成田山新勝寺
今でこそ『成田』というと、ほとんどの日本人が日本の表玄関口である成田国際空港を思い浮かべますが、昭和40年代から50年代にかけての新空港建設をめぐる内戦さながらだった成田闘争前までは、“成田”といえば成田山新勝寺のお不動様のことでした。
成田山が開かれたのは940年(天慶3年)のこと、時は平将門と藤原純友が国の東西で乱を起こして平安の都も騒然としていた頃、将門・純友の乱は私の年号記憶術では「純友・将門苦策の反乱」で西暦939年と覚えますが、この年に寛朝大僧正が朱雀天皇より将門の乱平定の密勅を賜り、弘法大師作の不動明王像を奉じて東国の下総に入ります。そして翌940年に成田の地で護摩を焚いて乱の平定を祈願、平定後は朱雀天皇から神護新勝寺の寺号を賜って成田山開山となったとのことです。
その後は1180年(治承4年)に源頼朝が平家追討を祈願したり、1674年(延宝2年)に水戸光圀が参詣したり、赤穂浪士の討ち入りがあった元禄年間には江戸深川での出開帳が始まって深川不動堂(東京別院)の端緒が作られたりしています。この境内の写真は大本堂を背景にした三重塔ですが、この背後には成田山公園と呼ばれる広大な庭園が広がっています。池あり滝あり紅葉ありの美しい日本庭園ですが、「ここはお不動様の御庭」という立て札があるためか、普通の市中の公園とは異なる厳粛な雰囲気を漂わせているように感じました。
ところで私が成田山に参詣したのはたぶん1歳か2歳の時に、両親が地元医師会の親睦バス旅行に私を連れて行って以来のこと。まだ成田闘争の予感すらないのどかな三里塚の田園風景の中で弁当を食べるセピア色の家族写真を見たことがあります。もちろん幼児だった私に当時の記憶は残っていませんが、昭和20年代に成田へ旅行すれば当然成田山には参詣しているはず、そしてお参りすれば必ず子供の無事を祈願して御札を受けているはず、私は物心ついてからずっと成田山の御札を肌身離さず持たされていましたが、おそらくその時のバス旅行で受けたのが最初だったのではないか。5×3センチくらいの白木の札に『成田山』の文字が記されていました。
さてその成田山の木札はなかなか霊験あらたかなものでした。ある日のこと、まだ物心ついていなかった私が昼寝させられていると、不用意にも棚の上に置いてあった重たい箱が私の上に落ちてきたそうです。幼児をそんな棚の下に寝かせるなよと元小児科医の立場からは言いたいところですが、たぶん油断したか魔が差したのでしょう、しかしその瞬間、成田山の木札が真っ二つに割れて私の身体には怪我一つ無かったらしい。
お不動様が身代わりになって下さったと、私はその後何度も同じ話を聞かされたものです。私の実家の宗派は曹洞宗でしたが、宗派を越えて真言宗智山派の成田山のお守り札を持たされていたのはそういうわけだと思います。そんなのは単なる偶然だよ、箱の落下軌道が私の身体をわずかに外れていたんだよ、そう解釈するのが科学万能の時代に生きる理科系人間の正しい態度かも知れません。そもそもまだ1歳か2歳だった私自身の記憶だって無いわけですからね(笑)。しかし私は成長した後にも同じような奇跡を目撃することになったのです。あれを“奇跡”というのであれば…。
高校2年生の秋頃でしたが、それまで薬剤師として開業医の父を助けていた私の母親が心臓弁膜症を発症して臥床することが多くなりました。母親の寝床は自宅の畳の寝室にありましたが、ある夜更けに事故が起こりました。母親の寝床のちょうど真上の鴨居に掛かっていた大きな木彫りの額が落下したのです。両手を広げたくらいの横幅があるかなり重たい額でしたが、吊していた紐が弱くなっていて真夜中に自然に切れてしまったようでした。階下で寝ていた祖母がその時のズシンという音を耳にしています。
先に言っておきますが、私もすでに高校2年生、毎晩母親がどの位置に就寝していて、額がどの位置に掛けられているか、またもし紐が切れればどういう軌道を描いて落下するかなど、学校で習った物理学の知識を動員するまでもなく、正確に想定することができました。落下する額はまず間違いなく母親の身体を直撃するはずでした。しかし額が落ちていたのは布団から数十センチ離れた場所、絶対にあり得ない位置だったのです。
そりゃ“科学的”に考察すれば、母親が就寝中に寝返りを打つか、トイレに立つかして偶然に落下する額を避けることができ、夜中にそれに気づいた母親が寝惚け眼で布団のわきに寄せておいた、そして目覚めた朝にはそのことをすっかり忘れてしまっていた、それが最も合理的な説明でしょう。しかしその時の母親は僧帽弁狭窄症という心臓弁膜症を患っていて寝返りもやっと、重たい物を1人で持ち上げることなど到底不可能な状態だったのです。
その時は成田山のお守り札を母親はたぶん持っていなかったと思いますが、幼少時の私と同じく、身体に落ちてくる重量物を誰かが代わりに受け止めて下さった、そう考えなければ説明できない不思議な出来事でした。朝方に母親の布団から離れて転がっていた重たい額、それは数十年の間いまだに理性で解決できない光景として私の記憶に残されています。
何だ、ブンブンも意外に迷信深いじゃないかと失望された方も多いと思いますが、世の中にはそういう摩訶不思議なことも起きるものだというのが現在の私の心境です。敢えてムキになってすべてを科学と唯物論だけで説明する気にはなりませんが、しかし自分はそういう守り神が守っていてくれるからといって安易に運頼みすることもしません。
「神を信じて神を頼まず」
太平洋戦争中の日本海軍のエースパイロットだった坂井三郎さんも、天地の神よ照覧あれと念じて空中戦に入ったそうですが、あくまで自分の技量と身体能力だけを信じて戦ったと書き残しておられます。私もその境地に近づきたいと思いますね。
さて幼少期の私を怪我から守って下さり、もしかしたらその後の私の人生もずっと見守っていて下さったかも知れない成田のお不動様に何十年ぶりかで御礼に伺ったわけですが、京成成田駅から成田山新勝寺までの道路を歩いて行くと、こんな煉瓦造りの洒落たトンネルが2つ並んでいる場所がありました。普通の道路に設けられた立体交差の橋にしては立派だなあと思いながら近づいてみると、何とこれは昔の鉄道のトンネルだったのです。
トンネルの端に立てられていた説明板によると、この道路は元々は成田駅と山門前を結ぶ千葉県最初の電気鉄道の軌道跡なのですね。成宗電車(せいそうでんしゃ)という鉄道で、明治43年12月に成田山門前〜成田駅間が開通、翌明治44年1月に成田駅前〜宗吾霊堂間が開通、全線複線で当初は15両の車両を保有して、旅客の多い時には5〜15分間隔で運行されていたといいます。
元禄の江戸市民たちにも人気のあった成田山、しかし馬や駕籠でも使わなければ女子供の脚にはちょっと遠かったので深川で出開帳ということになり、深川に成田のお不動様の別邸みたいな深川不動堂もできた。庶民の人気が高かったおかげで明治初期に吹き荒れた廃仏毀釈の暴力をも免れています。そして文明開化によって今度は東京など各地の庶民も簡単に成田山に参拝できるようになった、その今も昔も変わらぬ庶民の人気を示したのが、成宗電車の繁盛ぶりだったわけです。
しかし廃仏毀釈よりも理不尽で容赦ない暴力が成宗電車を襲いました。太平洋戦争末期、この電車は遊興的色彩が強いとの理由で大日本帝国政府は営業停止を命令、昭和19年に成宗電車は35年の歴史の幕を閉じたとのこと、車両や軌道に使われていた鉄材は供出されて兵器となり、どこかの戦場に朽ち果てたことでしょう。
トンネルの傍らに立つ説明板に成宗電車の面影を偲ぶ写真が載せられていました。こんな電車が走る線路が昔ここにあった。成田山に向かって歩いている時から、何かこの道路は雰囲気が違うなあと感じていましたが、まさに街に歴史あり、道にも歴史あり…だったわけです。
かつて成宗電車が走っていたこの道は今でもその名残で『電車道』と呼ばれて親しまれています。2014年にはこのトンネルは土木遺産にも認定されています。遠く平将門の乱の平定に端を発した成田山の連綿と続く歴史を感じました。