそのことはあの見事なシリーズの作品価値を多少なりとも損なうものではないが、ただ本当は猿田彦の鼻が大きいのは、女王ヒミコから罰を受けて鼻を蜂に刺されて腫れ上がったためであり、このような後天的な形質が子孫代々に受け継がれることはないはずである。
それはともかく、鼻を大きくする遺伝子noseというものがあったとしよう。(架空の名前を付けたつもりだが、実際にすでに同じ名前の遺伝子があるかも知れない。もし重複していたら私の勉強不足だが、実際のnoseは別に鼻を大きくする遺伝子ではないかも知れない。)このnoseはいかにして胎児の中でいかに調節されるのだろうか。
生物の体は人間も含めてすべて最初はたった1個の受精卵から出発するのである。つまり受精卵の細胞が持っているたった1セットの遺伝子の設計図のみを元に、この複雑な身体が形成されてくるのである。たった1個の受精卵が細胞分裂を繰り返して、1個が2個、2個が4個と着々と増え続け、やがて細胞がぎっしり詰まった桑実胚の状態になる。
このまま細胞分列を繰り返しても、ただ細胞の塊が大きくなるだけなのだが、ある時点で胚子の中のどこか一点に人体の座標の中央が決まる。私はおそらく臍(へそ)の部分だと考えるが、どんな重篤な奇形の子供を見ても、臍(臍帯という母体との連絡路の基部)だけは必ず形成されるし、ここが無ければ胎児として発育を始められないから、やはり臍の位置が最初に決まるのだろう。
臍の位置が決まった胚子は、今度は上下方向に伸び始め、やがてどちら側が頭になるかが決まる。頭を決めるのも、最初の受精卵が持っていた遺伝子の設計図に基づいて何らかの物質が、いずれかの先端側の細胞から放出され、その側を頭と決定し、反対側を頭でないと決定するのである。つまり将来頭となる側では頭へと分化するアクセルが踏まれ、反対側では頭に分化しないようにブレーキが踏まれる結果、必然的に足になると考えられる。このことは臍を中心にして双方に頭がある奇形や、双方とも足になる奇形が報告されていないことからも明らかである。長く伸び始めた胚子のいずれが頭で、いずれが足になるかはかなり偶然の要素が強いかも知れない。
さて臍(腹)と頭と足の位置が三次元的に決まった胚子は胎芽(まだ胎児になりきらない胎児の芽ということで、受精後9週間まではこう呼ばれる)となり、ここから後は然るべき部位に心臓ができ、脳ができ、消化管ができ、etc…と、最初の受精卵が持っていた遺伝子の設計図をもとに次々と自動的に身体が形成されていく。この過程を顕微鏡で眺めることが出来たら、どんなにダイナミックな映像であろうか!
詳しいことは医学部の学生は人体発生学という教科で勉強するのだが、ここでは目鼻立ちのことについて書いているので、架空の遺伝子noseがどのように働くかだけに絞って考えてみよう。猿田彦の子孫の鼻を代々にわたって大きくした遺伝子である。
胎芽の頭の部分でも、目ができ、鼻ができ、口ができ、耳ができて段々人間の顔になってくる。と言っても最初は人間も犬猫も牛馬もみな同じような顔に見えるのだが、この時期にすでに将来の目鼻立ちが決まっていると考えるのが当然だろう。つまり私であれば、犬猫の顔ではなくて人間の顔、それも白人の顔ではなくて黄色人種の顔、しかも映画俳優になれるような美男子ではなくて、父親や周囲の親戚たちに似たあまりパッとしない顔、ということである。
この時期、鼻を決定するnoseはNOSEというタンパク質を作らせて、このタンパク質が胎芽の顔面の真ん中あたりにあった細胞の幾つかを、将来鼻の軟骨などに分化する細胞(プレ鼻細胞とでもいうべき細胞)に変換させる。このプレ鼻細胞の数が多ければ、将来この胎芽は鼻の大きな人間になるだろうし、少なければ鼻は低くなるだろう。
ただプレ鼻細胞が無制限にたくさん出来てしまうと、本当に猿田彦やお茶の水博士のような鼻になってしまうので、プレ鼻細胞の数はある一定の値に収まらなければならない。つまりnose遺伝子がNOSEタンパク質分子を、顔面の中央に何個形成するかということまで厳密に決まっていなければならないのである。
もちろんプレ鼻細胞の増殖を促進するnose遺伝子-NOSEタンパク質に対してブレーキをかけるようなanti-nose遺伝子-ANTI-NOSEタンパク質のような抑制因子もあって、余分にできたNOSEタンパク質の作用を抑えたり、頬や額が鼻にならないようにしてくれているかも知れないが、このanti-nose遺伝子が作るタンパク質分子の数も厳密に規定されていなければならない。
nose遺伝子に限らず、実在の「がん遺伝子」や「がん抑制遺伝子」もまた胎芽の時期においては、その発現する場所や発現する量が厳密に決まっていたはずであるが、これらの増殖遺伝子や増殖抑制遺伝子はどのようにして発現量を調節されていたのだろうか。例えばnose遺伝子が顔面の中央において何個のNOSEタンパク質分子を作らせるか、すなわちプレ鼻細胞誘導分子の部品設計図のコピーを何枚取らせるかについても、すでに最初の受精卵の持つ遺伝子の中に決められていたはずなのだ。だから白人の子供は鼻が高いし、東洋人の子供は鼻が低いのである。nose遺伝子はRNAにコピーされて細胞質に送られ、そこでNOSEタンパク質分子が合成されて細胞外に放出され、周囲にあった未分化な細胞の何個かをプレ鼻細胞へと変換させる。そして胎芽期に形成されたこの細胞が多いほど、将来の鼻は大きくなるのである。
鼻の位置が決まる理由は簡単である。臍と頭と足の位置が決まった胎芽においては、後はドミノ倒しのように人体発生が進行し、一旦分化が決まった部分は、さらに新たな細胞増殖遺因子を合成して隣接する部分の分化を誘導し、自動的かつ必然的に身体のどの部位が何に分化するかが宿命づけられて行くのである。だからお尻に鼻があったり(これではトイレに行くととても臭い)、足の裏に鼻があったり(立っているだけで窒息してしまう)することはない。ただ両眼の発生過程に重篤な障害がある奇形では鼻の位置に異常があることが知られている。
問題はnose遺伝子が何個のNOSEタンパク質分子を合成するかである。我々が事務用の複写機でコピー枚数を指定するように、noseDNAがnoseRNAへのコピーを何個作るか。このいわば分子計数機(molecular counter)自体もまた、最初の受精卵が持っていたDNAの中に組み込まれているはずである。だから先祖代々の鼻が低ければ、子供の鼻が高くなる可能性はきわめて低い。
胎芽の中ではどのような形で分子計数機が働いているのか。一つの可能性としては、生物のDNAの中に見られる不要と思われる無意味な塩基配列の繰り返しが、何らかの形で計数に関わっていること、さらに別の可能性としてはDNA分子自体の物理学的性質によって、例えば遺伝情報の読み出し部分近傍の電荷が少しずつ剥ぎ取られていってRNAへのコピーが自動的に停止するといった仕組みがあること、などが考えられるが、これは将来の若い優秀な研究者たちに解明して貰いたいものである。
ここは病理医の独り言の第1巻です。 第2巻へ進む 病理医の独り言の目次へ
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