横須賀三笠公園

 1905年5月の日露戦争の終盤、両国の運命を分ける最終決戦となった日本海海戦で、日本の聯合艦隊旗艦としてロシアのバルチック艦隊を対馬海峡に迎え撃った戦艦三笠は、現在は横須賀に記念艦として保存されており、付近一帯は三笠公園と呼ばれている。三笠は1902年に英国で竣工した排水量15140トン、全長131.7メートル、速力18ノット、40口径30.5センチ主砲4門の、当時世界最新鋭の戦艦であった。日露戦争の経過や日本海海戦の意義については司馬遼太郎氏の「坂の上の雲」に詳しく書かれており、今さら私ごときが語るまでもないが、かいつまんで言えば、大陸で薄氷の勝利を重ねていた日本陸軍の成果も日本海の制海権があればこそ活きてくるのであって、日本海にロシア艦隊の跳梁を許せばすべてが無に帰す。したがって日本海軍の使命は日本海の制海権を確保し続けること、そのために日本海軍はなけなしの聯合艦隊で、ロシアのウラジオストック艦隊、旅順艦隊を各個撃破していったのだ。当然ロシアも制海権を奪うためにヨーロッパ側にいた最強のバルチック艦隊を極東に回航して、日本海軍との一戦を企図する。かくして1905年5月27日、対馬海峡で日露艦隊は激突した。
 古来の瀬戸内水軍の戦法に範を取った敵の進路を押さえ込むT字戦法でロシア艦隊の出鼻を挫いた東郷平八郎提督の戦術は、その後も永く世界の海軍関係者の賞賛を得るところとなり、ロシアのバルチック艦隊はほとんどなすところなく壊滅したが、この圧勝のせいで日本海軍は有頂天となり、その慢心が後日の災厄の元となったとも言われている。
 ところで全然関係ない話で恐縮だが、東宝の怪獣映画「ゴジラvsモスラ」(1992年)では、海上自衛隊の護衛艦隊が、東京湾に向かって真っ直ぐ海上を泳ぐ巨大なモスラの幼虫に対して、無謀にもこの時の聯合艦隊と同じ戦法で挑むが、いくら架空の話とはいえ、あのばかでかい図体のモスラに対してT字戦法はなかろう。案の定、1隻の護衛艦は横っ腹にモスラの頭突きを食らって敢えなくバラバラに飛び散ってしまった。モスラの幼虫を左右から挟んで併航しながらミサイル射撃を加えるのが正解である。
 上の写真
は三笠の艦尾から見たところで、青空に翻る軍艦旗が美しい。前部マストには有名なZ旗が掲げられているのも見える。艦名が右から左へ平仮名で書いてあるので、「さがみ」(相模)と読んだ人がいたのもなるほどと頷ける。



 これは昭和52年4月の戦艦三笠である
。私も何と若いことか。実はこの時、医師国家試験も終わってのんびり遊び回っていたのだが、横須賀臨海公園で軍艦長門碑をグルリと巡っていたら、いきなり1人の外国人と鉢合わせしてしまった。オーストラリアの退役軍人のJohn Self氏である。東郷提督や戦艦三笠については、日本人よりも外国の軍人たちの方が関心を持ってくれているが、Self氏も三笠が見たいというので私が案内してあげた

 いろいろ話を聞いてみると、Self氏は太平洋戦争後、オーストラリア陸軍兵士として日本に進駐、ひなこさんという日本人の奥さんと結婚してMelbourneにお住まいだという。(メルボルンとは発音せずに、メウバンと聞こえるので、最初はよく判らなかった。)日本人と結婚している割には日本語は片言くらいしか喋れず、私の英語といい勝負(私の英語は本や文献を読むだけで、会話はあまり役に立たない)。奥さんは本国に置いて独りで来日していたので、片言日本語の退役軍人と、片言英語の医者の卵の、不思議な取り合わせとなった。この時の縁で、私は同じ年の夏、オーストラリアへ旅行してSelf家にもお世話になるのだが、それはまた別の機会、私の最初の海外旅行であった。

               帰らなくっちゃ