根津神社境内
私の住んでいる練馬も最近は都内のツツジの名所になりましたが、東京には実はもっとツツジの花で有名な場所があります。文京区にある根津神社で、ここは東京大学の本郷キャンパスの裏手、また東京医科大学病院の正面にあり、毎年5月になると境内一面ツツジの花が咲き誇り、実に見事な眺めです。
この写真はずいぶん古いですが、まだ新婚1年目の頃、バイオリン一途でパッパラパーの音楽人間だったカミさんに社会見学をさせようと、根津神社のツツジ祭りに連れ出した時のものです。確かこの時は家の近くのお寺で牡丹の花を見物してから、根津神社に回ったような記憶があります。
学生時代から東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団でコンサートマスターを務めていたカミさんは、どこぞへ演奏旅行へ出かけても宿舎とホールの往復だけで、土地土地の名所などを訪れることはなかったので、根津神社みたいな近場でもけっこう新鮮だったみたいです。
新婚の頃はまだこんな余裕もあったんですが、最近はずいぶん忙しくなってしまって、なかなか社会見学のヒマもありません。むしろ私の方が、この日は小児科医としてゆっくりくつろいだ数少ない休日だったわけです。考えてみれば、あの日から今までずいぶんいろいろな事がありました。本当に人生なんて後から振り返ってみれば、あっと言う間ですね。
などとボヤいていても仕方ないんですが、実はこの根津神社、何とヤマトタケルノミコトが2世紀頃に建立したとされているんですね。驚きませんか?
ヤマトタケルは日本武尊または倭建命と書きます。日本最初の英雄ですね。私の日本の歴史認識によれば、朝鮮半島から渡来してきた部族がまず九州(西国)のクマソ(熊襲)を平定し、さらに北九州の地を足場として東国遠征を行なって、次第に日本列島を支配下に置いていった時代の人物ということになります。実在の人物だったか、架空の人物だったかについては、学説も分かれているようですが、古事記や日本書紀に語られるヤマトタケルの物語はまさに古代のロマンといってもよいと思います。
しかしヤマトタケルの物語が、よくまあ中世の武士道の時代を越えて現代に伝わったものだと驚くのは私だけでしょうか?ヤマトタケルが西国を平定する際、九州のクマソ兄弟に対しては女装して敵を欺いて勝利します。物語によれば敗れたクマソの弟がその武勇に感銘を受けて、元々は自分の名前であった“タケル”の称号を贈ったことになっています。女に化けて敵を油断させて勝つなど、潔癖な日本人の好みから言えば、武士の風上にも置けぬというところではないでしょうか。
また出雲では、出雲タケルの剣を竹光にすり替えた上で決闘を申し込み、これを殺しています。日本人は口先ではこういう事を卑怯だとか言って毛嫌いしますが、その割には後世の宮本武蔵が決闘の刻限にわざと遅刻して佐々木小次郎を焦らして勝つ話に喝采したり、日露戦争でも太平洋戦争でも宣戦布告のタイミングをわざとフライング気味に設定して(これは大相撲の立会いの仕切りではかなり問題となる行為です)、諸外国からは日本は相手に油断させておいて先に手を出すという評価を受けたりしています。どうも日本人は自ら口先で言うほど潔癖な民族ではないと思いますが、ヤマトタケルの西国平定の物語は実に象徴的ですね。(そういえば大岡昇平さんの「レイテ戦記」によれば、フィリピンの戦場では日本軍はフィリピン人女性に化けて米軍に近づいたり、白旗を掲げて降伏を装い、油断して近づいてきた米兵を銃撃したりしたことが記載されていますが、これらは国際法に違反した行為です。)
東国遠征の物語は一転して、ヤマトタケルは苦戦続きとなりますが、これらはネットや書物で御覧下さい。相模の国で火攻めに会い、草薙剣(くさなぎのつるぎ)で火を払って逆に相手を焼き尽くしたことから、その地を焼津と呼ぶようになったとか、東国平定後、足柄のあたりで妻の弟橘媛(オトタチバナヒメ)を偲んで「あづま(吾妻)はや」と呟いたことから、東国を“あづま”と呼ぶようになったとか、いろいろ現在の地名との縁も興味深いです。
その妻の弟橘媛ですが、横須賀近くの走水で海を渡ろうとした時、荒れる海を鎮めるために夫のヤマトタケルに代わって入水して亡くなりました。遠征途上で生命を落とした妻を偲んで「あづまはや(我が妻よ)」と呟いたわけです。
もう何年も前ですが、確か作曲家の故黛敏郎さんが古事記をモチーフにしたオペラを書かれましたが、それをカミさんのオーケストラが演奏したことがありました。弟橘媛が次第に海に沈んでいく場面では、岸に残るヤマトタケルが舞台の天井へどんどんせり上がって行く仕掛けになっていましたが、カミさんはこの情景の意味が判らず、ヤマトタケルが空へ飛んでいくと勘違いしていたことが、今考えると可笑しいです。