光の道

 大学に入った2年目の夏休み、気の合った友人たちと初めて北海道へ旅行しました。昭和47年(1972年)のことでしたが、この前年には加藤登紀子さんがリリースした『知床旅情』の歌が大ヒット、知床は観光客でごった返していて、これじゃまるで『知床』じゃなくて『ひでえとこ旅情』だなどという報道もなされたものでした。私が訪れた年もまだ余韻冷めやらぬ…といった状況でしたが、それほど“ひでえとこ”でもなかった。

 あの歌は元々昭和35年(1960年)に森重久弥さんが作詞・作曲したものでしたが、その時は人々の熱狂はローマオリンピックに続く東京オリンピックに向かっており、とても“旅情”を追い求める時代ではなかったのですね。昭和53年(1978年)の『いい日旅立ち』、ディスカバー・ジャパンの時代を先駆けて予感させるような再リリースが加藤登紀子さんの歌声だったわけです。

 ちなみにこの夕陽の写真は知床の海ではありません(ごめんなさい)、東大和市の北部にある多摩湖(村山貯水池)の夕暮れです。実は学生時代の北海道旅行の際、知床ユースホステルに2連泊しましたが、そのユースホステル前の海はとても夕陽が綺麗な場所だと聞いていました。水平線に沈む太陽から波打ち際までが光り輝く1本の線で結ばれる、それはそれは絶景だそうで、そのユースホステルの壁には見事な夕陽の写真が何枚も展示されていました。

 知床ユースホステルの夜のミーティングでは『知床旅情』ならぬ『鬼のパンツ』なども歌って踊らされ、バカ騒ぎはしましたが、夏期は大気の状態が適当でないらしく、連泊中に夕陽と海岸を結ぶ輝くラインを拝むことはできませんでした。それでも一生のうちに一度くらいは夕陽に光り輝くラインを眺めたいものだと思いながら、その願いもいつか忘れて半世紀近くが過ぎましたが、先日撮りためたデジタルカメラの写真をつらつらと眺めていたら目に止まったのがこの村山貯水池の夕陽の写真だったわけです。

 ここでは太陽は対岸の丘陵に沈みますから水平線は見えませんが、確かに水面に夕陽の輝きが1本のラインになってこちらに向かってくる。これは感動的な光景ですね。知床旅行以来こんな夕陽を見た日は何回かあったと思うのですが(そもそもこの写真はこの記事を書く2年前です)、それを網膜に映した時には知床の海の夕陽を見られなかった無念など微塵も思い出さなかったんですね。人間いかにボーッと生きているかを痛感させられます。

 この光り輝くラインはなぜ見えるのか、もし水面が完全な鏡だったら、上下対称に丘陵に沈む夕陽が映るはずですし、また水面が激しく波立っていたらそもそも太陽自体が映らない。水面に適度にさざ波が立って太陽の光線が乱反射し、大気中の湿度が低くて乱反射した光が屈折せずに直進して観察者の目に届くという絶妙の条件の下で、夕陽に輝くラインが出現するわけです。

 ということなら、別に海でなくても広大な水面の向こう側に太陽が沈む場所なら観察できるはず、そう思ってさらにデジカメ写真を探してみたら、あった、あった、ありましたよ。これもこの記事の1年前に東京の荒川で撮影した夕陽の写真。葛飾区の荒川河川敷から東京スカイツリーの見える墨田区を望んだものですが、まるで対岸に向けて光の橋が架かったように見えます。

 こういう現象を正式に、あるいは科学的には何というのか、調べてみてもあまり見つかりませんでした。ネットなどでは“光の道”という言葉も見られますが、光の道というと福岡県にある宮地嶽神社からの絶景を指すことが多いようです。これは神社から玄界灘に向かって伸びる参道を見下ろすと、日の入りの方角によって1年に2月と10月の2回、夕陽の光のラインが参道と一直線につながって、沖合いの相島まで伸びるように見える荘厳な光景のことです(私はまだこの神社に行ったことはありませんが…)。

 村山貯水池や荒川に架かった橋のように見えるだけでも荘厳なこのライン、何か正式な名称を付けたらよいと思いますけどね。光の線で「光線」というのは意味が異なってしまいますからボツですが、光の筋で「光筋」とか(実在しないけど解剖学の筋肉みたいな名前・笑)、やはりお勧めは光の橋で「光橋」とか…。もし正式名称があったら誰か教えて下さい。

 西方浄土を信じていた昔の人にとっては、いやが上にも荘厳で有難い光景だったことでしょうね。人生の最後の旅はこの光り輝く橋を通って向こう岸(彼岸)に渡りたいもの、そして向こう岸で少し休憩したら、また朝陽の時に見える同じように光る橋を渡ってこちらへ戻ってきて、もう一仕事したいものです。


          帰らなくちゃ