あなたの目
私のオフィスの机の前の壁に貼ってある今年のカレンダーは航空自衛隊の飛行機のシリーズです。私が軍艦だとか戦闘機などを好きなことを知っている方から頂いたものですが、2008年4月の写真を見ていてふと考えました。
この写真の情景の中で飛行機は何機飛んでいるでしょうか?
機体が重なり合っていて数えにくいのですが、皆さんは判りましたか?
この飛行機は富士重工が製作した航空自衛隊のT7という初等練習機で、静浜基地所属(静岡県志太郡大井川町)と説明がありますから、写真の奥の海岸線は、私が浜松勤務だった頃にしょっちゅう車や新幹線で行き来した駿河湾あたりではないかと思います。
ところで写真の情景の中の飛行機の数ですが、正解は5機以上ですね。
エエッ?そんなバカな…!いくら機体が重なり合っていたって、垂直尾翼を数えれば4機しかいないじゃないかと思った方、じゃあ、この写真はいったい誰が撮ったんでしょうか?
確かにこの写真の画面に写っている飛行機の数は4機ですが、まずこの写真を撮影したカメラマン(瀬尾央氏)が乗っている飛行機が必ずもう1機いるはずです。カメラマンはたぶんその飛行機の後部座席に座って、左側から後ろを振り返るようにしてシャッターを押したと思われます。
またこのカメラマンの飛行機の右側にも別の飛行機がいたかも知れません。だからこの写真の情景の中では飛行機は5機以上いることになるのです。
この飛行機の写真自体は単なる軽いお遊びですが、こういうカメラマンの目線で見た情景を、あたかも自分の目で見たかのように錯覚してしまう経験はよくあります。例えばTVのドキュメンタリー番組などで、何かイベント企画の経緯を追ったり、警察や学校や医療の現場に密着取材したりする時に、メンバーやスタッフが互いに激論を戦わせているような場面が挿入される、
「それは違うんじゃないの?」
「そんなこと言ったって、現実問題としてやれないじゃない!」
画面に登場してくる人々は何か真剣に議論しているようですが、我々はそういう番組を視聴している時に、ついその議論の場面は現実にあった光景だと錯覚しがちです。しかし実際にはその場面を撮影しているカメラマンがいるわけですね。私は俳優でも役者でもない普通の人たちが、カメラが回っている中でよくあそこまで真に迫った演技ができるものだと感心して見ています。
我々は本当に自分の主張を通そうとして真剣に相手と意見をぶつけ合う場合、カメラで撮影されていることを意識したら何も出来ないはずです。だからドキュメンタリー番組などの激論シーンは、番組制作者から依頼された関係者が、当時を思い出しながら演技で再現しているだけではないかと思います。
昔のTVドラマなどでは、一家4〜5人の家族団らんシーンで四角い炬燵の3辺にだけ人が集まって、残りの1辺がガラ空きのことがよくありました。あれはガラ空きの方向からカメラが回っているのが明らかで、見ていて実に滑稽だったのですが、これがドキュメンタリーなどシビアな題材の番組になると我々視聴者はついカメラマンの目線であることを忘れがちになります。
ましてこれが政府機関や大きな国際機関が何かを意図して制作した番組だったりした場合、我々はそれが誰のどういう目線で伝達された情報なのかを常に意識していなければいけません。他の“誰かさん”が見た物を、あなた自身の目でもう一度見直す心構えが大切です。
助けた亀に…
最近の子供たちはどうだか知らないが、私たちが子供の頃は子供向けのゲームソフトなど無かったから、「桃太郎」とか「金太郎」とか「うさぎとかめ」とかいろんな童話の絵本を読んだものだ。またそれぞれのお話を歌にした童謡もあって、今でも童話の筋書きと一緒に耳の奥に残っている。
先日、ある商店街を歩いていたら、その中の1曲「浦島太郎」の童謡が流れていて、それがいきなり突拍子もない発想に結びついたので、今回はその話題。
浦島太郎と言えば、漁師の浦島太郎が浜辺で子供たちにいじめられていた亀を助けたところ、お礼に連れて行って貰った竜宮城でしばらく楽しく遊び暮らしたが、故郷恋しさに帰ってみれば元の世界ではすでに何十年もの歳月が過ぎてしまっていたという話である。
アインシュタインより先に時間の流れの相対性を予見していた童話であり、2つの世界で別々の時間が流れることによって生じる現象を物理学者も“ウラシマ効果”などと呼んでいたようにも思うが、今回の話はそういう物理学とは関係ない。
童謡の歌詞も完全に忘れてしまったかと思っていたが、商店街に流れていたのを聞いて古い記憶の底から鮮明によみがえってきた。
むかしむかし浦島は 助けたカメに連れられて
竜宮城へ来てみれば 絵にも描けない美しさ
乙姫様のご馳走や タイやヒラメの舞い踊り
ただ珍しく面白く 月日の経つのも夢のうち
遊びに飽きて気が付いて お暇乞いもそこそこに
帰る途中の楽しみは 土産に貰った玉手箱
帰ってみればこはいかに もといた家も村も無く
道に行きあう人々は 顔も知らない者ばかり
心細さにふた取れば 開けて悔しき玉手箱
中からパッと白煙 たちまち太郎はお爺さん
最初の一節を「ボカシボカシ裏ビデオ」と歌う嘉門達夫さんの替え唄など思い出すと可笑しいし、二節目も「乙姫様のご馳走は タイやヒラメの活け造り」などとふざけた記憶もあるが、今回の話題の主役は亀である。
この亀はどういうつもりなんだろうか?浜辺で悪ガキどもにいじめられているところを浦島太郎に助けて貰った。そのお礼のつもりで太郎を竜宮城に案内したことになっているが、太郎はそのお陰でひどい目に会った。ほんの数日あるいは数ヶ月の快楽の日々と引き換えに全人生を棒に振らされてしまったのである。こういうのを“お礼”と言うんだろうか?
乙姫様が太郎に恋したので、亀に命じて地上から連れて来させたという解釈もあったようだが、それではまるでどこかの国による拉致事件と変わりない。亀自身は地上世界と竜宮城では別の時間が流れていることを知っていたのだろうか。知っていて太郎を竜宮に案内したのなら、亀はきわめて無責任、故意の犯罪行為の可能性さえある。
世の中には商売の便宜を図って助けて貰ったお礼にゴルフや料亭に接待して、却って相手の○○省次官ばかりか○○省自体の信用までを失墜させた輩もいたが、あれは接待された方もさらに悪い。しかし浦島には美人の乙姫様と懇ろになろうなどというスケベな下心があったわけではないから、あの亀がもし時間の流れの相対性を知っていたとすれば本当にひどい奴であるが、亀だって悪ガキにいじめられて困っていたのだろうから、助けて貰った恩返しの気持ちには嘘や偽りはなかったと信じたい。
最近のウイルスソフトはインストールして貰った“お礼”にいろいろパソコン内部をいじくり回す。やらなくてもいいことまで勝手にやって、「高リスクのプログラム変更を拒否しました」などと得意そうなメッセージを表示してくる。しかもユーザーの知らないうちに自動更新によって余計なお節介が増えて、今まで動いていた導入済みの既存ソフトがある日突然動かなくなったり、ファイアウォールをいじられてLANにつながらなくなったりする。余計なことをするなよと怒りたくなるが、こういうのも“ウラシマ効果”とか“ウラシマの亀効果”とか呼びたい心境である。
井戸端
東京のある裏町の路地を歩いていて懐かしいものを発見した。若い人たちはこれが何の写真か判るだろうか。地下水を汲み上げる井戸の手押しポンプである。右側のちょっと曲がったアームを上下させると、地面を垂直に掘り抜いた穴に通したシリンダーの中をピストンも上下する。そして地面の下の水脈からピストンで汲み上げられた地下水が左側の水口から勢いよく流れ出るのだ。
最近では上水道も完備したので、衛生的に多少問題のある井戸は都会ではほとんどお目に掛からなくなってしまったが、私たちの世代が子供の頃は東京でも1軒から数軒に1本くらいの割で井戸が掘られていて、このような手押しポンプが取り付けられていたものだ。ちなみに私の実家にも1本あったが、その後埋められてしまった。
この写真の井戸は泉岳寺の近くの住宅地の中にあったものだが、数軒の住宅の真ん中にあり、共同で利用するのであろう。もちろん現代の東京で、こんな井戸が生活に必須というはずはなかろうが、上水道の完備していなかった昔は、家々の主婦たちは炊事や洗濯をするにも井戸水は欠かすことができず、亭主や子供たちを送り出した後は、こういう井戸端に集まってワイワイガヤガヤお喋りをしながら家事をしていたようである。それが転じて、女たちが集まって他愛もないお喋りに興じることを「井戸端会議」というようになったが、最近では完全な死語でこそないが、その元の意味は完全に忘れられている。
ところでこの井戸の手押しポンプであるが、主婦たちの井戸端会議の場所以外にも、子供たちにとっても理科の絶好の教材であった。水道は地表の浅いところを通っているので、冬は冷たく夏は生温かい水しか出ないが、ある程度深い地中にある井戸の地下水は1年中水温が一定しているので、夏は冷たく、冬は暖かく感じられるものだと教わったし、確かに電気冷蔵庫も普及していなかった頃の夏場には、井戸端に大きなスイカが冷やしてあったものだ。こうして私たちは地表の温度と地下の温度に差があることを実感として学ぶことができた。
また水道の蛇口をひねれば水が出てくる最近の子供たちではこうは行かないが(そもそも近頃では手をかざすだけで水が出る流しもある)、井戸の手押しポンプは流体の関連するメカニズムを実感として体験する教材でもあった。
手押しポンプのアームを持ち上げると、シリンダーの中をピストンが下降していくが、この時ピストンに付いている弁が開いて地下水はピストンの上に溜まる。ここでアームを下げるとピストンが上昇してくるが、今度は弁が閉じるのでピストンの上に溜まった地下水は下へ流れ落ちることなく地表まで持ち上げられてくる仕組みなのだ。
私たちは理科の実験で手押しポンプのアームを上下させながら、ピストンに取り付けてある弁が開閉する様子を実に鮮やかに思い描くことが出来たが、この体験は後に高校の生物の時間や、医学部の解剖学の時間に心臓の弁の開閉を理解する上で大いに役立った。と言うより理解する努力などまったく必要なかった。血液という流体がこう流れるから心臓が収縮する時はこっちの弁が開いてあっちの弁は閉じる、当たり前じゃないかという感じだった。
ところが昨年・今年と学生たちに心臓の中の血液の流れ方を講義してみると、かなりの者がいちいち理屈を付けながら心臓の弁の開閉の理解に手間取っているように見える様子に、ヘエッと驚いてしまった。
確かに小中学校の理科の時間でも弁の開閉などは教えているに違いないのだが、それが実際の生活の中にあった私たちの世代と、教科書や市販の教材の中でしか学べなかった若い世代の違いなのだろうか。世の中が便利になるのも良し悪しだなと思った。
私が法律を学んだワケ
私がこのサイトに時々憲法論など書いているが、医学生が大学教養課程で選択した法学の講義だけにしてはずいぶん詳しいですねと感心して下さる方がいるので、タネ明かしをしておこう。実は1988年頃だったと思うが、司法試験などを目指す学生さんたちがよく受講していて評判が良いという法律学校の講義を受けたのである。東京リーガルマインド(LEC)というが、もちろんすでに病理の医師としてそれなりに責任を負う立場であったから、通学はかなわず、通信講座による受講だった。
「あんたなんか弁護士に向かないわよ」というカミさんの罵詈雑言(?)を聞き流しながら、毎月毎月送られてくる講義のカセットテープと板書(黒板に書かれた内容)のコピーを元に、土曜の夜から日曜にかけて法律の勉強に励んだものである。
いきなり司法試験に合格して司法修習生なんかになったら、医師の同僚たちは皆びっくりするだろうなという悪戯心はあったが、もちろん司法試験がそんなに甘いはずがない。それよりはむしろ法律学校の教師の物の教え方に興味があった。私も看護学校や助産学校の非常勤講師で年に何コマか講義をすることがあり、教師というのは意外に難しいなと思っていたので、何か手本になる授業を受けてみたいという気持ちがあったのである。
私自身が医学生時代に受けた講義で今でも最もよく内容を覚えているのは、泌尿器科の小川助教授の講義だった。尿管結石から膀胱癌まで尿の通り道に生じるあらゆる疾患を全般にわたって系統立てて、すべての範囲をお一人で講義して下さった。医学部の講義はほとんどどの科目もいろんな先生が入れ替わり立ち代り自分の得意な内容を講義するのが常である(オムニバス講義)。これだと確かに各分野の最先端に近い内容の講義にはなるのだが、教員の話し方や内容の深さや、場合によっては学生に対する熱意までが違うので、聴講する学生としては科目全体の知識にムラができてしまう。
だから私が医学部で教わった講義内容の大半は国家試験終了と同時に雲散霧消して忘れてしまったが、泌尿器科の内容だけは今でも頭にこびりついている。小川助教授の講義はプリントを使わず、すべて黒板に物凄いスピードで絵と文字を書き並べていき、黒板がいっぱいになるとすぐに消して次を書き始めてしまうから、おちおち居眠りなどしているヒマは無かった。
小川先生なりの一定のペースを保って、自分の手で内容のノートを取らされたのが結局はよかったのだろう。頭の中にきちんと並べられた泌尿器科の知識だけは30年以上経った現在でも比較的元のままの状態で残っており、ハイテク教育機器全盛の時代にあっても、あの講義方法はいまだに色あせていないと思う。もちろん私は今の自分の学科の学生さんたちに対しても、最低限のプリントしか使わず、右肩の痛みに耐えてひたすら板書で押し通している。
ただ問題は講義の話し方、間の取り方、板書の量やタイミングなどで、これについては誰か講義の上手な講師の授業を見てみたいものだと思ったが、何しろその時はすでに自分も病理の医師、仕事を放り出して学校の教室へ出向くことなど許されない。
そこで通信教育を選んだのだが、どうせなら自分の専門分野に近い医学・医療関係よりも、自分とは全然関係の無い分野の講義の方が面白かろうと思い立った。特に法律家は言葉で相手を説き伏せる商売でもあり、法律学校の講義はそういう意味でも参考になる。
東京リーガルマインドの講師陣の中でも、特に学生受けの良さそうだった伊藤講師のコースを選んで受講を始めたが、まあ、面白いこと、面白いこと…!話の間の取り方なども、きっと法廷ではこんなふうにするんだろうなと思わせることが多かったし、黒板の板書も医学部時代は単語だけ書き並べられることが多かったが、東京リーガルマインドでは重要な知識については文章として完結した内容が書かれていて、これは大変参考になった。
そんなわけで憲法総論、民法総論と1年近く受講したわけだが(本当はそんなにやる必要もなかったんだけれど、つい面白くて聴いてしまった)、刑法の総論に入った頃、ついに大学病院の病理部の専属医(大学病院の病理診断全体の総括責任者)に任じられてしまい、楽しかった法律の勉強は断念せざるを得なかった。もしあの時、病理部の専属医になっていなければ、今頃は弁護士になっていたかも…(←そんな簡単に行くわけないだろっ!)
以上が、私がたまに大学教養課程の法学よりも少しだけ詳しい憲法論など書く理由です。
二足の草鞋
前回、私が法律を学んだ理由を書いていて思い出したことが一つある。私は確かに法律家の講義方法に興味を持っていたことは事実だが、もちろん(チャンスの確率は低いが)うまく行けば司法試験を受験してやろうという野心はあった。しかし我が国においては、こういういろいろな事に積極的にチャレンジしようという考え方をする人間に対して冷淡、または反感を抱く人間もまた多い。
もう時効だから言うが、数年ほど前のことだったか、私が参加しているメーリング・リスト(電子メールを通じて互いに発言しあう社交グループのようなもの)で、ある医師の方が、実は今ある資格に挑戦しているんだというような発言をされたところ、別の医師の方が自分は医師として腕を磨くことにすべてを賭けているから違う分野の資格などは念頭にないと、かなり皮肉っぽく応じられたことがあった。つまりすでに医師という“神聖な”資格を持っていながら、別の道に興味を示すとは何事かという意図だったのだろう。
20年ほど前に法律の道にも興味を持った私としては、この件の決着はどうなるのだろうかと興味津々で眺めていたのだが、結局、別の資格に挑戦するはずだった医師の方は、あまりに居丈高な皮肉に萎縮してしまったのか、その後新たな資格に挑戦したという話は聞かない。
私はここに日本人の行動力の限界を感じる。医師としての人生を選んだ以上、医学の道を一筋に進むべきだという言い分は正しい。確かに誰も反論できないだろう。
しかし寝る時と、飯を食う時と、ウ○コする時以外のすべての時間を医学の研鑽に捧げている医師はどれくらいいるのか?土曜も日祭日も朝から晩まで片時も患者さんの傍らを離れず、あるいは医学の文献を手放さない医師はどれくらいいるのか?医師としての日常の勤務を誠意をもってこなしても、1日平均2時間や3時間の自由時間は作れる。むしろ最近ではその自由時間さえ作れなくなったからこそ、産科医や小児科医の職場離れが起きているのではないか?
そういう自由時間をひねり出して幾つもの他の事へのチャレンジに費やすことが出来るか出来ないかは、その人その人の資質次第であって、それを出来ない人間が出来る人間を批判する資格はないし、また出来る人間が出来ない人間から何か言われても気にすることはない。そう言えばかつて私も医師のくせに毎週のようにウェブサイトを更新してヒマだね〜と皮肉を言われたことがあったが、気にしなかった。
どうも日本人というのは医師に限らず、もっともらしい理屈をつけては多芸な人間の足を引っ張り合う習性があるようだ。欧米ではどうなのか。先日別のコーナーで紹介したオーストリア人と日本人の間に生まれた女子大生の方などは、大学の膨大な課題をこなしながら仕事と趣味で世界中を駆け回り、現在ある文献のファイル起こしに大変な労力をかけていたりして、そのバイタリティには舌を巻くばかりであるし、またしばらく前に世界的な女子マラソン走者だったドイツのピッピヒ選手や、米国の大リーグから移籍して日本の広島カープにしばらくいたホプキンス選手などは医学部の学生だったはずで、今頃は医師として活躍していることだろう。
多芸=バイタリティではないが、幾つもの才能を持つ人間を自由に振舞わせる寛容を示す欧米諸国と、他の道に興味を示した人間を一片の原則論で萎縮させる雰囲気に満ちた日本との差はかなり大きいのではなかろうか。
(この記事の更新翌日、さっそく例の女子大生の方から“狭量な日本社会”に対して共通の感想を持っているというメールを貰った。)
マスクもせずに咳するな
今年もまた暑くなって猛暑の予感。毎年この時期になると気になるのが、電車やバスや公共の場所でゲホゲホ・クシュンクシュンやっているオジサンやオバサン、お兄さんやお姉さんたちである。ああ、この人たちは昨夜エアコンつけっ放しで寝たに違いないと思って眺めている。
確かに日本の夏は最近異常に暑い夜が多く、エアコンなしにぐっすり睡眠を取ることは不可能になってしまったが、エアコンの使い過ぎは身体の体温調節機能を低下させるから、設定温度を高めにするとか、タイマーで深夜には切れるようにしておくとか、もう少し自分の体を大切にするようにお勧めしておく。昔、日本のプロ野球で国鉄スワローズを皮切りに前人未到の400勝の勝ち星を挙げた金田正一投手は、どんなに暑い夏の夜でも自分の左腕を守るために、扇風機もかけずに寝たという。(当時はエアコンはなかったし、今ほど夜も暑くなかったが、それでも25度を越す夜は幾夜かはあったのではないか。)
それはともかく、自分の健康管理不徹底のために咽喉や鼻粘膜を痛めておいて、マスクも着用せずに公衆の面前でゲホゲホ・クシュンクシュンやって、唾液や鼻汁の飛沫をばら撒くとはいかなる了見か。これが夏場の“クーラー病”だからまだよいが、もし新型インフルエンザなどだったらどうするのか。これらは感染力の強さからいって到底防ぎきれるものでないことは事実だが、満員電車の中に無神経な感染者が何人か紛れ込んだだけで、その感染拡散速度は一気に何倍にもなるという試算があったと思う。
感染の蔓延を1日か2日遅らせるだけで、その間にワクチン接種が間に合う可能性のある人が何百人か何千人かいるかも知れないことを考えれば、クシャミや咳や鼻水の出る人はなるべく表を出歩かない、出歩く時はなるべく他人と密に接触しない経路を選ぶ、それも無理な時はせめてマスクを着用するというのが、現代社会に生きるエチケットというべきだろう。
インフルエンザの流行時にマスクもせずに咳を撒き散らす人間は、戦争で言えば城門を内側から開けて敵に内通する裏切り者も同然である。ちなみに言えば、健康な人間がマスクをしてもその予防効果は微々たるものであって、咳やクシャミをしている人間の鼻先や口元の濃厚な飛沫をブロックしてこそ初めて意味があるのである。
そろそろ新型インフルエンザの脅威も間近に予測される現在、咳やクシャミのエチケットをもう一度考えて頂きたい。先日、電車の中で外国帰りらしいスーツケースを持った人がゲホゲホ、ゲホゲホ立て続けに咳き込んでいるのを見かけて、思わず注意したばかりである。
二科展落選しました
今年(2008年)も7月後半からは暑い日が続きます。しかも今年は秋葉原や八王子で、「ムシャクシャして誰でもよかった」というあまりにも身勝手な理由で無差別に人を殺す通り魔事件が相次ぎ、将来の夢を持った若い学生さんたちも凶刃の犠牲になったとのことで、例年よりも不快感が募ります。秋葉原で殺された1人は、私のカミさんのコンサートにも何度か足を運んで下さった芸大の学生さんであり、もしかしたら将来カミさんのプロモートなどしてくれたかも知れないと思うと無念ですし、八王子で殺された方も歴史に興味を持つ優秀な学生さんだったそうです。
法律を学んだ人間として、公判も始まらないうちからこんなことを言うのも不謹慎ですが、こういう通り魔事件を起こした身勝手な人間を厳罰にできない法律なら、無い方がマシです。罪を犯した人間にも何らかの事情があったのだろうと斟酌してやる必要性があるのは、あくまでも小説『高瀬舟』のような場合だけなのであって、自分のムシャクシャした気分を晴らすために手当たり次第に人を殺したような人間に再起更正のチャンスを与えるなど言語道断も甚だしい!何の落ち度もなく突然殺された被害者には、もはや永遠にチャンスが無くなってしまったのですから…。
まあ、死刑制度にはいろいろな考え方もあるでしょうが、とにかく世の中が殺伐としています。さすがの私も、もうこの国はダメなのかと思ってしまいそうです。
そんな時は私の失敗作品でも見て気分転換にして下さい。私も一応写真を趣味にしていることは前にも書きましたが、今回ちょっと自分の作品がどの程度の評価を受けるのか知りたくて、二科展(けっこうスゴイ展覧会らしい)のデジカメ部門に応募してみました。結果は「選外」でしたが、落選作品の展示も一服の清涼剤にはなるでしょうし、こういう世の中ではそのくらいの気持ちの余裕が必要ということで…。
応募作品は次の2点で、いずれも都内石神井公園での撮影です。
タイトルは『階下の隣人』。三宝寺池には大きな鯉に混じってカルガモがたくさん泳いでいました。たまたま池の住人同士が仲良く並んだところを橋の上から撮影しました。
タイトルは『輪形陣』。輪形陣とはA.マハンという海軍戦略家が考案した陣形で、主力艦の周囲を護衛艦がグルリと取り巻いて守ることです。写真は子育て中のカルガモ一家で、ヒナたちは親鳥の周囲に集まったかと思うとパッと散っていく、そんなことを何度も繰り返して何かを練習しているらしいのですが、これほどきれいに円陣になることは滅多にありませんでした。
今年の二科展は2008年9月3日〜15日、東京六本木の国立新美術館で開かれます。どうか入選作品と比較して忌憚のないご批評を頂ければ、今後の励みにもなりますので、よろしくお願いいたします。
九州大学医学部事件
先日、九州大学医学部を訪れた折、ふと思い出したことがあった。現在の私の学科の第1期生に対する最初の講義ではインフォームド・コンセントがテーマになっていて、第二次世界大戦中の凄惨な人体実験への反省が基盤になっているという話をしたが、この時の講義については、このサイトでもインフォームド・コンセントの原点としてまとめておいた。3年生になった彼らに、これまで何の講義を覚えているかと訊ねると、ナチスの人体実験の話が印象に残っていますと答えてくれる者も多く、それなりの成果はあったようだ。
しかしナチスだとか中国大陸の731部隊の人体実験の話はあまりに凄惨すぎて強烈な印象にも残る代わりに、却って自分がそういう状況に巻き込まれる事態までは想定しにくくなってしまう。それで私があの時もう一つ話したのが、ここ九州大学で起こった事件のことだった。世に言う九州大学医学部事件である。
太平洋戦争末期の昭和20年5月、九州上空で撃墜されたB29爆撃機の搭乗員たちが捕虜になり、九州大学で生体解剖されるという事件が起こった。九大医学部事件である。民間人の頭上にも無差別爆撃を行なった極悪非道の捕虜どもだから殺ってしまえ、という凶暴な気持ちもあったとは思うが、生体解剖(生体実験)に乗り気だった教授以外、大多数の関係者たちはやはりこれはまずい事なのではないかと、気が進まなかったという。しかし当時の「鬼畜米英」の世相、および教授を中心とした封建的な医学部の機構の中で、誰一人として表立った反対を唱える事もできないまま、心ならずも捕虜たちに対する救命の意図のない実験的手術=生体実験を手伝わされる羽目になってしまった。
戦後、そういうスタッフの1人だったある助教授は次のような意味のことを述懐している。どんなことでも自分さえしっかりしていれば防ぐことができる、九州大学では皆がしっかりしていなかったために生体実験などという非人道的な事件が起こってしまった、と。そして関係者たちは一様に悔悟と反省と自責に押し潰されながら戦後の日々を送られたようである。
上の写真は九州大学医学部構内の宮入通り、捕虜たちが解剖された解剖実習室はこの通りの奥の方にあったらしい。「宮入通り」の名称の由来は、日本住吸血虫の中間宿主の貝を特定してその感染経路を明らかにした宮入慶之助博士である(その貝はミヤイリガイと呼ばれるようになった)。また芝生の中央の木はヒポクラテスの故郷コス島から持ち帰ったスズカケの実から育った樹木のうちの一株だそうで、ヒポクラテスはその木の下で医学を説いたと言われる。
こういう医学の栄光を物語る幾つかのモニュメントの中にあって、少なくとも外来者の私の目には九州大学医学部事件を偲ぶ物は何も見当たらず(どこかに供養塔くらいはあるのかも知れないが)、事件は確実に風化するに違いないと思われた。
こう書くと九大関係者の方々は不愉快に思われるかも知れないし、お前の所だって同じような事をやってるだろう、という罵声も飛んでくるかも知れない。しかしこれは誰がやったとか、どこの施設がやったという問題ではなく(要するに個人や施設の名誉に関わる問題ではなく)、医学・医療に関わる人間が常にキモに銘じていなければならない教訓を含んだ事件なのである。
B29爆撃機が東京に墜落すれば東大医学部が同じことをやっただろうし、関西に堕ちれば阪大医学部か京大医学部がやっただろう。何しろ当時は戦争という異常事態、しかも戦時中であれ一般市民に向けて無差別に爆弾を落とす行為は明らかに戦時国際法に違反しており、パイロットは正式な軍事裁判に基づいて処刑されても当然だった。
また敗戦間際の日本国内は物資も乏しく、余分な捕虜に食わせる食糧だって惜しかった時代だ。軍の関係者から申し出があり、時の医局の頂点に立つ教授も乗り気になって生体解剖をやると言い出した時、誰が自分ならこれに絶対に反対したと自信を持って断言できるのか?
終戦後、この事件の裁判で証言に立った薬理学第一人者の林春雄博士は、人体実験は許されないと言いつつも、もし自分がその場にいたらこれを拒絶できた自信はないと述べたそうである。私も同じだ。どうしても自分の良心が許さない“実験的医療”をやれと指示された時、相手が職場の上司であれば職を賭して拒絶することも出来るかも知れないが、仮に命令者が国家権力の要人であり、逆らえば生命や生活の安全も保証されないような事態になった場合、私はそれでも自分は絶対に人体実験に手を染めませんと言い切る自信はない。
考えてみれば、そういうのっぴきならない事態に遭遇する人間は非常に稀であり、もしそうなったらよほどの不運と諦めて何らかのアクションを起こさなければならないが、後世の人々の批判に十分耐えられるだけのアクションを起こせるかどうかは、日頃からそういう稀有な不運に巻き込まれることまでを想定して、常に気持ちを鍛錬していたかどうかにかかってくる。
こういうことは医療関係者に限らず、どの職業にも言えるのではないか。戦国時代の武士は主君のために生命を捧げるのが職業倫理だった。織田信長の嫡男信忠のある家臣が本能寺の変に際して明智軍との一戦に及ぼうとした時、庭の古井戸が目に止まってつい生命が惜しくなった。日頃から主君の為に生命を捧げると心に決めていたはずだが、どう魔がさしたか古井戸に隠れて助かろうとしたばかりに、明智の雑兵に発見されて井戸の底で不名誉な戦死を遂げてしまったと、吉川英治が「新書・太閤記」の中に書き記している。
武将にとっては武士道が職業倫理、医療関係者にとってはヒューマニズムが職業倫理、何事も無い平穏な時代においては、そんなの当たり前だと思っているが、いざその職業倫理を賭けたアクションが求められる不運な事態に陥った時、恥ずかしくない行動を取れる人はおそらくそう多くはあるまい。
そういう事を反省し続けるための機会として、先人の犯した過ちを風化させない努力は常に必要である。思えば人体実験も含むナチスの戦争犯罪に関しては、ドイツ政府もドイツ国民も厳然と対処してきたが、日本人はいつの間にか731部隊のことも語ろうとしなくなっている。臭い物には蓋、という我が国の国民性が、いつかまた悪夢を繰り返すことになりはしないかと心配だ。
医者の不養生part2
もう5年ほど前、このページに医者の不養生と題して、私がいかにして成人病予備軍から足を洗ったかという話を書いたが、その後やはり年齢とともに、予備軍どころかいよいよ成人病正規軍から召集令状が来るという事態に立ち至ってしまった。あの後も現在(2008年)まで、毎日40分以上歩いて職場から帰宅し、間食は止めるという“健康的”な生活を続けているつもりではあったが、身体の老化はそんなささやかな努力なんか押し潰してしまうものなのだろうか。
私の家は遺伝的に高血圧の家系であり、私もまた若い頃から血圧が高めであったが、規則的な運動と食事への配慮で、しばらくは平穏を保っていた。しかしここ2〜3年、健康診断のたびに血圧が下がらなくなり、気にはなっていたのだが、子孫もいないことだし、もし倒れたらその時はその時と覚悟を決めていたところ、最近になって私の大学の学科の学生さんたちが一人前になるまでは見届けてあげたいという気持ちも強くなり、また私のサイトを見つけてメールを下さるようになったウィーン育ちの女子大生の方から120歳まで生きることをメールで約束させられてしまったこともあり(笑)、内科の外来にかかることにした。
受診してみると、やはり私の血圧は運動や食事だけではどうにもならないところまで来てしまっており、ついに薬物療法を始めることになったが、何よりショックだったのは、この機会に久し振りに体重を計ったところ、何と半年前より5kgも減ってしまっているではないか!
普通の成人男性諸君なら体重が減って慶賀の至りということになるのだが、特に生活習慣の変化もなかったのに半年で5kgの体重減少といえば、医者ならすぐにピンとくるものがある。悪性腫瘍である。しかも受診時に計測した空腹時血糖値の値がやや悪くなっていて、もしかして膵臓癌?という不安と疑念が頭をかすめた。ここ数年来、この病気で高校のクラスメートや大学の後輩を相次いで失っており、とうとう自分の番が来たかという感じだった。
内科の先生に相談してMRI検査(核磁気共鳴画像法)をお願いしたが、自分の勤務する大学病院なのに1ヶ月以上先まで予約が満杯状態だという。どうしますかと聞かれたが、もし膵臓癌ですでに体重が減少するまで進行していれば、1ヶ月や2ヶ月急いだところであまり関係ない。むしろ自分が癌であることを知らない時期が少しでも長い方が良いと思い、そのまま予約して頂いた。
やっと8月末にMRI検査、9月の第2週に内科外来で結果を聞いたわけだが、その数週間の間の不安感や焦燥感は尋常ではなく、私も少しだけ患者さんの気持ちが判った。私はこれまで病理の医師として患者さんの生検や手術の標本を診断してきたわけだが、それらの一つ一つに患者さんたちの同じような気持ちがあること、自分に健康上の悩みが無いうちはなかなか意識できないものである。
検査の予約を待っている1ヶ月の間も体重はどんどん減り続けた。羨ましいと思う人もいるかも知れないが、私は体重計に乗るのが怖かった。これはもう癌で間違いなかろうと覚悟を決めた。
カミさんには余計な心配をかけないように、事実がすべて明らかになってから打ち明けようと思っていたが、職場の同僚の人たちとか、大学の学生さんたちには、いつ自分がどうなってもいいように、それとなく伝えることだけは伝えておこうと努めた。一期一会とはこういうことかと納得もした。
そして外来受診の日、検査結果は陰性でホッと胸を撫で下ろした。本当は大学の放射線科の教授が小学校から大学までの同級生だから、もっと早くMRIの結果を聞くことも出来たのだが、やはり怖かった。病理医をやっていると、何でこんなに進行するまで癌を放置したんだろうと思うほど手遅れになった症例に接することもあるが、あの患者さんたちの気持ちも判らないことはない。
幸いにして私は今回は膵臓癌でなかったが、何でこんなに急激に体重が減ったのか、まだ完全に明らかになったわけではない。健康的な生活で基礎代謝量も増えて身体が多少若返っているところへ、今年の夏の暑さが加わって体重が減少したんだろうけれども、大学の学生さんたちや、ウィーン育ちの女子大生の方の存在が、私に自分の身体を振り返る機会を与えてくれたような気がして、とても感謝している。血圧ももっと気をつけてみようかな。
本当はカミさんが一番心配しているはずなんだけれど、夫婦というものは不思議なもので、長年一緒にいると、お互いに相手が元気なのは当たり前みたいに思ってしまって、相手のために健康でいなければという気持ちに油断が出てしまう。そういう意味で今回は若い人たちに本当にありがとうと言いたい。
1センチの人生
よく地球の歴史が1年に換算されることがある。地球ができて以来46億年の歴史を1年365日に圧縮すると、人類の歴史などはわずかな時間でしかないという比喩に用いるためで、いわゆる“地球カレンダー”と呼ばれている。
それによると、まだガス状だった太陽系の中に原始地球が誕生したのを1月1日とすると、月が地球から分離したのが1月12日、陸と海が分かれたのが2月9日、生命の源である蛋白質や核酸ができたのが2月17日、原始生命が発生したのが2月25日と、この辺までは順調なのだが、現在の生物の原型である核を持った細胞が誕生したのはもう1年も半ばを過ぎた7月10日、その細胞が寄り集まった多細胞生物が誕生したのは秋の気配の9月27日、骨格を持つ動物が現れたのは秋も深まる11月14日、魚類の出現は11月20日、恐竜の出現は12月13日、鳥類の出現は12月19日、クリスマスも終わった12月26日の午後8時17分に隕石の衝突で恐竜絶滅、もう1年も終わってしまうよ、人類は一体どうなってるのと思うと、それ以後哺乳類の繁栄が進み、大晦日の12月31日の午前中にやっとヒトへの進化が始まり、紅白歌合戦のトリの歌手が歌っている午後11時37分にホモ・サピエンス誕生、除夜の鐘が秒読み段階になった午後11時59分46秒に西暦0年、午後11時59分58秒、1年のあと2秒を残して産業革命と共に現代の機械文明が幕を開けたということになる。その最後の0.1秒で人類滅亡ということにもなりかねないが…。
地球の歴史を1年365日という時間に圧縮するのも面白いが、私はよく東海道新幹線で帰京する時など、車内のヒマな時間を潰すために大阪−東京間の約550キロを地球の歴史に換算して、ああ今は生命誕生、恐竜誕生などと計算している。これだと静岡−浜松間の掛川あたりで細胞を持った生物が発生することになり、ちょうど列車の旅も退屈してきた頃からいろいろ想像力を巡らす材料にすることが出来る。すると西暦0年、キリスト教の始まりは東京駅ホーム停車位置から30センチもなく、日本人の平均寿命83歳(男女の中間値)は大体1センチということになる。
新大阪から2時間半かけて猛スピードで突っ走って来て、たった1センチしかない人生である。その間に何をなすべきなのか、ふと考えてしまう。必死に地位を駆け登るか、守銭奴と化して財産を貯めるか。どうせ何をアクセク頑張ってみても、もしあの世とやらで自分の人生を巻き戻して再生してみれば、長い地球の歴史、生命の歴史の中ではわずか一瞬にも満たない時間である。
確か「アイスボール理論」という言葉を聞いた記憶がある。相手と何か交渉する場合、この交渉に勝ったとしても、結局長〜〜い目で見れば地球も冷え切った氷の塊になってしまう、何億年もの歳月で考えれば、どっちみち目先の交渉など小さな物でしかないから、負けて元々という気持ちで当たって砕けろという、何ともバカバカしい理論だった。
そういうネガティブ思考も仕方ないとは思うけれど、たかだか1センチの人生をもうちょっとポジティブに捉えるならば、自分の1センチは次に続く1センチの人生のための何か礎(いしずえ)にならないか。自分の人生の目先の損得ばかり考えて生きていたら、たぶん死ぬ瞬間に物凄い虚しさを感じそうな気がする。
思えば戦後の日本人は、戦時中の極端な愛国心に対する反発から、自分のことだけを先ず大事に考えることに慣れきってしまった。自分が偉くなって人の上に立つこと、自分が儲けて金銭に不自由しないこと、そればかりを金科玉条のごとく追求してきた。たった1センチの人生の中で…。
次の誰かの1センチの人生のために生きることの尊さを忘れた国民。もしかしたら日本人だけでないかも知れない。世界的に株価がガタガタになって、世界経済がいつ崩壊してもおかしくないような状況を呈してきた。私は経済はよく判らないが、株とは人間の欲望を表わしていると見事に喝破した本を読んだことがある。確かに株とは自分(出資者)が儲けようとして買うものであり、その欲望と欲望がせめぎ合って株価が決まる。世界全体が自分の人生1センチの中でしか物を考えようとしなくなっている、それがたぶん次の世界的破局をもたらすことになるのだろう。
ラジオ講座の先生方
勝浦捨造先生とか、ジェームス・ハリス先生とか言ってすぐにピンと来る人は、私のご同輩、かなりのオールドタイマーとお見受けする。私が高校生だった頃、ラジオの文化放送で深夜11時台に放送されていた『大学受験ラジオ講座』の名物講師だった先生方である。受験参考書の老舗の旺文社提供の番組で、これを聴いていた人は私の世代にはけっこう多いのではないか。
テーマ曲がブラームスの『大学祝典序曲』というのも何か面白く、私は今でもこの曲のサワリの部分を聴くと、旺文社のラジオ講座を思い出してしまう。最近ではラジオ講座の話題を聞かなくなったと思ってネットを調べたら、1994年度をもって放送が打ち切られたとのこと、やはりちょっと寂しい。
私がラジオ講座を聴いていたのは現役の高校3年生の頃、他のクラスの友人たちのほとんどが大学受験の準備モードに突入しており、クラブ活動にばかり精を出していた私も、さすがに進学校の生徒という立場上、やはり何かやらなくちゃいけないような気がして、仕方なく聴いていたのであった。
そもそも私が高校3年に進級したのは、まだ東京商船大学に未練を残していた時期であり、ヒマさえあれば校庭の鉄棒で懸垂運動の練習をしたり、視力が少しは良くならないかとボケーッと空を見ていたりしていたものである。
医学部進学を決めたのは高校3年の10月のことで、「俺、医学部受ける」と言った時、クラスメートたちは唖然として憐れみの眼差しすら浮かべていたし、教師は教師で父兄面談に来た私の親に「お宅の息子さんが寄付金なしに入れる医学部なんか1つもありませんよ」と宣告する始末、船乗りの夢を諦めきれずにいた少年に対し、浮世の風は冷たかった。『大学祝典序曲』を聴くと、将来への漠然とした不安を感じていたあの頃の重苦しい気持ちが蘇ってくる。
(余談だが、この文章の下書きを書いた翌日、アマチュア・オーケストラに所属している学生さんから貰った定期演奏会のチケットのプログラムに『大学祝典序曲』が入っており、ちょっとした偶然に驚いてしまった。)
さてそのラジオ講座であるが、“灰色の受験生時代”の中で楽しい思い出に残っている先生方も少なくなかった。(本当は別にそれほど灰色でもなかったが…。)私が特によく覚えているのは、英語のジェームス・B・ハリス先生と数学の勝浦捨造先生のお二人である。
ハリス先生はラジオ講座の一つ前の時間帯に放送されていた『百万人の英語』にも講師として話しておられ、運が良い時には続けざまに2つの番組でハリス先生の講義を聴けたこともあったような気がする。独特の鼻にかかった声でユーモアを交えて話す英語の講義は絶品だった。
私はハリス先生は日本語の上手なアメリカ人だとばかりずっと思っていたが、もう20年ばかり前のこと(1986年)、この先生が『ぼくは日本兵だった』という本を旺文社から出版されたので、飛び上がらんばかりに驚いてしまった。この本によると、先生のお父さんはロンドンタイムズ極東特派員のイギリス人、お母さんが日本人で、先生の日本名は平柳秀夫、太平洋戦争勃発によって敵性国人として収容所に入れられ、釈放後は徴兵されて北支戦線に送られたという。
ラジオ講座のハリス先生しか知らなかった私には信じられないような話だったが、そんな過酷な体験をしながらも、戦後の日本の大学受験生のために、あんなにユーモアとウィットに溢れた講義をしてくれたのである。ラジオの電波を通じてしか知らない先生であったが、その先生の半生を思ったら思わず涙が出た。大袈裟な表現でなく、人間の素晴らしさを教えてくれた先生だった。
勝浦捨造先生の担当は数学だったが、はっきり言って私は数学は苦手だった。受験数学に本腰を入れて取り組んだのは予備校の時だったから、ラジオ講座での勝浦先生の講義はそれほど記憶に残っていない。覚えているのは、1年間のうち2回ほどだけだったが、講座終了直前に蛮声を張り上げて旧制第3高等学校の寮歌を歌われたことである。ラジオでの語り口もテキスト巻頭に掲載されている顔写真も風変わりな先生だったが、ラジオの録音スタジオのマイクの前で寮歌を歌うのはかなり照れて恥ずかしいのではなかろうか。私でさえ躊躇する。
この先生は旧制3高の出身だったのだろうか。ネットで調べても経歴が今ひとつはっきりしないが、たぶんそうだったのだろう、電波に乗せて歌ったのは最初が『琵琶湖周航の歌』、次が3高寮歌『紅萌ゆる丘の花』であった。
『紅萌ゆる』の時、先生は少しだけ歌詞を解説された。
「希望は高く溢れつつ 我等が胸に湧き返る、という所を歌いますとね、涙が滂沱と溢れてくるんですよ。」
そう言って先生はそのフレーズだけは2度繰り返して歌われた。
一)紅萌ゆる丘の花 早緑匂う岸の色
都の花に嘯けば 月こそかかれ吉田山
二)緑の夏の芝露に 残れる星を仰ぐ時
希望は高く溢れつつ 我等が胸に湧き返る
先生は私たち受験生に対して、希望を持つことの素晴らしさを教えてくれているんだなと、その時は単純に思っていたのだが、最近になって、もしかしたらもっと別の想いがあったんじゃないかと考えるようになった。あるいは私の思い過ごしかも知れないが…。
私も勝浦先生がマイクの前で蛮声を張り上げて3高寮歌を歌われた頃の年齢に達した。そしてそれは高校時代の素晴らしさ、大学の学生時代に希望を描くことの素晴らしさについて、若い人たちに伝えるべき年代でもある。私もまた精神的に非常に恵まれた青春時代を送ってきたが、それを若い人たちに語る時、涙滂沱というのはあまりに大袈裟だ。むしろ笑顔で語る内容である。
確かに3高寮歌を歌う勝浦先生の声が次第に感極まって震えてくるのが、ラジオの電波を通じてよくわかった。あの時、勝浦先生の脳裏にあったのはもっと別のものではなかったかと、今にして思う。おそらく勝浦先生は旧制高校を体験された世代、共に寮歌を歌って自由と自治を謳歌した仲間や先輩・後輩がいたであろう。そしてその中の何人もの方々が学徒として出陣し、再び帰って来なかったのではなかろうか。
大正デモクラシーの最後の残り火が今にも消えんとする時、自由主義の洗礼を受けた身でありながら、その自由が軍靴に踏みにじられていくのを阻止できなかった、そしてそのために多くの仲間を戦場に失うことになってしまった、その悔恨が勝浦先生の心にずっと尾を引いておられたのではないか。
もちろんこれは私の単なる憶測に過ぎないが、私は現代の10歳代20歳代の若い世代の方々がこういう運命をたどるのではないかと危惧している。自由とは単に謳歌しているだけでは非常に脆いものだ。他人から与えられた自由を貪るだけ貪りながら、他人の幸福を考えず、自分だけ我儘放題に振舞っていては、いつか何もかも取り上げられて苦い後悔を味わうことになるに違いない。
大正デモクラシー末期の人々は、先人たちから与えられた自由に耽り、退廃的なムードに沈溺することさえあったようだ。そして次第に台頭してきた国家主義に蝕まれていく自由を守るために声を上げた者はわずかしかいなかった。
かつての旧制高校の寮歌は3高の『紅萌ゆる丘の花』や1高の『ああ玉杯に花受けて』を初めとして、自由と自治を高らかに謳い上げた歌詞も多かった。青春時代の真っ只中、そういう寮歌を放歌高吟して自由と自治の護り手たらんと誓った若者たちも、結局は国家主義に対抗する術を持ち得ず、吹き荒れる軍国の嵐から目を背け、黙認し、ある者は迎合しさえしたのである。
そのことに対する悔恨と、失ったものへの愛惜の想いが、勝浦先生の涙にダブって感じられた。
昔のラジオ講座をふと思い出したら、いろいろなことを考えてしまった。勝浦先生もハリス先生もすでに亡くなられたという。ご冥福をお祈りします。
私の本棚
私の自宅の書斎兼居間みたいな部屋の本棚です。専門の医学書などは大学の部屋に置いてありますし、中学や高校の夏休みの宿題に出るような文学関連の本は入りきらなくて寝室のベッドの棚みたいな場所に保管してあるので、ここにあるのは私の趣味関係の本が主です。
正面上の2段がちょっと法律を勉強しようと思っていた頃の資料や教科書、真ん中の青い背表紙に赤や黄色の帯の付いた本の並ぶあたりが戦記関係、その下が新書版の本、その下が艦船関係の雑誌、手前の棚にはそれ以外の本を入れてありますが、本当はそれほど厳密に整理して保管してあるわけでもありません。
しかし本というものは読んでいる時は面白いのですが、読み終わると膨大な紙の束になって、保管する場所に苦労するようになります。昔、北杜夫さんが何かの本に書いておられたことですが、北さんは若い頃によく引っ越しをしたらしいので、本を手元に置いておくとかさばって運ぶのが大変だ、それで読んだ本は片っ端から古本屋に売ってしまったが、大人になってからそのことを後悔している、もう一度読もうと思えば新しい本を買うことも出来るけれども、やはり自分の手垢の付いた本が懐かしい。
本好きの人ならば北さんのこの気持ち、よく分かりますよね。実はこの件に関して、私は幼い頃にまったく突拍子もないことを考えた記憶があるのです。幼稚園から小学校低学年の頃だったと思いますが、やはり本は一度読み終わると場所を取るばかりの紙の束になってしまうのがもったいない、何かもっと良い工夫がないものか…。
5歳や6歳の頃ですから、どうせ絵本とか童話とかそんな本しか読んでいませんでしたが、やはり幼稚園の頃に読んだ絵本などが置く場所に困って、“クズ屋さん”に出されてしまう、それを見ているうちに、それでは本があまりにも可哀そうだと思ったんですね。昔は“クズ屋さん”という職業があって、各家庭で不要になった品物を買い取りに回っていました。今でいうリサイクルです。昭和30年代の日本にあったこういう合理性が、平成の時代になってもう一度見直されているのは頼もしいことです。クズ屋さんはリヤカーを曳き、「クズ〜イ、オハライ〜」と独特の抑揚のある呼び声を上げながら回って来て、古本や古雑誌なども紙の重量で買い取ってくれていました。
それで話を元に戻しますが、幼い私は考えました。本もどうせ古紙になってしまうのなら、最初から製本して販売せずに、内容だけを中央の図書館みたいな施設に保存しておいて、読みたい人にはテレビみたいな装置で各家庭に配信してくれたらいいのに…。
どうです、これって凄いアイディアでしょ?当時はテレビジョンがやっと普及し始めた頃で、もちろんコンピューターやインターネットなどあるはずもない。子供の頭脳というものはまったく不思議なものです。テレビという装置を見ているうちに、出版形態の未来図を予測してしまうのですから。
おそらく近い将来、紙を媒体とした書籍や雑誌は一切姿を消すかも知れません。病院のカルテでさえ紙を使わない電子カルテが普及してきているのです。しかし自分の読んだものは自分の手元に整理しておきたいという人も多いと思いますが、そういう読者のためにはDVDなどの電子媒体が取って代わり、やはり紙の媒体ではなくなるでしょう。昔の年頃の男の子にとって密かなスリルを味わう楽しみだった“エロ本”も、今では“エロDVD”になってるようです。
私の記憶力
前回、私の本棚について書きましたが、お前はこれだけの本の内容が全部頭に入っているのかと、よくいろんな人から尋ねられることがあります。人間の大脳はコンピュータではないので、まさかあれだけ多数の本の内容が全部頭に入っているわけではありませんが(笑)、私の場合、何かの事につけて、そう言えばこれと同じことがあの本に書いてあった、あの著者の本ではこれとは逆のことを言ってたっけ、などと思い出すことは多いです。
私の記憶の構造がやや特殊であることに気が付いたのは、大学を出てしばらく経った頃でした。皆でカラオケショップへ行くと、何年も昔に流行した山口百恵さんの歌など、歌詞カードを見ずにフルコーラス歌えてしまう。
「お前、よく歌詞を見ずに歌えるな。」
「エッ、お前は歌えないの?」
「当たり前だろ。」
ということだったのです。山口百恵さんに限らず、子供の頃から現在までの間に気に入った歌については、今でも8割くらいは歌詞を思い出すことが出来ます。確かに千昌夫さんの『北国の春』や五木ひろしさんの『よこはま・たそがれ』みたいに単語だけ羅列したような歌詞は難しいですが、それでも東宝の怪獣映画『モスラ』でインファント島の小妖精が「モスラ〜ヤ、モスラ〜」と歌うワケの判らない歌詞は最後まで全部覚えてますから、人間の記憶の構造は不思議なものです。
また私は高校時代にブラスバンドをやっていましたが、あの何の意味も無いドラムの譜面は今でも暗譜してますし、例えば中学3年の定期演奏会には何の曲目をどういう順番で演奏したということも数年前までは覚えていました。
こういう記憶力の特徴は人によって異なるようで、私は円周率は小数点以下4桁までしか覚えきれませんし、列車の時刻表など覚える気にもなりません。私のカミさんはコンサートのたびにあの膨大なバイオリン協奏曲の譜面を全部暗誦して演奏しており(1晩に3曲演奏したこともある)、これは私のカラオケの歌詞と同じなのですが、カミさんの場合、演奏会が終わるとこれを完全にリセットできてしまうところが不思議です。演奏会が終わってから、カミさんが弾いた協奏曲の気に入った旋律などを私が何気なく歌っていると、「よく覚えてるわね」と驚いているので、こっちが驚いてしまう…。
私の記憶は一つ一つの要素を組み立てていくのではなく、全体の繋がりの中に要素をはめ込んでいくタイプのようです。大人になってからも御自分の小学校の校歌の歌詞を覚えていらっしゃる人は、私と同じタイプの記憶構造だと思います。校歌に限らず、歌詞には一定の意味の流れがありますから、その意味の流れの中に単語を当てはめて覚えていれば、その記憶は保持されやすいのです。
難しい言葉で言えば心理学の一派であるゲシュタルト心理学の立場に近いと思いますが、最近日本の若い人たちを見ていて気の毒になるのは、一つ一つの学習事項を無理やり頭に詰め込まれるムチャクチャな受験勉強のせいで、流れの中で記憶を増やしていく能力を抑制されてしまった人があまりに多いことです。初等教育に携わる方々は猛烈に反省して貰わなければいけない。さもないと日本はせっかくの人材の芽を摘んで、諸外国に太刀打ちできなくなるでしょう。
一つの流れの中で物事を記憶していくと、例えば他人との関係の中でも、あの時あの人はこういう表情や口調でこう言った、それに対して私はこういう気持ちでこう言った、などということが一連の繋がりとして頭に残ります。これはけっこう辛いことです。相手の非と共に自分の非もかなり客観的に意識されますから…。
私は最近まで、対人関係に関する記憶だけは誰もが同じだとばかり思っていました。だから相手の非ばかり責めるくせに、自分に都合の悪いことは全然覚えていない人を見ると、それは忘れてしまったのではなく、忘れたフリをしてるだけだと思って最初はずいぶん腹も立ちました(政治家にはそういう人も多い)。しかし人間というものは自分に都合の悪いことは本当に忘れてしまうのだということを知ってからは、万物の霊長などといって偉そうに振舞っている人間の虚しさ、惨めさを痛感しています。
善人なおもて往生をとぐ
「善人なおもて往生をとぐ いわんや悪人をや」
親鸞上人の教えを説いた歎異抄のこの言葉ほど謎に満ちたものはありません。高校時代、日本史の教科書にこの言葉が書いてありましたが、私はしばらく教科書の誤植だと思っていました。
善人でさえ極楽往生が出来るのだから、悪人が出来ないはずはない、という意味ですから、まったくの逆説も甚だしいわけですね。善人よりも悪人の方が極楽往生しやすいのなら、泥棒でも殺人でも何でもやって悪人になってやれ、と考える人がいて当然でしょう。
これだけ逆説的な言葉ですから、昔からいろいろ議論の的になったようで、現在でもいくつかの一般向けの書籍やサイトに解釈が見られますが、一番多いのは“他力本願”の思想に基づくものです。他力本願というと、最近では何でも他人任せの無責任という意味になりがちですが、親鸞が説いた他力本願は、人が悟りを開くのもすべて阿弥陀仏のお陰なのであって、決して自力で悟りを開けるなどと思ってはいけないということのようです。しかし自力で善根を積んで悟りを開けると思っている人が“善人”、そういう善根を積めない人が“悪人”、自分では善根を積めないことが判っているからこそ“悪人”は却って阿弥陀仏に帰依する心が強くなれる、ということですから、決して殺人だとか強盗・強姦の類の罪を犯して極楽往生しようなどと思わないで下さいね。
ところで他力本願の思想を解説されても、何となくピンと来ないのがこの親鸞の言葉です。私もあの日本史の教科書がミスプリントではないことが判明して以来、ずっとこの親鸞の言葉が頭の片隅に引っ掛かっていました。
1度この言葉が判ったような気がしたのは大学生時代、イギリスのグレアム・グリーン(Graham
Greene)という人の“Across the Bridge”という小説を読んだ時でした。今では内容もあらすじもほとんど忘れてしまったのですが、アメリカとメキシコの国境の橋の近くの町で、何かの事情でアメリカに帰れない神父だったか何だったかが主人公でした。聖職者であるにもかかわらず酒浸りの生活で(女や博打はどうだったか忘れた)、彼を口をきわめて非難する人は多いのですが、物語を読んでいくと、そういう正義漢ぶった人々よりも主人公の破戒神父の方がずっと人間的なんですね。私は読み終わって、あの親鸞の言葉が心に蘇ってきました。
「善人なおもて往生をとぐ」
あの善人とは何だったのか?いまだに答えは出ていませんが、今の私なりに、また現代なりに解釈するとすれば、善人とは“自分が善人だと思っている人”ということかも知れません。自分は良い人間であって、他人様に迷惑を掛けていない正しい人間、優れた活動を行なっている価値ある人間だという自信を持っているために、こういう人たちは自分と違う種類の人たちの後ろ指をさすんですね。
「あの人はあんな非常識な事をするんだ」
「あの人みたいな事をしちゃダメだよ」
「あの人はちょっと変だよね」
「みっともなくて世間体が悪いよね」
「あの人たちは私みたいに立派に行動しないんだよ」
こういう物の言い方で他人を咎めたり非難したりする、そういう人は誰でも何人か思い当たるでしょうし、自分自身の中にもそういう心はあるでしょう。それが善人です。
そしてこういう言葉で誹謗中傷される人間、それが悪人ということになります。これだって誰でも何かしら他人から言われた覚えはあるんではないでしょうか。自分では一生懸命やっているつもりが他人から理解されないどころか、まるで恥ずかしい人間であるかのように言われてしまう。身に覚えがあるでしょう。
つまり私なりに解釈した親鸞上人の言葉によれば、人は誰でも“善人”であり、“悪人”でもある。ところが“悪人”になりたくないために、今度は一生懸命に他人のアラ探しをして、一生懸命に他人の後ろ指をさして、何とか“善人”になって安心しようとする。自分は正しい価値ある人間の仲間だと思っていられる方が気分も良いですからね。
そういう人は悪いことをしようとしないから絶対に極楽往生できます。でも他人の後ろ指をさすこともなく、悪く言われるだけの人間の方が極楽往生できるというんですから、そんなに血眼になって他人のアラ探しをせず、お互いの価値観を認め合う、それが殺伐とした現代社会に親鸞上人の教えを生かす道ではないかと思います。
走れトロイカ
以前、卒業式などで歌われる蛍の光はスコットランドの原語の歌詞では別れの歌ではなく、再会の歌であると書いたが、外国の歌が日本語の歌詞で歌われる場合、似たようなことはよくある。中でも私にとって最も印象が深いのは今では有名なロシア民謡「トロイカ」である。
1961年(昭和36年)に放送開始されたNHK「みんなのうた」の番組でかなり初期に収録されており、小学4年生だった私も鮮明に覚えている。会津若松市にあった親戚の家のテレビからも流れていた覚えがあるから、放送期間はおそらく夏休み前後であったろう。まだカラーテレビなど夢物語だった頃のテレビの画面に、雪の林の中を馬の牽くソリが走る映像をバックに流れてくるメロディーは、それまで学校の音楽の時間に習ったどんな歌とも違う新鮮な響きを持っていた。
歌詞は今では皆さんご存知のとおり。
1)雪の白樺並木 夕陽が映える
走れトロイカ朗らかに 鈴の音高く
2)響け若人の歌 高鳴れバイヤン
走れトロイカ軽やかに 粉雪蹴って
3)黒い瞳が待つよ あの森越せば
走れトロイカ今宵は楽しい宴
この歌詞は第二次大戦後、シベリアに抑留された日本兵捕虜たちが現地で覚えて祖国に持ち帰ったメロディーにつけられて、その後も現在まで長く愛唱されるに至ったものだが、小学生だった私には短調の物悲しい旋律で歌われる明るい内容の歌詞が何となく不思議だった。
それはご存知の方も多いだろうが、実はこの「トロイカ」の歌のロシア語の歌詞は、黒い瞳の娘との楽しい宴どころではない。ソリを走らせる馭者の青年の恋した娘は金につられて地主の元へ嫁に行ってしまうという嘆きの歌なのである。まさに熱海の海岸の貫一・お宮の物語、「金色夜叉」のロシア・バージョンという感じだが、この正統派の歌詞で日本に紹介されたら、とても現在のように愛唱される歌にはなっていなかっただろう。悲惨なシベリア抑留の歴史における唯一の収穫と言ってもよい「トロイカ」など何曲かの美しいロシア民謡が我が国に定着したのは、この誤訳の効用と言えるかも知れない。
ロシアの曲としては、昭和40年代に沖雅美さんが歌ってヒットさせた「ポーリュシカ・ポーレ」という歌もあったが、これも日本語の歌詞は原語とは全然違う。「トロイカ」はまだ馬の牽くソリという共通項があるが、「ポーリュシカ・ポーレ」はそれすらない。しかし元の歌詞の片鱗が少しでも残っていたら、日本人は絶対にあの歌を歌わなかったに違いない。
日本で流行した時の歌詞は、資料が手元にないのだが、最初の歌い出しが、
緑萌える草原を越えて 僕は行きたいあなたの花咲く窓辺へと
で始まり、
雲流れるロシアの大地に 二人の愛は芽生えて明日へと続くのさ
とか、
夏の嵐 冬の木枯らしを くぐり抜けたらあなたの笑顔が待っている
とか、
忘れな草胸に抱きしめて 別れを惜しんだあなた優しく抱きしめたい
などという言葉が続く甘い恋の歌だった。
ポーリュシカ・ポーレ それは愛の言葉
二人だけの誓いさ 永久に忘れはしない
というフレーズもあったように思うが、大学のロシア語クラスの友人から、ポーレは草原という意味だよと教えられて、よくよく調べてみると、確かに元の歌はクニッペルという作曲家がグーゼフという人の詩に曲をつけた歌で、内戦時代の赤軍騎兵隊の活躍を讃えたものだという。「私たちの草原よ」などと訳すのが正しいようで、第二次世界大戦のナチスドイツとの戦いの中で、さらに爆発的にヒットしたらしい。
これも今は資料が手元に見当たらないのだが、その当時の歌詞として、
我らの爆撃機は雷鳴のように雲を切り裂き
とか、
我らの戦車は草原を疾駆し、潜水艦は海底を突き進む
などという荒々しくも勇ましい歌詞を見たように記憶している。資料が見つかったらまたご紹介するが、こんな歌詞を聞かされたら、中立条約を一方的に破られて千島・樺太を占領された恨みを忘れない日本国民が黙っていたはずはない。
ロシア語の歌詞だけでなく、「トロイカ」と同じ頃にやはりNHK「みんなのうた」で放送されていた「線路は続くよどこまでも」も、英語の歌詞とは少し違っている。まだ東海道新幹線も完成していなかった頃、当時東京−大阪間を6時間40分で結んでいた日本初の特急電車こだま号の映像をバックに歌われていたが、このメロディーも新鮮な響きだった。訳詩は佐木敏さんという人。
1)線路は続くよどこまでも 野を越え山越え谷越えて
はるかな街まで僕たちの 楽しい旅の夢つないでる
2)線路は歌うよいつまでも 列車の響きを追いかけて
リズムにあわせて僕たちも 楽しい旅のうた歌おうよ
これは元の歌は、線路は線路でも、線路工夫たちの歌である。私は高校時代の音楽部の男声合唱で英語の原詩を歌ったことがあるが、普段は日本語の訳詩しか知らなかった歌を原詩で歌う楽しさに惹かれてしまった。その後もいろいろ原語の歌詞を覚え、あまり英語の勉強にはならなかったが、ミュージカルの「サウンド・オブ・ミュージック」とか「魅惑の宵」なども、今でも一人で道を歩きながら英語で口ずさんでいる。
学校で外国語を習った人ならば、外国の歌は一度はその国の歌詞で歌ってみることをお勧めするが、では日本の歌も外国語に訳されて歌われる時は、ずいぶん変な意味になっているんだろうか。
御巣鷹山日航機事故で亡くなった坂本九さんの大ヒット曲だった「上を向いて歩こう」はアメリカでは「スキヤキ・ソング」としてヒットしたが、その英語の訳詩は、桜の花の下でもう一度芸者ガールとスキヤキ食べたい、というようなとんでもないものだったらしい。
また日清戦争の黄海海戦で清国海軍の戦艦定遠を撃破した時のエピソードを歌った「勇敢なる水兵」も、現在の中国では抗日娘子軍の歌に訳されているというし、韓国では軍艦マーチも抗日の歌として歌われていると聞いた。
しかし音楽というものは言葉の壁を越えて人の心に響くから、そこに言葉を当てはめようとするといろいろ可笑しいことにもなるが、やはりカミさんの仕事など見ていると、通訳など介さずとも外国人の相手とも理解しあえるのが羨ましい。私のような職種は、最低限英語を使えなければ外国の同業者と接することすら出来ないのだから…。
ああ、お酒…
中川昭一財務・金融担当大臣(当時)にはお気の毒なことである。2009年2月14日にローマで開かれた先進7ヶ国財務相・中央銀行総裁会議(G7)後の記者会見で、ろれつも回らない状態で醜態を晒したとして、辞任に追い込まれたからである。
記者会見の映像も何度もテレビで放映されたが、どうみても酩酊状態としか言いようのない有様で、弁明のしようはあるまい。本人や側近は風邪薬の飲み過ぎと釈明している。確かに抗ヒスタミン剤などの風邪薬を飲むと、私などもどうしようもない眠気に襲われるし、小児科医時代は興奮気味の患者さんを落ち着かせるために、強い鎮静剤の代わりに抗ヒスタミン剤を使ったものだ。
しかし事態がこうなってしまった後から伝えられる中川大臣(元)の行状は、到底風邪薬の飲み過ぎと言われて、ハイ、そうですかと信じられるようなものではなかった。G7の昼食会を抜け出して、ホテルで同行の女性記者らとワインを飲んでいたという。せっかくバレンタイン・デーにイタリアに来ているんだし、男としてその気持ちは判らないでもないが、ほんの口をつけただけでゴックンはしていないなどという白々しい言い訳を誰が信じるものか。
さらに帰国直前にはバチカン市国の美術館を訪れ、立ち入り禁止の柵内に入って館内の非常ベルが鳴ったという。常量より多めの風邪薬を服用しなければいけないほどの“患者さん”がそんなことをするわけがない。
今回はたまたま中川大臣(元)がテレビカメラの前で醜態を晒してくれたお陰で、いろいろな事が明るみに出たが、酒に強い政治家の海外行脚なども、どれも似たり寄ったりではなかろうかという疑惑も湧いてきた。どうせ女性記者らを接待したワイン昼食会の費用も国庫から経費で落とすんだろう。我々が懸命に働いて国家に収めた税金が、こんな形で政治家や取り巻きの人々の胃袋にゴックンされているんじゃたまったもんじゃない。女の子の前でイイカッコしたかったら、自分で汗水垂らした金でやれよ(怒)。
←単なる酔っ払い
それはともかく、中川大臣(元)に限らず、特に若い頃は酒の失敗は誰にでもあることである。しかし40歳50歳を越えた分別のある大人で、しかも一国の大臣ともあろう責任ある立場に置かれた人間が酒で失敗するのは、どう考えても愚かなことである。
若い人たちにはぜひ御忠告申し上げたい。せいぜい30歳になるまでに、自分のベストの体調の時に、どのくらい酒を飲んだらどういう“症状”が出るかをきちんと把握しておくこと。酒を飲んだ時の症状は人によってさまざまである。私のように眠くなって寝てしまうのが最も多いが、怒ったり、説教したり、泣いたり、暴力的になったりと周りの人たちに迷惑千万なのもいる。
これらはおそらく体質や中枢神経系の構造の違いによるものだろうから、どんなに注意しても直ることはない。ただ自分がその状態になる前に自分でストップを掛けるタイミングをきちんと計っておく訓練をすること。そして一旦そのタイミングになったら、あとは周囲からいくら勧められても絶対に杯を重ねないこと。特に男の場合、女性の前でつい見栄を張って飲み過ぎるバカがいるが(中川さん、ゴメンナサイ)、よくよく気をつけるべきである。
日本の酒席では、「俺の杯が受けられないか」などと言って、しつこく酒を勧めてくる輩が多いが(若い人たちの“一気飲み強要”もその一つ)、酒の弱い人はこういう無礼な人間をうまくあしらう術を研究しておいた方が良い。注がれた酒を捨てたり隠したり、口をつけずにそのまま置いたり、徹底的に固辞したりするとカドが立ったりすることもあるので、話術や一発芸でやり過ごす方法を身に付けるようにする。それがまた人間の幅を広げてくれる。昔、日本海軍の山本五十六大将は酒が飲めなかったが、酒席では芸をやりまくって周囲を飽きさせなかったそうである。
あとどんなにカドが立とうが絶対に酒を飲んではいけない場合があることは皆さん御存知のとおり、車の運転をする人である。飲酒運転で悲惨な事故が跡を絶たないことが判っており、しかも飲酒運転が厳罰の対象になっているにもかかわらず、自分だけは絶対に大丈夫と思うのか、まだ責任ある立場の人間や将来ある若者たちの飲酒運転・酒気帯び運転の報道がたびたび見られる。
他人の生命をおびやかし、自分の人生も棒に振ってしまう飲酒運転を、つい出来心でやってしまうような奴は酒を飲む資格はない。これも昔の日本海軍の零戦パイロットだった坂井三郎さんが絶対に戦場では酒を飲まなかったという逸話が残っている。坂井さんは下士官、そこへ士官パイロットが新任の挨拶に酒を持って現れることもよくあったらしいが、酒を飲めば翌日の空中戦で一瞬の判断を誤ることにもなると言って、たとえ上司の勧める杯であっても絶対に受けなかったそうである。
私も翌日に病院の診断業務のある時は自分の酒量を越えた飲酒はしないし、二次会・三次会も辞退している。それでも「あいつは付き合いが悪い」などと言って次から誘ってくれなくなることもなく、そういうのが本当の酒飲み仲間であると思う。
医師研修制度
最近また医師研修制度の見直しが問題になっている。2004年度からスタートした現在の研修制度も今年で6年目を迎えるが、この制度によって医学部卒業生が各大学の医局に縛られずに卒後研修をして独り立ちしやすくなったため、それまで一般病院(大学病院以外の病院)の医師の人事権を事実上握っていた大学の医局の力が弱まり、各病院に医師を派遣することが出来なくなったために、地域の医師不足に拍車を掛けたという現場の批判が巻き起こったのが一因らしい。
医師は大学医学部6年間を修了しても、学生のうちは臨床の実地で訓練する機会がないため、すぐには使い物にならない。戦争中の軍医として医学部卒業と同時に戦地に送り出されて、死んで元々の負傷者で修練を積んだ医師の中には、若くして腕が立つようになった人も多かったと聞くし、中には医師でもないのに戦時中、軍医の補助として負傷者の診療に当たった衛生兵や看護兵などの中には、本物の医師よりも腕が良い人もいたようだ。戦後の一時期、こういう元衛生兵や元看護兵による“ニセ医者事件”が何件か報道されたこともあった。
ところが戦争も終わって平和な時代になると、当然のことだがこんなムチャクチャな“臨床修練”の機会も無くなり、医学部を出たばかりの若い医師が一人前になるための“仮免許期間”が必要になった。そこで登場したのが悪名高いインターン制度。
これだと医学部を卒業しても1年間の無給医として「臨床実地研修」という名のご奉公をしてからでないと医師免許国家試験の受験資格が得られなかった。したがって医学部卒業後の1年間は医師でもなく、学生でもなく、給料を貰えるわけでもなく、医局のためにタダ働きをさせられるという非常に不安定な身分を強いられることになったのである。
当然のことながら全国の医学部でインターン廃止運動が巻き起こる。これが昭和40年代に全国の大学を巻き込んだ全共闘運動の大きな引き金になった。その最後の大きな山場が昭和44年1月の東大安田講堂事件で、この年は東大入試も中止された。
おそらく全国的に広がった大学紛争の火ダネの一つだったことも原因だったに違いないが、1968年にインターン制度は廃止され、学生は医学部を出るとすぐに医師国家試験を受けて医師になることが出来るようになった。しかしその代わりと言っては何だが、卒後2年間は各医局などで臨床研修を行なうことが望ましいという努力目標が設定されたのである。
しかし、かつてのインターンと違って国家試験に合格しさえすれば医師を名乗ることが出来るようになったとはいえ、この2年間の研修医時代は月々せいぜい数万円程度の“給与”が出るのみであり、依然として医局講座制度の支配下にあるということで、インターン廃止後も医局民主化を求める若手医師の運動は続いていた。
私が医師としてスタートを切ったのはまさにこの時代であったが、実は私はこの“研修医”をやっていない。私が最初に入局(医局に入ること)した東京大学小児科は、当時まだわずかに残っていた“医局民主化運動”の牙城であり、スズメの涙ほどしかない研修医の給与の受け取りを拒否し、さらに医局講座制度の象徴でもあった学位取得をボイコットしないと入れて貰えなかったからだ。
当時の東大小児科医局を牛耳っていた若手医師たちは、確かに“医局民主化”をスローガンに掲げていたが、私の目には教授の権力を横取りして自分たちが医局に君臨することを目的にしているようにしか見えなかった。しかし所詮は人間なんて自分が“お山の大将”になりたいだけなんだと思っていたから、私は別にどんな状況でも不満はなく、とにかくそうやって小児科医としての修練を開始したのである。
“研修医”をやらなかったと言っても、それはただ単に国家が支給する“給与”を受け取らないというだけの話であって、一緒に卒業した仲間たちが内科や外科でそれぞれ臨床研修を行なっているのと同じように、私たちも大学病院で小児科の臨床研修を行なったことに変わりはない。
つまり当時の研修医は、原則として一旦内科に入局したら内科、外科に入局したら外科、小児科に入局したら小児科、と卒業の段階で早々に専門分化した臨床研修を始めたわけである。やはり研修医の身分にも不安定な要素があって、医師になってもアルバイトしなければ生活できないということもあるうえに、日本の医師は一旦入局すると他科の修練を受ける機会がない、例えば卒業直後に内科医の道を選ぶとすると、手術もできない、子供も診られない、お産も取れないということになる。これでは困るということで2004年の新臨床研修制度が始まった。
今までは卒後2年間の臨床研修は努力目標であり、私のように制度上の臨床研修を受けなくても罰則はなかったが、今度は卒業した医師は必ず2年間の初期研修が義務化された。しかもその期間は医局制度に縛られることなく、また大学病院でも一般病院でも研修できるようになった。つまりあのインターン制度反対運動の時代のスローガンだった医局の民主化が実現したのである。医学部を卒業したての医師でも、教授の意向に関係なく、自分の意志で研修の場を選んで医師としての職業生活を始められるようになったからだが、そうなると皮肉なことに地域の深刻な医師不足に拍車をかけることになってしまった。
医師は一般の人々からはけっこう自由業のように見られていて、医者は転勤がなくて良いですねえなどと羨ましがる人もいたけれど、実は特に若手のうちは、教授命令や医局長命令で本人の希望に関係なく各地の病院に派遣されたわけで、そういう非民主的な実態こそが地域医療を支えていた現実に、ようやく官僚も一般の人々も気づいたようである。
それと2004年に始まった新臨床研修制度のもう一つの目玉は、研修内容の多角化である。先に書いたように、それまでの研修医は一旦入局するとその科の診療しか研修しなかったのに対して、新制度では内科や外科など主要な診療科は数ヶ月ずつローテーションで一通り回ることになった。このローテーションの方法は研修先の病院ごとにそれぞれ特色があるが、これで一応2年間の初期研修でどんな患者さんにもほぼ対応できる医師を養成できるという目論見らしい。
小児科や産科なども3ヶ月程度、初期研修のプログラムに含まれているが、失礼ながらこんなものは役人と“有識者”の机上の空論、まったくの時間の無駄としか思えない。仮に列車内や航空機内で「子供さんの病気を診られるドクターの方はいらっしゃいませんか」とか「お産を取れる先生はいらっしゃいませんか」などとコールが掛かっても、それなりに自信を持って名乗り出られる医師が育つはずがない。まさに生兵法でしかないのである。
私も昔は小児科と産科をやっていたが、やはり数年の診療経験を経て、お産なども異常分娩を含めて1000例近くを自分で介助してみて、初めて自分は小児科医です、産科医ですと、それなりに言えたものだった。しかし1年か2年、それらの科を離れてしまえば、もう自信はない。医師の診療能力や技術とはそういうものだ。中途半端な期間それらの診療科をローテーションして、学生実習の続きみたいなことをやるだけだったら、まったくの時間の浪費、やめちゃえ、やめちゃえと私は当初から思っていた。
私は医業に限らないと思うのだが、国家試験等に合格して一旦ある職種に認定された人は、各自が自分自身に課したプロフェッショナルの道を歩むべきなのであって、傍からあれもやれ、これもやれと百花繚乱的に修練を押しつけてはいけない。内科医を志した人であれば、最初から内科医としての道を精進するべきであり、たとえ半年くらいであっても寄り道は時間の無駄、1日も早く患者さんの期待に応えられる内科医を目指すべきだと思う。
私は小児科から産科へ、また病理へと転進に次ぐ転進を繰り返したが、そんな私の医師人生の中でたった一つ自信を持って言えることは、どこの診療科にいても、自分はそこで定年まで骨を埋めるつもりで働いてきたということである。だからこそ道半ばで燃え尽きて今の自分があるわけだが、それはあくまで結果論であって、私は最初から病理へ転進するつもりで小児科や産科をやっていたわけではない。
何をやるにしても(医師に限らないと思うが)、腰掛け的な気分でやってはいけない、全身全霊で仕事と向き合いなさい、私と話しにくる医学部の学生さんには常にそう戒めている。
お帰りなさい、カーネルさん
2009年3月11日に報道されたニュースの中に、ちょっと笑ってしまうものがありました。本当は窃盗や器物損壊など刑事犯罪が絡んでくる話なので笑ってはいけないのですが、3月10日の夕刻、大阪道頓堀の川の底から、ケンタッキー・フライド・チキンのシンボルであるカーネル・サンダース人形の上半身が発見され、それに続いて翌日の昼前には下半身と右手も見つかったというものです。1985年に阪神タイガースが21年ぶりに優勝した時、興奮したファンの一部がこの人形を胴上げして川に投げ込み、当時のダイバーの捜索にもかかわらず行方不明になっていましたが、投げ落とされた人形が自分で川底を這って動くはずもなく、何となくオカルト的な雰囲気さえ漂う“事件”だったうえ、それ以来、阪神タイガースは日本一になれなかったこともあって(2003年と2005年にリーグ優勝はあった)、「カーネル・サンダースの呪い」と囁かれていたようです。
私は東京人ですから、別に阪神タイガースが呪われようと呪われまいと関係ありませんが、今回のカーネル氏の23年半ぶり“生還”のニュースを聞いて、あれからもう四半世紀近くが過ぎたのかと感慨深いものがありました。1985年のプロ野球は、セントラル・リーグは阪神タイガースの優勝でしたが、パシフィック・リーグの覇者は西武ライオンズ、ということは所沢球場でも日本シリーズの試合が行なわれる、ということは阪神ファンが大挙して西武線の電車に乗る、ということは阪神が勝っても負けても大混乱が起こって電車が停まる恐れがある、ということで通勤の足が乱れることをずいぶん心配した覚えがあるのです。
他の球団ならこんな心配はしません。しかし21年ぶりのリーグ優勝に興奮した阪神ファンが大阪で大暴れしているというニュースは全国に報道されていました。カーネル・サンダース氏もその被害者の1人です。何で阪神なんかが優勝して西武線沿線に殴り込んで来るんや、というのが、当時の私の心境で、それは今でも鮮明に記憶しています。あれからもう23年以上経ったのか。
1985年のできごとを調べてみると、横綱北の湖引退、田中角栄元首相の脳梗塞、ソ連共産党書記長にゴルバチョフ氏が就任してペレストロイカとグラスノスチが始まる(これがソ連崩壊の序曲だった)、そして何と言っても御巣鷹山の日航機墜落と、今でも印象に残る事件が起こっています。
先日、北朝鮮による拉致被害者の田口八重子さんの御子息が金賢姫元死刑囚と面会を果たしたというニュースもありましたが、金賢姫が大韓航空機を爆破したのは2年後の1987年、あの時、拘束されてソウルに連れて来られた金賢姫は若々しい娘でした。しかし今回、田口さんの御子息と面会した映像を見ると、ずいぶんオバサンになっていました。
こうやって考えてみると、20年という歳月の重みを感じると同時に、私自身、20年前を回想できる年齢になってしまったのかと愕然とします。当たり前のことですが、20歳代の若者には20年前は回想できません。私たちが中学生から高校生になる頃、よく「戦後20年」という言葉を聞きましたが、大人たちはもっと切実な感慨をもって戦時中を思い出していたのかも知れません。
阪神タイガースが西武ライオンズを破って日本一になった翌年、ある雑誌が創刊20周年を迎えました。集英社から週刊で発行されていた『プレイボーイ』です。この雑誌の第1号が発売されたのが1966年、ちょうど私たちの世代が中学生頃のことです。男の子にとってはこういう内容の雑誌に密かな興味を持つようになる年頃、だから私たちの世代の多くの男性にとっては忘れられない雑誌です。
最近では小学生などが読む週刊誌にも女の子の水着の写真なんか平気で掲載されているようですが、当時は小中学生がそんな若い娘が肌を露出した写真に夢中になるなんて許される雰囲気ではありませんでした。今になって思い返してみれば、そんなにドギツイ性描写があったわけではありませんが、男の子たちは何となく罪悪感を感じながらこの雑誌を手に取ったものです。
同じ頃、やはり平凡社から出版されていた『平凡パンチ』という同系統の雑誌もあり、男の子がスリルを味わいながら買い求める二大週刊誌でしたが、『平凡パンチ』の方は1988年に売れ行き不振から廃刊になりました。これも廃刊20年以上ということになります。
そういう懐かしさもあったので、1986年に『プレイボーイ』が創刊20周年の“永久保存版”を出した時には迷わず買って、なぜか未だに私の本箱の中にありましたが、残念ながらこれを買った時には、少年時代に感じたようなドキドキするようなスリルも罪悪感もありませんでした。20周年特集号の発売はカーネル・サンダースが道頓堀の底に沈んだ翌年のことですから、もうこの時からさらに20年以上の歳月が過ぎたことになります。
この特集号の表紙の女性、誰だか覚えてますか?当時人気絶頂だったアイドルの南野陽子さんです。南野陽子と南田洋子の区別がつかないと、「古〜い」と言ってバカにされたものですが、そんなことも思い出すと懐かしい。
表紙に『20年後の大予言』の文字が見えますが、シャレというか、オフザケというか、阪神優勝21年周期説が実証されたとか(まんざらハズレとも言えないが)、原油がだぶついて価格割れしたとか、富士山が噴火したとか、中曽根康弘が21選されていて、この間に憲法も改正されて徴兵制が復活しているとか(これもまんざらハズレではないか?)、予言なんてものはこの程度の遊び心で楽しんでいれば良いみたいです。
また1986年にはホンダが挑戦22年目にして初めてF1を制して優勝しましたが、この創刊20周年特集号には本田宗一郎氏のインタビュー記事もありました。人の世の移り変わりを20年単位で振り返ってみると、その栄枯盛衰にも目をみはるものがあります。ホンダがF1から撤退を決めたのは最近のことでしたから…。
長いようでも過ぎてしまえばあっと言う間だった20年という歳月、川底から生還したカーネル・サンダース人形は、ケンタッキー・フライド・チキンがある限り、再塗装されて部品を新調されれば、また以前と同じ姿で街頭に立つでしょう。しかし人の世の移ろいはもう元には戻せませんし、1人1人の人間もまたその歳月を生き直すことは出来ません。そんなことを改めて感じさせてくれたカーネル氏でした。
当直と宿直
2009年3月26日の毎日新聞朝刊に、東京の港区にある愛育病院が総合周産期母子医療センターの指定を返上すると報道されていた。愛育病院は皇室関係とも縁の深い産科・小児科医療の老舗病院であり、私も小児科研修医の頃や、病理に移籍してしばらくの間、何回か非常勤で当直させて頂いたことがあるし、都立母子保健院に勤務していた時には新生児用の人工呼吸器が足りなくなって融通して頂いたこともある、思い出深い病院である。
総合周産期母子医療センターとは、妊娠中毒症や異常胎位など母児ともに危険度の高い妊娠や(我々はハイリスク妊娠と呼んだ)、未熟児や新生児仮死など重症な新生児を集中的に管理・治療する専門医療施設のことである。設備やスタッフ数などが一定の水準を満たした病院について行政の認定を受けると、病院側にとっても保険点数の請求などでそれなりの特典が認められたが、今回の愛育病院のケースでは多少の診療費の特典程度では、高度の周産期医療を維持することは不可能であるとの判断がなされたわけである。
労働基準監督署が医師の勤務実態を調査したところ、労働基準法がまったく無視されていることが明らかになって、是正勧告が出されたという。「言わんこっちゃない!」というのが、記事を読んだ時の私の第一印象。行政の監査が入るのがあまりに遅きに失した。
医師は高給取り、医師は優遇されている、医師なら患者のために働くのが当たり前…、官僚もマスコミもそういう世論を誘導するような悪質なプロパガンダを長年にわたって煽ってきたわけだが、今そのツケが回ってきたと言わざるを得ない。日本男児の軍人なら国の為に死ぬのが当然と国民に教え込んでいた大日本帝国の軍部とまったく同じ体質だった。
そのために日本人には大日本帝国陸海軍崩壊後も未だにまともな国防論議もできないほど幼稚な“軍隊アレルギー”が残っているのと同じように、医療崩壊後も日本の医師たちはちょっとやそっとの対策くらいでは行政やマスコミに対する不信感を払拭することは出来ないだろうし、医療再生などおそらく当分無理だろう。
この件については折に触れてこのサイトに何度も書いているから、今回は愛育病院に対する勧告の中でもかなり重要な内容だったと思われる医師の当直体制について、日本の官僚機構の体質がいかに狡猾であるかを特に強調しておきたい。
毎日新聞の解説記事によれば、多くの産科施設(未熟児施設も同様であるが)では、医師の夜間勤務は「宿直」とみなしており、これが愛育病院ではあまりに実体と懸け離れ過ぎていると認定された。宿直とは労働基準法では労働時間とみなされない夜勤のこと。要するに夕方になったら晩飯を食って、戸締りをして、院内見回りをしたら、あとは宿直室でシャワーを浴びた後にテレビでも見て、朝まで寝ていれば良いのである。だから翌日はそのまま通常勤務となる。
24時間待ったなしの業務に備えて一晩中待機し、実際に患者の来院や急変で実働時間も多い周産期医療に従事する医師の夜間勤務が「宿直」のわけがない。私なども、途中で1時間程度の仮眠を3回取っただけで72時間ぶっ通しの勤務をしたことが何回かある。これでも医師の夜間勤務は「宿直」であると居直った事務官僚の悪辣な論法を紹介しておく。
私が主に勤めた都立病院では上記のような寝るだけの夜勤を「宿直」とは言わず「管理当直」と言った。看護師さんなどのように夜も寝ずに実働する夜間勤務は「業務当直」と言い、当直料や当直前後の勤務体制にも歴然と差があった。つまり「業務当直」であれば一晩の当直料も高額で、さらに前後の日勤時間帯の勤務は免除される。だから医師にまで「業務当直」されると、医師に支払わなければならない給料は高くなり、前後の日勤時間帯の医師数を確保するために増員もしなければならない。そういう事態を回避して、医師をできるだけ安く連続してこき使う目的で東京都の事務官僚がこじつけた屁理屈は次のようなものであった。
医師が病院に泊り込むのは院内管理(戸締りや見回り)のためであって「管理当直(宿直)」である。しかしその間に患者が来院したり、入院患者の容態が急変した時に夜間実働するのは、医師法に定められた応召義務に基づくものであるから、「業務当直」とはみなせない。
これほど専門職を侮辱した破廉恥な言い分を私は知らない。敢えて言えば、特攻隊員は自分の意志で敵艦に体当たりしたと戦後になって強弁した陸海軍の元指揮官どもと同じ論法である。医師法に定められた応召義務と言うのなら、夜間の診療報酬の少なくとも一部は当直医の出来高になるはずだが、都立病院の事務官僚どもはそれを医師個人に還元することなく、病院全体の収益に計上して自分の手柄にしたのである。これはおそらく都立病院に限った話ではないだろう。
周産期医療の現場に限らず、患者さんの診療に当たる医師たちは、どこの科であっても多かれ少なかれ似たような仕打ちを受け続けてきたのである。マスコミもこれまでの報道姿勢を自己批判することなく、今頃になって医療再生などと口幅ったいことを言っているが、これだけ侮辱されてきた医師の中で、今後真剣に医療再生に身を捧げようという者が果たしてどれくらいいるのか。
それでも医師がこのような待遇に耐えてきたのは、社会全体が医師という職業に対して尊敬を抱いてくれているであろうという誇りがあったからだ。しかし福島県立大野病院で起こった1件の医療事故、あれが象徴的な出来事だった。産婦人科の常勤医が1人しかいないという過酷な労働条件の中で起こるべくして起こった不幸な事故であったが、その担当医師はまるで殺人犯と同等の不当な扱いを受けて、衆人環視の中で警官によって逮捕されたのである。
医師の過酷な勤務に対して社会が尊敬を抱いてくれているという幻想が崩壊した。もはや医療崩壊(特に周産期医療の現場)は止められないだろうという危惧を多くの医師が感じた。今回の愛育病院の指定返上は、当時の医師たちの危惧が現実のものとなったことを如実に示すものである。
別に言葉に出して尊敬してくれなくてよい。かつて「管理当直(宿直)」という名目で搾取された夜勤手当だって返してくれなくてよい。また医師に対してだけでなくてよいし、看護師や臨床検査技師など医療職に対してだけでなくてもよい。列車やバスや航空機の運航に携わる人、情報やエネルギーや食糧や物流に関与する人、その他にも自分とは異なる職種の人々の献身に対して然るべき尊敬を払える世の中とはどういうものか。マスコミを中心にもう一度考え直して欲しい。
海上自衛隊に対してだってイージス艦が漁船に衝突したような時ばかり声高に非難していたけれど、北朝鮮から飛来するかも知れぬ飛翔物体への警戒のために黙々と任務に就いている隊員がいることも少しは考えたらどうなのか。もしかしたら自衛隊員の労働環境は医師よりももっとひどい状況かも知れない。最初から日本の社会からの尊敬など期待できない職場だから…。
話がそれてしまったが、今回の愛育病院の報道を読んでいて、「宿直」という正式な言葉があることを初めて認識した。これまで宿直というのは当直と同じ意味だと思っていた。
夏目漱石の『坊ちゃん』には、松山の学校に赴任した坊ちゃんが初めて寄宿舎の“宿直”に当たった晩、生徒たちの悪戯で寝床にイナゴを入れられる場面がある。あんな悪ガキ相手では「管理当直」も大変だが、漱石の時代の「宿直」という言葉が現代も生きていることが判ったことだけは大きな収穫であった。
葉桜の季節
今年もお花見が終わり、桜の樹も枝に若葉の緑が映えるようになった。厳寒の季節が終わり、桜の枝が段々とピンク色に染まってくる様子を眺めて春の訪れを楽しむのは、日本人の感性の年中行事であるが、満開だった桜の花が散ってしまった後は寂しさが残るかと思いきや、それまでピンク色だった枝が1週間ばかりのうちにみるみる若葉の新緑に置き換わっていく。これもまた来たるべき初夏を予感させる美しい眺めである。
桜は若葉に先駆けて花だけが咲くからこそ美しいのであって、花と若葉が同時に出たらそれほど目立つ花ではないと言った人がいたが、まさにその通りであろう。桜の花の淡いピンク色は、日本人の奥床しさを表わすともいうが(日本人が本当にそんなに奥床しいかどうか疑問だ)、あの色は私のような素人カメラマンにはとても写しきれない。最近は毎年一応は満開の桜の花の写真を撮っているが、いつも白く寝ぼけたようにしか写らない。そこで今年は趣向を変えて、同じ桜の樹を同じ位置から日を追って撮影したら、どんな色調の変化が出るかを見たのが、上の一連の写真の次第である。
思えば60数年前、日本の若者たちが自分の身を桜の花に見立てて散り急いだ時代があった。その後に萌え出た若葉が戦後の新生日本のように思って、これまで何となく葉桜を見てきたが、今や戦後の新生日本もいつしか夏を過ぎて落ち葉の時代を迎え、またそろそろ桜の花が散り急ぐ時代が来るのだろうか。先日ふとそう思ったら胸が締め付けられて涙が出そうになった。
ところで、あなたにとって桜の樹の一番好きな見頃はいつですかと聞けば、大抵の日本人なら花が七分咲きから満開に至る頃と答えるか、せいぜい葉桜の頃と言う人が多少いるくらいだろう。しかし外国人の感性というのは時として日本人には想像がつかないことがある。ある時、トルコ大使館員の奥さんに同じ質問をしてみたところ、秋に桜の葉が黄褐色(brownish
yellow)に染まる頃が一番美しいと言われて、ハッと衝撃を受けたことがあった。
日本人には春先しか桜の樹は目に入っていない。「花は桜木 人は武士」とか「花は散り際 男は度胸」とか言われるけれど、全部パッと咲いてパッと散る桜の花にしか意識が向いていない言葉である。こんなことではまた若者たちだけが桜のように散らされる時代が来ないとも限らない。桜の花や若葉が美しいのも、桜の樹の幹がどっしりと地面に根を張って、何十年、何百年という風雪に耐えているからだという当たり前のことにも目を向けなければいけない。
医学部臨床実習の思い出
早いもので、私の教えている学科の1期生たちの臨地実習(実際に病院の現場に出て実習すること)も始まり、先日その1組目の臨地実習を終えた学生たちの帰校報告会が行なわれた。それまで学内の教室や実習室でしか学習してこなかった学生たちも、短期間ではあったが実際の医療の現場に身を置いてみて、一回り大きく逞しく成長しているように思われ、いよいよ本格的なヒナ鳥の巣立ちが近いことを改めて感じさせた。
彼らとは職種の違いはあっても、医学部にも同じような臨床実習がある。ン十年前、私にも同じような時期があった。彼らの実習報告を聞きながら、私も自分自身の学生時代の臨床実習のことなどをいつの間にか思い出していた。
医学部は1年生から6年生まであり(私の出た大学では3年生〜6年生をM1〜M4と呼び変えていた)、5年生と6年生が臨床実習期間である。もっとも最近では6年生を医師国家試験対策に当てる大学も多く、その場合は5年生で集中的に臨床実習が行なわれる。
私たちの時は5年生で“ポリクリ”(午前中の教室講義の後、午後は小グループに分かれて各科で実習)、6年生で“BST”(終日小グループで各科で実習)というカリキュラムだった。“ポリクリ”というのも一般の人には耳慣れない言葉だと思うが、我々も正確な語源は知らない。ドイツ語のPoliklinik(総合病院)から来ているという説が有力だが、5年生の“ポリクリ”に対して6年生の“BST=bedside
teaching”が行なわれることから、病棟のベッドサイド以外での実習ということで、何となく外来実習と訳していたような気がする。しかし多くの医学部ではポリクリを臨床実習と訳しているようだ。
“BST”も最近では“BSL”、すなわちbedside learningという言葉の方が一般的だ。つまり教員が一方的に教える(teaching)のではなく、学生が主体的に学ぶ(learning)のだという意味である。しかし申し訳ないが、主体的に学ぶという点では、我々の時代の大学生の方が最近の大学生よりも数段上だったのではなかろうか。
その話はまたの機会にするとして、私のポリクリやBSTの時代も思い出すと懐かしい。医学生の実習は病棟で実際の患者さんを受け持たされることが多いが(看護学生も同じ)、一番最初に内科の病棟を回った時に受け持った入院患者さん、何度も何度も医学部の学生が入れ替わり立ち代わり実習に来るので面倒になられたのだろう、自分の病歴や家族歴を1枚の紙に要領よくまとめてプリントして持っておられた。私は同級生と2人でこの患者さんの診察をしてくるように指示されたわけだが、患者さんからそのプリントを頂いて、さすがにご自分の身体のことはよく判っていらっしゃると納得して、そのまま教官に報告したら怒られた。患者さんの言うことをいちいち吟味せずに鵜呑みにしちゃダメじゃないか、というわけだ。反省したが、もし自分が将来何かの病気で大学病院に入院したら、私を診察に来る医学生に同じことをして鍛えてやろうと思っている。
とにかく医学生の場合、臨床検査学生や看護学生と違って、患者さんから医学的に意味のある正確な所見を取るということを徹底的にシゴかれた。しかし教室で講義を受けてきただけの学生が本物の医師のように診察できるはずがないし、大体診察を受ける患者さんの方も、どうせこいつは実習中のヒヨっ子だと思っているから、相互の信頼関係が確立されるはずもない。医学生が必死の思いでやっと診察した内容も、後から教授や助教授の診察で次から次へと覆され、中途半端な所見しか取れていないと、患者さんの前で怒鳴られ、バカにされ、呆れられた。優しい教授や助教授もいたが、今になって考えてみると、怒られたことの方が身に沁みて残っている。
医学生の練習台になって下さった患者さんたちも大変だったろうが、我々が一生懸命に喋る覚え立ての生半可な医学知識に耳を傾けて下さったり、我々を一人前の医師と見なして医学的な相談を持ちかけて下さったり(もちろん重大な内容ではない)、実習期間が終了する時には「頑張って下さいね」と励まして下さったりしたもので、これには心から感謝している。
他にも産泊といって、分娩が夜間にありそうな場合に病院に泊り込む実習もあったが、正常分娩になりそうな妊婦さんが1人いらしたのでずっと待機していたところ、まだしばらく産まれないということだったので、たまたま晩飯を食べに出た間に出産してしまったという笑える話もあった。しかし概して言えば臨床の現場では学生はあくまでヒヨっ子の部外者であり(たぶん私の学科の学生さんたちも同じだったろう)、臨床実習はやたらに周囲に気を使って気疲れすることばかり多かったように思う。その証拠に6年生の秋にBSTが終わった時、それまで半年以上一緒に各科を回ったグループの仲間たちとの打ち上げ、なけなしの小遣いとバイト代を叩いてホテルオークラのレストランで、思いっきり解放感に浸ったものであった。
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