江戸から東京へ
定年退職してからというもの、いろいろな仕事で埼玉県から神奈川県を股に掛けて東奔西走するかと思えば、これまで江戸っ子を自称する割には(笑)それほど足を踏み入れる機会の少なかった東京下町方面に出かけることも多くなり、そんな時には荒川や隅田川の水の流れにかつての江戸の風情を偲んでいます。
先日は不思議な幻影を見ました。総武線で隅田川を越えると東側に両国駅がありますが、これは江戸幕府が1659年に隅田川に大橋を架けた、この橋が当時の武蔵国と下総国をつなぐものだったので両国橋と呼ばれるようになり、この付近の地名が両国となったもののようです。
1657年、つまりその2年前の明暦の大火で隅田川が障壁となって多数の焼死者を出してしまったため、従来の千住大橋以外にも幾つかの橋を架けた、その1つがこの大橋(両国橋)だったといいます。江戸の防災事業の一環だったわけですが、以後江戸の市街が橋の東側の本所や深川方面へ発展するきっかけになりました。
ちなみに明暦の大火では当時の江戸市街の2/3が灰燼に帰し、江戸城の天守閣も焼け落ち、市民の焼死者10万人という説まであります。この火災からの復興に大活躍したのが大名の保科正之で、以後の江戸の街造りに敏腕を発揮しました。
それまでの戦国時代以来の常識では、城下町は敵を防ぐために川を天然の要害として必要最低限の橋しか架けない、また城下の道は狭い迷路のようにしておく、そして防衛戦の司令塔として城には巨大な天守閣を造営することになっていましたが、保科正之はこれらをすべて否定します。まず江戸城の天守閣は現在に至るまで再建されることはありませんでした。さらに市街地は火災の延焼を防ぐために道幅を極端に拡張して広小路と呼ばれましたし、隅田川などの大きな河川には何本も橋が架けられました。両国橋もその一つ。
これでは隣国から敵に攻め込まれればひとたまりもありませんが、保科正之を中心とした江戸幕府は、これからは戦争の世の中ではない、市民を災害から守って商業経済を発展させ、平和裏に施政を行うのだという百年も二百年も先の国家の姿を描いていたのです。その結果、江戸は世界第一の商業都市として繁栄する基盤が築かれたのでした。
ちょっと仕事の帰りに総武線の両国駅で降りてブラブラ歩いていたら、不思議なタイムスリップの世界に引き込まれました。隅田川に掛けられた大橋(両国橋)の上には人々が大勢集まり、川面に浮かぶ何艘もの屋形船を見下ろして賑やかに騒いでいます。また道幅の広い川岸の道路にも武士や町民が行き交って、江戸の街の繁栄を楽しんでいるように見えました。
ここは両国駅に隣接する江戸東京博物館なのですが、常設展示されている江戸の街のパノラマ模型が何ともリアルで、時が過ぎるのも忘れて見入ってしまいました。さまざまな人々をかたどった人形の表情や仕草がまるで本物のようです。この時代には私のご先祖様も数十人はいらして、江戸にも何人かいらしただろうから、そういうご先祖様はこういう風景を見ていたんだなあと何か懐かしくなりましたね。私の遺伝子に刷り込まれている記憶が呼び覚まされたのでしょうか。
少し歩いて行くと、銀座の街に出ました。路面には線路の軌条が敷かれていますが、そこを走って来るのは鉄道馬車、道路を行き交う乗り物も馬車や大八車や人力車で、日本における産業革命はまだ未熟です。人々の服装も江戸時代と同じ和服と、西洋の服装が半々くらいで、明治維新後まだ間もない時代のようですが、この時代、政府は富国強兵をスローガンに国内の鉄道網を整備し、製鉄所や製糸工場を中心に重工業を興していきました。日本史の教科書によれば、この後我が国は日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦を経て世界の強国の一つにのし上がっていきますが、日中戦争、第二次世界大戦の果てに未曾有の敗戦、そして現代の日本があることは周知の事実です。
薩長のクーデター政権によって、保科正之の国造りとは逆方向へ突っ走った近代日本ですが、歴史に「もし(if)」が許されるならば、江戸幕府に維新をやって欲しかったと思うのは私だけでしょうか。従来の歴史観では、もはや江戸幕府に政権担当能力は残っていなかったということになっていますが、皇居に砲弾を撃ち込んで蛤御門の変を起こした朝敵長州が、坂本龍馬の姦計でちゃっかり官軍に成り上がって作った新政府のせいで、どれだけ日本の政治家が薄汚くなったか、実に情けないものがあります。
明暦の大火で幕府の金蔵が空になっても被災者救援を優先した、その保科正之の政策は東日本大震災に活かされているでしょうか。しかし江戸城の天守閣を再建しなかったような幕府では、19世紀から20世紀の西欧列強の侵略を防げなかったというのも従来の皮相な歴史の通説ですが、そんなことはありません。江戸東京博物館では解説されていませんが、展示パネルの一部に下のような江戸の地形図があります。下の方に8個ほど豆粒のように並んだ島嶼状の陸地に私が『台場』と書き加えておきましたが、ペリー来航を迎えて江戸幕府がわずか1年足らずの間に建造した海上要塞、つまり台場の砲台です。現在では東京湾の埋め立てが進んで、この海上要塞の列の先端付近がいわゆる“お台場”です。同じ時代、長州や薩摩は攘夷攘夷と血気にはやるだけで、ムチャクチャな外国船打ち払いで手痛いしっぺい返しを受けていた時、江戸幕府はこういう防衛戦略を着実に実行して、ペリーのアメリカ艦隊の江戸湾侵入を未然に防いでいたわけです。
まあ、江戸時代から明治維新をタイムスリップして再び現代に戻ってくると、いろいろ考えることが多いですね。