軽井沢

 昨年(2016年)から軽井沢に行く機会が何度かありました。それまでは軽井沢を最後に訪れたのは1989年(平成元年)の夏、まだ北陸新幹線も開通しておらず信越本線での旅でした。昨年は軽井沢から信濃追分寄り(長野側)、中軽井沢付近からかつての信越本線の線路を見下ろしましたが、今年は天気も良かったので、軽井沢から碓氷峠寄り(高崎側)に少し戻って散策してみました。

 実は軽井沢駅から数百メートルばかり高崎側に戻った地点、ここには私の中学・高校時代の寮がありました。青山寮といって、たぶん「人間
(じんかん)到る処青山あり」からきていると思います。軽井沢がまだかつての文学の薫りを残した閑静な避暑地だった頃の話ですが、次第に観光地化の波が押し寄せてレジャー施設なども増えてくるに及んで、もはや青少年の教育の地ではありえないという結論に至り、我々の母校の寮は1981年以降、赤城山麓の方へ移転したと聞いています。

 ちなみに我々の母校は根津財閥の東武系、軽井沢を主に観光開発したのはプリンスの西武系、こんなところにも東武vs西武の財閥の争いはあったのですかね〜(笑)。まあ、それはともかく、私は今回かつての青春時代の思い出が詰まった青山寮があった跡を訪ねてみたわけです。センチメンタル・ジャーニーというつもりもなかったのですが、現地に行ってみると、いろいろ思うことがありました。

  我々の学校では中学1年生は全員が約10日間、ここ軽井沢の青山寮で山上学校(林間学校)に参加するカリキュラムになっていました。クラスを超えた約10人ずつの小グループに分かれて、毎日毎日どういうことをするかを生徒だけで計画する決まりになっていて、何から何まで親や教師の指図・監督に束縛されていた小学校時代とは比べ物にならない自主性を要求され、それだけでもずいぶん大人の仲間入りをしたような気持ちになったものでした。

 あと中学2年生以降も、私は音楽部の夏休みの合宿で軽井沢青山寮に毎年ほぼ10日間ずつ寝泊まりしたことも懐かしい思い出です。軽井沢駅から寮までの間、ブラスバンドの大型楽器(バスドラムやチューバなど)を皆で交代しながら持ち運びました。そして国道18号線を信越本線の線路沿いに少し戻ったところに踏切があり、そこを渡ると私たちの学校の寮の門がありました。私は今回、国道18号線沿いにあったこの信越本線の踏切跡を目安に、かつての中学・高校の寮の跡を訪ねてみたのです。

 あの踏切は今もありました。音楽部の合宿は合唱班とブラスバンド班が途中で交代しましたが、私のように両方所属していた者は、途中で入れ替わる部員たちが東京(上野)と往来するのをこの踏切で送迎したものです。列車に乗った部員たちと手を振り合った踏切の警報機は、もう二度と来ない信越本線の列車を今も待っているかのように、夏草に埋もれてひっそりと佇んでいました。

 向こう側を北陸新幹線のスマートな車両が通り過ぎて行きますが、もう警報機は鳴らない。警報機の内側はしなの鉄道かJRの保線用地になっていましたが、フェンスが開いていたので中へ入ってみると、かつて私たちが行き来した信越本線の赤錆びた線路がこの踏切手前で途切れていました。さらに向こう側には架線の外された支柱が並んでいるのが見えます。

 そう、ここは廃線跡なのですね。隣を新幹線が走る廃線というのも珍しい(笑)。全国の廃線跡を撮り歩くカメラマンの写真集を見たこともあるし、実際に小樽では手宮線の跡地も巡ってみて、やはり何か物寂しさを感じたものでしたが、この信越本線の踏切は自分自身の青春の思い出に直結するものだけに、その寂しさはひとしおでした。

 私たちの音楽部の夏の合宿は、合唱班とブラスバンド班がそれぞれ約5日間ずつ、途中で入れ替わって青山寮に泊まりましたが、前半だけで帰京する部員をこの踏切で見送る時には万感の思い(ちょっと大袈裟か・笑)が湧くこともありましたね。ブラスバンド班の方が大所帯で低学年の部員も多く、合宿も賑やかだったので、特にブラスバンド班が先に帰る年などは、後半で火が消えたように寂しくなったと記憶しています。

 先に帰る部員たちの乗った列車が軽井沢駅を発車する時刻になると、寮に残った部員たちはこの踏切まで見送りに出ました。列車が来るまでの間、この警報機に登ったりして遊んだものですが、今だったらそんなことをすれば監視カメラに記録されて大目玉を食らうのは確実です。踏切内に人が立ち入ったという理由で列車がストップすることだってあるかも…。まあ、のどかな時代でした。

 この踏切の向こう側が私たちの学校の寮でしたが、寮の裏手にあった矢ヶ崎山も、上の写真でご覧になるとおり、西武プリンス系のスキーゲレンデになっています。山肌の芝生のようになっている部分が滑降コースですね。新幹線の線路を地下道でくぐって踏切の反対側へ出てみると、寮のあった場所は大きな駐車場になっていました。何から何まで変わってしまった〜。

 ただ一つ変わっていなかったのは、このあたりから望んだ浅間山の勇姿です。ちょうど寮の門があったあたりに立つと、なだらかに裾を引く浅間山の左側の稜線を離山
(はなれやま)が遮っている。これが私の記憶の中にある軽井沢の最も懐かしい風景です。

 我々の音楽部は運動部顔負けの体力トレーニングをしていたと別のコーナーに書いたことがありますが、それは合宿になるとさらに輪を掛けた激しいものになりました。軽井沢の地理に詳しい方ならたぶん驚かれると思いますが、寮と軽井沢駅と旧軽井沢を三角形で結んだ道をランニング、または寮と中軽井沢の駅を往復するコースをランニング、もっと恐ろしいのは矢ヶ崎山登山のランニング、お前らは陸上部か(呆れ)…というところですが、このランニングから帰ると寮の庭でお決まりの腕立て・腹筋・ウサギ跳び、その後朝食を取ってから午前中の練習…、ハア、書いてるだけで疲れた(笑)、そんなムチャクチャな青春時代を静かに見つめていたのが浅間山と離山でした。寮の門を出たところや、矢ヶ崎山の中腹から眺めた浅間山と離山の山容を思い出しました。

 考えてみれば大学卒業後の医師としてのハードワークに耐えられたのも、あの頃に鍛えた体力があったからでしょう。苦しくなるといつも、音楽部のトレーニングで走った学校の校庭を、もう一つ千葉県外房の鵜原にあった寮の近くの砂浜を、そしてここ浅間山と離山の麓の町を思い出したものです。

 立原道造の詩『のちのおもいに』も何となくダブりますね。

夢はいつもかへって行った
山の麓のさびしい村に
水引草に風が立ち
草ひばりのうたひやまない
しづまりかへった午さがりの林道を

現在の軽井沢は、浅間山の麓の水引草に風は立っていましたが、観光客の喧騒が鳴り止まない賑やかな街になっていました。そこから赤錆びた信越本線の線路を通って過去にタイムスリップしたような不思議な旅でした。

         帰らなくっちゃ