軍艦防波堤

 ここはかつて日本四大工業地帯の一つに数えられた北九州工業地帯、その海運を支える若松港の響灘に面した防波堤の一角ですが、何か赤錆びた鉄屑が露出しているのにお気付きですか。

 これは旧日本海軍の駆逐艦柳の船体の一部で、終戦後の1948年に柳をはじめとする3隻の駆逐艦の船体がこの場所に防波堤として沈められたものの名残です。その後この付近一帯は埋め立てが進んで陸地となり、残りの2隻の船体は埋め立て地の中に完全に埋もれてしまいましたが、戦争が終わった後もしばらくの間、帝国海軍の駆逐艦が隊列を組み、身を挺して荒波から港を守っていたのかと思うと感無量です。

 3隻の駆逐艦はちょうとこの写真ほぼ中央に黄色い線で示したような形で沈められていたようです。当時はここは外洋の荒波が打ち寄せる海面でした。一番手前の線が駆逐艦柳で、これは今でもまだ海に突き出しているので防波堤と呼んでおかしくない。

 柳は大正6年(1917年)に竣工した桃型駆逐艦の4番艦で、同型艦4隻で第15駆逐隊を編制し、おりから日本は連合国側として第一次世界大戦に参戦していましたから、地中海のマルタ島に派遣されて連合軍の輸送船団護衛に当たりました。

 地中海における日本海軍駆逐艦の活躍がめざましかった話は別のコーナーに書きました。スペイン風邪と第一次世界大戦の話を書いたついでに、マルタ島に派遣された日本艦隊の水兵さんたちはマルタ島の娘たちの憧れの的だったに違いない、男と女が若気の至りで何とやら…で、時は移ってマルタ島に蒙古斑(東洋人の小児のお尻にある青アザ)のある赤ちゃんが生まれて乳児虐待の疑いまで抱かれたが、どうもその時の日本海軍将兵の血筋だった可能性があるという話でした。その赤ちゃんの祖父だか曾祖父だかはこの駆逐艦柳の乗組員だったかも知れません。

 柳は太平洋戦争開始前の昭和15年(1940年)に除籍されましたが、終戦まで船体は屑鉄にもされずに残っていたわけですね。戦時中は兵器や弾薬を製造するためと言って、お寺の鐘だとか個人所有の金属・貴金属の類まで国家に供出させたという話も聞いていましたから、何となく納得できない話ではあります。

 さて柳の奥にさらに2隻並べて沈められた駆逐艦は涼月と冬月で、これも別のコーナーに書きましたが、戦艦大和の沖縄突入を護衛してその最期を看取った艦で、上の写真の3本の線のうち中央のものが涼月、一番奥のものが冬月の終焉の地です。

 冬月といえば名艦長 山名寛雄中佐の指揮の下に大和以下沈没艦の生存者多数を救助して佐世保に生還した駆逐艦です。山名中佐は戦後海上保安庁の巡視船長として果敢に台風観測にも従事されましたが、その乗艦であった駆逐艦冬月もまた戦争を戦い抜いた後、この若松港で北九州工業地帯を戦後長いこと波浪から守り続けた、何となく艦と人との共通の奇しき運命を感じますね。

 名指揮官であった山名中佐に関する記事を引用して、その人柄を偲びたいと思います。まずは阿部三郎氏の「特攻大和艦隊」で、駆逐艦冬月の先任将校からの取材(再掲)。

 山名艦長は広島の出身で、お殿様の後裔といった感じの先輩で、今でいえば、テレビの八代将軍吉宗が町人に扮しているような、どこにいても何となく気品があって、人なかでも一段と目立つ存在であった。
 眉目秀麗にして温厚、部下を叱ることもなく、悠揚迫らざる態度がなんとも頼もしく、「霞」の乗組員から慕われていたのもさこそと思われ、側にいても疲れないし、それだけでその場の雰囲気を暖かくする上司であった。


 次に同じ著書の中で、山名中佐が沖縄突入作戦の直前まで艦長を勤めた駆逐艦 霞の先任将校も同じようなことを証言しています。

 
山名前艦長は(駆逐艦)「霞」の全員から心服されていた名艦長であった。(中略)
 持って生まれた茫洋とした器の大きな人で、大人の風格を備え、温かみを人に与え、部下に任せることは任せ、ここ一番という時には的確な判断をし、決断を下す。戦さには滅法強く、手柄は自分のものにせず、部下を立てたので、先任将校から下士官兵の果てにいたるまで、山名艦長には絶対の信頼をおき、この艦長がいる限りこの艦は沈まないと全員が信じていた。
 乗員たちはよく艦長のいないところで、酒を飲んで、艦長を酒の肴にすることもあるが、誰も悪口をいうものはいなかった。


 やはり部下を率いる人間に必要なのは温かみであって、いくら実力があって、いくら肩を聳やかして偉そうに振る舞ってみても、人が心服してついてくるわけではないと、冬月が沈んでいるあたりを見下ろしながらつくづく感じた次第です。

 朽ちてなお 御国を護る 戦さ船
 
(くちてなお みくにをまもる いくさぶね)

         帰らなくっちゃ