可哀想なクレメンタイン

 「雪よ岩よ我らが宿り〜♪」でお馴染みの雪山賛歌の原曲は『My Darling Clementine(愛しのクレメンタイン)』というアメリカの歌曲であることはよく知られています。ト長調の楽譜だとGとD7の2つのコードだけで伴奏ができて簡単なので、私も高校時代にフォークギターを買って貰った時に、初めて原語で弾き歌いをした曲でした。カラオケも無い時代でしたから、自分のギターで伴奏しながら歌うのって何だかとても気持ち良かったです。

 もっと幼い頃の思い出をたどれば昭和30年代初期、『珍犬ハックル』というアメリカ漫画が放映されていて、主人公の人語を話すおかしな犬が、ストーリーのポイントで必ずこのクレメンタインのサビの部分(下の※の部分)を原語で歌うのですが(もちろん他のセリフは日本語吹き替え)、「Oh, my darling, Oh, my darling…」が「あまだれ、あまだれ…(雨だれ、雨だれ)」にしか聞こえなかった、まあ、外国語のリスニング能力はすでに日本人になっていたということでしょうか(笑)。

 私が高校時代に歌って、今でも暗唱できる原語の歌詞をご紹介します。英語では(英語に限らないが)別に主語、述語、目的語を中学文法のとおりきちんと並べなくても意味が通じりゃ良いということを実感として理解した歌詞です。

In a cavern, in a canyon, Excavating for a mine,
Dwelt a miner, forty-niner, And his daughter Clementine.
※Oh, my darling, Oh, my darling, Oh, my darling Clementine,
 You're lost and gone forever, Dreadful sorry Clementine.

Light she was and like a fairy, And her shoes were number nine.
Herring boxes without topses, Sandals were for Clementine.
※繰り返し

Drove she ducklings to the water, Every morning just at nine,
Hit her foot against a splinter, fell into the foaming brine.
※繰り返し
 
Ruby lips above the water, Blowing bubbles soft and fine,
But, alas, I was no swimmer, So I lost my Clementine.
※繰り返し

 翻訳はいろいろなサイトにありますからもういいでしょう。Mineは私の物じゃなくて鉱山、そこで働くからminerは鉱夫、そう言えばcanyonはグランドキャニオンと同じだな、とかいろいろ英語の単語に興味を感じたものでした。英語の授業だけだったらこんなに面白くなかったに違いありません。Forty-niner(49年人)もアメリカ西部で金鉱が発見されてゴールドラッシュが起こった1849年に西部へ移住した人々を指すことも世界史で習っていました。

 金鉱を求めてアメリカ西部に移住した鉱夫の娘のクレメンタイン、光り輝く妖精のように美しく、ニシン(herring)の箱のふたを取ってサンダルにして、毎朝9時にアヒルを水辺に連れて来ていたが、切り株につまづいて川へ転落、自分は泳げなかったので助けることができなかった、という悲しい歌詞です。

 魚の空き箱に足を突っ込んでアヒルの散歩をさせる…って何だかコミカルな姿なので、私は5〜6歳の女の子のイメージしか最初は想像できなかったのですが、やはり若い男性の心をときめかせるような美しい年頃の娘だったのでしょう。川で溺れ死んでしまったクレメンタイン、永遠にいなくなってしまって悲しいよ〜と、何度も何度も歌うわけですね。

 このクレメンタインという女性の名前、実は『The Yellow Rose of Texas(テキサスの黄色いバラ)』というアメリカの古い民謡の中に少しだけ登場するバージョンがあります。テキサスの黄色いバラになぞらえた田舎者だが魅力的な女性、他の皆はクレメンタインを語り、ロザリーを歌うかも知れないが、テキサスの黄色いバラは僕だけの女の子さ…という歌詞も私には印象的でした。

You may talk about your Clementine and sing of Rosalee,
But Yellow Rose of Texas is the only girl for me.


 ところであるネット記事によると、『愛しのクレメンタイン』の韓国版の歌詞では鉱夫の娘ではなく、海辺に住む漁師の娘だそうですが、やはり父親より早く逝ってしまうらしい。日本の雪山賛歌よりは原語の意味に近いですね。私は雪山賛歌の歌詞も大好きですが…。

 さて何で私が若き日の想い出も含めてクレメンタインを語ったかというと、この『愛しのクレメンタイン』は悲しい結末に終わった純愛の歌かと思っていたのですが、最後の最後にちょっと予想外の歌詞があることを最近知ったからで、これではクレメンタインが可哀想かな…と不憫に思ったので書いてみたわけです。
 高校を卒業してからもレコードやネットに収録された歌詞を折に触れて見ていて、幾つかのバージョンがあることは知っていました。中でも娘を失った父親の鉱夫は悲しみのあまりクレメンタインの後を追った、とかクレメンタインは花の肥料になったとか、クレメンタインの幽霊を見たとかいうのはともかく、特に女性から見ればこれは薄情だという歌詞を見つけてしまいました。

How I missed her, How I missed her, How I missed my Clementine,
Till I kissed her little sister, And I forgot my Clementine
.

 
寂しいよ、寂しいよ、クレメンタインがいなくて寂しいよ。
 でも彼女の小さな妹にキスした時から、クレメンタインを忘れちゃったよ


 全国の女性の皆さん、いかがですか?男の私でもこれは薄情だろう、いくら何でももう少し歌いようがあるだろうよ、と思います。あまりにも現金すぎる。これじゃあクレメンタインが不憫ですよね。


エレベーターの扉が閉まります

 エレベーターにまつわる不思議な時空の話は別の記事に書きましたが、今回はもうちょっと現実的な話。皆さんは最近のエレベーターの扉を正しく開けたり閉めたり操作できますか。

 昔のデパートなどのエレベーターには必ずエレベーターガールと呼ばれる女性が添乗していて、乗客が扉の開閉を行なうことはほとんどありませんでした。私が初めてエレベーターの操作を行なったのは小学校4年生の夏休み、1泊2日の家族旅行で普段は滅多に行けない熱海の来宮ホテルに宿泊した時のことです。
 デパートのエレベーターでは専用の職員以外は操作することのできなかった行き先階ボタンや扉開閉ボタンを自分で押すことができる、ただそれだけで興奮する経験でしたね。熱海の海岸のことなど何も覚えていませんが、エレベーターのボタンを押した鮮烈な体験だけは、何十年経っても色褪せることはありません。

 最近もデパートや行楽地の展望台などのエレベーターは専用職員が操作していることが多いけれども、一般のオフィスビルや学校や病院などの公的な建物に設置されたエレベーターは利用者が操作しなければいけません。
 しかし専門の訓練を受けていない一般人が操作するわけですから、たぶんいろいろな危険が生じ、その中の一部は比較的大きな事故につながることもあったのでしょう。他の乗客がエレベーターに慌てて駆け込んできた、あるいは降りようとしたら足元が滑ってしまった、そんな情況で閉まりかけた扉を咄嗟に開くのは私にはけっこう難しい。

 本当は開くボタンだけにしておけば、間違いが起こるはずもなかったのだけれど、エレベーターの運行を速やかに効率的に行なうために閉めるボタンまで付けてしまったから、慌てて扉を開こうとして、間違えて閉めるボタンを押してしまう間違いが続発したのでしょう。それぞれのボタンには説明の文字が書いてあったが、日本語の漢字の『
』と『』は字の形が似ているから咄嗟の操作ではどうしても間違いを起こしやすい。

 だからもう何年も前からエレベーターの開閉ボタンは上の写真のようなデザインになりました。形の似ている漢字は避けて、ひらがなで『ひらく』と『しまる』と表記してある。また横向きの二等辺三角形を2つ組み合わせた記号を追加して、さらに念には念を入れている。さあ、皆さん、もうこれで間違えませんか?

 私はいつも間違えるんですね。だから誰かが慌ててエレベーターに駆け込んで来ようとするのを見ると、扉を開けてあげるつもりで閉めるボタンの方を押してしまいます。まるで“いじわるじいさん”ですね(笑)…などと笑っている場合ではありません。
 何で私が常に間違うのか考えてみたところ、どうもあの三角形を組み合わせた記号こそが原因らしい。あの記号のデザインを考案した人は、三角形で扉の動く方向を象徴させたことは明らかです。開くボタンでは2つの三角形の向きが外側へ、閉めるボタンでは内側へ、つまり、
ひらく ←|→
しまる →|←
という意味です。

 しかし私の目には、閉まるボタンの記号は外側へ向かって開け放たれる扉の絵を象徴しているように見えてしまうのです。自分自身に何度も言い聞かせているのですが、閉まりかけた扉を急いで開かなければいけない切羽詰まった情況になると、どうしても開け放たれる扉をイメージしたボタンの方に手が伸びてしまう。

 記号をデザインした人は、あの三角形で扉の動く方向を象徴させるデジタル思考、私はあの外側に向かって開く三角形の図形から本来とは正反対の意味を読み取ってしまうアナログ思考、ここまでデジタル思考とアナログ思考が衝突する場面も珍しいと思いますが、そんなことを言っていても私がエレベーター事故を誘発するリスクは他の人より明らかに高い。最近では行き先階ボタン以外にはなるべく手を触れぬようにしているのですが、本当にどうしたら良いか困っています。


医学とギリシャ神話

 医学英語はギリシャ語に語源を持つものも多く、普通の文学的英単語に比べて語感が異なっていて学習が難しい、だから中でもギリシャ語の背景にあるギリシャ神話を理解することによって、医療系学生の専門英語学習の手助けにしましょうという趣旨の論文をネット上に見つけました。長崎国際大学の平井美津子先生がお書きになったものです。

 確かに私も学生時代に講義を聴きながら、高校や予備校の英語の教科書ではお目にかからないような変な英単語もあるなと思っていましたが、日常の診療に使っているうちに慣れてしまいました。
 私もギリシャ神話は好きで昔からよく読んでましたから、平井先生の文章を拝見しながら、そうだよね、そうだよねと頷いていましたが、中には、へえ、これもギリシャ神話だったのかと意外に思った言葉もありました。

 一般の方にも比較的よく知られているギリシャ神話関係の医学用語は精神科領域に多いです。精神科(psychiatry)や心理学(psychology)はアタマにPSY(CH)が付いていて、医療関係者同士では“プシ”などと省略することが多いですが、これは王女プシュケ(Psykhe:ラテン語でPsyche)の物語に由来します。
 この物語もいろいろなバージョンがありますが、プシュケは美の神アフロディティ(ビーナス)をも嫉妬させるほどの絶世の美女、アフロディティは愛の神エロス(キューピッド)に命じてプシュケを下らない男と恋に落とさせようとしますが、そのエロスまでがプシュケの美しさに目が眩んで、自分自身が誤ってプシュケに恋してしまう、2人はいろいろあって結婚するが、プシュケは夫の姿を見てはいけないと固く誓わされた、夫は毎晩姿を見せずにやって来て優しく抱いてくれるが、プシュケはその夫が実は恐ろしい怪物だという讒言に疑いの心が芽生え、ついに夫の姿を覗き見してしまう、ところが夫は怪物どころか愛の神エロスだった、ヒエエエッ…というわけです。
 心に疑いが生じれば愛は消える、そういう教訓にもなっている神話ですが、姿を見られた愛の神は、疑いを抱いた心(プシュケ)とは一緒にいられないと言い残して立ち去ってしまうのです。ギリシャ神話の西洋物ですが、何となく日本の『見るなの座敷』のモチーフに相通じるものがありますね。

 さてpsych-は心を表わす医学関連の接頭語になっていますが、精神医学関連で自己愛をナルチシズム(narcissism)、自分自身に陶酔する人間をナルチシスト(narcissist)というのはご存知と思います。
 美青年ナルキッソス(Narkissos)は森の妖精(Nymphe)たちから求愛されながらもいつも冷淡だったために神々の怒りを買う、そんなに他人を愛するのがイヤなら自分自身を愛してしまえということになり、泉の水面に映った自分の姿を愛してしまった、あまりの自分の美しさにその場を離れられなくなったナルキッソスはとうとう泉のほとりで餓死して、一輪の水仙の花になりました、だから水仙は英語でもnarcissusです。
 異性から想いを寄せられながら、何だかんだと御託を並べて相手にもしようとしない美男美女の皆さま、ご注意あそばせ、どうぞご自愛のほどを(笑)。

 ちなみに森の妖精のニンフ(nymph)はギリシャ語の若い娘 nymphe に由来していて、女性の性欲亢進状態である女子色情症 nymphomania(ニンフォマニア)の語源になっているほか、ラテン語になる時にn→lに誤記されて lymph になり、リンパ液を表すようになったという興味深い話も紹介されていました。ラテン語の lymph は転じて森の清らかな湧き水の意味もあり、これは解剖学的なリンパ液として非常にふさわしい表現です。

 もう一つちなみに、他人の夫を誘惑して略奪愛などと勝ち誇っているような女性は女子色情症(nymphomania)のことが多いでしょうが、これとは逆に人妻だろうが部下の女性だろうが教え子だろうが見境なく手(?)を出す男子色情症はsatyriasis、酒の神バッカスの従者で無類の女好きだったサテュロス(Satyros)に由来するそうです。

 次にエディプス・コンプレックスも有名ですね。男の子が父親に対して抱く対抗心や憎悪のことです。エディプス(Oedipus)という人名に由来しますが、これはテーバイのライオス王の息子です。ライオス王は息子に殺されるとの神託を受けたため、息子の足にピンを刺して山に捨てさせた、ところがどっこい、この息子が命を助けられて成人し、いろいろな運命に導かれて実の父とも知らずにライオス王を殺してしまうのです。

 平井先生の論文を読んでいて、へえ、これも…と驚いたのが、このエディプスにまつわるもう一つの医学英語です。エディプス(Oedipus)は足にピンを刺されて捨てられたから足が腫れていた、だからギリシャ語で oidein(腫れる)+ pous(足)でOedipusなのだそうです。この“腫れる”のギリシャ語から、直接神話とは関係ありませんが、edemaという用語が派生したようです。浮腫とか水腫(むくみ)という意味です。医療関係者はもう当たり前のようにエデ―マと発音していますね。

 さて平井先生の論文にはこんな具体例があと幾つも紹介されているのですが、それらはまた機会があったら書くことにして、今度は私自身が講義や実習でギリシャ神話を引用する事項が2つほどあるので紹介しておきます。これは平井先生の論文には出ていません。

 肝硬変などで肝臓に入る肝門脈という血管の流れが悪くなると、本来肝臓に流れるべき血液が臍を中心にお腹の皮の方へ逃げてしまう、このため臍の周囲の血管が太くなって、まるでたくさんの蛇がうねっているように見えることから、医学的にこの所見をメデューサの頭(caput medusae)といいます。

 メデューサ(Medusa)はギリシャ神話に登場するゴルゴン3姉妹の末妹、もともとは美少女だったらしいですが、女神アテナの怒りを買って醜い怪物に変えられてしまう、それも並みの醜さではない、髪の毛の1本1本が恐ろしい毒蛇で、メデューサの顔を見ただけで誰でも恐ろしさのあまり石になってしまうほどの醜さなのです。臍の周りに浮き出た血管が、まるでその毒蛇のようだというのでメデューサの頭と呼ばれるわけですが…。

 この恐ろしい怪物を退治したのが英雄ペルセウス、流星群で有名な星座にもなっていますね。顔を見ただけで石になってしまうような醜女をどうやって退治したか、一説では鏡で見ただけなら石にならなくて済むから、ペルセウスは鏡に映したメデューサの姿に向かって剣を振り下ろして首を切り落としたそうです。このあたりの物語は『タイタンの戦い』(2010年)に映画化されていますし、もっと前にも映画化されているようです。

 ところが最近の若い学生さんたちはこういうギリシャ神話を知っている者が少ないんですね。ゴルゴン3姉妹の末妹なんていうと、ボア・ハンコックしか知らない。たぶん教養ある年配の方々はボア・ハンコックの方を知らないでしょうから、簡単に解説しておきますと、最近の若者たちに大人気の尾田栄一郎さん原作の連載漫画『One Piece』に登場する絶世の美女で、自分の美貌に目が眩んだ男どもに「メロメロメロ〜」と呪文を掛けると、男どもが石になってしまうという超能力の持ち主です。作者の尾田さんは明らかにギリシャ神話のメデューサの物語をベースにしているはずですが、読者の若者たちの大半は気が付いていません。だから私が代わりに講義してあげてるわけですね(笑)。

 さてペルセウスが切り落としたメデューサの首がその後どうなったか、ペルセウスがその首をお持ち帰りで布にくるみ、愛馬ペガサスに乗ってエチオピア上空を通りかかると、ここにまた絶世の美少女アンドロメダが海の岩に縛りつけられている、母親のカシオペアがあまりに娘を自慢したため海神の怒りを買い(どうもギリシャ神話では美人は神々の怒りを買いやすい)、アンドロメダは化け物クジラの生贄に捧げられることになってしまったのです。
 まさに化け物クジラが美少女アンドロメダを一呑みにしようかという刹那、ペルセウスはメデューサの首を化け物クジラに向かって投げつける、すると鏡で反射させれば見ても安全なメデューサの首も、化け物クジラには効果てきめん(どうもこのあたりがご都合主義だが)、クジラは石になってしまいましたとさ、めでたし、めでたし。

 さてゼウス率いるオリンポスの神々はかつてクロノスの巨人族と戦争して地上の支配権を獲得したわけですが、敗れた巨人族を地下の黄泉の国に追放してしまいました。ただ1人追放を免れたのが力持ちで気立ての良いアトラス(Atlas)、しかし神々はこのアトラスに天空を支え続ける仕事を命じます。
 長年にわたり天空が落ちてこないように支え続けたアトラス、さすがの力持ちもこの苦行には弱音を吐き、娘にあのメデューサの首を借りて来て俺に見せて欲しいと頼みました。未来永劫天空を支え続けるくらいなら、いっそ石になってしまいたいと思ったのですね。親孝行な娘は父親の最後の望みを叶えるべく、たぶんどこかにあったメデューサの首を借りて来て父親に見せたそうです。しかしどこにあったんでしょうね、ペルセウスが化け物クジラに投げつけたメデューサの首が…?ここにも何かご都合主義を感じますが…(笑)。

 こうして石になったアトラスは巨大な山脈に姿を変えました。アフリカ北西部のモロッコあたりにあるアトラス山脈です。かつての古いヨーロッパ世界の地図の西方には、この善良な巨人アトラスが天空を支えている絵が描かれていました。だから現在でも地図のことをアトラス(atlas)といいます。また我々が解剖学などいろいろな教科を勉強するときに使う図版集のこともアトラスといいます。勉強するのに必要な地図という意味でしょう。

 あともう一つ、我々の巨大な頭蓋骨を背骨の一番てっぺんで支えている骨、これは第一頸椎ですが、別名をアトラス(atlas)といいます。天空のような重たい頭蓋骨を支えている巨人にたとえたわけですね。このエピソードは私の学生時代、解剖学アトラスに載っていました。ギリシャ神話って奥が深いですね。


年齢不相応な会話

 先日、朝の電車の中で異様な会話を耳にして驚きました。
「もう私たち年だからね〜。」
「若い子たちにはかなわないね〜。」
声のした方をチラッと見たら…、どんな人たちだったと思いますか?

 何と…、どう見てもまだ中学生にしか見えない2人の女の子が話していたのです。彼女たちの言う“若い子”とは小学生のことなんですね〜、驚きました(^^;。
 あんた方が“もう年”だったら、還暦過ぎた私たちはいったい何なんだよ、まるで前世紀の遺物みたいじゃないですか。何か言い返したかったですけど、こんな会話をする中学生って逆ギレされたら怖いですからね〜(苦笑)

 しかし考えてみれば、あの子たちが悪いんじゃなくて、あの子たちの周囲にいる大人たちが年がら年中そんな会話をしているんでしょう。だからそういう大人たちの口癖を真似して、「もう年だから…」とうそぶくことで、何となく自分も大人になったような気分になっているのではないかと思います。悲しいことです。

 「もう年だから…」の後に続く大人のセリフは何か。
 「もう年だから勘弁してよ。」私はもう“高齢者”なんだから、これ以上何か要求しないでよ、これ以上何か余計な仕事させないでよ、これ以上私を頑張らせないでよ。こんな言葉をまだ10歳代の子供たちにまで口真似させてしまうような大人たちは少し反省して欲しいと思います。

 確かに50歳60歳を越えてくると身体機能もだんだん低下してきて、10歳代20歳代の頃のようには行かなくなることも多い。私自身、今日の講義で教室の黒板に板書していて漢字をいきなりド忘れしてしまいました。持続の“続”という字の右側の作りです。幸い数秒後に思い出しましたが、こんな事があっても私は「もう勘弁してよ」とは思いません。自分の大脳機能が致命的に低下するまでに、1人でも多くの若い人たちに自分の知識を頑張って伝えておきたいと思うだけです。

 カミさんも先日オーケストラのコンサートマスターの契約を満了しましたが、定年で演奏活動を縮小していくのかと言われるのをすごくいやがっています。自分はこれからソリストとして活動分野を広げて行きたいと思っているのに、同年輩の人たちがそろそろ人生の幕引きを考えているようなセリフを言うのが不思議みたいです。

 まあ、年配の大人たちはともかく、まだ10歳代の子供たちにまで人生を達観させてしまうような言動には注意したいものですが、電車の中の年齢不相応な会話のことを書いたついでに、もう一つ思い出した会話があるのでご紹介します。

 もう10年ほど前の地下鉄の車内、私のいた場所とは反対側の車両の端あたりに夫婦らしい婦人連れの高齢者一行数名が乗り込んできました。夫婦連れなのでかなりテンションも高く、耳も遠いせいか周囲の乗客の目も憚らず声高に会話に興じているようです。何しろ車両反対側の私の座席にまで届くような大声でしたから。
 するとそれが癇に障ったか、前の駅から乗っていた別の高齢者が「うるさい!」と怒鳴りつけ、それをきっかけに車内で高齢者同士のバトルが始まりました。夫婦連れの方は婦人たちが「やめときなさいよ」と諌めるのも聞かず、口論はエスカレートする一方。
 やがて最初に罵声を発した方の高齢者から意外な一言…、
「バカヤロー、俺は戦争に行ったんだぞ!」
するともう一方も「俺たちもだ。」
 何と戦争で従軍体験者同士のバトルだったのです。あの時期、どんなに若く見積もっても70歳代後半を過ぎた方々同士の口論、周囲の乗客のほとんどが自分たちより若いのですから、もっと大人の対応ができなかったのかとも思いますが、たぶん最初に怒鳴った方はすでに連れ合いを亡くされていて、楽しげな夫婦連れの同年輩者どもが気に食わなかったんだろうと今でも胸が痛みます。世の中いろんな境遇の人がいるのですから、夫婦者たちの方ももっと気遣いができなかったかという気もしますが、古来稀な古希(70歳)、良い年齢を重ねたいものです。


ターヘル・アナトミアの穴

 今年(2016年)の春の病理学会で仙台に行ったら、学会の書籍展示コーナーに西村書店から『解体新書』の復刻版が出版されていたので買ってみた。『解体新書』とは学校の歴史の授業でも出てきたが、1771年3月4日、小塚原刑場で刑死者の解剖(腑分け)を見学した杉田玄白や前野良沢らは、すでに入手していたオランダの医学書『ターヘル・アナトミア』の記載が実際の人体とほとんど変わらぬほど正確だったことに驚き、この洋書を翻訳して我が国に西洋医学を広めようとした、その訳書が1774年に刊行された『解体新書』であったことはご存知だろう。

 洋書の翻訳作業は立派な辞書が完備している現代においてさえ大変な苦労を伴うのに、オランダ語を満足に読める人間もほとんどいなかった時代に、『解体新書』のような訳書を世に出した功績は言葉で言い表せないほど大きなものがある。ただし翻訳は漢文で書かれており、当時の日本人でもこの本を読もうと思えば、返り点などは付いているものの、今度は漢文の読み書きは完璧でなければいけない。

 日本が西洋医学を取り入れる契機になったとも言える『ターヘル・アナトミア』の翻訳、これだけの偉業に携わったにもかかわらす、訳者の名前には前野良沢が含まれていない。一説によれば、学究肌の良沢は誤訳が多いことを自覚しており、訳者に名を連ねて後世に残すことを恥じたとも伝えられており、また一方の玄白は大業の完成によって世間的な名利を望むタイプの男だったとも言われている。まあ、現在の学会を見渡してみても、あの先生は良沢タイプだね、この先生は玄白タイプだね、と大まかに2通りに分けられるから面白い。玄白タイプの方が圧倒的に多いような気もするが(笑)。

 さて私も今回、初めて復刻版として『解体新書』の図版を見て、一つだけ疑問に思ったことがある。どなたか医学史上の定説をご存知の方がいらっしゃったら教えて下さい。
 それは『解体新書』に出ている頭蓋骨の絵、イ、ロと片仮名が振ってあるし、平賀源内が『解体新書』用に画家を紹介したとの記録もあるらしいから、日本人が原本の図を模写、または実物の骨格をスケッチしたと思われるが、少なくとも医学的な目で観察すれば必ず目につく4個の穴が描かれていない。これが非常に不思議なのである。

 左の図が復刻版に出ていた元の絵、本来ならば右の絵に赤で描き加えた4個の穴がなければいけない。この4個の穴は三叉神経という顔面皮膚の知覚を脳に伝達する神経が通る穴で、目の下にあるのが“眼窩下孔”、顎にあるのが“おとがい孔”という。これらの穴が無ければ、鼻の頭が痒いとか、頬を引っぱたかれて痛いとかいう知覚刺激を脳に伝達するまでに物凄い回り道をしなければいけなくなる。

 頭頂部のイとかロとか書き込んであるあたりのギザギザした線は縫合線といって、これは分娩時に胎児の頭が産道を通過するために頭蓋骨がまだ何枚かの骨に分離していた名残なのだが、この縫合線がかなり正確に描かれているのに、眼窩下孔とおとがい孔がまったく描かれていないのが不自然である。

 まだ江戸時代で解剖学の知識も不正確だったし、たぶん『ターヘル・アナトミア』の原本にも描かれていなかったんじゃないの、と軽く流しておくのが無難なのだけれど、歌川国芳という浮世絵師が描いた『相馬の古内裏』という作品の、大宅太郎光国という武者が髑髏(どくろ)の妖怪と戦う場面、この髑髏にはきちんと眼窩下孔とおとがい孔が描かれている。ただしこちらには頭蓋の縫合線がなくてノッペリしているが…。



 『相馬の古内裏』は1840年代の作品ということで、『解体新書』よりは70年ほど時代が下っているが、それこそ江戸時代のことで解剖学の知識がそんな急速に進歩するわけでなし、また一介の浮世絵師が外国の医学書や解剖図版などを簡単に手に入れられるわけでなし、歌川国芳はおそらく当時ならまだ時々はあったであろう行き倒れの旅人の野ざらしのしゃれこうべか何かを丁寧にスケッチしたのではなかったか。

 万難を排してオランダ伝来の『ターヘル・アナトミア』を入手したほど医学に関心を示していた杉田玄白や前野良沢ですら、一介の浮世絵師の観察眼に及ばなかったのかと不思議に思う。彼らが腑分けに立ち会った小塚原刑場には、刑死者のしゃれこうべがゴロゴロしていたというし、『解体新書』の図版作成で頭蓋骨の絵を描くに当たって、もう一度それらの実物を確認しようという気にはならなかったのだろうか。

 ただ『解体新書』の図版で、手足の指を動かす筋肉の腱の走行のスケッチはかなり精密である。玄白らの興味の対象がそういう整形外科学的な知識に偏っていて、頭蓋骨はあっさりとスルーされたのだろうと思うが、私も解剖学や病理学という人体の形態を観察する分野に長年携わってきた者の端くれとして、「物をみる」ことの難しさを痛感させられる。

 「みる」とはただ網膜に対象物の像を結ばせるだけの「見る」ではない、ある物の本質を極めるために対象物を一度細かい部分の要素に分けた後に再び統合して全体として理解しようとする「観る」である。
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紫陽花の季節

 毎年そろそろ梅雨入りかという季節になると、駅までの通勤路をはじめとして東京都内でもあちこちに紫陽花
(あじさい)の花が目立つようになります。ああ、またうっとうしい季節が来て猛暑の夏に続くのかと憂鬱な気分にもなりますが、実は紫陽花に関する私の記憶に曖昧な点があるので、今回は前項にも書いた「物をみる」難しさについて改めて考えてみます。

 昔は紫陽花の咲くジメジメした雨の季節には食中毒で亡くなる人が多く、そういう人たちを土葬した墓の土を固めるために紫陽花の木を植えたことから、何となく不吉な花のイメージで忌み嫌われていた時代もあったらしいですが、私たちの世代が物心ついた頃はもうそんなことはなく、紫陽花はカタツムリと共に梅雨の6月の主役になっていました。

 カレンダーなんか見ても、3月はひな祭り、4月は桜の花見、5月は鯉のぼり、6月は雨傘に紫陽花が定番で、ついでに言えば7月は七夕、8月は夏休みと続いたものです。幼稚園や小学校のお絵描きや図工の時間も、紫陽花の花をよく題材に使いました。1人1枚ずつピンクや紫色の色紙を渡されて花を折り紙する、そして出来上がったクラスの皆の花を集めて大きな紙に丸く貼り付けると紫陽花の花になる、そんな共同作業の思い出がありますね。

 幼稚園や小学校で作った紫陽花はいわゆるホンアジサイと呼ばれる品種、小さな花が手毬のように丸く群れ集まって1つの大きな花のように見えるお馴染みの紫陽花の形です。しかし本当は私たちが折り紙で作った“花”は花ではなくて額なのだそうです。普通の花ならばきれいな花弁の陰に隠れて支えている緑色の部分ですが、紫陽花ではそれがまるで群生する小さな花のように見えるのだそうですが、それはともかく…。

 左の写真がお馴染みのホンアジサイですが、紫陽花にはもう一つ右の写真のようなガクアジサイという品種があります。実は私にはこのガクアジサイに関する幼少期から青春時代にかけての記憶がまったく無く、このガクアジサイという花を知ったのは小児科医になって7年目の梅雨の頃、伊豆諸島を乳児検診で大島、新島、式根島、神津島の順に回った時のことでした。

 検診で船から降りて、港から宿舎までの道々、また宿舎から検診会場までの道々、このガクアジサイが到る処に咲き誇っていたものです。初めて見る(と思っていた)不思議な形の花を物珍しげに眺めていたら、島の保健所の人から、あれはガクアジサイって言うんですよ、別名ハマアジサイとも言いますよ、と教わりました。

 へえ、島の紫陽花は都区内に咲いているのとは品種が違うんだと、一つ知識が増えた喜びを胸に島から帰って来て驚きました。エエエッ、都区内にもガクアジサイが咲いている…!
 ガクアジサイは日本原産の花で、伊豆諸島や伊豆半島、房総半島などに自生していると書かれています。真ん中のツブツブした部分が花で、それを囲む4弁の花のように見える部分が額なのだそうですが、こんな印象的な形をした花が、私が乳児検診で伊豆諸島を訪れた昭和58年を堺に都区内でも咲き始めたとは考えにくい。
 つまりそれまでも幼少時から青春時代にかけて、私もどこかでガクアジサイの花の形は網膜に映していたはずなんですね。これが物を知らない怖さ、物に注意しない恐ろしさなんです。新しい事物が目に触れたら「あれは何だ?」と驚く心、そしてそれを観察して自分の知識に蓄える力、それこそが「物を観る」ということです。

 残念ながら昭和58年までの私はガクアジサイを
見たことはあっても、ガクアジサイを観たことはなかった。前項で述べた杉田玄白先生や前野良沢先生を笑うことはできません。
 私は毎年梅雨入りの季節になってガクアジサイの花を見かけると、クサヤを肴に島焼酎で検診メンバーと毎晩のように“親睦(笑)”を図っていた楽しい思い出と共に、「物を観る」難しさを何度も何度も考えさせられています。


あの日に戻りたい

 これは私の学科の第1期生が卒業する時の謝恩会の写真、2010年3月のことだからもう6年以上も昔のことになる。もうここに写っている卒業生たちも職場では立派な中堅メンバーとして職務を担っていることだろうし、良き家庭人となった者も何人もいる。また彼らに続く7期生までが今春までに卒業して先輩たちの後を追い、私たちもかつて歩んだ道を同じように歩き始めている。

 不思議なもので、ここに写っている卒業生たちは当時まだ20歳代前半、というより20歳代に突入して間もなかった者が大半であるが、現在私たちの手元で在学中の現役学生まで含めて、どの学年も同じ20歳代前半を私たちの目の前で過ごしていったはずなのに、なぜかこの1期生が一番大人のイメージが強く、以下順に1期下がるごとに若いイメージになっていく、しかしでは現役の在学生は10歳代くらいまで幼いイメージになってしまうかというとそうでもない、やはり彼らも今は20歳代前半の青春を謳歌しているのだ。
 まあ、こちらも1年ごとに年齢を重ねていくせいもあるだろうが、各期卒業生に対する主観的な若さ/幼さのイメージにギャップが生じる理由はよく分からない(笑)。

 さて以上は本題とは関係ないが、実はまだこの第1期生が在学していた頃から使い始めているWindows 7のマシン(Acer)がちょっとおかしくなってきた。先日Microsoft社から配信される更新プログラムが自動的にダウンロード→インストールされた瞬間から、エクスプローラーが作動しなくなってしまったのだ。Windowsのエクスプローラーとは普段は意識もしないくらい頻繁に当たり前のように使う機能、ハードディスクや外付けメモリーの中に格納されているプログラムやファイルの場所を示してくれるものである。

 要するにこれのことだが、USB(Universal Serial Bus)を介して画像などのファイルを移動またはコピーしようとするたびに、『エクスプローラーは動作を停止しました』のメッセージとともに強制終了してしまい、『この問題の解決法を探しています』とか何とかアリバイ的な言い訳のメッセージが表示されたかと思うと、エクスプローラーが再起動されて元に戻ってしまう。

 何度やってもハードディスクから外付けメモリーへ、あるいは外付けメモリーからハードディスクへのファイルの移動もコピーもできなくなってしまった。マウスでドラッグしても駄目、管理メニューからコピーや切り取りを選択して貼り付けるのも駄目、Windowsをセーフメニューで起動してから試みても駄目、というわけで大変困った状況になっているのである。

 これは最近のアイコンで動くコンピューターの存在意義を半分以下にしてしまう致命的な状況であり、例えばこんなサイトの更新内容を外部記憶装置にバックアップしておくことも不可能になる。

 まさかWindows 10へのお仕着せアップグレードを拒否したユーザーのパソコンに対するMicrosoft社からのサイバー攻撃というわけでもなかろうが、それだって疑い始めたらキリがない。そういえばWindows 7に対するサポート終了も前倒しされると発表されたそうだ。さっさとWindows 10にアップグレードしろという嫌がらせか(怒)。
 まあ、私のWindows 7マシンも7年近く使ってきたわけで、先代のVistaマシンが2年半でクラッシュしたのに比べたらずいぶん長生きしたわけだが、パソコンもせいぜい5年が耐用年限だと言う人もいるので、そろそろWindows 10マシンに代替わりすべき時期にきているのは間違いないだろう。

 とりあえず当座の苦境を切り抜けるために、私も今まで使ったことのない「システムの復元」という最後の奥の手を出した。これはパソコンのシステムをまだ正常に動いていた時点の状態にまで戻す機能のことで、もちろんその間に新たにインストールされたプログラムや更新された機能はすべてチャラになるが、それらがシステムに与えた悪影響もすべてご破算にできる。

 これで私のパソコンのエクスプローラーも正常に機能するようになって、ファイルやフォルダーの移動やコピーもできるようになったが、こういう復元機能が人生にもあれば良いのになあと羨ましく思うのははたして私だけか(笑)。
 あの日に戻りたい、あの日に戻って自分の汚点を帳消しにしたい、あの日に戻って今度はちゃんとやり直したい、あの日に戻って取るべきものは取っておきたい、言うべきことは言っておきたい、等、等…。何でパソコンにはできて人間にはできないのか、って当たり前か…(笑)。

 というわけで、現在のところ私のパソコンのエクスプローラーは正常に動いていますが、またMicrosoft社の更新プログラムが入ってしまうと元の木阿弥になってしまうので、自動更新をオフにしてあります。しかしそんな間に合わせの状態を長く続けているわけにも行かないので、近々システムの交換を行なう予定ですが、そうなるとけっこう定期的に更新している私のサイトもしばらく更新回数が減るかも知れません。楽しみにして下さっている皆さんがいるとは思えませんが、万一いらした場合はどうかご了承願います。


馬から落ちて落馬して

 しばらく前から気になっていることだが、通勤に使っている東京都区内のJR東日本の駅の自動改札口、タイミング悪くフライング気味にゲートに飛び込む乗客がいると、女性の声で思わず吹き出してしまうような音声ガイドが入る。
下がってバックして下さい
 最近の自動改札機は一昔前なら考えられないくらい性能が向上し、定期券のICカードを読み取り機にかざしただけで、そのまま歩度を変えることなくスムースに通過できる。しかし一昔前、二昔前以上の改札機に慣れてしまったオジサン、オバサンたちは、ゲートが途中で閉まってしまったら大変とばかり、改札を通り抜けるまで上半身をふり返るようにして、必死にICカードを読み取り機に押し付けている。これをやられるとすぐ後に続く乗客は自分がICカードをかざすタイミングを乱されてしまい、上記の優しい女性の声で、あの変な音声ガイドに怒られることになる。

下がってバックして下さい
この文章が可笑しいのは分かりますよね。一歩進んでバックできませんから(笑)。こういう単語の重複はついつい誰でも思わずやってしまいますが、それが事もあろうにJR東日本の駅の自動改札機から毎日毎日繰り返し流れている、それが可笑しくて、日々の通勤経路での一服の清涼剤になってます。

 そう言えば言葉の重複を笑うこんな七五調の諧謔がありましたね。

 
馬から落ちて 落馬して
 女の婦人に 笑われて
 顔を真っ赤に 赤面し
 家に帰って 帰宅して
 腹を切って 切腹した


 確か最初に、
昔いにしえの侍が だったか 昔武士の侍が という句が入っていたような気もしますが、それはともかく、私もJR改札口編の七五調をひとつ作ってみました。

 
夕べは昔の旧友と
 ちょっと深酒飲み過ぎて
 頭痛が痛くて起きられず
 時間に遅れて遅刻して
 改札走って駆け込めば
 ゲートが閉まって閉鎖され
 一歩下がってバックして
 今度は通れて通過して
 階段昇って駆け上がり
 電車に乗れて乗車できた

後日談:JR東日本の改札口の音声アナウンス、この記事を書いた翌月あたりから変わりました(笑)。
もう一度バックして下さい
ですって…。でもこれも変ですよね。“もう一度”って、すでに1回バックした人に再度バックして下さいってことですから。前進して改札に入った人には、“とにかく1回バックして下さい”と言わなければいけません。


防衛戦闘準備

 関東地方の梅雨明けが宣言された日、いよいよWindows 10への無償アップグレードの最終期限が過ぎましたね。ウィンドウズ・ユーザーの皆様はいかがお過ごしでしょうか。ただでさえ暑苦しい夏が、さらに過ごしにくくなりました(笑)。

 私は自宅でネット接続用のWindows 7マシンのエクスプローラーが動かなくなったので、仕方なくWindoes 10搭載のノートパソコンを1台購入する羽目になりましたが、いまだにシステムの復元という奥の手でWindows 7マシンをなだめすかしながら使っていますし、またもうこれも7年目になるWindows 7のデスクトップコンピューターを完全にネットから切り離して、今後数年間は丁寧に使い続ける計画です。

 Windows 10への無償アップグレードに応じなかったユーザーに対するマイクロソフト社の攻撃が、この日を境に一段と悪質化することが予想されるので、ささやかなレジスタンスの意味も込めて当面は情勢を観察しようと思い、Windows 7部隊の陣形を組み直したところですかね。

 しかし何でそんなにWindows 10を警戒するのか、ほとんどのユーザーの皆さんは怪訝に思われるでしょうが、私が一番イヤなのは動作が遅いことでも、画面の操作性がガラリと変わってしまったことでもなくて、ワードとかエクセルとかいうオフィスのソフトが、インターネットにサインインして、クラウド(クラウド・コンピューティング)でしか使えなくなってしまったこと、クラウドとはインターネットに接続したサーバー上でユーザーがサービスを利用するシステムだそうだが、私のような昔の人間にとっては本能的にかなり危険な匂いがします。

 本当は私もこのクラウドという雲のような利用形態について、十分な知識も情報もなくてよく分からないのですが、だからこそ当面は従来のWindows 7マシンの陣形を立て直して様子を眺めていようとしているわけです。

 どこか自宅や職場以外のサーバー上で、例えばワード(ワープロ・ソフト)を使って文章を書く、これって抵抗なく受け入れられますか?自宅で書いた文書ファイルを、職場ででも通勤途中のスマートフォンからでも操作できるから便利だと言うけれど、ハイ、そうですかとすぐに納得できる人はよほど警戒心が無いんですね。

 こんなサイトにアップするような文章は、どうせネット上で不特定多数の人たちに読んで頂くことを目的にしているのだから、別にクラウドの雲の上で書いたって良いんです。
 しかし例えば私たち学校の教員が学生用の試験問題をクラウドのサーバー上で作成する、職場で作った試験問題を自宅で校正できるから便利だって…?自宅で読めるということは、その問題を受験する学生諸君も何か操作すれば読める可能性があるということではないのですか?
 また例えば昔の『おさななじみ』という歌の歌詞で、何となく書いたラブレターに幼なじみの娘のイニシャル付けた、それがもしクラウドのサーバー上にあったら、誰かに読まれてネットに拡散される恐れはないのでしょうか?あるいは『小さな日記』の忘れたはずの昔の幼い恋を綴った日記がいつの間にか誰かに読まれているということだってあるかも知れないじゃないですか。

 文書が暗号化されているから大丈夫だよ、パスワードを掛けておけば大丈夫だよ、たぶんほとんどの人はそう思っているでしょう。ミッドウェイ海戦の日本海軍の司令官みたいな人たちですね。しかし絶対安全な暗号やパスワードなどこの世には存在しません。
 絶対に解読してやるという意志の前にはいつか必ず、ナチスドイツのエニグマ暗号機も解読されましたし、神様が作ったDNA(遺伝子)とタンパク質の暗号でさえ解読されたのです。
 現代の電子暗号は無敵だと言いますが、もし国家権力がある人間を内偵しようとしたとして、またはある不審人物と見なした人に関する資料の入手を捜査当局が裁判所の許可を取ったとして、自分の文書に掛けられている暗号やパスワードがどこかから漏洩されないという保証があるのでしょうか。

 これまでのワード文書は、自宅なら自宅、職場なら職場のハードディスク自体が盗まれない限り、暗号化もパスワードも必要なかったのです。雲(クラウド)に乗れて便利になったのか危険になったのか、しばらくは防衛態勢を敷いて情勢を眺めているつもりです。


人を育てるのは人

 今年(2016年)8月にブラジルのリオデジャネイロで開催された第31回オリンピック大会は、当初心配された大規模なテロ事件もなく無事に終了し、日本選手団も金メダル12個を含む史上最多の41個のメダルを獲得して、国内はメダルラッシュに沸きかえっている観があるが、私にとってはこれらのメダルのうちでも特にシンクロナイズドスイミングの2個の銅メダルが印象深い。

 日本シンクロチームと言えば、1984年のロサンゼルス大会以来、ソウル、バルセロナ、アトランタ、シドニー、アテネと6大会連続でメダルを獲得させた井村雅代コーチの存在が大きい。鬼と呼ばれたスパルタ教育で知られ、日本シンクロ育ての親とも言われるほどの功労者は、アテネ大会を最後にいったん54歳という高齢を理由に日本チームのコーチを解任され、その後は中国に招聘されて当時未熟だった中国チームに北京とロンドンの2大会連続でメダルを獲得させている。日本水泳連盟との間に確執があったとも噂されているが、いずれにせよ日本チームは井村コーチ不在の間に一気に低迷してロンドン大会ではついにメダル無しという憂き目を見たことから、2014年以来再び井村コーチが日本代表チームに復帰することになった。そして迎えたリオデジャネイロ大会、結果は誰の目にも明らかな形で表れた。

 要するに井村雅代コーチでなければ世界の舞台の頂上で戦える選手は育てられなかったということか。まさに星飛雄馬を彷彿とさせるような井村コーチの指導ぶりは、かねてからさまざまなメディアで紹介されているが、逆にそういう一見“前近代的”な指導法に対する反感も水泳連盟との確執に含まれていたのではないかと想像される。

 シンクロナイズドスイミングも他のスポーツ競技と同様、現代のスポーツ理論やトレーニングメソッドを取り入れた最新の選手養成プログラムを持っているだろうが、そんなプログラムだけでは強力な選手は育たなかった、井村コーチという人がいなければメダルは取れなかった。結局は人を育てるのは人ということではないのか。
 新しいプログラムさえ完備していれば、それに乗っかって良い選手が自動的に育っていくというものではない。まだ54歳という若さの井村コーチを解任した、あるいは慰留しなかった2004年当時の日本水泳連盟はそのあたりの認識が甘かった。

 人を育てるのは最後は人である。決して理論や方法論ではない。星一徹や飛雄馬は劇画の中の架空人物にせよ(笑)、新しいスポーツ理論など学んでいなかった巨人軍の荒川コーチが世界の王貞治選手を育てたではないか。これは決してトップアスリートなどエリートの養成にだけ関わってくる話ではない。

 我々の大学教育の現場でも、最近『ポートフォリオ』だの『ルーブリック』だの訳のわからない洒落た横文字のついた教育理論を得意になって振りかざし、カリキュラムマップとやらを作らなければ良い学生が育って行かないなどと机上の空論を吐く輩が増えているので、ほとほと嫌気がさしているし、それをまた文○科○省のお役人様が督促、強要してくるから困ったものだ。他に督促すべきことは無いのかと言いたい。
 そんな得体の知れない“新”教育理論の無かった時代に高等教育を受けた我々の世代はダメ卒業生なのか、それとも最近の学生は“ゆとり”のダメ世代だからそういう“新”教育理論が必要なのか、我々か学生かどちらかの世代をバカにした前提が無ければそういう教育理論は存在し得ないはずだが、そんなことも理解できない自称教育専門家どもが羽振りを利かせてのは何とも耐えきれない。

 人を育てるのは人である、決して机上の理論や方法論ではない。私は教壇を去る前に敢えて予言しておくが、「人を育てられる人」を育てなければ、20年先30年先の高等教育や専門教育はどんどん劣化していくだろう。今回のオリンピックシンクロ日本代表コーチの一件はそのことを雄弁に物語っている。


医学部教育のピットフォール

 戦時中は軍医として医師を戦地に召集する必要性が高まり、さらに健康な男性医師が次々と動員されてしまって銃後の内地で一般国民を診療する医師にも不足をきたしたため、戦前から戦中にかけてまさに雨後のタケノコのごとく医師養成学校が設立され、戦前の1939年には各種合わせて国内26校だった医学校が、終戦時には何と旧帝大医学部7校、官公私立医科大学11校、官公私立医学専門学校33校、附属医学専門部18校と各種医学校が国内に69校も存在したという話を最近どこかで読んだ。

 戦後GHQによる介入もあって、医学校の数は1952年までに46の医科大学に整理されたが、その後1県1医大構想とか医科大学新設要求とかいろいろあって、現在(2016年)では医学部は再び増加して全国に80もあり、戦争もしていないのに戦時中より10校以上も増えた勘定になる。しかも幾つかの大学では医師不足を理由にまだ入学定員を増加する見込みだそうだ。

 地域による医師の偏在、医療の高度化、医師の専門細分化、救急・災害医療の需要増加などさまざまな要因があるだろうが、かつて東半球を席巻してドンパチを繰り広げていた時代以上に医師が不足しているという事態は、考えてみれば空恐ろしいものがある。

 さて急増した医学部における医師の教育だが、これも実は心もとないのではないか。次代の若い医師を教育できる医師ははたして充足されているのか。軍医急造のために戦前・戦中はたぶん水増し教員によるかなりの手抜き教育が行われたとは思うが、戦後はまた違った意味で医学教育が手抜きになっている恐れがある。医学があまりにも高度化、細分化されすぎたために、高校から進学してきたばかりの初学者に医学の根幹から基礎知識を学ばせることが非常に困難になってきているのだ。

 医学部の社会的使命は診療・研究・教育の3本柱だとよく言われるが、医学部の教授や助教授(準教授)や講師などのスタッフを目指す大部分の医師たちの野心がどこを向いているか。私がこれまで接してきた医学部の教授や準教授たちで、次代を担う医学生たちの教育に最大限の情熱を注ごうとしていた人はほとんどいなかった。すべてのスタッフがと言ってよいが、学会から注目される素晴らしい研究成果を発表し、もって医療の発展に貢献して、自分の名を後世に(論文に)残したいという野心の方が大きかった。

 大学医学部の使命のうち診療と研究に貢献している以上、それは少しも悪いことではないが、ただそういう教員たちにとっては学生の教育はどうしても片手間になってしまう。高校時代にちょっと初歩的な生物学を習ってきただけの若者に、医師として必要な最低限の基礎知識を講義するなど面倒だし、大体その教授や準教授自身、自分が医学生だった頃にそういう基礎的な講義をして貰っておらず、学生に講義するための基礎知識が十分身についているとは言いがたい。

 実際、私が医学部教育を受けた昭和40年代から、この傾向は大きかった。ここ何年間かいくつかの病院で研修している何人もの若い研修医の先生方とお話をする機会があったが、世間ではかなり偏差値が高いと評価されている医学部を卒業された研修医の先生方でも、私が接した範囲では1人残らず、かつての私自身と同じ知識の欠陥を持っておられた。つまり私たちの世代の医師も、最近医学部を卒業したばかりの医師も、共通の欠陥教育しか受けていないのだ。

 私がまだ医学部3年生だった頃(私たちの大学ではM1と呼称される学年)、大変優秀な5年生(M3)の先輩と一緒にアルバイトをしたことがあった。その方は後に英国留学もされて某医学部教授から某国立病院長を歴任された優秀な先輩だったが、この先輩との会話でものすごく印象に残っているものがある。
「この患者さんのデータはGPT(今ではALTという)が高いから肝機能が悪いんだ。」
すでに臨床実習が始まっていたその先輩が、ある医学生向けの雑誌の問題を見ながら私に説明してくれた。GPT(ALT)とは血液中に出てくる酵素の名前で、この程度の知識なら普通の医学部教育を受けた者なら当然のこととして知っている…はずだ。
 しかし当時まだ生化学などの基礎医学を学んでいた私はその先輩に訊ねた。
「そのGPT(ALT)という酵素はどういう化学反応を制御しているんですか。」
 その先輩の返事が何十年たった今でも私の記憶から離れない。
「あ、そういうことは医学部では習わないんだ。この酵素が高ければ何の病気とか、そういうことを知っていればそれで良いんだ。」

 私も正直に告白する。私はこの優秀な先輩の言うことを素直に受け止めて、つい10年ほど前までGPT(ALT)という酵素が人間の体内でどういう役割を果たしているのか、まったく無頓着なまま分娩を介助し、未熟児や新生児を診療し、病理診断をしてきた。
 今にして思うと顔から火が出るくらい恥ずかしいことであるが、最近医学部を卒業したての有能な研修医の先生方も私とまったく同じ轍を踏もうとしていることに愕然とした次第である。

 ある研修医の先生はALTはアラニンというアミノ酸からアミノ基を外す酵素という意味のアラニントランスアミナーゼの正式名称を知ってはいたが、アラニンからアミノ基を外すと何になるかを答えられなかった。
 アラニンからアミノ基を外すとピルビン酸という炭水化物になる、つまり別の記事で書いたように、ALTとは体内でアミノ酸と炭水化物を橋渡しする化学反応に関与しているのだが、たぶん今も昔も医学部ではこの反応の重要性を講義する、あるいは講義できる教員がいないのだろう。なぜなら何十年か昔に自分たち自身もそんな講義を受けた覚えがないからだ。

 それで卒業後の医師としての職業生活をどうするかと言えば、私のように後から重要性に気付いて勉強しなおす医師はおそらくごく少数、大多数の医師はそれを知らないことは人体を扱うプロとして恥ずかしいことだと気付く機会さえなく、患者さんたちの前で偉そうに健康について指導したり講演したりしているのだろう。
 まあ、未熟児や新生児を診たり、病理診断をするのにALTはそんなに深く関係があるわけではないから、直接患者さんに甚大な迷惑を掛けたことはなかっただろうが、もし糖尿病などの患者さんの食事指導など担当する医師がこのALTを知らない、つまりALTがアラニンとピルビン酸を橋渡しする酵素であることを知らなかったとすれば、患者さんの健康に著しい不利益を与える恐れがある。飲むだけで中性脂肪が消えるなどという“健康飲料”にお墨付きを与えている医師などは間違いなくその部類だ。

 事はALTに限らない、また生化学にも限らない。高校を卒業してきたばかりの医学生に何をどのように教育していかなければいけないか、戦後何十年にも及ぶ深遠な課題が横たわっているというのに、前項の最後にも述べた自称教育専門家どもが洒落た横文字の教育理論など振りかざしながらしゃしゃり出てくるものだから、医学教育はますます混沌とするばかりである。


航空機による台風観測

 今年(2016年)の台風は気象の素人の私から見ても異例ずくめだった。第1号の発生が遅かったかと思えば、いったんシーズンになると今度は次から次からまさに息つく間もなく日本列島に襲いかかってくる、上陸した数も例年を上回っていたようだし、その進路もまったくメチャクチャ、かつて私が習った知識によれば夏の太平洋高気圧が張り出している間は台風はその縁を回って大陸方面へ抜け、太平洋高気圧が弱まってくると太平洋方面へ抜け、その移行期のものが日本列島に接近するはずだったが、今年はそんな法則が成り立つどころか、中国大陸へ向かうフェイントのコースから突然列島に鎌首をもたげたヤツとか、房総・三陸沖あたりからいきなり左折して列島に襲いかかってきたヤツとか、いったん列島に近づいた後に西南方向へ逆進し、沖縄付近でもう一度勢力を盛り返してから舞い戻ってきたヤツなど、台風何号がいつどんな風に来襲したかをいちいち思い出すのも面倒なほど、日本列島は凶暴な台風の波状攻撃を受け続けた。

 台風災害は毎年我が国に甚大な人的・物的被害を及ぼすので、台風観測は欠かすことのできない重大な業務だったが、戦後間もなくの頃は日米共同で、昭和20年代後半くらいからは米国の支援を受けながらも日本単独で、島嶼の測候所とともに船舶や航空機による台風観測が行われた。
 …と言葉では簡単に言えるが、実際に観測機や観測船に乗り組んで台風に向かっていく人たちにとっては命懸けの仕事であっただろう。航空機は戦時中の頑丈なB29重爆撃機を改造した観測機で比較的安全な高度からラジオゾンデを投下して観測データを取得していたようだが、観測船は台風の強烈な波浪の中に突っ込んで行って、万一漁船などの遭難があれば救助任務にも当たることがあったらしい。

 昭和20年代の日本の台風観測船はずいぶん勇敢だったようで、戦時中の海防艦竹生(鵜来型)を転用した巡視船あつみの活躍が新聞で報道されて大反響を起こした昭和29年、運輸委員会(9月24日)に説明員として出席した観測船長の発言録が残っている。
 出航前に船底修理の必要があった老朽船に乗って、1時間わずか10円の危険手当(当時としても安すぎる値段)で、甲板の傾斜が63度にも達するような波浪の中に突っ込んでいく、乗組員の中には遺書を書いた者もあったらしい、そんな情況で遭難漁船などからの救助要請があればそれにも対処する、巡視船あつみの船長であった山名寛雄氏の発言録は当時の台風観測船の生々しい状況を伝えている。
 しかも出席していた国会議員の委員から、台風観測と救難業務を分けた専用の船を新造するべきかという質問に対し、山名寛雄船長は、日本のような貧乏な国がそんな不経済なことをする必要はない、現状のままで結構だと謙虚に答えており、当時の日本人の気骨には驚かされる。ちなみにこの船長は別のコーナーでもちょっと触れたが、戦争末期には駆逐艦冬月の艦長を勤め、戦艦大和の沖縄出撃を護衛した際、突入作戦中止に腹を立てて大和生存者救出を拒否して反対方向に突っ走ったと吉田満氏が記している人である。

 さてそんな危険と隣り合わせの船舶による台風観測もやがて気象レーダーによる観測に変わり、特に1965年から運用開始された富士山レーダーは800キロ先の台風を捉えられたが、そのうち気象観測衛星が送ってくる画像の充実で富士山頂のレーダードームも1999年にその役目を終えた。

 ところで最近ではお馴染みになった気象衛星画像だが、我々のような素人でもインターネットに接続してリアルタイムで雲の動きを眺めることによって、ある程度正確に時間帯による降雨情況を把握することができるようになり、これでもう気象衛星を1機打ち上げておけば、人命を危険に晒すこともなく、地上に高価なレーダー基地を維持することもなく、精密な台風観測が四六時中広範囲で可能になったと思っていたが、実はそうでもないらしい。

 来年度から名古屋大学宇宙地球環境研究所附属飛翔体観測推進センターという長たらしい名称の施設が中心となって、航空機から観測機器を投下して行なう台風観測を30年ぶりに実施することになったそうだ。これまでは衛星画像の雲の形などから台風の中心気圧や進路などを予測するモデルに従って気象情報を作成していたが、そういう画像による予報モデルが近年狂ってきたとのこと、大きな台風になるほど予測モデルの誤差が大きいので、今年度を準備期間とした5年間で、実物の台風から得た観測データを当てはめてモデルの修正を行うのが目的である。

 これで将来台風による被害を最小限に食い止められるようになることを期待したいが、画像モデルと実測データの比較検討という作業は、我々の医療分野にも共通する要素が多いので興味深い。医療分野でも放射線や磁気共鳴や超音波(エコー)を使った人体断面の断層画像描出方法が開発されて、病変の有無はもちろん、病変の性質までがかなり精密に予測できるようになった。子宮内の胎児の顔写真まで撮影できるのだから驚きである。

 病死された患者さんの御遺体に切開を加える病理解剖が減少した代わりに、御遺体をこういう断層撮影装置で検索して、その画像から病変の最後の状態を読み取る方法も最近ではかなり使われるようになってきているが、画像モデルから予測される診断だけを頼りに大きな手術に踏み切るにはまだかなり抵抗がある。
 もう亡くなってしまった患者さんではない、これから手術後も生活していく患者さんの身体にメスを入れるか入れないかの判断だから万一の誤差も許されない。そこで病変の一部を試験採取(生検)して、その実物の観察から手術が必要であるという確定診断を得るのが病理検査の意義であるが、台風の“診断”も精度を高めるためには、やはり実物のデータを手に入れなければいけないのかと興味深く思った次第であった。


早起きは三文の得

 2016年10月22日の土曜日、週末に癌治療学会という医学関連の学会のアトラクションで、幾つかの医者のオーケストラのメンバーを中心にメモリアルオーケストラが結成され、私も日本病理医オーケストラから参加しました。医者のオーケストラだけでも病理、脳外科、皮膚科、産婦人科、放射線科とたくさんあるので、どうせ打楽器は人が余っているだろうから、トライアングルか何か1発チーンと鳴らすくらいで済むだろうと軽いノリで参加したのですが、ところがどっこい、チャイコフスキーの『眠りの森の美女』のガーランドワルツで、高校時代にも経験したことのない鍵盤打楽器のグロッケンシュピールを生まれて初めてステージ上で演奏するというとんでもない本番になりました。

 寄せ集めのオーケストラなので、本番までにたった1日しか合同練習の機会が無かったのですが、前夜からの一夜漬けでカミさんの猛特訓を受けて幸いに事なきを得ました。

 さて本番はパシフィコ横浜の国立大ホールで行われ、その晩は打ち上げの後に夜の波止場で余韻を冷まして横浜に宿泊、かなり練習と本番の疲労があったはずなのに翌朝は早々に目が覚めてしまいました。チェックアウトを済ませて港をブラブラ歩いていると、何と素晴らしい夜明け、横浜ベイブリッジと大桟橋の彼方から朝日が昇る瞬間に出会うことができたのです。

 本当に清々しいというか、神々しい光景でしたが、これも早く起きたからこそ見ることのできた光景でした。本当に昔の人はよく言ったものです、「早起きは三文の得」と…。
 朝1時間早く起きるのと、夜1時間遅く寝るのとでは、確かに差し引きすれば睡眠時間も日中の活動時間も変わりませんが、朝の時間は夜の時間よりもこういう予想もしなかった想定外の「奇跡」に遭遇することが多い。なるほど昔の人が「夜更かしは三文の得」と言わなかった理由がよく分かります。

 あと夜の時間というヤツは、言ってみれば1日の締め切り間際のわけです。何か突発事態が発生した時に対処できる時間的余裕も精神的余裕も乏しい。朝1時間早く起きておけば、その日の予定を順次1時間ずつ繰り上げて余裕を持って活動できます。

 私は若い頃からどちらかと言えば早起きの方で、寝床の中で目覚まし時計を止めてアラームを先送りした経験はたぶんまったくありません。最近は年を取ってしまったせいか、ますます早起きに磨きが掛かっています。
 早起きか夜更かしかは個人差があって、体質や気質によるところが大きいと思いますし、何かの疾患で起きられないという方もいらっしゃいますが、前の晩にできるだけ早くその日の仕事を片付けていつもより早めに就寝する、そうやって睡眠時間だけは十分確保するようにして、だんだん身体を慣らしていってみてはいかがでしょうか。


人心騒擾

 今年(2016年)10月21日、東日本震災、熊本震災に引き続いて、鳥取県でも最大震度6弱の地震が発生し、887年(仁和3年)の南海トラフ地震との類似性が話題になっているとのことで、ネット上を検索していたら、こんな本文記事とは何の脈絡もない画像が見つかった。

 887年の時は、863年に越中・越後地震、869年に陸奥沖海溝地震、869年に肥後地震、880年に出雲地震が起こった後、887年の南海トラフ地震が発生しており、2007年の中越沖地震、2011年の東日本大震災、2016年の熊本地震と鳥取地震という流れが非常に似ていて不気味であるとのことだ。

 地震の予知は難しい。そもそも昨年(2015年)には新しい研究成果にもとづいて、首都圏震災の危険が高まったから九州や山陰へ逃げなさいという警告記事も出たことは別の記事に書いた。また我々関東地方の住人にとっては、明日にも起こる、来年起こる、10年以内に起こると、もう何十年も昔から脅迫され続けている首都圏震災より先に、新潟や神戸や東北や熊本が被害を受けた。

 大災害に備えて準備することは大事だが、いつ起こるか予測不可能な震災に関して、いかにも科学的根拠があるかのような人心騒擾記事を乱発するのは、もういい加減やめて欲しい。たぶんほぼすべての日本国民がおとぎ話の“オオカミ少年”状態になっているだろう。

 ところでこのネットの画像を私が見たのは10月27日だったが、28日午後1時45分頃に潮岬沖でマグニチュード9.3の地震が発生して、大阪は震度7の揺れで壊滅するような言い方ではないか。私は明日大阪へ出張である(笑)。

 こういう手法は1938年のハロウィン特集で、HGウェルズのSF小説『宇宙戦争』を臨場感たっぷりに脚色して全米をパニックに陥れた放送劇を思い出させる。新進気鋭だったオ―ソン・ウェルズの企画だったそうだが、火星から飛来したと思われる隕石から火星人が出現して残虐な武器で人々を殺戮している様子を、さまざまな効果音を混ぜながら臨時ニュース風のラジオ劇に仕立てたところ、これがドラマと知らなかった人々にもまたたく間に口コミで伝わり、全米で120万人以上の人々が避難行動でパニックになった。

 今回の地震速報を模した画面に仕掛けたデタラメ情報などすぐにウソと見破れるが、こうやって人々を怖がらせて喜んでいるようにしか見えない手法は趣味が良いとは言えない。
 小学生の頃にこんな話を先生から読み聞かされたことがある。古代ヨーロッパの地中海あたりを舞台とした物語だったと思うが、毎朝毎朝海岸の神像を拝みに来る老婆がいた、ある2人連れの若者がその理由を訊ねてみると、この神像の目が赤く染まっていたら津波が来ると言われているので毎朝確かめに来ているとのこと、若者たちは悪戯心を起こし、あの婆さんを脅かしてやろうと相談、翌朝その神像の目を赤く塗っておいたら、それを見た老婆は慌てて山の中に避難して行った、若者たちはその様子に手を叩いて喜んでいたが、本当に津波が襲来して流されてしまった。

 私も明日の大阪出張はちょっと気分が滅入ったが、十分気をつけて行って来ます。


飽食の大人たちよ

 先日、私の所属するある学会のイベントがあって、大勢の委員の先生方がお見えになった時のこと、そのイベントは例年食事の時間には出席委員全員分の弁当が準備される。(もちろん出席者はそれなりの仕事をさせられるからですよ、念のため・笑)
 予算も潤沢に使えるわけではない中で、事務局の方が毎年々々、お手伝いする委員の人数分だけ仕出し弁当を注文して下さるのだが、今年も数個の弁当が手付かずのまま余ってしまった。そのまま廃棄されたことと思うが、その弁当を処分した事務局のまだ20歳代の若い女性が発した一言にハッとした。
「食べ物を捨てるの抵抗感があります。」

 私などは子どもの頃から食事のたびに、お百姓さんが丹精込めて作ったお米を粗末にしたら罰が当たると言われ続けて育ってきたから、こうやって食べ物を平気で廃棄する風潮を苦々しく思っているが、まさか若い世代のお嬢さんからこういう言葉を聞くとは思ってもみなかった。テレビで連日のように芸人たちが食べ物を粗末に扱って笑いを取るようなバラエティ番組が放映されていた飽食の時代に少年少女時代を送った今時の若い人たちは、きっと食べ物を廃棄することに何の心理的抵抗もないのだろうと思っていた私にとって実に意外だったのである。

 むしろ弁当を粗末にしていたのは、少年少女時代に食べ物の無駄を戒められていたはずの年長者たちであったように見受けられた。そのイベントでは弁当が人数分支給されることは、毎年々々お手伝いしている委員にとっては分かっていたはずのことである。もし自分が食べなければ弁当が1つ余る、そのことにまったく思いが及んでいなかったのではないか。

 私などは他の用件で当日の弁当を食べる予定がなければ、あらかじめ事務局の方々にお願いして弁当を1つ減らしておいて貰うことにしている。たかだか弁当1個とはいえ、その代金はイベントに来ている参加者が支払った会費の一部なのだし、第一やはり浮いた弁当は誰にも食べられることなく空しく廃棄されてしまうことが分かっているからだ。
 弁当が出ることを忘れて迂闊にもさっさと昼食を済ませて来てしまった人はまだ言い訳ができるかも知れないが、目の前に弁当が積まれているのを見ながら、弁当は飽きたから自分でもっと旨い物を食うとか言って出て行ってしまう年長者は、いったい少年時代にどういう躾を受けたのか疑ってしまう。

 かつてMOTTAINAIという日本語が国際的に話題になったこともあって、その時は生活の無駄を省きましょうというような試みも少しは話題になったと記憶しているが、バブルの絶頂期を経験した年長者たちは、子どもの頃に年寄りからさんざん聞かされた戒めも忘れて、結局は元の木阿弥ということのようだ。

 バブルの酒池肉林を経験した年寄りたちはもうどうでもいい、どうせあとは食欲も落ちていって、あの世とやらへ旅立ってしまえばもう食べ物など食べなくても済むが、むしろ今の若い世代が食べ物の無駄な廃棄に漠然とでも不安を感じていることを理解してやらなければいけない。彼らにどういう日本を残すのか、分別のある大人だったらもう少し考えて頂きたいと思う。
 事は仕出し弁当に限らない。パーティーで山のように盛られて余ってしまうご馳走、送り先の都合や嗜好も考えずに義理の贈答用に発送される食品、等、等…。


人間の心臓

 カミさんの父が来年は99歳になるというので、白寿生科学研究所のハクジュホールが特集のインタビュー記事など組んで下さっているようだが、それにしても驚くのは義父の心臓は99年間、胎児の時から数えればほぼ1世紀、100年間もの間ずっと止まることなく拍動を続けてきたということ、普段はあまりにも当たり前すぎて意識しようともしなかったことに改めて驚きと畏怖を感じている。

 燃料は毎日の食事で補給されているが、ほとんど保守も手入れもせずに100年間も間違いなく動き続ける機械を、おそらく人類の科学技術で作ることは不可能だろう。義父といわず、私の心臓だってもう65年間、一刻も休むことなく動き続けてきた。洞(サイナス)というメトロノームのような調律能力を持つ特殊な心筋細胞が、私の身体の状態、つまり運動中とか睡眠中とかさまざまな状態に合わせて適切なリズムを刻み、それに従って他の心筋細胞が一糸乱れぬ動きで血液を全身に送り出してきたのだ。こんな精密かつ正確に動き続ける耐久機械を人類は作ることができるのか。

 『おおきな古時計』という歌があって、おじいさんと一緒に100年間(原語では90年間)動き続けた時計を歌っているが、ああいう歌を聴いても自分の心臓のこと、あるいは歌詞に出てくるおじいさんの心臓のことに思いもかけなかった私って…かなり罰当たりなんだろうか(笑)。まあ、100年も動き続ける工業製品なんてかなり希少価値だからこそ歌にもなるんだろうが、心臓は単調なリズムを打ち続ける時計とは比べ物にならないほどの働きをしてくれているのだ。

 心臓の筋肉はアクチンとミオシンというタンパク質同士が互いに滑り合って収縮力を発揮するが、これらの無数の分子が一斉に滑るように調節してくれるタンパク質もある。個々のタンパク質分子がここぞという時まで余計な動きをしないように、ストッパーの役目を果たしているのだが、ここまでだったら人間の工業技術で製作することもできるだろう。
 しかしそれを動かしているうちに一部のパーツが外れたり摩耗したりして、到底数十年どころか数年だって自動的に動かし続けることはできないのではないか。やはりタンパク質という素材なくしては、全能の神をもってしても、あるいは大自然の進化の法則をもってしても、生物の体を設計することはできなかったであろうと思う。


郵便番号7桁

 今年(2016年)も間もなく暮れようとしていますが、私は大晦日の明け方になってようやく恒例の年賀状の宛名書きを終えました。毎年毎年、「今年こそはクリスマスまでに投函するぞ」と固く決心するのですが、一度として達成できた年はありません。まあ、皆さんもお分かりでしょうが…(笑)

 本当に11月くらいから憂鬱な気分になる年賀状の宛名書きですが、あの郵便番号というヤツは気を遣いますね。普通の住所欄ならば1文字くらい書き損じても棒線で消して訂正すれば間違いなく配送してくれるはずですが、郵便番号は機械が読み取るため、間違えたら2本線で消して…というわけには行かず、結局年賀葉書1枚無駄になってしまいます。郵便番号を書く時の緊張感は、まるで病理診断の細心さが要求されますね(笑)。間違いなく機械が読み取れるような正しい字体の数字を、正しく赤枠の中に収めなければいけないんですから…。

 郵便番号は1968年に3桁の数字(地域によってはあと2桁加えて5桁の数字)として導入されたとあります。郵便物の集配作業を迅速・正確に行うための合理化の一環ですが、当時は「合理化」という言葉をまるで目の仇にする政治勢力がありました。要するに合理化=省力化=労働者の首切り、ということで、労働団体やそれを支援する左翼組織は錦の御旗のように『合理化反対!』のスローガンを掲げていたものです。
 実際に生活がかかっていた身分不安定な労働者の方々にとっては切実な問題だったと思いますが、あの時代に時流に乗ってスローガンを叫んでいた左翼学生の方々の中で(もうすでに定年で社会を退いておられると思います)、管理職を経験された者たちはご自分の職場で若き日の理想を実現しようと努力なさったのでしょうか。会社の“合理化”のために社員の“整理”に加担した者はいなかったのでしょうか。まあ、“若気の至り”で免罪されるのが日本という国ですから気楽なものです。

 ところで話は戻りますが、1998年から郵便番号は7桁になりました。従来の3桁の後ろに赤枠が4桁増えたわけですが、これで年賀状書きは一段と憂鬱なものになりました。3桁の時代ならば、1桁間違えてもまだ別の宛先に転用できる可能性があったわけですが(例えば〒110を〒119と書いてしまっても、200人近くもある宛先の中には他に〒119の人がいるかも知れない)、7桁になると町内まで一致しなければいけませんからその望みはほとんど無くなります。

 住所録から、私の場合は前年の年賀状の差出人住所から、年賀状の宛名を書き写す際に、7桁の数字を間違いなく記憶して、正しく赤枠内に記入する作業は本当に気を遣います。最近では住所録ソフトのデータをそのままプリンターで葉書に印刷する人が圧倒的に増えましたが、何しろ私は古い人間ですから(笑)、1年365日のうちのせめて数十秒間くらいは、年賀状のやり取りのあるすべての人の表情や声色を思い出し、思い出を辿る時間があった方がよいというコンセプトで、宛名は全部自分の手で書いています。自分の住所や裏書きはさすがにコンビニで印刷ですが…。

 しかし毎年イヤだイヤだと言いながら書いている宛先ですが、けっこう記憶力の訓練にはなります。人間が短期間だけ記憶に留められる無意味な数字の羅列は7桁が限度と読んだことがあります。老眼が入ってきたので前年の年賀状の差出人住所をルーペで確認して、いろいろ語呂合わせをつけて記憶して、新しい年賀葉書の赤枠に書き写す、最後に正しい数字を書き写したのを再確認できた時の達成感は何物にも替えがたい…って何を大袈裟な(笑)
まあ、加齢現象との戦いですね。少なくともポケモン集めよりは価値が高い(笑)。

 この郵便番号7桁化の時に郵政省(当時)が言い訳がましく言っていたのは、7桁の番号を正しく書いてくれれば、都道府県名はおろか(これは3桁の時に実現されていた)、町名までいっさい書かなくても番地の数字さえ書いてあれば正しく配送しますということでした。本当かな、と疑り深い私は(笑)数年後に鹿児島県南端の指宿に行った時、葉書の表面に我が家の郵便番号7桁と番地の数字だけ書いて投函したところ、本当に2日後に配達されてきました。郵便物の番号読み取り能力、仕分け能力に驚いたものですが、そういう次第ですから、年賀状に限らず郵便物を投函する時には自分の郵便番号は正しく、読みやすく記入するようにいたしましょう。
 というわけで良いお年を。


たそがれ時

 しばらく前から(2016年8月から)『君の名は。』というアニメ映画が大ヒットしているようです。私たちより上の世代の人たちの多くは、『君の名は』と聞くと戦後の昭和27年(1952年)から2年間にわたって放送されたラジオドラマを思い浮かべるようですが、これは東京大空襲の晩に数寄屋橋で出逢った若い男女が再会を約束しながらもなかなか果たせず、運命のすれ違いを繰り返すというストーリー、放送時間帯は銭湯の女湯がガラガラになったという伝説の大ヒットドラマです。

 私は生まれて間もない0歳児でしたからもちろん記憶にありませんが、あまりの大ヒットに映画化された時のヒロインの氏家真知子(配役・岸恵子)がショールを頭からスッポリ被るように首に巻いたファッションが当時の女性たちに大受けし、“真知子巻き”と呼ばれるようになった、男児だった私も5〜6歳くらいになるまで寒い日に外出する時にはマフラーを頭からスッポリ被せられて「真知子巻き、マチコマキ」とさんざん囃されたものでしたから、『君の名は』のことはおぼろげに知っています。

 だから今度の『君の名は
』もタイトルに句読点があるが、戦後のラジオドラマのリメイクだろうくらいにしか考えておらず、また映画のポスターもネット上の画像もこんなセーラー服の女の子が描かれているから、もしリメイクでなくてもせいぜい青春学園ドラマか何か、私がわざわざ観に行くような映画とも思えず、ずっと意識にも上りませんでした。

 ところが何かのきっかけで学生さんや卒業生の人たちにこの映画のことを尋ねたら、かなりの人が面白いと言っているし、しかも2度3度リピーターで観たという人もけっこういる。それでネットであらすじなど検索するとただの青春モノではないらしい、ということで先日ちょっと時間があった折に映画館で観てみましたが、確かに面白かった(笑)。

 詳しいストーリーや見どころなどはすでにいろいろネット上にネタバレ承知の記事がたくさんあって、今さら私がクドクド書く必要もないでしょうが、何と言っても映像が素晴らしい作品です。特に光と影の描写が息を呑むほど美しい。夏の日差し、冬の灯影、季節や時刻による雲の表情、遠くの稲妻、どれをとってもこれは本当にアニメなのかと驚きます。人間や動物の描写にやや荒削りな部分が無ければ実写と区別がつきません。(ちょっと大袈裟か・笑)

 映画は、2013年に彗星の破片が隕石として地上に落下して飛騨にあった1つの町が壊滅する災害が起こった架空の世界を舞台にしています。東京大空襲でも東日本大震災でもないわけですね。
 東京の男子高校生が、彗星衝突で壊滅直前の3年前の町に住む女子高校生と時空を越えて心が入れ替わり、未曾有の悲劇から住民を救うために運命あるいは歴史の歯車を変えようと懸命に頑張るというSF(空想科学)的ストーリー、わずか2時間足らずの上映時間の中でこの複雑怪奇な設定がほとんど無理なく説明されていて感心しました。

 男女の心と体が入れ替わるという設定は、本当はある種の疾患の患者さんたちにとっては単純に娯楽として楽しめない可能性もあると思っているのですが、それはまた別の機会に書くことにして、自分たちの日常生活に突然割り込んできたこの摩訶不思議な現象に直面していくうちに2人はお互いに相手を好きになってしまう、しかし時空を越えた2人は互いに会うこともできないし、また相手のことを覚えていることもできない。だから「君の名は」というわけです。
 確か戦後昭和の『君の名は』は逆に忘れられない相手を忘れようと思っても忘れられない苦しさがテーマで、
忘却とは忘れ去ることなり、忘れ得ずして忘却を誓う心の哀しさよ
というナレーションは、真知子巻きをされた男児だから、何となくその後も耳に残ったものでした。

 さて現代の『君の名は。』では絶対に時空を越えて会えるはずのない2人が、ハッピーエンドを予感させるラストシーンになる前に一度だけ会えるのですね。そのシーンが何とも切なかったです。
 隕石直撃のクレーターがまだ無い時空にいる女子高校生と、隕石災害がすでに起こってしまった3年後の時空から来た男子高校生が、互いの時空を越えて姿を見ることができたのは黄昏時のほんのわずかな時間だけ、黄昏(たそがれ)は本当に不思議なことが起こりそうな時間帯ですから、昔から逢魔が時(おうまがどき)とも言われることは映画の中でもちょっと説明されていました。

 「たそがれ」は「誰ぞ彼」、つまり日没前後の薄暗くなった時間帯は互いの顔も分かりにくいから、この世ならざる者に逢っているかも知れないわけです。しかし映画の中では「たそがれ時」は「かわたれ時」とも言うと説明されていましたが、これは本当はちょっと違います。
 「かわたれ」は「彼は誰」、これは日の出直前の同じような暗さの時間帯のことを言いますが、映画ではヒロインの小さい妹がこれを「かたわれ」と言い間違えている、たぶん時空を越えた「片割れ」の男女が出逢う時間帯を暗示してわざと意識させているんだろうと思います。

 本当に黄昏時は不思議な時間帯です。もう逢えなくなった人にも心の中で逢えるのはこの時間帯が多いです。また黄昏時の電車に乗っていると、車内の照明で窓ガラスには車内の光景が映りますが、まだ残照の中にある外の景色がそれにダブって実に不思議な視覚効果ですね。窓に映る自分の姿を突き抜けるように外の景色が流れて行くのだから、まさにこの世(車内)とあの世(車外)の接点のようにも見えます。

 私たちの世代も人生の黄昏時に差しかかっています。そんなことを言うと「たそがれてんじゃないよ」などと粋がる同世代もいますが、黄昏時はいろいろな物事が一番よく見える時だと思います。自分自身のこともよく分かる、社会に起こることもよく分かる、実際に暗くなってしまう前のこの時期に、正しい判断をして世の中に最後のご奉公をするべき時なんじゃないかと私は思いますけど…。


人間の中枢神経

 先日人間の心臓の記事を書いた時、心臓のように何十年も間違いなく動き続ける耐久機械を人類は作り出すことはできないだろうと書いたが、脳に関してもまったく同じことを如実に気付かせてくれる事実がある。心臓のような縁の下の力持ちの臓器ではない、現代に生きる我々なら日常茶飯事に直面させられる事実である。

 その前にH.G.ウェルズという作家の『タイムマシン』という空想科学小説が2002年にアメリカで映画化された時にこんなシーンがあった。タイムマシンを完成させて未来に旅立った主人公が人類文明絶頂の何百年後かに行くと、文明の粋を集めた未来都市の一角に公衆電話のような形で固定されたコンピューターがあって、スクリーンに映るリアルな男性の映像が表情たっぷりに歩行者と会話をしてくれる、町の案内からトラブルの相談から日常会話まで、まるで生身の人間のようなコミュニケーションができるコンピューターである。
 主人公はこの時代に別れを告げてさらに
何百年か後の世の中に飛ぶと、月か何かの天体の異変があって人類文明に危機が訪れているが、やはり町の同じ場所にあの同じコンピューターがあって、主人公の姿を認識すると懐かしそうに「あなたとは昔に会ったような気がする」などと挨拶をする。

 これは映画のストーリーにまったく関係ないエピソードではあるが、つまり未来においては半永久的な耐用年数を誇るコンピューター(人工頭脳)が開発されることを予測しているのである。タンパク質の素材でできた心臓は、人類の開発した素材で作られた工業製品では考えられないくらいの耐用年数を示すが、では頭脳のような膨大な情報処理装置では、人類の開発した素材がいつの日か人体の素材を凌駕することができるのか。

 そんなことあり得ないね、と私は思ってしまう。現代社会において私たちがほとんど無造作に使っているパソコンの耐用年数は使用頻度の高い場所ではだいたい5年くらいと言われており、家庭で使っている機械だってせいぜい10年も使えば動作がおかしくなってくる。生身の脳よりはるかに寿命が短い。
 何百年か未来の世では人間が保守点検もせずに自動的に膨大なデータやプログラムをアップデートしながら四六時中活動し続けるコンピューターが開発されるのか??絶対無理だねと思ってしまう。

 我々が日常使っているパソコンは、ほぼ数年に一度はシステムをほとんど総入れ替えしなければいけない時期がやってくる。パソコンの起動に時間がかかるようになり、プログラムが誤作動するようになり、大事なファンクションが脱落するようになれば、誰だってパソコンの本体を買い換えなくっちゃ…ということになるだろう。それにいつまでも同じ機種だと新しいプログラムが作動しないから、いまだにWindows 95で頑張っている天然記念物的な人は全国に1人くらいはいらっしゃるのだろうか。

 パソコンの本体を買い換えたらそのまま元の作業が継続できるわけではない。新しいオペレーティングシステム(OS)に習熟し、ネットとの接続環境を整え、新しいアプリケーションをインストールして、前の機種に保存されていたデータを移行しなければいけない。
 そんな雑事もパソコン自体がやってくれるんだよ…と言うかも知れないが、新しいパソコンを中心として新たなシステムを構築するのはユーザーの生身の頭脳である。人間の場合、その生身の頭脳が年々衰えていくのは悲しい生理学的事実であって、私も30歳代40歳代から50歳代後半くらいまでは買い換えた新しいパソコン本体の動作環境を整える作業など、朝飯前とは言わないまでも、けっこう嬉々として取り組む意欲に満ちていたものだ。

 しかし今回Windows 7からWindows 10への乗り換え作業はいっこうに遅々として進まない。まあ、Windows 10が気に入らないということもあるが、7年前にWindows VistaからWindows 7に乗り換えた時のような気力が湧かないのである。OSがいくら変わってもそれを扱うのが生身の人間の頭脳である以上、やはり50年動き続けるコンピューターを開発することは不可能に近いだろう。それは50年先に想定されるほとんどの問題を解決できるOSを現時点で開発するという神ならではの課題だからである。

 聞くところによると、最近の若い世代ではパソコンの操作ができない人が増えているらしい。世の中の情報へのアクセスがほとんどスマートフォンなどで間に合うようになったために、それより面倒なパソコンを使わなくなったからだそうだ。我々老化していく世代がパソコンを使えなくなっていく情況の対極に、こういう若い世代の問題もあるとすれば、もっと生身の頭脳の感覚で操作できるOSの開発なしには、いずれパソコンは衰退していく運命にあるのではないかと危惧する。


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