お台場の大砲

 お台場といえば、現在では東京都内屈指のアミューズメント・スポット、

例えばこういう景色が見えるあたり一帯を『お台場』と言っておけば普通は間違いないんですが、本当のお台場(台場)とは、あの大きなレインボー・ブリッジの橋桁近くにある小さな幾つかの小島(正確には海上堡塁というべきか)を指します。今回はこの本物の“台場”の写真をご紹介します。

 左側の写真、いわゆるお台場側から対岸の芝浦方面を望んだ構図ですが、右手にレインボー・ブリッジの橋桁があり、手前の小島が“台場公園”として開放されている第三台場跡、その向こう側に浮かぶのが今では無人の第六台場跡で、第三台場を橋の上から眺めると、右側の写真のように周囲を石垣で囲まれて幾何学的な形をしており、人工の陸地であることが一目瞭然です。

 さらに第三台場跡(台場公園)に足を踏み入れると、左側の写真のような砲車の模型が展示してあり(これらは本来は車輪が付いていて、実戦になれば敵艦の方向に照準できるようになっていたはず)、右側の写真のような弾薬庫跡などがありました。この弾薬庫などは横須賀あたりの旧海軍施設跡などに残る弾薬庫とほとんど変わらぬ造りになっています。

 この海上堡塁は1853年(嘉永6年)のペリー来航に際して、当時の江戸幕府が江戸防衛のために計画した海上砲台でした。実はこの第三台場はちょうど塹壕と同じく敵弾を避けられるように中央部が凹んでおり、この内側でも特に敵弾が直撃しにくい位置に弾薬庫が配置されています。
 ペリーは1853年に来航して幕府にアメリカ大統領の開国要求の親書を手渡した後、わずか7ヶ月か8ヶ月後の翌年に再度来航しますが、その時にはこれらの海上砲台が忽然と姿を見せていた、当初の計画だった合計11個の台場のうち、第一、第二、第三、第五、第六のみが完成していたようですが、それにしてもこんな短期間にこれだけの海上堡塁を完成させていた江戸幕府の卓越した築城技術に、アメリカのみならず当時の列強は目をみはったはずです。
 私だって初めてこの第三台場跡に来て、まさかこれほどのものだったとは思ってもいませんでしたから本当に驚きました。私たちが学校で習った日本史の授業では、江戸幕府は200年以上の泰平の世に慣れて腑抜けの阿呆になっていたということでしたが、そんなことはないんですね。まさに『治にいて乱を忘れず』の戒めを200年以上も守り続けることのできた正真正銘の武家政権だったわけです。

 2回目に来航したペリーは無遠慮に品川沖まで乗り込んできますが、江戸湾上に忽然と姿を現した海上堡塁に驚いて、この砲台の射程外にまで退避しました。幕府が要求に応じなければ城下に威嚇射撃の1発か2発…と思っていたに違いないペリーにしては想定外の事態だったと思います。おそらく西欧列強に植民地化されたアジア・アフリカ諸国はその手で屈服させられたでしょうから…。
 艦隊側から見れば、江戸城下を砲撃した場合には当然陸上砲台からの反撃は想定している、しかし背後から海上砲台にも狙われているとなれば迂闊なことはできません。背中に銃を突き付けられながらピストル強盗するバカはいませんから…。しかもこの堡塁の配置を見れば、ペリー艦隊が品川に向けて艦砲を発射した後、反転する際には艦隊は1隻ずつこれらの海上砲台に横腹を晒すことになります。敵地の真ん中で全艦損傷などという危険を犯すような愚かな指揮官は(後世の大日本帝国陸海軍以外には)いません。

 さて江戸幕府(当時の日本政府)の軍事力に驚いた西欧が何を考えたか、私はそのモデルの1つに織田信長の巨大鉄船があると思います。あまり他の歴史家の方々は言っていないのですが、1571年のレパントの海戦に威力を発揮した大型ガレー船にヒントを得て計画したと思われる信長水軍の巨大鉄船、確かに新型の軍船が出撃して毛利側の水軍を破った記録はあるが、どういう船だったか正確な記録が残っていない。
 私の考察は、当時日本侵略の尖兵だったポルトガルの宣教師どもが、信長の軍事的才能と、それを支える日本の軍事的能力を抹殺しようとしたということです。私は明智光秀の謀反にポルトガル宣教師が背後で糸を引いていたと思いますが、これはあまりにも荒唐無稽に見える仮説ですから小説のネタにでもするとして…(笑)。

 しかし16世紀のポルトガル宣教師にしろ、19世紀の西欧列強の司令官にしろ、皆さんがもし自分がその立場にあったら、当時の日本をどう見るか、よく考えてみて下さい。対等な交渉相手と見て、日本の独自性を尊重してくれることは絶対ないと思います。まず自分の国の利益になるように誘導する、もっと悪い言葉で言えば自分の国の餌食にする、然るべき立場で日本に来航した人間なら、宣教師であろうと司令官であろうとそう考えるでしょう。自分たちの文明こそ相手方より優越している、だから相手方が応じなければ軍事力で脅してでも、貿易で相手方から利益を上げたい、それがいつの世も西欧キリスト教文明のやり方でしたからね。

 ところが幕末の日本には物凄い築城軍事技術を持った江戸幕府がいて、これは古来の天皇(エンペラー)の信任を受けて、日本全体を実質的に安定統治している。さて皆さんが19世紀の西欧列強の責任者だったとして、次に打つ手は何でしょうか?
 今回の記事はここまでです。いつか近いうちにお話の続きを書きますが、それまでに皆さんもお台場の歴史を勉強して、できれば第三台場跡の実物を見て、江戸幕府は本当に学校の日本史で習ったような無能集団だったのかどうか、よく考えておいて頂きたいと思います。


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