4回目の3・11

 もう4年も経ったのかという思いが強い。2011年3月11日の東日本大震災から今日で4年目である。先々月の1月17日には阪神・淡路大震災からちょうど20年の節目ということで、マスコミでも大々的に取り上げていたが、もう我々の世代が子供だった頃の典型的な大震災の記憶、大正12年(1923年)9月1日の関東大震災など、首都圏が打撃を蒙ったにもかかわらず、すっかり影が薄くなってしまった。

 東日本大震災から4年、阪神・淡路大震災から20年ということは、被災された方々の上にもそれだけの年月が過ぎたということでもある。この間、東京などにいて大災害にも遭わず、比較的平穏な日々を送ってきた私にとっては、別に私自身が意識して選び取った運命ではないにしても、何か被災地の方々に対して申し訳ないような気持ちは常に感じている。

 4年前のあの日、外勤先の病院の部屋がまるで時化の小舟のように揺れて胆を冷やした、そして以後の交通機関がまったく動かず2時間半かけて歩いて帰宅した、今になって考えれば私の身に起こったのはただそれだけのことだった。
 20年前のあの日も外勤先の病院へ出かけようとしたら、東京駅で新幹線が動かなかった、またそれからしばらくの間、神戸在住の何人かの知り合いの消息が分からず心配していた、これもただそれだけのことだった。

 被災地で生活されていて、火や水に追われた方々、家を失い肉親を亡くされた方々にとってはそれどころではなかったはずだし、心の傷が完全に癒えることはないだろう。
 しかし私のように東北や神戸に生活基盤を持っていなかった大部分の国民にとっては、情況は私と似たり寄ったりだったことだろう。特に4年前の震災以来、「がんばろう日本」「がんばろう東北」などというスローガンが掲げられ、被災地と連帯して支援しようという動きは現在でも続いているが、降りかかった運命のこれだけ大きな差をどうしたら埋めることができるのだろうか。

 私もこの4年間、被災地の子供たちのキャンプのボランティア活動などにも参加するようになったが、それだけで十分とはとても言えない。しかしあと何をしたら良いのか、これからもずっと考えていくことになるだろう。
 ただこれまでその事を考えてきて思い当たったことは一つある。それは多くの日本国民にとって、もはや4年前の東日本大震災はすでに他人事なんだなということ、もう歴史の中の事件の一つでしかなくなっているように思える。

 私はここで綺麗事を言うつもりはないが、4年前の東日本大震災の復興の歩みが、他の自然災害に比べて遅々として見えるのは、あれは天災であったと同時に人災の側面も大きかったからだ。原子力発電所の事故さえ伴わなければ、被災地への人や物の流入はもっとスムースだったはずだし、被災地の産業に対する変な風評も流れなかったはずで、そうであれば東北地方の経済的復興の足枷になることもなかった。

 東日本大震災では原子力発電所が被災地の方々に及ぼしたネガティブな影響が大きかったにもかかわらず、この4年の間に東京都民は都知事選で、日本国民は総選挙で、それぞれ原発再稼働を推進する勢力を圧倒的に勝たせた、もう被災地のことなど念頭に無い、そういうことなんだろうと思う。
 そのくせマスコミが流す「オナミダ頂戴」的な美談とか苦労話には飛びつきたがる、こういう能天気な利己主義を克服することが、さまざまな自然災害や、戦争・事故を含む人災で犠牲になられた方々と連帯することだと思うのだが…。



国民諸法度

 今年(2015年)も早くもゴールデンウィークが過ぎようとしているが、多くの国民がレジャーにレクリエーションに現を抜かしている間に、安倍政権は改憲に向けて牙を研ぎ、腰抜けマスコミは官邸から睨まれることを恐れて、5月3日の憲法記念日にもかかわらず、日本国憲法を考える特集記事や番組を“自粛”するという、およそ我が国は近代国家とは言えぬ体たらくとなっている。このままではいずれ遠からぬ将来、日本はどこぞ隣の半島の付け根あたりの首領様が統治する独裁国家と同様になり果てるに違いない。

 現在の日本国憲法とその改憲手続きに関しては、7年前にこのコーナーに書いた記事と一言一句変わらないので、そちらを先ず改めて読んで頂くこととして、あの時はまさか我が国の官民共にこれほどの“近代憲法知らず”とは思わなかったし、思いたくもなかったが、今にして思えば、日本の与党も野党も国民もマスコミも、西欧先進諸国から見れば幼稚というレベルにさえ達しないほどの度しがたい“憲法知らず”であり、“政治音痴”であることを露呈しつつある。

 その件に関してはとにかく7年前の記事にすべて書いておいたが、安倍政権はやはり改正第9条においては軍事力整備と交戦規定に関して、下位法律への白紙委任の形式を押し通している。国家の最高規範である憲法が、時の与党の言いなりになる下位法律に従属することになるようでは、軍事の暴走を法的に制御できなくなることは目に見えているのであって、この点に関して野党もマスコミも国民も、また安倍首相とは違った考えを持つ与党議員も、まったく何にも触れていないし、触れようともしない。

 とにかく日本が官民マスコミ揃ってトンチンカンな勘違い野郎ばかりだと思うのは、これも7年前の記事そのままだが、近代憲法とはどこの国でも増大する傾向のある国家権力を縛るための最高位の法であるという、先進国ならばごく当然の常識が通用しないことである。
 最近あるアイドルの女の子が、「憲法とは国民が守るべきものではなく、国家権力が守るべきもの」という字幕で語っている画像がネットに出ていたが、安倍政権の閣僚はこんなアイドル女性にも劣る政治音痴かと思うと本当に情けない限りで、それを諫められない側近やマスコミばかりでは我が国の将来はどうなってしまうのか。

 『文藝春秋』の2015年5月号に「安倍首相よ、正々堂々と憲法九条を改正せよ」と題して、桝添要一(東京都知事)、小林節(慶應大学名誉教授)、三浦瑠麗(国際政治学者)の鼎談が掲載されていたが、その副題にもあるとおり、「自民改革草案は知能レベルが低すぎる」。
 記事の中で小林氏は、自衛隊の海外派兵に関しては、時の政権の思惑に左右されないよう、憲法で厳格に条件を定める「憲法事項」にすべきであると述べているが、私も上に書いたごとく、これは近代憲法を学んだ者なら至極当然の議論であるはずだ。
 その真っ当な憲法論者の小林氏が記事の中で驚くべきことをすっぱ抜いている。自民党の勉強会に行くと、よく「国民は憲法を守らなくていいの?」と聞かれるが、小林氏がアメリカ独立宣言やフランス革命の例を挙げて、「憲法は権力者を縛るものです」と答えると、自民党の面々は非常に不服そうな顔をするのだそうだ。高市早苗氏などは「私はその憲法観を取りません」と平気で言うらしいが、まったく立憲主義を理解していないと小林氏は呆れている。

 おそらく高市氏や自民党の面々だけではあるまい。野党もマスコミも国民も、憲法とは国民が守るべきものだと信じて疑わない人間が大多数なのではないか。まるで江戸幕府が武家を統制するために発布した“武家諸法度”や、皇室や公家を統制するために制定した“禁中並公家諸法度”と同じく、統治者が被統治者を縛るものという程度の認識であれば、我が国はいまだに封建時代にあるとしか言いようがない。いずれ欧米の先進民主主義国家からは商売以外では相手にされず、どこぞの首領様が統治する国と並ぶ“悪の枢軸”呼ばわりされる国家になり果てるのは時間の問題であろう。
 そんな法になるのであればいっそ憲法とは呼ばず(西欧の民主主義国家に失礼である)、“国民諸法度”とでも改称するがいい。まあ、現時点で日本列島に棲息する政治的に無関心で能天気な日本国民には“国民諸法度”の弊害は及ばないだろうけれど…。



亡国の競技場

 今年(2015年)の年明けに新宿南口の高層ホテルに泊まったら、都心の高層ビル群や東京タワーを遠景にして、東宮御所や神宮の森の緑の手前に国立競技場が見下ろせた。手前の白い屋根は東京体育館、画面の左側はドーム屋根の絵画館だが、それらに挟まれた茶色い部分が国立競技場、いや旧・国立競技場と言うべきか。

 1964年10月10日、我々の世代にとっては忘れることもできないあの日、昭和天皇ご臨席の下に東京オリンピックの聖火が点火された聖火台はすでに撤去され、『ありがとう』の横断幕が掲げられていて、取り壊し工事がすでに始まっていた。
 当時は代々木の一角に偉容を誇った国立競技場も、今では四方八方の高層ビル群から見下ろされる存在になってしまったが、私たちあの世代の東京都民ならば、あの日この空に描かれたブルーインパルスの五輪を忘れることはない。

 さて最初の東京オリンピックから歳月は流れて2013年、次々回のオリンピックは再び東京で2020年に開催されることが決まったが、まさに明治維新以来の日本の近代史の相似形を見るような思いに私は愕然としている。その象徴がこの取り壊された跡地に新たに建設される新国立競技場だ。
 イギリス人のザハ・ハディト氏の設計案がコンペで選ばれたが、あまりに斬新なデザインと構造のため、工期が間に合うかどうかも危ぶまれ、さらに当初1300億円前後と見積もられていた予算が、3000億円近くまで跳ね上がる見通しになり、それを誰が負担するのか、政府文科省と東京都の対立が激化している。
 そもそも最近のロンドンや北京のオリンピックでも会場の建設費用はせいぜい数百億円規模(それもロンドンでは予算が大幅に超過しての結果だという)、それを当初から1000億円規模の予算を見積もり、建築資材などの値上がりで倍以上に修正しなければいけなくなったらしい。

 流線型を多用したザハ案で会期に間に合わすための技術的諸問題、東京の神宮の森にそんなデザインがふさわしいかどうかという環境や景観の問題もあるが、世界をあっと言わすために予算(=国力)の限界も顧みず、背伸びしてこんなザハ案を決定してしまったオリンピック関係者の頭脳はいかなるものか。

 先ほど私が日本の近代史の相似形と言った理由もお分かり頂けただろうか。1964年の東京オリンピックも日本は決して楽々と余裕で開催したわけではなかっただろう。私はまだ小中学生の時代だったから、我が国の台所事情など窺い知ることもできなかったが(私自身が税金取られてたわけではないし)、おそらく戦後の経済復興の足並みや世界情勢や国内情勢などを見極めながら、当時の為政者や関係者たちは各種競技場を整備し、新幹線や高速道路を整備し、東京の街並みを整備していったのだろう。尾籠な話、東京を初めとして日本の街路に公衆トイレが設置されたのはこの頃である。

 そして勤勉な日本国民も戦後の経済復興の中で営々と自分の生活を再構築して納税の義務を果たし、政府と関係者に主導された東京オリンピックの資金源を支え続けたのである。ちょうど明治維新後の我が国が西欧諸国のみならず隣の清国からまでも軍事的恫喝を受けていた時代にあって、国民は納税ばかりでなく兵役にまで応じて諸外国の圧力を自力ではねのけたごとく…。

 勤勉な国民が営々と国家の義務に応じた結果としての『国力』であることを忘れ、自分だけが偉いと思い上がった為政者どもが、自分の虚栄心を満たしメンツを維持するために無謀な国際プロジェクトを強行する、私は歴史の相似形の一方に流線型の新国立競技場に代表される2020年のオリンピックを、もう一方に真珠湾攻撃に始まり特攻・原爆に終わった太平洋戦争を見る思いがする。戦争は国際プロジェクトとは言い難いが、為政者の頭の中にあるのはどちらも“国威発揚”である。

 ついでに言えば、どれほど無理を重ねて2020年の東京オリンピックを強行しても、我が国に良い事はほとんどないであろう。かつての大本営発表のような安倍政権の欺瞞的体質は国際的に知られるところとなり、我が国の放射能汚染は外国人の方が日本国民よりよく知っている。すでに大気中に放出された放射能が、降雨により東京都内を含む各地に危険レベルを超えて堆積しつつあることを、我々は海外からの報道で知る有様だが、このまま行けば放射能を恐れて2020年オリンピックへの参加を辞退するチームや選手が続出する可能性がある。
 そうなればオリンピックに費やされた我々の税金など雲散霧消、オリンピック景気を期待した庶民の夢など、かつて神国日本を信じた日本人の熱狂と同じことになり、日本は世界に醜態を示して新しい国に生まれ変わらざるを得なくなるだろう。外圧によって時の政権が倒れて新しい時代が開く、それもまた良し…か。



魂を売った日本の大人たち

 2015年7月14日、今週中にも安倍首相は国会衆院で安全保障関連法案を採決する構えを見せているが、これはこれまで専守防衛を基調としてきた自衛隊が、わが国土への直接的な攻撃が無くても、密接な関係にある国(アメリカ合衆国)への攻撃が明白である場合はわが国の存亡の危機と見なして武力行使が可能となる法案で、国民の反対が賛成を大きく上回っているばかりか、多くの憲法学者や内閣法制局の官僚OBまでが憲法違反と指摘している代物である。
 もとより憲法を守る気も無く、立憲主義の何たるかさえ知らない封建時代からタイムスリップしてきたような安倍首相一味は、どんな反対論にも耳を貸そうとせず、おそらく強行採決も辞さないつもりだろう。アメリカへの攻撃が明白な状況とは何か、自衛隊は後方支援に徹するというが後方支援とは何か、そういう論点に関して安倍首相の国会答弁はコロコロ変わり、自分に都合の悪い反対論には「それは間違いだ」とレッテル貼りするだけで議論することもできず、それでもう十分に審議は尽くしたと言い繕っている。

 今年の4月29日、アメリカ議会で演説した安倍首相は、まだ国会で法案が審議されたわけでもないのに、アメリカ議会に対して安全保障関連法案を可決して集団的自衛権をアメリカと共に行使することを口約束してしまった。一国の最高権力者が軽々しく法律制定を前提に演説する、もう何でもかんでも自分の思う通りに事が運んで当然と言わんばかりの傲慢な態度に当然批判が巻き起こった。
 それに対して安倍の手下、自民党の谷垣禎一幹事長は、安倍の演説内容は「表現の自由」と言い放った。権力者が自分に都合の良い時だけ憲法の「表現の自由」を持ち出す、これだけでも立憲主義をまったく理解していない輩が我が国の権力の座に居座っていることが分かる。そのくせ政権に対して批判的な報道をするマスコミに対してはさまざまな脅しを使って規制を加えて、表現の自由を侵害しようとする、まるで北朝鮮の独裁者である。

 どうせ国会で強行採決になれば、安倍の手下の自民党議員どもは次回の選挙でも党の公認が欲しいから賛成の起立をするであろう。公明党議員も与党の居心地の良さを手放したくないから右に同じであろう。安倍に魂を売り渡したゾンビだから仕方ない。
 ではそんなゾンビどもを国会に送り込んだ有権者はまだ魂を保っているのか。自分の業界の権益を守って欲しい、場合によっては自分の子息の進学や就職に代議士様の口利きが欲しい、そんな欲に釣られて総選挙でゾンビ議員に投票した者も多いのではないか。
 安倍が集団的自衛権を内閣で閣議決定したのは昨年夏のことであった。そしてその年の暮れに総選挙があったが、何だか危ないなと思いつつも欲のしがらみで安倍の手下の代議士どもに投票した。ゾンビがゾンビを選ぶ、まったくどいつもこいつも魂を売り渡した抜け殻か。

 もちろん我が国も集団的自衛権を行使して国土を守るべきだと固く信じる国民がいるのは当然だ。それこそ思想・言論の自由だから…。では何で今頃になって急に反対論が湧き上がってきているのか。総選挙の時は何も考えず、目先の欲得に釣られて投票したということではないのか。そんなゾンビどもの無責任で軽率な投票行動のせいで、10年先20年先、場合によっては50年先の日本国民が戦場で生命を落とし、一家の大黒柱を失い、戦災で財産を無くすかも知れないのだ。現世を生きた日本の有権者が、あの世で一億総懺悔して土下座したってもう遅い。



自衛隊員の犠牲のうえに

 安全保障関連法案は7月16日、予想どおり野党議員欠席(議決権放棄)の下で採決が強行されて衆議院を通過したが、その後ネット上やマスコミなどで最近では我が国に例を見ないくらい国論を二分した熱い論戦が続いている。しかしその前に私が先ず言いたいのは野党のだらしなさだ。
 最初から十分な対案を提出できず、『安全保障関連法案』を『戦争法案』などと国民の感情に訴えるようなヒステリックな表現にすり替えて、世論を煽り立てるだけの戦略しか打ち出せなかった。安倍首相が法案に関して中途半端な説明しかしないことを「国民をバカにしている」と非難しているが、そんな野党も結局は国民をバカにしている。与党にも野党にもこういう政治家しかいない日本国民は不幸だと感じる。

 別の記事でも書いたが、そもそも憲法第9条に真っ先に反対したのは日本共産党であった。当時のソ連など共産圏諸国に日本を売り渡すために対米戦争まで意図していたとしか思えない共産党が、21世紀のこの期に及んで中国や北朝鮮の失敗を知りながら、いまだに『共産主義』の古い看板を降ろそうともせず、自分たちこそ民主主義だと国民を騙し続けている。こんな共産党が『戦争法案』などと言い換えて、『戦争する国に反対』などと国民感情を煽り、『徴兵制になる』と国民を脅して、国民を反対運動に駆り立てることで自分たちの議会活動の未熟を補おうとしている。浅ましいったらありゃしない。
 祖国をソ連に売り渡そうとした先人たちの過ちを反省し、共産主義の看板と訣別し、新たに労働党でも何でもよいから別の名称に変えて出直せば、いくらでもアンチ自民の受け皿になれる余地はあるのに、そういう努力は一切しようとしない。
 こんな共産党を筆頭に、せっかくの二大政党制確立のチャンスに、小沢とか鳩山とかいう古くさい政治家どもが権力を弄んで自民党の亜流ぶりを露呈した民主党や、自民党と連立を組んで権力の甘い蜜を舐めた旧社会党や現公明党など、日本には頼りになる野党が存在しない。だから何でも自民党の思うがまま、それを独裁政治だとか何だとか批判したって結局は負け犬の遠吠えでしかない。お前たちに投票した1票はどうなったんだよ(怒)。

 とはいえ、今回はこんな頼りない無能な野党に業を煮やしたかのように、安全保障関連法案に対する国民的な反対運動は過去に例を見ないほど盛り上がっている。これまであまり政治的運動に関心が無いように見えた若者や主婦などからの反対も沈静化の兆しが見えず、これまでの消費増税だとか郵政民営化だとか秘密保護法案の時のように、いずれ国民は忘れてしまうだろうとばかり見くびっていられなくなった自民党内にも危機感が高まったのだろう、批判の強かった例の新国立競技場の計画を白紙に戻して支持率回復を図ったばかりでなく、何と安倍首相自らテレビ番組に生出演までして国民に法案の理解を求める事態になっている。ただし相変わらず盗難防止の戸締まりだとか、火災の延焼だとか、訳の分からない例え話に終始して国民をバカにしきっていると逆に批判が強まっているようだが、それもこれまで民主主義国家として為政者がないがしろにしてきた国民への説明、この期に及んで慣れない事をしているからではないのか。

 多くの国民が今さら首相の説明など聞く耳を持たないのは、これまでずっと首相サイドが国民の声を聞く耳を持たなかったことへの裏返しであろう。やっと我が国もこの土壇場にきて、遅きに失した観はあるが、少しだけ民主主義国家らしくはなったものの、安倍首相にとって、これまで美しい国だ、戦後レジームからの脱却だなどと言って、自分にできもしない綺麗事を国民にだけ押しつけようとしてきた、あるいは国務大臣や国会議員であれば遵守する義務を負う日本国憲法を“みっともない憲法”と放言して憲法改正手続きをゴリ押ししてきた代償は大きかったと思う。

 しかし何故そこまでして今回の安全保障関連法案の可決にこだわるのか?安倍という男はそこまで根性が腐った近代政治を知らない独裁者なのか。安倍の手下の1人、高村正彦副総裁などは支持率は無視しても法案を成立させると息巻いているが、国民の支持など要らない、これはまさに独裁者の論理ではないか。
 ここまで自民党の安倍一味がなりふり構わず法案成立に狂奔するウラには、何か国民には言えないような理由があるのだろうか?例えば「米中戦争近し」という秘密情報が日本政府に届いていて、集団的自衛権を確保しておかなければ、大挙して尖閣諸島を占領した強力な中国軍に対して、自衛隊が個別的自衛権で単独に反撃しなければいけなくなるとか…。
 これはまんざら無い話ではない。私の手荷物の記事にも書いたが、2011年9月9日、まだニューヨーク同時多発テロは起こっていなかったにもかかわらず、航空機内持ち込み手荷物の制限は普段より明らかに強化されていた、あれは各国の当局者たちだけは2日後のテロを知っていたとしか思えない、そういうことを経験したから、もしかして数ヶ月以内の米中戦争とかもありうると言っているわけだが…。

 いずれにしろ、2015年7月現在、我が国は安全保障関連法案をめぐって国論が二分されていて、反対運動もまだまだ盛り上がる兆しがある。しかし一方でいわゆる“ネトウヨ”と呼ばれる勢力ではない普通の日本国民の間からも集団的自衛権に賛成する意見も出てきている。
 集団的自衛権に対する真面目な論争が展開されるようになったのは良いことだ。何しろこれまでは法案賛成派の“ネトウヨ”は反対派を“在日(朝鮮人)”と決めつけ、反対派の“サヨク”は賛成派を“アメリカのポチ(犬)”と罵倒するといった具合で、到底まともな議論などできる雰囲気ではなかったのだから…。

 ここで両者の言い分を大雑把にまとめてしまえば、反対派は集団的自衛権によって我が国の自衛隊がアメリカの戦争に巻き込まれ、地球の反対側や中東などで戦死者が出ると言うが、では現行のまま中国軍の武力発動に直面すれば自衛隊は個別的自衛権で応戦するため、同盟国軍の支援を得られずに膨大な損害を招く恐れもあるということだ。中国軍の武力発動など無いというのは希望的観測に過ぎない。
 逆に賛成派は中国による侵略に対して集団的自衛権で効果的に反撃できるようになると言うが、自衛隊が今度は中東などの紛争地で兵站任務についている最中に戦死者が出る可能性もある。アメリカ軍や多国籍軍が自衛隊にそこまで期待するはずはないというのも同じく希望的観測に過ぎない。

 つまり集団的自衛権に賛成派にしろ反対派にしろ、その見通しが外れた時には自衛隊員の損害は予想をはるかに超える恐れがあるということだ。あなた方はそこまで責任を持って意見を述べているのか?
 つまり中東で戦うか、尖閣海域で戦うかは別として、法案に賛成だ反対だと意見を述べている大多数の日本人は、自分が銃を取って戦う気概は持っているのか。銃を扱う技術も経験も無いにせよ、兵員が不足すれば、銃後で“後方支援”に志願する気はあるのか。情勢がどうなろうとも、戦闘になればそれは自衛隊の仕事と、結局は他人事だと思っているのではないのか。

 自分が戦場(後方兵站基地でもよい)に立つ覚悟も無い人間が、「集団的自衛権が」「自衛隊は」と偉そうに持論を述べる、そんな政治学者気取り、参謀気取り、私はおかしいと思う。
 独伊との軍事同盟か、米英との国際協調路線か、それが問題だった1930年代後半から1940年代にかけて、健康な男子にはすべて兵役があり、国論がどちらに傾こうが銃を取らなければならないのは自分自身であり、父であり夫であり息子であった、そして一部の貴族や財閥や政治家や高級軍人よりなる少数の階層の輩が国策を決め、多くの国民が前線と銃後で生命を散らせた。
 現在は大多数の国民は戦場に行く義務もなく、いざとなればすべて自衛隊員に犠牲を強いることになる、少なくともその情況だけは分かっているのか。安全保障関連法案に賛成にせよ反対にせよ意見を述べるからには、その見通しが外れた場合は自分も幾分かの犠牲を払う覚悟だけは決めなければいけないのではないか。

 少なくとも現時点で一つだけ言えることは、日本の進路がどちらに転回するにしても、この重大な時期に、立憲主義を理解し、祖国の過去の栄光も屈辱も誤謬もすべて科学的に判断して将来を決定できるような指導者を持てなかったこと、それこそが国家百年の不作であったということだろう。



集団的自衛権の火遊び

 相変わらず今日も“安全保障”論議がネット上を賑わわせているが、日本人は今も昔も国家の安全保障というとすぐに、軍事力を行使するか否か、つまり武士が「いざ、勝負、出会え」とばかり刀を抜くか否か、といった大上段に振りかぶった議論になってしまう。まあ、日本人はほとんどが気持ちだけは正々堂々のサムライ気取り、潔癖なんですね。
 江戸時代には士農工商という身分の序列があって武士が一番偉かった、だから国民国家になってからも日本国民の間には武士コンプレックスが抜けておらず、国家の安全保障などを論じても武力行使是か非かの発想しか出てこない。かつてエコノミックアニマルと蔑まれてまで経済発展に邁進した国民なら、もっと商人的に目先を効かせた狡猾さも持ち合わせなければ、猛獣だらけの現代世界で国家の安全を保証することなどできないのではないか。

 今回の安全保障関連法案には私は絶対反対だが、その主たる理由はいわゆる“戦争法案”だからとか、“憲法違反”だからというだけではない。もちろん立憲主義、法の支配という観点から、今度の安倍政権のやり方は言語道断であり、まるで北朝鮮のような権力者のあり方について私もこのサイトでいろいろ批判してきた。

 しかし今回は法案そのものの危険性について私の考えを述べておきたい。法案推進派の言い分によれば、集団的自衛権はヨーロッパ諸国にとっても環太平洋諸国にとっても世界の常識であるというが、世界の常識は日本の非常識、集団的自衛権は近視眼的な潔癖さしか持たない日本人が取り扱うにはあまりにも危険なものだからである。

 歴史的に1940年の日独伊三国同盟も元々は枢軸国間の集団的自衛権みたいなものであったが、日本はそれを上手に使いこなせたと言えるのか。ナチスドイツは極東イギリス軍とシベリアのソ連軍を牽制して欲しくて大日本帝国と同盟を結んだのに、日本は頭にカッと血が上ったサムライみたいに向う見ずに強大なアメリカに斬りかかった、日独伊が最も効率的に利益を得られるように結んだはずの三国同盟(集団的自衛権容認派の言い分と同じ)、しかし最悪の結果を自ら求めて死地に飛び込み、独伊をも対米戦の道連れにしてしまった。

 法案賛成派はよく中国の脅威を理由に挙げるが、中国が脅威であるならなおのこと、今回の安全保障関連法案は日本人にとって危険である。以下はあまりにも不謹慎な意見と取られる恐れがあったのでこの半年間黙っていたが、先日週刊プレイボーイ誌の吊り広告で同じような記事の表題を目にしたので書くことにする。この意見が不謹慎だという国民は多いだろうが、そういう国民が今回の集団的自衛権を手にしたら取り返しのつかない失敗をするだろうという意味で書くのである。

 今年の1月か2月頃、イスラム国(ISIL)が自分たち“正当なイスラム教徒”の支配すべき領域として、東ヨーロッパから北アフリカ、さらに中国西域までを主張しているという報道があったが、これを知ったら我が国の安全保障の一つの選択肢は思いつかなければいけない。もし思いつけないならば集団的自衛権などという火遊びは止めた方が身のためだ。
 私が考えたのは、イスラム国(ISIL)を泳がせて中国西域に触手を伸ばさせれば、必然的に中国軍の一部は西方へシフトせざるを得ない。つまり東方の我が国への脅威は相対的に減ることになるが、これをアメリカとの“集団的自衛権”で中東へ戦闘部隊を派遣してイスラム国(ISIL)を叩くとなれば、我が国土を守るべき戦力を手薄にしてまで、わざわざ中国を間接的に助けることになる。この打算ができない潔癖な武士には集団的自衛権による戦争計画は無理だ。
 別にイスラム国(ISIL)と同盟を結ぶわけではないが(そもそも相手は国ではない)、国家の安全保障とはそういう冷徹な計算が根本に無ければいけないのではないか。先日の週刊プレイボーイ誌の見出しによれば、嘘か本当かは知らないが、西域へのイスラム国の進出に中国が神経を尖らせているとのことであった。

 20世紀初頭のロシアの膨張政策に対抗するためにイギリスが日本と同盟を結んだのも、1940年にナチスドイツが極東イギリス軍とソ連軍を牽制するために日独伊三国同盟を結んだのも、すべてはそういう打算に基づくものである。
 しかし日本が今回どういう打算(計算)に基づいてアメリカとの集団的自衛権を行使しようとしているのか、まったく見えてこない。また中国や北朝鮮の脅威に対抗するためというなら、アメリカと一緒に中東やアフガンなどで戦うことによって肝心の国土周辺における対中国・対北朝鮮戦備を他へシフトしなければいけなくなり、そのデメリットをどう埋め合わせるつもりなのかも分からない。

 日本人は戦争を情緒でしか考えることのできない国民であり、しかも為政者のみならず国民全体にその自覚が足りない。何かあればカッとなって刀を抜くか、暴力は止めましょうと諌めるか、大体この2種類の人間しかおらず、どちらの人間にも、どういう具合に立ち回れば国家が最も安全かという発想が無い。冷酷で狡猾な国際社会でむやみやたらに刀を振り回すだけしか能の無い人間は戦争など考えずに、復興支援や人道援助だけ考えていた方がずっと安全だ。

 今度はアメリカさんと一緒にうまくやるんだと安倍一味は思っているだろうが、金輪際日本人には戦争は無理ということを証明するような椿事が発生した。8月11日の参議院特別委員会で、今回の安全保障関連法案の成立を前提とした部隊の編制や行動計画を定めていた自衛隊統合幕僚監部の内部文書が、共産党の小池晃議員によって暴露されたのである。
 まさに耳を疑うとはこのことである。中谷防衛相も小池議員の追求にしどろもどろになり、安倍政権の国会軽視の姿勢やシビリアンコントロールの機能不全が浮き彫りとなっているが、それらは当然の大問題として別に置いておいて、アメリカ軍と一緒に軍事力を行使しようと思っている自衛隊の内部から、選りも選って共産党に内部文書が洩れる、この異常さにお気付きの方はどれくらいいらっしゃるだろうか。

 こんなに情報管理の甘い軍事組織が他国と組んで戦争などできると思っているのか。誰よりも驚いたのはアメリカ軍関係者だったと思う。
「まだまだ未熟者だな」
私がアメリカ軍の司令官だったらそう思う。先の大戦では同盟国ドイツの深い思惑を慮ることなく対米戦に踏み切って同盟国にも損害を負わせ、超大国アメリカと戦う以上もっと慎重かと思いきや、緒戦の勢いで次に向かう先がミッドウェイなどという情報は筒抜け、山本五十六司令長官の行動日程も筒抜け、次の司令長官古賀峯一大将殉職の時には日本海軍の作戦文書がアメリカ軍の手に渡る…、と刀を振り回すだけで情報の大切さを理解していなかった日本軍、何だ、現在も同じじゃないか(米軍失笑)。

 アメリカ軍が情報に関して素人同然のこんな軍事組織と本気で組んで戦おうと考えているとは思えない。安倍をおだてておけばパシリか鉄砲玉くらいには使えるだろうというのがアメリカ軍の本音だと思っていた方が間違いない。



前田利家は泣いている:護衛艦かが

 2015年8月27日、ジャパンマリンユナイテッド磯子工場で海上自衛隊のヘリコプター搭載護衛艦(DDH184)が進水して「かが」と命名された。今年の3月に竣工して引き渡された護衛艦いずも(DDH183)の姉妹艦で、航空母艦のような全通型の飛行甲板を有して最大14機のヘリコプターを運用できる大型艦である。19500トン型とも呼ばれるが、満載排水量は2万トンをはるかに越えて3万トンに近く、かつての戦艦並みのサイズだ。

 この写真は毎日新聞のサイトにあったものだが、この広大な飛行甲板を見れば素人は航空母艦と思ってしまうのは無理もない。ただ海上自衛隊はあくまで護衛艦と称しているし、世界の軍事関係者もヘリコプター空母に分類しているとおり、確かに艦載機を射出するカタパルトは装備されていないが、私はこの艦は垂直離着艦できる戦闘攻撃機の運用可能な飛行甲板の強度は備えていると考えている。

 これらの点に関しては、いずも型(19500トン型)に先立つひゅうが型(13500トン型)護衛艦ひゅうがと2番艦いせに関して、以前に別のコーナーに書いているとおりだが、どう考えてもこれら“ヘリコプター空母”の命名基準は感心しない。

 「いずも(出雲)」はともかく、「ひゅうが(日向)」「いせ(伊勢)」「かが(加賀)」は旧帝国海軍の航空戦艦ないし主力空母の名前を受け継いでおり、いずれもその航空艤装に関してはいわく付きの経歴を持った艦だったからだ。
 伊勢と日向は戦艦として完成していたが、1942年のミッドウェイ海戦で撃沈された主力空母陣の穴を埋めるために、後部主砲を撤去して飛行甲板を増設した航空戦艦、海上自衛隊は選りも選ってこの航空戦艦2姉妹の艦名をそのまま13500トン型護衛艦姉妹に命名した。
 そしてそのミッドウェイ海戦で沈んだ主力空母4隻(赤城、加賀、蒼龍、飛龍)のうち唯一旧国名を冠した加賀もまた最初は戦艦として進水したが、1922年のワシントン海軍軍縮条約により当時の八八艦隊計画が中断、巡洋戦艦として工事中だった赤城と天城が空母に改造されることになったが、1923年の関東大震災で天城の艦体が大破、その代わりに加賀が空母に改装されることになった。加賀が帝国海軍で戦艦に命名されていた旧国名を背負った唯一の空母であったのはそういう事情だが(信濃は戦局の悪化による艦種変更)、いずれにしろ日向、伊勢、加賀の3隻はもともと最初は戦艦として誕生して、後に空母(航空戦艦)に化けた経歴を持っているということだ。

 海上自衛隊は護衛艦として建造されるヘリコプター空母の最初の4隻のうち3隻に「ひゅうが」「いせ」「かが」と命名したのであるが、単なる偶然以上のものを感じるのは私だけではないはずだ。百歩譲って単なる偶然だったとしても、何らかの意図を勘ぐられる恐れのあるこれらの艦名を踏襲するのは、仮想敵国の過剰な対抗措置を招く恐れがあるから、国家安全保障上きわめて由々しき事態である。
 護衛艦名として仮名書きでもおかしくない旧国名としては「えちご」「さつま」「するが」「いわき」など他にもいくらでもあるし、そもそも「ひゅうが」「いせ」姉妹の時だって、周辺諸国に過剰な警戒感を与えないように従来の大型護衛艦の命名基準に従って山岳名をつけるべきだったのだ。

 それがひゅうが(日向)、いせ(伊勢)、かが(加賀)…、昨今の安倍政権のやり方を反映した挑発行為としか思えない。こんな国が国家安全保障のために集団的自衛権だって?笑わせるんじゃないよ。
能ある鷹は爪を隠す
弱い犬ほどよく吠える

これら護衛艦名から窺える安倍政権の強硬姿勢を諫めるためにあるような言葉だ。

 国防などはある程度の抑止力は必要だが、限度を越えて相手国に不要な警戒感を与え、過剰な対抗措置を講じさせるような挑発行為をしてはいけない。自国の軍事力に有頂天になり、仮想敵国を威嚇し、刺激し、挑発しまくる平和ボケの安倍晋三一味などに国防を任せておいたら、我が国は大変なことになるだろう。
 今回の新護衛艦に命名された戦国末期の加賀藩の前田家、豊臣秀吉亡き後に徳川家に拮抗する有力な対抗馬と目されて家康からの加賀征伐の脅威に直面しながら、前田利家はいたずらに武力で対立することを避け、その子利長も母まつ(利家の妻)を人質に差し出してまで徳川に恭順の意を示して、最終的に加賀藩の安全を守り抜いた。一説には、病床に家康の来訪を受けた利家は布団の中に抜き身の刀をひそませていたとも伝えられているが、結局はそれも使わなかったのだ。安倍政権の強硬姿勢を反映したかのように、400年あまり後の世の護衛艦にかつての自分の領国の名前が命名されたと知ったら、利家や利長はあの世で何と思うことだろうか。



学生運動SEALDsの可能性

  2015年9月9日、フジテレビ系列の番組『みんなのニュース』にSEALDs(自由と民主主義のための学生緊急行動)の中心メンバー、大学4年生の奥田愛基さんが出演して、現在参議院で審議中の安全保障関連法案に反対の主張を述べたが、時事通信社の田崎史郎特別解説委員や伊藤利尋アナウンサーらによってボコボコに論破されたとネットでは話題になっている。
 特にネトウヨと呼ばれるネットユーザーたちは、そら見たことかと鬼の首でも取ったかのように、バカだ、アホだ、ザマを見ろ、SEALDsなんてこの程度、恥晒しだ、まったくの笑い物、みっともない格好…と嘲笑・罵倒の大合唱、一方のサヨクはサンケイグループの一翼相手によくやった、フジの質問がネトウヨ仕様、バックの政党を質問するなど大人げなし…と防戦・援護に回っているが、今回はやや旗色が悪そうだ。
(写真はフジテレビのサイト上に公開されている動画から)

 奥田君、ハメラレタね、というのが私の感想、SEALDsのリーダーを血祭りに上げて安倍政権へのご機嫌伺いの貢ぎ物にしようというフジサンケイグループの薄汚い大人の算段までは気付かなかったのかね。それとも少し前に『戦争論』や『ゴーマニズム宣言』のこばやしよしのり氏との対談でエールを貰って、ちょっと有頂天に舞い上がってしまったのかね。

 援護側のサヨクの中には、周囲に適切な忠告をしてやる大人はいなかったのかという地団太を踏むような意見もあるが、ちょっとお待ちなさい。
 また本当はネトウヨの言い分と大して変わらないくせに妙にSEALDsに理解があるフリをして、その信念と行動力に脱帽するなどと持ち上げながら、iRONNAというサイトの白岩編集長は彼らの主張や方法を完膚無きままに断罪する立場を取っている。私もSEALDsの活動に関しては、この編集長に同意できる部分も多いが、この人が最後に書いた止めの一文に強烈な違和感を抱いた。まさに日本近代史の宿痾
(しゅくあ)を言い当てている。

 
60年安保の真っただ中、当時の岸信介首相と対峙し、デモを主導した元全学連のリーダーは、昭和62年に岸元首相が亡くなった際、次のような弔文を書いて、その死を悼んだという。
「あなたは正しかった」

(以上iRONNAのサイトより引用)

 何で元全学連リーダーの実名を出さずに伝聞形式で書いているか、その意図は問わないとしても、若い頃は反体制の立場で突っ張った人間も、年齢を加えて50歳の大人になれば、結局は体制側の国家権力が正しかったことが分かるんだよ、そう言っているも同然である。

 戦後70年、日米安保条約は日本の平和と繁栄に役立ったではないか(岸首相は正しかったではないか)、今回の与党の安保関連法案ゴリ押しに賛成する人々の論拠でもある。では戦前の治安維持法も正しかったのか。大政翼賛会も正しかったのか。誰かこの矛盾に答えられるのか。

 私が高校生から大学生だった頃までには60年安保闘争は終結していたが、全国で学生運動の炎が燃えさかっている時代だった。私は大学生や一部高校生を巻き込んだ当時の反体制学生運動など軽蔑しきっていたが、その理由こそ今回のiRONNA編集長の意見そのものであった。
 高校の教師たちですら生徒どもに学生運動を批判することもできない雰囲気だったが、そんな時代にあってただ1人、教壇の上から学生運動家を公然と罵倒した教師がいた。
俺たちの革命が成功したら、霞ヶ関の官庁で偉そうにしている官僚なんか俺たちの足元にひれ伏すことになるんだ、ザマを見ろ、と言ってた学生運動家がいたが、とんでもない話だ、口先では労働者と連帯などと耳触りの良いことばかり言っているが、結局は自分たちが上に取って代わりたいだけじゃないか。権力に対する嫉妬でしかない。
 かなり厳しい口調だったが、学生運動に批判的だった私は内心快哉を叫んでいた。そして時が過ぎてみれば、まさにあの教師の言っていたとおりになった。

 SEALDsの奥田さんに比べたら、あの時代の学生運動のリーダーたちはたぶん“偏差値”も高く、理論武装も強力で、政治闘争のノウハウも熟知していたかも知れない。しかしそれはいずれは自分も現体制にせよ、左翼の新体制にせよ、体制の上位に君臨したいという欲求の発散に用いられただけだった。
 だから30年近く経って岸首相の死に際して、本心から「あなたは正しかった」などと言えるのだ。仮に社交辞令だとしても、自分が若き日に掲げた理想に反する言葉を口にするためには、西欧の人間ならば物凄い自己批判の葛藤を乗り越えなければならなかっただろう。しかし彼らはやすやすと見事に変節を遂げて、体制側の人間になったのである。
 要するに日本という国は、大したジレンマも感じることなく簡単に変節できるような人間が体制の上位に君臨できるのである。そういう自己を持たず、情緒のみで動く人間どもが戦後支え続けてきた政治組織が自民党であり、公明党であり、社会党(社民党)であり、民主党であり、共産党であった。

 しかしSEALDsは違うように見える。ネトウヨからもサヨクからも頼りなく見える(今風に言えば“ヘタレ”の)奥田さんのようなヒョロヒョロした人物が呼び掛けただけで、あれほど大規模で全国的な運動が展開されるのである。自分たちが現体制に取って変わろうなどという野望とは無縁の集団、現状が何かおかしいと肌で感じた力無き者たちの運動が大きなうねりになったということだ。
 これまでの日本には見られなかった種類の民衆の運動形態ではないか。あるいは衆愚政治とこきおろす評論家もいるかも知れないが、立憲主義をこうもあっさり否定するような政権を許すほど脆弱だった日本の民主主義、来年の参院選(もしくは衆参同時選挙)までこの動きが弾圧されずに持続することができれば、我が国もやっと西欧諸国並みの民主主義国家に脱皮できるのではないかと期待する。



牛の子の旅立ち

 最近、電通とワサビという広告代理店が制作した味の素ゼネラルフーヅ株式会社のブレンディボトルコーヒーのCMがネットで話題になっている。夏居瑠奈さんという女優を起用して2014年から宣伝しているらしいが、今年2015年9月にシンガポールで行われたSpikes Asia 2015というコンクールのフィルム部門だかフィルムクラフト部門だかで銅賞(Bronze prize)を受賞したので、国内でも話題になったという。

 Spikes Asia 2015の公式サイトでは受賞の事実を確認できないが、あの業界は私の知らない世界だからいろいろあるのだろう。まあ、受賞云々はどうでもよい話で、それよりネットを検索すると、ご覧のような美人の女の子が牛のような鼻輪を付けたちょっとビックリするような写真にヒットする。
 私のような人間までがネットを検索して印象に残るのだから、商品の宣伝効果としては満点と言えるだろう。別に私は普段からカンやボトルのコーヒー飲料などはほとんど飲まないが…(笑)

 ところでこのCMは人間の高校生に擬人化された牛たちが、“学園”で“青春”を送った後、それぞれの出荷先へと旅立って行く“卒業式”(=卒牛式)の物語として描かれている。その式では壇上の“校長”が1人1人の“卒業生”たちにそれぞれの出荷先を告げ、生徒たちは決定した自分の運命を悲喜交々のうちに受け入れていくことになる。

 主人公の親友のハナ子は行き先が動物園に決定して、ホッとした満面の笑みを浮かべる。他の男子はロデオパークや闘牛場などに“出荷”される者が多く、中にはビーフ会社()へ行くことを告げられる男子もいる。
 そして食事にも気をつけて懸命に頑張ってきた主人公のウシ子には、ブレンディボトルコーヒー用の“最高級”の牛乳を提供する企業への“出荷”が告げられ、本人も家族も大喜び、というラストシーンが感動的なんだそうで、この商品を買った人にはウシ子のその後の社会生活が視聴できるサービスまであったのだという。

 さてこのちょっとショッキングなCMには当然のように賛否両論があったようだ。制作者の意図どおり、素直に感動して視聴された方々も多かろう。
 しかし一方で、いくら牛を擬人化したとはいえ、高校生男女が鼻輪を付けられ、ウシ子とかハナ子とか名前もあるのに番号でしか呼ばれない状況設定に、かなりの違和感を覚える方々も多いはずだし、私もそうである。
 国民背番号制の一環であるマイナンバーの開始に不安を持つ国民も多く、また特にこれから社会へ巣立つ若者たちへの国家や企業からの管理・締め付けが、我々の時代と比べてはるかに強力で窮屈になっている時代に、よくもこういう状況設定(シチュエーション)のCMを思いつけるものだと、制作者のセンスを疑ってしまう。

 しかしこれらはブラックユーモアとして受け止められる範囲のことであり、別にいちいち目くじら立てる必要もないかも知れないが、私にはこのCMから嫌悪感しか感じられないシーンが1ヶ所あった。動物園やロデオパーク行きを告げられる“級友”たちに混じって、ビーフ工場行きを宣告される男子生徒のところだ。
 『田中ビーフ』という会社らしいが、この行き先を告げられた途端、式場は一瞬シーンと静まりかえり、他の生徒たちは痛ましそうに目を伏せる。そりゃ当然だろう、牛肉製造工場へ“出荷”されるこの生徒は間もなくビーフという商品として生命を失うことになるのだから…。

 許せないのは、一緒に卒業する級友の過酷な運命を悼んで同情するかのような素振りを見せた一同が、次の瞬間には何事も無かったかのように再びざわめき始め、最後に主人公のウシ子が最高の乳牛として最高級のボトルコーヒー工場への“出荷”が告げられ、“校長”から「いつまでも濃い牛乳を出すんだよ」と激励された途端、爆発的な歓喜に変わる。さっきの牛肉にされる子はどうなったんだよ。

 要するに自分さえ良けりゃいいのね。自分の生命さえ別条なければ、誰か他人の生命が犠牲になっても構わないのね、この国民は…。
「A君、大手広告代理店制作部門」
 
ワ―、パチパチパチ、おめでとう。
「Bさん、老舗食品会社セールス部門」
 
ワ―、パチパチパチ、すごいねー。
「C君、有名商事ニューヨーク支社勤務」
 
ワ―、パチパチパチ、がんばれよー。
「Dさん、代表的エアライン国際線乗務」
 
ワ―、パチパチパチ、よかったねー。
「E君、陸上自衛隊中東派遣部隊配属」
 
……………(エ―、気の毒に…)
という情景を連想してしまうのは私だけか?

 安倍内閣が立憲主義国家の最低限のルールさえ踏みにじって、例の安全保障関連法案をゴリ押しで制定した時の国民の反応、特にネトウヨに限らず法案支持派の態度はまさにこれであった。

 我が国も世界の平和と安定に貢献するために軍事的にも協力しなければいけない、やっと安倍政権になって、多少やり方に問題はあったものの、日本も貢献態勢ができて良かった…と法案賛成派はしたり顔で説法を垂れる。実際に動員される自衛隊員は大変だよね、犠牲が出なければいいね、などと一応建前上は思っているだろうが、次の瞬間には自分自身の出世や仕事の成功、自分の家庭の幸せや社会的報酬の増加ですべて帳消し、そんなあからさまに自己中心な本音が垣間見えるようだ。

 こんな国民だからあんなCMが制作されるんだね。ウシ子が家族や親友ともども歓喜に包まれている時、同じ式場にはビーフになる運命の子とその家族もいたはずなのだ。そういう子への思いやりは全然ない。そういう子の心情を理解しようという気もない。自分さえよけりゃいい。

 私も高校時代は自衛隊員になって、憲法で平和主義を高らかに宣言したこの国を陰から護りたいと真実願っていた。国民が平和主義を享受し続けられるなら、自衛隊は税金泥棒と罵倒されていた時代ではあったが、たとえ戦闘に斃れても密かな名誉として、もって瞑することができるだろうと思っていた。
 しかし立憲主義を踏みにじってまで国の大事を決定するような政権の横暴を許し、自衛隊の戦闘(後方支援)参加は日本の義務だと、どや顔で説教する国民がこれほど多いとはね、こんな国民のための礎になることを望んでいた高校時代までの自分自身が何とも惨めでやりきれない。

 あのビーフになる運命を宣告された男子生徒、ちょっと戸惑ったような感じで泣き顔とも笑い顔ともつかない表情で身を硬くした後、自分の運命を受け入れるかのように従容と壇上に背を向ける。あのシーンを見て、私は戦争中の特攻隊員もこうだったんだろうと思った。死の宣告を受ける、しかし当時は表面上は名誉としてそれを受け入れなければいけない時代、きっと特攻隊員に指名された者たちは泣きたい気持ちを抑えて無理に笑って出撃して行ったに違いない。祖国の平和と安定を願いながら…。

 憲法が踏みにじられる国民の不安など無視して、勝手にアメリカへの忠誠と従属を政策として強引に推し進める政治家どもが羽振りを利かせるような国を招来するために彼らは死んで行ったのか、今回の安保関連法案の成立過程を肯定する国民はもう一度、胸に手を当てて考えて頂きたい。



単細胞な正義漢

 2015年11月13日、まさに13日の金曜日の夜、フランスの首都パリ市内で同時多発テロが発生、少なくとも130人もの市民や観光客が犠牲になり、IS(ISIL、いわゆるイスラム国)の関与があったことは間違いなさそうだ。いかなる政治的理由があろうとも一般人を対象とした破壊・殺戮行為は決して許されるものではないが、今回のISILだけが一般人を標的とした破壊・殺戮を行なってきたのかという問題がある。

 アメリカ軍の原爆投下や日本都市空襲、イギリス軍のドレスデン空襲、ドイツ軍のロンドン空襲、日本軍の重慶空襲などは過去のできごととしても、現在でも行われているシリア空爆、イスラエル軍によるパレスチナ空爆などは、いわゆるイスラム国のテロリストと何が違うのか。
「テロは断じて許さない、テロリストとは断固として戦う!」
と国際世論が一枚岩になれない情況の原因はまさにそこにある。

 そもそもIS(いわゆるイスラム国)などイスラムを名乗る過激派が誕生した背景には、シリアのアサド政権を巡ってアメリカとロシアをはじめとする先進諸国が自国の権益を守ろうとして、利用価値のありそうなイスラム教徒のグループに武器を供与し、互いに自分の代わりに戦わせたからであろう。イスラム系の凶悪なテロリストが誕生したのも、アメリカ・ロシア・ヨーロッパなど先進国がタネを播いたせいであるというのは、今ではもう動かしようのない事実である。

 2001年9月11日のニューヨーク同時多発テロ以来最大のテロがパリで発生したことで世界は狂ってしまった。フランスは空母を派遣してシリア空爆を強化するようだし、他のEU諸国も集団的自衛権を発動するだろう。またロシアも10月31日に旅客機を爆破して墜落させたのがISだということで空爆をさらに継続している。アメリカ、ロシア、ヨーロッパ軍の空爆によりシリア一般人の死傷者もまたパリテロの何倍、何十倍にも上っているに違いない。

 自分たちの所業によって生み出された“化け物”が暴れ始めるや、歴史的背景や因果関係には完全に目をつむって、その“化け物”を退治することしか考えなくなってしまう。私はある映画を思い出した。以前このページにも書いたことがある『タイムマシン』という映画だ。空想科学小説の祖と言われるイギリスのSF作家HGウェルズの原作で、1960年と2002年にアメリカで映画化された。

 話のあらすじはそちらのページにやや詳しく書いたが、人類文明では未来に向かって貧富の差が拡大して、一部の裕福な資産階級が地上の富を独占して栄華に耽り、労働者階級は地下の工場でほとんど奴隷同然に搾取されている。私があの記事を書いた約10年ほど前に比べても、この情況はもうSF小説=単なる空想とは思えぬほどに現実味を帯びてきているが、ウェルズはこの変化がさらに何万世代も経過するうちに生物学的な形質変化を伴って、人類は2つの種族に分化してしまうと予言している。

 つまり資産階級の末裔で地上の生活を続けるエロイ族と、労働者階級の末裔で暗い地下工場の環境に適応したモオロック族である。ウェルズの原作中の主人公は人類の歴史に秘められた驚愕の真実を見抜いて、身の危険にさらされながらもやっとのことで現代に戻ってくるのだが、この物語がアメリカ人の手で映画化されると、エロイ族は美しい種族、モオロック族は地下に棲む凶悪で醜い怪物としてしか描かれなくなってしまう。

 襲いくる怪物モオロックからエロイの美女を護って敢然と戦う頼もしいヒーロー、ただそれだけの娯楽映画に堕してしまったのだ。エロイもモオロックも結局は同じ人類の末裔、資産階級と労働者階級の分化という歴史の宿命の中で2つの種族に分かれてしまったという文明批判など影も形も無くなってしまった。
 考えてみれば映画化された『タイムマシン』、最近の世界情勢とまったく同じではないか。先進諸国もイスラム諸国も結局は同じ人類なのに、なぜ同じ価値観を共有できないのか。一方が搾取し、もう一方が搾取される、その歴史の中にこそテロの原因があるのに、アメリカ流の単純な正義感だけが独り歩きしてしまっている。

 イギリス人ウェルズの末裔であるヨーロッパ人どもも、ロシア人も、そして日本人も今ではアメリカ人と同じ、頭脳がまったく単純化しているのではないか。歴史への洞察もなく、相手への共感を求める努力もなく、敵意と憎しみを剥き出しにして、ただただ戦うために突っ走るだけ。世界の歴史が次第にアメリカナイズされてきている。少なくとも19世紀のヨーロッパにはあった文明批評の精神は失われたとしか言いようがない。



皇室の威光

 今年(2015年)の12月19日、斬新なクリスマスツリーのイルミネーションが輝く東京のサントリーホールで、カミさんがキエフ国立フィルハーモニー交響楽団と共にメンデルスゾーンとチャイコフスキーのバイオリン協奏曲を2曲演奏させて頂いた週末のコンサートは満員の盛況だったが、ここに皇后陛下のご来臨を賜ったことは一部のTVニュースや新聞でも報道された。
 私も2階ロイヤルボックスの片隅で聴いていたが、後半の休憩後に美智子さまがお姿を現されるや、満場の聴衆は総立ちになって拍手の嵐でお迎えし、美智子さまもそれに手を振って応えておられた。万一の不測の事態に備えていた警備の方々は大変な役目だったろうが、やはり我が国における皇室の存在を目の当たりにしたような光景だった。

 前の大戦で同胞やアジア人民を殺した者とその一族を許さない…などと、昭和天皇の戦争責任を巡っていまだにサイト上で見当違いに息巻いている者がいるが、そういう者たちは日本史における皇室の宿命を知らないのである。日本においては特に中世以降、皇族は時の権力者が自らの施政の責任の一端をなすりつけるためにだけ存在させられてきたことは別の記事にも書いた。
 日本の為政者どもは今も昔も自分の地位に見合った責任を取ろうとせず、すべて皇室に責任をなすりつけようとしてきた中にあって、むしろ昭和天皇こそあの未曾有の国難だった敗戦の危機の中で、最高の皇族たる高貴な義務(noble obligation:noblesse oblige)を果たされようとなさった唯一の方であったこともまた別の記事に書いた。

 今上天皇や皇太子の護憲的なお言葉を目の仇にして、皇族の方々の御心を踏みにじるような発言をする首相の側近がいることを見ても分かるように、現代にあっても日本の為政者どもは皇室を自分に都合の良い政治的な道具としてしか認識していないのだ。

 しかし日本においては遠い昔、仁徳天皇が民の竈(かまど)に煙が立たないのを憂えて税を免じた3年後、宮廷の屋根が破れていても民の竈(かまど)から盛んに炊飯の煙が上がるようになったのを我がこととして喜ばれた、その故事に描かれた在り方こそ皇室だったのである。そんな昔を思わせるような美智子皇后の登場であった。

 思えば太平洋戦争、陸海軍は壊滅し、国土は飢饉と空襲で荒れ果て、さらに2発の原爆まで落とされた有史以来の国難を前に、昭和天皇は国民の苦難を救おうと、自らが戦争責任を問われて処刑されることも覚悟の上で終戦の道を選ばれたのだ。
 ひるがえって現在の日本の為政者どもを見よ。国民の苦難をよそに、あまつさえ正規の就職口も年々少なくなる若い世代に対する“経済的徴兵制”を画策し、被災地の苦しみに目を向けようとせず原発を再稼働して支配者層だけが甘い汁を吸おうとするような現内閣の後継者どもがもし戦争を始めたならば、今度は誰が戦いを収めてくれるのであろうか。



日本庶民の礼節

 今年(2015年)の年末はなぜか年賀状の宛名書きなどの雑事が意外に早く片付いたので、映画でも観に行こうかという気になり、日本とトルコの合作映画『海難1890』を観てきた。『杉原千畝』も観たかったが、こちらはまた年が明けたらということにして…、まあ、もう若くないから1日2本の映画鑑賞は辛い(笑)

 『海難1890』の海難とは以前別のコーナーにも書いたが、1890年(明治23年)9月16日、親善使節として来日していたトルコ軍艦エルトゥールル号が帰国に際して折からの大時化の中、和歌山県の紀伊半島先端の串本対岸にある大島樫野崎付近に座礁して乗組員580名以上が犠牲になった海難事故のことで、映画では大島の村人たちが自らの危険をも顧みずに69名の生存者を救助したばかりか、さらに貧しい漁村で自分たちの食糧も乏しいにもかかわらず、なけなしの穀物や鶏肉を供出してトルコの海軍将兵にふるまったエピソードを描いている。

 そして映画の後半1/4の舞台は95年後に移り、1985年のイラン・イラク戦争中、イラクのサダム・フセイン大統領(当時)がイラン上空を飛ぶ航空機の無差別撃墜を宣言した際、テヘランに取り残された在留邦人救出のための特別救援機を日本航空も自衛隊も飛ばすことができなかったのに、トルコ航空が代わりの救援機を送って日本人を救い出した、そのエピソードが描かれている。

 トルコ国民は遠い明治年間のエルトゥールル号遭難の際の和歌山県大島住民の救助活動への感謝を忘れておらず、テヘランの日本人救出劇につながったこともそちらのコーナーに書いたとおりだが、それにしても国際貢献だとか、ボランティアだとかいう特別な概念も存在していなかった明治23年という時代、日本政府でさえ開国して20数年目という時代にあって、よく日本の庶民が、しかも特別な高等教育を受けたわけでもなかったであろう貧しい漁村の民衆が、異国人を救出するためにあれだけの救難活動をなし遂げたものだと驚くほかない。
 現代のようにどこへ行っても白人・黒人・中国人・韓国人など外人観光客が闊歩しているなどという情況ではなかったから、中央からはるか離れた和歌山県大島の住民たちにはなおさらトルコ将兵は異質の人種に見えたであろう、しかし海に生きる者としての連帯もあっただろうが、彼らはこの異国人を手厚く救護したのであった。

 考えてみれば、政府機関やNPO法人などの“ボランティア”のプロが偉そうに主導などしなくても、ほとんど世界中の民衆はこういう優しさ、逞しさは生まれながら共通に持っているのではないか。どうも最近の日本人が目の仇にしている中国人だって、確かに彼らの中には金銭面で狡猾な振る舞いをする者も目立つが、第二次世界大戦末期に大陸に取り残された多くの日本人孤児を大切に育ててくれたのだ。中国共産党の対日政略だけでできる行為ではない。
 政府機関やNPO“ボランティア”組織の偉い人たちは、もっと民衆が持っている優しさを信じなければいけないと思う。自分たちが組織化しなければ被災者を援助できないなどと思い上がってはいけない。そのことを明治年間の一般民衆によるエルトゥールル号救難活動のエピソードは物語っている。

 また万国共通の民衆の優しさ以外に、日本人には他人の金品に手を出すのは卑しい行為という考え方が浸透しているのではないか。映画の中で、村の子供たちが遺留品の中から軍人の衣服やサーベルやコインなどを現場から持ち去るのを見て、トルコ士官が激昂するシーンがあった。自国民ならば金目の物をちょろまかして自分の物にしてしまうこともあるから、村人たちによる略奪を疑ったわけだが、村人たちはこれら遺留品を故国に返す前に、衣服の綻びを縫い直し、金属にこびりついた血や泥を洗い流していたのである。

 最近では(最近に限らないかも知れないが)日本人の中にも他人の金品をちょろまかしたりネコババしたりして平気な不心得者も多くなったが、それでも多くの日本人は見ず知らずの他人の物であっても、それに手を付けるのは良くないことという教育が、諸外国に比べて行き渡っていると思う。
 私も幾つかの外国を旅行して回ったが、物を落としたり置き忘れたらまず戻って来ないと覚悟するよう言い聞かせられてから出発したものだ。しかし日本では外国人観光客などが不注意に遺留した財布や貴重品が無事に戻ってきたという“美談”がたびたび紹介されている。私の小児科時代の恩師である小林登先生が書かれていたことだが、1965年に東京で国際小児科学会議が開催された際、あるイギリス人小児科医が渋谷の飲食店に財布を置き忘れ、翌日それが戻ってきたと大変に感激していたそうだ。

 そんなこと別に当たり前でしょ…と私たちは簡単に思ってしまうが、これを無くした人は困るだろうなという考えは我々日本人の多くが持っているのではないか。先年の震災でも、あの混乱の中で被災地の商店の略奪が驚くほど少なかったという外国人のレポートがある。
 いろいろ考えながら映画の帰り道、門松を買いに近所の花屋さんへ寄ったら、そういう私自身が店を出る時に財布を落としてしまった。「あれ、無い!」とポケットを探りながら歩いていると、後から追いついてきた女性が「さっきの店で次に買い物してた誰かが拾ってお店に預けたみたいですよ」とのこと、急いで花屋さんに戻ったら、店のお姉さんが「ハイ、お財布、これですね」と渡してくれた。
 赤の他人が落とした財布と分かっていても誰もネコババしない、“民衆レベルでは”それが当たり前の国、我々はそのことをこそ誇りに思うべきではないのか。



魔性の歴史

 いかにも荒唐無稽な話だが、最近の世界情勢、国内世論を眺めていて、ふと思い出した小説がある。もう16年も昔、ちょうど新しいミレニアムが明けたばかりの2000年頃、邦光史郎さんという方が書かれた『小説日本通史 黄昏の女王卑弥呼』という本である。最初は邪馬台国の時代を舞台にした歴史小説かなと思って、横光利一の『日輪』のように古代日本を題材にしていて珍しいので購入してみた。

 ところがこの小説は、以後8巻にわたって邪馬台国から太平洋戦争終結までの日本の歴史を、ある1つのテーマを軸にして描ききろうという壮大な作品であり、各巻それぞれ1部と2部からなり、全部で16個の時代を舞台にしている。
 それぞれの舞台と実在の主な登場人物を順を追って書き出してみると以下のようになる。

第1巻『黄昏の女王卑弥呼』
 第1部 光と闇の神話(卑弥呼)
 第2部 飛鳥新王朝(厩戸王子、蘇我馬子、物部守屋)
第2巻『聖徳太子の密謀』
 第1部 帝たちの陰謀(厩戸王子、中大兄皇子)
 第2部 天平の女帝(桓武天皇、弓削道鏡)
第3巻『呪われた平安朝』
 第1部 怨霊道真(菅原道真、安倍晴明)
 第2部 朱雀大路の鬼たち(藤原道長、源義家)
第4巻『怨念の源平興亡』
 第1部 狗たちの戦場(源義朝、平清盛)
 第2部 風の軍団(源義経、源頼朝)
第5巻『後醍醐復権の野望』
 第1部 明暗太平記(足利尊氏、楠木正成)
 第2部 室町地獄絵図(足利義満、足利義政)
第6巻『信長三百年の夢』
 第1部 戦国無残帖(織田信長、羽柴秀吉)
 第2部 京の夢江戸の幻(柳沢吉保、井原西鶴)
第7巻『明治大帝の決断』
 第1部 幕末廻り舞台(西郷隆盛、勝海舟)
 第2部 明治大帝の決断(明治天皇)
第8巻『幻の大日本帝国』
 第1部 東洋の奇跡ニッポン(東郷平八郎、乃木希典)
 第2部 幻影の帝国(松下幸之助、山本五十六)


 まあ、こうやって各章の題名を並べてみると、日本史に詳しい人でなくとも何となく日本の通史になっているなと分かると思うが、この壮大な全舞台を貫く1本の筋書きがあって、日本の歴史は2つの超人的な一族が時の権力者や民衆の心を操ることによって織りなされてきたことになっている。

 正統派の歴史小説というよりは空想科学小説とも言えるような荒唐無稽な筋書きで、私も各巻の詳細な内容は忘れてしまったが、日本の歴史を織りなしてきた超人的な2つの一族が主人公だったことは覚えている。

 1つが冥府
(よみ)一族で、これが権力者や有力者に取り入って人々の欲望を煽り立てる役回りをする。魔性の一族と言ってよい。日本の国の景気も良くなって活性も上がるが、大体戦争や争乱に巻き込まれる時代はこの冥府一族が力を持っている時である。“マ”という名の美少女の姿で権力者に近づくことが多い。現代風に言えば派手な衣服に身を包み、髪や爪も綺麗に染めた活動的なお嬢さんのイメージだったように思う。

 もう一つがこの冥府一族を抑えて人々に平和と安らぎをもたらそうとする木ノ花
(このはな)一族で、この一族の御祖(みおや)も美少女の姿で現れるが、こちらは“マ”とは正反対で清楚なお嬢さんのイメージである。ただし木ノ花一族の御祖は超能力を保つために数十年に一度は長い眠りに就かなければならず、この御祖が眠っている間は冥府一族の独擅場になる。

 冥府一族も木ノ花一族もその長は年若い少女の姿をしていることが多いが(例外もある)、いずれも寿命は普通の人間をはるかに凌ぐ200歳くらいだったと思う。人の想念を自在に操ったり、姿を消したり、瞬間移動したりという超能力を持っているが、それぞれ自分の子孫を残すために普通の人間と交配しなければならないので、時代を下るごとにその能力も次第に減退していく。これは遺伝学の法則のとおりである。

 まあ、何で今頃になってこのような小説を思い出したかというと、正邪を司る…といって語弊があるなら平和と戦争を司る2つの一族の勢力の均衡が破れた、まさに現代日本は今ちょうど木ノ花一族の御祖がしばし長い眠りに就こうとしている時代なのかという思いに駆られたからである。
 魔性の冥府一族が支配している時代は、普通の人々がどんなに平和を望んでも叶わない。魔性の一族の思惑どおり、好むと好まざるとにかかわらす、戦争へ戦争へ…といって差し障りがあるなら、より活発でリスキーな時代へと引きずられて行ってしまう、と言うよりは人々自身がそれを望むように想念を仕向けられてしまう。

 最近の日本を見ていると、やはり人知の及ばぬ力が歴史を動かしているのではないかという妄想が浮かんでしまう。かなり学識の高いインテリの人々でさえ、日本も戦争を準備するべきという意見に染まっていることが多いからだ。かつて東京帝國大学法科のインテリでさえ、職業軍人以上に戦争の不条理な想念に取り憑かれていた時代があったことは別の記事に書いた。
 また木ノ花一族の御祖が目覚めてくれるのを待つしかないのか。そんな荒唐無稽な小説を持ち出すなんて可笑しいと言って、誰か私を嘲笑してくれないだろうか。


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