慶應義塾三田キャンパス
我が国最古の大学の一つ、また早稲田大学と共に私学の雄と言われる慶應義塾大学の校舎が東京港区の三田にあります。福沢諭吉によって1858年(安政5年)に創立された蘭学塾を母体とし、1868年(慶應4年)に慶應義塾と名を改め、1920年(大正9年)に大学令による日本最初の私立大学になったのが慶應義塾大学の略歴で、三田キャンパスには大学本部をはじめとして文学部、経済学部、法学部、商学部など主に文科系の学部が設立されています、
…って今回は別に慶應義塾の大学案内をするつもりではありません。慶應大学の医学部や附属病院は新宿区の信濃町キャンパスにあり、知り合いの医療関係者はすべて信濃町に勤務していますから、本来ならば三田キャンパスは私の人生にとって縁もゆかりも無い場所だったはずですが…。
ところが一昨年(2015年)の夏頃、確か三田の近くのハンガリー大使館に用事があって近くを通りかかった折、突如としてある記憶が蘇ったのです。
「30数年前、私が医師国家試験を受けたのは確かにこの場所だったに違いない!」
私はけっこう昔のいろいろな記憶をよく脳内に留めている方なのですが、医学部卒業直前、医師国家試験を受けた前後3日ほどの記憶がまったくと言っていいほど欠落しています。試験の数日前に、友人の下宿に集まってグループで対策勉強していた記憶までは明確で、あとは当日試験場に行く途中で○○医大情報とか称して一部の試験問題漏洩を知らされたことや、昼休みに庭の木の下で友人たちと弁当を食べたことの記憶がおぼろげに残っているだけで、次の記憶は自宅で布団を被って国家試験に落ちた言い訳をあれこれ考えている時点まで完全に飛んでいるのです。
○○医大の問題漏洩情報を私に告げたのが誰だったのかも覚えてないし、誰と一緒に弁当を食ったかも覚えてない、そもそも小学校の遠足でもあるまいに、木の下で弁当を食うという情況がはたして現実のことだったかどうかも定かでない。
国家試験日程が1日で終わったか2日かかったか忘れたままだし、試験場の雰囲気はどんなだったかも思い出せないし、試験会場がどこだったかも思い出せない、これは私のさまざまな過去の人生の記憶としては非常に珍しいことなのですが、思い出す気にもならないほど苦しい記憶だったのも確かです。
本日(2月22日)は私が最後に送り出す卒業生たちが臨床検査技師国家試験を受験する日でした。彼らもきっと物凄い精神的重圧を感じながら受験に臨んだことでしょう。
なぜ医療職の国家試験はそんなに精神的重圧=プレッシャーが大きいのか。私でさえ試験場が三田の慶応大学キャンパスであることを30年以上も思い出せずにいたのです。たぶん1977年の2月だったか3月だったかのあの日の朝は、自宅を出てから山手線で田町駅まで行き、商店街だか飲み屋街だかをクネクネ曲がりながら慶應大学までの道筋を、屠殺される家畜のような気分でトボトボ歩いたのではなかったか(笑)。
医療職の国家試験は教科書を読んで勉強しただけの人は受けられない。厚生労働省(当時は厚生省)が認可した教育機関で所定の医学教育の単位を取得した者だけが受験を許されるわけですから、当然その年に一緒に卒業したクラスメート全員が同じ試験を受けることになります。だから比べられちゃうわけですね。
しかも医療職の国家試験の合格率はそんなに低くないので、普通に勉強してきたクラスメートの大半は合格します。だから落ちると非常に恥ずかしい、面目丸つぶれです。
私が受験する数年前までの医師国家試験は筆記試験の他に面接試験があって、そこでの情状酌量が物を言って合格率などあって無きがごとし、つまりかなりの不良学生(学力だけでなく態度素行も)が1年に数人落ちるか落ちないか程度でしたけれど、試験がマルティプルチョイス方式になってからは、きちんと客観的に点数を取らなければ合格できなくなった。(今考えてみれば当たり前のことですが…)
さらに悪いことに、マルティプルチョイス方式による出題は年々難しくなる宿命があって、私が受験する1年か2年前にはついに東大医学部の卒業生が確か4人くらい落ちた。あの高偏差値を誇る東大医学部を出ながら国家試験を落ちるヤツがいると、当時の新聞や週刊誌がここぞとばかり面白半分に記事にしたものです。
そんな状況の中で私は医師国家試験を受けたのでした。
「100人のうちの4人に入りたくない」
国家試験までの間、私はそればかりを考えていたような気がします。そして実際に受けた国家試験では難問奇問に悩まされて、まったく結果に自信が持てなかった。
「100人のうちの4人に入っちゃったよ〜」
朝来た道を同じようにトボトボした足取りで帰宅して、しばらく布団を被って言い訳ばかり考えていました。
「試験が始まったら頭が痛くて風邪を引いたらしい」
「受験番号の記入を忘れちゃったようだ」
「試験終了間際に解答欄の場所を間違っているのに気が付いたんだ」
しかし何を言い訳しても始まらないと諦めて自己採点したら、何と小児科と産婦人科はほぼ満点、難問奇問ばかりと思っていた内科や外科もそこそこ平易な問題もあって、まず合格間違いなしとの確信を得て、ようやくプレッシャーから解放され、伸び伸びした晴れやかな気分で免許交付の日を待つことができました。
しかし確か今では医師国家試験問題の持ち帰りは不可のはず、当時は持ち帰って良かったのかどうか記憶がまだ曖昧です。晴れやかな気分になれたことだけはしっかり覚えているので、たぶん持ち帰れたのでしょう。
とにかく私の医師国家試験受験に関する記憶は、幼児期の記憶のように曖昧な部分があまりにも多い。あの時期の精神的重圧のフラッシュバックが起きないように、私の大脳が抑制をかけてくれていたのかも知れないと思うようになりました。
そして一昨年、三田の慶応大学キャンパス前を通りかかった時に、もうそろそろ思い出しても害は無いだろうと記憶の抑制がようやく解除された、そんな気がします。