金沢城

 先日学会で金沢へ行った時の写真です。旅日記のコーナーには、よく学会で○○へ行った時の写真とか言って旅先の写真が掲載されているけれど、肝心の学会の写真が無いのは何故かというごく当然の疑問もあるかと思いますけれど、まあ、学会でもない限り旅行など出来ないというのが実情でありまして(汗)、21世紀になって以来、私が純粋な観光旅行目的で東京を離れたことは一度もないのであります(汗・汗)、と弁解しつつ本論へ…。

 私が金沢を訪れたのは学生時代以来実に36年半ぶりのことでした。独り旅で北陸を回ろうと計画して、新潟から金沢へとやって来たのです。旅慣れない若造の初めての独り旅はさんざんなものでしたが、それでも2泊目の金沢はまだ少し心の余裕が持てていたので、当時の金沢駅周辺の情景などもいくらか覚えていました。ところが…、

 36年前の金沢駅は閑散としていて、独り旅の若造の心をさらに侘しくさせるに十分でした。国鉄(今のJR)の駅前に降り立つと、バスやタクシーの数もまばらな駅前ロータリーを挟んで、内灘行きの北陸鉄道の駅舎がポツンと建っていたのが印象的だったのですが、今や金沢駅周辺は東京・大阪など大都市の地下街と変わりないまでに発展し、しかもこれらの都市に比べて開発が遅かった分、その街並みは奇麗で新しく、改めて日本という国が歩んできた時の流れを感じたものです。

 金沢城もずいぶん変わっていました。36年前に訪れた時は、城門に『金沢大学』と書かれた看板が掲げられており、金沢の学生はお城で勉強しているのかと羨ましく感じたものです。
 しかし金沢大学キャンパスは平成7年に移転して、金沢城は城址公園として新たな整備が進められています。兼六園側の門から城内に入ると、櫓や石垣などがみごとに復元されていて、外国人観光客が“Oh, very beautiful!”などと歓声を上げて写真を撮っていましたが、本当は門を入って左手奥にある古びた石垣こそが加賀百万石と言われた前田家の国造りの礎だったわけです。

 和歌山城へ行った時も感じましたが、トラックもクレーンも無かった時代にこれだけの石を積み上げて石垣を作るのは、現代人の想像を絶する大工事だったはず…。談合して入札価格を操作すれば莫大な利権が転がり込んでくるような最近の公共事業など問題ではありません。本来ならば他の作業に従事するはずの農民や町民などを人足として雇って作業を進めたと思われますから、その賃金を別としたマイナスの経済効果も無視できません。道路を作らなければ地方の財政が成り立たないなどという現代の為政者の論理を聞いたら、昔の城主たちは何と言うでしょうか。

 昔はよくエジプトのピラミッドなども権力者が奴隷を使って建造したと書かれた本が多かったと思いますが、奴隷にはこういう巨大な土木事業はできないと思います。やはり事業発注者である王や殿様に対する人民の信頼があり、その上で相応の賃金を支払われなければ、こういう労働はできません。皆さんも鎖で繋がれて鞭で引っぱたかれながら石を運ぶのと、殿様のために汗を流せば十分な報酬を期待できるのと、どちらの方が労働意欲を持てますか?

 さてその加賀百万石の殿様、前田利家ですが、力量も人望もあって豊臣秀吉亡き後は徳川家康の対抗馬とも目されたようですが、利家は徳川家と前田家の実力を冷静に見極めていたのでしょう。いたずらに天下取りに血道を上げることなく、徳川に花道を譲ったように見える最期は見事だと思います。その妻まつ(芳春院)も子の利長も利家の心を知っていたからこそ、屈辱とも思える徳川への忠誠を示して加賀を守ったに違いありません。
 もし加賀藩が徳川と一戦に及んでいたら、日本の近世の歴史も少しは変わったかも知れませんが、仮に一時期前田家が勝利して“加賀幕府”が出来ていたとしても、今になってみれば一体それが何でしょうか。金沢城の本丸は今は無く、本丸があったあたりは御覧のように木々が鬱蒼と茂っているだけです。

  
功名いづれ夢のあと  消えざるものはただ誠

土井晩翠の詩の一節が偲ばれます。世の中を見渡せば、為政者も経営者も、あるいは学者や医者でさえ後世に名前を残すことに血眼になっている者が多いように思います。歴史の年表や組織の沿革に名前が残ろうが、学会役職や論文に名前が残ろうが(Newton・Einsteinクラスの科学論文なら別格)、一体全体それが何だというのか?人生の一面に過ぎないのではないか?
 自分が今の立場で現在なすべき事のために、また自分が今の立場で守らねばならぬ者たちのために誠意を尽くすことだけが人生のすべてなのではないでしょうか。

             帰らなくっちゃ