横浜大桟橋のメガシップ
2014年5月24日の土曜日、アジア方面で航海を行なっている英国P&O社のクルーズ客船ダイヤモンドプリンセスが横浜港の大桟橋に入港しているというので見物に行きました。総トン数11万5000トンを越す巨大客船ですが、1990年代から世界のクルーズ客船は需要の増加を見越して次第に巨大化の傾向にあり、現在では10万トン以上の客船が世界で何隻あるか、私ももう数えたことさえありません。
こういう超巨大客船を総称してメガシップということがあります。こういうメガシップは最初の頃はクルージングのメッカであるカリブ海に投入されていましたが、やがてアラスカクルーズにも用いられるようになり、そのうち日本などにも姿を見せるようになりました。私も長年艦船愛好家を自称してきましたが、まだこういうメガシップを目にしたことは一度もなかった、今回は少し時間のある週末に横浜にメガシップが来航するというので、一眼レフのカメラを持って横浜までいそいそと出かけたわけです。
しかし驚きました。私もこれまで総トン数7万トン強のクイーンエリザベス2世号(QE2)など大型客船も少しは見慣れていましたが、今回のダイヤモンドプリンセスの大きさは桁違い、船というよりは1つの大きな海上都市が動いているという感じです。今後しばらくは日本を起点としたクルーズを行なうそうですから、各地でこの巨大な船影を見られるかも知れません。
上の写真は山下公園から大桟橋を望んだものですが、まるで桟橋に覆いかぶさるように聳えるビルディングのようで、さすがの私も度肝を抜かれましたね。こんな船を見たのは初めてです。大桟橋の手前に停まっているのはロイヤルウィングという横浜港のレストランクルーズ船で、これも定員630名のそんなに小さな船ではないんですが(総トン数2876トン、全長86.7メートル)、こうして並んでいるとまるで問題になりませんね。
このダイヤモンドプリンセスは公式には総トン数11万5875トン、全長290メートル、全幅41.5メートル、吃水(水線下の深さ)8.5メートルで、船客定員は2670人です。これは全長263メートル、全幅38.9メートルだった戦艦大和よりも2割近く大きいということになりますが、軍艦と客船では建造のコンセプトがまったく違うから単純な比較はできません。むしろ戦艦大和はあれだけの兵装をよくあそこまでコンパクトにまとめたものだと賞賛されているくらいです。
それよりこのダイヤモンドプリンセスは英国の会社が運航する船ですが、生まれたのは日本の三菱重工長崎造船所、あの戦艦大和の姉妹艦武蔵と同じ場所で産声を上げました。戦艦武蔵の妹なわけです。
もっとも安産だったわけではなく、建造中に火災事故を起こし、同時に受注していた姉妹船サファイヤプリンセスと入れ替えて完成しました。つまり今回横浜に入港した船体は、本来サファイアプリンセスとして誕生するはずだったが、火災事故のおかげでダイヤモンドプリンセスになってしまった、何かそんな昔話はありませんでしたっけ?
しかしそういうアクシデントにもめげず、この宝石の名を冠したプリンセス姉妹は就航後10年間、無事に航海を続けており、造船王国日本の信頼性をアピールしてくれています。また戦艦武蔵でノウハウを学んだ三菱重工長崎造船所では、さらにダイヤモンドプリンセスを凌ぐドイツの客船アイーダプリマが進水して来年完成予定だそうです。総トン数12万4500トン、全長300メートルで船客定員3250人で、このくらいが世界のクルーズ客船の標準になりそうな勢いですね。
この春先から日本に来航した客船のうちでダイヤモンドプリンセスが唯一最大ではないというから驚きです。『世界の艦船』2014年7月号によれば、本船の姉妹船サファイアプリンセスも来ましたし、この姉妹を総トン数で2万トン以上凌ぐヴォイジャー・オブ・ザ・シーズとマリナ−・オブ・ザ・シーズの姉妹も相次いで日本を訪れ、まるで巨船シスターズ対決の様相を呈しました。
巨船が横付けした大桟橋に行ってみると、天気が良かったせいもあって、ダイヤモンドプリンセスを見物に来た人々で賑わっていました。近くで見ると、また別の意味で巨大さを実感します。白塗りの船体はまるで6階建てのシティホテルのような偉容でした。
水面からの高さが何と54メートル、横浜港の玄関口に架かっているベイブリッジの高さが満潮時55メートルですからギリギリで通過して来たわけです。この日も多少は寸法の余裕をみて干潮になる早朝に入港し、次の干潮の夕方に出港して行きました。
しかし先ほど述べたヴォイジャー・オブ・ザ・シーズとマリナ−・オブ・ザ・シーズは高さが63メートルありますから完全にアウト、以前横浜を訪れたクイーンメリー2世(QM2)も高さが72メートルもあったので、ベイブリッジの外側の大黒埠頭に横付けしましたが、ここは貨物用桟橋であったため船客からのブーイングを浴びて、ついに横浜は日本での寄港地から外されました。今後は大阪か長崎に入るそうです。
客船の巨大化が始まったのが1990年代ですから、1980年にベイブリッジが着工した時に、まさかあの東京スカイツリーの1割以上の高さがある船がやってくるなんて想像もつかなかったのでしょうが、今後はやはり大黒埠頭を客船用の桟橋に改装して周辺地区の再開発を行ない、横浜港全体のレイアウト自体を変えていかなけば、横浜はメガシップ時代の趨勢から取り残されてしまうかも知れません。
あとこの船を見ていて思ったのは、メガシップは非常にトップヘビーの状態ではないかということ、ダイヤモンドプリンセスも高さが54メートルもあるのに吃水は8.5メートルしかなく、重心がものすごく高い位置にあるのですね。おそらく操船はコンピュータで制御されているでしょうが、船の旋回を誤れば簡単に転覆する、2012年に転覆したイタリアのコスタ・コンコルディア(総トン数11万トン以上)も、たぶん操船制御コンピュータのアラームを無視して、船長か航海士がマニュアルで急旋回でもしたんじゃないでしょうか。
需要さえあれば船は大きければ大きいほど運航コストを安く抑えられるんだそうです。1000人乗りの船よりは、倍にして2000人乗りにした方が燃費も運航経費も維持費も人件費もすべて安くなる、乗ってくれる客さえいれば…。クルージング客船だと需要がどこで頭打ちになるか、各社とも冷静に分析しているはずですが、貨物船だともっと需要の見通しが立てやすい。だから貨物船やタンカーなら造船技術が許す限り際限なく大きくしても採算は取れるはず…。
しかしこの原則が成り立たない場所が世界に1ヶ所あります。太平洋と大西洋を結ぶパナマ運河は、その構造から通過できる船のサイズが厳密に決まってしまいます。両大洋の間の地峡の高低差を越えて船を通すため、パナマ運河には独特の仕掛けがあります。
船が後ろの水門を入ったらそこを閉じて水位を変える、前方の水位と同じ高さになったら今度は前の水門を開けてそこから船を引き出す、閘門式といいますが、こうやって船は地峡の高低差を乗り越えて行く、だから当然前後の水門の間の水路に入りきれない船はパナマ運河を通過できません。
2014年現在パナマ運河通過を許可されている最大の船の限界サイズは、全長294.1メートル、全幅32.3メートル、吃水12メートル、全高57.91メートルだそうです。ですからダイヤモンドプリンセスは幅が広すぎてアウト、かつての戦艦大和も幅の制限に引っ掛かってアウト…。この通過制限のサイズのことをパナマックスといいます。
もっとも戦艦大和の場合、アメリカ戦艦は太平洋でも大西洋でも戦えるようにパナマックス以下のサイズという制限がつくはずだから、それを上回る戦艦を作れば勝てるという読みで計画したわけですが、アメリカという国は商売はともかく、戦争に勝つためならパナマックスも何のその…です。1940年代当時は戦艦もパナマ運河をギリギリ通過するサイズに抑えて作りましたが、現代の浮かべる航空基地ともいえるニミッツ級航空母艦は全長330メートル、全幅41メートルと完全にパナマックス無視です。しかしこの姉妹艦を10隻も建造して運用していますから、各艦がパナマ運河を通れようが通れまいが関係ないわけですね。
現在パナマ運河は拡張工事が進行中で、工事が完成すれば全長366メートル、全幅49メートルの船までが通過できるようになりますから、現在就航中のメガシップはすべてセーフ、さらにこの新パナマックスサイズまでの巨大客船が計画されるでしょうから、横浜港ベイブリッジの橋桁通過制限“ヨコハマックス”を何とかしないと、横浜はクルージング界から忘れ去られてしまいます。
現にタンカーやコンテナ船など貨物船業界では、パナマ運河の拡張を見込んだ新型船の計画・発注が進んでいるそうです。ちなみにニミッツ級航空母艦は数字的には拡張後のパナマ運河を通行可能ですが、飛行甲板が舷外に大きく張り出しているので、やっぱり通れないだろうという声もあります。
日本海軍は太平洋戦争末期、対独戦を制した連合軍艦隊が太平洋へ回航するのを阻止しようと、パナマ運河爆撃を計画しました。当時としては超大型の伊400型潜水艦に晴嵐(せいらん)という2人乗り水上爆撃機を3機搭載して、長躯パナマ運河を攻撃しようとしたのです。この大型潜水艦を18隻作る予定だったが、戦争中に完成したのはたった3隻、しかし仮にこの潜水艦が10隻完成したとして、30機の晴嵐爆撃機が800キロ爆弾を1発ずつ携行して飛んで行ったとしても、どの程度の戦果が挙がったか分かりません。
おそらくアメリカ側もダミーの水門など作って、日独軍用機の攻撃に対して欺瞞工作をしていたでしょう。実際開戦初期には日本の潜水艦から飛来した偵察機が小型爆弾を米本土西海岸に投下した事例もありましたから、大事なパナマ運河の水門を無防備のままにしておいたはずはありません。
日本海軍は攻撃計画策定に先立って、日本人で唯一パナマ運河建造に関わった土木技師の青山士(あおやま
あきら)さんに運河の攻撃法を聴取します。赤穂浪士の岡野包秀が大工平兵衛の娘お艶に取り入って吉良邸の図面を盗ませた…そんな故事を思わせるような出来事ですが、もし皆さんが青山技師だったらどうしますか?
日本もこれから次第にきな臭い国になっていくと思いますから、誰でも同じような目に合わないとは限らない。祖国日本に対する忠誠か、人類の宝とも言えるパナマ運河か…。
「私は運河の作り方は知っているが、壊し方は知らない」
青山さんはそう言って海軍への協力を拒みました。人類の福祉に貢献する土木技師としての誇りを貫いたわけです。当時の軍部はいきり立ったでしょうし、当時のような国作りを目論む現代の政治家たちにとっても、青山さんのような生き方は許せないでしょう。しかし私は世界に尽くす日本人の大和魂を見る思いがします。
さて現在の大桟橋は上の写真でご覧のように起伏のある芝生も設けられてちょっとした公園のようになっていますが、現在のような大桟橋が完成したのは2002年のことで、私が学生時代ちょくちょく船を見に通った1970年代頃は、何の変哲もない2階建ての細長い船客ターミナルビルになっていました。私がクイーンエリザベス2世号(QE2)を初めて見たのもこの時期です。ターミナルビルの屋上の手すりにもたれて半日でも丸1日でも港を眺めていたものです。
あの頃はソ連極東船舶公社のナホトカ航路の客船が、確か月2〜3便程度の定期便で入港することがあり、中でもバイカル号という総トン数5230トン、全長122メートルの小型客船は私にとって比較的お馴染みでした。白い船体にソ連国旗をイメージした赤いファンネルマーク(いわゆる煙突のマークのこと)が印象的な船です。
この船が出港する時は銅鑼が鳴って「蛍の光」のメロディーが流れ、たくさんの5色の紙テープが船上の人たちと見送りの人たちの間に交わされて、お互いに別れを惜しんだものですが、そう言えば今回のダイヤモンドプリンセスではそんなことはありませんでした。まあ、別れを惜しむような旅立ちは最近は飛行機ですからね。写真は1973年(昭和48年)頃のバイカル号出港の風景です。
ある日のこと、いつものようにターミナルビルの屋上で独りでバイカル号を眺めていると、私より4〜5歳年上と思われる大学生、または今の言葉で言えばフリーターみたいな男性に声を掛けられました。これからバイカル号でナホトカに行き、そこからシベリア鉄道でヨーロッパを目指すのだそうです。日本に帰って来るのは来年とか言ってました。それまで世界中を放浪の独り旅するのだそうです。
羨ましかったですね。当時はユースホステルなどに泊まっても、独りで放浪するそういう旅人が多かったし(半年働いたら失業保険で半年旅をするなんて、今の人たちが聞いたらちょっとムッとするようなことを豪語していた人もいた)、医師でも学生時代に1年間休学して世界中を独りで回ったという元教授の偉い先生もおられます。また港からフラッと不定期貨物船の船医になって半年以上世界各国の海を渡り歩き、あるヨーロッパの港に着いたら船会社の事務所宛てに日本の奥さんから三行半が先回りしていた、なんて話してくれた先生もいました。
私も放浪の旅に憧れる種族の1人でしたが、船医になりたいという動機で医学部に進学した以上は早く医師になりたかったから、放浪のための休学はしませんでした。でも今になってみれば休学でも何でもして放浪しておくんだったと多少は後悔しています(笑)。