退官記念講義録(2017年3月25日)
私は2017年3月に定年退職しましたが、その時に歴代の教え子たちのお世話で記念講演会をさせて頂きました。どんな偉い立派な先生でもあんな心のこもった会をして頂ける人はほとんどいらっしゃらないだろうと言えるほど思い出に残る素晴らしい会でしたが、あの時いろいろな都合で来れなかった何人もの教え子たちから、どんな講義をしたんですか、ぜひ教えて下さいとせがまれることがたびたびあり、それならば大して仕事もしていない今のうちにあの講義を文字で残しておこうと思い立ちました。
それで総幹事をやってくれた子から講義の録画DVDを借りて文字起こしをやってみたのですが、DVDを見て私は自分の滑舌の悪さに愕然となりました。こんな講義を学生さんたちに聞かせていたのか、もっと“喋り”の練習をしておけば良かったと後悔することしきりです。
本当は元の言葉に忠実に起こそうと思っていましたが、とてもそんな事ができる講義ではない、それでなるべくあの時の講義の雰囲気だけ残しながら、冗長な部分は削り、言葉足らずな部分は付け足して、何とかあの日の講義を一応再現することができました。とりあえず興味のある方はお読みになって下さい。
皆さん、こんにちは。久し振りの方もいらっしゃるし、つい最近お会いした方もいらっしゃいますが、こうやって見渡してみると懐かしい顔ぶれですね。ずいぶん綺麗になったり立派になっちゃってすぐに名前の出てこない方もいるかも知れませんが、後で失礼することがあったら申し訳ありません。私もこの3月で定年退官することになり、あなた方の後を追う形になりましたが、無事に卒業できることになりました。ありがとうございました。
考えてみれば、退官する時にこんな会をやって貰える人はいませんね。さんざん学生時代に講義をしたのにまだもう一度聴きたいの?試験もやっちゃおうかしら(笑)、なんてことはともかく、こんなに集まって下さってありがたいことです。
それで今さら悪性腫瘍とか心筋梗塞でもありませんから、そこに書いたように『物を見るということ』と題して、実習でも言いましたが、物を網膜に映す“見る”ではなく、物の実体を考える“観る”ということについてお話ししようかと思います。病理学は物を観ることから始まります。皆さんにも臓器や顕微鏡標本をみせましたが、それらを網膜に映した像から、それは何かを考えて貰おうと思ったわけです。
例えばこれは十条銀座の商店街、私はいつもは朝鮮学校の方の道を使うのですが、たまたまお昼ごはんを買おうと思って商店街を通ってみたら工事中、ここには店だか家だかあったはずですが、さて何があったんだろうか、分からなくなっちゃってます。これが網膜に映す“見る”と、理解する“観る”の違い。そこに何があったかは必ず網膜に映ってはいたはずですが、ここには美味しい饅頭を売る店があって、久し振りに饅頭を買おうと思ったというようなことでもなければ、もう思い出すことはできません。
次に解体新書に出ている頭蓋骨の絵、解剖学的には“とうがいこつ”と読むのが正式ですが、“ずがいこつ”と言った方が間違いがないのでそう読んでおきます。何が無いかわかりますか?杉田玄白先生や前野良沢先生も見落としたと思いますが、眼窩の下の眼窩下孔と顎のところのオトガイ孔が書いてありません。皆さんも実習で骨格標本模型、ガイコツ君とか○○先生とか呼んでましたが(笑)、それでこれらの孔は観察して貰ってます。かなりはっきり見える孔で、それぞれ三叉神経の第2枝と第3枝が通って顔面の知覚刺激を最短距離で脳に伝える経路になってます。杉田先生も前野先生も小塚原刑場で腑分けをした時に、刑死人のしゃれこうべで見ようと思えば見えたはずなのに、解体新書で絵師に描かせた絵に孔が欠けていることを指摘できなかった、物を観るということはそれほど難しいことなんです。孔は彼らの網膜には映っていたはずですからね。
同じ江戸時代の浮世絵師、先日『美の巨人たち』という番組でも取り上げていましたが、歌川国芳という人が描いた『相馬の古内裏』という絵の髑髏の化け物にはきちんと2つの孔が描かれています。国芳はたぶん行き倒れの旅人のしゃれこうべか何かを観察したのかも知れません。確かにこちらには胎児期に頭蓋骨がまだ分離していた名残りの縫合線が描かれていませんが、杉田先生たちは医学者、藩の命令で医学を勉強できる恵まれた立場にあったことを思えば、頭蓋骨の孔を見落としたのは手抜かりとしか言えませんね。
もう一つ、国立西洋博物館にある1600年代のコリールというオランダの画家が描いた絵、机の上に頭蓋骨標本や書物や楽器や楽譜が雑然と置かれていますが、この頭蓋骨は下から見上げた角度なので、先ほどの眼窩下孔だけでなく三叉神経第1枝が通る眼窩上孔も描かれています。画家というものはどうも医学者よりも対象をよく観察しているようです。
次にちょっと怖い写真(サイトではぼかしを掛けてます)、単眼症の赤ちゃんです。皆さんも標本室の見学でご覧になったと思います。人間の眼は皆さん2つあるけれど、胎児の時は誰でも顔の真ん中に1つだけ発生します。鼻は額に発生して左右に分かれた目の間を通って下へ降りていく。だから単眼症の赤ちゃんは鼻は額に取り残されて、本来の眼と口の間はのっぺりして何もありません。私も昔お産を取り上げていた頃に2例ほど単眼症の赤ちゃんを見ましたが、やっぱりちょっとギョッとしましたね。今ではお母さんのお腹の中にいる胎児の顔が超音波画像でびっくりするくらい綺麗に撮れますから、こういう赤ちゃんが分娩まで気付かれないということはないと思います。
お産のプロでもギョッとするような一つ目の赤ちゃん、いろいろな国で生まれて、昔話などに残されています。これは大英博物館にある一つ目巨人の像で、顔の真ん中にある大きなくぼみが眼ですが、その一つ目の下に鼻があります。これは解剖学的にはあり得ない。たぶん昔のヨーロッパ人はこういう赤ちゃんを産んだ女は一つ目の化け物と交わったに違いないと口汚く罵ったりしたのでしょうが、彼らにとっては一つ目の赤ちゃんの姿を網膜に映して「ギャー怖い」で終わりでした。鼻が無いことを観察していません。
日本人のご先祖様も一つ目小僧として単眼症を記載しています。これらは江戸時代から明治時代初期くらいの一つ目小僧の絵ですが、どれも眼の下に鼻は描いてありません。こんな風に一つ目の子供が油を舐めながら道を歩いて来たらギョッとするでしょう?お産でこういう赤ちゃんが生まれてきた時にギョッとするのと同じですね。しかし日本人の先祖はギョッとした状況の中でも、そういう赤ちゃんには鼻が無いことをしっかり観察していました。最近のイラストにも、境港市のみずきしげるロードにある一つ目小僧の像にも鼻はありません。ヨーロッパ人はただ網膜に映しただけでしたが、日本人はきちんと単眼症を観察していたわけです。
次にこれは無心無頭体です(サイトではぼかしを掛けてます)。ここに足があり、ここに臍帯があり、ここが胴体です。そしてこの胴体の端にある小さな部分が頭や胸です。これは一卵性双生児の片割れとして生まれ、単胎では決して生まれませんが、こういう赤ちゃんももし大きく育ったらちょっとギョッとしますね。胴体から下だけしか無いんですから。
私はこういう赤ちゃんを病理解剖でやはり2例ほど経験しましたが、私もこれを見て考えたわけですね。しかしただ見てたってダメです。いろいろ知っていなければ考えることはできません。
この場合、知っていなければいけないのは胎児期の血液の流れ、胎児循環です。この絵の大動脈弓から上に3本出ている動脈の枝、誰かに質問してみてもいいんだけれど今でも言えますか?右から腕頭動脈、左総頸動脈、左鎖骨下動脈でしたね。腕頭動脈はこの先で右総頸動脈と右鎖骨下動脈に分かれて、つまりこの3本の動脈の枝は人間の頭と腕に血液を送っています。
胎児期にお母さんの胎盤から酸素に富んだ動脈血は臍帯静脈で胎児の臍から入ってきて、出生後は肝円索になる静脈管を通って下大静脈から心臓の右心房に入ります。右心房に入った動脈血のほぼ全量が卵円孔を抜け、左心房、左心室、大動脈を通って、3本の動脈の枝から頭と腕に血液を届けます。そして頭と腕に酸素を配った静脈血は上大静脈から右心房に戻ってきて、下大静脈から来た動脈血ときれいにクロスしてほぼ全量が右心室、肺動脈へ回り、胎児では肺の血管が開いていませんから、そのまま動脈管から大動脈へ抜けて胴体から下の下半身に残りの酸素を配りながら、内腸骨動脈から臍帯動脈を経てお母さんの胎盤へ戻って行きます。この胎児循環をまだ皆さんが覚えていてくれたら嬉しい。
さて一卵性双胎ですが、1つの子宮の中に2人の胎児が並列に並んでいれば問題ありません。1人目の胎児も臍帯静脈で動脈血をお母さんから受け取って臍帯動脈で返す、2人目の胎児も臍帯静脈で動脈血をお母さんから受け取って臍帯動脈で返す、2人ともそれぞれそうやって胎児循環を確保していれば良いんですが、たまたま2人の臍帯動脈同士が吻合して直列につながってしまうことがあると、2人はそれぞれ臍帯動脈でお母さんの方へ静脈血を返そうと互いに押し合う形になります。そしてその力のバランスが崩れた時に状況が激変します。力が弱くて押し負けた方の胎児は、片割れの相手が酸素を使い果たした静脈血が自分の臍帯動脈から逆流してくる、すると心臓の弁は一方通行ですからここを血液が通らなくなり、お母さんからの動脈血も途絶えることになってしまいます。
これは無心無頭体の赤ちゃんを説明できるモデルとして私が考えたことです。こういうふうに考えれば、大動脈弓の3本の枝から優先的に動脈血を貰っている頭と腕が無くなった無心無頭体の成因をみごとに説明できます。私は喜んで自分の考えたモデルを論文にしようと準備を始めましたが、いろいろ調べているとこのモデルを考察したのは私が最初ではありませんでした。ドイツのベームという病理学者はきちんと観察結果を考察して『小児病理学』という教科書に動脈血逆転症候群として記載していました。
結局、私の手柄にはなりませんでしたが、これが物を観察するということです。「胴体から下だけだ、ワ―怖いよ、化け物だ」と騒いだってダメです。胎児循環の知識を持たずに漫然と何時間見てたって観察はできません。“物を観る”ということは基礎知識があって初めて可能になることです。
ついでに子供のプロポーションは大人とは違います。先ほども言いましたが、胎児期には頭と腕が酸素を多く含む動脈血を優先的に貰っているから頭でっかちになる、それがだんだん年齢と共に大人の体型になっていくわけですが、このことを観察できるようになったのはルネッサンス以降のことです。
小児科の教科書は必ず最初に大人と子供は違うということから記載が始まります。まず体型からして違う。今日はこの会場にも何人ものお子さんがいらっしゃってますが、プロポーションは我々大人に比べて頭でっかちでしょう?
ここに2種類のキリストとマリアの絵があります。左は1131年のロシアのイコン、イコンとはキリストや聖人の絵のことだそうですが、ルネッサンス以前には聖母マリアに抱かれたイエスをこんなふうに描いていました。右は先日展覧会もあったルネッサンスの画家ラファエロによる聖母子像ですが、キリストは頭でっかちに描かれてますね。ルネッサンス以前は、キリストは神様だから頭でっかちの不格好な姿には描けないということで小さな大人ふうに描いて差し上げた、ところがそれが却って失礼なことになり、サルに服着せたペットのようにしか見えないキリストになってしまいました。
ラファエロのキリストの方は頭でっかちで背中などにもプヨプヨとシワの寄った可愛い赤ちゃんです。しかし私に言わせれば、このキリストは体重12キロや13キロになっていると思いますが、マリアの腕の筋肉がそんなずっしりした重量を支えているようには見えない。しなやかに描いていますが、本当はもっと隆々と筋肉が浮き出ていなければいけません。しかし幼子イエスを幼子としてありのままに描けるようになったのはルネッサンス以降のこと、それまでは神様だからと美化して理想の姿に仕立てて描くだけだったのです。そう言えば左のイコンの聖母マリアも永遠の理想の処女のように見えますね。ルネッサンス絵画に見るキリスト像の変遷については、私の学生時代の小児科の恩師のお話の受け売りです。
さて次は乳癌の組織で、皆さんの実習書に使用した写真です。皆さんにこういう顕微鏡の標本をスマホで撮影してもいいよと言いましたが、私たちの頃はそんな便利な道具はありませんでしたから、色鉛筆を使ってノートにスケッチしたものです。下の方に癌細胞があって、上の方に正常な乳腺組織があります。私はこういう組織を顕微鏡で見ているうちに、こういうイメージが観えてきたんですね。戦車です。敵の戦車が攻めてくる。癌も怖いけれど鉄の塊の戦車も怖いですね。もし戦争になってこんな戦車が襲いかかってきたら怖いですけれど、戦車の弱点て何だと思いますか?戦車は機械ですから燃料が切れると動けなくなるんですね。
私がまだ中学生の頃、したがって皆さんがまだ影も形も無かった頃、『バルジ大作戦』というハリウッド映画がありました。バルジというのは突出した部分という意味、これは第二次世界大戦でノルマンディーに上陸した連合軍がフランスを解放しながら進撃してくる、そこへナチスドイツが大戦車部隊を準備して、連合軍の前線の背後に突出させて連合軍を撹乱しようと試みるわけです。実際にあった話をもとに制作された映画でした。連合軍も最初は不意打ちを食らってメチャクチャになるが、主人公がドイツ軍は燃料が不足していることを見抜き、必ずドイツ軍は燃料集積所を狙ってくるだろうと予測して待ち伏せします。そして予測どおり燃料集積所に向かってきたドイツ軍戦車部隊にガソリンのドラム缶をぶつけると戦車は次々と炎上、燃料を手に入れられなかったドイツ軍は動けなくなった戦車を捨てて徒歩で退却するという話です。
さて癌細胞も攻めてきますが、戦車と同じで燃料が欲しい、細胞に燃料を供給するものは何でしょうか?血液ですね。私は癌細胞のスケッチをしながら考えました。癌はどこから血液を貰っているのでしょうか?そうか、癌は自分に血液を供給する血管を作りながら攻めてくるはずだ。血管を作らせなければ癌の治療になるじゃないか。皆さんよりもう少し若かった頃のことです。
当時の臨床医も病理学者もがんの研究者も、癌細胞に栄養を供給する血管などというものを誰も意識していませんでした。がんと言えばがん細胞だけ、私はある教授にがん細胞が血管を作る物質をブロックしたらどうでしょうかと提案したところ、「そんなバカみたいなこと」と軽くいなされてしまいました。私も今のあなた方くらいの年齢になっていれば、自分で研究費獲得して研究したかも知れません。まあ、当時はPCRも免疫組織化学染色もなくて、せいぜい液層クロマトグラフィーくらいしか研究方法もありませんでしたが、もっと何とかなったんじゃないかなあ。
がんの間質と正常な間質は違うなんてことは今では常識ですけど、当時は私とアメリカのフォークマン教授という人くらいしか言わなかった。フォークマン教授はがん細胞が血管を作る物質をブロックする物質を発見して報告しましたが、世界中から「このバカが、そんなの夢物語だ」とさんざん罵倒されたようです。21世紀になってフォークマン教授の報告はやっと見直されるようになりました。私も攻めてくる癌も酸素や炭水化物を必要とする細胞だと気付いていたのですから、あの教授にいなされてなければノーベル賞取れたかも知れません。
さてミリタリーマニアのついでに戦車の次は潜水艦です。これは日本海軍の巡潜乙型というタイプで、大戦中に最も活躍した日本潜水艦と言われています。余計な話ですが、上に載っているのは飛行機です。敵の後方で浮上して飛行機を射ち出して偵察したり、イヤガラセ程度に爆弾を落としたりするんですね。戦争末期には日本海軍はもっと大きな潜水艦を造ります。伊号400といって爆撃機を3機積める当時世界最大の潜水艦でした。
しかし潜水艦は潜って姿を隠すことが最大の特徴ですね。最近の潜水艦は何十日でも潜っていられるようですが、当時の潜水艦はせいぜい1日か2日潜っていると換気ができないから苦しくなってハアハアという状態でした。それでもやっぱり潜って姿を隠すことが使命である潜水艦に、浮かび上がることを前提とした飛行機を搭載すること自体、日本海軍は潜水艦という兵器を十分に理解していなかったと言えます。本当は講義でもそういう話の方をしたかったんですけれども、それはともかく(苦笑)。
ところで話を戻しますが、この巡潜乙型の中の1隻に伊号33潜水艦があります。日本海軍の潜水艦にとって3という数字は不吉な鬼門でした。西洋の13という数字や、日本の四(死)や九(苦)も縁起の悪い数字として忌み嫌われることがありますが、なぜか日本海軍の潜水艦にとっては3も非常に縁起の悪い数字でした。伊号33潜水艦はその3が2つもあって就役以来事故続き、まずトラック島、今でもダイビングなんかやる人は行ったことあるかも知れませんが、トラック島で事故を起こして沈没します。33メートルの海底に沈んで33名の乗組員が殉職するという3づくしです。ところが引き上げて日本に回航して修理が終わって訓練に出たらまた沈没、どこかの海水弁に木材の破片が挟まって浸水してしまい、浮き上がるためにタンクに空気を送ることができなくなってしまったらしいんです。ここに書いたように昭和19年6月13日に訓練中沈没、戦後の昭和28年になってサルベージ会社によって引き上げられますが、この潜水艦のことを吉村昭さんという作家の方が『総員起シ』というノンフィクション小説に書いています。“起シ(起こし)”というのは起床、つまり“起きろ”という日本海軍の号令です。皆さんも合宿なんかでやったでしょ。朝6時になったら「全員起床!」なんてね。
それではなぜ吉村昭さんの小説が『総員起シ』つまり“全員起きろ”というタイトルになったのか。潜水艦ですから水が洩れないような水密構造は普通の船よりも強力です。この伊号33潜水艦も前部の魚雷を発射する部屋に昭和28年の引き上げまで浸水していない区画がありました。と言うことはその区画には沈没した当時のまま乗組員の御遺体が残されている可能性があるので、サルベージ会社もマスコミも騒然となったわけですね。そこには確かに13人の乗組員の御遺体があったのですが、いったいどんな状態だったと思いますか?
海底は低温ですし、沈没後に艦内の酸素はほとんど乗組員たちが吸い尽くしてしまったので、低温低酸素の嫌気的培養条件が整ってます。乗組員の御遺体は死後の損傷もなく、微生物による腐敗もなく、ほとんど生きていた時と同じような姿だったそうです。だから「起きろ」と声を掛ければ本当に起きてきそうな姿のまま眠るように亡くなっておられた、ですから吉村昭さんは『総員起シ』というタイトルを付けたわけですが、引き上げた時の乗組員たちの御遺体の様子もちょっとだけ書いてあります。それによると髪の毛が約5センチ、爪が約1センチ伸びていたそうです。
人が死んだ後も髪の毛は伸びるか、皆さん覚えていらっしゃるでしょうか、今から4年前になりますが皆さんに懸賞付きの課題を出したことがありましたね。1人か2人くらいの方が考えてくれただけでしたが、最近のネットにもそんな話題が時々出ています。
「死んだ後も髪の毛は伸びるでしょうか」
なんてネットに質問を出す、そんなこと自分で考えてみなさいよと思いますが、ネットに質問を出すとまたヒマな奴が、ああでもない、こうでもないといろいろ講釈を垂れ流す、まあネット社会のお付き合いみたいなものですか。
いちいちネットに質問するより、疑問に思ったら自分で考えることの方が大事だと思うんですが、ネット上に返されている答えをみると、ほとんどすべて死んだ後も髪が伸びることはありません、そんなのは迷信です、非科学的ですとしか書いていない。アメリカのブリーマンという人は死後は皮膚が乾燥して毛根が外へ飛び出すので伸びたように見えるだけだと言ってますと書いている人もいます。確かにイギリスの医師会雑誌の雑談コーナーみたいなところにブリーマン氏はそう書いてますが、日本人のネットの反応は皆そんなものです。自分の頭で考えていない。私は皆さんにそんなふうになって欲しくなかったからあの懸賞課題を出したわけです。
死後も髪の毛は伸びるか、私の答えはあの時に私のサイトに載せてありますが、今日改めてもう一度解説しておきます。人が死んだ後も髪の毛は伸びます、伸びないわけないです。ある条件さえ整えば人の髪の毛は死んだ後も数か月間は伸び続ける可能性があります。
これは皮膚の構造ですが、この表面の部分が重層扁平上皮でできている表皮で、基底層から細胞が上へ積み上がった構造をしてますね。それと連続して皮脂腺と毛根があって、毛根の細胞が増殖することで髪の毛が伸びてくるわけです。こんなことは生物を勉強した人なら誰だって知ってますね。
次にこれが重層扁平上皮の組織です。私だって病理医ですからこんな重層扁平上皮の実物の組織はもう5000例6000例なんてもんじゃない、1万例以上顕微鏡で観察しているはずなんですが、恥ずかしいことにこれを見て何も不思議に思いませんでした。私だけじゃありません、あなた方だって学生時代に重層扁平上皮の組織は見せましたし、医者なら誰だって見ている、医学関係者なら見たことないはずない組織ですが、誰も不思議に思った人はいません。
これを網膜に映せば「ああ、これは重層扁平上皮だな」で済んでしまいます。試験ならそれで満点なのですが、もう少しよく観察してみると、血管は基底層の直下まできていますね。重層扁平上皮の細胞に酸素を配っているのは何でしょうか?この血管ですね。では重層扁平上皮の細胞に炭水化物やアミノ酸を供給しているのは何でしょうか?やっぱりこの血管ですね。しかし血管からいろいろ物を貰えるのは基底層の細胞だけです。網膜にこの組織を映しているだけではこの重要なことに気付きませんでした。
重層扁平上皮の表面の方の細胞は血管から酸素を貰えません。でもあなた方に私も教えましたよね。別に酸素がなくても解糖系という化学反応だけでエネルギーを作ることができます。ではその反応の材料になる炭水化物はどうするか?細胞が基底層にいる時に取り込んでグリコーゲンの形で貯蔵しているはずです。だから重層扁平上皮の組織をPAS反応というグリコーゲンを染め出せる染色法で処理すると紫色に染まります。重層扁平上皮の細胞の活動に必要なアミノ酸も同様に基底層にいる時に十分取り込んでいるはずです。
先ほどの潜水艦も港から出て行く前に十分な燃料とか食糧とか積み込んでいるわけでしょう?だから途中で補給をしなくてもかなりの期間行動できるわけですね。皮膚なんかの重層扁平上皮の細胞も上へ上へと積み重なっていって最後に垢として使命を終えるまでに必要な燃料や材料は、すでに基底層にいる時に十分に積み込んでいるはずなんです。だから人が死んだ後も重層扁平上皮の細胞は2ヵ月や3ヵ月の間は生きて活動することができて当たり前なんです。ただ腐敗が起こったり空気中で乾燥しちゃえば無理ですけれども、さっきの伊号33潜水艦のようにほとんど無菌、低温、低酸素の艦内に密閉されていた御遺体では、おそらく何ヶ月間かは重層扁平上皮の細胞は生きていて毛も伸びた。それを軽々しく迷信だとか非科学的だとか言っちゃいけません。やはり物を見て、いろいろ知識を得て、それらを元にして自分で考えるということが大事なんじゃないかと思います。
死んだ後も髪の毛は伸びる、さっきの癌細胞と血管の話じゃありませんが、世界中の科学者はだれもまだこんなこと注目してません。それじゃお前が研究すれば良いじゃないかと言われそうですが、残念ながら私は来週定年です。重層扁平上皮の細胞は基底層にいる時と中層にいる時と表層にいる時ではそれぞれ遺伝子の働き方が違うと、先日どこかの大学院の若い先生が論文を出してました。ただ網膜に映しただけでは細胞が積み重なっただけの重層扁平上皮の組織ですが、いろいろなことを知ってそれらを元にさらに観察を続けていけばさらに新しいことも見えてくると思います。
さて私が準備してきたお話はこれで終わりですが、最後にあなた方に言いたいのは物をよく観て考えて下さいということ、それに必要な最低限の知識だけは講義でお話ししたつもりです。あなた方はまだこれから何十年か医療の現場で働くと思いますが、その間にあなた方の心には素敵な人が宿るでしょうし、もう宿っている人も多いでしょうね。あなた方の心はそういう人たちと共にあって欲しいと思いますが、あなた方の頭の中には私が病理学の講義で教え込んだ人体の知識体系、医学の知識体系が詰まっています。病理学は私がほとんど1人であなた方に教えましたから、私の頭の中にある医学の体系はそっくりそのままあなた方の頭の中に移し替えられているでしょう。もしかしたら卒業後もっと立派な先生に出会って頭の中の知識をリセットできた幸運な人もいるかも知れないけれど、それでもその基盤には私の教えた知識体系が残っていると思います。諸君が医療人である限り、僕の言葉は絶対だ。